───────────────────────
───────────────────────
この調査記録は、2004年度に実施された日本山岳会100周年記念事業『河口慧海の足跡・学術調査隊』の報告書へ寄稿した内容である。
比較文化調査やチベット交易調査、チベット活仏へヒアリング調査、そして白巌窟同定策定に至る各調査報告が主になっている。
人生には数々の出会いがあります。後で振り返ると、その時の出会いが人生のターニング・ポイントであったと思うことがあります。来日中のダライ・ラマ14世と出会った同志社大学の学生時代が、まさに私にとっての『その時』だったように思います。
ヒマラヤの山河を、馬の背に揺られながら、『その時』からの日々を私は振り返っていました。学生時代は無鉄砲で荒削りで、無分別な、思慮より先に足が出てしまう若者特有の行動者であったと思います。
社会人、家庭人となり分別と責任感が多少身についたと感じた頃、下腹と魂に余計な贅肉がついていることに気がつきました。喉の渇きを覚えるように、『これではいけない』、と思っていた頃に和田兄から今回の遠征の誘いを受けました。
お題は『河口慧海』。共稼ぎの女房や育ち盛りの三人の息子の顔をチラチラと横目で見ながら、どうしても心はチベットの青い空へと飛んでゆきます。文献や資料の中では、明治時代の熱き情熱をもった青春群像が躍動していました。
遠征隊への参加を決断してからも紆余曲折の日々・・。しかし『その時』から約20年後、私は再び馬上から熱き吐息をヒマラヤへ投げ掛けていました。そして緊張感という名の鋭利なナイフは、私の魂と下腹の贅肉を見事に削ぎ落としてくれたのです。でも、ダメです。
日常っていう厄介なシロモノは、音をたてずに新たな贅肉を身の回りに侵入させてきています。許されるのであれば、新たな贅肉を削ぎ落とす旅への準備を始めなければ、と思っている今日この頃です。
このたびの遠征へのご支援、ご協力を深く感謝いたします。ありがとうございました。
※遠征帰国後、中間報告書に記載
本年は日本山岳会創立百周年。百という数字は、昨年も注目をあびていた。日露戦争開戦百年である。1904年秋、乃木将軍率いる第三軍は、二〇三高地を含む旅順のロシア軍要塞に幾度となく攻撃をかけていた。
同じ秋のある日、ひとりの日本人僧侶が二回目のチベット旅行に向けて神戸港を出発した。僧侶の名前は河口慧海。その秋、彼は三十九歳になっていた。1904年は明治でいうと三十七年。明治という時代は彼が二歳の時に産声をあげたのである。そして昭和二十年、彼は脳溢血で八十年の生涯を終える。明治、大正、昭和とまさに彼の人生は、日本の近代史とともに歩んで来たといえる。
川喜田二郎氏は、『第二回チベット旅行記』(講談社学術文庫)の巻末に次のような一文を寄せている。「河口慧海は、あの偉大な明治という時代の生みおとした精華である」西欧列強が驚愕した明治維新という大革命は、なにも外部からの圧力や文化の流入という消極的な受けいれの精神だけではできるはずがない。新生日本の深部から胎動する精神のうねりというエネルギーが、明治という時代を築いていった。その「明治の凝った美しい花のひとつ」が河口慧海であるとも述べている。
私はチベット高原にてこの一文に触れたとき、遠征にかける自分の動機の根源に出会ったような気がしていた。今回の遠征は、日本山岳会百周年記念事業でもあり、日本山岳会関西支部七十周年を記念する学術登山隊であった。私は大学山岳部の先輩で、東海支部の和田豊司氏と二人だけで構成する河口慧海足跡踏査隊に所属した。
昨年八月中旬に日本を出発し、その三日後には西ネパールのドルポ地区へと向かう馬上の人となっていた。いきなり四千メートル台の峠越えが待ち受けていた。『チベット旅行記』にも記述されている、千尋の谷やいまにも崩壊しそうな断崖絶壁の道などが百年の時を超えて行く手に立ち塞がっていた。ムスタン地区のジョムソンを出発し、約一ケ月後帰着するまで総移動距離約四百五十キロのほとんどを四千メートルを越える高地で過ごす調査が続いた。
今回のネパール側における調査の主な目的はふたつあった。ひとつは、慧海師のチベットへの潜入ルートの策定。チベット旅行記には、当時潜入に関係した人たちへ迷惑がかかることを配慮し、詳細なルートの記述をあえてしていない。このことが後世に謎解きの作業を残しておいてくれたのである。もうひとつは、慧海師の百年前、そして川喜田二郎氏の隊が訪れた約五十年前から現在へと、ドルポ地区の自然環境ならびに生活環境の変遷を記録し比較検討することである。
日中は絶えず地図とにらめっこだった。毎日のように「あっちの峠かな~?、こっちの谷かな~?」と無精ヒゲ面の中年男が額を寄せての、全く色気のない二人談議。また交易商人や遊牧民、そして巡礼団の姿を遠くに認めると、左手はポケットに忍ばせたフィールドノートへ、右手は胸に差したペンへと、早業師の如く反応している自分がいた。
学生時代にインドのチベット難民キャンプで半年勉強したチベット語が二十年の年月を超えて蘇ってもきた。毎日毎日の行動記録や取材事項を、キャンプサイトに着くなり、その日のレポートとして厭わず清書している自身の意外な一面を再発見したことも収穫のひとつであった。神話や伝説などの物語や、敬虔な信仰心や伝統医療などが色濃く残る、まるで童話や昔話のような世界を旅していたように思う。
一旦、カトマンズに戻り後半の一ケ月はチベット高原での調査にあてることになっていた。空路太陽の都ラサへ飛び、そこから四輪駆動車にて延々とヒマラヤの北側で、ドルポ地区の反対側にある未開放地域へと向かった。未開放地域への入域はいつもワクワク・ドキドキするものである。
手つかずの自然景観もさることながら、そこに住む人々の異邦人に対する態度も手つかずだからだ。荒削りで、素朴で、時にはあからさまだけれど、どこか奥深い部分で温かい体温が感じ取れる態度。私にとってそれは、なぜか背中を後押しされるような、ほのぼのとした応援歌のようにも感じられるのである。
ナクチューシャンという未解放地域での滞在中も、期待通りのほどよい温度で、身体から余計な力が抜けていった。ナクチューシャンには、慧海師がチベット潜入後立ち寄ったと記述している白巌窟らしき場所がある。この白巌窟の場所が特定できれば、旅行記の記述をその場所から逆算してゆき、慧海師の越境ルートも策定できる。
旅行記に白巌窟は、(ゲロン・ロブサン・ゴンボ・ラ・ギャプス・チオー)なる高僧の住む洞窟となっている。洞窟の場所確定への手がかりといえば、早口言葉のように長い高僧の名前くらいだった。ネパール側でも交易商人やゴンパの僧侶たちなど出会う人すべてより、この早口言葉のような名前からの糸口を掴もうとした。しかし百年前の記録と記憶の残り香は、現在の人々の生活周辺から少しも嗅ぎ取ることができなかった。
そんな閉塞的な調査の進捗状況の中、私には遠征出発前から心の片隅に絶えずあった疑問がふつふつと湧き上がって来た。それは河口慧海という人物の情熱の源泉とは何だったのだろうか、ということである。現在でもなお過酷で危険度数の高い地域を、充分でない情報や装備しか持たず、幾度も絶体絶命のピンチを目の前にしながらも初志貫徹する。
そんな彼自身を幾多の苦難から守ったもの、それは自らに課せた使命感と誇りある信念という心の装備だった。その心の装備は、私を含め現代の日本人が忘れがちになっている、人生への清涼感を育んでゆく。慧海師の情熱の源泉は、そんな人生への清涼感を求めることにあったのではないだろうか。
そんなことをチベット高原で考えていた時に、川喜田二郎氏の一文に触れたのである。越境ルートの策定や洞窟の場所の特定といった地理上の調査を行いながら、もしかすると私は明治時代の格調高い精神の軌跡を追おうとしていたのではないだろうか。それが私をこの遠征へと駆り立てた動機の根源にあったような気がしてならないのである。
司馬遼太郎氏は、『明治という国家』(NHKブックス)の中で明治という時代を次のように記述している。『明治は、リアリズムの時代。それも透き通った、格調の高い精神で支えられたリアリズムだった。』と。
探検家として、求道者としての慧海師の偉業は、西ネパールや西チベットの情報が公開されるほど評価の度合いが増すことだろう。それは、彼の行動の一部を追体験した者として確実に言える。昨年十二月、慧海師の自筆の日記が発見された。そこには旅行記の謎を解き明かすヒントが数多く記述されている。それ以上に淡々とそして克明に行動の記録が記されており、その一字一句からは、彼の明確な使命感と意志の強靭さが滲み出て来ている。日記の発見は、彼への賞賛の言葉にさらなる重量感を与えてゆくことだろう。
『河口慧海は、明治という時代の精華である』この川喜田二郎氏の言葉に私は共鳴感を覚える。慧海師の行動は、明治時代の青春群像という氷山の一角だったように思う。百年前の私たちの国では、一人一人の市井人が心の清涼感を求めて生きようとしていたように思う。
そこには時代の「うねり」というエネルギーが胎動している。これから増えてくるであろう慧海師への賞賛の言葉は、同時に明治時代の透き通った、格調高い精神へも向けられるようになるであろう。私は今回ヒマラヤ山中やチベット高原で、巡礼団や交易キャラバン隊の馬のひずめの音とともに、百年前の時代に生きた人々の足音を訊いていたのかも知れない。
※2004年記述
1866年(慶応2年) 0歳 大阪堺にて樽職人の長男で生誕。
★江戸幕府初めて海外渡航を認める。同年10月、第1号の海外行免状が発布される。第1号は東京神田に住む浪五郎という人物に2年間、アメリカへの商用を目的とする渡航免状が渡されている。
1877年(明治10年)12歳
★海外行免状が改められ、外務省からの海外旅券となる。
1886年(明治19年)21歳
★南方熊楠アメリカに渡る。明治25年英国へ。
1890年(明治23年)25歳 黄檗宗の僧侶としての得度をする。
★小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)初来日
1894年(明治27年)29歳
★日清戦争始まる。
1896年(明治29年)31歳
★初の欧州定期航路が日本郵船により開業。片道50日。
1897年(明治30年)32歳 第一回目のチベット行き出発する。
1899年(明治32年)34歳
★島根出身僧侶・能海寛東チベットにて消息絶つ。
1900年(明治33年)35歳 チベットの国境に到達。
★パリ万国博覧会開催 川上貞奴一座パリ興行。
1901年(明治34年)36歳 チベットのラサでの修行が始まる。
★スウェイン・ヘディンのチベット遠征。
★岡倉天心のインド旅行。「茶の本」は明治39年出版
1902年(明治35年)37歳 チベット脱出。
★日英同盟調印。
★第一次大谷探検隊出発(~1904年)
1903年(明治36年)38歳
★永井荷風23歳ではじめてのアメリカ行き。
1904年(明治37年)39歳 西蔵旅行記出版。ベストセラーになる。同年10月第二回遠征に出発する。
★2月ロシアへ宣戦布告。10月〰12月旅順大攻防戦。
1905年(明治38年)40歳
★日露講和条約締結。
★日本力行会冒険倶楽部発会
1906年(明治39年)41歳
★高村光太郎ニューヨークへ旅たつ。
★朝日新聞が満韓巡遊船のパック旅行を募集する。
1909年(明治42年)44歳
★山岡鉄太郎(29歳)が日本人初めてメッカ巡礼。
1910年(明治43年)45歳
★日本が韓国併合する。
1911年(明治44年)46歳
★矢島保治郎始めてのチベット旅行。
1912年(明治45年)47歳
★現在のJTBの前身会社が創立。
1915年(大正4年) 50歳
11年間に及ぶインド・ネパール・チベットの旅より帰国。
1926年(大正15年)61歳 還暦を機に僧籍を返上する。
1945年(昭和20年)80歳 脳溢血で倒れる。2月24日死去。
■マルファ村
●人口約800人(但し約半数、特に若年層は、カトマンズやポカラなどに出ている。●戸数200●寺院数(1)という説と(4)という説がある
●学校数(1).クラス10までの学校あり。(シャン村にはクラス8までの学校。ジョムソンにはクラス10までの学校がある。)
●医療施設;ヘルス・ポストがある。ネパールでは医師を3つに分けている。① MBSSドクター ② HA ドクター ③ CMA ドクター。マルファには③のドクター、すなわち薬の専門家が常駐するヘルス・ポストがある。ヘルス・ポストは、他にはジョムソン、シャン、ツクチェにある。
●葬送儀礼;30年前までは、全てが土葬であった。現在は、他所からの人も増え、また土葬の場所が無いという事情もあり、火葬も増えている。
●トルボ地区との関係性;被調査者であるインドラ氏はトルボには行った事が無い。また、シャンやマルファの住人はトルボへ行った事の無い人が多いらしい。ツクチェに戻る若者にも聞いた所、現在ツクチェの住人もほとんどがトルボへは行かないそうである。
被調査者名;インドラ・バハドゥ-ル・タカリ-(60才・男性)
シャン村の農夫、妻1、息子4(一人はカギュ派の僧侶)娘1
■河口慧海記念館(マルファ)
この記念館は僧院ではないのでラマはいない。アダム・ナリン氏の子孫の家族構成は下記の通り。アダム・ナリン氏の孫にあたる、Subarna Laljung(53才)が現在の当主。現当主には、3人の息子と一人の娘あり。
長男;Suraj Laljung(30才)カトマンズで自由業生活
次男;Niraj Laljung(27才)シッキムの僧院でカルマ-パ派の僧侶。
長女;Sardina Laljung(昨年クラス10を卒業)現在実家の家業(ホテル・マウント・ビラと昨年はじめたベーカリー)を手伝っている。
三男;Feroj Laljung=被調査者
●当主は昨年ホテルとベーカリーを開業したが、営業不振で悩んでいるらしい。
それまでは農業していた。
●経典;納められている経典は108ある。金文字で書かれた古い経典は2巻。3年に一度、春先にマルファの僧侶がやって来、プジャ(供養)をしてくれる。このプジャは1日で終る。1年に一度、仏陀の生誕日に記念館の経典全部を外へ出し、マルファ村の中を一巡する行事がある。また、この記念館には、1年間で30~40人程度の日本人が訪れるらしい。
被調査者名;Feroj Laljung・フェロジ ラルジュン(学生・クラス9)アダム・ナリン氏の曾孫にあたる。
■パレック村
●村名の由来;パレックという言葉は、英語では(a lot of)を意味し、『多い』ということらしい。何が多いかは不明。
●人口500●戸数70~80●寺院数(1);サキャ派。僧侶の数は全員で15名らしい。●学校数(1);クラス5まで。生徒数32名、先生は4名。
●葬送儀礼;水葬、火葬、土葬、鳥葬の決定はラマがおこなう。現在多いのは火葬。鳥葬の時に呼ぶ鳥を(チャ)と称する。昔は鳥葬の時に高僧が読経すると鳥が飛んできたが、最近のラマは鳥を呼んでくるくらいの読経の力がないという。
●婚礼;被調査者の姉もサンダ村からパレック村へ嫁いできたが、現在は家族でポカラへでてしまったらしい。被調査者自身は、サンダ村より20才の時にパレック村へ嫁いでいる。
被調査者名;Panney Gurun(39才・女性)テントサイトとして借りた敷地の婦人。サンダ村から嫁いできた。7人の子供の内、二人はすでに死亡。現在17才の長男をはじめ、息子3、娘2。息子のうち次男は村内のゴンパ(サキャ派)で僧侶。
■ダンガルゾン村
●村名の由来;ダン=昨日を意味する。チョゾン=終った、を意味する。このふたつの言葉が合わさって、ダンガルゾンとなったらしい。
●人口300●戸数32●寺院数(1)ラマ僧1人●学校数(1);クラス5まで。先生4名。
被調査者名;Purna Gurun(30才・男性)馬方。ジョムソンの対岸の村・ティニ村住人。
被調査者名;kando Takari(35才・女性)ダンガルゾン村の住人
■サンダ村
●村名の由来;サン=才能豊かを意味する。ダ=見るを意味する。昔、才能豊かな人がここに村を作るといった。昔は対岸に村があり現在の村は昔の村のカルカ(ビリンとも呼ぶ)であったらしい。
●人口57人
●戸数13
●寺院数0
●学校数1(クラス5まで・先生1人・生徒4人)
●ラマ僧に関して;寺院は0であるが、現在ラマ僧一人が住んでいる。このラマ僧の名前はトゥプテン・ラマ(72才)ゲルク派の僧侶。ダライ・ラマ亡命時にムスタンを越えてネパールに入った。ラサではセラ寺にいた。ネパールへ亡命後、インドのダラムサーラに6年いた。その後カトマンズに長く住む。5年半前にこの村に来る。カトマンズにいる時に、シェ-・ゴンパへ巡礼に来た事がある。その時にこの村に僧侶がいないことを知り、それから住むようになった。
被調査者名;Yam Kumar Takari(35才・男性)学校の先生。赴任3年目。マルファ村出身。妻子をマルファに残しての赴任。
■ツァルカ村
●村名の由来;ツァ=塩を意味する。カ=柱を意味する。
●人口400
●戸数70
●寺院数(2);ボン教の寺院1、ラマ教寺院1、そして本流の対岸には廃寺1.
●学校数(1);但し、外国NGO資金による学校。先生はチベット難民の男性1、女性1とネパール人男性1.
●医療施設;西洋医学の施設はないが、アムチー(チベット医師)2名。Dawa Tenjingとンガ・トゥックの2名。
●葬送儀礼;冬は水葬、夏は火葬、鳥葬は随分昔を最後におこなっていない。
●婚礼;結婚式は2~3日間の行事。サンダの村民同士の結婚の場合が多い。
●村落地区名;川(支流)を挟んで2つの地区に分かれる。川の西側の台地の上には、昔からの地区(ツァルカ)、そして川の東側には、新しい地区(ツァルカ・タシ・リング)。この二つの地区を、根深氏援助の橋が結んでいる。
●溜まり場;村内唯一の「酒房・Hotel TOTAKE」の内部は8畳くらいのスペースの部屋が中心であり、その中央にストーブあり。また、天上にはソーラー・バッテリーの供給する薄暗い蛍光灯もある。この部屋の柱は、ム村から運んできているらしい。このホテル(といっても普通の民家)は、交易人たちの溜まり場ともなっている。
被調査者名;Dhotaku Gurun(35才・男性)村内唯一の酒房(Hotel TOTAKE)の主人。妻はパルデュン・グルン(35)、息子1、娘1.
■□ツァルカ村のボン教寺院
現在のゴンパは15年前に本流の対岸にあった場所から移転した。移転の理由として、5年前と11年前に対岸ゴンパへの綱渡り途中、腰紐が切れて人が溺死する事件があったらしい。人命に係わるので移転させた。
ラマ・タシの家系図;
Tenjing Gyalchen-
スップ・Gyalchen|
―Lama Nima (長男)
―Nima Tsechen (次男)※
―Lama Sewan (三男)
※Nima Tsechen―
|―Yundung (長男・67才)
-Namga (長男)
-Sonam Rinjen(次男)
-名前不明 (長女)
|―–Gyarchen (次男・死亡・存命であれば65才)
|―-Mingyul (三男・61才)
|―-Kipal (長女・60才)
|―-Samden (次女・55才)
|―-Lama Tashi(四男・50才・被調査者・非婚)
●ボン教のゴンパの責任ラマ僧の系列図
Tenjing・Gyalchen→スップ・Gyalchen→Lama・Nima→Nima・Tsechen→
Lama・Tashi
●現在のゴンパには、非婚ラマ一人(ラマ・タシ)のほか、在家(妻帯者)僧侶が30名いるらしい。妻帯在家僧侶のことを(ンガプ・パ)と呼ぶ。村内には、ニンマ派のゴンパがひとつある。在家僧侶数が25名いる。昔はボン教徒が多かったが、最近はニンマ派の信徒も増えている。
「鳥葬の国」の表紙を飾っている写真の男の名前は、Lama Sewanといい、現在のボン教ゴンパの僧侶・ラマ・タシ氏の父親である、Nima Tsechenの兄弟。(※上記家系図参照。)ラマ・タシの兄であるYundung氏の自宅に、川喜田隊は宿泊し、その際に残していった、キャラバン用に使用した木箱が現在もあるらしい。また、高山龍三氏の写真がカトマンズにいる、ラマ・タシの親戚の家に保存されているらしい。
毎年9月に一日、ボン教のゴンパにて仮面踊りのプジャがある。6~7名の近隣のラマ僧が集まり踊り手となる。現在ゴンパ内に保存されている仮面は、100年以上前のものもある。川喜田隊が見た仮面踊りの際に使用されたものも、その後修繕を加えて現在でも使用されている。本堂奥左手に収められている小さな経典は、『ナツォ・トゥバ』と呼び、無病息災を祈願する経典らしい。
本堂奥右手に収めている大きい経典は『カムジュン』と呼びドォンパ・シェラップ(シェラップ神?)の178巻の物語である。ドォンパ・シェラップは、シャンシュン国の「オッモ・ロンリング」という場所から来てボン教を創始した。その当時はシャンシュン国がチベット国を凌駕し、トルボもシャンシュン国の領土だった。
被調査者名;Lama Tashi(50才)
■鳥葬について
●鳥葬は『チャン・ゲ』と呼ばれる。『チャン』もしくは『チャ』とは鳥を指す。
●現在は火葬が殆どである。一番最後の鳥葬は3年前にあった。
ラマ・タシの父親である、Nima Tsechenの葬儀は火葬。
Nima Tsechenの母親の葬儀は、鳥葬。
● Nima Tsechenの兄弟のLama Nimaは、川喜田隊が取材した鳥葬を執り行っ
た責任ラマ。
●鳥葬も火葬もラマが経典を読み、葬儀スタイルを決定する。川喜田隊が取材した鳥葬が執り行われた場所は、現在の集落の北面にあるハゲ山である。このハゲ山の名前は下記のように二通りあるらしい。
① ンゴル・ドゥン(ンゴル=青色、ドゥン=丸い山)
② チョンベル・タセサ(チョンベル=ある男の名前、タ=馬、セサ=狼が食べたを意味する。意訳として、チョンベルの馬を狼が食べた場所。)
■バトラー船長の家族のその後
●バトラー船長;バトラー船長こと、Tsewangは10年くらい前に、シーメン村で死亡した。二人の妻の内、姉であるツォモさんは、現在71才か72才でシーメン村に住んでいる。妹のユンザンさんは、5年前にカトマンズで死亡した。バトラー船長には、合計息子が4名、娘が4名いる。ツァルカ村にはユンザンとの息子二人が住んでいる。
ユンザンとの間の息子の家族構成は下記の通り。
① Tashi Tsewang(41)には息子二人、娘二人。
② Karma(38)被調査者には息子二人、娘二人。
ツォモとの間には息子一人、娘二人がいる。
① Pewa Tenjing(長男・51才)は、チベット人の女性と結婚し、現在ペンチーシャン村に住んでいる。
② Priju Doma(長女・42才)シーメン村在住
③ Pema Tsuji(次女・36才)ツァルカ村在住
(注)バトラー船長の子供の総数と上記の詳細とが合致しないのは、すでに
死亡者が出ているせいか?
■サルダン村
●村名の由来;土地は広いが、水が無い。という意味。
●人口1200
●戸数(不明)
●寺院数(1);僧侶は被調査者のラマ一人。ニンマ派。
●学校数(2)(※詳細は教育事情の項目を参照)●医療施設;但し、アムチー(チベット医師)3名。僧侶のラプラン・トゥンドゥ、そしてKarma Togyi(49才)ともうひとり。サルダン村には、しっかりとしたチベット医師の診療所がある。場所はゴンパに隣接している。ちなみに近隣の村のアムチー数は下記の通り。
○コマ村=2人、○シーメン村=2人、○ナムドゥ村=1人(この資料はKarma Togyiよりのヒヤリングによる)★チベット医師になるためには、先輩医師の口承で植物や鉱物についての現場での知識の習得(野山に出かけ先輩医師から実地に教えられる)、と同時に経典のように書かれたテキストブックもある。
被調査者名;ラプラン・トゥンドゥ・ラマ(57才・男性)
サルダン村の僧侶であり、チベット医師アムチーの資格ももつ。ラプランとは彼の出身の村名。
■コマ村
●村名の由来;昔からこの土地は、赤い汁を出す薬草(コマン)が多く取れる場所であった。このコマンはプジャの時につくる「ツォ」という供え物にかける赤い汁の素。(注)この資料はサルダンのラマよりのヒヤリングによる。
●人口170
●戸数35
●寺院数(1);タクチェン・チャンチュク・チェリン とも呼ばれ、またセルブー・ゴンパとも呼ばれる。ラマ僧は一人。名前はKarma ヒュヌンドゥック(45才)。このラマとはシーメン村のプ・ゴンパの修復工事の責任者でもある。
●学校数(0)
●医療施設(0)であるが、チベット医師1人。
被調査者名;Tenkyal(26才・男性)コマ村のアムチー。彼とはサルダン村滞在時に治療所でも出会っている。
■モエ村
●村名の由来;不明
●人口60
●戸数11
●寺院数(1);ラマ僧はいないが、修行僧(ダバと呼ばれる)は一人。
●学校数(0)
●医療施設;アムチが一人。
■シーメン村
●村名の由来;Down siteもしくは一番最後の、とかを意味する。(注)この資料はサルダンのラマよりのヒヤリングによる。
●人口500
●戸数;不明
●寺院数(3);① タガール・ゴンパ= ラマ僧2~3名(修行僧を含めて)ニンマ派② プ・ゴンパ= ラマ僧3名 ニンマ派③ラガン・ゴンパ= ラマ僧いない、本尊なし、廃寺か?ニンマ派
(注)サルダンのラマ僧からのヒヤリングでは、シーメンには現在上記①②のゴンパがあるとのことであった。①は「ターカル」と発音していた。(注)②は別名(クンケン・ドルポ・サンゲ)とも呼ばれるらしい。
●学校数(1);しかし、先生、生徒ともいない。ティンキューに先生がいるらしい?(注)住民の数からいって学校は存在してもおかしくはない。ヒヤリング調査が不十分だった可能性もある。
●その他;①被調査者は、ゴシャール・ゴンパ、ナムラ・ゴンパの存在を知っていた。ゴシャール・ゴンパのラマの妻はカラン村の出身(実際はサルダン村出身)と思っている。②川喜多二郎氏の鳥葬の国に出てくる、バトラー船長の家族について。 船長の二人の妻の内、姉にあたるツォモさんは、現在ティンキュー村の上部にあるカルカにいる。シーメンに家はある。彼女の二人娘、一人息子とも結婚してチベットにいるとのこと。チベットの「タンブーサ」という場所に住んでいる。③先代シャンワ・リンポチェのことはよく知っている。また、今のシャンワ・リンポチェがヤンザにいることも知っている。④シーメンは3つのエリアに分かれる。
(1)ヒマラヤからの川(パンザン・コーラに北側から注ぎ込む川)がパンザン・コー
ラに合流する場所の西側を 『チュメ』(川の下という意味)。
(2)合流する場所のすぐ東側を 『シュンバ』(平らな場所という意味)
(3)(2)の東側を 『ヤッツェン・ラガール』(岩が多いという意味)
被調査者名;Tsering Tashi(55才・男性)マニ石彫りの石工。チベットを行き来しながら、マニ石彫りの石工の仕事をしている。チベットに通算25年くらい滞在した。
■マ村
●村名の由来;(不明)
●人口33
●戸数6
●寺院数(1);チョゾン・ゴンパ。ラマ僧はいない。但し、ローカル・ラマ(名前をジャムネ・ラマ)がいるらしい。
●学校数(0)
●医療施設(0)
被調査者名;Karma Yanzong(27才・女性)、マ村の主婦。夫の名前はNima Tsering(25才)。夫はシーメン村出身。妻はマ村出身。子供は一人。娘で1才。Pasan Budy.
■ティンキュー村
●村名の由来;(不明)
●人口500
●戸数80
●寺院数(2);①ドゥロン・ゴンパ②ウェーリ・ゴンパ(ラマなし)
●学校数(1);先生は3名。一人はネワール人、二人はボテ人(一人はティンキュー出身、一人はサルダン出身)
●医療施設(1);大谷映芳氏の援助による診療所。
□ トルボの教育事情の一例
■サルダン村において
ドイツの「DOLPO HILPE ORGANIZATION」(注;HILPEはドイツ語でHELPの意)よりの寄付金で運営している。学校は2つでクラス4まで。生徒数は80名。先生は6名。(チベット難民出身者4名)(政府から派遣された人1名)(地元の村出身者1名)。
●地元出身者;Tashi Dhoudup(27才) チベット語担当(英語会話あり)サルダン村生まれ。修行僧でもある。
●難民出身者;Karma Sandup(27才) 英語担当。3年前から赴任。毎年6月中旬頃ポカラから村へ来る。そして10月中旬まで滞在。居住地はポカ ラのヤンザ難民キャンプ。
●難民出身者;Tsering Dorma(22才) 社会と算数担当。英語堪能。居住地はカトマンズのボーダーの近く。
(寄宿舎)
現在12名の生徒が寄宿舎生活をしている。コマやティリング、カラン村出身の子。食料が自宅から持参させる。宿泊費は無料にしている。
(クラス)
学校のひとつは、クラス2まで。もうひとつはクラス3~4までと年齢により分別にているらしい。
■ツアルカ村において
Tsering Puruba Gurunの息子、Karma トゥンドゥ(17才)。10才の時よりカトマンズの学校に出ている。ドイツの団体からの奨学金をうけているという。娘のシュジ・ドルマ(12才)は放牧を一緒にしており、もう一人の娘パサン・ハモ(11才)は放牧を一緒ではなくツアルカ村にいる。弟のチェワン・ラマ(30才)は、ルンビニの『チォプケ・ティ・リンポチェ・ゴンパ』という新しい寺院で僧侶の修行をしている。
〇サルダン村の住民 (被調査者 Karma Samdup(カルマ・サンドゥプ) 27歳
(サルダン村の学校の先生・彼自身チベット難民。英会話力堪能)
チベット暦の6月25日(陽暦の8月第2週目)に交易隊が出発する。昔はチベットから塩を運んでいた。現在は、ネパール側よりヤチャクンブー(冬虫夏草)を運び、チベットからは(米、粉、クッキングオイル、ソーラーバッテリー、毛布)などがネパールへと運ばれている。皮製品の交易は非合法。しかし、交易そのものは両国政府により合法となっている。
調査日の前週に、被調査者は難民の身分を隠し、クン・ラを経由し交易隊と一緒にチベットへ入域している。行き先はキャトゥ・トゥンラ。13日間をかけた。サルダンからトゥンラまで2日の行程。チベット内の諸物価などは下記の通りである。
①ソーラーバッテリー(小版)が5000ルピー、大版が12000ルピー。
②野菜もあったが化け物サイズくらい大きい。農薬たっぷりと感じたらしい。野菜はトゥンラから車で4時間のトンバシェ(ニュートンバのことか?)から運ばれている。
③トゥンラに来ている中国側の商人はずべてチベット民族。漢民族はいない。官憲もチベット民族。カンパ族も多くいたらしい。
〇ツァルカ村住民(Tsering Puruba Gurun・38才男性)
1年に4~5回程度チベットへ出掛ける。ルートは、マユルン・ラを越えてチベットへ入り、ジャンゲ・ラを越えて帰ってくる。
●チベット側の国境沿いには、4つの交易所がある。それぞれ規模の大きい順に、
① マユン・ツォンラ ペンジーシャン
② キャトゥ・ツォンラ ナクチュ-シャン
③ リクジー・ツォンラ タルマル
④ ヒューガル・ツォンラ パヤン
(注)③のリクジーはムスタン州の交易人が多い。
(注)マユン・ツォンラは昔、マンゴ・ツォンラ(ゴ)とも呼ばれていたらしい。
また彼は、チベットに多くの友人がいるという。本日もカンパ族の友人7人が、放牧地のカルカにやってくるらしい。また、ラサ、サキャにも友人多いという。
〇ティンキュー村の住民 被調査者名;Tenjing Norbu(34才)
1年に2~3回はチベットへ出向く。マユン・トゥンラは7~8月の間1ケ月開かれる。
●チベットからは(米、塩、粉、油、服、靴、ソーラーパネル、茶、石鹸)など。
●往来する時に使用する峠は、マユルン・ラである。マユルン・ラを越えると湖が二つある。そしてナムラ・ゴンパまでに大きな川を1、小さな川を1越える。
〇パレック村の住民(被調査者名;Panney Gurun(39才)
被調査者の主人は、チベット交易に出かけており不在。婦人によると年1回、約25日間程度交易に出掛けるという。ネパールからは酒、ケロシン、米など。チベットからは羊、ヤクなどが運ばれる。
★チベット行きの際、使用する峠に関して
①シーメン村の村民への調査より
●エナン・ラを使用する。エナン・ラを越えてペンチーシャンへゆく。
(ソナム・65才男性)
●現役の頃には、エナン・ラを越えてチベット交易によく出掛けていた。ゴシャールゴンパにも行ったことがある。 (ギャルツェン・77才男性)
●ゴシャール・ゴンパ方面へ出掛ける時には、クン・ラを越える。ナムラ・ゴンパ方面へ出掛ける時には、マユルン・ラを越える。エナン・ラは時折使用する。(ギャルチェン・33才男性)
●ゴシャール・ゴンパ方面へ出掛ける時には、エナン・ラを越える。ナムラ・ゴンパ方面へ出掛ける時には、マユルン・ラかエナン・ラを越える。 (タクラ・ツエワン・64才男性)
●チベットへ行くときは、エナン・ラではなくマユルン・ラを使う。8年前にはゴシャールゴンパへ行ったことがある。(ツエドゥ・40才女性)
考察;シーメンの住人は、エナン・ラ、マユン・ラとも使用している。ゴシャール・ゴンパへの往来も結構多くある。そしてゴシャール・ゴンパへ向かう時には、エナン・ラを使用し、ナムラ・ゴンパへ向かう時にはマユン・ラを使用している頻度が高い。
②ティンキュー村の村民への調査より
マユルン・ラを使用する。(Tenjing Norbu・34才)
1年に2~3回はチベットへ出向く。マユン・トゥンラは7~8月の間1ケ月開かれる。チベットからは(米、塩、粉、油、服、靴、ソーラーパネル、茶、石鹸)など。
③モエ村の村民への調査より
モエの住民はラル峠とマゲン峠の二つのうち、ラル峠を越えてチベットへ行く方が多いらしい。峠をこえると「ジョムサ」という名前の場所(人は住んでいない)に出るらしい。このジョムサはキャトゥ・トゥンラのすぐ近くらしい。
④マ村の住民への調査より(被調査者名;Karma Yanzong(27才・女性)
往来する時に使用する峠は、エナン・ラ、マユルン・ラの2つの峠を使用。
●マユルン・ラを使用するときは、ティンキュー村を経由するのではなく、マイタ・コーラを上流に詰め、右の谷へと入るらしい。エナン・ラ、マユルン・ラとも峠を越えた後に行くトゥンラは同じらしい。
★放牧形態について (ツァルカ村民 Tsering Puruba Gurunより)
6~7月は、チベットとの国境近くの(ドクンラ)という場所に2ケ月滞在。
8月は、現在のカルカに滞在。
9月は、モ・ラの東側の谷あいに移動するらしい。
●8月25日の朝、ヤクの種付けのプジャが執り行われた。
ツァンパの粉を放牧に出ている一族、我々異邦人にも振舞う。この種付けのプジャの名前を『ボー・クガル』と呼ぶらしい。
●ヤクの妊娠期間は9~10ケ月。よって春先に出産するらしい。一頭の母ヤクから一頭の子ども。たまに二頭の子供もあるらしい。
●種付け後、モ・ラの東側の池へ塩を食べさせにゆくらしい。この塩食べは、夏の期間は1ケ月に1回。しかし冬季はツァルカ村から週に1~2回程度おこなうらしい。
■ゴシャール・ゴンパ
宗派; ニンマ派とカギュ派の混合
場所; ナクチューシャン
被調査者名; ぺマ・タシ(56才)1949年生まれ。母親からの名前は、カルマ・チューニン・ヒュンドゥック。ナクチューシャンの生まれ。1958年~81年までネパールで修行。1983年からゴシャール・ゴンパへ来た。妻の名前は、Sonam Amo(ソナム・アモ)48才。トルボ地区のサルダン村より27才の時に嫁いできたらしい。二人には子供はいない。
● (ゴ=門)を意味する。(ヤール=東)を意味する。発音はゴシャール、ともゴヤールとも聞こえるが、より多く聞き取れたのは(ゴシャール)であった。
寺院の正式な名前が、本堂の入り口に掲示されていた。『ゴシャール・ウォティエン・サンガ・ゲペル・リン』である。(ウォティエン=オギャル・ソナム・サンボのオギャル)と同じ意味。(サンガ=タントリック)を意味する。(ゲペル=多くの人を救済する)、との意味。(リン=場所)の意味
● このゴンパには200年の歴史がある。歴代の責任ラマの名前と生誕地、生年、没年は下記の通りである。
名前 (生地) (生年) (没年)
(1)ゲロン・ロブサン・ゴンボ 不明 ? ?
(2)アルチュ・トゥグル・リンポチェ ナクチュー ? ?
(3)オギャム・ソナム・サンボー ナクチュー ? ?
(4)ゲロン・ロブサン・チョベ ナムリン ? 1958
(5)トゥルク・チェヤン ナクチュー ? ?
(6)ゲロン・カルマ・ヤンギャップ ナクチュー 1920 1966
(7)ツェワン・ドルジェ アリ地区 1928 1994
(8)ぺマ・タシ ナクチュー 1949 現存
歴代ラマのうち、最初から3人までは不明だか、それ以降はラサの中央政府の意向で派遣ラマが決められてきた。歴代のラマは化身の順番ではなく、あくまでゴンパの責任ラマの順列である。
ナクチューシャン地区は100年前はほとんどがカギュ派だった。1820年第15世カルマ-パの時代には、ゴシャール・ゴンパはカギュ派のみ。この時に最初のチョルテン並みの小さな建物ができている。1900年オギャル・ソナム・サンボーの時代からカギュ派とニンマ派の混合となる。1987年が一番最近のゴンパ建物の再建年であるらしい。
歴代7番目(ぺマ・タシの先代)のツェワン・ドルジェの写真は、本堂内部中央に飾られているヒゲ面の写真のラマ。このラマは、トゥカン・トゥルグ(トゥカンの化身)とも呼ばれ、ゴシャール・ゴンパにはあまり滞在せず、カイラス方面への巡礼をよくおこなっていた。
マナサロワール湖近くの、ナムガ・キョンゾン・ゴンパにしばらく逗留したりしていたらしい。死亡したのも、マナサロワール湖の近くの、カンドゥンという場所にある、チュー・ゴンパである。死亡は10年前、68才であった。
ゲロン・ロブサン・ゴンボ・ラ・ギャプス・チオーの・ラ・ギャプス・チオーの意味は、ラ=英語の to の意味。ギャプス・チオー=英語のgive play の意味。よって、チベット旅行記にもあるように、宗教者への尊敬の念を示す言葉。ロブサン=英語でgood mind の意味。ゲロン・ロブサン・ゴンボは、ぺマ・タシによると1800年頃にゴシャールにいたらしい。二代目ラマのアルチュ・トゥグル・リンポチェは1830年頃。三代目ラマのオギャム・ソナム・サンボは1900年頃らしい。
(注)これによると慧海の白巖窟に来た1900年頃は、三代目のラマ時代となる。
(注)ぺマ・タシによる年代は西洋暦に、彼が直した数字である。
(注)チベット暦によると、200年前は、13レプチュン(レプチュンはチベット暦の単位で約60年間をひとくくりとする単位。)であるという。現代は17レプチュンとなる。これによると、ゴンボの時代は13レプチュンとなるのであろう。
ゲロン・ロブサン・ゴンボは岩窟とメディテーションルームとを行き来していた。現存するゴンパ横の岩窟外観ならびに内観も昔のままである。ここで歴代ラマが瞑想していた。先代のシャンパ・リンポチェも同じである。岩窟の内部には、歴代のラマの写真がある。
もちろんゴンボなどの写真のなかった時代のラマはない。先代シャンパ・リンポチェや現シャンパ・リンポチェの写真もある。1958年に先代シャンパ・リンポチェがゴシャール・ゴンパで亡くなる。先代活仏はシガッチェの近くのナムリン地区からやってきた。ゴシャールに来たのは1930年。
本堂内部にある、101巻のカンギュル経典は、ネパールからマルコム・ラマ(ニサールにあるマルコム・ゴンパのラマで、ツェリン・タシ・ラマ)が運んできた。現在のそのマルコム・ラマは台湾にいるらしい。本堂横の納経堂には、ぺマ・タシがラサから持って帰ってきた約500巻のカンギュルとテンギュルの経典がある。
本堂の北側には、2年前にはなかった、直径2m程の巨大なマニ車が納められたマニ堂が完成している。文革時にこの寺院でも古文書や歴史書が焼かれている。
ナクチューシャンは3つの地区に分かれている。①ソナム・シタ②プ・ツァン③ソナム・
タルチン。2004年9月の時点では、この3つの地区を束ねる村長はKujungと呼ばれる3年前にシガッチェから赴任してきた35才の青年である。
■ネーユ・コンマ (ゴシャール・ゴンパのラマ僧からの聞き取り調査による)
ゲロン・ロブサン・ゴンボが亡くなった(肉体のみ)時、パチュンハモ峰の近くにある、ネーユ・コンマと呼ばれる場所に、彼の髪の毛と服が残されていたという。言い伝えでは、ゴンボの魂は、シャンバラ(天国)に向かい、永遠の命を享受しているという。
よって、ネーユ・コンマは天国への入り口とも称せられる。
■タ-ラ・ゴンパ
宗派; ニンマ派
場所; パヤン県パヤンの中心から北西方角に入る。パヤンの中心地から車(時速30キロ程度)にて約30分の行程。途中人家は非常に少ない。ゴンパの北側には、広大な湿地帯が広がっていた。
被調査者名; Pujung(32才)被調査者の実兄・Pema Tenjing(48才)が現在の責任ラマ。被調査者もラマ。
責任ラマは不在であった。この寺院は700年の歴史があるらしい。先代の責任ラマは、被調査者の父親であるPema Ongyal(ぺマ・オンギャル)。ぺマ・オンギャルはすでに死亡している。被調査者は寺院横に住居があり、そこに20才代と思われる若い奥さんと乳のみ児が一人いる。
■ナムラ・ゴンパ
宗派; ニンマ派
場所; ペンチーシャン(ザクトン・ナムラ)
被調査者名; Namda(80才)ザクトン・ナムラ生まれで現在もこの地に住む古老。しかし既に盲目となっている。
●現在の責任ラマは4年前に赴任してきた。責任ラマの名前の正式名を知らない。この時の調査時にはまわりに老人も含めて20名くらいいたが、その全員が正式名を知らなかった。通称;ケンボ・ラマと呼ばれている。(ケンボ=偉い、との意味。)年齢は20才代らしい。第二番目のラマも20才代。責任ラマは2年くらいの単位で変わってゆく。
そして、歴代の責任ラマは、すべてサキャ寺から派遣されてくるらしい。先代のラマ(ぺマ・リンジン)はこの地からラサに行ったらしい。しかしぺマ・リンジンは、責任ラマ
ではなく、ヘルパーで来ていたという説もあり。先代の責任ラマ(正式名不明・ケンボ・リンポチェと呼ばれていた)は、サキャ寺に帰って死亡した。責任ラマは2年くらいの周期で変わってゆく。
先代のシャンパ・リンポチェのことは知っている。ゴシャールで亡くなったことも。ゲロン・ロブサン・ゴンボのことは聞いたことがない。
現在のゴンパの建物は、5年前に建てられた。ナムラ・ゴンパのある場所には、以前洞窟らしいものはなかった。
ペンチーシャンは3つの集落で形成される。①ザクトン・ナムラ=ナムラ・ザクトンとも呼ばれる②セルチェン・ドンソン③ドーブ・ドンソン。人口は約1600人。
■セルチェン・ゴンパ
宗派; 不明
場所; ペンチーシャン
被調査者名; Tashi Tsering(19才)トンパ県の生まれで、5才の時にこのゴンパへ修行に来たと言う。
現在の責任ラマの名前は、Tsupukyu Senge(トゥプキュ・センゲ)約40才。であるが調査時には不在。全員で4名の僧侶が在住。しかし、第二のラマも不在。被調査者と第四の少年僧・Jigme(15才)がいた。現ゴンパは約20年ほど前に建てられたらしい。
それ以前には、この場所に洞窟らしき建物はなかったらしい。本堂の中には、現在インドに亡命しているカルマ・パの写真がある。責任ラマは、トンパ県のキャマという土地の生まれである。
■白巌窟に関する調査と考察
★調査方法
①白巌窟の場所を特定する上において下記の項目が条件として考慮した。慧海師の越境峠が特定できれば、『チベット旅行記』に記述されている、峠からの行程を地図上の調査や現地環境から鑑みて、おおまかな場所の推測調査する。
②慧海師がカイラス巡礼からラサへの途上、2度目の白巌窟訪問の記述がある。この記述を地図上ならびに現地環境から鑑みて、おおまかな場所を推測調査する。
③『チベット旅行記』に記述している、白巌窟の「白」という色彩の確認調査。
④白巌窟で出あった高僧「ゲロン・ロブサン・ゴンボ・ラ・ギャプス・チオー」なる人物に関する聞き取り調査。
前述の①、②は、今回の調査においては、特別入域許可地域における現地協力機関との折衝において可能性の薄い条件であった。さらに現地調査の段階においては、2004年12月に発見された慧海師自筆の日記の存在はなく、結果として③、④の条件においての場所策定作業となった。
まず、ネパール側調査期間において、交易商人、巡礼者、遊牧民などあらゆる年齢、階層、職層の人物に、チベット側における寺院、洞窟のデーター(寺院の名前、場所、峠からの距離、僧侶の名前など)を収集した。さらに④にある高僧の名前からの糸口を掴むべくヒヤリング時にその名前を提示した。
ネパール側調査にて、ゴシャール・ゴンパならびにナムラ・ゴンパ、セルチェン・ゴンパの名前が浮上する。ネパール側のトルボ地区の住民も交易や巡礼などでこれらのゴンパを訪問しているので、その時に通過する峠の名前、位置、そして峠周辺の自然環境、ならびに各ゴンパまでの峠からの行程のヒヤリング調査をおこなった。
チベット側に入域した後においても、白巌窟の可能性のある寺院や洞窟の存在のヒヤリング調査をおこなった。その際に位置的にみて可能性は低いが、調査対象に含めたのが、タ-ラ・ゴンパである。これは、このタ-ラ・ゴンパの歴史性に注目したからである。700年を越す歴史のあるタ-ラ・ゴンパにおいて、万が一その地域の歴史書や言い伝えなどの中から、ゲロン・ロブサン・ゴンボに関る糸口が出ないとも限らないからである。結果的にはこのゴンパからは糸口は得られなかった。
※考察
タ-ラ・ゴンパ以外のゴンパ、すなわちナムラ・ゴンパ、セルチェン・ゴンパ、ゴシャール・ゴンパへのヒヤリング調査をすすめる上で下記のように考察した。ゴシャール・ゴンパの責任ラマである、ぺマ・タシ氏より「ゲロン・ロブサン・ゴンボ」なる名前のラマがこのゴンパの初代ラマである。
現在ゴシャール・ゴンパの本堂脇にある岩塊には洞窟があり、ぺマ・タシ氏によるとこの洞窟は歴代ラマの瞑想室であった。ゴシャール・ゴンパの背後にある岩山は一部が白くなっている。この白くなっている部分は、洞窟の背後であり、遠目にもその白さは浮き出ているのである。
2004年12月に発見された慧海師自筆の日記という重要な参考資料を検証することにより、より一層越境した峠の特定作業がすすむことはまちがいないであろう。この越境峠が確定できれば、そこから白巌窟への道程を旅行記の記述に忠実に辿ることによって、白巌窟の場所の策定作業はより詳細な詰めをおこなえるのも間違いない。2004年秋時点での現地調査においては、前述の調査方法ならびに現地における
以上の考察により、白巌窟の場所はゴシャール・ゴンパである可能性は限りなく高いといえよう。
チベットの活仏(リンポチェ)のリインカネーションの一例
現シャンワ・リンポチェの人生遍歴について
被調査者; 現シャンワ・リンポチェ(英会話力堪能)
■ペンチーシャンで生まれる
1960年9月12日生まれ。彼の母親がチベット暦の生年月日を控えてくれており、後になって、西洋暦にあてはめると前述の年月日となる。父親は彼が1才の時にチベットにて死亡している。母親は、彼を連れてチベットからネパールへと同行した。現在ヤンザにて存命。生まれたのはペンチーシャンの南部あたりらしい。幼い頃には付近の湖に白鳥が飛来したのを覚えている。
この生誕地には2才くらいまで滞在。彼が1才の頃にすでに人民解放軍の影響力が大きくなってきたので、彼の父親は、ヒマラヤの山麓にて幕営生活を家族とするようになっていた。父親が死亡した後、解放軍からの追及が激しくなったので、母親はネパール方面へと移動を始めた。彼が生まれる前に、当時シッキムに住んでいた第16世カルマ-パから、彼をシャンパ・リンポチェの化身とするよう記した手紙が発せられていた。彼の家族のもとにその手紙が届くのは、彼が3才の時であった。
■ゴシャール・ゴンパの記憶
ネパールへの移動の途中に、ゴシャール・ゴンパに数日滞在したことを憶えている。その際、解放軍により仏像が破壊されていた。その破壊された仏像一体ごとにプジャの灯明を供えたことも憶えている。ツァンパをこねて仏前に供養もした。ゴシャール・ゴンパの後は、彼自身が母親などにかみついたりなどの暴れ方をしたり(彼の表現を借りると、狂っていた時期、であるらしい)したという。思い余った母親は彼を連れてトルボ方面へと移動を始めた。
■トルボへの旅
トルボでは、テ・ギャム・ゴンパに滞在することになる。テ・ギャム・ゴンパの対岸には、大きな洞窟があり、そこに『トゥク・ツェワン』という活仏が瞑想生活を送っていた。彼は、この活仏に可愛がられたらしい。ここに数年滞在する。
(注)テ・ギャム・ゴンパは現在のナムゴン・ゴンパの近くにあった。しかしすでに現在では廃寺となっている。当時のゴンパでは、『二ジェン・リンポチェ』が責任ラマであった。このラマは変わっており、毎日服を着けずに半裸状態で生活していたらしい。
悪漢の登場
そのうち、一人のカンパ(名前;ぺマ・ナムギャル)というとんでもない悪漢が彼と彼の母親の前に登場して、悪夢の日々が始まる。彼はこのカンパの存在が現在でもトラウマになっているともいう。このカンパは彼の母親に横恋慕し、結婚したがっていたらしい。そこで邪魔になる、彼の存在を消してしまおうと、一度は崖からつき落とされそうになったり、何度もムチのようなもので体中を殴打されたりと虐待の日々が続く。
この悪夢の日々は約2年間も続く。あまりの酷さに耐えられず、母親と彼は乞食をしながら、各地を逃げ回る。そして、ドルパタンに到着する。彼が5才の時である。そこに約2年間滞在する。その際に面倒をみてくれたのは、『ガンナ・イシ』という名前のギャング団の頭領。この頭領は以前はセラ寺の僧侶だったらしい。
■ルンビニへの旅
彼が8才になった時、この頭領の一団と母親、彼らはルンビニへと巡礼に行く。それまでに、その頭領からいずれはシッキムの16世カルマ-パに会わせてくれる約束だったはずなのに、ルンビニに到着した時、ドルパタンに戻れといわれ、母親は激怒する。そして頭領から彼を母親のもとへと取り戻した。
当時母親の健康も優れず、言葉もできないので、ルンビニに滞在することもできず、シッキムへ行く事もできず、歩いてゆっくりと乞食をしながらドルパタンへと戻り始めた。酷い乞食状態で1年ががりで戻っている途中に、ポカラから来たチベット人に出会う。彼が9才の時である。
■ポカラへ辿り着く
そしてようやくポカラのヤンザに辿り着く。16世カルマ-パへ化身を証明して くれるよう、手紙を母親が出した。カルマ-パもヤンザへやって来、再確認作業もおこなった。そしてヤンザのゴンパで老僧について化身としての教育を受け始める。
17才の時に、インドのバラナシへと僧侶の学問のために留学する。しかし、ヤンザの老僧が亡くなったので、学歴半ばにて(4年滞在)インドからヤンザへ戻る。
■シンガポールへ
1981年16世カルマ-パが亡くなる。カルマ-パは生前シンガポールの仏教徒に約束していたことがあった。それは、カギュ派の学問研究所をシンガポールに造る事であった。その意志を彼が継ぐ事になる。当時かれは、ヒンディーはできても英語はまったくできなかったらしいが非常な努力をして英語を学習する。
現在、一年の半分をシンガポール、半分をネパールというリズムの生活を送っている。シンガポールに滞在中にはマレーシア、インドネシア、そしてヨーロッパ(3回)などにも講演などで出掛けているらしい。しかし日本には未だ来た事がないらしい。
★現在のシャンワ・リンポチェ
先代のシャンワ・リンボチェ(ゲロン・ロブサン・チョベ・ラ・ギャプス・チオー)に纏わる言い伝え
①被調査者 Khanrap Lama(ケラップ ラマ) 52歳
(現シャンワ・リンポチェのカトマンズにおける、シャンワ・リンポチェ・ファウンデーションの管理者的存在。チベットのガリ地区生まれ。12,13歳の時=1961年に亡命。英会話力堪能)
先代シャンワ・リンポチェは、東チベットのカム地方の「シャン」の生まれである。若い頃にラサのトゥルプ・ゴンパ(カギュ派の総本山)へ修行へ行きそのときに第15世カルマ-パにイニシエーションを受けた。そして当時のゴシャール・ゴンパ(そのときにはまだ洞窟だけの時代)へ行き寺院をつくるように命を受ける。
先代が26、27歳の頃か?ゴシャールへ来て、巌窟で瞑想をし、さらなるパワーを得て、その上でネパールへ向かった。ムクチナート、マナン、トルボなどを巡った。ムクチナートではナムリング・ゴンパをつくり、その他ルンビニ、ポカラ、カトマンズのキルティプールにもゴンパをつくった。現シャンワ・リンポチェへのリインカネーションの決定は、第16世カルマ-パがおこなった。16世はすでに死亡している。17世カルマ-パは2人いる。
一人はカリンポン、もう一人は17才の時にチベットから亡命し現在ダラムサーラの近くに住んでいる。カリンポンに住んでいるカルマ-パのリインカネーションは第12世シャンマルパ・リンポチェにより決定された。チベットから亡命したもう一人の17世は、第11もしく12世セトゥ・リンポチェと現在のダライ・ラマの二人により決定された。シャンマルパ・リンポチェとセトゥ・リンポチェはともにカギュ派のリンポチェである。
②被調査者 (ラプラン・トゥンドゥ ラマ) 57歳
(サルダン村の責任ラマ僧。チベット医学の医師でもある。)
※通訳カルマ・サンドゥプ
先代シャンワ・リンポチェは、ウーツァン地区のシャンワ村の生まれ。チベットにいる時は、シャンワ・リンポチェと呼ばれていた。ネパールに来てから、未婚を貫き、『ゲロン』の称号を受ける。彼はチベットからサルダンに来、約5~6ケ月滞在した。その間サルダンの寺に3ケ月、その他はシェーなど近くの寺院を巡礼していた。
さらにナムゴン・ゴンパの近くにあった「テ・ギャム・ゴンパ」に3年滞在し、チベットから持参したカンギュル経典108巻を納めた。このカンギュル経典は現在、サルダンの寺院に存在する。テ・ギャム・ゴンパは現在廃寺となっている。※ちなみに、現シャンワ・リンポチェもチベットからネパールへと彷徨している時に、このテ・ギャム・ゴンパに立ち寄り、逗留している。また、サルダンに滞在中にはピジェール・ゴンパにも行っている。
彼がサルダンに逗留中には、トルボの多くのラマ僧をはじめ参詣者が絶えなかったという。それら多くの参詣者に対し、リンポチェは「ツォ」と呼ばれるツァンパとバターをこねたものを施したという。シャンワ・リンポチェがサルダンに来る前までは、住民の多くはサキャ派であったが、彼が来てからはカギュ派に変わってきた。
チベットからの彼の道のりは、チベット→サルダン→サードゥル・ゴンパ(ドゥナイの近く)→ポカラなどを巡り、最終的にはゴシャール・ゴンパで亡くなった。亡くなったのは70歳くらいの時で、今から47年前のことである。
亡くなった時、リンポチェの遺体を、中国の解放軍に見つからないように夜陰にまぎれて、住民がゴシャール・ゴンパを出発し、クン・ラを通過してサルダン、そしてシェーゴンパ、最終的にシェーゴンパの上部に位置する、ツァカン・ゴンパに収めたという。
そしてリンポチェの遺灰をツァカン・ゴンパにあるチョルテンなどに収めたともいう。そのご遺体がチベットから運ばれる際、道中の人々の多くが手を合わせて、その列を見送ったらしい。先代シャンワ・リンポチェは生前に13の寺院をつくったり修復したりした。その中で特に重要な寺院が3つあるという。
①ゴシャール・ゴンパ
②サルダンのゴンパ
③サードゥル・ゴンパ ※この寺院の場所は、ネパールの地図でティジロン地区にあるchhadulという地名。
※(サー)とは場所を示す言葉、(ドゥル)とは境界線を意味する言葉。サードゥルとは、カイラス山の山塊が終る所という意味を持つ場所らしい。
また、カギュ派の中で、シャンワ。リンポチェの属しているセクトは派の中で最も最下層のセクトらしい。カギュ派は4つのメジャーはセクトと8つのマイナーなセクトに分かれる。シャンワリンポチェは一番マイナーなシャンハ・カギュ派に属するらしい。
サルダンのゴンパ敷地内にある、45年前にできたマニ車堂の内部には、先代シャンワ・リンポチェの時代に描かれた彼自身の仏画がある。その仏画の下部には、チベット文字にて、『ゲロン・ロブサン・チョベ・ラ・ギャプス・チー』と書かれている。
③被調査者 Karma Samdup(カルマ・サンドゥプ) 27歳
(サルダン村の学校の先生・彼自身チベット難民。英会話力堪能)
彼自身の母親も亡命者(1970年にナクチューから6、7時間車で離れた、チョンゴルという場所から亡命した。遊牧民だったので各種の情報が遅かった。ムスタンに長く逗留した後、ポカラへ向かった)であるが、ポカラに定住後、先代シャンワ・リンポチェが創設した、ヤンザのJangchub Choeling Gonpa(ジャムチョプ・チョエリン・ゴンパ)の近くに住み、先代シャンワ・リンポチェ、現リンポチェの下で寺院の掃除などの雑事をおこなっている。現在のリンポチェは「ヒョンドゥ・カルマ・ティンレイ」とも「シャントル・カルマ・ティンレイ」とも呼ばれている。
ゲロン・ロブサン・チョベの「チョベ」とは、(興味深い経典)という意味がある。現リンポチェのリインカネーションを決定したのは、先代のトゥクスン・リンポチェである。そして現在ヤンザに住む現トゥクスン・リンポチェ(20歳)のリインカネーションを決定したのは、現シャンワ・リンポチェであるという。現トゥクスン・リンポチェは南インドのマンコートの生まれらしい。先代のシャンワ・リンポチェは4つの重要な寺院をつくった。
①ヤンザの前述の寺院
②ルンビニ
③ムスタンのChelok(チェロク)ゴンパ。※これはマルファに近い尼寺らしい。
④カトマンズのキルティプールにある寺院
そして、現シャンワ・リンポチェがチベットから亡命した際に、ヤンザまで幼いリンポチェを案内した老人が現在もサルダンから2、3時間くらい南の(ラッキョウ)という村(といっても住民は2家族のみ)に住んでいるらしい。
2023年10月12日 発行 初版
bb_B_00177523
bcck: http://bccks.jp/bcck/00177523/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。