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モンゴルと高麗
朝鮮半島にあった高麗国は、隣に出現した強国であるモンゴル帝国からの圧迫に苦しめられており、一二一八年には同盟を組むものの、モンゴル帝国の横暴さに我慢できず、一二二三年にはその盟約を一方的に破棄するのであった。それ以来、モンゴル帝国の高麗侵攻が行われ、一二三一年にはモンゴルは高麗の都・開京を攻め、高麗の王・高宗は三〇〇年来の都を放棄し、江華島へ遷都しモンゴルへの抵抗を展開したのである。
それ以降のモンゴルの高麗侵攻は、数次にわたり執拗に行われ、一二五四年に高宗はついに江華島を出てモンゴルとの交渉を行い、王子を人質として差し出したのである。ここで一旦モンゴル軍は撤収したが、その後すぐに舞い戻ってきて容赦なく半島各地を蹂躙し、男女二十万六八〇〇人を捕らえ、殺害された人びとも多数に及んだのである。
高麗はなおも完全に屈服することはなかったが、その後も侵略を繰り返され、ついに一二五九年に降伏した。この後、元寇が始まり、その際の先兵として高麗軍が起用され、対馬や壱岐で残虐な行為に及んだが、その前史として高麗がモンゴル帝国から酷い仕打ちを受けていたことをまずは知る必要があるだろう。
モンゴル帝国の核となっているモンゴル人は人口は少なかったが戦闘力は極めて高く、少数派の人びとが大多数の中国人や朝鮮人を支配するには、徹底的に恐怖心を与えておくのが得策だったと言われている。高麗を屈服させたモンゴル帝国の四代ムンケは、高麗が降伏した一二五九年に崩じ、その弟で漢地大総督として中国の支配を任されていたフビライが翌一二六〇年に「ハン」を称し独立したのである。
フビライは一転して高麗に対して宥和政策をとった。フビライは東海に浮かぶ日本列島の侵略を目論んでいたため、高麗の力を利用したかったのだ。しかし、フビライとしては、日本の前に南宋を片付けなければならない。フビライは、南宋を攻めつつ日本に使者を送り、戦わずして日本を手中に収めようと画策した。一二六六年から一二七〇年までの間に、日本に対して五回にわたり文書にて降伏を促している。
その頃の鎌倉幕府の執権は北条政村で、次代の執権候補である若い北条時宗が連署(れんしょ)であったが、文永五年(一二六八)三月五日には時宗が第八代執権に就任している。十八歳の若きリーダーは、かつて七世紀に白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅に敗れた以来最大の国難に立ち向かうこととなるのである。
フビライは、南宋をほぼ壊滅状態にさせつつ、日本侵攻の準備を着々と進めたが、半島から対馬に侵攻する前に片付けておかなければならない勢力が存在した。降伏した高麗の中にもモンゴル帝国に対抗してゲリラ活動を行う勢力が存在し、済州島に彼らの根拠地があったため、まずは済州島を落とさなければならない。済州島の勢力は、日本にも共同戦線の提携を求める使者を発していた。そして、一二七三年、済州島が陥落。その翌年の文永四年(一二七四)に「文永の役」が勃発するのである。
元寇とは、元のフビライが行った鎌倉時代の日本への遠征のことを意味する。日本では蒙古襲来または元寇、一二七四年の第一回を文永の役、一二八一年の第二回を弘安の役といっている。元の日本征服は失敗したが、鎌倉幕府を動揺させ、幕府倒壊の遠因となったといわれている。
当時の日本は鎌倉幕府の北条氏による執権政治の時代で、執権・北条時宗が御家人を異国警固番役などで動員し、元軍を撃退したが、その多大な負担は幕府衰亡の一因となったのである。また、このモンゴルの襲来として日本人の民族意識を後に高めることとにもなるいのである。
日本への来襲は、元にとっては広範な元の遠征活動の一環であり、領土の拡大と同時に、東南アジア諸地域への進出と同じく海上交易圏の拡大を意図したものであった。日本遠征はその後、再々征も立案されたが、フビライ政権に対する内乱であるハイドゥの乱などが起こり、実現しなかったのである。
第一回遠征の世界情勢
フビライ=ハンは高麗を服属させた後、一二六六年から日本に対してたびたび国書を送り修好を求めていた。当時南宋を征討するためには高麗・日本とは友好関係にあることを要したためと思われる。しかし、日本の鎌倉幕府は元の文書を非礼であるとしてその要求を無視したのである。朝鮮での反モンゴルの武人の抵抗である三別抄の乱が一二七三年に鎮圧されると、フビライは武力による日本遠征に踏み切ったのである。
一二七四(文永十一)年十月、モンゴル・高麗・漢人の混成二万六千の兵員を九百艘の軍船に分乗させ、対馬・壱岐を侵し、博多湾に上陸したが、御家人を動員した武士の抵抗があり、戦闘一日で撤退し、第一回の遠征は失敗したのである。これを文永の役と呼んでいる。
第一回遠征で元軍がすぐに撤退した理由は不明な点が多いが、フビライは翌年、改めて使節を日本に派遣し、降伏を勧告している。鎌倉幕府執権の北条時宗は交渉に応じず元使を斬ったのである。幕府では高麗に対する遠征軍派遣「異国征伐」という積極策と、西日本沿岸での防塁壁「石築地」の建設という防御策が検討されたが、前者は実行できず、後者の防備重視策に移っていくのである。
※ 一二七五(建治元)年、降伏勧告に派遣された元の使節・杜世忠(とせいちゅう)以下五名は、上陸と共に捕らえられ、鎌倉に送られて龍口刑場で斬首された。その五人の供養のために建てられた五輪塔が近くの常立寺(じょうりゅうじ)に残されていて、元使塚といわれている。二〇〇七年、朝青龍を初めとするモンゴル出身の力士が参拝して以来、毎年の大相撲藤沢巡業の時に、五輪塔にはモンゴルの英雄のしるしである青い布が掛けられるようになった。もっとも使節の五人のうち副使の何文著は漢人であり、二人は通訳の高麗人であるので五人ともモンゴル人というわけではない。
第二回遠征に至る背景
第一回の日本遠征が失敗に終わった二年後の一二七六年、モンゴル軍は臨安(杭州)に無血入城し、南宋は実質的に滅亡した。フビライは江南を支配すると泉州を拠点とした蒲寿庚などのムスリム商人船団を勢力下に納め、強大な海軍力を手に入れ江南軍に編入した。海軍力を獲得したフビライは、一二八一(弘安四)年に第二回の日本遠征を実行し、高麗からの東路軍四万の他に、明州(寧波)から十万の江南軍が派遣されたのである。
同年六月上旬、東路軍が博多湾に上陸、日本側は石塁を築いて防戦し、小舟で反撃に出た。七月には江南軍も来寇し、約一ヶ月戦闘が続いたが、暴風雨によって元軍が大被害を受け、撤退している。元軍十万、高麗軍七千が戦死または溺死し、二~三万人が捕虜となったという。
※ 七月二十七日には、元軍は鷹島を占領、博多湾へ殺到する機をうかがっていた。三十日夜から同地においては、ものすごい暴風雨となり、元軍の兵船は大部分が沈没し、多くの将兵が溺死したのである。とくに江南軍の艦船は、中国人の工匠が手を抜いたためか出来が悪く多くが沈没している。日本軍は鷹島などの島々や海岸にいた残敵に掃討戦を展開し、多数の元軍を殺傷させ、二~三万の捕虜を捕らえた。彼らは博多に連行され、このうち蒙古人・高麗人・漢人はみな殺され、新附軍(もと宋の支配下の江南の中国人)は唐人だといって殺されずに済んでいる
神風が吹くという伝説
元寇(蒙古襲来)は二度とも大暴風雨によって元軍が被害受けたのが、その撤退の理由とされ、当時は朝廷以下の神仏への祈祷が効果があったと喧伝され、後には「神国日本」を護る「神風」であると認識されるようになっていく。しかし、第一回の文永の役で暴風雨があったことは根拠が薄いともいわれている。後の調査によると、元寇における元軍の敗退の主原因は、元軍と高麗軍などの内部対立など攻撃側の問題であったと類推されてもいる。
未遂となった第三回遠征
一二八三年、フビライは日本再々遠征を計画したが、江南の民衆に激しい反発をうけ、その鎮圧に手間取り、並行していたベトナム遠征に力点を移すようになった。フビライはなおも日本遠征をあきらめなかったが中国民衆の反発も根強く、また一方でのベトナム遠征も抵抗を受けていた。
そのような中、礼部尚書劉宣は、日本への出兵を再考すべきであるとの意見を世祖に提出した。世祖もこれには反対できず、一二八六年の正月、「日本は未だかつて相犯さず。いま交趾は辺を犯す。宜しく日本をおきて交趾を事とすべし。」として日本遠征を中止した。この知らせが伝わると中国の民衆はよろこんだといわれている。
そのころ、フビライ政権を支えていた東方三王家(チンギス=ハンの兄弟の子孫)の一つ、オッチギン家のナヤンが反乱を起こしたため、日本遠征のために準備していた軍団もその鎮圧に向けなければならなくなった。前後五年に及んだこの大反乱があったことが、フビライが第三回の日本遠征を実行できなかった唯一の理由である。
この反乱が収束すると、フビライはさっそく一二九一年に日本へ使者を送っている。しかしその三年後の一二九四年にフビライは死去し、日本遠征は見送られた。その後は、ハイドゥの乱がモンゴルの中心に迫ったため、結局不可能になった。
元寇の捉え方
日本史の側からだけ見ていると、蒙古襲来は唐突で、しかも二度にわたって暴風のために失敗した点が強調されると、突発的な出来事という印象を受ける。さらにこれを「国難」ととらえ「神風によって守られた神国日本」という、いびつな理解に陥りやすい。しかし、世界史を学ぶことによって、モンゴル帝国が覇権を及ぼそうとしたのは日本だけではなく、元の遠征活動の一環であったこと、また蒙古襲来と言ってもその軍隊の実態は、南宋人・高麗人が多数動員されていたことなどがみえてくる。
元寇は、十三世紀の国際情勢という世界史の視野で見ていくべきであろう。特に元のベトナム遠征では、チャム人の国であるチャンパーが一二八一年の遠征軍を撃退し、さらに再来襲した元軍は暴風のために撤退するという、元寇と同じような経過となっている。また、日本史の側からも、北条時宗以下の鎌倉武士達は「国家の危機」と理解して戦ったのではなく、御恩と奉公という封建的主従関係の枠内で結束した戦いだったという指摘もある。北条時宗を「日本の国難を救った救国の英雄」と見るのは、本人の意識とはだいぶ異なるようだ。
フビライがハンの位に就いた一二六〇年、日本では日蓮が『立正安国論』を著し、幕府に提出した。そのころ日本では大地震や風水害が相次ぎ、飢饉も起こっていた。日蓮は薬師経にいう、人衆疾疫・他国侵逼・自界叛逆・星宿変怪・日月薄蝕・非時風雨・過時小雨の七難のうち、五難はすでに起きてしまったが、「他国侵逼」つまり外国が攻撃してくる国難、「自界叛逆」つまり国内に反乱が起きる国難もそのうちに起こるだろうと予言した。一二六八年にフビライの国書が鎌倉に届いて幕府の内外が恐慌に陥ると、日蓮はこれぞ我が予言が的中したことだと執権時宗に訴え、さらに建長寺以下の鎌倉の主要寺院に対して、この災難にどう対処すべきか論争を挑んだのだった。
こうして日蓮と他宗派の軋轢は強くなり、一二七一年に佐渡流罪とされる。一二七四年二月に許されて鎌倉に戻り、再び時宗に諫言したが幕府の容れるところとならず、日蓮は絶望して鎌倉から離れ、身延山に引きこもった。その年十月、ついに元寇が起こるのである。
文永十一(一二七四)年十月三日、高麗を出発した二万五千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた九百隻の船団は、十月五日に対馬を襲うと、十四日の午後四時頃に壱岐へと侵攻してきたのである。夕方、島の北西部にある浦海(うろみ)、馬場先(ばばさき)、天ヶ原(あまがはら)の海岸から上陸している。
文永の役で元軍を迎え撃ったのが、壱岐の守護代を務めていた平景隆(たいらのかげたか)であった。景隆は居城である樋詰城(ひのつめじょう)からおよそ百騎の家臣を従えて出陣すると、庄の三郎ヶ城前の唐人原(とうじんばる)で元軍と激突したのである。
約四百人の元軍と対峙した景隆らは多勢に無勢もあって退却を余儀なくされ、樋詰城まで引き揚げたが、翌十五日には早朝から元軍に取り囲まれて総攻撃を受け全滅している。
壱岐に上陸した元軍は、武士だけでなく住民も見つけ次第殺している。赤子は股から引き裂かれ、男性は耳や鼻を削ぎ落とし、もがき苦しむ様子を楽しんだ後に斬り殺されたと言われている。
女性は掌に穴を開けられ、綱を通し引きずり回した後、軍船の船べりに結び付けて溺死させられるなど、殺りくの限りを尽したと伝えられている。
元軍が去った後の島には、死体が山のように積み重なり、生き残った人々は亡骸を集めて埋葬し、塚を作ったという。塚はあまりに多くの遺体を埋めたことから「千人塚」と呼ばれ、文永の役で元軍が侵攻したといわれる勝本町新城には、その遺構が今も大切に保存されている。
壱岐を攻め落とした元軍は、文永十一(一二七四)年十月十九日、博多湾へ侵攻を始めたのであろう。すでに対馬と壱岐が陥落したことを知らされていた本土の御家人たちは、それぞれの陣地で守りについていたが、元軍が上陸を始めると現在の福岡市赤坂付近で激戦が繰り広げられ、苦戦を強いられたのである。
苦戦した理由については諸説あるが、果敢に一騎打ちを挑む日本の武士たちに対して、元軍はドラや太鼓を合図に集団で攻めかかる戦法であったことが挙げられている。元軍が用いた短弓が、日本の弓矢のおよそ二倍の射程距離があり、その上その矢尻には毒が塗ってあったこと。“てつはう”と呼ばれる炸裂弾を使い、日本の武士たちが乗る馬を驚かせ士気を混乱させたことなども挙げられている。
対する日本の武士たちも、大宰府守護(防衛軍司令官)の少弐景資(しょうにかげすけ)を中心に善戦したのである。元軍ナンバーツーの副司令官に重症を負わせたのが幸いしたのか、十月二十一日になると元軍は忽然と姿を消し、立ち去っていったのである。その後、博多湾から引き揚げた元軍を暴風雨が襲い、船の大半は沈没したといわれている。
文永の役の翌年、日本を属国化することを諦めない元の皇帝・フビライは、再び使者を遣わせたのであるが、執権・北条時宗は毅然とした態度を示すべく、この使者を斬り捨ててしまうのである。そして同時に、鎌倉幕府は元軍の二度目の侵攻に備えて、博多湾沿岸に石の防塁を築いていくのである。
鷹島は、日本軍(鎌倉幕府軍)と元軍との戦いの激戦場であった地といわれている。その史実を証明するように、島の周囲、特に南側の沖合いには沈没した元軍の艦船が今なお多く眠っており、元寇から七百年以上経っても、遺物の引き揚げが相次いでいる。
その歴史的重要性から水中考古学の貴重な資源を有する島としても注目されており、島内各地には元寇の歴史を物語る史跡が点在している。鷹島は「弘安の役」で、四四〇〇隻十四万人の元の大船団が、後に“神風”と呼ばれる暴風雨で壊滅した場所である。
島内にある各遺跡での発掘調査は一九八〇年から四十年以上継続的に実施されている。発掘研究チームは二〇一一年、十五年に元軍の沈没船二隻を発見している。一隻目の沈没船が見つかった海域約三十八万平方メートルは、「鷹島神崎遺跡」として水中遺跡で初めて国史跡に指定されてもいる。
主な発掘品の多くは、松浦市立埋蔵文化財センター内にて展示されており、一般者にもわかりやすくガイダンス表示がされている。
元寇の役における激戦地であった歴史を生かし、「元寇ロマンの島」というキャッチフレーズで島の活性化を図る目的で開設されたが、現在は閉館になっている。平成三年にモンゴルのホジルト市と姉妹都市を締結し、平成五年には(株)鷹島公社を経営主体とするモンゴル村をオープンさせた。モンゴルから移動式住居ゲルを輸入し、草スキー場、レストハウス等を整備した。当初、住民はモンゴルに関心を示さなかったが、八百名を越える町民をモンゴルに派遣し、交流促進をしたりもしていた。
鷹島周辺の海にて、一九八一年七月から海底調査が行われ、沈没船などから数多くの元寇遺物が発見されている。その遺物の多くがこのセンター内にある。ガイダンス施設では、海底から発見された貴重な遺物、その他考古学・民俗学の資料を収集・展示している。また、国史跡鷹島神崎遺跡及び鷹島海底遺跡の調査、研究、保存及び活用に取り組む松浦市立水中考古学研究センターが併設されている。
主な展示品としては、鷹島歴史民俗資料館 管軍総把印、元寇資料:青銅印(管軍総把印)、てつはう(陶製弾)、モンゴル剣、大型木製碇、つぼ、鉄製品などなどである。
日本で唯一の山名である『蒙古山』。この山は、福岡県の糸島半島の突端部にある。二〇二二年は、日本・モンゴル外交関係樹立五十周年であった。
この標高一五八メートルの小さな山が注目されたのである。この年の大相撲秋場所が終わって二日後に、蒙古山にて開催された行事について読売新聞が報じている。
※ 読売新聞オンラインから。
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福岡市西区の蒙古山(一五八メートル)山頂に「元寇(げんこう)」の犠牲者を悼む石碑が再建され、完成式典が十一月二十九日に行われた。今年は日本とモンゴルの外交樹立五十周年にあたり、関係者は「両国の絆を深める場所になってほしい」と期待を寄せる。宮城野親方(元・白鵬)も参加しても記念石碑除幕式である。
石碑は明治期、モンゴル帝国(元)の二度の日本侵攻(元寇)による両国の犠牲者を追悼するため、地元の有志によって建てられていた。その後二〇〇五年の福岡県西方沖地震で倒壊したとみられ、二〇二〇年に現地を訪れたモンゴル人留学生が在福岡モンゴル国名誉領事館に訴えたことで、再建への動きが始まった。
同領事館や「九州沖縄・モンゴル友好協会」が中心となり、寄付を集めるなどして昨年九月から本格的な作業を開始。碑の由緒を示す銘板も新設し、視界を遮っていた雑木林を伐採して眺望も楽しめるようにした。
二九日の式典には、元横綱白鵬の宮城野親方ら両国の関係者約一〇〇人が出席。テープカットするなどして、完成を祝った。同領事館のシーテベ・アルタンイルデン名誉領事(五二)は「両国の交流を更に深める場所にしたいという思いで進めてきた。
平和の大切さを表すシンボルとなってほしい」、友好協会の進藤和昭会長(七三)は「昔の出来事を振り返り、夢や将来を語り合う場になることを願っている」と話していた。
蒙古山への道
蒙古山は、なぜ蒙古山というかというと、昔蒙古山は外国から敵が攻めてきるときの見張り場所であった。
頂上にのろし台があり蒙古軍という外国の軍隊が攻めてきたとき、こののろし台からのろしをあげて大宰府に知らせたのだろう。
見張り台としての地理的条件は、現在山頂からの海の絶景展望に象徴されている。二〇二二年秋の石碑再建までは、山道は荒れていた。
また、地図のように隣にある妙見山からの縦走路を通過するのが一般的でもあった。
しかし、再建事業によって西浦漁港近くからの道(一部は舗装されているが、車一台がようやく通過できる)が、山麓まで伸びている。
舗装道の終点には車一台分くらいの駐車スペースが設置されている。舗装道は離合が困難であるので、車でのアプローチは少々困難である。
できれば、西浦漁港に駐車し舗装道を歩いてアプローチすることを薦める。前述の舗装道終点が実質的な登山口であり標識もある。その登山口から山頂までは、登坂が連続していく。
登山口から山頂(石碑)までは、徒歩にて約三〇分前後である。
蒙古山の地図にも記載されているが、蒙古山の右となりに『妙見山』という山名がある。この妙見山の山頂にも、国際的(インド・台湾・日本を結ぶ)な意味のあるパゴダが建っている。サイズは小さいけれど、その歴史的背景の深大さに魅入られてしまうのである。
このパゴタが建つまでには、遠大な物語が隠されている。それは、日本とインド、そして台湾を結んだとある人物に関係しているのである。その人物の名前は、杉山龍丸。小説家の夢野久作の息子であり、玄洋社の頭山満の片腕的存在であった杉山茂丸の孫にあたる。
杉山龍丸は、インド緑化の父(グリーンファーザー)ともいわれている。インドの各地にあった砂漠地帯や土砂崩壊の地域を緑化したが、日本ではあまり知られていない。彼は、インドの食糧難時代にパンジャブ州に台湾米(蓬莱米)を紹介した人物でもある。この台湾における蓬莱米の開発には、杉山氏の祖父である杉山茂丸が大きく関与している。
杉山龍丸氏の功績を称えて、仏舎利(お釈迦さんの骨)がインド政府から寄与されることになり、それを納める為にこのパゴタ(仏舎利塔)が創建されたのである。しかし、諸事情から仏舎利は納められておらず、パゴタへ至る道もすっかりと荒れ果ててしまっている。
糸島半島は古来伊都国(古事記に記載)の本拠地として朝鮮半島や大陸中国との窓口であり、また時代が下がって元寇関連や、戦前・戦後のアジア思想・友好の懸け橋的地勢存在なのである。
車にて志賀島の金印公園を過ぎてすぐのところ(右側)に、蒙古塚はある。現在は地震被害を受けた後に建てられた新しい石碑が目立つが、山辺には昔の石碑も再建されている。また、祭事の際にしか通過できないが、蒙古塚の左手には供養塔への階段入り口がある。
文永十一年(一二七四年)十月二十日、対馬と壱岐を攻め尽くした元と高麗の連合軍が博多に来襲している。時の鎌倉幕府は西国の御家人を中心に敵軍を迎え撃つが、従来の武士同士の戦い方とは異なる戦法に苦戦し、多くの御家人が討たれた。ところが、その夜には連合軍は船に戻って撤退する。そしてそれに追い打ちを掛けるように玄界灘は暴風雨となり、多くの船が沈没してしまったのである。
『八幡愚童訓』(注)によると、翌日、志賀島に元軍の船が座礁しており、投降してきた兵を生け捕りにしてその首を刎ねたという。その数は約二百二十名に及んだとされる(ここで打ち首になった捕虜は百二十名ともいわれる)。このときの処刑の場となった所に蒙古塚が立てられているのである。
この供養塚ができたのは昭和三年(一九二八年)、日中友好として造られたものである。供養塔の文字は当時の首相であった田中義一によるものである。またこの供養塚完成時には、満州の軍閥であった張作霖も賛辞を送ってきている。この供養塔は平成十七年(二〇〇五年)の地震で倒壊したが、二年後に再建されている。
(注)『八幡愚童訓』:鎌倉中期から後期に掛けて成立した、八幡神の霊験を集めた書物。筥崎八幡宮の奇瑞や神威によって元を撃退したという記述を伴って、二回にわたる元寇の戦闘の経緯や様子を記した史料として有名。
2023年10月5日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。