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モンゴル研究の第一人者である、ソーハン・ゲレルト氏は「テングリ」の概念について次のように述べている。
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テングリという言葉の存在は、アジアの先史時代に中国国境からロシア南端まで、カムチャッカからマルマラ海まで、全アジア大陸を貫通して知られていたし、すでに二○○○年以上以前からこの語は知られており、文化を越えて広大な範囲で用いられています。テングリという言葉を北アジア騎馬遊牧民族の間で絶えることなく継承・存続させたのは、同一の自然環境に根差したシャマニズムとそのシャマニズムに伴う世界観だと考えています。なぜならば、この言葉は神と神の居住する世界の二つの概念(神と天上世界)を表してきたからです。(中略)テングリという言葉に内包されるこの二つの概念は、具体的にいかなる観念の上に成り立っているのでしょうか。私は、その土台には宇宙を重屠的に天上界・地上界・地下界の三つの世界に分けて考えるシャーマニズム的な宇宙三界観があると考えています。
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この、モンゴルにおけるシャーマニズム世界にての「宇宙三界観」とは、いったいどのようなものだろうか。宇宙が三つの世界に分けられたことに関する神話は、中央アジア、北アジア、東北アジアのシャマニズムを信仰する諸族の間で数多く伝えられている。すなわち、自然界には三つの領域があり、上界部の領域には光明と善霊が、中界部の領域には人間と地霊が、下界部には暗黒と悪霊とがそれぞれ住み、普通の人間は中部の領域を動きまわって諸精霊と若干の関係をもっている、という原初的思考であろう。その宇宙三界をインターフェースするのがシャーマンの役割なのである。
モンゴルの人々にとって、空を見上げる行為は前述の「上界部」にある光明と善霊を仰ぎ見ることに等しいのであろう。それは、モンゴルの草原や高原地帯で日常的に接する「大空景観」に触れると素直に頷けるのである。この本では、そんなモンゴル人にとっての聖なる空間(テングリ=空=天)の数々を紹介する。
※モンゴルにおけるフィールド調査報告は別途作成(https://bccks.jp/viewer/176318/)を参照してほしい。
どこまでも続く緑の地平線が、ある一本の線で巨大な青と交わっている。モンゴルの大草原に立つとき、私たちの視界を支配するのは、圧倒的なまでの「空」そのものである。
モンゴル人にとって、頭上に広がるこの大いなる空は、単なる気象現象の舞台ではない。それは「テングリ(天神)」と呼ばれる至高の存在であり、宇宙の秩序そのものだ。彼らがふと足を止め、テングリの空を見上げるとき、そこには現代人が忘れてしまった深い精神の営みがある。
まず、彼らにとって空を見上げることは、自らの「生かされている日常」を確かめる儀式にほかならない。遊牧という過酷な自然と隣り合わせの暮らしの中で、雨をもたらし、家畜を育て、時に猛吹雪で全てを奪い去る空は、絶対的な絶対者である。人間は自然を支配する存在ではなく、天の采配を受け入れる無力な生き物に過ぎない。
だからこそ、彼らは空を見上げ、その色や雲の動きを読み解きながら、大自然への畏敬の念を新たにする。それは、祈りというよりも、偉大な親の顔色をうかがうような、素朴で切実な対話なのだ。
また、その視線は「果てしない時間」への旅でもある。モンゴル人は、自分たちの祖先がかつて同じ空の下を駆け抜け、同じ星々を頼りに夜を越したことを知っている。テングリの空は、何百年、何千年もの間、何も変わらずにそこにある。変わり続ける地上の営みを、ただ静かに見下ろしてきた。
そのため、彼らが空を見上げる時、彼らはチンギス・ハーンの時代とも、まだ見ぬ未来の子孫とも、同じ空間を共有しているという奇妙な一体感を覚える。遮るもののない蒼穹(そうきゅう)を見つめることは、己のルーツとつながり、悠久の歴史のなかに自らの命を位置付けることでもあるのだ。
そして何より、テングリを見上げることは、孤独な魂を「大いなる全体」へと解放する瞬間でもある。地平線しか存在しない世界では、人間はあまりにも小さく、時に気が遠くなるほどの孤独に襲われる。
しかし、ひとたび視線を上に巡らせれば、そこにはすべてを包み込むテングリの抱擁がある。青い空は、どんなに離れた場所にいる仲間も、同じように覆っている。だからこそ、彼らは空を見上げることで、孤立した個であることをやめ、宇宙の一部としての安心感を得るのではないだろうか。
私たちは都市の狭い空の下で、せわしなく足元ばかりを見て生きている。しかし、モンゴルの人々がテングリを見上げるその眼差しを知るとき、私たちは気づかされる。
人間には、自らを見下ろす圧倒的な存在が必要であり、それを見上げることで初めて、自分の小ささと、だからこその命の愛おしさを知るのだということを。
彼らの見上げる空は、今も変わらず、どこまでも深く、青いのである。
夜、ゲルのなかの薪ストーブの火が消え、静寂が室内の隅々にまで満ちていく。寝床に横たわり、ふと頭上を見上げると、ゲルの丸い天窓「トーノ」の向こうに、息をのむような漆黒の闇と、そこに散りばめられた無数の星々が顔をのぞかせている。
それはまるで、ゲルという名の天体望遠鏡で、宇宙の深淵を覗き込んでいるかのような錯覚を抱かせる。遮るもののないモンゴルの大草原で、天窓から切り取られた星空は、都会のそれとは全く異なる圧倒的な輝きと密度を持っている。
遊牧民たちは、この天窓から差し込む星の光を浴びながら眠りにつき、星の巡りとともに目覚めてきた。
モンゴル人にとって、夜空の星々は単なる光の点ではなく、草原での暮らしと地続きの「命の物語」そのものである。たとえば、私たちが北斗七星と呼ぶあの美しい柄杓(ひしゃく)の形を、彼らは「七人の神の馬(ドローン・ブルハン)」、あるいは天の杭に繋がれた「七頭の馬」と呼ぶ。
遊牧民にとって最も身近で大切な相棒である馬が、夜空の最も目立つ場所で静かに草を食んでいる。そう捉える彼らの眼差しには、自然への深い親しみと愛着が溢れている。
また、北極星は「黄金の杭(アルタン・ガダス)」と呼ばれる。夜空のすべての星々がこの杭を中心に回る。遊牧民が草原でゲルを建て、家畜を繋ぎ止めるために大地に打ち込む杭。
それが宇宙の真ん中にも打ち込まれており、天空の馬たちはその黄金の杭の周りを、決して迷うことなく回り続けているというのだ。
果てしない暗闇のなかで、自分の位置を教えてくれる不動の星を、暮らしの根幹である「杭」に例えた先人たちの知恵と想像力には、ただ感嘆するほかない。
天窓の向こうを横切る天の川は、彼らにとって「天の鹿の足跡」であり、時に「こぼれた馬の乳」でもある。地上の営みがそのまま鏡のように天空に映し出されている。
彼らは夜空を見上げることで、自分たちが生きる過酷な現実を呪うのではなく、むしろ自分たちの暮らしが宇宙の壮大なドラマの一部であるという誇りを受け取っていたのではないだろうか。
ゲルの天窓から星空を見つめていると、自分が家の中にいるのか、それとも宇宙のただ中に放り出されているのか、その境界線が次第に曖昧になっていく。冷徹なまでに美しい星々の瞬きは、人間の小ささを教えてくれると同時に、不思議な温かさで私たちを包み込む。
私たちは今、天井に覆われた四角い部屋で、電気の光に守られて眠る。しかし、かつて人類が皆持っていたはずの「星空と共に眠る豊かさ」を、ゲルの天窓は今も鮮烈に思い出させてくれる。天の杭に繋がれた馬たちが、今夜も草原の静寂を静かに見守っている。
夜の帳(とばり)が完全に降りた大草原。ゲルの天窓から差し込む星明かりだけが、静まり返った大地をほのかに照らしている。
風の音さえも止んだその静寂のただ中に、突如として一本の細く、しかし力強い一本の線のような声が立ち上がる。モンゴルの伝統的な歌曲、「オルティンドー(長い唄)」である。
その歌声は、言葉のシラブルを果てしなく引き伸ばし、鳥の羽ばたきや風のうねりのような細かい震え(シュランガ)を伴いながら、どこまでも続く夜の空間へと染み込んでいく。文字を持たなかった遊牧の民にとって、この歌は単なる娯楽ではない。
それは、自らの歴史や記憶、そして大自然への畏敬を、声というもっとも原初的な道具に託して後世へと運ぶ「目に見えない生きた碑文」であった。
そして、このオルティンドーの響きを理解するためには、彼らの至高の存在である「テングリ(天)」との関係性を外して語ることはできない。
オルティンドーを歌うとき、歌い手は目の前にいる人間に向かって歌っているのではない。その歌声のベクトルは、常に地平線を越え、まっすぐに頭上の蒼穹、あるいは星々の輝くテングリの深淵へと向かっている。
文字を持たない彼らは、神聖な契約や誓い、大自然への感謝の祈りを、紙に書き記す代わりに、この果てしない旋律に乗せて天へと「投函」したのだ。
一音一音が長く引き伸ばされるその独特な唱法は、地平線と空しか存在しないモンゴルの景観そのものの模倣である。遮るもののない世界では、短い言葉はすぐに風にかき消されてしまう。
しかし、天に向かって放たれる朗々としたロングトーンは、草原の空気と共鳴し、驚くほど遠くまで、そして高くへと届く。
彼らは歌うことで、自分の肉体を一本の「精神の柱(バガナ)」へと変え、天と地を自らの声で結びつけようとしているのではないだろうか。
オルティンドーが描き出す世界には、始まりもなければ終わりもない。それはテングリの空が、いつから存在し、どこまで続いているのか誰も知らないのと同じである。
文字で固定された物語は、時に時代表現のなかに古びていく。しかし、声によってテングリの空間に放たれ、人々の耳から耳へと受け継がれてきた叙事詩は、何百年もの時を経てもなお、採れたての瑞々しさを失わない。
夜の草原でオルティンドーを聴いていると、その歌声が、消え去った過去の祖先たちの呼吸であり、同時に未来の子孫たちの祈りであるような、不思議な時間の歪みを感じる。テングリという巨大な記憶の器に向かって、彼らは今夜も声を捧げる。
私たちは言葉を文字に閉じ込め、記録することで安心を得てきた。しかし、モンゴルの人々は、声を天に放ち、自然と同化させることで、自らの存在を永遠のものにしてきたのだ。星空の下、静かに消えてゆく最後の残響は、今もテングリの胸の奥深くに、確かに刻み込まれている。
モンゴルの大草原を旅していると、地平線の彼方にぽつりと浮かぶ白い丸木小屋のようなものに出会う。遊牧民の移動式住居「ゲル」である。
風に抗わず、自然と調和するように佇むその円形の住まいは、単なる機能的なテントではない。一歩そのなかに足を踏み入れると、そこにはテングリの空と直結した、精緻(せいち)な小宇宙が広がっている。
ゲルの構造は、それ自体がモンゴル人の宇宙観のシンボルである。 まず目を引くのは、天井の真ん中に開けられた円形の天窓「トーノ」だ。
この天窓は、ゲルという小宇宙における「太陽」であり、同時に「テングリ(天)」へとつながる唯一の目である。日中、トーノからは一筋の強い光が差し込み、ゲルのなかのフェルトの床を照らす。
遊牧民たちは、その光が室内のどこを照らしているかによって、時計を持たずとも正確に時間を知る。つまり、ゲルの中にいながらにして、彼らは天体の運行と完全に同期して生きているのだ。
天窓から差し込む光の移動は、そのまま宇宙の時間がゲルのなかを流れている証拠にほかならない。
そして、その天窓を支えているのが、中心に堂々と立つ2本の柱「バガナ」である。この柱は、天と地を結ぶ世界樹、あるいは宇宙の軸を意味している。遊牧民にとって、この柱は家を支える単なる材木ではなく、神聖な境界線だ。
柱の間を通り抜けることは固く禁じられており、ここを横切ることは宇宙の秩序を乱す不吉な行為とされる。天(トーノ)から降ってきたエネルギーは、この柱(バガナ)を伝って大地へと流れ込み、家族を護(まも)る。柱を中心に据えることで、彼らは大宇宙の秩序を自分たちの日常のなかに引き込んでいるのである。
さらに、ゲルの円形の空間は、そのままモンゴル人の人間観と方位の思想を反映している。 ゲルの入り口は、常に太陽が昇り、もっとも温かい光が差し込む「南」を向いている。
入り口から見て正面の奥、すなわち「北」は、もっとも神聖な場所(ホイモール)とされ、仏壇が置かれ、家長や尊い客人が座る。
そして東側は「女性の領域」として馬具や調理器具が置かれ、西側は「男性の領域」として馬頭琴や狩猟の道具が配置される。この配置は決して崩されることはない。
四方を取り囲む円形の壁(ハナ)のなかで、万物が然(しか)るべき場所に収まっている。それは、混沌とした大自然のなかに、人間が生きるための「正しい秩序」をコンパクトに再現した空間なのだ。
モンゴル人は、数時間もあればこのゲルを解体し、跡形もなく次の新天地へと移動していく。彼らが去ったあとの草原には、ゲルの円い土台の跡だけが静かに残る。彼らにとって、家とは地面に深く杭を打ち込み、自然を所有するためのものではない。
テングリの大きな宇宙のなかに、ほんのひととき、自分たちの小さな宇宙を重ね合わせるための依り代(よりしろ)なのだ。ゲルを見上げ、中心の柱に触れるとき、遊牧民はいつでも自分が宇宙の中心に立ち、大いなる天に抱かれていることを実感している。彼らの住まいは、宇宙そのものなのである。
昨夜の星空が嘘のように、地平線の彼方から淡い光が差し込み、草原がにわかに黄金色へと染まっていく。モンゴルの朝は早い。ゲルの天窓「トーノ」から差し込む最初の光を合図に、遊牧民の一日が始まる。
静寂に包まれた朝の空気のなか、ゲルの主婦が一杯の木製の器を手に、外へと出てくる。器に満たされているのは、今朝絞ったばかりの純白の家畜の乳だ。
彼女は東を向き、あるいは空を仰ぎ、特製の木製の匙(さじ)でミルクをすくい上げると、それを天空に向かって勢いよくピッ、ピッと弾くように撒(ま)く。
これが、モンゴルに古くから伝わる供物の儀式「サツァリ(ツァツァル)」である。文字も持たず、大自然のなかに生きてきた彼らにとって、この毎朝のささやかな儀式は、至高の存在「テングリ(天)」への最も純粋で、最も深い祈りの表明にほかならない。
彼らが捧げるミルクは、単なる飲み物ではない。それは五畜(馬、牛、羊、山羊、ラクダ)の命の結晶であり、草原の恵みのすべてが凝縮された、この世で最も尊く清らかな「白」の象徴である。遊牧民は、一日の始まりにあたって、最も価値ある最初の恵みをまず人間にではなく、自分たちを生かしてくれるテングリの空へと還すのだ。
天に向かって放たれた白いミルクの滴は、朝日にきらめきながら放物線を描き、大気に吸い込まれ、やがて大地の草へと降り注ぐ。この一連の動きは、天と地、そして人間が一本の目に見えない循環の輪で結ばれていることを視覚的に証明している。
テングリがもたらした雨が草を育て、その草を家畜が食べ、家畜が人間にミルクをもたらす。そして人間は、そのミルクを再びテングリへと捧げる。サツァリの滴は、人間がその大宇宙の循環の一員として、慎ましく、しかし誇り高く生きていることの調印式なのだ。
サツァリを行うとき、遊牧民は多くを語らない。ただ静かに、家族の健康、家畜の安寧、そして旅人の安全を心のなかでテングリに乞う。
そこにあるのは、何かを取引するような宗教的なギブ・アンド・テイクではない。ただ「今、ここに生かされていること」への無条件の感謝と、自然の采配への絶対的な信頼である。
やがて儀式を終えた彼女がゲルへと戻ると、草原には何事もなかったかのように、いつもと変わらない風が吹き抜ける。しかし、朝一番に天とつながったという確信は、遊牧民の心に揺るぎない安心感をもたらす。どんなに過酷な自然が待ち受けていようとも、自分たちはテングリに見守られているのだ、と。
私たちは、蛇口をひねれば水が出て、店に行けば食べ物が手に入る生活のなかで、自然への感謝を言葉にすることすら忘れてしまいがちだ。しかし、毎朝、大空に向かって白い命の雫を弾くモンゴルの人々の姿は、私たちに教えてくれる。
人間が真に豊かに生きるためには、自らより大いなる存在へ、まず最初に「ありがとう」を捧げる謙虚さが必要なのだということを。
天へと放たれた白い雫は、今朝もモンゴルの青い空に、美しい一瞬の軌跡を描いている。
天空からのモンゴル地平
https://youtu.be/axdayW5YAiQ?si=NsQ8vKfdjnPGjf_t
遊動する大地と風・vol2 テングリの神秘
https://youtu.be/fCP9c_TrXJc?si=UEtNDfoDDlIXPBS9
遊動する大地と風・vol3 ウランバートル空港到着
https://youtu.be/6J0zDJpxgwU?si=OXm8CXV96_adNbJa
モンゴル地平に刻まれた縁起
https://youtu.be/DxDM5tFcJFc?si=PzFDqxpASWwwnJha
トラベルセラピー(モンゴル大草原・湖畔沿い)
https://youtu.be/jNN86Ah7CLU?si=1OoRFoCjXWvy5NOq
































































2024年2月8日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。