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2023年度 現代文特講 小説集

現代文特講受講者+宇野 明信

法政二高現代文特講出版



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 目 次

「魔法少女めい」阿部心麗

「ハイライト」たぁ

「燃焼」久保弘太郎

「大切なもの」あやや

「バンシャク」御川飽太

「チョクホウタイと為る」若尾青空

「ベルトコンベア・ホリック」升野栞莉

「絵顔」小林魁人

「辿る」齊藤類

「透明なキャンバス」鈴木みな

「夜明けにかねが鳴る」藤井愛永

「Moi Moi!」ほんだ

「四葉のクローバー」桜

「鉄塔」末松洋祐

「いつも通りのアサガオ」原啓太

「マイ・オリジナルブレンド」栁澤大樹

「カメレオン」 小泉舞

「乾杯」西村凌

「薄皮つぶあんぱん」宇野明信

付録:句集

あとがき

「魔法少女めい」阿部心麗

 実はね、私は魔法少女なの。
 でもね、このことは誰にも言っちゃいけないの。
 だから、これは私と君の秘密。
 君は私のことを知らないのによく知ってる。私の心の中にいる。だから、特別。
 あ、ママに呼ばれちゃった。じゃあね。

「めいちゃん、今日の学校はどうだったの?」
「普通だよ。別になんも。」
 ママの前では普通の女の子だから、普通に受け答えしないといけない。
 もちろん魔法少女ってことはママにも隠さないといけない。
「なによ、冷たいわねぇ。そうだ、同じクラスにゆうなちゃんっているでしょ? あの子、今朝の新聞に載ってたわよ!」
「知ってる。バレー部でキャプテン。」
「すごいのねぇ。」
「…。」
 小さくため息をついて、唇の内側をちょっとだけ噛んだ。
 ママに言ってやりたい。私は魔法少女だから忙しいんだよ、スマホに通知が鳴ったらすぐに飛んでいかなきゃいけないんだよ、って。

 そのあとご飯を食べて、お風呂に入って、布団に潜った。気づいたら眠りに落ちていた。

 ピロンという通知音で目が覚める。外はまだ真っ暗だ。もう見慣れた自分の変身姿で窓から飛び降りると敵は目の前だった。
 身体はドロドロしていて口しかない物体が二匹。片方はヒステリックの様に大きな声を出していて、もう一方は面倒くさそうにしている。二匹は周りの木々を倒しながら癇癪を起している。言い合いでもしているのだろうか。目や耳がない彼らはこちらにはそっちのけみたいだ。それなら都合が良い。サッとスマホをかざして封印する。

 私はそんな毎日を過ごしている。

 学校でも私は普通の女の子だ。
 五人でひとつの机を中心に話している最中、あくびをしていると、話題が無くなったのか一人が「めい昨日何時に寝たの? めっちゃ眠そー。」と話しかけてきた。
「いやそれがさ! 昨日気持ちよく寝てたのに敵が現れて…!」
 なんて言えるはずもなく、「課題終わんなくて。」と軽く笑った。
「ふーん。」と興味が無くなったのか少し前髪をいじって「トイレ行きたい。」といった一人に二人が着いていく。
 机には二人になった。私とゆうなちゃんだ。
 気まずい…。
 正直私はゆうなちゃんが気に入らない。
 ゆうなちゃんは部活のキャプテンとして結果を残していて、この学校の有名人だ。ゆうなちゃんがすごい子なのは分かる。でもそんなに目に見える結果が大事だろうか。結果がないと評価されないんだろうか。
 私はこの間、朝の電車のホームに現れた化け物を封印した。学校で行事ごとの度に現れる化け物も封印した。なのに、誰にも見て貰えず、私も化け物みたいに封印されちゃうんだろうか。

「私も最近眠れてないんだよね。」
 突然ゆうなちゃんが喋り始めた。
「そうなんだ。」
「ちょっとね。色々上手くいかなくてね。」
「ふーん…。」
「彼氏のこと追ってばっかりになっちゃって…。」
「…。」
「だから、向こうは余裕できて全然誠実に対応してくれなくてさ…。」

 はい? 何言ってんだこいつ。ちゃんと見てくれる人がいるのに、高望みだ。そんなの周りに期待しすぎだ。
 なんて返事したらいいのかも分からず、ただ黙っていた。

 ねぇ、君はどう思う? ちょっとキモくない? そんなに仲良い訳でもないのにペラペラ話しちゃってさ。
 なにを期待してたんだろうね。
 そう一方的に語りかけてその日は瞼を閉じた。

 また、それは夜に現れた。
 ピロンという通知音で目が覚め、変身をして場所を確認すると、そこは学校だった。
 辺りを見渡すと、敵の姿は見当たらなかった。
 カタンと教室から音が鳴る。
 恐る恐るドアを開けると、座っている一人の女の子がいた。明るい月の明かりが丁度逆光になっていて、髪のかかった顔は、よく見えない。

 その女の子はゆっくりとこっちを向き、ばっちりと視線が合った感じがした。その瞬間、私は自室のベッドの上で目を覚ました。

 今日の授業はなんだか集中できない。眠いし、頭がぼーっとする。授業で流れるビデオ教材の声を子守唄に、私は両腕を机について眠りについた。

 目が覚めたら目の前にはゆうなちゃんが立っていた。
「他のみんな、今日お弁当じゃないから外で食べるんだって。一緒に食べよう。」

「でさ、せっかく二人ならさ、屋上で食べようよ!」

 げ、とも思ったけれど、それを伝えられるほどの距離感でも無く、度胸もないので大人しくゆうなちゃんの後ろをついていく。

 初めて屋上でお弁当を広げた。狭く四角い教室が、開けた空になるのは、なかなか爽快で視界が広がった気がした。

「めいちゃん、昨日は眠れた?」
「昨日もあんまり。」
「そっかぁ。」
「ゆうなちゃんは?」
「私も眠れなかった。」
「…。」

 昨日よりも素直な気持ちで言葉が自然と出てくる。
 沈黙の中の卵焼きでも甘くて美味しかった。

「親がね、夜中うるさいの。」
「そうなんだ。」

 ゆうなちゃんが静かに話し出した。
 重くはない。よくある話。けど、心臓が罪悪感で少しだけギュッとなった。でも、同時に親近感で心が緩んだ。

「頑張ったら私を見てもらえるのかなぁと思って、色々頑張ってみたけど、あんまり上手くいかなくてさ。」
「うん。」
「彼氏とか作ってみちゃったりしたけど、私を見てくれる存在なんだ!って思ったら、つい、一直線になっちゃって。」
「うん。」
「部活だって、同輩からよく思われてないみたい。」
「そうなんだ。」

 今までそんなに仲良くなかったはずなのに、ペラペラ喋るゆうなちゃんの話はびっくりするほど自然と入ってきた。
 何となくゆうなちゃんの方をちらっと見ると、太陽の光が逆光で、いつも耳にかけてある髪が垂れて顔にかかっていて、よく見えなかった。

「私ね、魔法少女なんだ。」
「…。」
「ごめん、違くって。」
「そうなんだ。」
「…え?」
「それで?」
「もっと聞かせてよ。めいちゃんの話。」

 ゆうなちゃんは髪を耳にかけた。太陽の光はズレていて、しっかり視線が合った。

 その後、私たちはチャイムが鳴った後も色んな話をした。今まで出てきた敵の話、恋バナ、今のクラスのこと、家族のこと。
 帰り道、連絡先を交換するためにゆうなちゃんのスマホに自分のスマホをスっとかざした。

 その日の夜から、通知が鳴ることはなかった。

 それでも君は、いつでも私を待っていてくれる。
 そして私は、君に「またね。」と言った。

20230430@Nakano Broadway

「ハイライト」たぁ

 僕は知らなかった。世界がこんなにも美しく、希望で満ち溢れていることを。
 僕の目が輝いた。こんな僕でも生きる価値があるのか。
 
 昔、小学生の時に演劇鑑賞会で舞台を見にいったことがあった。初めてみたその景色は、ビルの屋上から見た夜景同然だった。一つ一つの光が様々な色に変わって、みている者たちを別世界へと導く。あの光の一つになりたい。その日から僕はとにかく勉強した。学校の勉強はもちろん、身体能力、外国語の習得、演技能力など、幅広く知識を身につけた。勉強の量は誰にも負けない自信はあるが、学校の成績はまわりと変わらなかった。

 現在、僕は有名な劇団の一員となって日々稽古に励んでいる。世界のスターになりたい多くの人たちが、この劇団に所属している。その中に僕の彼女もいる。彼女は一言であらわすと「天才」だ。美しすぎる美貌に加え、演技力も他と比べ物にならないほど抜群に才能があった。新人の頃から大役を任されていて、今では彼女が出演する回は満席状態だ。そんな彼女は、いつも僕の練習に付き合ってくれる。舞台に出たことがない僕にとって、この時間は一瞬たりとも無駄にしてはいけない。真剣に練習している横で彼女はスマホの画面を眺めている。たまにアドバイスをくれるが、何を言っているのかわからない。未熟な僕は、彼女に寄生するようにその才能を追い求めた。

 ある日僕らは同棲を始めた。お互い稽古場から家が遠かったので、これを機にマンションの三階に住むことにした。日当たり良好で風が心地よかった。周辺はただの住宅街で、小さな花屋や小洒落た喫茶店があった。彼女は早速、喫茶店で紅茶とケーキを優雅に楽しんでいた。僕は、彼女が帰ってくる前に新居の掃除を終え、家具の配置を確認し、買い物リストを作成していた。彼女と一緒に買い物へ行った後、花屋に寄った。そして、引っ越し記念にそれぞれ花を育てることにした。彼女はユリ、僕はグラジオラスにした。
「なんでその花にしたの? 同じやつのほうがよくない?」
「うーん…特に理由はないかな。」
 そんな会話を挟みながら球根を鉢にそっと植えた。一段落終えてからベランダで休憩していた。いつものコーヒーが苦く感じた。

 稽古場で練習をしていたら、人生の転機が訪れた。なんと、あの時に見た劇を大きな劇場で行うのだ。そのオーディションを数か月後にやるらしい。僕は迷わず主役に立候補した。いつもはあまり人気のない役に立候補していたが、今回は大役に挑戦したかった。主役に立候補した人は数多く、中にはベテランの人もいた。彼女も大役の一つに立候補していた。彼女を含め、みんな僕のことを驚いたような表情で見ていたが、すぐに目をそらした。
 帰ってから彼女は不安気な表情を浮かべていた。
「あなた大丈夫? 急に大役をやるとは思わなかったわ。しかも主役? 無理しないでね。」
 そう言って彼女は自分の部屋へと戻っていった。初めて大役、しかも主役に立候補したから、緊張と焦りで不安だ。だが、やると決めた以上、今までよりも一所懸命に稽古するしかない。固く決意した。僕は二つの鉢に目を向けた。片方は芽が伸びてきているが、もう片方は芽すら出ていない。深いため息をついた後、二つの鉢に水やりをした。
 オーディションに向けて気をいれて練習をした。主役は思った以上に演じることが難しく、かなり苦戦していた。一方で、彼女は台本に目を通すことなく、主役に立候補していたベテランと仲良く会話していた。彼女のあんな楽しそうな表情は、付き合ってから久しく見ていなかった。僕はさらに集中して練習に取り組んだ。
 
 クタクタになりながら僕は花屋に目をやった。どの花も輝いていた。その中で一つだけ気になるものがあった。真っすぐ空に向かって花を咲かせている。グラジオラスだった。こんなにきれいに咲くんだ…。帰ってから僕は花の育て方を調べた。どうやらグラジオラスは鉢ではなく花壇で育てたほうがいいみたいだ。早速、僕は許可をもらって荒れた花壇を掃除し、球根を植えなおした。花壇はベランダからよく見える位置にあった。その日から僕は毎日花壇を眺めるようになった。前よりもうまくいく気がした。

 いつものように練習をしていたら彼女に呼び出された。
「あなた、そろそろ諦めたほうがいいよ。」
「急にどうして?」
「あなたが選ばれるわけがないの。練習とか見てきたけど、やっぱり無理。足りない。」
「何が足りないの? 僕に教えて!」
「そういうところ。何も考えず、すぐ人に聞いてる時点で無理よ。主役になんかなれない。なれるわけがない。」
 そう言い残して彼女はどこかへ行ってしまった。僕は何もわからなかった。目の光が消えかかったが、気にしないで練習を続けた。

 その日の夜、僕はベランダで夜空を眺めていた。星が綺麗な夜だった。空と対照的に地面は真っ暗で何もない。彼女の言葉が頭をよぎる。僕は地面を見続けていた。うっすらと見える花壇には茎が伸びていた。夜風に包み込まれながら僕はそのまま眠りについた。
 
 数か月がたち、運命の日がやってきた。僕は朝からソワソワしていたが、彼女はいつも通り優雅な朝を迎えていた。ユリの花は大きく咲き誇っていた。純白のウエディングドレスを身にまとったような美しさだった。花壇の花は小さなつぼみをつけてまだ眠っている。花の様子を確認してから、僕は彼女のあとをつけるように家を出ていった。
 オーディションは大きな劇場で行われた。どこか懐かしさを感じた。僕の番がくるまで台本を確認しつつ、オーディションを見ていた。みんな光っていた。色や明るさ、それぞれ違うが、確かに光っていた。彼女の番が来た。彼女は輝いていた。しなやかな体の動き、劇場に響き渡る美声、堂々とした立ち振る舞い。すべてが完璧だった。みんなの目が輝いていた。彼女は劇団の星だ。彼女の演技を脳内で何度も再生をしていたら、僕の番がやってきた。今まで積み重ねてきたものすべてを出し切ろう。今の僕なら何でもできる気がした。舞台袖で彼女が僕を見ている。僕は全力で主役を演じた。力強い動き、抑揚のある大きな声、凛とした立ち姿。僕が思い描く主役を最後まで全力で演じた。僕の瞳が今までで一番輝いた。彼女の姿はどこにもない。僕は静かに合格発表を待った。
 最後の一人が終わり、ついにその時が来た。次々と発表されていく。彼女はもちろん選ばれた。心臓の音が聞こえる。
「大丈夫。僕は大丈夫…。」
 そう言い聞かせてじっと待った。僕の名前が呼ばれることはなかった。

 家に帰ると彼女は荷造りをしていた。僕は見ていることしかできなかった。
「見てのとおり、私ここから出ていくから。あんたといると劇に支障が出るの。いつも見てくるし、うるさいし、気持ち悪い。もううんざり。さよなら。」
 これが彼女からの最後のアドバイスだった。玄関の扉が彼女に似合わない大きな音を立てて閉まった。僕の瞳から光が消えた。何もできず、ただ暗い部屋を一人さまよっていた。彼女がいた部屋は引っ越す前と変わっていない。唯一、彼女のユリだけが家に残されていた。ユリはいつの間にか黒く染まっていた。
「こんなの…嫌だ…。」
 ユリの鉢を床に投げつけて割った。そして、花びらの部分だけむしり取って生ごみと一緒に捨てた。生気を失いながらベランダに出た。相変わらず夜空は星でいっぱいだった。地面は闇に包まれていたが、一つだけ光っているところがあった。
「あ…。」
 グラジオラスの花だ。小さなピンクの花が一輪だけ咲いていた。
「ああ…。」
 僕はその場に崩れ落ちた。僕は、僕は、まだ星になれるのかな…。ベランダから身を乗り出した。手を伸ばして星をつかもうとしたが、あとちょっと届かない。目から涙が止まらなかった。僕は目を閉じた。瞼の裏側に無数の星が輝いていた。深く息を吐いた後、目を開けた。瞳に輝く星明りが差し込む。瞳を閉じて輝きを閉じ込めた。もう君を離さない。強く心に決めた。
 世界が深い眠りについたとき、僕は暗闇に向かって走り出した。

20230817@Komaba todai

「燃焼」久保弘太郎

「旦那様、起きてください。」
 私の肩を遠慮がちに若い下女がたたく。どうやら寝てしまっていたようだ。目を開けるとはじめに目に入ったのは部屋中に紙が散乱した書斎のいつもどおりの光景だった。次に目に入ってきたのは無骨な執務に残るだらしないよだれの跡だった。私は慌てて机の上に置いてあったなにかの紙でふき取った。この若い下女には確実に私のだらしない姿を見られているのだろうが、とにかく机を何もない状態に、不純物を取り除くことが重要だ。拭いた紙を無造作にゴミ箱に放り投げると、若い下女がおそるおそる、
「よろしいのですか?」
とゴミ箱の中身に目を向けながら私に尋ねた。何かと思ってみてみるとなんでもないと思っていた紙は原稿用紙のようだった。原稿用紙に書かれていたのは私の書きかけのファンタジー小説だった。
「いいんだよ、別にこれを売って金にしようだとか、何かに使おうとは思っていないから。むしろこうやって使うのがこの物語のただしい使い方なのかもしれないしね。」
 ただ、私の頭の中にあるのは小さな後悔と大きな達成感だった。
「ところで何か用事かな?」
「そうでした、お客様がお見えになっております。」
「それはわたしが会わないといけないのかい?」
 若い下女は少し困ったように笑った。
「ごめんね、冗談だよ。すぐに会うよ。ありがとう。」
 私は困る下女を見るのが好きだった。こんな風に困らせようとついつい思ってしまう。困る彼女はとても美しい。ダヴィデ像みたいな冷たい美しさとは違う暖かい美しさだ。それを彼女は体の内に持っている。私にはなぜそんな美しいものを彼女が持っているのかわからなかった。私の感じる美しさが何なのかもわからなかった。
 私は寝ぼけている重い体を椅子から立ち上げて、書斎の床に散乱している原稿用紙を雑に踏みつけながら、客人の待つ応接間に冬眠から覚めたばかりの臆病なクマのように乱暴な足取りで向かった。

「兄さん、久しぶり!」
 応接間にて待っていた弟を見て思わず、
「ああ、もう今年もそんな季節か。」と呟いた。
 外ではいつの間にか蝉の鳴き声であふれていた。
 去年もそうだった。全く、あっという間に時は過ぎるのだなと思いながら、私は弟との雑談に興じる。
 弟とは毎年この時にしか会えないから弟と話す時間は私の毎年の楽しみだ。毎年弟は一年間経験したことを私に素晴らしく生き生きと語ってくれる。弟の話を聞いていると私の体の中に暖かいなにかが流れ込んできて私を満たし、自分が何者にでもなって生きていけるような気がしてくる。今年も弟のたくさんの愉快な話に聞き入っているうちにあっという間に時間が過ぎていった。
「兄さん、そろそろ行こうか。」
 弟がそんなことを言うので、私はおもちゃを取り上げられた子供のような気持ちになった。
「もう行かないといけないのか?」
 もっと話が聞きたいと食い下がる私に、弟は困ったように頬を掻きながら、はにかんだ。
「さっきから僕の話ばっかじゃないか、僕は兄さんの話も聞きたいな。」
 そんな絶望的なことを言わないでくれ、と私は泣きたくなった。私が話したいことなどない、私はお前と違って大きくなっているわけではない、と言いたくなった。私はいつでも冷たいままなのだ。誰かから暖かさをもらわないと生きている気がしないのに、何を話すというのだろうか。
「いや、いいんだ。確かにもう時間も時間だしな。そろそろ行くか。」
 私は窓の外の下降線に向かい始めた太陽を見ながら名残惜しい気持ちをかみ殺して外出の準備を始めた。

 私は大島袖の羽織、弟も自前の羽織をかぶって屋敷の外に出た。相変わらず、弟の服装は良く言えば質素、悪く言えばボロボロというものだった。それに比べて私の大島袖は上品でいかにも裕福なものなので並んで歩くとより一層際立ち、私は少し恥ずかしい気持ちになった。弟の服装に合わせて、少し使い古したものにした方がいいのかもしれないが、私はこの羽織袴に身を包んでいないと落ち着けなかった。これを着なければ唯一の私がどんどん漏れ出して、崩れてなくなってしまうような気がする。
 肌寒い風が吹く無駄に長い私の屋敷の塀を二人並んで黙ったまま歩いていく。あたりは静まり返って、ただ私の甲高草履のカランコロンの音だけが通りに響いている。しばらく歩いて町外れまでやってきたところで、弟が突然指をさして静寂を破った。
「兄さん、見てアリの行列がある。珍しいね」
 何かといえばそんなくだらないことだった。弟は少し幼い部分があるとは思う。いや違うか、きっと大人になって私が失くしてしまった色鮮やかな世界を弟はまだ見ることができているのだろう。私にとっては取るに足らないアリの行列、弟にはどのように見えているのだろうか。
 言われた弟の指の先にあるアリの行列に目をやる。長く一直線に続くアリの行列は通り沿いの廃屋の半分崩れてほぼ原形を残していない塀をわざわざ乗り越えてその奥に続いているようだった。
「アリは馬鹿だな。こんな崩れた塀なのだから、崩れたところを通ったほうがいいだろうに。」
 それを見て何を言えばいいかわからない私はとりあえずそうつぶやいた。私の言葉に一直線にアリの行列を見つめていた弟は首を振った。
「兄さん、これは人生だよ。だから素晴らしいんだ。」
 弟は訳の分からないことをさも当然のように、満ち満ちた表情で私にさとすように語りかけた。
 私はこの哀れなアリたちを救ってあげるべきなのではないか、唐突にそんな考えが私の頭に思い浮かんだ。私はとても気分がよくなって早速行動に移すことにした。
 行列をせかせか歩くアリの一匹を手に取って塀の隙間に誘導してやった。弟は何か言いたそうだったが、私の慈悲深い行動に口を挟んで来ることはなかった。
 次第に塀を登っていたアリの行列がふたつにわかれ、塀の隙間にも行列ができた。
 私はとても誇らしい気持ちになった。なんだか世界中がアリを救った私を称賛しているようにも感じた。しかし、何故か弟はこんなに素晴らしいことをした私を侮蔑したような眼で見つめていた。
「何か、文句あるかい?」
 私は少し苛ついた。
「いや…。」
 弟はまだ何か言いたそうだった。
 その時だった。突然、ミシミシという嫌な音が私の近くからなった。何だ、何が起きたのか、と思って音のした原因を私は探した。それはどうやら塀の方からしていたようだった。ミシミシという音は塀の中からなっていた。そして、その瞬間、塀は崩れた。隙間を通っていたアリたちはあっという間に押しつぶされ、仲間のアリの餌になった。ただ塀を登る行列だけが、あとに残された。私に色がないのは私が冷たい人間だからなのか。それは認めたくなかった。
「…兄さん行こうか…。」
 弟が気まずそうにそう言って先を歩き始めた。私は置いていかれないよう、急いで後を追いかけた。私の心にいつの間にか黒い靄がかかっていた。

 それからどれぐらい歩いただろうか。
 私の心にはずっと黒い靄がかかって、なかなか前を見ることができなかった。正直、私は疲れていた。もうこれ以上歩きたくなかった。一張羅の大島袖がとても重く感じられた。
 弟はどんどん先に歩いていく。
 気づいたら空から生暖かい雨が降ってきた。私が空を見上げるといつの間にか空は厚い雲で覆われていた。瞬く間に雨の勢いは強くなり私と弟を飲み込んだ。
 鋭い雨が私の肌に突き刺さった。痛い、痛い、暖かい雨は冷たい私を焼いていく。私の身体はボロボロになった。
 私は必死に逃げようとした。
「兄さん、雨降って来たね。」
 何故? 何故? お前はそんなに平然としていられるのだ。こんな暴力的な雨なんだぞ。私の身体が侵されていく。
「何言ってるの、兄さん、大げさだな。少し雨が降ってきただけじゃないか。ほら早く行こうよ。」
 弟はそう言って先を急ごうとした。
 私はこれ以上進みたくなかった。一刻も早くこの苦しみから逃れたかった。その時、私は視界の端に雨を逃れることができそうな軒下を見つけた。私はなりふり構わずその軒下に飛びこんだ。
「どうしたの兄さん、情けないな。雨が強くなる前に行くよ。」
 弟は私がこもっている軒下に入ってきて私の大島袖を引っ張った。
 弟が何を言っているのかも、何をしているのかも私は理解できなった。雨? 強いではないか。
 私は弟の手を振り払おうとした。
「知らない。行くならお前ひとりで行ってくれ。」
 私は語気を強めて突き放すように言った。本当にこれ以上先に進みたくなかった。弟には申し訳ないが、ひとりで行ってもらおう。
「ああ、そう。わかったよ。じゃあ、ひとりで行ってくるね」
 弟は残念そうに私の袖をはなし、あの地獄のような雨の中に進んでいった。そうしてすぐに弟の姿はついに見えないところヘ行ってしまった。あんなにひとりで行かせたかったのに私は弟にむかって手をむなしく伸ばしていた。
…何故かもう弟とは二度と会えないような嫌な予感がした。

 私はひとり軒下に取り残された。ただただ雨の音が辺りを埋め尽くすだけだった。私はただ水たまりに映る色のない私ではない私を見つめていた。しばらく経っても弟は帰ってこなかった。私は早く弟が帰ってこないかとあたりを必死に見渡した。そうしているうちに私は軒下に隣人がやってきたことに気が付いた。
 それは、黒猫だった。黒猫は私の方によって来た。
「やあ、こんなところで何をしているのかな?」
 私はかがんで黒猫に手を伸ばした。ひとりでいるには耐えられなかった。言葉が通じないと分かっていても話し相手が欲しかった。
「わしはお主に会いに来たのかもしれぬな。」
 一瞬耳を疑った。しわがれた声が聞こえたからだ。私は飛び上がってあたりを見回した。
「なんじゃ、わしに話し相手になってほしいのじゃろう? なってやろうて。」
 間違いではなかった。話しているのはやはり黒猫だった。黒猫が喋っているのだった。私は気味が悪くなった。
「いったい何なんだ君は。」
「わしは、黒猫じゃ。それ以下でもそれ以上でもない。私はすべての人が心の奥底で求めているものじゃ。わしはすべての逃げ出したい人のもとにあらわれるのじゃよ。お主はついてるの。わしに出会えて。」
 黒猫は訳の分からないことを言った。
「だが、気をつけるんじゃぞ。わしに会ったところで何かお主自体が変わることはないのだから、お主がお主を錯覚しないようにな。」
「お主はわしのようになるなよ。」
 そう言って黒猫はもう話は済んだと言わんばかりに丸まって動かなくなった。
「ちょっと待ってくれ。」
 私は話を続けようと黒猫の背中をさすった。しかし、それっきりもう二度と黒猫は動かなった。
 黒猫は冷たくなった。
 私は仕方がないので軒下に穴を掘り、黒猫を埋めてやった。なにか埋めるだけではかわいそうだったので、私はそこらへんに生えていた花を手折って墓に添えてやった。すぐに花は風に飛ばされてどこに墓があるのか分からなくなった。
 私は泣きそうになった。

 それから数刻経って辺りは暗くなってきた。
 しかし、雨は一向に降りやまず、軒下から外はほぼ見えなくなっていた。私はひとりで心細かった。逃げ出そうにも雨が恐ろしくて私はどうすることもできなかった。
 その時だった。
 水をける音がどこからか聞こえてきた。だんだん音は近づいてくる。私は嬉しくなってその方向をじっと見た。そうすると雨の中から影が一直線に近づいてくるのが分かった。
「兄さーん。」と呼ぶ声が聞こえて私の予想は確信に変わった。弟が帰ってきたのだ。
 私は胸をなでおろした。何故だか知らないがもう二度と会えないと思っていた。
 私のいる軒下に走りこんできた弟は全身ずぶ濡れでボロボロな羽織がさらにボロボロになっていた。だがそれでも弟は美しかった。あの女中と同じような熱い美しさだ。
「ちゃんと済ませてきたか?」私は弟に尋ねた。
「うん。もちろん。ところでこんなものを拾ったんだ。」
 そう言って弟は私に手で握っていたものを私に見せた。私は弟の手の中から出てきたものの美しさに目を奪われた。それはガラスのように透き通った球体だった。よく見てみるとその球の中にチラチラと光が入っていて、ゆらゆらと揺れている。
「これ、兄さんにあげるよ。」
 弟はそう言って私にその球を渡した。私は喜んでその球を受け取った。
 しかし、私はその石に触れたとたん絶叫した。その球は美しすぎた。そして熱かった。熱さに耐えられない私の身体は球に触れた手の先から轟轟と燃えあがり、塵となって崩れ始めた。
 私は熱くて痛くて死にそうだったが、不思議と抵抗する気にはなれなかった。むしろ、身体が軽くなって今まで自分を縛っていたものから解放されるような暖かい気持ちになった。
 遂に私を燃やす炎は手先から胴体を焼き尽くし、頭、足も暖かく燃えた。
私は燃えて、燃えて最後にはただの塵の山となった。半分以下の高さになった私を弟はとてもうれしそうに見つめていた。
 やがて、どこからともなく風が吹いてきて私はなすすべなく吹き飛ばされた。ただ、あの美しい球と美しい弟だけがその場に残された。
「僕だけは兄さんを覚えていられるからよかったね。」
 弟はそう言い残し、球を拾ってその場を離れた。
 その後、弟は私の屋敷に球と共に戻った。雨の中にもかかわらず屋敷の門の前では女中が私たちの帰りを待っていた。
 弟の帰りに気が付いた女中は
「おかえりなさいませ、旦那様。」と弟にむかってそう言った。

20230709@Nomura Research Institute,kamakura

「大切なもの」あやや

 僕はレオ。生まれたときからふわふわした毛があった。猫、というやつである。心優しい少女、あやかのもとで暮らしている。この家にはあやかのお母さん、お父さんと、兄のこうたがいる。 
 あやかは中学一年生になったばかりの、明るくて優しい女の子だ。お母さんはおっちょこちょいだけれど優しくて、お父さんは頼りになるしっかり者、こうたは中学三年生、誠実で穏やかな性格だ。今は受験に向けて勉強に専念している。そして僕、レオ。僕はこの優しい家族に迎えられて一年。家族になる前にあやかと出会ったときから、心が通じ合っていたと感じる。僕はあやかと一緒に日向ぼっこをしたり、遊んではくっついて寝るというのを繰り返し、毎日よく一緒にいる。僕に向けてくれるあやかの笑顔がとても好きだ。 
 あやかの十三歳の誕生日に、新人がやってきた。その新人の名前はスマ。僕は、新しい家族になるその新人と仲良くなりたいと思い、胸を弾ませた。リビングに新人がやってきた。新人スマは黒い色の姿をしていた。僕はスマに話しかけてみた。 
「僕はレオ。よろしくね。あれ、どうしたの?」
「…」
 返事がない。僕は顔を覗き込んでみたけれど、真っ黒な姿で固まっていた。返事を待っていたけれどやっぱり反応はなくて、通じ合えないことなんてあるのだろうかと、僕は予想外のことにびっくりした。
「じゃあね、行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
 数日後、雲がなく晴れ渡っている日にあやかはスマと一緒に出かけた。僕はスマと通じ合うことができないのにあやかは通じ合っているのだろうか。僕はとても気になって、普段あまり外に出ないけれど思い切って外へ出て、あやかのあとをついて行くことにした。あやかは電車に乗った。僕はドアが閉まる直前にぎりぎりで、あやかと同じ電車に乗れた。電車の中を見渡すとたくさんの人が乗っていた。すると、驚いたことに、数日前にあやかのもとにやってきた新人スマと同じ姿をしたものが、色々な人のところにたくさんいた。スマがいない小学生くらいの男の子と女の子もいたけれど、スマと一緒にいる人たちが多くいた。その人たちはスマをずっと見つめている。やっぱり電車にいるこの人たちもスマと通じ合っているのか。なぜみんながスマから目を離さないくらいに通じ合うことができるのか不思議に思って考えを巡らせながら、しばらく電車に乗っていた。途中の駅で杖をついたおじいさんが乗ってきた。すると、おじいさんが足を滑らせて転んでしまった。しかし目の前にいたあやかや他の人たちは気付かない。僕はおじいさんに駆け寄ったけれど僕だけの力ではとても助けることができない。あやかはスマに夢中になっていて気付かない。そのとき、僕が電車に乗ったときからいた、唯一スマがいない、楽しそうに話していた小学生くらいの男の子と女の子が気付いておじいさんを起き上がらせてくれた。おじいさんは二人の手を借りて起き上がることができ、二人に感謝の言葉を伝えていた。その後、男の子と女の子は僕に笑顔を向けて、抱っこをしてくれた。
「あやかが僕に笑顔を向けてくれることはもうないのかな。」
 僕を置いて、あやかの人生の歯車がどんどん回っていく。僕は二人の温かい腕の中でそのまま眠ってしまった。
 私はあやか。中学一年生。学校が終わると、家で私の大好きなペットの猫、レオが待っているので早足で家に帰る。家に帰ると、私が帰ってくるのを待っていたと言わんばかりにニャーと鳴いて私のもとにやってくる。そして私はレオとくっついて過ごす。そんな日々が幸せだ。十三歳の誕生日にスマが家にやってきて、新しい家族になった。それから私はスマに夢中になって、今まではレオと家の中で過ごす毎日だったけれど、スマと一緒に外で過ごす時間が増えた。スマといると、新しいことを多く得られて、遊ぶ楽しさが増す気がする。けれど、どんどん時が過ぎていくことに気付いた。私の本当に大切なものは何だろう。レオと過ごしていたあの時間が大切だった。レオとの大切な時間をなくしてしまったのだ。私は急いで家に帰り、いつもレオと遊んでいたリビングに行く。けれど、レオの姿は見えなかった。

20230817@Tokyo tower

「バンシャク」御川飽太

「あれ、サソリでしょ?」
「うん。サソリって、猫の鍵爪みたい形の毒針があるんだよね」
「そうだよ。それにサソリって、実は虫なんだよ。ほら、漢字に虫が入ってるでしょ」
「サソリの漢字なんて知らないよ」
「ええと、虫偏に日本の日って書いて、その下に…実際書いてみたほうがわかりやすいか」
「無理だよ。その右手はずっと先生の左手を握っていなきゃいけないもの」
「わかった。じゃあこのまま話をしようか」
「それで、サソリが虫ということは、アリやカマキリなんかと一緒だっていうの?」
「ううん。アリとかカマキリは昆虫さ。サソリはクモに近い。節足動物ってやつだ」
 分厚い透明なガラス板の向こうには、黒っぽい土が敷き詰められていて、大きな木が横たわっている。その洞のような影に、サソリが隠れていた。こちらをじっと見ている。まるで挑発しているようだった。
「ほら、トキナちゃん。あっちはパーソンカメレオンだねえ」

 その男の子は随分物知りで、よくウンチクを言ってはクラスメイトに驚かれていた。あの日の遠足の動物園でも、誰も知らないような動物たちのことを詳しく話していた。確かに周りとは違う、一風変わった子だったけれど、誰にでも優しく、決して自分の知識量を他人に自慢しない子だった。周りからも好かれていたと思う。
 しかし、小学四年生になったころ、その子は授業中に立ち歩く、テスト中に大声を出すといった行動が度々見られるようになった。終いには、突如あーとかうーとか叫びながらじたばたしたり、自分の机の中身をぶちまけたりした。
 そんなことが続いたある日、その子は先生たちに連れられて教室から出て行った。そして、その子のいない学校生活が始まった。初めこそ、その子がいないことに違和感を覚えたのか、クラス内はどこかよそよそしかったが、みな次第に忘れ、一か月後には以前のクラスに戻っていた。
 しかし、私だけはどうも忘れることができなかった。
 思い切って先生に聞いてみたことがある。しかし、当時の担任だった若い女の先生は、私の質問を聞くや否や顔を真っ青にして、その子は学校にはいるけれど、とある事情でクラスが変わったのだと口早に説明した。私は自分の学年の三クラス全ての名簿を見ていたので、その子がまだ私のクラスに在籍していることを知っていた。
 結局、五年生六年生と、その子はどこかしらのクラスに在籍しているものの、姿を現さないまま、小学校を卒業した。

 前に宮沢賢治の銀河鉄道の夜を読んだんだけれどね。氷山にぶつかった船に乗っていた姉弟が出てくるでしょう。あのお姉さんのほうが蠍の話をするんだ。天敵のイタチから逃げた蠍が井戸に落ちてしまって。今までの自分の行いを責めるのさ。そして神様に懺悔するんだ。そうしたら神様はその蠍を天に昇らせた。その星はいつまでも燃え続けているんだ。そして、星が生きている限り、永遠に英雄を追っかけるんだ。

 母から虐待をされていたという話は、どうやら私が知らず知らずのうちに大人たちの間で広まっていたらしい。当の私自身としては、とても虐待だといえるようなものだとは思っていなかったけれど。
 物心ついたときから古いアパートで母と二人暮らしをしていた。母という存在は私にとって唯一のものであり、最優先事項だった。こう言うと随分冷たく感じられるが、実際私の世界では常に母が中心にいた。小学生になる前は、外に出るときに限らず、家でもずっと母と共にいたのだ。それが他の家の大人からすると束縛するタイプの虐待に見えたのだろう。たまに保健所や児童相談所から大人たちが来ては、母を責め立てるように説得していた。もっとお子さんに自由を与えてください。子供には自分で決めるということが大切なんです。私はそれが気に入らなかった。子供は常に親から全てを与えられるのだから、逆に言えば子供は親の全てを享受する義務がある。だから小学校に上がったタイミングで、私は母に頼み込んだ。もう私に構わないでくれと。私に与えないでくれと。
 そうしたら次は常に跳ね除けられるようになった。小学校から帰って来るや否や「出ていけ」や「帰ってくるな」と言われる。しかし、実際家から追い出されることは滅多になかった。追い出されたとしても、私がドアのすぐそばで、あまりにも静かに立っているものだから心配したのだろう、大抵少ししたら家に戻ってくるよう言われていた。今思うと、なんとも不器用な親子だった。それでも、毎晩食事は一緒にしていたし、学校に通わせてもらっていたし、ちゃんと普通の生活を送れていた。また、昔からの口癖である「アンタが生まれてくれて嬉しいよ」という言葉を、さらに事あるごとに繰り返すようになった。
 中学生になると、私を取り巻く世界は劇的に変わった。個性豊かな人物で構成されたあらゆるグループが混在し、今まで直線でしかなかった相関図は捻じれ、絡まるように繋がっていった。母の干渉は日に日に少なくなり、私の世界は行き場を失い穴だらけになった。その穴を埋めるかのように、私はいわゆる陽キャのグループに入り、気持ちを紛らわして三年間を過ごした。

 毎朝、私は最寄駅からいくつか先の駅で数人の友達と合流し、歩いて学校へ向かう。私の通う高校は、地元で有名な私立校で、大学附属のおかげか、受験もなく自由奔放に生きる生徒ばかりだ。
 混み合う電車に揺られ、何もすることがないので、同じく揺れに耐える車内の人たちに目を向けた。俯くサラリーマン、スマートフォンを鏡代わりにして前髪を整える若い女性、同い年くらいの別の学校の生徒、大学生だろうか、大声で話す四人の男女のグループがいた。わざわざ耳を澄まさなくてもいいほどに自然と会話が聞こえてきた。
「あれ見た? スーパーのおしゃべりおばさんの動画」
「あー、めちゃくちゃクレームつけてるやつ?」
「そうそう、X…旧ツイッターでバズってた」
「それ俺も見たわ」
「やばいよね! 公共の場でああいうことすんの」
「マジでそれ。迷惑すぎて草」
「もうクレームに限らず他人に迷惑かけるやつとか逮捕しろっての」
「んで、もう二度と世間に出ないでほしいわ」
「いやでもあれじゃん。ネットで晒されてる時点で人生オワコンだし。てか定期的にそういうやつ見てるおかげで、あたしらの方が全うな人生送ってんだ! ってわかっていいけどね」
「たしかに! 正味それはあるわ」
 件の動画は私も見た。レジの若い女性店員の態度が多少悪かったからと、汚い言葉で罵り、店員を泣かせていたおばさんの動画だ。おばさんの論点は段々ずれていって、終いには子供をどう教育するかという説教にまで発展していた。リプライには、店員かわいそうだの、老害死ねだの、ただ心配するだけの言葉もあれば、おばさんと同じくらい汚い言葉を発する人もいた。自分を棚に上げるとは正にこのことだろう。
 その後も続く大学生たちの会話に飽き、液晶モニターを見上げると丁度目的地の一つ前の駅に停まるところだった。ドアが開き、数人の乗り降りを眺める。発車メロディーと共に、ドアが閉まる瞬間、いきなりサンダルを履いた男性の足が挟まった。驚いて窓の外を見ると、五十過ぎくらいの男が新聞片手に立っていた。電車のドアはすぐにセンサーが反応し、開いた。男は何事もなかったかのように乗車した。それを見た大学生たちは、変わらず大声で「やばっ」と言った。
 その声が癪に障ったのだろう、男が舌打ちをしたかと思えば、唾を大学生たちに向かって吐き捨てた。大学生たちはすぐさまスマートフォンを男に向け「やっばこのおっさん」と叫んだ。
 その後車内は大変な騒ぎになった。大学生らはスマホ片手に男を罵り、男も負けじと罵詈雑言を浴びせる。危うく殴り合いになるところで、ほかのサラリーマンたちが男を止めたので大事には至らなかったが。わずか一駅分、数分の間の出来事だった。

 次の駅に着いたところで、先に連絡を受けていたであろう駅員が男を無理やり降ろし、ざわざわする人込みに紛れて私もホームに降り立った。
 そのままいつも通り改札を通って、長い渡り廊下を歩く。道の両端には私と同じ制服を着た生徒がずらりと並んでいる。みなスマホを持っているが、視線はそこではなく、道の真ん中を歩く私たちを見ている。まるで選別を受けているようだった。
 ふと、この並んでいるスマホのうち、一つでも録画になっていたらどうしよう、と思った。スーパーのおしゃべりおばさんのように、私もネットに載せられてしまうのだろうか。今すぐにでも鏡を見たくなった。
 そんなことを頭の隅で考えながら、私はスマホを右手に、同じように道の隅に並んだ。

 学校に着くと、クラスが別なので、共に来たメンバーたちと別れる。
 自分の教室に入り、先にいた「ゆるふわ系」の女子、ミナミと隣り合った席に座り、他愛もない話を始める。
「トキナ! ミナミ! おっはよー」
 大きな声で挨拶しながら教室に入ってきたのは、アキだった。
「おはよう、アキ」
 私とミナミの声が重なる。これでお決まりのメンバーが揃った。
 アキは私とミナミの会話を知らないだろうから、わかりやすいように話の要約をしようかと考えていると、アキの方から話が始まった。
「見た? ネットに上がってた、今朝の東横線のやつ」
「見た見た。なんか叫んでるおっさんのやつでしょ?」
 私は返しを考える。
「たまにいるよね、ああいう人」
 アキの声を遠くで聞きながら、私の中で答えが決まった。
「あ、それ、私同じ車両に乗ってたよ」
 すると間髪入れずにアキが答えた。
「え! マジ? 激ヤバじゃん」
「さっき見たけど、こないだ起きた放火事件の犯人と顔似てるって…」
 ミナミもアキに続いて発言する。
「何それ、ガチシャレにならんてー」
 困った風に言っているけれど、アキもミナミも笑顔のままだ。
「てかさ、そんなことより今日も推しが尊くてさー!」
 私が次はどう返そうかと考えている間に、話題が変わってしまった。
 ミナミは確か韓国の男性アイドルのファンだったはず。私はアイドルに詳しくないから会話を続けるのは難しいかなと思っていると、幸いまた話題が変わった。
「てか聞いてー。昨日お母さんと喧嘩してさー」
 話題の転換。
「え、アキのお母さんって優しそうだけど。喧嘩とかするんだ」
「いやマジ家では超厳しいから。よくそんな風に育てた覚えはないって言われるけど…いやこっちだって好きでこんな性格になったんじゃないし!」
 あからさまに口を尖らして文句を垂れるアキに、ミナミが答える。
「そういうこと言う親って、毒親らしいね」
 毒親。毒を持つ親。毒とは、子供に対する毒だろうか。薬ではなく、暴力とも違う、毒。
「マジ親ガチャはずれたわー」
 やっと、私は自分の考えを言うタイミングを掴んだ。
「アキは、なんで親と喧嘩するの?」
 アキとミナミは一瞬固まって、互いに目を合わせてから発言した。
「なんだっけ、たしか靴下をその辺に脱ぎ捨ててたとか、そんなんじゃね」
「トキナは親と喧嘩しなそー」
 そういうことを聞きたかったわけじゃないんだけどな、と思っていると、アキのスマホがピロリンと鳴った。
「あ! やば、BeReal来た!」
「え、撮ろ撮ろ!」
「えー、でも今日なんか盛れてないんですけどー」
 二人がスマホを掲げてカメラの角度を調整していると、後ろから声がかかった。
「いやお前らこないだ授業中にBeRealしてたろ。バレても知らねえぞー」
 同じクラスのユウトだった。
「えー。そんなこと言って。かわいい彼女の写真見たいくせにー。ね、ミナミ」
「もう! やめてって」
 ユウトとミナミは付き合っていたのか。知らなかった。
「つーか、東横のおっさんさ、放火の犯人とかカンケーなく、やばい人じゃね」
「たしかに!」
 ユウトの発言に続き、今度はアキとミナミの声が重なる。
 話の転換、というか戻ってきた。まるで会話がぐるぐる回っているようだ。

 放課後、私は道路沿いのコンビニに寄った。先ほどまでアキたちと長らく喋っていたため、辺りはすっかり暗くなっていた。この時間になると車道の往来も減り、不自然なくらい静かになる。
 私はインスタで見た新作のお菓子とサイダーを持ってレジに向かった。商品をバーコードが見えるように置くと、店員は小さな声で「ありがとうございます」と言った。あまりにも小さな声だったので、財布から目を離し見上げると、店員は棒のように痩せていて、高身長の若い男だった。180センチはあるだろう、高身長のわりに驚くほど猫背で、まるで首が落ちる手品でもしているんじゃないかと思わず疑った。前髪は目元まで長く黒いマスクをしているうえに眼鏡をかけているので顔はよく見えない。男は手惑いながらも会計を終え、お釣りを渡された。しかし、十円玉が一枚足りない。
「あの、十円少ないです」
 私が指摘すると、男は跳びあがり狼狽えた。
「え、えっとお! お釣りが、なくってっ」と男はテンポ悪く言った。
「それなら補充してください」
 男はまた跳びあがって、そのままオドオドしながら誰かの名前を呼ぶと、小太りの女性の店員が駆け足でレジに入ってきた。男が事情を説明すると女性店員はすごい勢いで頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした! ただいま補充いたしますので少々お待ちください!」
 私はその動きに一瞬面食らったが、大丈夫ですよと声をかけた。既に作業を始めていた女性店員はズボンの裾から足が見えていて、その足首が不思議と細いものだから、まるでボールペンの先のような女だなと思った。

 女性店員がお釣りの補充をしてくれている間、男の方は暇そうで、こっちをちらちらみてくるので、私はすごく気まずくなってしまった。気を紛らわすために、壁にかかっている広告などの掲示ボードに目を向けた。そこには画用紙が貼ってあり、「どうぶつはみんなともだち」という小学生の字と、周りには下手っぴなライオンやキリン、ペンギンの絵が描いてあった。それを見て、ふと「動物、動くものなら人間や虫も含まれるのかな」と頭に浮かんだ。
「あ! あっの、ぉ」
 やがて金銭管理が終わったのか、男がまた変な抑揚の声を上げた。それから十円を受け取り、私はコンビニの外に向かった。いつの間にか私の後ろには仕事帰りのサラリーマンたちが並んでおり、みな俯きながらサンドイッチやおにぎりを力なく持っていた。
 私はそのまま外に出て、すぐそばの駐車場のポールに体を預ける。サイダーを開け、喉に流し込んでいると、先ほどのサラリーマンたちも外に出てきて、各々歩いて去っていった。
 するとコンビニ店内から甲高い声が聞こえてきた。
「アンタねえ! もっと笑顔とかさ! 挨拶とかちゃんとして! お客様に迷惑かけたらまず謝罪。これ基本だから。それから大変お待たせしましたって言うの! いいね、そんなんじゃ社会でやっていけないよ! あ、あとその髪、いい加減切ってね!」
 先ほどの女性店員だろう。一息に言い切るようなまくしたて方だった。私がまだコンビニのすぐそばにいるということがわかっていないのだろうか。レジから見えないこともないと思うが。
 ふと、視線の先に何かいるように感じた。いや、実際そこには何かいた。目の前の少し大きな道路の真ん中に、何か光っているものがいる。私はゆっくり歩いて進み、よく目を凝らした。すると、それが蠍だとわかった。蠍がじっと、こちらを見ている。両腕の大きな鋏を持ち上げ、まるで挑発しているようだった。私は歩き続け、道路に一歩踏み出そうとした瞬間、唐突に広告収入のLED文字の眩しい、爆音のトラックが猛スピードで目の前を通過した。
 危うく轢かれるところだった。私は目を白黒させながらトラックの行った方へ視線を向けた。それから道路へ戻すと、そこにはもう蠍はいなかった。

 この日以降、そのコンビニに行かなくなった。もしかしたらあの男の髪は短くなっていて、もっとちゃんと接客できるようになっているかもしれなかったが、行かなかった。
 そのまま私は静かに高校生活を過ごした。

 私が自分の本当の母親に会ったのは、高校を卒業した直後だった。
「江野さん、準備ができました。どうぞお入りください」
 深く帽子を被った男性はそう言い、私は促されるまま部屋の中へ入った。
 アクリル板越しに正面から見たその女性は、どうやら私を産んだ母親らしい。つまり、今まで一緒に暮らしてきたあの母は、正確には母親ではなかったのだ。私が椅子に座ると、目の前の母親は深々と頭を下げた。
「ごめんね。一緒にいられなくて」
 母親は私に自然な笑顔を向けた。
「あなたをここで産んだ時のこと、よく覚えているわ。大きな産声でね。一度だけ抱かせてくれたんだけど、すぐに取り上げられてしまったの。私はあなたに対して、何もしてあげられなかった。本当にごめんなさい」
 母親はしきりに頭を下げ、謝った。そしてここまでの経緯を事細かに説明した。どうして母親がこんなところにいるのか。どうして私が生まれたのか。私を生かすためにどんなことがあったのか。事前に考えていたのだろうと思うくらいに、隅々まで詳しく話された。しかし、私は正直その話に興味はなかった。自分の生まれた環境なんてどうだっていい。何よりこの女性に一度でも抱きかかえられたことが、許せなかった。今すぐにでも家に帰って体を隅々まで洗い流したい。もう遅いかもだけど。
 私は相槌を打つこともなく、話を聞き流した。目の前の母親は、そんな私に構わずまるで一人で喋っているかのようだった。アクリル板に無数に空いた穴から母親の発する声が通る度に、動物園のチケット販売場と重なった。狭い部屋で、ただ目の前にいる存在に話しかける。母親にとって私は、変わり続ける動物園の客と同じなんじゃないかとさえ思えた。
「トキナちゃんは、私に何か聞きたいことある?」
 気が済んだのか、母親はやっと私に質問を投げかけた。私は母親の目を見ず、俯きながら呟いた。
「私、生まれないほうが皆のためだった?」
 私にとって、母は一人で十分だ。その母が結婚もできず、未だにパート仕事だけなのは、私が原因なのだと思っていた。私のような子供がいるせいで、母は自分の好きなことができないのだと思っていた。しかし、今日、それが私の勘違いであったことがわかった。だから、聞きたかった。「アンタなんか産まなきゃよかった」って。
 しばらく返事が来ないので、少し怖くなりながらも顔を上げた。すると、母親はまっすぐ私の目を見て、微笑みながら言った。
「あなたを産んで良かった」
 声は反響しなかった。
「あなたが立派に、普通の子に育っていて、とてもうれしいの。コインロッカーに入れた、あなたのお兄さんはどこかおかしかったから。あなたにして良かった」
 母親はもう、どこにもいなかった。私は後ろに立っている男性に声をかけ、母親に一礼してから席を立った。後方のドアノブに手をかけ、息を長く吐いた。女性は繰り返す。
「あなたを産んで良かった」
 私は後ろを振り返らなかった。

 それから母親には会わなかったんだ。どちらの母親にも。そして、家にも帰らなかった。正確には、帰る家が無くなったからだけれど。釈明の余地をくれるなら、そもそも人間の人生って、自分のためにあるより他人のためにある方が楽だったのにって思う。それならどんな思いをしても、全部自分のことじゃないって割り切れるのに。今思い返すと、私を産んだ母親は共にいた時間が少なくても、私のことを愛していたんだろう。私はおかしな子ではなかったから。でも、どんな人生を歩もうにしても、自分が一番まともなんてことはないんだ。波乱万丈、山あり谷あり。上等じゃないか。たとえここが本の中の世界だって構わない。ねえ、君はどうなの。君は、どんな人生を送るんだろうね。

 少しも濡れていない小さな透明なガラスのコップを置くと、正面に設置されたアクリル板と反射して、私の手首が写った。どこからともなく蛾がやってきて、羽を動かす度に細かな粉が舞う。それがまた反射し、金色に光っていた。蛾は私の周りをしきりに飛び、気が済んだのか、ゆっくりとコップの縁に留まった。私は静かに、丁寧に蛾を両手ですくい、そのまま潰した。

20231007@Zushi beach

「チョクホウタイと為る」若尾青空

 私は、直方体になっていた。なぜ、そんなことになったかをいくら考えてもあてがなかった。どうやら直方体になる前の記憶が混乱しているようだった。目の前には、ただ真っ白な景色があり、何もない世界が広がっていた。実に不思議な感覚であったが、特に違和感はなかった。私は、念入りに自身の状態を確認した。手で物を掴む、足を使って走る、口を動かして話すといった人間のときにできた行動ができなかった。代わりに、前後左右にスライドするように動くことと物を見ることはできた。制限されたことをひどく忌々しく思ったが、手に負えなかった。仕方なく私は右にスライドするかのように移動し、探索を始めた。
 
 数時間ほど移動していると、立方体に出会った。彼は、言葉を話すというよりはテレパシーのような感じで言葉を伝えてきた。
「オマエトオレハチガウ。」
 私は、何を伝えたいか分からなかった。
「オマエハユガンデイルチョクホウタイデ、オレハキレイナリッポウタイダ。イッショデアッテタマルカヨ。」
 なるほど。どうやら、彼は私と少し似ていることに嫌気がさしているらしい。いわば、同族嫌悪というものであろう。
「オイ、ナンダヨ。ソノシタニミテイルヨウナシセンハ。」
「そんなことございませんよ。確かにあなたは私より綺麗な姿でございます。」
 こういうタイプの人は、相手の懐に入ればいいと直感的に思った。こうすれば自分にとって、うまく物事が進むと感じたのだ。
「ワカッテルジャナイカ。キミミタイナモノワカリノイイモノハ、スキダ。」
 どうやらうまく機嫌を取れたらしい。今だ、と思いこの世界について聞いてみた。
「ここはどこなんでしょうか。道に迷ってしまって。」
 すると、彼は驚いた後に奇妙な目つきで私を見た。
「ナニヲイッテイルンダ。ココハココダヨ。バショナドキニシテナンノイミガアルンダ?」
 私は絶句した。どうやら人に成っていたときに持っていた常識は通用しないらしい。それはそうだ。私は直方体で、彼は立方体なのだから。私は彼が機嫌を損ねないように丁寧な言葉を発した。
「そうですよね。お気になさらないでください。質問に丁寧に答えていただきありがとうございます。それでは、私はこれで失礼致します。」
「オウ、ソウカ。」
 彼は随分と満足したようだった。私は何故だか少し疲れてしまった。そして、再びみぎにスライドした。

 今度は、円柱に出会った。彼は、ただひたすらに太くて長かった。彼から感じる圧倒的な強者感がジリジリと伝わってきた。私はどういうわけか、彼に巻き付いてでも付いていきたいと思った。彼のそばにいれば、私は幸せになれると感じたのだ。
「こんばんは。私はチョクホウタイと申します。どうか私をあなたのそばにおいてくださいませんか。」
 気持ちが出過ぎてしまい無意識にチョクホウタイと名乗ってしまった。しかし、かれは気にすることもなく、力強い言葉を発した。
「コトワル。ソレハヨワイモノガスルコトダ。」
 唐突に自分以外から弱いモノと言われ、雷に打たれたような衝撃に襲われた。すぐに怒りが湧きあがってきた。しかし、それをせき止めた。
「そうですか。それでも、弱いモノである私を助けてくれませんでしょうか。私は導いて欲しいのデス。」
 すると、彼はドスの効いた言葉を投げかけた。
「タシャニスクイヲモトメルナ。オノレノミチハオノレガキメタマエ。」
 どうしてだろうか、このような言葉を嫌になるほど聞いた気がした。だからだろうか、そんな言葉は私に響くことはなかった。そんなことより、私はかれに付いていかなければと心の底から思った。
「ソレデモ、私を連れて行って欲しいのデス。どうか、どうかお願いします。」
 頭はないのだが、頭を深く下げるように必死にセットクしようとした。
「コッケイナスガタヲコレイジョウサラスナ。コチラガハズカシクナッテクル。」
 カレは憐れむようにことばを発した。そして、カレはスライドするというよりは転がるように私のもとを離れていった。私はヨワイモノと発せられた屈辱感を抱き、同時に救いようがなさを感じ、再びミギにスライドした。
 
 ここまで気付かなかったのだが、どうやら私は腹が減らないらしい。もし食欲があったら大変なことになっていただろうと思い、不幸中の幸いだと思った。そして、ヒトというものの記憶がなくなりつつあるらしい。少しずつチョクホウタイになりつつあったのだ。そんなことを考えていると、突如として二十四面体が現れた。小学生の頃に嫌になるほど作ったくす玉のことを走馬灯のように思い出した。どうやら、本当に人間としての私が死ぬことが近づいているらしい。また、何故か彼女に大きな嫌悪感を抱いた。どうしてだろうか。また、彼女が才能のあるモノだとすぐに分かった。すると、彼女は知的で優しいお嬢様のようなコトバを発した。
「ドウモ、コンバンハ。ナニカオコマリデスカ。」
 私は急に尋ねられたことに驚き、うまく答えることが出来なかった。
「イ…いえ。なんでも…ありませんよ。」
「ソレハヨカッタデスワ。」
 ああ、私は彼女が嫌いだ。その感情は、かのじょと交流するほど分かる。また、才能があるモノだということも。
「チョウドヨカッタデス。スコシノアイダ、ワタシノハナシアイテニナッテクレマセンカシラ。コノトゲノセイデ、ダレニモワタシニチカヅイテクレナイノ。」
 私は、すぐにでもかのじょから離れたかった。しかし、それではカノジョに負けてしまったようになるので、仕方なく留まるしかなかった。
「ええ、かまいませんヨ。」
「ソレハヨカッタワ。」
 彼女は、ムカつくくらい元気なコトバを発した。
「アナタミタイナカタガイテウレシイワ。ジツハソウダンゴトガアッテネ、ワタシハドコニムカッテススメバイイノカワカラナイノヨ。ダレニモデアワナイカラワカラナイノ。コノミヲドコニササゲレバイイノカシラ。」
 私は呆然とした。才能がある奴が、私みたいな悩みを抱えていたことに驚いたのだ。その後、怒りのカンジョウが溢れ出してきた。お前みたいな人は、そんな悩みを持ってはならない、と思ったのだ。私とお前が同じ悩みを持つことを許せなかったのだ。そして、私は空虚なコトバを発する。
「他者に救いを求めるナ。オノレの道はオノレが決めたまえ。」
 わたしはこいつが不幸になることを願った。だが、わたしの予想とは違って晴れやかなコトバを発してきた。
「ナルホド、ソウナンデスネ。タシカニジブンノミチハジブンデキメナイトダメデスネ。オシエテクレテアリガトウネ。ナルホド…。」
 わたしは屈辱的であった。自分がよくわからなかったことをこいつはしっかりと理解したようだった。才能があるモノとの差を見せつけられた気がして、恥ずかしくなってしまった。すぐにでも逃げたかった。だが、そのコトバの意味を教えてほしいキモチもあった。わたしは、よくワカラナクナッテシマッタ。
「あ、そういえばヨウジがあったのを忘れていました。スミマセンネ、わたしはココでシツレイ!」
 わたしはその場から猛スピードで離れた。コレだからわたしは、わたしが嫌いだ。そして、ワタシは気づいた。ワタシはあいつにナレないからきらっていたのダト。

 ワタシは、アイツのスガたがみえナクなることをカクニんし、ウンドウをトめた。チョクホウタイにナッテから、ズイブンとジカンがたっていたがスイマはオソってこなかった。ワタシは、こノセかいニ嫌悪感ヲイだイタ。ミクダスことしかカンガえていない奴、アワレれなワタシヲ助けてくれナイヤツ、サイノウがアルヤツ。なにもカモすべテがイヤになったコノセカイヲドウすればヨクナルだろロウカ。イヤ、こんナセカイガナクナレばいい。コワセバいいんダ。しカシ、ワタシにはソんなチカラハナイ。スルト、とつジョトシテアルホウホウヲオモイツイタ。ソレハ、モトモトメノマエにアッタヨウナシンキンカンヲカンジジラれルモノデアッタ。
「ア、『死』ネバイインダ。」

20231217@Illusion exhibition,Ito Shizuoka

「ベルトコンベア・ホリック」
升野栞莉

 ベルトコンベアを眺めているのが好きで、高校卒業後から食品加工工場に勤務している。次々に流れてくるクッキーを選別して、割れているものときれいなものに分けるのがわたしの担当だ。多くの工場では機械化が進んでいるから、人間が選別作業をしているのはまれかもしれない。もう五年もこの作業を続けているから、自然と動く自分の手に任せていればそれでいい。レーンの反対側で作業しているパートの小林さんと会話をはさみながら手を動かす。彼女はパートを始めて八年が経つ二児の母で、いつも目の下にうっすらと茶色の隈を携えている。
「昨日も寝られなかったんですか?」
「下の子がイヤイヤ期でさ、お風呂にも入りたがらないし、せっかく作ったご飯にもいやだって言うのよ。旦那はスマホ見てばっかりで手伝おうとしないし。結局寝れたの一時とかだよ」不満そうに話しているが、目元には少し笑みが見えた。母親らしいその姿に微笑ましい気持ちになり、ふと自分の母親のことを思い出した。
 わたしの母は敬虔なキリスト教徒で、幼少の頃はよく教会に連れていかれた。難しい言葉ばかりで何が何だか分からなかった小学生時代は幸せだったなと思う。教会に行けば周りのおばさんたちからはアイドル扱いで、可愛い包装のキャンディーや美味しい煎餅をもらえるので特に不満もなく、毎週日曜は母についていった。幼いわたしの小さな手で拾えるだけの、ささやかな幸せを拾い集めて生きていた。でも、中学に上がってからすぐ、父が死んだ。わたしの両手いっぱいにあった幸せは、ドロドロとした液体のようになって確かに流れ落ちていった。
 町工場で働いていた父は、わたしが十三の時に大型の切断機に巻き込まれ、あっけなく死んだ。父の工場にはよく遊びに行っていた。こぢんまりとした工場だったが、幼いわたしには、そこは少し無機質な遊園地のように見えた。業務が終わった後、古びた緑色のベルトコンベアに乗せてもらい、工場中を冒険したこともある。大好きな父が思い入れのある工場で亡くなって、少し安心した。父は工場を愛していたし、工場も父を歓迎していたから。父の死後、もともと心の弱かった母はより宗教に傾倒し、家のことは一切やらなかった。午後のワイドショーを見ていたある日、気が付いたことがある。母が信仰していたのは当時問題になっていた新興宗教だった。でも、母を説得することはしなかった。教会にはわたしを連れて行こうとせず、毎週日曜日以外は死んだように眠り、冷蔵庫のものを貪っていた。わたしでは彼女の拠りどころにはなれないと悟っていた。父がいたからうまくいった。歯車は寸分の狂いもなく回っていた。しかしその歯車は、父というピースを失い、暴発する。わたしが一五の時、教会に行ったはずの母は二度と帰らず、愛した家庭は崩壊した。
 母がいなくなってからは、小さい頃から面識のある教会のおばさんが面倒を見てくれた。父方の親戚はいたがカルトを信仰していた母が産んだ子という理由から、わたしを引き取ろうとしなかった。おばさんはわたしを実の娘のように優しく、時に厳しく育てた。その代わり、毎週日曜は駅前の勧誘に連れていかれた。血縁もないのに育ててもらっている感覚があったから、嫌がることをせず素直に従っていた。その生活はわたしが高校を卒業するまで続いた。母が居なくなったことで暇になっていた日曜日の新しい習慣は、皮肉にも再び宗教で埋められた。
 
 友人と高校の卒業旅行で北海道に行った。数時間のフライトが終わり、午前中に新千歳空港に着いた。固まった首をほぐしながら、ずんぐりとしたインディゴのスーツケースが流れてくるのを待っている。ふと視線をやると、黒々としたゴム製のベルトコンベアが音を立てずに動いているのが見えた。
つま先から髪の毛の先まで、あの時の記憶で埋まった。幸せだったあの日のにおいがして、何かが頬を伝う。母が居なくなってから、考えないようにしていた父のこと。そのトリガーは無機質なベルトコンベアだった。
 「荷物来てるよ! はやく行こー」友人の言葉で我に返り、スーツケースを急いで握った。
 それからは、もうベルトコンベアのことしか考えられなかった。やりたいこともなく、高校三年の三月にもなってろくな就職先も決まっていなかったが、すぐに食品加工工場の求人を見つけ、応募をだした。空白の多い履歴書一枚を持って、形式だけの面接を終えるとすぐに勤務が決まった。休日には一人で工場見学に行き、父の工場にあった、あの古びた緑色のベルトコンベアを探しつづける。そんな日々が十年間、今も続いている。打算的に生きてきた人生でようやく何かを追い求め、何かのために生きている実感が得られたから。
 ある朝工場へ行くと、突然担当の変更が指示された。選別作業は比較的簡単で重労働ではないので、楽だし気に入っていた。なにより、ベルトコンベアがきちんと整列されたクッキーを運んでくる、あの目に美しい様子がもう見られないんだと思うと悲しかった。幸い次がパッケージのプレス機を監視する担当だったので、おそらくベルトコンベアもあるだろうと安堵し、実際ベルトコンベアはそこにあった。以前のように複数人で作業せず、パソコンの前でひとり、パッケージの不備を確認するだけの仕事だった。個包装のクッキーがプラスチック容器に詰められ、ポップなテイストの包装紙が被せられる。大きさも形も一様なそのクッキーを見て、わたしもあのクッキーになりたいな、と思った。気づけばわたしは、ベルトコンベアに足をかけている。わたしを止める人はここにはいない。クッキーの美しい整列は、わたしが踏み出す手足によって乱されていく。容器に入ったクッキーは一つの家族のようで、踏みつぶしても何も思わなかった。むしろ潰れて不格好になったそれがわたしの家族のように見えて親近感がわいた。非常事態を知らせる赤いランプが激しく点滅し、けたたましくブザー音がなっている。さながら大天使ガブリエルが吹くラッパのようだ。最後の審判でよみがえるのは誰だろう。すっかり止まってしまったベルトコンベアに寝そべり、あたたかく優しい父に包まれている気持ちになった。あーあ、お父さんに会いたいな。アーメン。

20231224@Seibuen amusement park,Saitama

「絵顔」小林魁人

 中川鏡花! 今年で35歳! 恋なんてしたこともない! 恋愛初心者です♡
 昔は面食いだったけど顔に絵具を塗りたくるようになってからは性格重視☆彡
 
 そう書いた婚活用の自己紹介を破り捨てる。なにが「今は性格重視☆彡」だ。この年までまともな恋愛も色恋沙汰も経験したことない癖に。親に言われ重い腰を上げて婚活を始めたがそう簡単に行くものでは無い、ということを最近ようやく分かったところだった。
 私は自分の顔が嫌いだ。見るだけで吐き気がする。案外世の女性は同じことを考えていたようで、ある会社が発売した顔を塗りつぶす用の絵具がその年一番売れた程だった。当然私もそのビッグウェーブに乗り、絵具でつぶすことにした。
 当時は一部の男性から強い批判を受けていたが、今では社会のマナーと言われる程になったため声は収まった。
 過去を振り返ると懐かしく気持ちいい、と考えていると三か月前に登録して以来何もしていなかったサイトから通知が来た。どうやらあたしの春は地球温暖化の影響で遅れていただけらしい。早速確認だ。相手の名前はカズマ、というらしい。彼との邂逅に心を躍らせる。
 三日後、約束の場所に行くとその人であろう人を見つけた。しかし服はサイズが合っておらず、髪は前いつ手入れしたのかわからない程ボサボサで長く、そして遂には顔に絵の具すら塗っていない。こんな人と…と思ったが選んでる場合ではないことを思い出し、仕方なく声をかける。「すみませ~ん。間違っていたら申し訳ないんですけど貴方がカズマさんですか?」できることなら断って欲しい、と思っていると「あ、はい。僕がカズマです。てことは貴方が…」「はい。私がキョウカです」
 そう言った途端カズマさんはブツブツ呟き始めた。断片的に聞こえた情報をまとめると私が外れだとか、思ってたのと違うとか言っている。
 そう言いたいのはこっちだ、と思いつつ「とりあえず行きましょうか、予約の時間迫ってますし」というと「あ、はい」とだけ言ってブツブツ言いながら前を歩いて行く。映画館に行く時も、映画を見ている時も、ショッピングをしている時でさえ、視線を感じる。皆絵具を塗っているのに塗ってないやつ、そしてそれと一緒にいるやつだ。そんなの皆好奇の目線や奇異の視線を向けるに決まってる。私ですらそんな奴がいたら同じような目線を向けるだろう。私はいつの間にかそんな視線から逃げるように脚が早くなっていたのか、思ったより早くディナーの場所についてしまった。少し休んでいる時、カズマさんが周りを見て首を傾げていたが気にしないことにした。
 ディナーのお店に入り、当たり障りのない雑談をする。そこのお店が楽しいとか、昨今の政治事情とか、そんな話。レストランですら異物に対しての糾弾みたいにこっちへの視線が寄せられる。
 そうして少し後、彼は言った。「ずっと気になってたんすけど、なんで顔に絵具なんか塗ってるんすか?」と。
 そんなの、と言い返そうと思ったが言葉が出てこない。よく考えたらなんで顔に塗ってるんだろう。あれ、私はなんで、こんなことして、
「あなたも結局理由なんて分かってないんですよね。みんなそうなんです。わかんないまま合わせてる。」なにいってるの、このひと。
 いつの間にか意識が落ちてたみたい。
 気づいたらカズマさんはもういないしお金は払われてて私は家に帰った。
 翌日もその翌日も私は絵具を落とさなかった。店頭にあるマネキンを見て何故か親近感が湧いた。
 街を歩く。どこを見ても顔が見える人なんていない。数日前の私はあまりにも滑稽な姿だったのだろうか、いやそれとも見るに堪えないほど馬鹿らしい姿だっただろうか。しかし案外後悔はない。
 そして頭の中にはずっと疑問が浮かび続けている。当たり前が浸透して、常識になってしまったけどいつから絵具を顔に塗るのが当たり前なんだろうと。私は周りに流されて人からの情報ばかり頼りにしていた。そんな自分が嫌で堪らなくて一日だけ絵具を外してみることにした。
 外を歩くと、カズマさんと歩いた時のように視線が私に集まる。しかし前とは違いその視線が心地よく感じる。私は有名人なんじゃないかって、そう感じる程に。誰も声なんてかけようともしてこなかったが、たった一人の女子高生がこちらに声をかけてきた。
「あの、なんで顔に絵具塗ってないんですか」その質問に私は「なんで顔に絵具なんか塗ってるんですか」と、こう答えた。
 いい気持ちで家に帰る。次の日久しぶりに鏡を出した。そして粗大ゴミに捨てた。

20230309@Ruins of Children's Castle,Aoyama

「辿る」齊藤類

 裏口のドアをそっと開け視線を上げるとまだ太陽が昇る気配はなく、空は青みがかった鼠色の雲が広がっていた。腕時計を見ると時刻は四時ちょうどをさしている。外は想像より冷え込んでいて、思わずコートの襟と襟を寄せた。世界が目を覚まさぬように、一本道を静かに歩いていく。三月の明け方、僕は家出をした。
 

 僕にとって父と母は自慢の両親だった。両親はお互いのことがずいぶん好きだったようで、父は母に会うためなら仕事なんて平気でさぼるし、休日も僕を置いて二人で出かけていた。親の話を友達にすると不思議がられたが、僕は仲良しな二人が好きだった。
 しかし僕の十歳の誕生日、母が車にはねられて死んだ。母の死を受け入れられなかった父は仕事を休むようになり、ある日突然母の後を追うように行方をくらましてしまった。
 横浜に住む叔母に引き取られてから今日まで、僕はずっと死んだように生きている。転校先の小学校では周りのクラスメイトに馴染めず、そのまま上がった公立の中学でも気味悪がられずっと一人だった。叔母にも空気のように扱われ、社会に必要のない無価値な自分に嫌気がさしていた。僕にとって、本心を話せる人も心の拠り所もないこの世界はあまりにも生きづらく、いつしか昔の記憶を懐古するようになっていた。横浜に引っ越す前住んでいた東京のアパートや、日比谷の映画館、裏路地の小洒落た喫茶店に、お台場の海…家族との思い出の場所を巡っていけば、今の陰鬱とした生活を抜け出して三人で過ごした時間を取り戻し、何者かになれるような気さえした。
 逆をいえばもう僕には家出しか選択肢がなかったのだ。それが現実逃避とはわかっていても、このまま幽霊のように生きていくことに限界を感じていた。だから僕は家出をした。「探さないでください。」という置手紙を残して。
 駅へと歩いていると小粒の雨がぱらぱらと降り出してきて、傘も持たずに半ば衝動的に家出してきたことを後悔した。思えばカバンには替えの服とビデオカメラしか入っていないし、財布にも最低限のお金しか入っていない。こうして、解放感に浮かれきれぬまま僕の家出生活は始まった。
 家出一日目はあらかじめ決めていた日比谷の映画館に行くことにした。始発で日比谷に着いたもののまだ時間がずいぶんとあったので、コンビニで買ったビニール傘をさし、映画館が開くまでの間オフィス街をふらふらと歩いてみた。都会のど真ん中のはずなのに周囲を見渡しても人通りは少なく、雨が路面を打つ音だけが響いている。心地よい朝方の静けさに心が弾み、透明な心が彩られていくようだった。
 目的のシアターは、メインシアターのある大型商業施設から少し離れたところにあり、小さなビルの地下に別館という形で構えている。この少し特別感のある雰囲気が印象的で、三人で来たときから五年以上たった今でも当時のことを鮮明に覚えている。朝方ということもありB級のスプラッター映画しか選択肢がなかったが、シアターさえ合っていれば映画の内容などどうでもよく、両親が好きだったジンジャーエールとホットドッグを手に座席へと向かった。観客は数えられるほどしか入っておらず、チェーンソーを持った殺人鬼が暴れる様を鑑賞した。
 地上に出て映画館を後にするとサラリーマンが通りを行きかっていて、もう早朝の静けさは失われていた。すると突然、高層ビルの間を吹く風や周囲の人々の足音が、ひとりぼっちの僕を嘲り笑っているように聞こえてきて、早くこの場を離れようと慌てて駅の方向へ足をはやめた。
 

 雨宿りに駆け込んだネットカフェの個室で、僕は今後の行く先を決めようとスマホを開いた。するとゆうに二、三〇件を超えているであろう叔母からの着信履歴がロック画面を埋め尽くしていて、思わず面食らってしまった。叔母には申し訳なさを感じていたが、以前の環境へ逆戻りすることへの恐怖心からスマホの電源を切りカバンにしまった。
 代わりにカバンからビデオカメラを出し、電源を入れた。今までどんな辛いことがあっても、僕はこのビデオカメラに幾度となく救われてきた。現実世界がどんなに厳しくても、カメラの中の世界ではいつもみんなが幸せを共有している。まだ幼い僕の瞳はまるで光が灯っているように輝いていて、彼に今の自分を重ね合わせることで幽霊のように生きている現実から目を背けてきた。薄い壁にもたれかかり、父と僕がお台場の浜辺ではしゃいでいる動画を見ていると、穏やかな小波が立つ海に引き込まれていくように眠り込んでしまった。
 物音で反射的に目を覚ますと、そこがネットカフェだと即座に理解できず一瞬戸惑った。どれくらい時間が経っただろう。家出をしたことを改めて実感しつつ、寝起きの少し痺れた体を起こして外に出た。日はとっくに沈んでいて、雲の合間から傾いた半月が浮かんでいるのが見える。以前ネットで、未成年でも寝泊まりができるほど規制が緩いと噂されていたネットカフェを目指して歩いていると、通りの角に巡回中の警察官を見つけ、かすかに体が震えた。まるで逃亡中の犯罪者にでもなったような気分になり、目をそらしながら彼らを避けるように速足で歩いた。夜の繁華街は警察も多く、神経をとがらせながら移動していたからか、二軒目のネットカフェにつく頃には疲労が限界まで蓄積されていた。それから先のことはあまり覚えていない。気づけば朝になっていて、まだ少し寒さの残る春の息吹を感じて僕は海へ向かった。


 四月二日。今日で母がいなくなってから六年になる。まともに風呂に入らずに移動を続けていたこともあり、体の臭さに思わず顔をゆがめて、不快感を拭えぬまま出発した。
 お台場に向かう間、目をつむった僕は電車に揺られながら六年前の今日を思い出した。
 友達と遊んでいた僕のもとに血相を変えて走ってくる父。車窓から見た地平線に沈んでいく太陽。魂が抜けてすっかり冷たくなってしまいぴくりとも動かない母。何の飾り気もない青白い霊安室に響き渡る父の嗚咽。たったの数時間のうちに僕と父に地獄のような悪夢が次々と襲いかかった。僕は涙一つ流さずただ茫然と、小刻みに震える父の背中を見つめていた。
 突然父は立ち上がり、振り返ることなく遠くへと歩いていってしまう。
 お父さん、行かないで、戻ってきて。僕の悲しげな抗議もむなしく父の姿はやがて闇に包まれてしまった。
 ハッとして瞼を開くと僕はまだ電車の中にいた。脈が激しく打っているのが分かる。ちょうど目的の駅に着いたのでふらふらと立ち上がり地上に出ると、海はすぐそこだといわんばかりに潮の匂いがした。
 潮風の吹く方へ駆けていくとそこにはビデオカメラの中と変わらない風景が広がっていた。浜辺にうちあがっていた流木に腰掛け、小さく波打つ海を見つめていると、遠くを飛んでいる三羽のウミドリが父と母と僕のように見える錯覚に陥った。
 どこまでも続く海と空の間を雄大に飛び回る鳥。ただただ自由な彼らが今はとてつもなく羨ましかった。僕がずっと追い求めているのは過去であり、家族三人が再び揃うことはないと理性ではわかっているものの、過去に囚われていないと心にぽっかりと開いた穴はどんどん広がっていってしまうと、心の声が僕に語りかけている。もう難しいことは考えたくなかった。せめてこの家出に終わりが来るまでだけだとしても、心の声に従って生きていればいいのだと、そう信じた。
 コンビニで少し遅めの昼食を済ませると、途中花屋で買ったカーネーションを持って母が眠っている寺へと赴いた。お墓参りをすることで母の死を再認識することは辛かったが、墓参りに行くべきだと言う心の声に従うことにした。
 墓地に着き母のいる場所へ向かうと、大柄な男が母の墓石を磨いていた。短髪で黒いカーディガンを羽織っている彼は、幾度も水をかけ雑巾で熱心に墓石を磨いている。こちらを向いてくれないので顔が見えず、僕は引き寄せられていくように彼に近づいていった。
「お父さん。」ずいぶんとか細い声で僕は彼に呼びかけた。背中の動きから、明らかに動揺していることが伝わってくる。おもむろに振り返った彼と目が合った。最後に見た時からずいぶん痩せたように感じたが、それでも彼はまさしく僕の父だった。
「ど、どうして…。」驚きを隠せない様子の父に、僕は考えるより先に抱きついていた。
 今まで押し殺してきた分の感情が堰を切ったように溢れ出し、僕は赤子のように声を上げて泣いた。
 初めは戸惑っていた父も僕が泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。
「なぁ、怒ってないのか、その、俺が勝手に出ていったこと。」僕が落ち着いたのを見計らって父は訊いた。
「怒ってはないけど…でも帰ってきてほしかったよ。」
「本当にすまない、ずっと一人にしたこと、本当に…。」父は目にうっすら涙を浮かべていた。父は昔の優しい父のままだった。周囲の人は行方が分からなくなった父を悪く噂した。そのたび僕も、何度も何度も、変わり果てた父の姿を想像した。だから今はただ安堵の気持ちが沸き上がってきた。
 とっさに僕は空気を和ませようと、
「もういいよ。それよりさ、今まで何してたの? 教えてよ」と、好奇心から訪ねた。
 それから僕らは、お互いの中で空白になっていた六年間の出来事を赤裸々に語った。その中で父の知らなかった部分が明らかになっていった。
 六年前家を出てからずっと母の眠るこの寺のそばで暮らしていたこと。そして母とやり残したことを一人で行っていたこと。その一環で老後の夢だった喫茶店を開いたこと。父が僕宛に何度手紙を出しても、叔母が捨てていたこと…。
「一度はお前を置いて家出したし、また会う権利なんてとっくに失ったと思ってたんだ。」父は花立てに供えたカーネーションを眺めて呟いた。やせ衰えた父の頬に僕は、これまでの沢山の苦悩を垣間見た気がした。
「ねえ、また一緒に暮らそうよ。」墓地を出るとき父に訊いた。
「いいのか…?」
「もう今さら戻れないし。」
「そうだよな、叔母さんには俺から伝えておくよ。それより今日、誕生日だろ。まだチーズケーキは好きか?」
「うん。あ、レアチーズケーキがいいな。」
「よし、買って帰るか。あ、でもうちに上がるのはちゃんと風呂に入ってからにしてくれよ。」父がいたずらっぽく微笑むと、釣られて僕もくすくすと軽快に笑った。
 春の甘く柔らかい空気に包まれた心地のよさに、大きく伸びをした。
 花日和の澄んだ空に、白い陽の光が、燦々と冴え返っていた。

20231021@Haneda Airport

「透明なキャンバス」鈴木みな

「夢を追い求める勇気があれば、すべての夢は叶う」
 ある男が言っていた。
 小学生の時、初めてこれを聞いて真っ白だったキャンバスが虹色に色づいた。
 中学に入って、この言葉を胸に部活に熱中した。顧問の先生に言われるがまま県大会を目標にした。一年生の時、県大会で入賞した。あの男の言葉は本当だったのかと、うれしくなった。キャンバスはより鮮やかに色づいた。次は関東大会に出ることを目標にした。中学二年生の春、肉離れとシンスプリントになった。ラストシーズンは今までのように試合には出られないと言われた。絶望した。あんなに頑張っていたのに、頑張ったせいで怪我なんかしたら意味ないじゃないか。でも私にはあの言葉があった。だったら高校で頑張ってみようじゃないか、叶うまで追い続ければいいんだ。私の中学三年間は虹色のキャンバスに夢を描いて終わった。

 高校二年生の時、繰り上がりで関東大会に出られた。目標が達成されたはずなのに、出られなかった時より悔しかった。完璧な形でなければ夢が叶ったとはいえないと思った。それからは今まで以上に部活に熱が入った。どうせなら、とインターハイを目標にした。真夏の北海道に、くたびれたシューズを履いて立つ自分の姿を夢に見て。結果から言ってしまうと関東大会8位という戦績で終わった。あと一メートル。自己ベストと同じぐらいの記録が出せていればインターハイの切符をつかめていた。最後の瞬間はほとんどトラウマのようなもので今でも鮮明に思い出せる。でも、悔しいという感覚はなかった。涙なんてものは一滴も流れてこなかった。実感が湧かなかったわけでも、大学でまた頑張ろう、なんてポジティブなことを考えていたわけでもない。ああ、終わりだ、こんなにあっさりしているものなのか。むしろひしひしと終わりを感じていた。元から高校で終わりにしようと決意していたわけではない。中学の時のように、大学でも続けようと思う時があったらまた続けてみようかなと思っていた。ただ、あの瞬間わかったのだ。これ以上できない。きっとこの試合と同じ熱量でのめり込めることはない。
 私の全身が、全神経が終わりの瞬間を告げていた。
 あの男の言葉は嘘だった。結局は所詮きれいごとだったのだと深い絶望を感じた。追い続けてもかなわない夢だってあることを知った。その瞬間、鮮やかな虹色に染まっていたものは透明になった。

 母や友人が新しいキャンバスをいくつか用意してくれた。大きさも、形も、材質も違う多種多様なキャンバスを見せてくれた。せっかくなので手あたり次第すべて試してみた。しかし、どれも駄目だった。あの時のように鮮やかな虹色に染まったものは一つも無かった。色が付くことすらなかったものもあれば、色は付いたけれど混ざりあって鈍い色に染まってしまったものもあった。
 あのキャンバスでなければいけなかったのだ。一度は鮮やかに色づき、透明になってしまったあのキャンバスでなければ。
 またあのキャンバスに色を付けようとするのは怖かった。透明なものに色をつけるのは簡単ではない。どんな色も混ざり合い、吸い込んで透明に帰してしまうところに色を入れ続けるその道のりを思うと一歩を踏み出せなかった。
 ああ、そうか。勇気が足りてなかったのか。

 そう気づいた日、あの日からずっと玄関に置いてしまえずにいた部活のシューズを履いてみた。まだ、怖かった。次の日、久しぶりに部活に行った。トラウマに近い最後の瞬間を変えようと思ったのだ。こんな感じだったっけ。何も思いつめずにやる部活はただひたすらに楽しかった。何をあんなに怖がっていたのだろう。そうだったじゃないか、楽しかったからあの時キャンバスは色づいたんじゃないか。またあの楽しさを、キャンバスが鮮やかに染まるあの瞬間をもう一度みたい。
 キャンバスを真っ白に染めよう。いつか色づくかもしれない虹色が透明に溶けてしまわないように。

 くたびれた靴を靴箱にしまって新しい靴を履いた。透明が、半透明になった。

20230223@Yokohama station west exit

「夜明けにかねが鳴る」藤井愛永

 シャツにじんわりと汗が染みる。背中が何だか気持ち悪くてつい目が覚めてしまった。時計の針はまだ夜中の三時を指していて、もう一度眠れそう。その前にシャワーを浴びようと考えてのっそりと布団から出ていく。
 真っ暗な廊下に出ると、二つ隣の部屋から光が漏れていた。ドアには紙が貼ってあり、殴り書きのような大きな文字で【勉強中! ぜったい入るな!】と書かれている。ここは、五つ下の妹、柚葉の部屋。中学三年生の柚葉は最近いつもイラついていて、俺が話しかけただけで舌打ちされる。妹というものはどうしてこんなにも兄に酷く当たるのだろう。柚葉の部屋の中はパステルカラーの物で埋め尽くされていて少し見ているだけでも気分が悪くなりそうだ。しかし、その子どもじみた部屋の中で異色を放っている物が一つ。机の上に置かれたビニール袋の貯金箱である。三ヶ月程前まで使っていたうさぎの貯金箱は落として割ってしまったらしい。本人曰く、買いに行く時間がないから仕方ない、だそうだ。沢山の札が袋から透けて見えてしまっている。元々は細かい部分にまでこだわった部屋であったのに、勉学というものはこんなにも人を変えるのだなぁ。正直みすぼらしいと思うが喧嘩をしたくはないので、俺は特に何も言わないようにしている。
 目的地である風呂場に辿り着いた。さっさとシャワーを浴びてもう一度眠ろう。蛇口を捻ると冷たい水が一気に出てくる。嫌な感覚も消えて、これでようやくぐっすりと眠ることができるだろう。
 部屋に帰る途中でリビングに寄った。コップに水を入れて一気に飲み干す。渇いていた喉に潤いが戻ってきた。部屋にも持っていこうと水をもう一杯入れる。ついでに柚葉に夜食でもあげようかと思ったけど、怒られそうだから辞めておこう。

 布団に入って目を閉じたが、一向に眠くならない。すっかり目が冴えてしまったようだ。仕方がない、ゲームでもしようかとスマホを開くと通知が二件きている。夕方には寝てしまっていたから気が付いていなかった。一つは先日一緒に遊んだ涼太という友人からの連絡。物凄い長文で読むのが億劫に感じてしまう。軽く目を通すと、どうやら金を貸して欲しいという内容だった。うーん、嫌だなぁ。返信に戸惑いながらも、ちまちまと文章を打っていく。取り敢えずは貸さない方向で返すが結局コイツは諦めないだろう。
 もう一件は柚葉からのメール。明日、学校帰りに買ってきて欲しいという本の題名とURLが貼られていた。直接口で伝えてくれれば良いのに、どうしてわざわざ面倒なことをするのだろう。買ってくるのは構わないがおそらく金は貰えない。だからといって金を渡すように言うのは兄としての威厳が落ちかねない。それに、それぐらい買ってくれても良いだろうと逆に怒られそうだ。俺だって金欠だというのに、柚葉には利用されてばかりで悔しくなる。チラリと机の上の財布を見ると、かなり寂しい雰囲気が漂っていた。ちなみに、この財布は一年ほど前に買って、そのまま買い換えていない。自分で言うのもアレだが、デザインが高見えするため気に入っている。とにかく、これ以上財布の中に空白が増えるのはあまりよろしくない。そうだ、買ってくる本が本当に合っているかを確認しつつ、さりげなくお金を貰おう。明日の朝だとバタバタして誤魔化されそうだから、今行くしかない。気を引き締めて自分の部屋の扉を開ける。よし、まだ明かりはついているな。ノックをすればすぐに勝負は始まるだろう。油断した瞬間に必ず負ける。いざ尋常に。
 二回ノックをした。返事がない。もう一度ノックをする。それでも返事がないのでもう一度ノックをしようとすると扉が少し開いた。
「…何。」
 あまりの目つきの悪さに衝撃を受ける。眠さとストレスで相当きているようだ。隙間から見えるパステルカラーとあまりにもミスマッチで苦笑いしか出てこない。しかし、ここで怖気付いてしまえば負けは確定してしまう。
「えーと、あのさ、買ってくる本ってURL来てた一冊だけだよな?」
「うん。」
「他に必要なものとかないか?」
「ない。」
「…逆に俺に渡すべきものとかないか?」
「ない。」
「…そっか。ならいいんだ。」
 扉が閉まった。決着は一瞬だったな。まあ最初から期待なんてしていなかったし、大人しく寝るとしよう。部屋に戻り、スマホを確認するとホーム画面に三件の不在着信がポンと映る。全て涼太からのようだ。掛け直すのは憚られるので、スルーすることにした。明日は二限からだし、割とゆっくり眠ることができるだろう。

 駄目だ、眠れない。一口水を含み心を落ち着かせる。現在の時刻は午前五時。散歩にでも行こうかとジャージを羽織り、スマホをポケットにねじ込んだ。廊下に出るといつの間にか柚葉の部屋の電気が消えていて、眠ったことが分かる。不健康極まりない生活をしているアイツのことは正直かなり心配している。喧嘩もするが、まあ可愛い妹だ。元気でいてほしいとは思っている。
 外では暗い空が広がり、薄い雲は今にも消えそうだ。車の少ない時間帯は心なしか空気も綺麗な気がしてくる。のんびり歩いていると前からお爺さんが歩いてきた。足が悪いのか杖をつきながらゆっくり進んでいる。
「あの、すみません。」
「え? あ、えと、はい。」
 まさか話しかけられると思っておらず、かなり動揺してしまった。それが顔にも出ていたみたいでお爺さんは申し訳なさそうな表情をする。
「ここら辺に、財布が落ちていませんでしたか?」
「いや、ちょっと見てないですね…。」
「そうですか、ありがとうございます。」
 このまま素通りするのは良心が痛む。暇だし、探すのを手伝うことにした。
 お爺さんの財布はブランド物のようでかなり高いらしい。そんなに良いものを無くすのはさぞかし悲しいだろう。何とかして見つけてあげたい。自販機の辺りを探していると五百円玉が落ちていた。令和三年、比較的新しいもののようだ。警察に届けたところで持ち主は見つからないし、取り敢えず胸ポケットにしまう。あとで募金箱にでも入れれば良いや。
 少し離れたところまで歩いてみると、黒ずんだゴミのようなものが落ちている。汚いし触りたくなぁと思っていると、どこかに違和感を感じた。もしかして、あれは財布ではないだろうか。少し近づいてみるとボロボロではあるがブランド物の財布であった。できる限り触れる面積を減らしながら親指と人差し指でつまむ。先程の場所へと持っていくとやはりお爺さんのものであった。今気が付いたが、お爺さんの服はかなりくたびれていて至る所が黄ばんでいる。お爺さんは小銭の方にカサカサとした手を突っ込んで三百十円を取り出すと、お礼だと言って差し出した。流石に受け取る気にはなれなかったため、やんわり断ってそのまま別れた。

 スマホで時計を見るともう六時前だった。どおりで明るいはずだ。そろそろ帰ろうかと家の方に体を向けると電話が鳴る。差出人には涼太という文字。いい加減面倒になってきて、ついつい出てしまった。
「もしもし?」
『やっと出たなー!!ずっと無視しやがって!』
 馬鹿みたいにデカい声が頭にジンジン響いてくる。
「知るかよ。金がない時だけ頼ってくる友人なんていらね。」
『そんなこと言うなって。一つだけ頼み聞いてくれ!』
「はあ…なんだよ。」
『さっき、めちゃめちゃ効率の良い仕事見つけたんだよ! 一攫千金狙える大チャンス! それでな、一人だと大変だから手伝って欲しいんだ。』
「…。」
『あれ、おーい聞こえてるか?』
 涼太は相変わらずアホのようだ。こんなにもチョロいとアイツの将来が本格的に不安になってくる。関わってしまったからには仕方がない。最後まで面倒を見てやるとしよう。

 涼太の家へ向かう途中でコンビニに寄った。小腹を満たそうとおにぎりコーナーを覗くと、新商品と書かれたわさびマヨおにぎりが俺の心を鷲掴む。わさびマヨと、隣の鮭おにぎりを掴み、ついでにアメリカンドッグを頼んだ。ディスプレイには【498円】という文字が浮かび上がり、おにぎりたちは袋に詰められた。俺は左右のポケットに手を突っ込んだが財布がどちらにも入ってない。そういえば、スマホ以外は置いてきたのだった。仕方がないので、胸ポケットに入れておいた五百円玉を取り出し袋を受け取る。手に乗せられたお釣りの二円は募金箱に入れておいた。

20230319@Komagane,Nagano

「Moi Moi!」ほんだ

 いつぶりになるだろうか。

 スナフキンはとある谷を訪れていた。ここは白くふっくらとした妖精や黒い魔物、群れながら特に何をするわけでもなく旅をする謎の生物たちがおり、大きな事件も起きないやわらかな時間の流れる谷なのである。
 スナフキンは透き通った川や趣深い山々、そして心優しい旧友に会えることを楽しみにしていたが、谷は変わり果てていた。たとえ冬であっても谷は眩しいほどの銀世界になるはずであるのに、今は暗い雪景色と枯れた木々、土に還ることもできない花々が埋もれている。スナフキンはそうした灰色の景色を横目に谷の隅々まで歩き回った。誰かを探すわけではなく、懐古するために歩き回った。

 何年も前に、人間という種族の間で大きな戦いが起こったらしい。人間たちの中には野蛮で力が強くて工作好きなやつらがいて、主にそいつらがでかい金属を投げたり人の家を壊したりして喧嘩し合っていた。いつしかそいつらは優しい人間たちを犠牲にして戦いあい、結局その野蛮人も優しい人間もいなくなった。そいつらや危ない金属とかから隠れ延びたやつらは皆でご飯を分け合ったりして細々と生きている。
 ぼくはその戦いがある程度収まってから人間に初めて会った。ぼく達のような妖精に似てるようだが背は高いしとても騒々しい。しかも持ち物がやたらと多い奴だ。でもぼくが出会ったその人間は話が好きで、この戦いの話も聞かせてくれた。

「僕達はその戦争から逃げてきた人たちが寄り集まっていい暮らしができるように協力しあっているんだ。このへんはあったかくておいしい食べ物もあってなによりアクセスがいいんだ。歴史のことは少ししか知らないけど、結構重宝された国らしいね。」
 スープを飲みながら人間が語ってくれた。髪は短くふわふわな金髪。やさしい翡翠の目。
「君たちはこれからもここで生きてくのかい? それとも旅をするのかい?」
 このスープはパタタという芋が入っていて、なんだかとろみを感じて美味しい。
「そうだね、それもいいかもね。僕は色んな土地に行くのが好きだし。旧世界の都市部には人がいるらしいし。」
「じゃあぼくと一緒に。」
「残念だけどお断りする。僕はこの人たちと支え合って生きていくって約束したし。それに…。」
「それに?」
「もう長くない命だ。衰えてそのうち死ぬさ。」

 彼は微笑んだ。刻まれたしわが上下した。

 ぼくはその大きな戦いが起こっていた頃も旅をしていたが、いくつか不思議な体験をした。さっきまで足元は優しい匂いのする花畑だったのに、ふと気づいたら赤い飛沫に濡れた土になっていたり、誰もいない静かな草原に横たわっていたら、甲高い叫び声や戸惑う人の声が聞こえたりした。そんなことが増え、旅にぴったりだったのどかな世界はなくなりいつからか淀んだ世界が広がっていた。もうあたたかな風も浴びられず、美味しい川の水も飲めないと嘆きながら誰かに、何かに会おうと旅を続けていたのだ。
 そして人間たちが減り始めたころはぼくの精神がおかしくなったり、記憶が欠けたりした。ふとこの崖から飛び降りたらどんなかんじだろうとか、なぜ旅をしているんだろうとか、急な不安に駆られて荷物をたくさん用意してみたりとかした。ぼくはその話好きの人間に会うまで、自分の体すら思い通りに動かないぐらい憔悴していた。
 でもこの人間に会って、さらに何人かの仲間と話をするようになると前みたいな自分に戻れた。どうやらそれまでのぼくは話し相手を欲していたらしい。それほどぼくが寂しがり屋とは思いもしなかったから、びっくりした。ぼくは出会った人間たちと一緒に歌を歌ったり変な踊りをしたりおとぎ話やいままでの歴史について何日も話した。そのうちぼくはあの懐かしい谷やその周りに帰りたくなった。父や姉、愛おしい友達に会いたくなった。だから心優しい人間たちに別れを告げた。また絶対会おうと約束した。ふだんの自分ならあまり言わないことなので恥ずかしかった。でもなぜか口から出てしまったんだ。

 長い長い帰路を辿って谷の近くに来てから異変に気づいていた。いやずっと前から、意味もない旅の途中から気づいていた。やはり谷には何もなかった。いつも穏やかな気候だったのに今や雪がびょおびょおと吹き荒れ、木もなく、ただの白く広い世界しかなかった。何もないというのは誇張かもしれない。しかしかつて山があったあたりは小高い丘に、白く小さな友の家があった場所はなだらかな雪丘になっている。一寸先が雪の世界の中、ぼくはなんだか周りを取り囲む白の中に吸い込まれているような気持ちになった。

 しばらく気晴らしするわけでもなくただただ歩き回ってみた。見知った顔も、見知らぬ顔も、誰も見つからなかった。というより谷には見慣れない家や小屋の残骸らしきものがいくつかあった。いかにも人間たちが持ってそうなものが転がっていた。谷の外にも行ってみた。外には自分の親戚や不思議な怪物、別の妖精たちの住む谷もある。しかし辿り着くと誰もおらず、やはり吹雪いている雪原が広がっていた。それからしばらく雪を掘ったり高い丘や木に登ってみたりしても何も見つからなかった。歩き続けていると体が冷えてきた。谷はいつも温暖で、冬が訪れる前になるとあてのない旅に出ていたので寒さには慣れていないのだ。しかし夜になるにつれて吹雪がおさまったので風をしのげそうな丘の近くにテントを張った。
 ハーモニカを吹いてみた。でも表面に金属が使われているから冷たくて上手く吹けない。そのぶん雪が周りの雑音を吸っているのでしばらくするとまっすぐな音が出た。友達や姉が好きな曲を演奏してみたり、人間の歌っていた歌を奏でた。ずっとずっと奏でた。忘れないように。この広い銀世界に僕がいることを証明するために。指先も口元も感覚がなくなるまで。

 見上げると空にオーロラが見えた。みどり、あか、あお、むらさき。とても綺麗だった。目を閉じると懐かしいみんなが見えてくるようだった。
「ああ、君たちの手を取り踊れたらなあ!」

 僕は軽やかな別れを告げた。

20231217@Illusion exhibition,Ito Shizuoka

「四葉のクローバー」桜

「あ、まって!」また同じ夢を見た。いつも目覚める前誰かを追っている。その人はいつもクローバーのペンダントをつけていてとても輝いていた。
 大学四年生五月。みんなの就職が決まる中、私は就職先が決まらず思い悩んでいた。悩んでいる時私はいつも河川敷に行く。草むらに座り、何も考えずに過ごすのが好きだ。そして帰り際に四葉のクローバーを探す。今まで一度も見つかったことはない。夢の中でみるあのクローバーをいつも私は探していた。河川に佇む石ではないので私はファミレスで働いている。ここには大学生が多く、同じ年齢の人も数人いて、みほと仲良くしている。
「みほ、おはよう」
「あかねじゃん、おはよう!」
「昨日は寝れた?」
「いつも通りかなまたあの夢見ちゃった」
「またあの夢見たの? そろそろいいこと起こるといいね」
「ねー」と私はいう。
 そんなこと私が一番思っている。夢に出てくるくらいだから。
「ねえ、みほ」
「何?」なんだか胸騒ぎがした。
「私ね、就職先見つかったんだ!」 
「え、あかね、すごいじゃん。おめでとう!」
 そういうとあかねの元をすぐに去る。このままだと悪魔の微笑みになると分かっていたからだ。その夜また同じ夢を見た。その人はいつもクローバーのペンダントをつけていてとても輝いていた。
 大学四年生七月。私の就職はまだ決まらない。私はやりたかった編集・デザイナーの仕事を諦めかけていた。何も考えたくなくなり河川敷へ行く。五月に比べて雑草は伸びていた。雑草は踏まれたほど強くなるのだ。雑草を踏みつけて川のそばへ行く。いつもは誰もいない河川敷に一人の男が立っていた。二十歳くらいの猫じゃらしのように細い男だった。
「そこで何してるんですか」 
「雑草を踏んでいるんだ」と男はいう。
「なんで雑草を踏むんですか」 
「雑草をふむとストレス発散になるからだよ」私は苛立ちを覚えた。その男はどうやら働いていて嫌なことがあったらしい。
「君はここで何してるの」そう聞かれ、
「四葉のクローバーを探してるんです」と答えた。
「そんなことなら僕も探そう」五分もしないうちに男は私が一度も見つけたことのない四葉のクローバーを見つけた。
「なんだ、意外と早かったね」
「そうですね」そんな会話をし、男と別れた。七月の河川は冷たく流れが早かった。
 その夜また同じ夢を見た。その人はいつもクローバーのペンダントをつけていてとても輝いていた。なのに、今日は私の前からすっといなくなってしまった。「どこいくの」私は声をかけようとしたがそこで目が覚めてしまった。
 大学四年生九月。私は編集・デザイナーの仕事ではなく新しい仕事を見つけようとしていた。とは言っても何をしたらいいのかなんて私にはわからない。バイトへ行っても最近は皆新しい就職のために準備があるらしく友達は来ていない。私は何か決めなくてはと思い、就職サポートセンターへ行くことにした。
「こんにちは先日お電話した諸星です」
「こんにちはどんなご相…」
「え、あのときの」私は本当におどろいて小さな声でそう言った。あの時河川敷にいた男が目の前にいたのだ。昔はあんなに河川敷で雑草を踏んでいたあの男が今、私の相談に乗ろうとしている。
「え、もしかしてあの時の?」
「そうです私今まだ就活中で…」
 そこから私は男と話をした。就職の話、日常生活の話…私は小一時間男と話し続けた。そして決心したように言った。
「私デザイナーに関わる仕事に就きたい」
「僕もその方がいいと思う。自分の夢を追い続けたらいい」
 男と別れ、河川敷に行きたくなった。河川敷には子供達がたくさんいて楽しそうに遊んでいた。河川敷に座ってふと下を見ると今まで一度も見つからなかった四葉のクローバーがあった。
「やっと出会えた…」
 その夜また同じ夢を見た。その人はいつもクローバーのペンダントをつけていてとても輝いていた。今日は声をかけられる気がして手を伸ばすと、あっさりと手が届いた。その人はゆっくりと振り向く。それは今の私だった。

20231119@Atami,Shizuoka

「鉄塔」末松洋祐

 退屈。今日も変わらない日常がやってくる。いつも通り七時に目覚ましが鳴り、目を覚ます。「このまま永久に眠ってしまおうか」という考えが頭をよぎるが、その意思とは反対に、プログラムでもされたかのように起き上がり仕事場へ向かう。かつての同級生の多くは都会へ出ていったそうだが、俺はこの片田舎から出ずに地元の区役所で働いている。はっきりいって退屈だ。同僚はいつもくだらない話を延々と繰り返し続け、上司は俺に命令を下しているだけで、まるで自分に価値があるかのように錯覚している。こんな馬鹿馬鹿しい連中といるといつも吐きそうになる。誰も俺の価値に気づく奴はいないのだと思うと自らの孤高さに悲しくなり、俺は異質な存在であることを思い知る。ただ俺には理解者がいる。こんな退屈な連中とは違う、俺のことを全て理解して受け入れてくれるのだ。
 それは、いつも仕事に向かう途中の道を通ると少し遠くに立っていた。ポツリと一本だけ建つさびれた鉄塔だった。しかしそんな鉄塔は何か妙な魅力を含んでいるように俺の目に映っていた。ある日の帰り道、ふいに寄り道でも…と思い、鉄塔へと立ち寄ってみることにした。いつもまっすぐ向かう道を左へ曲がり、軽い坂道を進んでいくとちょっとした森の入り口が構えていて、木々たちはまるで俺を歓迎するかのようにざわめいていた。そこから中へと数分歩いていくと、少し開けた場所についた。そこは、すすきが生い茂り、銀色の美しい穂がおびただしい数広がり、月明りに照らされきらきらと輝いていた。その中央にあの鉄塔が建っていた。冷たい風にすすきたちがゆらゆらと揺れ動く中、鉄塔は微動だにせず六十メートル位の体で仁王立ちするかのように佇んでいる。この鉄塔は送電するために作られたただの送電用鉄塔で、もうすでに廃鉄塔になっているようだった。その姿は自然の中に一本そびえたつ異質であるにも関わらず、まるで初めからそこに存在していたかのように空へ伸びている。鉄塔はまるで冷たく皆を見下すようで、その様子は気高く、美しく、孤高の一匹狼のような雰囲気をはらんでいた。俺はそんな鉄塔がとても気に入りこの日以来毎日、仕事終わりに会いに行くようになった。いつでもここにくると落ち着く。退屈でくだらない職場とは違い、鉄塔…いや彼は俺のことをどんな時でも理解してくれた。
 今日もいつも通り上司から命令され資料をまとめていた。ふとデスクの上に置かれた鏡を見ると、カタカタとパソコンを打ち込む俺の滑稽な姿が見えた。休憩時間になると俺は誰よりも席を早く立ち上がり、誰も来ない屋上の隅へと向かう。朝、仕事場に来る途中のコンビニで買った、いつもの鮭のおにぎりとホットドッグという組み合わせをむさぼりながら、イヤホンをつけ適当にラジオを流す。ラジオパーソナリティーの女が音楽のコーナーに入ることを告げると、最近流行りの曲が流れてきた。最悪だ。愛がどうたら、友情がなんやらと、聞くに堪えないありきたりな歌詞をつらつらと並べた歌に、俺は嫌気がさしイヤホンをはずした。すると階段を上る複数の足音と、きゃいきゃいと盛り上がる話し声が聞こえてきた。俺はその音を聞き反射的に近くにあった物置に隠れてしまった。
「おっ、久しぶり屋上来たけど誰もいないじゃんラッキー」
「いつも使ってる奴いないだろここ」
「いや、確かあいつ一人で使ってたよな」
「あーえっと名前…」
「佐藤だよ佐藤。さすがに忘れてやるなよ」
「あーそうだそうだ。忘れてたわ」
「それにしてもあいつ変な奴だよなー」
「仕事もそこまでできないくせにいつも、俺は出来るやつなんだみたいな顔してまじでうざいわ」
「そうそう、俺もあいつのこと嫌いだわ。カレンちゃんもそう思わない?」
「そうですよねー。いい年こいてプライドだけ高い感じで…。わたしもちょっと無理ですね~」
 俺は奴らがいなくなるまで、息を押し殺し暗闇の物置の中ただじっと、じっとしていた。 

 仕事が終わり今日もいつものように彼に会いに向かった。十月に入り始め、夏という季節があったことを忘れさせるような冷たい風が吹く中、鉄塔はいつもと変わらず立っていた。彼の前に座り込み、宇宙にまで届いてしまいそうなその姿を眺めた。彼はそんな俺と目を合わせる。俺たちはほんとによく似ている。もっと彼に触れ知り合いたい。今日はいつも以上に、俺は彼のことを深くまで知りたいと心から思った。俺はそう思うと同時に彼に近づいて行った。銀色の穂をつけたススキを必死に掻き分け彼に、彼にもっと近づけるように進んだ。虫たちは俺を後押しするかのように魂の歌を響かせていた。目の前につくと革靴と靴下、スーツをほっぽりだし、シャツのボタンをすべて開け、彼の体に作業で登るためにつけられた垂直のはしごに手をかけ登っていく。手やはだしの足に、秋の冷たい空気で冷えた鉄が触れるのがやけに心地いい。頂点まで登れたならば彼をもっと知り、俺が俺であるための何かが分かるのだろう。希望を抱きながら次々と手と足を交互に動かし、上へと進んでいく。すると見る見るうちに体は小さくなっていき子供のころの体になった。自信がみなぎり、体は軽快に動き、寒さは微塵も感じなかった。なによりも早く上へ上へと行きたいという思いがどんどん強くなっていき、一心不乱に手をかけ、足をかけ、手をかけ、足をかけ登っていった。地上から離れていくが恐怖という感情は全く湧かなかった。それもそのはず、彼は何を求めているのか、俺は何を求めているのか何よりも知りたいのだ。
 はしごを登っていき二〇メートルほどの高さまで来た。止まることなく息を切らしながら登っていると声が聞こえてきた。
「なぜ君はそんなに必死になってこの鉄塔を登っているんだい」
 驚いて声の方向へ振り向くとそこには一匹のカラスがいた。夜の暗闇に溶け込み、まるで隠れるかのようにして、鉄骨の上にとまっていた。俺は登り続けながらこのカラスの質問に答えた。
「俺は彼…この鉄塔のことをよく知りたいんだ。鉄塔はいつも俺を理解してくれた。そう、登りきれたら彼が教えてくれるのさ…何かを」
「アハハハハッ…笑えるな」
 カラスは少し間を開け、続けて話した。
「もう君は分かっているのに分からないふりをしているのさ。君はただ知りたくないだけだろう」
「いや違う。彼は俺のことをすべて理解してくれる。同時に彼と俺は?がり合っているんだ。俺が彼を理解するということは俺を理解することなんだ」
「いや君は理解してくれる人を求め、同時に求められたいと思っているのさ。」
 カラスの言葉に俺はかなり苛立ちを隠せなかった。下にいる世界の奴らと同じだ。普通という枠からはみ出た俺を羨み、必死に落そうとすることしか頭にない連中。何ももっていないから、しょうもない仕事にしがみつき、自分に価値があると信じ込み、そのことだけを全ての基準にして優劣をつけ、自らが上であると思い込んでいるのだ。
「何度も言うようだが、彼こそが俺の最大の理解者であり、俺が彼の理解者なんだ。俺はもう見つけたんだよ。そういうお前はどうなんだ。お前はゴミを漁ることばかりして結局は人間という存在に依存している、所詮薄汚いただの鳥だろう」
 カラスはニヤニヤと笑いながら答える。
「君はもうとっくに気付いてるんだろう。“彼”じゃないよ。鉄塔は物さ、人じゃない。君は必死に理想をこの鉄塔に投影させているのさ。そんなのただの自己満足じゃないか。それに私にとってゴミを漁るということは、単純に必要なことなのさ。君だって同じじゃないか」
 俺は激昂した。四〇メートルほどまで登ってきていた動きを初めて止め、カラスを捕まえ、羽をむしり取り首を絞めた。体から力が抜けて行くのを感じ、カラスは息絶えた。首を絞めていた手を放すとひゅるひゅると下へ落ちていき、地面にびたっと打ちつけられた。俺はまるで鉄人28号にでもなり、無敵のヒーローみたいに敵を薙ぎ払い、衝動を解き放つような気持ちになった。そしてくるりと梯子のほうを向き、まだ上に見える頂点を目指して進み始めた。彼の鉄の骨は美しく格子状に組み合わされ中に夜が詰まっていた。中の夜は外の夜とは違い、水槽の中に入ったもののように特別な夜になっている。彼の中に包まれ、守られるこの場所は、俺にとてつもない安心感を与えた。屋上の片隅なんかではなく、こここそが俺の居場所だったのだ。やはりこの鉄塔こそが私の理解者なんだ。あの下賤なカラスはやはり俺のこの感情を何も理解できていないのだ。
そうこう考えていると、とうとう頂点の目の前に辿り着いた。私は希望に満ち溢れた心を抱き、自らの小さい手で梯子をつかみ頂点に立った。そこからは、俺が昔通っていた学校、俺の住む家、仕事場の区役所なんかが小さくちっぽけなものに見えた。さぞ、気持ちがよく満たされるだろうなどと思っていたが、俺は達成感や優越感といった感情に満たされることはなかった。そう俺は気づいてしまったのだ。これはまるで二コマで終わるギャグ漫画のオチのような単純な話だったのだ。鉄塔と俺はなにも同じではなかった。鉄塔は一本生えてきたのでなく、多くの人が建てるために尽力し、リベットにより鉄骨一本一本が組み合わされることでできていて、長い年月の間風を受け雨を受けながらも働いて多くの人から求められた、それが俺が感じた廃鉄塔の美しさだったのだ。それに対し俺は頂上へと登るだけのことで鉄塔ことを理解出来るなどと思い込み、あまつさえ俺が解らなかった…いや解ろうとしなかったことを頂点に行くことができたなら、鉄塔という名の俺が作り出した理想に近づけるなどと考えていたのだ。悲劇の主人公ですらない、皆に笑われる喜劇の道化師だったのだ。カラスのニヤニヤとしたあの顔が頭にちらつく。あぁ、このまま飛び降りてしまいたい。しかし俺は飛び降りられない、なんたって足が震えて動かないのだ。いつの間にか体は大人に戻り、暗闇の鉄塔の上で一人、あの物置の中のように怯えていた。俺は逃げるようにして必死に足を震わせながら、梯子を下りていった。

 しばらくして鉄塔は解体工事が行われ、取り壊された。もう鉄塔があったという痕跡はなくなってしまい、当たり前の町の一部だったことが嘘であるかのように、皆存在を忘れていった。ただある一人、鉄塔を登ったあの男だけは忘れることはなかった。あの光景、あの匂い、鉄塔に触れた感触、今でもあの男にとって鉄塔は、確かにこの町に立ち続けている。

20220815@Nirayama reverberatory furnace,Izu

「いつも通りのアサガオ」原啓太

 朝いつも通り学校が始まる前に近所の神社に寄った。そこには一本のアサガオが咲いていて、そのアサガオの成長を見るのが毎日の楽しみだ。そしてこの日もいつも通りアサガオを眺めていると、よく知っている元気な声が聞こえてきた。「おはよう!今日も早いな!」と僕の親友、大智が話しかけてきた。それを聞くと僕は一日頑張ろうと思える。「大智!おはよう!」と僕も負けないように元気よく挨拶を返した。そこからはいつもと同じようにアサガオを眺めながら他愛もない会話をしてそれぞれ別の中学校に向かった。彼とは、年齢は同じだが朝のこの時しか会わないし、別に会おうって約束しているわけでもないが自然と僕らの中で神社のアサガオ前は特別な場所になっていた。しかもこのアサガオは一本しか咲いていない。このアサガオに僕は元気をもらっている。
 しかし、なぜ学校も違う僕たちが仲良くなったのかというと、二年前に遡る。

 小学生の僕はサッカー少年だった。あまりうまい方ではなかったがとにかくサッカーが大好きでとにかく練習をした。そのおかげでみるみる力が付き、小学校卒業までエースとしてチームを支えてきた。もちろん中学校でもサッカーを続けるつもりだった。けれど入学してすぐの健康診断で衝撃的なことを言われた。喘息を発症したのだ。もちろん入院になったし、大好きだったサッカーをやめることになった。そして学校に復帰しても体育の授業には参加できずにいた。それをクラスメイトはサボりだと言い、いじめの対象になった。それが我慢の限界に達したある日、僕はこんな身体で産んだあんたらが悪いんだと両親に言い放ち、夜に家を飛び出した。しかし行くあてもなく近所の神社の石階段に腰掛けたら、ふと一本のアサガオが目に入った。そこは砂利道なのにその隙間から一本だけ咲いていたのだ。このアサガオを観たとき、自分と同じだなと思った。一本しか咲いていない孤独なかわいそうなものだなと。しかし、僕にはそれだけではない何かがあると感じ、それに興味を持たずにはいられなかったのだ。心配した両親が僕の事を見つけに来るまでずっとそのアサガオを眺めていた。両親とはあの日以降少し疎遠になってしまった。勢いで言ってしまったことではあるが今でも後悔している。そして、その日の夜もあのアサガオの事が気になりあまりよく眠れず、朝、僕はまたアサガオのところにいた。そして気が付いた。このアサガオは孤独なのではない。過酷な状況でも負けずに戦っている勇敢さがあるのだと気が付いた。それに気づいた時から僕はもうあのアサガオのとりこになり、自分も頑張らないと、という気持ちにもさせてくれた。その時だった。急に後ろから声がした。「俺のアサガオに手を出すな!」びっくりして振り返るとそこには怒りをこらえた少年が立っていた。僕は事情を説明し何とか場を収めて一安心したところで、彼は自分の名前が大智であることを教えてくれた。そしてアサガオが見たくなったらいつでもきていいと言ってくれた。そこからは毎日同じ時間に同じ神社で同じアサガオを見て大智とお話をしてそれから学校に向かう。これが日常になっていき、今に至っている。

 ある日いつも通り神社に行き大智と別れたのち、病院に向かった。今日は定期健診の日だったからだ。でも最近は体の調子もよく、アサガオを見に行っているから早寝早起きの習慣もついてきたから健康であるから大丈夫と確信していた。
 しかし、出てきた結果は残酷だった。再入院。これは僕にとってはいつも通りの日常が壊れることを意味する。失意の中で翌朝このことを大智に打ち明けると、大智は「じゃあ退院するまできれいに保っておいてやるよ」と言った。この言葉に僕はハッとした。そして再びきれいなアサガオを見るために入院することを決意した。様子を見るための入院だったので退院日はわかっていたから大智にそれを伝えてその日にまた神社で会うことを約束して、僕は入院することになった。
 そして待ちに待った退院の日がやってきた。軽く診察を受けた後、異常がないことを確認して僕は病院を後にした。病院を出たのはお昼。そして真っ先に神社に向かった。あそこに行けばまたいつも通りの日常が返ってくる。そう思うと足が軽かった。神社に着くとそこには親友の後ろ姿があった。朝以外で会うのは初めてで少し新鮮な感じがした。声をかけようとしたとき僕は、違和感に気づいた。アサガオが折れてしまっているのだ。僕は顔が真っ青になった。その時、大智が僕に気づき、目が合った瞬間に驚いたような、気まずいような何とも言えない顔をした。そして大智が口にした第一声は「ごめん」だった。僕はこの時に大智がやったんだと確信した。そしてこう言い放った「嘘つき」この言葉を聞いた瞬間に大智は泣き出してしまった。僕は折れたアサガオを手に取って帰路についた。帰りはとても足が重く、失意からなかなか家に着かなかった。あと少しで家につくときすれ違った大学生らしき人の会話が聞こえてきた。「あれって昨日の深夜に神社でキャッチボールしたときお前が暴投したボールが直撃して折れたアサガオじゃね?」振り返ると自分を指さし、会話している。僕は急いで神社に帰った。喘息とか関係ない。僕は勝手な決めつけで親友を傷つけた。謝りたいその一心で走った。しかし、神社に着いた時もう彼の姿はなかった。その日から朝のいつもの時間に謝ろうと毎日通ったが、彼は姿を見せることはなかった。時間帯を変えて夕方に行って石階段に腰掛けたとき跡形もなくなってしまった親友とアサガオのあった場所を見て、またやってしまったとポツリと口に出した。それから、手に持っていた折れているアサガオと夕日を眺めながら僕は二人の小学生の竹馬で遊ぶ声と音を聞くしかなかった。

Morning glory

「マイ・オリジナルブレンド」
栁澤大樹

 昔からコーヒーを嗜むのが趣味だった。母親が言うには物心ついた頃にはブラックを平気な顔で飲んでいたそうだ。好きが高じ、今では自分で豆を買い、その時の気分に合わせて挽いている。
 高校に入学して間もなく、学校近くの行きつけている豆専門店の近くに近年勢力を強めている大手のコーヒーチェーンができた。自分と同じくらいの年頃の女子高生の集団が「新作がものすごく人気みたいだよ!」と言って入っていった。自分は特に興味を抱いたり気になったりはしなかった。そんなものより自分の興味が赴くままに淹れる一杯のほうが美味いだろうと思ってしまう。

 次の日には友人に例のコーヒーチェーンに一緒に行かないかと誘われた。
「なぁ島内。お前コーヒー好きだったよな? 一緒に飲みに行こうぜ」
 話を聞けば彼は自宅の最寄り駅に同店があり、よく行っているとのことだ。しかし、いつも一人だったそうで、知り合いと一緒に気軽に行ける環境が手に入ったことが嬉しかったようだ。
「ああ……行くわ」
 最初は曖昧な返事で断ろうとした。あの店は世間的には物凄く有名だが、自分は全く興味が湧かなかったからだ。しかし、ほんの少し、どんなものか見てみたくなったのである。友人との付き合いの為と自分に言い聞かせながら、友人についていくことにした。

 件の店に入ってまず驚いたのはその場の音の大きさだった。会話する女子高生の声、カップをマドラーでかき混ぜる音、パソコンのキーボードを打つ音。全てが異なる音だが、波長が合っているのか音量が増幅して聞こえる。まるで威嚇されているような気分に陥った。
 その場の雰囲気に圧倒されて呆けていると、友人に自分の手首を掴まれ、そのままやや強引にレジカウンターまで連れられた。
「じゃあ俺アイスコーヒーで! それからフランクフルト」
 友人はそんな風に注文している。ただのアイスコーヒーとは言うが、酸味と苦みはどちらが強いのか? それともバランスが良いのか? 豆の挽き方は細かいのか、それとも粗いのか? コクの深みはどうなのか? 大手の店なだけあって、流石に万人に受けるような工夫はあるのだろうが、我流を極める身としては気になって仕方がない。細かいことが気になってしまうのは自分という人間の性なのだろう。
「ほら、早く頼めよ!」
「じゃ、じゃあ日替わりブレンドってやつでお願いします」
 既に注文を済ませた友人に急かされ、一番こだわりがありそうなものを頼んだ。出来たら席まで店員が運んでくれるというので、友人と向かい合って座る。自分はスマホを横に持ち、ゲームを始めた。特に流行りのものでもないのだが、個人的に面白いと感じているので続けている。
 一方の友人は縦に持ったスマホの画面に映し出されるSNSアプリで、色々と眺めているようだった。彼は情報通なのだがいつもこうして情報を仕入れているようだ。ぼんやりとしていると彼は突然身を乗り出してスマホの画面を見せてきた。液晶の向こうには不自然なまでに肌が白い女性がいた。
「おっ、なぁ島内。見ろよこの子! めっちゃ可愛くね?」
「うん? あぁ分からなくはないけど」
 画面の中の女性は今を時めく人気女優だった。
「あれ? お前この子知らないのか? 今乗りに乗っている女優! 遂に公式アカウント開設かぁ! フォロー、フォロー!」
「いや、見たことはあるよ。『しかばね舞踏会の招待状』に出てただろ」
「何それ? ドラマ? テレビはアニメしか見ないからわかんね」
 確かにそのドラマは人気があったわけではないが、個人的に面白いと思っていた。
 女優は好きだがドラマを知らない彼と、女優は詳しくないがドラマはそれなりに支持していた自分は正反対のように思える。なぜうまくやれているのか不思議でならない。
 適当に時間を潰していると、眼前にコーヒーが運ばれてきた。小さなコーヒーカップからは真っ白な湯気が立ち上り、そこを覗き込むと焦げ茶色の液体が注がれている。においをかいでみたが鼻が詰まっているのか薄く感じられる。
 友人の前にはアイスコーヒーが運ばれた。目線はスマホを向いているのに、ノールックでグラスにコーヒーフレッシュとガムシロップを入れている。通い詰めた末に獲得した妙技なのだろうか。彼はストローで白くなったコーヒーをかき混ぜ、すぐに口に含んだ。
「美味いな! やっぱりここが一番だぜ」
 なんとなく彼に背中を押された気がして、自分も一口含んでみた。口の中に苦い味わいが広がるが、決して口当たりが良いとは言えない。さっぱりしているような、くどいような、微妙な風味が口に残る。不味くはないが、個人的には正直好きじゃない。
「うおっ、ブラックとか大人だなぁ」
「こっちの方が飲みなれているからな」
 自分のコーヒーカップの近くには、コーヒーシュガーとコーヒーフレッシュが置いてあった。自分には必要無いな、と思いカバンに仕舞う。
「どうすかねぇ、先生?」
 淡々とコーヒーを啜る自分を見て、友人が問いを投げかけて来た。
「まぁ、普通だな」
「んだよそれ」
 どこか軽蔑を含んでいるような笑みを浮かべる彼にとって、ここのコーヒーは口に合うようだが、自分の場合はそうではない。全生徒から好かれる教師がいないように、どれほど工夫を凝らしても誰にでも合った味が出来る訳ではない。
「いつ飲んでも変わらない味って落ち着くよなぁ」
 そりゃあチェーンなのだから味が違うと大変だろう。全国に、世界に何店舗あるかは知らないが、割と貴重なコーヒー豆を同じ味ですべての店で提供できるというのは果たしてどのようなカラクリがあるのだろうか。
 このコーヒーチェーンと、ここで出される莫大な数のコーヒーのことを考えると、突然こんな質問が沸き上がってきた。
「飽きたりしないのか?」
「どうかなぁ。いつかは飽きるんじゃない? 知らんけど」
「そっすか」
 自分は何とか本日のブレンドコーヒーを飲み切り、友人はフランクフルトとアイスコーヒーを胃袋に流し込んだ。少し休憩して帰ろうという時、ある名案が思い浮かんだ。これは孔明も褒めてくれるに違いない。

 コーヒーチェーンを出る際、友人に例の提案を持ち掛けてみた。
「なぁ、今度の休みの日に自分の淹れたコーヒーでも飲んでみないか?」
 友人からの返事は無い。おい、無視とはなんだ。呆れて彼の目線の先を見ると、同じく足早に店から出ようとしている右手にスマホ、左手にフラッペを持った女子高生の姿があった。
「可愛いなぁ」
「は?」
 可愛いかと問われれば、否定はできないし、するつもりもない。一言で言い表すならまさしくイマドキの女子高生といった風貌だ。
「やっぱりああいう子が一番だよな! じゃ、島内、俺、あの子ナンパしてくるわ!」
 一目散に女子高生のもとに走って行ってしまいそうなほどそわそわしている友人の肩を掴んで制止した。
「待て待て。我が友よ。その選択はもう少し考えてからでもよくないか?」
「んだよそれ。でもまぁ、いきなり行ったら迷惑か」
 友人は渋々諦めて、漸く自分の話に耳を傾けてくれた。
「で、なんか言おうとしてなかったっけ?」
「ああ」
 自分はもう一度友人に提案のことを話した。すると友人は
「おう、一回飲んでみたいと思ってたんだよな!」と言って快諾してくれた。

 数日後の日曜日、友人が家にやって来た。ひとまず自分の部屋に通す。今日は両親には家を空けてもらっている。
「うひょー、ここが島内の自室か! すげぇ量の漫画とゲームソフト!」
 我が家ではテレビが一台しかなく、その唯一のテレビをいつも両親が就寝する直前まで占拠しているので、自分では使うことができない。そのせいで、近年のサブカルチャーに理解を示さない両親の前で、話題になっているアニメを見たり、テレビにつながなくてはならないハード限定のゲームで遊ぶことができない。
 この漫画とゲームソフトはそんな自分が触れられる数少ないサブカルチャーだ。といっても、漫画はなんとなく店に赴いて面白そうだと思ったものを選び、ゲームは最近流行りのFPSやMMORPGなどは手を出したことこそあれど、苦手だったので諦めた。
 すなわち、この部屋は自分だけの趣味部屋である。
 そんな趣味部屋を友人に物色されても、不思議と嫌な気分にはならなかった。彼は積まれたゲームソフトや巻数順に並んだ漫画を興味津々に手に取っている。それでいい。自分の城に他国の者を招いて自国の文化を知って貰おうとするのは当然のことだ。
「じゃあ、コーヒー淹れてくるから、ゲームとか漫画とか自由にどうぞ」
「ありがとな!」
 友人は自分がリサイクルショップで安く手に入れた中古品の漫画の一巻を手に取りながら礼を述べた。この漫画は店に沢山置いてあったのでお値打ち価格だった。

 数分後、自慢の一杯を部屋に運び込んだ。香り高く、口当たりもさっぱりと仕上げ、味はお茶菓子に合うようにどちらかというと酸味が引き立つようにブレンドしている。
「へぇこれが島内の淹れたコーヒーか! あれ? ミルクと砂糖は?」
「は? たまにはブラックで飲んでみろよ。酸味が強いコーヒーはブラックが定石なんだ。まずは匂いをかいで、それから少しずつ飲んでいくんだよ」
 友人は少し面倒そうな顔をしたが、言った通りの飲み方を実践してくれた。彼が最初の一口を飲む時間は、悠久のようにも感じられる。
 やがて彼の口からカップが離れた。恐る恐る感想を訊いてみる。
「どうだ?」
「うーん、やっぱり苦くてよく分からないわ。俺には飲みなれたあそこのやつのが合ってるわ」
 そう言われた瞬間、自分の中で何か思い鉛のようなものが錬成された気がした。一方の友人は素知らぬ顔で再び漫画を手に取った。
「なぁ、ミルクと砂糖持って来てくれよ」
「は?」一瞬、耳を疑った。
「ミルクと砂糖」
 友人に話を聞いていないと思われたようで、彼は強調して再び要件を告げた。一回で聞き取れているので、耳障りなことこの上ない。
「あ、ああ」
 自分でも驚くほど虚ろな返事だった気がする。キッチンに向かう途中、どこかのドアの縁に足の小指をぶつけたりもしたが、先日コーヒーチェーンに行った際に使わずに持ち帰ったコーヒーシュガーとコーヒーフレッシュを友人に渡すことが出来た。
「サンキューな」
 友人は渡したものを何の躊躇いもなくコーヒーに入れた。自分はぼんやりと眺めていた。

 その後、菓子もつまみつつ友人と暫く遊んだ。そこではいつも通りの友人のままだった。
「じゃあな。今日は楽しかったぜ。またコーヒー飲ませてくれよな」
 友人は思ってもいないであろう言葉も混ぜながら告げ、足早に帰って行った。趣味の防壁に守られた部屋に、牢獄のような静寂が訪れる。何となく落ち着かなくて辺りを見ていると、小さなテーブルの上に乗った二つのコーヒーカップが目に入った。
「片付けないと、か」
 友人のコーヒーカップの中にはベージュに変色した液体が僅かに残っていた。自分のカップの中にはまだ少しコーヒーが残っている。友人のカップを片付けた後に飲んでしまおう。
 友人のカップを手に取ると、中身で熱されていた筈のカップが熱を失っていることに気付いた。

 キッチンにてコーヒーシュガーとコーヒーフレッシュの残骸をゴミ箱に捨て、カップは洗剤を用いて洗い、食洗器の中に入れた。
 部屋に戻り、残っていた自分のコーヒーを一口含む。想像通り、グレープフルーツのような爽やかな味わいが広がった。しかし、酸味の方が強い筈なのに、不思議と苦く感じられる。
「あんまし美味くないな。これは改善の余地アリか?」
 失敗しても次がある。自分の納得のいく味になるまで何度も試すのだ。
「さてと、こっちもさっさと片付けるか」
 手の中にある空のコーヒーカップはまだ微かに熱を持っていた。

20230817@Dazai Osamu Salon,Mitaka

「カメレオン」 小泉舞

 ダンボールが積み重なった廊下を抜け、リビングに着くと図鑑でしか見たことのない生物が私を待ち構えていた。
「え、これってカメレオンだよね? なんでこんなとこにいるの?」
「旦那がこうゆうの好きなのよ。」
 物好きな人だなと思いつつも姉の旦那さんは見るからに独特な雰囲気をしているのでそこまで違和感は抱かなかった。それにしても姉は昔から生き物が得意ではないのに、きっとまた流されたんだろう。今回の引っ越しだって旦那さんの提案だし、二人姉妹で今でも仲の良い姉のことは好きだがいつも人に合わせてばっかりな性格には呆れる。
「あの、それでですね、朱里さんにお願いがあるんですけど、」
 不自然な程に丁寧な話し方から嫌な予感しかしない。
「しばらくこのカメレオン預かってくれないかなぁなんて、引越しが終わって落ち着いたらすぐ迎えに行くから!」
 嫌な予感が見事に的中してしまった。
「いやいやいや無理だよ。第一今就活中で面倒見れないし、それに犬とか猫ならまだしもカメレオンって…。世話の仕方だってわかんないし気持ち悪いしほんとに無理だって。」
「今すぐにって訳じゃないし世話の仕方は全部教えるから! それにだんだん愛着湧いてくるわよ、意外と。」
 いくら見ても可愛いなんて思えそうもないカメレオンが申し訳なさそうにこっちを見てきた。 
 翌日、今度は姉が大量の荷物を持って私の家に訪ねてきた。家にあげると姉は「朱里の家は元々殺風景すぎたからちょうどいいのよ。」などとお気楽なことを言いながら慣れた手つきでゲージの中に枝やライトを設置していった。飼う環境を整えて強行突破するつもりなのだろうと察し、せいぜい一ヶ月くらいだろうし面接のネタにでもなるかもしれないと思い引き受けることにした。こうしてカメレオンとの暮らしが始まった。最初の方は気味悪く感じていたけどコロコロ色を変える様子は何か不思議な現象を見ているようで面白い。全然懐いてくる様子もないがまあ変に懐かれても面倒だし、餌をやったり霧吹きをかけたりするときに少し触るくらいがちょうどいい。
 数日後、エサが尽きたのでホームセンターに買いに出ると、交差点の辺りでズボンのポケットが震えた。画面には一週間ぐらい前に受けた会社の名前が表示されていたので緊張しながら電話のマークをスライドする。
「この度は弊社へのご応募誠にありがとうございました。検討した結果、今回は不採用とさせて頂きます。ご希望に添えず申し訳ございません。」
「かしこまりました。お忙しい中ご連絡ありがとうございます。」
 初めてながらも最終面接までいったし、事前に調べておいた質問ばかりで手応えも悪くなかったので絶対に採用されるだろうと思っていたのに。本命の会社ではないものの不採用という結果に納得がいかずモヤモヤしていたが、取り敢えず目的のホームセンターに入った。コオロギの缶詰を探していると女子高生らしき二人組の無駄に大きい声が聞こえてくる。
「ねえ進路決めた? 私もうダメだ、全然決めらんない。」
「私は法学部にしようかな。咲紀もそうするって言ってたし、結構人気らしいからさ。」
「えー、じゃあ私もそうしよっかな、もうちょっと考えてみるけど。」
 どうやら進路の話をしているらしいが耳を疑った。ふと自分の高校生時代を思い出してみる。少なくともあんな風に友達と同じだからという理由で進路を選んだなんてことはないはずだ。公務員を目指す私はいくつか資格を取るために大学四年間忙しい日々が続き大変なことも多かった。それでも全部自分で決めたことで、今も後悔はない。そうだ、今までやれることはやってきたはずだ。進路も自分で決められないような人たちとは違う。なんとしても本命の会社に合格しなければと思い、私は面接攻略のサイトを片っ端から漁った。
 家に帰って部屋に行くと、ベージュ色の床と同化したカメレオンに気づかず踏みそうになった。いつの間にゲージから出ていたのだろうか。あんなに幻想的に見えた体色の変化も、あの高校生たちのように周りに合わせているだけだと思うと、途端に不快感すら感じる。周りに合わせる習性を持っているなんて情けない生き物だ。今となってはカメレオンが目に入る度にイライラするのでやっぱり引き受けなければよかったなと思う。まあ今更言ってもしょうがないのでなるべく視界に入らないようにして今は面接の準備に集中しよう。
 一週間後の面接当日、私は黒いスーツを身に纏って会場へと向かった。
「次の方お入りください。」
「はい。失礼します。」
 アイロンをかけてピンとしたシャツに引っ張られ背筋が伸びて緊張感を感じたが、不思議と自信があったので期待もしていた。
「それではまず志望動機をお聞かせください。」
「はい。私は父の仕事の関係で幼い頃から引越しが多く、様々な地域で暮らしてきました。その中でも特にこの場所は教育にも力を入れていて魅力的に感じ、住民の皆様と直接関わって少しでもお力になれたらと思いました。」
「次に自己PRをしてください。」
「私の強みは行動力です。公務員になるために日商簿記の資格も取りましたし、積極的に地域の情報について学びました。」
 その後も定型的な質問が続いたので、調べた通りの内容をスラスラと答える。チラっと時計を見ると三十分くらい経っているのでそろそろ終盤だろうか。などと考えていると次の質問が飛んでくる。
「では、あなたはなぜこの仕事でなければならないと考えますか?」
 これもサイトに載っていた質問だ。「より地域と密着性のあるというこの仕事の特徴に魅力を感じ、公共のために自分の能力を活かしたい」と言えばいい。
 なのに、思ったように口が動かない。なぜ公務員を目指そうと思うようになったのか思い返してみる。きっかけは高校の教員に勧められたことで、そこから自分でも調べてみた結果、特に他の仕事も考えていなかったし、将来も安定しそうだから決めただけだった。用意していた答えを言えばいいのは分かっているのにそんなことを考えていると何も言えなくなってしまった。長い間沈黙が続き、結局面接官の方から口を開く。その後二つ程質問をされたが頭が真っ白になって何も入ってこない。面接からの帰り呆然としたまま電車のホームを歩いていると、向かいから歩いてきた人が私の事なんて見えていないかのようにぶつかってきた。
 何日か経って、家にいる時にメールが届いた。
「先日は弊社の面接にお越しいただきありがとうございました。厳正なる選考の結果今回は不採用とさせていただきます。」
 結果は予測していたが、あまりに呆気なく終わってしまったので虚しい気持ちになった。今まで上手くやれていたのに大事な面接の時に自分自身を見失ってしまい、言葉に詰まってしまったことを思い出す。見失う以前に元々自分のことなど分かっていなかったのかもしれない。暫く経っても立ち直ることが出来ずカメレオンの世話をする気にもなれない。気づいたら二週間くらい餌をあげることも忘れ、私と同じようにカメレオンもぐったりとしている。未知の生物のように見えていたカメレオンが急に身近に感じられた。流石に餌ぐらいはやらなくてはと思い、久々にゲージを開けたが何も反応がない。
 ああ、姉になんて言い訳しよう。
 あんなに鮮やかな色をしていたカメレオンが私の手の上で醜い灰色になって死んでいた。

20230723@MOA Museum of Art,Atami

「乾杯」西村凌

 前置きをするとこれは私の恋のお話。でも決定的に違うのはドラマや映画とは違ってとてもつまらなくて醜くて盛り上がりに欠けるの。そして私は不細工で承認欲求の強いかわいそうな生物。でも、私って承認欲求が強いからさ~やっぱり人に聞いて欲しいわけ。だから語るね。

 私には何もない。本当に何もない。才能もなければ夢もなく、人に必要とされるのは本当に都合の良い時だけ。そんな人間だ。
 けれど周りは違った。誰からも認められて人に求められる人をコーラとしよう。友達思いの優しい人を烏龍茶、元気で明るく活発な子をエナドリ、人のためを思って時々厳しくいってくれる人を青汁。色があって味があって羨ましい。ほら、みんな人に求められるんだ。そんな人達が酷く羨ましい。いや、ここでは包み隠さずはっきり言おう。味や色があるお前たちが憎くてたまらない。
 しかし、時々同じ立場になったと思い込んで私に声をかけてくる水達がいる。「〇〇ちゃんも私なんかよりきれいだよ!」「その気持ちわかるよ」と。うるせえ、黙れよ。私はお前たちが一番嫌いだ。「何も持っていませんよ」ぶって私のことを皮肉めかしたり、同じ立場になったつもりで同情してきたり…お前たちには確かに人目を惹きつけるような色はないかもしれない。けれど中身はどうだ。自分をしっかり味見したのか? 鉄の味はしなかったか? 軟水のような柔らかい味はしなかったのか? ほら…結局お前らもそっち側なんだよ。自覚はないかもしれないけど他人から求められるんだ。けれど私は違う。私は誰にも求められずなにも味もせず何にも染まることのない純水だ。私だってそっち側に行きたいさ。そのために私は必死にがんばったよ。ファッション誌を買って自分の骨格に合う服を探してコスメだってたくさん試しておしゃれした。さらに嫌いだったピアノもがんばったよ。でも何も変わらなかった。結局疲れて潰れただけだった。それでもまわりは言うんだ。「がんばれ」って。私はその言葉が絡まった紐の様に絡みついて離れられなくなってしまった。まるで呪いだ。これがちょうど人生のちょうど折り返しくらいの話だ。

 そして、これをきっかけに私は動けなくなってしまった。ベットから起き上がろうとしても体に力が入らない。そして目が完全に覚めると体がスピーカーになった様にあの言葉が聞こえて音圧で潰されそうになる。うるさい…でも消したくても寝る以外に音を消す方法はない。私はがんばったのに世間は認めてくれない。世間という混ざりあった世界に私は混ざることを許されなかった。もちろん頭では世間という大きな主語で否定されているだけで私の考えすぎだってのも分かっていた。でも分かっていたってみんなと違うのは怖い、安心したい。「誰か助けて」私はかすれた声で呟いた。当然そんな言葉は聞こえるはずはない、誰かスピーカーの音下げてよ。そして私は布団の中にうずくまった。
 そんなことを思っているとスピーカーの音に被せるように振動と音が聞こえた。その時スピーカーからの音は少し小さくなった気がした。私は恐る恐る耳元にスマホをかざした。それは後輩からの電話だった。この子は私が昔からずっと気にかけていた子だ。かわいくて優しくみんなから愛される純粋な子だ。そんな私は彼のことが好きだった。けれど私には眩しすぎると思い、感情を奥底に沈めていた。そんな彼がこんな時に私に連絡してくれるなんて…なんて少し期待をしてしまった。でも彼は私がこんな状況なのを知らなかった。なので、心配の連絡ではなくただの雑談だった。期待した私がバカだった。まぁでも気休めにはなると思い彼の話に耳を傾けた。
 ぼーっと彼の話を聞いていると突然ノイズが聞こえた。私は驚いて思わず変な声が出てしまった。ノイズで聞こえなかったのでもう一度後輩に聞いた。しかし、やっぱり変わらずノイズが入って聞こえない。ほかの言葉は聞こえるのに、そのフレーズだけ聞こえなかった。仕方ないので私は前後の話の流れで必死に彼の考えている言葉を考えた。そして遂に一つの結論が浮かんだ。でもその結論はでもそれは私が今一番聞きたくない言葉だった。そして私は彼にもう一度尋ねた。彼は優しいのか、それとも勘違いしているのか分からないが何度も答えてくれた。あぁやっぱり今一番聞きたくない言葉だった。その後のことはあまり覚えていない。気づいたら朝だった。たださっきまでうるさかったスピーカーの音が嘘だったかのように鳴り止んでいる。久しぶりに寝覚めの良い朝だった。今は気分がいい。布団からすぐ出られ何故かスッキリしていた。あぁこれが夢を持った人の気持ちか。これがこっち側の世界か。私は安心した。そしてスマホを握った。

 今は少し肌寒い季節だ。私は白いセーターを着て茶色いコートに手を突っ込み少し震えながらビルについている時計を眺めていた。肩を叩かれて振り返るとそこには無邪気に笑っている彼がいた。昔の私ならその笑顔に見惚れていただろう。けれど今はその笑顔がすごく憎くてたまらない。でもそのおかげで体が少し暖かくなった。今日は彼に白が似合う子に贈るクリスマスプレゼントを選んで欲しいと頼まれて買い物に付き合う日だ。
 そして何も考えずお店を何件か周り、無難なものを選んだ。気が付くともうあたりは暗くなっていた。そのせいで街路樹や街灯に掛かっているイルミネーションが映え始めた。私は彼にもう寒いし私の家にきてプレゼントのラッピングをしようと誘い、家に連れてきた。もちろん両親なんて家にいるわけがない。家の最低限の電気だけをつけ二人で無言で二階へのぼった。家中に階段を上がる音が響きそしてドアの閉じる音が聞こえた。そこからは何があったかは多くは語らない。言えるのは私の夢が叶ったことだ。自分で手に入れた汚い泥水の様な黒い色で彼を汚して私の色を移してまたその移った色で間接的に彼女の白を濁らせて、また彼女が、と連鎖させ世間に染まることだ。これでやっと私は世間に染まることができる。私は自分の色も持てるようになったし、世間に染まることもできた。これでやっと夢が叶ったんだ。私はやっと普通になれる。これでみんなと同じ土俵で話せる。けれど何故か喜ぶことはできなかった。夢が叶ってうれしいはずなのに心に穴が空いた様な虚無感と炭酸の泡の様に自分の意図せずとした怒りがこみあげてくる。その感情に疑問を持った。しかし考えていても仕方ないと思い、手を洗おうと思い洗面台に向かった。外からかすかに聞こえるクリスマスソングにあわせて鼻歌を歌いながら向かった。そしてドアの取っ手をひねった。それは濡れていてひねりにくかった。そしてドアを開けて電気をつけて鏡を見た。そこには綺麗な黒髪で白いセーターの胸元がほのかに赤ワインで染まった女がいた。なんだ私、赤似合うじゃん。

20230808@Yokohama Bayside Marina

「薄皮つぶあんぱん」宇野明信

 すでに俺は、自分が薄皮つぶあんぱんなのか、薄皮つぶあんぱんが自分なのか、判断が付かなくなっていた。既に夜の三時は過ぎているはず。延々と流れてくる薄皮つぶあんぱんを、ひたすら四つつまんでは、ケースに詰めていく。
 薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱんケース。
 薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱんケース。
 薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱんケース。
 薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱんケース。
 薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱん薄皮つぶあんぱんケース。
 俺は、薄皮つぶあんぱんをただ詰めるためだけに呼吸をして、血流を流して、生命維持をしている。四時間もこの作業を続けていると、俺が人間なのかどうかすら分からなくなる。
 周囲の連中も、ブロックチーフも同じような白衣とフードキャップを付けて、工場支給の医療用マスクを着けているので、胸に貼られたひらがなで書かれた名前シールを見なければ、一体誰が誰だか全く分からない。
 そのうち、他の奴らが薄皮クリームパンに見えてきた。自分の手も、アンパンマンの手みたいに薄皮つぶあんぱんに見えてきた。じっとそのあんぱんになった手を見つめる。
「おいって、何度言えばわかるんだ」
 ブロックチーフに肩をつかまれて、ようやく自分が声を掛け続けられていたことに気付いた。チーフは、工場ライン管理室に手を挙げて、ラインを緊急停止させた。
「お前のところだけ、何度もラインが滞ってて、仕事になんねえだろ。何仕事中に、じっと手なんか見つめてるんだよ」
「すみませんでした」俺は機械的に謝る。
 手ごたえのなさに、肩透かしを食らったようにチーフは、再度ライン再開の合図を出して、背中を向けて持ち場に戻っていった。

 夜勤が終わるのは、朝の五時。社員食堂はあるが、もう食欲もないので帰って寝ることにした。谷崎パン戸塚工場から、中古の軽自動車(名前も忘れた)に乗って、バイパス沿いの安アパートに戻り、ストロングゼロダブルレモンを一気飲みして、万年床にもぐりこんだ。

 目が覚めると、もう既に夕方だった。たしか、今日は日曜日だったはずだ。そもそも、夜勤シフト制年中無休工場稼働なので、曜日は関係ないが、出勤する気が全く起きない。とにかく、何かをしようと思って、布団から手の届く位置のちゃぶ台からリモコンを取り、小型のテレビの電源を付けたところ、軽妙なというか、時代遅れな安っぽいBGMと絵柄が映った。
 俺の大嫌いなアニメ「サザヱさん」だ。本当に見ていれば見ているほど、反吐が出てくる。前後の文脈は分からないが、日も沈んでいないうちから退勤した海平が、駅で偶然落ち合ったマスヲと一杯飲みに行くことになったようだ。ふざけるんじゃない。海平は確か、五十四歳という設定だったはずだ。俺の一つ下じゃねえか。お前が持っているものを、俺は一つも持っていない。一時少しは持っていたこともあった。それも、いつの間にか去っていった。てめえらが、そんなのんびりと高度経済成長の旨味を味わっていたのはいったいいつの時代だ。そんな古墳時代みたいな、悠長な時代のくだらねえ、クソ面白くねえアニメを今見させられて何を感じりゃあいいんだよ。
「そもそも、てめえらの高度経済成長なんざ、朝鮮やベトナムで流された血の上に築かれたもんだろうが」俺は、もう声に出してテレビに向って叫んでいた。
 冷静でない頭では、もう筋書きが追えないが(そもそもこのクソアニメに筋書きなんててねぇが)、テレビ画面では、酔っぱらって肩を組み合った二人のクソおやじを玄関であきれつつも優しく迎える、サザヱとフネ子、そして子どもたち、という映像になっていた。

 ぷつん。

 テレビを切る音と同時に、俺の中で何かが切れる音がした。もう、死のう、と思った。俺の人生にはサザヱ一家に全てあるものが、何一つなかった。そして、これからも無いだろう。
 俺はとりあえず、車に乗って遠くに行こうと思った。無意識に国道1号線に乗っていたので、そのまま東名に合流し西に向かった。
 もう、何も考えたくなかった。ポンコツの軽自動車だからベタ踏みでも120キロまでしか出ないが、ひたすら西に向かっていった。もはや、俺の生まれ故郷の群馬とも関係ない。西に向えば、そのうち海に出るから、そこで死ねばいいと漠然と思っただけだった。
 ひたすら山道を走っていたが、沼津を過ぎて夜でも左側に海が広がったのが分かった。
「よし、あの海で死のう」声に出して、自分に言い聞かせるように言った。
 静岡インターチェンジで降りて、何となく海の方面に車を走らせていたら、ふと黄色い看板が目に入ってきた「サウナしきぢ」と書いてある。何かどこかで聞いたことがある。
 そうだ、一時サウナにハマってた時期に読んだサウナの雑誌で、サウナの聖地とかって書かれてたので、覚えてたんだ。こんな場所にあったんだな。そうだな、死ぬ前に禊じゃないけど、体を一回綺麗にして死ぬのも、悪くないかもな。そんな風に思いついて、俺はノンストップで走らせてきた車をしきぢの駐車場に停めた。
 中に入ると、玄関に所狭しと有名人と思しき色紙が張り巡らされている。これが、日本一と言われている聖地なのか。中は、至って普通の銭湯かサウナ屋に過ぎない。むしろ、ここが聖地と知らなければ、中の下の施設と言ってもいいかもしれない。施設そのものは、多分昭和からの建物で、掃除は行き届いているがお世辞にも新しいとは言えない。ロッカーも昔ならではの年季の入ったスチール製だ。
 浴室も、せいぜい学校の教室ぐらいの広さで、右手奥から水風呂、通常の風呂、薬湯で、左手奥から薬草サウナと、フィンランドサウナがあるだけだ。とりあえず、落ち着いて体を洗った。もうこれで、一生風呂に入ることも、体を洗うこともないのかな。この後、もう死ぬんだからな。
 シャンプーをして、目を瞑ると不思議と走馬灯のようにこれまでのことを振り返っていた。昔は良かった。俺は、高校を出てから横濱ドリームランドという遊園地で働いていた。そこでは、着ぐるみもきたし、色んなアトラクションを回して子どもたちを喜ばせる仕事にやりがいを感じていた。俺は誰かに必要とされていたし、女房も子どももいた。でも、浦安にネズミーランドができて、極めつけに八景に水族館ができてからはドリームランドは閑古鳥で、俺の性格も荒んでいった。遊園地の閉園とともに無職になった俺が再就職もせず、しばらく飲んだくれているうちに、俺の周りには誰もいなくなっていた。戸塚の谷崎パン工場に人づてで何とか働かせてもらえるようになったけど、この仕事の俺の代わりはいくらでもいる。きっと、今夜も俺がいないことを、一瞬シフト担当が気付くだけで、いくらでも代わりはいる。俺はもう、流れてくる薄皮つぶあんぱんの一つに過ぎないんだから。

 さて、死ぬ前にサウナに入るとしよう。俺は、右にある「薬草サウナ」という珍しいサウナに冥途の土産のつもりで入った。すると、ドアを開けた瞬間凄まじい熱気にむせ返りそうになった。そもそも、湿度が高すぎてぼんやりとしか前が見えない。数名先客がいたが全員、忍者のように顔をタオルで包み込んでいる。すぐにその理由が分かった。そうでもしない限り、とても耐えられないからだ。そして、漢方薬のようなガチ中華の四川麻婆豆腐の香辛料のような、薬草の良い香りもする。それにしても熱い。上段に腰掛け、先客たちがやっていたようにタオルを忍者のように顔に巻き付ける。温度計を見ると60℃を示しているが、どう考えても体感的には120℃を越えている。おそらく、熱すぎて温度計が壊れていんじゃないだろうか。すぐに、その熱さの理由が分かった、薬草袋の裏からもくもくと蒸気が噴き出ているのだ。熱い、熱い。俺は必死に、呼吸を整え、心拍を落ち着かせて耐えようとした。すると、呼吸が落ち着いてくると何とも言えない心地よさが湧いてきた。
 そして、全身から流れ出る汗。必死で、熱を和らげようと全身をめぐる血液。そう、今俺の体の全ては、この過酷な環境下で全力を尽くして生きようとしている。なんて皮肉なんだ、このまま蒸され死んでも良いはずなのに、不思議とそんな気持ちは湧いてこなかった。精神に逆らって、肉体は全力で生きようとしていたのだ。

 耐えきれず、薬草サウナ室を飛び出た。一気に肺になだれ込む新鮮な空気。生き返った気がする。そして、そのまま向かいの水風呂に向かう。入ってきた時は気が付かなかったが、実に見事な水風呂だった。奥の天井間際から、滔滔と文字通り滝のように水が流れている。脇の説明書きによると完全な湧き水で、更にかけ流しだという。
 その水を、桶で掬い汗を流す。ほぼ、軽い火傷と言ってもいいほど火照っていた肌が一気に冷却される。そして、水風呂に入る。説明書きにあるように完全な富士山の天然水だからだろうか、水に入ったのにピリつく感覚が全くない。温度はしっかり冷やされて13℃ほどなのに、嫌な感じがしない。たまたま、空いている時間帯に入ることができたので、後頭部を水風呂の縁にひっかけて、体を無重力のように浮かせて水に漂ってみた。この感じは何だろう、凄く懐かしい感覚だ。思い出せないけど、ずっと昔に味わったかのような感覚。そうだ、母親の体内の中、羊水の中のような心地よさではないか。そうか、母さんはこの水のように俺を包んで、そして生み出してくれたはずだったんだ。
 俺は、いつの間にか水風呂の中で涙を流していた。顔にかかる水しぶきで、外からは判別ができなかっただろうが、俺は涙を流し続けていた。
 飲んだくれの親父のせいで苦労ばかり掛けて、しまいにグレた俺のせいでもっと苦労かけて、まともな親孝行もできないまま、お袋を一人で死なせてしまった。ごめん、母さん。
 また自然と説明書きに目が行き「飲めます」と書いてある。もちろん、滝の下にあるもう一つの湧出口からである。俺は、すぐさまその水を手ですくって飲んだ。そういえば、パン工場から帰って飲んだストロングゼロ以来何も飲んでなかった。乾いた砂漠に豊かな水がしみこんでいくように、俺の体の隅々まで水が染み込んでいくようだった。
 そして、水風呂から上がり、目の前の白いガーデンチェアに横になった。

 もう、頭の中のどこにも死のうなどという考えは、ほんのかけらも残っていなかった。俺の体はまだまだ、必死で生きようとした。そして、この美しい水は乾ききった俺の体を包み込み、お袋のことさえ思い出させてくれた。もう何も考える必要もなかった。薄皮つぶあんぱんにもこの世の中にわずかでも何かできることがある気がしていた。
 生きよう、と俺は思った。

20210518@Sauna Shikiji,Shizuoka

付録:句集

冬景色あの子が染まるショートケーキ        南奈









春寒し片手離れぬ言い訳に             南奈









花霞はながすみ目立つ火照りは君のせい            愛永









凍晴いてばれや積もる白紙に幕迫る             愛永










帰り道視線の先に猫の恋              とわ









握りしめやぶれた賞状春のらい            とわ









祭りの夜遠く舞い散る宝石や            彩









揚花火咲き散る花よ夢描く             彩









新学期少し早める腕時計              啓太









秋風と腕いっぱいの紙袋              啓太









蝉時雨せみしぐれクシャリと鳴って振り返る          舞









夏の宵静まる音とまわる酔い            舞









出席簿一人眺めて行く春ぞ             弘太郎









花の便り走って飛び出す改札機           弘太郎









熱帯夜歯ぎしりきこゆらりりるれ          栞莉









夢現ゆめうつつ明けの明星みょうじょう一里ほど              栞莉









潮騒の鼻歌うたうカプチーノ            凌









細いうで紅一点の秋模様              凌









夏至過ぎて見つめて暮れるあの雲や         心麗









梅雨空を突き刺し見張るタワマンや         心麗









しんしんと青息吐息細雪あおいきといきささめゆき              まゆり









夜もすがらあまを揺るがす猫の恋           まゆり









街燈がいとうあか身籠みごも海月くらげかな             類









梅天ばいてん日和坊主ひよりぼうずを吊るしけり            類









蝉時雨せみしぐれ追いつく背中も返事なし           実穂









ソーダ水息の詰まる横の顔             実穂









紫陽花あじさいや小さい屋根の下ふたり           洋祐









ふわり浮く体にまとふ夏の泡            洋祐









炎天下鉛削れる筆の端               大樹









陽炎かげろうや朝日差し込む門の先             大樹









梅雨の月机上に照る赤シート            青空









ソーダ水弾け出たのはプラ袋            青空









散桜ちりざくら送れずじまいの手紙かな            魁人









秋の雨倒れたままの写真立て            魁人









手牡丹てぼたんや匂いかすかに帰り道            桜香









夏来たる充電切れの扇風機             桜香









秋高しシャッター通りに鐘一つ           明信









大晦日戸越銀座のマンホール            明信

20230822@Musashi kosugi
20230609@太宰治展示室 三鷹の此の小さい家

あとがき

 私の担当している現代文特講は丸6年となった。こうして毎年最後に、生徒たちに書いてもらった短編小説を活字にして残している本も、これで6冊目となった。

 さすがに、6年目ともなると毎年の年中行事のような感覚になってきていて、年末年始は紅白歌合戦や箱根駅伝を見るような感覚で、この本の編集作業をするものとなっている。
 それにしても、毎年生徒の皆さんの新鮮な(粗削りな)小説にはハッとさせられることが多い。40年以上も生きていると、摂取している物語の数が膨大になっていて、映画やドラマ、漫画も含めるともはや生涯にいくつの物語に接しているのかもう把握もできない。
 これだけ、世の中に「物語」が氾濫しているのに、なぜ湯水のように世の中には「物語」が次々と生まれるのだろうか。それはやはり「湯水」のように人間にとって必要なものだからなのだろう。それが読まれる・読まれないは別としても、物語を「生み出す」喜びを、この授業で少しでも感じ取ってもらえていたら嬉しく思う。
 余談だが、毎年短編小説を私も書いているのだが、今年はアイデアが全く浮かばなかった。なので、実験的に「やさぐれた中年男」の一人称目線で、趣味であるサウナをそのまま描いてみた。別に自殺願望はないのでご安心ください(笑)。しかし、静岡市にある聖地「サウナしきじ」で、「しきじが存在するこの世界には生きる価値がある」と感じたのは全く事実である。
 三島由紀夫が太宰治を「太宰の抱えてるような鬱屈の半分は乾布摩擦と機械体操と規則正しい生活で治るに決まっている」と看破したことを思い出したが、三島もまたその鬱屈からは最終的に逃れられなかったようである。
 三島事件の前日は、楯の会メンバーと六本木のサウナで打ち合わせしていたのに、おかしいなぁ。
 

2023年度 現代文特講 小説集

2024年1月1日 発行 初版

著  者:現代文特講受講者+宇野 明信
発  行:法政二高現代文特講出版

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東京都品川区上大崎 1-5-5 201
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宇野 明信

1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校国語科教諭。

著書
『令和元年度現代文特講小説集』(2019.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2020年度現代文特講小説集』(2020.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2021年度現代文特講小説集』(2021.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2022年度現代文特講小説集』(2022.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
電子書籍『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
https://www.amazon.co.jp/dp/B07LCD2VKD/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1544822221&sr=1-1&keywords=%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%

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