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一九八九年九月二五日から十月一五日までの二一日間にわたり、当時とすれば非常に許可取得困難地域とされていた、中国領シルクロード・西域南道への探査をおこなうことができたのである。
古来この西域南道は、シルクロードの三つの幹線(他の二つは天山北路・天山南路)の中でも、一番過酷な自然環境におかれていた。
それは、このルートの北側には「一度踏み入ったら二度と出てこれない」と言われたタクラマカン砂漠、そして南には崑崙山脈やアルティン山脈など峻険な山岳地帯が展開していることからも理解できる。
一九八九年の中国西域地域は、開放政策をとっていた中国国内においては、チベットなどと同様に入域制限地域がまだまだ多くあり、未開放地域への許可申請なども複雑で困難な作業であった。
特に、西域南道沿いには当時原爆の実験エリアとなっていた楼蘭(ロウラン)周辺も含まれていたので、入域許諾への道のりはまさに荒野を流離うが如くであった記憶がある。
最終的には、カシュガルから敦煌までの、二三二九㌔を探査しながら走破することができたのである。ひとえに、連携してくれた当時の西域エージェンシーに感謝している。
残念ながら、最大の目的としていた楼蘭遺跡には入域許可が下りることはなかった。そして、それぞれオアシス群においても、腰を据えてのフィールドワーク調査も許可されなかった。
この探査では、西域南道を走破することに重きをおいた内容となってしまったが、一九八〇年代にこのエリアを通過した外国人は非常に稀であり、この本で報告する各種データや写真などは後世に伝える貴重な資料となるであろう。
この報告書は、帰国後すぐに作成(一九八九年十月十八日)した原本をもとに、加筆修正しながら作成したものである。写真類は、探査時に撮影したものを順不同にて掲載している。
(日本側)
〇〇 一茂 (七十歳)
〇〇 けい子(六十七歳)
〇〇 徳松 (七十七歳)
清水 正弘 (二十九歳)
(中国側)
張 雲武 (三十二歳 中信旅游総公司・新疆部)
瓢 西林 (四十六歳 新疆大自然旅行社)
トヨタ・ランドクルーザー・一台(和田~敦煌)
ニッサン・パトロール・一台(和田~敦煌)
※ 二台とも和田(ホータン)人民政府所属の車両とドライバー
※ カシュガルより和田までは三菱のマイクロバスを使用
九月二五日 東京―北京
九月二六日 北京―ウルムチ
九月二七日 ウルムチ滞在
九月二八日 ウルムチーカシュガル
九月二九日 カシュガル
九月三〇日 カシュガルー和田
十月一日 和田滞在
十月二日 和田滞在
十月三日 和国―民豊
十月四日 民豊―且末
十月五日 且末―若羌
十月六日 若羌―米蘭東方幕営地
十月七日 米蘭東方幕営地ー巴什孔子供
十月八日 巴什孔子供―(移動車中泊)
十月九日 ―敦煌
十月十日 敦煌滞在
十月十一日 敦煌―蘭州
十月十二日 蘭州
十月十三日 蘭州―北京
十月十四日 北京滞在
十月十五日 北京―東京
カシュガル~和田 (五百十六㌔)
和田~民豊 (三百三㌔)
民豊~且末 (三百十一㌔)
且末~若羌 (三百五十一㌔)
若羌~幕営地 (約九四㌔)
幕営地~巴什孔供 (一一七㌔)
巴什孔供~苑崖鎮 (約八十八㌔)
茫崖鎮~老苑鎮 (百六十六㌔)
老苑鎮~敦煌 (四百八十八㌔)
カシュガル~和田間
10:30 カシュガル 発
14:00 ヤルカンド 通過
15:00 葉城(カルガリク) 着
16:15 葉城(カルガリク) 発
17:15 皮山 通過
19:30 墨玉 通過
20:00 和田(ホータン) 着
============
カシュガル/ヤルカンド 191㌔
ヤルカンド/葉城 60㌔
葉城/皮山 81㌔
皮山/墨玉 ` 159㌔
墨玉/和田 25㌔
計 516キロ


11:00 和田 発
13:30 干田(ケリヤ) 着
14:45 干田 発
16:30 民豊 着
===========
和田/干田 177㌔
干田/民豊 126㌔
計303㌔
11:00 民豊 発
13:40 且末石綿招待所 着
15:15 且末石綿招待所 発
18:00 且末 着
============
民豊/且末 311㌔
10:30 且末 発
16:30 瓦石峡 通過
18:30 若羌 着
==========
且末/瓦石峡 269㌔
瓦石峡/若羌 82㌔
計351㌔
14:30 若羌 発
15:40 誤ルート変更
16:30 正式ルート是正
17:40 第36団農場 通過
18:45 米蘭 着
21:00 幕営地 着
=========
若羌/米蘭 74㌔
米蘭/幕営地 約20㌔
計94㌔
09:45 幕営地 発
12:45 アルキン山入り口 通過
13:00 紅柳洵 通過
16:40 巴什孔供 通過
18:30 誤ルート是正 折り返し
20:00 巴什孔供 着
==============
幕営地/巴什孔供 117㌔
計117㌔
09:50 巴什孔供 発
11:30 崖崩落場所 通過
12:00 ゴルジュ帯悪路 通過 標高3250m
13:00 峠(標高3450ⅿ) 通過
※ アルティン山中を彷徨する
16:00 右手に大きな鉱山 通過
17:00 左手に油田地帯 通過
18:40 老范崖 着
20:40 老范崖 発
01:15 拉配泉との分岐 通過
02:30 敦煌 着
==========
巴什孔供/范崖鎮 83㌔
范崖鎮/老范鎮 166㌔
老范鎮/敦煌 488㌔
計 737㌔
9月25日(晴) 日本~北京
前日より、日本側隊員である〇〇夫妻、〇〇氏、清水は、成田空港近辺の日航成田ホテルヘ宿泊していたので、ホテルより全員にて空港へ。〇〇氏は、荷物に水、日本食等かなり重量をオーバーする量を機内預けとして持って来たが、中国民航側がこの日の搭乗者が非常に少ないということで、目をつぶってもらえる。オーバーしていた重量は、約30キロ程度。この時点にて、清水より〇〇氏へ、中国国内線にて重量超過料金を請求されることがあるかもしれないことを、口頭にて伝える。
チェックイン後、サテライトヘ向かうと、本日(9/25)より北京への渡航の自粛勧告解除に伴う各テレビ局のインタビューを受ける。中国民航にはビジネス客のほか、旅行客として我々の他、1グループしかいない。北京空港到着後、中信旅游公司北京本社の張小建氏の出迎えを受け、西苑飯店(北京市の西北方面、空港より約1時間)へ。
※ 1989年6月4日(日曜日)には、天安門事件が発生していた。中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件である。この事件以降、中国への渡航は自粛となっており、今回の探査出発時直前まで自粛勧告解除は解かれていなかったのである。
9月26日(雨)北京~ウルムチ
ウルムチヘ向かう航空機の出発時間が、午前中にははっきりしないということで、午前中は、〇〇氏の奥さんの希望もあり動物園にてバンダを見学。午後よりは故宮へ向かう。夜のフライトにてウルムチヘ。ウルムチ空港にて中信旅游公司新疆社の張氏、大自然旅游公司の瓢氏の出迎えを受ける。マイクロバスにて友誼ホテルヘ。
9月27日(晴)ウルムチ滞在
午前中、新彊博物館見学。午後、紅山公園、人民広場、紅旗市場を見学。友誼ホテルにて夕食後、大自然旅行社の郭氏(MR.CUO JIN WEl)の訪間を受ける。郭氏は10日前にオートバイラリー隊とともに敦煌より逆ルートにて走破したばかりという。彼はしきりに今回の使用車両を1台のランドクルーザーと4輪駆動のトラックタイプの軽車両の使用を薦める。
彼の主張理由は、アルティン山中でのガソリン補給は非常に困難であり、車両用のガソリンを若羌にて購入し、ドラム缶にで運搬するためトラックタイプの車両が必要とのことであった。(しかし、今回の行程は和田より1台のランドクルーザー、1台のニッサンバトロールになっていた。但し、今回の行程を終えて、清水の考えは、トラックタイプの車両の使用より、ランクルタイプの方がアルティン山脈を越えるにはベターではないかと思う。この件については、別項にて詳しく考察したい。)
9月28日(晴)ウルムチ~カシュガル
カシュガルへ向かう航空機の出発時間が、夕刻であるので午前中は自由時間とする。昼食を華僑飯店にてとり、午後、絨毯工場、玉石工場、友誼商店を回り空港へ。カシュガル到着後、国際旅行総社・カシュガル分社の出迎えを受ける。ホテルにて偶然にも新彊ウイグル自治区旅遊局の宋宝根副局長と会える。今回の一連の手配事項(中信旅游公司と大自然旅游公司との合作手配にいたる過程)について会談を持つ。宋氏はパキスタンヘ向かう途上であった。宋氏とは今後の新彊への探査旅行について相互協力してゆく所存であることを友好裡に話し合う。
9月29日(晴)カシュガル滞在
終日、カシユガル市内見学。アパクホージャ墓廟、カシュガル古城、民族幼稚園、エイティカール寺院、絨毯工場、バザール等。
9月30日(晴)カシュガル~和田(ホータン)
三菱のマイクロバスにて和田へ向かう。(〇〇夫妻、〇〇氏、清水、張、瓢、カシュガル分社の女性ガイド、運転手) 葉城(カルガリック)の登山協会事務所の食堂にて昼食をとる。この葉城は、新彊よリチベットヘむかうルー卜の分岐点となっているため、数々の遠征隊がここを通過している。中国各地の登山協会同様、ここの登山協会の食事の内容も貧相であったが、唯一、麺だけは参加者にも好評であった。大自然旅行社公司の瓢氏は新彊登山協会の役員も兼任している。葉城ぐらいまでは、道の両サイドにポプラ並木が続いたりするが、それ以降特に皮山をすぎたあたりから砂漠の風景が始まる。墨玉まで砂漠風景が広がる。墨玉より和田までは再度、ポプラ並木の中の道である。
当初の日程では、葉城にて1泊し和田へ向かうことになっていたが、10月01日が日曜日であり、和田の日曜市は必ず見学した方がいいという運転手の意見により、全員の一致により変更したのである。和田での宿泊は、和田賓館。(和田の中心地、クルバックより徒歩約25分)
10月01日(晴) 和田滞在
終日、和田滞在。午前中、日曜市の見学。運転手が進めたようにやはり一見の価値があると思われる程、魅力溢れる市である。今後、和田でのスケジュールには出来る限り、日曜日の滞在を進めたい。午後、町中の清真寺、古城等を見学。
10月02日(晴) 和田滞在
終日、和田滞在。唐、漢時代の遺跡・マリクカワテ故城、南北朝時代の古墳・イマムムサカジム古墳、漢時代のウテン国の都であった遺跡・ヨートカン遺跡、樹齢116年のイチジクの樹、樹齢567年のクルミの樹などを見学。
マリクカワテ故城は、和田の町より東南の方角約40キロ。車にて約1時間。荒涼とした砂礫帯の中に城壁を残す故城である。マリクカワテ村近くに位置する。城壁の近くでは、玉石や当時の瓦石、器のかけら等が未だに拾える。非常にラッキーであれば、漢代の貨幣が拾えると言う。この遺跡は、通常の観光旅行では解放されていないと現地ガイドの国際旅行総社・和田分社のヤリ氏は言っていた。
イマムムサカジム古墳は、和田の町より約20キロ。ブザク村のはずれに位置している。ブザク村は広大な和田のオアシスの町外れに位置しており、古墳はゴビ灘との境に位置している。ヨートカン遺跡はバウチ村に位置しており、現在は田園の下に埋もれていると言われている。この遣跡も通常の観光旅行では未解放の場所であると、ヤリ氏の言。ヨートカン遺跡は、田園の中に埋もれているため、看板がその位置を示すのみである。
ライク村のイチジクの樹は、横に広がりを持つ大きな樹である。高さ約2メートル、幅約8~10メートルである。バウチ村のクルミの樹は、複雑に入り込む田園地帯の中のポプラ並木の中を走り到着する。オアシスの中で町以外の光景が楽しめる。樹そのものは、中が空洞となっており子供が下から上まで、空洞を利用して登れる。
10月03日(晴)和田~民豊
(11:00AM)和田を出発。先行車・トヨタランドクル‐ザーに、〇〇氏、清水、瓢氏。後続車のニッサンバトロールに〇〇夫妻、張氏が分乗。和田を出発し、約30分和田オアシスの中を走る。ゴビの砂漠がそれに続くこと約1時間。そして両サイドにトウモロコシ畑が続くことやはり1時間。その間、牛の放牧、羊の放牧などの光景を見る。
(13:30PM)干田着。人口15万の大きなオアシス。カシュガル、そして和田よりこの干田まではアスファルトの舗装道路である。干田ではまちの食堂にて麺の昼食。麺の上に羊肉や野菜の炒めた物がのっている。結構ポリュームがある。但し、油が日本人にとっては、多少おおめに感じられるので、注文する際に申し伝える必要がある。このことは、今回のルート全般についてもいえることである。
干日の招待所にて中信旅游公司手配のオーストリア隊・タクラマカン砂漠縦断隊の車両サポート隊(本隊はすでに出発済み)と出会う。オーストリア隊の手配はまず、北京の体育旅行公司経由、新彊の中信旅行公司である。オーストリアより9名の隊員、ラクダ32頭、車両サポー卜(中国製トラック1台)によって、干田より河床を北上し、砂漠を横断、再度河床を北上し天山南道のアクスまで約24日かけての行程であるそうな。(中信の英語ガイドMR.VAN BIN QUANの談)
(14:45PM)干田出発。両サイドはゴビ灘が続く。舗装道路は干田にて終了しているが、砂利がしいてある道は、4輪駆動車では問題なく、常時時速80キロ程度の走行である。ちょうど、チベット高原(ラサ~カトマンズ間)の平坦な道と同じような乗車感覚である。途中、ラクダの放牧を見る。約100頭を越えるラクダの群れに対して、子供(小学高学年程度)の牧童が2人のみである。
(16:30PⅯ)民豊到着。和田~民豊までの間に出会った車は民間のバス4台程度であった。民豊では、民豊の人民政府管轄の招待所に宿泊する。
10月04日(晴) 民豊~且末
(11:00AⅯ) 民豊出発。両サイドはやはりゴビ灘が続く。途中よりタマリスクの樹々が風景に彩りを添え始める。立ち枯れたタマリスクはこの時期少ないのか、あまり奇怪な光景には出くわさない。かえって葉が色ずいた樹もあり、秋の匂いを漂わせている。ゴビ灘とタマリスクの樹群とが入れ替わり立ち代わりの行程である。
(13:40PM) 小オアシス・且末石綿招待所到着。招待所とは名ばかりの木賃宿風の退避所である。ここにて昼食となる。ここでも簡単な麺料理がでる。招待所の中の食堂は、テーブルが一つだけであり5人も座れば満杯となるぐらいのスペースである。且末までの間に於て、昼食の時間に適した場所はここしかなく、大人数での旅行を危惧させるのに充分の設備である。石綿招待所をすぎても風景は、変わらずタマリスク群生の中や、ゴビ灘、そしてススキに似た植物群生帯などを通過する。両サイドは砂漠のイメージを想起させるというよりか、秋の日本の高原を走っているかのようでもある。
(18:00PM) 且末到着。やはり且末人民政府管轄の招待所にての宿泊となる。この招待所の設備が、テントを除く宿泊設備の最も未熟な所であった。しかし、清水と〇〇氏が宿泊した部屋には中国の首相も宿泊しているという。但し、食事については、日本人の味覚にあうものが多い。(油の多いことを除いて。概して羊の肉料理が多い)
10月05日(晴) 且末~若羌
(10:30AM) 且末出発。ルートを南にとる。(11:15AM) 前方にコンロン山脈がみえはじめる。
道はどんどんコンロン山脈べ向かって南下してゆく。進行方向右手に6000メートル級と思われる雪山が見える。雪山を進行方向に対して角度約60度程度の時点にて、ル―卜はコンロン山脈に沿うで東へ向い始める。
(13:00PM) 右手にコンロン山脈、左手にゴビ灘の広がりをもつ場所に、清真食堂(イスラム式食堂)がある。進行方向に向かって左手である。右手には、軍隊、警察の駐屯所がある。警察の道路巡回バトロール車が駐留していた。
(14:00) 出発。コンロンより毎夏流れ込んでくる雪解け水による道路崩壊場所があいつぐ非常な悪路が続く。悪路といっても高度差はないので危険性はない。ただのりごごちが非常に悪いというぐらいである。内臓がひっくり返る思いである。毎年コンロン山脈よりの流水は、流れを変え、タクラマカン砂漠へ流れ込むといわれる。その度ごとに、この近辺の道は寸断されているといわれる。
(15:00pm) ルートはコンロン山脈より離れ始める。左右に不毛のゴビ砂漠(ゴビ灘というよりかゴビ砂漠とのまじりあった光景)が広がり始める。地平線の区別がつかないほどの空間の広がりのなかを、ただ砂漠と空だけが視野を占める。はじめて砂丘と呼ぶにふさわしい光景が始まる。細かい流砂が集散し、つくり出す自然の造形美はこの世の物とは思われないほどの美しさである。
(16:00pm) 砂丘帯が終了する。再度ゴビ灘が続き、(16:30PM)瓦石峡到着。この小オアシスを抜け再再度ゴビ灘を通過すれば、(18:30PM)若羌に到着する。若羌の宿泊はやはり人民政府管轄の招待所であるが、きすがにコルラ街道など街道の分岐点になる町だけあり、6階建ての立派な建物である。ホテルとよんでもよいくらいである。この招待所は、増築中であり、全面解放後は、この地域の主要なジャンクシヨンとなるであろう。食事の内容にも野菜が多少多くみられるようになる。各部屋にはバスタブ、トイレの設備もあるが、トイレの水は流れず、湯はでなかった。
10月06日(晴) 若羌~米蘭東方幕営地
午前中、中国側スタッフが水を入れるタンクと野菜を購入にいく。水のタンクは牛乳をいれる大きなポリ容器であった。(14:30PM)出発。コンロン山脈とアルティン山脈との交差するあたりの山肌を右手にみながらルートを南南東にとってゆく。あまりにもルートが山脈に近ずきすぎることを不審におもった、瓢氏と清水は途中にて車より下車し、ルートの確認を始める。
(15:40PM) ルートを是正する。誤まったルートは凹凸はあるものの、常時時速60キロにての走行が可能な道であったが、送電線からはずれ始めたからである。ルートを送電線沿いに是正する。是正したルー卜は非常に悪路であり、路肩の判別が難しい。清水はこのあたりより中国側スタッフ、瓢氏の経験(ウルムチでの大自然旅行社・郭氏との話合いの中で、瓢氏は幾度となく今回のルートを探査したことがあるとのことであった。)について疑問視し始めた。
(17:40pm)第36団農場到着。36団農場の人間より、我々の誤ったルートは、アルティン山脈をぬけて、范崖鎮へと向かうルートであったらしい。また、そのルートを我々が引き返した地点よりもうしばらく走ると新しい道が、36団農場まで出来ているとのことであった。36団農場のオアシスの中で、道を逡巡したあげく、
(18:45PM)米蘭遺跡に到着。36団農場からさほど離れていないのに驚く。道に迷ったのが幸いしたのか、米蘭到着はちょうどタ暮れ時となった。米蘭遺跡は、遠く南方にアルティン山脈を望み、西方を除き見渡す限り不毛の荒野のなかに位置する。崩れかけた城郭、ストゥーパ、狼煙台など昔日の繁栄ぶりがうかがわれる。
(21:00PM) 米蘭遺跡の中心部より約20キロ東方に走った地点にての、城郭のような遺跡のすぐちかくにてテント泊。
10月07日(晴) 幕営地~巴什孔供
(07:00AⅯ)起床。(08:30AⅯ)朝食。(09:45AⅯ)出発。非常なる悪路の連続である。路肩が判別できず、またアルティン山脈より流れ込む河川にて寸断ヶ所が至る所に有り。寸断ヶ所にては、凹凸が激しく、迂回すること何キロにもわたることがある。但し、必ず送電線が続いており送電線ぞいにルートをとればまちがいない。
(11:00AⅯ) ルートを南の方角へとり始める。この地点より約40~6oキロ地点の右手に遺跡らしき城壁廃虚がある。
(12:00PM) 進行方向左手に、養路人の住居らしき建物があるが無人化している。標高1500m。(12:45PM)アルティン山脈への登り口にさしかかる。剥げた山肌が黄土色を見せる丘陵状の地形である。(13:00PM)紅柳洵(紅い柳の香りがする場所)着。標高1700m。名前の通り、紅色をした柳(ただし、日本の柳とは違い、葉や茎などは非常に硬そうである)である。この場所には水が流れているが、水は濁りが消えないまま上流まで続いている。水の流れに沿って上流へとルートをとる。送電線は左右どちらかに見え隠れし、河床には車両の轍がある。
(13:35PM) 右手に人家(無人化している)有り。(13:50pm)米蘭よりロバ車にて3日がかりでやってきたという70歳の老人を追い越す。彼はこれより巴什孔供へ玉石を取りに行くと言う。(15:00PM)標高2300m地点にて昼食をとる。昼食は、缶詰のフルーツ、ビスケット、中国製魚の薫製程度である。
(15:40pm) 出発。水の流れに沿って上流へと進む。(16:40PM)前方が広がった高原状地帯に出る。右手には人家が見える。中国側スタッフより、ここが巴什孔供(パシュクルガン)だと伝えられる。全員にて相談の上、もうしばらく進んだ所までゆき幕営する事となる。左手に一つの山並をみながら東の方角へ進む。確かに車の轍は続いている。(18:00PM)ルートが北の方角へとりはじめ、なおかつ標高を落し始めた時点にて、全員にてルートについて協議する。運転手は轍があるので間違いないと強く主張しはじめるが、張、瓢、清水ともONCの地図に基ずき、ルートミスであると判断。運転手をときふせ、今夜は巴什孔供まで戻り、再考することになる。(18:30PM)巴什孔供へ戻り始める。(20:00PM)巴什孔供到着。
※巴什孔供の人家(無人化している)のあたりで道は明確に2本に分かれる。1本は東へと続き、1本は南へと続く。送電線は南へ向かう道沿いに続いている。ONCの地図においても、確かに道は2本にわかれている。方角的に東は我々のとるべき道。南は苑崖鎮(マンナイカ)への道である。
10月08日(晴) 巴什孔供~敦煌
送電線沿いの道(南へ向かう道)をとり出発。(09:50AⅯ) 河原(少量の水量がある)の中の道(轍がある)をとる。左手方角を絶えず注意してみながら進む。左手に入って行く道は見あたらない。河床が行きずまりとなり、ルートは山の奥深いところへと入ってゆき、方角は東南をとりはじめる。やがて石ころだらけのゴルジュ帯へとはいっていく。車一台がやっと通過できるような幅の道であり、なおかつ両サイドの崖が崩壊しており、とんでもない道となる。
(11:30AⅯ) 石斗洵と岩に書かれた所を通過する。標高3200m。(12:00PM)ゴルジュ帯の大悪路地帯をぬける。標高3250m。高原状の良路が続く。アルティンの山並がとだえはじめ、峠が近いことを感じさせる地形となる。
(13:00PM)峠到着。標高3450ⅿ。ONCの地図によると、峠を越えるとすぐに東へ進むようになっているが、ルートはどんどん南南西の方角へ降下しはじめる。(13:30PM)中国側スタッフとの協議により、我々のとっているルートは、苑崖鎮への道であることを確認する。苑崖鎮より敦煌への道は、青海省を通過せざるを得ず、今回我々は、青海省入域の許可を得ていない。かといって、この時点より引き返すことは、ガソリン枯渇、食料不足、高度等の問題において自殺行為であることは明確である。
全員協議の上、范崖鎮へと進み、当局へ事情を話すしかないことになる。送電線沿いに広大な台地を下りきり、再度台地を登り始める。途中、車中より台地を疾駆する数多くの野生動物(野生のロバ、ヤンとよばれる小鹿等)を見る。素晴らしい光景であった。(15:45PM)范崖鎮の手前にて、進行方向右手(西北西方角)よリトラックの砂塵をみる。この道が若羌よりのもう一本の道であることを、トラックの運転手との話で確認する。范崖鎮より敦煌までの行程は、未許可のエリア通過ということもあり、記載はできない。
『青海省ルート探索上における注意点』
今回の青海省通過のルートは、上記の事情のように人命に関わる事態のためにやむを得ず通過せざるを得なかったのである。アルティン山中にての判断は、日本側並びに中国側のスタッフの協議の上であり、全隊員の同意も得た上での判断である。私自身も、上記のようなルートをとらざるを得なかったことへの過程ならびに最終判断は、その現場状況のなかで最良の判断であったと考えている。
ただ一つ問題なのは、事前に許可を申請受領していない青海省の通週の問題だけである。当時の中国国内事情によって、他省ナンバーの車両が当該省内を通過する際には事前の申請が必要である。特に外人を伴う通過の際には、その申請が厳しい状況下に置かれる。なおかつ、茫崖鎮より敦煌へのルート上には、外国人にとっては未解放地域が含まれている。
今回は、日本側、中国側との協議によって、特別には青海省への関係各省への自己申告はせず、敦煌まで走破することに決定し、最終的に日付を跨いで未明時間帯に敦煌には到着した。これは、万が一、関係各省へ申告した際、新彊省(アルキン山中)への強制送還そして、それに準じて予想される事態に対して憂慮した為である。
今回の報告書には、青海省通過の件は当然のことながら記述するが、中国側スタッフのたっての願いにより、青海省通過の仔細部分は、厳重に部外秘とすることを約束している。よって、青海省内通過における詳細は記載できないのである。
10月09日(晴) 未明に敦煌到着
(02:30AⅯ) 敦煌着。午前中は休息とする。午後は陽関へゆく。陽関は町から約40分。狼煙台が唯一丘の上に残っており、その隣に土産物屋が2軒あるのみである。その後、南湖見学。何の変哲もない湖である。町への帰途、映画・敦煌のロケ現場跡の見学。(18:30PM)ホテル側の接待宴。ホテルは太陽能賓館。
10月10日(晴) 敦煌滞在
終日、莫高窟の見学。莫高窟は町から約30分。入口でカメラ等の全撮影機は預かりとなる。
午前中 : 16,17,328,329,332,424,426,427,428, の各窟の見学。
午後 : 55,96,130,148,172,173,244,249,251,257, の各窟の見学。
10月11日(晴) 敦煌~蘭州
航空機にて蘭州へ。蘭州体育旅行公司の受け入れ。蘭州の空港より市内までは約1時間。蘭州では友誼飯店。
10月12日(晴) 蘭州滞在
午前中、甘粛省博物館の見学。博物館は友誼飯店の目の前。午後、白塔山の見学。(仏教寺院、道教寺院、ラマ教寺院が下部から上部にかけての山腹に建てられている。
10月13日(晴) 蘭州~北京
午前中、五泉山公園の見学。昼食は、公園内の食堂にて、上海料理による宴会。空港へ。北京到着後(蘭州~北京間は約2時間のフライト)、西苑飯店へ。
10月14日 (晴) 北京滞在
万里の長城、明の十三稜、友誼商店など
10月15日(晴) 北京~日本
[1] ル‐卜について
カシュガルより干由までは、アスファルト舗装なのでなんら問題はないと思われる。干田より且末までも、アスファルト舗装ではないが、砂利道(チベット高原状の道と同様の道)の平坦な道が続く。且末より若羌までの道は、流砂が砂利道の上に覆いかぶきっていたり、コンロン、アルティン山脈より流れ込む雪解け水が(10月の時期では、水量は全く無いが)原因による道路崩壊等が続く悪路である。若羌よリアルティン山脈までの道も非常に悪路(アルティン山脈よりの雪解け水による道路崩壊)である。
但し、概してカシュガルよリアルティン山脈までの道は、平均標高1500~1800ⅿ程度はあるが、高低差のないゴビ灘が中心の道である。悪路であったとしても車両のスタックのみが心配である。4輪駆動であれば、この問題も難なく解決できる。一番の問題点は、アルティン山脈を越える際である。今回は、ルートミスにより予定の行程をとっていない。私見ではあるが、予定通りの行程を通過していたとしても、最高高度3500m程度の峠の通過。そして3000mを越すところでの最低2日のテントにての宿泊(10月のアルティン山脈の3000ⅿ以上では、マイナス10℃程度にはなっていた。)
さらに最大の問題は、アルキティン山中の道が非常に峻悪険路であることである。今回も4輪駆動のランドクルーザーが下腹を岩にてこする箇所が数多くみられる。アルティン山中においても、毎年地形が変化している。またあまリアルティン山中を越える現地の車両が少ないため、道の修復などが、極めて貧弱な状態に置かれている。
若羌より敦煌へ至る道は、3本が考えられる。
(1) 当初我々が予定していた、新彊省内のアルティン山脈を越え、ジョルクリ、ラバイセンを通過し、敦煌へ至る道である。
(2) 今回我々が間違った道である。アルティン山脈のパシュクルガンより南下をし、アルティン山脈を越える。マンナイチンより青海省へ入境し、アクサイにて甘粛省へ入境。そして敦煌へ。
(3) 若羌よリアルティン山脈沿いに南下をし、途中より南東方向ヘ向い、アルティン山脈中に入
り込む。パシュクルガンは通過しないルートである。やはリマンナイチンより青海省経由敦煌へと至る行程は(2)と同じである。
(1)の場合、車両走行の全行程において通過する省は、新彊と甘粛省である。その大半部分は新彊省であり、ウルムチにおいての許可申請となる。甘粛省内の道は、特別許可申請が必要な地域ではなく、許可申請に於ての問題は少ないと思われる。実際、今回の我々の行程はこの許可申請(新彊大自然旅行社の申請受領)をおこなつている。
ただ、報告詳細日程表の中にも記述しているが、パシュクルガンよリジョルクリまでのルートがわからないということである。また、私見では、予定通りこのルートを通過していたとしでも険悪路の極みであることは疑い無いと思われる。
(2)の場合、今回清水が通過していることでもあり、ルートについては、問題無いと思われる(ただ一ヶ所、石斗洵は岩石だらけの悪路であるが)。また、アルティン山脈を越えたところの台地では、疾駆する野生動物が見ることが出来たり、魅力的なルートである。但し、このルートをとれば必ず苑崖鎮(マンナイチン)経由、青海省を通過せぎるを得ない。この青海省内の行程は、外国人に対しては未だに解放されていない。私見では、油日の採掘がおこなわれており、また、産物はさだかではないが、鉱山もあるので未解放ではないかとおもわれる。ただ、油沙田よりは、アスファルト舗装の道が敦煌まで続く。
(3)の場合においても状況は(2)とおなじ、許可の問題下に置かれる。但し、我々が茫崖鎮でであったトラックは、新疆ナンバーであり、現在はこの道が、新彊と青海とを結ぶ主要幹線であることは間違い無いように思われる。
以上のようなことより、次回は、敦煌を出発し、ラバイセン経由(清水はこのラバイセンとの分岐点を確認している)ジョルクリ、そしてアルティン山脈を越える。その後は、パシュクルガン、米蘭、若羌、且末、民豊、和田、カシュガルのルートも考慮する可能性があるように思われる。
また、「西域南道を走るJということを主軸とする限り、できるだけ忠実に西域南道に沿ったルー
トを走りたいものである。この場合、日程の早期の段階に於て、ルート中最大の難関であるアルティン脈越えが出来るのである。隊員や現地スタッフの体力、気力、ドライバーの体力、判断力がまだ充実しているうちにアルティン山脈を越える方がベターではないかと思われる。
また、アルティン山脈山中の難所は、カシュガルや和田のような新彊省内の町より非常に遠方にあり、どちらかといえば、甘粛省の町に近いのである。 許可申請も新彊省と甘粛省の2省のみであり、青海省は通過しないので許可申請上の問題は少ないと思われる。
ただ、現地中国手配先をウルムチの公司にする場合、車両とドライバーが甘粛の人間、随行員が新彊の人間となる可能性が高いことが、多少の心配といえば心配でもあるが。
この場合の概略日程表は次のようになる。
日本→北京①→蘭州①→敦煌②アルキン山中②→パシュクルガン①→米蘭→若美①→且末①→民豊①→和田②→カシュガル②→ウルムチ①→北京①→日本
総日数:17日間(最低限)
現地側(ウルムチの旅行代理店)との交渉状況に於ては、この逆ルートでもかまわないが、総日数は、上記と同様日数にて出来るであろう。但し、逆ルー卜の場合には必ず現地手配先に、アルティン山脈越え(バシュクルガンよリラバイセンまでのルートの探査状況を確認させるべきである。
共同・個人装備について
寝袋は必ず必携である。各隊員数ならびに現地スタッフ用の日本から、もしくは現地にての手配が事前に必要とされる。タイプは冬山用(9月より10月中の走行の場合)にしたほうがよい。エアーマット等必ず必要であるが、今回は中国側(新彊大自然旅行社探検部)が用意した。ただ、穴のあいているような不良品が多いので、ウルムチ等出発地点にて必ず再点検すべきである。
テントについて。今回は新彊大自然旅行社よリダンロップ等4つのテント持参であった。テントの保管状態(大自然旅行社)は、行き届いており心配が無い。キッチン器具にしても、大自然旅行社手配であつたが、何等問題はないと思われる。
※テント、キッチン器具、エアーマット等の共同装備については、中国側手配にて問題はないと
思う。が今回はすべて新彊大自然旅行社の手配であるので、他手配先にて準備させる際には、
必ず、確認が必要である。
食料について
基本的に今回においても、中国側手配の食料には、ほぼ満足できるものがあるように思われる。
ただ、2つだけ今回の反省に基ずいた改良点は、下記の通りである。
(1) 砂漠やアルティン山中を移動中の際の昼食について。
今次隊員諸氏は、非常に順応性が高いのか、無理なく現地食をこなしていただいていたが、出来ることであれば、副食程度の缶詰、ビスケット等、調理時間を必要としない日本食を準備するべきである。
(2) 探査行全般を通じて体力的にも消耗度が高い行程であるので、真空パックの自米、赤飯、おかゆなど(どこの山域でも同じではあるが)も好評であった。
※今回の現地食(アルティン山中)は、準備から味付けに至るまで、新彊大自然旅行社の瓢氏手配
に負うところであったので、上記条件と同じという訳には行かない場合も出てくるであろう。
標高3500m以上の山域で降雪の可能性のある時期を想定した準備が適していると考える。山中は最高でも3泊まである。
撮影について
和田より以西の新彊省地域は準解放地域である。今回の中国側スタッフよりも注意を受けたので
あるが、和田以西の町中においての、カメラ、ビデオの撮影は、禁止ではないが自己自粛してく
れるように頼まれた。移動中においては、なんら問題はない。米蘭での撮影については、今回は
問題はなかった。甘粛省の敦煌では、報告書の中にも書いているが、入り口に於て全ての撮影機は預かりとなるので莫高窟内部での撮影は不可能である。また、和田、民豊、且末、若羌それぞれの町には、電気が通じているので、バッテリー等の充電には、変圧器さえあれば問題はない。
使用車両について
新彊大自然旅行社はウルムチにおいて郭氏が、1台(4輪駆動)のトラクタータイプの使用を強く勧めていたが(1台のランクルと1台のトラツク)、清水はこの意見には反対である。今回も、2台の車両に充分荷物を積み込むことが出来た(それぞれの車両にドラム缶、80リットル程度の水ポリタンクも積み込んだ上で、共同装備、個人装備を積載した。)ので走行性、居住性、快適性、機動性において優れている、日本製の4輪駆動車を使用すべきである。
2023年8月22日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。