この本は、鳩摩羅什訳の金剛般若波羅蜜経を、金剛経の読書中に悟りを得た鬼和尚の協力のもと、正しく実践しやすいように日本語訳したものです。悟りを得ようと決意した修行者を含めた全ての人が自由に使えることを願い、著作権解放のもとで出版します。音声版→ https://youtu.be/BUPCwzhWKbc
鬼和尚のブログは、http://onioshyou.blog122.fc2.com/ で、この本の金剛経解説は、そこから引用しました。また https://jbbs.shitaraba.net/bbs/subject.cgi/study/8276/ の「鬼和尚に聞いてみるスレ」で鬼和尚に直接質問することもできます。
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正しい仏教は、毒矢のたとえで示されているように、苦しみを減らし無くしていき、悟りを得るための実践方法を教えています。この金剛経でも正しい実践ができるように、実践のための手がかりを記します。鵜呑みにせず、自分で実践して効果を確かめつつ進めます。実践される全ての方が悟りを得られることを願っています。
主な対象者
金剛経の主な対象者は、文中にあるように、悟りを得る強い決意を持つ人です。特に、修行中で何かの拘りや囚われがある人は、金剛経の実践により、その拘りや囚われを滅することができるでしょう。
初心者には金剛経は難解なので、あまり深く考えず、参考程度にするとよいでしょう。
実践方法
金剛経の文中の言葉の意味を確かめつつ、何度も何度も読んで文を念じます。例えば、「認識主体」とは何か、それが本当に自分にあるのか、などを確かめながら、何度も読んでいきます。そのように何度も何度も読誦して思念していると、文全体としては意味が分からなくとも、心に入っていきます。実践を繰り返し、心に入っていくにつれ、拘りや囚われが少なくなってくるでしょう。
日常でも例えば、自分が金に執着していると気づいたら、「金は金ではない、それゆえに金と呼ばれる」などと繰り返し唱え念じることで、囚われを減らすことができるでしょう。実際に囚われが減る効果があれば、正しい実践を行えていることが確かめられます。
逆に間違った実践は、文章を解釈して、説明を考え、自分なりに論理的に納得しようとするようなやり方です。金剛経は論理外の論理によって、観念(イメージ)を破壊するのための方法としてあるので、文章を読んで矛盾を感じてイメージできない感覚が生じるのが自然です。金剛経の文章は観念を破壊するための観念ですから、いかなる観念も持ち得ないのです。
また、金剛経に限らず仏教の実践では、自分という観念を滅するのが悟りへの一歩で、ついで、記憶に依存した認識を滅することで悟りが得られます。そのため、常に「自分とは何か」「何が主体といえるのか」を忘れずに追求し、心を観察し続けることがとても重要です。
正しい方向と間違った方向
観念が薄くなり拘りや囚われが減ったり、観念が滅してこだわりや囚われが無くなるのが正しい方向です。観念から完全に解脱することが悟りです。逆に、新たに観念を作り出し、囚われや拘りが増えるのは間違った方向です。
また、心の内側を観て自己・主体を追求するのは正しい方向です。逆に、見たり聞いたりする外側の対象を求めるのは間違った方向です。
修行は皆が同じ経過を辿るということはありません。特に心を観る観察では経過は人それぞれで、鬼和尚のように、金剛教を読んでいて突然悟りを得る人もいます。いずれにしても、実践が全てです。
訳者の実践例
訳者は悟りを得る決意をしており、これまでに数回の忘我の経験があります。未だ自我を自分だと感じており、悟りを得ていません。参考のために、金剛経の訳者の実践例を記します。先ほども述べましたが、観察の実践は個人差も大きいので、あくまで参考としていただき、囚われることのないようにお願いします。
まず、悟りを得ようと決意する前に、最初に金剛経を読んだ時は、全く意味がわからず、非常に読み難く感じて、すぐに諦めて放置していました。
悟りを得る決意をした後、再び読み始めましたが、頭は混乱するし、ストレスが溜まり、嫌になって、一度にわずかしか読み進められない状態が続きました。少しずつでも読み進めるのですが、どうしても、論理的に整合するような説明を考えだしたくなりました。なんとか自分で説明できるようにすると落ち着くのですが、これは新しい観念を作っている間違った実践方法でしたので、捨てました。
その後は、とにかく繰り返し、丁寧に読むことを心がけました。個々の言葉の意味がわからないときには確かめますが、文全体を理解して論理的に把握するような、余計な解釈はしないようにしました。
そのうちに慣れてきて、読み念じること自体のストレスは減ってきましたが、観念が薄くなったり遠ざかったりして、世界がさらに無意味に感じられることが増えてきました。
今は、様々な観念が薄くなるのは正しい方向だと信じて、実践を続けています。
投稿日:2010-05-13 Thu
金剛経は正式には金剛般若波羅蜜経という。
ダイアモンドの如き知恵の完成という意味じゃな。
大体般若経というのは空観のやり方を説くものじゃが、この経には空と言う言葉は出てこない。
それにもかかわらずこれが般若経であるのは、論理的な実践によって認識の働きを止めるという共通した内容があるからじゃ。
空は全てが有るでもなく、無いでもないとして心の働きを止める。
金剛経はまた別の論理、論理外の論理によって心の働きを止める事ができる。
それ故にこれも又知恵の完成と言っても良い経になるのじゃ。
金剛経の前半には他の般若経と同じく、全ては幻であり、それを観念として捕らえてはいかんと説く。
そこで重要なのが、人が己というものを認識する時、持っている言葉とイメージなのじゃ。
サットヴァ、ジーヴァ、アートマン、プトガラという四つが個我の観念として説かれる。
サットヴァとは生きている者という観念。
ジーヴァとは生命とか個体。
アートマンは心の最奥にあるという不滅の認識主体
プトガラは輪廻の主体とされている。
これらの観念は人が個我というものに抱くイメージを表している。
自分とは生きているものであり、個体であり、不滅の認識主体であり、輪廻の主体であると、当時の者が抱いていた個我のイメージを代表して説いている。
現代でもこれと似たような、自分というもののイメージを抱いている者も多いじゃろう。
生き物である自分、他から離れた個体である自分、不滅の認識、見るものである自分、生まれ変わる主体の自分というイメージ。
多少の違いはあってもそれらのイメージを抱き、肉体や感覚、思考、感情、認識などに投射して個我というものを認識しているのじゃ。
わしはこのうちのプトガラと言う言葉に触れ、自らが過去からの記憶を持つ者としてのイメージを抱いている事に気づき、自我が落ちた。
それは作られたイメージであり、自分では無かった。
自分というもの、自分という個体は無かった。
そして無為に坐し、悟りは開かれた。
このように経を、意味を確かめながら読む事は意味があるものじゃ。
お釈迦様の説かれたものでなくとも、目覚めた者が自我の牢獄の外で書いたものは、牢獄の中に居る者に気づきを起こさせる力がある。
金剛経ではこれら四つの観念を持つべきではないという。
そして、法という観念も、非法と言う観念すらも持つべきではないという。
それを実現する為に、金剛経には独特の論理外の論理による法が説かれる。
経によれば、法とは法ではないという。
そして、それだからこそ法と呼ばれるという。
法は法ではない。
だからこそ法と呼ばれる。
おかしな事じゃ。
普通の論理とはA=B B=C 故にA=Cとか書かれるものじゃ。
そこには何の不思議もない。
しかし、金剛経ではA=非Aだという。
故にA=Aであるという。
明らかに論理を逸脱した、論理外の論理と言えよう。
このような論理外の論理が、世界とか、悟りとか、さまざまな観念に対して延々と説かれる。
これこそが金剛経の最も伝えたかった法と言えるのじゃ。
人間の認識は外にある物を感受すると、その特徴を抽出し、記憶の中にある物と照合して、名前を確定する。
例えばりんごを見れば赤いとか、丸いとか、つやがある、へたがついているという特徴を見て、頭の中からそのような特徴のある物を思い出し、照合してりんごというものを認識する。
その動きは素早く、観察も容易ではない。
これを止めて観る事によって、自らの認識に気づき、自我は落ちる。
空観はその認識する物全てを空とする事によって認識の働きを止める。
金剛経の法は認識の働きそのものに介入する事によって、それを止める。
りんごというものが、実はりんごではないとすれば、りんごの認識は止まる。
しかし、りんごで無いならば、他のものであるという認識もできる。
それを止めるには、さらにりんごでないものが、それ故にりんごであると観じる。
そうすれば認識の働きは、逃げ道がなく、止まる事になる。
このようにして認識の働きは止まるのじゃ。
このような論理外の論理が、本当に法として働くのか疑問も湧くじゃろう。
しかし、このような法は何度も繰り返せば必ず効果があるものじゃ。
認識の働き、記憶による認識の働きそのものも、繰り返された習慣によって動いているものに過ぎない。
それは新しい習慣を受け入れ、従うように出来ている故に。
このような論理外の論理による法が、頭では受け入れられなくとも、何度も繰り返し実践すれば必ず効果は現れるじゃろう。
他の般若経と同じく、金剛経の法も執着を滅し、囚われから脱し、悟りへの道となる。
後は実践あるのみじゃ。
一 わたしはこのように聞きました。あるとき師は、千二百五十人もの修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。
二 ちょうどその時、長老のスブーティも、その同じ集まりに来合わせていました。スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。
「師よ、素晴らしいことです。如来は常に慈悲深くわたしたちを導き、教えを伝えてくださいます。
師よ、求道者、男女問わず、最高のさとりを目指すことを強く決意した菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
師は答えました。「スブーティよ、あなたの言う通りだ。如来は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、菩薩の道に向かう者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきかを話して聞かせよう。」
スブーティは答えました。「そうしてくださいますように、師よ。」
三 師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを、わたしは救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかというと、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」
四 「また、スブーティよ、菩薩は何かに執着しながら施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。
それはなぜかというと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れない程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り知れるだろうか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これと同じように、南や、西や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り知れるだろうか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」
五 「スブーティよ、どう思うか。如来を身体の特徴をもって見るべきだろうか。」
「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」
六 スブーティは尋ねました。「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」
師は答えました。「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。
これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
それはなぜかというと、その者たちは、自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(さとりを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。それはなぜかというと、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、自我という観念としての、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。わたしの説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」
(いかだの喩え:仏教の教え(法)を川を渡るための筏のように利用するが、川を渡った後はいかだ(法)を捨てるべきだという意味です。これは、仏教の教えが最終的な目的地ではなく、さとりに至るための手段として実践し、達すれば捨て去られる方法として説かれることを示しています。)
七 師は、スブーティに問われました。「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
スブーティは答えました。「師よ、わたしが師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。それはなぜかというと、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」
八 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い世界に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その者が得る福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」
師は言われました。「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その者の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の如来の得る、この上なく正しいさとりの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法ではないからだ。それゆえに覚者の方法と呼ばれるのだ。」
九 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、わたしは預流という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と呼ばれるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と呼ばれるのです。」
師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわってさとる者(一来)が、わたしは一来という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわってさとる者を意味しますが、実際には、生まれかわってさとる者は存在しないからです。それだからこそ一来と呼ばれるのです。」
師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、わたしは不還という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と呼ばれるのです。」
師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。最高のさとりを得た者(阿羅漢)が、わたしは阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と呼ばれるのです。師よ、もし阿羅漢が「わたしは阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
師よ、如来はわたしのことを、煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかしわたしは「わたしは離欲の阿羅漢だ」とは考えません。師よ、もしわたしが「わたしは阿羅漢であることに達した」と考えるならば、如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」
一〇 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」
「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」
「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土(清浄な心)を完成することはできるだろうか。」
「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」
師は言われました。「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して、心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。
スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」
スブーティは答えました。「非常に大きいです、師よ。それはなぜかというと、如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」
一一 師はスブーティに問われました。「スブーティよ、ガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとしよう。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」
師は言われた。「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに言われました。「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」
一二 「さらにまたスブーティよ、どのような地方でもこの経を、たとえ四行詩一つであっても、説いて聞かせられるとすれば、その地方は、人間と天人と神々全てにとって、まるで仏の聖地に供え物を捧げるように尊重されるということを知るべきである。ましてや、この経を全て心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践する者がいるとしよう。スブーティよ、その者は最高の教えと実践を成就したということを知るべきである。
この経典が存在する場所は、まるで仏がいるかのよう、または尊い弟子がいるかのような場所である。」
一三 その時、スブーティは師に尋ねました。「師よ、この経は何と名付けられるのですか? また、わたしたちはどのように記憶すべきでしょうか?」
師はスブーティに答えました。「この経は智慧の完成と名付けられる。その名前で記憶すべきである。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成ではないからだ。それだからこそ、智慧の完成と呼ばれるのだ。」
「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」
スブーティは答えました。「師よ、如来が説いた法は何もありません。」
「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」
スブーティは答えました。「師よ、非常に多いです。」
「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と呼ばれる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と呼ばれる。」
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物にそなわる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」
「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。それはなぜかというと、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂の数と等しいほど体を捧げたとしても、この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説く者がいるとすれば、その福徳のほうが遥かに大きいのだ。」
一四 そのときスブーティは、この教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
涙を拭い終わって、師に言いました。「師よ、すばらしいことです。如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、わたしがこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。
師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような者は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと言うのです。
師よ、わたしが今このような教えを聞いて、信じて受け入れることは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる者がいれば、その者はこの上なく希有でありましょう。それはなぜかというと、その者には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れるのが、諸々の覚者であるからです。」
師はスブーティに言いました。「その通りだ。もし他の者がこの教えを聞いて、驚かず、怖れず、恐怖に陥らないならば、その者はこの上なく希有である。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く最上の完成は、実際には最上の完成ではない。それゆえに最上の完成と呼ばれるのだ。」
師はこのように話されました。「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかというと、スブーティよ、かつてわたしがある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切無かったからだ。
それはなぜかというと、過去にわたしが身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったならば、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」
「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、わたしは五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切無かった。」
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なるさとりを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や音、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。
スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。それはなぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」
「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」
「スブーティよ、もし菩薩がものごとに執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩がものごとに執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」
「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」
一五 「スブーティよ。もし善き男や善き女が、午前中にガンジス河の砂の数と等しいほどの体を捧げ、昼間にも同じく、夕刻にもまた同じく布施を行い、このように無限に長い間にわたって体を捧げたとしても、もしまた誰かが、この経を聞いて信心が揺らがなければ、その者の福徳はそれよりも勝るだろう。ましてや、この経を書写して読み、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせるならば、なおさらのことだ。
スブーティよ、実に、この経には計り知れない、無限の功徳がある。如来は、この上ない道に向かう人々のために、また最上の道に向かう人々のために、これを説いた。もし人がこれを読み、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、広く他の人々に説くなら、如来はその人を完全に知るだろう。如来はそのような人々をすべて見ており、そのような人々は計り知れない、言葉では表せない、限りなく、考えられないほどの功徳を成就するだろう。彼らは皆、さとりに与かることになるだろう。
それはなぜかというと、スブーティよ。劣った信解にとどまる者は、この法を聞くことができないからだ。自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着する者は、この法を、受け容れられないからだ。菩薩の願いと決意をしない者には、この法を聞き、受け入れ、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせることはできない。
どの地方でもこの法が説かれる地方は、人間と天人と神々全てによって尊敬され供養すべきである。その場所はまるで仏の聖地のように、皆が敬意を表して礼拝し、花や香で飾るべきである。」
一六 「また、スブーティよ。善き男や善き女がこの経を読み、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践する場合でも、他の人々に軽んじられることがあるかも知れない。それはなぜかというと、その者らは前の生涯において、罪業によって悪道に堕ちるべきだった。しかし、現在の生存で軽んじられることによって、前の生涯の罪業は消滅し、最高のさとりを得るだろう。
スブーティよ、はるか昔、計り知れない長い無限の昔に、ディーパンカラ如来がおられ、さらに、それよりもずっと以前に、計り知れない数の諸々の如来がおられた。わたしはこれらの如来に仕え、供養し、虚しく過ごしたことは一切なかった。一方で、もし正しい教えが滅びる時代に、この経を読み、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践することによって得られる功徳に比べれば、わたしがこれまでに諸々の如来に対して行った供養の功徳は、百分の一にも及ばないし、百千億兆分の一にも及ばない。経を実践する功徳は、計算や例えで示すこともできないほど大きいのだ。
スブーティよ、もし正しい教えが滅びる時代に、善き男や善き女がこの経を読み、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践するとして、彼らが得る功徳をわたしが全て語ったとしたら、それを聞いた人の中には、心が乱れ、疑いを持ち、信じない者もいるだろう。スブーティよ、この経の意義は計り知れず、その果報も同様に計り知れないことを知るべきである。」
一七 その時スブーティは尋ねました。「師よ、善き男や善き女を問わず、最高のさとりを目指すことを強く決意した菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
師は答えました。「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『わたしは全ての生きとし生けるものを救済し、不生不滅の涅槃に導かなければならない。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかというと、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは、何も存在しないからだ。」
師は尋ねました。「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しいさとりを得たのだろうか?」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解したところによると、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しいさとりを得たのではありません。」
師は言いました。「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しいさとりを得た方法は存在しない。スブーティよ、もし、この上ない正しいさとりを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。」実際には、この上ない正しいさとりを得る方法はないので、ディーパンカラ如来はわたしに『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なされたのだ。」
それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。
もしも誰かが、『如来がこの上ない正しいさとりを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、実際には、この上ない正しいさとりによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しいさとりは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と呼ばれるものは、実際にはすべての法ではない。それゆえにすべての法と呼ばれるのだ。」
「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」
スブーティは言いました。「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」
「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」
師は言われました。「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと呼ばれるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『わたしは浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と呼ばれるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩であると言うのである。」
一八 「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」
「スブーティよ、どう思うか。一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いだろうか?」
「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに言われました。「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心だと説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」
一九「スブーティよ、どう思うか? もし誰かが、果てしなく広い世界に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」
「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」
「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」
二〇「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると呼ばれる』と如来が説かれているからです。
「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。それはなぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると呼ばれる』と如来が説かれているからです。」
二一 「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」
「師よ、如来がそのように考えることはありません。」
「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」
このように言われた時に、スブーティは師に問いました。「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」
師は答えました。「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』は、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と呼ばれるのだ。」
二二 スブーティは、師に尋ねました。「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」
「スブーティよ、その通り、その通りだ。わたしがこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと呼ばれるのだ。」
二三 「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと呼ばれるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と呼ばれるのだ。」
二四 「スブーティよ、もし、この果てしない世界にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの、七宝の富を持ち、それを布施する者がいたとしても、この智慧の完成という法の、たとえ四行詩一つでも、心に留めて、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説く者の功徳には、前の方の功徳は百分の一にも及ばないし、百千億兆分の一にも及ばないし、計算や例えで示すこともできないほどに及ばない。」
二五 「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と呼ばれるのだ。」
二六 「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
スブーティは答えました。「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」師は言いました。「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
スブーティは言いました。「師よ、わたしが師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」
その時、師は、次のような詩を歌われました。
形によってわたしを見、
声によってわたしを求める者は、
間違った努力を行なっており、
わたしを見ることはできない。
二七 「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」
二八 「スブーティよ、もし菩薩が、ガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
スブーティは師に問いました。「師よ、菩薩はなぜ福徳を受け取らないのですか?」
師は答えました。「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」
二九 「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに如来と呼ばれるのだ。」
三〇 「スブーティよ、もし善き男や善き女が、この果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と呼ばれるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と呼ばれるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちは、そのことに執着するのだ。」
三一 「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者はわたしが説いた意味を理解しているだろうか?」
スブーティは答えました。「師よ、その者は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、最高のさとりを目指すことを決意した菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と呼ばれる。」
三二 「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が、菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも、心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると呼ばれるのだ。
世界の一切のものごとは
夢や幻、影や泡沫、
露や稲妻のよう、
そのように観るがよい。」
師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。
2024年1月21日 発行 初版
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