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「よしこー! よしこー!」一階で母を探す父の声がする。その時、『よしこ』からの返事がないと、「ママはどこへ行った?」と次に来る。もし「はーい!」とトイレから返事があれば、トイレに行き、二階から声がすれば、のしのしと階段を昇る父。母が美容院や買い物で留守にしていようものなら「おい、ママはどこへ行った?! おい、困るよ。いつ帰ってくる?」と泣きそうになっておろおろする。父のその姿は、まるで子熊が母熊を探すみたいで可愛い、いや可愛いはずなのだが、ガタイの大きな父が小さい母を探すのだから、それは何とも滑稽な光景なのだ。周りは(また始まった~)と、クスクス笑いを押し殺す。これが「旭山動物園」にも負けない我が家の日常であった。
家で開業をしていた父は四六時中家にいる。母にしてみたら息苦しい毎日であったと思う。いつも視野に母がいないと不安になる父。今だったら「岡野あつこさんの動画を見なさいよ!」と叱られるレベルだ。そして、カウンセラーの岡野さんは、きっぱり宣言するのだ「妻は夫の母親ではありません!」と。私が「良く我慢できるよね~」と言うと、「(父は)寂しい人だから。寂しい家庭だったからね」と母はポツリと言った。
父方の祖父はとても厳しい人で、父の朝は教育勅語から始まったという。そして父方の祖母は病弱(たぶんカリエス)だった。もしかしたら入院していたのかもしれない。私は父の実家を想像するといつも、ガランとした部屋の冷たく暗い床を思い浮べる。
そんな祖父には謎の放浪癖があった。そのせいで、父は小学校を六回変わったという。そしてある時、決定的なことが起きたのだ。病弱な父の母親と高校生の父を残して、祖父が満州へ行ってしまったのである。恐らく充分な説明もないまま(もしかしたら女性も一緒に?)。その間、父は親戚に預けられ、祖母は、祖父に看取られることなく、寂しく亡くなったという。その「見捨てられたという思い」や「不安感」、母親への「やるせなさ」が父の中で子熊を造りあげていったのだ。と、私は思った。
父と母の出会いは広島の呉市である。当時、呉の街は、出征を待つ海軍兵であふれていた。母の両親は、親元から離れて乗艦を待つ若者を不憫に思い、彼らを家に招待し食事をふるまい、寝床がないと聞けば快く家に泊まらせる、そんな鷹揚な人たちであったので、家には毎日、海軍兵が入れ替わり立ち代わり遊びに来ていたという。
そんなある日、ひとりの海軍兵がコーヒーをごちそうしてくれるというので、母方の祖父が彼の下宿先に行ってみると、そこには、大きな体を小さく丸めて火鉢にあったっている若者がいて、その姿があまりにも寂しそうだったので「君も家に遊びに来ないか?」と祖父が誘ったのが父であった。
父は母の家に遊びに来るたびに「よしこちゃん! よしこちゃん!」と母の名を呼んで母を探したというから、その時すでに子熊のパターンが始まっていたのかもしれない。
母の家に来ていた海軍兵の多くは亡くなったと聞く。「○○さんも〇〇島で死んだのよね。○○さんも死んだでしょう?」と母と母の妹が話していた。彼らはしかしながら戦地から香水などを母のところに送ってくれたというから、何ともやりきれない。終戦の日、父は日本に帰る艦上で「死のうと思った」とポツリと話したことがあった。しかし、母の待っている陸地が彼の死を押しとどめたのだと思う。
戦後しばらくして、父は、母の暖かい家庭に憧れて母と結婚した。ちなみに写真を見ると、母の母親と、父の母親の顔がそっくりなことに驚く。
結局、満州に行った父方の祖父は、戦後に引揚者となり、日本に戻ったのは、父と母が家庭を持ったあとのことであったというから、いったい、どれだけ家を空けていたのだろう。しかし父は母の両親に、そして母に出会っていろいろな意味で救われたのだ。
一度、習字を教えに行った母の帰りが遅いのを心配して、父が警察に電話をかけたことがあり、さすがにその時は母にひどく叱られていたが、最期まで母は父の良き理解者だった。
こう書くと、父が軟弱に思えるかもしれないが、父は、若い時から野球、水泳、剣道をたしなむ、大変に精悍な男性であり、お酒が入るとその豪快さに、愉快さが加わり、ドジョウ掬いやディックミネの「枯れ葉」を披露する楽しい人であった。
病床で「よしこ!」という声も小さくかすれるほどになると、大正8年8月8日生まれの父は、まるで誕生日に合わせたかのように88歳と8か月で亡くなった。「あー父が先でよかった」と誰もが思った。それから三年後に母は亡くなった。
今頃は天国で「よしこ!」と母を呼ぶ声が響いているのだろうか。寂しがりやの子熊が今はとても懐かしい。
父が師走に、自宅で穏やかに旅立った。
最後の晩餐は、口腔ケア用のスポンジに浸した「ヤクルト」。
まるで赤ちゃんが母乳を吸うように、まっすぐな眼差しで、力強く吸い続けて、誤嚥することなく一本飲み切った姿には驚かされて、「食べることは生き抜くこと」だと感じた。
父は初春に、下痢や黄疸が続き、かかりつけ医紹介で総合病院を受診し、病気が発覚。
主治医から「したいように、食べたいように過ごしてください」と言われ、初秋まで高熱や黄疸で3回の短期入退院の後、症状が落ち着き、自宅療養に専念できた。
老々介護の母の「手作りのおかず」、単身赴任中の弟が隣で甲斐甲斐しくて噴き出した「焼肉」、誕生日会の「ケーキ」、義妹と姪手作りの「煮物やスープ」他、デイケアやスーパーの「柔らかいパン」など、たまに「日本酒や生ビールミニ缶」と食べる中、父は明らかに痩せて行った。
難聴気味で補聴器を片方なくし、しゃべる事も減り、徐々に噛んだり飲み込む力も衰え、筆談や表情での会話中心の中、うたた寝した母を見て「〇〇子がソファーで寝とる」と、突然声を発する事もあった。母への父なりの労いだったのだろう。
毎週末帰省時は、母の手間も考え、「ヨーグルトやプリン、甘酒やジュース、卵豆腐、高カロリーの様々なムース食」など常備し、食事毎にお皿を工夫し並べたが、それさえ、手をつける事が減って行った。
短期間入院しての管や点滴での栄養補給は希望せず、発熱時など適宜、かかりつけ医に相談し、点滴や内服を追加して乗り越えた。
父は、昔から、三食「酢飯」で良い人で、お給料日は必ず、寿司おりを持ち帰った。
一度株で儲けた時は、個室でお寿司が振舞われたが、駅前の「小僧寿し」が定番になり、免許返納まで自ら「回転寿司」に通っていた。
春や祝い事には、具沢山の「ちらし寿司」や大みそかの「巻き寿司」を母が手作りした。
自宅療養中、「何が食べたい?」と聞くと、必ず「寿司かな」と答え、家族で苦笑した。
三回目の入院前までは杖歩行していたが、退院後は転倒しないよう慎重になり、手足がみるみる瘦せ細った。歩行器も腰が引けて危くなり、ケアマネージャーさんや介護用具の企業の方々と、適宜ご相談して環境を整えた。
「回転寿司」を車椅子で食べたりテイクアウトもしたが、いつしか、好んで食べた「ウナギやホタテ貝」「だし巻き」にも手をつけなくなった。
それでも、週末お膳には、「にぎり寿司」や好みの卵大き目の「巻き寿司」やお刺身を並べ、父は時々、ネタを口の中で味わった。
母は、そんな父の姿を受けとめきれず、説明しても、「卵焼きや煮物」を小さく刻み、父の口の中に入れていた。父はそれを、飴玉のように頬に蓄えて、うがいや口腔ケア時に、コロッと出てきた。
のちに、「お料理を見ているだけでも楽しい」と、以前語っていたと、家族に聴いた。今思えば、もっと父に手作りしたかった。
週二回の在宅リハビリを続け、車の乗り降りやデイケアを休んだ時の自宅での入浴は続き、日に一~二回は、庭の花々やテレビを見ながら、リビングで食事を共にした。
父がドライブしたいと助手席に乗せ、晩秋に訪れた地元の観光地では、今は花瓶にしているコバルトブル―の「日本酒」の瓶を選んで、「ごまアイス」を美味しそうに食べた。
急遽一泊した清流沿いの温泉旅館では、ウエルカム「コーヒーと焼き芋」をほおばった。
女将さんの提案で、急遽追加した夕食二食を三人で分け、「ノンアルコールビール」をお代わりする勢いで、少しずつお料理をいただき、母に抱かれて温泉につかり、良眠した。
豪華な朝食も美味しそうに口をつけ、喫茶でコーヒーをゆっくり飲み干し、車椅子で晴れの日の紅葉を穏やかに楽しんだ。
「お父さんは雰囲気で食べるね」と、帰路、道の駅の駐車場で「抹茶アイス」を頬張る写真を見ながら、「旅行に行けて良かったね」と家族で談笑した。
二回目の退院祝いの、近くの球場での車椅子席野球観戦は猛暑で断念したが、旅立つ日の朝、弟のミニテレビで、大谷選手の活躍のニュースを楽しそうに見入っていた。
母と毎日でも観たがった、「ローマの休日」は、通夜と葬儀でも流していただいた。
車窓の田園風景を眺めつつ通った、映画観賞は、初夏の時代劇が最後だったけれど、向かいのお店で、庭木用のクリスマスリースや母に贈るお揃いの手袋を内緒で選んだ日も、カフェで「ケーキセットやアイス」を食べた。
旅立つ一週間前も、母とカフェで「さつまいものムースと紅茶」を完食し、二日前に偶然訪れた叔母と母に囲まれ「いちごケーキとコーヒー」を前に最後の記念撮影となった。
庭の木に飾りかけだったリース類ははずさずにそっと追加し、父を悼んだ。
数年前、父が脳梗塞で右半身不随になった時、年末年始も休まずリハビリしつつ、病院で起用に左手を使い、一生懸命食べる背中を見てからは、どんなにつらくて大変でも、食べる事を私も大切にしてきた。
「エンタの神様っているんだ!」と、家族に気分転換を勧められた週末の奇跡。長年応援してきた俳優さんとドラマでご一緒でき、後日映った姿は、ふくよかすぎて笑えた。
翌春も桜を一緒に見るつもりで、父の思いにゆっくり向き合う事ができなかったが、父は町内会長時代に早々にお墓を準備し、趣味の社交ダンスの友人の勧めで、葬儀用の保険にも入り、遺影や法名も準備して、義妹や姪には祭壇の花の色まで希望していたようだ。
葬儀で飾った写真、弔問や葬儀参列の近所や友人方、いろいろと助けてくれた叔父達をはじめ、親戚他との会話やお手紙を通して、今回、あらたに父の生き様を知る事もできた。
生前は、口喧嘩する事もあったけれど、最後は家族を一つにまとめてくれたと感じる。
課題が次々起こる中で、協力し合えている。
四十九日法要時訪れた、従弟のお店の「恵方巻」は、父の好んだなつかしい味がした。
母は、ある朝突然、「部屋中探しても、お父さんがどこにもいない」と涙目になったが、友人と電話やカフェで話し、花を活けたり庭の掃除も再開し、少しずつ前を向いている。
残業帰り、お寿司屋さんのカウンターで、涙をこらえて日本酒で父に献杯しつつ、ふと、「春になったら、母と久々、ちらし寿司や桜餅を作ろうかな」と思った。
変なことを言い出すな、と呆れられることは覚悟の上での告白です。
朝の通勤路、公園の横を通り抜けると、聞きなれたメロディ―が流れる。
波をチャプチャプチャプチャプかき分けて
雲をスイスイスイスイ追い抜いて
文字に表現できないが前奏つきである。
公園のスピーカーからではない。頭の中で鳴っているのだ。一度始まると何度も繰り返す。今日のヘビーローテーション曲なのだ。
仕事場に着くころに、
丸い地球の水平線に何かがきっと待っている
苦しいこともあるだろさ、悲しいこともあるだろさ
午前九時、仕事が始まるころ、
だけど僕らはくじけない、鳴くのはいやだ笑っちゃおう
進め―、ひょっこりひょうたん島
シンプルだが気分を盛り上げるメロディー、たまったストレスを吹き飛ばしてくれそうな歌詞。まさに名曲。いったん始まると、仕事中も延々と脳内でリフレインされる。
このヘビーローテーション、意識してのことではない。その日の選曲は勝手に決まっているのだ。三百六十五歩のマーチ、オブラディ・オブラダ、水戸黄門、マジンガーZのテーマなどなど。なんとも脈絡がないが、昭和の歌謡曲、ポップスやアニメ主題歌が多い。数えきれない回数聞いて脳の溝に刻まれているに違いない。ギターソロやホーンセクションといった間奏の楽器構成までほぼ忠実に再現される。曲がかかっていても注意が散漫になるわけではない。学生時代はずっと深夜ラジオを聴きながら勉強していた。音楽があると能率が上がるほうだった。
リズムに乗って今日の仕事も淡々と進んでいく。
ちょっとしたきっかけで曲は切り替わる。机の隅に置いた朝刊にコンサートの広告が目に入る。そうか庄野真代ってまだ現役で歌っているんだ、と思ったとたんに「飛んでイスタンブール」のイントロが始まる。アポイントに備えて取り出した名刺の主が松田さんだと、唐突に「青い珊瑚礁」が割り込んできたりする。三曲ほど流れたところでお昼の休憩。
最近はしんどさを感じつつ仕事をしているが、脳内BGMが途切れない日は調子が良い。昼頃に近づいても疲れが少ないのだ。心地よい音楽を聴くと、脳内にエンドルフィンというホルモンが分泌されるという。頭の中を流れる旋律は自作自演の妙薬なのかもしれない。
私を忘れないで……。
踏まれても抜かれても、エヘッと顔をだす能天気な私も古希近くになる。
命からがら戦地から戻った父と、焼夷弾の雨の中を生き延びた母。貧しくとも、あの頃を生き延びた人々は、明日に希望の持てる日がやっと訪れる。それから十年後、戦争を知らない私は生まれた。
平和などこにでもある下町。
我が家の柱時計がタッタッタッと軽快な音を刻んでいる。長い針が上を示すと、ダーンダーンダーンと重厚な響きと変わり、静かに流れていった。
茶の間には、木製の丸いちゃぶ台があった。お膳の上には、ほかほかのご飯。お味噌汁。めざし、佃煮、生卵、昨夜の残り物あたりが並ぶ。
寒い朝は、魚の煮こごりが、ぷるっぷるっとゆれていた。
定番は、卵かけご飯。卵一つを妹といつも分け合っていた。あの頃の卵。卵屋さんは玉子屋さんとして市場の奥にあった。卵達は裸電球に照らされ、もみ殻が敷かれた木箱の上に行儀よく並んでいた。
滋養強壮、今ではドリンク剤をイメージするが、あの頃の卵は、そんな御身分にあった。栄養をとってお大事にと、化粧箱に入れれば、お見舞い品にもなった。
夫に聞くと「俺は、子どもの時からいつも一個食べていたなぁ」と笑う。
ちょっとカチンとくる。
お味噌汁は、何故かしじみが多かった。朝から、しじみ売りの声がしていたからなのか、それとも父の健康を考えた母の気遣いだったような気もする。
私の思い出は、とかくどうでもいい普通が多い。
もはや戦後ではないと言われた復興期。
今ほど便利ではなく、物も豊かではなかったが、何が大切であるのかを知る大人がいた。知識はなくとも知恵があり、道理を持ち合わせる、きっぱり叱れる大人がいた。
争いを避け誰とでも仲良く暮らす。こんな普通のことが、最近私は、実はかなり難しいのではないかとそう感じる。
何よりも最優先されるのは命。
それを私たちは、冷静に判断し忘れてはいけない。自分以上に他人の命は、かけがえがない事を。命の大切さを忘れない。
今年は79回目の終戦の日を迎える。
何が食べたい? 「さぁ……」夫の返事は年中不変である。
薄い卵で巻かれたオムライス、昭和の定番ナポリタン、里芋の煮っころがし、ポテトサラダ……我が家は平和である。
この平和が続くために、厳しい時代を乗り越えた世代から、受け継いだ根本的な事を私達は忘れてはいないだろうか。
2024年2月24日 発行 初版
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