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この本はタチヨミ版です。
はじめに
一、最初の夫は言った/ 二、人の書いた詩か、幽霊の書いた詩か?/ 三、孝行者は神を動かす四、土地神の霊力/ 五、発音で神の名も変わる/ 六、大地と山と岩と赤壁と/ 七、神や幽霊の考え/ 八、キツネが相手にしない男/ 九、度量の小さい占い師/ 一〇、恨んでも忘れられない/ 一一、血縁をつなぐ血液検査/ 一二、大蛇は神龍になれる/ 一三、父の心、子は知らず?/ 一四、裏切らなかった侍女と大臣/ 一五、人生で何も恥ずべきことをしない/ 一六、どっちもどっち、ネズミと宰相/ 一七、大惨事は人間自身が引き起こす/ 一八、水の本質/ 一九、純な幽霊/ 二〇、孤高の紳士と妖怪/ 二一、埋葬されなかった女性/ 二二、絵と詩に長じた役人/ 二三、破裂した酒杯/ 二四、二本の槐樹/ 二五、徳を修めるしかない/ 二六、省略/ 二七、霊や神は酒を飲めない/ 二八、幽霊詩/ 二九、女ギツネのやり方/ 三〇、だまされるのは自分が悪い/ 三一、女ギツネは精気が欲しいだけ/ 三二、神降しと不良たち/ 三三、占いはお遊びの一種/ 三四、妖魔は人間が作る/ 三五、美しい風景下の災難/ 三六、義妹と姪を売り払った果てに/ 三七、死んでも死にきれない母/ 三八、魂の行き場所/ 三九、幽霊でない霊/ 四〇、幽霊は人を見る/ 四一、オケラの薬/ 四二、餓鬼道に落ちて/ 四三、毒には毒が、神も幽霊も見ている/ 四四、骨董の真価を知らず/ 四五、人の智慧と幽霊の熟慮/ 四六、良いヘビ/ 四七、視覚障害者の福祉施設/ 四八、旧恩を返す/ 四九、友が逝く前触れ?/ 五〇、時には作り話も、、、/ 五一、僧侶の後悔も先に立たず/ 五二、自ら招いた事故死/ 五三、地の気が換わる/ 五四、大蛇の霊験/ 五五、偶然では無い出来事/ 五六、餓鬼道に落ちてもなお/ 五七、成功は天性ではなく努力/ 五八、その気持ち、人に勝る/ 五九、不思議なハチ/ 六〇、消えた老人/ 六一、人間の詩、幽霊の詩/ 六二、困難を知って退くは勇者の心得/ 六三、魔除けには鍾馗様/ 六四、若さゆえに怪が憑りつく/ 六五、強姦の厳罰はありや/ 六六、光る卵、光る樹・キノコ/ 六七、ヘビ茶の出る店/ 六八、牛の知らせ/ 六九、何時までも価値ある人/ 七〇、貧すれど詩は光る/ 七一、霊魂は墓中にいるのか/ 七二、女ギツネの人を見る目/ 七三、来世でも巡り会いたい/ 七四、地元でも知らない特産品/ 七五、息子の不始末を助けた父の霊/ 七六、幽霊は議論が嫌い/ 七七、劉熥の母
卷十二 槐西雑志 2
七八、学ぶ者に大道あり/ 七九、ただほど高いものは無い/ 八〇、泥の中から蓮の花/ 八一、真実の輪廻/ 八二、情も礼も知るキツネ/ 八三、キツネの恩返し/ 八四、語り尽くせない事/ 八五、人情と法律/ 八六、論争は冥界まで/ 八七、棄てられた妻の詩、その年代/ 八八、吉凶は人次第/ 八九、将来のことは決まっている/ 九〇、側室への思い。詩が二題/ 九一、作り話の名手/ 九二、忘却の後先/ 九三、帝を待つ草/ 九四、知識人の知識知らず/ 九五、誰のための生死/ 九六、妖精に憑かれたときの対処法/ 九七、キツネの報復/ 九八、悪い行いには災いが来る/ 九九、遥か昔の行状が今に及ぶ/ 一〇〇、人の根性を見抜く幽霊/ 一〇一、大酒飲みと羊肉の大食い/ 一〇二、神の妖怪退治/ 一〇三、使用人を奴隷扱い/ 一〇四、秘伝を公開/ 一〇五、呪文と誠/ 一〇六、死んで魂は墓に入るか、位牌に取り付くか/ 一〇七、呪文の不思議/ 一〇八、文学者の医薬書/ 一〇九、誠意は世渡りの基本/ 一一〇、亡くなっていたいとこ/ 一一一、一妻多夫/ 一一二、神も怒る/ 一一三、死に直面の決断/ 一一四、得道の難しさ/ 一一五、女形(おやま)の心がけ/ 一一六、しつこいキツネの娘/ 一一七、野生の獣肉の味/ 一一八、風水師の正誤/ 一一九、将棋/ 一二〇、外国人に学ぶ/ 一二一、命を軽んじない/ 一二二、嫁いじめの姑/ 一二三、吉祥を知らせるのは?/ 一二四、小さなうちに処分/ 一二五、トラの知り合い?/ 一二六、ヘビの誘惑/ 一二七、気のいい男/ 一二八、冥界のおきてを変える善業/ 一二九、災いは無駄に起こらない/ 一三〇、一字の師/ 一三一、下女の幽霊/ 一三二、墓碑は語る/ 一三三、占いと現実/ 一三四、追悼の話/ 一三五、亡き人の魂を招く/ 一三六、僧侶対キツネの精霊/ 一三七、占い師の先見の明/ 一三八、画家を神格化する/ 一三九、強姦事件の解決法/ 一四〇、物忘れの悲哀/ 一四一、無能な鐘の怪物/ 一四二、キツネの友情を裏切る/ 一四三、幽霊の歌/ 一四四、一念は冥吏を動かす/ 一四五、おみくじの喜悲/ 一四六、占いについてのうんちく/ 一四七、絵にも魂が宿る/ 一四八、地上のキツネと天空のキツネ
本書の発行に当たっては、
ロンレア(隴来)株式会社の
ご支援を頂きました。
槐西雑誌 はじめに
私は再び御史台の役職に就いたが、常に役所で審査、検討しなければならない事案が多いことから、(事務所のある)西苑に長くいることが多くなった。その後、袁家の娘婿の家のいくつかの部屋を借り、その扁額に“槐西老屋”と題記した。仕事の後、私は食事と休息のため老屋に行き食事をし、休憩した。
ここは都の中心部から数十里離れており、公務の報告に来る役人以外の賓客はほとんど来ない。夏は日が長くて時間に余裕があるので、私は静かに座って時間を過ごすことが多い。以前に書いた『滦陽消夏録』と『如是我聞』の二書は書店から出版された。そのため、親戚や友人が集まると、よく逸話や異聞を話してくれる。
*御史台:監督事務を担当する機関 中央行政監督機関であり、官吏の紀律検査、監視、職員の監督、弾劾、綱紀粛正などを担う中央司法機関の一つ。
*西苑:今の北京西部を指すが、北京の西苑は今の故宫以西に位置する明代の宮廷庭園の部分で、北海、中海、南海で構成されていた。そこは東の西苑門から西の西安門、南は長安街に到る一線と、北は北安門に到る一線である。今の北京市海淀区がその主要部である。
*槐樹・エンジュ:北京は槐樹が非常に多い。もとの宮城から、庶民の暮らす路地裏まで、また道路の街路樹も槐樹がよく見られる。専門家によれば、槐の種類は中国原産の槐樹の他、刺槐とか,洋槐、德国槐(ドイツ槐)と呼ばれる外来種があり、これは一七世紀に欧洲から入ったものという。槐樹は役人が出世すると庭に植えた風習があったと言われ、縁起の良い樹木とされ、花言葉は「幸福」である。春から夏にかけて咲く白い花は心和ませる。
*槐西老屋:紀昀(紀暁嵐)の七世孫である、紀清漪(一九〇四年~一九九八年、ペンネームは路西、女性。河北省献県出身)によれば、紀暁嵐には四人の子供がおり、二番目の子は紀汝傳といい、汝傳にも四人の子供がいた。長男は嘉慶元年生まれの紀樹馨(一七七一~?)である。紀樹馨は刑部江西司員外郎、陕西司郎中,湖北宜昌知府、漢黄德道(湖北の巡道官)を歴任している。
北京での紀暁嵐の邸宅の一つは虎坊橋の東に、もう一つは海淀西苑、圓明園(離宮)の付近にあり“槐西老屋”と呼ばれていた。紀清漪が祖父から聞いた話によると、“槐西老屋”の家の東側に大きな槐樹があり、それが大きな傘(天蓋)のようになっており、その下にできる日影は庭の半分を覆うほどで、夜には自然の天蓋のように納涼を楽しむことができた。紀暁嵐はそこを、とても気に入っていたと言う。圆明園はすぐ近くにあり、仕事に行くのにも便利であった。タバコを一服吸う間に役所に着くことができた。
“槐西老屋”は都・北京の西にある大槐樹の立つ家の意味があるのであろう。
そこで、ここにメモ帳を置いて、自分が宿直のときが回ってきたら、みんなで話した内容を思い出して書き記し、宿直でない日は一旦書くのを止め、いくつか思い出せないものは、それまでとしたのである。あっという間に月日が経ち、知らず知らずのうちにさらに四巻を書き上げ、孫の樹馨がそれを写して『槐西雑誌』という一冊にしたが、この巻の体裁は最初の二巻とほぼ同じである。
これからのことは、怠けて書くのを止めてしまうかもしれず、書いた内容は『揮麈録』余話の巻の続きということにすればいいし、年をとってやることが無くて、また書き始めるかもしれない。それはそれで、『夷堅志』の続きと思ってもよい。 壬子六月、観奕道人記す。
*『揮麈録』:南宋の学者、王明清の著作。史実掌故、当時の政治、軍事、経済等の多分野を論じた。
*『夷堅志』:南宋時期、洪邁の書いた志怪小説集。内容の多くは神仙、怪異故事と奇聞、雑録、医卜妖巫、詩詞。
一、最初の夫は言った
『隋書』には蘭陵公主(王女)が、夫への忠義から殉死したことが記されており、その「列女傳」では第一章に蘭陵王女がでている。非公式の歴史を正史として扱うこの慣行は、伝統的な歴史学に反しており、祖君彦の『檄隋文』には、蘭陵王女が自分より身分の低い男に迫ったと書かれている。この種の発言は、おそらく皋煬帝の悪行を誇張しようとしているのであろうから、正史を真実として受け止めるべきである。
滄州の医師、張作霖さんは、郷里のある若い女性が夫を亡くして、わずか一年ほどで再婚し、二年後、その夫も亡くなった。彼女は二度と結婚しないと誓い、一生それを守ったという。ある日、彼女は隣の病気の婦人を見舞いに行ったとき、その婦人は突然目を開け、ある若い女性の元夫の声でこう叱った。「あんたは二番目の夫のために節操を守り続けているのに、最初の夫である私のために、何か守り続けることはないのですか?」
*蘭陵公主:隋の王女。五七三 ~ 六〇四年。字が阿五、弘農華陰(現在の陝西省華陰市)の生れ。隋の文帝楊堅の第五女。優しく従順で、書をよく読み教養があり、父帝に愛されていた。襄州刺史王誼の息子、王奉孝と結婚。夫が亡くなり、柳述と再婚した。仁寿四年、夫の柳述は煬帝を怒らせ、嶺南に流罪となる。煬帝は王女に再婚を強制したが、王女は寒松のように、夫に誠実さを示し、自分の想いを堅持した。しかし、父帝の命令も強く、苦悩と怒りは日ごとに募り、遂に逝去してしまった。享年三二歳、長安県洪瀆川に埋葬された。『隋書』列女傳に記録されている。
叱られた若い女性は、はっきりと言った。「あなたは私と結婚したが、私を妻とは思っていません。あなたとは三年間一緒に暮らしましたが、私に心のこもった言葉一つもかけてくれたことはありません。なぜ私があなたのために節義を守らなければならないのですか!」そして、「私は再婚して、二年たっていましたが、夫は私を大切にしてくれ、愛情深く恩義を感じています。ですから私は彼のために貞節を守ろうとしたのです。あなたは、何も考えずに私を責めに来たのですか?」それを聞いて幽霊は言葉に詰まって去って行った。
この話は、蘭陵王女が再婚した夫に殉じたことと似ている。これは豫讓(よ じょう、?~紀元前四五三年頃。四大刺客の一人)が言った、
「あなたが私を普通の人間として扱えば、私もあなたに普通の人として報います。あなたが私を国士として扱ってくれるのなら、私は国士として報いましょう。」と言ったことと通じるものである。ただ、五常(仁、義、礼、智、信)のうち、義をもって結ばれるのは友だけである。友人は貸し借りに気を遣わないのが優しさであり、返済に気を遣ってもそれが当然とされるのである。兄弟の関係は自然であり、恩返しの話などあり得ないし、まして君と臣、父と子、夫婦は三原則の中にある。
漁洋山人は、「豫讓橋」の詩の中で「国士橋のほとりの水は千年の恨みも尽きること無し。柱厲叔(ちゅうれいしゅく)の、死をもって莒の敖公に報いたことを聞くが如し。」と記している。この記述は正しいと言える。しかし、柱厲叔は君主に理解されず追放され、それでも立ち上がって死んだので、臣民を理解しなかった君主を恥じるには十分であった。これは劉向の『説苑』を参照されたい。彼の行動には依然として不満と恨みが含まれており、それは国を守るためではなく、単に王と議論するためである。彼の行為は語られるが、彼の言葉は教義に沿っていない。おそらくこれは記述者の誤りとも言えるか?
*漁洋山人:王士禎(一六三四~一七一一年)、字子真、号は阮亭、また漁洋山人、世称は王漁洋。山東新城(今の桓台県)出身、自称済南人。清の順治一五年(一六五八年)の進士、康熙四三年(一七〇四年)刑部尚書。清初の傑出した詩人、文学者、銭謙益(明末清初の詩人)の後の詩壇の盟主。『池北偶談』『古夫于亭雑録』『香祖筆記』等あり。
*柱厲叔、死をもって莒敖(きょごう)公に報いる:春秋時代、柱厲叔という莒国の役人がいた。彼は忠誠心と愛国心があり、賢明で先見の明があった。しかし、君主の敖公は無知で、領袖としていささか難ある人物であった。そこで柱厲叔は怒りと落胆で官を辞し莒の国を離れ、孤島で「夏はヒシの実で空腹を満たし、冬はドングリを食べる」という孤独な生活を送っていた。
*莒国:莒国・きょこく(紀元前一一世紀?~前四三一年)别名姑幕 、周代の諸侯国。今の山東省にあった。山東省日照市莒県には莒国古城が復原されている。
その後、敖公は本当に国と国民を失い、それを聞いた柱厲叔は莒国に戻って君主のために自分を犠牲にしても国に尽くしたいと考えた。友人は「なぜ君主のために死ななければならないのか?」と説得し、柱厲叔はこう言った。「私は今日、国のために死ぬつもりです。敖公のような難ある君主しか知らず、高潔な大臣を知らない将来の世代に、同じ間違いを犯さず、国を誤らないように警告するためです。」
柱厲叔は決然として莒国に戻り、五孔橋の上に立った。街は変わっていなかったが、人々は変わっていることに気づいた。道路は老朽化して荒廃しており、彼の目は寂しさが溢れて涙が流れてきた。そして橋の下に飛び込み溺死した。
後世の人々は柱厲叔の高潔な誠実さと、彼が死を賭して皆に伝えたかったことを賞賛し、彼を“国士”と讃え、それを記念する石碑を建立し、彼が国のために命を落とした五孔橋を「国士橋」と改名した。
二、人の書いた詩か、幽霊の書いた詩か?
江寧(南京の旧称)出身の王金英、字は菊荘は、私が乾隆の壬午年間に科挙試験官だったときに合格した挙人である。彼は詩を作るのが好きで、才気が足りない面があるが、その詩風は優雅で、他を抜きんでて、型破りで、南宋時代の永嘉四霊(四霊詩派、詩の流派)によく似ている。彼はかつて、栽培した菊の絵を描いたことがあり、私は意図的に彼の詩風を真似てその絵に題詞を書いた。その中に「菊を名字にして取り、花を追って絵の中へ入る」という一句があり、王金英は非常に喜んでいた。 このことから彼の趣向が想像できる。
彼は数巻の詩と文章を書いているが、まだ書籍になっておらず、残念ながら早くに亡くなり、現在は原稿が失われている。私はその中の一文を今でも覚えている。「江寧に一軒の廃屋があり、壁にはうっすらと文字が書かれている。塵(ちり)を払い落としてよく見れば、それらは五首の詩文であることが判った。」
第一首「新緑はやや伸びて、樹の茶色は薄くなり、美人の清い涙は薄絹の衣に滴る。胡蝶は春に回帰するかどうかは答えない。ただ菜の花の黄色くなった所だけを飛ぶ。」
第二首「六朝の世にツバメは年々飛んで来て、朱雀橋が崩れ花開かず。悲しみていまだ王謝(六朝の名家である琅耶の王家と陳郡の謝家の合称)に問わず、劉郎(南宋の武帝)ひとたび去りていつ戻らん。」(南宋の武帝は政治、軍事に良く対応した)
第三首「人気のない池や廃墟の庭には香りの良い草が多く、若い頃、春の野遊びで私は唄った。城門の望楼で太鼓が鳴り人々が去りし後、旋風に煙立ち昇り松樹に付着する薄葉のヤドリ木を揺らす。」(恋人たちは何処へ行った?)
第四首「コケ、シダが荒れ果てた壁垣を囲み、その中に桃の葉と桃の根魂がある。夜更けに、月の下で階段を踏む、憐れな絹の靴下は跡形もなし。」
第五首「祖先を祀る清明の頃、ウグイスはどこでもさえずり、春風は枯れた柳の枝に触れない。しかし、かつて貴方が、二匹の石獣に金の糸(柳の垂れ枝)を掛けたのを思い出してほしい。」
書かれた詩は、荘厳で怪偉な筆跡で、作者の名前もなく、人の詩なのか幽霊の詩なのか判らない。想うにこれは(明滅亡後の南明政権の)福王が滅ぼされた後の、明代の長老たちが書いたものだと思われる。
三、孝行者は神を動かす
董秋原は言った。彼が鉅野(今の山東省菏澤市に属す)で教育部門の官吏だったとき、節孝祠(孝行者の婦女を祀った祠堂)の門番がいて、家族とともに祠の隣に住んでいた。その日は秋の祭日で、門番は深夜に起きて祠堂の掃除をしていたが、その妻はまだ寝ていた。彼女は、数十人の女性たちが手をつないで節孝祠に入ってくる夢を見た。こんなことは初めてだが、神様が降臨されたことを知っていたので、恐れることはなかった。突然、彼女はその女性たちの中にいる、知り合いの貧しい家の二人の老婦人を見つけ、何度も確認したが、間違いなかった。
彼女は不思議に思い、その二人の老婦人に聞いた。「あなたたちは生前に孝行者として表彰されなかったのに、なぜ節孝祠に入るのですか?」一人の老婦人はこう言った。「どうして世間でいう表彰が、貧しい村々にまで広がり、荒れ果てた小屋の人々にまで届かないのでしょうか? 表彰されるべき孝行者はどこにでも隠れています。神様たちは彼女らの苦難に同情しています。神殿にはもう孝行者の座る席がありませんが、彼女たちは表彰されます。中には悪事を隠して処女と偽った人もいて、位牌は祠堂の中に置かれているものの、中に入るのを許されない者もいます。私たち二人は、神様のおぼしめしで今日、ここに来ることができました。」このことは本当に前代未聞だが、神の理屈ではそうなるはずのようである。
また、献県(河北省東南部、今は滄州市に属す)の礼房吏(祭祀,郷祭大典、科举考試等を主管)の役人である魏某は、死に際にこうつぶやいた。「自分は閑職にいたが、振り返ってみると、悪いこともせず、いつだったか貧しい家の婦人が孝行者の表彰を願い出たので、袖の下を要求したことがある。そのことで冥界の下す罰がこんなに重いものとは思わなかった。」と。
これら二つのことは比べてみても確認できる。忠孝節義は本当に、天地を動かし、神と幽霊をも動かすのだ!
四、土地神の霊力
私の叔父の行止は言った。「ある農家があり、嫁とその夫の姉も威厳があり、美人である。」 二人は涼しい月夜を楽しみ、軒下で寝ていた。突然、牛舎の後ろから赤い髪で青い顔の幽霊が一匹出てきて、まるで人を食べるかのように転がり跳びはねているのが見えた。その時、男たちは皆、田んぼと瓜(メロン)園の夜警に行っており、二人は怖くて声もでなかった。赤い髪で青い顔の幽霊は二人を辱しめ、その後、低い壁を飛び越えたが、突然「チー」という奇声を上げて真っ逆さまに地面へ落ちて倒れた。幽霊はそのまま動かないので、嫁と義姉は、勇気を出して人を呼んだ。
近所の人たちが様子を見に行くと、塀の中に横たわっていた幽霊は、意識を失った村の不良少年の某甲で、倒れたまま人事不省であった。塀の外にいた幽霊かと思えたのは土地廟にあるはずの泥像だった。長老と人々は、その泥像はこの土地の神様であると話し、夜が明けたら廟へ戻し祀ろうと話し合った。
一人の少年は思わず苦笑いしながら言った。「あの某甲は、毎朝五時に起きて糞尿を担いで畑へまいていた。私はいたずらをして土地神の廟から泥像をここへ運び、道端に置き、某々を怖がらせようとしたのです。私のいたずらですが、某甲はそれを見て本物の幽霊だと思って、怖がって逃げたのです。笑っていたら、泥像の神が偽の幽霊から、本物の幽霊になったので、私は怖くて地面に倒れたのです。土地神様はこんなに霊力があったのですね!」
その場にいたある老人は、「某甲は毎朝、糞尿を運んでいるのに、お前はどうして今日いたずらをしたのだ? いたずらや冗談の方法はいくつもあるだろうに、なぜ突然この泥像を持ち出したのだ? この像は何処にでも置けるのに、どうしてこの家の塀の外に置いたのか? この場所には神や幽霊がいたに違いなく、そのとき泥像にはすでに神様が憑りついていたのだ! お前が知らなかっただけなんだ!」そこで、全員がいくらかのお金を出し合って泥像を祀り直すことになった。不良少年は
両親に連れられて家に帰り、数日間昏睡状態に陥ったが、再び目覚めることはなかった。
五、発音で神の名も変わる
山西(省)太谷県の南西一五里にある白城村には、糊涂神(フト神。ことしん)を祀る祠があり、地元の人々は糊涂神を非常に崇拝している(前頁写真)。伝説ではこの神に不敬な行為をすると強風や雹(ひょう)の災難に見舞われるという。しかし、この糊涂神はいつの時代の人なのか判らない上に、なぜ糊涂神と言われているのかも判らない。 後に『通志』を調べてみると、“狐突祠”と言われ、元の 中统三年(紀元一二六二年)に皇帝が奉じて建立した “利応狐突神廟”がその本来の名であることが分った。“狐hu”と“糊hu”は同音で、地元の人の発音が区別できないほど似ていたことから、“突tu”も“涂tu”と同音で別の文字と意味になったものである。
これも“杜十姨”(du shi yi、杜十おばさん)と「杜氏du shiおばさん」式の発音からくる笑い話である。
*利応狐突神廟:河北省邯郸市涉県にある廟で、春秋時代晋国の大夫・狐突侯(?~紀元前六三七年)を祀った神廟。狐突侯は晋の献公の岳父にして文公・重耳の外祖父。狐突侯は忠臣で知られ、神格化され祀られた。この廟は今から約六百年以上前の物と言われ、市の文化財に指定されている。山西省には狐突廟が多い。
*杜十姨:唐の詩人、杜甫は、左拾遣(皇帝の政策審議役)の職にあって、世間では「杜拾遣」(発音はdu shi yi)として知られていた。村の老学者は「杜十姨・ドゥシおばさん」を演じ、地方人の訛や発音の違いで間違いが起こることがあると知らせた。
六、大地と山と岩と赤壁と
石の中に何かの図像が見られることがよくある。姜紹書の『韵石軒筆記』には、太極図の模様が刻まれた石を見たことが記されている。これは螺旋状の石の紋様であり、偶然に白と黒に分かれていることもある。顔介子(介之推、?~紀元前六三六年。文学者、教育家)はかつて英徳産の石硯を見たことがあるが、その表面には白い地紋があり、「山高月小」の四文字が鮮明な筆跡で現れ、白い地紋が硯の裏側まで薄っすらと浸透していたという。文字は裏側で反転したように、ぼやけていて、鮮明ではなかった。よく見ると、この文字は象嵌でも彫ったわけでもなく、ましてや染めたわけでもなく、本当に自然なものであった。
これはさらに奇妙なことではないか! 山は大地と、岩は山と共存しているものだが、この世が出来た、天地開闢の時に、もしかしたら程邈の隷書がすでに知られていたのであろうか?(程邈・ていばく。秦代の書道家。篆書を改め隷書を創作した) 蘇東坡の「赤壁賦」があったことを事前に知っていたのだろうか?
仮に宋代以降に山が岩から硯を生んだと言われても、では誰が程邈の隷書を模倣したのだろうか? そして、蘇東坡の「赤壁」の文字を刻んだのは誰なのか? しかし、この自然界を創ったものは巧みであり、全てがあり、その精華が集まっていて、常識では説明できないものである。
世に伝わる「河図洛書」は北宋時代に出現したが、唐以前には見られない。河図には五十五の黒と白の円があり、洛書には四十五の黒と白の円がある。孔安国(?~四〇八年、東晋の大臣。孔子後代の子孫)の『論語注』によれば、河図はつまり八卦のことである。 孔安国の『論語注』はすでに失われており、ここは何晏の『論語集解』に引用されたものである。つまり、孔氏家にはそのような五十五の円点の図は無かったのである。では、陳摶(北宋の学者、易学研究、養生家)はどこでそれを入手したのであろうか? 洛書については、本というからには文字があるはずだが、これも円点の図四十五なので、洛書というより洛図と呼ぶべきである。
*河図洛書:伝説上の瑞祥といわれ、中国占術の源とされる図書。古代から伝わる二つの神秘的な図案で、宇宙星象の深い理論が含まれているとも。中華文化、陰陽五行術数の源であるという。
「系辞」をどうして書物と呼ぶことができるのだろうか? 劉向(前漢の大臣、文学者)、劉歆(前漢の経学家、劉向の子)、班固(後漢の大臣、史学家、文学者、『漢書』の撰者)らは皆、洛書には文字があると述べており、孔穎達(唐初の経学家)の『尚書正義』にも洛書の文字数が詳細に記録されている。(『洪範』の「初一百五行をいう」一章の注疏に「『五行志』は全文をこの一章を載せており、この六十五字はすべて洛書の本文であるとするが、思うに天の神の言葉は単純かつ簡潔であるので、順番の数は無かった。」と推定されている。
*「系辞」:『易経』の「系辞」は『易経』を知らない人のための案内書である。易の主な思想の代表は「系辞」であり、『易経』の基本的なことを説明するために使用される。 『易経』の意味、原理と働き、起源と占術。「系辞」がいかに貴重であるか、読んでいなければ『易経』を理解することもできない。『尚書』『論語』と『易経』の「系辞」はすべて孔子によって書かれたものであり、孔子が「河図洛書」の最初期の見証者の一人である可能性があることを示している。
「初一をいう」など二七文字は大禹によって追加され、「敬用」「農用」など一八文字は、大劉と顧氏は、亀の背にあったものが先であり、文字数は全三八文字あったという。小劉は「敬用」などはすべて大禹が解釈したとしており、亀の文字数はわずか二〇文字とする。言及されている字数は異なるが、漢の時代から唐の時代まで、洛書には白と黒の円点の擬似図が存在しなかったことがはっきりと分かる。この石硯を見て、私は石の模様質感が文字を形成していることを知り、それが決定的で信頼できるものであり、私は後に出てきた盧辨(魏、北周三朝の名臣。管制を改革)の意見に賛成することはできない。
タチヨミ版はここまでとなります。
2024年1月30日 発行 初版
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