回民蜂起は同治回乱とも呼ばれて、西洋の歴史には東干戦争と称された。
この事件には、清王朝末期の回民族と漢民族が殺し合うによって2000万人も虐殺されたと言われた。元々豊かな地域は十数年の戦乱の中に人相食の地獄図に化して、千里の一望は人気が無く、白い骨と黄砂だけになった。
回漢の民族間の殺し合いは限りない血なまぐさいから、又は、左宗棠の虐殺はあまりにも残酷し過ぎるかもしれませんから、この血の嵐のような黒い歴史は中国近代の百年近く間に封印された、誰も口にしなくなった。
中国百年の近代史において、ひた隠しに隠すこの事件は一体どのような事件でしょうか?本書はこの事件を解析し、前事を忘れざるは、後事の師なりの意味を込めて、上梓させた。
今日は明日の歴史になる、真実と向け合えば、より真理に近づいていく。
歴史を学ぶ、よりいい道を歩むために。
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この本はタチヨミ版です。
回民蜂起の解析
作者 塩的知恵
第一部 回族の前世今生
一.前期:
胡人――唐以前西域商人の世界貿易
二.中期:
アラブ商人――アラブ商人の全盛期
三.后期:
色目人――蒙古帝国に重用された色目人
四.胡人の中国区に対する影響
五.回族の起源
第二部.回漢対立の渊源
一.財務大臣たる色目人アフマドの影響力
二.回民同化政策の開始
三.明清時代に迫害を受けた回族
四.ムスリムが改宗に迫られた開始.
五.漢回対立の直接原因
1、羊頭会: 地回りの虐め
2、回民の土地所有権取得の苦境
3、文化宗教の衝突
4、商業利益の争い
5、地元活動の分歧:観劇に関する衝突
6、衝突のエスカレート:集団の武力械闘
7、自治体衝突解決システムの欠陥
8、聖山竹刈り事件に関するデマ
9、中華思想の害毒
第三部.西北と中亜地区を影響する他の要素
1.チンギス統原理
2.黄金の氏族とイスラム教の深い渊源
3.ロシアの南下政策
4.英露の中央アジアにおけるチキンレース
第四部.火薬桶の爆発
一.張格爾(ホージャ一族后裔)の乱
二.雲南杜文秀の乱
三.陝甘回民蜂起
1.発生の背景
2.導火線:聖山竹刈り事件
3.回漢虐殺の拡大:陝甘回乱の開始
4.洗回政策:政府の鎮圧
5.影響と余波
四.ヤクブ・ベクの乱
結束語
回民蜂起の解析
作者 塩的知恵
“同治回民蜂起”は同治回乱とも称され、1861年開始した清王朝同治帝の時に起きた回民族の一連の反乱をいう。事件の中に回民族と漢民族が殺し合うによって2000万人虐殺された、中国近代百年の近代史において、ひた隠しに隠す事件に成っている。血まみれの過ぎた鎮圧或いは回漢の間に起きた虐殺の惨烈さから見れば、現代漢人政権に強調された”中華民族大団結”とか”五族共和”とかの看板とあまりにも乖離し過ぎた原因で封印されたと思われた、1989年天安門事件の如く遮蔽されるように。しかしこれは逃げたくても逃げられない節である。何故なら、近代ないし今中国新疆地区に終わりない騒乱の発生は、まさしくこの160年前の同治回民蜂起(中国には陜甘回乱と呼ばれた.以下回民蜂起と称する)を代表する回漢の民族間の争いの歴史の継続である。同治蜂起を代表する現代中国における持続な民族滅絶と浄化政策は中国社会共同体の建造の困難さを見証した、“大一統”という独裁のために異民族の自由と文化を剝奪し、同化ないし浄化政策の推進が時代錯誤の反人類行為であることは明らかである。民族自决を尊重することこそ異民族と共存する基礎である。本書は同治回民蜂起の原因と結果等に対して解析を行い、歴史を鑑みる上に、各民族の共存共栄の道を摸索してほしい。前事を忘れざるは、後事の師なりの意にある。
秦漢から開始した“編戸斉民”政策は今日までずっと持続されている。歴代の王朝は民衆を土地に縛り付けた上に農耕を中心とする独裁社会を作り上げ、中国社会商業の発展を極度に限制された。紀元前19世紀から西方の人々が西域に殖民地活動を行って始めた、これにより中国の商業及び中西方の文化.技術等の交流にとって重要な役割を果たしている。これらのトハラ人、胡人、アラブ人、色目人等異族の白人達が時には殖民の目的で侵入したり時には貿易だけ行い平和な隣人となったり、彼らが中国の漢民族の文化.技術.生活に巨大な影響を与えた、その影響の広さとした結果の一つは、これらの人々が当地人と混血し中国国内の“回族”と呼ばれた新しい民族の誕生である。本書は19世紀清王朝末期に発生した回族の叛乱(中国の史書には同治陜甘回乱と呼ばれた)の詳細を解析する。日本史書には清王朝末期に発生した数回の回族民衆の蜂起を回民蜂起と称された、本書は便宜のために以下回民蜂起と統一に称する。
回族を言う前に回族の形成の原因を了解しなければならない、これも中国と西域の胡人の縁故を述べる必要がある。
第一部 回族の前世今生
秦漢以来に独裁統治を維持するために、歴代の王朝はみんな“編戸斉民”の政策を実行していた、即ち戸籍制度を設け、それと納税と軍役と労役などと連動し、住民は勝手に住居地から離れることができない制度です。例え有名な鋻真和尚が日本へ6回渡海したがすべて政府の許可がないまま不法渡海となった。三藏法師も経を取得するためにインドに行くことも朝廷の特許が必要となった。但し農耕社会にも異なる地域と産品とか文化とか技術等の交流が必要としている。この交流の空白を補うのは西域の胡人達の貿易活動である。西方の胡人の中国に対する貿易活動は主に三つ時期を分けられている:
一.前期:胡人――唐以前の西域商人の世界貿易
西域とは古代中国において玉門関と陽関を西方との境界としていた。西域を明確に初めて記録したのは、『史記』の「大宛傳」である。当時の西域は大体中央アジアを意味する、時にもインド次大陸と西アジアを指している。進んで西域諸国は更にパミール高原を境目にして東西の両部分を分けていた。まず現在の新疆ウイグル自治区のトルファン盆地、(伊吾・高昌・車師前部等)、ジュンガリア盆地(車師後部等)、タリム盆地(焉耆・亀茲・于闐・莎車・疏勒・楼蘭等)、イリ地域(烏孫)諸国、中央アジア、粟特(ソグディアナ)、トハラ(大宛・康居・大月氏・大夏・昭武九姓)等諸国に含まれていた。
中国史書には、最初ペルシャとイラン系の西方異民族を胡人と称している。この中に主に西域の人々を指す、特に粟特人の商人が普段”胡人”と呼ばれた。
1980年楼蘭鉄板河遺跡に楼蘭美女と呼ばれたミイラは発掘れた。これは中国に発見された最古のミイラでもあった。紀元前19世紀のミイラで、今まで約4000歳に経ったにもかかわらず、これほど美しいは驚かされた。このミイラは北欧女性の容貌をしている。鷹の羽毛の飾りをした白いフェルト帽子を被っている、凹んでいる眼窩の周りに濃密なマスカラも残存されていた。白色人種と思われた「楼蘭美女」が身長157cmで、死亡時の年齢は45歳だと推定された。南ロシアから南下したコーカソイドだと推測されたが、髪の毛は黄褐色である。
DNA鑑定結果はコーカソイド(白人)で、蒙古人種の血縁を混じり合っていた、ユーラシア大陸の最早期の混血かもしれません。これは3800年前に現在の中国新疆ウイグル地区に白人が住んでいたことを証明された。新疆地区に白人人種が出現されたこと、しかもヨーロッパ系人種の結果に対して、中国政府はこのDNA検査結果に対して不満を表した。世界中の博物館は展示の要求があるにもかかわらず、中国は声明を発表し、欧州に展示中の「楼蘭美女」を返還するように要求した。中国の返還を要求する理由は、現在に統治しているウイグル地区を漢民族の角度から見ているから、以前白人が住んでいるという仰天の事実は自国の捏造された歴史と筋合わなかったからです。2003年に中国西部のタクラマカン砂漠にまだ新たな155体のミイラを発掘された。砂漠だから保存状態は極めて良好である。インド系の人種のミイラがゴロゴロで、2000年前の小麦も残されていた。その中にカスピ海あたりの人、アーリア系民族の3000年前の男性のミイラも、皮膚や髪の毛が残っている。
楼蘭美女ミイラ及び小河ミイラ群の発見は、現代中央アジア人は殆ど白人とアジア人の混血であり、白人が先に中央アジアに到達し、東アジアと中国地域に繰り返す進出するまたは植民するという事実を証明した。
公元前6世紀以降、西域即ち中央アジア地域にアケメネス王朝に属する州マルグ省がある。現在のトルギスタン、アフガニスタン北部等を含むバクトリア・マルギアナ複合文明体によって、アケメネス王朝の時に、ペルシャ文明に対して雄大な影響を引き起こした拝火教はバクトリアで誕生し、西域を通じて中国に伝えたことを示している。
キュロス二世(在位:紀元前559年~紀元前529年)とダレイオス一世(在位:紀元前522年~紀元前486年)の征服活動により、西アジアはエジプトからアナトリア半島、中央アジアを自国の版図に収めた。中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置している、サマルカンドを中心としている都市ザラフシャン川流域の場所、古代の名前はSogdianaと呼ばれていた、ここはバクトリアの北部、ホラズムの東、康居の南東の場所に位置している、現在ウズベキスタンのサマルカンド州、タジキスタンのソグド州に相当している。これらイラン語系の言葉を話している民族はソグド(sogd)人と呼ばれされた、中国の史書には“粟特”(sogdの音訳)と記載された。
これらソグドの起源は初めて騎馬戦を使用した民族スキタイ人に辿り着ける。
紀元前7世紀スキタイ人がコーカサス山脈を越え、キンメリア人と一緒に西アジアを頻繁に襲撃していた。紀元前8世紀スキタイ人はキンメリア人の替わりに草原を支配する勢力になった。この地区の政治の発展に重要な役割を果たしている。西アジアからメディア王国人に追い出されたスキタイ人がポントス・カスピ海草原から退けてから、その後、東側に住んでいたイラン系のサルマタイ人が彼らにだんだん征服された。中世紀前期になった時期に、スキタイ人が初期のスラヴ人にほとんど同化されていた。スキタイ人がギリシャ、ペルシャ、インド、中国と広大な貿易網を結んでいた、シルクロードの中に重要な役割を果たしている。その中定住した金属加工職人がスキタイ人の携帯用のアクセサリーを制作していた故に、金属加工の歴史を作り上げた。パミール東側即ちタリム盆地に住んでいるソグド人等人種の諸国は西域36国と称される。
シルクロードを生存の舞台としている西域36国は、両漢時期に全盛期に到達していた。后漢時期に、漢が西域に対する軍事的な影響力は殆ど喪失してしまった、出張機構性質の都護府も廃止と建立の繰り返しになった。シルクロードの興盛は当時ローマ人のシルクに対する愛着と関係している。西方のローマの上流社会はみんな柔らかいシルクを好んでいる。紀元前1世紀にエジプトを占領してから、シルクの貿易通路を求めるために、インドを通過している海上通路が形成し始めた、一部分は今の中国地区に到達していた。シルクの供給が需要に応じて切れないため、シルクの値段が黄金の価格に同じような異常状況に追い込まれたから、初代ローマ皇帝アウグストゥスがすべての絹製衣類の着用を禁止するという命令を出された。
西漢の官僚の桑弘羊が実施した均輸法によって絹の生産量を拡大させた。一時に絹はシルクロードの貿易の中に貿易の代用貨幣の役割を果たしている。
漢王朝時期に絹は一種の通貨とも言える。例えば、西漢時期の文書に農民が穀物と絹で税金を払うことが出来ることを記載された。各州府も絹で日常の各種の支出及び公務員の給料を支払っている。ただ重量で金銀を測るが、絹は絹の長さで測定の単位としていた。
漢は宗主国たる匈奴に皇女または後宮美女を献上する時及び每年匈奴に歳貢を奉納する時に、大量な絹、酒、米等を献上された。実質上に当時の漢帝国は匈奴の属国に近い存在である。前漢の桑弘羊の経済政策により、絹は金銭財物品の代わりに奉納されたことは増えた。絹の納税は年間500万匹に達している。実質に絹は漢王朝貿易の物品貨幣になっていた。
絹製品以外に、キリスト教、仏教等宗教、金及び宝石等貴金属、火薬、製鉄及び製紙技術、絨毯等毛糸繊維編織物、香辛料、蔬菜、水果、陶器、絵画の技法等広範な物及び文化はシルクロードを通じて、東方と西方に交流された。大量の絹は中央アジアに運ばれた、現地に駐在している漢の兵士の給料と物資調達のために交換物資として使用された。
当時この種類の貿易を行っているのは主にソグド人である。
漢王朝の絹は一種の防衛経費とも言える。絹はソグド人と西域と東方と西方と繋がってさせた。
中国史書には、最初ペルシャとイラン系の西方異民族を胡人と称している。この中に粟特人も含まれている。“胡商”は胡人商人の略称でソグド人に対す一種の称呼である。
この時期のソグド人がシルダリヤ川(中国名は錫尓河)中流の小な游牧国家である康居国を統治している。その西北部には奄蔡国という游牧国家はある。ソグド人が主にこの附近に生活している。
漢王朝は絹を中央アジアに持ち込み、食物等必要な物資と交換した。最初バクトリア王国とパルティア王国(中国では安息と呼称された)は外交手段を通じて、漢からシルクを獲得できる。しかし同時期のソグド人が商業貿易を通して絹の確保しできなかった。
大夏王国時代になると、農業を基盤としたソグド人が遠距離貿易を開始する起源は、中国との接触に関係している(法国史学者Etienne de la Vaissiere著影山悦子訳『ソグド商人の歴史』岩波書店2019年.版)。シルクロード貿易の繁盛に従って、ソグド人がだんだんバクトリア商人の地位をとって代わった。
4世紀以后にソグド人が東方と西方貿易の主役になっている。
ソグド人商人がシルクロードの各地にソグド人の集団または部落を結成している、各地に情報ネットワークを設置した。これによって、ソグド人がシルクロードの主導的な地位に置くことができた。
突厥可汗国は中央アジアを統一してから、ソグド人が触覚をビザンチン帝国の領域に伸ばし、遠距離貿易を開始した。
ハザール汗国は西突厥とビザンチン帝国と繋がる通路に位置している。9世紀と10世紀の貿易の交差点である。ハザール汗国は国内の外国商人の保有した領地を拡大させ、ビザンチン帝国とサーサーン朝の領土に略奪し、利益を獲得している。ビザンチン帝国へ行くソグド商人とホラズム人もこの地域も通過すると推測された。西晋時代の司馬彪が編纂した紀傳体歴史書《漢書》の記載により:敦煌は中国・中央アジア・北アジア・吐蕃を繋がる道に位置している。「華(中国を指す)と戎(中国四方の異民族の蔑称)の交流の一大都市」と敦煌を表現することは妥当でしょう。
ソグドの東に、ソグド人の村落は貿易路に沿って各地に作られた、中国の京城の長安と洛阳に住んでいるソグド人もいる。
裕福の商人が支店とか代理人等貿易網も構築している、しかも活動範囲は中アジア東北部の渤海国までに及ぶと推測された。
草原之路即ちモンゴル高原・カザフステップ・キプチャク草原をつながる広大なユーラシア・ステップの各地に居住しているソグド人がインドと吐蕃にも行って、貿易を行う。主要の活動は中国の豊な物産をこれらの集落に持ち込み売買を行うことである。貿易のために常に移動するソグド人が各商業地域を情報収集の重要場所としている。
回紇(ウイグル)部を中心とする回鶻は、745年は最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼしモンゴル高原の覇者となってから、ソグド人が回鶻人即ちウイグル人と貿易始めた。回鶻汗国のウイグル人がソグド人.漢人等に城の中に居住させ、技術者或いは文書管理類の官僚として登用している。かつてウイグルの首都に発見されたカラバルガスン碑文には、ルーン文字のウイグル語、ソグド語、漢語の三つ言語で刻まれていた。これらの文字はこの地域のこれら技術者と関係があることを意味している。
中国の北方は長期にわたって、突厥等游牧民族の統治と影響を受けている。ソグド人、アラブ人、突厥人等民族の混血も長い間に進行している。燕国皇帝を自称する安禄山はソグド人と突厥の混血である。
フランス歴史学者Etienne de la Vaissi著『ソグド商人の歴史』(原書 Vaissiere. Etienne de La (2002). Histoire des marchands sogdiens. College de France/De Boccard)フランス語版、影山悦子翻訳.岩波書店.2019年)の中に、唐の戸籍記録にソグド商人を記録する時に、商売の場合、国に商業税を支払わなければならない、貿易を行う場合、通行許可証書も必要としている、貿易協議契約書を簽訂する時に、定住した他のソグド人が保証人とする必要もある。商業用契約書は漢文で書かなければならない等を記載していた。ソグド人が駱駝、奴隷、馬を絹と交換していた。唐時代のソグド人が行商の商人をした以外に、馬丁、軍人、官吏、芸人等職業も従事した。
原宗子著『環境から解く古代中国』(大修館書店、2009年)の中、中国の絹の興盛の原因に対して詮釋していた。彼の研究によって、漢代から西方に対して絹の輸出を開始した原因は桑弘羊の財政対策で絹の生産は盛んになったからだ。大量の絹は中央アジアなど地域に運ばれ、現地に駐屯、戦争等をした漢の兵士の給料及び物資調達の手段になった。これらの貿易は殆どソグド人によって行われた。ソグド人にとって絹は商品であるが、当時の中国地区にとって絹は物品貨幣である。南北朝時代に北斉と北周が争いを発生した時、突厥は両国に同盟の加入を求めされた時、見返りは年間10万段の絹を代価として要求された。ソグド人が可汗に対して西方に絹の輸出を提案した、そして許可された。
隋が中国を統一した時に約30年間に突厥が絹の貿易利益を得ていた。
ソグド人が唐の時代に全盛期に達していた、唐と西方の貿易をほぼ独占されている、善戦的なソグド人が遠距離貿易を保護するために形成された武装勢力は唐と連合し唐時代の統治階層において重要な一角を占めている。
720年北庭(西域貿易の中枢)を争奪している突厥軍が味方の撥悉蜜を追撃することを知った唐の玄宗が、突厥第2可汗国の默棘連可汗を進軍する詔を下した。戦争の結果は默棘連可汗が唐の30万征討大軍を打ち負かす。しかし734年默棘連可汗が唐の計略により臣下の梅録啜に暗殺された。間もなく突厥第2可汗国は滅亡した。その後匈奴系の鉄勒部の回鶻汗国に取って代わった。 中西方貿易の中枢である北庭を巡って、突厥が滅亡してから、吐蕃. 回鶻.唐の三国は50年もとだえないで続いた戦争を経って、789年に、吐蕃は白眼突厥、3姓葛禄、沙陀部を連合し、北庭大都護府を占領した。790年最終的に庭州を占領した。しかし、791年又回鶻軍に奪われた。西域の戦乱で、北の貿易は鈍くなった原因で、南の海陸による貿易は勃興していた。即ちアラブ商人の崛起である。
唐の末期の“安史の乱”の後に各地に割拠した節度使の半分以上はソグド出身のソグド人である。唐王朝の滅亡と共に、ソグド人もだんだん中国の政治舞台から姿を消した。
しかし12世紀までにソグド人が依然として北方のシルクロードを主導していた、後に頭角を現れた主に海上貿易を行ったアラブ商人と一緒に東方と西方貿易の主要な押し手となった。
二.中期—アラブ商人――アラブ商人の全盛期
1.アラブ商人の世界貿易
狭義から言えば中国回族の誕生はアラブ人の世界貿易から起源している。
イスラム教の信者はムスリムと呼ばれた。その中に商業または貿易を従事する人がアラブ商人と呼ばれた。7世紀のウマイヤ朝において、帝国の拡大と貨幣経済の発展時期にもなった。陸地には中央アジア、アフリカを通して、海上にはアラブ海から到東南亜.中国までに貿易活動を拡大された。10~16世紀にアラブ商人が東方と西方の技術、文化交流の主役を担っている、商業と文化の使者である。
イスラムの古代東方世界に対する征服はアラブ人の世界貿易の範囲を拡大させた。
戦斗的な預言者と言われたマホメットが「神の道へ移る、神の道に戦う」こそ、真の信者であると考えている。彼が亡くなってから一部の同盟者が離脱していたが、これらの裏切り者を鎮圧するために遠征隊を派遣した、これによって大征服運動は開始した。彼の派遣はカリフの『命令』ではない、ただ呼びかける方式で進行している。しかしこの種の呼びかけは聖戦を鼓舞する同時に、極上の戦利品も獲得できることも示唆している。632年モハメドの死後に、その政教合一の後継者カリフの指揮の下に大規模な征服活動を開始した。初代カリフアブー・バクル[在位632-34]の偉大さは、[イスラム暦以前]の蒙昧時代のような略奪行為の結果ではない、「神の路のために戦う故に獲得できた意義を持っていた」だと認められた。その後の聖戦は略奪と区別できない。イスラム勢力は1个世紀にも経たないうちに、西からヨーロッパの一部分(イベリア半島、シチリア、サルデーニャ等)、アフリカの地中海沿岸、インド大陸の一部を占めている。従って、サーサーン朝のペルシャは滅亡されてから、ビザンチン帝国はシリアから撤退するしかなかった。これによって4000年にも生き延びた古代東方世界が終焉を迎えた。このように初代カリフアブー・バクルが空前絶後の世界帝国を作り上げた。
最後の正統カリフたる第4代カリフアリー(在位656-611)が暗殺されてから、モハメドと同じクライシュ族出身の第3代カリフであるウスマーン・イブン・アッファーン(在位644-656)も反乱兵士に殺された。征服地の統治を担ったムアーウィヤ一世(在位661-680)がウマイヤ朝を築いた。彼が649年にキプロスを征服した、655年小アジアの南西的リュキア沖(フィニケ沖)に行っていた「帆柱の戦い」に、アラブ海軍が500隻戦艦を持つビザンチン艦隊に壊滅な打撃に与えた。今回の勝利はイスラム勢力の真の地中海へ本格進出の契机になった。
当時の海戦に、提督、艦長、海兵がみんなアラブ人であり、船員と水夫手がシリア系のアラブ人、ギリシャ人(エジプトのキリスト信者のコプト人)が担当していた。その後にウマイヤ朝(唐書に大食と称された)の勢力は在7世紀後半期にアルワード島、クレタ島、ロードス島に突進した、8世紀前半期にイベリア半島、南フランス、シチリア、サルデーニャ王国等地域に侵入した。このように、強健な軍事的実力を頼って、アラブ海軍が西地中海の制海権を獲得した。しかし東地中海の制海権はまだビザンチン海軍の手によって掌握されている。この点に関して、イスラム史学家の家島彦一が「ビザンチン帝国方面の反撃も非常に激しい、アラブムスリム艦隊による首都への包囲を解除しただけでなく、還対キプロス、シリア海岸、ナイル川デルタの要塞地区にも攻撃を行っていた。……キプロスをめぐって展開した両軍の攻防戦は、ウマイヤ朝の全部時期にわたった、最終的に747~748年のキプロス海戦の時に、アラブイスラム艦隊は漸く撃退された」(家島彦一著『イスラム世界の成立と国際商業―国際商業ネットワークの変動を中心に』(岩波書店「世界歴史叢書」1991年))。8世紀末までに即ちウマイヤ朝の末期までに、東地中海の制海権は依然としてビザンチン帝国に保持されたと判った。「ウマイヤ朝の外在的な発展を阻害し、政治と経済の要地であるシリアの立場は危機に導いた、最終的に国家衰亡の重要な原因になった」(家島前同)。
アラブ商人が7世紀からウマイヤ朝の的アラブイスラム帝国の拡大と貨幣経済の発展を背景として、活動範囲は途切れがない拡大し、中央アジアとアフリカ内陸を進出するだけでなく、海上貿易において、アラブ海、インド、更に遠くまでの東南アジア、中国にも進出し貿易活動を行っていた。
イスラム商人の活動は世界規模の貿易活動までに拡がったのはアッバース朝統治下の10世紀以后になった。イスラム法の特徴を持つ「高利貸し法」は、利息取ることを禁止することにより経済倫理として基盤を立てていた、これによってアラブ商人は等価交換を原則とした貿易方式は広く信用を得ていた。何世紀も安定な世界的な貿易活動ができる基礎を築いた。
ムスリムはイスラム信者の意味である。ムスリム商人も広く使われている用語となっていた。当時、東西貿易の利益を独占したのはアイユーブ朝からマムルーク朝のエジプトである。これらの王朝の保護の下に遠隔地貿易を行う商人団体はKARIM商人(カーリミー商人)と呼ばれた。カーリミー商人とは11~15世紀にエジプトを中心としている主にエジプト、紅海、イエメン、ヒジャーズ(又訳為:漢志)、シリア等地域で遠隔地貿易を行う国際的商人のことである。主にアイユーブ朝からマムルーク朝までに活躍していた、カーリミー商人は広義から言えばムスリム商人の一つ団体に属する。カーリミー商人も在イエメンの亜丁港に東方の物産を購買してからカイロに運んでアレクサンドリアに売り出すイタリア商人を指している。アイユーブの的建国者サラディンがカーリミー商人に対して課税のために国の収入は大幅に増えたためカーリミー商人を强力に保護している。1174年サラディンが彼の兄たるAl-Muazzam Turanshah(在位:1249年 - 1250年)を派遣し亜丁を占領した、1183年シリア南部の十字軍勢力(第2回十字軍)を打ち負かした。
紅海地域の進出において、キリスト教とユダヤ信者の商人を紅海地域から駆逐する政策を取っている。よって紅海は完全にカーリミー商人がコントロールした海域になった。カーリミー商人が各地に代理人を派遣し、商館を建設することにより貿易活動の範囲を絶えずに拡大していく。砂糖工場・金融業を営むによって巨大な富を築いた同時、礼拜堂を熱心に建設し、教会に金銭を堂寄付した。彼らの活躍は1438年マムルーク朝スルタンのアシュラフ・バルスバーイ(在位1422〜1438)が砂糖と香辛料の専売制を実施するまでなされた。
黄金を求めるためにムスリム商人が塩使って交換している。北アフリカに進入し、サハラ砂漠を縦断した後にアフリカ内陸に入って貿易を行った。エジプトが国際貿易の拠点になってから、15世紀の南北貿易通路は東側に移動し始めた。金・奴隷と馬・布地の交換が盛んでいた。中央アジアの内陸から来たキャラバンが南側のアラブ海商と西側の北アフリカムスリムと併せて、マムルーク朝に大陸間貿易の一つ重要な中継地に形成させた。
カイロを中心とするエジプトの繁栄を支えたのもう一つ重要な因素は豊穣な農業生産でした。もともとナイル川の沃土は小麦の豊作をさせた以外に、綿・胡麻・サトウキビ等食品の作物も重要な産出物になった。サトウキビを原料とした砂糖はエジプトの重要な輸出商品になった。マムルーク朝時期に、黒砂糖を精製してできた白砂糖及び最高級の品たる氷砂糖の生産も広く推進された。
これによってエジプトはイスラム世界に唯一無二の砂糖生産国になった。カイロもイスラム世界の経済と文化の中心地として繁栄と隆盛を極めた。しかし、オスマン帝国は1453年にビザンチン帝国を滅亡して、東地中海全域の海上貿易圈を掌握し、イタリア商人が東方貿易圈から追い出されたため、欧洲商人がポルトガルとスペイン王室の庇護を求めるしかない。それで、新しい貿易ルートを探す冒険を開始した、これこそ大航海時代の始まりである。
何度もの失敗を経って、1498年ヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル船隊は喜望峰から運航するインドまでの航路を開拓することが漸く成功した。しかしヴァスコ・ダ・ガマの航路を開拓してから、マムルーク人が立腹することになった、なぜなら、自分たちが数百年も掌握した大陸間貿易は深刻に侵蝕されたことを気づいた。アラブ商人がヨーロッパ商人と激しい競争を強いられた。競争の結果はイタリア商人がすぐさまアレクサンダーとダマスカスから貨物を買えなくなった、これによってエジプトの経済に再び重創を負わせた。これでアラブ半島と北インドのムスリム統治者らが庇護者たるカリフのスルタンに次々と訴え、十字軍とモンゴル人を駆逐した先輩のように、イスラム文明を守る重任を担ってほしいと願っていた。すると、イタリア人が技術を担当するとトルコ人が水兵を担当するという艦隊は、1509年のDiu冲に新興のポルトガル海軍と决戦を展開し、これは有名な“Diu冲海戦”と呼ばれた。最終的にポルトガル海軍が勝利し、アラブ商人の庇護者たるエジプトのマムルーク朝の海軍が打ち破られた、それ以来、アラブ商人がポルトガル、スペイン、オランダ、イタリア等ヨーロッパ商人に置換され、大航海時代の開始と共にムスリム商人の全盛期の終結を宣告された。
アラブ商人の主な貿易経路と主な貿易品:
タチヨミ版はここまでとなります。
2023年12月1日 発行 初版
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