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なぜ阿蘇にここまで魅入られるのか。未だ明確な解答は言語化できていない。
ただ、それは意味の無い作業だと、この日没光に包まれた時は感じていた。
柔らかな血潮のような没光を浴びた噴煙は、まるで炎の舞龍の如く、東の宙へと無限の尾を延ばしていく。
こんな時空では、地球の胎動にバイブレーションする身体の細胞群と無言の対話を続けたい。
その昔、九州は海によって二つに隔てられていた。約三十万年前の海中大爆発によって一つになり、その後、現在の阿蘇カルデラが形成される七万年前までに、数万年間隔で大火砕流噴火を起こしている(大噴火は四回とされている)。
その際生じた火山灰や熔岩による影響は甚大で、九州東北部一帯の直径二百㌔内に、厚い所では一〇〇メートル以上、平均五十メートルもの堆積物をもたらしたと推定されている。このため地下のマグマ溜りは空洞化し、陥没が起こりカルデラが生じ、水がたまってカルデラ湖などが形成されている。
そして、水と四季の変化に富み、毎年多くの観光客の訪れる宮崎県の高千穂峡や熊本県の蘇陽峡・内大臣峡などの一〇〇メートル以上の見事な断崖は、阿蘇の誕生がもたらした火砕流による堆積物を、川が長年月かけて深く侵蝕したものと言われている。
「緑のナイヤガラ」とも形容されるカルデラの壁は、東西の内径十七㌔、南北の内径二十四㌔、周囲一二八㌔のほぼ楕円形で、標高約九〇〇メートル(東側)から六八〇メートル(西側の二重峠)で、その大きさは世界最大級である。
この阿蘇外輪山のほぼ中央には、東から西に向かって根子岳(一四〇八メートル)、高岳(一五九二メートル)、中 岳(一五〇六メートル)、鳥帽子岳(一三三七メートル)、杵島岳(一三二一メートル)などの中央火口丘群が連立し、阿蘇の五岳(その山なみが、仏の眠る姿に似ていることから涅槃像ともいう)と言われている。
気候は高地性で、年平均気温十二℃~十三℃(阿蘇山上九・七℃)、年間降水量は一八〇〇mm~二二〇〇mm(阿蘇山上二七五〇mm)。地質は全地域火山灰土質で、内輪地帯は輝石安山岩、外輪山台地は火山砕屑で覆われており、土壌は阿蘇火山砕流堆積物に由来する黒色火山灰土壌である。
火山特有の地形や緑とともに景観形成の一要素に水があるが、水源を阿蘇に発する主要河川は、菊池川、緑川、筑後川、五ケ瀬川、大野川などの水系が放射状に流れ出ており、阿蘇は"九州の水瓶"となっている。
阿蘇山麓の景観
阿蘇の景観を考察するには、第一に太古の時代から続く火山活動によって造られてきた特異な地質 ・地形などによる景観、第二に特異な造山活動と歴史の中に維持・育成されてきた植物など生きた自然による景観、第三に音・光・色・水など自然の無機的要素と動植物の織りなす生態系の中に、長い年月を経て形成されてきた人間の心理的要因と活動が構築する精神的・文化的景観があることを念頭に置く必要があるだろう。
そんな阿蘇の大自然は、火山学や地質学などの科学者を生み出すだけでなく、いろいろな文学や芸術を生み出す場ともなっている。日本史最大の謎の女性「卑弥呼」を描いた手塚治虫原作・市川崑監督による「火の鳥」をはじめ、「日本誕生」「里見八犬伝」「空の大怪獣ラドン」など多くの映画ロケーションの場として阿蘇が選ばれている。
明治時代の文豪・夏目漱石は、阿蘇山に登ったものの道に迷ってしまい大変な目に遭う。その時に詠んだのが『行けど萩行けど薄(すすき)の原廣し』。また、漂泊の詩人・種田山頭火は『すすきのひかりさえぎるものなし』とも詠んでいる。そんな阿蘇特有の火山地形に寄り添う四五〇〇〇haに及ぶ壮大な草原景観は、阿蘇の魅力の一つであり富士山系の草原等と並ぶ日本を代表するものである。
火山の分布をみれば一目瞭然のことであるが、縄文文化が優勢である東日本と九州南部は活火山の多いエリアである。弥生文化以降、長いあいだ日本列島の中心であった近畿地方およびその周辺は活火山がひとつもないのである。弥生文化は火山と相性が合わないように思われる。そのいちばんの理由は、火山灰の土壌が水田稲作に向いていないことであろう。それとは対照的に、縄文時代の人たちは好んで、火山の周辺を居住地にしていたのである。
ひとつの理由は黒曜石である。鉄や銅が使われるようになるまで、刃物や武器の素材として、最も珍重されたのがこの黒く光る石であった。黒曜石は火山で形成されるガラス状の石で、八ケ岳をはじめとする火山で盛んに採掘されていた。装飾用の「玉」の素材となる美しい石をつくりだすのも火山なのである。もうひとつの理由は水と食糧についてである。火山がつくった大地は、湧き水が豊富で、それは味覚のうえでもすぐれたものであった。阿蘇や八ヶ岳を思い起こすとわかりやすい。火山の大地は光に満ちた広い草原や森をつくるのである。
そこには多くの動物が集まり、狩猟採集の暮らしをしていた縄文、旧石器時代の人たちに、木の実や果実に加えてタンパク質の食糧をもたらしていたのである。縄文文化と火山が結びついていたのは明らかであろう。縄文時代の代表的遺跡である、鹿児島の上野原遺跡は霧島火山群のそばにある。『縄文のビーナス』が発見された長野県茅野市の遺跡は、縄文時代まで激しい火山活動をつづけていた八ケ岳の山麓にあり、三内丸山遺跡のある青森県をはじめとする東北地方も火山と温泉と縄文遺跡の密集地となっていたのである。
阿蘇山は古くから信仰と修行の場であり、昭和九年(一九三四)は国立公園に指定され、九州有数の観光地として認識されてきた。現在、阿蘇山周辺では熊本県や市町村等が主体となって地域資源を世界に発信する動きが加速している。
自然分野では「阿蘇ジオパーク」が平成二一年(二〇〇九)に日本ジオパークネットワークに認定され、その後二〇一四年九月に、世界ジオパークにも登録された。文化分野では「阿蘇火山との共生とその文化的景観」として、また、阿蘇の草原の保全では様々な主体による活動がさかんである。
阿蘇山とそれをとりまくカルデラの地域は、歴史や民俗など文化の蓄積が豊富である。地域に暮らす人々の生業や草地が文化的景観として注目される中で、今後「阿蘇山」をより総合的な視点からとらえる必要があると考えられる。明治二一年(一八八八)には、すでに東洋学芸雑誌に小藤文次郎の「日本ノ火山」という論文が掲載されている。
そんな阿蘇山は、近世まで信仰と修行の場であった。阿蘇山麓から八女郡にかけてのエリアでは山伏による峰入修行が行われ、「阿蘇参り」「御池参り」「彼岸参り」なども盛んだったため、参詣者を目当てに商人達が小屋掛けをしていた光景も多く見受けられていた。
昭和五年(一九三〇)に発行された『阿蘇案内』には、明治維新前の登山者に対する取締について「坊中での一路と登山道路として許されてある外、みだりに他方面より登山を許されなかった。」 とあり、江戸時代末期には坊中が阿蘇山の登山口だったと考えられる。
坊中からの道の途中に番所があり、新しい草履に履き替えて登山したという。他の道から登山したものが、僧侶や山伏に発見された時には、神域仏地を汚すもとして、追い返されることとなっていたが、阿蘇山は神聖なものとして一般に広まっていたため、坊中以外から登山するものはいなかったとされている。
明治期(信仰の山から観光登山へ)
明治期はそれまでの名所の風景にかわって雄大な「自然風景」が発見されたことで知られている。『日本風景論』には、「日本に火山岩の多々なる事」の章で、著者・志賀重昴が阿蘇山を訪れた様子が書かれている。
坊中から中岳に登り、噴火の様子を「信に雄大を極尽す」としている。また、「此の如き火口の絶大なるもの実に全世界一と称す」、「画師、文人、風懐の高士たる者必らず登臨せん哉」と勧めている。
明治三八年(一九〇五)に出版された小島鳥水の『日本山水論』の記述は、『日本風景論』と内容が似ている。阿蘇山は五岳からなり、阿蘇谷、南郷谷に三万七千人が暮らす「蓋し世界一の噴孔」であるとし、日本の名山五三カ所のうち、九州からは阿蘇山、彦山、霧島山、桜島があげられている。
明治中期からは一般向けに阿蘇登山の案内が出版されるようになった。明治三四年 (一九〇一)発行の『熊本案内』には、阿蘇山の説明の中に「阿蘇御池」の項目があり、中岳のところにあった池が明治維新の以前は神聖なものとして近寄れなかったのが、禁制が解けて硫黄の原料の採取が盛んになったと記されている。
阿蘇への登山道を紹介したものに、明治四四年(一九一一)に発行された阿蘇登山案内書『阿蘇火山』がある。熊本市・大分・宮崎・福岡からの阿蘇山上への経路を詳しく紹介している。熊本方面からは、立野経由の三ルート、大分・宮崎・福岡からは一ルートずつが紹介されている。
熊本からの一ルートと大分と福岡からのものは、いずれも坊中を起点としており、この時代も主に坊中が阿蘇の登山口となっていたことがわかる。また、坊中から山上までは約六十六町(約7・2㌔)あり、他の道と比べて距離は長いが、最も登山の容易な道で、女性や子供でも登ることができるとしている。



西厳殿寺・麓坊中
坊中とは、修験道の山伏たちにとって『アジール』といってもいいだろう。古坊中滅亡後、阿蘇が再び修験の地となったのは慶長四(一五九九)年のことである。隈本(熊本)に入府した加藤清正公が、阿蘇山麓の黒川村(現在の阿蘇町黒川)に、阿蘇周辺に散り散りとなっていた宗徒や行者、山伏たちを呼び集めて坊庵を復興させたのである。
これが「麓坊中」もしくは新坊中とよばれる坊庵群である。慶長年間(一五九六~一六一五)、加藤清正に古坊中の再興を命じられた内牧城代・加藤右馬允は、扶持と屋敷を与えることにより古坊中から四散していた僧徒を集めたのである。その核となったのが、比叡山延暦寺の末寺として由緒ある西巌殿寺である。
やがて、八八の建物が阿蘇の山麓に建ち並び、再び栄華を極めるようになったのである。また、阿蘇山上にも本堂、諸堂舎が建てられたのである。しかし、明治の廃仏毀釈令によって、麓坊中にあった建物の多くは廃されてしまい、また、平成十三年(二〇〇一)、西巌殿寺本堂は火災により焼失してしまうのである。
現在では、西巌殿寺に多くの山伏や行者が集まり、「湯立て」や「火渡り」を盛大に繰り広げる観音祭り(四月十三日)に往時を偲ぶことができるのである。
山というものは、見る角度を変えると『別の山』の如くに見えるものだということは、これまでの経験値で分かっていた。
しかし、阿蘇山ほどの巨大な山塊になると、それは『別の山』というよりは、『地球創生のドラマ史』を様々な角度から『ジオラマ化』しているかの如くである。
この写真は、阿蘇山の東山麓にある自治体『高森町』にある、とある高台からの眺望である。正面右手に見えるのが、いわゆる阿蘇山の中心部。そして、その手前に展開している平野部や草原地帯は、外輪山に囲まれた部分なのである。この写真の左手奥に見えるのが外輪山の連なり。さらに、私が立っている場所も、外輪山の斜面である。
これほどの巨大な山塊は、日本広しといえども、阿蘇山くらいなものではないだろうか。興味のある方は、グーグルアースにて、上空からの俯瞰図で確認してほしい。九州の『へそ部分』に、ほんとうに『巨大な円形のへそ=阿蘇』ができているのである。
今まで、頂上付近まで車でアプローチできる山として、『登山対象』としては見てこなかったので、関心度は正直言って低かった。このことには、猛省している。しかし、昨今は『地球創生』『山岳修験道』『生物多様性』『神話と伝説』などの視点から、この阿蘇山を深堀りしていると、とてつもなく『奥が深い』のである。
これまでは、『縄文文化の信州と東北』、『渡来系文化の畿内』『弥生文化の九州』という視点を軸としていた。しかし、阿蘇山周縁から霧島連山あたりは、やはり『地球創生』、『火山活動と神話』などというアングルでも深堀りしていきたいものである。
熊本県阿蘇郡南小国(みなみおぐに)町の森の奥に「押戸石(押戸ノ石、おしとのいし、おしどいし)の丘」と呼ばれる小高い山がある(標高八百四十五メートル)。この丘の頂上付近には巨石群がある。
最大の石は「太陽石」と呼ばれ、周囲が約十五メートルである。巨石の配置は直線状に並ぶなど大変美しい。
この丘は、巨石群を含めて阿蘇の火山活動が遺した自然の造形である。どの大岩にも無数の亀裂模様や落雷痕、浸食痕が見られる。
あまり知られていないが、ここは実写版映画『進撃の巨人』のロケ地にもなっている。大小の石群「押戸石の丘」は、古代人が祈りを捧げる場所だったといわれている。
ピラミッドの形をした「巨岩石」のほか、シュメール文字が刻まれた「鏡石」、日時計の役割をしていたとされる「はさみ石」など、人工的に配置された九組の列石遺構がある。
普光寺の境内に彫られた磨崖仏は、高さが八メートルとも十一メートルとも言われ、国東半島の熊野磨崖仏とともに日本最大級の磨崖仏である。
豊後大野の多くの磨崖仏が約九万年前の阿蘇火山の四回目の火砕流でできた溶結凝灰岩に彫られているのに対し、この磨崖仏は約十二万年前の三回目の火砕流の溶結凝灰岩に彫られている。
凝灰岩の垂直大壁一面に火焔を描き、その下に大きな両眼をむき出し右手に剣を握り左右に二童子、(向かって左が制多迦童子、右が矜羯羅童子)を従え、結跏跌座した不動明王像が中肉彫にしている。
表情は大らかさに溢れ、微笑ましくも無邪気という感じがして、見飽くことがないのである。鎌倉時代の作と伝えられている。
大分県臼杵市にある石仏群は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われているが、その目的などの詳細は不明である。
大分県から熊本県にかけてに残る摩崖仏や石仏群の多くは、阿蘇山の噴火時に発生した火砕流でできた溶結凝灰岩に彫られて入る。
『阿蘇噴火による土壌への影響』が各地でスペクタクルな景観となって現代まで残されているのである。
稲積水中鍾乳洞は三億年前の古生代に形成され、三十万年前の阿蘇火山大噴火により水没し現在の形を形成している。
洞内には水中鍾乳石や珊瑚石、ベルホール、ヘリクタイトなどが数多く見られる世界的にも珍しい水中鍾乳洞となっている。
幅百二十メートル、高さ二十メートル。田園に囲まれた平地に突如滝が現れるのが特徴で、「東洋のナイアガラ」と称えられることもある。
滝はAso-4溶結凝灰岩が崩落してできたもので、崖面には柱状節理を見ることができる。
阿蘇山が約九万年前に噴火した際に谷を埋めた火砕流が冷え固まった後に再び水が流れ始め、浸食で形成された。次に述べる「沈堕の滝」も同じ形成過程である。
沈堕の滝は室町時代の水墨画の大家・雪舟の描いた「鎮田瀑図」のモデルとしても有名である。おおいた豊後大野ジオパークのジオサイトの一つで、国登録記念物でもある。大野川の本流にかかる雄滝と、支流の平井川にかかる雌滝からなり、雄滝は幅約百メートル、高さは約二十メートルある。その姿はまるで滝が二段重ねになっているような、とても不思議な情景を表出し、撮影スポットとしても人気がる。
明治時代に建てられ、近代文化遺産に認定されている石造の沈堕発電所も、沈堕の滝に隣接している。
落差約十メートル、幅約二十メートルの滝で、お茶のCMのロケ地にもなった人気スポットである。
阿蘇のカルデラをつくった約九万年前の巨大噴火でできたとされ、カーテンのように幅広く流れ落ちるさまがとても優雅である。
川のほとりで滝を間近に見ることができ、滝の裏側にも回ることができ、マイナスイオンを全身で浴びることが出来る。
環境省の名水百選にも選ばれた水源で、恒温十三・五℃、毎分三十トンという豊富な湧水を誇っている。
一帯は、樹齢二百年以上ともいわれる巨木や樹木に囲まれており、とても神秘的な雰囲気である。
湧水池の中央には、伝説の神である 〝水神様”〟も祀られている。
2023年11月27日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。