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旅のフィールドワーク
ルーマニア編

清水正弘

深呼吸出版



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ルーマニアに関する動画アドレス

(オンライン上にて閲覧可能)

Weekend in Bucharest 週末のブカレスト旧市街
https://youtu.be/fQxBK4CrKLY?si=9i6Q1V3f8sPE1NaD

Onday in Bucharest  とある日のブカレスト市内
https://youtu.be/YJRG2CUMEAI?si=HPoJgQt2PaIq1dLu

Casa Poporuluid 国民の館・ブカレスト
https://youtu.be/lGcsABysnfg?si=-r5v-KahEUu_PtdZ

Sunsettime in Bucharest  夕暮れどきのブカレスト
https://youtu.be/iuhrlkhYZpk?si=4NNwQITE8COt164z

Caru' cu bere vol01 ブカレスト・ビアホール その01
https://youtu.be/SISHOcdXsSs?si=_N2IYhCx0tbg3Zlp

Caru' cu bere vol02 ブカレスト・ビアホール その02
https://youtu.be/jA6Nzuv_PoM?si=8IQEDoe6XOAro5nr

Bucuresti Oldtown ブカレスト旧市街・アコーディオン弾き
https://youtu.be/e5es_NW6YbA?si=WPrq_GjmWM5GGs5P

Oldtown of Braşov  ブラショフの旧市街(ルーマニア第二の街)
https://youtu.be/zKv5qwOLcp4?si=0FwxVSFm5Q7f3FaJ

Beyond the Danube ブルガリア~ルーマニア ドナウを超えて
https://youtu.be/Q57GxMm5DZk?si=3r1iXXANcTnOS_L-

Wallachia ワラキア平原・ルーマニア
https://youtu.be/CkfeRJmTrQ8?si=jb8C7YTnAZVUtlRY

Castelul Peles  ペレシュ城・シナイア
https://youtu.be/J-8zh3tVrb4?si=mVxRq8x1aPNr9mAf

Beyond the Danube ブルガリア~ルーマニア ドナウを超えて
https://youtu.be/sHMTqg-qtI8?si=rVoY08iWrzE1f3eM

カルパチア山脈
https://youtu.be/fE6v02kRrkE?si=blTglqF0PvV38LKn



ルーマニアの歴史概観

日本人にとって、あまり馴染みの薄い旧東欧諸国。昨今(二〇二四年時点)にては、ウクライナ問題にて再び旧ソ連圏の国々への注目が注がれ始めている。そんな中でも、ルーマニアの存在はその歴史的複雑さも含めて、旧東欧圏の中でも微妙な立ち位置にあるといえるだろう。そんなルーマニアが「ドラキュラ伝説」発祥の地であることも意外にも知られていない。

ルーマニアは東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している。小さな国土が多い東ヨーロッパにおいては大国ともいえよう。面積は約二十四万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。民族の大半はルーマニア人。西北部のトランシルヴァニア地方にはハンガリー人がいる。言語のルーマニア語はインド=ヨーロッパ語のラテン語系。首都はブカレスト。

ルーマニアの起源は諸説あるが、一般にはローマ帝国のトラヤヌス帝の時に征服され、属州としてのダキアとなったところから始まるとされている。それ以来のローマ人が、スラヴ人と同化してルーマニア人が形成されたといわれる。ルーマニアの名も、ロマニアつまり「ローマ人の国」から来ている。言語もラテン系である。

ルーマニアは大きくわけて、次の三つの歴史的地域がある。

(ワラキア) トランシルヴァニア山脈の南側、ドナウ川に挟まれた、ワラキア公国があった地域。中心はブカレスト。

(モルダヴィア) カルパティア山脈の東側、プルート川まで。モルダヴィア公国はそのさらに東の現在のモルドバ共和国、ドニェストル川までを含んでいた。

(トランシルヴァニア) トランシルヴァニア山脈の北、カルパティア山脈の西。属州ダキアに含まれていたが、長くハンガリー領でありルーマニアには含まれていなかった。第一次世界大戦後の一九二〇年にルーマニア領となった。

それ以外にもドナウ川と黒海に挟まれたドブロジャも歴史的には重要な地域である。このうち、前近代のルーマニア国家を構成したのはワラキアとモルダヴィアであり、この二公国が統一されて一八六一年にルーマニア公国が成立した。ワラキアとモルダヴィアはギリシア正教であったが、トランシルヴァニアはローマカトリック教会に従っており、しかも一九二〇年までハンガリー領だった。

現在はこれらがルーマニアとして一国を構成しているが、歴史的・宗教的に違った経過をたどっており、人種的にもトランシルヴァニアには現在もハンガリー系の住民が多いなど、複雑な問題を抱えている。

前近代のルーマニア

属州ダキア: 

ドナウ川以北のバルカン半島北部には、一説には、紀元前八世紀にインドヨーロッパ語系のダキア人が定住し、ローマの支配が及んだことでダキア・ローマ人が形成され、それが現在のルーマニア人の起源とされている。前七十年に統一国家が形成されたが、この年は現在もルーマニア建国の年とされ、一九八〇年には建国二〇五〇年祭が挙行されている。ついで紀元後一〇六年にローマ帝国の属州としてのダキアがおかれた(ルーマニアという地名も「ローマ人の国」の意味)。属州ダキアはワラキアとトランシルヴァニアを含んでいたが、モルダヴィアは含まれていなかった。

ワラキアとモルダヴィア: 

三世紀の後半、ゲルマン人の大移動の時期が始まり、二七一年にローマ軍は撤退し、ダキア・ローマ人はカルパチア山脈からドナウ川沿岸にかけて分散して居住するようになった。四世紀以降は資料が少なく、不明な点が多いが、九世紀頃からワラキアにはブルガリアを通じてギリシア正教の布教活動が始まり、地方権力も生まれていったものと思われる。十三世紀のモンゴルの支配を受けた後、十四世紀ごろににはワラキア公国とモルダヴィア公国という二つの公国が成立した。ただし、いずれも西のハンガリー王国と北のポーランド王国という強国に常に脅かされていた。この二公国を「ドナウ二公国」ともいう。

オスマン帝国の属国; 

一三九五年、ドナウ川を越えて北上してきたオスマン帝国のバヤジット一世によってワラキアが征服され、さらに一四二〇年にモルドヴィアも征服された。オスマン帝国は、ドナウ川以南の現在のブルガリアなどは直轄地として支配したが、以北の地域に関しては直轄地とはせず、宗主権をもち一定の貢納だけを条件にして自治を与えた。十五世紀には、ワラキア公国ではヴラド串刺公、モルダヴィア公国にはシュテファン大公などが現れ、それぞれオスマン帝国の支配に抵抗している。しかし、いずれもオスマン帝国の最盛期であるメフメト二世の攻勢の前に、十五世紀末にはオスマン帝国を宗主国として貢納の義務を負わされ、形式的にはその属国として従属させられた。


※ドラキュラ伝説の故郷: 

こうしてワラキアとモルドヴィアはオスマン帝国の属国となったが、たびたびオスマン帝国に抵抗した。ワラキア公国のヴラッド=ツェペシュ串刺公が最も激しく抵抗した公として知られており、その強烈な個性が、後にドラキュラ伝説を生んだといわれている。

ロシアの南下

十九世紀にはいるとロシアの南下政策が及んできた。ロシア軍は何回かに渡るロシア=トルコ戦争でオスマン軍を排除し、一八二八年にワラキア、モルダヴィアはこんどはロシアの保護国となった。その保護のもとで近代化が進められたが、同時に自由と統一、独立を求める運動も起こり、一八四八年革命の「諸国民の春」と言われた動きはこの地にも及んだ。しかし、他の諸民族と同じように、ここでもロシア軍によって運動は鎮圧されてしまった。

クリミア戦争でロシアが敗れたことは、ワラキア・モルダヴィアが独立する好機となった。戦争後のパリ講和会議の結果、一八五六年のパリ条約が締結されると、国際的にもロシアの南下を抑えることで他の列強が合意し、ワラキアとモルダヴィアからロシア軍は撤退、保護国であることは解消された。しかし列強はその独立は認めず、オスマン帝国の宗主権の下での自治公国であると認めるにとどまった。

ルーマニアの統一と独立

ワラキアとモルダヴィアの「ドナウ二公国」は、同じくローマ時代のダキア人の子孫であり、ラテン系のルーマニア語を話し、ギリシア正教を信仰しているという共通性から、早くから統一を求める運動が起こっていたが、ようやく一八五九年には二公国は同一の公としてクザ公を指名、事実上の統一をはたした。オスマン帝国も一八六一年十一月に勅令をもってそれを承認、ここに一人の公のもとで統一政府・統一議会をもつ国家として二公国は最終的に統一してルーマニア自治公国が成立した。

しかし、クザ公が自由主義的な改革を進めることに反対する勢力も根強く、国内対立が深まり、一八六六年にクザ公は退位に追いこまれ、プロイセンのホーエンツォレルン家のカール(ルーマニア名カロル)を公として迎え、三十一年のベルギー憲法をモデルにした憲法を制定した。

ルーマニア王国

クリミア戦争の敗北で一時後退したロシアの南下運動は、一八七〇年代から再び活発になった。アレクサンドル二世は農奴解放などの改革を行って近代化に努め、国力の回復を図った上でパン=スラヴ主義をかかげ、一八七七年~七八年の露土戦争(ロシア=トルコ戦争)を開始、オスマン帝国軍を圧倒してサン=ステファノ条約を締結、それによってルーマニア公国のオスマン帝国の宗主権が否定され、独立が認められた。このロシアの急膨張はオーストリアを刺激し、ドイツ帝国のビスマルクが仲介して開催されたベルリン会議において調整され、改めてベルリン条約が締結されたが、ルーマニア王国についてはそのまま承認された。


第一次世界大戦

バルカン問題が火を噴き、バルカン戦争(第二次)が起きると、ルーマニア王国はセルビア・ギリシア側についてブルガリアと戦い、南ドブルジャを獲得した。第一次世界大戦では当初中立を表明したが、両陣営から戦後の領土拡張をえさに盛んに勧誘を受け、結局はイギリス・フランス・ロシアに強制される形で、一九一六年八月に連合国(協商国)側に参戦した。その際、連合国は、ルーマニアに対して、戦後のトランシルヴァニア、バナート、ブコヴィナの獲得を約束していた。ここにも領土膨張欲から世界戦争に加わった悪例が見られる。

しかしルーマニアはその位置から、ドイツ、オーストリア=ハンガリーとブルガリア、トルコ軍に南北を挟まれていたため苦戦が続き、同年秋には、オーストリア軍が首都ブカレストを占領し、停戦に追いこまれた。さらにロシア革命によってロシアが戦線を離脱したため、講和に応じざるを得なくなり、一九一八年五月に講和が成立した。ルーマニア占領は同盟国側の数少ない勝利の一つとなったが、十八年秋に戦況が逆転したためルーマニアは再び協商側に参戦、戦後の講和会議には戦勝国として参加できた。

戦勝国として領土拡張

その結果一九二〇年六月、ルーマニアは、トリアノン条約によってハンガリー王国からトランシルヴァニアを獲得し、ロシアからはベッサラビア(現在のモルドバ)などに領土を拡大し、面積では十三万七千平方kmから二十九万四千平方km、人口では七六三万から一五五〇万人へと一挙に倍増し、「大ルーマニア王国」を実現させた。しかし国内の工業化、近代化は遅れ、王政も安定しなかった。また獲得したトランシルヴァニアにはルーマニア人の他にハンガリー人やドイツ系入植者、ロマといわれる少数民族もいて、複雑な民族問題を抱えることとなった。

ファシズムの台頭

ルーマニア王国は第一次世界大戦で戦勝国となったが、カロル二世の王政のもとで、左右両派の対立、周辺諸国の領土回復要求などで安定しない状態が続いた。その中から、ルーマニアにもファシズムが勢力を伸ばした。第二次世界大戦では当初は中立策をとったが、「鉄衛団」というファシスト組織と結んだアントネスク将軍は国王を退位させ、新国王ミハイをたて自らは首相となった。一九四一年にアントネスク軍部独裁政権が成立、アントネスクは、ヒトラーと結んで枢軸国として参戦した。しかし、ドイツの対ソ戦に協力させられ、最前線でルーマニア軍が立たされることと成り、大きな損害を被った。

チャウシェスク


共産政権の成立

一九四四年にソ連軍がドイツ軍を追ってルーマニアに入ると、国王は近衛師団と国民民主ブロックを結成した政党と協力し、アントネスク将軍を逮捕、ソ連と休戦協定を結んで対独宣戦を布告した。一九四五年に左派政権が成立し、一九四六年十一月総選挙では共産党を中心とした統一ブロックが激しい選挙干渉で保守派を圧倒した。一九四七年二月の第二次世界大戦後の連合国とのパリ講和条約ではソ連に対して賠償金とともにベッサラビア(現在のモルドバ)そのほかの移譲、ブルガリアへは南ドブルジャを移譲したため、三六〇万以上の人口を失った。その後、共産党以外の政党は次々と解散させられ、一九四七年十二月三十日には国王ミハイが退位し、ルーマニア人民共和国の成立が宣言された。

ソ連への傾斜

ルーマニア共産党はコミンフォルムに加盟し、ソ連の衛星圏として東ヨーロッパ社会主義圏を構成することとなった。一九四八年、共産党は社会民主党左派を吸収して労働者党となる。一九四〇年には他の東欧諸国とともにコメコン(経済相互援助会議)を結成した。ソ連軍によって解放されたという経緯から、ソ連の影響力が強く、スターリン体制への傾斜を強め、一九五一年からはソ連にならった五カ年計画を実施し、工業化・集団化・重工業化・産業国有化・土地改革を進めた。一九五五年に結成されたワルシャワ条約機構にも加盟し、ソ連の衛星国家に組み込まれた。

独自路線への転換

ソ連の強い指導に服して社会主義化を進めながら、ルーマニア労働者党の内部の激しい権力闘争が展開され、次第にゲオルギウ=デジの主導権が強まった。一九五六年のソ連のスターリン批判後、デジ政権は独自の工業化路線をとるようになり、ソ連のフルシチョフ政権のコメコンによる経済統制に反発、六〇年から独自の工業化政策を打ち出した。その背景にはルーマニアの豊富な石油資源を積極的に生かしていこうというものであった。

チャウシェスクの自主路線と独裁

一九六五年にデジが死去し、チャウシェスクが後継者となり、独自路線と多面外交を継承した。一方で同年、党名を共産党にもどし、国名はルーマニア社会主義共和国に改めてその独裁的権力を強めた。チャウシェスクはソ連よりの外交を改めて自主外交を展開、特に一九六七年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、一九六八年のチェコ事件に際してはソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。その後チャウシェスク独裁体制は次第に強化され、一九七四年の大統領就任ごろから個人崇拝の強要がなされ、国民の自由が抑圧されるようになり、一九八九年に東欧革命の嵐が起きるとルーマニアでも民衆暴動となり、チャウシェスクは捕らえられて形式的な裁判だけで処刑されるという劇的な終末を迎えた。

チャウシェスク大統領の最後

チャウシェスクの個人崇拝の強制、同族支配(ネポティズム)などの独裁制の弊害が明らかになり、経済の停滞とともに独裁体制に対する反感が強まった。東欧革命の嵐が吹き荒れた一九八九年十二月、ティミショアラで起こった民衆暴動をきっかけに首都ブカレストでも暴動が起こり、大統領夫妻はヘリコプターで官邸を脱出したが、着陸したところを捕らえられ、即席の軍事裁判で死刑が宣告され、夫妻とも銃殺された。こうして一九五六年から二十三年に及ぶチャウシェスク政権は崩壊、イリエスクを中心に組織され、複数政党制・自由選挙・経済改革などのルーマニア革命を推進した。

現在のルーマニア

チャウシェスク政権が倒された後、一九〇〇年一月には共産党の活動が禁止されたが、「救国戦線」のイリエスク政権に対し、旧共産党員が残っているなど、民主化が不徹底であると主張する学生たちが座り込みなどで抗議した。イリエスクは炭鉱労働者を動員して学生を排除し、運動を押さえた。このようにルーマニアの改革は不徹底な面が指摘されている。一九九二年は初の大統領選挙が行われてイリエスクが当選。その後中道左派を標榜し、中道右派と交互に政権を担当した。二〇〇四年にはNATOに加盟、また二〇〇七年一月にはEUに加盟して、西ヨーロッパよりの姿勢が明確となっている。

ブカレスト

ブカレストはドナウ川の支流であるアルジェシュ川に流れ込むドゥンボヴィツァ川の河畔に位置する。一九六七年に大統領に就任したニコラエ・チャウシェスクは、スピーレア教会、コトロチェニ修道院など中世から残る古い教会を含む多くの歴史的建造物を破壊し、無機質な社会主義的計画都市に代えていった。

その後、一九八九年のルーマニア革命で民主化されたが、経済は低迷し活気の無い街と化した。また大量の孤児がストリートチルドレンとなり、その多くは下水道での生活を余儀なくされ、犯罪に走ったり幼い身で売春に身を落とす子供たち、さらには人身売買業者に攫われる子供も多くいた。彼らは「チャウシェスクの子供たち」と呼ばれ、二〇〇〇年初期まで共産主義時代の負の遺産としてブカレストの大きな社会問題となっていた。二〇〇〇年代に入り、経済が回復し好調になると共に、町は近代化され、歴史的地域はかつての輝きを取り戻しつつある。

国民の館

国民の館は、一九八〇年代に造られた宮殿で、アメリカのペンタゴンに次ぐ世界で二番目に大きな建物として知られている。特に、独裁者チャウシェスクが人々を見下ろしたテラスがあることでも有名である。

ルーマニアは、一九六〇年代から一九八〇年代までの二十四年間、ニコラエ・チャウシェスクによる独裁政治が行われていた。最初こそ国民の信頼を集め、国際的なキーマンにもなったチャウシェスクだが、次第に強権政治へと移行していく。妻のエレナ・チャウシェスクも悪名高く、二人は「離婚の禁止」「堕胎の禁止」に代表される悪政を行い、その結果、一九八九年のルーマニア革命によって二人共銃殺刑に処されてしまうのである。

この建物は、巨大すぎて全貌が掴みづらいのだが、地上十階建てで高さは八十四メートル。地下は四階まであり、車が走れる道路も整備されている。横幅二百七十五メートル、縦幅二百三十五メートルで、内部の部屋数はなんと三一〇七にも及ぶ。

ブカレスト空港

ブラン城

ここは「吸血鬼ドラキュラ」に出てくる「ドラキュラ城」のモデルと言われている有名な城である。しかし、正確には間違いであり、ドラキュラ伯爵のモデルとされるヴラド三世が住んでいたことはないのである。辛うじてドラキュラと関係があることといえば、ヴラド三世の祖父であるミルチャ公が住んでいたことくらいなのである。

内部は、博物館として使われており四階構造となっている。たくさんの部屋があり武器や甲冑などが展示されているが、内装は二〇世紀に手が加えられてしまっているので、中世の雰囲気が残っているというわけではない。塔の上へ登る秘密の階段もあり、その上からはワラキアの美しい田園風景が展望できる。

ドラキュラ城への道






ルーマニアで最も美しい城・ペレシュ城

拠点の街はシナイアという美しい街である。「カルパティアの真珠」と呼ばれる美しい街並みが有名で「シナイア僧院」や「ペリショール城」などがある人口は約一四六〇〇人である。

ペレシュ城は、一八七五年に着工し、約四〇年の歳月をかけて一九一四年に完成した城で「ルーマニアで最も美しい城」といわれている。ルーマニア初代国王のキャロル一世が夏の離宮として建設したものである。内部には一七〇以上の部屋があるといわれ、その中でも、一九一一年に完成した「栄誉の殿堂」と呼ばれるホールは、アラバスター様式の彫刻や格納式のステンドグラスが美しい。

また、内部では一六〇〇点以上にも及ぶと言われる、十四世紀から十九世紀の狩猟用具や武器が展示されている。さらに、主な部屋には北アフリカを起源とするムーア様式で造られており、象牙細工の家具やペルシャ絨毯などが並ぶエスニックな空間となっている。

旅のフィールドワーク・ルーマニア編

2023年11月23日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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