───────────────────────
国東半島には、神仏習合の発祥地としての宇佐神宮を中核として発展した六郷満山文化という独特の仏教文化の伝統がある。つまり、国東は宇佐と一体化して、神仏習合の世界を形成している。
中でも自然のままの崖に仏を刻んだ熊野磨崖仏をはじめとする多くの磨崖仏には、修験道を中心的な背景とした神仏習合の典型的な具体相を見ることができる。
宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた富貴寺の大堂は、九州最古の木造建築として国宝に指定されており、平安時代の浄土世界の実際について学ぶことができる。両子寺は、古くより山岳修行の根本道場であり、特に江戸期よりは六郷満山の総持院として全山を統括してきた歴史を持ち、現在では瀬戸内海国立公園の一部としての貴重な自然を保持している。
そんな国東半島は火山によってできた地形を見せてくれる日本でも典型的な半島である。半島が成立した後、東西に黒津崎―両子山―真玉を結ぶ線から北が沈降し南が隆起したのである。このため北にはリアス式の海岸線が生まれ、南には東の奈多、あるいは西の真玉・呉崎海岸のような遠浅の浜ができたのである。
さらに、半島を頭になぞらえれば、その首根っこにあたるところに地塁と呼ばれる華ケ岳、田原山、さらに杵築山地が連なり、マフラーを巻いたような格好である。放射状に延びる谷は古くから「二十八谷」と呼ばれていた。人々はここに住み着き、田畑を開き、村を営んだのである。それが次第にまとまり、古代には六つの郷が成立した。「六郷」とは、その六つの郷のことであり、半島の代名詞のようなものになったのである。
やがて宇佐神宮が半島へと進出し、神領地としての荘園を経営するようになる。海岸線の各地に奈多、桜、別宮、若宮など幾つもの八幡社を設けられ、神仏習合の後、山々に「六郷満山」と称するおびただしい寺院や聖地をつくったのである。
そして半島は「神と仏の里」となっていくのである。二十八谷は半島の河川数とは一致しない。その数は法華経の品数、つまり巻数なのである。満山寺院は本山、中山、末山の三山組織を持ち、その本寺の数もまた二十八ヵ寺。それは半島文化の聖数にほかならないのである。
半島の山と谷には、いたるところに六郷満山の寺と社が立地し、岩屋や石仏、石塔が散らばり、今日も香煙は絶えない。八幡と法華経による伝統行事や民間信仰の数々が継承され、半島はまさに神仏習合の生きた歴史の宝庫となっているのである。
国東半島は、九州の北東部に位置しており、中生代白亜紀花崗岩類と新生代後期中新世〜更新世の火山岩類によって構成さている、新生代火山岩類の中でも、後期中新世〜鮮新世に活動した宇佐山岩類と前期更新世に活動した両子火口群は、その噴出量は膨大であった。半島北部に山岳霊場が多いのは、両子火山群の火山体から構成されるピーク(標高五百m~七百ⅿ)が半島北部にやや偏っているためである。
半島中心部から山麓に向けて多数の開析谷が放射状に伸び、急崖、岩柱、奇峰、石門、洞穴といったいわゆる耶馬溪式景観あるいは耶馬渓式風景と呼ばれるバッドランド(悪地)地形が見られる。両子火山群周辺の凝灰角礫岩類は、選択侵食により耶馬渓式景観を示すに至ったと言われている。ビュート状に侵食された火山体近くで急傾斜の露岩を背後に持つ寺院等には、両子寺(標高三百五十~四百m付近)、文殊仙寺(三百五十ⅿ付近)、五辻不動尊(三百五十m付近)ほかがある。
両子寺や文殊仙寺は山腹に、五辻不動尊は山頂付近に位置する。難行場は、半島中心部の山塊から放射状に伸びた尾根のうち、岩尾根にある。田原山(鋸山)は、標高四百五十~五百m、夷耶馬あるいは中山仙境は二百~三百ⅿ、天念寺耶馬は、二百m付近など。霊場としての岩窟は、半島北部の国東市国見町千燈寺付近では、垂直に発達した岩壁側面にしばしば見られ、分布標高は百ⅿ~三百m強の範囲である(尻付岩屋、大不動岩屋ほか)。
以上のように、国東半島の山岳霊場では、寺院などの立地は岩壁の基部や岩峰の頂部を、難行場は連続性の良い開析谷沿いの岩尾根といったバッドランド(悪地)の地形を活用している。一方、岩窟(あるいは岩屋)は岩壁の側面に分布している。急崖を構成する凝灰角礫岩の基質部分で、細かく崩壊するスレーキングが進んで窪みを形成する例は、香川県小豆島の中新統小豆島層群に見られ、山岳霊場で堂宇を設置する岩窟に利用されている。
※ 参考文献 山岳霊場付近の地形・地質 など
宇佐八幡大神の化身である「仁聞(にんもん)」は、宇佐宮南にそびえる御許山で出家し、法蓮・覚満など四人を同行して、まず御身に油を塗り三年間焼き続ける焼き身の行をおこなった。その後、国東の山々に仏法修行に入り、その修行は七十年あまりにも及んだといわれている。
平安時代の八百五十五年、津波戸山(杵築市)で修行に励んでいた、能行聖人(宇佐氏の裔)の前に仁聞菩薩が現れ「六郷の山々を修行するには二つの道があり、一つは後山の岩屋(宇佐市)から横城の山(杵築市)を横断する道、二つ目は国東半島の海岸部の山々を巡る道がある。仁聞の跡を継ぐ者はこれらの修行の道を巡るべきだ」告げ、と国東半島の峯々の巡行路を示したとされている。
峯入りは、仁聞の行跡を辿りながら国東半島の岩屋・奇岩・御堂等の霊場を縦横に巡る六郷満山僧侶の荒行であり、江戸時代には現在のように集団で行う形式が整えられた。現在の峯入りは、まず御許山に白装束で身を包んだ行者達が集まり、下山して宇佐神宮本殿を参拝し読経する。翌日、豊後高田市の熊野磨崖仏で、開白護摩の儀式を執り行い、峯入りの行がはじまる。
六郷満山の各寺院をまわる道中、崖上からシキミの枝を投げる「散華」や、岩塊から飛び降りる「岩飛び」などの行法、また無病息災や虫封じなどの加持を行いながら、百八十余りの霊場を巡る約百六十㌔の行程を踏破し、最後は半島のほぼ中央に開く、両子寺に到着し結願を迎えるのである。
峯入り前に参拝する宇佐神宮は、「神仏習合」の先駆けの神社でもある。草創期から明治の廃仏毀釈に至るまで、神社である「八幡宇佐宮」と寺院である「宇佐宮弥勒寺」が同一境内で祀られてきた。「六郷満山」にある天台寺院群は、八幡大神の化身である「仁聞菩薩」が開基と伝えられ、現在でも宇佐神宮神職と六郷満山僧侶との合同の祭典が営まれるなど、その歴史を今に伝えている。
宇佐神宮には、奈良時代から現代に至るまで、天皇の使者である「勅使」が数多く発遣されてきた。即位奉告・神宝奉献・臨時祈願などその目的は様々であるが、大正十四(一九二五)年以降は十年に一度の差遣となっている。勅使が遣わされる神社を「勅祭社」と称し、現在は全国に僅か十七社(伊勢の神宮を含む)が定められているが、京都より西の勅祭社は、出雲大社(島根)・宇佐神宮・香椎宮(福岡)の三社のみである。
宇佐神宮六郷満山霊場の第三十一番札所であり、千手観世音菩薩を本尊とする天台宗の寺院である。養老二年(七一八年)に、宇佐八幡の化身といわれる仁聞菩薩により開かれたといわれている。
広大な境内は「全国森林浴の森百選」にも選ばれるほど豊かな自然に恵まれ、森の中には長い歴史を感じさせる文化財などが点在している。子授けのご利益でも有名で、また、参道に立つ姿形、大きさとも国東随一と言われる仁王像の足をさすると足腰が強くなるといわれている。








富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院である。中でも阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されている。
本尊の阿弥陀如来像は、一本の榧の巨木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩の手によって造られた、と伝えられている。また、大堂内には極楽浄土の世界を描いた壁画が施されており、風化が激しいが、極彩色で描かれていたという調査結果から県立歴史博物館に忠実に再現されている。
薬師如来を本尊とする、宇佐神宮六郷満山霊場第十八番札所・天台宗の寺院である。参道にたつ石造りの仁王像は室町期の銘があり、日本で最も古い石造仁王像といわれている。成仏寺と隔年交代にて、「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」が西暦の奇数年、旧正月の七日に行われるお寺としても知られている。
修正鬼会は、六郷満山の寺院で行われる火祭りであり、祖先が姿を変えたとされる鬼がたいまつを持って集落を回る祭事である。国の重要無形民俗文化財に指定されており、現在では、岩戸寺、成仏寺(国東市)、天念寺(豊後高田市)の三つの寺のみに残っている。
巨大な岩壁に浮かび上がるように彫られた、くにさきを象徴する文化財の一つである。向かって右手の大日如来像は国内最多の磨崖仏を持つ大分県でも最古のもの(平安時代後期)。六㍍八十一㌢の巨像であり、硬い凝灰角礫岩の岩盤に彫られたにもかかわらず、顔や螺髪の表現が細かく美しい。
向かって左手の不動明王像はやや時代が下るものの八mを超えるもので、平安~鎌倉時代頃の磨崖仏としては国内最大級である。その柔和な表情に魅了される来訪者は少なくない。大分では不動明王と水源地の関係性が深く、熊野川の源流に位置する磨崖仏は、付近の集落からも厚く信仰されている。
千燈石仏付近の岩山を西不動と呼んでおり、大不動岩屋はその中では一番大きな岩屋である。崖下にぽっかりと空いた岩屋は、かなり広く、その奥には不動明王が祀られている。切り立った耶馬の崖面にある岩屋。くにさきの鬼が出そうな岩峰群が眼前に広がる。
この大不動岩屋までのアプローチ道は、国東半島ロングトレイルにも含まれている。また、雨の後などは小さな石などの落石などの可能性も高いので十分に注意が必要である。
不動山は山全体が五辻不動などと呼ばれる霊場となっている。御堂には不動明王が祀られており、小門山や両子山などの国東半島を代表する山々を眼下に、遠く周防灘には姫島をはじめ、瀬戸内海の島々が浮かぶ絶景が一望できる絶景ポイントである。
仁聞入滅の地として最盛期に六郷満山最大級の寺院であった、旧千燈寺跡のある不動山の山頂付近に位置しており、最後のアプローチ道はまさに修験の道的な緊張感が感じられる。
旧千燈寺跡の千燈寺墓地とその周辺には千基にも及ぶ五輪塔がある。この五輪塔群には、もとは権現崎という場所にあったものを仁聞が現在の所に移したいと考えていたところ、鬼が一晩のうちに多くの五輪塔を抱えて飛んで運んだという伝説が残っている。そして伊美谷に散在している五輪塔はこの時に鬼が落としていったものだという。
旧千燈寺跡の境内には、護摩堂跡や山王権現跡や講堂跡などの痕跡が残されており、往時の栄えた時代の面影を偲ぶことができる。
文珠山の中腹にある文殊仙寺は、日本三文殊のひとつとも数えられ、六四八年に役行者(えんのぎょうじゃ)により開基されたとされる古刹である。ありとあらゆる「知恵」を授かるご本尊として国内各地から多くの参拝者が訪れている。本尊の文殊菩薩は十二年に一度(卯の年)しか公開されない秘仏でもある。
六郷満山随一の古刹であり、「三人寄れば文殊の知恵」のことわざ発祥の地としても知られている。山号は峨眉山(がびさん)。 国東六郷満山霊場第二十五番。九州三六不動霊場第四番。
天念寺の前を流れる長岩屋川の中にある、巨岩に刻まれた不動三尊は、川中不動と呼ばれている。高さ一・七ⅿのコンガラ童子とセイタカ童子を両脇に従えた主尊の不動明王は高さ約三・七m。大雨の度に氾濫していた長岩屋川の水害除けとして刻まれたものだと伝えられている。
天念寺は、養老二年(七一八年)仁聞菩薩によって開基されたといわれ、平安・鎌倉時代には修厳と祈願の寺院として栄えている。伽藍は、本堂・庫裡・講堂・六所権現社(現:身濯神社)などからなっていたが、現在は講堂と六所権現のみが残っている。毎年旧正月に「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」と呼ばれる行事が行われることでも知られている。
大分県豊後高田市、国東半島に位置する中山仙境は、標高こそ317mと低い山ですが、奇岩の数々が立ち込む独特の景観があり、一路一景公園や石河内溜池からみる山容は非常に素晴らしく、いつまでも眺めていることができます。中山仙境というピークは存在せず、高城(たかじょう)と呼ばれる場所がピークになります。
中山仙境に登ると無明橋と呼ばれる石橋がかけてあります。手すりがなく人の体ほどの幅しかない石橋を慎重に渡ります。
その先にもナイフエッジと呼ばれる馬の背があったり、短い登山道の中にも非常にスリルと景観を楽しめる独特な魅力を持ち合わせた山です。
糸ヶ浜(いとがはま)は、大分県速見郡日出町大神にある海岸である。国東半島の南側の付け根に位置し、別府湾に面した遠浅の海岸である。長さ約一㌔、幅約四百メートル。大分市、別府市方面からの交通の便もよいことから、大分県を代表する海水浴場のひとつとして広く知られている。
海岸の背後地には、糸ヶ浜海浜公園として、ログキャビン、キャンプ場、売店・管理棟、野外ステージ、運動場(野球場2面)、テニスコート(4面)が整備されている。海岸の北側にあるホテルソラージュ大分日出から見る夕焼け風景は絶景である。
杵築は、江戸時代には「松平三万二千石の城下町」として栄えていて、武家屋敷や商家など、今も当時の江戸時代の姿を留めている。時代劇のロケがおこなわれることもあり、江戸情緒を色濃く残している街並みが連続している。
また、杵築は坂の町である。北台武家屋敷・南台武家屋敷は台地上、町屋筋は谷筋の町並で、勘定場の坂・酢屋の坂・志保屋の坂・飴屋の坂・富坂・紺屋町の坂など多くの坂道があり、どの坂道も観光名所になっている。武家屋敷が立ち並んでいて、その間に商店街があるような珍しい城下町でもある。
国東半島の南部に広がる田染盆地では、千年以上も昔の古代の頃から開発がなされ、平安時代には宇佐神宮の荘園「田染荘」が誕生している。荘園ができてから今までの間、確かにその場所で営まれた水田は、緩やかな進化を遂げながら現在に継承されてきたのである。
荘官や荘園の人々が住んだ屋敷跡、水を運ぶイゼ(井堰)や水路、水を涵養するクヌギ林とため池など。これらは田染荘の長い歴史を刻む「生きた荘園遺跡」でもあり、国東半島の独特な風土により形成されたわが国の生活生業の理解に欠かせない「文化的景観」でもある。
宇佐市安心院町にある米神山の麓に位置する『佐田京石』は、高さ二mから三ⅿもある柱状の巨石が何かの方式に習って並び、天に向かって立っているのである。
祭祀遺産なのか、鳥居の原型なのか、仏教の経石なのかと様々な説がある『佐田京石』であるが、周辺にも同じような巨石が林立しており、パワースポットやミステリースポットとして注目を集めている場所なのである。
寛平元年(八八九年)に、宇佐神宮の分霊を勧請し奉られたと伝わる櫛来社である。起源や由来が不明な火祭り、「ケベス祭」の舞台となる神社としても知られている。
ケベス祭は国の選択無形民俗文化財に登録されており、毎年十月十四日夕方から執り行われる神事は一般公開されている。この祭りは、白装束に木彫りの仮面を被った男たちによる火祭り儀式である。
宇佐市江須賀にある東光寺には、喜怒哀楽の表情をした五百羅漢がある。東光寺は貞治元年(一三六二)年に臨済宗として開山し、戦国の世を経て寺跡だけになっていたのを十七世紀半ばに再興されたと伝えられており、その後、曹洞宗に改宗し現在に至っている寺院である。
五百羅漢は安政六年(一八五九)年、十五代住職・道琳が干害に苦しむ農民を救いたいと、当時著名だった日出の石工に制作を依頼したことが始まりで、明治十五年(一八八三)年までの二十四年間に渡って五二一体もの羅漢像を彫り上げたのである。
2023年8月18日 発行 初版
bb_B_00177093
bcck: http://bccks.jp/bcck/00177093/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。