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手を繋ぐ

たいいちろう

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   ☆
 
 夏の終盤にかけての夏の夜の雰囲気や空気感は独特で、微かに香る夏草の香りもなにかノスタルジーのようなものを感じさせるのだ。
 でも、その言葉の意味が持つ、郷愁や懐古、追憶といったものではない。
 過ぎ去ってしまったこと、戻せない時間や時代を懐かしむというわけでもない。
 ただなんとなく、心がキュンと締め付けられるのである。
 大好きな季節が過ぎ去ることは寂しいが、ノスタルジーなこの夏の終盤の感じが夏ジは大好きだった。
 右脚を引きずる夏ジの隣で、凛コはその歩幅に合わせて歩く。夏ジの右脚の痛みを引き受けるかのような歩みだ。
 夏の終わりがくるのを感じさせるかのような、さりげなく吹く風が二人の体を通り抜けていく。
 その風は優しくて、二人のことを微笑ましく見守っているようにも思える。
 街は夜になっても賑やかだ。
 二人が大好きなあの川が生きているのと同じように、この街も生きているのだ。

   ☆

 ほんの少しメインの道からそれると急に人がいなくなり、そこは静かな住宅街になる。
 田んぼの横を通ると、こんな街中に田んぼなんてあったかいな? と夏ジがそう思うのと同時に、静けさで包まれた小さな田んぼから、蛙たちがなにか楽しそうに、世間話でもしているかのように、色鮮やかな音色で鳴きだした。
「水族館、魚にめっちゃ癒されたわぁ」
 凛コが今も、水族館での余韻に浸りながら満面の笑みで言う。
「うんうん、夏といえば水族館やなぁ」
「なんで?」
「だって、涼しいやん」
「なんやそれ。そっけない」
 凛コが笑う。
「え、あ、ちゃうちゃう。いや、癒されたで」
 夏ジも笑顔になって思わず笑ってしまう。
「水槽にめっちゃ指紋ついとったけど、思わず僕も水槽に張り付いてしもうたよ」
「夏ジさん、なんか子供みたいやったで」
「ほんまかいな」
 苦笑いしながら夏ジが頭を掻くと、さりげなく吹く夏の夜風が、今度は二人に微笑んだ。
「昔に水族館で働く人に教えて貰ったんやけどな。水族館には魚やら水の一族っていうか、水族っちゅうの。その生活スタイルやら生きるリズムがあるやろ。水族館に遊びにきた人間がそれに身を置く感覚っていうのかな。それも大事やって聞いたんよ」
「水の一族? なになに? うん。ほんで?」
「うん。ほんで、そんなこともぜーんぶ忘れて、夢中になってもうて、ただ完全に水槽に張り付いてしもうてたわ。魚もびっくりしっとたな」
「なんやそれ。あかんやないの」
 凛コがそう言うと、夏ジは大笑いし、凛コもつられて大きく笑う。
「なぁ、夏ジさん」
「なんや?」
「今日は楽しかったね」
「ほんまやなぁ」
「ほんまに楽しかった?」
「なんで、そんなん聞くん」
「ううん。昔からやねんけど、気にしてしまうねん」
 夏ジの左手に、横を歩く凛コの右手の小指が、夏ジを気遣い歩く動作から、不意に触れる。
 凛コは顔を赤らめた。
「凛コさんのそんなところが僕はええなぁ思うんよ。楽しいに決まってるけど、そんなん考えんでええんやで」
 夏ジが笑う。
 今度の笑顔はそれは祈りのような、凛コにいつもいつでも、どんなときでも笑顔でいてほしいと願う、そんな笑顔だ。
 それから夏ジは優しく目を細めると、凛コの右手をその左手でそっと掴む。二人が手を初めて繋いだ瞬間だった。
「凛コさんが楽しいかどうかや。凛コさんみたいな人はいつも、それだけを考えてたらええねん。それでええんやで」
 凛コは夏ジの左手をそっと柔らかくほどくと、夏ジの左腕に自分の右腕をまきつけ、その身を寄せた。
 今度は夏ジが顔を赤らめると、凛コの右腕を優しくほどき、左手をそっと凛コの左肩に置くと、凛コのその身を抱き寄せる。
 夜の散歩をしに歩いているこの辺りの住人が向こうから歩いてくると、照れくさそうに二人は少しばかりドキドキしながら、その身を離した。

   ☆

 なにもなかったかのように自然に会話をしながら歩く二人。
 街中だというのに、この場所からだと不思議なくらいに、夏の夜空が綺麗に見える。
 凛コの小指が夏ジの左手に再び、不意に触れた。
 凛コのその小指が触れた瞬間、夏ジが今度は顔を赤らめると、凛コの右手を夏ジの左手がしっかりと繋ぎとめる。
 その手はとても頼もしく、そんな頼もしい手を凛コはとても優しく握りかえすのだった。
 そして、凛コのそんな右手を夏ジも優しく左手で握りかえす。
「結構歩いたけど、右脚しんどない?」
「右脚かいな? あいてててて」
「大丈夫なん? また痛むの?」
「ははは。嘘や。へっちゃらやで」
 二人はクスクスと笑う。幸せそうに笑う。お互いの心が通じ合っていることを感じながら笑う。
 二人はしっかりと手を繋いでいる。これからもきっと。
 夏の終わりを感じさせるかのような、さりげなく吹く風が二人の体を再び通り抜けていった。
 二つの銀のインディアンの指環が揺れる。
 ネックレスにして通した、夏ジと凛コのお揃いの指環だ。
 その指環が、クルクルと二人の首元で夏の風に優しく揺れる。

手を繋ぐ

2023年8月31日 発行 初版

著  者:たいいちろう
発  行:ANUENUEBOOKS

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たいいちろう

巡り会えた皆様に、
幸せが訪れますように…。

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