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  この本はタチヨミ版です。
















 カラスのジョシュア

 南へ、南へと、ジョシュアの旅は続いた。

 西風だった。朝からずっと吹いていた。
 午後には冬が訪れるはずだった。
 砂つぶが吹き流され、浜辺に風紋を描いていた。
 そして一羽のハシボソガラス。東の半島の小高い山から太陽が昇るころ、どこからかやってきて、細い脚を砂に埋め真黒い身体をギュッと砂浜に固定し、目を細め水平線を見つめていた。
 そのカラスは「ジョナサン」と呼ばれていた。このあたりを棲み家にするカモメやトビやハトたちが勝手につけた呼び名で、本当の名前はジョシュア・デッドストーンだった。数カ月前のこと、ジョシュアがこの浜辺にたどりつくや、毎日毎日、大雨でない限り朝から夕暮れまで瞑想に耽っていたものだから、近くのヨット・ハーバーを縄張りにする噂好きのカモメたちが「あいつは誰だ」「変な奴だな」などと噂の為の噂を重ねて遊び、知ったかぶりの誰かが「あいつはジョナサンだ」と言い放ってから、ジョシュア・デッドストーンはカモメたちのあいだで「ジョナサン」と呼ばれるようになった。
 ジョシュアは確かに変なカラスだった。
 ハシブトガラスならカアカアと一日じゅううるさく仲間たちと飛び回り、ゴミ箱を漁ったり、浜辺に流れついた魚の死骸を啄んだり忙しくしているが、このハシボソカラスは一羽きりで、何がしたいのかさっぱり分からぬ風変わりな奴だったから、カモメたちが「変わり者」と名づけたのももっともだった。何世代も昔のこと、仲間と打ち解けるのを避け、飛ぶことだけに人生を賭けた伝説のカモメがいて、その名がジョナサンだった。やがて、十数世代を重ね、カモメたちのあいだでは変わり者のことを「ジョナサン」と呼ぶようになっていた。

 ジョシュアがこの浜辺にたどりつき、しばらく経った朝のことだった。浜辺につながる堤防で海のうねりを見つめていると、一羽のカモメがそばに降りたった。
「おい。お前、見ない顔だな?」
「僕のこと?」
「ああ。お前のことだ。どこからきた」
「どこから…って、そこの川の北。奥の方からだけど」
「川の奥って、山の方からか?」
「そう。山の奥の方だけど…。それがどうかした?」
「このあたりじゃ見ない顔だから聞いてみただけだが。お前生きているのか?」
「え?」
「だから、生きているのか?」
「たぶん、生きているが…」
「幽霊じゃないだろうな?」
「うん。たぶん」
「そうか…。で、ここで何をしているんだ?」
「ここで?」
「ああ。ここで…だ。ここはトビとハシブトガラスの縄張りだ。お前、ハシブトガラスじゃないだろ。どうみてもハシボソガラスだ」
「それが、どうかしたの?」
「どうかしたか?って…。お前、あいつらに、ハシブトガラスに狙われるぞ」
「狙われるって?」
「お前、あいつらのことを知らないのか?」

 ジョシュアはハシブトガラスのことをよく知っていた。
 彼が生まれ育ったのは、この浜辺から北へずっと奥深く入った山あいの河原だった。対岸の緑濃い森はハシブトガラスの縄張りで、ジョシュアたちハシボソガラスは河原の脇の林が縄張りだった。強欲で遊び半分な集団行動が好きなハシブトガラスたちは、密やかに暮らすハシボソガラスの群れを小馬鹿にしていたが、互いの縄張りは代々棲み分けられていた。ところが、数年前のこと。ジョシュアたちが住む河原近くまで人間がやってきた。河原近くまで裾野を広げていたひと山の木々をなぎ倒し、あっという間にはげ山にするやアスファルトとコンクリートの人間の棲み家が作られ、何千という人間がやってきた。ハシブトガラスたちにとっては幸運だった。貪欲な彼らはその人間たちの棲み家を格好の餌場とし、興奮してはカアカアと飛びまわり、ときに人間を襲い怖がらせ自分たちの縄張りを広げていった。
 ジョシュアたちハシボソガラスは、相変わらず河原近くの林にひっそり住み続けていたが、孵化する赤ん坊の数も減り、ジョシュアが二歳になったころには、ハシボソガラスの大人たちは一羽また一羽とどこかへ飛び去っていた。そして、ある日、ジョシュアだけがその林に取り残された。

「ハシブトだね…よく知っているけれど…」ジョシュアはカモメの瞳をじっと見つめ「それがどうしたの?」と問いかけた。
「ま、知っているなら良いさ」カモメはジョシュアの瞳の強さに驚き、視線を逸らせた。
「ま、知っているなら、別に良い。で、お前、ここでいったい何をしているんだ?」
「ああ。僕…。考えごとをしている」
「考えごと、か?」
「そう。考えごと…」
「ほお。考えごと…」カラスが餌以外に考えごとなどするわけがない。このカラスはどこかが変だと侮蔑の粉を混ぜた舌打ちをひとつ残し、カモメはその白くて大きな羽根を広げ、ヨットハーバーへ飛んでいった。それから数日経ち、この浜辺の鳥たちの間ではジョシュアはジョナサンになっていた。「変わり者」だけならまだ良かったが、鳥というのは噂好きで、「変わり者」から変な奴、やばい奴と噂がねじ曲がり広がっていき、「近寄らない方が良い」という話になっていた。

 二歳になった春、ジョシュアは考えることを始めた。
 それは突然やってきた。
 雷雨が吹き荒んだ夜が明け、春の香りが満ちた朝に目覚めると、大人たちが消えていた。棲み家だった河原の林も息絶え絶えだったし、木の実がふんだんにあった山の木々は人間たちの手で伐採され格好の餌場も消えた。このままでは幸せな暮らしは営めないと大人たちが話しあったかどうか。ともかく、彼らは突然消えた。ぐっすり眠るジョシュアをゆり起こしひと言伝えてくれれば良かったが、彼らは手間を省いたのか、それともジョシュアならひとりで生きてゆけると考えたのか、いつまでも呑気に眠っているジョシュアを残してどこかへ去っていった。
 ジョシュアが目覚めひとりになったと自覚したとき、考えることを始めた。
 昨日までは群れのしきたりに従い生きるだけの日々だったが、目覚めると従うべきしきたりたちが消えていた。昨日までは群れとして生きていれば良かったから考えることなど必要としなかった。昨日と同じことを今日も明日も繰り返すだけ。それがハシボソガラスなんだと、ジョシュアも大人たちも疑わなかった。ところが、突然、しきたりのない生活が訪れた。それはとっても新鮮だったが、しきたりに縛られ続けたジョシュアの頭は混乱した。対岸のハシブトガラスたちはいつもどおり賑やかにカアカアとお喋りを楽しんでいたが、ジョシュアのまわりは生気を失った枝葉の空間だけが、寒々と輝くばかりだった。「どうすれば良いかな」とジョシュアが空を見上げたとき、春の風が南から川沿いに吹き上がってきて、芽吹く木々を大きく揺らした。ぐらりぐらりと根元から木々が揺れ、騒めき、ジョシュアの巣から枝が大量にこぼれ落ちた。
「あ、風が鳴いた」とジョシュアが声をだしたときだ。頭に閃光が走った。そして、心臓が高鳴り胸の筋肉が盛り上がり翼が大きく広がって、ジョシュアはスッと飛びたった。

 春風に向かい川を下るのは楽しかった。翼を少しだけ上に向けると春風がジョシュアの細い身体を持ち上げ、ジョシュアは空高く舞い上がった。羽ばたくことなく風に乗るのは気持ち良いものだった。
 右へ左へと曲がりくねる川の流れを眼下に見知らぬ風景を楽しんでいると、狭い河原の縄張りで生きる窮屈な日々が馬鹿馬鹿しく思えてきた。大人たちのしきたりに従い木の実や河原の虫を啄み、日暮れになれば巣に戻り眠りにつく。そんな単調な毎日をジョシュアは何も考えずに生きていた。そうするものだと疑うことのない気楽なジョシュアだった。
 考えることを始めたといっても考えることが何かは分からなかったが、自由に空を飛び、南へとゆったり飛んでいると、ジョシュアの頭のなかに言葉らしきものがぽつりぽつりと浮かんできて、それがつながりだし、これまでの生活がひとつひとつくっきりとした絵になって現れ、それを言葉でなぞっていった。心の卵がパンと破裂し粉々に砕け散り、そこから早朝の太陽の光のようなものが飛びだしてきた。それが言葉だと分かるにはしばらく時間が必要だったが、ともかくジョシュアは言葉を手に入れ、そして考えることを始めた。

 夕暮れ間近に春風が止んだ。向かい風を使い上昇気流に乗り、呑気に南へ飛んでいたジョシュアのお腹がグウと鳴った。朝から夢中になって空を飛んだから、何も口にしていなかった。高度を下げ川面近くを飛んでいると、川から入江になった池のようなものが見えてきた。そこは水鳥たちが集まる場所で、彼らは夕食を終え休息の時間に入っているようで、ひと塊になり羽根の手入れを楽しんでいた。
 水鳥たちから距離を置き岩場に降りたジョシュアがキョロキョロあたりを見渡しながら歩いていると、一羽のスズメがやってきた。
「こんにちは」
「?」
「ねぇ、こんにちは」
「あ、こんにちは」
「君はカラスだよね」
「…うん。そう。カラスはカラスだけれど?」
「カラスはカラス?」
「そう。カラスはカラス。ハシボソガラスだけれど、それがどうかした?」
「ううん。君はハシボソガラスっていうんだ」
「そうだよ。ハシボソガラス。こうやって歩けるカラス」
「歩ける、カラス?」
「そうだよ。ハシブトガラスはぴょんぴょんと跳ねるだけ。彼らは歩けない。でも、僕たちハシボソガラスはこうやって歩けるんだ。それが見分け方じゃないかな」
「なるほど。ハシボソガラスは歩けるんだ」
「そう。歩けるんだ」
「で、君はここで何をしているの?」
「僕?」
「そう、君」
「僕は…」ジョシュアは大人たちが突然いなくなって、風が鳴いたから翼を広げて川を南へ下ってきて、そして考えることを始めた…と説明しようと思ったが、止めた。スズメはそんなことに興味があるわけでなく、話題はなんでも良いはずだ。話しかけてお喋りを楽しむだけで、実は何も考えてはいない。こちらが真面目になって何かを伝えようとしても無駄だ。好奇心だけは旺盛で、敵ではないと思えばチュンチュンと話しかけてくる。それだけだ。意味のない会話に飽きると興味を突然失い、そこにジョシュアがいることなど忘れたかのように羽ばたいてどこかへ去っていく。ジョシュアが何も答えずに近くに生える野苺を啄みだすと、スズメは興味を急に無くしたようで、挨拶もせずパタパタと飛び去っていった。
 その夜は、杉の木が群生する森に宿をとった。ホオホオとフクロウの鳴き声がこだまする森で少しばかりうるさかったが、フクロウがいる森は安全だと判断した。翼をたたみ疲れが溜まった筋肉を開放して目を閉じ、そして今日考えたことを反芻しているうちに、ジョシュアは深い眠りについた。それは新しい感覚の眠りだった。昨日と同じことを明日もすれば良いという「しきたり」から開放された、自由気ままなカラスとして、何もかもが新鮮だった。

 翌朝、池のほとりで水を飲んでいると、背後から声をかけられた。
「おい、小僧」
 野太い声だったが、慈しみのある声だった。
「おい、小僧。このあたりじゃ見かけないな?」
 ジョシュアはゆっくりふり返り、「こんにちは」とその声に答えた。
「ああ。こんにちは」
 片目が潰れた老いたハシブトガラスが、笑みを蓄えていた。

「どこからきた?」
「はい。川の北の方から、です」
「川の北の方から、か」
「ええ。川の北の方から…」
「そうか…。で、名前は?」
「ジョシュア。ジョシュア・デッドストーンです」
「ふむ」と、その老いたハシブトガラスはうなずくと、「あそこは良いところだ。そうだ、私はエリック・ブレアだ」とつけ加えた。
「エリックさん、ですね」
「そうだ。エリック・ブレア。このあたりじゃ、ハシブトガラスは私だけだ」
「エリックさんだけ?」
「そうだ。私だけ、だ」
「エリックさんは、川の北の方を知っておられるんですか?」
「ああ。生まれ故郷だからな。欅村と呼ばれたあたりだ」
「欅村…」
 ジョシュアは、あの禿山になり人間が街を作ったあたりが欅村だったと思いだした。
「僕は、あの欅村の近くの河原の林で生まれたんです」
「ほお、あのハシボソガラスの…」
「知っておられるのですか?」
「もちろんだ、あのあたりはハシブトガラスばかりだが、河原の林はハシボソガラスたちが長年縄張りにしていたはずだ」
「そうなんです。あそこで生まれたんです」

 エリックは、自分に動じずに心を開くジョシュアが気に入ったらしく、エリックの棲み家の洞窟へとジョシュアを誘ってくれた。そこは森の奥深くにある岩場の崖にできた小さな洞窟だった。
「ここが私の棲み家だ。ま、勝手に使ってもらって良い」
「ありがとうございます」



  タチヨミ版はここまでとなります。


カラスのジョシュアー中嶋雷太小編集第三集

2024年4月5日 発行 初版

著  者:中嶋雷太
発  行:Papa's Story Factory

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Papa's Story Factory

時代に振り回され、喜怒哀楽を重ねながらも、日々力強く生きる大人たちに、少しでも安らぎを感じてもらえれば幸いです。 2020年を超えて、日本および世界に向けて、「大人の為の物語」を拡げていきたいと考えています。見たい映画や演劇、そしてテレビ・ドラマを、物語という形で描き出し、織り紡ぎ出してゆければと願うばかりです。(代表:中嶋雷太) Established for weaving stories for adult people. For them, who are always struggling daily lives, we hope they enjoy the stories. Welcoming Mr. Ray Bun as a main writer (story teller), we would like to expand our stories over the world as well as in Japan, over 2020. Also, we would like to weave the stories for future theatrical films, theatrical play or TV dramas. (Rep: Raita Nakashima)

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