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旅のフィールドワーク
ペルー編

清水正弘

深呼吸出版



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目 次

インカ帝国とは

  インカの国名由来
  インカ帝国の成立
  帝国の滅亡
  インカ帝国の政治と社会

クスコについて
クスコの十二角の石積み
サクサイワマン遺跡(インティ・ライミ祭儀場)
アルマス広場

マチュピチュ村(アグアカリエンテス)と日本人(野口与吉)
マチュピチュ遺跡
ワイナピチュ
太陽の門・インティプンク

ナスカの地上絵
日秘文化会館・神内センター(日系ペルー人の憩いの場所)
首都リマの風情
パチャカマック遺跡(リマ郊外)


人々の表情アラカルテ

インカ帝国とは

インカの国名由来

インカとは、元来はクスコに住んでいた小さな部族の名称であった。その部族が中心となって後に大帝国が建国されたのである。当時皇帝の命令によって、インカと同じ言語を使用していたものを、すべて「インカ」とよぶことになったともいわれている。ところがスペイン人が侵入してきて、この意味をさらに拡大し、帝国そのもの、またはスペイン的でないものすべてを「インカ」とよんだのである。さらにまた、帝国の皇帝をも「インカ」とよぶようになった。これは部族の名称で、その族長の地位をあらわす、ヨーロッパの古い習慣(例えばスコットランドのキャンベル氏族の族長の地位をキャンベルとよんだ)を援用した結果であったといわれている。正式な帝国の名称は『タワンチン・スウユ』である。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、帝国を東西南北の四地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことによる国名であった。

インカ帝国の成立

アンデス世界では文字の記録がないので、その起源は定かではないが、神話から推察するとアンデス世界の大都市形成期のなかば、一二〇〇年頃に、ケチュア族の中のインカ部族が中央アンデスのクスコに地方的小国家をつくったと思われる。スペイン人の年代記作者の記録も矛盾することが多いが、それらを総合すると、初代のマンコ=カパックから十三人の皇帝が即位した。初代を除く十二人の皇帝は実在の人物のようであり、ここから逆算するとインカ帝国の成立は一二〇〇年ごろと推定されている。

アンデス世界の統一

二代から八代にわたる二〇〇余年のあいだは、帝国というよりも部族と呼んだ方がふさわしく、クスコを中心として数十キロ以内の諸部族と戦闘を交えていたにすぎない。ところが十五世紀の中ごろ、長年にわたる仇敵であった北方のチャンカ族と戦って勝利を収めると、インカ部族は急速に征服を開始、第九代のパチャクチ皇帝は在位三十三年間に帝国の版図を約一千倍に拡張した。第十一代のワイナ=カパックはさらに領土を拡張してアンデス世界の百万平方km、南北の距離は四千kmに及ぶ大帝国となった。

帝国の滅亡

ワイナ=カパックの死後、皇位継承をめぐって争いが起こった。皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となった。一五三二年、結局アタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣いだが、時を同じくしてスペインの征服者ピサロが北端のツンベスに上陸する。ピサロはわずかな部下を率いて進撃し、アタウワルパを欺して捕らえ殺害する。これによって一五三三年にインカ帝国は滅亡した。ペルー南部のアンデス山中、標高二五〇〇メートルの高地にあるマチュピチュの都市遺跡は、スペイン人侵略期の応急の避難所として築かれたものと考えられている。

インカ帝国の政治と社会

インカ帝国は宗教と政治が一体化しており、太陽信仰が国家の基本であり、皇帝は「太陽の子」または太陽の化身として統治するという「太陽の帝国」であった。皇帝を支える貴族層と太陽の神殿の儀礼を司る聖職者が存在した。大部分の国民は農民としてトウモロコシやジャガイモの栽培にあたり、重い賦役や兵役を負担した。国土は四つの地方にわかれ、それぞれ長官が置かれた。農民はアイユウという母系的な氏族集団であると同時に生活領域である集団に所属し、内婚制で維持される二~三の胞族(フラトリー)を構成していた。

経済は厳しい統制経済であり、人口や産業、税額や取引額はキープ(結縄)によって記録され、毛織物の原料であるヤーマの牧畜は公営で行われた。道路網の建設、灌漑施設、鉱山などの事業も公営で行われ、このようなインカの社会を「太陽の社会主義」と評した人もいる。インカ帝国の道路網 インカ帝国は広大な支配地を統治するために、アンデスの産地やアマゾンの密林をつらぬく王道である「インカの道」を建設した。王道は全長三万キロにも及び、クスコを中心として東西南北に向かう幹線を道路網が広がっていた。

スペイン人シエサ=デ=レオンの記録によれば、道はつねに掃除され石ころ一つ、雑草一つも見当たらなかったという。道は可能ならば限りなくまっすぐに、二つの地域を最短距離で結びつけるように設計され、王道に沿って移動する官僚や軍隊の休息のために「宿場=タンボ」が設けられた。さらに、律儀で効率的な「飛脚=チャスキ」のシステムが敷かれていた。沿道半レグアおきに二人のチャスキが待機し、情報は猛烈なスピードで駆け抜ける彼らによって伝えられた。スペイン人記録者たちは、彼らの踏破力について一日一四〇km、あるいは二五〇kmと、唖然とするような数字を伝えている。

※ 参考文献: 泉靖一『インカ帝国』 岩波新書
        網野徹哉他『ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論社

クスコについて

クスコ市は海抜三四〇〇メートルにあり、南米ペルー中央アンデス山脈の中心部、いくつかの川が流れ込む肥沃な沖積渓谷に位置している。十五世紀、インカ・パチャクテク(ティト・クシ・インカ・ユパンキ)の統治下で、この都市は三千年以上にわたるインカ占領以前のプロセスを経て再設計および改造され、タワンティンスユ・インカ帝国の首都となった。インカ帝国の都市は、完全に分散され、組織化された、明確な宗教機能と行政機能を備えた複雑な都市中心として開発されたのである。宗教施設や政府の建物には王族専用の住居が併設され、前例のない象徴的な都市複合体を形成したのである。太陽の神殿やコリカンチャ、アクラワシ、サントゥルカンチャなどは、並外れた美的および構造的特性を備えた石造りの技術を示している。

十六世紀のスペインの征服により、インカ帝国都市クスコの都市構造は保存され、寺院、修道院、などがインカ都市上に建設されている。これらは主にバロック様式であり、現地での適応が加えられており、さまざまな時代や文化の初期の並置と融合、そして都市の歴史的連続性を表す、ユニークで質の高い混合構成が生み出されている。この都市の顕著な混合主義は、その物理的構造だけでなく、芸術的表現においても明らかである。ここは、新大陸における宗教芸術の創造と生産における、最も重要な中心地の一つとなったのである。またその混合主義は、その住民の習慣や伝統にとっても重要であり、その多くは今でも祖先の伝統を保っている。

その複雑な過去から、重要な出来事と美しい伝説が織りなすこの都市は、驚くべき記念碑的なアンサンブルと一貫性を保持しており、今日ではインカの首都と植民地時代の都市が見事に融合したものとなっているのである。前者のうち、特に都市計画面では、細心の注意を払って切られた花崗岩または安山岩の壁、壁内を走る直線的な道路、太陽神殿の遺跡など、印象的な痕跡が保存されている。植民地時代の都市には、新しく白塗りされたずんぐりした家々、宮殿、そしてプラテレスコ様式、ムデハル様式、またはチュリゲレスコ様式とインカの伝統様式との見事な融合を実現した素晴らしいバロック様式の教会が残っている。

クスコの十二角の石積み

アンデス高原地帯で栄えたインカ帝国の遺跡では、カミソリの刃すら通さないと言われるほどぴったりと組み合わされた石組みが目を見張る。特に興味深い点は隙間無く組み合わされた石組みが多角形や曲面をも駆使し、複雑に積み上げられている点である。鉄や車輪、滑車の技術を知らず、馬やロバといった労働に適した動物も居なかった(リャマなどの駱駝科の動物が荷物の運搬などに用いられていた)インカ帝国で、どの様な方法で、どの様な思いで複雑かつ手間のかかる石組みを造ったのか疑問である。

それらの石組み(石垣など)は、糊材でくっつけて隙間を埋めているのではなく、石と石とが完全に隙間なく密着しているのである。エジプトのクフ王のピラミッドなどは、矩形に切り出した石灰岩を積んでいるだけである。それに対して、インカ帝国の石組みは、閃緑岩と言われる硬度が高く、風化に強い素材石なのである。深成岩である閃緑岩は固く、大量の石材を必要とする石組みに使うには、切り出すのも加工するのも大変な作業であったはず。

その中でも、クスコの街中にある十二角の石には驚きを隠せないだろう。この十二角の石積みは、アトゥンルミヨク通りにあり、ここの壁は大小様々な形の石がパズルのようにぴったりと隙間なく組み合わされている。その中でももっとも角が多く複雑な形をしているのが『十二角の石』である。この十二角の石がある通りの角を曲がるとインカロカ通りという小さな通りにでる。

そこにも同じように色々な形の石が組み合わさった壁が続いている。ここの壁はにはよく見ると、プーマと蛇が隠れているのである。元々はコンドルもいたようだが、壁の上の方は崩されてしまい今は別の石が置かれて修復されておりコンドルは足のみが残っている。これらコンドル・プーマ・蛇などの生物は、インカ文明では聖なる動物とされていた代表的なものである。

サクサイワマン遺跡(インティ・ライミ祭儀場)

インカ帝国の首都クスコで行われていたとされる、太陽神インティを祀る「インティ・ライミ」。北半球の夏至は南半球では冬至、一年で一番昼が短い日でとなる。これから日に日にのびていく日の長さに、来年の豊作を願う意味がこの祭儀にはある。始まりは一四一二年と伝えられている。当時のインカの皇帝パチャクテクによって執り行われたが、十六世紀にインカ帝国が崩壊した後、一時的に中断されていた。その後一九四四年に歴史物語の演劇として復活し、現在では実際にクスコの街や周縁の場所を使って大々的に行われている。

まず、クスコの街の中心「アルマス広場」で踊りや歌の奉納パレードが行われる。太陽神の子であり祭りの司祭でもあるインカ帝国皇帝に続き、僧や神官、貴族が入場した後、インカの血をひくとされる各部族たちが民族衣装をまとって登場する。そして太鼓や笛に合わせて歌ったり踊ったり、ときに雄たけびを上げながら行進していくのである。「アルマス広場」でのパレードが終わると、インティ・ライミのクライマックス舞台である「サクサイワマン遺跡」に祭儀場は移っていく。ここでもまず、クスコの市旗にもなっている七色のインカの旗と各州を表す赤色、白色、黄色、緑色と四色の旗をなびかせながら、笛と太鼓のリズムに合わせた歌や踊りが披露されるのである。最後には、インカ皇帝による「生贄の儀式」であり、中央に設置された舞台で、事前に用意されたリャマの心臓を太陽神インティに捧げるのである。

アルマス広場

ペルーの世界遺産「クスコ市街」にあるアルマス広場にはインカ帝国時代、「ワカイパタ」と「クシパタ」という二つの広場があった。ワカイパタでは、太陽の祭や豊穣を願う儀式などが毎月のように盛大に開催されていた。広場には色鮮やかな衣に眩い金の衣装を身に着けた皇族や貴族が集まり、歴代の皇帝のミイラも並んだという。皇帝は即位と同時に新宮殿を建造したため、広場周辺には歴代インカ皇帝の宮殿が建ち並んでいた。そしてどの宮殿にも、数千人を収容する大広間や壁一面が黄金で飾られた居室などがあったといわれている。

帝国の繁栄ぶりを聞いたスペイン人のフランシスコ・ピサロは、一五三二年、黄金を夢みて帝国北部に到着したのである。その翌年にはクスコに入城している。広場を囲う壮麗な宮殿群にあった金銀財宝を奪い、さらに財宝の隠し場所があると知ると、多くの建物を破壊したのである。帝国全土から略奪した金は、この時約六トンにも及んだと言われている。その後、スペイン人は布教という名目のもと、宮殿や神殿のあとにキリスト教の聖堂や修道院を建てていったのである。広場に面した大聖堂や、バロック様式のラ・コンパーニア聖堂は、宮殿を壊して建てられたものである。かつて聖なる儀式が行われていた広場は今、キリスト教徒となったクスコの人々の信仰の中心地となっているのである。

ヨーロッパを中心にアメリカ・アフリカ・アジアに領地を持ち、「太陽の沈まぬ帝国」を築いたスペイン帝国はインカ帝国を滅ぼし、その石組や平面プランを土台に町を再建し、クスコをペルー副王領の首都として整備したのである。現在見られるクスコの街並みはこれらふたつの帝国文化が融合したもので、一粒で二度楽しめる多彩な見どころが魅力でもある。また、征服・被征服の悲しい歴史はあるとはいえ、このような歴史遺産的町並みは、世界的にも稀なものであろう。

夜の広場界隈

マチュピチュ村(アグアカリエンテス)と日本人(野口与吉)

マチュピチュ遺跡の麓にあるマチュピチュ村(アグアス・カリエンテス)の初代行政官(村長のような職務)はなんと日本人なのである。野内与吉(福島県安達郡大玉村出身)は、裕福な農家に生まれるも海外で成功したいという夢を抱いて、一九一七年(大正六年)に契約移民としてペルーへ渡った。農園で働いたが一年で辞め、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪する。一九二三年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ~サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務し、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わった。彼が従事した鉄道は、一九二九年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路として完成している。

その後与吉は、結婚した妻(マリア・ポルティージョ)とマチュピチュ村に住むこととなる。手先は器用だった与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り、村に電気をもたらした。村を住みやすくするため木を伐採していた際に、温泉が湧いたという証言もある。一九三五年には、この村で初の本格的木造建築である「ホテル・ノウチ」を建てた。建物の一部には線路のレールが利用され、床は当時では高価だった木材を用い、三階建てで二十一部屋を持つ立派なホテルであった。

与吉は自分のホテルを村のために提供し、一階は村の郵便局や交番として無償で貸していたという。また、後には二階も村長室や裁判所として使用されていたようだ。ホテル・ノウチが村の中心となってマチュピチュ村は発展していった。与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地のガイドもしていた。のちにアンデス文明研究家となる天野芳太郎がマチュピチュ遺跡を訪問した際に、マチュピチュ遺跡を隅々まで知り尽くしていた与吉が同行し案内したという。

村人に信頼されていた与吉は人望を集め、一九三九~一九四一年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務めた。マチュピチュ村が正式に村になるのは一九四一年のことで、与吉はその直前に村の実質的なトップについたことになる。一九四八年に与吉はマチュピチュ村村長に任命されている。

マチュピチュ遺跡行きのバス乗り場
アグアス・カリエンテス鉄道駅
夜のアグアス・カリエンテス

マチュピチュ遺跡

ペルーのクスコ地方のアンデス山中標高二五〇〇ⅿのところにあるインカ帝国の都市遺跡。一九一一年にアメリカ人のビンガムによって発見され、世界に知られた。おそらく平時の都市ではなく、スペイン人の侵入の時期に避難地域としてつくられたのではないかと思われる。それにしても急峻な山地に、神殿や住居、墓域などが設けられ、周辺には多くの段々畑が見られ、インカの技術の高さを知ることができる。スペイン人の侵入を免れた後に放置されたため、十五~十六世紀の建造当時のそのままで伝えられ、世界遺産となっている。

総面積五キロ平方にわたる遺跡には神殿、住居、段々畑や灌漑施設の跡がほぼ完全な形で残されており、人々の生活が感じられる。だが決して住みやすいとは言えない高地に、なぜ要塞都市がつくられたのか。その理由は諸説あるが、いまだ解明されていない。インカ帝国は文字をもっていなかったため、その歴史は今でも多くの謎に包まれている。古くからのアンデス文明を受け継ぎ、彫金・織物・土器など独特の文化が栄えた。

なかでも石の加工・建築技術が特徴的であり、インカ帝国の首都クスコは、精巧な石垣の土台の上に宮殿や神殿が建てられた。石垣の石と石には隙間がなく、剃刀も通さない精度で密着している。しかしインカ時代の多くの建造物は、十六世紀のスペイン侵略の際に帝国の終わりとともに破壊されてしまった。マチュ・ピチュは標高二四〇〇mを超える尾根に築かれたため侵入を免れ、その石積み技術の高さを今に伝えている。

マチュ・ピチュの水路は石でつくられ、豊富な水が流れていた。しかし険しい山にポンプを使わずに、どのように水を引いたのか。実はマチュ・ピチュ周辺は雨が多く、水に恵まれていた。そのため遺跡から少し離れた森の中に湧き水があり、水源を確保できたのだ。水路は山から引いた水が斜面を下っていくように緻密に計算され、畑や居住地など広範囲に水を供給。山の斜面に沿ってつくられた段々畑では、届けられた水を利用してジャガイモやトウモロコシなどを栽培していた。また生活や儀礼のための水場が十六ケ所も設置されており、インカの人々の優れた利水技術が見受けられる。マチュ・ピチュに人々が暮らしたのは約百年であるが、水路は五百年経った現在も機能している。

ワイナピチュ

ワイナピチュとは、ケチュア語で「若い峰」という意味がある。一方でマチュピチュとは、「老いた峰」とも言われている。マチュピチュ遺跡に入域すると、前方に砲弾の形をした鋭角の峰が眼前に迫ってくる。その峰がワイナピチュである。本来のマチュピチュ遺跡は平たい場所に位置しており、その部分を「老いている」とみていたのであろうか。平たいマチュピチュ遺跡に比して、このワイナピチュの屹立感は「若い」と素直に感じられていたのだろう。

ワイナピチュは一年中訪れることができるが、人数制限がもうけられており、二〇一一年年七月からは、開門の七時から十時までに二百人、午後は十五時までに二百人までと制限されている。それだけ、鋭角に抉られた登山道は密集すると大変危険度が高くなるのである。また、ルートも一方通行とされており、特に下山時には高所恐怖症者にはハードルが高くなる。山頂までの道中には手すりやロープが設置されており、十二歳以上の人であれば特別許可取得の上で登ることができる。登頂には片道五十分ほどかかる。

ワイナピチュへのアプローチ道
ワイナピチュからの下り道

太陽の門・インティプンク

この門は、クスコからマチュピチュに至る道・インカトレイル最後のゲートである。このゲートをくぐるとマチュピチュが眼下に展開するのである。インカ帝国は「インカ道」とも呼ばれる交通網を国土全域に張り巡らしていたのである。その範囲は現在のペルーを含め六カ国に跨り、太平洋岸からアンデスの高地を越え、アマゾンの奥地にまで至る、総延長五万㌔の世界最大規模の道路網であった。場所によってその構造や形状は様々であり、街なかの細い路地から、砂漠を抜ける幅広の道路、急峻な山道に至るまで多様な姿を見せていた。

現在のペルー、ボリビア、エクアドル等に跨って存在したインカ帝国は、数多くの遺構を残している。幻の天空都市とも呼ばれるマチュピチュをはじめ、古都クスコなどが世界遺産に数多く登録されている。インカ道は二〇一四年にペルーで十二番目の世界遺産に選ばれており、王の道を意味し、かつての現地語であるケチュア語の呼称「カパック・ニャン」で登録されている。この道は用途に応じて「カパック・ニャン(王の道)」「ハトゥン・ニャン(広い道)」「フチュイ・ニャン(狭い道)」「ルナ・ニャン(庶民の道)」の四つに区分されていたと言われる。

世界遺産として登録されているカパック・ニャンはこれらの総称で、「広義」のカパック・ニャンである。このランク分けは、幹線と枝線としての区分だけでなく、利用上も大きな意味を持っており、狭義のカパック・ニャンは、統治や軍事などの公用で主に利用される道であり、一般に広く利用できる道ではなかった。王の道と呼ばれる由縁である。ちなみに「インカ」もケチュア語だが、これはスペイン征服以降に付けられた国名であり、他にも「タワンティスーユ」という呼称がある。これは「四つの地方」という意味であり、帝国が四つの地方を統一していたことを示している。

この四つの地方を交差しながら結んでいたのが、「インカ道」である。マチュピチュ遺跡の近くにある『太陽の門・インティプンク』は、そのインカ道に設営された門(インカ・ゲート)の一つなのである。マチュピチュには複数のカパック・ニャンが通り、現在一部がマチュピチュに至るトレッキングコースとして旅行者に利用されている。これらは広義のカパック・ニャンであり、ランクとしては狭義のカパック・ニャンの下のハトゥン・ニャンにあたる。そのうちインカ橋と通称される箇所に至る一本は、まさに山の中腹の断崖絶壁に整備された道であり、一見するだけで当時の工事の厳しさを想像することができる。この道では、基礎部分は自然の山肌を利用しており、自然石の上に加工した石材を積み上げて絶壁での道路空間を確保している。

この自然石と加工した石材を組み合わせる技法は、マチュピチュの遺跡の中やアンデネス(段々畑)でも使われており、インカの石加工の技術があってこその道であると言える。この断崖の道は、山の中腹を同程度の高さで貫いて造られているため、山を上り下りして越えるよりもはるかに通行は容易だったはずである。マチュピチュは山の上につくられた都市であり、今では専用バスでつづら折りの山道を登らないと辿りつけない。しかし山中に造られた街道から来る人は、街より高い位置にある入口から入ることになる。往時の帝国の人々が見たマチュピチュは山の上に見上げる都市ではなく、カパック・ニャンから眼下に見渡す都市だったのだ。

太陽の門から見るマチュピチュ遺跡
インカゲートへの道

ナスカの地上絵

ナスカの地上絵は岩石砂漠の明るい色の台地に、黒い小石を並べて描かれている。多くの線は平行だが一部のものはいろいろ角度を変えて交差し、放射線状や、動物の像が描かれている。マリヤ・レーチェという長い間その謎に取り組んできた学者の説は、二十三本の放射線状の二本は夏至の線であり、一本は秋春分の線であるという。大部分の線の長さは一八二mまたはその半分、ならびに四分の一である。別の単位は二十六ⅿで、これらはナスカの人びとが用いた距離の単位であろうといわれる。ナスカの地上絵は有名だが、他にも「柱の場所」または木のストーンヘンジといわれる謎がある。これはナスカ川の谷の中心部にあり、砂交じりの平らな土地に木の幹が一ヶ所に固まって立てられている。大部分が二mおきに十二列に並んでいる。そこからは墳墓は見つかっておらず、何の遺跡か謎である。

それらの地上絵が誰によって何のために描かれたかなど、長年、謎に包まれてきたのである。ナスカ台地があまりにも広大過ぎて地上絵の分布状況すら、十分に把握されていなかったのである。事態が大きく動いたのは二〇〇四年、文化人類学・アンデス考古学が専門の山形大学の坂井正人教授は、地理学、心理学、情報科学の異分野学者とともに「ナスカ地上絵プロジェクトチーム」を結成し、学際的調査に乗り出したのである。人工衛星画像の解析、現地における地道な踏査、データの収集や分析を重ね、二〇〇六年には新しい動物の地上絵を発見したことが大きな話題になった。

その後もナスカ台地とその周辺部で学術研究と保護活動を展開し、その実績が評価され、山形大学はナスカ台地での学術調査を、ペルー文化省から正式に許可された世界で唯一の研究チームとなっているのである。二〇一二年にはナスカ市に「山形大学ナスカ研究所」を開所し、さらに二〇一五年はペルー文化省とナスカの地上絵に関する学術協力と保護等を目的とする「特別協定書」を締結している。

ナスカの地上絵は、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた平坦な砂漠の地表面に、砂利の色分けによって描かれた幾何学図形や動植物の絵の総称であり、古代ナスカ文明の遺産である。

地上絵のフライト前

日秘文化会館・神内センター(日系ペルー人の憩いの場所)

日秘文化会館・神内センター Centro Cultural Peruano Japones の場所は、ペルー・リマのヘスス・マリアという地区にある。首都リマで一九六七年、日本語や漫画、生け花、茶道、武道などが学べるカルチャーセンターとして日秘文化会館はオープンしている。近年は、日本文化に関するコンサートや演劇、映画などさまざまなイベントを開催している。日本に関心を抱く多くの市民が当会館を訪れてもいる。そうしたことから、ペルーで日本文化の発信地的な存在にもなっているのである。建物の一階には、気軽に立ち寄れる和食レストランもあり、また日本庭園や由緒ある裏千家の茶室もある。ペルー政府の援助が得られなくなった際に、財団法人・日本国際協力財団の理事長であった、陣内良一氏が資金面で援助されたことにより、神内センターと呼ばれるようになった。







首都リマの風情

パチャカマック遺跡(リマ郊外)

パチャカマック遺跡は首都圏リマの中心より約四〇キロ南東のルリン川の谷にある約六〇〇ヘクタールの区域である。紀元二〇〇年頃より崇められていた、この世の創造神パチャカマック(Pacha Kamaq)にちなんで命名されている。

この場所はその後、スペインの侵略まで約一三〇〇年にわたり栄えている。現代、当地においてペルー国政府文化省パチャカマック遺跡博物館が、考古学的遺産の研究と保全を行ない、また、知識の普及に貢献する活動を続けている。

旅のフィールドワーク・ペルー編

2023年9月29日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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