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○はじめに
第1章 —— 笠井瑠美子/製本工
「私はやっぱり、この仕事で食っていきたい。本ってちょっとロマンチックなところがあるけど、ロマンにはしたくないんです。」
第2章 —— 清水チアキ/印刷設計・営業
「最初にシュリンクを解いて読むぞというときに、自分がはじめてこの本に触れるんだ、くらいに思っていたけれど、実はシュリンクがかけられるまでの過程に何十人という人の手を介しているんですよね。そのことが、今の現場で働くようになって、はじめてわかったんです。」
第3章 —— 脇田あすか/アートディレクター・グラフィックデザイナー
「仕事一筋な生き方も、生活とのバランスを大事にする生き方も、どちらもいいなと思うから迷うんです。どっちの生き方もかっこいいし、やっていきたいと思っています。」
第4章 —— 鈴木千佳子/グラフィックデザイナー
「誰かひとりがやっているという、そのひとりに思ったよりも励まされているんだなぁと感じて。自分もそういう存在になれるかはさておき、誰かがやってみたいと考えたときに、『すでにあの人がやっている』と思える、一サンプルになれたらいいなと思っています。」
第5章 —— 名久井直子/ブックデザイナー
「大事にしていることは、安全な工業製品をつくること、でしょうか。それは関わっている人が安全であることもそうですし、商品としてちゃんとストレスなく、危なくなく、内容を楽しんでいただける本をつくるということでもある。興味があるのは、大量生産という制約があるなかでどこまでやるかってことの方なんです。」
○あとがきにかえて
はじめに
本が好き。たったそれだけの思いを起点に、本のつくり手である5名の方へお話を聞かせていただきました。本書に収められているのは、本を「もの」として立ち上げることを生業とする方のお話です。
今みなさんが手にしている「本」という綴じられた紙の束。その制作工程を大まかに遡るような形で、製本会社で働く笠井瑠美子さん、印刷所で営業に携わる清水チアキさん、ブックデザインに携わる脇田あすかさん、鈴木千佳子さん、名久井直子さん、という順に登場していただきました。みなさん、各分野の第一線で働いています。
本やものづくりにまつわる原体験、実際のお仕事を辿るような形で語ってくださった言葉をもとに、「本とともに生きてきたこと、生きていくこと」の5つの現在地を残す。それが本書で試みたことでした。
出版不況と言われ始めて久しい現在。本を売り買いする市場の在り方も、出版業界の働き方も日々変化し、本と本づくりを取り巻く状況はぐらぐらと揺れています。そんな今だからこそ、現場で生きる人の「体感」から発される誠実な言葉を集め、これから先も、どんな形であれ本と関わり合う暮らしを望む人に向けて、不透明な道程で光るたしかさとして、残しておきたかったのです。
売れる本のつくり方、出版の未来といった、方法論や答えはここにはありません。むしろ、「本とともに生きていく」という答えのない方へとぎこちなく泳ぎ出し、「私」という主語で本に向かい合う。そのそばにあるインタビュー集です。
本書の成り立ちは、「あとがきにかえて」のなかでより詳しく記しています。
専門的な用語の説明を最低限に抑えたこと、書籍のビジュアルをすぐにご参照いただけないことで、読みづらい箇所も多分にあるかと思います。その際、よければ、本を一冊手元に置いて、じっくり観察していただきながら、または、当該の書籍の実物をお近くの書店や図書館、古書店で(目星をつけておくのでもよいので)手にとり、体験しながら、読んでいただければと思います。
そして、物質としての本に対する興味から、「もの」を立ちあげる方々に的を絞ってお話を聞かせていただきましたが、今回まなざすことができたのは、分業された本づくりの工程のなかでもまだ、スポットのあたりやすい領域です。紙をつくる人から、部分的な加工を施す人まで、時折登場する、書ききれないほど多くのつくり手の姿を、想像しながら読んでいただければ幸いです。
「私はやっぱり、この仕事で食っていきたい。本ってちょっとロマンチックなところがあるけど、ロマンにはしたくないんです。」
笠井瑠美子/製本工
(1980年生まれ。印刷会社の製版部を経て、現在は主に文芸・人文書を扱う製本会社にて、束見本の製作を担当。「十七時退勤社」という屋号で、リトルプレスの発行を続けている。)
——笠井さんの、製本会社での役割を教えてください。
今は束見本の担当をしています。一応2人体制ではあるんですが、普段は2人でやるほどの作業量ではないので、だいたい1ヶ月ごとに交代します。よほど忙しくなったら2人でやることもなくはないんですが、基本的には1人ずつ。束見本をつくらないとき、私は仕上げという、本にカバーや帯などをかけて完成させる部署の手伝いをしています。
——製本会社の内部でどのような工程があるのか、あまり想像がつかないところがありまして……。笠井さんの視点で、大まかにでいいのでお話いただけますか。
ではざっくりと、束見本を手作業でつくるときのことを。これから私が話すのは上製本(ハードカバーの本)をつくるときを前提とさせてください。まず、出版社か印刷会社から手配された見本用の用紙が現場に運ばれてきます。弊社の営業が運んでくれる場合もあるし、紙屋さんの手配で運ばれてくることもあるんですが、紙が入ってきてから本をつくりはじめます。私の勤めている会社でつくる本は文芸書や人文書が多いので、判型はだいたい四六判かA5判です。まだ何も刷られていない本文用紙を断裁して、手折りして、糸かがり綴じか、網代綴じを薄いのりで下固めして、天地と小口を断裁します。……、かなり専門的な話になってしまいますね……。細かい工程がたくさんあるんですが、今私がお話ししていることの詳しいところは、編集者の松田哲夫さんが印刷や製本の現場を取材をして書かれた『「本」に恋して』(新潮社)を読んでいただくのが早いかもしれません。内澤旬子さんのイラストで、すごく丁寧に描かれています。もう絶版になっちゃったんですけど、古本でも、見つかればぜひ。
本番は機械で量産しますが、束見本は基本的に手作業です。束見本はデザイナーさんや出版社が、主に背幅の確認と、造本を実際に手に取った感じを見るためのものなんですけど、多くても3〜5冊くらいしかつくらなくて。
——量産のために機械で本をつくっていく工程で、人はどのように関わるのでしょうか。
たいてい機械ごとに1人つきますね。まずは印刷された本文用紙を切る「断裁機」に1人、切った用紙を折る機械「折り機」に1人、そのあと本文に扉や見返しを貼る「貼り込み機」に1人です。綴じる前には丁合という作業があって、折丁を順番通りに揃えていく、その「丁合機」には少なくとも2人必要です。多くの本は16ページ、もしくは8ページずつなどでひとまとまりの「折丁」というものにして、折丁が複数組み合わさることで1冊になっています。たとえば160ページの本をつくろうとすると、一折で16ページの折丁が十折必要になる。
——折丁は冊子で、冊子を重ねて本にしているイメージですね。
そうですね。折丁は、はじめは1枚の大きな紙です。そこに、面付けといって、決められた配置で各ページを印刷し、用紙を折っていくことで、一折になる。この折丁を、一折から十折まで、順に集めていくのが「丁合機」です。この機械に人が折丁をセットしていくのですが、機械が並ぶと何メートルかは距離ができるので、それをひとりがどこからどこまでカバーするかや、機械のスピードによっても、必要な人の数は変わります。慣れていないとバタバタしちゃう。私の製本会社では、あまり機械のスピードを出していないので、2人くらいになります。あとは、糸かがりで本文を綴じる機械に3人くらい。ここまですべて、下準備なんです。
この作業が終わったら上製本ラインといって、やっとハードカバーの本にしていくんだけど、ここに3人から4人くらいは必要ですね。とても長くてすごいスケールの機械だから、入り口で下準備した本をセットする人、途中で調整をする人、最後に出口でできあがった本をキャッチする人、というイメージ。
——作業する人によって、機械の出力に差はあるんですか。
うん、変わってきますね。セッティングが命です。やっぱり、効率良く1日に何タイトルも本をつくりたい。でも、その一定の時間で製造できる数っていうのはだいたい決まっているんですね。仕様にもよるけれど、1時間に1000〜2000冊とか、機械のスペックが決まっているなかで、うまく動きさえすればそれだけの製造数が見込めるのだけど、そのセッティングがすごく難しい。もちろん早く正確にできれば効率化が望めるんですが、そこですよね、スキルが必要なのは。焦って早くしても、うまくいっていなければ結局そのあと不具合が起きて機械が止まってしまいますから。でもいくらセッティングをうまくやっても、止まるときは止まる。そこが本当に機械のわからないところなんです。
——機械にも失敗があるんですね。
大きな機械で壮大なピタゴラスイッチをやっているみたいな感じですね。
本がラインに流れていくんだけど、真っ直ぐ進むわけではなくて、工場の大きさが限られているなかで機械を収めているから、製造ラインもカーブを描くところが出てきます。そこを、本が摩擦で引っかからずうまく曲がれるように、滑りを良くするちょっとした棒や羽なんかが付いていて、工夫はしてある。
とはいえ、本の判型や厚さ、重さによっても全部違うから、毎回その設定を変えなければならなくて。これはもう物理の話だと思うんですが、ほとんどの本はそのピタゴラ装置にうまくはまっても、100冊に1冊くらいは引っかかるんですよね。遠心力なのか、まぁ、流れていく本たちは厳密に言うと同じ軌道を描かないので、いくらはじめに調整しても、ずーっとはうまくいかない。だから100冊くらいに1回はうまく滑るようにスプレーをしてあげたり、微調整が必要なんです。でもそういうことは機械のオートメーションには含まれていないので、人が見ながら、「そろそろズレを直さないと引っかかるなぁ」みたいにして、目を配って、勘と経験でやっています。
詰まると大惨事なんです。本がぐしゃぐしゃになるから、私はあれ、見ていられない……。
——その光景は、想像しただけで嫌な感じがしますね……。
人でも先頭が転ぶと将棋倒しになるのと同じで、本が1冊でも止まると、そのあと全部詰まるわけです。アラートが鳴るんだけれど、でもたまたま忙しくてその箇所から目を離したときに限って、本って詰まるんですよねぇ。もう、「うわーッ」って思います。ばっちり操作が決まっているときって、機械は本当に素晴らしい働きをするんです。本当に美しくて、それがずーっと続けばいいんだけど、そうもいかない……。
手作業だからこそできる、細かい調整ってあると思います。機械の方が大雑把なところがあるし、ここは手作業の方がうまくいくよなっていう。反対に、機械の力強さがあるから美しくできる部分もある。それに、機械は疲れないし、半永久的に動けます。人間は途中でムラが出てくるけれど、それに比べて機械は働き者でえらいなぁと思う。うまくいっているときには「よしよしえらいね」って会話できるんじゃないかというくらいなのに、一度調子が悪くなったときの裏切りっぷりはすごいです(笑)
機械はトラブっていることに気づいて対処できない。本がぐちゃぐちゃになっているのに、なお同じ動きを続ける機械を見るとゾッとしますよ。同じ動きをしているところに、うまく本がはまっていくからスムーズに動いていただけなんです。
——手作業の製本と機械製本では、本自体にも何か違いが生まれるのでしょうか。
「壊れやすさ」という面から見るなら、あまり大差はないんじゃないかな。それに、手作業の製本と機械製本、どちらがいいとかっていうのは、一概には言えないと私は思っています。機械にしても手づくりにしても、やっぱりうまくいかないときは同じようにありますから。
ただ、ルリユールの世界になるとまた違いますね。ルリユールでは、同じ製本という領域でも使う素材の質がもっと良かったり、本をより長く丈夫に保つものとしてつくっています。伝統工芸製本と言ったりもしますが、一冊の本をいかに開きやすく読みやすく、尚且つ長期保存するためには何が最適かを考えているから、経年変化の仕方も工業製品としての本とは違います。ルリユールには、本を修繕する役割もある。
私は工業製品の本をつくっていて、もちろん50年、100年後までこの本が残ったらいいなと思ってつくるけれど、そこにはやっぱり限度があると思っているんです。かけられるコストとか、納期とか、あとは出版業界の枠組みもある。最大限がんばるけれど、このかけられる手間暇には限界があると感じています。だから、より丁寧な製本を追及していくと今の方法はベストではないですよね。ニーズに即して、ここまででよい、と決められているように思います。
——いろいろな立場に置かれている本があるんですね。
ベストは尽くしているんですけどね。それに、本がどれくらい保つかというのは、読まれるシチュエーションにもよりますよね。図書館のような公共の本は、複数の人が手に取るので乱暴に投げられることもあるかもしれないし、子どもが引っ張り合うかもしれない。返却ポストに入れるときのように、高低差のあるところから落ちることもある。そういうことすべてに耐えうる本がつくれているかといったら難しいなぁと思います。ただ、個人が大事に読んでくれる分には、50年、100年保つんじゃないかなぁと。あとは紙ですよね。製本は最悪壊れても直せる人がいればいいので、紙さえ保ってくれれば、と私は思います。綴じの部分、本の背がバラバラになって解けたり、ページがバラバラになっても、紙さえ破れたり燃えたりしなければ、読めるし情報としては残るので。
でも、できれば直しながらも、綴じられ続けていた方がいいと思うんです。人ってやっぱり、あの形だから読めるんですよね。情報を残すだけならペラを印刷したままでも、まぁいいはず。本というものがより有益に保存され続けるために、あの「綴じていること」が大事なのかなと私は思っています。
——笠井さんが本を心からお好きで、日々考えておられるんだなぁと感じるのですが、そもそも製本に携わるようになったのはどうしてですか。
私はもともと、大学を卒業してから新卒で印刷会社の製版部に入って、6年間働いていたんです。私が入社した時代には、作業はすでにアナログからデジタルに切り替わるタイミングでした。ほとんどは切り替わっていて、アナログの版下も、今みたいにDTP(デスクトップパブリッシングの略。PCを用いて印刷データをつくること。)化されて、「入稿はすべてデータで」となっていく過渡期にありました。
その部署では、まずデザイナーさんがつくったデータを入稿する作業、つまり私のいた製版部がデータを受け取ります。入稿されると、画像の修正や面付けがそこで行われるんです。面付けは、1枚の大きな印刷用紙に各ページを配置していく作業ですが、これは製本の仕様に左右されます。面付けのときに断裁時の印になるトンボをつける作業も、綴じの方法によって種類が違う。それらは製本会社に印刷物が運ばれてからの工程に関わるので、製本のことをわかっていないと、面付けの仕方を間違えることがあるんです。そういう理由で、製本のことは少し知識としては入っていました。製本をするのは別の会社だけれど、あくまで仕事は繋がっているわけだから、もう少ししっかりと製本のことを知っておいた方がいいだろうな、と思って、個人的に手製本の工房に通うようになったんですね。でも、結局印刷会社を辞めることになり、製本は完全に趣味になってしまいました。
会社を辞めてから、製本を仕事にするまで、本づくりに対して自分がどう関わっていくのか、そのまま趣味で行くのか、仕事に戻すのか、かなり悩んだんです。私は入社するころから、「この業界はあまり先行き良くないよ」と言われてきた世代です。20代の頃、途中で業界がほんとに悪くなって、中途半端な年齢でリストラにあったらどうしようとか、そういうことをずっと考えていました。
それくらいの時期からかな、出版業界に関わるいろんな人や、書店員さんの話を聞かせてもらったり、出版や本屋さんに関する本を読んだり、トークイベントもよく聞きにいったりしはじめたのは。私と近い年齢の人たちが、30代 40代になってキャリアを重ねてきた頃で、いろんな発信をできるようになってきたタイミングだったから、すごくおもしろかった。「これから本はどうなっていくんだろう」って、みんな不安でしたしね。iPadが日本で発売されて、電子書籍が普及しだして、ざわざわしていた2010年以降のことです。
出版業界のいろんな業種の人たちがみんな、これからどうなるかはわからないと思っていたけれど、諦めない雰囲気があったなぁ、と思います。みんな本が好きだし本でやっていきたいと言っていて、だからこそ、続けるにはどうしたらいいかっていうことを、すごく模索していた。「本屋B&B」の内沼晋太郎さんが、『本の逆襲』(朝日出版社)を出されたのもその頃ですね。いわゆる「本の本」がたくさん出版されていて、みんな誰かの話を聞きたかったんだと思うんですよね。ひとりでは抱えきれないというか。それでいろんな人と話をして、声を聞いて、私も趣味ではなくて仕事として、また商業出版に関わりたいと思いました。「仲間がいるな」と感じられたんです。
それで、印刷会社で復帰するのは難しいな、という思いが自分のなかではあったので、趣味で続けていた製本を仕事にしようと思って、製本会社に入ることで一線復帰としたんです。それが2014年のことですね。
——人と言葉を交わすことで、笠井さんご自身の心境が変化された、と。
業界がどうなっていくかについては全然解決していなかったし、わからないままではあったけれど、私としては吹っ切れていました。「やるだけやってみよう」って。とことん考えてみて、そこまでいくともう、別に会社が倒産しても、業界がどうなっても、そのとき考えればいいや、みたいな気持ちになってくる。みんな頑張っているから、やれるところまでやりたい。それで今に至ったという感じです。
——現在も、本をつくるための費用が高騰していますし、苦しい状況が変わらずにありますよね。
そう、今もずーっと、「やばさ」は変わっていなくて、いろんな会社が実際に倒産していくんですよね。製本会社は風下の方で、現場にいると風下からつぶれていく感じがあります。でもそれ以上に、いわゆる下請けという言い方をされる会社が、どんどん潰れていくんです。箔押しやPP加工の会社もそうですし、製本会社だけではまかなえないときに、部分的にお手伝いをお願いしている折り作業や糸かがり専門の小さな工場もです。
そういう大変さはずーっと変わらなくて、自分の肝が据わっただけで、いつどうなるかわからないな、とは今も思い続けています。なんか、暗い話になってしまいましたね……。
私は製本会社に入るとき、できるだけ商業出版の本をつくっている会社を選んで働いてきました。会社を選び間違えると、取扱説明書とかカタログなどの製本をしている会社に当たる場合もあるので、私はそこを慎重に選んでいて。それはやっぱり、つくった本が本屋さんに並んだらいいなと思っているからなんです。
それって、一番最初に本の仕事をしようと思ったときから、考えてきたことで、できれば自分のつくった本が、本屋さんの手を介して読者に届いてほしい。本屋さんが生きていてほしい、というか。
本屋さんは今、生活が苦しいと思うし、あまりお金がもらえない、対価としてはよろしくない状況で、「それでも本を売る」っていうことを、もう、生きることと同じように実行している人たちだと思うんです。安易に本屋さんのことを語れないですし、本屋さんがどこまでそういうことを思っているかはわからないけれど。
——笠井さんは、ご自身で書かれた『日日是製本2020』(十七時退勤社)というエッセイのなかでも、「本の話は人生というか、生活の話と同じだからだと思う」と書かれていましたよね。あの一文はとても印象的でした。
読んでくださってありがとうございます。ブックデザイナーの矢萩多聞さんがされているインターネットラジオをよく聞くんですが、本にまつわるいろんな人がゲストで登場して、本屋さんだけがリレーで登場するコーナーもあったんですね。転職で悩んでいたときに、そのラジオに登場した書店員さんが「たとえ店を変えても私たちはこの業界から離れたわけじゃない。まだ頑張っている」というお話をしているのを聞いたんです。そうした、本を売る人たちの言葉に助けられてきたところがすごくあります。私が製本という仕事を続けていける理由のひとつには、本屋という場所で手に取ってもらう、そのための形をつくっている、というのがある。ああいう場所が、これからもあってほしいし、あの人たちに、託したいと思っているんですよね。
——製本会社で働く人たちの姿は、どのように受け止められていますか。
製本会社で働く人たちについてですか。う~ん、閉鎖的なところはやっぱりあるんじゃないですかね。その現場だけしか知らなかったり、コミュニケーションが下手だったり。私は今、なるべくいろんな人の話を聞いた方がいい、みたいな話をしたけれど、それはごく個人的な思いです。
私の場合は、本の仕事を20年くらい続けてきたなかで、自分のいる工程以外の人のことをなるべく知ろうという意識が芽生えてきた。それに、小さな活動だし部数もそんなに多くないけれど、プライベートでも本をつくって売りながら、話せる仲間がさらに増えました。そうしないと続けてこられなかったな、と思います。自分の仕事だけをやっていては、絶対にもたなかった。それは本の仕事だからとかは関係なしに、人ってひとところで同じことをやっていると、行き詰まってしまいがちですよね。少なくとも私は、「あぁこういう人たちと本をつくっているんだな」という実感があればあるだけ、仕事に対して気持ちが楽になったし、それは、続けてこられた理由のひとつです。
まぁ、印刷から製本に来たというのもあるし、大学時代はデザインを学んでいるところから印刷の仕事に入ったこともあって、もともと少し外から、ズレながらきたんですよね。だから、20年のなかで、さらに視点を増やしてきた、というのが感覚として近いかもしれません。
——人と出会うことでほぐれる部分は、たしかにありますよね。そうした笠井さんの外部へ発信されている積極性と、職場のみなさんとのやりとりと、バランスが必要そうですね。
工場で働くことの特性上、内にこもる人が多いのはたしかだから、合わせている部分もすごくありますよね。
なんというか、現場の人たちは素直です。「正直村の村民」という感じ(笑) 今ってオブラートに包んで気を遣って喋ることが多いじゃないですか。他人に怒ったりする職場ってもうあまりないんじゃないかな。これは、ハラスメントの話と紙一重でもあるから、言いづらいことでもあるんですけどね。そうして怒るのは、先輩からも怒鳴られるのが当たり前だった私よりも上の世代の人たちで、自分はもうそれをしないので、たぶん最後の世代になると思うんですけどね。
——怒るのにも体力がいるから、ある意味すごいことですよね。
本当にそうですよね。すごく不器用だなぁと感じるけれど、怒ったあとはカラッとしている。そういう裏表がないのはわかりやすくていいな、とも思います。怒ったり笑ったり、感情を素直に出す人たちと接しているのは、ストレスにもなるけれど、ある意味健康的ですよね。みんなが隠している、人間の本質的な部分に触れているようでもあって。「えっ」と思うことなんかいくらでもあるんです。それでも、よくよく考えると普段の人間関係ではあまりないことだから、私は楽しめているところもある(笑)
それと、みんな本屋に行かないし本を読まないんですよね。私の会社はすごくいい本をつくっているんですけど、みんな内容には一切興味がないんです。それなのにどうして一生懸命仕事をできるのか、私にはそれが不思議なんです(笑)
——笠井さんはリトルプレスの活動を通しても、そうした現場の様子を書いたり伝えたりされていますよね。先ほども「日日是製本」のお話を出したのですが、今はどのように活動されているんですか。
十七時退勤社という屋号で、出版社で営業職をしている友人と、それぞれが年に1冊は本をつくることを目標にしています。これはもちろん副業でもなんでもなく、当然儲けは出ていない。次の制作費が出てトントンで回していくというのが目標なんですね。ただ私としては、思っていたよりもスケールが大きくなってしまって。本屋さんに注文をいただいて直接卸しているんですが、自費出版の本を営業したところで、必ずしも扱っていただけるとは限らないと思います。その辺は、書店営業をしてきた一緒にやっている友人の力も大きいです。本屋さんとの信頼関係がすでにできていますからね。
この10年くらいの間、本屋さんの在り方とか、本の仕入れ方とか、取次のスタンスとか、まだまだ過渡期ではありますが、個人で本を売りやすくなりましたよね。リトルプレスもたくさん増えて、読まれない本も多いなかで、一定数の人に読んでもらえている。こんなにいい状況はないです。やれるうちは一生懸命やろう、読まれるうちに書けることは書こう、と思っているところです。
——続けてこられて、規模も大きくなるなかで、良いこと、というのはありましたか。
最近、利益ってほどではないけれど、次の制作費プラスアルファが出てくるようになりました。制作費以外に使えるお金が出てくると、それを旅費にして、地方の本屋さんなど、普段お世話になっているけどなかなか会えない人に会いに行ける。それはいいことだし、健全だな、と感じているんです。いい循環が生まれていて、いいことしかない。自分の本を媒介にして、いろんな本屋さんに会いに行って、お話をして。それはやっぱり自分の本業にもつながってきます。職場でつくっている本が、これはあそこのお店だったら、あのあたりに並ぶ本だなとか、売られていくイメージが自分のなかにもてている。そういうこともモチベーションになっていると思います。
——そうなんですね。では、書くという行為が呼んだ変化はありましたか。
変化か……。これまでに、仕事を続けたかったけれど、先行きが不安だから転職せざるを得なかった人もいたし、リストラなんかもあった。モヤモヤすることって、ほんとにいっぱいあったんです。その背景にある業界の問題について、いきなり愚痴を書いても伝わらないと思って、自分のやれる方法でひとつずつ書いてきました。十七時退勤社としてつくった『日日是製本』という日記とエッセイのなかでも、現場の人たちの様子を描写することによって問題提起できないか、と思って書いていました。
でもやっぱり、自分が伝えたかったことを文章にすると、自分のなかで問題解決してしまうこともあって。ほんとうはもう少し、もやもやした状態で考えた方がいいのかもしれない。文章にしたことで、読んでくれた人が考えてくれたらいいなと思うけれど、自分にとっていいことなのかは難しいですよね。書くことで自分のなかで整理されるので、口頭でも話しやすくなるんだけど、でもなぁ、それは本当に伝えたかったことなのか、と感じるところもあります。受け取った人の解釈もあるし、自分がそれは違うなって思うような読み方も、間違いではないし。ほんとに伝えたいことって、うまく伝わらないですよね。それでも今はいいタイミングが巡ってきているし、文章にしていこうと思っています。
——笠井さんがそうして書かれていることも含め、さまざまな不安も感じながらも本に関わり続けておられるのは、魅力も感じているからなのでしょうか。
う~ん、そうですね。振り返ってみると、先行きが良くないからみんな一生懸命考えたし、イベントをしたり声を掛け合ったり、行動を起こしたんですよね。もうちょっと景気が良くて儲かる業界だったら、そんなことしなかったと思います。現状ではきっと、儲け主義の人というのは入ってこない。本を売ることや、書くこと、本に対して誠実に向き合う人たちだからこそ、なんとか続けていける世界です。だから一長一短というか、状況が悪いからみんながそれぞれいい動きをしたという意味では、私もそのなかに関われて良かったなぁと思うし、やりがいも感じてきたんです。
ちょっと自己犠牲っぽくて良くないけれど、それでも、問題意識をもって仕事に向き合えたことはたしかに悪くなかった。そういう気持ちがなければ、わざわざプライベートで、リトルプレスをつくってまで仕事の話なんかしなかったと思うんですよ。そこは全部つながっているんです。
ひとつ思うのは、みんなにはある程度、ちゃんとした生活水準を保てるだけのお金を得て欲しいです。身を削って、つらい思いをしてまでやるのは違うと思う。だけど今ってギリギリだよなぁ。ちょっとアウトだとも思います。だけど最低限そこを維持したうえで、本に対する誠実な気持ちを大事に仕事に関わっていけるなら、すごくいい業界ですよね。
私はやっぱり、この仕事で食っていきたい。本ってちょっとロマンチックなところがあるけど、ロマンにはしたくないんです。製本の現場にいる人たちは、本の内容に興味がなかったとしても、曲がりなりにも稼げるから一緒にやってくれていると思うので。本が好きで、本を残したいからこの仕事をやっている人もたくさんいるけれど、それではとても回せないし、機械も動かし続けられない。みんなが生活していくための仕事として、出版の仕事が残っていてほしいです。食費みたいな意味合いで生活と言ったけれど、それは大事なことで、私はこの仕事を趣味にするつもりはないんです。
——働くすべての人にとって、どんな業種でも、本当に大事なことだと思います。最後に改めてお聞きしたいのですが、製本のお仕事自体には、どういう魅力を感じられていますか。
私はたぶん単純に、ちっちゃい頃から、紙が好きだったというのがありますね。それも普段意識してるわけではないけれど、紙を触っているだけである程度充足感があるという。身体的に心地いいんだと思います。データを介して仕事をすることが多くなっている状況のなかで、製本はひたすら紙からはじまるんですね。印刷会社にいた頃は、最初はデータで送られてきて、刷る段になると紙が出てくるから半々。だけど製本会社だと、印刷物が搬入されるところからずーっと最後まで紙で、それは実は大きいんじゃないかと感じています。私はものに触る仕事でよかったなって、ふと立ち返る瞬間が仕事中に何度もあって。デジタルにもある程度触れてきた世代ですし、便利なものは使えばいいと思ってきた。けれど、触れないことが当たり前になり過ぎてしまうと、どこかで弊害が出てくるんじゃないかなぁ。
——ものに触れていることの、身体的な安心感は、本そのものにもありますね。
そうそう。まぁ、本は重いし、仕事は大変です。紙で手を切ったりもするし、本は重くて汗が垂れてくる。でもそこから気づくことって多い気がして。そういう、全力で走って心臓がバクバクする感じの延長にある、うっかりすると忘れてしまうような感覚を思い出せることが、本を触っているときにもあるんです。この角を触ると痛いよね、とか、サイズが思ったよりも手に余るとか。「もの」を触り続けることで、何気ない瞬間に、自分の身体的な感覚が呼び戻される。なんてことはないけれど、この仕事について良かったと感じるのは、そういう瞬間なんです。
「最初にシュリンクを解いて読むぞというときに、自分がはじめてこの本に触れるんだ、くらいに思っていたけれど、実はシュリンクがかけられるまでの過程に何十人という人の手を介しているんですよね。そのことが、今の現場で働くようになって、はじめてわかったんです。」
清水チアキ/印刷設計・営業
(1983年、福岡県生まれ。写真家・若木信吾氏の秘書を経て、現在は主に美術書・写真集などの印刷をおこなう株式会社ライブアートブックスの営業職に。)
——本づくりに関わるようになったきっかけを教えてください。
2017年にライブアートブックスで働き始める前は、写真家の若木信吾さんの秘書をしていました。そのとき、若木さんの写真集をつくる機会があって。
その、2015年につくった写真集「英ちゃん弘ちゃん」(アマナ)で若木さんが被写体としていたのは、幼馴染だったんですね。軽度の精神遅滞者である彼らは、自分とは異なる人生の歩み方をしてきたけれど、地元に帰ると子ども時代と変わらずに自分を受け入れてくれる。若木さんはそんな彼らの純粋さに憧れを抱いて撮り続けていたんです。でも、15年という長い歳月があったとしても、本になっていく過程はそれとはまったく違う時間軸で進む。1ヶ月半とかでぎゅっと集約して、本という形にしていくんですよね。私はそこで目の当たりにした、本になっていく過程のおもしろさに痺れた、というか。
各パートを任されている人たちのリレーションがうまくいかないと、本は途端に崩れてしまいますが、逆に言えば、リレーションがうまくいったものは、本の形にさえなれば、100年とか、自分たちよりゆうに長生きしていくものになる。その過程が、メディアとしての強度にもつながるんだ、と思ったんです。
——学生時代から、本のなかでも、写真集に興味があったのでしょうか。
大学は、教育大の美術専攻でした。そこで彫刻や絵画、窯芸や金属工芸など一通り、満遍なくいろんな表現に触れてみて、なかでも写真は、現実に在るものに対峙しないと絶対に撮ることができない、自分の意思で全部をハンドリングできるわけじゃない、というところに惹かれたんです。もともと写真がしたかったんですけど、うちの父も母も美術やアートにあまり興味がなく、そんなに美術の方に進みたいのなら、せめて教員免許を取りなさい、と。そしたら、あとは好きにしていいよ、と言われていて。
それで地元の九州の大学で教員免許を取って、あとは好きにやらせてください、と言って上京しました。
——上京するときは、止められませんでしたか。
それはなかったですね。ただ、私は福岡の生まれなんですが、福岡の人は地元愛が強すぎてあまり外へ出ていかないんですよ。大学や就職で地元を離れても、いずれまた戻ってくる道を選ぶことが多いので、「いつ戻ってくるの?」とはいまだに言われます……(笑)
——そうだったんですね。清水さんが写真の世界に興味をもたれるようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか。
私が学生のときって、雑誌が、田舎まで届く一番のメディアで、特に90年代とか2000年代って、若木さんや、高橋恭司さん、長島有里枝さん、佐内正史さん、蜷川実花さん、とか、今写真家として大成された方々が、雑誌で活躍なさっていたんです。一部を切り抜いてというより、1ページ丸ごとピンナップしたくなる。そういう紙面が、写真家とアートディレクターとの組み合わせで展開されていました。情報が一番得られたのも雑誌だったので、本屋に行って、写真集を見たり雑誌を見たり。当時の情報源はそこにあった。
はじめて買った写真集も雑誌『STUDIO VOICE』のページ端の小さな記事で見つけました。Boris Mikhailovの「CASE HISTORY」(Scalo)で、アメリカのAmazonから取り寄せたりして。
あと、今はもう解散してしまったんですが、高校生のときからずっと、「OBSCURE」というアーティストコレクティブが好きだったんです。ちょうどコンビニのコピー機のカラー印刷が100円から80円に値下げされた時期で、富士ゼロックスと組んで、ZINE(個人やグループが自由なテーマと方法で制作する冊子)みたいなものをつくっていました。それをアーティストブックとして販売して得た収益で、都立大の土地を借りて、そこを拠点に活動していたんです。彼らの活動も雑誌で知って、大学の夏休みに思い切って訪ねたりもしました。そういう、本からつながっていく彼らの活動がすごく素敵だなぁ、と思っていた部分もあり、実際に彼らとのつながりが上京を後押ししてくれたんです。
そんななかで「本」とか「写真」に関わる仕事がしたい、とは思っていたんですが、明確に「この仕事」というのは、当時は考えていなかったです。自分の好きなキーワードを手繰り寄せてきただけなので、教育大にいたけれど教師になるわけでもなく、就職活動も全然ちゃんとしている学生じゃなかったですし。
——卒業後すぐに、また別のお仕事もされていたと、先ほど少しお聞きしましたが、これまでは他にどんなお仕事を。
大学を出てすぐは、当時、銀座にあった日本発色というプロラボで、お客さんから預かったポジフィルムの現像の仕事をしていたんです。写真の界隈にいたいなという思いがずっとありましたし、写真のことを勉強したいとも思っていて。そこで働きつつ、「夜の写真学校」という、瀬戸正人さんが主催するワークショップで、写真を撮ること、写真展や写真集として表現することもやってみていました。
——写真家になりたいと思うことは……?
憧れたこともあったけれど、出会う写真家の方たちは、もっとずば抜けていたんですよね。大げさでなく写真を撮っていないと死んでしまう、というような、ある意味病的なまでの熱量。残念ながら私はそこまでではなく、ただ写真が好きだったんです。そんな自分が写真に関われる方法はないか考えたなかで、ラボに勤めたり撮影スタジオでマネージャーをしたり、ひとつずつしっくりくる関わり方を模索していました。
——それで若木さんのもとへ辿り着いたんですね。
はい。若木さんのところには4年近くいたんですが、写真集制作に参加させていただいたことをきっかけに、自分が本のハード側の知識をつけることで、何か別のお手伝いができるんじゃないかと考えるようになったんです。それで、若木さんのところをやめて転職活動をしているときに、たまたま、今働いているライブアートブックスの求人を見つけて。写真集が好きな人にはもしかするとよくあるのかもしれないですけど、一番後ろのクレジットをいつもチェックしていたんですね。そこで、ライブアートブックスの母体である、大伸社という名前はよく目にしていて、印刷会社のなかでも憧れのある会社でした。若木さんの本をデザインしていたアートディレクターの原耕一さんにご相談したときにも、あそこだったら間違いないと、お墨付きと言いますか、「いい写真集をつくるのに関われると思うよ」と声をかけてもらったりもしました。
とはいえ募集要項には、「印刷営業の即戦力」と書いてあって。私は印刷も営業経験もなかったですし、記念受験みたいな気持ちもありました。ただ、写真集への興味と、そこに関わる仕事をしていきたい、という思いだけは強かった。それで面接の前に、深夜に熱く記すラブレターみたいな、今思うとちょっと鬱陶しいような履歴書を書いて(笑) それで面接も通って採用していただいて、今の印刷営業の職に就いたんです。
——写真集が好きでつくりたいという思いが、通じたんですね。印刷営業といっても、その性格は会社によっても異なる部分があるかと思うのですが、清水さんは普段どのようにお仕事をされていますか。
「印刷会社の営業がどんな職業か」というと……、たとえば1冊の写真集をつくるとなったとき、まず、こういう本をつくりたいという依頼が出版社やデザイナーさんから来ます。その時点では、まだ判型やページ数が明確でない場合もあるので、ご相談しながら、つくる本のイメージを細かいところまで具体的にしていくんです。優先したい、その本にとって最重要なのは何かをお聞きしながら、かけられるコストや、どれくらいの販売価格に設定したいかに応じて、こちらから方法をご提案することも多いです。ページ数や度数(インキの色数)、校正を本紙(本番と同じ用紙)でとるか、全台(全ページ)とるか、校正を何度行うか、そういう部分で細かく調整していくんです。
——全体の進行を管理していくことも役割になるんですね。清水さんが心がけられていることはありますか。
私は、お仕事でご一緒させていただく相手方への事前のリサーチをするようにしていますね。先方にお会いするまでに必ず、関連している書籍や展覧会、写真集などを拝見して、興味を深掘りしておくんです。お仕事の入り口として大事なポイントなので、社内でも、制作に関わるプリンティングディレクター、画像オペレーター、設計管理、編集、配送などのメンバーに、リサーチした内容を共有しています。それを踏まえて、さらに入念に打ち合わせの準備することも大切にしています。先方からすでに指定されている仕様についての準備はもちろんですが、私は場の流れを考えてシナリオを組んでみて、提案できそうなことを含め、自分なりの答えをもって打ち合わせに臨むようにしているんです。
そうして先方と打ち合わせをしながら、つくりたいイメージを言語化するんですが、あくまでも重要なのはそれを次の工程に伝える、「翻訳作業」なんですよね。私は今半分は営業、半分は設計管理のような立場にあるんですが、一番最初にお客さんに対峙して受け止めてきた情報量を、今度はどれだけ現場で機械を動かすオペーレーターにわかりやすく翻訳していけるかがすごく大事です。
——翻訳ですか。
受け取った言葉のまま、次の工程の人へ作品のイメージや熱量を伝えても、伝わらない。「今回の印刷ではこれくらい細かく表現する必要があるけれど、それにはこういう理由があって」と、デザイナーさんや著者の方の実現したいことを翻訳して、次の工程に伝える必要がありますね。
お客さんと現場と、どっちの気持ちもわからなければいけない、というか。
——確かに、デザイナーも、編集者も、印刷のオペレーターも、役割の違う人ですし、そこにぴったり通じ合う共通言語がないなかで、異なる役割の人同士を結び合わせているんですね。
全部お客さん側についているのがかっこいいのかもしれないんですけどね。それでは現場の人たちに伝わりにくいところがあるので。なんでしょうかね、ちょっと仕上がりに違和感があるな、とか、これは伝えなくちゃいけないと思ったらそのまま放置はしないようにしています。面倒くさがられても、何度も何度も繰り返し伝える。
——うまくいかなかった、という経験もあるのでしょうか。
よく覚えているのが、入社して初めて担当した写真集の、納品時のことですかね。それは中綴じの、冊子に近いような本だったんですが、現場の人たちはなかに何が入っているかわかるように、包みの外側にその本を貼り付けて、段ボールに梱包して送り出してくれたんです。でもそれをご覧になった作家さんにとっては、その1冊も大事な作品なのに、ラベルの代わりのように使われて、本が羽交締めにされているようですごく悲しかった、と。私も言っていただくまで、そういう思いにさせてしまうんだ、と気が付いていなかったんです。配送の人たちは配送の人たちで、中身がわかりやすくなるようにそうしてくれたんですよね。
その心遣いも踏まえたうえで、もしヤレ(破れや汚れがあり商品にならないもの)になってしまったものだとしても、お客さんにとっては貴重な1冊だから気をつけましょう、ということを、しつこく、面倒くさがらずに、現場に伝えていく必要があって。対お客さんとだけうまくいっていればいい、ということではないんです。次の工程とのリレーションが大事になるのは、そういう点ですよね。納品されるまでに何かお客さまが残念に感じられることがあったら、本づくりとして成功したとは言えないんじゃないか、と思っているんです。
あとはやっぱり、現場が動いている時間帯と、デザイナーさんや作家さんが動く時間帯というのは違っていて、夜にお仕事が回りだす方も多いので、そこは、それぞれの時間軸を自分のところで止めない、みたいなことは、気にしながら働いているんです。メールが来ればすぐ確認して、今すぐ返さなくちゃいけないものは今、すぐに回答ができないものはそのことを返す。「明日確認して返事しますね」というのが返せるだけで、違うと思うんですよね。
——どの立場の方も最善のお仕事ができるように、その想いがしっかりと届くようにするのは、すごく難しいお仕事ですよね。間でつなぐ役割というのは、そこにかかる負担も大きいのではと思ったのですが、日々、暮らしとお仕事と、どのようにバランスを取られているのか気になります。
本づくりに、生活ごとのめり込んでいく瞬間がやっぱりあるんです。それが一般的な働き方として正しいか正しくないかは、判断の物差しが職種によっても変わってくるところがあると思うんですが、私はあまり、仕事とプライベートというふうに分けてはいないんですよね。プライベートでも完成した写真集の写真展を見に行ったりとか、今は育休中なんですが、自分が直接関わっていない本に関連する展示を観に行くのが楽しみになったりとか。区切って働いていないんです。また、もし自分が担当していたらこういうことも一緒に考えたかったなとか、その逆で、自分には思いつかったな、と思う発見もあって。
——常に本づくりが生活のなかにあるんですね。それから、担当する人によっても生まれてくる本は変わってくるのか、と今のお話のなかで思いました。
誰が担当するかによって、本として出てくる回答って無限にある気がします。その解釈を一緒につくっていくのが醍醐味でもありますね。本づくりの工程っていうのはできあがった本からは見えない部分ですけど、でもやっぱり、各工程がうまくつながっていったかいってないか、みたいなことって、本の佇まいにも影響してくる気がして。だからやっぱり、どれだけ忙しくても、自分自身も嫌な気持ちでつくりたくないというか、大変だったなというだけにはしたくないとも思っています。根本的に大事なのは楽しむことじゃないかと。
——お仕事への向き合い方を含め、印刷営業に就いてからの、師匠のような存在はいますか。
この仕事に対する姿勢を教えてもらった人をあげるとすると、やっぱり、川村佳之さん(ライブアートブックス・代表)でしょうか。私が入社前からクレジットを見て憧れるような写真集を担当していたのも川村さんですし、営業スタイルとか、お客さんに対峙する姿勢とか、ものづくりに対して厳しい目をもつことを教えてもらったと思います。
——いろんなお仕事を経て印刷営業の職に就いて、今改めてどんなことを感じられていますか。お話されている姿からも、心から楽しまれていることが伝わってきて。
言っていいのかわからないけど、印刷営業は天職だと思ってますね(笑) 本という一番好きなものが根本にありますし、つくるためにいろんな職種の方と関われるというのも嬉しいですよ。作家さんや出版社さん、デザイナーさんもそうですが、それこそ製本現場の方や、用紙メーカーの方、表紙の加工の箔押し、シルク印刷や活版印刷も。その現場の方たちと話しながら、現場を見てものをつくれる。
好きこそものの上手なれ、と言いますけど、好きでないと仕事にできないこともあると思うんです。
——好きなことを仕事にする苦しさ、というのはないですか。ただ、受け取ることを楽しみたいと思ったり。
やっぱり、現場とお客さんのまったく違う時間の進み方に、日々右往左往しながら働いているんですよね。けれど、好きだからこそそこのしんどさもクリアしていける、というか。
まぁ、できあがったものだけを見て楽しみたいと思っても、つくる過程の記憶が入ってきてしまうと、どうしても先入観は生まれてしまって、それによって本の見方が変わる部分はあります。でもやっていくうちに、一周回って、エンドユーザーの人と同じ気持ちで楽しめる俯瞰的な視点が出てきたんです。外には出さない、この1冊ができるまでの誕生秘話みたいなことも知っている。それはむしろ喜びです。
——好きという気持ちに支えられえているんですね。いろんな職種の方と関われる仕事だというお話もありましたが、協働する方の存在も、本づくりにとってはとても重要ですよね。
そうなんですよね。ライブアートブックスでは最近まさに、本づくりを取り巻く状況を、相対的に語っていくための場をつくっていこうとしているんです。せっかく素晴らしい作家さんや版元の方々とお仕事をさせていただいているので、本が完成して終わりではなく、広めていくお手伝いができたり、深掘りしていく時間をもてたりするといいなぁ、と。ただお客さんへ、というだけじゃない、印刷の立場から、製本や用紙メーカーの方、その先に待っているお客さんまでをフラットに繋いでいけるメディアや場をつくれるといいんじゃないかと考えているんです。
たとえば今、だんだん準備ができているんですが、ギャラリースペースも設けて、そこで展示やイベントの企画もしていこうとしています。(LIVE ART GALLERYとして2023年9月にオープン)はじめは「場所」がなかったので、メルマガをただメールで送るんじゃなく、印刷会社だったら紙でつくろうというのが発端で「LAB express」というニュースレターを発行してきました。
あ、その1号目では、『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKES)という民話の採訪をしている小野和子さんの著書についてとりあげたんですが、この本の発行人であり編集をしているのが、私の双子の片割れなんですよ。一卵性の双子で、そっくりなんです。その妹のチナツはインディペンデント・キュレーターをしているんですが、彼女から依頼を受けて印刷を担当した本もいくつかあります。
——ではぜひ『あいたくて ききたくて 旅にでる』の造本設計について、詳しくお聞きしてみたいです。こだわられたポイントなど、おしえていただけますか。
デザイナーの大西正一さんとやりとりを重ねながら、内容に入り込んでいただけるような仕掛けをいろいろと試しました。表紙の紙も、ちょっと硬さのあるものです。これも、舞台である東北のもつ歴史的な背景や、風土の厳しさが表現できるよう、ある程度斤量があり手に反発を感じる紙がいいということで、束見本をつくる段階で何度か試作をしてそのバランスを探りました。真っ白な表紙に見えるんですが、実は細かい網点を刷っているんですよね。地の文である小野さんのエッセイから、語られた民話に移っていくときも、すっと視覚的にその世界に入り込めるように、民話はグレー文字に見えるよう墨のパーセンテージを変えてあるんです。コストの面からも、本のテーマからも、用紙や印刷製本の手法の選定からも、本にとってベストな組み合わせができている本の設えはかっこいいんです。
——細部の部分は、作家さんや編集者さんの意図を汲んだデザイナーさんと一緒につくり込んでいくんですね。細かな印刷のこだわりや、それによって伝わるものは、やっぱり紙媒体ならではと思うのですが、このお仕事に就かれてから、電子書籍のあおりを感じることはありましたか。
私たちも、仕事は少し減ってくるんじゃないかと思っていたんですよね。特にパンデミックのはじめくらい。うちは美術館や博物館の図録、広報物、企業のカタログの仕事もしていたんですが、非接触が優先されて、直接送るDMすらも怖いものに変わってしまった時期でしたから、そういうものはどんどん電子に変わっていくんじゃないか、と思ったんです。
でもむしろ、作家さんたちから、それまで以上に製作のお問い合わせをいただいて。今までの仕事のペースでは、クライアントワークが多くて自分の作品づくりのことを考えられなかったけれど、コロナ禍で仕事が落ち着いている間に少し自分のことに立ちかえって作品集をつくりたい、と。それはすごく励みになりましたね。
——電子に動く部分もあるなかで、だからこそ生まれてきた流れもあるんですね。他に印象に残っているお仕事を教えていただけますか。
もうひとつあげるとしたら、潮田登久子さんの『マイハズバンド』(torch press)でしょうか。須山悠里さんがんデザインした写真集です。潮田さんのパートナーの島尾伸三さんも写真家で、島尾さんは昔、『まほちゃん』(オシリス)という、今は漫画家でエッセイストをされている、娘のしまおまほさんを撮影した写真集を出版なさっています。写真家2人が生活するなかで、カメラが生活の中心にある。その頃、潮田さんが6×6のフィルムで撮る普段の作風とは違う、生活のスナップみたいなものを撮られていたんです。けれど、撮った潮田さんもそのことを忘れたまま。その当時住んでいた洋館を40年ぶりに整理をしていて、ネガやプリントが出てきたことで、写真集にまとめられることになったんです。
やっぱり写真ファンからしても、島尾さんがまほちゃんを撮っていたシリーズは見ていたけれど、潮田さんが撮影されていたものが見られるのか、と思うような、その写真自体に含まれる奇跡もすごいですよね。島尾さんが撮ったまほちゃんは子どもらしい、ものすごく天真爛漫な姿で、ヤンチャな女の子、という感じなんですが、潮田さんの写真では同じ時期でもちょっと憂いがある。どこか大人びていて聖母のような、どちらかといえば一緒に写っている島尾さんの方が子どものように見えるときがあるんです。まほちゃんが、眠っている島尾さんをじっと見つめる写真とか。そこが、写真の不思議だと思うんですよね。だって、同じ時間に、同じカメラで撮っていたりするのに、そのまなざしが対象をどう思っているのかっていうことが、写真にあぶりだされてしまう。それは怖さでもあるし。そして必ず目の前にあった現実なんだ、というか。不思議だなぁ、と思うんです。いち個人の思い出に留まらない懐かしさを超えた、普遍的な写真のつよさがある。
それらの写真を1冊にまとめていく工程で、デザインの須山さんと、編集の網野さんと、判型にはじまり、写真の美しく見えるバランスを、コスト管理を細かく行いながら、いろんなパターンを試した。この写真集では、試せることは無限にあるなかでも、最短ルートで進められたと思うんです。そういう意味でも、とてもうまくいったと思う本ですね。さらに、「Paris-Photo Aperture PhotoBook Awards」で審査員特別賞を受賞して、海外に多く流通していったことも、すごく印象に残っています。街の本屋さんにつくった本が並んでいるのもすごく嬉しいんですが、海外のブックフェアで偶然手に取ってくださった方がまた知り合いに広めてくださることもある。本として生み出されたものは、自由に旅立っていけるんだという、メディアとしてのつよさを改めて感じた本でした。
——写真集という存在そのものへの愛も感じるのですが、清水さんはどんな部分に魅力を感じてこられたのですか。
写真集って開くたびに、自分が見るときのコンディションや状況によっても、見える物語が変わってくる、こちら側にすごく委ねられているじゃないですか。どこから開いてもいいわけですし。それは私の思う写真集の魅力なんですよ。今はちょっと時代も変わってきているけれど、九州でも田舎の方で育ったので、なんだろうな、本があれば……というか。本は、窓みたいなものなんですよね。ページを開いたら、そこで世界が開ける感じがある。
——開いていなくても、そういう存在がそばにいつもあるというだけで、大丈夫と思える気がしますね。触っているだけでも安心できるような。
お子さんが生まれて、そうしたお仕事に対する思いや、本に対する思いに生まれた変化はありますか。
そうですねぇ、子どもが生まれて一緒に絵本を開く機会が増えたので、余計にこの、紙をめくってあげるとか、ものとして本を捉えて喜んでページを捲る感触は、全然古くならないんだと実感しています。
それに、子どもに見せられる仕事でありたいな、といつも思いますが、現場が残っていないとつくれないものも出てきてしまう、というのを、直近の本づくりでも感じていて。
——具体的には、どういったことがあげられますか。
もう今やつくられていない用紙もありますし、表紙のクロスにしてももうつくっていなかったりすると、重版したいと思ってもできないんですよね。先に触れたような本をとりまく現場も廃業なさったり。例えば見返しなどに使ってきた半透明紙って、はじめから半透明紙を使うこともできますし、クラフト紙に蝋引きをして透かすっていうやり方もあるんです。そちらの方が用紙も選べて表現の幅が広がるので、割とよく採用していて。でもその老舗の蝋引き屋さんが廃業してしまったんです。そうして現場が少しずつ縮小してきてしまう、そのなかでも本にとって最適な、バランスがいい組み合わせが提案できるようにはしたいですね。デジタル印刷や新しいことも取り入れつつ試しながら、本の可能性をつくり手の方達と一緒に探っていきたいんです。
——清水さんの視点から業界全体を見たときに、何か変化を感じられることはありますか。
今新しいなと思うのは、美術館のカタログのお仕事の流れでしょうか。今までは、美術館が版元になって、印刷所は入札形式で、どれだけ安く印刷できるかを提示してからつくられることが多かったんですね。でも今は、美術館側が出版社に依頼をかけて、そこから私たち印刷所にお声がけいただく、という流れが生まれてきています。そこには新しい可能性があるなぁと思っていますね。
——そうすると、優先されることは少しずつ変わってきそうですね。
年々、用紙代もどんどん高騰していますし、物流の2024年問題って言われているみたいに、運送費もアップしているんですね。そのなかで今みたいなスピード感とか、価格帯で、1冊本を仕上げていくって、すごく難しくなってくる。でも、今までこの時間でできていたからっていうことで、タイトに区切っていくのも違うと思うんです。展覧会が決まっていたりとか、発表のタイミングが決まっていたりすると、この期日までに仕上げるには、と最終からスケジュールを逆算していくんですね。時間がものをいうところがあった。そのときに今までみたいな感覚ではできないことがきっと出てくるだろうから、そこがもう少し、ハード側もソフト側も、緩やかに進めるようになったらいいな、と思っていますね。
そうしたいろんな変化のなかで、本の価格はこれからもう一段階あがって、変わってくるんだろうな、とは思っていて。長くその価格に慣れ親しんでいると、写真集1冊に5千円とか、8千円とか、1万円という価格がつくのを安いと思える人も、高くて手が出せないという人もいると思うんです。自分が学生のときを振り返ってみても、ものすごく奮発して、頑張って買う、というときもあったし。版元の方の思いとしても、若い世代の人たちが手に取りやすい価格で出したいという思いがあると思いますし、書籍が広がっていく、というためにも、価格はある程度抑えられていないと手に取れないということもある。
ただ、最初にシュリンクを解いて読むぞというときに、自分がはじめてこの本に触れるんだ、くらいに思っていたけれど、実はシュリンクがかけられるまでの過程に何十人という人の手を介しているんですよね。そのことが、今の現場で働くようになって、はじめてわかったんです。だからこの価格で手に取れるっていうことは、すごくありがたいと今は思います。
——これだけたくさんの人が真剣に関わった替えが効かないものを、多くの人が手に取れるって、奇跡みたいに感じます。最後に少し、今どんなふうに過ごされているか、これからどのように働かれるのかお聞きしたいです。
育休期間は一応1年の予定で、それより早く復帰したいなとか思っていたんですが、子が早生まれになってしまったので、まだ保育園に預けられない問題もあって。今のところ来年の4月から1歳児入園で保育園に預けて仕事に復帰したいなぁと思ってるんです。はじめての出産だったので、いろんな人からいろんなことを聞いていて、好きなことが180度変わるとか、生活がガラッと変わるよと言われてもいたなかで、写真集にもっている興味関心って変わってしまうのかなっていう不安はやっぱりあったんですよね。だけど私の場合は全然変わらなかった。今はクライアントを引き継いでもらったチームの頼もしさも感じていて、自分がいたところがあいてもうまく回してもらっているんですが、でもやっぱり仕事から離れるのは寂しいな、とも感じます。
——復帰の日が楽しみですね。その日を迎えるのに、不安はありますか。
やっぱりありますね。今は子育てだけでも精一杯なので、一体どうしてるのか、世の働くお母さんたちみんなに聞いてまわりたいくらい。仕事の姿勢に関して、産前と同じように応えられるかは心配のひとつです。これから実際子どもを預けて働きはじめるっていうのが、どうなるか見えないところがあるんです。限られた時間で、効率よくしていかなきゃいけなくなるだろう、と。これまでは提案準備をするときに、なるべく時間のあるときに気持ちにゆとりをもって準備して、そのイメージをどうやって咀嚼していくかを考えてみたりしていたんですけど、そうはいかなくなるので。そのバランスをどうしていこうかな、と。少なからず、この5、6年の経験は糧になっているので、そこを活かせるといいなと今は思っています。本づくりには、ずっと関わっていきたいです。
「仕事一筋な生き方も、生活とのバランスを大事にする生き方も、どちらもいいなと思うから迷うんです。どっちの生き方もかっこいいし、やっていきたいと思っています。」
脇田あすか/アートディレクター・グラフィックデザイナー
(1993年生まれ。東京藝術大学修士課程修了後、デザイン事務所「コズフィッシュ」(代表・祖父江慎)に所属。現在はフリーランスに。)
——大学時代はどんな制作をされていたのでしょうか?
デザインの方向性が今の感じにグッと近くなったのは、大学の3年生の秋頃です。はじめて「TOKYO ART BOOK FAIR」に出したのがその年だったかな。
大学1、2年生くらいまで、課題はちゃんと出すけれど今思えばできあがりは粗末なものでした。遊んでばっかりだったしね。友人とイベントに出展するとか、グループで展示をする、みたいなことは楽しくてしていたけれど、楽しいからつくって出すだけ。そこにクオリティは伴っていなくて、趣味的な、藝大に入らなくてもできるようなことだったなぁと、振り返ってみて思います。
私は美術予備校に通いはじめたのが遅くて1年間浪人もしていたんだけれど、とにかく藝大に入りたいって、途中から目標がそれ一本になってしまっていたんですね。受験勉強にのめり込んでいって、もともと好きではじめたはずなのに、入って実際何がしたいのかが抜け落ちてしまっていたんです。
同学年には、課題を適当にこなしている人や、やんちゃな人も多かったので、雰囲気に流されていた自分もいた。憧れの藝大生になってこれでいいのか、みたいな気持ちはありました。そんなときに、古美術研修旅行というのが授業のなかであったんです。京都と奈良に1週間ずつ、計2週間、先生に引率されてお寺や神社、仏像を見て回る。その旅行の最中に、それまで親しくしていた子たちと仲が悪くなってしまって。その子たちは課題に真剣に取り組もうっていうタイプではなかったので、流されている自分が嫌になっていたところもあった。もともと展示やイベントに出展するような学外の活動は、別の子達とやっていたんですけど。
——方向性が変わってきていたんですね。
そうそう。ちょっとずつ制作に対する感覚がズレてきた時期にちょうど仲違いして、「もういい加減遊んでばっかりも良くないし、ちゃんと課題しよう」って気持ちを入れなおしました。
古美研から帰ってきたあとには、1ヶ月弱かけて、得たものをどんな形でもいいから作品にしてみる、という課題が出ました。何でもつくっていいと言われたはじめての課題だったんじゃないかな。藝大のデザイン科は専攻が細かく分かれていないので、広くいろんな課題をしていたんです。椅子をつくるとか、決められたテーマに対して提案をしてみるとか、形式が決められていることが多かった。でも受験の頃からずっと、立体よりは平面の方が得意だなぁと思ってきたこともあって、そこではじめてポスター作品を制作してみました。今思えばそれも、すごく緩い出来上がりだったんですけどね。
——それはどのようなポスターでしたか。
自分で描いたイラストとタイポグラフィーを、透明なパールの入ったインクで刷ったものでした。一見真っ白な紙だけど、見る角度によってちょっとだけきらっとする、みたいな。どこかのお屋敷を見学したときに、雲母刷りという技法で、パールの入ったインクで襖に花柄が刷られていたんです。光の加減で像が現れるのがすごくいいな、と思って。
そのポスター自体は全然評価は良くなかったんだけど、ちょうど課題を出したあとに、別のタイミングで、講評のときとは違う先生から声をかけられて。それがグラフィックを専門に教えられている松下計先生だったんですよね。
「ポスターつくってたね。グラフィックが好きなの?」って。それで「はい」と返事をしたら、「評価悪かったでしょ」と言われて(笑) 戸惑いながらも返事をしたら、「でも、グラフィック的には可能性があるし、良いと思うからつくり続けてね」と言ってぱーっと去っていかれて。藝大に来てから、課題やつくったものを講評以外の時間に触れてもらえる、しかもそれが「よかった」と言ってもらえることが初めての経験で、すっごく嬉しかったんです。それでもう一気に「グラフィックをやろう」ってのめり込んだ感じでした。
デザイン科のなかで専攻が分かれていなかったから、やっぱりグラフィックをやっている子がいると、グラフィックの先生は嬉しかったんだと思います。グラフィックに興味がある学生、という認識をされてからは、松下先生が大学院のゼミで関わっているプロジェクトに呼んでもらって手伝いで入ったり、必死でやるって感じだったな。
さっきの話の古美研が初夏くらいで、同じ年の秋に、「TOKYO ART BOOK FAIR」に手づくりのZINEや紙ものを持って出展しました。アートブックフェアにはそれまでも遊びに行ってはいたんです。どの出展者もすごくかっこよかったし、見たこともない本やZINEもたくさんあって、おしゃれな人もたくさんいる。そこに、自分の求めていた憧れ像、みたいなものがあったんですよね。こういうかっこいい大人たちが好きなものが「アートブック」なんだって。その後には、卒業制作のプレ課題として『FIX MY EYES』、目を凝らすというテーマでアートブックをつくりました。著作権が切れたテキストや、何人かの方にお願いして書いてもらった言葉にビジュアルをあてて、自由に一冊の本として組ませてもらったんです。
——製本もご自身でされたのですか。
そうです。シルクスクリーンやリソグラフでの印刷も自分でやったので、すごい手づくり感がある。直接手描きをしたり、焼いたり塗ったり、大学の機材も使っていろんなことをしてますね。『目を凝らす』だから、文章も詩も、全体的に読みにくくしてあるし、関係ないグラフィックが入っているし、今見るとぐちゃぐちゃな感じです。でも、そこがいいとも思う。
——目を凝らす、というテーマはどこから発想されたのですか。
う〜ん、どうしてだったんだろう。古美研でつくったポスターもだし、その頃から、紙媒体は実際に手に取って見られるのがデジタルのものにはない良さで、印刷物の魅力はそこにあると思っていたんじゃないでしょうか。その『FIX MY EYES』は評価も良かったので、私はグラフィックやアートブック制作が得意なのかもって、さらに思い込んでいったんですよ。
学部の卒業制作は『HAPPENING』という、自分の日記を元にしたアートブックをつくりました。日記に、半分くらいはフィクションも交えるように、編集も加えつつ。実際に起こった印象的な出来事と、それに関連して思い浮かぶ人の姿をイラストで描いた作品です。
本当ははじめ、湖をテーマにしようと思って琵琶湖にリサーチへ行ったりしていたんだけど、途中で、これは思っているほど深い作品にはできないし、伝えたいこともそんなにないな、と思ってしまって。卒業制作はとにかく量をつくりたかったのもあって、夏休み明けに急な方向転換をしました。日記はこれまでの二十数年分があると思えば充分厚みがあるし、卒業制作にぴったりだなぁと。
実はこの作品、講評を受けてから展示があるまでの間に、つくり直しもしました。4年生ごろ、「TOKYO ART BOOK FAIR」のサイン計画をつくるというプロジェクトで、田中義久さんにとてもお世話になったことがあって、学内の講評のあとに作品を見ていただいたんです。そのときに「全然絵に目がいかないから、もっと素直にまとめたほうがいい」と言われて。アドバイスを素直に受け止めてみて、2冊目は、1冊目よりもストイックな雰囲気になったかな。それまでは、本をつくっても編集にまで目がいってなくて、好きにつくってまとめているだけだったんですが、そのときにはじめて、どうまとめればどう見せられるかを考える編集的な思考をもらった、という気がします。
——すごく物量があって、かつ要素ひとつひとつが凝っている印象です。張り込まれているイラストも紙ごと加工されていますね。
エイジングのかかった古い写真のようにしたくて、絵は印刷したあとに、バケツにコーヒーをつくって、そのなかにしばらく漬けているんです。1枚ずつそうして染めたり貼ったりしているので、10冊だったけれど絵の枚数もすごくて、作業は後輩にもお願いして手伝ってもらいました。いろんな人に協力してもらっていて、展示で使った什器も建築の子にお願いしましたし、什器のなかに敷き詰めた絵も、切る作業はみんなに手伝ってもらいながらつくっていました。その期間はとにかく、次の日の服を着て寝て起きてすぐ学校に行くみたいな。限界までやっていました。大変だったけれど、学部時代の卒業制作を見たと言ってくれる人にはいまだに出会うし、展示で声をかけてくださった方とは今も仕事をしていて。この作品はその後STAIRS PRESSさんからリトルプレスで出版する機会もいただきましたし、あのとき頑張ってよかったなと思うんです。
——その後大学院に進学されたのは、どのような思いがあったのでしょうか。
3年生の後半から急にグラフィックデザインにはまったから、全然勉強が足りていない感じがして、もう少し専門的に学びたいなと思ったからですね。大学院からは松下先生の研究室に入りました。
——大学院では展示づくりにも関わられていたそうですね。
そうですね、偶然が重なった部分もあったかな。院の1年生では、シュタイデルの手がける、世界各地の大学を巡回する写真展のプロジェクトの会場構成を担当したり、音楽科と共同で映像と演奏を組み合わせたイベントをすることもありました。当時松下先生が、グラフィックの知見を持って、空間や他のものをデザインしていくことが大事だというようなことを言っていて、その考え方はとても意識してました。
——そこからコズフィッシュで働きはじめるようになったのはなぜだったのでしょうか。
今思えば展示デザインに関わる経験をしていたこともちょうどよかったんだと思うんだけど、院の2年生になってから、「コズフィッシュ」の祖父江慎さんがスタッフを探していたところに出会って、働きはじめたんです。10月くらいまではがっつり仕事をして、修了制作のときは制作に集中するためにパタっとお休みをして。
本も好きだけど、私が入ったときにはコズフィッシュって展示の仕事も多かった。空間構成から、チラシ、図録制作も、これまで大学でやってきたことが、コズフィッシュで祖父江さんが求めていたところとつながった感じがありました。祖父江さん曰く、本をつくりたい子の応募は、コズフィッシュにはめちゃくちゃたくさんくる。ほんとにそればっかりくるって。でも本をつくれるスタッフはもういるし、祖父江さんとしては本ばっかりやりたい子をとってもつまんないな、って感じらしく。私はもちろん本も好きだったけど、ファッションや音楽も好きだったし、それに私が好きなアートブックって、いわゆる書籍の在り方とはちょっと違う。そういういろんな側面をおもしろがって採用した、という感じだと思います。
——入ってからはどんなお仕事をされたのでしょうか。
コズフィッシュでは、一番はじめに『ガラスの仮面』(白泉社)の展覧会チラシ、グッズと展示デザインにも関わって、道後温泉で祖父江さんの滞在制作のプロジェクトも手伝ったんだったかな。在学中だったけれど、アルバイトというよりはほんとうに一スタッフとして参加させてもらっていました。
コズフィッシュに入って一番はじめに担当した本なら、『ぺぱぷんたす』(小学館)ですね。紙遊びにまつわる、子ども向けのシリーズで、これはその後もずっと担当し続けることになりました。今見ると最初はほんとにデザインが下手で恥ずかしい……。
私が入ったときには原稿はすでにあがっていて、あとはレイアウトするだけっていう状態だったんですね。データを焼いたCDの入った封筒が、机の上にドサっと置いてあって。これをやって欲しいって言われたときは5月だったんですが、封筒には4月○日厳守って書かれてあって「え? 過ぎてるぞ?」って(笑)
だからすごい急いでつくる羽目になって、しかも当時、いわゆる子ども向けの本にはあまり興味がなかったから、勝手もわからない。とにかくいろいろ祖父江さんに教えてもらいながらつくっていきました。それに、『ぺぱぷんたす』がはじめて印刷所に入稿してつくる本だったんです。今思えばこの本すっごい本で。表紙は最初から破れた加工がしてあるし、別丁で封筒や寸法の違う紙がたくさん入っていたり、紙の種類が違うページもあるから、台割にするとガタガタになるような本。自分でつくっていた手製本のアートブックならまだしも、大量生産する本ですからね。その後他の単行本を作ったときに、「あぁ、『ぺぱぷんたす』って変だったんだ」って(笑)
——祖父江さんは造本も装丁もわくわくするような、思いがけない豊かさをもった本を、たくさんつくられてきた方ですが、お仕事を通して、どのようなことを学ばれましたか。
私はコズフィッシュで働きはじめるまではずっと「感覚的」なレイアウトをしていて、文字のサイズやスペースが何ミリかとか、すっごく適当でした。祖父江さんは、感覚的なレイアウトは教えにくいし、それをもっていることは「すばらしいことだ」と褒めてくれたけれど、同時に「数学的な部分も気にしながらやろう」と言われていて。それは身につくまで意識的になってデザインするしかなかったですが、とても勉強になりました。たとえば、祖父江さんにデザインしたものを出力して見てもらうと、「この文字は何級なの?」とか、「ここのアキは何ミリなの?」「この色はシアンとマゼンタを何%ずつ?」と全部聞かれて。それが言えないっていうことは、考えが足りてないということなんだって、身に染みました。祖父江さんは破天荒キャラのように思われているところがあるし、すごく自由な感じに見えるけれど、デザインについてのロジックがきちっとある。独立した今も教えてもらったことは染み付いています。
——コズフィッシュに所属しながら、脇田さんは個人のお仕事も。
そうですね。大学院を卒業して、コズフィッシュに入社したばっかりの頃に、卒業制作がきっかけでPARCOの広告制作の依頼が私個人に来たんです。だけど、それまでのコズフィッシュは基本的に祖父江さんを抜きで仕事を受けることがなくて、アートディレクターには必ず祖父江さんがいる。でももちろんその依頼を断りたいはずがなくて、まず祖父江さんに相談してみました。すると「それはチャンスだからやった方がいい」って言ってもらい、はじめの方の打ち合わせには同席してもらったりもしながら、「でも、つくるものには口を出さないからね」って、すごくいい形で支えてくださった。コズフィッシュではモデルさんをメインにした撮影はあんまりなくて、そのときがはじめての写真のディレクションだったんです。何もかもがはじめてすぎて、引き受けた直後は緊張して眠れない時期が続きましたね……。
でもそのお仕事がきっかけで、このコズフィッシュの脇田さんていう人はアートディレクターとしても仕事をするんだって認知してもらえたように思います。そこからは、私宛に依頼していただく形のお仕事の依頼も増えていきました。規模の大きいお仕事は都度祖父江さんに相談しながら、小規模であれば会社を通さず個人で受けたり、仕分けをしながら仕事をしていきました。アートブックフェアに出すことも続けていて、夜や土日に個人の仕事を進めていた。もともと3年くらいで独り立ちできたらいいなぁと思っていたので、そのタイミングで相談して独立しました。
——働きながら、しんどさを感じることはなかったですか。
私は割と会社員時代もちゃんと寝ていたし、徹夜も全然していなかったから、つらいと感じたことはあまりなかったです。でもそれはたぶん、私の作業の手が速いからだと思う。すっごくいろんな人に言われるんだよね。先生にも祖父江さんにも、よく言われました。「手が速すぎるからもうちょっとゆっくり進めなさい」っていうのは、「丁寧にやりなさい」っていう意味だったんですよね(笑) ただ、手が速いからこそ個人の仕事もコズフィッシュの仕事も同時にできていたのかもしれません。
コズフィッシュは時間の融通も効いたので、早く帰れる日には早く帰ることもできたし、展示が観たいから今日は午後から出勤します、というのもOKだった。そのあたりの自由さもあったから、働くことに対してキツく感じなかったのかもしれません。本当に、コズフィッシュにいるときはすごく楽しくて、もう夢中で頑張れたんです。仕事に行きたくないなとか思うことも全然なかった。年に1回くらい重たい仕事やトラブルがあるとつらかったけれど。学生のときは現実味のない課題が出されて、つくってもそれが世に出るわけじゃないことが結構嫌だったんです。なんのためにつくっているんだろうって。だから仕事として世に出ていくものをつくれることが、とにかく嬉しかった。フリーになりたいということも早くから伝えていたので、そのために必要なこともすっごく教えてもらっていました。
それから、祖父江さんには、デザインの技術的なことだけじゃなく、人としてかっこいい大人になっていけるようにって、すごく教えてもらえたなと思うんです。性格というか、人間的な面でいろんなことを教わったな、と。「自分なりの哲学をもっていないとダメだよ」ということも何回も言われていましたし、働くうちにだんだんと、脇田さんは自分の考えがあるから大丈夫、と言われるようにもなっていきました。デザインにおいての技術的な成長はもちろんだけど、どういう考えをもっている人間なのか、それをちゃんと自分の言葉で話せる人になんなきゃダメだよって。そこが重要になっていくと思う、というのが祖父江さんの考えだった。入ったばかりのとき、当たり前なんだけど、私が悪態をつくこともあまりなかったから、「もっと毒をもった方がいいよ」みたいなことも言われたり(笑)
——脇田さんは、SNSでもお仕事と同時に、個人的な「考えていること」をときどき書かれていますよね。
私自身昔からSNSという場が好きでしたし、自分の仕事が人の目に触れるようにしっかり宣伝していかないとっていう気持ちもあって、デザインしたものはなるべく載せるようにしているんです。独立してからは余計に、営業を誰かが代わりにしてくれるわけではないので、自分でセールスしないと仕事が来ない、という側面もある。でもそこで、仕事のことだけでなくて、ふと考えたこととか、どうでもいいことも含めて書き留めているんです。ストイックに仕事だけを載せ続ける人もカッコよくて憧れるけれど、私はぶつぶつ言いたくなってしまうところがあるから。でも、どういう人か知ってもらえていた方が、お互いに仕事をしやすいんじゃないか、という気がしています。
——個人ではじめて受けた本のお仕事はどんなものでしたか。
コズフィッシュに所属しながら、個人で依頼をもらった、伊藤紺さんの『肌に流れる透明な気持ち』(短歌研究社)という歌集です。これははじめて紺ちゃんと一緒につくった本で、翌年には『満ちる腕』(短歌研究社)という歌集も出しています。紺ちゃんのことはSNSを通じて知っていて、彼女の短歌がすごく好きだったので、本人から依頼をもらって、直接やりとりをして本を生み出していくプロセスはすごく楽しかった。予算の都合もあって最初は300部くらい刷ったんだったかな。でもすぐに売り切れてこれまで何度も重版することができました。
この本の文字組みは今だったらやらないだろうというくらい、改行したりうねらせたり、好き勝手に組んでいます。好き勝手と言っても、紺ちゃんに動かしてもいい歌がないか聞いたり、そういうやりとりはなるべく丁寧に重ねました。朱色と黒の2色刷りなんですが、2色でもページ全体に朱色を薄く引いて紙色が違うように見せたり、予算を抑えるための工夫もいろいろしています。
——本をつくっていて、喜びを感じるのはどんなときでしょうか。
本をつくるうえで、著者とコミュニケーションを取りあいながら、ひとつの作品を一緒に形にしていけることは、毎回すごく幸せな仕事だと感じる瞬間です。デザインのなかにはもっと大きい規模で動くお仕事もありますが、「ここを目立つようにして」「これではわかりづらい」という、誰の言葉かわからない意見が届くこともある。本づくりでも、もちろん営業さんや、制作さんなど、関わってくださる方がたくさんいることは変わらないけれど、ベースは著者と編集者と自分という、最小人数でやり取りをしながら、自分たちがいいと思うことを大事につくっていける気がします。
——つくる人同士の距離感に惹かれている部分もあるのですね。では、本そのものの良さは、どういうところに感じられているのでしょうか。
会社に入って展示や広告のお仕事に関わってみて、それらは残らないことが結構寂しくて、残るものの良さを改めて考えました。紙の本の、手にとってめくる体験の豊かさももちろんありつつ、やっぱり、紙の本は買った人の本棚に存在し続けることで、その人の生活の一部に入り込める。それはすごく素敵なことだと思っています。
——(本棚を見て)紺さんの本は日やけの具合が違っていますね。
『肌に流れる透明な気持ち』は何刷りもしているんだけど、紙の特性的に日焼けがすごいんですよね。だから同じ紙を使っていても、増刷していったものを並べていると、全部少しずつ色が違っているんです。棚の中でも本が変化していく、そういうのも良さですよね。
——電子書籍について、日頃考えられることはありますか。
電子書籍は便利だし私も使っているけど、「所有感」が少ないな、と思っています。買って読むけれど、読むためのサービスが終了したらもう読めなくなってしまうし、当然電気がないと読めない。完全に私のものにはなっていないという感覚です。本を読む環境や本の在り方がいろいろと変わるなかで、最近傾向として感じるのは、豪華本の需要です。どうせ買うならば紙で残すことにこだわったものを買いたい。そういう人が増えているんじゃないかなぁという気がしています。
——個人的に、近頃の脇田さんのデザインで印象的だったのは、「me and you」の竹中万季さん野村由芽さんが企画・編集された『わたしとあなた 小さな光のための対話集』でした。あの本は、ジェンダーをはじめ、おふたりが考えられてきた社会的な課題に対して、個人と個人の対話を通して触れられる本でしたが、スピンが2本あったり、印刷のカラーリングだったり、サイズ感も程良くて、ものとしてある本の喜びを感じる本でした。
2人が主催する「me and you」で、クラウドファンディングの返礼品としてスタートしたのが『わたしとあなた 小さな光のための対話集』(me and you)でした。これが独立してはじめに携わった本です。13人の方と彼女たちの、社会的な問題や、個人としての実感についての対話がまとまっているんですが、収録された記事はウェブですべて読むことができます。むしろウェブならばカラーで画像もついているし、注釈にはリンクが貼ってあって深掘りしやすいかもしれない。けれど本としてまとめておくところに意味があると思うと彼女たちは言っていて、私もそれにとても賛同しました。ウェブは、言葉を遡ろうと思ったときにややストレスを感じます。ブックマークやメモをまめにしていたらまだ良いかもしれないけど、たいてい趣味的にインタビューなどを読む人はあらかじめそこまでしないと思う。でも本は、付箋を貼ったり気になるところにはチェックを入れたり、読み返しやすいです。
——書籍にも画像や注釈はありますが、より本文と、対話のその場の空気を感じながら読めたようにも思います。本文はゴシック体で、その気軽さもあるような気がします。
そうですね、ウェブにある読みやすさも残したくて、特に本文は、本を読み慣れていない人でもウェブ上で記事を開くような気軽さで読み出せることを意識したのがこの本でした。
2人ともどんなデザインにしたいかはよく打ち合わせをして、たとえばこの本はゲストの名前が13人分出た方が書店では手に取ってもらいやすいけれど、そういう売り方はしたくないねとか、ウェブだと横書きだったけど、本にするとやっぱり量が多いから、縦にする方が読みやすいとか。ハードカバーにするかどうか、といった本の形の話もですし、清潔感や信頼度の高そうな感じにしたいといった抽象的な部分まで、できるだけ話をたくさん聞きました。相手がどんな本をつくりたいか、よく聞き出すことはいつも大切にしています。
——つくっているなかで、大変なこと、というのはありますか。
私は基本的に、本づくりはすべての工程が好きだなと思うんですが、紺ちゃんとの本も、「me and you」とつくった本も、どちらもつくる過程で、どうしてもうまくいかないことが発生してしまうことはありましたね。それは仕方がないことだけど、売り物としてのクオリティが維持されるためには、印刷や製本の工程で何か起こりそうなときは直接立ち会いに行ったり、現場の方になるべく伝えるようにしています。うまくいかなかったものが良かったときは、それでもいい、と祖父江さんはよく言っていて、その感覚も必要だなぁとは思います。
——別の工程の方ともコミュニケーションをとって働くようにされているんですね。働き方、についてもお聞きしたいのですが、独立されてから変化はありましたか。
しばらくは家で仕事をしていたんですが、もう最悪にずるずる怠けてしまって……。昼夜が逆転しかけていたんですよね。これは良くないと思って、大学生時代からの知人と事務所を借りることにして、それからはなるべく家に仕事を持ち込まないようにしています。仕事がほんとうに忙しいとき以外はメリハリをつけて働いていますね。
と言っても、頭のなかは分けられないから考えはするし、常にデザインというものが中心にある。それでも実際に作業をしない時間をつくって、家でゆっくりと過ごしたり、展示や買い物に回ったり、人とご飯を食べたりすることで、仕事をすることがすごく楽しみになるんです。最近はジムにも通いはじめて、健康第一な生活になりつつあるけれど、でも仕事が楽しいときは、集中して遅くまで作業をすることもありますよ。
大学時代なんかは、ほんとうに限界ギリギリまで頑張ることが美徳として語られているところがあって、私はそれにすごく違和感がありました。もちろんそうしてつくられたものがすごいことはわかるけど、そうじゃないつくり方もあるしなって。
そういう話をしたのかは覚えてないんですけど、コズフィッシュにいた頃は祖父江さんから「生活係ね」って言われていましたね(笑) 電気係やきれいに保つ係の人もいたけれど、私は生活係。いい感じの事務所になるように気づいたことがあったら言ってとかやってとか、必要なものがあれば導入するから提案してとか、よく言われていました。そうそう、祖父江さんは健康的な暮らしをちゃんとできる働き方じゃないとだめだよねっていうことも、結構言っていたな。
——みなさんすごくお忙しくされているように見えるので、少し意外でした。
もちろん、祖父江さん自身はスケジュール的にそれが叶う状況ではなかったけれど、でも大事だよねって。私もそう在りたいなと思います。
——脇田さんがプロフィールに「豊かな生活をおくることにつとめる」と書かれいるのを目にして、衣食住や暮らしを、デザインと一緒に大事にされているんだなぁと感じていたのですが、そうしたことを意識するきっかけがあったのでしょうか。
う〜ん、私がデザインしたものを使ってもらえるときって、絶対に極限状態のボロボロのときではないよなぁ、と思っているからですかね。生活を大事にしたい人、している人に向けて、暮らしに寄り添えるようなものをつくっている。それなのに、そういう生活を自分ができていないのは、変だなと思うんです。けれど、仕事一筋な生き方も、生活とのバランスを大事にする生き方も、どちらもいいなと思うから迷うんです。難しいところですよね。悩み続けている。どっちの生き方もかっこいいし、やっていきたいと思っています。
——たしかに、どちらかに決め切る必要もないんじゃないかな、と感じました。実際に脇田さんの働き方にはすでに、どちらも並列に行き来するような、軽やかさを感じます。改めてお聞きするのですが、デザインや、デザインに対する姿勢も含めて、働くなかで心がけられていることはなんでしょう。
そうですね、基本的に「素敵だな」と自分が本心から思える依頼をお引き受けしたいです。そのテーマや取りあげられている事柄に興味が持てない状態でデザインをしても、いいものにはならなくて、好きな人がつくった方が絶対にいいデザインになると思うんです。なるべく生活が回っていく範囲の中では、きちんとその思いを説明して、お断りすることがあってもいいかなと思います。お金を稼ぐためにやりたくないことをやっていくと、何が何だかわからなくなってしまいそうというか……。昔はもっと人の意見が気になったりもしていたんです。自信もなくて、うじうじしていた。だけど信念をもって頑張るようになってからは、変な迷いがなくなったんですよ。今は、自分がちゃんと良いと思えることをする。嫌なことはしない。これは働くなかで、一番大事にしていることです。
「誰かひとりがやっているという、そのひとりに思ったよりも励まされているんだなぁと感じて。自分もそういう存在になれるかはさておき、誰かがやってみたいと考えたときに、『すでにあの人がやっている』と思える、一サンプルになれたらいいなと思っています。」
鈴木千佳子/グラフィックデザイナー
(1983年生まれ。武蔵野美術大学卒業後、デザイン事務所「文平銀座」(代表・寄藤文平)に所属。2015年に独立し、フリーランスに。)
——大学時代、デザイン情報学科ではどのようなものづくりをされていましたか。
たとえば本の栞をつくってみたくて、まずは本を大量につくってからそこに挟むための栞をつくるとか、どちらかというと、大きいポスターをつくるよりも、ちいさいものをつくることが好きでしたね。あとは漠然と、ずっと残るものをつくりたいな、ということも感じ続けていました。当時はつくったものを手元に置ける、その狭さに、すごくリアリティを感じていたんです。
——「リアリティ」というと、どういう感覚でしょうか。
お仕事をしてきたなかで、広告のように大きく示して幅広い人に伝播する喜びもあるとは思うようになったんですが、その頃は、相手と私がここにいるときの、この一対一の距離感、そこで把握できる範囲でコミュニケーションをとることに興味があったんじゃないのかな、と。まぁ、ほんとうに耳が痛いというか、指摘されても「そうですよね……」としか言いようがなかったんですが、その狭さって見ようによっては、自分の世界に閉じこもってしまう性質の表れとも言える。それは人から指摘されていましたし、自分でもだんだんと、手元で心地いいと思うものをずーっとつくっていく、そればかりではよくないな、と就活の時期になって感じはじめたんです。そのときの私は今のように言葉にはできなかったんですが、どう見ても出てくる作品は自分の好みのものばかりでしたし、それはつくる方向性が似た人からはいいねと言ってもらえるけれど、そればかりでいいんだろうかって。趣味的な世界に閉じこもってしまうことを危惧していた、というか。
それで4年生の夏頃に、作品は好きだけど、アウトプットが全然違う人に自分のつくったものを見てもらって、意見をもらいたいなと思い立ち、その後就職した「文平銀座」に作品をまとめた本を送りつけたんです。それをきっかけに作品を直接見てもらえることになりました。送った本は1冊だけでしたが、会うときには作品を箱に詰めて持参しました。ひとつずつは小さいけれど、取り出すとたくさん出てくるような、小さめの段ボール箱に本当に全部作品が収まる、当時の定番セットがあって。
——寄藤文平さんというデザイナーの存在に、やっぱり憧れがあったのでしょうか。
私が学生の頃の寄藤は、JTの「大人たばこ養成講座」であったり、「マナーの気づき」キャンペーンであったり、公共性の高いデザインをしていて、デザイン科の学生ならば、ほぼ全員が知っていたんじゃないかと思います。でも、これは寄藤も知っているので言っても差し支えないと思うんですが、私はそうしたお仕事よりは、寄藤の著作の『死にカタログ』(大和書房)などが好きだったので、正直に言うと、あとになってこれもそうだったのかと思うお仕事も多くて……。
憧れていたデザイナーさんというと、大学2、3年生の頃にお手伝いをさせていただいたり、お仕事を振っていただいたりしてとてもお世話になった、セキユリヲさんという方でした。アウトプットもとても影響を受けていたんじゃないですかね。寄藤にもブックを見てもらった日に、「どうせ俺じゃなくてセキユリヲが好きなんだろ」みたいなことを直球で言われ、私もそれを言わなきゃいいのに「あぁそうですね」とかって普通に答えてしまったんです(笑) 正直だったからか、「バイトしない?」と声をかけてもらえて。4年の秋くらいからは文平銀座でバイトをしながら通学していました。
——そういった出会い方だったんですね(笑) 通いはじめてみて、お仕事はどんな印象でしたか。
みなさんめちゃくちゃ忙しそうで、最初は単純に、緊張感があるなぁと思った記憶があります。今の目で見ると、決してバランスよく働いているとは言えない環境でしたけど、でもみなさんすごく楽しそうに、「いいデザインにすること」に重きを置いてつくっていた。ある種の活気の良さを感じて、その活気はすごくいいなと感じていましたね。
——4月に就職されてからは、どんなお仕事をされていましたか。
本格的に働きはじめると、まずは広告の仕事から関わっていくようになりました。ちょうどいろんな広告の仕事が立ち上がっている時期に入ったということもあって、東京メトロの広告キャンペーンのお仕事や、副都心線の開業告知の仕事なんかもあり、それらを手伝うことが多かったです。
——大学時代に制作されていた「ちいささ」とはまた違ったお仕事ですね。
そうですね。広告のお仕事がもっている素晴らしさがあることは理解していたんですが、やっぱり、もっとも向いていないことをやっているな、という自覚はものすごくあったし、どちらかというとしんどかったです。そう思ってはいたけれど、今本の装丁をするうえでは、広告の仕事をしていなければ身に付かなかったんじゃないか、と思うことは多いんです。そうして振り返ってみればやってよかったけれど、当時はとにかく必死すぎて……。
——文平銀座ではお仕事をどのように学んでいかれたのですか。
う〜ん、文平銀座には「教える」という感覚があるようでなかったんですね。事務所によっては「先輩について覚える」ということもありますが、それもなく。春入って、じゃあこれとこれ担当して、と仕事を渡される。寄藤も30代の前半で、一番「今やるぞ!」と勢いのある時期でもあった。そういう、わけもわからないなかで、とりあえず仕事をしながらわかる、という状態でしたから、いろいろ困ることも出てきます。本の仕事で言うと先輩から、この赤字直しといてと赤字の入った束を渡されるけれど、「そういえば、校正記号って半分くらいしか知らない……!」と思うとか。これはもう笑い話なんですが、「たぶんこれはこうで」なんて当てずっぽうで直していたら、今でもすごくお世話になっている編集者の方がある日、「君はこれを読んだらいいよ」と言って校正記号の本をくださったこともありました……。「本当にすみません……」という、そういうことが頻発していましたね。
——綱渡りの日々だったんですね。働きながら、デザインについて悩まれていた時期があったとお聞きしました。
そうですね、いざ仕事の世界に入っていくと、学生の頃大事にしていた自分の感覚というのが、ちょっと脇に置かれたり、脇に置いているうちになくなってしまったりして。自分の感覚を保つのって、見た目よりも難しいのかもな、とは、働き始めて5年くらいは悩んでいたと思います。広告の仕事で商品を誌面にレイアウトするのに、「私の感覚の何を反映したらいいの?」と。当時は、すでに自分の持ち物である技術と、外からやってきた仕事を、ただマッチングさせるみたいにするのだろうかとか、先のことがうまくイメージできず、そうすると意外と行き詰まってしまうような感じでした。
わかりやすくそれが表れていたのは、たとえば、私は不規則な模様を敷き詰めるようなレイアウトは好きなんですが、文字組だけはぎゅっとなっているより、文字がぱらっとして見えるくらいの方が生理的に合うんです。そのことを寄藤に「なんでも文字をぱらぱらさせすぎじゃない?」と言われて。自分の感覚と仕事の合わせ方を間違えると、そういう現象が起きるんですよね。そこに私の感覚は入っているかもしれないけれど、この本にとっていいことではないので、それはやっぱり、かっちりと文字を組むことの素晴らしさを学ぶ必要がある。そういう部分で、最初の1年、2年というのは、苦手なことから順番にやっていったんです。できないことも多かったけれど、苦手なことができるようになったらその先でまた、ちょっと新しいこともできるかもって思っていたので。
——お仕事に打ち込まれるなかで、とてもお忙しくされていたのでは、と思いますが、どんな生活をされていましたか。
う〜ん、話し始めると「大丈夫か?」となってしまうような暮らしでしたね……。そのままお話ししてしまうと、いくつかパターンがありまして、あるときは毎日終電で帰って、始業の11時にまた来る。帰らない場合だと、そのまま夜を越して、明け方に帰って昼くらいにもう1度来て、みたいなスケジュールです。その働き方だけみると良くないんですが、おそらく私は「仕事をしている」という感覚では働いていなかったんです。もちろん仕事ではあるけれど、完全にどこかにつくりに行っている、という感覚ですよね。実は高校生活のときから、昼間も夕方も授業や部活動でずっと絵を描いていたうえに、課題も結構忙しくて。家に帰るのには片道2時間もかかったので、高校生にも関わらず夜を徹して絵を描いていることも珍しくなく。だから肌感覚として、つくることを時間で区切って取り組む感覚がもともと鈍ってしまっているところがありました。もちろん割と早く帰れた日もありましたし、休むときは休んでいたので、全部がそうだったということもなかったですが。私自身だめなときは割と体が先に信号を出してくれるので、そこは無理をしないように相談しながら働いてもいましたね。でもまぁ、仕事だと思っていたら続いていなかったと思うんですよねぇ。
そのペースでやっていたこともあって、だいたい3年くらい経ってくると、技術的にはもう、一通り全部できるようになってしまったんですよね。けれど結局、一番最初にぼやかしていた、自分の感覚と仕事をどう重ねるか、という問題は残ったままだったんです。技術がついても、その悩みはしばらく抱えていて、4、5年経っても、今ひとつ掴めそうで掴めないまま。
——その間辞めたいな、と思うことはありませんでしたか。
そうですね、寄藤とのそれぞれの考え方もありますし、アウトプットの方向性も変わっていくなかで衝突した記憶はありますし、「それは寄藤さんの考え方だもんね」と思うこともありましたから、辞めたいと思ったことがなかったかといえば、そんなこともないんですが。でも、わからないまま来た「仕事と感性の重ね方」を掴めないうちに辞めてしまうと、たぶんずっとわからないままだろう、と思って。せめてそれが掴めてから卒業しよう、とはずっと思っていました。
——どこかで、掴めたな、と思う瞬間はありましたか。
寄藤が言うには、この本、写真家の浅田政志さんの『家族新聞』(共同通信社)という本の題字をレタリングしたあたりから、「この人なんかできるようになってる」と。今もそれってなんなんだろうとよくわからないままですけどね(笑) ただ、そのレタリングをしたのは、書籍がメインに移行しはじめていたときで、デザインをする際に、もう自分で描く方へ振り切ってみようかなと思いはじめていました。文平銀座自体、デザイナーも描くことを推奨するような事務所でしたし。とはいえ自分の感触としてはその時期、感覚と仕事が重ならず苦しんでいるのと同じように、考えていることと言葉を重ねることができないことに悩んでいて。周りから見ても苦しそうだったんじゃないかと……。
——今お話していて、すごく考えを言葉にされているんだなぁと感じていたので、意外でした。
そんなことなかったんです。できないがあまりに一周して、終始ずっと無言でしたよ(笑) たぶん、20代とか働きはじめのときはほぼ静か。忙しかったからというのもありますけど、もう、「不正確なことを言うくらいだったら静かにしておこう」と考えていたんですよね。
でも事務所の環境もそうですし、仕事をしていると、編集者の方と感想を言い合う局面が日常的に訪れていて。打ち合わせで感想を言い合うと、編集者の方はみなさんシャープですから、「同じ感想を言わなきゃいけないかな」とか、「期待を上回る感想を」とかって、ついプレッシャーを感じていて。でもやっぱり、同じ言葉でも、私と編集者さんが思っていることは違うかもしれないので、「この本をやさしい本にしたいよね」といった状況で「やさしい」ってなんだろうって、対話を続けるなかで考えて、言葉を見つけていくしかなかったんです。たとえば「魔女」がテーマの本でも、出射さんと私が思っている魔女は違うかもしれないし。
——たしかに、恐ろしいイメージがあるかもしれないし、穏やかなイメージがあるかもしれない。その前提から違っている言葉がほとんどですよね。
そういうふうにして、やってきた原稿に対して今回私はこう読みます、ということを繰り返して、「読み方」が鍛えられているうち、「今回はこの手法があるかも」と手数も増やしながら考えていけるようになった。本の仕事が、言葉を見つけるための対話の数をすごく増やしてくれた、と思っています。
——そこで仕事と感性を組み合わせる道筋を発見されていったのですね。
一方では、手数が増えたなかで、いろんな自分に外注している、みたいな状態になっていくんじゃないか、という疑いの目も向けてきました。自分のできる表現が先にあって、合う内容が来たときに取り出して使い分ける、そういうふうにならないようにしたいとは、ずっと思っていて。そう考えるなかで、今はむしろ、どんどん使い分けなくなっていく過程のような気がしています。考え方のプロセスの方に自分なりのパターンがあるから、アウトプットもそれにしがたって自然と変わっていく。つくっているときには、アウトプットに良くも悪くも関心を持ちすぎないというか。ひとりで仕事をはじめてしばらく経ったこの2年くらいは、特にそれを実感しています。考えるプロセスの方に自分の型を見つけるというのは、寄藤と一緒に仕事をするなかで学んだんですよね。原稿に対してつくっているから、普段使わない色も使えるよね、とか。アウトプットは寄藤と私、全然違うんですが、それは結構大事なものをもらったなと思っていますし、寄藤とやっていなければ見つからなかったな、とも思うんです。
——独立されたのは、どのようなタイミングだったのでしょうか。
独立したのはたしか、2015年くらいだったと思います。その当時のスタッフが全員一度フリーの状態で文平銀座に所属する時期があったんですが、その当時の実感だけでいえば、「ひとりでやっていきたい気もするけど、旗揚げしようという気概はまったくない」という。ただただ、宙ぶらりんの気持ちのときでした。だから一度事務所は出ているんですけど、私は実はそんなに、素敵な卒業の仕方はしてないんですよね……。
そんなこともあって、2015年は文平銀座の仕事をしつつ、友達の仕事を頼まれて受けることもありましたし、そういう迷いながらの時期だったと思います。そんななかで、2016年に『デザインのひきだし』(グラフィック社)で取材をしていただいて、その記事を見た編集者の方が頼んでくださったのがさまざまな書き手による締切についてのエッセイなどをまとめた『〆切本』(左右社)のお仕事でした。気が付けばそのまま加速して、ずーっとやってきた、という感覚です。「ひとりでやりたくないとか言いながら、結局ひとりでやってるじゃん」と寄藤には言われます(笑)
——そのあたりで、個展もされていましたよね。
個人のイラストで個展を開いたのは、2014年ごろですね。あれも、それこそすごく迷っている時期に「どうせ迷ってるんだったら展示でもしたら?」とアドバイスをされていて、2010年くらいから準備はしていたんです。でもその時期は個人のイラストをあまり描いていなくて。それでも準備をしているうちに、もうこのままだったら一生やらない気がするからギャラリーを先に押さえてしまおう、と思って。訳がわからなくなった自分を整理するための展覧会、という感じでした。私がいつも、よくわからないままやってきてここにいることがバレてくるので、恥ずかしいですね……。ただ、すぐにやらなくても、「もし展覧会をするならどうする?」という問答があるだけで、自分は何に興味があるのか、ずっと考え続けたいことは何か、考えを整理する土台にはなっていたから、結果的には良かったと感じているんです。その個展の際には、事務所周辺にある植木や街路樹のドローイングを展示しました。今でこそ装画に線画を用いることはありますけど、もともとすごく線画に苦手意識があったんですよね。でもしっくりくる万年筆を見つけた瞬間、「あ、これなら自分の思う線をひけそうだな」と思えて。練習し始めてからこの10年くらいで、ずいぶん身近に感じるようになりました。
——道具によって、描けるものに変化が生まれたんですね。
私の使っている万年筆は力のかけ具合によって線に変化が生まれるんですが、その自由の幅がよく効くものがあって。自分のひいた線が一律になるというのは、あまり好きではないんだと思います。つい「道具って所詮道具じゃん、自分の手癖の方が絵にとって重要なんじゃない」と思いがちですけど、頭で思っている完成度と目の前の線をぴったり合わせるためには、技術と同時にそれに相応しいフィットする道具が結構大事だなと思っているんです。身体の一部というと言い過ぎかもしれませんが、でもやっぱり、バサバサの筆では描けないですから。
——最近は万年筆だけでなく、新しい画材にも挑戦されていると……。
そうなんです、万年筆を使いながらそうした線の感覚にも慣れてきて、今度は筆にもチャレンジしているところです。筆なら当然線に強弱が生まれて来るので、「そろそろ私の技術も追いついてきたかしら」と思って。
——なるほど。そうした道具を用いて鈴木さんの描かれる線や形は、変化の途中にあるような印象を受けて、そばにあると、なんだか心地いいなぁと感じるんです。
今は線の話をしましたが、形の感覚も同じで、綺麗な均一な形よりかはちょっとテンションがかかった、人から見ると「ここはちょっと失敗じゃないの」と思えるくらいの方が、フィットすることが多いですね。そしてそういう形を描くとき、何回も書き直すとどんどん綺麗になっていってしまうんです。描き直せば描きなおすほど、ただの綺麗な丸になってしまって、それで一番最初何も考えずに描いた丸に戻した、みたいなことはよくあるんです。そういう種類の絵を2回描いて良かったことはほぼなくて、あとは納得のために描いている、と言ってもいいかもしれません。フリーハンドで描いた線や形って、それを編集者さんに見てもらっても、レイアウトしたときに一体何がどう違うのか、どこから話していいのかわからない類の絵じゃないですか。「私にとってはこうなんだ」という話にしかならない。
今お話ししながら、そういう難しいところを、いつもどうにか決着してたんだなぁと、思えてきました。もしかすると、デザインを進めていくうえで、自分の中での対話を全部終わらせているからかろうじて、この、「わからないけどなんかいいね」をいただけているのかもしれないです。と言うのも、編集者の方もおもしろくて、全部をわかって「いいね」と言ってくださっているかというと、実はそんなことはなくて。
エトセトラブックスさんから出した『彼女の体とその他の断片』(エトセトラブックス)では、カバーのパターンのもととなるモチーフが、まつ毛や唇といった身体のパーツになっているんです。それを担当編集の松尾亜紀子さんに見せると、「すっごくいいね!」と喜んでくださった。そのうえで、「で、この形はなに?」とたずねられたんですよね。私はその反応がすごく嬉しくて。理屈のないところでは絶対にOKと思っているのに、これがなんなのかはわからないって、ちょっとおもしろい現象だなぁ、と。そういう捉え方をしてもらえたらいいなというのは、常々思ってきたかもしれません。打ち合わせのときというのは、あなたはこれについてどう思っているんだ、みたいな「結論を出すための話」になることも多くて。私はそういうモードになっている人を、ただの人間にしたいんですよね……。それが私の役割かもしれない、と。ただの人っていうのも変に聞こえるかもしれないですが、「その人としてどう感じるんですか」っていう状態からスタートできるといいな、と。
——書店でも鈴木さんがデザインされた新刊をよく目にしますが、どれくらいのお仕事を抱えられているのでしょうか。
今は年に5、60冊くらいのペースで本をつくっているんですが、自分が体重をかけてつくれる冊数を考えるとこうなります。
——体重をかけて、というと。
自分の興味があるかないかを完全に取っ払って、どの本も同じように通しで原稿を読む。装画は誰かにお願いするかもしれないし、自分で描くかもしれない。全部の本に両方の選択肢が含まれている状態のまま、ちゃんと全部と対話して、その本にとって必要な手続きは飛ばさずに、1冊ずつに労力をかける、という意味での体重ですね。時間がないときの思考回路がどうなるかを想像すると、自分の作業の時間がなくなるからイラストは誰かにお願いしようとか、そういう考えになると思うんです。でもそれは本のためというよりも、私の都合でしかない。処理しなければいけないものとして本づくりに向き合わないように、というのは気をつけています。
——独立されてから、変わらずに本をつくられているなかで、働き方には変化がありましたか。
今はめちゃくちゃ寝ています。あたりまえなんだけど、寝た方が頭は働くんですよねえ。まぁ、忙しいとき、やるしかないときももちろんあるんですが、一方ではあまり規則正しく過ごそうとは思わないようにしていて。たとえば、この原稿がおもしろくて、今つくってみたいと思う。それはその気持ちを優先します。不規則なリズムを楽しめるための、一定のリズムをもっているという感覚がちょっと近いかもしれないです。
——そうなんですね。本づくりにデザインを通してかかわられているなかで感じる難しさや、もっと変化しても良いのでは、と思うことはありますか。
全体の7割くらいは自分でも装画も描いているんですが、デザイナーがみんなそうしているかと言われると、そんなこともないんですね。もちろんその人のやり方や、忙しさもあるし、いろんな事情があるなかで、自分で手を動かすデザイナーがいてもいいよな、と考えられている状態にはなってもいいと思うんです。デザイナーが絵を描くことが自己主張と捉えられる面もありますし。それならとりあえず自分はやってみるか、と思っています。
——そう考えられるようになったきっかけ、みたいなものはありますか。
誰かが先人をきってやっているって、思ったより励まされるんだ、というのは、2021年に松田青子さんの『自分で名付ける』(集英社)というエッセイ集を担当していて感じたんです。松田さんの本では、パートナーの方と籍を入れないまま、出産と子育てをされていることについて書いておられたんですが、私の周囲でそれを実行してる方がいるかといったら、なかなかすぐには思いつかない。でも松田さんの本を読んでいると、なんというか、誰かひとりがやっているという、そのひとりに思ったよりも励まされているんだなぁと感じて。
自分もそういう存在になれるかはさておき、誰かがやってみたいと考えたときに、「すでにあの人がやってる」と思える、一サンプルになれたらいいなと思っています。
——たしかに、私自身が今そういう存在に出会いに、本づくりの現場の女性に取材をしているところがあって。出会えるだけで、とても励まされるんですよね。お話を聞けただけで、「よしやるか」と思えてくるような。
私もやっぱり、だんだんと年次があがってくると、自分と同じようにやっている同世代の女性にあたらしく遭遇することって、意外とないものだな、と思って過ごしているところがありますね。きっとどこかにはたくさんいらっしゃると思うんですが。でも、書店で名久井直子さんの本を見かけるだけで励みになったりしますし、周囲にいる編集者の女性もそうで、意外とその存在は大きいです。最近働いてきたなかでは、20代の頃から尊敬しているアートディレクターさんにお会いできたり、じょじょに繋がってくる感じもあって、そういう嬉しさもありますね。
——その人のつくった本を通して会話をしている、というところもありそうですね。独立後には主に本のデザインを続けてこられていますが、つくっていくとき、どのような瞬間が楽しいですか。
意外と素朴で恥ずかしいけれど、単純に絵を描いているときや、届いた原稿がおもしろいときは楽しいですね。私は装丁の仕事に対して、一つひとつのギャラをいただくこと以上に、対話する時間や、原稿との出会いをもらっていて、そこに価値を感じているんです。
それから、『きらめく拍手の音』(リトル・モア)『水中の哲学者たち』(晶文社)『もえる!いきもののりくつ』(ミシマ社)の3冊をつくったときのように、「ぱっと見だとアウトプットは似ているけれど、自分にとってはめちゃくちゃ発見があった」みたいなときも、デザインをしていてすごく嬉しいですね。あの3作は、カバーデザインのイラストの方向性やタイトルの置き方は近しいのですが、つくるごとに良くなっていったなという実感がありました。そうして、近しい手法を繰り返していくとブラッシュアップもされるんですが、うまくいったことを無意識に繰り返して新しいことを試さない、そうならないようには気をつけています。
——繰り返してしまっているときがあったのですか。
ひとりでやるようになって冊数が数えられるばかりの頃って、自分のカードが少ないから得意技に助けられることがあるんです。やっぱり無意識に繰り返すのと意識的に繰り返すのでは、出てくるものは違うと思いました。それを気をつけるようになったのはたぶん、独立して4年目くらいの頃とかですね。これまで何度か、一度出尽くしたな、という時期があって、そんなときには、無意識に繰り返そうとしてるな、と。
さっきは、「原稿があってそれに対してつくるからアウトプットは当然変わる」と、さも理想的なことを言いましたが、あくまで最初の入り口は私なので、私のもっている変換器が一律に変換しているんじゃないか、という問題も出てきます。たとえば、介護が題材の本の依頼が2つきたとして、「介護の本だけど、柔らかくみんなに開かれていて、幅広い年齢の人に手にとってほしい」と考えたとき、その2冊は似てしまうんじゃないか、とか。時流もあるので、似た題材の本の依頼が同じ時期にくることもあって、別々の本を、自分がうっかり同じ枠に嵌めて変換していないかということを、本の題材の方が教えてくれることもあるんです。
そういうとき、一律に変換するのはやめようと思う一方で、「カテゴリーを応援する」みたいなデザインの在り方も興味深く感じてもいるんですよね。フェミニズムに関する本でも、みんな相談しあったわけでもないですし、真似をしているわけでもないけれど、蛍光ピンクだとか、近しい色を使っているのがおもしろいし、いいなぁと。デザインを通してお互いに何かを感じ取り合っているのは、それはそれで、個々のジャンルにとっていい動きが生まれることもある気がしています。
——デザインをされるときに気をつけられていることはありますか。
本のフォーマットのこともあるので、判型を決めてからつくることが多いんですが、著者の方の視点が判型に表れるときに必要以上に誇張されても変ですし、そういうちょっとした形の違和感や、開きにくさ、1、2ミリの違いは、緻密に調整するようにしています。生身の人間が持っている解像度の高さを、すごく信頼しているんです。見えないことほど厳密につくる方が、あとの引っ掛かりがないな、と。
原稿はなるべく義務的に読まないようには心がけています。できるだけ普段の読書と同じように、この本の題材だったら今読みたい、と思える一番自然な状態で読めるタイミングを狙って読む。どうしても時間がないときはありますが、私の場合義務感で読んでもうまく入ってこなくて、そういう状態に揺さぶられてもっと読めなくなっていってしまうので。
それから、もうひとつ意識していることがあって、ちょっと極端ですけど、基本姿勢としては極力加工もなしで、モノクロに変換したとしても綺麗なビジュアルがいいなと。それは結構考えます。
これはちょっと話が変わってしまうかもしれないんですが、ほんとになにもなかったとき、石と木の棒しかないけど楽しめるものをつくるっていう在り方がいいなと思っていて。すごく漠然としているんですけどね。著者や編集者の方に見せるスケッチも、デジタルの方が……と思うことはあるんですけど、停電したら手で描けた方がいいのかなぁ、と。やれるうちは時間がかかる方を選んでみてもいいのかな、と思って今はやっています。私が直接描いて誰かに手渡すことができるのってなんかいいな、と。
もしかすると、デザイナーとして「能力を外部化しているんじゃないか」と自分を疑っている、そういう側面があるのかもしれないです。もちろん描いたりレイアウトを通して本をつくってはいるんですが、実際には印刷所さんがきちんと綺麗なインキを練って印刷してくださって、製本所で製本されて、流通して、というところまで通して本づくりの工程なので。書店さんに真っ白な本が置かれていたり、そういう本も汚さず、紙が破れることもなく置いていただいているというのも、改めてすごいことです。誰かに装画をお願いすることもあるし、もちろん、DTPオペレーターさんがいなければ、年に何十冊も作れないので。
——いろんな工程の方がいてこそ、という思いがあるんですね。改めて、働くなかで大切にされていることをお聞きしたいです。
デザインをしていくうえで、臨機応変に、いつも変化できるように設計しておくというのは、割と大事にしてきたことですね。「読み方」に自分なりの型をもっていることもですし、さっきお話しした生活のリズムも含めて、仕事のなかにはすでに、一番変えたくないものを織り込めているから、他はいくら変わってもいいや、という感覚なのかもしれません。
「大事にしていることは、安全な工業製品をつくること、でしょうか。それは関わっている人が安全であることもそうですし、商品としてちゃんとストレスなく、危なくなく、内容を楽しんでいただける本をつくるということでもある。興味があるのは、大量生産という制約があるなかでどこまでやるかってことの方なんです。」
名久井直子/ブックデザイナー
(1976年生まれ。武蔵野美術大学卒業後、広告代理店を経て、2005年独立。フリーランスに。)
——名久井さんは、どんな子ども時代を過ごされましたか?
幼少期は、寝たきりのおばあさんと母と私で家族という単位ができていました。
母は働いていたから、私を幼稚園に入れないといけなくて、ある日ふたりで面接に行ったんですね。会議机を挟んで、園長先生ともう1人先生が座っていて、その奥には子どもたちが、と言っても私よりも先輩なんだけど、体育館のようなところでぎゃぁぎゃぁ騒いでいたんです。それを見て私は「無理だ!」と思ったんだよね(笑) 母親に「入りたくありません」と、その場で言ったら、じゃあやめようかってことになり、私は幼稚園にも保育園にも行かず、おばあさんが床ずれにならないように転がしながら、昼間は一日中家にひとりで過ごす生活でした。
当時「できるかな」という教育番組があって、真似できないときもあったけれど、家にある新聞紙とか広告とかを使って、真似できるときには工作をして過ごしていたんです。絵を描くよりも、工作の方が好きだったかな。
——小学校に上がるまでは、同年代の子と遊ぶことはあまりなかったのですか。
そうですね。団体行動をしたことがなかった。でも私があまりに社会性がないのを母がまずいと思ったのか、当時は唯一、近くの教会でやっていた日曜学校には行かされていて。牧師さんと数人の子どもがいて、ゲームをしたり聖書を読んだり歌を歌ったりするんだけど、真面目に通うとカードがもらえたんです。私にはそれはすごく重要で、十字架のカードで、十字のなかには綺麗な、マリア様なんかの洋画が描かれているんです。ジャリジャリしたラメも塗ってあって、金色で5ミリくらい縁取ってから、ピンキングバサミでジグザグに切ってあるんだけど、でもときどきうまく角が合っていなくて「あぁ……」とか思うんです(笑)
——その頃から紙や印刷の良さに目覚めていたんですね!
そうかもしれません。今だとちゃんと名前を言えるような加工も、幼心にすごく綺麗と感じていましたね。それは今でも、細部まで覚えてるなぁ。
——本には当時から触れていたのでしょうか。
うちは母も本を読まないし、買ってくれるような家でもなかったから、私はよく図書館に行っていましたね。だけど小学4年生くらいからかな、定期的に『昭和文学全集』が届くようになったんです。おそらく、本屋で働いていたママ友にノルマがあって、母が根負けして注文したんだと思います。その全集はすごく大きくて、箱に入っていて、一冊がものすごく分厚いんです。天金で角丸で、めくるたびにぱさっぱさっと天金の剥がれる音がする。崇高な、っていう単語は子どもだから知らなかったけれど、それは「本でこんなに綺麗なものがあるなんて」って思った最初の体験です。内容は難しそうだったから、おもしろそうな作品タイトルや、簡単そうな作家名を選んで読み始めました。作家名と内容は関係ないんだけど…。
うちにもともとあった電話帳や冠婚葬祭マナーブックも熟読していましたし、なんにせよ時間がものすごくあったんです。たとえば母がどこかから、当時は珍しかったマンゴーをもらってきたことがあって。マンゴーって種に毛が生えていて、結構ふさふさしているんですね。はじめてのマンゴーに感動しながら、その種をずーっと舐めて食べて、今度はずーっと水で洗ってきれいにして。よく乾かしたその種をぬいぐるみとしてハンカチのお布団に寝かせてよく可愛がりました(笑)
あの頃は、いろいろなかったんですよねぇ。市販のおもちゃも、人形はあるけど服や家は買ってもらえないから、自分でミシンや編み物をして洋服をつくり……。当時欲しかったおもちゃがあって、「リカちゃんキッチンモコモコさん」ていうんだけど、欲しすぎていまだに名前を忘れられない……。
——中学生になってからは、何がお好きでしたか?
中学2年生くらいで、祖父江慎さん装丁で、吉田戦車さんが描かれた『伝染るんです。』(小学館)という漫画を見て衝撃を受けました。造本がいかに内容と関わるか、もう、デザインていうことは編集のひとつなんだ、とわかって。本当に素晴らしくて、だけど今話すように言語化して頭で理解しているわけじゃないから、もうとにかく「うへーっ」みたいなね、言葉にならない感じです。
その頃はお小遣いで雑誌を買っていて『デザインの現場』(美術出版社)とか『illustration』(玄光社)とか、割と大人っぽい雑誌が好きだったかな。どっちも値段が2千円近かったので、私の中学のお小遣いだと両方は買えないの。でも片方は買える。盛岡出身なんですけど、大きい本屋さんでも3冊ずつしか入らなくて、出遅れると大人に取られてるんですね。なんとなく発売日の頃に本屋に行って、あればどっちも見て、今月はこっちを買おうみたいにして買って。もう隅々まで読んでましたね。中学生なのに「この人いい!」とか思いながら。今で言う「推し」みたいな気持ちに近いかもしれません。当時はむしろ、今よりもいろいろ見てたのかもしれないな。インターネットがなくて、新聞とか雑誌とかが情報源だったんです。
他にも、『昭和文学全集』から安部公房も大好きだったし、演劇も好きでしたし、サンリオが昔出していた詩集もすごく読んでいた。私は少女漫画が好きでずっと読んできたんだけど、あぁいうのを読むときゅんとするじゃないですか。詩も、読みながらきゅんとする。ジャンルは違うけれど、どれも娯楽だった、というか。
——中学高校時代は数学がお好きだったそうですね。
中学で成績が良かったから推薦がもらえて、その枠が理数科だったんです。推薦で入れるなら楽だし、せっかく割り当てられた推薦枠を無駄にはできないとも言われて、受けにいって、受かったから入ったと言う感じです。数学はもともと大好きでしたね。渡されるプリントを溜め込んで、むしゃくしゃしたときに一気に解いて、まとめて出す、みたいなことをしていました(笑) 自分でいうのも変だけど、勉強は得意だったし好きだったんです。家でちゃんと取り組む方ではなかったけれど、昔から集中力があって、やりはじめるとわかるまでやるタイプでした。
——古典や漢文もよく読まれていたと。
あ、読んでましたね。高校の図書室でずっと、私の前に借りた人は30年前、しかもその人と私しか読んでいないような古文や漢文をすごく読みました。話としてとてもおもしろかったんですよ。ちょっと習うと読めるじゃないですか。それで、こんなおもしろいものがあるのか、と。流行りの映画や小説も好きだったけれど、古文なんかの方が好きだったんだよなぁ。リズム感とか、そういうところに惹かれてたの。荒唐無稽というか、エンタメ感があるところに。
——理数科から美大へ進まれた、というのはやや飛躍を感じます。
でもね、デッサンとかは習ってたんです。油画を志望していた友達の影響だったんだけど、高校1年のときにうっすらと美大って素敵かもという思いがあって、母にも一応許してもらって週に1回だけ。でも数学も好きで、すごく迷いました。美大に行こうと考えたのは、今思えば浅はかだったけれど、数学をもっと楽しく、飛躍のある考え方をするのに、最初に美大に行った方がより数学ができるだろうって思っちゃったところがあって。それは大間違いだったんですけどね。
でも、うちは貧乏のままだったから母とは大喧嘩です。母はもうすごい昭和な考え方で今じゃ考えられないんだけど、中学卒業のときにも、高校は義務教育じゃないから、と私を働かせようと考えていた。だから美大なんかもってのほかです。それでもまぁ理数科はクラスの半分は医者か研究者になるので、母に、歯医者になるか、今すぐスーパーでレジ打ちするかどちらかにしろと言われて。結局私が美大に行くと頑固を通したんだけど、あんまり進路については言うことを聞けなかったですね。少しでも早く家を出たかったし。小学生のときは芸者さんになりたいと考えるくらい。そうすると中学から修行に行けるじゃないですか。家を出ることを結構真剣に考えてたんです。
——大学進学のタイミングでやっと盛岡から東京に出られたんですね。デザイン科に入られたのは、どうしてですか。
今思えば、物事の考え方みたいなものにすごく興味があったんだと思います。
入試では私が受験する年から偶然、学力が重視されたり、実技課題に繰り返し練習してきたモチーフが出たり、そういったラッキーが重なって、私は現役で入ることができたんですね。
けれど、今の美大はもう少し違うかもしれないけど、私の頃は5浪の人とかが普通にいたんです。もうなんか、その人たちってデッサンも絵も超絶上手いわけで。そこに現役で入ったものだから、あっという間に劣等生になりますよね。1年生のときは出席してるから単位は取れるけど、優良・可・不可の可で、ほんとギリギリ、「あちゃ〜」って感じの成績で。
私が入った学科は視覚伝達デザイン科といって、入学したのは勝井三雄先生が主任教授になられた最初の年でした。1年生のときは頭を柔らかくするような、準備運動みたいな期間で、2年生になってやっとエディトリアルとか広告とか、好きな授業を選択できる。それで私はダイアグラムの授業を取ったんです。それがすっごく向いていて今に至るんだけど、ダイアグラムの授業を取っていなかったら落ちこぼれのままだったと思います。自分ができるものがやっと見つかったというか、ちゃんと楽しめるものになっていったんですよ。ダイアグラムは、ものごとの情報を整理する、伝えるための形を整えること。たとえば電車のダイアもだし、ピクトグラムもそう。複数のものの関係を表す方法は無限にあって、それを考えていくなかでいろんなものの見え方が変わっていく感覚がすごく楽しかった。
——それは数学的な思考も含まれそうですし、今の、複数の要素を組み合わせてひとつに集約するお仕事にも重なるところですね。
そう、ダイアグラムの考え方はすべてのことに代用できて、何かを伝えるときに、読者の人はこういう人だろうからこれを選んで、と整理していく感じはすごく近いですね。これはたとえばだけど、「八十歳からの人生」みたいなテーマの本があったとして、そうすると老眼がはじまっているような人が読む本だから、文字は大きくしようかなぁとか、軽い方がいいだろうとか、選んでいくのは、ダイアグラムと同じようなことをしている気がします。
卒業制作では、ほんとうは今でいうGoogleをつくりたかったんです。でも途方もなさすぎて、百だったら手に負えるかと考えて、百人一首をテーマにしたんです。限りがあったらちゃんとやりたいことができるかな、と。最終的には5枚のポスターをつくりました。詠み手の職業で色分けしたり、使用頻度の高い言葉を大きくしたり、家系図をつくったり。そうすると、昨日とか過去のことは男性が、明日や未来のことは女性がよく歌っている傾向にあるとか、そういう調べていくまでわからなかったことを発見できて。ダイアグラムの勉強は、高校生のときに数学のプリントを溜めていたときのような感じで、どんどん楽しい、みたいにやっていました。先生から課題を1出されたら5打ち返すみたいにして、かなり前のめりに。
——就活はどんなふうに進められていたんですか?
私が就職活動をした年は就職氷河期だったので、なかなか通らなくて、でも私はとにかく東京に住み続けたかったから、なんでもいいから仕事がほしくて、いろいろと受けるなかで、友人に教えてもらった外資系の広告代理店に申し込むことにしたんですね。なんとか応募用紙をもらったら明日が締め切りですよ、課題もあるけどいいですかって聞かれて。その晩に徹夜で課題を終わらせました。それがどんどん通って7次試験まで受けてやっと受かった。
——広告代理店にはどれくらいお勤めだったのでしょうか。どんなふうに働かれていましたか。
7年勤めて、そのうち3年くらいは本の仕事もするようになっていましたね。会社が朝の4時とかまで平気であるんです。家に帰ってシャワーを浴びて、朝の10時くらいにはまた水泳のターンのように会社に戻る。それで土日には本の仕事をする、みたいな生活をしていました。今も人にはよく「元気だね」って言われていて、最近はこのまま続けていくんだったら体が資本だからと思ってジムに行きはじめましたけど、その頃は夜通し働いても割と平気だったんです。私はたぶん体力があって、運動ができるとかではないけれど持久力があるんだと思います。
大きい会社だからちゃんとトレーナーをつけてくれて、その人はちゃんと基礎の基礎をあれこれ、色校はこうやって見るんだとか、新聞原稿の入稿はこうとか、現実的なことを教えてくださった。お兄さんみたいな感じです。代理店に入った頃はもう平成だったけれど、まだまだ昭和の空気が漂うオフィスで、デスクでは煙草を吸えたような時代です。上司たちはすごく怖かったですね。男性たちは擦れているというか、夜遊びを派手にするような人たちもたくさんいるし、会社にキャバクラの営業電話がかかってくるし、不思議な世界でした。
——広告の世界ではどのようなことを学ばれたのでしょうか。
広告屋さんに入って一番良かったことは、お金の流れの大きいところにいて、それがどのように使われるか見れたこと。お金をかけた仕事の仕方を学んだことは、自分にはすごくプラスでした。写真の撮影とかも、すごくいいスタジオで、すごくいい機材を使って、すごいカメラマンやスタイリストがいて、その後の画像処理にもすごいお金をかける。最高の撮影ってこういうものだっていうことを知ったんですよね。それは今の本づくりにも生きています。ブックデザインでは絵も使うけど、私は写真を撮りおろすことが多くて、たぶんその経験がなければ、撮影現場を今のようにハンドルしきれなかっただろうなと思います。
自分なりに凝ってつくれた楽しい仕事もあったけれど、広告は何万人とか、何十万人が喜ぶデザインをつくらないといけないなかで、やっていることがふんわりしていました。たとえば新商品の宣伝をするのに、何億も使って大きいポスターやCMを作る。でもSNSもなかったし、今のように反応が感じられなかった。それで喜ばれているのか嫌がられているのか、その手応えみたいなものが全然ないんです。商品が動けば嬉しいけれど、1週間のために3億円を使って、しかも上司たちは「3億円じゃ少ねぇな」とか言ったりする、その手応えのなさがつらかった。本の世界に3億円なんか使ったら、すごいことになりますよね(笑)
——独立するのにきっかけはありましたか。
辞めるときは100万円貯めたら辞めようと思っていたんです。給料が良かった割になぜこんなに時間がかかったかって、高い本を大量に買っていたし、旅行にも行ったし、好き勝手していたからなんですけどね。でも、大学生のときに課外授業の先生として出会った、ソニーのデザイン室で働くお姉さんに、「3年勤めないとわからないから、絶対3年は辞めるな」って言われていて、このお姉さんの言うことは何があっても守ろうと思っていたんです。自分よりも二十何歳も年上の女性で、当時ソニーのデザイン室ではまだ数人目の女性デザイナーの方でした。講義は1日だったけれど、お話が自分のなかで腑に落ちたという感じがあって、すごくおもしろかった。
それで、なんで私あのときあんなに大胆だったんだろうと思うんだけど、講義が終わったあとに、「私と友達になってくれませんか」って言いに行ったんです。向こうもすごくびっくりしていたけれどいいよって言ってもらえて、それ以降、ご飯に行ったり、一緒に旅行したり。今思えば完全にナンパです(笑) 今だったらそんなことしないかもしれないけれど、なんか若かったんだろうね、私。恋に落ちるみたいな感じで。その人は会社員だし、デザイナーの超先輩、しかもソニーというすごい会社にお勤めで、もうお話ししてるのがすごく楽しくて。20年経ってもこんなふうに悩むことがあるんだとか、かっこいいなぁと憧れでした。
お姉さんの言いつけを守って3年いると、ほんとに急に、ひとりでいろいろできるようになって。結局7年もいたのは、3年経つとひとりでできる仕事が増えるから、それはそれで楽しんでいたら、いつの間にかそんなにいたという感じです。
——そのなかではじめてご友人の本を……。名久井さんは現在、文芸書を中心に画集や漫画などのデザインもされていますが、最初の一冊は歌集だったそうですね。
昔から短歌が好きで自分も短歌をやっていて、インターネットの掲示板、今でいうSNSに近い存在のところにもよく通っていたんだけど、そこで知り合った人たちとオフ会をしようってことになって知り合った歌人が、私に歌集のデザインをして欲しい、と。近頃はナナロク社やいろんないい会社があって歌人俳人も出版社がちゃんと本を出してくれる世界になったけれど、当時はみんな貯金を崩して自費出版をしていたんですね。出版社に原稿を渡して、そうするとほぼ自動的に本としてできあがった状態で戻ってくる。でもその人はそれが嫌で、唯一デザイナーの友達だった私に依頼してくれたんです。
学生時代はついダイアグラムに熱中したから、エディトリアルとかブックデザインの授業をまったく取ってきていなくて、本づくりの基本的なルールというのを何も知らなかった。そのはじめての一冊は、教則本を片手に、しかも組版ソフトも今のように使えなかったから、全ページ「Illustrator」で見開きずつ本文を組んだんですよ。だから一首ずれるとすべてなおす必要があって、地獄です。
でも料理もそうだけど、本を読めればなんとかなるところがある。当時は本しか当たれる先がないぶん、嘘が少ないんだよね。今はインターネットですぐ調べちゃうんだけど、情報の純度が玉石混合だから自分でそれをしっかり選り分ける必要があるでしょう。だけどあのときは若くてしっかりはしていなかったから、検索がすぐできない時代で良かったかも、という気がします。
そうやってなんとかつくった本を見てくださった方がいきなり小学館のお仕事をくれたんですよ。そのお仕事が次の仕事につながって、いろんなところに呼ばれているうちにこんなに経ってしまった、と感じています。私がラッキーだったのは、当時は、本の編集さんにすごい人がたくさんいたことだったと思います。今ももちろんいい方はたくさんいるんだけど、当時はなんだかこう、巨人みたいな存在の人がたくさんいて。著者と同じくらい対峙する力をもっている、すごくパワーのある編集者の仕事を見せてもらえたこと、怒られながらも学べたことは若い私にとっては大きかったなぁと。でもそれは、パワハラみたいなことが起こる環境と紙一重でもあるから、一概にどの時代がいいとは言い難いんですけどね。
——今も活きている教えはありますか。
具体的なことで言えば、昔は見本が発売よりも前に届いたので、デザイナーと編集さんと2人でチェックして、紙が合っているかとか、指定が合っているか、落丁がないか、いわゆる検品のようなことをしたんです。それでよしとなったら、やっと量産してつくる。売り物を最後まで面倒見てチェックする責任もあるっていうのは、当時の編集さんから教わったことです。今だったら本ができると、2冊くらいうちに届く。でもそれはただの献本2冊でしかない感じです。発売日に届くこともあるし、ときどき編集者さんができましたと言って写真を撮ってSNSに出したものを、私が現物より先に見てしまうということもあります。現物を見ないうちに発売されることも結構あるんだけど、私はそれが好きでなくて、あんまりひどいときには伝えるようにしています。
——20年近く本づくりを続けてこられて、印象深い出来事はありましたか。
この仕事はいろんな方にお会いするので、いろんな世界の素敵な方や、画家の方とも会う。だけど自分が子どもの頃に好きだった漫画家の先生に会うのが一番緊張するんです(笑) 急に小学生の自分に戻っちゃうというか。私の世代は『ときめきトゥナイト』(集英社)っていう作品がすごい人気だったんですけど、作者の池野恋先生にお会いしたときには、もうほんとに、「小学生の私に教えてあげたい!」って思いましたね。いつもはあんまりお願いしないんですけど、どうしてもサインが欲しくて、サインをお願いしますって本を出したら、「本にサインするのは苦手で、色紙をあとでお送りしてもいいかしら」って言われて。私はもう、大慌てです。「蘭世ちゃん(主人公)でいい?」って言ってくださったんだけど、ほんとは真壁くんという相手役のキャラクターが初恋の人みたいに好きだったのね。それで先生が、「ほんとに蘭世だけでいいの?」って気を遣って聞いてくださったんですよ。でも好きだった男の子の名前みたいな感じで、どうしても真壁くんと言えなくって、「蘭世ちゃんとペックで……!」って、蘭世ちゃんが飼っているペットのオウムの名前を出しちゃったんです。「なんで私今ペックって言ったんだ!」と(笑)
中学生の頃に憧れた祖父江さんとも対談をするようになったり、今はお友達っぽくなっていて、すごく不思議ですよね。でもやっぱりすごい人で、永遠に追いつかない。
——どういうところにそれを感じますか。
どこがというのが、すごく難しいんです。言葉にできるところは直したり、キャッチアップできる部分もあるかもしれないんだけど、言葉にしにくい部分が追いつかないというか。けれど祖父江さんを含め、上の世代のデザイナーさんもみんな順繰りに歳をとっていくなかで、自分も歳をとってからの方が遊べる気持ちになってきた。そういう発見は最近になってありますね。
——遊べる、ですか。
それまでは必死で、その競技に参加するので精一杯なんだけど、今は競技の仕方やルールはわかっている。そのあとの方が遊べるような気がして。サッカーだとしたら、シュートする前に1回バク転してみるとか、そういうことが少しできるようになったという感じ。
大先輩がみなさんまだ活躍されているから、ずっと下っ端だと思ってたんですけど、でも最近はだんだん、年齢的には下っ端とも言えない中間管理職みたいな立場になってきて、中間ぽく頑張らないと、と。そういう思いもある。たぶん私は近い世代の他の方に比べるとメディアに出てる方だと思うんです。若いときは祖父江さんとかがメディアに出られてるのを拝見して、いいなぁと励まされる部分もあったから、今は自分がその係だなと思ってやっているところがありますね。
——名久井さんご自身のお気持ちも、いろいろと変化してきたんですね。出版業界も、この十数年変化が多かったと思いますが、名久井さんはどんな変化を感じられてきましたか。
私が本をつくりはじめたときから比べると、少しずつ変わっているなと思うことはたくさんあります。たとえば使える紙も増えたし、やりたい加工ができる工場の連絡先が調べたらわかるようになっている。昔はもっと存在が見えづらくて、出版社の人が知りませんと言ったら、そこで印刷所や製紙場とのコミュニケーションが止まってしまうようなことが結構ありました。当時は新規で本づくりの現場へ飛び込むのもすごい難しくて、ちょっとよそ者に冷たい雰囲気があったと思います。今は『デザインのひきだし』(グラフィック社)の連載で工場見学にもよく行くし、編集者の津田淳子さんという存在も大きかったんじゃないかと思います。だんだん、デザイナーと、現場が密接になってきたイメージはあります。
でも、実際に出版社で仕事をするとなると、今でも出版社にやりたいことの希望を出し、出版社が紙商さんや製本所に聞き……となって、なんだか伝言ゲームみたいになるんですよ。たまに、つくっている人の声と、たくさん伝言を経たあとにやってきた言葉が違うことがあったりする。ただ間違えてしまっただけかもしれないし、意図的に変えているのかもしれないけれど、そういうのは少しずつ減らしていきたいんです。「できないって言うけど、本当はできるの知っているよ!」とか、おばちゃん力を駆使して、今もちょっとずつ距離を縮めているところなんです(笑)
——年齢とともに言葉にして伝えられることも変わってきたのですね。
若いときは、印刷屋さんなんかに小馬鹿にされたりとか、そういうこともあったんですよね。時代も変わったからか、私が歳をとったからか、今はだいぶ楽になった。当時は現場で茶化されたり、全然違う話をはじめられたりして、ほんと、ムカつくことが……、う〜ん、ムカつくは違ったな、がっかりすることもあったけど、今若いデザイナーさんと話しても、そこまで酷いことはないと言っているし全体的にそうした部分も変わってきているんじゃないかな。今は、パワハラみたいな話題が出ると、性別関係なく、自分自身も気をつけないと、みたいに思うところはありますね。
——気がついたら自分が、ということもありますよね。
そうそう。そこは怖いです。
——今日持ってきていただいた本のお話もぜひお聞きしたいです。
そうですね。この藤子・F・不二雄先生の『100年ドラえもん』(小学館)。これは長く保存できることが重要なので、インクは「サタンブラック」という褪色しにくい黒を使っていたり、紙も紫外線テストをして一番焼けなかったものを使っています。見返しは、特別に抄造した、ドラちゃんの透かしの入った紙を使っています。よく見ると、見える。紙をつくるときって濡れている素材を乾かす工程がほとんどなんですが、縦と横で乾いたあとの伸縮率が違うので、それも見越して扁平なドラちゃんのデータで入稿しているんです。正円だとすると、それが凹んだ円になるのを防ぐために、あらかじめ逆方向に凹ましているイメージです。どの本にもちゃんとドラちゃんが入るように、という計算もしています。
——紙づくりからそこまで計算されているんですね。
そうそう。毎回こういうことをするわけではないんですけどね。同じく藤子・F・不二雄先生の『大長編ドラえもん』(小学館)も、この見返しのマーブルの紙はタイムマシンに乗っていく背景をイメージしていて、イタリアでつくってもらったもの。花布もドラカラーでつくってもらいました。
これは変わっているように見えないんだけど、長嶋有さんの『佐渡の三人』(講談社)という小説も今日は持ってきました。文字はアラーキー(荒木経惟)さんに頼んだんだけど、アラーキーさんがいつもいるバーに来るよう言われて文字をいただきに行ったら、その文字が畳よりも大きかったんです。進行が超ギリギリだったのですぐにスキャンしてデータに入れなきゃいけない日だったんですが、編集さんと「これはスキャナーのサイズに収まらないから、撮影しないと無理だ」となり、講談社の撮影室にすぐ戻りました。これはとにかく時間もなくて、絵を描きおろしていただく時間もないし、全然思いつかないからどうしようか悩んだんですね。とりあえず、小説のモデルになっている、長嶋さんに所縁のある佐渡に行くことにして、佐渡の船から見えた島の稜線を自分で撮った写真からトレースしたり、小説にはお墓が出てくるので、長嶋さんに電話して場所を教えてもらいながらお墓まで行って、長嶋家のお墓のシルエットを写真からトレースして、デザインに落とし込みました。そういうことはできあがったものから区別できないけれど、私のなかでは佐渡に行ったというのが大事なことでした。
最近つくった川上未映子さんの『黄色い家』(中央公論新社)の表紙は、海外のオークションでドールハウスを落札して、それを自分で黄色く塗ったんです。ペンキを垂らしながら何度も塗ったものを、会議室でカメラマンさんに撮ってもらって。主人公の花が大事なものを入れていた紺色の箱に、彼女のつくりたかった黄色い家が入っているという、そういうイメージです。何百ページもあるけど、これはもうめちゃくちゃ薄い本文用紙にしたので、本もページ数にしてはすごく薄い。
——『黄色い家』にはじまり、文字組みではいつもどういうことを意識されていますか。
自分でフォーマットをつくることの方が多いんですが、あの本に関しては、未映子さんが、村上春樹さんのとある本が彼女にとっては読みやすくて、それと同じにしたいという希望があったので、同じ書体とピッチにしています。文字組みによって本文のページ数も変わりますが、ページ数は、ダイレクトにお金に関わってくる要素のひとつです。予算に左右されることもあるし、時代によって、本の価格や、かけられるお金も変わりますね。戦中戦後くらいにできた本って、紙がもったいないから文庫とかでも端まで文字が入ってくる。
——たしかに新聞なんかもそうですね。
そうそう。そういうのは時代が関係してくるから、自分の好みだけで100%決められるものではないかなぁという気はします。お金の問題だけでなくても、技術的にその時代にしかできない加工もあるんです。18年も本の仕事をしていると、昔はできたのに今はできない加工があって、それは後継ぎがいないからとか、頼む人がいないからとか、いろんな理由があります。誰も頼まなくて生活ができないとなったら、つくり手の人たちも、そりゃあその仕事は続けられないと思うんですよ。出版社の予算もあるし、今はどこもすごくお金がない。けれど、だからこそなるべく仕事を回していかなきゃいけないと思うし、価格も含めいろんな要素を適正なところにもっていきたい。それは自分ひとりではできないけれど、少し考えるようになってきました。
——名久井さんは本をつくること以上に、本の素材となるところから制作に関わられることも多いですよね。
そうですね。出版業界に前提としてある加工って幅がすごく狭いんです。今刊行中の藤子・F・不二雄先生のSF短編集愛蔵版は、メタルプレートをはめこんでいるのですが、いいメタルプレートをつくれるところが、今の出版界では見つかりませんでした。結果的には本づくりとは関わりのなかった会社に頼んで実現したことですし、また別の本ではアパレル関係の会社で布をつくってもらって、製本屋さんに布を納品したこともあります。そういう意味で、まだできる加工はいっぱいあって、最近は豪華本が増えているけれど、豪華なものをつくろうと思うとその枠を超えていかなければならなくて。一緒につくる相手によって際限なくいろんなことができると思うんです。
——今本をつくられているうえで、特に大切にされていることはありますか。
そうですね、大事にしていることは、安全な工業製品をつくること、でしょうか。それは関わっている人が安全であることもそうですし、商品としてちゃんとストレスなく、危なくなく、内容を楽しんでいただける本をつくるということでもある。数冊だけ手でつくるならば、凝っている本はいくらでもできる。1個ずつ手でリボンを結んだっていいわけです。でもそうした本をつくることに私はあまり魅力を感じないんです。興味があるのは、大量生産という制約があるなかでどこまでやるかってことの方なんです。見返しや扉の紙をつくってもらうときも、その工程でミスなくつくれるかというところまで考える。やっぱり、工場でいかにみんな同じ商品をつくるかということが楽しい。
私は受け身だから、仕事のうえでこれからやりたいこと、というのはあんまりないです。来た仕事をしっかりして、紙の本をつくる職に就いたから、その職務をまっとうしたいという気持ち。紙は意外としぶとくて、長く残っていくものです。現存する最古の印刷物は、千年以上も前のものだけれど、それだけ時間が経っても読める。そうして平家物語が今でも読めるように、テキストを未来でも読める形で残していきたい。どの物語が残るべきか、これまで残ってきた本に匹敵するかということは、私が判断することではないから、どれも可能性のあるものだと考えてつくるのが私の仕事だと思っています。
あとがきにかえて
「本とともに生きていく」と書くと、なんだか大げさな、決意のような感じがしますが、それは言葉の響きよりはもう少し柔らかい、しかし決して、なんの引っかかりもなくうまくいく生き方ではないことが、書くうちに少し見えてきました。同時に、「本やその周囲にいる人たちは、そう簡単に失われるほど脆くはないぞ」ということも、インタビューを重ねるうちに感じたことでした。
ここで、冒頭で書いたように、本書の成り立ちを、ずっと昔に遡って、記してみようと思います。
本が好き、という気持ちを起点にはじまった一連のインタビュー。と言っても「本が好き」という気持ちの細部がはっきりと言葉になったのは、大学に入ってから、卒業制作としてこの原稿を書いている、つい1年程前のことです。あまりにも、本というものが当たり前の存在だったから。本は、きっと多くの人にとっても、そういう何気ない存在なのではないかと思います。
本は私にとって、はじめて手に入れた、ひとりになれる場所でした。小さい頃、絵や文字の書かれた本にぐるぐるとまるを描き入れることが好きでした。らくがき帳はいつの間にか捨ててしまったけれど、ぐるぐるを描いた当時の絵本は残っています。ランドセルは繰り返し読んだ本と教科書を詰め込んでずっしりと重く、肩の紐がちぎれてしまったこともありました。お小遣いではじめて買った本は、漫画で、ある時期私が触れ合った本のほとんどは漫画でした。
昔から、お菓子売り場で「好きなものをひとつまで」と言われるよりも、本屋でそう言われる方がずっと嬉しかった。でも、本を枕にするような子どもでもありました。母の給料日のあたりで、本屋に一緒に行くのが楽しみでした。母の毎月買う雑誌と、私の漫画や小説が入った書店の袋を持つのは私。帰り道に寄ったスーパーのベンチで、待ちきれずにシュリンクを破って、買ったばかりの本を読んでいました。父も本屋に私を連れていき、自分用の文庫と、私の好きな本を一冊買ってくれたのでした。
いつも、たとえその日読まなくても、かばんに一冊、学校の机のなかに数冊、お気に入りの本を入れました。眠れない夜、目が滑って読めないけれど、本にしがみつくように息をしていたこともありました。自分は本が好きなんだ、と思うよりも先に本が好きだという気持ちと生きていて、気がつけば、言葉を読んで書いて編むことを大学で学び、本について具体的なこともいくらか学びました。ある授業のなかで、提出した課題を見た教員に「これは本が好きな人のつくったものだね」と声をかけられて、改めてその意味を考えていました。もう疑いようもなく本が好きで、そんなことは当たり前ではないかと思っていたけれど、私は読む——本の内容を得る——だけでなく、本に触っていることと、その存在そのものが好きなんだ、と思い至りました。
部屋のような、かばんのような、扉のような、窓のような、いい匂いのする、意外と凹凸のある、固いようで柔らかい、時間とともに変化していく、一瞬で過ぎ去ることがない、いくらでも待っていてくれる、この本というものが好きなのだ、と思いました。
しかも比較的多くの人が手に取りやすく、自分の暮らしに迎え入れやすい「もの」は、この時代に結構貴重な存在なんだ。そんなことを考えて、大学に通いながら、いつしか本のそばで働くようにもなっていました。本書は、そんな働きはじめのさなか、生まれてきたものです。
インタビューをはじめようと考えた動機は単純で、先に書いたように、「好きだったから」に尽きます。好きな本に出会った喜びを抱えてつくる人たちに会い、あなたのつくった本が好きだと伝えたい。(これはコロナ禍で大学に入学したがゆえの渇望というのか、勢いも少なからずあったように思います。)そして、なぜ自分がこんなにも本に惹かれるのか、この魅力的な物体を作る人たちはどんなことを考え、生きているのか。それを知りたい。ただただ知りたい。本当にただ、それだけのはじまりでした。
とはいえ、本を取り巻く状況について、紙の本はどうなるのか、出版は斜陽産業と言われるけれど……。紙代や印刷費、輸送費が高騰するなか、これからも本はつくり続けられるのか。紙の本を読める優位性をどう受け止めていくのか。本をつくる人たち、売る人たちの収入。本づくりの世界で、自分と同じ性別である女性たちは、どう働いているのか。本のことを、とりわけ紙の本のことを今考えるならば、その存在意義や社会的な状況を含めて書くべきだ、という、漠然とした不安と、宛先のわからない責任感のようなものも、頭の片隅にもち続けていました。
この2つに同時に触れることは確かにできるはず、と思う反面、でもそれをどう書けばいいのかがわからない。そもそも、自分のなかでどう結びついているのかもわからなかった。着地点を、過剰に求めていたように思います。
それでも、わからないなりに考えながら、2つの思いをつなぎ合わせる一点となり、本書の静かな軸としてだんだんと浮かび上がってきたのが、仕事を通してであれ、趣味としてであれ、「本とともに生きていくにはどうすればいいのか」という問いです。
社会における本の状況を考えるよりはもう少し個人的で、ただひた走るような「好き」という思いよりは、もう一歩先にある。このひとつの問いすらもうまく言葉にできないまま、さまざまな方のご協力があってなんとかインタビューは進んでいきました。インタビュイーの方に対する私の問いかけは、覚束ないものだったと思います。ただ、覚束ない問いかけに返してくださった言葉こそが、軸を磨いてくださったのでした。
条件が許せばなるべく足を動かしてお会いしに行き、質問を投げかけ、ときに自らの思いを伝え、まとめる。繰り返しのなかで、本とともにある喜びや、まっすぐな好きという気持ち、自らの仕事をまっとうするために、着実に働く人の姿に出会い、そしてごく自然に、本づくりの世界に確実にある、もしくはあった、いくつもの「厳しさ」に触れることにもなりました。決して「理想と現実」のように分かれているわけではない、ひとつながりの日々。実生活としての本づくりが、そこにはありました。
「本とともに生きていくにはどうすればいいのか」と書いたものの、この問いが見えてくるなかで、明確な正解があるとは粒ほども思っていませんでした。他ならぬ私が、本と生きていこうと思っている。どうすればと問うてどうにもならないと返ってきても、もうすでに「本とともに生きる」と決めていたのでした。あとはもう、それがどんな形の関わり合いになろうと、自分がとにかくやっていくだけ。でもそこに、いくつかの実例があれば……。はじめるとき、続けていくとき、もう一度はじめようとするとき。それぞれの瞬間に種を蒔くように、実例を集めておきたかったのです。
「誰かひとりがやっているという、そのひとりに思ったよりも励まされている(……)誰かがやってみたいと考えたときに、『すでにあの人がやっている』と思える、一サンプルになれたらいいなと思っています。」と、そんな気持ちをまさに言葉にしてくださったのは、鈴木千佳子さんでした。
この言葉が発されたのは、「自ら絵を描くデザイナー」というまた別の文脈においてでしたが、本書のなかでは、たとえば笠井瑠美子さんが書店で働く人の声に励まされたこと、清水チアキさんがこれからの働き方を模索するなかでこぼした言葉、名久井さんが大学時代に出会った先輩デザイナーの姿とも響き合います。そして、脇田さんの目指すしなやかな在り方は、挑戦の姿そのものが、誰かにとっての励ましになることを予感させます。
そうして「本とともに生きてきたこと、生きていくこと」の現在地を集めながら、もうひとつ大事にしていたのは、あえて「女性」の声をまとめていく、ということです。少し突然の話題に思われるかもしれませんが、私は私のために——そして私と同じくその言葉と前例を求める人に向けて——、それをしておきたいと思っていました。
これまで、編集者から書店員まで、出版業界で働く人に関する書籍は数多く出版されていますが、改めてそうした本にあたってみて、女性の言葉の少なさに、肩を落としたところがありました。もちろん残されている言葉はまったくの0ではなく、数字として見える分量は業種によっても異なりましたが、それぞれのやり方で活躍している女性はもっといる(いた)はずなのに、その人たちの言葉が残されていないことが、圧倒的に多かったのです。近年ご活躍の方でも、たとえばネットの記事や雑誌の一特集など、点在するような形でその言葉に出会うことがほとんどでした。そもそも、現状で「活躍」と言ったときの活躍の幅は、男性優位の社会で規定された価値観に思えたのです。
実際、このアンバランスさについて、デザイナーの立場から触れているものとして、参考文献にも記した『現代日本のブックデザイン史 1996-2020: デザインスタイルから読み解く出版クロニクル』(誠文堂新光社)があります。編者である3名(デザイナーである川名潤さん、水戸部功さん、長田年伸さん)と、同じく本のデザインを中心に活躍する佐藤亜沙美さんの対談「独立した個人として」(p32〜)において川名さんは、今回の本が「ホモソーシャルな関係性のなかで編まれたもの」であると自ら評し、佐藤さんに批判的な視点を求めています。また、この対談のなかで佐藤さんは「独立した個人として」同業者とはある程度の距離感をもって仕事に取り組んでいる、という態度を、ごく自然に提示しています。それは佐藤亜沙美さん固有の働き方であると同時に、どこかでは、女性たちの声が点在している(その要因である、そもそもの分母の少なさや、評価・記録するものさしの歪みとは別の)一因を示すようにも思えます。
そうした「これまで」に対する私自身の不足感から、女性たちの言葉を、その人の生活の軌跡とともに、あくまで「ものづくり」の5通りの在り方として残しています。
また、「はじめに」のなかで「売れる本のつくり方、出版の未来といった、方法論や答えはここにはありません。むしろ、『本とともに生きていく』という答えのない方へとぎこちなく泳ぎ出し、『私』という主語で本に向かい合う。そのそばにあるインタビュー集です。」と書きました。これにひとつ補足をすると、5名のつくり手の今に至るまでの道筋も、書き手である私の筆の動かし方も、「わからないけれどとりあえずやってみた」という繰り返しの集積だったのではないか、と思うのです。
このわからないことに相対する姿勢をずっと忘れないために、それぞれに抱える「私」を生きてきた人たちの、今回の書き手である私の、あらゆる人や現実との出会い、その成り行きを、なるべくとり繕わず、無理に整理しきらずに書こうと試みました。
この、「わからない」に向き合った痕跡をじっくり振り返ると、私はなんだか、勇気が湧いてくるのです。そこには、いつだってあたらしい試みを重ねられる軽やかさと、見知らぬ誰かが入ってくる余地がある。その風通しの良さに呼び込まれる偶然が物事を動かし、私自身を動かす。書きながらずっと感じていた予感を、忘れたくはないのです。
多くの本がそうであるように、本書もまた、たくさんの人の助けを借りて、やっと本になりました。インタビューにお答えいただいた方はもちろん、取材のご依頼に協力してくださった方、執筆にあたって励ましをくださった方。細かく目を通して指摘をくださった方。また、カバーデザインを担当してくださった中森美咲さんは、「ペンプロッター」という、手描きでも印刷でもない、どこか中途半端さが愛らしい機械と遊ぶようにして、何度も私の言葉を聞き出しながら、この本の顔をつくってくれました。
これが、ひとつの独立した存在として書き手の手を離れ、幾重にも時間を重ね、今ここにいる私が予想もしなかった、あたらしい、さまざまな「私」に出会い続けることを願います。
〈参考文献〉
松田哲夫『「本」に恋して』新潮社 2006
松田哲夫『印刷に恋して』晶文社 2002
祖父江慎『祖父江慎+コズフィッシュ』PIE International 2016
アイデア編集部(編)『グラフィック文化を築いた13人: 「アイデア」デザイナーインタビュー選集』誠文堂新光社 2014
佐山一郎『作家の仕場——25人のデザイン・ジャイアント』インフォバーン 2004
立古和智『僕はこうしてデザイナーになった』グラフィック社 2006
長田年伸、川名潤、水戸部功、アイデア編集部(企画・編)『現代日本のブックデザイン史 1996-2020: デザインスタイルから読み解く出版クロニクル』誠文堂新光社 2021
デザインのひきだし編集部(編)『ブックデザイナー・名久井直子が行く 印刷・紙もの、工場見学記』グラフィック社 2021
グラフィック社編集部(編)『紙ものづくりの現場から』グラフィック社 2015
2024年2月3日 初版 発行
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