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日光街道は五街道のひとつで、江戸から日光までの約百四十㌔を結ぶ街道である。幕府の公道としては、日光道中と呼ばれていた。日光には、東照大権現と崇められた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の社参の道として整備されてきたのである。また、江戸から宇都宮までは東北へ向かう奥州街道と重複しているため、参勤交代の大名の通行も多かったと言われている。
日光街道のみどころは、なんといっても杉並木道であろう。日光杉並木の歴史は、徳川家康が没して八年後の一六二四年(寛永二年)七月、相模玉縄藩の初代藩主・松平正綱によって街道への植樹が開始されたと言われている。植樹が完了したのは家康の三十三回忌である一六四八年(慶安元年)四月十七日であった。正綱の没後は子の正信が遺志を継ぎ、杉並木寄進碑四基を建立している。
寄進の理由については「家康への恩に報いるため」「幕府の直轄地であった日光の範囲を示すため」、スギを選んだ理由に関しては「スギへの信仰や感じを相当考慮した結果」「もともと東照宮付近には杉が多く、日光のご神木だから」などの説が唱えられている。経緯はどうあれ、針葉樹であり幹が真っ直ぐに伸びるという性質を備えた木であるスギが選ばれた結果、古代ギリシア・ローマの列柱廊を思わせる荘厳な並木道となっている。
慶応四年に勃発した戊辰戦争では、日光杉並木街道も戦場となったのである。現在も残る「砲弾撃込杉」はこのときの砲弾がスギに当たり、残ったものなのである。明治維新以降、日光杉並木は苦難の歴史を迎えることとなる。
日光杉並木は一八六九年(明治二年)の「社寺上地令」によって国有となり、一八七一年(明治四年)の廃藩置県によって栃木県の管理下に置かれたのである。一八八四年(明治十七年)、県令の三島通庸は、会津街道の倉ヶ崎~大桑間の約二キロの屈曲部分の改修を行い、それに伴って推定約千本のスギが伐採されたりしたのである。
代々東照宮の雅楽師を勤める金谷家に生まれ、自らも笙を担当する楽人であった金谷善一郎による建築である。彼は、ヘボン博士の進言により自宅を改造して「金谷ホテル」の前身となる「金谷カテッジイン」を二十一歳という若さで開業、日光を訪れる外国人が安心して泊まれる宿として評判を高めたのである。
金谷家の家屋は江戸時代には武家屋敷であったことから、外国人客は「金谷カテッジイン」を Samurai House (侍屋敷) と呼んでいた。滞在したイザベラ・バードは著書の中で”こんなにも美しい部屋でなければよいのにと思うことしきりである。”と書いている。
百四十年以上の間、同じ場所に保存されてきた「金谷侍屋敷」および「土蔵」は、平成二十六年(二〇一四年)国の登録有形文化財となり、平成二十七年(二〇一五年)三月より「金谷ホテル歴史館」として一般公開が始まったのである。
日本が急速に西洋文化を受け入れはじめた明治の初期、日光に住むひとりの青年が開いた外国人のための宿泊施設がどのようなものであったのかを現代に伝える貴重な歴史文化財である。「金谷侍屋敷」は日本最古の西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」発祥の地というだけでなく、江戸時代の武家屋敷の建築様式をそのまま残す建築遺産でもある。
日本を代表する世界遺産「日光の社寺」。その中でももっとも有名な「日光東照宮」は徳川家康がまつられた神社である。現在の社殿群は、そのほとんどが寛永十三年三代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたものとなる。
境内には国宝八棟、重要文化財三十四棟を含む五十五棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは圧巻である。全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られている。
日光には四十八滝といわれるくらい滝が多い日光周辺で、最も有名とも言えるのが華厳ノ滝。発見者は勝道上人と伝えられ、仏教経典の一つである華厳経から名づけられたといわれる。華厳渓谷周辺では他に阿含滝、方等滝、般若滝、涅槃滝もあることから、五時の教判から、それらと同様に命名されたものと考えられている。
男体山の噴火によってせき止められた中禅寺湖からの地表を流れる、唯一の流出口大谷川に存在する。落差九十七mの滝を一気に流れ落ちる様子は、日本三名瀑のひとつにも数えられている。
霧降の滝や裏見滝と合わせて日光三名瀑とも、湯滝や竜頭の滝と合わせて奥日光三名瀑とも言われ、日光・奥日光の三名瀑を合わせて日光五名瀑と称されることもある。
一九〇三年(明治三十六年)五月二十二日、当時の旧制高校生の藤村操がこの滝の付近にある樫の木を削り、「巌頭之感(がんとうのかん)」と題する遺書を残して投身自殺した。
この出来事や遺書は大きな話題となり、講師であった夏目漱石などにも影響を与えたが、その後数年のうちに藤村に追随する自殺が相次いだため、自殺の名所という評判が立ってしまった。いわゆる、明治の煩悶青年という社会現象の一端でもあった。
2023年8月22日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。