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古来瀬戸内海は、海路による物流や人流の大動脈となっていた。縄文時代以来七世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていたのである。その後、律令国家時代になると陸上交通を基本にした七道の行政単位を定められ、駅家などの整備を進められた。
しかし、八世紀になると、物流はまた輸送量で勝る海路交通に回帰し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなっていった。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土における流通軸を構成してきたといえるだろう。
古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)のニつの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていた。それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮半島や大陸とを結ぶ使節(遣唐使・遣新羅使など)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていたのである。
そのため、大和朝廷以降における中央政権は、瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使などの航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれていったのである。
また、瀬戸内海は日本神話との繋がりも深いものがある。日本の国の始まりから、古事記・日本書紀の国生み神話や神武天皇の東征、神功皇后の三韓征伐等にみられるように、瀬戸内海の諸島や航路は物語の舞台として、また交通路として重要な役割を担ってきたのである。
また、万葉集などにも瀬戸内海の風物などが詠み込まれても来た。七世紀頃、遣唐使や筑紫の大宰府に派遣された防人、あるいは瀬戸内海沿岸の国府に派遣された官人もこの内海を交通路としており、そのため、瀬戸内海の各所で、彼らにより旅情溢れる歌が詠みこまれてきたのである。
たとえば、山部赤人が詠んだ歌碑(和歌山下津港)、柿本人麻呂が詠んだ中の水門歌碑石碑(丸亀港)、人麻呂碑(坂出港)、大伴旅人が詠んだむろの木歌碑(福山港)、詠み人知らずの万葉の歌碑(牛窓港)等、港周辺に建てられている万葉の歌碑は、かつて往来していた万葉人を彷彿とさせてくれる。また、姫路港の市川や船場河川口など、瀬戸内海には万葉集に詠まれた美しい風景も多く存在しているのである。
平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内海航路を整備していくのである。清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行ったと伝えられている。
また、室町幕府は応永八年(一四〇一年)から遣明船を派遣し、日明貿易を行ってもいる。多くの船が、現在の門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓などに配され、遣明船として用いられていたともされている。
当時の大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけでであるが、その間にはいくつもの町が『風待ち港、汐待ちの港町』として発達していったのである。
江戸時代になると瀬戸内海の海運は黄金期を迎えるのである。日本海の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津から、下関、大坂、太平洋の志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等を寄港地として整備されていくのである。
江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場する。それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達していったのである。
この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していったのである。
当時の船は、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていたのである。
同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけである。
瀬戸内海は、四つの海峡(二つの海を連絡する狭い海)すなわち、関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を通り、干潮から満潮まで複雑に潮が流れ込んで来る。また満潮から干潮にかけては多くの潮の流れが四つの海峡に向かって流れ出る。
潮待ちとは、潮流を利用して航行する船が潮流の向きが変わるのを待つことである。瀬戸内海では一日に二回の干満があり、六時間毎に潮流が逆転するのである。逆潮を避けるためにまた潮に乗るために潮待ちの為に停泊する必要があったのである。
そのためには、陸地沿いや島々の間を通り、かつ潮流の速い山陽沿岸(大畠の瀬戸、平清盛が開いた音戸の瀬戸)沿いが東西を結ぶ幹線航路に選ばれたのである。そして潮待ちのためには一定の距離毎に港が出来ていったのである。
赤間関(下関)、中の関、室積、上関、沖の家室、津和地(松山市)、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津、兵庫、といった港町が潮待ちや風待ちの港町として整備され、大阪への航路が構築されていったのである。当時の航行は、潮の流れと風の流れを活用し、櫓、帆などを人力で漕いで進んでいたのである。
江戸時代の十七世紀後半になり、木綿帆が使われるようになると、帆走能力が高まっていく。それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ、航海することが可能となっていき、沖合を一気に駆け抜けることになった。
そして航路の変更されていき、上関から沖の家室、津和地(松山市)、御手洗、鼻栗瀬戸(伯方島と大三島との間)、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦などへと往来するものとなり、航路は瀬戸内海のほぼ中央を航行するようになっていくのである。
十五世紀の後半になると朝鮮から綿布が大量に輸入されるようになるのである。おして十六世紀には明からの綿布(唐木綿)の輸入が加わって、上流階級では木綿の着用が流行していく。
さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国から縞木綿がもたらされ、その中にはインド産のサントメ縞(唐桟)やベンガラ縞、セイラス縞などが含まれていた。これらは近世日本の模様染や縞織の発達に大きな影響を与えたのである。
十六世紀の半ばから、国内にても木綿の栽培が始まっていくのである。木綿は丈夫で耐久性にすぐれているため、戦国時代の武士たちは幕や旗差物、袴などの衣料に用いたのである。
需要の増加にともなって三河などで木綿栽培がはじまり、またたく間に近畿、瀬戸内海地方でも栽培されるようになっていく。
江戸初期には農民の着物も麻から木綿へと転換し、江戸中期になるとほとんど全国的に木綿織物が生産されるようになって、各地で特色のある銘柄木綿を産出したのである。
さらに縞や絣、型染や筒描、藍染など文様と染色技術の進歩とともに、多様な綿布が生産されるようになっていく。
瀬戸内沿岸の塩分の多い砂地や島の段々畑など、稲作に適していない土地が綿作地帯へと化していったのである。米作の二倍以上の収益を、加工して木綿にすればさらに綿作の二倍以上の収益をあげていく。
そして、木綿の普及は、帆船を発達させ、それが瀬戸内海航路発展と航路の変更となっていくのである。綿布以前の帆は、コモやムシロだったので、雨に会うと重心が上がり転覆する危険があった。
また風を一杯に捕らえることが出来ず速度が遅かったり、風の細かな整流調節が難しかったり、風の弱い日には櫓を漕ぐ大勢の水夫を乗せねばならなかった。
しかし十七世紀後半に綿布が普及するようになると、殆どの船は綿布帆となり、少々の雨でも転覆せず、速く、横風でも走れるようになっていくのである。
その影響で、海上航路も沿岸沿いの乗り航路から沖乗り航路へと移って行くのである。
また木綿帆の普及は、木綿や塩、日常雑貨を運ぶ中型船の回船業が盛んになり、そればかりか地引き網や船曳網で大量の鰯を取るようになったのである。その鰯が木綿栽培には最良の肥料でもあった。十八世紀中頃から、瀬戸内海の島々での綿栽培は急速に伸びていくのである。
朝鮮通信使は,足利・豊臣・徳川の武家政権に対して、朝鮮国王が書契(しょけい、国書)および礼単(進物)をもたらすため派遣した外交使節団のことである。
「朝鮮信使」「信使」「朝鮮来聘使」「来聘使」(らいへいし)などとも呼ばれている。実質的には,江戸時代に十二回にわたって来日した使節団のことを指しる。
江戸時代の朝鮮通信使は,幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮へ使者を派遣し、これを受けた朝鮮側が、正使(文官堂上正三品)、副使(文官堂下正三品)、従事官(文官五・六品)の三使を中心に使節団を編成したのである。
この通信使の来日は、文化面においても多大な影響を与え、絵画や歌舞伎の題材にも取り上げられるほどであり、先進的な大陸の文化を取り入れる絶好の機会でもあった。
室町時代には、六回にわたって通信使が来日している。来日の理由は、倭寇禁止の要請や将軍襲職祝賀が多く、幕府も同じ認識で迎えていたのである。
寛正元(一四六〇)年に来日した通信使は、日本の請いに応じて、大蔵経や諸経を贈呈してもいる。また、豊臣政権のもとでは、二回にわたりいずれも文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)に関係した交渉を行っている。
十六世紀末の中国(明国)においては、農民の反乱が多発し、加えて元和二(一六一六)年に中国東北部に後金(後の清国)が建国されるなど、大陸の情勢は緊迫していた時期でもある。朝鮮は、北方より侵入する後金の圧力に対し、明国を支持する方策を堅持していたため、通信使派遣は南方日本との和平を保つ必要に迫られてのものでもあったのである。
このように通信使の来日は,東アジアの情勢動向とも深く関連しているのである。
下関は、古くは赤間関(あかまがせき・赤馬関)とも呼ばれていた。これを略して馬関(ばかん)とも呼ばれていた時期がる。
古来より九州や中国大陸からの本州の玄関口として栄え、また山陽道(西国街道)と山陰道の起点であること、そして海路では近世に西廻り航路(北前船)の経由地であったことより、ここは、日本史における数々の重要な出来事に関係してきた都市でもある。
幾度となく朝鮮半島からの渡来系集団によって、製鉄・土木・建築。河川補修などの先端技術が、また文字・宗教・律令制度などもこの海峡を通って大和へ伝わっていったのである。
七世紀に長門国の国府が置かれ、遣隋使や遣新羅使、遣唐使もここを通り、そして新羅や唐の使節を迎える為に赤間関に『臨海館』が設けられたのである。
一一八五年には、源平合戦最後の戦いである壇ノ浦の戦いがあり、武家政治へと転換することとなったターニングポイント的場所でもある。
室町時代には大内氏が朝鮮との貿易を赤間関を本拠地として盛んに行い、李氏朝鮮へ使節を頻繁に派遣していたのである。
また朝鮮からの回礼使や通信使も、必ず赤間関に寄港し数日間滞在していることは、当時の記録にも記載されている。当時、赤間関には朝鮮人が住んでおり、日朝貿易に従事していたとも記録されている。
江戸時代になると毛利輝元の養子だった毛利秀元が長府に館を構え、支藩である長府藩を設立している。
江戸幕府は朝鮮通信使の接待を、長州藩に赤間関と上関の二カ所にて行うよう命じている。
上関は、下関、中関と共に防長三関の一つとして栄えた港町である。上関海峡は、室津と上関の間わずか一七〇m、水深十ⅿである。古代より奈良や京都の都と九州や大陸を結ぶ海上交通の拠点として発達したのである。
古くは倭寇や村上水軍の中継本拠地として、また十六世紀になると戦国武将の大内氏は、上関に関所を設けてここを通る船から帆別銭という通行料を徴収していたのである。
江戸時代になると、九州の大名で参勤交代に海路を取る場合は必ず上関に寄港していたのである。
萩(毛利本家)藩は、重要な港として藩の直轄地としている。また江戸幕府への外国からの使節に対し、ここに御茶屋(迎賓館)を作って接待もしたのである。特に朝鮮通信使の寄港地として一六〇七年から一七六四年まで往路十一回、復路は八回来航している。
江戸時代になると、瀬戸内沿岸の塩分の多い砂地や島の段々畑など稲作に適していない土地が綿作地帯へと転化されていくのである。そして島の経済は豊かになり、麻の着物から木綿の着物へと移っていったのである。
またコモやムシロ帆から木綿帆の船へと変わると、速く、風に強い船となり北前船が登場していくのである。
上関が最も栄えたのは、日本海沿岸から米や昆布を積んだ北前船が来るようになってからの、潮待ち・風待ちの港町時代である。
しかし明治末期に山陽本線の開通と汽船時代になると、上関は時代から取り残されていく。動力船は、上関を通らずに瀬戸内海の真中を、下関や大阪へと向かったのである。
それでも石炭が主なエネルギー源であった時代にはまだ活気があった。上関の人々は、『とどかか船』と呼ばれる夫婦乗りの石炭船で北九州の若松と大阪間を往復し、生活にもゆとりがあったが、それ以降は廃れていく一方である。
現在は原発賛否の町として話題になっている。
瀬戸内海西部の防予諸島にある島である。山口県大島郡周防大島町に属する。瀬戸内海を帆船が行き来していた頃はこの島もにぎわいを見せ、江戸時代には萩藩の番所が置かれていた。明治時代には人口が三千人を超え、人口密度が国内最高だった時期もある。
この沖家室島は、周防大島の本島からは昭和五十八年に架橋がなされ、今では陸続き様となっている。が、それまでは孤島として独特の文化が根づいていたのである。ここは江戸時代から、一本釣り漁業で暮しを成立させてきた、歴史の古い純粋な漁師町である。
一本釣り漁業は広い漁域を必要とした。不漁になると、遠征をせざるを得なかったのである。ここの漁師たちは、やむを得ず九州西部の五島列島、讃岐の与島近海などまで出漁していた。
明治初期には、本土側にわずかに開ける平地や山裾に沿って、七百人ほどの人が暮し、ほとんどが出稼ぎ漁に従事していたという。
明治維新後、出漁先より入漁を拒否されることが多くなった。時には漁具、獲物を押収されることもあり、新たな漁域の確保に汲々としていたという。
果ては朝鮮組といわれる朝鮮海峡への漁団をはじめ、筑前組・馬関組・伊万里組などの船団が組織され、現地と漁業権交渉にもあたり懸命の努力で、生活を確保していったのである。
春に地元の漁を終え出稼ぎ漁にたち、盆に帰省するだけで秋まで遠征を続ける、このような漁が行われた地域は瀬戸内では他に広島県の豊町、内海町などが知られている。一方、ここは明治末期以降、ハワイ移民を多く生んだ地であった。
最初は日本政府とハワイ王朝の間で交された移民条約に基づくもので、沖家室の住民はハワイ漁業の開拓者と言われている。その後漁業に留まらず、砂糖産業その他の産業に従事し成功する者を聞き、次第に人口が流出していった。
そんな近世の歴史を持つこの島は、一方で江戸時代には参勤交代時の立ち寄り港としても栄えたのである。一時は藩の役人も常駐していた、高札場が設けられ、御舟蔵、御番所もあった。そして大名の本陣も設定され、賑わいを見せていたのである。
その賑わいは『かむろ千軒』とも称せられ、近隣にもその名が知れ渡ってもいた。しかし、現在は人口が極端に減少し、現在は人口百人前後である。過去の賑わいは忘却の彼方となってしまっている。
周防大島出身の民俗学者の宮本常一氏は、頻繁にこの島を訪れ、種々の記録を残してもいる。また、泊清寺は沖家室島の信仰、文化の中心であり、現在の住職は島の宗教行事、文化行事を支える重要人物の一人である。
周囲十六㌔の小さな島である。下蒲刈島は広島県呉市の南東方に位置し、古くから瀬戸内海の要衝として栄えた町である。一三八九年、足利義満が厳島参詣をした際の紀行文において”安芸国かまかりに御船をとどめられる”とある。
蒲刈島三之瀬は、幕府の全国統一にともなって航路が整備され、要所には海駅が設けられ、さらに継船の制度が設けられ、江戸幕府によってさらに発展し、本陣、番所、茶屋の3点セットを備えた海駅に指定されている。
この航路を利用して、西国大名の海路による参勤交替、長崎奉行の江戸への連絡、オランダ、琉球使節、朝鮮通信使の往来が行われた。その他諸国廻船の来泊も盛んであった。朝鮮通信使は十二回のうち十一回往復ともに寄港している。
浅野藩では、第八回の来日に警備や輸送、出迎えのために一三五隻の舟と接待役付七五九人を三ノ瀬に用意したと言われている。
第五次朝鮮通信使は、”設備された物や接待のすべてが華麗でぜいたく。ここが最も優れている”、と記録している。
第十一次朝鮮通信、”波止場と桟橋が、上関、下関よりはるかに優れていた。行閣の左右の欄干には赤い毛氈が敷かれていた。”と記録し、また、”安芸蒲刈御馳走一番。其の飲食器皿も皆金色。日本好酒皆此州。安芸州之酒味為日本第一。”等と記録している。
このように日韓両国の資料から、浅野藩が想像を絶するような饗応をしていたことが伺えるのである。
十七世紀後半から木綿帆が使われるようになると、船は蒲刈島の沖を一気に駆け抜けるようになり、三ノ瀬の港は衰退したのである。
その後、ここに代わって大崎下島の御手洗港が潮待ち、風待ちの港として栄えるようになったのである。現在は、朝鮮通信使往来を記念した、日韓交流行事が開催されている。
「唐船浜」などの地名や古文書において、遣唐使船などの建造が倉橋島においてなされたという伝聞が残っており、少なくとも平安時代には造船が倉橋島南部地域で始まっていたと思われる。
倉橋島に立ち寄る北前船(千石船)などによって、技術を持つ人々が広い地域から集まり、北前船など和船から機帆船・石船の建造が、昭和三十年代頃まで本浦地区から拡大して、倉橋島全域で盛んに行われていた。干満の差が大きい地の利を活かした当時の建造・土木技術が高かったことがうかがえる。
鹿老渡(かろうと)は倉橋本島の南端にあり、南北に天然の良港がある。瀬戸内海の「沖乗り航路」の「風待ち潮待ち」の港町として栄えていた。周防上関から安芸の御手洗(みたらい)に至る航路の中間点だったである。
明治時代には、街の有力者(宮林家)の発案にて、町並みは碁盤の目状に作られている。人口が多かった時代には、その碁盤目の中央通りにてお祭りなども開催されていた。宮林家は、もともとは日向地方の材木を扱う商家で、日向の藩主も参勤交代時には、しばしば宮林家に投宿していた。
広島県最南端の島・鹿島は、面積は三平方キロメートル弱、周囲は九キロメートル強の小さな島である。倉橋島の鹿老渡経由で、橋伝いに行くことができる。古くは汐待ち風待ちの島として、九州の大名の参勤交代時の投宿地としても栄えた。
鹿島は平地が少なく、山も急斜面で、土壌も花崗岩が風化したもののため、耕地にするには、石垣を築かなければならなかった。その石垣を築いた形がピラミッドのように見えることから、農水省主催による「第六回美しい日本のむら景観コンテスト」で「段々畑のピラミッド」として選ばれてもいる。
斎灘(さいなだ)に浮かぶ、広島県呉市大崎下島・御手洗港は、”沖乗り” 行路の寄港地として、新たに開かれた港町である。
瀬戸内海航路は、中世までは殆どが陸地に沿って航行する、”地乗り(伊予津和地島から安芸の海域に入り、橋倉島南端の狩老渡かろうとを経て、下蒲刈島の三ノ瀬に寄港し、豊田灘に入って山陽沿岸を、竹原、三原、尾道を通って鞆ノ浦へ至る)”であった。
ところが近世になると、航海技術(木綿帆、地図、計器など)が進み、瀬戸内海の中央部の最短距離を行く、”沖乗り”航路が利用され始めた。沖乗り航路は、伊予津和地島から斎灘を一気に渡り、鞆ノ浦へ向かうものであった。
途中、潮待ち・風待ちをする港が必要になった。斎灘には多くの島が浮かんでいるが、島々の南側は直接南風を受けるために天然の良港が見当たらず、集落も殆ど発達していない。
多くの集落は小島に挟まれた瀬戸にのぞむ風当たりの少ない所を選んで作られている。
ところがこれらの小島に挟まれた瀬戸の多くは、北東方向へ向けて抜けており、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮の時は、繋船が出来ないほどの沿岸流が起こる。
斎灘の中で、御手洗水道は、大崎上島と岡村島に挟まれ、北西方向へ抜けており、北には中島、平羅島が浮かび、これらが潮流の障壁をなしており、潮の流れが比較的緩やかであった。
このような自然環境から御手洗港が潮待、風待ちの港として注目されるようになったのである。御手洗が沖行く船を引き付けて、さらなる繁栄を図るために、四軒の遊女屋を置くことが広島藩から公認されたのである。
最盛期には、約百名前後の遊女がいたといわれている。北前船が一度に五十隻、百隻も入港したことがあったとも言われている。各地の年貢米や特産物が大阪へ運ばれる途中、御手洗でそれらの取引が行われたのである。
若胡子(わかえびす)屋跡
四軒の茶屋に百名前後の遊女が最盛期にはいたといわれている。そのうち遊女四十前後人を抱えて最も繁盛していた若胡子屋が出来たのは一七四二年である。
また上関から質流れとして女子供三〇余人を湯女として連れて帰って来たとの記録もある。
遊女の生活に耐えかねて逃亡しようとしても、海に囲まれた島のこととて、容易には成功しなかったと言われている。泊まり船の間を縫うように、宵闇の海にカンテラを灯して漕ぎ廻る、”おちょろ舟”。
このおちょろ船が、遊女を乗せ、船乗りの一夜妻を勤めていたのである。古くは舟に食料品や薪、水などを売る、”菜売り女” が ”舟にて後家商い” をしていたともいわれている。これが遊女として職業化したのであろう。
御手洗は七里七島、五里五島と呼ばれた島々の中でも古くから遊女の島として船人たちに広く知られ、彼らの旅情を慰めてきた所であった。
北前船(千石船)や四国九州の諸大名の参勤交代の時、さらにはオランダ商館の江戸参りの途中にて、多くの男衆がこの島に立ち寄っていたのである。
文化三(一八〇六)年二月三十日~三月二日にかけて,日本全国を測量中の伊能忠敬が御手洗にある柴屋種次宅に宿泊し,大崎下島の海岸線の測量を行っている。
旧・柴屋住宅は、大長村庄屋役及び御手洗町年寄役を代々勤めていた高橋家(屋号柴屋)の別宅の一部である。推定建築年次はそれ以前のものと考察されている。
別宅は二つに別れていて、常盤通りを挟んだ向かい側が母屋で、本住宅は向座敷となっていた。
「伊能忠敬御手洗測量之図」の右側にこの向座敷が描かれていたのである。
土塀で囲まれた広々とした庭には、あずま屋や池が配され、豪著な造りとなっていたと言われている。
広島藩主が遊覧のため来島した際にここで休憩するなど、本陣としても利用されていたのである。
伊能忠敬の一行も、瀬戸内海は海路も活用しており、御手洗などの風待ち・潮待ちの港町を転々としながら測量移動していったのであろう。
広島県福山市にある鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ真ん中に位置している。関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を流れる潮は、干潮から満潮まで鞆ノ浦へ向かって流れ込んで来る。
また満潮から干潮にかけては鞆ノ浦から潮が四つの海峡に向かって流れ出る。
そこで鞆ノ浦は、大阪に上がる船も、九州へ下る船も、満潮に乗って入港し、干潮に乗って出航する潮待ちの港として二泊することも少なくなく、潮待ちの港の中でも鞆ノ浦は、最も栄えたのである。
朝鮮通信使は十二回のうち十一回を鞆ノ浦に立ち寄っている。また万葉の歌人・大伴旅人が歌を詠んだり、坂本龍馬所縁の港であり、さらには村上水軍が鎌倉幕府を敗る足利尊氏ゆかりの地としても知られている。
回答兼刷還使から朝鮮通信使に名称が変わった一六三六年第四回の通信使一行から、福山藩は、福禅寺を朝鮮通信使の宿舎とし、盛大な接待をするようになったのである。
そして一七世紀後半に福禅寺の境内に新しく客殿を建て、第六回一六六五年から使館とした。
その使館が、現在でも見学できる対潮楼(たいちょうろう)である。この使館からの眺めは絶品であり、第六回朝鮮通信使の扶桑録は次のように記している。
『滄海(青い海)は俯瞰して眼界が千里だけでなく、遠くは伊豫、讃岐の凡ての州と近くは尾道等の島が天の果てに隠々として雲間に明滅していた。もし海路の景勝を論ずるなれば、正に鞆ノ浦をもって第一と為すべきである。』
朝鮮通信使も絶賛したこの光景は、日本の箏曲家であり作曲家でもある、宮城道雄が作曲した箏曲・”春の海”の原型イメージとしても有名である。
岡山県の児島半島にある先端の下津井は、島であったが、奈良時代から干拓が始められ、江戸時代初期の大規模な干拓事業により一六一八年には陸続きとなった。
また、干拓地の塩分を含んだ砂地では、栽培される作物には限りがある。綿は、水分と肥料(ニシン粕)さえあれば十分に栽培が出来た。
北前船が運んで来るニシン粕は、瀬戸内海最大の干拓地を控える下津井港において高値で取引され、北前船の寄港地として栄えたのである。
下津井は、江戸時代に岡山藩の在番所がおかれ、参勤交替のため内海を航行する西国大名の応接にあたったりしたのである。
また、金毘羅参りや四国八十八カ所めぐりに四国へ渡る港としてまた北前船の寄港地として発達してきたのである。
北海道で取れたニシン粕、数の子、昆布などを満載して、日本海の荒波を越えて来た北前船が港に碇をおろす度に、沸き立つような賑わいがこの町を覆っていたのであろう。
下津井では、背後に児島湾の広大な干拓地を控え、ニシン粕が綿栽培の肥料として大量に必要であった。こうして下津井港には年間に五〇~六〇隻の船が寄港していたと言われている。
従来の菜種、イグサに加えて大量の肥料(ニシン粕)を肥料とすると沢山の綿が生産され、高価で取引された。
全国一のニシン粕需要地としての下津井港には、船問屋のニシン蔵が多く立ち並んでいたのである。
綿栽培は、砂地の塩分を少なくすると共に、現金収入になるという魅力があった。
収穫された綿花は加工されて、綿糸、反物、衣服、帯び、足袋などの製品になった。
こうして北前船の来航が、児島の繊維産業の発展のきっかけになったのである。
下津井は、本土と四国との距離の一番短い所である。下津井から丸亀へと船に乗り金毘羅詣に行っていた。
一九〇九(明治四二)年に岡山県の宇野港が開港されると、宇高連絡船に取って代わられていくのである。
さらに、昭和六三年には瀬戸大橋(上は自動車道、下は鉄道)が開通しており、今では立ち寄る人も無く、ひなびた港町でしかない状況となっている。
岡山県牛窓港あたりの海は、日本のエーゲ海とも称せられる。その中でも牛窓は、”美しい窓”ーとたたえられ、古くから万葉集にも詠まれているように、古代からその名が知られていた。
中世には、風待ち・潮待ちの港として栄えた歴史を持つ。この牛窓を訪れた詩人、歌人は数多く、風景を賞賛し、これらの詞あるいは歌が今なお多く伝えられているのである。
一四二〇年には朝鮮使節が停泊しており、一四六七年には牛窓の代官が使いを朝鮮に遣わしたことが(海東諸国記)にも記載されている。
また江戸時代には、参勤交代の大名やまた、鎖国の日本と朝鮮の間には交隣の友好が結ばれ、朝鮮通信使の一行が寄港(鞆ノ浦→牛窓→室積)し、当時の歴史的文化遺産も数多く残されている。
牛窓では、”唐子踊り”の町としても親しまれている。唐子踊りとは、摩訶不思議な神事である。異国情緒あふれる衣装をまとった二人の男児によって、代々踊り伝えられてきた踊りである。
一説によれば、その起源は朝鮮通信使がもたらしたといわれている。独特なメーキャップ、典雅な所作、奇妙な口上、囃し方など、その意味はまったく不明だが実にミステリアスなのである。
第九回の朝鮮通信使には、十九名の小童が随行し、二人の童子が対舞したとも記されているので、あながち起源説にも信ぴょう性があるのではないだろうか。
牛窓の街並みも古風で素敵なのであるが、時間があれば町の北側に連なる『オリーブの丘』へと行ってみたいものである。
この丘の斜面には、多くのオリーブの樹が植えられており、エーゲ海沿岸を想起させてくれる。また、この丘の頂上には展望台があり、この展望台からの瀬戸内海の多島美世界には、言葉を失う事であろう。
播州赤穂は、瀬戸内海式気候と遠浅の地形が塩作りに適しており、古代より揚浜式塩田が発達していた。
一六四八年、初代浅野家藩主浅野長直は、千種川流域での大規模な入浜式塩田の開発に着手して、五万石の塩を製造するようになった。
以来、全国有数の塩の生産地として栄え、”塩の国”と呼ばれるようになった。江戸時代は四〇〇町歩にもなっていたと言う。
江戸から明治にかけて赤穂産の塩は海路で全国各地へ搬送された。千種川の河口、市街地に面した海は遠浅のため大型船が入港できず、代わって坂越港が玄関口として栄えてきた。
高瀬舟で千種川を下ってきた内陸からの物資も、川沿いの船着場で一度降ろされ、坂道を通って坂越浦へ運ばれていた。明治三八(一九〇五)年、塩専売法が施行され、赤穂の塩の回船は衰退していくのである。
坂越浦(さこしうら)は、内海航路の中継地として重要な役割を占め、江戸時代に回船業が盛んになっていった。
瀬戸内海有数の回船業地となった坂越は、近世に形成された瀬戸内海沿岸の多くの町が海岸沿いに展開しているのに対して、千種川と坂越浦とをつなぐ『坂越大道』を主軸に展開していることに著しい特徴があると言えるだろう。
また、この坂越は古代に朝鮮半島より渡来してきた氏族・秦氏一族ゆかりの土地でもある。「能楽」の始祖と言われている、秦河勝(はたのかわかつ)に所縁のある場所がある。
秦河勝は飛鳥時代の族長的人物として聖徳太子の同志として活躍した人物である。京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したとされる。
広隆寺近隣には大酒神社があるが、この神社も神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものとされている。
同じ(おおさけ)と読みのある神社が、ここ坂越にもある。大避神社である。
播磨国風土記によると、室津は『此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す』と記されている。
三方を山に囲まれ、古来より天然の良港として有名であった。そして、奈良時代には、高僧・行基によって摂播五泊ー河尻(尼崎)、大輪田(兵庫津)、魚住(明石)、韓(的形)、室津、の一つに定められた。
また、高倉天皇に従って厳島神社に参拝する平清盛が寄港し、賀茂神社に海路の無事を祈ったともいわれている。
讃岐に流される法然上人は、その往路と許されて帰りの復路の二度立ち寄っている。戦の途中の足利尊氏は、この町の見性寺で作戦を立て直している。
江戸時代になると、一六〇七年第一回の朝鮮通信使が来ている。姫路藩はここ室津で接待し、その設備(藩の公共投資)により室津は国内有数の港町として発展して行くのである。
一六三五年、参勤交代が制度化されると、九州、四国、中国地方の西国大名は海路を利用し、ここ室津(江戸中期までは明石海峡で遭難が多かった為)から陸路で江戸へ向ったのである。
単なる寄港地ではなく、乗船あるいは上陸地点である室津は、大名行列で大変な混雑ぶりとなった。小藩でも二〇〇名、大きな藩になると四〇〇人を数えたという。
港口番所(今の港湾事務所)も立派になり灯籠合も建てられた。武士だけでなく、干いわしなどを満載した北前船も続々入港していたという。
諸大名が宿泊する本陣が六軒、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋、揚げ屋、置屋など、軒をつらね、文字通り「室津千軒」のにぎわいであったという。
室津という港町との出会いが、井原西鶴、近松門左衛門、谷崎潤一郎と竹久夢二の小説の素材ともなったのである。
戦前、木村旅館に滞在した谷崎潤一郎は、「乱菊物語」を書き、同じく竹久夢二は木村旅館の女主人をモデルに「室津」を描き残している。
この町は、芸術家達に創作上のエネルギーを与えるところなのであろう。
今では、すっかり寂れた港町の雰囲気ではあるが、それがまた一層、アーティスト感覚を刺激しているとも言われている。
2023年8月30日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。