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ま~るい地球のテッペン・北極である。それも、『点』が加わる北極点。地球は丸いということは、計測器で正確に測定していくと、限りなく『とある点』に近づいていく。それが、北極点である。東洋医学的にいうと、人体の頭頂部のど真ん中にあるツボ『百会(ひゃくえ)』に相当する。
昔の中国人は、やはり奥が深い。百というのは『数量が非常に大きい』という意味があるそうな。いってみれば、頭頂部のツボ『百会』は、『数限りないナニモノカが出逢う場所』という意味とも読み取れる。
では、数限りないナニモノカ・・、とはいったい何を意味するのであろうか。 というのが、この北極点調査行の『個人的な関心事』であったのだ。その時のことをエッセイにした文章である。
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北極点に立つ(人の存在を溶解させる無の世界)
人には忘れられない体の記憶がある。気温マイナス二七℃。しかし、私の足を小刻みに震えさせた原因は、その寒さだけではなかった。 北極点にはじめて足が触れようとする瞬間、その震えの波動はしっかりと体の隅々にある細胞へも伝播していった。
全身が打ち震えるような感動のひと時は、人生の中でもそう多くはないだろう。私にとって北極点での経験は、体に刻まれた数少ない、感動の記憶であった。
北極点へのフライトは、ひたすら北へと向かうシンプルなものだった。植村直己さんら多くの冒険家・探検家たちが極点計画への最終準備をおこなった町、カナダのレゾリュートが出発点である。そこからさらにユーリカという粗末なロッジと簡素な滑走路のみの基地へと空路移動した。ここから北極点まで片道五時間。
途中氷上での無人給油中継点を経て地球のテッペンを目指すのである。巨漢のカナダ人パイロットの第一声は・・・、 『膀胱はカラッポかい?』 ”何だ、そりゃ?" 軽量化が徹底された小型飛行機では、機内で催す尿意が一番の難敵なのだ。 残り一滴まで残さぬよう、寒風吹きさらす掘っ立て小屋のトイレでジュニアを絞り上げた。
出発後三〇分もすれば右手前方にエルズミーア島の突端岸壁が見えてくる。『エルズミーア島は<北極のオアシス>とも呼ばれ、初夏にはチョウノスケソウなどの植物群やジャコウウシなどの貴重な生物の姿も見ることができる、云々…』 持参した文献資料よりも、どうも尿意の方が気になってしかたがなかった。
そんな気持ちを見透かすように眼下の風景は不気味な北極海へと変化してゆき、一層尿意への不安感が増長した。 憂鬱という言葉を溶かし込んだような鉛色の空、絶望という言葉で凍らせたような白濁の海氷…。
時おり、氷原帯が裂けどす黒い海面が顔を出す。さらには氷原帯同士がぶつかり合い、接触面に白い牙のような氷塊が一列に並ぶ。 ところどころ霞んで見えるのはブリザードでも吹きすさんでいるのだろうか。
“うわ~、まいったな~こりゃ”
同行者たちの会話はすでに途切れており、機内ではプロペラの回転音のみが響いていた。機内に澱み始めたなんとも言えぬ不安感や虚無感を、「ブオーン」という人工音がなんとか払拭してくれていた。 途中、給油の為に着氷するという。
“えっ、どこにスタンドがあるん?”
北極海を浮遊する氷原帯の上にその無人スタンドはあった。氷の上に置かれた数個のドラム缶に発信機がセットされていた。その電波をキャッチし、狙いを定めてランディングするのである。同乗のアメリカ人たちは「セルフヘようこそ!」なんてはしゃいでいた。
「さあ、ここからがクライマックスだよ!」
パイロットの言葉とともに機体は北の空へと再度舞い上がった。給油後も針路はひたすら北である。飛行機の計測器が限りなく北緯九〇度に迫る頃、機体は幾度も幾度も旋回を繰り返しながら高度を下げ始めた。
ランディング・ボイントの探索なのであろうが、どうも機体のトラブルではないかとの疑念が消えない。 上空からは白一色に見え平坦にも思える氷原面は、接近するごとにその凹凸の形状がくっきりと浮かび上がってくる。
“ほんま大丈夫かいな?”
着氷時の機体へのトラブルは帰りの切符の放棄につながる。常にジョークの絶えなかった巨漢パイロットの背中に『ちょっとだけ真剣』 というムードが漂い始めたと思ったとき、
「ガガガー、ゴゴゴー、ガクンガクンガクーン!」
“アア!、おカアちゃ-ん”
これが、私の地球テッペン到着時の第一声であった・・・。
地球をサンドイッチにする計画・・。 北極点と南極
北極点探査行から、十五年の歳月を経て、ようやくわが足にて『地球をサンドイッチ』することができたのである。その時のことを、エッセイに書いている。
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いつか実現できるだろう・・
一九九二年四月(三十二歳時)。地球のテッペン・北極点で私は新たな夢を抱いていた。ま~るい地球にも軸足がある。それが北極と南極。この二つの極地を訪れ、自分の足で『地球をサンドイッチ』してやる、というものだった。マイナス二七度の北極点で、私の胸だけは沸々と熱気が上昇していた。
それから十五年・・・。
二〇〇七年一月。私は南極へと向かう小型飛行機の機内にいた。荒天で名を馳せる、南米最南端・ドレーク海峡の上空で、硬くて狭い座席にサンドイッチされながら、身動きできない私は一抹の不安を抱いていた。
前日は南極上空の天候が好転せず、行程半ばにして泣く泣く引き返していたのだ。残されたチャンスはこの日のみ・・。日本から北極点までは片道五日だった。奇しくも今回同じ日数をかけて南極へと到達しようとしていた。
太平洋上空にて日付け変更線をひとっ飛びし、座席に根が生える直前にチリのサンチャゴ着。翌日の朝、時差ボケの頭にスペイン語のモーニングコールが陽気に響いていた。南米大陸南端の街・プンタアレーナスまで国内線で四時間半。座席では新しい根が育とうとしていた。
マゼラン海峡からの心地いい風で、強張った尻の筋肉がようやく解れようとした矢先だった。
「 セニョール! ×△※○×□※、sorry ! 」
「えっ何ゆうたん? ソーリーって、お宅何でアヤマっとるん?」。
振り返りもせず、南極行きのパイロットは頬に笑みを浮かべながら消えた。南極フライトの同乗者、スペインのワイン城のオーナーが訳してくれた。
「天気悪いんやて。気長にいきまひょ、やて」
えっ!「オーマイヒップ!」思わず臀部に手が伸びた。
それから延々と出発ゲート内や中継地空港の掘っ立て小屋の中では、キョロキョロとしてはヨタヨタと歩き、座ってはウ~ンと唸ってモゾモゾと身をよじる妙な一団の姿があった。少々お尻を突き出しヨロヨロと数歩歩いては、相性の合いそうなベンチを空ろな目で探す・・。
私達は南極に到達する前に、自らが少々くたびれた新種のペンギンと化してしまった。
「とうとう来たで~!」
度重なるスケジュール変更や長時間の移動距離に対する忍耐力と少々の経済力さえあれば、南極到達の旅は一般人にも門戸が開かれている。南極の中でも比較的温暖な気象条件下にある、キングジョージ島まで片道三時間のフライトだった。
タラップを運んで来るチリ観測基地のスタッフは、日本の冬山程度の装備だった。扉が開く瞬間、冷気の進入に身構えたが、なんと外気温はプラスの二度・・。
「えっ!ほんまにここが南極?」
大陸全体が厚い雪氷に覆われ、ブリザードが一瞬にして視野を白濁させる、そんな南極に対しての固定観念が多くの人にはある。しかし、南半球の一月は夏真っ盛り。さらにキングジョージ島は南極の中でも比較的温暖な気候に属している。
ゴムボートに乗って向かったペンギン営巣地では、ペンギン達が快適に海水浴しているような光景にも出会った。アザラシ達は柔らかい砂地の海岸でお昼寝の真っ最中だった。室温調整中とはいえ、ロシア基地内のコックやチリ基地内の土産物ショップのオネーさん達は、額に汗を浮かべながら半袖で忙しく動き回っていた。
「地球をサンドイッチしたお味のほどは?」
南極から日本に帰国した数日後のこと。北海道がマイナス二〇度前後というニュースを聞いた。片道五日の南極より、空路二時間前後の北の大地がよりシバレていたなんて…。地球をサンドイッチして味わった食後感―それは、意外にもシンプルなものだった。
「やっぱり自分の目で見てこなイカンな~」ということ。
チェリー・ガラードは「探検とは知的情熱の肉体的表現」と述べている。与えられた画一的な情報ではなく、自らの五感で感じ取る肉体的情報が新たな知的情熱を育むのではないだろうか。


北極海探検への道
ヨーロッパから西に向かったクリストファー・コロンブスが、一四九二年に到着したのは、本来の目的地アジアではなく、バハマ諸島の小さな島であった。スペイン国王の命令により、インドや中国への航路を開発し、貿易による利益を求めることが探検の目的であった。
同じころ、ポルトガルの国王に命じられたバスコ・ダ・ガマは、リスボン(ポルトガルの首都)を出発しアフリカ最南端、喜望峰を回り、初めてインドに到達している(一四九八年)。この時代、スペインとポルトガルは世界各地へ探検隊を派遣し、貿易利益を独占する勢いであった。
イギリス、オランダ、フランスに残された東洋への水路は、北極海航路だけであった。この航路開拓に特に熱心だったのはイギリスで、多くの探検家を北極海に送り込こんだのである。最初に北極海の北西航路の探索に出かけたのは、ジョン・ガボットで、一四九七年にニューファンドランド島を発見している。
さらに、ジョンデービスやヘンリー・ハドソンたちは、グリーンランドやカナダ北部に向かい、ヨーロッパ人にとっては新しい地域に到達したのである。しかし、一六一一年にハドソンが行方不明になって以降、北極探検は二〇〇年間下火になってしまうのである。
イギリスの北極探検を再開したのは、海軍のジョン・バローである。彼は一八一八年、二隊による探検隊を派遣している。第一隊は北東航路、第二隊が北西航路を航海し、ベーリング海峡で集合する計画であった。
しかし、両隊とも厚い氷にはばまれ、失敗している。一八四〇年代、イギリスは再び北西航路の発見に乗り出していく。ジョン・フランクリン指揮官のもと、一万人もの大歓声のなか、二隻の船はテムズ川河口を出航したのである。
エレバス号とテラー号は、氷海航行を想定して最新の技術で改造された長さ三〇m以上もある船であった。船には、補助蒸気エンジンやプロペラが装備され、三年分の食料、千冊以上の本、水の蒸留装置(海水を真水にする機械)、スチーム暖房など快適な設備を整えていた。
しかし、グリーンランドを経由した後、二隻の船は行方不明になってしまうのである。多くの隊員とともに、指揮官のフランクリンも、二年後に死亡が判明している。二隻とも氷に閉ざされたため、隊員は陸路で進んだが、低体温症、食料不足、鉛中毒、ビタミンC不足による壊血病などで全員が死亡したと考えられている。
フラム号(ナンセンの船)
一八九三年からノルウェーのナンセンが画期的な耐氷船を造ったのである。丸みを帯びた船体は、氷の圧力で押しつぶされず、上に持ち上がるように設計されていた。この船は、その後の耐氷船や砕氷船の原型ともなり、アムンセンに引き継つがれ、後に南極に向かうことになるのである。
北東航路を初めて通過し、ベーリング海峡をぬけ横浜に到着したのは、フィンランド人のノルデンショルドである(一八七九年)。北西航路を初めて通過したのは、ノルウェーのアムンセンであり、彼は、補助エンジン付きの小さな帆船「ヨーア号」で三年かけてグリーンランドからアラスカに抜ぬけている(一九〇六年)
南極点初到達を争あらそったアムンセンとスコット
アムンセンは、次の目標を「北極点」到達に定めたのである。しかし、一九〇九年にアメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知ると、南極点到達に目標を変更していくのである。
そこで、すでに出発していたイギリスのスコットとアムンセンの南極点初到達の争いが始まっていくのである。結果は、装備や技術面で優すぐれたアムンセンが一九一一年十二月十四日に南極点に到達するのである。
スコットは、約一か月遅おくれて到達したが、帰路力尽つき死亡してしまうのである。二隊の大きな違いは、輸送方法であった。アムンセンは犬を、スコットは馬を使っていたのである。馬はエサに草が必要で汗をかく生き物である。それに対し、犬は汗をほとんどかかず、現地のアザラシ等を食べることができたのである。
南極から帰ったアムンセンは、再び北極探検に挑戦し、飛行船を使って、北極点を通過する北極海横断飛行に成功している。しかしその後、イタリアの飛行船遭難の捜索に出かけたまま、帰らぬ人となってしまうのである。
ロバート=ピアリーはアメリカ海軍軍人で北極海の航路開拓、資源探索に従事し、はじめに一八九一~九七年にグリーンランド探検を行う。ついで北極点到達を目指し、一八九八~一九〇二年、一九〇五~〇六年、一九〇八~〇九年の三度に及ぶ北極探検を行い、その間、凍傷で足の指を失いながら、ついに一九〇九年四月六日に、西欧人として初めて北極点に到達した(とされている)。
「西欧人として」とされるのは、これ以前にカナダのエスキモーの仲間のイヌイットが、アザラシ猟などで獲物を追ってこの付近に到達していたことが充分考えられるからである。
ピアリーの北極点到達の疑惑
ピアリーは極地探検家、海軍軍人としての栄誉のうちに一九二〇年に没し、その名は海軍艦艇の名として残されているが、当初から幾つかの疑惑がつきまとっていた。まず、もと彼の部下だったフレデリック=クックという人が、自分がピアリーより早く一九〇八年四月に北極点に到達していたと主張したので、裁判となった。
裁判ではピアリーが最初の到達者として認定されて終わったが、後にピアリーが証人を買収していたことが明らかになり、疑惑は消えなかった。さらに、後に詳しい測量が行われた結果、ピアリーが北極点だと思った地点は、正確には北緯八九度五七分(北極点から約六キロの地点)であったことがわかり、科学的には不正確だったことが明らかになった。ただし、現在の教科書、用語集もほぼピアリーが一九〇九年に北極点に到達したことをそのまま掲載しており、否定されてはいない。
白瀬矗(幼名・知教/ちきょう)は、文久元(一八六一)年六月十三日、秋田県にかほ市金浦(このうら)にある浄蓮寺の長男として生まれている。少年時代の矗は、可愛がっていた子犬を噛み殺した狼を鎌で一撃のもとに撃退したり、千石船の底潜りに失敗して危うく死にかけたり、近所でも評判の腕白少年であった。明治十二(一八七九)年、「僧職になっては探検ができない」と軍人を目指し、日比谷の陸軍教導団騎兵科に入団し、矗(のぶ)と改名している。
千島探検へ
明治二六(一八九三)年、将来の北極探検に備えて、まず千島探検を目指し、郡司成忠海軍大尉(文豪・幸田露伴の実兄)の一隊員としてこれに加わるのである。八月、最北端の占守島(しゅむしゅとう)に上陸、穴居生活の準備に入っていく。
しかし、ずさんな探検計画のため越冬生活は悲惨であった。幌莚島(しるとう)と捨子古丹島(しゃすこたんとう)の十人が全員死亡。明治二十七(一八九四)年六月二八日、郡司は軍艦「盤城(ばんじょう)」で占守島を去り、白瀬は交代要員の五人とともに引き続き越冬生活を続けたのである。
明治二八(一八九五)年、占守島での二度目の越冬生活中、六人のうち三人が水腫病(壊血病)で死亡。八月二一日、北海道庁長官の命で派遣されてきた「八雲丸」にようやく救出されたのである。明治四二(一九〇九)年、白瀬はアメリカの探検家ピアリーが北極点の踏破に成功したことを新聞で知り、大きなショックを受けた。その後白瀬は、探検の目標を北極探検から南極探検へと大転換していくのである。
南極探検に関する請願書を提出
明治四三(一九一〇)年一月、白瀬は、第二六回帝国議会に「南極探検ニ要スル経費下付請願」(十万円)を提している。これに対して、帝国議会は議決(三万円で議決)したものの、政府は結局援助金を全く支給していない。スコット(イギリス)やアムンセン(ノルウェー)の南極探検が政府の援助で行われたのとは大きな違いであった。七月五日には「南極探検後援会」を設立し、大隈重信伯爵が会長となっている。
十一月二十一日、「第二報效丸(だいにほうこうまる)」を東郷平八郎元帥によって「開南丸(かいなんまる)」と命名し、十八馬力の補助エンジンを装備して、品川沖で試運転が行われている。そして十一月二十九日、「開南丸」は芝浦を出航している。
明治四十四(一九一一)年一月三十一日には、ニュージーランドの島影を確認している。さらに、二月八日には飲料水や石炭・生鮮野菜・肉などの食糧を補給するため、ウェリントン港に入港。十一日には出航している。
三月十四日、南緯七十四度十六分、ロス海コールマン島付近で、氷塊に前進を阻まれ、やむなくオーストラリアに引き返している。五月一日、オーストラリア・シドニーに入港。一時はスパイ船の嫌疑を受けるが、無事上陸している。シドニーで仮小屋とテント生活を送りながら、南極の夏を待つことにしたのである。
明治四十四年十一月十九日、探検の目的を南極点踏破から科学調査に変更し、シドニーを出港。同年の十二月十四日には、アムンセン隊(ノルウェー)が前人未踏の南極点を遂に踏破している。明治四十五(一九一二)年一月十六日、開南丸は南極ロス海ホエールベイ(鯨湾)に到着。翌日の一七日には、スコット隊(イギリス)も南極点を踏破するが、帰途、全員遭難死している。
明治四五年一月二〇日、白瀬隊長ら五名の突進隊は、二八頭の犬が引く二台の犬ゾリで南極点に向かって出発している。氷点下二〇度前後の厳しい寒気とブリザードのなかで、二台のそりが離れ離れになったりする事故に見舞われ、走行九日目、走行距離二八二キロの地点で遂に力尽きてしまうのである。
明治四五年一月二八日、未明に氷原突進を中止した白瀬探検隊は、午後〇時二〇分、南緯八〇度〇五分、西経一五六度三七分、一同は整列して日章旗を立て、視野に入る全地域を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本領土とすることを宣言したのである。
明治四五年六月二〇日、「開南丸」が述べ四万八千キロ、一年七ヶ月近くにわたる長旅を終えて芝浦に到着している。歓迎式には、約五万人の熱狂的な市民や学生などが集ったといわれている。探険の総費用は十二万円から十二万五千円余りと推定されている。一般から集めた募金の総額は七万千八百円に過ぎず、四万円近く(現在の一億円ほど)の借金をすべて白瀬が背負うことになったのである。
白瀬は極地で撮影したフィルムをたずさえ、日本本土をはじめ遠く樺太(今のサハリン)、朝鮮半島、旧満州、中国上海、台湾まで足を運んでいる。南極探検を終えたあとの白瀬の後半生は、借金返済のための苦難に満ちた果てしなき旅の連続だったのである。
借金を返し終えたのは昭和十年、白瀬は七十四歳になっていた。昭和二十一(一九四六)年九月四日、午前九時、白瀬矗は間借り先の愛知県西加茂郡挙母町(現豊田市)鈴木鮮魚店の二階で、腸閉塞のため死去している。(満八五歳)であった。
幸田露伴と北の大地
『風流仏』で評価され『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた幸田露伴は、東京生まれではあるが、少年時代のひと時を北の大地(北海道余市)で過ごしている。数え一六歳の時、給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任している。坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生え、一八八七年(明治二〇年)に、職を放棄し勝手に帰京してしまうのである。
この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材となるのである。彼の実兄である郡司成忠も北の大地への憧憬の念が強かったのである。郡司は、明治二六(一八九三)年二月、「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行い、まもなく拓殖団体としての「報效義会」を結成する。そして官民の支持を得て千島探検へと進んでいく。この探検隊に白瀬は隊員として参加している。
2023年10月10日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。