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記述の多くは対談の書下ろしであり、難解な語彙もそれほど多くはなく、一般の人でも読みやすい印象である。コロナ禍による死者との別れの在り方や、東北震災時の行方不明者への追慕の在り方などから、『近代における死者と霊性』の捉え方を問い直す、という内容である。その中でも、『霊性』という言葉に重きを置いている。霊性とか霊と聞くと、近代から現代においての人は、どこかオカルティックな響きを感じてしまうことだろう。私自身、スイスで神智学・人智学、トルコやモロッコでスーフィズム(イスラム神秘主義)を、健康ツーリズム実践編として調査したことがある。また、チベット密教や空海密教、そして山岳修験道などに深い関心があるので、『霊性』という語彙には日常的に触れている。
この『霊性』という言葉には、その解釈範囲が無限であるが故に、一般人には少々混乱を与えてしまうのではないだろうか。あえて平易な語彙『摩訶不思議』に変換してみたらどうだろうか。誰でも、子供の頃は毎日が『摩訶不思議』な事に満ち溢れていたと思う。全てのことが、『初めて』であり、合理的知識の無い状態では『なにこれ?』と、驚きとその喜びにカラダの微細胞が震えていたことだろう。レイチェルカーソンも言っている『子供にとって、知ることは感じることの、半分も重要ではない』と。この、『カラダの微細胞で感じる摩訶不思議』という体性感覚が、『霊性』への扉を開く鍵ではないだろうか。哲学者・内山節さんは、その著作『地域の作法から』の中で、下記のような事を記述されている。
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有名な仏教研究者の一人に、鈴木大拙という人がいます。彼はアメリカで長く暮らしていたこともあって、合理性の世界をよく知り、同時に仏教学者として、非合理の世界もよく知っていました。その鈴木大拙は、科学や技術で用いられる発想、システム化をすすめるときに有効な発想である、と述べています。ところが、この発想を、本来的に合理的認識に適さない領域にまで適用してしまうと、問題が生じてくる。ある意味では、そのことに気がつかなかったのが、近代という時代なのです。鈴木大拙によると、日本人の伝統的な発想では、人間の究極の目的は、「霊性を高める」ことにあった。
人々はそのことを意識して生きていた。といっても霊性を高めるシステムがあるわけではありません。もちろん、修行の方法はいくつかあるとしても、その修行をすれば、誰でも霊性を高められる訳ではない。つまり、霊性を高めるという目的も非合理であるならば、それを実現させる過程も非合理なのです。合理的な世界とは、合理的に付き合っておけばいいのです。ただし、そんなものに深い世界はない。便利な理解として使えばよい、ということです。近代化された社会が壊してしまったものは、このバランスではないかと私は思うのです。その結果、合理性の破綻がすべての破綻になってしまう時代がつくられたのではないだろうか。
20世紀から21世紀にかけて、地球上に「秘境」と呼ばれる場所は加速度的に減少している。 2005年夏、日本山岳会百周年記念事業の一環で、数少ない秘境を訪れる機会を得た。およそ100年前、一人の日本人僧侶が単身ヒマラヤを越えて禁断の土地・チベットヘ潜入した。「河口慧海」その人である。ムスタンと呼ばれる土地から、8000m峰・ダウラギリの北側の峻険な山腹道をヒマラヤ越えした。その冒険行は「チベット旅行記」となって当時の人々を驚愕させた。
その約50年後、同じ西ネパール・ドルポ地域を訪れた、文化人類学者でKJ法の創案者・川喜田二郎氏は帰国後「鳥葬の国」を上程し、ベストセラーになった。 2005年夏、私は先人達の足音を求めて馬上の人となった。日本出発の3日後くらいには、いきなりの4000mの峠越え…。冷気をいきなり吸い込んだせいか、手先が痺れ始め馬上から崩れるように地面に這い降りたこともある。千尋(いやいや万尋かな?)の谷のような深い峡谷を幾度も越えた。まるで悪魔の喉を通過しているような不気味な斜面も登った。地図上ではなかなか判明できない谷を悪戦苦闘しながら遡行した。地球の終わりかと思われるような、そんな風景が幾度も眼前に展開した…。それに加えて、反政府勢力・マオイストのゲリラ軍団とも対峙した…。(★写真参照・45歳の即席ゲリラ初年兵である)
河口さん、川喜田さん、ご心配に及びません。 100年という年月は、さほど人間の生活を変えていないこともありますで~。私は多少複雑な思いで1ケ月を馬上で過ごした。話は変わるが、昔、ブータン国から広島に来日した僧侶をアテンドしたことがある。彼は言った。「信じられない。原爆で破壊された街と同じ街だとは…、」彼は、ブータンの学校で見た、被爆直後の広島の写真をイメージしながら来日した。ヒマラヤの王国・ブータンでは50年や100年では、風景や人の心の情景にはなんら変化がない生活を送っている。
「国民総幸福量」という、GDPなどの数値ではない基準での最高値をはじき出す、ブータンという国から来た人ならではのコメントだと感じた。そうなんだ。50年、100年では世の中そんなに変化しないものなんだ…。戦後の日本というのは、その社会が世界の常識ではない。特殊で、ある意味人類にとっては、負のスピード実験的な試みなのではないか,と思ったものだ。河口慧海師や川喜田二郎氏の記述を馬上にて思い出しながら私は、「1世紀」という時間のスパーンについて、物思いに耽っていた。
これまでの人生で、地球上のさまざまな土地を訪れた。その多くは、「秘境」や「辺境」と呼ばれる土地だった。21世紀にこんな生活を送っている人たちがいるんだ、とか、それまでに獲得した常識の範囲では、なかなか理解できない人たちやその文化背景があった。市場経済至上主義やグローバリズムといった、その時の流行りの思想信条だけが地球を席巻していないことも確認できた。秘境や辺境の土地から帰国するたびに、私の脳は見事に「時差ボケ」に陥る。言ってみれば、「価値観」「人生観」「死生観」「幸福感」の時差ボケである。
日本の、見えない常識の枠に左右されながら、ボーダレスのグローバル時代のリアリティとの狭間で、心のメトロノームが揺れるのだ。哲学者・内山節さんが言っている。「日本人はいつからキツネにだまされなくなったのだろう?」 社会のすべてが、合理的な論理で動いてゆき、あやふやで、危うく、霊性を持った世界はすべて拒否されてしまう。人間の体への不思議さが残されているにも関わらず、社会には「不思議」を追求する時間も余裕もない。目を覆いたくなるような悲惨な事件は、河口慧海師や川喜田氏、そして私たちが通過した西ネパール・ドルポでは、1000年前から現在に至るまで決して起きていないのだ。
まだまだ神話や伝説の残る社会では、人が人間のココロノヒダを大切にしながら生きているのだろう。神話や伝説は、その大切さを後世に伝えようとする物語に違いないのだ。確かに、西ネパール・ドルポでは、地形的な景観のみならず、居住する人々の描く、心の風景までもが世紀を越えても、微小な変化のみだった。やれやれ、神話や伝説が形骸化した時代に生きているわれわれは、なにを座標軸に明日を生きていけばいいのだろうか…?
★上記文章は、過去に書いたものに加筆を加えたものである。
日本では『農民』ではなく、『百姓』という言い方をします。百は数字の100で、姓(かばね)は職能的な関係で組織された一族、転じて職業という意味ですから、文字通りには、「100の職業をもつ者」、すなわち、どれかひとつが優れているわけではないけれども、あらゆる生活の技術をこなす人間のことをいう。このなんでもできる人たち、自然を相手に平均的にすべてのことをこなす人たちが里山という環境をつくりあげてきたのです。
by 中沢新一
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※ フランスの哲学者、ミシェル・セールは、次のように語っている。
「日本の伝統文化は、宗教的な面でも建築的な見地からも、生に関する自然の諸条件と、人間の生の営みのあいだに存する奥深い関係に非常に重きを置いていますね。」さらに、「この緊張関係は、西欧においても同様です。テクノロジーはほとんど同じものとはいえ、文化は相異なるのに、西欧と日本とでは事情が共通しているのは驚くべきことです。」「伝統文化が存在しない米国ではこの緊張関係はありません。」とも言い切っている。
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イスラエル出発前、「アメリカと中国のハイテク産業を巡る競合」という番組をアーカイブにて見ていた。特に中国のハイテク産業の現場を映す、その画面に登場してくる20歳代から40歳代くらいの中国人男女の姿には、少なからず違和感を覚えていた。確かに論理的、科学的な思考においては、時代の最先端を突っ走っている若者たちなのだろう。模倣やコピーという批判を受けながらも、彼らは時代の寵児の顔をしていた。しかし、私の違和感とは、その「時代の寵児」を自負する彼らの顔の表情筋の動きが少ないことにあった。
その「顔」は、中国の古代思想の核をなす「木・火・土・金・水」や「風・寒・湿・熱」などの自然環境要素に対応してきた表情筋の欠片が見つからないのだ。日本のみならず、中国を含めた全世界の「百姓」は、自然環境要素の変化に伴い、その対応スキルを磨かざるを得なかった。古代中国では、そのスキルの一つを医術・占術にまで応用してきたのではないだろうか。同じ中国という外的な風土環境は変わらない中で、ネット環境という仮想空間の中で、頭脳を駆使していくヤング・チャイナ。
アメリカには、インディアンと称せられる人々以外には、伝統文化は存在しない。と同時に、中国にては、あまりある伝統文化を絶えずスクラップ&ビルドしてきた易姓革命の歴史ではないだろうか。その、伝統文化に立脚しない両国のヤングパワーが仮想空間にて勢力争いを演じている。
さてさて、乾燥砂漠にある二つの世界巨大宗教の聖地では、どのような伝統的価値観が継承されているのだろうか。
ふっと考えることがある。神社や仏閣、仏様を撮影しているとき・・。『なんでもない場所や場面に、何故魅了されてしまうのだろうか・・?』と。もちろん、それらの佇まいに美しさを感じているのだろう。しかし、それ以上のなにかに引き寄せられている。その場に漂う、超然とした気配が肌に取りつく・・・。その感触に、体の細かい細胞が耳を澄まし始めているような、そんな気がするのだ。それは、もしかすると、多くの人々の『祈り』の声なき想いの囁きが、古の時代より蓄積されているからではないだろうか。
『心が、安らかで、そして穏やかな状態』を願う、人々の『祈りの時間』が刻み込まれている空間。それは、奈良や京都などの有名な名刹・古刹だけではないだろう。地方のなんでもない無名の祠やお地蔵さん、などにもその『囁きの空気感』が漂っている。身体の細かい細胞がその『囁きの空気感』に触れたその瞬間、私はカメラのレンズをその対象空間へと向けてしまっているのかもしれない。写真の構図を考えるということは、その場の空気感をできるだけ洩らさずに取り込んで、伝えようとする行為ではないだろうかと思う。
それは、撮影技術テクニックとは別もののような気がしている。写真を見るとその人の心の心象風景が現れてくる、と言われている。その場の空気感をどう感じたのか、という内なる囁き声が、作品から滲み出てくるからではないだろうか。
「人生観が変わった」この言葉を、旅の同行者より幾度となく聞いてきた。地球のツボのひとつ、ヒマラヤ山麓にあるキャンプサイトで迎えたある朝。薄ピンク色から黄金色にしだいに変化してゆくヒマラヤの山肌。壮大な自然が繰り広げる、シナリオのない一度限りのドラマが展開する。
ものの十五分程度のそのドラマが、五十年、六十年生きてきた人たちの人生観を変える魔力を持っている。「人生観が変わった」とは、辺境への旅の醍醐味が凝縮された言葉ではないだろうか。
I have heard this phrase "my view of life changed" from traveling friends. One morning greeted at a campsite in the foot of Himalaya Mountain, one of the key points of the earth.
The mountain surface of Himalayas gradually changing from light pink color to golden color.A one-off drama with no scenario developed by magnificent nature will develop.
That drama about 15 minutes of things has the magical power to change the view of life of people who have lived 50 or 60 years. "My view of life changed" is not the word that the real pleasure of a journey to the frontier was condensed.

その荘厳な大自然は、あえてこの過酷な道を通過する旅人への僥倖を数多く用意してくれていたのだ。なんといっても烈風に舞う砂塵に巻き込まれた時の記憶は忘れられない。その日の午前中は快晴無風だったが、午後急速に空模様が変化した。烈風が砂の粒子を巻き上げ、灰色のベールとなって進行方向を覆い始めた。砂漠から流れてくる砂は路面にも積もり始め、路肩がしだいに霞みはじめた。それは砂地と道との境が無くなり、道路という言葉が消えてゆく瞬間だった。消えていったのは道路だけではなかった。
大気中に溢れ出た砂塵は、空と地面との境界線-すなわち地平線を視界から消失させていった。それからの数分間、我々の車は一切の「枠」というものが見えない空間を移動したのだ。耳にするのは、風の音と車のエンジン音。体が感じるのは、小刻みに揺れる車体の振動のみ。確実に動いているのだが、距離感や速度感、さらには重量感といった「実感」が無くなり、心地いい浮遊感を砂の大海原にて体感できた。
このように自然が展開する非日常の諸現象は、旅人たちの心象風景に強烈なインパクトを与え、その旅にも彩りを添えてゆく。「一度足を踏み入れたら、二度と出て来れない」と称せられるタクラマカン砂漠。もしかすると、自然現象の奥深い魅力に取り付かれた人が命名した言葉なのかもしれない。
遠藤周作著『沈黙』のモデル舞台となった、長崎県外海にある黒崎教会。この教会から車にて、ほんの2〜3分の海沿いに、遠藤周作文学記念館がある。そこには、『思索の小部屋』と名付けられたスペースがある。
サンルームのような窓辺には、テーブルと数台の椅子が備えられている。そして、部屋の奥まった場所には、遠藤周作氏の著作が並べられている。
窓辺の席に腰掛け、海に乱反射する陽光を浴びながら、「信仰とは」などについて暫し物思いに耽るのである。その後、黒崎教会へと向かう。今度は、ステンドグラス越しに差し込む多彩色の陽光を背に浴びながら、暫し前屈みになるのである。
信仰心の薄い私は、この地を再訪できた事への感謝とともに、先月訪れたイスラエルの聖地巡りについて沈黙の報告をするのであった。
1992年4月。地球のテッペン・北極点で私は新たな夢を抱いていた。ま~るい地球にも軸足がある。それが北極と南極。この二つの極地を訪れ、自分の足で『地球をサンドイッチ』する。マイナス27度の北極点で、私の胸だけは沸々と熱気が上昇していた。
それから15年・・・。2007年1月。南極へと向かう小型飛行機の機内。荒天で名を馳せたドレーク海峡の上空で、硬くて狭い座席にサンドイッチされながら、身動きできない私は一抹の不安を抱いていた。前日は南極上空の天候が好転せず、行程半ばにして泣く泣く引き返していたのだ。残されたチャンスはこの日のみ・・。日本から北極点までは片道5日だった。奇しくも今回同じ日数をかけて南極へと到達しようとしていた。
Earth sandwich · vol01
April 1992. I had a new dream at the Top of the Earth that is the North Pole.There is also limits on the planet Earth. Both is the North Pole and the South Pole. Visit these two extremes and sandwich the earth with my own legs.Temperature minus 27 degrees on North Pole, my heart was boiling and enthusiasm rising. In case After 15 years .... January 2007. A small airplane heading me for Antarctica.
In the sky above the Drake Strait, which was named for stormy we were sandwiched by hard and narrow seats, and I could not move, I was in a state of anxiety.The weather on the Antarctic sky did not improve on the previous day, and it went back crying in the middle of the process.
The only remaining opportunity is this day.It was five days one way from Japan to the North Pole. Strangely, this time I was about to reach the South Pole over the same number of days.
昨日は、「能楽・船弁慶」の勉強会があった。この能楽に登場する人物群は、「源義経・武蔵坊弁慶・静御前・平知盛」などである。義経が兄・頼朝の嫉妬による「いわれのない放追」により、大物浦(現在の尼崎)から、瀬戸内海を西方面へと船により脱出する際の出来事である。前半は、義経の妾である「静御前」が同行を拒絶される際の問答場面、そして後半は、壇之浦合戦の敗軍の将・平知盛の怨霊が行く手を阻む場面となる。
シテ(能における主人公)を演じる役者は、前半を別れを惜しむ生きている女性を演じ、後半は恨みを持ちながら怨霊となった男性を演じる。双方ともに、悲劇のヒーローである義経の「往く手=西の海」への航行を阻むのである。この能の語りの中には、「東は伊勢神宮、西は西方浄土」というくだりも出てくる。義経の往く手とは、西の海=西方浄土なのである。すなわち、生きている生身の女性・静御前も、死んでいる怨霊の男性・平知盛も、義経の死出の旅を阻んでいるのである。このストーリー性もユニークであるが、何といってもシテが演じ分けるトランスジェンダーな世界が、この能楽の最大の魅力ではないだろうか。
悲劇のヒーローの妾と、そのヒーローによって入水自殺に至った敗軍の将。栄枯盛衰の極致にある男の身体に纏わりつく、渦巻くカオスの情念世界。その二性の情念世界を、能面と衣装の着脱によって変幻させていかなければならない。そもそも、能舞台は野外に設定されるものであった。そして演じられる時間の多くは、写真のように宵闇せまる頃であったと聞く。「夜の帳がおりるころ」とはよく言ったものである。『帳(とばり)』という「時の結界」が解かれることにより、二元的世界もその境界をぼかし始めるのだろうか。有と無、縦と横、前と後、男や女、などの二元的世界の境界からの解放の瞬間、魂において大きな迸りが発するのかもしれない。折口信夫は、その「迸り(ほとばしり)」に魅了されたのかもしれない。
多様な日本の里地・里山の自然。ご存じのように日本列島は縦長である。その弓状の国土の中には、亜寒帯、冷温帯、暖温帯、亜熱帯の気候帯を含んでいる。この気候帯の違いによって、日本列島のなかでも自然環境の諸相やその変化のあり方、そして自然と共生する人々営み風景も異なっている。北海道の森に入ると、エゾマツやカラマツなどの木肌に凍裂(木肌に水分が入り込み、冬に凍ると膨張に、木肌に裂傷を負わす)の縦割れ筋があり、シベリアや北欧の自然を想起させてくれる。
一方、南の島・屋久島では、巨大な杉の樹木が幾千年の静かな物語を紡いでいる。南の暖かい気候の中での育まれた森の物語は、多くの人を魅了している。その両者の間においても、列島の各地では四季折々の表情豊かな風景が展開している。その風景を担っているのが、里地・里山ではないだろうか。日本海に浮かぶ島・佐渡島の東端の岬では、黄色のかんぞうの花が辺りを染め上げる時期がある。同じころ、尾瀬沼は水芭蕉により淡い白色の色彩美の世界が展開している。
日本における里地・里山の風景は、自然と人間の営みの結晶である。言い換えれば、自然と人間がどのように「折り合い」をつけてきたのか、という「物語の舞台」でもあったのである。それだけに、その風景の美しさは、自然と人間が創り上げてきたといえないだろうか。
Even between the two, expressions rich in the seasons are developing in various parts of the archipelago. Is not it a Satochi / satoyama that is responsible for the landscape? On the island floating in the Sea of Japan - At the eastern end of Sado Island, there is a time when yellow flowers dyed around.
At the same time, Ozenuma has developed a world of pale white color beauty with water basho. The landscape of satochi and satoyama in Japan is a crystal of nature and human activity. In other words, it was also a "stage of the story" of how nature and people "brought together". Therefore, it can not be said that the beauty of the landscape has been created by nature and human beings.
ブータンでは様々なものが「回旋」します。
お祈りの際に廻すマニ車、お祭り時に鹿の面などを被る仮面舞踏、仏塔や聖地巡礼での左廻り歩き、そして善悪所業の輪廻という概念……。
何ごとも直線的・二元的な動きでなく、螺旋型のリズムが精神の深層部分にあるといえるかもしれません。また、ブータンでの伝統的着物は、見事なまでの染色デザインが施されています。
その手織りの現場に立ち会うと、ブータンの人たちの、死生観や宇宙観、幸福観といった目には見えないものが、魂の文様として織物の中に紡ぎ込まれていくかのようです。
伝統的価値観というものは、口頭や文書で伝わる一方、生活のなにげない営み風景の中に螺旋のリズムで織り込まれていくようにも思えます。
※医学雑誌への寄稿文より抜粋
ヒマラヤ越えの旅は、現代においてもなお、艱難辛苦の日々が大きな壁の如く、人々の前に立ちはだかっている。2004年秋、私は写真のような『景』の中にいた。明治時代・求道僧の足跡探査の学術調査チーム参加時のショットである。調査を進めてゆくにつれて、私の心の中では求道僧・河口慧海師の並外れた使命感や行動力、そして強靭な意志力が鮮烈な色彩を帯び始めていた。現代人が忘れがちになっている、未知なる世界への素朴で強烈な探究心を再発見させてくれたのである。
それが慧海師の足跡を辿る学術調査行における、私の心の最大の収穫物ではなかっただろうか。コンピューターを駆使する現代社会に住む日常においては、色彩に乏しい無機質な時間が多くなりがちである。そんな時の心の処方箋は、みずみずしい命の輝きや、力強く逞しい生命力、穏やかで静謐な安らぎの時を体得することだと思う。未知なる世界への憧憬心や探究心がその体得への序章ではないだろうか。
約百年前の求道僧・河口慧海は、すでにそのことに明確な実感をもっていたに違いない。慧海師と同時代には、島根県金城町出身の僧侶・能海寛師がチベット入りを目指して行動をおこしている。現代の若者たちと一緒に、故郷の先人の偉業を振り返ることで、チャレンジ精神の大切さを共に学ぶ旅に出たいとも思う。明治時代の青春群像からも、私たちのこれからの行動の指針へのヒントが学びとれるはず、と私は強く感じている。
夢やロマンを語ることが少ない現代において、辺境の土地への旅は私たちに少々苦く辛いが清涼感のある刺激を与えてくれそうだ。若者たちよ、いざ魂の上半身を辺境の地へ、前のめりに傾けてみようではないか。
Spiritual field energy in the Ⅼandscape (Trip to Tibet over Himaraya )
In everyday life living in modern society making full use of computers, there is a tendency that there are many inorganic time scarce in color. I think that the prescription of the mind at such time is to acquire the brightness of the fresh life, the powerful and sturdy life force, the time of calm and serene peace. The admiration and inquiry into the unknown world is not a prelude to that body.
In contemporary times where we talk about dreams and romans less often, the journey to the land of the frontier seems to give us a stimulating stimulus that is bitter but bitter for us. Let's tilt the upper body of the soul to the frontier of the emergency, youths, to the front.
翻って現代の「(町)マチ」での暮らしはどうであろうか。加速度的に変化する社会の流れは、私たちから微笑むことの素晴らしさや人生への手ごたえ感を忘れさせ、無言の叫びや嘆息、悲しみや怒りといったちょっと暗めの色を人生のカンバスに塗り重ねていくばかりである。そしてささくれだった心の襞が軋みはじめる頃、ようやく「和み」「安らぎ」「温もり」「癒し」といった心の保温材の大切さに目が向き始めるのである。
心が保温材を求め始めた際、なぜか人は古来より「山辺」「野辺」「浜辺」「川辺」といった「辺地」「端部分」に出掛けてきたのである。「物見遊山」とは、「山野を遍歴しながら事物を観る、そして人生を見直す」ことだったはず。また俳句や短歌を詠む風流さとは、自然の機微を感じることで強張った日々の感性を解きほぐすことだったのではないだろうか。
非日常の自然界の持つ力とは、人間の内なる自然治癒力を覚醒させることなのかもしれない。日本各地の「里(サト)」という場所には、「調息」「調身」「調心」といった人生を整える作業をおこなう機会を与える場の力がまだまだ潜んでいる。
Spiritual and Ⅿagnetic field energy in the Ⅼandscape (Back to the countryside 2)
The flow of society that changes in an acceleration will make us forget the wonderfulness of smiling and the feeling of commitment to life, paint a slightly dark color such as silent screams and sighs, sadness and anger on the canvas of life It is only. And when the pliable heart fold starts to squeeze, finally the eyes turn to the importance of the heat insulation material of the heart such as "Relaxation" "Warmth" "Healing". The unusual nature's power may be to awaken the inner natural healing power of human beings.
その瞬間のことは、よく記憶している。というより、鼓膜に残響音がこびり付いている。山陰地方の山間部。出雲神話の残り香が、日常のそこかしこに垣間見れる小さな街での夏祭り。西の山並みを紅色に染めながら、夏の夕陽は足早に去っていき、暮れ時が微睡みながら足踏みをはじめた頃。
たかだか百メートルほどの、街のメインストリートが異様なほどの熱気に包みこまれてきたのである。
威勢のよい掛け声が、微睡む暮れ空を突き破り、その裂け目から力強い太鼓の音が飛び込んできた。顔にペインティングをした、女性の踊り手が飛び跳ね、往来の地面を震わせながら練り歩いてゆく。山車の上では、二の腕と背中を露出した打ち手により連打される太鼓の音が、夜空を占拠しはじめた。そして、男女の打ち手が両手を突き上げ、咆哮のような叫び声を挙げたその時、、。
残響する太鼓音と、弾けるような花火音が、夜空の音楽ホールにて見事な協和音を奏でたのだ。
偶然にもその瞬間に、山車の下からシャッターを切った私は、思わず身慄いしたことを憶えている。
鳥取県・妻木晩田(むきばんだ)遺跡。場所がもつ悠久の歴史もさることながら、展望地としての魅力も伝えたい。遺跡の敷地内からは、遥か北方に美しいアーク(弧)を描く弓ヶ浜とその背後に横たわる島根半島の峰々を見渡すことができる。
そして遺跡の南側には、「高麗の人々が、大山との背比べの為に運んできた」との説がある孝霊山がその秀麗な山裾を広げている。そしてその孝霊山の背後に、霊峰・伯耆大山の雄姿が見え隠れしている。
遺跡周縁にて活動していた弥生人の日常は、当時でも桁外れに美しい風景の中で展開していたに違いない。遺跡の見学は、史跡公園内にある「弥生の館むきばんだ」からはじめたい。
ここでは妻木晩田遺跡の最新調査・整備状況の報告展示から、弥生遺跡に関する演目などの講座も開催されている。遺跡の概要を掴んだ後は、復元された遺構群へと野外に足を延ばしたい。
特に「洞の原地区」と呼ばれる一角では、土屋根竪穴住居、骨格復元竪穴住居、掘立柱建物などを復元建物として見ることができる。この掘立柱建物辺りから見る弓ヶ浜の景観は絶品である。
虚心になり森羅万象の恵みの中で歩いていると、体中から娑婆気が抜け山野の香気に全身が洗われる気がする時がある。自然界のささやかではあるが、営々と続いている大いなる命のハーモニー風景に出逢うことにより、身体の隅々にある微細な細胞群が喜びに溢れているのが体感できる。その命のハーモニー風景との出逢いとは、ちょっとした刹那で起きる偶発的瞬間なのである。
それは、淡い緑の森にて若鳥のさえずりを聞いた時や、
清澄な空気の漂う湧き水を口に含んだ時、
木漏れ日の彼方から吹いてきた風が肌を擦った時、
腰掛けた岩に付いていた苔の匂いをおもわず嗅いだ時、
そして、はらはらと揺れながら舞いおりる落ち葉にしばし目を奪われた時、
などの偶発的瞬間なのである。その瞬間心の奥では、ささくれだっていた襞が静かに打ち震えはじめ、見えない内なる鎧や錆付いた棘がおもわずポロリと脱げ落ちているのかもしれない。
ギッタンバッタン、ギッタンバッタン、この織り機が奏でる音から日本の子どもが思い浮かべられるのは、昔話の物語りくらいかもしれない。しかし、アジアの僻地を旅していると、今でもこの音は日常生活には欠かせない音として残っている。アジアの伝統織物の担い手は、一般の家庭の主婦たちである。各地に残る伝統的な技法で織られる布には、独特の色彩と図柄が施されている。
その色彩感や神秘的な文様には、土俗の信仰心や宇宙観などが反映されていると聞く。驚かされるのは、彼女たちが描かれたデザインなどを見ずに織ってゆくことである。豊かな配色や複雑な図柄を、彼女たちはどのように伝承してきたのだろうか。
バングラデッシュ東部のある大家族の農家を訪れた時のことである。朝ごはんのかたづけがひと段落した主婦たちは、簡素な織り機の前へと移動した。織り機は、風通しの良い軒下と、庭の木陰の下に置かれていた。洗濯物が風に揺らぎ、庭先では犬が昼寝を始めた。そんなまことにのどかな風景の中を、織り機の音はゆっくりと流れはじめた。しばらくすると、近くで遊んでいた女の子たちが織り機の傍らに座り、じっと母親たちの手元を眺めはじめた。母親たちは、絶えず糸を紡ぎなからも明るく朗らかに娘たちに語りかけている。娘たちは、母親の指先と顔を交互に見ながら、話しに聞き入っている。はっと気がついた。
いままさに母から娘へ何かが伝わろうとする瞬間なのだ。母親たちの指先からは伝統の技法が、言葉からは民族の精神的な拠り所が、そして笑顔からはそのやさしいまなざしが、娘たちへと伝えられようとしているのではないだろうか。そして娘時代の母親たちにも、このようなのどかな時間があったのだろう。アジアの僻地に残る織物には、伝統の工芸技法とともに、母から娘へと伝えられた庭先でののどかひと時が織り込まれているに違いない。
日本人と結婚し、大阪に住んでいるチベット人女性から聞いた話である。彼女はチベット高原を遊牧しながら生活する家族の一員として育った。大家族で、いつもうるさいくらい家の中は賑やかだったらしい。子どもにもしっかりと労働の役割分担があった。燃料とする乾燥した家畜のフン拾いや水くみなどである。夕食時間には、家族全員が食卓を囲み、一日の出来事を話し合うのが習慣だった。
そんな団欒の時間から、彼女は父親の力強さと、母親のやさしさを学びとったという。そんな彼女が日本に来て一番驚いたのは、家族が食事のときにテレビを見ながら、ほとんど会話を交わすことなく食べることだった。家族が一緒にいながら、そこには共有する時間が流れていないことに彼女は戸惑った。彼女の故郷・チベットは、標高四千メートル前後の乾燥した高原地帯である。物質文化が徐々に浸透しているとはいえ、厳しい自然条件と仏教への強い信仰心が、大半の人々の生活からシンプルさを失わせていない。
チベットの中心地・ラサの都には、セラ寺やチョカン寺など有名な寺院も多くある。街中では地方から巡礼に来た人たちの姿も多く見かける。遥か遠く離れた土地からの巡礼に、数ケ月から1年前後の月日をかける人もいる。家族や一族を単位とする巡礼団がほとんどであり、その多くは徒歩を移動手段としている。粗末なテントで野宿し、僅かなおかずを分け合いながらの家族の旅は、遊牧をする家族の生活と似ている。その旅で共有する時間の濃密度が、家族同士の心の絆をより一層強固なものにしている。
春休みなどに家族で旅行を計画している人も多いことだろう。あまり積極的に家族サービスをしてこなかった者の言い訳かもしれないが、家族旅行はどれだけ費用をかけ、どこまで遠くの観光地へ出かけたかではない。どんな近場の日帰り旅行であっても、どれだけ家族の心に深く関わったかが大事なのではないだろうか。家族旅行は、家族の絆を確認するとともにその絆をより太くするチャンスなのだから。
里とは不思議な言葉である。「土」という文字の上に「田」がのっかかっているようだ。「土」とは万物の源のひとつであり大地の持つエネルギーといってもいいだろう。
その上に「田」という人の営み風景がのっかかるのである。すなわち、「里」とは、自然界の土俵の上でなされる人間の営み世界と思うことができる。
そう考えれば、里地・里山・里海・里森・里川などの言葉には、奥行きと厚みや深みを感じずにはいられない。古来より日本の各地においては、山、森、巨木、岩、泉、滝、島、岬などには「タマ=霊」や「カミ=守」が宿るとされ自然崇拝の対象ともなってきた。
里地や里山、里海とは、人間の俗なる日常と聖なる非日常とが入り混じる場所でもあった。ほんの少し前までの「里(サト)」という場所は、人生を全うする生活の場でもあり同時に「浄めの場」や「癒しの場」でもあったのである。
長崎県外海にある遠藤周作記念館にて、『わたしのイエス』という氏の著作を買った。イエスの生涯を、狐狸庵先生風のタッチで描いている。
先月イスラエルにて、キリストに関わる聖地を各所訪れている。本に書かれている土地が、脳裏に蘇りながら文字を追うことが出来る。その中でも、淡水湖であるガリラヤ湖と、塩水湖である死海の風景比較が秀逸である。
ガリラヤのナザレにて生誕するイエスは、死海近くのユダ荒野にて、洗者ヨハネより洗礼を受ける。草木が乏しいユダの荒野での修行の中で、イエスは旧約聖書の父なる厳しさとは別種の「神の愛」について思索を深めていく。
淡水湖ガリラヤ周縁にては、動植物の多彩なイノチが輝いており、イエス自身も、慈母愛に目覚めていく。この辺りの歴史的物語を、異なる風土に照応させながら描写していくのである。
遠藤周作氏の「死海のほとり」や「私のイエス」は、キリスト教を理解する入門書として有効である。
スーパー・ブラッド・ウルフムーンとは? アメリカでは、1月の最初の満月を「ウルフムーン」というらしい。ネイティブアメリカンの人々が、真冬の食糧不足に狼たちが嘆く、というので「ウルフムーン」と呼ぶようになったと言われている。また、皆既月食の時には、月が真っ赤に染まることから、満月時の皆既月食を、スーパー・ブラッド・ウルフムーンと呼ばれている。
今夜のアメリカでは、その(冬に飢えても血気盛んに、月に向かって咆哮を挙げる狼)を想起させる夜であった。地球に一番近い星・月は、狼のみならず命ある数多くの動植物が絡む物語や神話にも登場する存在でもある。臨床心理学者の河合隼雄氏は、「中空構造・日本の深層 (中公叢書)」の中で次のように述べている。
※ 以下は筆者意訳である。
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対立と和合を繰り返す、アマテラスとスサノオの姉弟の狭間(繋ぎ目)には、ツキヨミがいる。
しかし、ツキヨミは神話の中では、殆ど存在感は露出してはいない。しかし、太陽(アマテラス)と、海=地球(スサノオ)の狭間には『中空としての月』が、不可視ではあるが重要な役割を果たしている。
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古代から、日本人にとって『中空』を象徴するシンボルが『月』だったのではないだろか。それは、皆既日食や月食という、信じ難い驚天動地の天空ショーを目の当たりにしたからに違いない。その中空である月が有する幻想世界は、出来得る限り後世へも残しておきたいものである。
昨今は、人工的に流れ星を発生させたり、月の裏側にいる?ウサギの数までカウントできるテクノロジーが開発されている。ファンタジーとは、手の届かない遥か彼方にある世界への憧憬から、生まれ出ずる世界であろう。我々は、月夜に吠える狼に思いを馳せるひとときを、取り戻さなければならないと思う。
昨年秋、長野県の戸隠山を訪れた。修験道の山である。奥社へと続く杉の巨樹並木でも知られている。中社の近くにある宿坊にて泊まった翌朝、ふと気になり宝光社へと向かった。肌が引き締まる朝の冷気に包まれた社叢の森は、まだ目覚め前だった。一歩一歩、急傾斜の参道石段を昇っていると、背後に屹立する巨樹の林越しに、柔らかな朝の光線が降り注いできた。
その瞬間、石段右手に建つ木製鳥居辺りから、何かの「息遣い」が起ち上がる気配を感じていた。わずかに歩みを留め、ゆっくりと視線を宙に浮かせはじめ焦点をあえて朧気にしてみた。
「目は開いているが、視神経からの情報を宙に飛ばす」
それは言ってみれば、自らの意識下にある「存在」をも消す行為であり、立位での「止観」とも言えよう。自然の中に入る時、私はよくこのアクションをとる。木漏れ日に包まれた時、滝の飛沫を浴びる時、そよぐ風に肌をさすられる時、、。
その時、私の五感は研ぎ澄まされながら統一されていき、身体は1つの大きな感覚受容器になっていく気がするのである。その大きな感覚受容器になった私の身体(無意識下の存在)が、自然が奏でる旋律を感知するのかもしれない。
沖縄の現地踏査でも、ウタキ(御嶽・聖域)に入ると体ごと霊気に没入されていた。そして敏感な感性といったのは、何にせよ正当性を嗅覚的に感知するのではないかと思わせることも多かったからだ。もしかしたら、梅原さんは聖徳太子や柿本人麻呂も、嗅覚的に魂のかぐわしさを感じ取ったところから、研究を始めたのだろうか。
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by 中西進(万葉学者、奈良県立万葉文化館名誉館長)
※ 知人が梅原猛さんの著作編纂の仕事をしていた。その際、梅原さんの日常の一端を聞いたことがある。
京都東山山麓のご自宅に帰宅した際、玄関先から書斎までの間に、まるでいたずら小僧のように、
靴、靴下、ズボン、ネクタイ、背広、シャツ、と順に脱ぎ捨てていくそうである。それを、後追いする奥さんが、丁寧に拾っていき、書斎に入ると自宅着を背後からかける、そうである。
梅原氏は、ふと着想を思いついたら、場所がどこであれその世界にどんどん入り込んでしまわれる、とのことであった。梅原さんの著作には、少なからず影響を受けた。特に、日本の古代についての独創的な語り口や文章は刺激的であった。
残念ながら昨年亡くなった、カトマンズ在住で知人A氏は、ボディバランシングの専門家であった。バザールでの彼の着眼点は「歩き方」にあった。人種が違えば肌の色、言葉の差異が当然生まれる。さらに民族がその遺伝子によって伝承する、体格、骨格、食生活、そしてその背後には、色とりどりの文化がある。A氏は、個々人の歩き方に注目し、身体が素晴らしいハーモニーを奏でる歩き方が、健康と長寿の秘訣であると仮説をたてた。
日本から医学や健康学の書籍を多数取り寄せ、さらに、インドやアジアの伝統医療の根本精神も現場で直に体験した。世界中の民族が往来する国際都市カトマンズで開業するクリニックには欧米やアジア各地の国籍の患者が集う。様々な身体を診てきた彼は、最近の日本人の「歩き方」を心配している。その多くが「軸のない歩き方」だと言うのだ。大地との接点である足裏から股関節、そして背骨、首、頭に至るラインに「軸がない」のだそうだ。
これは、骨格や体型だけの理由ではなく、もっと他に原因を求めるべきなのでは、とA氏は言う。「軸が無い」という言葉の前後には、もしかすると「日本の政治」はもとより、「生き様」や「人生観」などの単語が見え隠れしているのではないだろうか・・。
インド南部ゴアの近くからだそうだ。この場所は、カルスエルヤフド。キリストが洗礼者ヨハネから受洗した場所であり聖地中の聖地であるが、意外にも簡素な雰囲気である。その背景には、この場所がパレスチナ自治区内にあることも言えよう。ヨルダン川の真ん中が国境で、対岸はヨルダンなので、渡ることはできない。
しかもヨルダンの教会の周辺は地雷が埋まっており、しばらく一般立ち入りが禁止されていた。イスラエル側も、dangerマークがあるところは地雷がまだ埋まってるところである。これまで世界各地の聖地にて、多くの巡礼団と出会い、聞き取り調査もしてきた。調査時の記憶に残る印象は、対象者の語る内容というより、その至福の表情であった。人が生きていく上で、宗教や信仰に限らず、この至福の表情やひと時を求める行為を忘れてはならない。
Israel 's Comparative Culture Survey · Holy Land Compilation. A Christian pilgrim team from India who came to soak legs at the Jordan River. It is said that it is from near India's southerly Goa. This place is Karueruyahudo. It is a place where Christ was washed from John the Baptist and is a sacred place in the sacred place, but unexpectedly it is a frugal atmosphere.
In the background, it can be said that this place is within the Palestinian Autonomous Region. The middle of the Jordan River is the border and the other side is the Jordan so you can not cross it. Moreover, landmines were buried around Jordan's church, and general access was forbidden for a while. Israeli side, where the danger mark is, is where the landmines are still buried.
I have met many pilgrims in the sacred places of the world so far and have interviewed it.
The impression that remained in the memory at the time of the survey was the expression of bliss, rather than the subject's talk. As people live, do not forget religion and faith, acts seeking this blissful expression and time.
※写真は、広島県庄原市・帝釈峡・雄橋(おんばし)
下記はとある論文から。
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この心身二元論から霊心身三元論への転換には、かなりの苦痛を伴うことが予想される。人間観 、仏観(超越者観)、自然観などを含む一切の物の見方、ようするに世界観全体が根底から覆されて刷新されるような激変を要するからである。
人間は霊心身からなるとする霊心身三元論への転換は、人間観 に関して根源 的な刷新を伴うことになるはずである。人間は不死なる霊性(神性 ・仏性)と、死すべき人間性の双方を具備した存在、ようするに不死性と可死性の複合的存在と見なされるのである。
つまり、人間観は、従来の「死すべきもの」から、「不死なるもの」と 「死すべきもの」 との複合に変わって、 いわば 「無限と有限の関係」 として捉えられる。 神仏観は、「有限な人間存在に眼差しを向けて包み込 む超越者(人間を超越する神仏)」から、
「人間に内在する超越者(人間に超越的に内在する神仏)」へと自ずと変貌するだろう。 また、人間観や超越者観の転換に即応して、自然観も「人間と対立する自然(人間の外なる自然)」から、「人間に内属し共生する自然(人間の内なる自然)」 へ と焦点が移り変わるであろう。
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by 棚次 正和(たなつぐ まさかず )宗教学者・京都府立医科大学教授。
ヨーロッパとアジア、その境目に沈む夕陽ほど心を揺さぶるものはないだろう。
トルコ・イスタンブールの港からのボスポラス海峡クルージング。乗船するたびに、その時間帯にこだわっている。もちろん、サンセットクルージングを選ぶのである。
往路は東、すなわちロシアの黒海方向へと向かう。そして復路は写真のように、イスタンブールの街へと向かうのである。
そして、暮れの空に浮かぶモスク群が、波間に揺らぎ始める時間が訪れるのである。幸運であれば、そのモスク群のスピーカーから祈りのコーランが聞こえてくることもある。
船の上からのイスタンブールの夕景を眺めていると、やはりオスマントルコ帝国時代の栄枯盛衰に思いを馳せることとなる。世界史の十字路とも呼ばれるイスタンブール。
現代においても、その地政学上の重要性にはまったく陰りはないのである。この街、この国が、揺れ動くときには、世界が新しい枠組みへと変化していくタイミングではないだろうか。
国内の山や森を案内していると、ふとしたはずみに頭上からサーッと射し込んでくる木漏れ日に全身が包み込まれることがある。
一瞬ではあるが、あまりの神々しさに思わず歩みを止めてしまうのである。同じような場面は、なにも自然の中ばかりではない。写真は、ブルガリアの教会を訪れた際のもの。
取材が終わり、石畳を歩いていると、なぜかしら背後に温かいものを感じて振り返ってみたのである。礼拝堂横の樹林から漏れ射し込む光の筋が、朝露にそぼ濡れた石畳に柔らかく届いていた。
その石畳の上を礼拝堂を開けてくれた鳥打帽おじさんが背中を丸めて歩いていた。このおじさんは、どれだけの歳月にわたり礼拝堂の管理をしてきたのだろう。
そして、どれほどの木漏れ日を背中や鳥打帽に受けてきたのだろうか・・。中年太りしたおじさんの体形とややくたびれた上下の服装、寒そうに両手をポケットにねじ込む姿。
物憂げな歩み方、そして、おそらくや何十年と彼の頭に乗っかった鳥打帽・・。
その一瞬の光景は、私が勝手に抱いていた『旧東欧諸国の日常』というのを見事に具現化していたのかもしれない。
国譲り神話の浜としてその名を知られているが、別の神話の地にも近い場所だということは意外にも知られていない。この稲佐の浜に立ち、南西方向を見てほしい。浜に打ち寄せてくる波の上に、ほれぼれするくらい優美な尾根ラインを見せている山がある。
国引き神話に登場する三瓶(さんべ)山である。その三瓶山方面へと弓状に続いていくのが、国引きの際の網になったといわれる長浜海岸(薗の長浜)である。
日本歴史にとり重要な二つの神話が接する場所としても、稲佐の浜の魅力がわかっていただけるだろう。その浜にはぜひ出雲大社から徒歩にてアプローチをしてほしい。人出の多い大社内を西に抜けると、すぐ閑静な住宅地へと入っていく。
左手には、出雲阿国(歌舞伎の原型を創始した安土桃山時代の女性芸能者)の墓所や諸寺の墓地が連続してくる。墓地群が終わるころ、前方から波が浜に打ち寄せる音が聞こえてくるだろう。
その打ち寄せる波の音とともに、旧暦10月の神在月(かみありつき)に全国から八百万の神々が出雲へと還ってくるのだろう。
度重なるスケジュール変更や、長時間の移動距離に対する忍耐力と少々の経済力さえあれば、南極到達の旅は一般人にも門戸が開かれている。南極の中でも比較的温暖な気象条件下にある、キングジョージ島までは、南米最南端の町・プンタアレーナスから片道3時間のフライトだった。タラップを運んで来るチリ観測基地のスタッフは、日本の冬山程度の装備だった。扉が開く瞬間、冷気の進入に身構えたが、なんと外気温はプラスの2度・・。
「えっ! ほんまにここが南極?」大陸全体が厚い雪氷に覆われ、ブリザードが一瞬にして視野を白濁させる、そんな南極に対しての固定観念が多くの人にはある。しかし、南半球の1月は夏真っ盛り。さらにキングジョージ島は南極の中でも比較的温暖な気候に属している。ゴムボートに乗って向かったペンギン営巣地では、ペンギン達が快適に海水浴しているような光景にも出会った。アザラシ達は柔らかい砂地の海岸でお昼寝の真っ最中だった。
百聞は一見にしかず・・。チェリー・ガラードは「探検とは知的情熱の肉体的表現」と述べている。与えられた画一的な情報ではなく、自らの五感で感じ取る肉体的情報が、新たな知的情熱を育むのではないだろうか。
生命とは一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。いつか読んだ本(「ものがたり交響」谷川雁)にこんなことが書いてあった。
『 すべての物質は化石であり、その昔は一度きりの昔ではない。いきものとは息をつくるもの、風をつくるものだ。太古からいきもののつくった風をすべて集めている図書館が、地球をとりまく大気だ。風がすっぽり体をつつむ時、それは古い物語が吹いてきたのだと思えばいい。
風こそは信じがたいほどやわらかい、真の化石なのだ 』
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by 星野道夫
※ 標高5000m、チベットの国境が近いヒマラヤの峠。
秋の北風は、礫石の山肌を速足で駆け上がってくる。そして、旅の安全を願う為に経文が書かれた五色の旗を、激しく打ち震わせていた。それは、今まさにヒマラヤを越えようとする、渡り鶴の群れのようにも見える。風と旗が奏でる不協和音は、無数の鶴が飛翔する羽音のようにも聞こえてくる。
写真にある、五色の旗の中央には『馬』が描かれている。この馬のことをルンタと呼ぶ。チベット文化圏の人々は、この旗を風が激しく流れる場所に据えている。それは、はためく風に馬が颯爽と乗り、天空を駆け巡る事により、祈りや願いが叶うとされるからである。風は、太古からの物語の結晶であるとともに、現世の『 生き(息)』の物語を未来へと運んでいるのかもしれない。
火山列島である日本には、「埋没林」や「化石林」という名前がある場所が約40か所ある。その中でも、ここ小豆原(あずきばら)埋没林が他を圧倒する背景がある。それは、直立状態で残存する埋没樹のスケールは巨大であり、一枚の写真に収めるのに苦労するほどである。そのスケールは、世界的にも極めて貴重な存在であるという。
約4000年前、この場所には千年以上の樹齢を有する、杉を中心とする巨樹の森が展開していた。
天を衝く巨大な樹木が林立していたのであろう。その森に、三瓶火山の噴火に伴う岩屑なだれが泥流となって流れ込むのである。その泥流に一気に森の一角は飲み込まれ、火砕物の二次堆積物がその上に堆積していったのである。
この埋没林の発見は意外にも遅く、1983年である。20世紀の終わりになって、ようやく太古の眠りから目覚めたのである。地下13mへ下ってゆく『根株展示』へのらせん階段は、まるで太古の地球へのタイムトリップのごとくである。
これら巨大な杉群が、三瓶山山麓の広大なエリアに繁茂していたのである。この三瓶山は、出雲からしっかりと視野に入る距離にある。古代出雲人は、この杉の巨木を見逃しはしなかったはずであろう。
日本の、モン・サン・ミシェルと地元では称せられる「小島神社」。壱岐島の東海岸にある。直ぐそばには中学校があり、放課後のクラブ活動の声が聞こえていた。
1日のうち朝と夕刻の2回、干潮の時間になると、海底の砂に波形を残しながら潮が立ち去っていく。海中に半分沈んでいた石の鳥居が、その全貌を晒し始め、島の山頂部にある神社への参詣者を迎え始める。
背中に、夕陽の光線と明るい若人の声を浴びながら、浦島太郎気分にて、小さな竜宮城へと向かう。
ビア・ドロローサと呼ばれる、エルサレム旧市街の中にある小さな路地小径。
この小径は、世界中のキリスト教徒にとって、重要な聖地の道である。イエス・キリストが十字架を背負って、この小径をゴルゴダの丘へと歩んだのである。
当時と現在とでは、正確に位置関係が合致していない部分もあるらしいが、およそ間違いない場所にある小径とされている。
私が訪れた際にも、アジア系のキリスト教徒団体が、十字架を背負って歩くアクションを撮影してもいた。
一昨日、厳寒の奥出雲地方にて、平成最後の『古代の炎』が舞い上がった。この舞い上がる炎の熱をまじかで浴びたことがある。『ふいご』から送られる風により、一定の間隔をあけて舞い上がる炎・・。この炎が無ければ『日本刀』は生まれない。
(土)でできた炉心に、(風)が送り込まれると、燃料の木炭(木)から、(火)がゴーッという咆哮とともに、炎の舞いを演じ始めるのだ。そのさまは、(水)の神・龍神が真っ赤に燃え上がりながら昇天していくようでもあった。
(土)(風)(木)(火)がシンボライズされた要素が凝縮され、炎上することにより、龍神(水)という幻想世界と、硬質の現実世界・玉鋼(金)とを産出する。古代製鉄法=蹈鞴(たたら)の郷・奥出雲は、ヤマタノオロチ伝説の本拠地でもあるのだ。
蹈鞴製鉄とは、自然を構成する6大要素の結集されたプログラムなのではないだろうか。近年になり、日本刀への注目度が新たな高まりを見せている。武器としてではなく美術品としての価値は、海外からも熱い視線が向けられている。
現在、日本各地には約200カ所の日本刀を製造する鍛刀地(たんとうち)があり、刀鍛冶(かたなかじ)職人が伝統工芸の世界に身を浸している。その日本刀作刀の素材に欠かせないのが、高品質の和鋼(玉鋼・たまはがね)である。
この素材は、現代の先端工業技術でも製造することが困難であり、古来より継承されてきた「たたら(蹈鞴)工法」が唯一その生産を担っているのである。その生産の本拠地が奥出雲地方である。
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これまでの人生で、地球上のさまざまな土地を訪れた。その多くは、「秘境」や「辺境」と呼ばれる土地だった。21世紀にこんな生活を送っている人たちがいるんだ、とか、それまでに獲得した常識の範囲では、なかなか理解できない人たちやその文化背景があった。
経済至上主義やひとつの思想信条だけが地球を席巻していないことも確認できた。秘境や辺境の土地から帰国するたびに、私の脳は見事に「時差ボケ」に陥る。言ってみれば、「価値観」「人生観」「死生観」「幸福感」の時差ボケである。
日本の、見えない常識の枠に左右されながら、ボーダレスのグローバル時代のリアリティとの狭間で、心のメトロノームが揺れるのだ。とある哲学者が言っている。「日本人はいつからキツネにだまされなくなったのだろう?」
社会のすべてが、合理的な論理で動いてゆき、あやふやで、危うく、霊性を持った世界はすべて拒否されてしまう。人間の体への不思議さが残されているにも関わらず、社会には「不思議」を追求する時間も余裕もない。
不思議というのは、「答え」がすぐには見つからない事と等しい。そうなのだ、私たちは「すぐに答えがでる」ことに馴らされすぎているのではないだろうか。
2018年度の自殺者数は、多少前年対比で減少したとはいえ、3万人の大台を記録したという。心の病に悩む人や生活習慣病に苦しむ人も多い昨今である。自分の満足感というものを、絶えず他人と比較することで確認しようとする生活は、エンドマークのない追跡劇を演ずることになる。追跡の先にあるのは、「手ごたえの無い幸福感」。
そこでは、おおいなるモノに抱かれる極上の至福感を味わうことはできない。味わえるのは、他人への嘲笑と自分へのエクスキューズくらいである。問題は、これらの味が人間の心身や社会に与える「病の連鎖」を構成してゆくことである。「未病を防ぐ」とは、東洋医学の大きな柱でもある。
自己治癒力を高め、疾病に罹患しないような体質改善をおこなうことが、「未病を防ぐ」ことに繋がる。ヒマラヤにあたる朝陽のドラマのみならず、故郷の小さな里山で出会う一瞬の自然が放つ輝きからも、私達は「なにが大切なものか」ということに気づかされることがある。
山や自然を愛すると自称する者たちは、自然からの恩恵を社会の未病を防ぐための処方箋として、
自分たちの住む社会に還元してゆくことが問われているのではないだろうか。
屋久島においては縄文杉の存在感は群を抜いている。ただ、この縄文杉に出会うためには往復10時間前後ものトレッキングが不可欠であり、一定の体力と周到な事前準備が求められる。
白谷雲水峡は、縄文杉への道ほどのハードルの高さはないが、奥行きの深い屋久島の森を全身で体感できる場所である。
その森はかつて映画「もののけ姫」の制作時に、スタジオジブリの宮崎監督が「もののけの森」のイメージとして想定している。
年間366日降ると表現される多量の雨の恵みは、この森に無数の苔とシダ類を繁茂させ、訪れる人を濃淡織り交ぜた緑色世界へと誘うのである。
苔むした巨岩の下では湧きいずる岩清水の水音が静かに響いている。頭上を見上げると、前夜の雨にそぼ濡れた木々の柔らかい枝葉から小さな水滴がしたたり落ちようとしている。
照葉樹と屋久杉が混生するこの森では、太古の時代から絶えず水と緑の交響曲が静かに奏でられてきたのだろう。そんな森に佇み深く呼吸をしてみると、全身の細かな細胞の歓喜に沸く声が体の内部から響いてくることだろう。
妙好人を代表する一人で、 石見の才市とも呼ばれた浅原才市は島根県大田市・湯泉津町に住んでいた。その簡素な住居は、現在も保存され一般にも公開されている。
温泉町の華やかな一角から少し離れた場所。通りに面した長屋風の家。ガラス開き戸を挟んで、直ぐに仕事スペースである板場がある。その奥には、浄土真宗式の仏間。仏壇前の4畳ほどのスペースが居間兼寝所。あとは屋根裏スペースと、猫の額程度の裏庭。
合理的とか論理的、経済効率とか市場主義などという言葉世界とは、全く接点のない暮らし。自らの身体が覚えたワザと、鼓膜に塗布された真宗のオシエが生きる上での身上だったのだろう。
難しい仏教語彙をしたり顔で話す訳でもない。世間からの評価に一喜一憂する事もない。日々是好日の如く、穏やかに、和やかに、与えられた役割を淡々とこなしながら、静かに「生」をまっとうする。
そんな市井人の「生きざま」の中に、「悟りの在り方」を鈴木大拙や柳宗悦らは見出したのだろう。写真の板の間から仏間にかけては、その「悟りの在り方」という、見えない痕跡が漂っている。
昔チベットから日本の男性に嫁いできた女性の話をきいたことがある。彼女が来日後、一番驚きまた悲しかったのは、日本の家族が夕食のテーブルを囲みながらも、一言も会話を交わすことなく、テレビばかり見ていることだったという。テレビのスイッチはオンになっているのですが、家族互いの心のスイッチはオフになっていた。
チベットの遊牧民の家庭で育った彼女は、賑やかすぎるくらいの夕食時を大家族で毎日過ごしていたという。そこでは1日の出来事が話される団欒のひと時があり、彼女はその団欒の中から父親の力強さと母親のやさしさを学んだといいう。賑やかすぎるくらい、家族同士が互いに感心をもっていたのである。
家族が共有する時間の密度の濃さが、家族同士の心の絆をより一層強固なものにしてゆくのだとも言う。いままさに私たちは、絆という言葉を軽んじることなく、その深さを見つめ直す時期にきているのではないだろうか。自然災害時には、まるで流行の言葉のように使われてしまう「きずな」という言葉・・。家族の絆、社会の絆、人と人との絆、この見えない輪が他人を励まし、救い、そして安らぎを与えるのは間違いないことであろう。人間にとって、いつも誰かに支えられているという安心感は、幸せの原点であるように彼女は語っていた。
平安時代の陰陽師・安倍晴明は、晩年になり、福井県敦賀市に約4年程居を構えている。この地にて、天文学や占星術の研鑽を重ねたという。
京都にある晴明神社は、何処か手垢が付いた感があるが、さすがにこの聖地の存在を知っている人は少ない。
この聖地の中でも際立っているのが、祭壇の下にあるご神体の祈念石である。
これは晴明が陰陽道の研究に使った石だと言われており、正六角形が石の上に刻まれている。
晴明は、この石を使って天空との内なる会話をしていたのだろうか。
陰陽師・安倍晴明に関心のある方は、是非この地まで足を伸ばして欲しい。
都会に住む人々を中山間地域や島嶼部の里地や里山、里海へと案内していると、ふと思うことがあります。都会の生活では見つける事ができないが、『里』という名の付く場所では発見できるコトやモノとは何なのであろうか、と。
おいしい空気や水、心地よい風や鳥のさえずり、懐かしい田舎の景観や情緒など、五感を優しく揺らしてくれる自然の諸相や人の心情は、『里』でこそ発見できる事象かもしれません。しかし私は同時に、『自然と人間が織り成してきた物語』という、目には見えないけれど、その土地に受け継がれてきた『人々の営み』による蓄積を見逃すことが出来ないのです。
1970年代以前の農村や山村、漁村での生活は、人が生きてきた物語と、自然が織り成す物語が、ホリスティック(全体的)に辛うじて循環していたのではないでしょうか。食物には旬という「刻=とき」がありました。毎年同じ時期に同じ場所で桜が咲くという穏やかな安心感をもって、里の人達は暮らしていたように思います。そこには、人と季節が寄り添うようにして刻む「歳月の物語」といったサイクルがあったように思います。
人と人、人と自然、そして人と社会が、それぞれのほどよい『距離感や関係性』を構築・修復・維持しながら人生の物語を紡いできたのでしょう。これからの都会の暮らしでは、人生物語の質を深めていくことがますます困難となっていくことでしょう。そんな時代であるからこそ、中山間地域や島嶼部のような『里という場所』への回帰が注目されているのだと思うのです。私は、『里という場所』は、人と人、人と自然、そして人と社会の物語が、共生し、再生し、そして新たに創生していける『都会の縁側』ではないだろうかと感じるのです。それは田舎の縁側には、訪問者が靴を履きながら腰をかけ、ひとときの会話とお茶の湯気に心を和ませてきた『刻』の積み重ねがあると思うからなのです。
※とある地方新聞への寄稿文より
大文豪の墓にしては、なんと質素なことだろう。広大な森の中に、ポツンと佇む苔生した長石。
目立つ案内板も無く、早足だと思わず見落としてしまいかねない。この、簡素を極めた墓地は、文豪の晩年に抱いていた思想に大きく影響されている。
トルストイ運動ー富豪の家系に生まれたトルストイのユートピア構想でもある。トルストイ運動家たちは、自らをキリスト教徒であるとする。しかし一般的に制度上の教会には所属しない。また彼らはキリストの奇蹟や神性よりもその教えを重視する。
物質よりも精神に重きを置き、その原則は、「非暴力」「赦し、普遍的な愛、道徳的、アイデンティティ」、霊性、自己啓発的人格、シンプルライフ、隣人愛などが根底にある。具体的にはイエスの反省、山上の垂訓、あるいはシンクレティズムとの関連が見られる。
これらの原則が実行されれば社会が道徳的に変化し、ユートピアの現出も可能であると考える。彼らはそれを、既存の社会と国家を農民による自由で平等なコミュニティに取って換えることで達成しようとした。
太鼓橋と呼ばれるアーチ形の橋は神社の入り口などでよく見かける。上部に弓なりに張り出すその橋は、神域へ向かう際の結界ラインとなる場合がある。
5連構造の木造アーチであるこの橋は、渡る人をどこか晴れ晴れとさせてくれるのだ。それは、遮るものがない空への視野とともに、結界通過の疑似空間を味わうせいかもしれない。
世界でも稀な橋の構造は、江戸時代の架橋技術によって生み出されている。増水時に多発する河川氾濫に対して『流されない橋』を構築するため、様々な知恵と工夫が施されてきた。
マツやヒノキを主とし、200年を超す樹齢の木からの部材もある。最新の架け替え時には、部材の接続部分に薬師寺西塔再建時にも使われた特別な鋼材の和釘やかすがいが用いられている。
そんな伝統的な『匠の技』が結集し、錦川の水辺を端麗に彩るアーチ橋は複数のアングルから眺めることを薦めたい。
渡橋時や岩国城からの眺めは勿論であるが、橋の下の水辺からも見上げてほしい。特にライトアップされる夜には、木造橋と月がハーモニーを奏でるシーンに出会うかもしれない。
里地・里山がなぜ今、注目されているのだろうか?里山という言葉はすでに市民権を得ている。それに対して「里地」という言葉はあまり聞き慣れないだろう。でも、「雑木林」とか「鎮守の森」という言葉の中に出てくる、「林」や「森」、そして「草原」や「湖沼」「小川」など自然一般を指すといってもいいだろう。
昨今では「里山歩き」がブームとなっている。このブームも、どちらかというと「頂上を目指す登山」という印象が強い。しかし、頂上までの途上に出逢う、さまざまな自然の諸相風景に、思わず足を止めたことはないだろうか。
それは樹林の木漏れ日に包まれた瞬間であったり、路傍の可憐な花に目を奪われたり、天を突くような巨樹を見上げた瞬間であったりする。その対象物は、山里の和風家屋の苔むした石垣や、奥深い森の中で偶然出会った炭焼き小屋の跡地であるかもしれない。
日本の里地・里山の自然には、これまでの人々の営みの痕跡が濃密に残されている。だからこそ、里地・里山を歩いていると、なぜか訳もなく郷愁を覚えているのだと思う。そうなのだ。「里地・里山は、私達の心が還っていく場所」なのかもしれない。
昨今、デトックス(解毒)効果を求めて、多くの人が自然に回帰してきている。特に若い世代の女性が山や里に出掛け始めている。ストレスの多い現代社会から、ひと時の癒し空間を求めて自然の中に入るのだろうか。身体と心のデトックスを求めて、自然へ還ってきているのだろうか。
人間の身体も自然の一部である。だとすれば、都会での暮らしに身体の内部の自然が悲鳴を上げ始める時、身近な里地・里山が「還っておいで」と呼んでいるサイレントボイスが聞こえてくるのかもしれない。
2024年1月22日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。