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トルコ軍艦エルトゥールル号

清水正弘

深呼吸出版



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目 次

幸田露伴の小説・「書生商人」

エルトゥールル号の詳細
近代のオスマン帝国
 (全盛期から衰退期へ)
アブデュルハミト二世時代のトルコ
トルコと日本の友好の歴史

エルトゥールル号の航海
エルトゥールル号の遭難とは
遭難事故から生存者帰還まで


山田寅次郎とは
ガラタ塔における山田寅次郎
秋山真之とイスタンブール
大谷光瑞とトルコ
生還者を送還途上、スリランカから乗船した僧侶
神智学協会と近代日本の仏教界

エルトゥールル号遭難時の恩返し
 イラン・イラク戦争時におけるエピソード

フィールドワーク時の写真





幸田露伴の小説・「書生商人」


「陰徳陽報」を掲載した『小国民』を編集する高橋太華と幸田露伴の共通の友人に、山田寅次郎という人物がいる。群馬県沼田の出身である山田は、青年の志を秘めて上京し、まだまだ無名だった頃の幸田露伴と知己となるのである。

後年、幸田露伴は短編小説『書生商人』の中で、山田寅次郎を(吉田實)という主人公にした回想ノンフィクションを記述している。吉田實と山口(青年時代の幸田露伴がモデル)という若者の交流話しの最期には、一八九〇年におきたトルコ軍艦のエルトゥールル号遭難後のことがしたためられている。

山口(幸田露伴)の知己である吉田實(山田寅次郎)は、トルコ軍艦遭難時の生存者への義援金集めに奔走し、吉田實が山口の所へも援助を求めてきたという話である。これは、明治文学界の巨星と称せられる幸田露伴と、日本・トルコの交流歴史に金字塔を打ち立てた山田寅次郎との深い絆を証明する小説でもある。

トルコへ渡る前の山田寅次郎は、群馬県沼田から上京後は出版界に従事していた。そして彼は若き幸田露伴の才能を見抜き、雑誌への売り込みや、『露団々』の刊行のために尽力するなど、露伴の作家活動を軌道に乗せた立役者でもあったのだ。

そんな露伴が、一八九二年にトルコから一時帰国した山田から話を聞いて書いたのが、小説「書生商人」であったのだ。明治文学界の巨星・幸田露伴にペンを走らせる意欲を持たせた人物・山田寅次郎という人物にとって、トルコ軍艦エルトゥールル号遭難という事件は、彼の人生の大きな分岐点でもあったのだ。

それでは、トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件とは、どのような歴史的事実なのであろうか。

幸田露伴の小説「書生商人」の巻末部
晩年の幸田露伴


エルトゥールル号の詳細

トルコ軍艦エルトゥールル号
 
(艦種)木造フリゲート (全長)七九・二メートル(船首飾~船尾端)
(艦幅)十五・一メートル(深さ)七・一メートル
(大きさ)二千三百三十四トン(速力)十ノット(時速十八・五二㌔)

十九世紀末、オスマン帝国はヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでおり、皇帝アブドゥルハミト二世は、明治維新後同様の立場にあった日本との平等条約締結の促進と一八八七年の小松宮彰仁親王殿下・同妃殿下一行のトルコ訪問に対する返礼などの目的で、日本への親善使節団の派遣を計画したのである。

また、この使節団の目的はもう一つあったと言われている。この当時、オスマン帝国は周辺支配諸地における民族独立運動や、西洋諸国からの圧迫に苦しんでいた。その窮状を一新する為にも汎イスラム主義を掲げていたのである。

使節団は、日本への航海途上に周辺イスラム地域へ寄港し、オスマン帝国の威厳を示し新たなる恭順を示させる目的も兼ねていたのである。では、当時の国際情勢を今一度振り返っておきたいと思う。

※一八八七年(明治二〇年)、小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと)親王殿下はヨーロッパ視察旅行の帰途、イスタンブールをご訪問し、オスマン・トルコ皇帝(スルタン)アブデュル・ハミト二世に謁見している。この時の歓待に感謝し、翌年、明治天皇は皇帝に親書と漆器を贈っている。

エルトゥールル号

近代のオスマン帝国
 (全盛期から衰退期へ)


オスマン帝国最盛期は一六世紀であった。その領土は西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な範囲に拡大していた。特にスレイマン一世の時代、一五二九年にはウィーンを包囲(第一次)し、ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威を与え、ルネサンス・宗教改革・大航海時代の世界史的背景ともなったのである。一七世紀からは大帝国の維持に苦慮するようになり、北方のロシア・オーストリア、西方のイギリス・フランス・イタリアの勢力がおよんでくるようになり、同時に帝国内の非トルコ民族のアラブ民族などの民族的自覚(アラブ民族主義運動)が芽生え、衰退期にはいっていく。

一六八三年には第二次ウィーン包囲に失敗、オーストリア軍などの反撃を受け、一六九九年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーを放棄し、バルカン半島で大きく後退した。一八世紀ごろには、スルタンはカリフの地位を兼ねるスルタン=カリフ制を明確にして、その権威を維持しようとした。一八世紀末、ナポレオン軍がエジプトに侵入したことを契機にエジプトが総督ムハンマド=アリーのもとで実質的に分離独立させ、オスマン帝国の動揺が始まり、帝国領を巡る列強の対立も激しくなっていったのである。

産業革命と市民革命を経たヨーロッパ列強は、一九世紀に入ると明確な意図でオスマン領内の民族運動に介入し、侵略を本格化させたため、オスマン帝国は次々と領土を奪われていった。一八二一年からのギリシア独立戦争、一八三一年から二次にわたるエジプト=トルコ戦争がまさにその表れであり、オスマン帝国の苦悩は深くなっていく。

ようやく帝国内部にも改革の動きが生じ、アブデュルメジト一世による一八三九年のタンジマートという上からの改革も試みられ、一八五三年のクリミア戦争ではロシアの南下は一時とどめられた。一八七六年にはアブデュルハミト二世がアジア最初の憲法であるミドハト憲法が制定されたが、翌年露土戦争が勃発したことで憲法は停止になってしまった。

近代化への苦悩と滅亡  

露土戦争(一八七七~八年)でロシアに敗れサン=ステファノ条約で大幅に国土を割かれたが、ロシアの南下を恐れるイギリス・オーストリアが介入、ベルリン会議が開催され、ベルリン条約で息を吹き返したが、アブデュルハミト二世は専制的な姿勢を強め、オスマン帝国はヨーロッパ列強から「瀕死の病人」といわれるようになった。

専制政治の打破を目指す青年トルコが決起し、一九〇八年に青年トルコ革命がおこり、立憲国家となったが、新政権は第一次世界大戦に参戦して敗れ、敗戦の混乱の中でトルコ革命がムスタファ=ケマルによって遂行され、一九二二年にオスマン帝国の滅亡(スルタン制廃止)となった。

最盛期のオスマン帝国
アブデュルハミト二世


アブデュルハミト二世時代のトルコ


オリエント急行と専制政治

アブデュルハミト二世の時代にトルコは、専制体制に逆戻りしたとはいえ、かえってタンジマート以来の「西洋化」改革の成果が首都イスタンブルのみでなく、地方にも波及し定着した時代であった。近代西欧モデルの諸学校も各地に普及し、その教師を養成するための師範学校も各地にひらかれていった。

その結果、帝国各地で新しいタイプの知識人が生まれてもいる。彼らを読者層として多くの新聞、雑誌が刊行され、近代文学も本格的創作の時代を迎えたのである。その象徴が一八八三年のオリエント急行の開業だったとも言われている。

アブデュルハミト二世の統治下で、ドイツの援助によってバクダード鉄道をはじめとした鉄道路線が大幅に延伸し、それにくわえて道路網や汽船事業など輸送手段が発達、人や物、情報の移動が容易となってアナトリア内陸部の市場化が進んだのである。言論弾圧の一方で図書館や博物館の開館、公教育の拡充も図れた。一八七一年、シュリーマンのトロイの発掘が許可されたのもこの時代である。

オリエント急行の背景

一八八三年に開業したイスタンブルとパリを結ぶオリエント急行は、のちにはロンドンにまでのび、豪奢な寝台車、舞踏会もひらけるサロン車をそなえ、欧米人にとり東洋情緒のシンボルとなった。その背景には、一九世紀後半にはじまった、西欧列強によるオスマン帝国への鉄道投資ブームがあった。

一八五六年、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道がイギリスにより敷設されて以来、列強はアナトリアでつぎつぎと鉄道利権をあたえられ、鉄道を敷設した。鉄道はオスマン帝国の経済発展をもたらしたが、同時に鉄道敷設権を通じて列強は帝国に対する政治的影響を浸透させていった。その一方で、改革と度重なる戦争の費用を外債に依存し、アブデュルハミト二世専制時代の一八八一年には総額一億九千万英ポンドに達し、身動きできない状態になっていた。

債権者であるイギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・オランダの六ケ国は管理委員会を設置し、帝国の税収の多くをその管理下に置いた。政府は緊縮財政を余儀なくされ、鉄道も外国利権に抑えられて明確な経済発展のための施策に欠いていた。

次章では、このような近代を迎えつつある時代を始まりとする、トルコと日本の交流歴史を紐解いてみたい。

トルコと日本の友好の歴史

· 一八七三年(明治六年)

フランス滞在中の岩倉使節団により、一等書記官の福地源一郎が浄土真宗僧侶の島地黙雷を伴い、立会裁判諸制度の視察のためにオスマン帝国の首都たるイスタンブールに派遣。

· 一八七六年(明治九年)

駐英公使館の一等書記生の中井弘と駐オーストリア公使館一等書記官の渡辺洪基が日本帰国途上にイスタンブールを訪問し、オスマン帝国の外相たるラーシド・パシャらに謁見。

· 一八七八年(明治一一年)

海軍軍艦の清輝がイスタンブールを訪問し、艦長の井上良馨中佐がスルタン・アブテュルハミト二世に謁見。

· 一八八一年(明治一九年)

外務省御用掛の吉田正春・陸軍大尉の古川宣誉らがイスタンブールを訪問し、スルタン・アブテュルハミト二世に謁見。

· 一八八七年(明治二〇年)

小松宮彰仁新王・妃殿下がイスタンブールを訪問し、スルタン・アブテュルハミト二世に謁見。

· 一八八八年(明治二一年)

明治天皇より、スルタン・アブテュルハミト二世に対して小松宮彰仁新王・妃殿下への厚遇に対する返礼親書及び大勲位菊花大綬章が奉呈。

· 一八八九年(明治二二年)

スルタン・アブテュルハミト二世に発意により、明治天皇に親書とイムティヤ-ズ勲章とを奉呈すべく、軍艦エルトゥールル号がイスタンブールを出港。

· 一八九〇年(明治二三年)

イスタンブール出港十一ヵ月後にエルトゥールル号が日本に到着し、特派使節オスマン・パシャらが明治天皇に謁見。約三ヶ月間に日本に滞在。帰途上九月一六日にエルトゥールル号が和歌山県・大島村・樫野崎付近で海難し、約五〇〇名の乗組員が死亡。生存者の六九名が送還のために日本軍艦の比叡・金剛がオスマン帝国へ派遣。内務省の指示により国内潜水業者の協力を得ながら大島で遺体・遺品の徹底的回収の継続。

· 一八九一年(明治二四年)

比叡・金剛のイスタンブール訪問。自社の集めた義損金(約四二四七円)献呈のために便乗した『時事新報』記者の野田正太郎はスルタン・アブテュルハミト二世に請われて士官学校の日本語講師として残留(~一八九二年)。和歌山県が『大阪朝日新聞』の義損金(約一五二円)などをもとに大島村に慰霊碑を建立。

· 一八九二年(明治二五年)

日土間の貿易起業調査のために山田寅次郎がイスタンブールを短期訪問、その際に自身らが集めた義損金(約九二円)を献呈。

· 一八九三年(明治二六年)

スルタン・アブテュルハミト二世より明治天皇に馬二頭贈呈のために侍従武官アフメト少佐が日本に派遣。オスマン帝国より大島村に三〇〇〇円の謝礼金が贈与。和歌山県の決断で同金額が村の基金とされる。

· 一八九四年(明治二七年)

小松依仁新王・長崎省吾らがイスタンブールを訪問し、スルタン・アブテュルハミト二世に謁見。

· 一八九六年(明治二九年)

陸軍大佐の福島安正が欧亜歴訪途上にイスタンブールを再訪。徳冨蘇峰・深井英五がイスタンブールを訪問。

· 一八九七年(明治三〇年)

中村健次郎がイスタンブールに到着し、ペラ大通りに面する好立地にある中村商店の店主に就任(山田寅次郎は同店主管)。

· 一九一〇年(明治四三年)

陸軍少将の宇都宮太郎が日土条約締結に向け積極的に活動。日本人初のメッカ巡礼を果した山岡光太郎がイスタンブールを訪問。

· 一九一四年(大正三年)

第一次世界大戦勃発。中村商店がイスタンブール撤退し、中村栄一が帰国し、雇用人のパスカル・レイモンドが継承して「富士山中村商店」を開店(~一九六〇年まで)。

· 一九二一年(大正一〇年)

シベリアにおけるトルコ人捕虜をイスタンブールへ移送中の日本船平明丸がエーゲ海でギリシャ軍により長期抑留(平明丸事件)。特命全権公使の内田定槌が連合国と同様に高級委員名義にてイスタンブールに着任。

· 一九二四年(大正一三年)

ローザンヌ条約の発効によって日・土の両国間に初めて国交樹立となる。

· 一九二五年(大正一四年)

イスタンブールに日本大使館、東京にトルコ大使館が開設。大阪商工会議所内に日・土貿易協会が設立。

· 一九三一年(昭和六年)

高松宮宣仁親王・妃殿下がトルコを訪問し、ムスタファ・ケマル・アタチュルク大統領に謁見。

· 一九四〇年(昭和一五年)

一九三九年一二月に発生したアナトリア大地震によって被害を受けた被災者に対して日本赤十字社からトルコ赤新月社へ一〇〇〇円が寄贈。

· 一九七四年(昭和四九年)

大島にトルコ記念館が開館。

· 一九七五年(昭和五〇年)

串本町とメルシン市とが姉妹都市提携。

· 一九八五年(昭和五五年)

トルコ・日本議員友好連盟が設立。トルコ航空機がテヘラン在住日本人をイランから救出。オザル首相夫妻が訪日。

· 二〇〇八年(平成二〇年)

アブドゥッラー・ギュル大統領の訪日、串本町大島を訪問。

深井英五。明治二九年に徳富蘇峰とともにイスタンブール訪問。同志社英学校出身。後の第十三代日本銀行総裁・貴族院議員。


エルトゥールル号の航海

親善使節団の特使には、エミン・オスマン海軍少将(日本への航海中に提督「パシャ」となり、オスマン・パシャと呼ばれた)が任命され、使節団座乗艦としてフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれたのである。

明治二十二年七月十四日、イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地のイスラム教国に教主国としての威厳を示しながら寄港、明治二十三年六月七日に横浜港に到着している。

オスマン海軍少将一行は、明治天皇に謁見し、アブドゥルハミト二世皇帝より託されたトルコ最高勲章および種々の贈り物を天皇に捧呈し、併せて両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えている。これに対し、明治天皇は、使節に勲章を授け、饗宴を開いて応対している。

台風の季節に、帰国の途へ

使節団一行は東京に三か月滞在し、その間官民を挙げての歓迎を受け、明治二十三年九月十五日、横浜港を出港、帰国の途についたのである。日本国当局は、九月が台風の季節であり、またエルトゥールル号が建造後二十六年を経た木造船であることから、出発前に修理を行うよう勧めましたが、オスマン少将は帰途が遅れないようにと、予定通り同日出港したのである。

また、航海中に船員の間にコレラが流行していたのも、帰国時期の微妙なズレが生じる原因の一つとされてもいる。


エルトゥールル号の遭難とは

一八九〇年九月一六日二一時ごろ、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、二二時半ごろに沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする六〇〇名以上が海へ投げ出された。

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、何人かが暗闇の中を灯台の明かりをたよりに断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台には逓信省管轄下の雇員二名が灯台守として勤務しており、生存者の介護とともに大島村(現在の串本町)樫野地区の区長に急報した。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った。

樫野地区の区長は島の反対側にある大島地区にいた大島村長の沖周(おきあまね)にも使者を送り、翌日午前十時三〇分頃に伝えられた。沖村長は郡役所と和歌山県庁に使者を派遣し、村に居住する三人の医師とともに午前一一時三〇分頃に現場に到着し、村民を大動員して生存者の探索と負傷者の救済を行った。

この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、六五六名中、樫野の寺、学校、灯台に収容された六九名が救出され、生還に成功した。その一方、司令官のオスマン・パシャを含めた五八七名は死亡または行方不明という大惨事となった。

大島村長の沖は生存者士官から事情聴取をすると一七日夕刻に東京の海軍省と呉鎮守府に打電し、さらに一八日早朝には村役場雇員と巡査と二名の生存者士官を領事館が林立する神戸へ派遣した。村長からの連絡により、一九日未明には和歌山県庁と兵庫県庁が第一報を受け、和歌山県庁は海軍省、兵庫県庁は宮内省に打電した。

生存者士官が向かった神戸では地方新聞の『神戸又新日報』が一九日付で号外を出し、海難を知ったドイツ領事館は神戸停泊中のドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」を大島に急行させ、生存者の大半は二一日早朝に神戸の和田岬消毒所へ搬送・収容された。

中央政府では明治天皇の賓客として迎えていたことから宮内省、外国軍艦であることから外務省と海軍省、海難事故であることから内務省と逓信省が対応に当たった。宮内省は明治天皇の意向を受け、海軍省に軍艦の急派を要請し、宮内省侍医と日本赤十字社要員を神戸経由で派遣した。このうち海軍省は八重山を派遣したが出航に手間取り、ウォルフ号に遅れをとり任務遂行を全う出来なかった。神戸の和田岬消毒所では宮内省の侍医によって生存者六九名が診察され介護が行われた。(※関連ウェブより)

樫野埼に連なる岩礁


遭難事故から生存者帰還まで


この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が遭難将兵のために寄せられたのである。

六十九名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年十月五日、『比叡』、『金剛』という二隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌明治二十四年一月二日、無事イスタンブールに入港するのである。

日本全国から義金や物資が多く寄せられた中でも、一人の若者の活動は目を瞠るものがあった。それは、当時の新聞紙上に彼の義援を求める講演会などの諸活動が頻度多く掲載されている。そしてその活動は、彼=山田寅次郎の知己で、明治文学界の巨星・幸田露伴などの小説にも記述されている。

また、生存将兵をイスタンブールへと帰還させた二隻の日本海軍の軍艦には、当時の江田島(広島県)海軍兵学校を卒業した若き海軍将校たちが練習をかねて乗船していたのである。『比叡』には、後に日本海海戦における中枢参謀となる秋山真之も乗船していた。そうである、司馬遼太郎氏の名著『坂の上の雲』における三人の主人公の一人である。(※あと二人は、正岡子規と秋山好古)

そして、その二隻の軍艦はイスタンブールへの航海途上に、スリランカに立ち寄るのである。このスリランカ寄港時に、二名の若き日本人僧侶が生存将兵の鎮撫も兼ねて乗船してくるのである。

まずは、山田寅次郎という人物にスポットライトを当ててみようと思う。

山田寅次郎とは

一八六六(慶応二年)-一九五七(昭和三二年)

上州沼田藩主(現在の群馬県沼田市)の上屋敷にて家老職の次男として誕生。英、独、中、仏、露語学を学ぶ。十五歳、茶道宗偏遍流の養子になる。『君子と淑女』という月刊誌を発刊し、幸田露伴、尾崎紅葉、福地櫻痴など文化人と交流。日本初のタウンページ「東京百事便」も発行している。露伴の一歳年上が寅次郎。

明治二十三年(一八九〇)山田二十六歳。この年の秋、和歌山県串本沖トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事故が発生する。山田は日本全国にて義援金を集め、それを届けるためトルコへ渡航。イスタンブールにてオスマン帝国アブドゥル・ハミド二世に謁見し、その後、中村商店の主管としてトルコに約二十年滞在する。

宮殿内東洋美術の分類や日土(トルコ)貿易を行うかたわら、伊東忠太(明治時代を代表する建築家)、徳富蘇峰(明治時代のジャーナリスト界の巨人)など、トルコ訪問する日本人のサポートをした。日露戦争当時、日本軍部の依頼でボスポラス海峡のガタラ塔から「ロシア黒海艦隊」の動静を見張り、その動向を欧州駐在武官を通じて情報連絡する。

トルコより帰国後は、大阪にて東洋製紙会社設立し事業家として活躍する。五七歳にして茶道宗遍流八世家元襲名。茶道の普及に力を注ぐ。 昭和三二年(一九五七)九〇歳没。イスラム教徒名、アブドル・ハリル山田パシャ(和名:新月)


ガラタ塔における山田寅次郎

ボスポラス海峡

トルコには数回(主にシルクロード遺跡の調査・地震被災支援)訪れている。ここにも、私の地球上での定点観測地点がある。それはイスタンブールにある、とあるタワーである。それは、ボスポラス海峡を望むことができる、ガラタ塔である。

このガラタ塔界隈は、トルコでも歴史のある下町が広がっている。明治時代、この塔に毎日のように登っていた日本人がいた。イスタンブールの虎、と呼ばれた『山田寅次郎』である。山田寅次郎は、とある目的のためにこの塔に登っていた。それは、ロシア黒海艦隊の動向を監視するためである。

トルコという国は、地政学的にも、文明学的にもやはり境界線上にあると思う。西洋人にとってみれば、この国から『アジア』が始まり、『イスラム教』との接点である。

さらに、この国は海峡を抱えている。ボスポラスは、東に『黒海』、西に『地中海』を結ぶ結節点である。地中海は、ジブラルタル海峡を通過すると大西洋へとつながる。一方黒海は、どんづまりとなり、その最奥部分にはクリミア半島などがある。ロシアという大国は、この『どんづまりにある黒海』に、いつも悩まされてきた。

不凍港を求めて南下政策をとる歴史の中で、国土の東(沿海州)はあまりに首都から遠すぎる。バルト海は、一年を通じての不凍港とはならない。そうすると、黒海のクリミア半島あたりしか選択肢がないのである。

クリミア半島から海路、外洋(大西洋という意味)に出ようとすると、まず接触するのがトルコなのである。トルコは、西洋と東洋、キリスト教とイスラム教の接点だけでなく、ロシア文明とも長らく背中越しに、肌を合わせてきているのである。

それだけに、この国の動向や内情は、大きく世界情勢に影響を与えることが歴史上でも証明されている。ガラタ塔のあるイスタンブールの下町には、あらゆる国からの情報収集屋(スパイ)が集っていると聞く。言ってみれば、ガラタ塔は、現代のバベルの塔なのかもしれない。

日露戦争当時、日本海軍の最大憂慮事項はロシア艦隊の動向であった。当時のロシア艦隊には主に三つの主力艦隊があった。それは、バルト海を拠点とするバルチック艦隊、クリミア半島には黒海艦隊、そしてウラジオストック周辺の極東艦隊である。

当時の世界情勢においては、この三つのロシア艦隊は世界最強といっても良いだろう。日露戦争とは、このような世界最強の海軍と陸軍を有する大ロシアと対峙するといった、世界中から無謀をも見なされる戦いを挑んだものであった。

旅順港に停泊する極東艦隊を、後に軍神となる海軍軍人・広瀬武夫らによる封じ込め作戦や、乃木希典率いる陸軍の第三軍による二〇三高地攻略などの推移を見守りながらも、日本軍部にとっては、ロシアのバルチック艦隊・黒海艦隊の動向は最大懸念であった。

最終的には、東郷平八郎や秋山真之率いる連合艦隊が、日本海海戦にてバルチック艦隊を撃滅することによって、一挙に形成が逆転し始めるのである。同時進行していたのは、欧州各地にての陸軍軍人・明石元二郎による後方攪乱戦による帝政ロシアへの反体制活動である。

内部から崩壊し弱体化する帝政ロシア軍は、満州にての陸戦によって最終的に白旗を挙げることになるのである。黒海艦隊の動向を監視していた山田寅次郎、そしてバルチック艦隊を粉砕した秋山真之の両名とも、エルトゥールル号遭難事故に深く関与しているのである。

ガラタ塔
坂の上のミュージアム展示物


秋山真之とイスタンブール

『坂の上の雲ミュージアム』

松山にて『坂の上の雲ミュージアム』を訪れたことがある。司馬遼太郎氏の著作にて、あまりにも著名になった秋山兄弟や正岡子規が幼児期を過ごした愛媛県松山市にある。この小説『坂の上の雲』は、日露戦争の命運を分けた『日本海海戦』がクライマックスとなる。

バルチック艦隊を粉砕する陰の立役者・秋山真之が、この名作の実質上の主人公であろう。ミュージアムにても、秋山真之に関する展示物はとても充実している。その中で私にとってとても重要な展示スペースがあった。

それは、トルコの軍艦・エルトゥールル号の遭難事件に関連する展示物であった。秋山真之は、遭難後に生存したトルコの兵隊を、日本の軍艦にて明治二四年一月にイスタンブールまで送り届けるのである。

地元住民の命懸けの救難活動で助かった六九人の生存者は、日本海軍の軍艦「比叡」と「金剛」に乗り、トルコへと帰還していったのである。この両艦は広島・江田島の海軍兵学校を卒業した候補生たちの訓練と航海先での情報収集を兼ねた練習艦隊の役割を担っていた。

そして軍艦・比叡には、後に日露戦争の日本海海戦で連合艦隊作戦参謀として活躍する当時、少尉候補生だった若き秋山真之も乗艦していたのである。そして、イスタンブールで若き訓練生たちは、当時の世界最先端の軍事兵器物を見るのである。

それは、オスマン帝国(トルコ)海軍が導入していた世界初の魚雷水中発射が可能な潜水艦だった。生存者を故郷・トルコへ送り届けた「比叡」と「金剛」の航海は、海軍兵学校を卒業した候補生たちの訓練と同時に航路上の各港の情報収集も兼ねた練習艦隊でもあった。

その報告書には、途中に帰港したシンガポールやコロンボの港湾形状確認、政情、物価調査なども記録されていたという。

この翌年・明治二十五年に血気溢れる特異なキャラを持つ若者が、イスタンブールへと雄飛するのである。それが、山田寅次郎である。単身イスタンブールへ渡航した彼は、トルコ皇帝に気に入られ、イスタンブールに長期滞在した後、日本とトルコの民間外交の主翼を担っていくのである。

私は、この山田寅次郎の足跡を辿る踏査をイスタンブールにて実施したことがある。ボスポラス海峡そばのガラタ塔や寅次郎が残した甲冑が展示されているトプカプ宮殿などなどを巡っている。

イスタンブールのトプカプ宮殿
山田寅次郎が進呈した甲冑と日本刀

大谷光瑞とトルコ

シルクロードの仏教遺跡への探検家でもあり、浄土真宗本願寺派第二十二世法主であった大谷光瑞は、生涯を通じてトルコを四回(最近の調査では五回)訪れている。一回目は一九〇一(明治三十四)年六月。欧州滞在中に、オスマン時代のイスタンブルに十日ほど滞在している。

二回目は一九二六(大正十五)年四月六日から五月十三日にかけてである。彼は、一九二三年のトルコ共和国建国以降、農業や殖産興業の連携先としてトルコに注目していたのである。一九二五年十一月には、門下生の後藤智をオスマン時代以来の名門男子校であるガラタサライ校に留学させている。

後藤はトルコ語とフランス語を現地にて学習し、現地トルコの政治・経済・文化の情報を大谷光瑞へと流していくのである。また、大谷光瑞は日土貿易協会の発足式などにも出席し、トルコへの投資に多大なる関心を寄せてもいる。

当時の日土貿易協会は、大阪商業会議所(現大阪商工会議所)の内部に設けられた社団法人であり、その理事長は山田寅次郎であった。ここで、山田と大谷光瑞がトルコを通じて知己となっているのである。特に山田を中心とする貿易協会は、大阪を起点としイスタンブルを経由する交易ルートの開拓に精進していたのである。

大谷光瑞はトルコ滞在期間中に、現地の農務大臣などと面会しトルコ各地にて農学校、蚕業学校、種畜場などを視察している。そして、ブルサにある官有地カラジャベイを視察し、その租借を農務大臣に申し入れてもいる。ブルサには光瑞が好む温泉もあり、いたく気に入ったようでもある。

その後、トルコの農務大臣の許可を受け、同地での農場経営などを始めるのである。このような経緯もあり、軍艦エルトゥールル号遭難現場には、大谷光瑞により揮毫された慰霊碑が建立されることになったのである。

晩年の大谷光瑞
大谷光瑞の碑文

生還者を送還途上、スリランカから乗船した僧侶

トルコ軍艦エルトゥールル号遭難のトルコ側生存者を、日本の軍艦がイスタンブールまで送っていく際、スリランカに立ち寄っている。その時のスリランカでは、浄土真宗の二人の僧侶が上座部仏教の勉強をしていたのである。

二人の名前は、小泉了諦=こいずみ・りょうたい(浄土真宗誠照寺派)と、善連法彦=よしつら・ほうげん(浄土真宗仏光寺派)である。善連法彦は、仏教学の泰斗・南條文雄の親戚筋にあたる。二人の若い浄土真宗僧侶は、艦内にいる生存したトルコ将兵を説法にて慰めたのである。その慰めと励ましに感銘を受けたトルコ側は、この二人の僧侶をトルコへと誘うことになる。

その僧侶らは、日本の軍艦に乗り込みトルコまで同乗した。さらに二人はトルコ滞在後、フランスのパリへと向かうことになる。パリでは、ギメ博物館にて知識人・著名人の前で報恩講を執り行っているのである。小泉は一八八九年、神智学協会のオルコット(Henry S. Olcott)とダルマパーラ(H.Dharmapāla)の来日を契機に、セイロン(現スリランカ)に留学している。善連はそれより早く一八八八年、まず生田(織田)得能(浄土真宗大谷派)と共にバンコクに渡り、まもなく単身コロンボに転学している。

コロンボで小泉と善連は、神智学協会等に寄宿しながら、釈興然(真言宗・目白僧園)、東温譲(浄土真宗本願寺派)、徳澤智恵蔵(本願寺派)、川上貞信(本願寺派)、朝倉了昌(大谷派で小泉の実弟)と共に仏教学院ウィドヨダヤ・ピリウェナでパーリ語,梵語などを学んでいる。

彼ら二人は、日本海軍の練習艦「比叡」と「金剛」に便乗してイスタンブル(コンスタンティノープル)まで行き、そこからさらに、パリ・ロンドン・オックスフォードまで足を延ばし、イスラーム圏やキリスト教圏を視察したのである。その中で、一八九一年二月二十一日にパリのギメ博物館(現国立ギメ東洋美術館)において真宗の報恩講を挙行している。

浄土真宗の学僧で最初にスリランカに学んだのは仏光寺派の善連法彦であろう。一八八八年(明治二十一)年二月、大谷派の織田得能とタイにいた善連は単身コロンボに赴く。善連はそこでダルマパーラと親交を結んでいる。善連とダルマパーラは西本願寺普通教校に設立された反省会に度々書簡を送り、ふたりの書簡は機関誌『反省会雑誌』(後の『中央公論』)に掲載された。

同年(一八八八年)の年末、『反省会雑誌』の編集員のひとり東温譲がスリランカに向けて旅立つ。反省会に集ったメンバーたちがインド・スリランカ・チベットに大きな関心を寄せていたことは、反省会自身が仏教再生の理念を高く掲げていたこともあって、とりわけスリランカの仏教復興運動とは密接に結びつくこととなる。

その反省会の主要メンバーのひとりが沢 井(小林)泡、後の高楠順次郎であった。高楠は普通教校で海外宣教会のメンバーでもあり、宣教会の機関誌『海外仏教事情』にはダルマパーラやオルコットの論説書簡がたびたび載った。高楠がロンドンへ留学する途中、コロンボでダルマパーラと会っていることも『海外仏教事情』(第10集)から知り得る。

一八八九年(明治二十二)年二月九日、オルコットとダルマパーラが来日し、日本各地で講演活動をして日本仏教界に大きな刺激を与えた。オルコットはスマンガラ僧正の親書を携えての来日であったが、彼らが帰国するとき同行してスリランカに渡ったのは浄土真宗の僧侶ばかりであった。この年ダルマパーラは、本願寺派の徳沢智恵蔵を伴って帰国する。

おくれてオルコットが帰国するが、同行したのが川上貞信(本願寺派),朝倉了昌(大谷派),小泉諦(誠照寺派)の三名である。島地大等にスマンガラ僧正への紹介状を書いた川上貞信はこの時スリランカへ渡ってスマンガラ僧正の知遇を得ていたのである。ダルマパーラの書簡によれば、川上・小泉はスマンガラ僧正の学林でパーリ語を修め、東・徳沢はバツウォンダベについて梵語を学んでいたという。

ギメ博物館での報恩講図
晩年の小泉了諦

神智学協会と近代日本の仏教界


そもそも「神智学」、「神智学協会」とはいったい何なのか?という疑問を持たれている人もいるだろう。かくいう私自身も、二十年前くらいに深層心理学者のユングを調べている際に、ユングと同じくスイスに拠点を持っていたルドルフ・シュタイナーという人物に関心を持ったのである。

このルドルフ・シュタイナーは『人智学協会』を立ち上げ、神秘思想の推進者である。ただ、彼の思想を継承したシュタイナー教育などでも知られている。このシュタイナーの人智学(アントロポゾフィー)と称する精神運動は、そもそも神智学協会の神智学運動から派生したものである。

シュタイナー自身、神智学(人智学と紛らわしいが)協会のドイツ支部事務局長も務めているほどである。シュタイナーも一時期心酔した神智学。その代表的な創始者が、写真の二人である。女性は、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。男性は、ヘンリー・スティール・オルコットである。

スリランカから乗船した浄土真宗僧侶・小泉は、このヘンリー・スティール・オルコットが来日した際に関係性を構築し、オルコットがスリランカへ帰国する際に、川上貞信(浄土真宗西本願寺派)、朝倉了昌(同東本願寺派)とともに同行している。

ブラヴァツキーは、謎多い女性であり、世界各地を放浪している時期もある。チベットの覚醒者(マハトマ)と往信する術を持った霊媒師的存在でもあった。諸説はあるが、彼らは欧米におけるキリスト教的精神世界と東洋の仏教的精神世界の融合を図ろうとしたといわれている。

当初協会本部はニューヨークにおかれたが、後にインドのチェンナイ(旧マドラス)南部、アディアールに移されている。インドに移ってからの神智学協会は、特にスリランカの仏教復興運動に多大な影響を与えていくのである。

さらに、明治20年代~30年代に日本でおこった近代仏教革新運動における、小泉らをはじめとする南アジアへの留学僧などとも深い関係を持っていく。また、インドの神智学協会支部(バラナシ)では、一時期チベットへの潜入僧であった河口慧海も逗留していたのである。

今では、日本仏教界にては神智学協会などの知名度は無きに等しい状態である。が、明治三十年代の日本における仏教革新運動にては、神智学協会が与えた影響は計り知れないのである。その影響を受けた一人に、鈴木大拙がいる。

鈴木大拙と神智学

鈴木大拙という人物を知らない人は少ない、と思いたい。日本よりも欧米にて彼の知名度は仏教真理紹介者として非常に名高い。日本の「禅」を欧米に英語にて紹介した人物として評価されているが、実は彼と神智学との関係性は非常に深いのである。

まず、彼の夫人でアメリカ人女性のベアトリスさんは、神智学協会員であった。大拙師の晩年・京都の大谷大学で教鞭をとられていた頃、夫人は京都にて神智学の活動を展開していた。また、彼の古くからの大親友である、日本最初(といっても良いだろう)哲学者である、西田幾多郎も大拙師から神智学を紹介されている。

若いころの大拙師は、インド(スリランカ)あるいはチベットへの渡航を計画していたといわれている。明治二八年にはスリランカでの修行経験がある釈興然のいる横浜の三会寺でパーリ語を学んでもいる。また、鎌倉の禅寺へと参禅(なんと東京から徒歩にて鎌倉へと通っている)している。

その禅の師匠・釈宗演の元で禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う。後に妻となる彼女の影響もあり、大拙師も神智学教徒になっている。その後にはチベットが探求の目的地となってゆく。同時期には、河口慧海や能海寛のようにチベットを目指す仏教者が出てくるが、大拙もそうした一人であったわけである。

明治二十年~三十年にかけて、日本仏教界においては各種の革新運動が盛んになっていた。その中でも、若手改革急進派には、神智学への評価がとても高かった時期があり、それは次のような主張を生んでいく。

『神智学が西洋において信仰世界を救いつつある。神智学の源泉であるチベット仏教の神秘主義を探るべきだ』という主張である。そんな仏教革新的活動を経て、大拙師はチベット行きの前段階として、明治三十年二月アメリカに渡航するのである。

これは、ポール・ケーラスというドイツ系アメリカ人の作家、編集者、比較宗教学者からの招きで、雑誌編集の手伝いとして渡米するのである。それ以降、鈴木大拙の英語力によって、仏教(特に禅仏教)の真髄が英語圏の国々に浸透していくのである。

神智学協会創立の2巨頭


エルトゥールル号遭難時の恩返し
 イラン・イラク戦争時におけるエピソード


石油輸出のルートが絡む国境線争いなどを背景として、一九八〇年イラン・イラク戦争が勃発している。、その前年イランでは、ホメイニ師を指導者とする革命で親米のパーレビ朝が倒れていいる。まだ革命の余韻が覚めない翌年に、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は、攻撃を開始したのである。

この戦争は、シーア派、スンニ派というイスラム教内の宗派対立も背景に、石油利権やイラン革命に対する欧米各国、周辺諸国の思惑が絡み複雑な経過をたどっていくのである。たびたび攻防は逆転し、戦闘は拡大と沈静を繰り返した。

そして、戦火は拡大していき、一九八五年三月には無差別に互いの都市部を空爆しあう事態にまでになる。当時イラクはアメリカの支援を受けており、イランの首都テヘランへの空爆は過激さを増していた。そして、イラク側から「今から四八時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」との声明が発せられる。

世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られてしまったのである。イランのテヘランに住んでいた日本人は、イラクからの空爆に晒されながら右往左往するしかなかったのである。

そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国だったのだ。トルコから駆けつけた救援機二機により、テヘランに残されていた日本人二一五名全員がイランを脱出することに成功したのである。イラクのサダムフセインが声明(無差別攻撃)していたタイムリミットのわずか一時間前の脱出劇だったのである。

当時、テヘランに居住していた多くのトルコ人は、トルコからの派遣機ではなく、なんと陸路にて避難をしている。トルコ政府は、自国民よりも日本人の避難を優先してくれたのである。そのトルコ政府の決断には、明治時代のエルトゥールル号遭難という歴史的事象が大きく関与していたのである。

後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語っている。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

当時の毎日新聞







和歌山県串本町大島

トルコ軍艦エルトゥールル号

2023年10月12日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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