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古代に山城が急速に築造されるのは、白村江の敗北以降に朝鮮半島から日本が後退を余儀なくされる、七世紀以降奈良時代にかけての頃である。外敵侵寇の脅威に対する朝鮮式山城、さらに奈良時代末期の新羅征討を目的とした新様式山城が築造されたわけである。
神護石(こうごいし)について
これらの山城と強く関連するのが『神籠石』の呼称をもって知られる遺跡である。神籠石は明治・大正以来、学界の注目を惹き、いわゆる霊域説と山城説の対立による大論争が展開されてきた。歴史学者の喜田貞吉らは霊域説、白鳥庫吉らは山城説の旗頭であった。
霊域説者は神籠石を霊畤・磐境・磯城・神奈備と同物異名であるとし、喜田も神霊鎮魂の神籬であるとした。これら霊域説は、文献史料の面から山城説自体を否定し、同時に山城説の内包する矛盾を鋭く指摘したのである。それは主として、神籠石遺跡の有する列石のみでは防御の用をなさず、列石に加えて土塁あるいは柵の存在が実証されねばならない、という点であった。
喜田は、さらに神籠石の所在が辺地である故に、城郭たり得ないとも述べている。また藤井甚太郎も、筑紫の文献所載の山城や東北地方の城柵を軍事的設営物としながらも、神籠石山城説には反意を唱えている。まさに、神籠石論争の最大の論点は列石の他に防御力を強化する施設が存在したか否かという点にかかっていた。
これら霊域説に対して山城説は、貝原益軒から始まったとされている。立地の面からや朝鮮の古代山城との地形利用面での類似の点を指摘する学者もいた。近年の発掘調査によって、山口県の石城山など各神籠石についての調査によって、従来は確認されなかった版築土塁・木柵・壕の存在が実証され、神籠石山城説が確認されてきたのである。
神籠石と朝鮮式山城
神籠石の築造年代は文献史料からは突きとめ得ない。しかし七世紀後半の外敵防備施設たる朝鮮式山城と構造的にも極似することから、ほぼ同年代とする説が最も有力となっている。石材加工の技術面から七世紀頃とする説や、版築土塁中より出土する土師器等から七世紀後半以後と考える説もある。
古代山城の範たりえた朝鮮古代の山城は、三国時代以降に要害の山地に都邑守備・国都防御のために築造されたものである。倉庫・官衙・宮殿・兵舎・烽燧・井戸・土塁・石塁を有するこれら山城は、高句麗の国都通溝城北部の山城のように、戦時には正都を移転させ住民を収容すべき控えの国都的な例も多い。また、一種の山塞的な純軍事施設の場合も多く発見されている。いずれにせよ日本の朝鮮式山城が、百済の亡命貴族の指導によって築造された以上、朝鮮のそれと類似することは当然といえるだろう。
従って、日本の朝鮮式山城では域内に倉庫群等の遺構が発見されており、文献上でも諸建築物や狼煙台の存在が知られている例の多いことも肯き得る。神籠石遺跡の域内には、現在のところ建築遺構は発見されていないが、烽燧等の施設のあったことは充分予想されている。
日本には古代山城に類似するものとして、チャシや東北地方の城柵あるいは弥生時代の高地性集落がある。環状の列石や壕など縄文式時代の配石墓や弥生時代の環溝住居址もあげられる。しかし、規模・年代等の面では大差があり、古代山城の性格から見ても、城柵やチャシを類似遺跡として取り上げるべきであろう。
城柵に関しても、多くの研究が発表されているが、空堀・土塁・木柵を有した軍事的設営物である。これらは蝦夷に対抗する東北辺境の前進基地であったが、その多くは平山城であった。一方、西日本の古代山城は文字通り純然たる山城である。
各地の古代山城を交通路や諸施設との関連とともに、立地(配置)面からも考察されうるべきだろう。とある論文にては、次のように山城の立地条件などを区分けしている。
(一) 国府に近接している場合。
(二) 国府とは少し離れるが、明らかに軍事的に重要な拠点に立地する場合。
(三) 豪族や交通要衝との関連が顕著な場合。
注目すべき点としては、(一)に挙げた国府の背後に多くの山城が存在する事実である。これは朝鮮の古代山城にも数多く見られる例であり、国府の防備と緊急時の住民避難を意図しているといえるだろう。また、古代山城の全てが、眺望の点で非常にすぐれており、水陸交通の要衝をおさえうる位置を選定していることも興味深い。
これらの事実は、文献所載の山城が狼煙台機能を有したことや、特に瀬戸内海沿岸で見られる事実とあわせて、神籠石もまた狼煙台機能を具備したことを物語るものではないかと推測されてもいる。いずれにせよ、新羅や唐の侵寇に対処するものとして、急拠築造された古代山城は、その多くが本来の目的を充分果たすことなく廃されている。
それ故、大野城などの一部の例を除けば、それ自体が積極的な地域形成の要因になったとは考え難いのである。むしろ、政治的・軍事的・交通的に重要であった地域のもつ力が、これらの山城築造を誘引したと考えるのが妥当であろう。
それだけに、亡者の怨恨などが色濃く感じられる、中世や近世の山城や城郭などとは異なり、古代の山城からは『静謐な空気感』が濃厚に漂ってくるのであろう。
金田城(対馬)
築城は七世紀にまで遡る。当時の国際的状況は、大陸では唐の時代。そして半島では、新羅が勢力を拡大している時代である。その唐と新羅の連合軍と、百済・倭国の連合軍が白村江(はくすきのえ)で交戦する。
その戦さに敗戦した百済・倭国軍は、玄界灘を越えて敗走するのである。その後、勝者である唐・新羅連合軍の倭国への追撃を恐れ、北部九州から瀬戸内海沿岸部に防御ラインが敷設される。
それが、『朝鮮様式山城』や『神籠石山城』などと呼ばれる古代山城である。これらの山城に、倭国の東国(あずまこく)から防人(さきもり)が派兵されるのである。
当時から国境最前線であった対馬にも、この古代山城が築城された。それが金田城である。七世紀に築城された『石塁』と呼ばれる石積み城壁は、海岸部から急斜面を山頂部にかけて縦横に配列されている。
七世紀には、大型機械などはなく、すべて人力による作業である。まずはその膨大な労役量に驚いてしまう。さらに築城以降、対馬では大きな地震が発生しておらず、人力による石積み配列が残存している事に感謝である。
もう一つ感謝なのは、山頂までの登山道が近代に整備された馬車道であるこどだ。日露戦争直前の明治三十四年。ロシア海軍の脅威に備え、この山の山頂部一帯に砲台が築かれたのである。
砲台建設の為に、山腹から山頂部にかけて、荷を運ぶ馬車道が設置されたのだ。それが現在でも活用されている。馬車道であったので、緩やかな登り勾配となっており、初心者でも無理なく(往復三時間)山頂からのパノラマも満喫できる。
即ち、この金田城のある城山一帯は、古代から近代に至るまで、国境防御の最前線であったのだ。一三五〇年前に防人が築いた古代山城と、百年前に旧日本陸軍が建設した近代要塞が並存する城山は国の特別史跡に指定され、今もその数奇な歴史を物語り続けている。
二〇一七年、金田城は(公財)日本城郭協会によって「続日本百名城」に選定されている。
雷山(らいざん)神籠石・怡土(いと)城(福岡県)
雷山神籠石の列石は大部分花崗岩を使用しており、遺跡の概要については他例と殆んど差がない。糸島平野一帯すなわち火山・高祖山・加布里はもちろん、博多湾や能古島等を一望にしうる背振山系の一高峰の北斜面の支脈上に位置している。また、東部の高祖山にある怡土城は天平勝宝八年(七五八)大宰府大弐・吉備真備(きびのまび)の奏言によって築造に着手されている。
怡土城は、新羅征討の目的をもった新様式山城である。列石・土塁・壕・城門礎石・望楼址等が発見されている。ただ、注目すべきは、敵襲が予想される西方に対して遮蔽物がなく城内が露呈されていることである。守備の目的よりもむしろ攻撃的目的を有する新機軸を打ち出しているといえる。
対馬・壱岐を遠望することができ、この一帯の山城から大宰府の大野城へと狼煙によって連絡することも可能であったと考えられている。これらの山城の存在する糸島平野は、『魏志倭人伝』:「郡使の往来常に駐まる」伊都国であり、大化の改新以後は大宰府主船司の設置された所でもある。
怡土城のあるエリアには、ほかにも古代伊都国に関する古跡が点在している。また、伊都国に関する博物館などもあり、古代の関連資料などを閲覧することもできる。雷山神護石へは、曲がりくねった山道を行くしかなく、慎重な運転技術が求められる。
大野城(福岡県)
大野城は、大宰府の北に位置している。天智四年(六六五年)に築造されたことが書紀に記されている。その後も幾度か文献に現われてくるのである。朝鮮式山城としての特徴を具備し、水城とともに大宰府防御の拠点であった。大野城からは博多湾・大宰府が一望できる好立地にある。
標高四〇〇m以上の山に築造され、大宰府と福岡平野の守備に主眼をおいている。福岡平野には那ノ津を前面に して、平野一帯の開発が進んでいたことは条里遺構や弥生集落・古墳等によって知られているが、大宰府の外港であり、かつ軍事的にも重要であった那ノ津の正確な位置は不明である。このように古来、大野城の周辺は水陸両面の交通要衝地であった。大野城はまさにこの要地をも把握しうる山城であった。
筑後川下流に臨む水縄山脈中の高良山神籠石の考察時には、筑紫君・磐井に代表される筑紫君すなわち、筑紫国造を忘れるべきでないだろう。磐井を頂点として九州最大の勢威を誇った筑紫国造が、最盛期には筑前・肥前・肥後にも同族関係を結んでいたことは、複姓氏族の存在などからも知られている。
この豪族勢力は、矢部川流域の八女古墳群に象徴されるが、特に岩戸山古墳は『筑後風土記』等から、磐井の墳墓であったと推定されている。『延喜式』の交通路は、御井駅から葛野駅・狩道を経て、肥後国大水駅・江田駅・高原駅に通じている。この交通路は高良山神籠石西端下を通過していた。
すなわち御井駅については、各駅間の距離・小字名・筑後川水運の点から筑後国府(現御井町)付近に、葛野駅については『和名抄』上妻郡葛野郷の地(現筑後市羽犬塚付近)に比定することができる。
このように、高良山前面の平野に国府や有力豪族の本拠地が存在する事実は、大野城の例をはじめ として多くの山城と共通している。
このことは極めて興味深い。眺望の点からいっても、とりわけ国府背後の高良山からは、筑紫平野 はもとより、帯隈山・大野・基肄・杷木・女山の各山城を望見しうるのである。
それ故、もし各山城が烽伝達機能を兼備したとすれば、高良山神籠石は主要なキーステーションとして卓越した重要性を有していたと考えられるのである。
石城山神籠石は既に発掘調査が成されており、山城であることが確認されている。山頂からは、下松・徳山前面の海をはじめ上関・大島・柳井一帯を眺望することが可能である。柳井湾・平生湾奥の地割からは、条里遺構も認められている。
周防国府は防府にあるが、熊毛郡を中心とするこの地域にも国府の出府的機関が存したとも考えられている。あるいは周防総領所や国造の居地という可能性も示唆されている。岩国から由宇町を経て石城山山麓を通過する交通路も、古代の一大支道であったと推定される。
さらに、狼煙台は原則として四十里(約三十㌔)毎に置かれたとされている。この石城山を巡る各拠点には烽址と推定される地名(山名)が認められるのである。それは、下関の「火の山」→厚狭郡生田村の「火の山」→秋穂町の「火ノ山」→周防国府付近の山→下松前面の笠戸島の「火振岬」→石城山神籠石→岩国南部の「火打岩」→呉市倉橋島の「火の山」と繋がるルートである。
これら豪族の各拠点が、瀬戸内海航路の中継基地であり、狼煙の地点ともなったのであろうと推測もされている。それ故、石城山神籠石も又、山城としての機能と同時に狼煙台の機能をも兼備したといえるだろう。
また、この石城山は幕末から明治にかけて、長州藩を揺るがした奇兵隊における『第二奇兵隊』の本拠地がおかれたことでも知られている。
屋島城は瀬戸内海の内海水運の要衝に設置された山城である。屋島城の名前は、『日本書紀』天智天皇六年に見え、現在も南北三キロ・周囲八キロの遺構が残存している。
城の下の浦生は、古代以来、風待ち・潮待ちに利用された瀬戸内有数の港町である。
屋島城の頂にある烽台、さらに外部からは見えにくいが内部からは遠方まで展望がきく場所であるという特質も他と変りがない。
火山台地上に設営された山城は、朝鮮式山城の特徴を備えており、同時代のものであることはほぼ確実である。
古代の交通路としては、高松市南方の『延喜式』三谿駅(現三谷町)から約二十キロを経て河内駅に達する道路が考えられ、これは城山の南麓を通過している。
さらに讃岐国府の比定される府中は城山南東であり、ここには阿野軍団もおかれたであろう。したがって、ここでも山城・国府・軍団・交通要衝の結合が窺われるのである。
鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城(神籠石式山城)である。城跡は国の史跡「鬼城山」の指定範囲に包含されている。鬼ノ城は史書に記載が無く、築城年は不明であるが、発掘調査では七世紀後半に築かれたとされている。鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高三百九十七メートルの鬼城山の山頂部に所在する。すり鉢を伏せた形の山容の七〜九合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に渡って巡る。城壁で囲まれた城内の面積は、約三十ヘクタールである。
「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、西門と角楼や土塁が復元されている。その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されている。城壁は、幅七m×高さ六〜七ⅿの版築(はんちく)土塁が全体の八割強を占める。主な進入路と思われる場所に西門があり、西門の北側約六十メートルの隅かどに角楼がある。各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。西門は平門構造で、他の門は懸門構造である。
東門は間口一間×奥行二間で六本の丸柱構造。南門は間口三間×奥行二間で十二本の角柱構造。中央の一間が出入り口で、本柱は一辺が五十八センチ角である。西門は南門と同じ柱配列で、本柱は一辺が六十センチ角である。そして、門道の奥に四本柱の目隠し塀がある。
城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡五棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡二棟が発掘された。また、十二基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土する。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などがある。
瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路である。東端の難波津(港)の西方、約百八十キロメートルに吉備津(港)は位置する。吉備津の西方、約二百四十キロメートルに那大津(港)の博多湾がある。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置する。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備国の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約十一キロメートルである。
鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できる。児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県である。天気の良い日には、坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野に入るほどである。
この山城を語る際には、日本の昔話しである『桃太郎の鬼退治』伝説との関係をはずす訳にはいかないのである。というのも、この山城の中には『温羅(うら)』という伝説上の人物(一族ともいわれる)の古跡が残されているのである。
温羅とは伝承上の鬼(人物)で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称もあり、鬼ノ城を拠点とした鬼とされている。朝鮮半島からの渡来人で空が飛べ、巨体で怪力無双だった等の逸話も伝えられている。出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。
この温羅に吉備地方に住む倭人が苦しめられていたという。それで吉備の倭人は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかったという。このため崇神天皇(第十代)は孝霊天皇(第七代)の子で四道将軍の一人である、五十狭芹彦命(いさぜりひこのみこと)を派遣したという。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を一本ずつ放ったが、温羅はその都度石を投げてその矢を撃ち落とした。そこで命が二本同時に射たところ、一本は撃ち落とされたが、もう一本は温羅の左眼を射抜いたという。
すると温羅は雉に化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕らえたところ、温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上したという。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命(きびつのひこのみこと)と呼ばれるようになった、と伝えられている。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命(いぬかいたける)に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。
次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、十三年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛(あそひめ)に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。
このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。この釜殿の精霊のことを「丑寅みさき」と呼ぶ。また、現在では吉備津神社は近隣の『弓競技』の聖地ともされており、境内には和式弓競技場も備えられている。
岡山市を中心に、旧備前・備中地方に伝わる温羅伝説では、天皇から派遣される吉備津彦は桃太郎の原型と言われ、吉備の地で平定された凶暴な統治者である温羅という大陸・朝鮮から渡来した製鉄技術を持つ者が鬼とされる。温羅伝説は地域の「歴史」と強く連結され、地域の文化的記憶を語り直しており、「他者との差異性」の意識を維持・再生産している。
そして、温羅伝説と関連付けて、吉備津地域にある古墳群を中心とする吉備国=地方の有力政権があると地域の歴史を再構築する言説があり、吉備国という古代の枠組みを引き継ぐまたはその範疇概念を掘り起こして再創造する試みが見られる。
香川県にも、桃太郎に纏わる伝説の地が存在している。高松の沖合に浮かぶ島・女木(めぎ)島である。女木島での事例を見てみると、岡山の温羅伝説の主人公・吉備津彦命の弟にあたる稚武彦命が桃太郎の原型であり、鬼は女木島を根城としていた海賊とされている。海賊退治は香川の桃太郎伝説の中で語り直されるローカルな文化的記憶として考えられる。
香川の桃太郎伝説では、桃太郎のモチーフに引き寄せ、「桃太郎」や「鬼」の持つ象徴的力を取り入れようとし、伝承と史跡の意味付けに変化が見られる点は岡山の事例と同様である。しかし、香川の場合、地域固有の要素は二次的に扱われ、桃太郎昔話のモチーフを優先する傾向が見られる。
特に女木島では鬼のキャラクターの「一人歩き」が顕著である。ローカルな伝説の地域性・個別性を誇示するはずのところには昔話の一般的・標準的な要素がしばしば混ざり、文化的記憶の再構築や地域的要素がある程度では認められる一方、昔話の普遍性を持つ要素が前に出されている。
2023年10月6日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。