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科学になぐさめられる時Ⅰ

山口 祐史

山口 祐史出版



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「科学になぐさめられる時Ⅰ」

        二〇二三年 山口 祐史


はじめに

この小説は、原文が一九九二年に書かれたものです。必要に応じて加筆修正されていますが、基本的な執筆環境、生活環境は当時のものです。従って、描かれる状況や背景、小道具やセッティング、表現や言い回しも当時のままとなっております(つまりギャグのセンスが古いです)。ストーリー展開上、時代への過剰な依存はありませんので作品上の問題はありませんが(しかし、ギャグのセンスは古いです)、予め現代との違和感にはご了承ください。

第Ⅰ章 ヤクザのためのアインシュタイン

「なるほど、タイムマシンってのはそういう仕組みになってたんだな。」
ヒデキは素直に感心していた。
タイムマシンは SF のおとぎ話ではない、とその本には書いてあったからだ。
「光より速ぇってことは、大したことなんだな、やっぱり。」
どうやらタイムマシンに乗るためには、光より速くなることが必要らしい。そこまでは分かった気がしたのだ。もう少し考えれば、本当にタイムマシンに乗れる気がしないでもなかった。
「つーことはだよ、つまり、、、」
などといいながら、辺りを見渡した。
『いるじゃねぇかよ、都合がいいカモがよ。』
そうだ、頭を整理する時は、一人で考えるよりも、人に説明した方が自分でも理解しやすい時がある。今はきっとそんな時だ。
ヒデキは声を掛けた。
「オイ、シンイチロウ。ちょっと面貸せ。」
同じように、隣のデスクで本を読んでいたシンイチロウは、素直に顔を上げた。表紙からすると、読んでいたのはどうやらヒデキと同じ本のようである。
「どうしたんですか、アニキ?」
シンイチロウはまだ十九の新米ヤクザだ。ヒデキが舎弟として面倒を見ている。
「良いからちょっとこっち来い。お前、タイムマシンって知ってっか?」
「はい、あの昔にワープできるって奴ですよね。」
素直にデスクから立ち上がり、顎でしゃくるヒデキの指示通り、眼の前のソファに座った。
「そうだ、その昔にワープするタイムマシンだ。」
ヒデキは質問の核心に進んだ。
「でだ、何で昔にワープ出来るか知ってるか?」
そこは、ヒデキのアパート代わりの倉庫だった。元々は組が何かの形に差し押さえた物件のはずである。ただ、差し押さえたのはいいものの、誰も使うものがいなかった。そこにヒデキが眼を付けたのだった。
だだっ広い空間の片隅に、ちょっとした居住空間がしつらえてある。誰にも邪魔されることのない空間。今はヒデキとシンイチロウの二人きりだ。
「何で出来るかって?」
軽い口調でシンイチロウは答えた。
「それってストーリーとか設定によるじゃないですか。アメリカのドラマのタイムトンネルとかだと、かまぼこ型の細長い奴っていうか、クロワッサンの曲がった奴っていうか、あれの中に入って、、、」
「あぁ、あのテレビ番組ね。まだ白黒だった頃な。子供心にも、あの胡散臭さは鼻に付いたよなぁ。」
思わず昔を懐かしむヒデキ。
「日本で言えば何と言っても、宇宙戦艦ヤマトですかね。波動エンジンで宇宙を旅するんすよね。」
「おぉ、イスカンダルな。松本零士だな。SF宇宙アニメの原点だもんな。」
「『メーテル? 眼、めーてる?』、何て言ってませんでしたか、アニキも。」
「何言ってんだよ、それは999(スリーナイン)だろ。それを言うなら、俺は『縁側の江川』だな。」
「あぁ、あの縁側に座ってるだけの江川ですね。」
「おぉ、江川が湯呑持って、縁側にただ座ってるんだよ。」
「ハハハ」
「ハハハ」
「・・・」
「・・・」
「で、ワープがどうかしたんですか、アニキ?」
話題をシンイチロウに戻してもらった、ヒデキ。
「お、おぉ、そのワープなんだがよ、、、」
辺りを見回し、やや小声で言う。
「わかったんだよ、俺。」
つられてシンイチロウも小声になる。
「何を?」
「やり方を。」
「え!ワープのやり方、アニキがわかっちゃったんすか!?」
思わず大声を出すシンイチロウに、指を立てて黙らせるヒデキ。
「シー!」
ヒデキに肩を掴まれ、座り直されたシンイチロウ。すると、小声で再び質問し始めた。
「本当っすか?」
同じように小声で答えるヒデキ。
「本当だよ。」
「何時わかったんすか?」
「さっき。」
「何処で?」
「ここで。」
「マジで?」
「マジで。」
「・・・」
「・・・」
「ワハハハハ。ヒヒヒヒヒヒ。」
いきなりシンイチロウが腹を抱えて、大声で笑い出した。堪えていた爆笑が一気に噴き出した。
「何笑ってやがんだ、シンイチロウ!」
ヒデキが怒鳴りつけて頭をはたくと、シンイチロウは、ハタと真顔に返った。
「・・・」
シンイチロウはヒデキのオデコに手をやると、
「熱はない、と。」
そう言うなり立ち上がると電話を取り上げて、どこかに連絡するのか、プッシュホンを押し始めた。
「何処に掛けてんだよ。」
「医者に決まっているじゃないですか。こう言うのは早い方が良いんですよ。自分じゃ掛けずらいでしょうからね。『ちょっと最近、気がふれたみたいで。』、なんて言ったら、本当にクルクルパーかって思われちゃうから、そういう時は、この私がですね、、、」
有無を言わさずシンイチロウから受話器を取り上げるヒデキ。
「いいんだよ、余計なことはしなくてもよ。」
睨みつけて、顎でソファをしゃくる。不承不承、無言で座るシンイチロウ。ヒデキも向かいのソファに腰を掛ける。卓上の煙草を勧め、自分でも口に喰わせる。すかさずシンイチロウが愛用のジッポで火を差し出す。ちょっと片手をかざし火を点ける。シンイチロウもそれに続いて、自分のタバコにも火をともす。シンイチロウがわざとらしくジッポをスナップで鳴らして、その火を消す。二人でゆっくりと煙を味わう。
「・」
何かを言おうとするシンイチロウを、無言の片手で制止するヒデキ。
そして、シンイチロウの前に、ポンッと一冊の本を放った。
「・」
ヒデキが顎でしゃくったその先を、シンイチロウの眼が追う。その視線の先には、ヒデキが読みかけていた本があった。手に取るシンイチロウ。
「これ、代貸しの本ですよね。」
そう、組の代貸しであるハンタロウが書いた「ヤクザのためのアインシュタイン」、その名の通りヤクザのための相対性理論の入門書である。
「それなら、ほら、俺も読んでますよ。」
シンイチロウが、笑顔で尻ポケットから本を出す。さっきまで読んでいた本だ。
実はこの本、組員全員の課題図書となっていた。この一週間以内に読み終えた上、感想文を提出しなければならないのだ。それもハンタロウからの伝達事項である。つまりハンタロウは、自分で書いた本を組員全員に読ませた上、その感想文まで提出しろ、と命じていたのである。何のためかは不明だったが、組としては正式な命令事項だった。

何はともあれ、今のヒデキにとっても、シンイチロウにとっても、この本を読むことは必須の仕事であり、かつ感想文まで書かなければならなかった、と言うわけである。ここでやっと話が通じた二人。
「この本に書いてあるんだよ、ワープの仕方がよ。」
「え?そんなこと書いてありましたっけ?」
シンイチロウは手に取って、ページをめくりながら言う。
「俺には全然わかりませんでしたけど。」
「だろうな、ちょっと分かり難いといえば、分かり難いからなぁ。」
「アニキは、わかったんですか?」
「おぉ、だからわかったって、さっきから言ってんじゃねぇかよ。」
シンイチロウが、腕を組んで煙草をふかしながら、疑わし気な様子で確認する。
「アニキを疑うようで悪いっすけど、その話、マジに本当っすか?」
「あぁ、本当だよ。」
まだ信じ切れない様子のシンイチロウ。
「本当かなぁ、相対性理論っすよ?!」
「おぉ、相対性理論だよ。」
「アインシュタインっすよ!」
「あぁ、アインシュタインだよ。」
するとシンイチロウは立ち上がり、宙を眺めたかと思うと、人差し指を空中で文字をなぞったりした後、
「てーことはアニキ、もしかしてオジキの感想文、本気で書く気じゃないっすか?」
と振り返った。
「あぁ、書く気だよ。書かなきゃ破門だからね。お前だって同じだろ。」
するとすかさず、シンイチロウが煙草をもみ消して、真顔になって聞いてきた。
「じゃぁ、そのアニキが書く感想文の中身って、ちょこっと俺にも教えてもらっても良いっすか?」
「いや、だからよ、それを教えるっつぅーか、頭を整理するっつーか、よ、そのためにお前をよ、、、」
おずおずとシンイチロウが口を挟む。やや斜め下からの目線だ。顔もニヤつき始めている。
「で、でもって、俺の感想文にも、それをちょこっとパクっちゃってもいいっすか?」
「そりゃぁ、お前、良いに決まってんだろうがよ。だって、お前に面貸せっつったのは、俺だからね。お前に頼んで聞いてもらおうってんだから、そいつをお前が煮ようが焼こうが、俺が文句をつける筋合いの話じゃねぇわな、だって考えてもみろよ、、、」
「あざっす、あざっす、あざっす。」
シンイチロウは、低めのテーブルをまたいだかと思うと、跪きながら正座をしてヒデキの両手を取って頭に掲げた。
「アニキは、やっぱアニキっす。俺のアニキっす。そう信じてたっす。何処までも、アニキについて行くっす。」
「何言ってんだよ。」
「あ、そうだ、空気が乾燥してアニキの喉がやられるといけねぇから、加湿機が必要だな。それから煙草の煙が目に染みるといけねぇから、空気清浄機も買っておくか。それに眼にはビタミンが良いって言うから、フルーツの盛り合わせもだな。それに、ユンケルだよな、やっぱり。」
などと言って立ち上がり、
「じゃぁ、俺すぐ戻るっすから、ちょっと行ってきます。」
唖然としてヒデキが無言でいると、
「感想文、頑張ってくださいね。アニキだったら、絶対にやれますよ。だから、自分を信じて。ファイト!」
と言って、シンイチロウは出口に向かった。扉の所で振り返り、右手でサムアップを返してよこした。
「感想ブーン、感想ブーン、、、」
そして、車のキーを人差し指でクルクル振り回しながら、スキップで出て行った。

「お、おい、ったく、よお。」
一人残されたヒデキは、舌打ちをした。
「折角、頭を整理するために、シンイチロウをだしにしようと思ったのによう。」
しかし、こうなっては仕方がない。諦めて一人で、頭を整理することにした。煙草をもみ消すと、腕を組んで天井を見上げた。そして目をつむり、頭の中を集中させた。
「問題は、何で昔にワープが出来るのか、だな。」
そう、問題は何故昔にワープが出来るのか、言い換えるならタイムマシンは本当に可能なのか、である。ヒデキは考えた。

見上げた空に星がある。その星を今、五十光年としよう。光年とはご存じの通り、光の速度で一年のことだ。つまり、その見上げた星は、光の速度で五十年の距離があるということだ。言い換えると、今見ているその星は、五十年前の姿だと言う事が出来る。
立場を入れ替えよう。今、誰かがその星から、こっち、つまり地球を見ていたとする。すると、その彼の眼には、やはり同じように五十年前の地球が見えている、と言う計算になる。つまり、彼には俺やシンイチロウが生まれるかなり前の地球や日本が見えていると言う事だ。
『五十年前か。今が一九九二年だから、五十年前といえば、一九四二年、まだ戦時中のことだな。戦艦大和もまだ沈んでなかった頃になるなぁ。』
見れるものなら見てみたい気もしないでもない。いかん、それではわき道に逸れてしまう。戻ろう。
では、もっと離れてみよう。百光年だったらどうだろうか。百光年離れた星からならば、同じように百年前の地球が見えるはずだ。
『百年前なら、一八九二年だ。一八九四年に日清戦争、一九〇四年に日露戦争だから、東郷平八郎とかの時代なわけだな。正真正銘の坂の上の雲だよ、これは。バブルとか高度経済成長とかよりも、イケイケな日本だったのかもなぁ。』
これまた見れるものなら見てみたい気もしないでもない。が、戻ろう。わき道には逸れずに行こう。
ならばどうすれば見れるのか。
「見に行きゃいいんだよな。」
その通り、今すぐ見に行けばいいのだ。今すぐ、五十光年の先に、百光年の彼方に、飛んで行きさえすれば、そこから見れるのだ。何故なら、今でも、いや、今まさに、その五十光年の先に、百光年の彼方に、その時代が現在進行しているからだ。架空のおとぎ話や SF 小説の類などではない。竜馬も信長も坂上田村麻呂も、現在進行の真っただ中なのだ。
「ただ、見るだけにはなっちゃうんだな。」
それもその通り。確かに見ることは出来るかもしれないが、その時代に行くことは出来ない。何故なら行くためには近づかなくてはならないからだ。しかし、近づいてしまっては、時間が逆戻りして元に戻ってしまう。
「テレビ番組のタイムトンネルで、主人公がワープすると周りの人々が止まってしまうと言うのは、ある意味、正しい表現だったわけか。」
あの胡散臭さが鼻に付くほど癖になるアメリカ製のテレビドラマは、ある意味で正確であろうとしたが故の表現ともいえるのだ。
「と言うことは、ドラえもんのどこでもドアは嘘っつぱちつーことか。」
その通り。どこでもドアでは、本当にその瞬間に移動できてしまうわけなので、ドラえもんとのび太は、飽くまで空想の世界ということだ。
「見れるもんなら、見てみてぇもんだなぁ。」
そうだ、それが人情というものだ。だって、それはそこに実在するのだから。架空のおとぎ話や SF 小説の類ではなく、全く持って正真正銘の現在進行の真っただ中なのだから。ただし、それには越えなければならないハードルがある。そのハードルとは、
「光速を超えること。」
そうなのだ、昔にワープするには、これがどうしても必要になってしまう。逆に、これが可能なら、昔にワープすることも可能なはずだ。では何故出来ないのか。
「ここでやっと出てくるんだな、相対性理論つぅ主役の出番だな。」
頭の整理はついた。ヒデキは、次に進むことにした。

さて、話を先に進める前に、ここでヒデキの人となりを説明してしまおう。ヒデキは今年で二十五歳になるチンピラヤクザだ。一応、生まれ故郷の地元ヤクザである平賀組の構成員である。組に入ったのは高校の卒業と同時だったから、かれこれ今年で七年目である。ストレートでヤクザデビューと言う訳だ。では何で、ヒデキはストレートでヤクザにデビューすることになったのか?
高校時代のヒデキは典型的なヤンチャな軟派だった。勿論、ヤンチャである以上、喧嘩もしたし、カツアゲもした。暴力沙汰も多かったし、当時は流行っていた暴走族まがいにバイクも乗り回していた。
だが、真骨頂は何と言っても軟派だった。兎に角女をたらしこむのが、得意だった。後になって女をたらしこむには、金が一番物を言うことを知ったが、当時のヒデキに金などあるわけはなかった。ただ、妙に話は巧みだった。女子がちょっと気になるようなことを、何故かさり気なく話題にすることが出来た。だから、話しても飽きないのだ。男は黙ってサッポロビール、の丁度反対なのだ。
かと言って、ベラベラと延々と喋り続けるかというとそういうわけでもない。ふぅっと黙り込んだりもする。遠くの雲を眺めたりもする。握りしめたジュースの缶を見つめたりもする。どうもその緩急の差が、何かしら女子のハートの波長に共鳴するようなのだ。ただ、それには本人は至って無自覚のようであった。それも相まってか不明だが、兎に角、面白いように女が引っ掛かった。
そんな軟派なヒデキの夢は、単純ながら明確でもあった。それは、
「歌舞伎ドリーム!」
歌舞伎ドリームとは、あのホストの聖地、新宿の歌舞伎町でホストとなって一旗揚げることである。その手の女の子が銀座のホステスや六本木のクラブに憧れるように、地方の軟派な男子が憧れるのが、歌舞伎町のホストだ。原宿や表参道など目じゃないのだ。確かに最初は赤羽や西川口あたりかもしれない。しかし、そこで満足することなく切磋琢磨し、錦糸町や上野なんかで肩で風切るのだ。しかし、所詮、赤羽は北区で、錦糸町は墨田区だ。まだまだ、上には上がある。そうやって見上げた先に見えるのは、お洒落な渋谷でもなく、水族館も楽しめる池袋でもなく、あのアスファルトジャングル、そう新宿だ。たまに、ジュクなどと略して呼んでも、塾と間違えられることなどないのだ。そしてその都会の砂漠の中でも、何と言ってもナンバーワンは、コマ劇場を有する歌舞伎町である。コマ劇場は、地方の実直で軟派なチンピラ達の心のランドマークであり、それを取り巻く映画館や噴水も、憧れのセントラルパークなのだ。そんな歌舞伎町で名を馳せるのは、ホストを夢見る十代の田舎の不良を、魅了して止まないドリームだ。夢の玉手箱、それが歌舞伎ドリームなのだ。
だって水の代わりに飲むのはシャンパンだ。そのシャンパンはドンペリだ。しかも色がピンクでピンドンだ。ブランデーは何と言ってもレミーマーティンだ。飲み慣れている感じを出すために、マルタンではなく、マーティンだ。不思議なことにマーチンではなく、一様にマーティンなのだ。ここだけは絶対に発音が良いのだ。
そんな歌舞伎ドリーム一直線だったヒデキだったのだが、思わぬ邪魔が入った。いや、思った通りの邪魔だと言った方が良いかもしれない。それは親父の反対だった。馬鹿げた歌舞伎ドリームにうつつを抜かすヒデキの目を覚ませるため、ヒデキの父親は一人の男を頼った。それが平賀組の組長、平賀源三郎だった。平賀組は、その地方を仕切る三代続いた組で、ある意味地方の名士でもあった。
「ヒデキ、一年で良い。お前がこの人の下で働くことが出来たら、後は好きにしろ。歌舞伎町なりどことなり、好きにすれば良い。ただ一年だけは絶対に許さん。」
そう言って、強引にヒデキの頭を下げさせたのだ。
「よろしくお願いします。」
と、父親共々、頭を下げたのだ。
ヒデキが顔を上げると源三郎の顔が見えた。源三郎は面倒見の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。その横には、若い男が同席していた。それがハンタロウだった。こうしてヒデキはハンタロウと出会ったのだった。

ヒデキは閉じていた本を再び開いた。読みかけていた、ハンタロウの「ヤクザのためのアインシュタイン」だ。
そこにはこう書かれていた。
「まずは手鏡で自分の顔を映してみよう。」
ヒデキは辺りを見渡し、後ろの本棚に置いてあった折り畳み式のミラーを手に取った。
手を頬にやり、そして指先に少し唾をつけ、手の平で横髪を撫でつける。剃り残しはない。リーゼントも決まっている。
『ふ。』
気が付いて、鏡を手に取りなおした。右足か左足か、少し迷ったが、左足を前にして左手で持って、ダーツの姿勢で顔を映した。
『まぁ、良いか。』
器用に、右手でページをめくり、本を取り上げた。続きを読んだ。
「手鏡に君の顔が映るのは、君の顔から発した光が、鏡に映って反射するからだ。」
当たり前だ、電気を消してしまえば、何も見えなくなってしまう。
「さて今、君は魔法の絨毯に乗って空を駆け巡っているとしよう。」
『魔法の絨毯?いや、ちょっとそれはないんじゃないかなぁ。』
懐かしい気もしたが、今時絨毯で空飛ぶことを夢見る子供もなかなかいないだろう。いや、そもそも絨毯自体、あまり見かけるものではなくなった気もする。
そう思ったヒデキは、頭の中で絨毯をサーフボードに変えてみた。ヤクザのサーフィン、ワイキキ辺りで試してみるのもいいかもしれない。トロピカルな美女の尻を、サーフボードで追いかけるヒデキとシンイチロウ。ソルティードッグにマルガリータだ。
「そして、その絨毯、いやサーフボードは、前方へ物凄いスピードで突っ走っているとする。」
ワイキキだ。波も高ければ、潮も速い。ビッグウェイブは気を付けないとワイプアウトだ。ノースショアのビッグウェンズデーだ。
「物凄いスピードで突っ走っているが、君の持つ手鏡にはまだ君の顔が映っているはずだ。」
確かに映っている。
「しかし、君のスピードは加速が止まらない。もっともっと速くなっていく。」
ボードは宙に浮きあがり、そのままの勢いで、空を駆け抜けていく。
「次第にそのスピードは光の速さに近づいていく。」
そのまま夜空を突き抜けて、宇宙空間目がけて突っ込んでいく。
「そして、終にそのスピードは光と同じ速さになってしまう。」
ヒデキは手鏡に映る自分の顔に、意識を集中させた。
一瞬息が詰まった。
「その瞬間、手鏡に君の顔はもう映ることはない。何故ならその手鏡には、もう光が届かないからだ。」
『光が届かない。』
「これが光速度不変の定理だ。」

その時、倉庫の扉の開く音がした。
「チーっす。ただいま帰りました、っと。」
シンイチロウが、大きな買い物袋を提げて帰ってきた。すぐさま、倉庫の脇にある大型の冷蔵庫に買ってきたものを詰めだした。
「色々買ってきましたからね、っと。アニキ、レディーボーデンのバニラのアイスも、パイントで買っときましたよ。アニキ、これを直接、スプーンで食べるの好きでしたもんね。」
確かに、レディーボーデンは、取り分けて食べるより、直接スプーンでがっつくのが何よりうまい食べ方だ。持つ手が冷えるので、タオルで巻いて食べるのだ。
そう言いながら、シンイチロウはテキパキと買ったものを整理しては、スーパーでもらった袋も丁寧に畳んだ。無駄はいけない。最近のヤクザは環境にも優しくなければ、生きていく資格はないのだ。使いっ走りの時からこうしたことを教え込む。身体に叩き込むのだ。これも新人教育だ。
ヒデキは、ソファに座りながら、シンイチロウの背中に声を掛けた。
「なぁ、シンイチロウ、江川の球は速えぇよなぁ。」
江川卓は、誰もが知る右の本格派のピッチャーだ。
「確かに速いっすけど、俺は嫌いっすね。」
しかし、嫌われていた。江川、ピーマン、北の湖、は、巨人、大鵬、玉子焼き、の反対で、嫌いなものベストスリーの合言葉だ。
「まぁ、好き嫌いは置いておいたとして、今、江川が河川敷でキャッチボールをしているとする。」
「はぁ、多摩川とかですかねぇ、巨人ですから。でも、一軍は河川敷では練習しないっすよ、きっと。」
といいながら、シンイチロウはヒデキの向かいのソファに腰を下ろした。三角パックのコーヒーミルクを二つテーブルの上に置くと、一つをヒデキに差し出した。
ヒデキは受け取り、
「まぁ、仮にの話だよ。それを俺とお前で眺めていたとする。いいか、、、」
頷くシンイチロウ。
二人はストローを、丁寧にストローの穴に突き刺した。ここで持った手に力を入れてしまうと、穴からコーヒーミルクが溢れ出すので、要注意だ。二人ともそうした要領はよくわきまえていた。三角パックのテーブルマナーだ。ヒデキは話しを進めた。
「江川の投げる球は速えから、140Kmは出ているとする。」
「最速、そのぐらい出るって言ってますもんね。」
「でな、もしよ、その江川がよ、時速60Kmの車の上から投げたとするとな、、、」
思わず吹き出しそうになるのを押さえて、シンイチロウがさえぎる。
「いやぁ、それはいくら何でも危ないっすよ。」
「だから、仮にの話だよ。」
「仮って言っても、車の上じゃぁ、ワインドアップ出来ないでしょうからねぇ。セットポジションからじゃぁ、いくら江川でも140はきついんじゃぁ、、、」
「いや、だからよ、仮の話っつってんだろうがよ。なら、マウンドごとグワーッと動いてたってことでもいいからよ、、、」
「なら、移動式っすか。いや、移動式は、ちょっと芝も良くないし、腰にも悪い、、、」
「だから、仮にの話っつってんだろうが。はったおすぞ、この野郎。」
立ち上がって怒鳴りつける、ヒデキ。
「すんません。」

三角パックを握り潰すように飲み干すと、ゆっくりと座りなおしてヒデキは続けた。
「今、江川が時速60Kmの車の上から、時速140Kmのストレートを投げました。さて、それを多摩川の河川敷で見ている、俺とお前からは時速何キロに見えるでしょうか?」
やっとシンイチロウにも話が言えていたようだ。暫く宙を見つめ、自分の頬をつねりながら、シンイチロウはニヤリと笑った。
「それ、当てちゃってもいいっすか?」
「いいよ、当てろよ。」
シンイチロウの眼の奥に、更にキラリと光るものが見えた。
「これって、もしかして、感想文と関係あります?」
やや気圧されつつ答えるヒデキ。
「お、おぉ、図星だよ。」
「でしょ、だと思いましたよ。」
意外に鋭いシンイチロウに感心しながら、ヒデキはちょっと意地悪をすることにした。
「じゃぁ、ここでヒントな。」
「え?ヒントって必要なんすか。だって、60Kmに140Kmでしょ。」
「あぁ、でもな、感想文だよ、ハンタロウのオジキだよ、つーことは、相対性理論だよ。よーく考えないと、外れちゃうよー。」
「ちょっと待ってくださいよ。てーことは、、、」
ヒデキの言葉に、思わずシンイチロウは腕を組んで考え込んだ。

すでに十二時を回っていた。しかし、ヒデキの読書は続いていた。
「光のスピードに近づけば近づくほど、物体の長さは短縮し、質量は増加し、その経過する時間は遅延する。つまり、短く、重く、そして遅くなるのだ。繰り返そう、速くなればなるほど、短く、重く、そして遅くなるのだ。」
 ハンタロウの書いた課題図書、「ヤクザのためのアインシュタイン」の一節だ。この一週間の間にこの本を読み終え、そして感想文を提出しなければならない。組員全員に与えられた課題だ。ヒデキも掛かりっきりで取り組んでいた。だが、
『な、何なんだ、この不思議な感覚は?』
と、ヒデキは困惑していた。
実はすでにヒデキは一度読み終えていた。手に収まるほどの小冊子なので、文庫本みたいなものなのだが、それなりにページ数はある。周りの組員たちは、みな四苦八苦しているのがわかる。そんな奴らを尻目に、ヒデキは楽々と読み終えることが出来た。何故か、
『不思議なんだよなぁ、この感覚。』
そうだ、不思議なのだ。何故かと言うと、この文章が理解できる感じがするからだ。するっと身体に入ってくる感じがするのだ。
「そして、光と同じスピードになった瞬間、長さは消滅し、質量は無限大となり、そして時間は止まる。繰り返そう、光と同じ速度になった瞬間、長さは消え去り、重さは限度をなくし、そして時間は永遠に止まったまま、時計の針はそこからもう動かない。」
『なんだか、分かんねぇのに、分かる気がすんだよなぁ。』
確かに、この本はヤクザのために易しく書かれた、相対性理論の入門書ではある。いや、正確に言えば、書いた本人のハンタロウがそう言っていたと言う事だ。
ただ、それだけではない何かがある。何故なら、ヒデキが理解できるからだ。少なくとも理解した気にさせてくれる、何かがあるのだ。腑に落ちる、腹に落ちる、得心がいく、合点がいく、ピンとくる、要は、
『つまり、ヤバいってことだろ。』
そう、一言で言えば、ヤバいのだ。この本はただ一言、光はヤバいと言っているのだ。
「君もなってみないか?」
文章は続いていた。
『な、なってみたいって、何に?』
それはどう考えても一つしかないのだが、念のためもう一度文章を読み返した。
「長さが消え、重さが無限になり、時間が永遠に止まる、それが、」
そう、それが、
「光だ。」
しかし、どうやったらなれるのだろう?
「君ならなれる。」
と、文章は続くのだが、具体的な方法は、何も書かれてはいない。どうすればいいのだろう。
ヒデキは思わず立ち上がって、読み飛ばしがないか、前のページをめくってみた。特に飛ばしたページはみつからない。仕方なく、先に進んだ。そこには、
「怖くなったらこう呟け、その合言葉は、」
『怖くなる? 何で? というかその前に、、、』
そんなヒデキの疑問には答えず、本にはこう記されていた。
「アインシュタイン。」
『何なんだ、この合言葉は?』
ヒデキはそう思いつつも、不思議なフィット感も感じていた。何といえばいいのか良く分からないのだが、
『初めてゼリー飲料を飲んだ時の喉越しの感触かなぁ。』
とも違う気もするのだが、
『いい音を立ててミットにボールが収まった時の手とグローブの感じかなぁ。』
かなり似ている気はするが、
『そうか、初めてコンドームを付けた時の先っちょの感覚だ。あ、いや、それとも根本の方かなぁ。』
兎に角、そんな言葉を言いたくなる気もしてくるのだ。なので、自分でも音を立てずに言ってみた。
『アインシュタイン』
確かに、良い感じだ。長すぎず、短すぎず、覚えやすい。
『フランケンシュタイン、やっぱ違うな、リヒテンシュタイン、これも違うな、ホルスタイン、全然違うな、バレンタイン、チョコだな。』
やっぱり、
『アインシュタイン。』
しっくりくる。
「さぁ、光になれ。思う存分なるが良い。誰よりも速く、そして何よりも重く、一切の時間が止まる光になるのだ。光になった君のことを、もう誰も止めることは出来ない。そしてそこには永遠の時が待っているのだ。それが相対性理論だ。さぁ、目の前に広がるのは、摩擦も振動もない、無限の真空の空間だ。行く手を阻むものは何一つない。その真空の空間で、思う存分光になれ。光になって突っ走れ!いつまでもどこまでも心行くまで駆け巡れ !」
ヒデキは、何時の間にか想像している自分に気が付いた。
『俺が光になる? だから、どうやって?』
最後の締めくくりはこうだった。
「忘れるな、合言葉はアインシュタイン。」
ヒデキはゆっくりと上を向いて目をつむり、心の中で呟いた。
『アインシュタイン』
眼を開き一息呼吸をして、最後のページを閉じた。ソファに座って、机に本を置いた。

本はそれでおしまいだった。結局、どうすれば光になれるのかは、分からずじまいだった。
仕方なくヒデキは立ち上がり、後ろの本棚に置いてあったシガーケースから、モンテクリストを取り出し、火を付けた。
『まぁ、良い。感想文を書くぐらいなら、これで十分だろう。』
ゆっくりと座り直し、モンテクリストを吹かした。何時もの煙草とは違う。仕事を終えた後の一服はハバナに限る。モンテクリストはそのハバナの中でも一級品だ。ヒデキの唯一の贅沢だった。
ヤクザになった時、一つだけ組長(オヤジ)の真似をした。それが、モンテクリストだった。昔気質の極道が、何故か葉巻でしかもモンテクリストだった。着流しにハバナ、それが渋くて、滅法格好良かった。
組長の吸うハバナの味は、下っ端のヒデキには知る由もない。いつか組長のように吸うことがあるのか、それも分からない。それでも今日のモンテクリストはまんざらではなかった。
モンテクリストの立ち込める香りに浸りながら、今度は同じく机に広げてある原稿用紙に眼を移した。先ほどの本に関する、ヒデキ自身の手による感想文である。こちらはまだ書きかけだった。締め切りまでに、仕上げてしまう必要がある。
『よし、一気に仕上げちまうか。』
そう心に決めて、書いている最中の、後半部分を読み返し始めた。

「なんつうか、アインシュタインの客分は、筋を通しているところが良い。原爆造っちまったことは、ちいとやり過ぎだったかとは思うが、どんな奴でもしくじることはある。いや、逆にしくじった時のふるまいこそ、そいつの本当の実力だ。やっちまったら仕方がねぇ、きっちり落とし前を付ける。そこが肝心だ。」
『ウム、文章も筋が通ってるじゃねぇか。』
ヒデキはモンテクリストの灰を落としながら、自分の文章に満足して先に進んだ。
「俺が一番気に入ったのは、神様はサイコロなんて振らねぇはずだ、ってところだ。俺もそう思う。」
『ここからなんだよ、俺が言いたいのはよぉ。』
ヒデキは座りなおすと、もう一度、モンテクリストを咥えなおした。一口吸って、下顎を突き出す。黙読だが、何故か口も動く。
「サイコロなんぞで決めるくれぇなら、はなっから手ぇ出すなっつう事だ。勿論、世の中そんなに甘かねぇ。あちらを立てれば、こちらが立たずだ。言うに言われぬ、止むに止まれぬ、なんて時もある。そんな時には、一か八か運は天に任せてって思いたくなる時もある。」
そうだ、そうなんだ。人生とは悩みが尽きないものなのだ。ヤクザとて一介の人間に過ぎないのだ。
「しかし、本当はそうなる前が肝心なんだ。こんがらがってどうにもこうにもならなくなる前にどうするかってことだ。あっちにもこっちにもいい顔してちゃぁいけねぇってことだ。そんなことだから、仁義なき戦いでも金子信雄なんてぇのが生き延びることになるんだ。」
ところが、そんなずるがしこい金子信雄なのだが、何故か憎み切れないのもまた金子信雄である。仁義なき戦いは深い。
ここで段落が変えてあるのを見て、ヒデキは自分の文章力の確かさを再確認した。なんと言っても読み易さが段違いだ。
「そうさせねぇためには、結局どんな時でも筋は通すってこった。ビシーッと、貫き通すんだ。だから、仁義なき戦いで文太のアニキが言いたかったのは、原点回帰だ。文太のアニキが言ってるのは、健さんに戻れってことだ。仁義を欠いちゃぁ、居られはしねぇよ、ってことだ。これが本当の仁義なき戦いの見方ってもんだ。」
やはり、良い。要点がまとまっている。後は締めの一言だ。
おもむろに鉛筆を取り上げると、意を決して原稿用紙に向かう。
「だから俺も迷いわしねぇ。これまでも、これからも、きっちり筋を通す。どこにいようと、誰であろうとだ。何故なら、それが俺にとっての相対性理論だからだ。それが俺にとってのアインシュタインだからだ。 以上」
ヒデキは、一気に書き上げた。
原稿用紙を両手で持って、持ち上げた。原稿用紙一枚が一面真っ黒だ。二十字の二十行だから、合計四百字も詰まっているって計算だ。しかも、ちゃんと段落が切ってあるから読み易い。腹の底から徐々に満足感が湧き上がってくる。
『大した文章じゃねぇかよ。』
書き上げてみると悪くはない。ヤクザと感想文。意外と相性のいい組み合わせだ。
マスからはみ出した書き損じを消しゴムで消し、しっかりと研いだ鉛筆で書き足す。芯は少し堅めの F だ。H 程硬くなく、 B 程もろすぎない、程よい硬度だ。消しゴムの残り滓を、吹く息で飛ばした。飛びきらずに纏わりつく細かい滓は、直接にはこすらない。原稿用紙を持ち上げて端を指で弾く。原稿用紙が、ビリっと反応する。消し滓は堪らず床に落下する。消しゴムの滓は、こうやって丁寧に払って落とす。そうすれば原稿用紙は痛まずに済む。作品は大切に扱わなくてはならない。

横を見ると、シンイチロウは諦めたのか、デスクで涎を垂らしながら眠っている。
「ったく、根性ねぇからよ。」
軽くはたくと、寝言をつぶやいて涎を拭く。ヤクザと言っても十九のチンピラだ。感想文は荷が重いだろう。
覗き込むと、それでも結構頑張っていた。半分は行っている。
「アインシュタインのオジキはスゲエ。原ばくをつくっちまったぐらいだから、きっとケンカも強えぇんだろう。オレもアインシュタインのオジキみたいになりたいけど、バカだからなれない。だけど、やるときはやる。だから、これからもガンバル。でもやるなら原ばくよりかドスでやる。ドスだけは負けたくない。そんなヤクザにオレはなりたい。」
良い文章だ。
ヒデキは内心、シンイチロウを見直していた。しかし、段落がない。
「まだまだ若いな。」
舎弟を見る兄貴の余裕。悪い余裕じゃない。
「さてと、寝るか。この三日てぇもん、書きっぱなしだったからな。」
モンテクリストの火を丁寧に消し、シガーホルダーにしまう。唯一の贅沢、それは決して浪費ではない。
「全く、オジキのやるこたぁ、わかんねーからな。でも憎めねぇんだよな。」
そのままヒデキは、ソファに横になった。天井を見上げると、代貸しの顔が浮かんだ。色白の二枚目。キレるヤクザ。ヒデキをはじめとする直系組員を悪夢の一週間に陥れた張本人。世界で初めてヤクザと感想文を結びつけた男。その名はハンタロウ。
「明日が楽しみだぜ、ハンタロウのオジキよ。」
ヒデキは、ゆっくりと眼を閉じた。モンテクリストの残り香が、労わる様にヒデキの眠りを包み込んで行った。

それは丁度一週間前の総会の席上だった。会も終盤に近づき、青年組員(わけーしゅー)もやっと緊張感を解こうとする頃、代貸しのハンタロウが演壇に立った。
殺しのホーキング、地上げのサハロフ、取り立てのアインシュタインの異名を持つこの男は、昨今稀に見る理論派インテリヤクザの急先鋒として、既にこの地方一円ではその名を知られる存在となっていた。端正な顔立ち、華奢な身体付き、まさにヴィジュアル自体がヤクザの新しい時代の到来を告げるものだった。悲しいかな、梅宮の辰っつぁんの時代は過ぎ去ったのだ。北大路欣也も松方弘樹ももういない。ついでに成田三樹夫もだ。
ゆっくりと確信を持った眼が会場を一瞥する。敵も多い。多ければ多い分だけのし上がれる。周りをピリ付かせずにはいられない男。そんなタイプの男だ。
ただ、何故だか分からないが、ヒデキはこの男に親近感のようなものを持っていた。拒絶反応は感じないとでも言えばいいか。ヤクザの相性、そんな男もいるものだ。
「諸君、一九九二年度の日本国の一人当たりヤクザGNPを君たちは知っているか?」
ハンタロウは、その外見からは予想もつかない野太い声で叫び出した。
「遂に日本国の一人当たりヤクザGNPは、一九九二年度、世界第一位となった。」
一体何を話し出したのか。会場ではそこかしこで話しを始める声がざわつく。それを無視するかのように、ハンタロウは続けた。
「世界中に暴力組織は星の数ほどあれど、その中でついに我々日本ヤクザ、ジャパニーズ極道が世界の頂点を極めたのだ。
我々は既に世界中のどの暴力団組織よりもリッチなのである。コーザノストラよりも、香港マフィアよりも、メキシカン麻薬カルテルよりも、我々は世界中のどんな暴力団組織よりもリッチなのだ。ザ・リッチエスト・ギャングスターズ・イン・ザ・ワールドなのだ。」
会場は何時の間にか熱を帯び、騒然としてきた。世界のトップ。そうだ、日本のヤクザは世界で一番金持ちなのだ。
「更に、日本国はヤクザ債権国ナンバーワンでもある。世界中のありとあらゆる暴力団組織の中で、日本のヤクザが最も多くのお金を貸し付けているのである。債権を持っているのである。
アラブのマフィアがイスラエル製のウージーを買えるのは、日本ヤクザの第三国経由での裏金送金ルートがあるからこそである。ペルーのコカインが遠くヨーロッパのチューリッヒで売買できるのは、ジャパニーズ極道のロンダリング機能があるからこそなのだ。」
日頃はシマの縄張り争いに明け暮れる青年組員(わけーしゅー)には、この言葉は麻薬のような響きを持っていた。世界一位のヤクザ。ロシアン・マフィアよりも、黒人ギャングよりも、チャイニーズ黒社会よりも、凄いのがヤクザ。
「さぁ、もう一度考えてみてみたまえ。債権とはつまり貸しである。ということは、我々日本ヤクザが世界中で貸しを作っているのである。コーザノストラしかり、香港マフィアしかり、メキシカン麻薬カルテルしかりだ。既に我々は、世界中のギャングのエンコを飛ばしまくっても余りある、貸し貸し貸しの大貸し大感謝祭なのである。」
そうだ、俺たちは凄いんだ。
「諸君、我々の一見平凡なヤクザ生活をもう一度振り返ってみたまえ。
シャブもある、取り立てもある、民ボーもある、サツとの付き合いもある。たまにはいけすかない堅気を半殺しにすることもある。思い余ってバラす時もある。ついつい女を輪姦したりもする。輪姦したら輪姦したで、きっちりシャブ漬けにしなきゃならねぇ。売ったら売ったで、円高で買い叩かれる。
これが俺たちまっとうなヤクザの生活だ。」
会場の熱気は既に沸騰寸前だった。みんな拳を握りしめ、自然と吹き出す汗が吐息と交じり合って空気を醸造し始める。
「それもこれもヤクザの仕事よ。盃の重みよ。鶴田浩二よ。安藤昇よ。
組長(オヤジ)の代から俺たちはちゃんとそうしてやってきた。そして今、お前たちがそうしてくれている。」
ハンタロウの口調に泣きが入る。
「え?!それで世界一だぞ。おい、俺たちゃぁ全員ひっくるめて世界一なんだよ。噛み締めようぜ、その世界一って奴をよ。」
会場は泣いていた。嗚咽にむせぶ男たち。堰を切ったようにヤクザたちは日頃を思い返していた。
正しかったんだ。間違ってはいなかったんだ。やっぱり「ゴッドファーザー」よりも「仁義なき戦い」に感動した俺たちは間違っていなかったんだ。
誰もが泣いた。世界一に泣いた。身体を張ってきてよかった。この組にいてよかった。俺たちは柔(やわ)じゃねぇ。俺たちは本物だ。
「諸君、俺たちは本物だ。正真正銘のヤクザだ。押しも押されも、引くも引かれもしねぇ、凄いヤクザなんだよ。」
「ウォー!」
つんざくような雄叫びが、堪りかねたように会場を貫いた。
一体感。いや、そんな言葉では表せない生命感。ヤクザが初めて体験する実存の瞬間。自ら求める興奮と陶酔の一瞬。
ヒデキも興奮していた。眼を輝かせていた。
「それもこれも、お前たちが必死に戦ってきてくれたおかげだ。身体張って、組を背負ってきてくれたおかげだ。俺の誇りはお前らだ。俺の祖国はお前らだ。お前らは俺の宝だ!勇気だ!魂だ!」
興奮は極みに達していた。異様な熱気と狂躁。
横を見るとシンイチロウが泣き叫びながら拳を壇上に向かって突き上げていた。ヒデキはヒデキで、会場を埋め尽くす同じ青年組員(わけーしゅー)たちと、改めて生きる実感を噛み締めていた。陰嚢が膨れ上がるような生命感。褌を締め付けたような手触り感。
俺たちは日本のヤクザなんだ。
「俺はそんなお前らのために、生まれて初めて本を書いた。読んでくれるかー?」
「読むぞぉー。」
「代貸しー。」
「オジキー。」
「ウォー。」
「フギャー。」
「読・ん・で・く・れ・る・く・ぁ・ー・?」
「ブッフォォォォォォォォォォ。」
みんな叫んでいた。みんな泣いていた。
「俺は今、猛烈に嬉しい。嬉しいぞぉ。」
代貸しが俺たちに感謝している。こんな場面に出会えるなんて。最高だ。確かに最高だ。俺たちは正真正銘、世界一なんだ。
と、その時いきなり数十発のマグネシウムが吹っ飛び、バリーライトが目覚ましの様なイルミネーションを照らし出した。周り一面を埋め尽くすスモーク。壇上は一瞬、掻き消えるように見えなくなった。
怒鳴り出す男たち。壇上に向かって殺到する青年組員(わけーしゅー)たち。
すると、狂乱した群衆を見下ろすかのように、巨大なオブジェがスモークの中から現れた。
思わずヒデキは息を呑んだ
燦然と輝く金色に描かれた背表紙。巨大な本のオブジェだ。そしてその題名は、
「ヤクザのためのアインシュタイン」
と、地上十メートルはあるであろう巨大オブジェの上にハンタロウが仁王立ちに立っていた。
ハンタロウが叫ぶ。
「これが俺の本だぁ。お前らのための本だぁ。」
いきなり甲高い嬌声と共に数十人のラテンダンサーが殆ど全裸で壇上に飛び出してくる。強烈なラテンのリズムが鳴り始める。
誰かが叫んだ。
「ブラボー。」
一瞬、訳が分からず呆然となっていた青年たちが、その一声で我に返った。
そうだ、あれが俺たちの本だ。ハンタロウの兄貴が俺たちのために書いてくれた本だ。日本のヤクザが、世界を向こうに回して書いた本だ。
「ウォォォォォォォォォ。」
地鳴りのような雄叫びが再び青年たちから湧き上がった。
するとその声に合わせたかのように、会場には数百人のイケイケ六本木コンパニオンギャルがなだれ込んできた。
狂喜する男たち。
ギャルたちの手には壇上のハンタロウの本が握られている。本を手にしたまま男たちに抱き着いていくギャルたち。まるでその本が男たちを離さないかのように。
女を見ると男は狂う。もう総会どころではなかった。ハンタロウがニヤリと笑みを浮かべながら再び叫んだ。
「感想文を忘れるなぁ。」
女たちが黄色い声で叫ぶ。
「ハァーイ。」
男たちもそれにつられて叫んだ。
「ハァーイ。」
「ハァーイ。」
「フワァーイ。」
「フワァーイ。」
「フワフワフワーイ。」
「ハーハー。」
「ウッ。」
ハンタロウは会場を見回し満足げに頷いた。
「一週間後の午前中までに提出するように。」
そのハンタロウの言葉を合図に、会場は暗転し轟音が鳴り響いた。
目くるめくサーチライトとけたたましいサイレン。
ヤクザはこれに弱い。誰もが、やられた、と思った。こんな最高の夜を台無しにしやがって。
と、その瞬間会場は明転する。周りを呆然と見渡す青年組員(わけーしゅー)たち。既に女たちもハンタロウもいない。ただ、壇上には横断幕が掛かっていた。
「感想文は皆さんの自由意思で提出してください。
でも、出さないと破門だよ。」
何が自由意志だ。
再び青年組員(わけーしゅー)たちは、やられた、と思った。暫く何もせず、彼らは立ち尽くすしかなかった。

第Ⅱ章 神様はサイコロを振らない

 一日目。
総会の翌日。
ヒデキは始めから書くつもりだった。男の拘りには何かある。代貸しであるハンタロウのオジキもきっと何かに拘っている。だから書いたはずだ。
アインシュタイン、相対性理論。
ヒデキにとっては遠い世界だ。
いや、遠すぎる。しかし、そんな世界をハンタロウは持っている。それに触れてみるのも悪くはない。
勿論そう思ったのは、ヒデキだけだった。誰しも最初は書く奴などいないと思っていた。何せ、ヤクザが読書感想文を書くなんてことは、古今東西、日本の歴史上初めてのことだ。その上アインシュタインとくれば、フランケンシュタインの親戚かってくらいなもんだ。日頃、ソープとヘルスぐらいのカタカナしか読んだことがないものだから、三回ぐらい読み直さないと、何を言ってんだか、誰の事なんだか、自分でも分からないのだ。
まぁ、ハンタロウの代貸しには悪いが、こいつは勘弁してもらおう。まさか本当に破門する気はないさ。
そんな感じだった。
ところが妙な噂が流れだした。この感想文に組長(オヤジ)が本気だと言う。本気の証拠に、感想文の一等賞に選ばれた奴には、組長の娘が当たると言う。
当たる、と言う事は、とりもなおさず結婚、つまり次期組長の座。
そんな噂、誰も信じない、と思うのが普通だが、彼らはヤクザだった。ヤクザは噂に弱い。しかも愚かだ。
確かに組長に息子はいない。いるのは娘ばかり三人。

二日目。
男は見かけじゃない。アインシュタインもそうだった。ヒデキは好きになれそうな気がした。何せ学校を退学までしているところがいい。やはり学校なんてどこの国でも詰まらないものだ。ヒデキはヤクザになったが、奴は天才になった。要はその違いだけだ。
読書の滑り出しは好調だった。
そんなヒデキの部屋、というか倉庫にシンイチロウが飛び込んできた。
「アニキ、ココだったんですか。探しちゃったじゃないですか、もぅ。」
「オゥ。」
「あれ、アニキも早速、読んでいますね。情報が速いんだから。隅に置けないなぁ。」
「何だぁ、その隅に置けないってのはよー。」
折角の読書を邪魔されて、ヒデキは少しだけ気分を害した。
「い、いえ、あの組長(オヤジ)の娘さんのことで。」
「あー、あの噂か。感想文の一等賞がどうしたこうしたって奴だろ。」
「えぇ、やっぱりアニキも知っていたんじゃないですか。」
「バカ。三人娘の誰かもわかってねーのに、詰まらねぇ噂、真に受けてんじゃねぇよ。」
「あれ、アニキ、知らないんですか?末娘の小夜ちゃんだってこと。」
「小夜子?だってあの娘まだ十七じゃねーかよ。」
「それはそうなんですけどね、どうも小夜ちゃん本人から言い出したようなんですよ。」
「本人がぁ?またそんな口から出まかせを。」
「あっしもそう考えたんですがね、一つ疑問がありやしてね。」
「なんだ?」
「だからもし組長(オヤジ)の娘さんとの結婚だったら、候補は何といってもハンタロウのオジキじゃないですか。」
「そうかぁ?でもなぁ、年も離れているしなぁ、、、」
代貸しのハンタロウは、まだ若いとはいえ、三十三歳になるはずだ。
「まだ、三十ちょっとじゃないですか。今日日歳の差なんて関係ないっすよぉ。」
「あぁ、でもそれに春江さんもいるだろぅ。」
春江とはハンタロウの内縁の妻と言えばいいだろうか、二つ年上の姉さん女房である。
「確かに春江の姐さんには随分お世話になってますけど、極道っつったら妾の一人や二人いたっておかしかないじゃないですか。」
ヒデキもシンイチロウも、気風(きっぷ)の良い姉御肌の春江には随分良くしてもらっていたし、慕ってもいた。ただ、極道の女であることに違いはない。
「そりゃぁそうだなぁ。」
「なのに今回、たとえそんな話は噂でも流れていない。そこに突然の感想文。そしてご褒美の結婚の噂。こりゃぁ、何かありますよ。」
「そんなことだけは頭が回るなぁ。」
褒められたシンイチロウは、素直に嬉しそうに頭を搔いた。
確かに組を継ぐならハンタロウが一番に決まっている。ハンタロウと、まだ幼さが残る小夜子。

と、ヒデキは思い出したように、
「小夜子って言えば、お前、仲が良いんだろ?」
「えぇ、まぁ。」
照れるシンイチロウ。
ヒデキの言うとおり、小夜子とシンイチロウは知り合いなのであった。ヒデキをはじめ、普通の組員なら口をきいたこともない組長(オヤジ)の愛娘である。その詳しいなれそめは、また別の機会に説明することにもなるだろう。今は先に進む。
「じゃぁ、なんかプレゼントでもしてやりゃぁ、良いんじゃねぇか?」
そうヒデキが言うと、
「えぇ、あっしもそう思いまして、これなんかどうかなって、、、」
そう言ってシンイチロウが脇から取り出したのは、レトロタイプのヘルメットだった。
「あぁ、そうか。バイクの乗り方もお前が教えたって言ってたもんなぁ。」
「へぇ、このタイプなら女の子でも似合いそうかと思いまして。」
ヒデキはヘルメットを手に取り、色々角度を変えて眺めると、
「成程ね、フルフェイスとは随分雰囲気が変わるなぁ。」
ヘルメットをシンイチロウに返し、ついでに右手の拳でその額を小突く。
「随分とセンスが良いじゃねぇーかよ。シンイチロウの旦那さんよ。」
「い、いえ、それほどでも。」
照れるシンイチロウは、それでも嬉しさが隠し切れないようだ。
舎弟の笑顔。
『たまには、良いもんだ。』
と、ヒデキは思い出した。
「おぉ、読書、読書。」
ヒデキは読みかけの本を開くと、ソファに寝ころび読書の体勢に戻った。
「あれ、アニキもう二十ページまで行っているじゃねぇですか。ヤバいな。俺まだ五ページだもんな。負けないっすよ、アニキ。」
シンイチロウは素直だった。素直なバカ。
それはそれでいいことだ。アインシュタインもバカと言えばバカだ。ダメな科目は徹底的にダメ。凄い科目は徹底的に凄い。バカか天才かのどっちかでないとこうは行かない。いや、バカと天才の両方だったのではないかとヒデキは思う。
ふと横のデスクを見るとシンイチロウは既に寝息をたてていた。読書は即効性の睡眠薬だ。カーディガンをかけてやる。
ヒデキは静かにソファに足を投げ出し、読書を再開した。
ヒデキとシンイチロウに静かな時間が流れていく。

三日目。
一通りシマを見回った後、ヒデキは何時ものミカサのカウンターで、エビスビールを片手に本を読んでいた。麦芽100%、 これがビールだ。
シノブが隣のカウンターに腰掛け、身を寄せてくる。うるさい小娘だ。
「あら、ヒデキもこの本、読んでるんだぁ。最近、みんなどうしちゃったのよ、ヤクザが読書なんかしちゃってさぁ。」
「好いからあっち行ってろよ。」
「そんな言い方ないでしょ。
ねぇ、ヒデキ、あたしさぁ、今日早番なんだけどさぁ、ねぇ、ヒデキ、ねぇ、、、」
最近の小娘はなれなれしい。すぐに男の腕に絡みつく。
「俺は忙しいんだよ。」
「とか言って、本読んでるだけでしょ。あたしが読んであげてもいいよ。」
覗き込んでくるシノブの胸が腕に当たる。シノブは結構巨乳だ。
「お前、オッパイ押し付けるのやめろよ。女のくせに。」
「あ、分かったのぉ。ヒデキったら、やだ、もう。」
十九の女、最近は発育がいい。こういう女がAVとかに出たりするのか。ソープよりはましか。したたかだからな、女は。
しかし、ヒデキは本を読みたかった。この小娘を追い払いたかった。ならば、
「シノブ、俺やりたくなったよ。やろう。」
「え?何言ってんのよ。」
「ここでやろう。今すぐやろう。あ、立ってきた。早く手出せよ。」
「バカ、後でなら。」
「いいや、ダメだ。今だ。今すぐだ。今やりたい。思い立ったら吉日だ。義を見てせざるは勇無きなりだ。決めた。今からやる。絶対にやる。あー、もうやっちゃう。」
ヒデキはシノブのスカートに頭を突っ込んだ。
「ハロー。今から行くぞ。いいな、覚悟は良いんだな。オーケー、サイコー。」
「やめてよ、お客さん他にもいるんだから。」
シノブの眼が泳ぐ。
ヒデキはベルトを外すと、立ち上がった。
「何なの、いやだぁ!」
シノブが両手で目を覆い、後ずさる。
「カム、オン!」
一声叫ぶとヒデキはもう然とシノブに襲い掛かった。逃げる女。足を前に踏み出した途端、ズボンに足がもつれた。もんどりうってヒデキは倒れた。
シノブの姿は既にない。
ズボンの裾をはたきながら立ち上がる。追い払うのも一苦労だ。これでやっと静かに本が読める。
バーテンがにやりとウィンクを寄こす。ヒデキは肩をすくめて席に着いた。

シンイチロウが飛び込んできた。シンイチロウはいつも飛び込んでくる。
「ここにいたんですか、アニキ。探しましたよ、もー。」
横に座る。
「俺もビールね。
あれ、アニキ、チャック空いてますよ。」
シンイチロウが不審げにカウンターの下を覗いて言った。
「こうすると落ち着くんだよ。」
「何、訳の分かんないこと言ってんですか。それよりもあの話、俺の思ったとおり、裏があったみたいですよ。」
「裏も表もねーだろうよ。」
「いや、だから三女の小夜ちゃんの結婚は、代貸しの勧めだったらしいんですよ。
つまり、ハンタロウのオジキは、ヤクザもこれからは表向き堅気の顔を持たなきゃいけないってことで、そのために、、、」
「そのために足を洗おうってのかよ。」
「違いますよ。って言うか、半分当たってますけどね。」
シンイチロウは、ビールを一口呷って話を続けた。
「だから、今までの汚ねぇ仕事はハンタロウのオジキがやっていく。それでもう一つの堅気の顔を持つ。そのための企業、それを小夜ちゃんに任せようってことらしいんで。」
「それで組の若いもんから、相手を選ぼうってことか。」
「その通り。きっちりそいつには足を洗わせて、表向きの会社をやらせるってことらしいんですよ。」
「そんなもん、元々堅気を連れてくりゃぁ、話しが済むことじゃねぇか。」
「いや、堅気じゃ信用が置けねぇっていうか、いざって時の肝の据わり方って違うじゃないですか。それで組の中でそれらしいのを見つけようって話しになったそうです。」
「ふーん、まぁ、ここぞって時に腰を引かれた日にゃぁ、堪らねぇからな。」
「でしょ、アニキ。アニキもそう来なくっちゃぁ。」
そう言うと、シンイチロウは二杯目のビールを頼んだ。摘まみは柿の種だ。
「ハァ?来るも来ねぇもねぇけどな。
でも、それと感想文と一体何の関係があるんだよ。」
本題に入ったのが嬉しいのか、シンイチロウがヒデキの方に向き直る。
「だから、相手には一番頭の切れる奴を選ぼう。一番頭の切れる奴を選ぶんだったら、感想文、ってことになるじゃないですか。」
「なんでそうなるのかなぁ。ちょっと単純すぎる気がするぞ。」
「ともかく、もう組じゃぁ、その話で持ちっきりで、みんな眼の色変えて本読んでますよ。」
「ふーん。俺も読んでるよ。」
「どのくらい読みました?」
「150ページかな。残りあと10ページってとこだよ。」
「アニキ、凄いっすよ。トップですよ、トップ。このまま行けばアニキが一番ですよ。」
「バカ、読んだって書かなきゃ仕方ねえだろ。」
「スゲェなぁ。やっぱりアニキもやると時ゃやるんだな。」
ただただ感心するシンイチロウ。しかし、グラスのビールを飲み干し、目を見開き言い放つ。
「俺もやる。こいつだけはアニキだからって遠慮はしない。良いっすか?良いっすね。」
「何言ってんだ、お前?」
「邪魔しないでください。俺にも意地ってものがありますから。」
「勝手にやれよ。」
「ハ!」
気合を入れてシンイチロウは読み始めた。7ページ目からだった。
横でヒデキも読み始める。邪魔する奴は誰もいない。ヒデキは、シンイチロウの読書の邪魔をしないように、ゆっくりとジッパーのチャックを上げた。

四日目。
ヒデキは昼間から玉を突いていた。他に客はいない。考え事をする場所としては最高だ。心を落ち着かせる。何かを頭の中でまとめ上げる。それには四つ玉が最適だ。
ゆっくりと玉を突きながら、感想文をどうまとめるかをヒデキは考えていた。ここからが勝負だ。
シンイチロウが飛び込んできた。奴はいつも飛び込んでくる。
「アニキ、ここだったんですか。探しましたよ、もぉ。」
そしていつも俺を探している。
「どうまとめたらいいかと思ってね。」
チョークを塗りながら、台と玉の位置を見つめる。頭で考えていることは別のことだ。
少なくとも最初は。
まずはサーブ。ヒデキはツークッションだった。軽く逆回転をかけて手玉を突く。手玉は的玉、長クッション、短クッション、とゆっくり跳ね返って、向こうの白玉に軽く当たる。
はずなのだ。
ヒデキは突いた。強すぎた。強いと玉は跳ねすぎて、ツークッションにはならない。
元に戻して、また突いた。今度は弱すぎた。弱すぎると玉は止まる。
元に戻して、また突く。今度は回転が逆だった。回転が逆だと、玉は跳ね返える角度がずれる。
元に戻して、また突く。今度は的玉に当たる角度が薄すぎた。角度が薄すぎると、やっぱり跳ね返る角度がずれる。
又、突く。薄すぎる。又、突く。ちょっと逸れる。又、突く。もうちょっとだが、やはりずれる。又、突く。が当たらない。又、突く。そして、又、突く。突く。突く。突く。でも、どうしても当たらない。
「アニキ、むきになってもダメですよ。」
見かねたシンイチロウが口を挟む。ヒデキの耳にはもう何も入ってこない。
「そんなことより、アニキ、あの話が凄いことになっているんですよ。玉なんて突いている場合じゃないんですよ。」
ヒデキは発見した。下を突くと玉は戻ってくる。
「おい、シンイチロウ、玉が戻ってきたぞ。」
「それ、引き玉っていう突き方ですよ。知らないでやってるんですか?
あのねぇ、アニキ。大戦争がおっぱじまるんですよ。考和会の関の奴と終に決着をつけるんですよ。」
ヒデキはまた発見した。上を突くと玉は前に進む。
「おい、シンイチロウ、玉が前に進むぞ。」
ヒデキは玉を追って、打つ場所を移動する。それを追って、シンイチロウも移動する。
「それ、押し玉って奴ですよ。
良いですか、アニキ。何で小夜ちゃんの花婿を堅気にさせるのか。それは長女の八重さんを鳴滝組へ、次女の真理さんを渡辺組へ嫁がせることが決まったからなんですよ。
つまり、平賀組と関一家の二大勢力の間でどっちつかずだった鳴滝と渡辺を、こっちにつけたってことですよ。そうなりゃぁ、ここら一帯の勢力は完全にうちのものになる。そうなりゃ、考和会の関の奴と一発やるってのは決まったようなもんでしょ。」
ヒデキはまた発見した。真ん中を突くと玉は止まる。
「おい、シンイチロウ。玉が止まるぞ。」
「えぇ、それは止め玉って言うんですよ。
聞いてるんですか?その戦争が始まっちまう前に組織の逃げ道を作っておかなきゃならないんですよ。だから小夜ちゃんの相手を急に決めなくちゃいけなくなったってことですよ。こりゃぁ、本当に凄いことになりますよ。」
ヒデキは考えた。上から突いたらどうなるのだろうか。
「おい、シンイチロウ。上から突いてみようかな。」
「それマッセっていうんですよ。ダメですよ、初心者がそんなことやったら。クロスが破れたらどうするんですか。凄いお金取られますよ。」
「マッセか。なんか車みたいでカッコいい名前だな。マッセラッティー、なんちゃって。」
珍しくシンイチロウは無反応だった。
「カッコいい名前かもしれませんが、アニキでもダメですよやっちゃぁ。」
シンイチロウはヒデキからキューを取り上げた。
「何すんだよ、おい。これからやろうってとこだろう。」
「だめですよ。一回も当たってないじゃないですか。」
「あのなぁ、お前もしかすると玉突きのやり方知ってるな。」
モンテクリストに火を付けながらヒデキは聞いた。
「ええ、一応は。」
「何時からだよ。」
「いえ、以前から。」
「手前、知ってて俺に隠してやがったな。」
「隠すなんて、俺、そんな。」
「コノヤロー、知ってて何で教えなかったんだよ。
小夜がどうした、関の奴がこうしたってよ。そんな詰まらねぇことばかり教えやがってよ。」
「聞いてたんじゃないですか。」
「何が、聞いていたんじゃないですか、だ。肝心なことは手前だけで隠しやがってよ。」
「一番肝心なこと言ってたんじゃないですか!
戦争っすよ、戦争。」
「その戦争と俺の玉突きとどんな関係があるんだよ?!」
「いえ、玉突きとは関係ないですけど。」
「じゃぁ、何で隠してたんだよ。」
「何を?」
「玉突きのやり方。」
「ハ?」
「全くよぉ、アニキに恥かかせやがってよぉ。ハ、はないだろ、ハは。」
「マァ。」
「マァ、だよ。言うに事欠いてこれだもの。全くやってらんないよ。マァ、一言。辛いなぁ。」
「あ、あの、俺なんか悪かったら謝ります。済みません。」
「済みません、だぁ?」
「・・・」
「お前、玉突きのやり方知ってんだな。」
「ハイ、多少は。」
「だったらやって見せてみろよ。」
「え?」
ぶつぶつ言いながらシンイチロウは、四つの玉を並べなおしてキューを構えた。
「じゃ、ちょっと失礼します。」
緩やかに突き出されたキューに、手玉がゆっくりと的玉に当たった。すると手玉はその跳ね返りで、長クッションに入ったかと思うと、そのまま短クッションにも当たって、向こうの白い球にゆっくりと触れるように当たった。
「上手いもんじゃねぇか、シンイチロウ。」
「いえ、それほどでも。」
といいながら、シンイチロウは第二打を構えた。
四つ玉は、当たり続ければ、突き続けることができる。外した時点で、相手と交代となる。
「もう、全く。いいですか、関との戦争の段取りが全て出来てるって訳ですよ、アニキ。それも全部ハンタロウのオジキがコーディネートしたんですよ。コーディネートはこーでねーとってね。アニキ、頼みますよ。しっかりしてくださいよ。」
そう言いながらシンイチロウは玉を突いた。
突かれた玉は、やや押し玉気味に手前の二つの玉に当たった。最初に当たった的玉が、遠く向こう側の短クッションまで行ったかと思うと、クッションに跳ね返って手元まで戻ってきた。微妙に散らばらない。
「しかし、ハンタロウのオジキも思い切ったもんですよね。関の奴らと全面戦争ですもんね。」
シンイチロウは、丹念にキューにチョークを塗って、三打目の構えに入った。
ヒデキは隣の台の縁に腰掛けながら、シンイチロウの打つ玉を眺めた。こんな時、キューの長さは床に突き立てるのに丁度いい。
不思議と考えがまとまってくるような気がした。
シンイチロウの三打目も、手前の二つの的玉を狙ったものだったが、打つと的玉はそれぞれ跳ね返って、最終的には玉が片方にまとまる様に寄ってきた。それらはまるで計算されたかのようだった。
『いや、計算通りだよな。』
ヒデキは思い直した。その通りだ。玉とキューとテーブルが織りなす、物理法則に従ったまでの結果だ。
ヒデキはモンテクリストを吹かした。煙がゆっくりと辺りに広がり、やがて消える。香りがほんのりと立ち込める。考えが自然とまとまり始めた。
「でも、そんな時に結婚相手がどうしただなんてね。小夜ちゃんも堪ったもんじゃありませんよね。」
ヒデキは生返事をしながら、なおもシンイチロウの四つ玉を眺めた。
玉、反射、光、摩擦、そんな言葉が、頭の中を飛び交った。
シンイチロウの四つ玉は続いた。
真空、無限、それから、
ヒデキは言葉を模索した。
八回ほど続いて、結局玉がばらけた。
「チッ。」
と、シンイチロウが舌打ちをした。
ヒデキは声を掛けた。
「シンイチロウ、今お前が外したのは、どうしてだ?」
「ちょっと手元が狂っちまって。」
「そうだよな、手元が狂って、玉の跳ね返る計算が違ったって訳だ。」
「えぇ、そうですが。」
「違わなけりゃ、外さなかったよなぁ。」
「ハイ、そりゃあそうですが、何時もここら辺まで続くと、やらかしちまうんですよ。」
シンイチロウは、悔しそうにビリヤード台の玉を見つめた。
「そうだよな、ビリヤード台は嘘はつかねぇってことだ。」
ヒデキは、シンイチロウの肩を軽く叩きながら呟いた。
考えがまとまった。
「サイコロなんて振りはしねぇ、か。」
「ハァ?サイコロじゃないですよ、ビリヤードっすよ。」
「あぁ、シンイチロウ。ちょっとだけハンタロウのオジキが見えた気がするよ。」
「ハンタロウのオジキが見えた?」
「あぁ、アインシュタインさ。よっしゃ、そうと決まったら、書くぞぉ。書いて書いて書きまくるぞぉ。
待ってろよ、小夜子。」
ヒデキは駆け出していた。駆け出して店を飛び出していた。ヒデキにとってのアインシュタイン。それが今、少しだけ見えた気がした。
そうだ、その通りだ。嘘はつかない。サイコロなんて振るはずはない。それが男だ。天才もヤクザもない。あるのはただ一つ。光の速度でまっしぐらだ。
俺は書ける、ヒデキはそう確信した。

五日目。
「『ヤクザのためのアインシュタイン』を読んで」
改行。
「神様なんてのがいるとしたら、サイコロなんて振らねぇと俺も思う。サイコロなんざチンケな遊びだ。そんなので決められた日にゃぁ、シャレにもならねぇ。
奴は確かにスゲエ。俺にはわからねぇことばっかりだ。でも俺には奴のことがわかる。奴は死んでも量子力学を好きになれなかった。何故か?
奴は筋を通したかったんだ。」

六日目
「ヤクザなら誰でも名を上げたい。学者の世界だって似たようなもんだろう。何処の世界だっていい目は見たいもんさ。
しかし、本当のヤクザは違う。筋を通すからだ。
奴もそうだ。他の奴らがいいとこ付きする時、奴だけは不確定性原理を信じなかった。
これが男じゃねぇか、と俺は思う。仁義なんだ。仁義もへったくれもねぇ学者連中の中で、奴は菅原文太だったんだ。俺も文太が好きだ。新能昭三じゃなきゃダメなんだ。健さんもいいが、やっぱり文太だ。」

七日目
「原爆を作っちまったのは、やはり間違いだったと思う。けど、誰にも間違いはある。間違った後、どうするかだ。そこでも奴は筋を通した。
俺は組のためなら何でもやる。しかし、原爆だけはやめておこう。奴が悲しむだろうから。
核戦争はもう起きねぇのかな。世の中のことは良く分からねぇが、ソ連がぶっ壊れたから多分起きねぇんだろう。奴が生きていたらきっと喜ぶだろうな。そしてこう呟くだろう。
『やっぱり、神様はサイコロを振らなかった。』
そこまで信じ切ったぐらいだから、奴はきっと気狂いさ。俺もそこまで気狂いになれるのか。なれるものならなってみたい気もする。」

八日目
ヤクザの朝は遅い。しかし、その日だけは違っていた。感想文の提出、そして組長の座。誰しもがその可能性を持っていた。感想文の重み、つまり一票の重み。これが民主主義だ。民主主義の朝は早い。即日開票だからだ。
今日の夕方には全てが決まる。誰もがゆっくりと歩いていた。まるで手にした感想文が自分たちの運命を決めてしまうかのように。
ヒデキも歩いていた。シンイチロウも歩いていた。そうだ、今日だけは組に行くまでの歩みを楽しもう。今なら夢を見ていられる。最後の夢だ。味わって味わい尽くさない手はない。ゆっくりとゆっくりと一歩ずつ歩みを進める。こんな気分は何時振りだろうか。組に入りたての若造の頃以来だろうか。それでも気分は悪くない。
そして、夢は醒める。雑居ビルの二階、そこが組の事務所だ。
「ガチャ。」
扉のノブを回し、中へ入る。
ソファやデスクが雑然と並べられた何時もの風景。左手の奥には組長の部屋、手前の角には給湯室だ。ただ違うのは正面の机に蓋が開いた段ボールが置かれてあり、黒のマジックで「感想文提出箱」と書かれていたことだった。
ヒデキとシンイチロウも、事務所の中を進み段ボールのデスクのところまで進んだ。中を覗くと、結構な枚数の原稿用紙が既に入っていた。
思わず顔を見合わせるヒデキとシンイチロウ。みんななかなか健闘しているようだ。
二人も提出した。
ヒデキは辺りを見回した。何となく、受け取り証なり、提出証明書みたいなものを誰かが何かするのかとも思ったからだ。しかし、どうやらその様な気配はない。辺りは静寂だけが支配していた。誰もが期待するように、そしてその期待にじっと耐えるかのように、そこここに佇んでいた。出してしまえば、後は待つだけだ。待てばいい。それだけだ。それだけが今日の仕事なのだ。しかし、誰もその待ち方を知らなかった。苦痛とはそんなものだ。
一瞬どよめきが起こった。振り返ると、そこには小夜子が立っていた。ゆっくりとお辞儀をしながら男たちの間を進む。
礼儀を知った娘。でもまだ十七だ。あどけなさの残る横顔。いい女になるだろう。
小夜子が振り返った。一瞬目と目があったような気がした。気がしただけだ。
小夜子は何も言わず背を向け、奥の部屋に入って行った。
再び男たちに静寂が戻る。
感想文を提出したヒデキはそのまま入ってきた扉に向かった。残された時間を楽しもう。そのためには外に出なきゃならない。明日になれば戦争が待っているのだ。今日は今日で決着が付き、明日は明日でまた新しい何かが始まるのだ。扉を開け、部屋を出た。そのまま階段を降り外に出ると、ヒデキは大きく息を吸った。
シンイチロウが慌てて追ってきた。
「アニキ、何処に行くんですか?」
「バカ、徹夜明けのこんな時はよ、餌待っている猿みてぇに雁首揃えてじっとしているなんて縁起でもねぇだろ。」
「縁起でもないっすかね。」
「ねぇったらねぇよ。こういう時はよ、パーっと行かなきゃいけねぇだろ。」
「そーっすよね。こういう時はパーと昼間から抜きにでも行きますか。それともいきなりどんちゃん騒ぎっすかね。」
「おう、パーッと行こうぜ。」
「そーっすよね。パーッとすよね。」
「おうよ、パーッとよ。」
「何処でパーッと行きやすか。」
「パーッとって言ったらよ、」
「えぇ、パーッとって言ったらですよね。」
「四つ玉よ。」
「そう、パーッとって言ったら、何といっても四つ、、、
な、わけないでしょ。 あんな糞地味なもん、パーッと行けるわけないでしょ。」
ヒデキはもう歩き出していた。
「しょうがねぇなぁ。待ってくださいよ、アニキ。俺も付き合いますよ。でもその前に飯でも食ってからにしましょうよ。」
ヒデキは立ち止まり振り返ると、ニコッと笑いながらペコリと頭を下げた。
「本日もよろしくご教授お願いいたします。」
「はいはい、お手柔らかに。」
シンイチロウは四つ玉の師匠であり、ヒデキはその弟子になっていたのだった。

夕方、ヒデキとシンイチロウが四つ玉と格闘している頃、市街の上空に巨大な飛行船が現れた。その横腹には意味不明な文字がでかでかと描かれていた。
「ニイタカヤマハドコ?スカスカスカ。該当者なしね。」
勿論、ある種の青年たちとっては十分すぎる意味を持つ言葉ではあったが。

ヒデキとシンイチロウはいつものミカサに来ていた。シンイチロウはエビスを既に五本も空けている。
「そりゃぁ、ないじゃないですか、アニキ。あれだけ盛り上げといてですよ、該当者なしなんて、ありっすか、アニキ。」
「まぁ、仕方ねぇだろう。」
「あれ、アニキ。仕方ねぇ、で済ましちゃうんですか。それでいいんですか、アニキ。感想文っすよ、感想文。感想文つったら文部省だって一目置くくらいの代物じゃねぇんですか。」
「何言ってんだ、お前。」
「文句に決まってるでしょ、文句ですよ。文部じゃなくて、モ・ン・ク!」
シンイチロウは余程悔しかったのだろうか、ヤケに荒れている。ピアノのBGMは低い。

「あれ、この曲、セロニアス・モンクだったっけ?」
「越美晴ですよ。コ・シ・ミ・ハ・ル。」
「誰だ、それ?」
「そんなことどうだっていいんですよ。つまらないこと言ったって騙されませんよ。悔しくないんですか、アニキは?」
「そりゃぁ、悔しいさ。でも他の奴がなっちまうよりか、結果としては良かったんでじゃねぇーのか。」
「良かないでしょ。これじゃぁ、筋が通らないじゃないですか。アニキもよく言いますよね。筋を通すのが男の中の男だって。仁義を欠いちゃぁ、いられやしねぇよ、って。」
「そりゃぁ、そうだけどよ、元はと言えばただの感想文だろ。そんなにムキになることでもねぇじゃねぇかよ。」
「何をまたアニキらしくもねぇ。小夜子ちゃんがかかっているんですよ。あんな可愛い子が。あぁ、小夜ちゃん、、、」
シンイチロウの眼が大きく見開かれたかと思うと、いきなり身体が痙攣し始めた。
「小夜ちゃーン、さ、さ、さ、小夜ちゃーン。」
「どうした、こら、シンイチロウ。」
「あ、小夜子だ。」
シンイチロウはいきなりヒデキに向き直ると、大きく深呼吸をした。
「落ち着け、シンイチロウ。」
シンイチロウは眼だけでなく、鼻の穴まで丸くさせた。
「どうした、シンイチロウ。」
「ウォー、小夜子ぉー。vg@ヶb$」
シンイチロウはヒデキの股間にむしゃぶりついてきた。
他人とは思えない。
しかし、甘やかしてはならない。ヒデキは右手を振り上げると、シンイチロウの延髄に正確に拳を叩きこんだ。
「フガ!」
カエルのように床に倒れ込むシンイチロウ。ピクッと一度だけ身体を震わせてから静かになった。
バーテンがニヤリとウィンクを寄こす。ヒデキは肩を竦めると座りなおした。
「ヤクザって言ってもよ、まだ十九だからさ。カワイイもんさ。」
ヒデキはエビスを口に運んだ。
しかし、上手いこと一杯食わされたもんだ。今となってはわざとらしい感想文の演出。あまりにもタイミングのいい小夜子の結婚の噂。そして関一家との戦争。いつの間にか若い奴らはやる気になっている。その話だけだったとしたらビビり出す奴も出ただろう。一見バカバカしいセレモニーがあったからこそ、素直にやる気になれた。いや、そうせざるを得ない雰囲気にさせられたと言うべきか。
ヒデキはハンタロウの顔を思い浮かべた。

「ヒデキ、電話よ。」
シノブがコードレスを持ってきた。やっときっかけが出来たかのように、そのまま横のカウンターに座る。
「女の人、切っちゃおうかな。」
「バカ。」
シノブからコードレスをひったくる。女は懲りない。大きく胸の開いたドレスだ。
「風邪ひくぞ、お前。」
シノブが舌を出した。
「もしもし。」
やはり女だ。それも若い。こんな時間に誰だ。
「誰だよ?」
「ヒデキさんですか。夜遅くにごめんなさい。」
初めてなのにすぐにわかった。小夜子だ。
「ハイ、ヒデキです。お疲れ様です。」
即座には、何を話していいのかヒデキには分からなかった。十七才の小娘。組長の愛娘。
「すみません。何も聞かずに今からラブラドールまで来ていただけませんか。お願いします。」
声が切羽詰まっている。ただ事ではない。
「ラブラドールですね。今すぐ伺いましょう。」
「最上階のスイートです。よろしくお願いします。」
「承知しました。」
電話は静かに切れた。小夜子からの電話、それはあまりにも唐突だった。
「誰なの、ねぇ、ヒデキ。」
既にシノブは視界から消えていた。
「悪いが、シンイチロウを頼む。」
福沢諭吉をその胸に突っ込み、そのままヒデキは駆け出していた。

第Ⅲ章 相対論でぶっちぎれ

ラブラドールは山の手にある小高い丘の上に建っていた。この町の最高級のホテル。その最上階のスイート。何で小夜子が、そのホテルを指定したのか。何で、何のために。
既に指定された部屋のドアはヒデキの目の前にあった。
ヒデキは一息、フゥッと息を吐きだしてからノックをしようとした。
その瞬間ドアが開いた。
「お待ちしておりました。」
小夜子だった。
まだあどけなさが残る顔。まっさらの白い浴衣。嘘のように美しい。そしてその美しさは嘘じゃない。
小夜子はくるりと背を向けると、そのまま窓際のテーブルへと歩き、そのまま片方のソファに腰を下ろした。
「お座りください。私もまだ何からお話して良いのか分からないのですけど、でもこうやってお話しする限り、私も心を決めてきました。今からお話しすることは組長の娘としての言葉です。そして私自身の希望でもあります。」
そう言って真っすぐにヒデキを見つめた。
ヒデキは、その言葉を聞き終えると、ゆっくりと部屋を見回しながら窓際へと進んだ。何となく真正面に座ると落ち着けそうもない気がして、ソファのひじ掛けに斜めに腰を下ろして、小夜子を見た。
一体、小夜子が何を話し出すと言うのか。ヒデキは兎に角、ただ事ではない事態に巻き込まれたことだけを感じていた。
小夜子は横にある黒いバッグから鉄の塊を重そうに取り出した。丁寧に机の上に置く。それはスミス&ウェッソン、ガバメントタイプだった。
「貴方はこれである人物を殺しに行きます。そして今夜、私を抱かなければなりません。」
意を決したように立ち上がると、小夜子は浴衣を脱ぎ捨てた。
透き通るような肌。眩しいくらい白く無垢な裸体がヒデキを圧倒する。
こんな時どうすればいいのかをヒデキは知らなかった。いや、知っている奴などいないに違いない。いたとしたら、ヒデキは即座に尊敬していたはずだ。勿論、ぶちのめした後に。
小夜子はヒデキにオンナの眼差しを投げかけると、背を向けてゆっくりとキングサイズのベッドに入っていった。シーツを胸まで被ると、長い髪を枕にしまって眼を閉じた。
つかの間、ヒデキは裸体がシーツに吸い込まれるのを忌まわしく思った。脳裏に焼き付けるには短すぎる時間だったからだ。
小夜子は呟くように言った。
「一番大切なことを成し遂げる男の人のためには、生娘が必要なんだそうです。それが組の一番大事なことをする時の習わしなんだそうです。
父は言いました。ヒデキさんを男にして来いと。
私も出来るならそうしたいと思いました。世間では廃れた習わしだとも父は言いました。でも私は美しい習わしだと思いました。とても大切なことのように思えました。
そんなことを十七の私に言ってくれる父のことを誇らしく思えました。私はその誇りを背負ってここにいます。どうか分かってください。」
小夜子はそこまで言うと、ヒデキをまっすぐに見つめた。
ヒデキはゆっくりとその視線を外すと、スーツの内ポケットから、吸いさしのモンテクリストを取り出した。
ヤクザがヤクザだった頃の習わし。それを受け継ごうとする古風な十七の娘。この娘もまた、ものすごい拘りをもっている。何がこの娘をそこまでさせるのか。
火を点ける。
小夜子が視線を逸らしたのがわかる。父親の葉巻。子供にはなかなか馴染めない匂いだ。
ヒデキは立ち上がり、机の上のスミス&ウェッソンを取り上げた。重さを確かめ、ベルトに押し込む。そしてベッドの端に腰かけながら、振り返って小夜子を見つめた。
「嫌いなんですね、これが。」
咥えていたモンテクリストを口から外した。
「えぇ、匂いが強すぎて。父が吸っていても、何でこんなもの大人は吸うのかなって、いつも思っていたの。」
「それはね。小夜子さん。」
ヒデキは、暫し間を置いた。
小夜子の眼に好奇の色が浮かぶ。
ヒデキはおもむろに火を消して、小夜子にモンテクリストをよく見せた。
「食べると美味しいからなんですよ。」
そう言うや否や、ヒデキはもう然とモンテクリストを食べ始めた。美味いか、不味いか、そんなことはどうでもよかった。バリバリとモンテクリストを口に押し込んだ。理由は自分でも分からなかった。
小夜子の顔を見た。
「えぐげぇ、ま、まず、、、」
あまりの不味さに思わず吐き出すヒデキ。
その途端、小夜子がクスっと笑った。十七の笑顔。卑怯なまでに完璧に可愛い笑顔。
半分だけ勃起していた自分を隠すように、ヒデキも笑った。
モンテクリストを口に突っ込んだ理由が、それで分かった。十七の娘と、二十五の男。普通なら他愛のないセックスだろう。しかし、今のヒデキにはそうする訳には行かなかった。
筋を通す。拘りを拘りつくす。そのためには状況を把握しなければならない。
「抱くも抱かないも、男の下半身なんて思想がないんでね。そんなこと何時だってできますよ。殺る前だろうが、殺った後だろうが。」
ヒデキは、モンテクリストでぐちゃぐちゃになった口周りを拭いながら言った。
「でも、一つだけ俺は知っておかなければなりません。貴方を抱く上でもね。」
小夜子が真顔に戻った。ヒデキは言った。
「俺は死ぬんですか?」
小夜子は一瞬ためらったかのように見えたが、すぐに必死に首を振った。その目は哀願のようにも見え、決意のようにも見えた。
「なら安心だ。今でなくても何時でも抱けますね。」
そう言うヒデキの眼差しから、小夜子は逃げようとはしなかった。
ヒデキはそれを確かめると、言葉を続けた。
「教えてください。何でこうなっちまったのかを。」
小夜子はゆっくり頷くと、頭を整理するように話し始めた。

ヒデキは困惑していた。
「なんで俺になっちまったのかな。」
フゥっとため息をつくと、ヒデキはチョークを取り上げた。丹念にキューに塗りつける。
何故ヒデキになったのか。それはやはり感想文だった。感想文の一等賞、それは噂通り小夜子だったのだ。
しかし、噂は微妙に違っていた。いや、噂自体が美味過ぎたといえるだろう。長女と次女の政略結婚、それに伴う関一家との抗争。そのための表向きの窓口。それは筋書き通りだと小夜子は言った。
顔に似合わない台詞。冷徹な現実。
ヒデキは落ち着いてサーブをした。逆回転を付けた押し気味の球。ヒデキの四つ玉も上達していた。四つ玉は努力した分だけ報われる。手玉は手前の赤玉に当たって、長クッション、短クッション、と緩やかに軌跡を描きながら、向こうの白玉にかすかに触れた。
「ヒトーツ。」
四つ玉は当たる度に、その数を数える。数えられれば突き続けることができる。ヒデキは小夜子の言葉を思い出していた。
「このまま組を続けていくことは出来なくなったらしいの。この街も昔とはずいぶん変わってしまったわ。十七の私でもはっきりとわかるぐらい。
そしてついに大きな利権が動く道路建設の話が持ち上がった。その利権を何処が取るかで全てが変わってしまうのですって。私には分からないけど、うちも関も、鳴滝も渡辺も、そのために決着を付けなくてはいけなくなった。」
それほど大きくない地方都市の道路建設。その道一本で、古い街が廃れ、新しい街が栄える。否応なしに、新しい時代がやってくる。誰が次に栄えるのか。誰しも廃れる側にだけは回りたくはない。
ヒデキは落ち着いて二打目を構えた。二打目からは長クッション沿いに寄せていく。それが定石だ。闘いの定石。
小夜子の言葉が、再びヒデキの耳に入ってきた。
「でも、その決着の付け方をどうするのかが問題になったの。いくら政略結婚とはいえ、利権が絡んでいる以上、鳴滝も渡辺もいざとなればどうなるかは分からない。それよりも何よりも、この小さな街で暴力団同士が派手にやりあうようになったら、その利権の話も消えてしまうかもしれないんですって。」
その通りだ、とヒデキも思った。派手にやりあうようなことになったら、それこそ自分の手で自分の首を締めあげるようなものだ。しかし、決着はつけねばならない。だとしたら定石は一つしかない。
一発の銃声、それだけでケリをつける。
九つまでヒデキは数えていた。これからが勝負だ。後には引けない勝負。ヒデキは大きくストロークを引くと、キューを思い切り突き出した。目まぐるしく球が動く。
「結局、誰かがやらなきゃいけないってことだろ。」
頭では分かっていても、身体が着いていかないこと。今回だけは強がりでは通用しない。
四つ玉は大きく散らばって、力なく止まった。やはり身体が着いていかない。まるでヒデキが小夜子を抱けなかったように。
ヒデキは小夜子を抱かなかった。いや、抱けなかった。それはヒデキも分かっていた。ビビったのか、とヒデキは考えた。確かに怖い。そんな大仕事がこなせるものなのか。
しかし、ヒデキは即座にそんな思いを否定した。いずれにせよ、大勝負は賭けなければならない。ヤクザじゃなくとも、賭けに出なければならない時はある。たまたまヤクザだったからこそ、切った張ったになったまでのことだ。その上生きて帰れれば、小夜子が待っている。こんなチャンスは二度と来ない。十分なハイリターンのための、十分なハイリスク。
ヒデキはブリッジを固めると、ゆっくりと素振りをした。何かもう一つ納得できさえすれば、後は何も必要はない。もう一つ狂わせてくれるものがあればいい。そんな気がする。それには何があればいいのか?
物音で振り返ると、女が入ってきた。四つ玉しかないビリヤード場に一人で来る女。驚くほどではないにしろ、よく見る光景というものでもないだろう。女はさほどためらう様子もなく、ヒデキからやや離れた台に向かった。ここらでは見かけない顔だと思ったが、一人で来るぐらいだ、ビリヤードには自信があるのだろう。ただ、自信があるのはビリヤードだけではないようだった。
その女は、一言でいうなら、マドンナとジャネットとブリトニーを三で割った女、いや、マライヤも足して四で割ってもいい。つまり、一言では足りない女だった。
趣味というのは厄介だ。シャーロット・ランプリングの眼は窪み過ぎてはいないか。池上季実子の眼は離れすぎていないか。ジャネット・ジャクソンの尻はデカすぎはしないか。非常に深遠な美の実存。
その女もヒデキにとっての実存を余すことなく持っていた。個性的などという陳腐な形容詞では通用しない女の美の実存。
「ヤリタイ。」
と、ヒデキは思った。思うと勃起する。健康な証拠だ。
と、その瞬間、ヒデキの身体に例の迷いが到来した。
「小夜子。」
ふざけるな。と、ヒデキは思った。ヒデキにとっては、遠い組長の娘。一度だけ言葉を交わしただけの十七の小娘。ご褒美か何か知らないが、そんなものを信じるほどバカじゃない。
女はジャケットを脱ぐと、頭を軽く振って髪をまとめた。ブラウスの胸元は、飽くまで上品に膨らみを誇張している。キューを取り、チョークを塗る。キューの先から微かに零れ落ちるチョークの滓が、何故かスローモーションのようにはっきりと眼に見える。キューを水平に構え、ブリッジを定め、ゆっくりとキューを引く。台に直交する腰のラインが浮き上がり、タイトなスカートにスリットが擦り上がる。そこから見えるストッキングのラインにも狂いはない。
あの夜の小夜子も、こんな腰のラインをしていたのだろうか?
やがて女は、何も言わずキューを突き出した。それもゆっくりと。
「コツン。」
『ウグ。』
ヒデキの声にならない声が、キューと玉のぶつかる音に交差した。まるで股間を突き抜かれたかのように、ヒデキの股間も内股にすぼむ。
女は気が付かない。
ヒデキは分かっていた。
『今は勃起すべき時ではない。』
そうだ、勃起する前に行くべき場所があるのだ。
ヒデキはやや腰を引き身体を前に倒しながら、何事もなかったかのようにゆっくりと店を出た。ただ、女の玉を突く音が、耳にこびりついて離れなかった。

気が付くと、そこはハンタロウのマンションだった。何故ここに来たのか、分からないままにヒデキはインタフォンを鳴らした。
太い声が返ってくる。
「ヒデキか?」
ハンタロウはまるで待っていたかのような口調だった。
「はい。」
「入れよ。」
本ばかりが乱雑に散らかる広い居間に、ハンタロウは着流しで座っていた。外ではダブル、内では着流し。本と着流しは妙に似合うヴィジュアルだ。ただし、モンテクリストは見当たらなかった。
「座れよ、ヒデキ。」
「失礼します。」
「いつ来るかと思って待っていたよ。」
ハンタロウは読みかけの本をしまいながら話し出した。
「嵌められたかと思ったか?」
「はい。正直言って上手く嵌められたと思っています。それも悪い嵌められ方じゃない。」
ハンタロウは笑いながらヒデキに向き直った。
「お前ならわかると思っていたよ。確かに上手く嵌めた。若い連中はその気になっている。つまらない義務感などいらない。デジタルな分析とアナログな勢い。そのための政略結婚とバカげたセレモニー。
俺のやり方だよ。」
ヒデキは分かっていた。やはり思い描いていた通りだった。しかし、何かが違う。そうした理屈だけでは割り切れない何かが動き始めている。それは何なのか?そうまでさせるものとは一体何なのか?だからこうしてハンタロウに会いに来たのだ。
「そんな俺でも分からないことは起こる。突然変異って奴さ。こいつはなかなか曲者でね。相対性理論には出てこないんだよ。
飲むか、ヒデキ。」

ハンタロウに促されるがまま、ヒデキは隣のキッチンにワインを取りに行った。
「ヒデキ君、久しぶり。」
「お久しぶりっす。」
そこには、春江がスリップ一枚の格好でマスクメロンを切っていた。
「ワイン飲むんでしょ。」
「はい。」
「なら、生ハムメロンよね。」
春江は、一口大にカットしたメロンに、器用に薄手のハムを巻きつけていた。
その姿も仕草も、ヤクザの情婦というのが如何にも似合っていた。家では下着でも、外で見る時はいつも和服だ。気風(きっぷ)が良い、そんな形容詞が古臭く聞こえない。
春江は手際よく、生ハムとスティックサラダをお盆にのせ、リビングに向かう。すれ違いざま、軽く挨拶しようとするヒデキ。眼が合うと春江がヒデキの股間を握った。
「元気そうね。良かったわ。」
ウィンクすると、春江はキッチンを後にした。
この女には敵わない。
首を振りながら右手で金玉の位置を直し、ヒデキは探していたワインとグラスを手に取った。

ハンタロウがヒデキの分もグラスに注いでくれた。
シャトー・ラフィット・ロートシルト。バカ高い赤のワイン。ロートシルトとは、英語のロスチャイルドだと、教えてくれたのもハンタロウだった。ロスチャイルド家のラフィット城にある小高い丘のブドウ園。
ハンタロウは、生ハムメロンを口に頬張ると話し出した。
「ヒデキ、最初は俺が殺るつもりだった。それが仕上げだと思っていた。それさえ済めば、後は勢いだ。俺がやるべきことは、殺る以上にその勢いを作り出すことだと思っていた。」
ハンタロウがラフィットを呷った。美味そうだった。確かにラフィットは美味い。そしてハンタロウのやり方も上手い。
促されるまま、ヒデキもグラスに口を付けた。そして、
「最初は?」
ヒデキは問いかけた。
「あぁ、最初はだ。それならすべて計算通りのはずだった。ところが意外なところで計算が狂った。いや、計算しきれなった。」
ハンタロウは再びラフィットをもう一口呷って呟いた。
「小夜子だよ。」
小夜子、意外な名詞。そして予想通りの名詞。
「あの娘が言ったんだよ、お前に殺って欲しいってな。結ばれる男を信じたい、そのためにはなくてはならない儀式なんだそうだ。」
なくてはならない儀式。そこまで確信させる何か。
「もし、お前が死んだら、私も死ぬって言ってたよ。何がそこまでさせるのか、俺にはわからねぇよ。分かるような気もするが、今の俺には分かっても仕方のないことさ。」
わからない、とヒデキも思った。しかし、それ以上に分からないのは、それに従おうとする自分が分からないのだ。あの娘の何がそうさせるのか?あの娘はヒデキにとって一体何なのか?
ハンタロウがいきなりヒデキに向き直り、床に膝をついた。
「兎にも角にもだ、ヒデキ、お前にこんなヤバい橋を渡らせることになったのも、全て俺のせいだ。俺はお前に何と言って良いかわからねぇ。」
ハンタロウが手をついて頭を下げる。
「何を言っているんですか、オジキ。俺はあんたを信じています。だから何も言うことはない。今もそう思っています。だから殺って来ます。オジキは組にとっては大切な人なんだ。だから俺がやる。それは分かってます。」
ヒデキは力強く言い返した。ただ、言葉が自然に続いてしまう。
「なのに今日、こうやってオジキのところまで来てしまった。何かが納得できないような気がして。いや、何かがあってさえすれば、何も悩む必要なんてない気がして。
ビビっていると思われるかもしれませんが、もう一つ納得できない気がするんですよ。狂っちまってもいいって思えるためには。
何でこんな訳の分からねぇ気分になっちまうんでしょうかね。」
ヒデキもラフィットを口に運んだ。美味い。その美味いと思う想いと同じように、素直になってしまいたいのだ。素直に狂ってしまいたいのだ。
「バカ野郎、泣かせるようなことを言うんじゃねぇよ。俺はよぉ、今、相対性理論にでもなっちまったような気分だよ。」
ハンタロウが涙を拭った。その瞬間、何かが弾けた。ピントが合った。
相対性理論、アインシュタイン。納得するための最後のミッシングピース。狂ってしまうための最後の呪文。アインシュタイン、そして相対性理論。
「ヒデキ、済まねぇ。俺は心を鬼にして相対性理論になるしかねぇんだ。だからお前はよぉ、光になってくれ。頼む、ヒデキ。この通りだ。」
ハンタロウは土下座で頭を床に擦り付けた。
「何を言っているんですか、オジキ。いきなりそんなこと言われたって、俺は何が何やら。」
と言いながら、何故かヒデキは納得できる気がした。
ハンタロウはおもむろに携帯用天体望遠鏡を二つ持ってきた。いつでもどこでも天体観測が出来る優れモノだ。
「何で二つ?」
そんな質問に答えることなく、ハンタロウは一つをヒデキに手渡してきた。
「オイ、ヒデキ、あの空を見てみろ。」
ヒデキは望遠鏡をかざすと、夜空を覗いた。そこには夏の夜空にひときわ輝くベガの姿が見えた。
「ヒデキ、あの一番輝いている星がベガだ。いいか、ヒデキ、あのベガは二十五光年離れている。二十五年だぞ。丁度お前が生まれた年だ。つまり、俺とお前が今見ているあの星は、お前が丁度生まれた時の姿って訳だ。」
ヒデキと同じ年の光。
「おっと、二十五年前だなんて軽く聞き流しちゃぁいけねぇよ。二十五年といやぁ、世紀で言えば四半世紀よ。時代の区切りよ。」
時代の区切り、ヒデキは自分もそれなりの年齢なのだと、改めて思った。
「つまり、俺とお前が今見ているあの星の光はよ、お前が生まれてこの方、二十五年てぇもの休みもせずに俺らの眼ぇめがけて突っ走って来てくれたんだ。ありがてぇことじゃねぇか。」
ヒデキは訳の分からないままベガを見つめていた。しかし、何かある、この光には何かある。
「いいか、ヒデキ。あの光を考えてみろ。この四半世紀てぇもの、何も食わず何も飲まず、誰と喋ることもなく、暗黒の真空空間をたった一人でやってきた。
お前がおぎゃぁって生まれた時からだぜ。つまり、お前の全部を見ながら、こいつは走り続けてきたって訳さ。」
ハンタロウは、遠い夜空に向かって叫び始めた。
「何でだよ。何でお前はこんな俺たちのためにそこまでしてくれるんだよ。お前を見ていると俺まで切なくなっちまうじゃねぇかよ。」
ヒデキは感じた。ハンタロウが泣いている。あの光のために泣いている。あの光の孤独に泣いている。ハンタロウの言葉は続いた。
「悲しい時もあったろうよ。辛い時もあったろうよ。でもな、ヒデキ。あの光りぁーなー、お前が生まれてこの方、それこそ真っ直ぐにお前の眼ぇ向かって突っ走って来てくれたんだぞ。これほど尽くしてくれる奴ぁいるか、ヒデキ。そんな奴は今までいたかヒデキ。」
知らず知らずのうちに涙がでていた。見上げるベガの光が哀愁を帯びている。今のヒデキには確かにそれが見える。
「何でかわかるか、ヒデキ。あいつがたった一人で突っ走ってきた理由がよ。」
ヒデキは望遠鏡を握ったまま叫んでいた。
「何故だ。何のためにたった一人でお前はやってきたんだ。一体何のために。一体誰がお前にそんなむごい仕打ちを与えたんだ。むご過ぎる、むご過ぎるじゃねぇかよ。」
ハンタロウが、涙をこらえ、嗚咽をかみしめるようにして声を絞り出した。。
「相対性理論だよ。」
ヒデキは叫んだ。
「そーたいせーりろーん!。」
ヒデキは立ち上がると、あらん限りの声を振り絞った。
「出てこい。手前には何の権利があってこんなむごいことを、あんな可愛い光にやらせやがったんだ。出て来い、この野郎。」
そこらじゅうに向かって望遠鏡を振り回した。そして叫んだ。叫んで叫んで、叫びまくった。
「ヌガ、フグ、ガワッ!」
一体どこに居やがるんだ。そんなむごいことをやらせる奴が。そいつは気狂いだ。ヤクザなんか眼じゃないくらい、冷酷で非情なサディストだ。
「怒りたいだけ怒れ、ヒデキ。それでもあの光は毎秒三十万キロメートルの速さで突っ走るぞ。突っ走って、突っ走って、突っ走りまくるぞ。」
「ウォー‐‐‐、ヒ・カ・リーーーー。」
ヒデキはもう耐えられなくなって、望遠鏡を股間に押し付けた。出来れば己の陰茎の硬さで、その望遠鏡をへし折ってみたかった。己の睾丸の重さで圧し潰してみたかった。
ハンタロウが慰めるように言葉を続けた。
「俺も何度も思ったよ、あいつもちったぁ休ませてやってもいいんじゃねぇかって。
でも許してくれないんだよ、相対性理論がよ。いつだって、どこだって、毎秒三十万キロメートルで突っ走れって、相対性理論が言うんだよ。
それが相対性理論なんだよ。それが光なんだよ。」
ヒデキはその時分かった。相対性理論なのだ。小夜子がヒデキの相対性理論なのだ。その理論通りに、一直線に突き進むのだ。
ハンタロウはいきなり、股間に押し付けているヒデキの望遠鏡を、再び天空のベガに向けさせた。
「見ろ、ヒデキ。お前は見届けなきゃならねぇんだ。幾多の歳月を乗り越えてお前の眼に入った、あの可愛い光の行く末を。
今のお前に、それが見えるか。」
ヒデキは必死になって望遠鏡に映る天空を見据えた。そこに映えるベガと満天の星。
しかし、目を凝らすともう一つ何かが見えてくるように思える気がする。たった今、ヒデキの眼から反射した光が、再び何処へともなく再び毎秒三十万キロメートルで突っ走っていく姿が。今のヒデキには確かに見える。
「あの光はなぁ、またどこかの有機体知性生物の眼に入るのかもしれない。いや、無機質な四次元ミンコフスキー時空をただただ突き進んでいくだけかもしれない。いや、どこかのブラックホールに吸い込まれて消えちまうかもしれねぇ。いや、吸い込まれそうで吸い込まれず、永遠にその周囲を回り続ける、ホーキングの言う、見えるブラックホールになるのかもしれない。でも奴はな、そんな自分に納得するしかねぇんだよ。」
ヒデキは手に取るように、あの光のやるせなさがわかった。毎秒三十万キロメートルが教えてくれたのだ。相対性理論なのだ。それが奴を永遠に突っ走り続けさせるのだ。
狂わされるままに、永遠の旅を続ける光。ヒデキは初めてそこに存在する狂気を理解した。理屈では割り切れないほどの理屈がそこにはあるのだ。光は狂気を自覚している。そしてその狂気の先にあるはずの、甘美なロマンも知り尽くしているのだ。
ヒデキは立ち上がると、勃起した陰茎で光の方角を指した。
『俺はあの光なのだ。小夜子、待っていろよ。俺はお前の相対性理論の中で、見事に突っ走ってやる。毎秒三十万キロメートルでぶっちぎってやる。上手く反射して戻ってこれるのかどうか、楽しみに待っていろよ。
俺はその時、光のスピードでお前の子宮を貫いてやる。』
ついにヒデキの中の狂気が、物凄い勢いで加速を始めたのだった。

第Ⅳ章 時間よ止まれ

レオナは、その青年がビリヤード場を出ていくのを、背中で見送った。何やら思いつめたような表情が、印象的だった。やや腰を落とし、前傾姿勢で扉を出ていく背中の雰囲気が、いかにも張り詰めていた感じがしたのだ。
「あれで、幾つぐらいなんだろう?」
年下であることは確かだった。痩せぎすというほどではないが、ひょろっとした背丈の分だけ、痩せ型に見えた。
ただ、そんな青年が出て行っても、相変わらず辺りの空気は緊張している気がした。後には離れた台に数名の男性客がいるだけなのに、妙に気が許せる感じがしない。
「よそ者だからかしら。」
初めての街の、初めてのビリヤード場。閑散としていると言えば、確かにそうなのだろうが、ビリヤードにはそのぐらいがちょうどいい。人込みでごった返すビリヤード場など、お金を出してまで行くものではないだろう。静寂と適度な緊張、ビリヤードにはそれが必要だ。このビリヤード場も、確かに静かだった。ただ、その緊張は少し度合を超えていた。
レオナはあたりをゆっくりと見渡してから、キューを構えた。
どうやらこの緊張感が、この街のお出迎えと言う事のようだった。

レオナは、静かに球を打った。回転を付けた手玉は、手前の赤い的玉の右側にかなり厚く当たり、そのまま右側の長クッションで跳ね返ると、そのまま向こう側の赤玉に当たった。
「ヒトツ。」
実はレオナが得意なのは同じビリヤードでも、スリークッションだった。四つ玉とは違い、玉は三つだ。玉の大きさもやや小さめで、台も少し広めである。ルールは簡単で、三回以上のクッションを経由して、手玉を両方の的玉に当てることが出来れば得点となる。四つ玉とは違って、三回以上のクッションをさせないといけないので、その分計算が格段に難しい。まるで幾何学の問題を解くように、入射角と反射角、回転と打点そして強度を計算しなければならない。嵌る人にとってはそれが面白いのだが、なかなかこれが当たらない。少なくともまぐれで当たることはないから、初心者がすぐにプレーできる種目ではない。つまり、敷居が高い、という奴だ。
「フタツ。」
誰に言うでもなく、呟く。
そんなスリークッションに、レオナが目覚めたのは、ポールニューマンの「ハスラー」がきっかけだった。ただし、「ハスラー」自体は、ポケットを題材とした映画だ。ポケットとは、ご存じの通り15個ないしは9個ある的玉を、手玉で当ててポケットと呼ばれる穴に落としていくゲームである。的玉は番号によって色分けされており、見た目にも鮮やかで、雰囲気にも華がある。
一方のスリークッションは、玉が三つあるだけだ。台には玉が落ちるポケットもない。つまり、ポケットとスリークッションでは、同じビリヤードでも、かなり味わいが違う種目なのである。よって、プレーヤーも人種は別だ。両方やる人は珍しい。「ハスラー」でスリークッションが出てくるのは、確か中盤ぐらいだ。ポケットが得意のポールニューマンが、いつものように勝負を申し込んだ相手が、実はスリークッションだったというシーンである。映画では、最初はたじろぐのだが、その持ち前のテクニックで、初めてなのにスリークッションを極めて勝ってしまう。そのシーンがキッカケでレオナはスリークッションに目覚めたのだが、今考えるとかなり無理がある気がしないでもない。
「ポケットの人が、いきなりスリークッションを極めるのは、ちょっとないわよね。本当に上手い人だと、可能なのかしら。」
まぁ、基本とするテクニックは同じといえば同じというか、キューで玉を突くだけだから同じにならざるを得ない。打点、強度、入射角、反射角、計算することは同じだ。後は突き出す距離と勢いによって、回転力を付けたいのか推進力を付けたいのかも変わってきたりもするが、それもポケットとスリークッションで変わることはない。スリークッションの方が、玉が小さめで台が広いので、そこら辺は考慮に入れる必要はあるだろう。しかし、いずれにせよ基本的な物理原則は同じである。
「ニュートンの古典力学の範囲よね。」
その通り。ビリヤードは、飽くまで古典物理学の法則に準拠する。ポケットにせよスリークッションにせよ、相対性理論の必要性はない。
「でも何となく、スリークッションなのよね。」
何故かレオナはスリークッションが好みだった。理由は結局良く分からない。敢えて言うなら、
「あの時のポールニューマンの顔がかわいかったからかなぁ。」
あの、スリークッションと知ってたじろいだ瞬間の顔。
いつか誰かをあんな風にたじろがせたい。そのためのスリークッション。
ただ、今日はそのどちらでもない四つ玉だ。四つ玉はビリヤードの基本と言えるので、堅苦しいことは言う必要はない。

レオナが九つ目を数えようとした時、いきなり扉が開いて、一人の若者が入ってきた。その勢いから、かなり急いでいる様子なのが、レオナの台からもわかった。
「ヒデキのアニキ、来てませんか?」
店主が答えているようだ。
「え?10分前?何だ、それならまだ出て行ったばっかりじゃないですか。」
多分、先程出て行った青年の事なのだろうと察しは付いた。
『ヒデキ、という名前なんだ。』
話の続きが聞こえた。
「つーことはマスター、俺とアニキは母親が違うってことっすね。」
不審な顔をするマスター。レオナも思わず手が止まった。言葉の意味を考えた。
「何言ってんだってばよ、マスター。」
若者がカウンターのマスターに向かって、右の人差し指を左右に振る。
「チ、チ、チ、それは、腹違い。
今の俺とアニキは、すれ違い、ってね。」
そんな軽口を叩くと、その若者は軽くマスターに合図して、扉を後ろ手に出て行った。
『プッ。』
レオナは、声を出さずに吹き出した。善意のギャグには乗ってあげるのが礼儀だ。それにその若者は、何となく憎めない感じもした。
その時だけ、緊張感が解けた。バイクの走り去る音が、微かに聞こえた。
走り去るバイクの音が止んだ頃、再び緊張感が舞い戻った。

「街が緊張している。」
レオナの印象だった。
先ほどのヒデキという青年といい、このビリヤード場といい、街全体が気を許せない雰囲気に包まれていた。薄々予想はしていたこととはいえ、やはり目の当たりにすると、その緊迫感は威圧感を感じさせるものだった。
レオナはビリヤード場を出ると、外に止めておいたマセラッティーのドアを開けた。スラリと伸びた形の良い脚をシートに収める。そろそろ待ち合わせの時間だ。

レオナはマセラッティーをゆっくりと発進させた。車内は割と窮屈だ。走りに徹した車。車は見た目じゃない。エンブレムをトヨタに変えれば、どう見たってカローラにしか見えない外観。それが走りのマセラッティー・ビトルボ。ビトルボとは、英語で言う、バイターボ、つまりイタリア語でツインターボのことだ。簡単に言えば、思いっきりチューンしてあるカローラ。それがマセラッティー・ビトルボだった。

レオナは十分に加速してからギアを二速に入れると、明日からの仕事を考えた。断り切れない仕事。勿論、そんな仕事は楽な仕事だ。顧問料だけで相当な金額を提示されていた。
「それにしても高速道路の建設に、相対性理論は関係ないわよね。」
レオナは若手の理論物理学者だった。しかも美人。当然マスコミからの誘いも多い。別に好きで誘いを受けるのではない。要は金だ。研究には金が要る。そして政府はいつもケチだ。そう、科学技術、特に基礎科学に対する国家予算は絶望的に少ない。
レオナは三速に入れると、アクセルを軽く踏んだ。見事な走りだ。前のソアラに並ぶと、あっという間に追い越した。ソアラの男の驚いた顔が一瞬見えた。男は何と速いカローラかと思ったことだろう。女の運転するカローラに抜かれたソアラの男。三日間は悪夢にうなされるはずだ。
更に四速。レオナのビトルボは喜びの声を上げるかのように、排気音を唸らせ始める。見る間に四台を追い抜いた。驚く顔が後方に流れ飛ぶ。三日はうなされるであろう顔達。気分転換には丁度良い。
「お金のための一週間だもの、気分転換よね。深く考えるのは止めにしようっと。」
お金のための気分転換。そのためにこの小さな街にやってきた。そう思えば楽なものだ。一週間すれば、またあの古ぼけた研究室が待っている。このビトルボだって、何時まで乗っていられるのか分からない。物理学者と言っても、お金の法則には無縁の人種なのだ。バブルだ、なんだと言っても、研究室には土地も株もないのだ。あるのは理論だけ。
『あーあ、理論が担保になって融資が受けられるシステムってないのかしら。あるいは理論を投機の対象にして、未公開理論の理論株の譲渡で一山当てるって無理かしら。それもダメなら、架空の理論証書を偽造してカゴ抜け詐欺って出来ないのかしら。』
などと真剣に考える学者はいない。ただ、そうしたことが可能なら、今の百倍は研究に没頭できるのに、と考えない学者もいないのではなかろうか。
更に五速。速い。軽く150キロは振り切れている。
元はと言えば、相対性理論などに出会ってしまった自分が選んだ道なのだ。こんなロマンを一生研究し続けられたらどんなに素晴らしいだろう。確かに素晴らしい。そして現実は厳しい。一生研究するための苦労。拘り続けるための苦労。
どんな職業も楽なものはない。それは分かっている。しかし、その苦労が純粋に研究の本質に関わる事以外の事柄が多すぎるのだ。ロマンを求めるためのロマンチックでない努力。考えても仕方のないこと。それも分かっている。ならば気分転換。せいぜい楽しませてもらうことにしよう。
「気分転換よね。とことん楽しませてもらうわよ。」
レオナはそう呟くと、思い切りアクセルを踏み込んだ。

レオナの道路建設における役割は、簡単に言えば権威の花だった。美人でマスコミにも多少顔の売れている物理学者が設計プランに参加している。それだけで、ある種のお墨付き、つまり宣伝効果になると言うわけだ。
そうしたことを代理店の人間はよく考える。地域開発という大義名分に見合った、それ相応の演出。地域社会との交流と称した各種パーティーの開催。プレス発表に仰々しい開通式。つまりはイベント屋だ。如何にこのプロジェクトがその地域の住民、行政、そして地場産業の育成、地域の再開発に貢献しているかをアピールする総合プロデュース。あるいはカモフラージュ。結局、儲けるのは利権を握った奴らだ。住民ではない。
宿泊先のラブラドールに着くと、代理店の福井がレオナを待っていた。福井はレオナ担当のエージェントだった。
「レオナさん、何処にいらしてたんですか。心配しましたよ。」
業界人らしく、いつもアルマーニだ。それなりに着こなしているのだが、レオナのタイプではない。業界がもろに出ているのだ。仕事は出来るのだが、スケベなのだ。
「じゃぁ、明日からのスケジュールのチェックをしておきましょうか。」
と、エレベーターへと歩き出す。すぐに意味もないのにレオナの部屋に行こうとする訳である。
「ここでいいでしょ、スケジュールのチェックだけなら。このロビーで。わざわざ部屋まで来てもらっちゃ、悪いじゃない。」
否応なくUターンの福井。
「いや、こんなところじゃ、誰かに聞かれちゃうかもしれないですし、、、」
「誰かに聞かれちゃ都合の悪いことでも話すわけぇ?明日のスケジュール確認するだけでしょ。」
「いや、やっぱりこう言うのは二人っきりにならないと、言いたいことも言えないし、、、」
こう、悪びれる気配もなく言い放つ福井に、二の句が継げないレオナ。
気を取り直して、腰に手を回して口を開く。
「何で言いたいことが言えないのよ。明日のスケジュールで言えないことでもあるの?」
「いや、言えないスケジュールなんて、ある訳ないじゃないですか。」
「ならここでいいじゃないのよ!」
人差し指で地面を指すレオナ。
「コ・コ・で!」
「本当にいいんですか?」
「何度言わせるのよ、良いに決まってるじゃない。」
何故か肩をすくませる福井。
「仕方がないなぁ。じゃぁ、今日のところはそう言う事にしときましょうかね。」
更に、何故か恩着せがましい福井。
呆れ果ててものも言えないレオナ。
座ろうとした福井は、何に気が付いたのか、
「あれ、ヒーコー、まだでしたっけ?」
『え?ヒーコー?』
「ズーミー、だけじゃぁねぇ。」
『え?ズーミー?』
と言って、フロントに飲み物を頼みに行ったようだった。
「ヒーコーって何?ズーミーって何?」
業界用語を生で聞くのは初めてだった。しかも、その業界用語はかなり最先端のもののようだった。
レオナが座っていると、ほどなく、アイスコーヒーを福井自ら運んできた。
「シロップは入れない派でしたよね、レオナさんは。」
そういって、ナプキンを敷き、その上にアイスコーヒーのグラスを置いた。
さりげなく右手で「どうぞ」の仕草をするのが、全然さりげなく見えない。
「ありがとう。」
素直にお礼を言って、レオナはアイスコーヒーにストローを刺した。

「ねぇ、福井君、本当にあんなので良いの?。」
レオナは事前の打ち合わせ事項をもう一度確認した。
「え?あの相対性理論道路のことですか?」
「そうよ、その相対性理論道路よ。『世界初、相対性理論効果を完全に応用した夢の超高速ハイウェイ』ってのよ。」
ストローで氷をかき混ぜながら、レオナは続けた。
「本当に良いのかなぁ?」
「今更、良いも悪いもないじゃないですか。プレス発表は明日なんですから。バッチリ行けますよ。なんといっても今回の目玉ですからね。その名もアインシュタイン・ハイウェイなんですから、ネーミングもインパクトもばっちりですよ。」
福井は自信満々に頷いた。
頷くには訳がある。今回の道路建設の総合プロデュースは福井の代理店が全面的に請け負っていた。総合プロデュースとは、つまりはその建設にかかわるすべての業者の割り振りから予算及び工期の見積もり、地域住民、地方自治体、中央官庁などとのすり合わせ、それらすべての何から何までを取りまとめるのが役割と言う事である。そしてその中でも特に重要となるのが宣伝コンセプトの企画と立案だ。
そこでレオナに目を付けたのが福井だったと言うわけである。
「そこら辺のしょんべん臭いアイドルなんて、もう古いですからね。これからは知性と教養を兼ね備えたキャラクターじゃないと、絶対だめですよ。」
確かに世間では、田丸美寿々や小宮悦子といった、報道番組を担当する女性キャスターが脚光を浴びる世の中になっていた。それまではお堅いイメージしかなかった報道番組に、逆にその知性的なイメージを美貌と結びつけて新しい価値を見出す流れだ。十九や二十の女性アイドルとは対照的な彼女たちが、まるでスターかのようにもてはやされ始めていた。報道とバラエティーの垣根がなくなる時代の到来。時代のちょっと先を行く業界。福井の眼もそんなところを見ていたのかもしれなかった。

「でも、福井君、やっぱり道路と相対性理論は関係ないわよ。」
水を差すようにレオナは言った。
「関係があろうとなかろうと、そんなこと関係ないんですよ。今時ただ道路を作りますって言ったって、誰も盛り上がらないじゃないですか。逆に税金泥棒、なんて言われかねないご時世ですよ。」
福井が煙草を勧めてくる。レオナは吸わないので断ると、福井は軽く頭を下げて火を点けた。タバコはダンヒルなのにライターはカルチェだ。
「逆に、アウトバーン、とか言うだけで、なんかドイツの高速道路って良い感じがするじゃないですか。あんなのただの舗装した道路ってだけですからね。それでも何となくBMWとかアウディとかメルセデスとか、バンバン走っている感じがするじゃないですか。アウトがバーンな訳ですよ。」
確かに、ドイツ語の「アウト」は英語の「オウト=AUTO」だから、「アウトバーン」は「自動車道路」という意味で、それ以上でも以下でもない。それに、BMWもアウディもメルセデスも、みんなドイツのメーカーだ。ただ、国内の道路を走っているというだけだ。
それを知ってか知らずか、構うことなく福井は話し続ける。
「だから、イメージが必要なんです。誰もが納得して夢が見れるようなイメージ。道路建設のイメージ、これが大切なんですから。」
道路建設のイメージ、高速道路のイメージ。それに相対性理論をくっつけよう、というのが福井のプロデュースのコンセプトと言うわけだった。
どんなことでもいいから、と言う事でプロジェクトのコンセプト会議のブレストに参加したのが二か月前。その企画が通ったという知らせが届いたのが、ひと月前のことだ。その時に正式に顧問料としてギャラを提示された。こんなことでお金をもらっても良いのかな、というのがレオナの正直な感想だった。そしてその企画が現実となって明日を迎えようとしている訳である。
「ほら、ポスターだってねぇ、もう完璧ですよ。」
持ってきていた円筒のポスターケースの中から、試作品だというポスターを取り出した。丸まってしまうのを手で押さえながらテーブルに広げる。
「ちょっとそっち、押さえて、レオナさん。」
大きいので、二人がかりでないと広げることができない。
広げるとそこには有名なアインシュタインの舌を出した写真が見える。
「これね、こうして角度を変えてみるとですね。」
福井に従ってレオナも角度を変えてみると、
「あれ、高速道路が見えてきたわよ。」
「でしょ。」
両眼の視点の位置の差を利用して平面を立体的に見せる技法だ。3D立体視などとも呼ばれるようだ。
「まぁ、子供だましみたいなものですけどね、イメージには合っているかなってね、まぁまぁ評判良いんですよ。」
「色々考えるものね。」
レオナは素直に感心した。
「それ程でも。」
福井はまんざらでもない様子である。
その時レオナが声を上げた。
「あれ、何でこんなところに私がいるのよ。」
みると、高速道路の傍らに、レースクイーンの恰好をしたレオナが立っている。
「何よこれ!?この前のスチール写真じゃないのよ。」
そうなのだ、つい先日福井に宣伝用の素材だからと言われて、水着やらラウンドガールやらレースクイーンの恰好をさせられて、写真を撮られていたのだ。
「あぁ、そうですよ。なかなかいいでしょ。高速道路のイメージとぴったりじゃないですか。」
「何よそれ、こんなことに使うなんて一言も聞いていないわよ。」
「あれ、そうでしたっけ。この前の宣伝会議で揉んでたら、やっぱりこれで行こうってなりまして。道路とアインシュタインだけじゃ、色気がないんでね。」
「ちょっと待ってよ、ここまでするなんて、私一言も言ってないんですけど。」
「あれ、言ってませんでしたっけ。肖像権含めて、契約書には盛り込んでいたはずなんだけどなぁ。」
こういう所は、抜け目のない福井だ。
「あなた、契約書に書いてあれば、何してもいいって言うの?」
「そりゃぁ、そうじゃないですか。契約なんですから。それがお仕事なんですから。」
「もう、そうやって二言目には、契約だ、仕事だ、って何でもビジネス、ビジネス、ばっかりなんだからぁ。」
「いやなら、止めても良いんですよ。違約金払ってもらうことになりますけど。」
「そんなことわかっているわよ。契約でしょ、仕事でしょ、遊びじゃないんでしょ!」
「えぇ、そうですよ。」
「イメージに合ってればそれでいいんでしょ!」
「分かって頂けて、何より。」
レオナは福井の口から煙草を取り上げ、灰皿にもみ消した。
「もう、何やらされるかわかったもんじゃないわ。」
福井は一度立ち上がると、背広の襟をおもむろに両手で正し、ゆっくりと座りなおした。
「なら、伺いますけど、このレースクイーンの衣装だって、一体何着着替えたと思っているんですか?」
思わぬ反撃に出る福井に、不意を食らうレオナ。
「色が違うだの、素材が合わないだの、露出が多いだの、逆に少な過ぎるだの。挙句の果てには、『今日はそういう気分じゃないの。』、とかおっしゃってたのは、どこのどちら様ですか?」
「いや、まぁ、それはそうだけど、、、」
「休憩の時、パラソルとデッキチェア、それにバカでっかい麦わら帽子にサングラス用意させたのはどこのどなたですか?」
「いや、まぁ、私だけど、、、」
「照明で肌が焼けるとかいって、日焼けクリーム持ってこさせたのは、何時の事ですか?」
「こ、この前の撮影とその前の前。」
「それを、何から何まで、全部揃えたのは何処の誰ですか?」
「ふ、福井君。」
一息入れる福井。
「そーですよ。全部僕ですよ。何でもかんでも僕ですよ。言われた通りの僕ですよ。上から下まで、ピンからキリまで、何時でも何処でもこの福井がやらせていただきましたよ。」
「そ、そうよ、で、それが、ど、どうしたのよ、福井君。」
「そこまでさせていただいた僕に、何のご不満がこれ以上あるって言われるんですか?」
「いや、不満じゃないのよ。不満なんてある訳ないじゃないのよ。福井君がしてくれてるのよ。私に不満なんてある訳ないじゃないの。だって、福井君なのよ。」
「だったら問題ないじゃないですか。」
そう言うと福井はポスターを片付け始めた。
レオナは、福井が意外に正攻法に強いことに気が付いた。しかし、すかさず閃いた。こういう時は、作戦変更だ。正攻法がダメなら、陽動作戦だ。
「問題はないんだけどぉ、ちょっとだけぇ、相対性理論についてぇ、福井君とぉ、、、」
福井の手が止まる。上目遣いで作戦続行だ。
「ちょっとぉ、もうちょっとぉ、つっこんだぁ、お話がぁ、レオナ、したいかなぁ、折角だからぁ、ちょっとしたいかなぁ、、、」
「何だ何だ何だ、そう言うことなんですね。何だよ、もー、そう言うことなら早く言ってくれれば、もうこんな時間だよ。」
ターゲットはロックオン。もう逃がれる術はない。
「あ、本当だ、もうこんな時間だ。あぁ、折角話したかったのになぁ。福井君と話したかったのになぁ、残念だなぁ、、、」
「いやいやいやいや、間違いました。もうじゃなくって、まだでした。まだまだこんな時間でした。でもここじゃ何があれしてこれなんで、ちょっと場所でも変えましょうか。近くにいい店があるんですよ。」
「え、本当ぅ、福井君とぉ、お話がぁ、出来るのぉ、じゃぁ、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、行ってみようかなぁ、、、」
後は仕上げだ。作戦完遂のためにレオナも立ち上がった。

福井に連れられてきたのは、ミカサというバーだった。カウンターと奥にちょっとの席がある、小さな店だが雰囲気はよかった。バーテンと女の子がもう一人。こうしたところに関する福井の趣味は間違いなかった。
「でもね、あのローレンツ変換自動修正装置の全面装備、なんてどう考えても意味ないんだけどなぁ。」
車のレオナは、レモンスクワッシュを飲んでいた。
「意味ないって言いますけどね、言い出したのはレオナさんですからね。」
福井はヘネシーだ。既にボトルを入れているようだった。
「確かに言ったのは私だけど、まさか本当にそんなバカげたことするなんて思わないもの。」
「どこがバカげているんですか。いいですか。」
子供を諭すような口調で福井は言う。
「理論的に光のスピードに近づけば近づくほど、時間は遅れていくんですよね。そしてその時間の遅れを修正するのが、ローレンツ変換なんですよね。」
「そうよ。」
「だったら問題ないじゃないですか。」
そう言って椅子に座りなおし、座り具合を調節する福井。
「確かにそうだけど、たかが高速道路で時間の遅れが生じるほど速く走れるわけないでしょ。」
福井はヘネシーのオンザロックを一気に呷ると、レオナに向き直って言った。
「いいですか、レオナさん。今日び、クソ面白くもない高速道路作って、一体誰が喜ぶって言うんですか?」
人差し指でトントンとカウンターを叩く。
「何処の誰が金を出すと思っているんですか?そんなんじゃぁ、宣伝費もへったくれもなくなっちゃうじゃないですか。何処の会社だって、どうやって宣伝費ひねり出そうかって、無い知恵絞っているんですよ。」
バーテンに無言で二杯目を要求する福井。
「ローレンツ変換自動修正装置っていうだけで、精密機器メーカー十社が入札してきているんですよ。それも全部宣伝費で落としてもいいから一枚かませてくれって、言ってきているんですよ。
要は、企業イメージに繋がる案件なら是が非でもって眼の色変えてくるんですよ。餌が欲しくてたまらないんですよ。だからこっちは餌をぶら下げてあげなくちゃってね、ウィンウィンな訳ですよ。」
バーテンから二杯目を受け取る福井。
「そういうものかしらね。
それに、あの質量増加自動検知ファジー制御っていうのも、まるで嘘なんだけど。」
「嘘って言った。嘘って言った。今、嘘って言いましね。」
オンザロックの氷をクルクル、人差し指で回しながら福井が言う。
「その嘘言ったのだーれだ?ハイ、あなたですね。」
回していた、その人差し指で福井がレオナを指さす。
「その嘘言い出したの、レオナさんですからね。責任取ってもらいますからね。嘘から出たまことにしてもらいますからね。きっちりやってもらいますからね。」
「確かに言い出したのは私だけど、まさか本当にそんなバカげたことするなんて思わないもの。」
氷を回した指を舐めながら福井が言う。
「だからどこがバカげているんですか。いいですか。」
再び子供を諭すように、福井は言う。
「理論的に光のスピードに近づけば近づくほど、質量は増大していくんでしょ。そしたらその増加を検知しないことには、道路がぶっ壊れちゃうじゃないですか。ぶっ壊れないように誰かがきちんと制御しないとだめじゃないですか。」
「確かにそうだけど、たかが高速道路で質量が増大するほど速く走れるわけないでしょ。」
バーテンがキスチョコを差し出した。福井が予め頼んでおいたようだ。キスチョコの銀紙を剥きながら福井が聞いて来る。
「お一つ、いかがですか?」
「ありがとう。」
素直に一つ受け取るレオナ。
「いいですか、レオナさん。質量検知ファジー制御っていうだけで、コンピューターメーカーが二十社入札してきているんですよ。それも全部広告費で落としていいから一枚かませてくれって。
要は、CIなんですよ。コーポレート・アイデンティティーなんですよ。」
「そういうものなのかしらね。」
レオナはキスチョコを頬張りながら、
「それに、あの高速ドップラー効果復元ビジョンなんて、理論的に言ってもでたらめなんだけど。」
福井も負けじとキスチョコを頬張りつつ、
「へはらめっへふった。へはらめっへふった。ヒマ、へはらめっへふった。」
キスチョコをかみ砕き、ヘネシーで流し込んで、福井は言った。
「言うに事欠いて、でたらめって言いやがった。」
間髪を入れず、三杯目を要求する。
「いいですか、それ言い出したのはレオナさんなんですからね。」
「確かに言ったのは私だけど、まさかそんなバカげたことするとは思わないもの。」
「だから何度も言いますけど、どこがバカげているんですか。
理論的に光のスピードに近づけば近づくほど、その色だってドップラー効果で、近づく時と遠ざかる時とでは色が違って見えてしまうんでしょ。そしたら白い車が赤くなったり紫になったりしちゃうじゃないですか。折角塗装に出したばっかりだったら、台無しじゃないですか。そんなこと走り屋にでも言ったら、どうなると思っているんですか。殺されちゃいますよ。」
「確かにそうだけど、それってまるでこじつけなのよね。」
福井は何時の間にか頼んでいたフルーツ盛り合わせをレオナにも勧めながら言った。
「いいですか、レオナさん。光速ドップラー効果復元ビジョンっていうだけで、家電メーカーが五十社入札に来ているんですよ。それも、」
「宣伝費でいいから噛ませてくれって、いうんでしょ。」
「そう、その通り。」
福井は磯辺焼きが食べたいと言い出した。何やらバーテンと交渉している。
レオナはそう言えば、夜の渋谷の東急デパートの前で、磯部焼きの屋台が出ていたっけ、などと妙に懐かしく思った。ちょっと寒くなるころだったろうか。何時の間にか気が付くと、決まったようにその場所に屋台が出ているのだ。とてもおいしそうで、柔らかそうで、バター醤油のかおりと海苔のしなびっぷりが絶妙なのだ。一度は食べたいと思いながら、一度も食べたことがなかったのだ。
いやいやいや、そうじゃない、今は磯辺焼きの感傷に浸っている時ではない。磯辺焼きと東急デパートに別れを告げて、レオナは決然とした口調で福井に言った。
「そう言う事なのね。じゃぁいい訳ね本当に。
『遅れちゃうほど速く着く、夢のアインシュタインハイウェイ、君も光になってみないか!?』
こんなキャッチコピーでいいって言う訳ね。」
「もう最高ですよ。その理論イメージキャラクターがレオナさんなんですから。間違いなしですよ。ですから、今日限りで変な質問はもうなしにしてくださいよ。明日にはもう勝負が始まるんですから。」
磯辺焼きが出てきた。福井に勧められたが、断った。海苔が歯に付きそうだからだ。福井はおいしそうに一口噛むと、持つ手で磯辺焼きを引きちぎった。伸びるお餅が、一層美味しそうに見えた。
「理論イメージキャラクターね。」
「えぇ、多分今回が上手く行けば、次は原発用ダムのキャンペーンにも突っ込めると思いますよ。もしかしたら、衛星打ち上げキャンペーンだって狙えるかもしれませんよ。そしたらレオナさん、田丸美寿々や小宮悦子なんてもう目じゃないですよ。何たって東京電力秋の原発ダムキャンって言ったら、もう物凄い宣伝費ですからね。クライアントだって本腰も本腰ですよ。」
「またそんなこと、調子いいことばかり言って。嘘八百もいい加減にしてよ。」
「そりゃぁ、八百ぐらいじゃぁダメですよ。今回の総工費だって百億は行っているんですから。もう嘘なんて八百億ぐらいついてもらわないと、計算合いませんよ。」
そう言うと、美味しそうに磯辺焼きを口に詰め込んだ。摘まんだ指を舐めるのも、何故か美味しそうに見える。そこにウィスキーを流し込む。微笑ましい贅沢だ。そう考えると、そんな福井も何故か微笑ましく見えてくる。
『そうよね、福井君に悪気はないのよね。自分のため、そして私のためにと、必死になってくれているのよね。』
とは思いつつも、
『でも、疲れるわ。』
「わかったわ。その通りね。じゃぁ、今日はもう休むわ。明日は七時よね。」
「いや、まだ始まったばかりじゃないですか。」
「うん、でも、ベッドが変わって寝付けないと嫌だし。」
「や、それなら僕の枕貸しても良いですし、もんじゃ焼きこれから来るんだし、、、」
そう言う福井の背中に両手を置いて、カウンターの中の女の子に眼で合図を送った。彼女もすぐに状況を理解したようだった。胸の名札には「シノブ」と書かれていた。若くて巨乳だ。これなら福井も文句はないだろう。
するとシノブは、カウンターにあった作りかけのカクテルを胸で押し倒した。
「キャッ!胸がぶつかっちゃったぁ。」
零れ落ちる液体は、福井の眼の前からカウンターを流れ落ちる。
「あ、ごめんなさい。」
「うわっ!」
福井は思わず立ち上がろうとするが、ことは既に遅い。カウンターからおしぼりを持ったシノブが飛んできて、福井を強引に座らせ直し、その股間を掴む。
「いやだ、ビショビショにしちゃって、ごめんなさい。」
「お、わ、あ、」
言葉にならない福井はシノブになされるがままだ。
「うわぁ、靴まで濡れちゃった。でも、この靴、お洒落ですね。イタリア製とかですか。」
「う、うん、まあね、フェラガモね。」
「うわぁ、本当だ、フェラガモだ。フェラガモ履いてる男の人って、初めて見ました。凄ーい。」
案の定、軽いおだてにすぐ乗る福井である。アルマーニがビショビショでもお構いなしだ。
シノブはレオナを振り返り、ウィンクを寄こした。心強い援軍だ。これでミッションは、無事コンプリート出来そうだ。
「靴下履いてないから、拭きやすーい。」
「あ、あそう、拭きやすいんだ。そ、それは良かったね。」
福井とシノブの会話を背にして、レオナはミカサを後にした。

プレス発表の当日は、朝から忙しい。福井は昨夜のことは何事もなかったかのように、朝一から仕切りまくっていた。今日のスーツは、ジャンフランコ・フェレのようだった。
「ちょっと衣装さん、こんなドレスじゃぁダメだよ。言ったでしょ、若干イケイケな要素で理論派っていう臭みを取るんだって。もっと挑発するぐらいのに変えないと。」
まずは衣装のチェックだ。
「それとメイクさん、もうちょっとないの、ケバそうなんだけど知性があるっぽい髪型って。考えてよ。」
知性あるっぽい髪形とは何かとレオナも考えてみる。知性に髪型はあるのか。あると言われればそんな風にも思えてくる。
「それから振付師は、呼んでくれているよね。歩き方って重要だからさ。グッと来るキャッチーな歩き方じゃないと足元見られるからね。若干ラップで韻を踏むぐらいだっていいからさ。そういうところはきっちり行こうよ。」
キャッチーな歩き方。振付師とは、そんなことまでするのかと、レオナは初めて知った。
会場となっている県民会館は、既にプレス発表のためのイベンターの仕込みやら機材の搬入やらで、大勢の人たちが忙しそうに行き交っていた。
何やら音楽というか音の断片が、控室にいるレオナたちの耳にも聞こえてくる。
「会場で何やっているの。」
とレオナが聞くと、
「サウンドチェックですよ。」
当然だろ、といった表情で福井が答える。
「バイオリンとか聞こえるんですけど。」
「えぇ、地元のですけど、オーケストラ仕込みましたから。」
「オーケストラ、呼んだの。」
「えぇ、最前列潰して、オケピにしましたんでね。」
「オケピ?」
「逆リハだから、レオナさんはまだ時間ありますからね。」
「逆リハ?」
サウンドチェックに、オケピに、逆リハだ。
「仕込みが押しててケツカッチンだけど、まくってるから、多分オンスケで行けると思いますよ。心配しないでくださいね。」
押したケツがまくるから心配しなくていいのだと、兎に角レオナも安心することにした。
「でもってそうだよな、ファンレターの宛先はうちにしておいて。サインはなしね。警備も勿論つけておいてよ。」
今度はイベンターらしき男に、福井は細かく指示を出していた。音響と照明の係も呼ばれてキッカケの確認をする。
メイクが終わったレオナは、アシスタントと思しき男性から台本を手渡された。
「それと、レオナさん、台本のキッカケは確認しておいてくださいね。」
すかさず福井の指示が飛んできた。
言われるがままに、その台本に書かれているキッカケを必死に暗記する。
「じゃ、行こうか、レオナさん。ランスルーだからキッカケの確認だけ、しっかりやってね。」
連行されるように福井に手を引かれ、レオナは覚えきれていないキッカケの順番を思い起こしながら会場へと入って行った。
「じゃぁ、PAさん頼むね。進行のキッカケでカットインで入ってよ。」
打ち合わせ通り、音が鳴ったら、それをキュー出しと言われるキッカケにして、カミテと呼ばれる舞台向かって右手の、ソデと言われるはじっこから、ピンスポと呼ばれる照明を浴びながら、ステージ中央に出ていくのだ。
「頼むよ、照明さん。ここが今日のクライマックス、イベントのヘソだからね。効果さんもキュー出し見落とさないでね。」
福井が近づいて、レオナにそっと耳打ちする。
「リラックスしてくださいね。本番よりリハが大切なんだから。取り直しなしの本番のつもりでね。」
レオナは次第に高まる臨場感に緊張しながらも、ニッコリと笑って頷いた。
こうなったら俎板の鯉だ、女は度胸だ。こう見えても、結構本番には強いのだ。
台本通り会場が暗転する。同時に一斉に鳴り響くオーケストラ。その瞬間、足が自然に動いた。ピンスポットが袖に立ったレオナを映し出す。指揮者のタクトが見える。
落ち着いている証拠だ。自然と笑みが浮かんだ。
そのタクトのリズムに合わせながら、ゆっくりとレオナは舞台の中央へと歩いて行った。

本番は気が付いたら終っていた。いきなりオーケストラが演奏するローリングストーンズのサティスファクションから始まる趣向を凝らしたプレス発表。招待した地元の住民の数、一万人。地方の名士やら県庁や官庁の役人やらマスコミの取材陣やら、関係者も含めると、大変な人数に膨れ上がっていた。
福井が言った通り、全てはイメージだった。まるで夢のような道路を作り上げる幻想のようなイメージ。ローリングストーンズのミックジャガーのベロに、アインシュタインの舌を掛け合わせた演出だと福井は言うが、それがどれだけ伝わったかは定かではない。ただ、意味ではないのだ。イメージなのだ。人々が持って帰るのは、意味ではなくイメージなのだ。嘘のような本当のイメージ。イメージの一人歩きの始まりだ。
無事プレス発表も終わり、多くの関係者に取り囲まれながら、レオナは妙な気分だった。こうしてにこやかに話をしている自分が、自然と演技をしている。権威の花になり切っている。嘘を本当にする魔力。
「福井君に影響されちゃったのかな。」
そんなことを考えていると、気が付かないうちに独り言を言っていた。
「え、何の話ですか?」
たまたま隣にいた取材記者に聞かれたらしい。
「いえ、こっちの話です。お気になさらないで。」
そんな会話をしていると、遠くに福井が見えた。彼もかなりの人数に取り囲まれている。レオナが手を振ると、福井も気が付いて、人混みをかき分けて近づいてきた。
「お疲れさまでした。」
流石に一仕事終えた様子で、福井も一息ついている感じだった。
「どうだった?」
レオナは待ちきれずに、福井に反応を訊ねた。
「もう最高でしたよ、レオナさん。バッチグー。これでダムキャンも決まりですよ。」
「そう、それは良かったわ。」
何かしら褒められたようで、レオナも素直に嬉しかった。何と言ってもほっとした。
「でも、レオナさん、この後どうしてもって、言われちゃっているんですけど。」
福井が申し訳なさそうに口を開いた。
「何?」
「実は地元の業者がレオナさんのこと気に入っちゃって、この後是非って聞かないんですよ。」
「それって悪いことなの。私は素直に嬉しいんだけど。私って子供っぽいのかしら。」
「いや、普通は問題ないんですけど、コレなんですよ。」
福井はそう言いながら、人差し指で頬を斜めに引いた。
「え?ヤクザなの?」
驚いてレオナは聞き返した。福井は、辺りを見回し、ちょっと声を低めて、
「そうなんです。表向きは建設業ですけどね。どこでもその地域を裏で仕切っているのってのがいましてね。こうした大きなプロジェクトだと、そういう輩に働いてもらわないと、上手くことが運ばないんですよ。」
福井は苦り切って、吐き捨てるように言った。
まんざら業界だけの男ではないのかもしれない。それに今日の福井は本当に頼もしかった。少しぐらい残業したって、安くなる仕事でもない。
「行きましょうよ。明日は何もないんだし。」
「そうですか。本当に申し訳ありません。これって言っても危険はありませんし、すぐに抜けられるように上手くやりますから。」
代理店の人間も大変だ。レオナは少しだけ福井に同情した。

レオナは五分で来てしまった自分を悔やんでいた。
こういう店を、典型的なキャバレーとでもいうのだろう。先日福井が連れて行ってくれたミカサとは大違いだった。ゴテゴテとした装飾、ネオン街のような照明、時代遅れのBGM、柔らかすぎるソファ、そしてその原色。どれをとっても悪趣味だった。
それに輪を掛けたような存在が、その宴会の主催者だった。考和会の関というそのヤクザは、すぐにオデコに脂汗をかくタイプのでっぷりとしたハゲチャビンの典型的なスケベジジイだった。ギトギトでテカテカの嫌らしい視線を臆面もなくレオナのありとあらゆる身体のパーツに投げかけてくる。その視線を感じるだけで、シャワーで洗い流したくなるほどの粘着感だ。
『あぁ、早くホテルに帰って、垢こすりでゴシゴシこすりたぁーい。』
と思って横を見ると、福井が済まなそうに視線で謝っている。しかし、その右手は横に着いたホステスのお尻をしっかりさすっていた。
レオナは少しでも福井に同情した自分を殺したいと思った。男は全くどうしようもない生き物だ。
「バカ!。」
つい、レオナは口走ってしまった。
「アレ?バカ?レオナちゃんにバカって言われちった。レオナちゃんに言われちったら、仕方ないもんにー。デヘ、デヘ、デヘ。」
関は既に酔っぱらっている。レオナのことをチャン付けで呼ぶ。呼び捨てにされるのも時間の問題のようだ。
「そりゃぁー、レオナちゃんにはにー、なんといってもにー、相対性理論だからにー、オイラみたいなのはバカに見えるかもしれないけどにー。」
「いえ、そんな。相対性理論なんて、誰でもわかりますわ。」
と、ついつい嘘を言ってしまった。
「え?誰でもわかるの?え?わかるんだに。そんな簡単だに?じゃぁ、説明してもらうかだにー。ここへ来て、ね、ね、ね。」
と、関は横のシートを指さした。
あんなところに座ったら、体臭まで絡みついて一か月は臭いが落ちない気がする。それはどうしても避けなくてはならない。
助けを求めるように福井を見ると、福井は両隣りにホステスを侍らせ、人生論を語り始めていた。水商売に人生を語るバカ。こんなことしていたらいけないよ、何て言うのなら、お前が真っ先にこなきゃいいんだよ、このバカたれ。
これだから男はバカだ。バカ、バカ、バカの大バカだ。
天は自らを助くる者を助く。レオナは意を決して説明を始めた。

「じゃぁ、説明しますけど、これは座っては説明できないので、立って説明しますね。」
立ち上がると、レオナのスラリと伸びた脚がいやがうえにも目を引く。それだけで関は身を乗り出して来た。
「相対性理論における論理的な帰結の一つとして、時間の遅れ、というものがあります。これは物体が光のスピードに近づけば近づくほど、その物体の経過する時間は遅れていく、というものです。
今日は組長に、この原理をご説明しましょう。」
そう言うと、レオナは片足を机の端に掛けたかと思うと、ガーターバルトを外し、ストッキングを組長の前で脱ぎ始めた。それまでホステスと人生談議に熱中していた福井も、思わずレオナの露わになった太腿に注目する。
ゆっくりと両足のストッキングを脱ぐと、レオナは再び説明を始めた。
「いいですか、組長。今このストッキングが、光の軌跡だとします。」
というと、レオナは関にストッキングの片方の端を掴ませた。
「今、組長の手から出た光が真っ直ぐに上へ向かっていきました。そして上には丁度このストッキングの長さの距離に天井があるとします。」
何故か目線を追って上を見上げる組長と福井、そしてホステスたち。
「すると、その光は天井に当たって跳ね返り、再び組長の手元に戻ってきます。これが光の軌跡ですね。」
といって、レオナは片方のストッキングを天井までの行きの光、そしてもう片方を返りの光として、両方の端を組長に握らせた。
レオナは当然、天井側のストッキングの端を持っているので、組長の目の前にはレオナの生の太腿が圧倒的な存在感で迫っていた。
見ると、福井も含めた客の全員が関の後ろからレオナの太腿を眺めている。
「このストッキングが、組長が止まっている時の光の軌跡です。どうぞ、一度ストッキングを手に取って、確かめて見てください。」
言われるがままに組長は両方のストッキングを手に取り、確かめた。
「匂いはかがなくて構いません。」
レオナは組長からストッキングをひったくった。手からすり抜けるストッキングを恨めし気に見つめる組長。
「ではここで、組長が列車に乗っているとしましょう。列車は物凄いスピードで、あちらに走っているとします。」
と言って、店の奥を指さした。
組長たち全員もそちらを向く。
「列車の中にいる組長にとって、組長の手から発した光は、先ほどの止まっている時と同じように、このストッキングの距離を行き来しますね。」
組長以下、店内の客はみな向き直り、素直に頷いた。
「では、これを列車の外にいる人が見たらどうなるのか、これを実験してみましょう。」
レオナは福井を手招きした。素直に立ち上がる福井。
「では、この福井君が、今列車の外で組長の光を見ているとしましょう。」
と言うと、レオナは改めて片方のストッキングの端を組長に握らせた。
「さて今、組長の手から発せられた光は店の奥に向かってものすごいスピードっで走っているわけですから、それを外から見る人にとっては、光が天井に到達するまでに組長は今いるところよりもずっと前方へ行ってしまっているわけです。つまり、ストッキングで表すと、」
と言いながら、レオナはストッキングを斜め上に引っ張りながら、福井と一緒に店の奥とは反対の出口の方に移動した。

「今、組長の手から発した光が天井に到達しました。さて、ここから光は反射して床の方向に進むわけです。しかし、その間にも組長は更に前方に進んでいるわけですから、反射した光は更に組長から遠ざかり、離れた地点に着地することになりますね。」
そう言って、レオナはもう一方のストッキングの端を福井の逆の手に持たせ、福井を更に出口の方に移動させた。レオナを挟んで、奥に組長、出口に福井、といった配置だ。
「このように、列車の外から見た光の軌跡は、この引っ張ったストッキングの分だけ光は走ることになります。随分と引っ張られていますよね。」
レオナはそう言うと、掴んでいたストッキングの両端を離した。元の長さに縮むストッキング。ストッキングは組長と福井の方向へ、それぞれ縮む。ストッキングのそれぞれの端を掴んで、眼を見合わす組長と福井。
レオナは組長に歩み寄り、ストッキングを取り上げ、
「しかし、列車の中にいる組長にとっては、ホラ、やはり元のママのストッキングの長さ。」
目の前に戻ってきたレオナに、気圧されそうになる組長。生足で威圧するレオナ。
「つまり、列車の中にいる人の光よりも、外にいる人が見る光の方が、より長い距離を走らねばならなくなります。よって、このことから、非常に速く走る物体の時間は、それを外から眺める人にとっては、より長い時間が掛かってしまうことになる、と言うわけです。」
それぞれ、手にしたストッキングを怪訝な表情で見つめる組長と福井。
「ですから、光のスピードに近づけば近づくほど、その物体の経過する時間は遅れていく。そしてその物体が光と同一のスピードになった瞬間、、、」
溜めるレオナ。付いていけない組長と福井は、キツネにつままれたかのように動けない。
「その時間は止まってしまうの。」
いきなり歌うレオナ。
「 ♪ 時ぃ間よぉ、止まれぇ~~~ ♪ 」
構わず畳み掛けるレオナ。
「それでは更に実験を進めて、今、組長が光のスピードで走っているとしたらどうなるでしょうか。」
レオナは再び組長にストッキングを握りなおさせた。
「組長は今、光のスピードで走っていますから、組長の手から発せられた光は、なかなか天井にたどり着けません。」
ストッキングの逆の端を持って、ゆっくりとレオナは店の出口の方向へ引っ張っていく。
「まだつけません。」
さらに引っ張る。
「まだまだ着けません。」
更に強く引っ張る。思わず組長のストッキングを握る手にも力が入る。
「でも、着けない。」
もっと引っ張る。徐々に離れる。ストッキングの所々が破けていく。
「でも着けません、だって組長は光のスピードだから。」
ストッキングがさらに破ける。
もう組長も意地になって離さない。
「でも着けない。光は天井には届かない。」
今にもストッキングが千切れそうになったその瞬間、レオナの逆の手が出口に届いた。
「そして時間は止まってしまうのよ。」
歌う。
「 ♪ 時ぃ間よぉ、止まれぇ~~~ ♪ 」
最後の一撃とばかり、もう一度さらに引っ張るレオナ。
ストッキングが裂けて破けた。思わず後ろに倒れる組長の姿が見える。それを確認してレオナは呟いた。
「今日の講義はこれで、お・し・ま・い。」
そう言うと、千切れたストッキングを放り投げ、レオナは一目散にドアの外へ走り出していった。

第Ⅴ章 秘密の合言葉

ヒデキは一人、ガバメントタイプのスミス&ウェッソンを構えていた。
取り壊しの決まったビルの地下二階。拳銃の練習にはうってつけだ。いずれこのビルも建設予定の高速道路の下敷きになるのだろう。その利権のための、押し殺したような銃声。
照準を合わせる。狙いを定めてから引き金を絞るまでのリズム、これが大切だ。ヒデキは頭の中で、16ビートのリズムを刻んだ。そのタイミングで引き金を絞るのだ。決して走ってはいけない。もたってもいけない。ジャストで絞る。これは易しいようで難しい。
轟音が鳴り響いた。10mほど離れたコンクリートの壁が弾ける。しかし、弾は狙った的には当たらない。微妙にずれてしまう。ただ、その感触は悪くない。
「まだかな。」
三日前から、ヒデキはこの地下にこもっていた。既にヒデキは旅に出たことになっている。ヒットの指令が出るまでは、外部とのコンタクトは一切禁じられていた。ヒットするマシンになるための時間。獲物を狙うハンターになるための時間。
はじめてこの拳銃を握った時は、からっきし当たらなかった。
ガバメントタイプのスミス&ウェッソン。プラグマティズムが生んだ機能に徹した拳銃だ。上手ければ当たる。下手ならば当たらない。上手く出来ている。
拳銃とはおかしなもので、当てようとすればする程、照準は落ち着かない。標的は霞み、手は震える。自分の呼吸で肺が波打つのがヤケに大きく感じられる。それを止めようとすればする程、自分の身体が動いていることに気を取られる。まるで死体役の役者が、胸の鼓動を観客に悟られはしないかと怯えるように。
生きている以上、身体を止めることは出来ない。止める努力に意味はない。それに慣れるのに二日掛かった。止めようとする努力を諦めると、次第に身体のリズムが見えてきた。日常では気が付かない微かなリズム。心臓の鼓動、肺の呼吸、関節の伸縮、角膜の拡縮、そうしたリズムがシンクロするタイミング。意識と無意識の境目。禅の境地。そんなタイミングを捉える。
「ドキューーーーーン。」

ヒデキは何年か前に出会った、流しのトランぺッターの話を思い出した。その落ちぶれたトランペッターはこんなことを言っていた。
「音符には幅があるんだ。」
「幅?」
「あぁ、音符ってぇのは丸いだろ。おたまじゃくしの丸さ。その丸の通り、一つの音を出すのには、その丸の頭で吹くか、真ん中で吹くか、尻で吹くか、吹く人のリズム感によって変わってくるのさ。」
そのトランぺッターは、ナプキンにボールペンでおたまじゃくしの絵を描いた。顔に似合わず、かわいらしい絵だった。その絵を見ながらヒデキは聞いた。
「音符の頭や尻って、それ、走ったりもたったりすることだろう。」
「ほう、よく知っているじゃねぇか。」
トランぺッターはまんざらでもないように、グラスのウィスキーを上手そうに舐めた。
「でもな、走ったりもたったりするのは、ただのリズム音痴さ。飽くまでリズムをキープした上での頭か尻かって話しさ。」
「成程、難しいもんなんだね。」
リズムを外してしまうこととは違うらしい。リズムが合った上での、頭やお尻。
「あぁ、リズム感ってのは本当に難しい。音符の頭でとったり、尻でとったりすることで、微妙なドライブ感とかグルーブ感てぇのが生まれるのさ。」
「そんなこと考えながら吹いているんだね。よく間違えねぇもんだな。」
「まぁ、俺たちは考えながら吹いているが、黒人は考えずにやっちまうからな、勝てねぇんだよ。」
そのトランぺッターは本当に悔しそうに、そう語った。
ヒデキは、聞いてみた。
「勝てないってことは、負けっぱなしって事かい。」
「あんた、面白いこと言う人だね。」
「何て言うかさ、頭や尻がダメだったら、どてっぱらに一発ぶち込んじまえば、良かないのかってね。そう思っただけさ。」
「真ん中ってことか。」
「あぁ、そうさ、ど真ん中。」
トランぺッターが言うには、真ん中のことはジャストというとのことだった。「ジャストでとる」とも言うのだという。簡単に言えば、メトロノームだ。
メトロノームにリズム感はない。正確な時間間隔を刻むテンポがあるだけだ。つまりそのテンポがおたまじゃくしのど真ん中、に相当すると言うわけだ。正確無比なテンポ、逆に言えば味もそっけもない。味もそっけもないが、これが基本中の基本であることも間違いない。
トランぺッターは最後に言った。
「まぁ、全てはジャストが取れてなんぼの話だけどな。リズムの基本だよ。」

「ジャストが取れてなんぼだよな。」
ヒデキは弾倉を取り替えながら、一人呟いた。
「リズムの基本。」
構えてから照準を合わせるまでのリズム。そして引き金を絞るまでのリズム。反動と硝煙の湧き上がるリズム。そのリズムのジャスト。再び引き金を絞る。
「ドキューーーーーン。」
弾は微妙に的を外れた。
「ジャストは、まだだな。」
拳銃を机に置いて、一息ついた。焦る必要はない。まだ、もう少しだけなら時間はある。
ヒデキは気分を変えた。
「よし、じゃぁ日課でも始めるか。」
そう言うと、ヒデキはヨガ用のマットを敷き、鏡を見える位置にセットした。始めるのはストレッチである。まずは、座って両足の足首を掴み、股関節をリラックスさせる。くびも回し、肩甲骨と肩も回す。続いて前屈、前後の開脚に左右の開脚だ。両側の腋も十分に伸ばしておこう。
一通りの床のストレッチが終わると、続いてヒデキはバーに移った。その地下フロアには、脚立やら鉄パイプやら、足を掛けたり、手でつかんだりするものに事欠かない。
ヒデキは、足を前やら横やら後ろやら、脚立とパイプで上手くバランスを取りながら、丹念に身体の隅々まで十分にストレッチした。ストレッチは全ての基本だ。ないがしろにしてはならない。自分の身体は自分でケアするのだ。片足を前方に引っ掛けて、身体を倒す。前屈だ。両方を交互にやったら、今度は横向きだ。体側である。内側にも外側にも身体を倒す。十分に脇を伸ばそう。ついでに後ろと行きたいが、背中を痛めるので、止めておく。軽く背中を逸らせるに止める。
最後にヒデキはタオルを手に取った。両手でつかみ、ひろげる。そこから両端を掴むのだが、この時、片方を上の端、もう片方は下の端を掴む。こうすることでタオルが平行四辺形となり、長さが伸びる。その状態で右手を上、左手を下で、背中に回す。タオルに沿って、両手を背中で近づける。そして、指と指を掴む。
「こっちは行けるんだよな。」
そうなのだ、問題は逆なのだ。
今度は逆に、左手を上、右手を下で、タオルを背中に回す。同じように、両手をタオルに沿って近づける。近づける。近づける。
「ウ、ク、ワ、、、」
肩甲骨を思いきり縮める。息を吐く。思わず首がのけぞる。声がさら出る。
「ヴ、グ、ゲ、、、」
もう少し、もう少しなのだ。もう少しのはずなのだ。
「指、指、人差し指、、、、」
両方の人差し指を思いっきり伸ばす。
「触れ、触れ、指よ、触れ、、、」
指でもがく。
「・」
緊張の糸が切れる。
「ダ。」
諦めた。
敗北感を噛み締めるヒデキ。ヒデキの肩甲骨は堅かった。焦る必要はない。まだ、もう少しだけなら時間はある。

と、その時、扉の向こうに足音が響いた。素早くガバメントを手に取ると、ヒデキは扉を背にして構えた。
足音が壁の向こうで止まる。
それを確かめて、ヒデキは予め決めておいた合言葉を言った。
「 ♪ チューウ、チュウ、チュ、チュ ♪ 」
扉の外から押し殺した声がした。
「 ♪ 夏の、お嬢、さん。 ♪ 」
合言葉は正確に返ってきた。
扉を素早く開けると、押しのけるようにシンイチロウが重そうにテレビを抱えて入ってきた。
「何やってんだよ!?」
「いえ、アニキが寂しいかな、と思って、テレビとビデオデッキ持ってきました。21インチなんですけど、我慢してくださいね。飯島愛のビデオもありますからね。他にもいくつか見繕ってきましたから。」
と言いながら、早速配線をつなぎ始める。
「何だこれ、岡本夏生って、お前の趣味か?」
ビデオテープも十数本はあるようだ。
「え?ダメですか。アニキ、レースクイーンとか興味ないですか?」
「C.C.ガールズ、ねぇ。」
「俺は青田典子より藤森夕子なんですけどね。何かリクエストあったら言ってくださいね。」
「こんなの持ってくるの、大変だったんじゃないか。」
「何言ってんですか。アニキに最高の環境で練習してもらおうて思ってですね、これでも組の経理をどやしつけて、金出させたんですから。」
そう言うと振り返り、扉に向かって叫ぶシンイチロウ。
「おーい、こっち持ってきて。」
すると目隠しをされた配達屋のバイトたちが、恐る恐る荷物を運びこんできた。
「おい、気を付けろよ。」
どやしつけるシンイチロウ。
「気を付けろって、シンイチロウ、目隠しされてたら気を付けようもないだろうよ。」
「だって、ココがわかったらヤバいでしょ。」
「そりゃぁ、ヤバいけどよ。目隠ししたまま荷物運ばせるのもなぁ。」
バイトは合計十人もいただろうか。運び込まれる荷物は、トラック一杯はありそうだった。運び込まれる荷物の山。
気が付くと、倉庫は最新鋭の電化製品に囲まれた、カンフォタボーなアメニティー空間に変貌していた。ご丁寧なことに、熱帯魚の水槽から観葉植物まで置いてある。
「アニキ、この水槽いいでしょ。魚ってのは妙に落ち着くんですよね。それにこの畳。部屋の一か所は和風でないとね。あと一人用サウナ。これ割と便利っすよ。」
シンイチロウのルーム紹介は続く。
「揃えたビデオは、AV以外は戦争ものと環境ものが結構充実しています。AVと戦争もので興奮したら、環境ビデオでクールダウンしてください。イソギンチャクとクマノミも良いですが、大ウミガメの産卵とかも結構イケますよ。」
そう言いながらも、真剣に点検する様子のシンイチロウ。
「忘れ物はないかな。指を突っ込むだけの血圧測定器も買っておきましたから、一応毎朝測っておいてくださいね。
これで一応揃ったな。」
満足げにシンイチロウは、部屋を見渡していた。ヒデキはそのシンイチロウの延髄をめがけてフライングニールキックを正確に叩き込んだ。シンイチロウの身体が吹っ飛んだ。

「バカヤロウ。お前、これじゃあ台無しだろうが。」
訳が分からない、シンイチロウ、畳みかけるヒデキ。
「俺はこれから野獣になって、ハイエナになって、飢えた狼になって、冷酷無残で冷徹非情の殺人マシーンになるんだろうが。コンクリートの冷たさと都会の孤独が、俺の中に眠っていた野生を目覚めさせ、研ぎ澄まされた牙に嚙みちぎられる犠牲者を、刺すような目線で探すんだろうが。」
シンイチロウが呆然とヒデキを見上げた。
「眠っちゃうじゃないかよ、これじゃぁよ。」
シンイチロウが恐る恐る聞いた。
「何がでしょうか?」
「狼だろう。」
押し殺した声でヒデキが続ける。
「目覚めようとしていた飢えた狼が、これじゃぁまた眠っちゃうだろ。こんなにカンフォタボーでアメニティーでソフトでメローなシチュエーションだったら、折角の狼が羊さんになって眠っちゃうんだよ。BGMがマイルスデービスのトランペットからユーミンの中央フリーウェイに変わっちゃうんだよ。分からねぇのかよ、そのくらい。参ったなー。全然イメージ違うんだもんなー。」
ヒデキは不貞腐れて、運び込まれたフローリング用の背の低いソファに寝転がった。
「シンイチロウ、いいか、このアメニティーを絵に描いたような空間で、『タクシードライバー』のロバート・デニーロってイメージ湧くか。『蘇る金狼』の松田優作って雰囲気出るか。『逃亡者』のデヴィッド・ジェンセンって緊迫感感じるか?」
「最後のがちょっとわからないんですけど。」
ヒデキはソファで上半身を起こして横になり、片ひじを立てた。
「あるかないかって聞いてんだよ。」
「な、ないです。」
「ないだろう。
これじゃぁよう、どう考えたって、『東京ラブストーリー』を真似して作ったテレビ埼玉辺りのラブコメのセットのパクりにしか見えねぇーだろ。」
かすかに首を傾げるシンイチロウ。
「でなきゃぁ、BSフジ辺りのしょーもない再放送のお茶の間劇場ぐらいなもんだよ。」
ヒデキは、ソファから立ち上がり続けた。
「お前はよぉ、イメージってのがないから何時まで経ってもダメなんだよ。今日び、こんな可愛らしいリビングみたいなセット、宇宙企画の不倫妻シリーズぐらいしか使いっこねぇぞ。」
「す、すみません。」
「いつも俺が言っているだろ、モノや形から入るなってよぉ。それをお前は、ヘイヘイ、ヘイヘイ、ってよぉ、良いのは返事ばっかしでよぉ、なんも人の言うこと聞いてねぇからこういうことになるんだよ。ったく、ようぉ、、、」
振り返ると、シンイチロウは正座して涙ぐんでいた。
「俺、アニキのためだと思って、つい軽はずみなことしちまって、とっても大事な時期だと言うのに、アニキを怒らせるようなことしちまって、俺ってなんてバカなんだろう。」
シンイチロウは本気で泣いていた。ヒデキは隣にしゃがんで、シンイチロウの肩にそっと手をやった。
「いや、シンイチロウ、泣くことはないんだぜ。」
「いえ、俺こんな時にアニキの気持ちも分からないなんて、俺ってとことんダメなんでしょうね。」
泣き崩れるシンイチロウ。
「いや、俺も少し言い過ぎた。悪かったよ。お前の気持ちは嬉しいんだ。勝手なことばかり言って済まなかったな。」
「アニキ、本当にすみませんでした。こんながらくた、今すぐに全部たたき出します。こんなつまらないもの持ってきた上に、女まで用意しちまって。本当にすみませんでした。」
「女って?」
「アニキ、済みません。女ぐらい欲しいかなって思って、二十人ばかり見繕って、目隠しさせてトラックに放り込んできちゃったんですよ。済みません。すぐに追い返します。」
ヒデキは咳ばらいをし、ティッシュを二枚とると、泣き崩れているシンイチロウの前に膝をついた。
「シンイチロウ君、これで涙を拭いたまえ。別に君のしていることが間違っているとは言っていないんだよ。ただちょっとタイミングが良くなかったぐらいの事なんだからね。
さぁ、元気を出して、泣いてなんかいるとカタツムリに笑われるぞぉ。何時ものシンイチロウ君らしくないぞぉ。
仕方ないなぁ。こういう時はシンイチロウ君のために、女の子でも呼んで慰めてあげられるといいんだけどなぁ。」
フラフラと立ち上がり、扉の外の様子を伺うヒデキ。
「あれぇ、トラックに女の子がいるみたいだぞ。何人だぁ?あれぇ、二十人もいるぞぉ。シンイチロウ君、どうするぅ?みんな寂しがっているみたいだぞぉ。呼んできてあげようかなぁ?
あれぁ、返事がないぞぉ?どうしたのかなぁ?」
と、振り返った途端、ヒデキはシンイチロウが放った後ろ回し蹴りを、避ける間もなく延髄に食らった。記憶はそこで途絶えた。

てなことをしながら、数日が経った。ヒデキの拳銃の腕は順調に上がっていた。シンイチロウも毎日練習に付き合った。
これなら行ける、そんな実感を二人は掴み始めていた。昇り調子。勢いがある。こういう時にやらせて欲しい。昇りつめた後で、それをキープするのは難しい。昇るだけよりも、何倍もの労力がかかる。殺るなら今。
そんな時、ハンタロウが二人の倉庫にやってきた。
「ヒデキ、お疲れさまだな。」
ヒデキとシンイチロウは並んで頭を下げた。
「チワっす。」
「チーっす。」
ハンタロウは言った。
「明日だ。」
明日。殺る日は明日。
「オジキ、明日なんですね。」
ヒデキは自分に言い聞かせるように、頷いた。うっすらと小夜子のことが頭をよぎった。いずれにせよ、明日には決着が付く。
シンイチロウを見ると、強い視線で見返してくる。眼は口ほどにものを言い。ヒデキはシンイチロウを見つめ返しながら、拳に力を入れた。そしてもう一度小夜子の顔を思い浮かべた。
『俺は殺る。』
心の中で固く誓った。

すると、ハンタロウがバツが悪そうに、妙にソワソワしながらうろつき出した。
「こりゃーよー、あんまり関係のねぇことなんんだけどよぉ、ヒデキ。」
「はい。」
「でも今から言うと、混乱するからいいや。やめとく。」
「ハ?何ですか?」
「いや、いい。折角の仕上がりに水を差すようなこと言っちゃぁいけねぇからよぉ。止めとくことにしておくわ。」
声を落とし、
「でも、やっぱ大事なことなんだよなぁ。」
ハンタロウはまだうろうろしている。
「大事なことなら、勿体ぶらずにどうぞ言ってください。」
「そうですよ、オジキ。明日殺る上で大事なことなら、是非とも今、ヒデキのアニキに言ってあげてください。」
「でもなぁ、今更こんな大切なこと言っても、逆に悪い気がするしなぁ。」
「だから何がですか?」
「そーですよ。オジキ。そんな奥歯にものの挟まったような言い方、水臭いじゃないですか。」
「言ってもいいか?」
「はい。」
「はい。」
「後悔しないな?」
「しません。」
「しません。」
ハンタロウはため息をついて、二人に向き直ると、こう言った。
「相対論的効果による、長さの縮みだ。」
「・・・」
「・・・」
「さてと、シンイチロウ、飯にでもすっか。」
「そうっすね、アニキ。今日はカレーだからホームランですよ。」
「ホームランも良いけど、猫だましと内無双も良いな。」
「そうっすね、なんと言っても三所攻めの舞の海っすよね。」
と言っている二人の間に、ハンタロウのワルサーが火を噴いた。炸裂する銃弾。思わず飛びのく二人。
「聞けよ。」
「チーっす。」
「チーっす。」
「いいかヒデキ、シンイチロウ。物体はだなぁ、その動くスピードが光に近づけば近づくほど、進行方向に向かって長さが縮んでいくんだ。そして、光と同じスピードになった瞬間、その長さはゼロとなる。」
「そんなぁ、長さが縮むなんて。」
「ポコチンみたいに伸び縮みするわけないじゃないですか。」
「ところがするんだな、これが。どうだ、その理由を聞きたいだろ。」
「・・・」
「・・・」
二人は顔を見合わせ、口を開く。
「いいえ、別に。」
「特に立ち入ったことは、それほど。」
ハンタロウは38口径のワルサーを構えなおした。
「今度は外さねぇぞ。」
「・・・」
「・・・」
今度は即座に口を開く。
「す、すっごく、き、聞きたいよな、シンイチロウ君。」
「は、はい、ヒデキさん、もうこれが聞けなきゃぁ、よ、夜しか眠れませんよ。」
ワルサーを下ろしながら、
「そうか、二人とも素直でいいぞ。
じゃぁ、そこに座りなさい。」
言われた通りに仲良くソファに座ろうとする二人。
「あ、アニキ、お先にどうぞ。」
「遠慮するこたぁねぇよ。お前が先に座れよ。」
「いや、それは出来ないっすよ。アニキからどうぞ。」
「たまにはいいじゃねぇかよ。固いこと言うなよ。」
「本当っすか。冗談はよしこさんっすよ。」
「心配すんじゃねぇよ。俺とお前の仲じゃねぇかよ。」
「エヘヘ、そういわれればそうっすね。」
「手前ら死にてぇみたいだな。」
飛び込むようにして、ソファに座る二人。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
ゆっくりと二人の前を一往復し、そしてワルサーの銃身を腰にしっかりとねじ込むと、ハンタロウは語り出した。
「じゃぁ、まずは光のスピードは何処の誰が見ようと同じに見えるってことをまず頭に叩き込め。」
「はい、誰でも同じスピードってことですね。」
「それぐらいなら、あっしも覚えられます。」
「じゃぁ。ここで、お前ら二人がそれぞれ列車の両端に立っていたとしよう。シンイチロウが列車の一番前、ヒデキが列車の一番後ろだ。」
瞬間的にヒデキが立ち上がった。
「なんで俺がシンイチロウより後ろ何ですか?」
「えへへ、アニキ、たまには俺も前に出る時もあるってことですよ。」
「何だとこの野郎。いつも手前の尻拭いてやってんのは俺じゃねぇか。」
「何言ってんですか、尻拭いているのはどっちだと思ってんですか?」
シンイチロウも立ち上がる。
「どっちでもいいんだよ。」
ハンタロウが一喝する。
「へい。」
「へい。」
するとハンタロウは近くに落ちていた延長コードを持ってくると、二人にその両端を持たせ、長さ一杯に離れさせた。
「ではここで、列車の長さを測るために、そうだな、何が良いかな、、、」
少し思案したハンタロウはこう切り出した。
「今、シンイチロウが射精をしたと考えてみよう。」
「射精って?」
「射精ですか?」
「そーだ。」
「射精が何か?」
「射精なんかする訳は?」
「今に分かる、黙って聞け。」
「へい。」
「へい。」
取りあえず顔を見合わせて、
「ヨッ、シンイチロウ。」
「ヘイ、アニキ。」
呼吸を合わせる二人。
「では、シンイチロウのポコチンがこのコードのコンセントとするならば、その陰茎から放たれるシンイチロウの精子は、このコードを伝わって、ヒデキめがけて、
べチョ。」
ハンタロウは、精子の軌道をたどるように、シンイチロウ側からヒデキ側に向かって歩き、コードの先端を持つヒデキに辿り着き、ヒデキの頬を軽く叩いた。
「手前、アニキに向かって射精しやがったな。何しやがるんだ、この野郎。」
「いや、あっしはそんな気は毛頭ないんで。」
「落ち着け。」
二人を引き離すハンタロウ。
「ヨッ、シンイチロウ。」
「ヘイ、アニキ。」
再び呼吸を合わせる二人。
「つまり、列車の長さは、今丁度シンイチロウとヒデキの間をつなぐ、このコードの長さって訳だ。」
「へい。」
「へい。」
「ここで話を簡単にするために、シンイチロウの射精する精子、こいつのスピードを時速100キロメートルとする。」
「割と速いな、お前。」
「いや、それほどでも。」
まんざらでもなさそうなシンイチロウ。
「そして、更に話しを簡単にするために、この列車も時速100キロメートルで走っているとする。つまり、列車はシンイチロウの精子とは真逆の方向に走っていると言うわけだ。」
「へい。」
「へい。」
「ポーラ。」
ハンタロウのボケには反応しないヒデキとシンイチロウ。
「ホン。」
咳払い。
「ではここからが本題だ。このシンイチロウの精子を列車の外の人が見たらどうなるか?
今、シンイチロウの精子が時速100キロでヒデキの方向へ飛んでいる。しかし、列車も同時に真逆のシンイチロウの方向へ、同じく時速100キロで走っている。ならばそれを外から見る人にとっては、100キロマイナス100キロ、つまり0キロ。ということは、」
「止まって見える。」
「止まって見える。」
同時に答える二人。
「ご名答。しかし、いくらその精子が止まったように見えても列車はちゃんと前に進んでいるから。」
シンイチロウは下がり、ヒデキは進む。そして今度は、ヒデキの方から頬をがハンタロウの手のひらに当たる。
「やっぱり、べチョ。」
「手前、アニキに向かってマスかきやがったな、コノヤロウ。」
「いえ、あっしはマスかこうなんて気は毛頭ないんで。」
「落ち着け。」
二人を再び引き離すハンタロウ。
「ヨッ、シンイチロウ。」
「ヘイ、アニキ。」
三度、呼吸を合わせる二人。
ハンタロウの説明は続く。
「今この精子は、普通の精子だった。だから、列車の中にいる人間にとっては時速100キロに見え、列車の外にいる人間にとっては止まって、つまり時速0キロに見えた。」
ハンタロウはやや声を落とし続ける。思わず顔を寄せる二人。
「ところがだ、一番最初に言ったとおり、光のスピードだけは何処の誰が見ようと同じスピードだ。」
ヒデキが思案気に頷く。
「ヘイ。」
「ジュード。」
ボケたシンイチロウの頭をヒデキが叩く。
ハンタロウの説明は続く。
「ならば、今日はこのシンイチロウの精子を光精子としよう。」
「ヒカリ精子?」
「何ですか、それは?」
「つまりだ、シンイチロウの精子は普通ではない、光みたいな精子だったとするわけだ。
だとすると、しつこいようだが、列車の中にいる人間にとっては時速100キロに見えるのは今まで通りだが、」
ハンタロウは自分にも、そしてヒデキとシンイチロウの二人にも納得させるように、
「が、しかし、同時に列車の外にいる人間にとっても時速100キロに見えなければならない。
そうだよな?」
ハンタロウの右手のサムアップに、同じく右手でサムアップするヒデキとシンイチロウ。
「じゃぁ、いいか。早速やってみるぞ。二人とも配置につけ。」
再び元の位置に、駆け足で戻る二人。
ハンタロウはシンイチロウの横に立つと、
「シンイチロウの射精した光精子が、時速100キロでヒデキへ、」
ハンタロウはヒデキに向かいながら、ヒデキを手招きする。
「そして、列車も同じく時速100キロでシンイチロウの方へ進んで行く。」
ヒデキもハンタロウに近づいていく。
「そして、べチョ。」
「手前、言うに事欠いてアニキに顔射とは、何事だ。コノヤロウ。」
「いえ、あっしは顔射も何も、いつも中出しなんで。」
「だから、落ち着けって言ってんだよ。」
二人を三度、引き離すハンタロウ。
「ヨッ、シンイチロウ。」
「ヘイ、アニキ。」
更に、呼吸を合わせる二人。
「どうだ、見てみろ。コードがたるんでいるだろ。」
ヒデキとシンイチロウの間のコードは確かにたるんでいる。
眼と眼を見合わす、ヒデキとシンイチロウ。
「このたるみを直すと、これだけ縮んでいる。」
ハンタロウは、短くなったコードを二人に示した。
「本当だ。」
「本当だ。」
「つまり、外から見ている人間にとっては、列車の前方から発せられた光精子が、列車の最後尾に通常よりも先に到達してしまうから、その分だけ短くなって見えるって訳だ。」
「なるほど。」
「なるほど。」
「マクドなるほど。」
ハンタロウのボケをスルーする二人。
「ヨッ、ヒデキ。」
「ヘイ、シンイチロウ。」
何度でも呼吸を合わせる二人。自分で収拾を図るハンタロウ。
「そして、これは列車のスピードが速くなればなるほど縮んでいき、列車のスピードが光の速度と同じになった瞬間、」
「瞬間。」
「瞬間。」
「ゼロになる。」
考え出す二人。

「長さがゼロ。」
ヒデキが悩むと、
「そうか、そういうことか!」
シンイチロウが手を打つ。
「どうした、何がわかったんだ、シンイチロウ?」
ハンタロウの眼の色が輝く。
シンイチロウは、三歩程進み出て振り返り、二人の双方に確かめるように言った。
「オジキ、アニキ、相手が縮んでいった日にゃぁ、いくらハジキが上手くたって、当たる訳ないってことじゃぁないですか。」
「そうだよ、そうなんだよ、シンイチロウ。」
感極まってシンイチロウを抱きしめるハンタロウ。そして言葉を続ける。
「だからだ、明日殺る玉がどれくらいのスピードで動くのか、これが本質的な問題になってくるって言う訳だ。」
「そう言うことだったんですね、オジキ。俺のヤマをそれだけ考えていてくれたなんて、痛み入りやす。」
ヒデキも感極まって、涙を拭いながらハンタロウに頭を下げる。
「いいってことよ。可愛い舎弟が日の目を見るって時によ。これが任侠の道って言うやつじゃねぇか。」
「流石、ハンタロウのオジキだけのことはある。俺なんかにゃマネできねぇ。」
「何言ってやがるんだ、ヒデキ、照れるじゃねぇかよ。」
「いや、俺はありのままを言っただけで。」
「だから、それが照れるって言ってんだよ。」
「すんません。」
「バカヤロウ。」
なんだかんだ、肘を付き合う、ハンタロウとヒデキ。
「あのぉ、ハンタロウのオジキ、一言聞いていいでしょうか?」
シンイチロウが恐る恐る切り出す。
「何だ。何でも聞いてみろ。」
「あっし、生まれてこの方、新幹線が縮んで見えたこともないし、そうした動くものが縮んじまったてなことって経験ないんですが、これはあっしがバカだからなんでしょうか?」
「シンイチロウ、お前は以外に頭がいいぞ。」
ハンタロウに褒められたシンイチロウは、思わず笑みを浮かべた。
「いいか、この相対論的効果による長さの縮みがはっきりと目に見えるのはだなぁ、物体のスピードが光のスピードの90%以上になった時だ。」
「光のスピードの、」
「90%以上?」
「あぁ、そうだ。」
「して、その速さは?」
「時速でどのくらい?」
ハンタロウが暗算をする。
「えぇと、光のスピードが秒速30万キロメートルだから、その90%っていうのは、秒速27万キロメートルってことだろ、ってことはだなぁ、」
「秒速27万キロメートルと言う事は、」
「時速に直すと、」
計算完了。
「時速、9億7千2百万キロメートルだ。」
「九億七千」
「二百万キロメートル」
「で、それは例えばどんなもの」
「何でしょうか?」
「そんなものは、」
ハンタロウは一息ついて、断言した。
「ない。」
「ハ?」
「ハ?」
「現在の科学技術では、まだそんな速い乗り物は開発されていない。」
ヒデキとシンイチロウは顔を見合わせ、頷きあった。
「出来ていないんですね。」(二人)
「あぁ。」
「なら、一言言って良いですか?。」(二人)
「何だ?」
「なら、全然問題ないじゃないですか。」(二人)
「ゼンッゼン。」(二人)
一瞬、静寂が三人を包み込んだ。
ハンタロウはゆっくりとヒデキに歩み寄ると、身体を摺り寄せながら呟いた。
「確かに全然問題はない。
ないんだけどよう、ヒデキ。お前は今、物凄く自信が付いたろ。え?自信がよぉ。」
「ハ?」
ハンタロウは肘でヒデキを突きながら、なおも続けた。
「え、ヒデキ。今、お前、拳銃打ったら、物凄く当たるって、感じするだろう。おぅ?。」
「・・・?」
「だってよ、お前ったらよ、相対性理論まで考えた上で、相手を殺るんだぜ。」
「ハァ、、ハイ。」
ハンタロウの顔が次第に緩み、笑みを帯びてくる。
「え?どうだい。相対性理論だぞ、コノヤロウ。ここまで考えて相手を殺る奴なんざぁ、世界中の何処を探したって、見つからねぇだろうよ。え?」
「え、えぇ、た、確かに。」
ハンタロウが満面の笑みを浮かべ、
「だろう、そうだろう。だろうともよ。
だとしたらだ、お前は絶対に外しっこないよな。そりゃぁ、そうだろうよ。天下の相対性理論だぞ。そんじょそこらの小便垂れとは訳が違うってもんだ。
お前もそう思うだろう、シンイチロウ。」
いきなり振られたシンイチロウ。
「ヘ、ヘイ、お、思います。」
「そうか、そうか、シンイチロウ、お前もそう思うか。
おい、ヒデキ、シンイチロウもそう思うんだってよ。どうだよ、え、流石お前の舎弟だけのことはあるなぁ。アニキ思いの良い舎弟じゃねぇかよ。」
つられてヒデキも、つい顔をほころばせながら言った。
「え、えぇ、もうどこに出しても恥ずかしくないぐらいでして。」
すると、言われたシンイチロウも恐縮しながら嬉しそうに言う。
「何言ってんすか、俺はアニキの言うとおりにしてるだけっす。」
ハンタロウはそう言う合う二人の背中をバンバン叩きながら、
「だろうよ、だろうよ、そうだろうよ。
こりゃぁスゲェことになったぞ、おい。世界初の相対論的ヒットマンの誕生だよ。でかしたぞ、ヒデキ。お前、よくやったなぁ。」
「そ、そうっすよね、何たって相対性理論っすもんね。俺ったら、そんなもん分かった上で、殺っちゃうんすもんね。」
「やりましたね、アニキ。」
「おうよ、おうよ。その通りよ、ヒデキ。お前何時からそんなに頼もしくなったんだ。成長したな、お前も。」
「いやぁ、これも全部、オジキのお陰っす。ありがとうございました。」
「何、水くせぇこと言ってんだよ。可愛いお前が人一人ぶっ殺しに行くって時によ、相対性理論の一つや二つ、何のこたぁ、ねぇってんだよ。なぁ、シンイチロウ。」
ハンタロウに肩を組まれたシンイチロウも、満面の笑みで答える。
「もう、あたりきしゃりきのこんこんちきってくらいなもんでさぁ。何とか理論の三つや四つ、炊き込みご飯に炊き込んで、かっ食らってやりますよ。」
「おぉ、そりゃぁいいや。目出てぇ、目出てぇ。俺はお前らみてぇな舎弟を持てて、本当に幸せだよ。」
「お礼が言いたいのはこっちの方ですよ、オジキ。」
「あざっす。」
「おうおう、礼には及ばねぇぞ。目出てぇ次いでに、良いこと教えてやろう。」
「なんでしょうか。」
「あざっす。」
「秘密の合言葉だ。」
「秘密の合言葉?」
「秘密の合言葉?」
二人は同時に口を開いていた。
「そうだ。秘密の合言葉だ。いいかヒデキ、実際に殺るって時にはよう、やっぱり緊張しちまって、ブルブル震えが来ちまうものなんだよ。」
「へぇ。」
「そういう時にはこの秘密の合言葉を呟け。」
ハンタロウはニヤリとして口にした。
「アインシュタイン。」
「え?アインシュタイン?」
「そうだ、アインシュタイン。」
ハンタロウは顎でヒデキの拳銃をしゃくりながら、
「落ち着くぜ。」
ヒデキはどこかで聞いた言葉だと思った。そうだ、ハンタロウの本に書いてあった言葉だ。しかし、拳銃を持って呟くのは初めてだった。ヒデキは訝りながらも銃をゆっくりと構え、そしてその秘密の合言葉を呟いてみた。
「アインシュタイン。」
すると、不思議とリズムが見えてくる気がした。ジャストのリズムが、照準の向こうに見えてくる。
「本当だ。」
横のシンイチロウに銃を渡す。
「シンイチロウ、お前もやってみろよ。」
「まさか、そんなこと。」
と同じように訝りながらも、シンイチロウも銃を構えて呟いた。
「アインシュタイン。」
驚きを隠さず、
「あれ、本当にそんな気がします。」
お互い見合って、興奮を確認する二人。
ハンタロウが補足する。
「これがな、ニュートン、これだとダメなんだなぁ、不思議と。」
シンイチロウから銃を奪い、やってみるヒデキ。
「ニュートン。あれ、全然、ダメだ。すとんって落ちちゃうんだなぁ。」
「ガリレオ、これもダメ。」
今度は銃を渡されたシンイチロウだ。
「ガリレオ。」
ヒデキを振り返り。
「全然っす。斜めるっす。」
と、銃を差し出すシンイチロウ。
ハンタロウの言葉は続く。
「コペルニクス、これは結構良い線行ってはいるが、でもやっぱり駄目だ。」
ヒデキが銃を受け取り、
「コペルニクス。」
首を振り、
「クスってところが、ちょいダメっすね。」
口惜しそうに、
「コペル、のところまでは良い感じなんすっけどねぇ。」
と銃口を覗く。
ハンタロウが〆る。
「やっぱ、アインシュタインだな。」
シンイチロウも頷く。
「そうっすよ、アニキ。アインシュタインっすよ。」
ヒデキはもう一度銃を構え直し、
「そうだな。なんと言っても、やっぱこれっきゃねぇーな。」
照準を合わせながら引き金に指をかけて、秘密の合言葉を呟いた。
「アインシュタイン。」
轟音と共に、弾丸は標的のど真ん中をぶちぬいた。

第Ⅵ章 不確定なんて糞っ垂れ

小夜子は可愛らしい白いミニのキュロットにピンクのポロシャツといういで立ちでロッカールームを出た。
いつもならコースの攻め方を嫌というほど頭の中で繰り返しながらコンセントレートしているはずなのに、今日だけはそんな気にはなれなかった。
あのラブラドールの夜からすでに六日。あれ以来、長身の青年の顔が頭から離れないのだ。いくら組のためとはいえ、一人の青年の死を宣告したのも同じようなものだった。組のために若い命を落とそうとする青年。頭から離れない横顔。
しかし、そんなシリアスな感情の一方で、その顔立ちが頭から離れなくても悪くない程のルックスだったことは、小夜子にとってはラッキーだった。正直言って、スイートルームのドアを開けてあの青年を見た瞬間、ほっと安心した。いくら極道の娘とはいえ、まだ十七歳の高校生だ。白い浴衣の下では、内心はびくびくしていたのだ。
いきなり伊東四朗みたいなおじさんが入ってきたらどうしよう。この厳粛な儀式で、吹き出すわけにも行かないだろう。それはあまりにも失礼だ。当たり前だ。伊東四朗は嫌いじゃぁないけれど、ちょっと年が離れすぎているし、今はそういう問題じゃないのだ。といっても、吉田栄作みたいなのが入ってきたとしても、逆に笑っちゃうだろうな。でもまさかそんな二枚目が都合よく選ばれる訳はないし。だがしかし、流石にジミー大西はないだろう。とはいっても、マイケル富岡もないだろう。バカは困るのだ、バカは。
そして思い出すのは、やはりあの横顔だった。
クラブハウスのそこここには、既に若手の組員が総出でコンペの準備をしていた。今日は、小夜子の父である平賀組組長、平賀源三郎主催の、高速道路プロジェクト記念の大ゴルフコンペであった。フロントでは仕切り役のハンタロウが、代理店の社員らしき男と打ち合わせをしていた。
「おはようございます、ハンタロウのおじさま。」
小夜子は親しげに挨拶をした。
ハンタロウは小夜子に気が付くと、まるで待っていたかのように笑顔で迎えた。
「おはよう、小夜ちゃん、今日は一段とベッピンさんだね。」
ハンタロウの誉め言葉は、ややズレているのだった。
「こちらは代理店の福井君です。今回のプロジェクトのトータルプロデュースをしてくれているんですよ。
こちらが例の小夜子ちゃん。」
と、ハンタロウが小夜子を紹介すると、福井は早速、
「あ、ども、夜でもオハヨウの福井で~す。」
と、いつもの軽いノリが始まった。
「いや、でも、これは噂通りの、ソフィーマルソーですねぇ。」
『この人はもっとズレている。』、と小夜子は思った。
「あ、お気にしないで下さいね、組長の娘さんを前にして、ずけずけものを言うのも、ついつい仕事柄でしてね。」
と言いながら、両手の親指を人差し指で器用に作った四角い指の間から、片目をつぶって小夜子を眺める。
「でも、良いね。これ、行けるね。ちょっとこっち向いてもらえます。」
福井は小夜子の周りをまわりながら、リクエストをし始めた。
「ハイ、で、ハイ、で、ハイ。グーっすね。ビジュアル、バッチグーっすね。」
何故か自信満々の両手のサムズアップだ。
「ハンタロウちゃんさ、やっぱりカット割りは大幅変更だね。小夜子ちゃん、メインで押そうよ。中途半端な地方の女子アナなんかより、絶対、小夜子ちゃんで行けちゃうよ。」
「だろ、言った通りだろ、福井ちゃん。」
何故かハンタロウもちゃんずけだ。
「あ、小夜ちゃんは特に気にすることないから。」
「それとコンペのラウンドの組み合わせも、ちょっと変えちゃおうかな。」
何故か福井がウィンクを投げてくる。
どうやら、ゴルフコンペのテレビ中継の話しのようであった。
今日のコンペの様子は、この一帯のケーブルテレビで、生と収録とダイジェストで、それぞれ一日三回放送される大イベントなのである。つまり、この地方に住む住民は半ば強制的にこの番組を見させられることになっており、その間、高速道路のCMが合計百回以上オンエアーされるという仕組みらしい。
「やっぱり、あれで行こう。レオナとタイマンでぶっつけようよ。オーケー、それで決まり。」
福井は後ろにいるスタッフに向き直り、
「レオナと小夜子さんの二人には、常時ハンディーのカメラ二台はつけておくようにしてね。勿論、メイクとヘアーもラウンド中、ずっと付かしといてね。」
頷きながらメモを取るスタッフ。
「これ行けるよ。やっぱり素材だね。素材が良いと絵面を捏ねなくてもいいからね。グーよ、グー。」
ハンタロウに念を押す福井。
「さーてと、これで一発、ガツンとカマしますかぁ。」
右腕をグルングルン回すと、
「じゃぁ、また後でね、子猫ちゃん。」
ポンと小夜子の肩を叩いて、福井はハンタロウを連れてロビーの方へと歩いて行った。どうやら福井は、果てしなくズレているタイプの男のようだった。

そうして、小夜子は福井とハンタロウの背中を見送った。ヤクザの代貸しと業界の男。妙に気が合う仲のように見えるのが不思議と言えば不思議な気もした。二人の背中を見ながら、小夜子は再びあの夜を思い出していた。
その青年は、背が高く、瘦せ型で、服の着こなしがちょっとワイルドで、そして思い詰めていた。その青年を目の前にした時、小夜子は出会いというものはこういうものであることを理解したのだった。
その青年はヒデキと言った。
小夜子はラウンド前のパターの練習をしながら、もう一度考えていた。何でヒデキは小夜子のことを抱かなかったのだろうかと。
その日の芝は速かった。ここ一週間程の好天で、芝が乾ききっているせいだ。こういう日の下りのラインは難しい。そして乙女心も難しい。
出会うまでは、怖かったのは確かだ。誰にも見せたことのない、汚れを知らない素肌。純潔。その代償によってこそ、一人の青年を死の旅立ちへと送り出すことができる。小夜子の純潔こそが、ヒデキの運命を決定することができる。そう確信できたからこそ、怖さを通り越した使命感の中で、小夜子は全てを曝け出す決心が出来たのだ。
しかし、ヒデキは小夜子を抱くこともなく、部屋を出て行った。ただ一言、
「俺は死ぬのか?」
という疑問符を残して。
今の今まで、死なすために出会った男なのに、だからこそ、殺してでも悔いのない記憶を肉体に留めさせるために出会ったというのに。
小夜子は今でも死んで欲しくはなかった。殺したくはなかった。愛おしい、という言葉が意味するものを微かに感じ取っていた。
しかし、ここでも乙女心は難しい。やはり疑念は残るのだ。何でヒデキは小夜子を抱かなかったのか?
やはりBカップだと、小さいのだろうか?157センチだと、子供に見られるのだろうか?お尻が小さすぎるのは、ギスギスして見えるのだろうか?ナタリー・ウッドに似ているのは、それほど今風の美人じゃないのだろうか?
せめてキスぐらいは無理やりしておくべきだったろうか?やっぱり血は出るのだろうか?初めから気持ちよかったら異常なのだろうか?どのくらい痛いものなのだろうか?私は抱かれたかったのだろうか?
コンドームを風船にして遊んだあのラブラドールの夜更けを、今でもついさっきのことのように思い出す。

「小夜子さん、ここにいたのね。」
呼ばれて振り返ると、そこには大柄な美女が立っていた。
彼女のことは小夜子も知っていた。今回の高速道路プロジェクトのイメージキャラクター、香坂レオナである。彼女は可愛らしい青い帽子と、身体のラインに良くフィットしたスカイブルーのパンツをはいていた。
「良かったわ、小夜子さんと回れることになって。いくら仕事とはいえ、脂ぎったおじさんたちとゴルフするのはねぇ、苦手なのよね。天気もいいし、今日は仕事抜きで楽しみましょう。」
そう言うと気取った様子もなく、レオナはピッチングウェッジの素振りを始めた。
「あのぉ、レオナさん、ここパターの練習場なんで、アイアンの素振りはしない方が良いかと。」
「あら、いやだ、私ったら。ここってパターよね。なーんだ。」
と言いながら、どこかに走り去ったと思うと、今度はドライバーを持って戻ってきた。
「レオナさん、ゴルフは何回目何ですか?」
「実を言うとね、初めてなの。どうしようかなって思ったんだけど、これも仕事だし、まぁ、良いかななんてね。」
ドライバーを持つ手の組み方が怪しい。
「でも、ハンディー80ももらっちゃったの。いいでしょ。小夜子さんはどのくらいもらったの?」
「ハンディですか?」
「えぇ、ハンディキャップってもらうんでしょ?」
「公式認定で、9です。」
「ハ?」
「公式ハンデは9なんです。」
ごく普通の口調で小夜子は言った。
「え?公式ハンデが9?」
レオナの身体が微妙にこわばるのが面白かった。
「公式ハンデが9って言ったら、あなた、シンバルじゃなくて、ジャングルでもなくって、そうよ、シングルじゃないのよ。あなたシングルプレーヤーなの?!」
「ハイ。」
レオナの眼は点になっていた。
十七才のシングルプレーヤー。プロを目指してもおかしくはないスコアだ。それもそのはず、小夜子は三才の頃から組のコンペに付き合わされ、毎朝、父と一緒に素振りをさせられるわ、応接間では年がら年中、パターの練習だわ、週末にはありとあらゆるプロのレッスンを受けさせられるわ、で育ってきたのだ。
小夜子の父、源三郎はよく言っていた。
「刃物振り回す時代はもう終わったんだ。これから振るのはクラブぐらいなものさ。ちったぁ振り回せなきゃぁ時代に置いていかれるってもんよ。」
などと言いながら、娘を出汁にして、ゴルフで交渉するのが源三郎の目論見だったのだが。
とはいえ、ゴルフは小夜子の性に合っていた。
「じゃぁ、どんなプロが好きなの?岡本綾子?それともジャンボ?もしかして、杉本輝男辺りだったりしてね。」
ようやく眼が円になってきたレオナが、微笑みながら聞いてくる。
小夜子は断言した。
「アーノルド・パーマー。」
そうだ、ゴルフはアーノルド・パーマーに限る。パーマーのレッスンビデオは凄い。
左のドッグレッグ、山越えの難関コース。パーマーは解説する。無難に刻んでいく方法、ヤマのぎりぎり狙いで攻める方法、アイアンの選び方、ウッドを使った場合の注意点、、、。ありとあらゆる攻略方法を説明した後、パーマーは言う。
「しかしこれしかないのだよ、アッハッハ。」
パーマーはスプーンを持ったかと思うと、クルクルとバトントアラーのように二三度振り回し、ターンをしたかと思うとあっという間にティーグラウンドに着き、タップのような足踏みでアドレスしたかと思うと、おもむろにスイングするのであった。球は見事に山越えのドローボールとなって視界の向こう側へ消えていった。
満面の笑みでカメラに振り返るパーマー。勝利の笑顔とガッツポーズ。
しかし、これはレッスンビデオなのだ。お茶の間で観ているアマチュアの視聴者相手に、プロが自慢しても仕方がないのだ。そんなスーパーショットを見させられても、何の勉強にもならないのだ。山を越えられない初心者でも、刻んで勝てる方法を教えて欲しいのだ。むしろフックやスライスみたいな失敗の仕方の方こそ勉強になったりするのだ。
しかし、パーマーはやらない。パーマーはどこの誰に対しても、必ず勝負をするのだ。攻めるのだ。ビデオでも解説そっちのけで、ニクラウスとボブ・トスキの悪口しか言わないのだ。
失敗して池に落とすと、
「今のはニクラウスの打ち方ね。帝王何て一度言われちゃうと、誰でも堕落しちゃうからね。」
ダフって芝をえぐると、
「今のはボブ・トスキの打ち方ね。教えるのが上手くっても、自分でやるとこの通りさ。」
などと、わけの分からないことしか言わないのだ。そしてゴルフの秘訣はと問われると、
「ピンに向かって一直線。ガッハッハッハ。」
もうレッスンどころではないのだ。それでもしっかりパーマーウェアだけは、ローラ・ボーと一緒に宣伝するのだ。

小夜子はそんなパーマーが好きで好きで堪らなかった。
ひとしきりパーマーの話をレオナに詳しくしていると、もう順番が回ってきた。二人は仲良くアウトの一番に向かった。
一緒に回る後の二人は、PTAの会長というおばさまと県知事夫人だった。しかし、それをそっちのけで、既にハンディーのカメラが二台とヘアとメイクが小夜子とレオナを取り囲んで、やいのやいのやっている。会長と県知事夫人は無視されて不貞腐れていた。
それも無理はない。ヘアメイクに輪をかけて、スチールも撮るというので、レフ板持ちやカメラアシスタントまでもいて、二人の周りにはスタッフだけで二十人以上の大集団なのだ。移動中は騒がしいったらない。美術さんも何故かいたりして、
「ちょっと緑ばっかりなんで、桜かなんか咲かせましょうか。」
などと気を使ってくれたり、効果さんは効果さんで、
「スモークはいりませんか?」
などと要らない心配までしてくれる。
みんな良い人たちみたいだ。
横を見ると、レオナはレオナで、ちょっと澄まして役作りに入っている。小夜子もなんだか興奮してきた。
さて、一番ホールだ。小夜子は気合を入れて、ブラックシャフトのドライバーを取り出した。
「それでは、オーナーは小夜子さんと言う事で。スタンバイ、オーケー?では行きましょう。本番5秒前、4,3,2,1,キュー。」
ADさんのキュー出しで、小夜子はティーグラウンドに立った。ちょっと高めのティーアップをする。ゆっくりと三回素振りをしてアドレスを決めた。一度決めたアドレスはずらさない。それが基本だ。後はピンに向かって一直線だ。パーマーで鍛えた腕を見せてやろう。
小夜子は落ち着いてテイクバックすると、勢いよく振り抜いた。
「ビシッ。」
球は一直線にグリーンに飛んでいく。
「ナイショー!」
「ブラボー!」
「ハラショー!」
「ヘンハオ!」
物凄い歓声だ。地方議員やら関係者などのギャラリーが拍手や指笛をしながら手を振っている。小夜子はそれに応えるように、サンバイザーに手をかけて、ニコッと営業笑いをした。
二番目はレオナだ。見たところ素振りはそれほどおかしくはない。しかも誰かに教わったのであろう、謙虚にアイアンで刻むつもりのようだ。これなら問題はないだろう。
レオナは、スッとアドレスを決めると、思い切りよくアイアンを振り抜いた。誰もが球の行方を確かめようと前方を視線で追いかけたその瞬間、右斜め後方でレフ板を持っていたアシスタントが倒れ込んだ。
「フガッ。」
見ると、レオナの球はアシスタントの股間を直撃していた。幸い大事には至らなかったようだが、念のためスタッフと関係者には、次のホールからプロテクターが運営から配布されることになった。
レオナは三打目の計算で、前方の特設から打つと言う事になり、スタッフ全員が移動した。後には、PTA会長と県知事夫人が残された。
それから最終ホールまで、レオナが野山を駆け巡り、小夜子がドラコンをとり、レオナがもう三人の股間を痛めつけ、小夜子がニアピンも持って行き、やいのやいのの大盛況であった。二人は大会の華として、最高のパフォーマンスを繰り広げた。こうしてコンペは無事に大成功の裡に幕を閉じた。

小夜子はゆったりと湯船につかりながら、ヒデキのことをボンヤリと考えていた。しばらくして、扉が開く音が聞こえた。どうやらレオナのようだ。
「お疲れさま。」
と言いながら、豊満な身体を小さな手ぬぐいで隠しながらレオナは入ってきた。
「私もうクタクタ。こんなにゴルフがハードだなんて、初めて知ったわ。」
気持ちよさそうにお湯を身体に流すレオナ。
「最初は仕方ないですよ。
でも、レオナさん、筋は良いと思う。ちゃんと頭で理解しながらプレーしているから。ゴルフは理論がないと上達しませんから。」
そう言いながら小夜子は浴槽の端に顎を乗せた。
「まぁね、理論は得意分野だからね。
一応、軟鉄とかライ角とかフックラインとか、覚えるには覚えたんだけど、やはり難しいものね。」
と言いながら、レオナは浴槽に入ってきた。
思わずレオナの胸元に釘付けになる小夜子の視線。
「レオナさん、羨ましい。Eカップ?」
「嫌だわ、小夜ちゃんったら。DとEの間って感じかしら。」
レオナも小夜子の胸元に視線をやり、
「小夜ちゃんだって、小ぶりで可愛いじゃないの。」
小夜子は胸をタオルで隠して、プイと横を向いた。
「あれ、どうしたのよ。気にしているの。これからいくらでも大きくなるわよ。」
「なるかしら、本当に。」
真剣な眼差しで向き直る小夜子。
「その真剣な眼差しは止めなさいよ。大きくても小さくても、そんなこと大した問題じゃないわ。」
「大した問題です。」
小夜子は浴槽を出て、髪を流し出した。
今度はレオナが後ろから声を掛ける。
「小夜ちゃん、好きな人がいるのね。」
「え?どうして?」
「わかるわ。眼がキラキラしているもの。良いなぁ、そういう光り方。
私にもそんな光り方している時代があったのよねぇ。」
思わず振り返る小夜子。
「そんな、レオナさん、とても綺麗だし。今でも十分。」
「違うわ。
そりゃぁ、いくら年をとっても素敵な恋愛はあると思うわ。でもね、それだけじゃないのよ、女って。」
「女?」
小夜子は髪を流すのを止めて、レオナの方に向き直った。レオナは湯煙の中、浴槽の端を枕に天井を向いた。
「女が美しいって言うのは、決してルックスとかプロポーションとかの見かけじゃないの。どれくらいときめきが輝くかってことなの。
男って言うのは、辛い思いをすればするほど、渋くなるわ。それは逃げずに戦うってことでしか、男が男を磨く術がないからなの。幸せそうな男なんて、何の魅力もないでしょ。」
小夜子はレオナの言いたいことが分かる気がした。いや、手に取るようにわかった。
「でも女は違う。幸せであればあるほど、美しくなるの。幸せを追い求めれば追い求めるほど、女は良い意味で変わっていけるのよ。」
レオナは両手でお湯を掬い上げては、お湯の滑らかさを確かめるように、手から滴らせた。
「でもそんなこと普通に生活していても、出来っこないわ。かといって、大金持ちみたいな生活もできないでしょ。でも、美しくなりたいじゃない。幸せを追い求めたいじゃない。」
小夜子に振りかえるレオナ。頷く小夜子。
「だったらどうすればできると思う?」
首を傾げる小夜子。
「それにはね、何か一つでいいから、狂えるものを見つけるの。」
「狂えるもの?」
「そう、狂ったように追い求めることができるもの。いてもたってもいられなくなるような狂えるもの。」
狂っていてもそれはとても理性的な物のように小夜子には思えた。
「その狂えるものが見つかったから、レオナさんは素敵なんですね。」
手招きするレオナの指示通り、小夜子も浴槽に入って並んだ。
「可愛いこと言うじゃないのよ。」
ひとしきり小夜子をいじると、
「でも私は、それを理論に求めちゃったから。」
「理論?」
「そう、アインシュタイン。」
「アインシュタイン?」
新鮮な名詞の響きが心地よかった。
「そうよ、相対性理論。美しすぎるほどの公式と、ロマンと幻想に彩られた理論と。そんなものを狂ったように追い求めちゃったから。」
フゥ、とため息をつくと、レオナは浴槽から出た。
「さぁ、今度は小夜ちゃんの恋の話でも聞こうかな。正直に話しなさいよ。」
タオルで軽く水滴を拭い、レオナはサウナに入っていく。つられたように小夜子も水滴を拭って、タオルを巻いてサウナに入った。
サウナは癖になる。特に二人で入ると、不思議と競り合ってしまうのだ。何故かお互いにストイックになってしまうのだ。
フーフー言いながら、小夜子はヒデキのことをついつい詳しく話していた。勿論、道路の利権やヒデキの最終目的について以外だが。
気が付くと、小夜子とレオナは水風呂とサウナを優に十往復はしていた。二人とも脱水状態一歩手前である。サウナを出る時には、押すドアが重かった。足取りも覚束ない。そのままシャワーに直行する二人。

レオナがシャワーを浴びながら話しかけてきた。
「なるほどね、彼は危険な旅に出たって訳ね。
でも、小夜ちゃん凄いわ。私も男を泣かしたことはあっても、殺したことはないもの。」
悪気のない言葉だった。言われてみれば確かにその通りだ。そのままニコリと笑って、舌でも出せばそれで済むことだった。
出そうとした。
出す前に、ヒデキの顔が浮かんだ。
自然と涙が出た。溢れ出た涙は止めようがなかった。浴びているシャワーと同じくらいの勢いで、流れていくように小夜子には思えた。
分かっていることは、ヒデキが死んだら小夜子も死ぬことだ。見事に短刀を喉元に突き立ててみせる。伊達や酔狂じゃない極道の娘の生き様を見せてやる。いや、極道なんて生易しいものじゃない、女の生き様をみせてやる。
本能。理性的に狂える本能。レオナの言ったとおりだ。その生きざまが狂っているからこそ、美しくなれるのだ。
再びヒデキの顔が浮かんだ。優しく小夜子の本能を受け入れるかのように微笑んだ。それが愛おしくて、今すぐにでも会いたかった。涙がこぼれた。
「ゴメン。」
優しくレオナが肩を抱いてくれた。
小夜子は首を振った。レオナを責めるつもりなどないのだ。ただ、湧き出る悲しみの感情を、自分でもどう処理すればいいのか分からないのだ。
「よし、小夜ちゃん、今日はパァーと行こう。私のことも喋らせて。このままだと、小夜ちゃんの恋愛に嫉妬しちゃうかもしれないから。」
レオナは小夜子の顔を覗き込むと、裸のまま小夜子を抱きしめ、ゆっくりと頭をなでてくれた。触れ合う肌の感触が、不思議と何のいやらしさもなく、柔らかく、そして優しかった。

「あぁ、本当に疲れたわ。いやんなっちゃうわね。」
そう言いながら、レオナが芝生の上に胡坐をかいて座り込んだ。
「本当!私、びっくりしちゃいました。」
小夜子も隣に、体育座りで並んだ。
二人はラブラドールを見下ろせる小高い丘の上に来ていた。レオナのマセラッティーは、すぐそばに停めてある。
クラブハウスの浴室を出てからというもの、二人は主催者やら関係者やらマスコミやらに追い掛け回されて、やっとの思いで逃げ出してきたのだった。
「甘い顔すると、すぐつけ込んで来るんだから、あの業界の連中は。」
「本当にそうですね。私、男性経験は?なんて事まで聞かれました。」
「何よそれ。そんなことまで。
で、なんて答えたの?。」
「そんなことしたら、父親に殺されますって、って言ったら、最初笑っていらしたんですけど、少ししたら意味が分かったみたいで、、、」
「小夜ちゃんのパパって、本物だもんね。」
「ついでに、港の水は冷たいですよ、って言ってやりました。」
「ハハハ、だからね、夜道は気を付けてくださいね、なんて言ってたのね。私、小夜ちゃんてなんて優しい子なのかって思ったじゃないのよ。」
屈託なく笑いながら、レオナはノンアルコールビールを差し出した。軽く缶と缶を合わせて、乾杯した。ほろ苦かった。でも、美味しかった。今の気分にぴったりだ。
レオナは夜空を見上げると、静かに語り始めた。
「アインシュタインがとっても嫌っていたことがあるの。絶対にそんなことはないって、言い張っていたことがあるの。」
小夜子はレオナの横顔を見つめた。後れ毛が美しかった。
「不確定性原理よ。とっても難しい理論なんだけど、簡単に言うとね、物体があるかないかってことは、結局は分からないってことを証明した理論なの。」
「え?」
小夜子はレオナが何を言い出したのか、よく理解できなかった。
「分からないのよ結局。」
そう言うとレオナは、夜露が湿り出した芝生の上に、ゴロンと仰向けになった。
「だって、あるんでしょ。」
小夜子は振り返りながら、レオナを見た。レオナは夜空を見つめている。
「そう、あるの。あるけど、あるのかないのか、わからないの。」
「そんな事って変だわ。」
「そう、とっても変なの。だからアインシュタインも嫌ったの。そんなまるでサイコロを振るみたいに、神様はこの世を作らなかったはずだって。でも、やっぱりそうなの。」
「そうなのって、どう言う事?」
小夜子がそう聞くと、レオナは上体を起こして、真っ直ぐに小夜子の眼を見つめた。
「位置を決めようとすると、スピードが分からないの。でも、スピードを決めようとすると、今度は位置が分からなくなるの。だから不確定なの。絶対にあるってわかっているのに、それがどこにあるのか分からないの。どこにあるかを分かろうとすると、それが何をやっているのか、分からなくなるの。だから不確定なの。でもやっぱり、それはあるの。絶対にあるの。」
小夜子は黙って聞いていた。レオナの眼が綺麗だった。
「だからね、絶対にあるの。位置が分からなかろうと、スピードが分からなかろうと、不確定だろうと何だろうと、絶対にあるの。どこにいるのか、何をやっているのか、いくら分からなくっても、そんなこと怖くもなんともないの。」
そう言うとレオナはまた夜空を見上げた。
「だって、それはあるんだから。何も恐れることなんかないの。だってそれが真実なんだもの。嘘偽りのない、本当の事なんだもの。」
小夜子はレオナの眼の中に浮かぶものが見える気がした。
「でも、それはやっぱりわからないの。どうもがこうと、何をあがこうとも、やっぱり不確定なの。そして、それはどうしても受け止めなければいけない、真実の向こうの真実なの。」
小夜子はレオナの眼に浮かんできた何かに目を凝らした。
「でも、それはなかなか受け止めきれるものじゃないわ。そんなこと受け止めなくたって、いくらでも生きていけることなんだもの。諦めちゃえば、それで済んでしまう事なんだもの。」
徐々にその何かが形になってくる。
「でも、だからこそ諦めないの。諦めきれないからじゃなくて、諦めないの。だから諦めないのには、力が必要なの。惰性で流されないような、諦めの悪さって言うのは、物凄い体力が必要なの。
そして、そんな体力がなければ、幸せなんて無理やり追い求められないの。狂ったように幸せなんて追い求められないの。不確定のままでなんていられないの。だから、不確定なんて糞っ垂れなの。だからこそ、そんな体力を持った女だけが、美しく輝くことができるの。」
そう言うと、レオナは小夜子を見つめ、そしてもう一度、天を仰いだ。
『そうだ、レオナの言うとおりだ。不確定なんて糞っ垂れだ。』
天を仰ぐレオナの瞳には、一面の星空が映っていた。小夜子もその視線の先にある星空を見上げた。気が付くと流れ星が東の空から飛んでくるのが見えた。その流れ星は小夜子に語りかけてきた。
『俺は今、ものすごいスピードでお前に向かっているんだよ。きっとお前には俺の姿なんてわからないんだろうな。何時からこんなに速くなっちまったのか、自分でも怖いくらいだよ。お前がどこにいるかも良く分かりもしないくせに、俺はどうやら走り出してしまったみたいだ。』
隣のレオナも流れ星を眼で追っているのがわかる。レオナにも聞こえているのだろうか。構わず流れ星は語り続ける。
『でも、俺は怖くなんてないよ。これが俺の宿命なんだ。もっともっと速くなりたいぐらいなのに、これ以上速くさせてもらえないんだ。これ以上速くなってしまったら、とんでもないことになってしまうからって。俺とお前の出会いまで、分からなくなってしまうからって。』
何時の間にかレオナが肩を抱いていてくれた。
『ゴメンな。だから、もう少しだけ待っていてくれ。「今」という時間を過去にはさせないから。距離という隔たりをゼロにさせずにはおかないから。今の俺にはそれが出来る。お前がそうさせてくれたんだ。』
小夜子は流れ星に無言で頷いた。
『だからもう少し待っていてくれ。もう少しでいいから辛抱していてくれ。
あるかないか、いるかいないか、生きているか死んでいるか、それが分からないこの俺が、あることを、いることを、生きていることを、信じて待っていてくれ。俺は必ず行く。』
小夜子は再び頷くと、頭をゆっくりレオナの肩に預けた。
そのまま流れ星は西の彼方に消えていった。レオナの指先が、やさしく涙を拭ってくれるのが、心地よかった。

第Ⅶ章 切り札同士の邂逅

ヒデキは西の空に消えていく流れ星を見送ると、束の間の感傷に浸った。
とうとうその日がやってくる。上手くやれるかやれないか。もう一息の辛抱だ。
「小夜子。」
と、一言呟くと、ヒデキは身を固くして、遠くから関の姿を確かめた。数人の男たちと一緒に、人気もなくなったクラブハウスに戻っていく。これからが勝負だ。全ては一瞬で片が付く。たとえそれが失敗であったとしても。
大ゴルフコンペの当日。街全体が華やぎ、誰も彼もが興奮した。大々的な警備体制が敷かれ、制服に身を固めた男たちは神経を尖らせ、その筋の若者たちはヤケに肩を怒らせていた。興奮の中の緊張と、陽気な笑顔の中の張り詰めた心。
しかし、今はすでにない。張り詰めた緊張は一旦途切れれば、もう後戻りすることは出来ない。
大成功に終わったコンペの後、街は既に弛緩していた。多くの警備陣もその筋の若者も、後はビールを呷って疲れを癒したかった。女でも誘ってしけこみたかった。そうだ、コンペは終わり、人々は家路についたのだ。もういいじゃないか。明日の緊張が再び始まるまで、暫く休ませてくれ。今日はよく働いたのだから。
ヒデキは一人待っていた。興奮の後の放心を、緊張の後の弛緩を。その時こそ絶好のチャンスに違いない。だからこそ、それを待たなければならない。決して焦ってはならない。しかし、逃してもならない。チャンスに二度目はないのだ。
もう少しだ。ヒデキは革ジャンの上から、スミス&ウェッソンの感触を確かめながら、深呼吸をした。

レオナはラブラドールの自室に戻っていた。この街に来てからというもの、毎日色々なことが起こる。色々あり過ぎて覚えていられないくらいだ。
レオナは靴のまま疲れ切った身体をベッドに投げ出した。今日も色んなことが起きた。心地よく疲れた。気持ちだけが疲れていなかった。
身体は疲れ切っているのに目が冴える、そんな時は牛乳を飲むと眠れるという。「ローマの休日」の科白だ。
飲んだのに眠ることが出来なかったオードリー・ヘップバーンは、夜のローマの街に出ていく。そしてグレゴリー・ペックと出会う、ローマの休日。
レオナにとっても、この街は休日であるはずだった。しかし、グレゴリー・ペックに出会う前に、小夜子と出会った。そしてその小夜子は、レオナよりも一足先にグレゴリー・ペックと出会っていたようだった。
レオナはもう一度小夜子の顔を思い出した。本当に可愛い小夜子は、やはり本当に憎らしかった。憎らしさが輝いてキラキラしていた。それが眩しすぎたのだ。だからいくら目を閉じても眠れないのだ。
こんな時、アインシュタインならどうするのだろう?しかし、アインシュタインは男だ、分かる訳がないか。
ふと窓を見ると、向こうからアインシュタインが舌を出すのが見えた。微妙に長い舌。ファンキーなオヤジだ。
「仕方ないわね。」
レオナは意を決して身体をおこすと、マセラッティーのキーを取り上げた。考えがまとまらない時、それはこれに限る。
「ビトルボも寂しがっていそうだものね。」
髪を後ろ手に巻き上げながら、レオナは部屋を後にした。

福井は正座をしたまま、既に一時間が経っていた。クラブハウスのゲストルームには、福井たちを残して、他に誰もいなかった。
関とその男たちは、よほど今日のコンペの大成功が頭に来たらしい。それはある程度予想はしていたことだった。
利権は争いを生む、それが業界だ。そしてその争いを梃子にして、その利権は独り歩きを始める。利権と争いがその次の利権を引き寄せ、争いと利権がそうした争いを育てる。その争いと利権の振り子運動を、巧妙に操作できるかできないか、それが問題だ。
でっぷりと太った関は、すでに一升瓶を半分ほど空けていた。眼が血走っているのがはっきりと見て取れる。
「あのにー、ワシのにー、スコアはにー、いくつだったのかにー?」
福井が縮みあがる様に、ただただ恐縮したそぶりを見せると、後ろに並んでいた数人の男の最もガタイの良いのが低い声で答えた。
「92です。」
「クンニだって、フクイちゃん、クンニだって。スケベがこのー。」
と言いながら、関は福井のオデコに自分のオデコをなすりつけた。関のオデコの脂が、福井の額に、ニチャリと音を立てて付着した。冷や汗と悪寒とともに、脂とも汗ともつかないようなものが福井の頬を伝う。
「クンニは何位なのかなもし。」
福井は答えなかった。すると再び体格のいい角刈り男が答えた。
「小夜子さんを除けば、一位です。」
「除けばー、除けばー、一位だって。福井、一位なのね、ワシ、イチイ。」
関は、
「イチイ、イチイ」
と喚きながら、今度は福井のあらゆる顔のパーツに、関の鼻の脂をこね付け回してきた。
「ウムワ、オェ。」
福井は声にならない声を漏らした。
こいつは酷かった。唇を奪われるなどという甘いものではない。額と鼻のダブル脂のダブルの粘着攻撃だ。こいつはしかけられたものにしか分からない、マニアックでスプラッターな嫌悪感だ。口臭は日本酒で、こっちもべとついた甘い臭いが鼻をつんざく。オマケに髪の毛からはポマードにフケの絡まった臭いまでしてくる気がする。こんなことなら殴られた方がましだ。蹴られた方がましだ。爪の皮を剥がされた方がましだ。
しかし、こんなことで負けていてはいけない。福井は誇り高き業界人なのだ。鼻持ちならなさでは、何処の誰にも負けることはないのだ。面の皮と札束の厚みだけが、己の生きざまなのだ。
「イチイ、イチイ、イチイタケオ!」
意味の分からない奇声を発しながら、関はなおも一升瓶をラッパ飲みしていた。その目は座っているかと思うと踊ってもいる。身体は泳いでいる。実にいい表現が日本語にはあるものだ。
確かにこの関は、その身体と年齢に似合わず、物凄いドライバーショットを飛ばすのだった。なのでスコアも確かに、小夜子に続いて二位だった。ただし、パットは、腰が痛いと言う理由で、全てOKパットではあったのだったが。
「ワシのインタビューは、何回ありましタカーハナダ?イヒイヒイヒ、ワカーハナダ?」
関はなおも福井の顔面を、これでもかというくらい額と鼻で撫でまわしていた。

福井はそれでも、精神の平衡は保っていた。こんなヤクザにデカい面をされて堪るか。こちとらそれこそ、食うか食われるかの広告業界だ。そんじょそこらのヤクザなんぞより、札束は飛び、血の雨も降るのだ。変態だって、ロリコンだって、マザコンだっているんだ。舐めろと言われれば、靴の裏も舐めるし、相手をしろと言われれば、有閑マダムだろうが、「もう許して」と言われるまでバックでやり続けてきたのだ。負けて堪るか、コノヤロウ。
「いやぁ、何回だったでしょうか。あれはぁ、確かぁ、・・・」
「一回!」
再び体格のいい、よく見ればそっちの気があるんじゃないかと思える角刈りの男が、福井を見下ろしながら叫んだ。これには福井はたじろぎ息を吞んだ。
すると関はヒョイとソファの上に飛び乗って、一升瓶をマイク代わりにしたかと思うと、歌い出した。
「♫ユエンナキバラハウド♫、♫クライオーダタイ♫」
プレスリーだ。ジェイルハウスロックだ。
関は、ツイストしながら一升瓶を振り回したかと思うと、酔いも年齢も感じさせない身のこなしから、ターンをして福井の前に膝でスライディングしてきた。
「小夜子は何回だにー?ハウメニーテームズ川?」
教養があるのかも、趣味の所在も、分からなかったが、センスがないことだけは確実だった。
「いやぁ、あれはたしかぁ、二回、いや三回、いや、・・・」
「三十五回!」
よく見ると「さぶ」の紙面を飾っていそうな角刈りの男が、再び大声を張り上げた。
畜生、一人じゃ何もできないくせに、と福井は思った。いくら脅したって金を持っているのはこっちだ。田舎ヤクザなどにはない人脈も持っているのもこっちだ。世の中、金とコネだ。人様の宣伝費でデカい面するのだ。嘘八百並べ立てて、芸者を上げるのだ。冠付けさせて、付けた分の金はごっそり代理店が持って行くのだ。
何が、「現場には一銭も降りてこない」だと。
バカ野郎、それが当たり前だ。現場なんぞ、冠が付こうが付くまいが、やっていることは同じだろう。こちとら口先三寸、企画書ペライチで金を出させるんだ。汗水垂らそうと、身体を張ろうと、そんなことで動く金なんて、一銭もないんだ。
さぁ、もうここらで切り上げよう。十分奴らの愚痴は聞いてやった。どうせ後から利権のおこぼれでも恵んでやれば、それで丸く収まるのだ。犬みたいにホイホイついてくるのだ。仁義も任侠もビジネスの前では座敷犬なのだ。悔しかったら吠えてみろ、このかっぺヤクザ。
福井はおもむろに立ち上がると、関の前に立ちはだかった。
「組長、もうここら辺で、話しを次に進めましょう。コンペ一つでこのざまじゃぁ、これから始まるデカい利権の話が出来ないじゃありませんか。」
「これからの利権?」
関が福井の顔を伺った。
ほーら、寄ってきた。この犬が。なつけこのバカ犬目。三回回ってワンと吠えてみろ。さっきみたいに踊ってみろ。
「そうですよ組長。道路なんざ、造ってしまえばそれで終わり。その次に来るのが、本当の利権ていうものじゃないですか。」
その通りだ。道路は飽くまで、道は道だ。その道が何を運んでくるのか、それこそが本当の地域開発、あるいは地域破壊。いずれにせよ、それが本当においしい利権の正体なのだ。だからこそ、元をただせば、その道の利権を獲得したものこそ、本当の利権への一番切符を握ることになる。
このかっぺは、そんな事さえ分からない。
「勿論、私は抜かりありませんから。組長のいない地域開発なんて、クリープの入っていないコーヒーみたいなもの、いや、本番のないAVみたいなもの、いや、加勢大周のいないクイズ番組みたいなもの。
まー、とりもなおさず、そこは十分に考えさせてもらっておる次第でありまして、リゾート、原発、ダム、にゴミ処理場、更にはテーマパークまで何でもござれのこの福井、よりどりみどりの赤、青、黄色、組長には何でも好きなものをご用意させていただく所存でおります。はい。」
これで決まりだ。これでさよなら、かっぺヤクザ、だ。
「言いたいのはそれだけか?」
驚いて福井は関の顔を見つめた。
その眼は既に酔ってはいなかった。
「お前が平賀のところのハンタロウとつるんでいるってのはわかっている。そいつはいいさ。だがな、金や利権じゃぁ済まされねぇ、人の筋まで違えようってことなら、俺は許さねぇぞ。」
人の筋?こいつは何を言っているのだ。
「お前らが平賀の奴までコケにしようって魂胆なら、こっちにも身の振り方ってものがあるってことよ。
さぁ、夜はまだ長げぇぞ。ゆっくり楽しもうや。」
そう言うなり、関は振り返り、顎で福井の方をしゃくった。「さぶ」の表紙をはじめとした五人の屈強な男たちが、福井を取り囲んだ。
犬は確かに吠えた。大した吠え方じゃないと福井は思おうとした。しかし、身体は素直だった。福井は生まれて初めて尿道が縮みあがるような恐怖感を覚えた。

レオナはほどなくして、その海沿いの道が嫌いになっていた。
判で押したようなテトラポットの黒い影と、延々と続く護岸壁に、怒りさえ感じていた。そのコンクリートの壁は、人が海に近づこうとするのを頑なに拒否していた。波から人を護るためなのか、それとも海から人を隔離するためなのか。いずれにせよその壁は、厚すぎて、長すぎる。利権が無用に厚くさせ、その利権がまた別の利権を呼んで長くさせたのだ。スプレーで書かれた落書きだけが、微かに人の匂いを思い起こさせた。
レオナは道を山の方に曲がった。
深刻になるのはよそう。今度の高速道路の意味など、レオナにとっては何の関係もないのだ。たとえその高速道路が、レオナ自身嫌悪感を抱く、ああした護岸壁と同じようなものになろうとも、それと仕事とは別物だ。
山へと向かう道は、急に険しくなった。険しくなった分だけ、親しみが増した。海辺に面するこの街は、急激にせり寄せる険しい山々を背にした、海と山の豊かな自然を持っていた。
山は例によってカーブが多い。舗装されていない支道もあちこちあるようで、何処へどう 繋がっているのかは、地図でも覚束なかった。
レオナは心地よくタイヤを軋ませながら、人気も車の気配もない山道のカーブを攻めた。ビトルボは直線もいいが、カーブもいい。悪いのは見かけだけだ。
「あれ、いないのかなぁ。こういう所には大体いるはずなんだけどなぁ。」
暴走族、いや、走り屋とでもいうのだろうか。

大抵の地方のこうした山道のカーブやコーナーには、名前が付いているものである。例えば、ナオキのカーブとか、トシヤのコーナーといった具合だ。高二の夏、パトカーに追われたCBRが、曲がり切れず激突したのがナオキのカーブであり、卒業したての春に、猫をよけ損ねて電柱に直撃したクレスタが、いつも停めてあったのがトシヤのコーナーである。中にはタクヤの踏切などという洒落にならない大惨事もあれば、ミナ子の歩道橋などという居たたまれないものもある。
しかし、それが地方の良いところでもある。都会では、それこそ毎年、何十人、何百人と交通事故で死ぬのだ。だから一々名前なんて付けていたら、一体誰の名前なのか分からなくなってしまう。その上、毎年変わってしまうのなら、折角つけた名前の意味がない。全く世知辛い世の中というものである。その点地方はまだ風情があるというものだ。
レオナはその手の話が好きだった。だからその手の子達とは割と仲が良かった。彼らと仲良くなるのは簡単だ、走りのバトルに勝てばいい。
ビトルボの走りとレオナの腕があれば、土地勘はなくとも大抵は勝つことができる。その上、ドリフトで8の字スピンでも見せればイチコロである。なおかつ、見かけがカローラのビトルボは、よく見るとマセラッティーだから、微妙に彼らの自尊心を傷つけることはないのだ。彼らはドイツには多少歯向かうが、イタリアには滅法弱いのだ。
バトルで仲良くなると、缶ジュースをおごる。すると彼らは一様に口を開く。
「やっぱ、煙草はショッポだよ。他のは軽くて喫った気がしねぇもん。」
ここから彼らの話が始まるのだ。まずはショッポだ。
「俺も色んな事やってきたよ。色んな世の中、見させてもらったよ。」
そうだ、彼らは一様に経験豊富なのだ。
「俺もそろそろ良い年だし、こんなこと年食ってまでやろうとは思っちゃいないね。」
そうなのだ、彼らははじめっから『良い年』なのだ。免許を取れるようになった瞬間、タバコが吸えるようになった瞬間、彼らはれっきとした『オジン』になれるのだ。
ここにきて、やっと矢沢フリークのレオナの出番だ。
「何言ってんのよ。何で矢沢は四十過ぎてロックンローラーなのよ。ルイジアナなのよ、バスでトラベリンするのよ。あんた、矢沢好きなんでしょ。夜中のハイウェイで、奴は行っちまって、あんたは残っちゃったんでしょ。」
そうだ、地方に矢沢は外せないのだ。
「その残ったあんたが、良い年こいてやってられなかったら、矢沢はどうなるのよ。矢沢は人生なんでしょ。ユーミンとは違うのよ。サザンとは違うのよ。所詮ブスは中央フリーウェイ辺りでチャラチャラやってりゃいいのよ。そこらのサーファーは、エリーとかクラウディアとか、パツ金の尻でも追っかけてりゃいいのよ。
こちとら矢沢でしょ。チッチチッチって言って針が刺さるんでしょ。刺さっても死なないんでしょ。そうよね、死なないわよね、だって矢沢なんだから死ぬわけないのよ。不滅なのよ。I LOVE YOU O・Kってなもんよ。『オーケー、サイコー』、で良いのよ。風呂にも入らないのにバスタオルを羽織るのよ。恥ずかしいとか、世間体とか、そんなもん関係ないのよ。だから時間まで止めちゃうのよ。時間まで止めるなんて、アインシュタインだってビックリ仰天よ。」
レオナは止まらない。
「ちょっとあんた、しっかりしなさいよ。やめたらだめ。矢沢が悲しむわ。ナオキのカーブはどうしたのよ。トシヤのコーナーはどうするのよ。諦めちゃだめよ。貴方も立派に名前を残しなさいよ。刻みなさいよ、この土地の、この道に。そのために走るんでしょ、そのための矢沢なんでしょ。さぁ、勇気を出してもう一度走り出すのよ。」
レオナは彼らの肩を叩きながら続けた。
「誰にでも迷いはあるわ。あなたもちょっと横道に逸れただけ。そんなあなたを決して矢沢も責めやしないわ。外した指輪は今でもお前のものだって言ってくれるわ。だから大丈夫。今ならやり直せる。さぁ、行くのよ。そして、あなた自身の手で青春を取り戻すのよ。」
レオナは彼の両肩を揺さぶり続けた。そうやって、その隣の彼にも、またその隣の彼にも、レオナは声を掛け続けた。
そうだ、彼らが立派に名前を残せる高速道路だ。永遠に語り継がれるための道路だ。そのためのレオナなのだ。
そう考えると、レオナはウキウキしてきて堪らなくなってきた。このちょっとスリリングでサディスティックな感じが堪らないのだ。一周回っちゃって、丁度帳尻が合っちゃう感じなのだ。利権と金と行政じゃないのだ。薄汚れた業界なんて、ライフがヴェインなのだ。そんな汚い奴らのためではない。目の前にいる若者たちのための高速道路だ。命がけの高速道路だ。そのためのレオナなのだ。
「なーんてね。ウチョピン。」
といって、デコピンもするのだ。
「安全第一だからね。」
と念を押すのだ。
「さぁ、走るわよ。」
レオナは勢いよくビトルボに乗り込むと、アクセルを吹かせた。続々と彼らもそれぞれの車に乗り込んだ。
『着いて来なさい。』
レオナは軽く頭を振って合図すると、強烈な排気音とともに、猛烈な勢いで走り出していった。

福井はロープで吊し上げられていた。それ程の高さではない。足がつきそうでつかないぐらいの高さだ。それに、素っ裸だった。服を破らないためと、見えるところを傷つけないためだった。屈強な男たちが五人がかりでゆっくりと優しく脱がせていったのだった。丁寧に縄で縛られ、吊し上げられたのだ。よくぞまぁ、こんな縄の縛り方が出来るものだ。ヤクザはみんなボーイスカウト出身なのか。どこかのポルノビデオで見たことのある光景だった。見たのは飽くまでブラウン管の向こう側での話だ。それが何故か今はこちら側にいる。
それだけで、福井の神経は既に破綻に瀕していた。やはりヤクザはヤクザなのだ。この言いようもない現実感は一体なんだ?高倉健も菅原文太も鶴田浩二もみんな嘘つきだ。フィクションと現実は圧倒的に違うのだ。何たってかんたって、無茶苦茶に怖いのだ。歯が浮いて、足が踊って、小便が垂れてくるのだ。その上、そいつらは人が小便まで漏らしているのに、笑おうともしないのだ。
普通だったらここ等で科白の一つもあっていいだろうに。
「オイ、こいつ、漏らしやがったよ。」
せめてそれぐらい言ってくれよ。そう言って教養のない笑いを見せてくれよ。そうすればこっちだって悔し涙の一つでも流せるってもんじゃねぇーかよ。
いきなりボディーに食らった。そうだ。そうこなくっちゃ。こうでなきゃ、このシーンはおさまりが付かない。パンチを食らう前に失禁しただけだ。後から編集すれば計算は合う。だから、ここで福井は気を取り直して後ずさりをする。そして哀願するような目つきで許しを請う。しかし、そこには無情の暴力が立ちはだかる。この暴力は避けきれない。逃げることは出来ない。
そう思った瞬間、福井の眼に炎が宿るのだ。不正と虐待と全体主義への怒りが、福井の心に目覚め、そしてその怒りが炎となって、男たちを焼き尽くすのだ。

と、なるはずなのに、何もされない。
失禁した福井は、裸のボディーに軽くパンチを入れられただけで、後はそのままほったらかされているのだ。そんな時の方が居たたまれない時もある。
ダラダラと、そんな時間が続いた。男たちは何の感情も見せず、思い出したように福井を殴った。
それ程の痛みはなかった。しかし、肉体的ダメージがそれほどない分、惨めさが増した。居場所がないのだ。立場がないのだ。耐えようにも何に耐えて良いのか、良く分からないのだ。萎縮し始める精神を止めようがなかった。殴るなり蹴るなり脅すなりすかすなり、早くして欲しくて堪らなかった。何もされる前に負けそうな気がして、気が気でならなかった。
福井の神経がねじれ始めようとする頃、ようやく関が口を開いた。
「さぁ、聞こうか。お前とハンタロウが描いた絵だということは分かっている。お前は金、ハンタロウは利権、それはそれでいいこった。良くある話よ。それが平賀に行こうと、こっちにこようと、どちらにしろ若いのが四五人死んで、片が付く。いつものことさ。」
いつものことなのか。ならばいつも通りにすればいい。その何時もに福井はいないはずだ。
「でも、今回だけは違うみたいだなぁ。」
裸のまま、福井は何と答えればいいのか分からなかった。分からなかったが、言葉は続けて欲しかった。関が口を閉ざし、再びあの時間が来ると思うと、身の毛がよだつようで怖くて仕方がなかった。
「平賀の奴は、暢気だからよ。三代目ってのはそんなもんよ。何時までも歴史は続くって思っていやがる。だからハンタロウみてぇな、頭しか切れねぇ、半端な奴がのさばるのさ。
ただな、世の中、そんな奴だけじゃぁねぇってことを、わからなけりゃいけねえぞ。」
福井は何度も頷いた。お願いだから、言葉を続けて欲しかった。
「小夜子って子はいい娘だよ。眼を見ればわかる。しかし、ハンタロウはいけねぇ。俺どころか、平賀の奴まで追い込むつもりだ。」
そう言って、関は立ち上がった。右手には日本刀を持っている。鞘からだけでは、真剣なのか、模造品なのかは良く分からなかった。ただ、おもちゃでないことだけは、理解できた。
音もなく、五人の男たちが再び福井を取り囲んだ。ローキック、足に来た。しかし、吊られている福井の身体は反動で逃げてしまう。そよ吹く風の柳なのか、そのため痛みは少ないような気がした。すると、背中から羽交い絞めされた。三発目、四発目、胸とか腹とか、良く分からなかったが、今度は本気で痛かった。
「ハンタロウの狙いは何だ。切り札は一体、何なんだよ。」
関の言葉に続いて、再びローキックが来た。脛に当たると、反動も何もなかった。今度は思いのほか痛かった。
痛みの中、福井は切り札とは何かを考えた。福井の知る限り、何か奥の手のようなカードは何も思い当たらなかった。福井は金、ハンタロウは利権、他に残る物などありはしない。
更にキックとパンチは続いた。肩、脇腹。腰、骨と内臓が悲鳴を上げた。しかし、何故か福井の精神は冷静だった。いや、非現実的だった。さっきとは裏腹に、現実はフィクション以上にフィクションのようだった。肉体の痛みと反比例して、精神は高ぶって行った。
『切り札とは一体何なんだ?』
関が日本刀を抜いた。
それでも福井には、まだ何か非現実的だった。
関は振り被り、日本刀を一気に払った。次の瞬間ロープが切れ、福井の身体はもんどりうって床に転がっていた。
「さぁ、言いな。お前はよく頑張った。素っ裸でよくここまで耐えたもんだ。俺にはもうお前を痛めつけようなんて、思わないさ。だから吐いちまいな。」
目の前の床を見て、初めて福井に現実感が戻った。安心感からもう一度失禁しそうになった。頭の中がぐるぐる回った。
『切り札?あるとするならそれは、、、』
「ほら、吐けよ。」
関の日本刀の切っ先が福井の目の前にあった。福井は恐る恐るその刃の根元を見上げた。自然と口を衝いて言葉が出た。
「香坂レオナ。」

その言葉を聞くと、男たちはバタバタと出て行った。関もゆっくりと日本刀を鞘にしまうと、何も言わずに出て行った。男の一人が福井のスーツを探り、上着のポケットからボルボのキーを持ち去るのが見えた。
福井は縛られたまま床に脱力した。裸のまま、何とか仰向けに姿勢を変えた。天井を見上げた。これが今の福井にとっての現実だった。
『き、切り札?』
福井は虚空を見つめながら、大きく深呼吸をした。

くねくねとした山の支道で何度か迷いながらも、レオナは街へと戻る道を走っていた。ラブラドールへはそれほどかからないだろう。もう走り屋たちの夜も更けた。今夜はぐっすりと眠れることだろう。明日は夕方から、中央のお偉いさん達との会合があるだけだ。
気が付けば、予定の一週間ももう明日で、いや、正確に言えば今日で終わりである。
悪い一週間ではなかった。
小夜子という可愛い女の子と知り合いになれた。ビリヤード場では、ちょっと感じのいい男性ともすれ違った。今となっては、脂ぎった関のおでこも良い思い出だ。

突然、二台のベンツが物凄いスピードで煽ってきた。何処からともなく現れたその車は、あからさまな敵意をその車体から漲らせていた。
それでもレオナは、
「懲りないわねぇ。」
と、笑みを浮かべる余裕があった。最近の子供たちはベンツくらい乗っていてもおかしくはない。この時間となっては多少面倒臭いこともないが、売られたケンカだ、買うのが仁義だ。
殆どレオナがアクセルを踏みかけた時、その二台のベンツの後方から、更にもう一台の車が追ってくるのが見えた。よく見れば、見慣れた福井のボルボだ。
『こんなところまで追っかけてくるなんて、可愛いところがあるじゃないの。』
そう思ったからこそ、レオナはアクセルから足を離したのだ。それがまさか、こんな展開になろうとは、夢にも思わなかった。

ハンタロウは放心状態の福井を見降ろしていた。シンイチロウがハンタロウの部屋に担ぎ込んできてからというもの、殆ど呆けたままの状態だった。時たま思い出したように、
「レオナさん。」
と、呟いた。
あまりに遅い福井の帰りを訝って、ハンタロウがシンイチロウを探しにやらなければ、どうなっていただろう。
シンイチロウはクラブハウスのゲストルームで、ロープで縛られた状態の全裸の福井を見つけ、ハンタロウの部屋に担ぎ込んできたのだ。見つけた時、福井は海老のように体をくねらせ、天井を見つめて泡を吹かせていたと言う。涙を流しながら。
「福井さん、一体何処の誰にやられたんでしょうかね。」
好奇心丸出しのシンイチロウをどやしつけながら、ハンタロウは事の成り行きを、辛抱強く福井に問い質した。レオナの名前ばかり繰り返す福井だったが、端々の言葉の断片を総合すれば、関の脅しにレオナの名前を喋ったと言う事のようだった。
「レオナって、あのイメージガールの良い女のことですよね。それがどうしたって言うんですか?」
「つまり、関は俺の切り札が、そのレオナとかいう女だと思い込んだ、ということだ。」
「切り札?切り札って言ったら、ヒデキのアニキの事じゃねぇーんですか。」
「その通りだ。それを、関はこの知らない福井に無理やり吐かせたということらしい。
よりによって、こいつは自分が惚れている女の名前を口走った。だからこいつは泣いている。」
ハンタロウはそう言ってため息をついた。確かにレオナもある意味では切り札ではあった。だから福井がレオナの名前を出したのも、あながち間違いだとは言えない。大きなプロジェクトに欠かせないもの、それを落とす役割。それは切り札と言ってもおかしくはない。
ハンタロウと福井にとって、このプロジェクトに欠かせないものは二つ残っていた。官僚と政治家、この二つである。どんなプロジェクトでも、それが大きければ大きいほど、役人が介在する。道路なら建設省と運輸省、これは外せない。そしてその役人を動かすのが代議士。
こいつらへの切り札がレオナだった。金と色は何処へ行っても付きまとう。明日の会合でその渡りをつける。それで今回のキャンペーンの段取りは完成する。色と金、そしてその向こうにある利権。
そのために福井はレオナを育ててきたと言うわけだ。金はどこに行っても金。しかし、色はその色自体がどれほどの輝きを放つかによって、全く変わってくる。色は物理的な見かけだけではない。それがどれくらい増幅されたイメージを持つか、つまり、ハードウェアだけでなく、ソフトウェアが胆になる。
レオナは既に道路建設に対して、ある種の付加価値、つまり、利害の綱引きには無関係な、無垢な女神としてのイメージを有している。それこそが絶対の色としての本質なのだ。
多分、レオナ本人は嫌がることだろう。しかし、それもレオナの研究費と抱き合わせと言う事になれば、結局レオナも折れるしかない。別に身体を売れということじゃない。逆に、いくらで売れる自分なのかが勝負なのだ。いずれにせよ身体の一つや二つ張らないことには、学者などやってはいられないのだから。
しかし、それは飽くまで表の世界でのことだ。関が本当に知りたがっていた切り札とは?今頃その切り札は何をやっているのか?
ハンタロウは静かにソファに座った。そして待つことにした。いずれにせよ、そのもう一つの切り札が、手札を開くのはもうすぐだ。

ヒデキは、少し離れた場所にスティードを止めた。関がクラブハウスから移動したのは計算外だった。しかし、全てが計算通りに行くわけではない。それは百も承知の上だ。関の事務所なら、何度か使いに行ったことがあるから、内部の構造は分かっている。相手の人数も、立っていそうな場所も想像は付く。
ビルの周辺に見張りはいないようだった。念のため、通りに見えるベンツは、全て空気を抜いてパンクさせた。ビルの五階から屋上に上がる。どこにでもある変哲のない雑居ビル。夜に人気は少ない。逆に好都合かもしれない。鉄柵にロープを縛り付け、二階までの間合いを測る。ヘルメットにゴーグル、革ジャンにブーツ、ガラスを割って飛び込むにはうってつけだ。胸のホルスターには、スミス&ウェッソンがしっかりと収まっている。ロープを握った。ヒデキは意を決して、鉄柵を乗り越えた。

関の事務所の二階で、レオナは男たちに取り囲まれていた。目の前には、大ぶりのデスクにふんぞり返った関が座っている。
「あんたには悪いがなぁ、今日一日は俺に付き合ってもらう。くれぐれも変な気は起こさないように、注意してもらいたい。」
関は口を開くと、そう静かにレオナに語り掛けた。
いくらその口調が静かだろうと、周りは男たちに取り囲まれていた。机の上の注射器には、エイズ撲滅のマークをあしらった消毒済みのシールが貼られている。何がエイズ撲滅だ。それが、五本、六本、七本。

あの時、福井のボルボから降りてきたのは、見ず知らずのこの男達だった。男達は何を聞いても何も答えなかった。仕方なくレオナは男達の運転するベンツとボルボに誘導され、この場所に連れて来られたのだった。
一体、レオナに何をしろというのか?何か失礼があったのなら、素直に謝ろうとは思う。しかし、何もしてはいないのだ。関とは福井を介してしか知らないし、当の福井はどこへ行ったのか、行方が分からない。このまま二の腕に注射器を突き立てられるのか、それともその前にアダルトビデオよろしく、犯されでもするのだろうか?
そう思う間もなく、関は言葉を続けた。
「さぁ、レオナちゃん、ちょっとゆっくりして行こうか。あんたは取りあえず静かにしていてくれるだけで良いのだから。何も心配することはないんだよ。」

『さぁ、どうしよう。』
レオナは考えた。一瞬閃いたのは、志穂美悦子だ。そう、あの千葉真一の愛弟子にして、日本の女性スタントマンとしてのパイオニア、アクション女優としての第一人者、通称「悦ちゃん」だ。
『悦ちゃんなら、どんな感じになるだろう?』

悦子は自然と間合いを測っていた。目の前に座る関との距離、両隣、そして後ろに立つ男たちの配置と間隔。そして自分の足の長さとスカートの丈。
「あの、その前に一つ、お話したいことがあるんですけど。」
おもむろに切り出す悦子。怪訝な表情を浮かべる相手。
「耳をお貸しいただけませんか。」
そう言う悦子に、相手は怪訝な表情のまま身体を前に身を乗り出した。その瞬間、
「ちょっと手を貸してね。」
左手の男にそう言うなり、悦子は身体を左の男に預け、思いっきり身体を傾けたかと思うと、スカートの裾をからげながら右足で正確な横中段蹴りを放った。ピンヒールが、耳を傾けた相手の右耳の上、側頭部をピンポイントで射貫く。
相手はもんどりうって横倒しに吹っ飛んだ。男たちは一瞬戸惑った。その隙に悦子は手を取った左の男の懐に入りながら、相手のネクタイを掴み、そのまま巴投げで投げた。素早く身を起こし出口を伺った。しかし、遠い。投げられた男に代わって、別の男が後ろから羽交い絞めにしてきた。悦子は右足のヒールで相手の右足を踏みつけると、左のエルボーで男の左顔面を強打する。バランスを失った男の同じ顔面へ、回転しながら右のハイキックを叩きこむ。正面から別の男が突っ込んでくる。すかさず中段の後ろ回し蹴りを、相手の脇腹にねじ込むように突き刺す。右手の男が注射器を取り上げた。他の二人が出口を塞ぐように、退路に立ちはだかった。脇腹を押さえながら、男が起き上がる。
「よお、ねぇちゃん、舐めたマネしてくれるじゃねぇか。」
悦子は胸ぐらを掴まれ、取り押さえられた。

『あちゃー、悦ちゃん万事休す。』
「ちょっと、ちょっと、レオナちゃんてば、どうしたのかな。気分でも悪くなっちゃったのかな。」
心配そうに関が声を掛けた。
「おい、ちょっと、おしぼりかなんか持ってきてあげなさい。」
気が付くと、関の指示で横の男がおしぼりを差し出してくれた。
「あ、ありがとう。」
レオナは落ち着きを取り戻した。どうやら志穂美悦子の出番はなさそうだ。しかし、相変わらずこれからの流れが見えてこない。
「あ、もうこんな時間だ。」
というと、関はおもむろにシャツをたくし上げ、でっぷりとしたお腹を突き出した。
『うわ、こ、これは、大胆にも本人自ら強姦という流れなわけ?私これから強姦されるの?でも、強姦って、自分から先に脱いじゃうものなの?でも、脱ぐなら下の方が良いんじゃないかしら、、、』
すると右隣の男が、注射器をおもむろに取り上げた。
『きゃぁ、今度は注射なの?私注射されちゃうわけ?それって麻薬でしょ、覚せい剤でしょ、シャブって言うんでしょ。でもどこに打つわけ?腕はまだたくし上げてないけど、いいのかな、もしかして太腿?それにしては針が細くないかしら、どうなのかしら、、、』
男はその注射器を、関のむき出しのお腹に突き立てた。
眼が点になるレオナ。
「ごめんね、レオナちゃん、丁度時間でね。糖尿病のインスリンの注射なんだよね。毎日五回打たないといけないからさ、時間が決まっているんだよね。」
無事注射も打ち終わり、関はシャツをベルトの中にしまって、改めてレオナに向き直った。
「さてと、冗談はこれくらいにしておくかね。」
関は穏やかな表情で話し出そうとしていた。どうやらレオナを危険な目に合わせる気はなさそうだった。しかし、このまま帰してくれはしないことだけは確かだった。
空気が変わり、新たな緊張が空間を包んだ。
その時だった。
突然、背後の窓が割れたかと思うと、革ジャンの青年が飛び込んできた。その手には、しっかりと鉄の塊が握りしめられていた。
「誰だ?」
関が打って変わった険しい声で、その青年に向かって言った。ヘルメットとゴーグルで顔は覆われていた。銃を構えた青年は、一言ため息をつくと低い声で呟いた。
「アインシュタイン。」
銃声と共に、拳銃が火を噴くと、それとほぼ同じ瞬間、関の額からも血が吹いた。瞬く間に噴き出る血が辺り一面を染めた。
一瞬、レオナは辺りに吹き飛ぶ血しぶきが、現実のものとは思えずその美しさに茫然としていた。
その青年は男たちに銃口を向けながら、レオナの手を引いた。そして強引に引っ張られたかと思うと、後ろ手に飛び散ったガラス窓を開け放った。
レオナの耳に青年の言う言葉が届いた。
「飛べ!」
二人は二階から宙に舞った。瞬間、アスファルトに叩きつけられると思ったが、その前に二人はボルボの屋根の上に落ちていた。心の中で福井に感謝した。
ボルボの屋根から転げ落ちるように降りると、レオナは直ぐそばに停めてあったビトルボに飛び乗った。
「こっちよ。」
一瞬の躊躇いもなく、その青年はビトルボの助手席に飛び込んできた。
「落ち着け、奴らのベンツは全部動けないようにしてある。あんたには悪いが、もう少しの間、俺に付き合ってもらう。」
この青年がヒデキだと、レオナは確信した。いや、本当はそうでなければいいのにと、思ったのかもしれなかった。そうだとしたら、つくづく小夜子が憎らしかったからだ。
レオナはこの青年にビトルボの走りを見せたいと思った。そんな気持ちになっている自分がおかしかった。
「シートベルトしておきなさいよ。でないと、すっ飛んでも知らないから。」
驚く青年の顔を横目に、レオナは本気でビトルボを唸らせた。

第Ⅷ章 遠く過ぎ去りし日々

夜が明ける。新しい一日の始まり。ただし、一生の多くの夜明けは、新しい期待感は持たせこそすれ、本当の新しい一日をもたらすことは稀だ。
しかし、今日だけはその稀な一日が始まる事だろう。
そう思いながら、ハンタロウは質量増加について思いを巡らしていた。相対性理論によれば、物体はスピードが光速に近づけば近づくほどその質量が増加し、光速となった瞬間、その質量は無限大となる。
この命題は説明しにくい命題だ。ただ、ハンタロウは、
「相対性理論の言うとおりだ。いずれにしても逃げきれはしない。」
多少の計算外はあれ、科学の法則から逃れることは出来ない。逃げれば逃げるほど、身体は重くなって、その重力自体に耐えきれなくなるのだ。それは既に相対性理論が証明していることだ。何も焦ることはない。全ては法則通りに、ことは進むのだ。

ハンタロウはいたって真面目な青年であった。地元の高校を優秀な成績で卒業し、そのまま地元の県立大学へ進学した、地味な秀才とでも言えばいいだろうか。理系で特に物理は得意科目であった。
「相対性理論は簡単だ。」
が、日頃からの口癖だった。知り合いを捕まえては、アインシュタインはどうのこうのと、議論を吹っ掛けるのが好きだった。ただだからといって飛び抜けるような天才というわけでもない。地味な県立大学をそれなりの成績で卒業した後は、その地方では都会と呼ばれる地方都市で普通に就職した。
そんな地味で少しばかり頭の良い青年の平凡な人生が狂ったのは、社会生活を始めてニ三年した頃だったろうか。ある日、数人の男達が会社を訪れた。まだ入りたてだったハンタロウには詳しいことは分からなかったが、不正経理がどうの、脱税がどうのと、揉めているようだった。たまに社長が声を荒らげるのが、社長室の外にも漏れ聞こえた。会社の雰囲気は一気に暗くなり、仕事どころの空気ではなくなった。
その男たちを率いていたのが緒方という男だった。
緒方とその男たちは、数日おきに定期的にやってきた。別に社員達を脅すわけでもなく、威嚇する訳でもない。横柄な態度で居座る訳でもなければ、お辞儀をすれば、軽いお辞儀を返しもする。社長室に直行し、小一時間社長と話し、そして帰っていくだけである。淡々と粛々と。
それが半年ほど続いただろうか。突然会社が潰れた。社長が首を吊ったからだ。何でかは分からなかったが、会社の資産は全てどこか知らない会社の名義に移されていた。あっという間の出来事だった。社員の誰もが何も知らないうちに、跡形もなく消え去っていた。呆然と立ち尽くすしか、やりようがなかった。
ただ、ハンタロウは、自分でも意外な感情が湧き上がって来るのに驚いていた。亡くなった社長には不謹慎と思ったが、感心している自分がいた。ハンタロウにはその手口が鮮やか、としか言いようがない気がしたのだ。無駄もなければそつもなかった。プロとはこういうものなのか、そんなことを教えられたような気がしてならなかったのだ。ハンタロウが玄水会の緒方の元に弟子入りしたのは、社長の葬儀も済んで初七日が明けてから、わずか数日たった頃のことだった。
「お前、正気か?」
自分の働いていた会社が乗っ取られた挙句、お世話になったそこの社長は自殺までしているのだ。よりによって、その乗っ取った張本人に弟子入りするとは、流石の緒方でも正気の沙汰とは思えなかったのだ。
「はい。恨みつらみがどうのこうのと言うことは一切ございません。ただただ、あなたのような仕事の仕方を学ばせていただきたいだけです。」
ハンタロウは、正直にそう答えた。本当にそう思っていたからだ。
「と言ってもなぁ、、、」
と緒方はなおも思案気だったが、かと言って叩き帰されはしなかった。真意は分からない。ただ、緒方には計算外を楽しむようなところがあった。勿論、この時のハンタロウが、そんな緒方の気質を見抜いていたとかいう話ではない。しかし、結果としてハンタロウは、この緒方の計算外に拾われたのだった。それが幸なのか不幸なのかは置いておいて。
緒方の下では、商法、民法、刑事訴訟法から、尾行の仕方、シャッター音のしない撮影方法、盗撮カメラの見つからない仕掛け方、果ては見破られない変装の仕方まで教わった。意外に目立たないヘビメタやヒッピーの着こなしなど、勉強になることも多かった。尾行を巻くのに使うと良いといって、ムーンウォークを教えられたのもこの時のことだ。
「前に進んでいるように見えて後ろに進むんだからよぅ、見つかりっこねぇーじゃねーか。」
緒方の教えはクセは強かったが、その分妙に魅力的でもあった。そんな教えを叩き込まれたハンタロウが、故郷の街に舞い戻ることになったのも、緒方の命令だった。
「お前、地元に戻って組の代貸をやれ。」
その一言が全てだった。
緒方がその当時からどれくらいの情報をつかんでいたのかはわからない。
「こんな田舎、何の金になるのやら。」
そんな風に出身者のハンタロウ自身が思うほど、そこは山と海があるだけの、なんの取り柄もない田舎町に過ぎなかった。そんな街のちっぽけな組と兄弟の盃を交わすと言う。その盃の置き土産がハンタロウそのものだったというわけだ。
その組とは平賀組と言った。組長の平賀源三郎は、若くはなかったが、老いぼれてもいなかった。ただ、子供は娘ばかり三人で、若い衆にも目立ったものがおらず、組を継がせようにも人がいないといった状況だった。
また、組とは言うものの、派手な暴力団とは大違いで、昔で言う地廻りといったものだった。麻薬や銃弾が飛び交うというのではなく、地元のイザコザの調停役といったものである。荒っぽいことはやるものの、所詮は地元の縄張りの中だけのことだった。
「よろしくお願いします。」
と頭を下げると、和服姿の源三郎は意外なものを取り出した。見るからに高級そうな葉巻である。
「一本いかがかな?」
と言われるがままシガーケースから一本取り出してはみたものの、吸い方というか、火の付け方からして、どうすればいいのか分からない。仕方なく助けを求めて緒方を振り返ると、苦笑を堪えている。すると源三郎は、ハンタロウの手から葉巻を取り上げ、ギロチンタイプのシガーカッターで先端を切り落とした。その上、その先端をマッチの火で念入りに焦がした上で、その葉巻の吸口を向けてハンタロウに手渡した。促されるまま口にすると、これまた長いマッチで火を着けてくれた。思わず吸い込んだ。むせ返った。
「ハッ、ハッ、葉巻は吹かすもんだよ。」
どこかで聞いた台詞だと思った。
何を話しただろうか?
「あんたの地元だ。思うようにすればいい。」
そんなことだったように思う。

帰り際、ふと庭を見ると一人の少女が子犬と戯れていた。
「こんにちは。」
と声を掛けると、明るい笑顔で、
「こんにちは。」
と答えた。
「お名前は?」
と聞くと、
「人に名前を聞く時は、まず自分から名乗るものよ。学校で教わらなかったの?」
などと生意気な口を叩く。しかし、その割には無防備に近寄ってきて、縁側に座った。
言っていることは筋が通っているので、ハンタロウは素直に、
「これは失礼。お兄さんの名前はね、、、」
と言おうとすると、
「知ってる、オジサンが代貸しになるハンタロウさんでしょ。」
と先を越された。
お兄さんと言った手前、オジサン呼ばわりされたことが、若干ショックではあり、恥ずかしくもあったが、何とか遣り過した。何といっても、相手はまだ子供である。
「あたしは小夜子。三姉妹の一番下。よろしくね。」
と言って、右手を上げて、手のひらを広げた。
「こちらこそ。」
といって、しゃがんだハンタロウは、その手の平に右手を軽くタッチした。
小夜子と名乗った女の子は、そのまま右手の親指で、サムアップしながらウィンクをして寄こした。
ハンタロウも、軽く肩を竦めて笑顔を返した。
すると、隣で戯れる子犬を宥めながら、
「この子は大五郎、犬なのに吠え方が下手で、ワンじゃなくてチャンになつちゃうの。」
そう言われて聞いてみると、その子犬の鳴き方は、そんな風に聞こえないこともなかった。
「レトリバーかな?」
「えぇ、ゴールデンなの。」
「なら、賢いからすぐに言うことも聞くだろうね。」
「そうなるかなぁ?兎に角やんちゃな子だから、可愛いんだけど、、、」
と、大人ぶった顔になる。
「ハッ、ハッ、でも、大きくなるだろうから、散歩は大変だろうね。」
そんな他愛もないやり取りをしていると、源三郎が後ろから声を掛けてきた。
「何だ、こんなところにいたのか?さぁ、挨拶回りだ。付いて来なさい。」
促されるまま、小夜子と大五郎に別れを告げた。
背中に大五郎が、
「チャン!」
と鳴いた声が聞こえた。
ハンタロウは故郷のこの街と、何か上手くやって行けそうな気がした。本当にそんな気がしたのだ、確かにその時は。
たった五年前、確かにそれぐらいしか経っていないはずだった。

電話は既にひっきりなしに掛かって来ていた。代理店からも、平賀の身内からも、警察からも、果ては関一家の幹部からまで。一々全部に付き合ってはいられなかった。
すでに新しい一日は、始まっているのだ。
計算違いと言えば、レオナだった。中央との会合はキャンセルせねばなるまい。それはそれで大きな痛手だった。しかし、人質の安全確保と言う事で、警察の新聞発表が延期になったことを考えれば、一概に悪手というわけでもない。要はその使い方だ。
いずれにせよ、時間をかけてはならないことだけは分かっていた。
再びハンタロウは、質量増加を考えた。何で質量が増加しなければならないのか。質量の増大、これはつまり、加速がしにくくなることを意味する。物体が速くなればなるほど、それ以上の加速は難しくなっていく、ということだ。そして光と同一のスピードになった瞬間、質量は無限大となる。無限大となった質量は、それ以上どんなエネルギーを加えても加速は出来ない。つまり、物体は光のスピードを超えることは出来ないのだ。
「全く上手い具合に出来てやがる。」
そう、何人たりとも、光のスピードは超えることは出来ない。超えてはならない一線なのだ。

ハンタロウは電話を取り上げながら、今日の手筈を確認しなおした。既に平賀の組長にも小夜子にも、十分信頼できる若手をつけておいた。警察との話し合いも付いている。組全体にも通達を出した。手抜かりはない。
そこまで考えて、ハンタロウは東京のダイヤルをプッシュした。広域暴力団宇田川組系玄水会の幹部、緒方のダイヤルインだった。相手はすぐに出た。ハンタロウは言った。
「予定通り進行しています。」
「わかった。例の場所には、すでに腕利きを送ってある。今日の夕方には着くだろう。俺は明日の夕方になる。」
「よろしくお願いします。」
それだけで会話は終わった。
これでいい。新しい一日が新しい時代を生むのだ。ハンタロウは、再び質量増加について、思いを巡らせていた。
「それにしても、とぼけた理屈だぜ。」
ハンタロウは、再び忌々しげに、呟くのだった。どこがとぼけていると言うのか。

シンイチロウは福井を代理店の人に引き渡すと、そのまま組長の家の警護に回された。組長と小夜子の安全を守るのだ。これは名誉ある仕事だ。
それにしても浮き浮きして舞い上がりそうになる気持ちを抑えきれない。何たってヒデキのアニキはやったんだ。見事に鉄砲玉でヒットマンだ。その上、レオナなんて言うドスケベな身体をした女までさらって逃げてんだ。
『やるなぁ、アニキ。あれ、もしかしたら本当に今頃やってるのかもしれねぇなぁ。これもんの、これもんで、水沢アキとアグネスラムを足して二で割ったっつーか、ついでに風吹ジュンを足して三で割ったつーか、、、』
それを思うと、ついつい身体が自然にくねってくるのだ。
『アニキ、やってるんでしょ。こんな感じかな、それともこんな感じかな。こんちくしょー、、、』

などと全身を下半身のようにくねくねさせていると、何かバカでかい物体が激突してきた。避ける間もなく、その物体は顔を舐めまわしてくる。大型犬だった。その犬は大五郎と言った。
「よーし、大五郎。」
そう言ってシンイチロウは、その大型犬の頭を撫でてやった。
シンイチロウに良く懐いている。それには訳があった。思えばついこの前の事のようにも思える。こんなことになる前の、あの平和だった頃のことだ。

ある日、何かの用事で組長の屋敷を訪れたシンイチロウは、出口の門の付近で何やら往生している小夜子に出会った。横には大五郎を連れている。
以前シンイチロウが、大五郎の名前の由来を聞くと、
「この子ったら、上手く吠えることが出来なくて、どうしてもワンとキャンの間になっちゃうから、チャンかなって思って、大五郎って付けたんです。」
とのことだった。
しかし、当時は小夜子にしか懐いていない大五郎は、シンイチロウにも敵意の唸り声を低く上げていた。どう考えても「チャン」な感じはしない。
「どうしたんですか?」
と、隣の大五郎に怯えながら小夜子に聞いた。すると、自転車がパンクしてしまい、犬の散歩に出かけられないという。散歩と言っても、大五郎は大型のゴールデンレトリーバーの中でもひときわ大柄だったため、小夜子の脚ではとても駆け出したら追いつけない。なので徒歩での散歩は無理だ。でも、大五郎は行く気満々の状態と言うわけである。
「なら、バイクでどうっすか?俺で良ければ付き合いますよ。」
暇だったシンイチロウがそう申し出ると、ならばと言うことで、バイクで犬の散歩という珍道中になったのだ。丁度、ヘルメットもヒデキ用にもう一つある。トロトロ運転にはなるが、二ケツで走れば大五郎が全速で走っても余裕である。と言うわけでなんだかんだあったにはあったが、無事にその日の散歩はバイクで終了した三人、いや二人と一匹だった。
それを機に、大五郎はシンイチロウに懐くようになった。ただ、副産物はそれだけで終わらなかった。なんと、これ以来小夜子がバイクを好きになってしまったのだ。
「シンイチロウさん、さぁ、行きましょう。」
そういってヘルメットを被る小夜子。脇には大五郎が行く気満々で待ち構えている。十七歳なのでまだ公道を走ることができない小夜子だが、河川敷でゴルフの打ちっぱなしならぬ、バイクの乗車訓練である。教官はシンイチロウだ。元々ゴルフで鍛えた運動神経のためか、すぐにも乗りこなせそうだ。
青空の河川敷。スティードに跨る少女とそれを追いかけるゴールデンレトリーバー。遠くで野球をする声が聞こえる。
「これならアメリカンなスティードより、レーシングタイプの方が良いかもな。」
そんなことを思ったシンイチロウだった。

気が付くと何時の間にか大五郎の下敷きになっていた。顔中、デレデレになるまで舐められた。
「大五郎、大五郎。」
そう呼びながら、小夜子が出てきた。
「コラ、大五郎。」
小夜子に叱られると、大五郎は素直にシンイチロウから離れたが、それでも嬉しそうに息を切らしていた。
「すみません、シンイチロウさん。」
「いや、いや、何のこれしき、、、」
と言いながら、ズボンの埃を払いながら立ち上がる。
「さぁ、小夜子さん、中へ入っていてください。万が一ってこともありますから。」
「そうですね。
大五郎、今日はお散歩中止なの。わかった?お家でステイだからね。」
大五郎は、やんちゃな割に賢いようで、素直にお座りで聞いていた。
そう言うと小夜子は大五郎を連れて、玄関の中に入っていった。
大五郎は扉の前で振り返ると、シンイチロウに一声吠えた。
「チャン!」

小夜子と大五郎を見送ったシンイチロウは、庭を回って石灯籠の脇の庭石に腰かけた。
『しかし、なぁ、あの小夜ちゃんまでもなぁ、、、』
一人になるとシンイチロウはヒデキのことを考えていた。
『そのうちやっちゃうんだろなぁ、羨ましいもんだよなぁ、、、』
シンイチロウはタバコを胸ポケットから取り出した。銘柄はショッポである。蓋を開け、一本抜き取る。
ライターはと胸をまさぐり、気が付いて立ち上がり、ジーパンの腰のポケットから取り出した。オイル製のジッポだ。北斎の富嶽三十六景の波しぶきがあしらわれた我ながら渋いデザインだ。太腿でこすって火を点ける。
「ボッ!」
煙草に火を付けたら、スナップで蓋を閉める。
「シャキッ!」
『何たって、チャンと啼くから大五郎ってんだから、スゴイ。仲々、並みの頭じゃ考えつかないことを考える。この頭の良さには脱帽だ。ヒデキのアニキも、あれで結構頭は切れるが、こんな切れ方されちゃぁ、ちょっとついていけないかもしれない。』
「プワー。」
シンイチロウは、ショッポを一口喫った。
『チャンで大五郎って来るぐらいだから、連想ゲームの解答者レベルってことだな。檀ふみ級かもしれないぞ。いや、もしかしたら出題者の方まで行っちまうかもしれない。』
携帯用の灰皿を取り出し、灰を丁寧に落とす。別に組長の家だからと言うわけではない。何時もしている日頃の行いだ。喫煙者たるものの、当然のマナーだ。
『その上、ゴルフまでプロ級ってんだから、非の打ちどころがねぇってもんだよなぁ。こいつはうかうかしていると尻に敷かれちまう可能性もなきにしもあらずだ。』
そう思うとヒデキの顔が浮かんできた。
今頃どこで何をしているのか。
ヒデキが乗り捨てたスティードは、すでにシンイチロウが回収しておいた。スペアキーは持ち合っていたからだ。
『どこに迎えにいきゃぁいいか教えてくれればよ、何時でも迎えに行くのによ。』
まだ連絡はなかった。
そこまで考えて、シンイチロウは表情を変えた。
『いずれにせよ、もう後戻りはできねぇってことだよな。』
その通りだ。既に関は殺され、それを殺したヒデキは追われている。もう後には引けない。その後の組を背負うのは、小夜子になるのだ。
『小夜ちゃんの、「舐めたらいかんぜよ。」か。』
小夜子の夏目雅子。
『聞いてみてぇもんだなぁ。』
そうだ、それを聞くためにもここは一つ踏ん張りどころだ。
『こいつは俺にとっても正念場だ。もう後には引けねぇな。』
シンイチロウは、吸い残しを惜しむように、火傷ぎりぎりまで吸い切って、携帯用の灰皿に吸い殻をしまった。シンイチロウにとっても、もう後には引けなかった。これからどこに向かうのかなど、気にも留めてはいなかった。怖いものなど、何もなかった。

第Ⅸ章 重たいだけが取り柄なの

既に陽は、真上にまで昇っていた。鬱蒼とした雑木林の中、ヒデキはモンテクリストを取り出した。火を点けて、ゆっくりと吹かすと、今が嘘のようにも思えた。大仕事をし終えたというよりも、妙なことに巻き込まれた、と言った気がした。勿論、巻き込んだのはヒデキの方であり、巻き込まれた女は、今も車の中で寝息を立てていた。
関一家の二階から宙に舞った後、女はヒデキも知らない道を物凄いスピードで飛ばし続けた。気が付いたらここに来ていた。その間、女は何も言わず、ただ前方とタコメーターを交互に見続けていただけだった。
ヒデキも何も言わなかった。いや、言わなかったと言う前に、その女はヒデキの言うべきことを実行に移していたということだ。
ヒデキはモンテクリストを口にくわえたまま、車に近寄り、女の顔を窓越しに見つめた。
ここに着くなり、女はニッコリと笑ったかと思うと、安心したかのようにすぐに眠ってしまったのだ。
妙だった。大仕事が成功したのも妙であれば、その後、名も知らぬ女とこうしていることも妙だった。こうして自分が生きていることも妙であれば、名も知らぬ女が美しいことも妙だった。
子供のころに観た、『タイム・トンネル』のように、時間のトンネルから抜け出た時から、別の時間に生きているようだった。
女が眩しそうに眼を開けた。その眼はヒデキの視線の延長線上にあった。女は目をこすりながら、ヒデキの視線を見返してきた。そして微笑んだ。
「オハヨウ。」
女はいつもの朝のように、伸びをしながらあくびをし、そしてまた微笑んだ。そして、言った。
「オハヨウ、ヒデキ。」
何で、俺の名前を?
怪訝そうなヒデキの表情になおも微笑みながら、女は車から降りてきた。そして、ヒデキの顔を覗くと、
「当たった?
そんな名前かなって思って言っただけ。本当よ。どっちかって言うとエイキチの方が好きだけど、私、ヒデキ、カンゲキの時代で育ったから、嫌いじゃないわ。
あら、いやね。年が分かっちゃうじゃないの。朝っぱらから何言ってんのかしら、私ったら。」
女はそう言いながらも、何か楽しそうだった。
「でも、ヒデキはヒデキでしょ。ヒデキって言ったら、西城秀樹よりも湯川秀樹だから、いい名前よ。ただ、子供のころ、オデキなんてあだ名付けられたりするのには、ちょっと同情するけど。でも呼びやすくって、とってもいい名前だわ。」
どこかで見た気がした。大抵の良い女はどこかで見た気がするものだが、それでもやはりどこかで見た気がした。
「痛っ!。」
見ると、女は、片方が裸足だった。関のビルから逃げる間に脱げてしまったのだろう。二人とも、そんなことにさえ気が付く余裕がなかったと言うことだ。
ヒデキは車のボンネットに腰を掛けながら、あの瞬間の関の顔を思い出した。憎くはなかった、仕事だったのだ。
女はトランクからゴルフシューズのようなものを取り出してきた。
「これジャンボ仕様なのよ。ピンがないゴルフシューズなの。だから普段でも履けるんですって。」
そう言って、ドアを開けた車のシートに腰を掛けた。足を組み替え、靴を履き替えながら、女は続けた。
「でもゴルフ場によっては、芝が痛むからって禁止にするところもあるみたいなの。ジャンボ仕様なのに一々確認しなきゃいけないなんて、どっちかに統一してもらいたいわよね、全く。」
何でこんな会話なのか、ヒデキは不思議に思った。これで、サンドイッチと暖かいコーヒーでもあれば、ピクニックと大して変わらないだろう。どこにでもあるあのピクニック。このまま陽が傾けばいい。それまでここで、楽しい時間を過ごせばいい。今それ自体は嘘じゃない。
「俺はあんたを何て呼べばいい?」
ヒデキは、モンテクリストを指に挟んで、口を開いた。
「レオナ。」
女は後ろ手にまとめた髪をほどきながら振り返った。頭を振ると、髪の毛がゆっくりと肩に落ちて行った。
「お礼を言わなければならないわ。
助けてくれて、ありがとう。」
そう言うと、女はペコリと頭を下げた。どことなくあどけない仕草が、妙に似合って見えた。
助けた形になった。それだけだった。いや、この女に注意が逸れた分だけ、ヒデキにとっては好都合だった。
これからもその好都合は続くのか。この女をどう扱えばいいのか。ヒデキはまだ判断をしかねていた。
「あんた、何処の女だ?」
「レオナって名前があるって言ったでしょ。」
そう言うと、レオナはヒデキからモンテクリストを取り上げ、一服した。
「あまり美味しくないわね。」
そう言って、返してきた。ヒデキは受け取り、
「で、そのレオナは何処の女なんだ?」
「知りたい?」
振り返ると女は言った。
「文部省先端物理学研究所。」
呆気にとられるヒデキの顔を可笑しそうに見つめながら、レオナは続けた。
「この街で私の事しらないの、きっとあなたぐらいのものよ。
私は物理学者なの。こう見えても相対性理論の専門家なんだから。」
女はそう言うとヒデキの眼を真っ直ぐ見つめて来た。ヒデキも逸らさなかった。やがて自然と二人に笑みが零れた。
ヒデキはつい笑い出した。笑い出すと、可笑しくて可笑しくて堪らなくなった。女も笑い出した。何かがおかしいのだ。そのおかしさが、また可笑しいのだ。おかしさが可笑しさを呼ぶようで、二人の笑いは止まらなくなった。
大仕事の後には、物理学者の女だ。その女とこんな山の中でハバナの葉巻を吸っている。そして極めつけは、またもや相対性理論だ。思えばこいつには踊らされっぱなしだ。世の中一体どこまでイカレちまってるんだ。
笑いが止まらないままヒデキは聞いた。
「なぁ、その頭の良い学者さんは、これからどうするんだ?」
いたって真面目に女は答えた。
「いるわ、あなたと一緒に。」
ヒデキの笑いは自然と消えていった。
「で?俺はどうする?俺は何をするんだ?」
「逃げるのよ。どこまでも逃げるの。物凄いスピードで。」
ヒデキは女を見つめた。女は既に大人の女の表情に戻っていた。
言葉が途切れると、森の音が聞こえ始めた。

ひっきりなしに鳴る電話と、何処までも追いかけてくる関係者を、適当にあしらいながら、ハンタロウは相変わらず質量増加だけを考えようとしていた。
「とぼけた理屈だ。」
平賀の組長から電話が入った。ハンタロウは物憂げにコードレスの通話ボタンを押した。
「どうした、ハンタロウ。そんなところでのんびりしている時じゃねぇだろう。モノには勢いってものがある。どうして動かねぇ。」
苛立ちを隠そうともしない。
「もう手は打ってあります。」
この人には説明するべきか。一瞬悩んだが、すぐに否定した。いずれにせよ、この人の時代は終わったのだ。今さら説明しても仕方がない。
「手は打ってあるだと。手なんて打ってる場合じゃねえだろう。身体張らねぇで、何がヤクザだ。ヒデキにだけ身体張らして、手前は高みの見物か!?」
「今、関と本気で事を構えられるとでも思っているんですか、おやっさん。」
ハンタロウは極力感情を押さえながら喋った。
「大事な道路が通るか通らねぇかって時に、ドンパチやらかすわけにはいかないんです。」
「何だと!?」
平賀は止まりそうにない。
「そのドンパチ仕掛けたのは、ハンタロウ、お前の方だろうが。お前が仕掛けて関のど頭かち割ったんだろうが。かち割られた関のど頭は、こっちとあっちの若いもんの血で洗ってやらねぇことには収まりがつかんだろうが。」
田舎のヤクザがドンパチやって喜ぶのは、一体誰だと思っているのだ。それこそ高みの見物を決め込むのは、中央のバカでかい組織に決まっているというのに。
高みの見物をさせる前に引きずり込む、後戻りすると見せかけて誘い込む。無論ただで帰すわけじゃない。泥をひっかぶっただけのお土産は用意してある。リスクは取ってもらうが、リターンも持って帰ってもらおう。この田舎にも、新しいビジネスという時代がやってくるのだ。
「ハンタロウ、手前まさか、自分のマッチで点けた火を、自分のポンプで消そうって気じゃねぇだろうなぁ。そんなことぁ、俺が許すとでも思っているのか。断じて許さねぇぞ。」
ハンタロウはあくまで冷静に答えた。
「おやっさん、もう手は打ってあるって言ったでしょう。明日の夕方には、久しぶりの顔をおやっさんも見れますから、もうしばらくお待ちください。全てはその方にお話ししてあります。」
それ以上、電話の向こうからは何も聞こえなかった。そしてゆっくりと電話は切れた。
過ぎ去ろうとする時代は、終わらせねばならない。今更、関も平賀もないのだ。関は死に、平賀は引退する。別に悪いことじゃない。
ハンタロウはコードレスを置いた。そして再び考えた。問題は、何で質量が増大するのか、ということだ。
「とぼけるのもいい加減にしろよ、アインシュタインのおっさんよ。」

シンイチロウは思い出していた。あれは何時の頃だったろうか。ヒデキに初めて組につれてこられた時のことだ。それ程昔の事ではない。いや、ついこの前の事のようにも思えた。その人は口を開いた。
「ほう、お前がシンイチロウか?」
「はぁ。」
連れてこられたシンイチロウは、神妙にはしてはいたが、どこか投げやりな気持でもあった。
「お前、地元じゃ、どうしようもない暴れん坊なんだってな。」
「いや、それほどでも。」
隣に座ったヒデキから、いきなり引っ叩っぱたかれた。
「手前、敬語だろうが。」
上目使いで二人に軽く頭を下げた。
「まぁ、まぁ、ヒデキ、いいってことよ。」
その人は、もう一度向き直り、言葉を続けた。
「なぁ、シンイチロウ、お前、物には限度ってものがあることを知ってるか?」
「はぁ。」
ありきたりな説教が始まると思ったので気のない返事をした。
「でも限度っつーのは、なかなか守れねぇもんだよな。」
「はぁ。」
何を今更、そんな思いだった。
「そりゃぁそうだよ、制限時速は破るためにあるようなもんだからなぁ。」
不承不承に頷いた。
「しかし、限度なんだから守らせなきゃならねぇ。決まり事ってのは、守らせるためにあるもんだ。」
飽くまで当たり前なことだ、そうとしか聞こえなかった。
「そこでポリ公は、スピードガンで制限速度を超えてねぇかを調べるわけだ。」
子供だましのたとえ話か、そんな風に思った。しかし、その人が続けた言葉は、不思議なものだった。
「でもよ、心配しなくても越えられない速度ってものがあるんだよ。」
「そりゃぁ、公道でF1が走れるわけはねぇし、、、」
つい口を挟んでしまった。
「手前、敬語だろうが。」
再び、ヒデキにはたかれた。その人は続けた。
「いや、F1だけじゃねぇ、新幹線だろうが、リニアモーターカーだろうが、それこそ鉄砲玉だろうが、何でも構わねぇ。そいつら全部が、逆立ちしても越えられないスピードってのがあるんだ。」
超えられない速度、そんなこと考えるのは初めてだった。
「それが光の速度だ。」
そう言うとその人は、卓上の煙草を手に取り、火を点けた。自分にも勧められたが、手に取る前に一応ヒデキを眼で確認した。ヒデキが頷いたのを見て煙草を手に取った。パーラメントだった。
その人の言葉は続いた。
「昔、アインシュタインっておっさんがいてな、相対性理論って言う理屈を唱えたんだ。」
意図はよくは分からなかったが、何かを伝えたがっていることは分かった。ヒデキは、すでにこの話は何度も聞いたことがあるようで、横でしきりに頷いてみては、小声で合いの手を入れていた。
「よ、待ってました。アインシュタイン、入りました。」
そこで仕方なく話を合わせてみることにした。
「アインシュタインってことは、日本人じゃないみたいっすね。ロスケとかアメ公っすか?」
受け答えが面白かったのか、その人にも笑みが浮かんだ。
「ドイツ系のアメリカ人とでもいえばいいかな。
でな、このおっさん、不思議なことを言い出したんだよ。」
「不思議なこと?」
その人は頷き、こう続けた。
「全てのものは、光より速くなることは出来ない、ってこのおっさんは言うんだよ。」
「へぇ。なんか、白バイのポリ公みたいなこと言うんすね。」
素直に感想を言った。微かに笑ってその人は言葉を続けた。
「何故だと思う?」
「何故って?」
首を傾げた。
言葉は続いた。
「何故かと言うとよ、重くなるからって言ったんだよ。」
意図はまだ掴めなかった。それに構わずその人の言葉は続いた。
「いいか、こともあろうか、このアインシュタインのおっさんはだよ、速くなればなるほど重くなる、だから光のスピードに近づいたら、とんでもねぇ重さになるって言ったんだよ。」
はっきり言って、何がどうなのか分からなかった。しかし、その人の言葉は加速するように続いた。
「え、今の聞いたか、速くなればなるほど重くなるだってよ、そんなことあるか?」
その人は半分笑っていた。
「へへへ、バカ言うんじゃねぇってんだよ、速くなればなるほど重くなるだと。そんな話はねぇよなぁ。だってよ、そんなの分かりっこねぇじゃねぇか。」
如何にも楽しそうに話すので、つられて愛想笑いが浮かんだ。
「だって、動いてるんだぜ。重さの測りよう何てねぇじゃねぇかよ。」
お構いなしにそう言うと、その人は言葉を切った。
この時やっと、少しだけ引っ掛かりがある感じがした。
声を落としてその人は続けた。
「お前、走ってるマラソン選手の体重を、走ったまま測れるか?」
首を振る。
「お前、泳いでいるカジキマグロの重量を、泳いだまんま測れるか?」
首を振る。
「お前、走ってるトラックの重量、走ったまんま測れるか?」
首を振る。
その人の声のボリュームが次第に上がった。
「測れねぇよなぁ。マラソン選手だったら、一旦止まって体重計に乗ってもらうよなぁ。カジキマグロだったら、釣り上げてから計量台に乗せるよなぁ。トラックだって、止まらせてそれ用のバカでっかい計りで測るしかねぇよなぁ。何故かって言ったら、動いちまったら分からなくなるからだよ。当ったり前ぇじゃねぇか、そんなこと。」
その通りだと思ったので、今度は縦に振った。
その人の説明は続いた。
「じゃぁ、何かぁ?高速道路全部を体重計にしてよ、その上を突っ走らせたら、最初の方より後の方が重くなりました、ってとかやるとでもいうのか?でもそれじゃぁ、飛行機や潜水艦は測れねぇぞ。お前ぇ、それでいいのか?」
ここら辺になると、良く分からなかったが、今度は再び横に振った。
「だろ、そうだろ。だからわかりっこねぇんだよ、動いてるもんが重くなるなんてよぉ。
ところがこのおっさん、そう言ってきかねぇんだよ。」
「アインシュタインっておっさんがですか?」
思わず聞き返した。
「あぉ、とぼけた野郎だと思うだろ!?」
「確かに、とぼけたおっさんっすね。」
その人は続けた。
「何故だと思う?」
そんな事、分かるわけはない、と思った。しかし、その人はまるでシンイチロウが答えを知っているかのように聞いてきた。
少なくとも、その顔は真剣で無防備だった。
思わず真剣に考えた。
『とぼけたおっさんの、とぼける理由。』
シンイチロウは慎重に言葉を選んだ。
「速くなればなるほど、重たくなるって言うんすよね?」
「そうだ。」
「光の速さに近づけば近づくほど、重くなるっつーんすよね?」
「そうだ。」
「だから光の速さは超えられないって言うんすよね?」
「そうだ。」
「てーことは?」
シンイチロウは、もう一度言葉を選んだ。
「そう言うことにすると、、、」
間をおいて、一言言った。
「丸く収まるってことっすか?」
一瞬、沈黙が周囲を包んだ。三人の時間が止まったようだった。スローモーションのように、その人とヒデキが驚いた目を合わせるのが見えた。
次の瞬間、笑い声が弾けた。
「ハッハッハ。そうだ、その通りだ。」
その人は、弾けるように笑った。その笑いの中で、言葉を続けた。
「そうだよ、丸く収まるんだよ。」
シンイチロウは、キツネにつままれたような気分だった。ただ、自分の言った言葉に奇妙な説得力があるということだけは理解できた。
それを見透かしたかのようにハンタロウは続けた。
「いいんだよ、それでいいんだよ。アインシュタインのおっさんも、そんなこたぁ百も承知の上なんだよ。それでいいんだよ。それが相対性理論なんだよ。」
そう自分に言い聞かせるように言いながら、ハンタロウは一升瓶と盃を三つ持ってきた。
「ようし、アインシュタインのおっさんのとぼけた話はこれで終わりだ。まさかこんな若けぇのに、丸く収めてもらうとは思わなかったけどなぁ。」
そう言うとその人は目を見つめて聞いてきた。
「ところで、どうだ、うちの組に来やしねぇか?」
シンイチロウもしっかりとその視線を受け止めた。
「何時までも暴れてるだけじゃ、何にもならねぇぜ。」
そう言うと、シンイチロウとヒデキの前の盃に、何も言わずに酒を注いだ。
シンイチロウは、黙って盃を手に持った。隣のヒデキも手に持った。その横顔は何故か嬉しそうだった。その嬉しそうな横顔が、シンイチロウにも少し嬉しかった。
その日以来、シンイチロウはヒデキの舎弟となり、平賀組の一員となった。その人の名はハンタロウといった。

「ちょっと、平賀の組長のところまで行ってきますね。夕方までには帰って来ますから。」
そう言うと春江は着物姿で玄関を後にした。
「おぅ。俺からもよろしくな。」
後姿を見送りながらハンタロウは思った。
「春江、そう言えば最近太ったかな。」
姉さん女房の春江も、もう三十代も半ば、四捨五入すれば四十である。元々肉付きが良い体型だけに、油断をすると結構ヤバい。
「俺は太いのダメだから、一度言っとかねぇーといけねぇかな。」

実は春江は一度、かなり太った時期があった。ハンタロウも組の勢力拡大で猛烈に忙しい頃のことだった。若い連中も多くなり、その面倒やら何やらが重なってストレスになったらしい。ストレス太りという奴だ。
しかし当初、ハンタロウはそれほど深刻には考えていなかった。
「まぁ、太目の芸能人もいるにはいるからなぁ。」
そう言われればそうだ。太めでも人気があるタレントも多い。
「マライアなんて、ある意味ボヨンボヨンだしよぉ。」
欧米人にありがちな、度を過ぎたグラマーとでも言えようか。
また、そういう分野に特化した専門家もいるらしいことも知っていた。
「所謂、デブ専という奴だな。」
その通り。肥満体型の女性を好む人々である。
「最悪、俺がデブ専になっちまえば、それはそれでウィンウィンだしな。」
こんな考えをしている人は、世間に珍しくはないかもしれない。しかし、その考えは本当に通用するものなのだろうか?

こんなハンタロウの甘い考えを打ち砕いたのは、シンイチロウだった。
ある日ある時、ふとした拍子に同じセリフを吐いたハンタロウ。
「、、、俺がデブ専になっちまえば、それはそれでウィンウィンだしな。」
「だったらオジキ、一度、デブ専、試してみますか?」
「おぅ、デブ専ねぇ、面白そうじゃないの。」
「でもねぇ、オジキ、言っちゃなんですが、デブ専舐めてると、結構なことになりますよ。」
「何言ってやがんだよ。細かろうと太かろうと、女は女だろ。そう言う細けぇこと言っててヤクザが務まるとでも思ってんのか。」
「わかりました。オジキがそこまで言うんだったら、行きましょうよ、デブ専。」
「おぅ、連れてってもらおうじゃねえか。お前、そんじょそこらのキャバクラに毛の生えたみたいなとこだったら、承知しねぇからな。」
「わっかりました。とびっきりのデブ専、ご紹介させていただきましょう。」
何かの拍子の売り言葉に買い言葉だった。
「しかし、お前こういうのには滅法詳しいな。」
「いや、それ程でもないっす。」
「別に褒めたわけじゃねぇよ。」
少しだけムッとするシンイチロウ。
「そう言うオジキの方こそ、デブ専行って腰抜かさないで下さいよ。」
「おぅ、これでも極道のはしくれだ。デブ専ぐれぇで腰抜かしたとあったんじゃぁ、指詰め物だぜ。」
ふと、ヒデキがいないことにハンタロウは気付いた。
「おい、行くならヒデキの奴も誘ってやろう。でないと、拗ねるといけねぇからな。」
そうだ、舎弟は公平に扱ってやるのが筋だ。
「あ、いや、アニキはいいと思いますよ。」
「いいって何だよ、水くせぇ奴だなぁ。」
「いえ、アニキは以前、ハンタロウのオジキと同じようなこと言ってたんすけど、一度デブ専行ったら、木っ端みじんに吹っ飛んだことがありましてね、それ以来寄り付かなくなったんですよ。」
「ハァ?吹っ飛んだって何だよ?」
「いやもう、大撃沈でして、『もう二度と生意気なことは言いません。どうか許してください。』って大変だったんですから。」
「何?ヒデキの奴がデブ専行って大撃沈されたのか。ハッハッハッ、そういつは良いや。ヒデキの奴も大したことねぇなぁ。日頃は一端みてぇな口叩いているくせによぉ。」
「いえ、だから、ヒデキのアニキが撃沈するくらい凄いってことですよ。」
「何言ってんだよ、俺とヒデキを一緒にするってのか。バカにすんのもいい加減にしろよ。」
「言いましたね、オジキ。吐いた唾、飲まんで下さいよ。」
「おぅよ、何処のどいつが飲もうとなぁ、わしだけは飲むわけあるかい。」
そうしてシンイチロウにデブ専に連れられて行ったハンタロウだったのだが、、、

「だから言ったでしょ、デブ専舐めたらいけないって。」
シンイチロウに右腕を担がれ、よれよれで引き摺られるハンタロウ。
「に、二の腕が、こんなあった。」
ハンタロウは、まだ信じられないという表情だった。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。」
「ふ、太腿が、こんなあった。」
ハンタロウは、夢を見ているような表情だった。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。」
「く、首が、な、なかった。」
ハンタロウは、幽霊を見たかとでもいうような表情だった。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。」
「は、腹で押し返された。」
ハンタロウは、その時の感触を、もう一度身体で確かめているようだった。
気が付くとマンションだった。促されるままに靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。何度言わせりゃ、気が済むんですか。」
「は、腹だぞ。あの腹ぁ、あれじゃぁ切腹なんて出来ねぇぞ。ドスが内臓まで届かねぇからよぉ、切腹出来ねぇぞ、切腹がよぉ。」
ベッドに座らされ、シンイチロウにされるがまま、服を脱ぎ、パジャマに着替える。
「誰が今の時代に切腹するんですか。だからもう、オジキ、しっかりしてくださいよ。分かりましたか、デブ専の凄さが。」
「あの腹だぞ、お前も見たろ。あんなのとセックスしたら、あの腹の上でボディーボードが滑れるぞ。」
「じゃぁ、今度ボディーボード持参で行ってみますか。逆に乗っかられて押し潰されるのがオチでしょうけどね。」
シンイチロウはキッチンに水を取りに行ったようだ。
ハンタロウは、はっきりとわかった。
「あぁ、あいつら人間じゃねぇ。バケモンだ。」
「だから言ったでしょ、何度も、デブ専舐めてるとヤバいって。」
その通りなのだが、ハンタロウの理解の仕方は少しだけ違っていた。
「重たいってだけで、凄いエネルギーなんだ。」
「そうですよ、無茶苦茶重いから、潰されちゃうくらいのエネルギーなんですよ。」
シンイチロウが水のコップを渡してくれた。
「質量とエネルギーは等価なんだな、やっぱり。」
そう、それだ、等価性だ。
そう言って一口水を飲んだ。美味い。
「何、訳の分からないこと言ってるんですか?!」
「重いってだけで、凄いエネルギーがあるってことだよ。」

「ハイハイ、その通り、凄いんですよ、重いってだけが取り柄なんですよ、デブは。」
シンイチロウがコップをキッチンに下げに行く。
「いいですか、これに懲りたら、もう二度とデブ専なんぞに近づかないこと。いいですね。」
促されるままベッドに入った。
「わ、わかった。」
やっぱり等価だ。
「大丈夫ですか、オジキ?」
シンイチロウはハンタロウの頬を軽く叩くと、ナイトキャップを嵌めてくれた。
「ハイ、良い子で今日は寝るんでちゅよ。」
そう言うと、電気を消してシンイチロウは帰って行った。
その夜、ハンタロウが悪夢にうなされ、何度か目を覚ましたのは言うまでもない。

兎にも角にも、それ以来、デブ専は大の苦手となったハンタロウだったのだ。
「春江には一回ちゃんと言っとかないとな。」
ハンタロウは思った。そうだ、一度ビシッとこう言ってやろう。
「太るな!」
「ハァ?何か言った?」
春江だった。
「あ、え、い、いや、、、」
気が付くと夕方だった。春江が外出から戻ってきたようだった。
「あんたちょっと聞いてよ、平賀の組長のところに挨拶に言ったらさぁ、また小夜子ちゃんがどうのこうのって捕まっちゃってさぁ。長いったらありゃしないのよ。」
帯締めをほどきながら、春江が言う。何時ものぼやきだ。ヤクザの女らしく、外出は和服だ。
「ちょっと、帯持ってよ。」
「あ、あぁ、これか。」
着替えだ。和服の着替えは、一人では大変だ。
「だって、もう十七よ。もう子供じゃないってのにさぁ。全く、眼に入れても痛くはないんだろうけどさぁ。少しは子離れしなさいよ、って言ってやったのよ。」
そう言いながら春江はクルクル回り出した。
「あ~れ~ぇ、お許しください、旦那様ぁ、、、」
帯は長いので、こうして自分から回ると脱ぎやすいようだ。
「ちょっとあんたもなんか言ってよ。」
「何か言ってって、何を?」
「何かって、例えば、
これ、声を立てるでない、悪いようにはせぬでな、フッフッフ、、、
とかあるじゃないのよ。」
「それ言ったらどうなるんだよ?」
「そう言ったら、どうなるって、、、
堪忍しておくんなさいましぃ。」
「ハァ?」
「ハッハッハ、なんとでも申すがよい、おぬしが泣こうが喚こうが、もう誰も来ぬわ。
旦那様、堪忍どすえ、堪忍どすえ。
えぇい、芸者の分際で何を申す。生意気なことを言いおって、こうしてくれるわ、、、」
「・」
「・」
「お前、どうでもいいけど、パンツ丸見えだよ。」
「何やらせるのよ、もう、まったくぅ。
ヒデキ君やシンイチロウなら、調子を合わせてくれるのに。あんたと言ったら全くなんだからぁ、全部一人でやらなきゃなんないじゃないのよぅ、、、」
帯と襦袢を抱え上げると、春江はぶつぶつ言いながら奥の部屋へ消えていった。
ハンタロウは思った。
『重かろうとなかろうと、女ってのは関係ねぇんだな。』
女性のエネルギーというのは、どうやら質量とは無関係のようだった。

電話が鳴った。いやな予感がした。
「もしもし。」
小夜子だった。一方的な会話だ。
「来てください。待っています。」
仕方がない。この娘だけには説明しなければならないだろう。
ただ、その説明は、質量の増大よりも難しそうだった。

陽が傾こうとしていた。
シンイチロウは解せなかった。静かすぎるのだ。一気に関との決着を付けるはずが、何も起きないのだ。その上、組員にはハンタロウから「動くな」という指令が出ている始末だ。
『ハンタロウのオジキは、一体何を考えているのだろう?』
そして、
『アニキは?』
「ドン!」
いきなりの体当たりだ。そうだ、静かでないのが一人だけいた。いや、一匹だけ。
「こら、大五郎。」
何処から抜け出したのか、家から飛び出してきた大五郎はシンイチロウにまっしぐらだった。そして何時もの涎攻撃である。
「チャン、チャン。」
と、吠えては甘えてくる。
しかし、躾は出来ている。お座りもお手も出来れば、人差し指を口にして、
「シー。」
とやると、おとなしく吠えもしない。
しかし何故か、他の組員には懐かなかった。指笛では寄っては来るものの、睨みつけているだけだった。その時だけは、シンイチロウにも大五郎が獣に見えた。気味悪がって、次第に他の組員は寄り付かなくなっていった。
しかし、シンイチロウにだけは、何時だって体当たりだった。取っ組み合いの相撲が始まる。
それから二度、シンイチロウが寄り切られ、大五郎が三度、猫だましに引っかかり、シンイチロウが大五郎の両手突きを、上手くはたき込めるようになった頃、表に車が止まった。
車からはハンタロウが一人で出てきた。
やっと来た、とシンイチロウは顔を綻ばせた。他の組員も目の色を変えていた。大五郎だけが、獣の眼差しでハンタロウを睨みつけていた。

小夜子は正座をして、ハンタロウの言葉を聞いていた。
「、、、というわけで、組の跡目は、小夜子さんに襲名していただきます。」
多少の疑念はあったものの、まさかハンタロウがそこまでの計画を練っていたとは、小夜子にも意外だった。裏切られた、と正直思った。
ハンタロウは、悪びれる様子もなく語った。
「ですから、小夜子さんには、明日、本家筋にあたる玄水会の方と会っていただきます。襲名披露は一か月以内に執り行う予定です。その旨、親戚筋に当たる組長の皆さんには、すでに通知を出し了承を頂いております。」
何もかも段取り済み、ということだ。
「父は?」
「引退していただきます。組長には何一つ面倒なことはさせませんから、ご安心ください。三日以内にはケリがつきます。」
「違うわ。」
はっきりとした口調で小夜子は言った。
「父はそれで納得したかどうかを聞いているんです。」
「納得も何もありません。それが時代というやつなんです。」
父が朝から別室に引きこもり、小夜子に会おうともしない理由がやっとわかった。会わす顔がないのだ。
そんな父が哀れだった。
「レオナさんは?」
「すでに代理店を通して別の人間を用意してあります。道路建設にまつわるセレモニーは滞りなく処理できる予定です。」
「レオナさんよ。レオナさんは一体どうなるの?」
「そのことでしたらご心配なく。悪いようにはしません、私が一切の面倒を取らしてもらう予定です。」
「それって、どういう意味?」
「どうもこうも、言葉通りの意味ですよ。」
小夜子はハンタロウの顔を見つめた。
何時からこんな冷たい顔になってしまったのだろう?何時からこんな人になってしまったのだろう?小夜子が知っていたはずの人は、一体いつどこに消えてしまったのだろう?
しかし、それよりも何よりも、どうしても聞かなければならないことが残っていた。小夜子は暫く沈黙した。やはりそのことは覚悟を決めなくては聞けないことだった。
静かだった。人のざわめきも、海の潮騒も、生まれ育ったこの街の音も、今は聞こえなかった。ただ、耳を澄ますと、遠い山の音が聞こえてくるように思えた。
小夜子は口を開いた。
「ヒデキさんは?」
ハンタロウは、小夜子の眼を真っ直ぐに見つめた。その眼は既に何かを諦めているようだった。
「ヒデキのことも、私が一切面倒を見ることになっています。御心配には及びません。」
「心配ないって、どういうこと?」
小夜子もハンタロウを真っ直ぐ見つめて、そう聞いた。
「ヒデキは仕事を終えたんです。それも大仕事をね。だからもう何も心配することなんて、ないんですよ。」
説明しきれない説明を諦めたかのように、人の絶望をないがしろにするかのように、そして自らの矛盾を自らの手で握りつぶすように、ハンタロウはそう言い終えると小夜子から視線を外した。
小夜子は視線が外れるのを見ながら、背中に手を回した。背中にさしてある短刀の柄を握り、それほど長くない鞘を引き抜く。
今がそれを使う時なのか。ただじっと耐える時なのか。柄を握る手が、これほど早く汗ばむことを初めて知った。
その時、ハンタロウが叫んだ。
「誰だ?」
そう言うと、素早くハンタロウは障子をあけ放った。
そこには、立ち尽くすシンイチロウの姿があった。
「オジキ!そんな訳ねーだろ。ヒデキのアニキを、このまんまにして良い訳ねぇーだろ。俺は絶対ぇ、そんなこと許さねぇーからなぁ。」
そう叫ぶと、シンイチロウは背を向けて走り出した。
「シンイチロウ!」
ハンタロウがそう叫んでも、シンイチロウが立ち止まることはなかった。
ハンタロウが他の組員に怒鳴った。呆気にとられた組員も、すぐに走り出した。ハンタロウはなおも、怒鳴り続けていた。
一瞬の裡に、静かだった音が聞こえだした。その音に入れ替わるように、森の音は聞こえなくなった。
小夜子は握りしめた短刀を鞘に収めた。どうやらもう暫くは耐える時間のようだ。もう少しだけ。それはきっとそれほど長い時間ではないだろう。
小夜子は怒鳴り続けるハンタロウの背中に向かって言った。
「オジサマ、何が貴方をそうさせるの?」
気が付いたハンタロウが振り返った。
「何が貴方をそうさせるの?」
小夜子は聞きなおした。ハンタロウは少しだけ向き直り、口を開いた。
「時代ですよ。新しいビジネスの時代って奴ですよ。」
小夜子も口を開いた。
「時代が変わったって、言いたいのね。」
「えぇ、もう元には戻れないんですよ。」
「でも、どんな時代でも変わらないものもあるわ。」
ハンタロウは顔を少しだけ振り返った。
「そういうのを、
時代に取り残された、
って言うんですよ。」
それだけ言うと、ハンタロウは身を翻して、他の組員たちを追っていった。
一人残った小夜子は、じっとして考えた。変わらないものなのか、それとも取り残されただけのものなのか。その思いの先にあるのは、ただ一つ、ヒデキだけだった。

第Ⅹ章 Lakeside Memory

既に陽は暮れかかっていた。夕焼けの空がやたらと赤かった。ヒデキは潮の香を嗅ぎながら海を見つめていた。
「まぁ、こんなに綺麗なところがあったのね。」
レオナが近くの岩場で、足元を気にしながら、岩に打ち寄せる波と戯れていた。
人里離れた、などとは言えない、すぐ近くの海。ついこの前まではあまりにも近かったのに、既にそこに住む者にとっては遠ざけられてしまった海。人の代わりに利権が海をせしめ、人が親しめる海は護岸壁で覆われた。多くの子供たちは、すぐそこにあった砂浜の代わりに、隣町のプールに行くようになった。
ヒデキ自身、この岩場に来たのは何年ぶりの事だろう。十数年ぶりの事だろうか。海は変わっていなかった。引いては返す波のしぶきも、這い出してはすぐに身を隠す蟹の横歩きも、いつか見たままだった。全く変わってしまったはずなのに、何も変わっていないようにも思えた。
「キャー、ヒデキ。」
レオナの嬌声が聞こえた。ヒデキは岩と岩の間の距離を測りながら、大股で近寄った。
「どうした?」
「ねぇ、フナムシ、フナムシ。」
一匹の船虫が岩を伝って隙間へと逃げて行った。
「フナムシが私の靴の上を横切ったの。ウワァー、フナムシに触られちゃった。ウワァー。」
と言いながら、レオナは無邪気に腕に抱きついて来た。レオナの笑顔が眩しかった。
そのまま貝殻を拾っては笑い、蟹を追いかけて転びそうになっては笑い、岩場の先まで行ってみては笑い、そして、波をすくって掛け合うのもいいだろう。あるいは、二人岩場に腰掛け、岩の冷たさと微妙な温もりを肌で感じながら、潮の香りのする浜風に吹かれるのもいいだろう。
いや、もっともっとやれることはあるのだろう。
この海と岩と風と夕陽の中で、人は色々なことができるはずだ。他愛もなく、とても美しいことを、バカバカしく、そして充実したことを。
今からすることも、そうしたことの一つなのだろうか。ヒデキには分からなかった。もっと他にやれることがある気がした。しかし、それらはみな、今やるべきことではなかった。
ヒデキはレオナの腰に手を回し、強く引き寄せた。頬に触れるレオナの髪が、潮の香とは別の匂いを運んだ。引き寄せたまま、ヒデキは呟いた。
「ありがとう。」
そうだ、もうじき仲間が来るはずだ。その仲間はヒデキを元居たヒデキの世界に連れ戻すことだろう。そして、レオナはレオナの世界へ戻るのだ。それが今からするべきことなのだ。
先に身体を離したのはレオナの方だった。
「私いるわ。あなたと一緒にいる。」
海の方を向いてレオナが言った。
「駄目だ、もうすぐ仲間が来る。俺はそいつらとこの街を出る。そしてここで起きたことを全て忘れる。」
レオナが振り返った。
「分かっているわ。ちょっと言ってみただけ。
行くわ。とても怖かったけど、とても楽しかった。」
そう言うと、レオナは歩きだした。何も言わずに脇を擦り抜けた。その先にはビトルボが待っているはずだ。
ヒデキは、何もせずただ立ち尽くしていることが、何か大きな過ちのように思えた。避けることのできない過ち。それが避けられないものだとしたら、今はそれを後に引かせないことしかできなかった。そのために何ができるかと言えば、だからこそ振り返らずただ立ち尽くすしかないのだ。
背中にレオナの声がした。
「あなたは仲間の元に戻るのね。でも、あなたを待っているのは仲間だけじゃないわ。それよりももっと大切なものが、あなたを持っている。」
海の向こうの夕陽が眩しかった。
「一緒に行けないのが残念だわ。」
ヒデキにはレオナの言葉が、後悔のようにも安堵のようにも聞こえた。
海鳥の鳴き声が、どこか遠くで聞こえた。
仲間より大切なもの、それがヒデキを待っている。

ドアが閉まり、エンジンをふかす音がした。
その通りだ。何よりも大切なものがヒデキを待っている。その大切なもののために、今の時間を過ちに変えてはならない。この出会いを後に引かせてはならない。
ヒデキは振り返ろうとする欲求を押し殺した。マセラッティーのエンジンが低く唸った。
これでいいのだ。
低いエンジンの発進音がしたと思った瞬間、いくつもの急ブレーキの音がそれに重なって響いた。その瞬間、ヒデキは意外な過ちを既に犯していたことを悟った。本当に待っていたのは、仲間などではなかった。

横から飛び出してきた車を避け、レオナはビトルボを激しくバックさせた。眼の端に岩場を迂回するヒデキの姿が横切った。車は五台。総勢十人あるいはそれ以上、確かめている余裕はなかった。バックのまま車をスピンさせる。反対方向から迫る車を山側に避けた。車の男たちは、レオナの運転に驚いたようだった。しかし、その驚きを楽しむ余裕は、今のレオナにはなかった。
ヒデキは岩場を大きく迂回した。五台の車のうち、二台から男たちが飛び出してきた。その男たちに、見覚えはなかった。関の者でも平賀の身内の者でもないようだった。ただ、殺意だけがあった。銃声が妙に乾いた音を立てて岩場に弾けた。
岩場の地の利だけが、ヒデキの味方だった。見た目以上に、岩場は厄介なのだ。その岩に親しんだことのあるものだけが、岩の表情を知っている。
迂回すると、ヒデキはもう逃げなかった。レオナの方を確かめた。
レオナのマセラッティーは、盛んに方向転換しながら、男たちの車を翻弄していた。しかし、その行動範囲は徐々に狭まっているように見えた。

レオナはもう既に三度方向を変え、追いすがる車の脇を自在に擦り抜けていた。しかし、男たちは、次第に運転の仕方に気が付き始めていた。威嚇では止めることのできない車の止まらせ方を。
右から来た。レオナは十分に引き付けてから、いきなりブレーキを踏み込んだ。車の男が一瞬、ハンドルを切るタイミングを失った。そのタイミングでアクセルを踏んだ。ハンドルを右へ切った。テールが流れた。舌打ちする男の横顔をやり過ごした。すぐに後ろから次が来た。ヒデキを目で追った。まだ遠かった。三度、ハンドルを切った。フェイント。逆側にスピンさせた。惰性で車が突っ込んできた。海側へ車を避けた。再びレオナはアクセルを踏み込んだ。
いまだに男たちは遠すぎた。ヒデキには男たちがスローモーションのように遅く感じられた。アスファルトで通用するものも、岩場では通用しない。その岩場に誘い出す。それしかヒデキには方法がなかった。
「まだだ。」
いらだちを押さえながら、ヒデキは耐えた。
見え隠れするレオナのマセラッティーにも、時間の余裕は感じられなかった。
「来い、早く来い。」
勝負は一度きりだ。間合い、そして一瞬の判断。なおもヒデキは、激しく岩場を行き来した。しかし、距離は離れない。
「餌はここだ、早く食らいついて来い。さぁ、食わせてやる。お待ちかねのご馳走だ。」
ようやく男たちが迫ってきた。
見えた。男たちとヒデキの間合いが見えた。
ヒデキは飛び出した。飛び出すとすぐに、下の岩場に飛び降りた。一瞬、男たちがヒデキの姿を見失った時には、逆の岩場をよじ登っていた。岩場を抜けると、少しだけ砂浜があった。
今度はヒデキがスローモーションになる番だった。二度転んで、二度とも起きた。銃声が追ってきた。威嚇でしかないことはその銃声の方角で分かった。男たちはまだ岩場だった。慣れるのには時間が掛かる。ただ、逆に言えばその時間の分しか、ヒデキには残されていなかった。あとどれくらい残されているのか、レオナはどうしたのか、確かめる暇はすでになかった。
また、転んだ。目の前にアスファルトが見えた。しがみついた。ガードレールの下から転がり込んだ。身を低くしたまま、すぐに立ち上がった。車の音が聞こえてきた。後ろから、向かい側のレーンだ。そのまま走った。息が上がった。それでも走った。車は追って来た。走った。振り返らなかった。抜かされた。タイヤの軋む悲鳴が聞こえたかと思うと、スモークを吹かして車が止まった。ドアが開いた。レオナの太腿が見えた。ピンクのミニだ。パンティーの色を確認する間もなく、ヒデキは助手席に飛び込んだ。ドアを閉めようとするヒデキの左目の端に、アクセルを踏み込むレオナの右足が、辛うじて見えた。

シンイチロウは湖にいた。じっとして、その懐かしい風景を眺めていた。湖というより沼と言ってもいいかもしれないほど、小さな湖だ。
その湖は昔と同じ湖水を湛えていた。いや、正確に言えば、自ら選んで「今」を拒否したかのように、何も言わず歴史を守っていた。その証拠に「今」でもその湖は美しかった。
傍らには埃を被ったスティードが停めてあった。スティードに山道は似合わない。シンイチロウはスティードの土埃を払った。
どうせまた汚れるのだが、それぐらいはやってやってもいいだろう。まだ夜が更けるには時間がある。いずれにしろ、それまでは待たねばならない。
『いずれにしろ。』
この言葉は、二つの選択肢を意味している。その言葉通り、シンイチロウの行動には、二つの選択肢があった。まず一つ目は、ヒデキを探し出すことだった。
まずはヒデキを探してみようと、シンイチロウは行動を決めた。しかし、そう決めたとはいえ、シンイチロウ自身、組から追われる身であった。そうなった以上、探し出している余裕などあろうはずはなかった。ただそれでも望みがないことはなかった。
切羽詰まると、人はおかしなことを思い出すものだ。よりによって、こんな時に思い出すはずもないようなことを、ふと思い出したりする。普通なら一番思いつかなさそうなことを、よりによって思い出す。
初めてヒデキと女を輪姦したのがここだった。性の欲求というより、輪姦すという行為自体に興奮していた頃のことだ。女を車に連れ込んで、無我夢中に山を走ると、何時の間にかここに出ていた。
運転するシンイチロウには、凸凹の山道のどこでどうやってヒデキが服を脱いだのか分からなかった。その上、女も素っ裸だった。
車を停めた途端、女が車から走り出た。ヒデキもすぐに追って、車外に飛び出した。シンイチロウがサイドブレーキを引く頃には、既にヒデキは女にタックルしていた。シンイチロウも慌ててチャックを下ろしながらダッシュした。
タックルしたヒデキは、袈裟固めから、どうにかして逆四方に持って行きたいようだったが、激しい女の抵抗を受け、一先ず肩固めに入ったようだった。寝技、それは立ち技より重要なことが往々にしてある。シンイチロウはすかさず逆の手を取りに行った。肘関節を決めると、そのまま肘に金玉を擦り付けた。ちょっと気持ちが良かった。
ヒデキはというと、何処をどう移動したのか、何時の間にかヒールホールドの体勢に移っていた。ヒデキのヒールホールドは、シンイチロウの肘関節よりも気持ちよさそうにも見えた。少し悔しかった。
二人は目で合図を交わした。フィニッシュのサインだ。
技を解き、女を俯せにすると、それぞれのポジションにすばやく移動した。シンイチロウは女の顎を右腕で固め、ヒデキは女の足を十字に決めた。同時に掛け声をかけた。
「フン。」
「フン。」
その掛け声で二人は一気に片を付けた。シンイチロウのスリーパーホールドと、ヒデキの逆サソリが同時に決まった瞬間だった。女の抵抗はそこまでだった。

そんなこともあった、とシンイチロウは湖に小石を投げた。ポチャンとあの時と同じ音がした。
二度目に来た時は、シンイチロウは一人だった。小石を幾つも幾つも投げたのを、今でも覚えている。怖くて怖くて泣いていたのも、昨日のことのように覚えていた。しくじって、焼きを入れられそうになったシンイチロウを、ヒデキが逃がしてくれたのだった。
「あそこで隠れていろ。」
それだけ言ってヒデキは背を向けたのだ。やりようのない情けなさを引きずって山道を歩いた。日頃の威勢の良さが、犬の遠吠えだったことを身をもって知らされた。怖かった。悔しさよりも、怖さが先に立ってしまう自分が悔しかった。しかし、そんな時でも悔しさよりも恐ろしさが先を歩かせていた。涙を流すしかなかった。せめても、その涙が枯れていないことだけが慰めだった。
石を投げた。幾つもの石を投げた。これ以上、どこにも逃げない覚悟を決めるために投げた。今更、どんな覚悟も決めようがないのに、そんな覚悟を決めようと思った。
ポチャンと、湖は答えてくれた。いくら投げても、何度投げても、同じようにポチャンと答えた。湖は静かで堂々としていた。シンイチロウの投げる悔しさなど、いくらでも湖は受け止めてくれた。何千年、何万年と生きてきた湖は、厳しくて、そして優しかった。確実に時は流れず、確実に積み上がっていた。
投げる石がなくなろうとした時、勝手に湖がポチャンと答えた。振り返ると、そこにはヒデキが立っていた。

シンイチロウは、相変わらず月明かりの照らす湖面を見つめていた。あれから何度ここへ足を運んだことだろう。それほど多く来ることはなかった。しかし、来るべき時には、二人して湖を眺めた。そうした時には、いつも変わらぬ湖があった。何で変わらないのか、疑問にも思わなかった。変わることがあろうなどとは思いもしなかった。当然のように、この湖はここにあった。思えばこうして変わらぬ湖が不思議にも思えた。
誰が変わったのか?何が変わったのか?
時代だった。時は流されないくせに、澱みもしないのだ。積み重なるくせに、その積み方も重ね方も、人に問いはしないのだ。時代が変わった時、きっとその積み方も重ね方も変わるのだろう。それがどんな風になるのか、シンイチロウには分からなかった。
ハンタロウには分かるのだろうか?
夜も更けた。
ヒデキは来なかった。
シンイチロウは、もう一つの選択肢を選ぶ時が来たことを悟った。その選択肢とは、小夜子だった。
今度はヒデキが石を投げて待つ番になるだろう。もう怖くもなく、悔しくもなかった。シンイチロウは決めることのできる覚悟を決めたのだ。もう二度と怖がりもせず、悔しがることもないだろう。そしてヒデキの背後から、小夜子と一緒に石を投げてやろう。
シンイチロウは最後の石がポチャンと音を立てると、スティードに跨った。跨ると腹に呑んだドスがシャツ越しに冷たく感じられた。湖面を振り返ると、先程音を立てた波紋が、ゆっくりと優し気に輪を描くのが、月明かりに映った。

海沿いの道から外れた枝道に入ると、ようやくレオナは車のスピードを緩めたようだった。流石にその横顔には疲労の色がにじみ出ているのが見て取れた。
「俺が替わろう。停めろよ。」
レオナは素直に頷いた。まだ微笑む余力は残っているようだった。
車を降り、タイヤの轍を小枝で消してから、ヒデキは運転席に着いた。
レオナも疲れていただろうが、ヒデキも疲れていた。ただ助手席に乗っていることがこんなにも疲れるものだとは、信じられなかった。

あれからヒデキとレオナは、なおも追いかけてくる五台の車を、海沿いの道で巻こうとした。何とか一台をガードレールに突っ込ませたものの、他の四台も同じようにさせられるほど自信も運もなかった。四台が落ち着きを取り戻し連携して動けば、いくらビトルボが走ろうとも、逃がしてはくれないだろう。子供の使いではない、れっきとした大人の使いなのだ。
ヒデキは言った。
「街へ戻ろう。」
レオナが少しだけ驚いた表情を見せた。
仕方がない。これ以上やりあっても大した結果は望めない。いや、やり合えばやり合うほど、喜べるのはヒデキでもなく、ましてやレオナでもない。今更ハンタロウを喜ばせたところで、何の得にもなりはしない。それなら警察に捕まった方が、いくらかでも面白い結果が生まれることだろう。そして、何よりレオナの安全が確保される。
レオナはウィンクをすると、いきなりハンドルを切った。海沿いの道から二つ折れれば、街へと続く真っ直ぐな道へと当たるはずだ。ビトルボなら直線では負けることはないだろう。
そして負けなかった。街へ入ろうとすると、おあつらえ向きにすぐにパトカーのサイレンが聞こえてきた。非常警戒態勢、それは当然だった。四台の車はなおも追ってきていたが、既に殺気は消えていた。街へと入った時には、何時の間にか四台のベンツは、セルシオのパトカーと入れ替わっていた。

街へ入った。夜も更けた。カーチェイスもこれで終わりだ、とヒデキは思った。バックミラーには、後方にパトカーのランプがちらついて見えた。
ヒデキは自分でも知らないうちに目を凝らしていた。考えてみればおかしなことだ。今見えるパトカーはヒデキたちの車しか追って来ていなかった。奴らのベンツには見向きもせずに素通りだった。明らかにターゲットはヒデキたちだけだった。
「レオナ、逃げろ!」
ヒデキは叫んだ。
ただし、そう言う前からビトルボのスピードは落ちていなかった。むしろ加速していた。訝る様にヒデキが見ると、レオナはペロリと舌を出した。
「私、警察って嫌いなの。」
ヒデキは吹き出した。こいつはえらい女と出会ったもんだ。レオナも笑っていた。ついさっきまでの緊張した損を取り戻すように、二人は笑い合った。久しぶりに笑った気がした。エンジンが吹けた。ビトルボも笑っているようだった。
街から外へ出る道は全て塞がれている。しかし、街の中の全ての道までは塞ぐわけにはいかなかった。何回道を曲がったものか、何度信号を無視したものか、それは覚えていられなかった。ただし、確実に言えることは、追ってきたパトカーよりも、その回数が多かったと言う事だ。

ヒデキはゆっくりと車を転がしていた。そう、まさに転がすようにして、静かに音を立てず、車を動かしていた。この道なら無灯火でも間違うことはなかった。何かあるたびに何度も通った道だった。秘密の抜け道。そう、何時しか新たな道路建設のために、見捨てられてしまった誰も通らない道。
それでもヒデキは、慎重に何度か枝道に入り直しては、車の轍を消し、再び労わる様にビトルボを転がした。見かけは悪いが、良い車だ。
「着いたよ。」
ビトルボを止めた。
湖だった。
ヒデキは降り立つと、確かめるように暫く辺りを見回した。だが誰もいはしなかった。もしかしたら、シンイチロウが待っているかもしれない、あの時のように。そんな錯覚をしただけだ。
レオナは湖水に近づくと、暗い湖面に手を浸した。
「あまり冷たくないわよ。夜の湖なんて、割とお洒落なのね。」
月が朧げに湖面を照らしていた。
言われてみれば、確かにお洒落な夜なのかもしれない。
「ヒデキもいらっしゃいよ、気持ちいいわよ。」
ヒデキは取り合わず、モンテクリストに火を点けて、生返事をした。
小枝を集めて火を点けた。あまり大きくはしなかった。振りむいたレオナの顔を炎が照らした。月夜も湖面も、その横顔も綺麗だった。
「ちょっと冷えるわね。夜だから当たり前だけど。」
そう言って炎に近づいてくるレオナは、言うほど寒そうでもなかった。しかし、ブラウス一枚だけなのも事実だった。ヒデキは着ていた革ジャンを手渡した。
「優しいのね。」
そう言って、レオナは革ジャンを肩から羽織った。少し丈の短い革ジャン。レオナは珍しいのか、羽織った革ジャンを、あちこち手にとっては調べた。
「ねぇ、ヒデキ、この革ジャン、腋に穴が開いているわよ。これじゃぁ、スースーしちゃうんじゃないの?」
炎の横で座るかどうか思案するレオナに、広げたハンカチを渡した。
「ありがとう、気が利くわね。」
そう言って、レオナはハンカチを敷いて、その上に体育座りをした。
「夏のバイク用なんだよ。」
レオナの質問に答えた。レオナは自分の質問を思い出したように、革ジャンのあちこちをもう一度見直し始めた。
丈の短い革ジャン。そう、夏にもバイクには革ジャンが必要なのだ。万が一転んだ時には、革が一番身体を守る。しかし、体にフィットしたレーシングタイプでは蒸れてしまって敵わない。そのための丈の低く、通気性の良い革ジャン。腋も開いていれば胸元も風が抜けるようになっていた。それでも肩と肘にはしっかりとしたパッドが入っている。ヒデキのお気に入りの革ジャンだった。
「成程ね、なかなか理論的だわ。」
妙に感心したように、レオナは納得した。
自然と気持ちが安らいでいた。湖は静かで優しかった。小枝がパチパチと耳心地の良い音を立てて燃えていた。炎は強すぎもせず、弱すぎもせず、程よく眺めやすい程度の煙しか出さなかった。それを見つめるレオナの横顔も、程よい程度の明るさで照らされていた。
気が付けば、二人きりだった。
映画ならラブシーンにでもなるだろうな、とヒデキは漠然と考えた。考えてみると、それも当然のことのようにも思われた。ヒデキはレオナの顔から胸へと視線を移した。でかい。多分、Eだ。
『Dではこうは行かない。』
ヒデキの経験は、冷静な判断を下していた。ごくりと生唾を、音を立てずに飲み込んだ。視線をさらに下げた。ピンクのミニからは大胆な太腿が顔を覗かせている。細いふくらはぎとのコントラストが、官能という名に相応しいと思った。
レオナも何かを感じ取ったようにヒデキには思えた。喉元と太ももの筋肉が収縮するのが見えた気がした。出会ってから初めて、ヒデキとレオナの間に、男と女の緊張感が走った。大人の緊張感だった。
ヒデキはレオナの眼を見つめた。視線は逸らしているものの、その眼は半分の拒絶と半分の承諾を意味していた。不思議な眼だった。引きずり込まれそうになる眼だった。股間に突き刺さる眼だ。
身体のありとあらゆる血液が、下半身の一点に集中していくのが、手に取るようにわかった。ヒデキは、鼻息が聞こえるほどの大きさで息を吸い込んだ。そしてゆっくりとゆっくりと息を吐いた。
レオナの眼は、相変わらず半分の拒絶と半分の承諾で湖面を見つめていた。その両方が言いようもない蠱惑となって、ヒデキを魅了した。そして、拒絶とは裏腹な、ある種の匂いが、レオナの放漫な胸から、くびれた腰から、そして官能的な太腿から発せられた。オスを狂わせる匂いだ。その匂いは、ヒデキの鼻といい耳といい、毛穴といい、ヒデキの身体のあらゆる穴から浸透し、ヒデキのありとあらゆる神経を狂わせた。
既にヒデキの眼には、レオナの拒絶が、拒絶とは言い難い程の消極的な承諾としか映らなかった。爆発的な欲望をヒデキは確信した。ヒデキの前頭葉にある電光掲示板に、ついにそのサインが灯った。
「GO!」
そうだ、GOだ。発車オーライだ、出発進行だ。マッハ・ゴー・ゴー・ゴーだ。忌野清志郎は発車出来なかったが、ここは爆速でロケットスタートだ。
その瞬間、何かがよぎった。ヒデキの中を何かが駆け抜けた。
小夜子。
信じられなかった。しかし、それは事実だった。
ヒデキは、半立ち以上に硬直した陰茎を、レオナに悟られないように、ジーパンの上から左斜め下の方向へ、手の平の甲で少しずらした。それと同時に火の加減をたしかめるかのように、下半身の体勢を微妙に変え、最終的に睾丸と陰茎の再適なポジションを股間で形成した。
「どうかした?」
無邪気な笑顔でレオナが聞いた。
無言の笑顔で首を振った。
ヒデキは立ち上がると、ガニ股と内股を交互に繰り返しながら、ゆっくりとした踊るような足取りで水辺まで近づいた。湖面の縁に跪き手を突くと、そのまま顔を水に突っ込んだ。レオナの言った通り、水はそれほど冷たくはなかった。顔を上げ、湖面に顔を映した。揺れる湖面に仄かに映るヒデキの顔は、歪んで滑稽だった。その通りだと思った。
苦笑いをした。その時、腹が鳴った。思えば朝から何も食べていないことを思い出した。満たされない欲望の後には、ありきたりで健康的な食欲が舞い戻った。こいつまで満たされないのだとしたら、やりきれないな、とヒデキは再び苦笑いをした。

レオナはダッシュボードを探った。するとクラッカーとチョコレートが出てきた。女性というものは、大抵こうしたものを常備していたりするものだ。クラッカーはカーチェイスで相当飛び跳ねさせられたらしく、殆どが割れていた。割れていても、食べられないことはない。
焚火に戻り、ヒデキの横に座った。差し出すと、ヒデキはクラッカーだけを手に取った。レオナはチョコを口にした。何だか不思議な気分だった。
襲い掛かられると思ったのに、拍子抜けがした。内心、妙に動揺してはいたが、平静を装った。
良い女のジレンマ。そう、良い女にはいつもジレンマが付きまとう。承諾もしないのだが、拒絶もしないのだ。承諾しそうに見せかけて、拒絶はするのだが、交渉の余地は残しておくのだ。ただ、ハードルは高いのだ。下手に手を出すとリスクが大きいことは明白なのだ。しかし、手は出さずにはいられないぐらいの、脇の甘さはちらちらと小出しにするのだ。一体何なんだ、その国際政治の外交手段のような態度は?と、呆れられるくらいでないとダメなのだ。
兎に角、そうした承諾と拒絶の二律背反の狭間に生きるのが、良い女の宿命なのだ。その微妙に切なく、物憂げで気怠そうな、しかしそれでもどこか物欲しげで、諦めきれないのが、桃井かおりであり秋吉久美子なのだ。そしてそのアンビバランツな宿命こそが、男を狂わせ、狂う男の狂気が、この切ない二律背反の宿命の慰めとなるはずなのだ。
しかし、慰めとなる前に狂気が去ってしまってはお話にならない。肩透かしも良いところだ。しかし、良い女はこんな時でもその男の行動を責めないものだ。だって、良い女なのだから。良い女は辛いのだ。だから燃えるのだ。燃えろ、良い女、なのだ。
湖に顔を突っ込んでから、
「腹が減った。」
とヒデキは言った。良い女が食欲に負けた。少し失礼だと思った。ちょっと拗ねてやろうかとも思ったが、当の自分もお腹が空いていることに気が付いた。時として、良い女は食欲に対して寛容なのだ。
並んで、クラッカーとチョコを食べた。
しかし、やはり変な気分だった。こうして男子とお菓子を食べることなんて、ずいぶん昔以来だな、と思った。夏のバイク用の革ジャンは、丁度いい風通しと温かさだった。
一しきり食べ終えると、ヒデキはごろりと横になった。星を見上げているようだった。
レオナも見上げた。満天の星空が、まるでプラネタリウムのように美しかった。
「なぁ、宇宙って膨張してるんだってな。」
意外なことをヒデキが言った。
レオナは微笑みながら、
「えぇ、そうよ。よく知っているわね。
詳しくはね、黒体副射の赤方偏移っていって、遠くの星から来る光の波長は長くなって赤く見えるから、離れて行っているってわかるのよ。」
そういって、ヒデキを見降ろした。
ヒデキは一度視線を合わせてから、もう一度星空を見上げ呟いた。
「宇宙が膨張しているなんてことは分かっても、明日の自分がどうなるかなんてことは分からないもんだよな。」
レオナも星を見上げた。そして言った。
「何言っているのよ。宇宙は膨張しているのよ。こうして見上げている星も、どんどん私たちから遠ざかっているの。こうしてみている間にも、どんどんどんどん、私たちから逃げているの。宇宙に終わりがない限り、あの星たちは逃げ続けるわ。」
ヒデキに向き直って、レオナは続けた。
「どうしたのよ、ヒデキ。私たちも逃げ続けられるわ。あんな追っ手になんか摑まりっこないわ。
そうでしょ、ヒデキ。
あんな星たちみたいに、私たちも逃げ続けるのよ。出来るわ。弱音を吐くなんて、みっともないじゃないのよ。あなたらしくもないわ。」
ヒデキがレオナを見上げた。今度の視線は外れなかった。
「それが相対性理論なのか?」
レオナは頷いた。
「そうよ、相対性理論よ。」
ヒデキは続けた。
「それが、あんたの相対性理論なんだな!?」
レオナは、ヒデキの言おうとしていることを考えた。
ヒデキは上半身を起こすと、言葉を続けた。
「あんたは、本当にその相対性理論ていうやつに、有り金全部を賭けられるって言うんだな?」
有り金全部を全て賭けることを、ポーカーではオールインという。一度賭けてしまったら、最後のショーダウンまで、もう降りることは出来ない。
レオナは頷いた。
「何故だ?」
ヒデキは言葉を繰り返した。
「何故そんなことが出来るんだ?」
レオナは言葉を選ぶ時間を置いた。そして、
「相対性理論が、ロマンだからよ。」
そうだ、ロマンなのだ。見果てぬロマン。今も遠のこうとするあの星たちのロマン。
レオナは立ち上がると、星を見上げながら言葉を続けた。
「そう、ロマンなのよ。
光の速さに近づけば近づくほど、物体の長さは縮み、質量は増加し、時間の経過は遅れていく。そして、光と同一のスピードになった瞬間、長さはゼロになり、重さは無限大となり、時間は止まるわ。
もう、誰も見ることも、触れることも出来ない。誰も邪魔することは出来ない。」
レオナは振り返って、ヒデキを見降ろした。
「もし私とヒデキが光なら、もう誰も私たちの時間に入り込むことは出来ないわ。」
ヒデキは星を見上げたまま、呟いた。
「永遠に俺たちの時間と言うわけか。」
「そう、その通り。ロマンチックでしょ。
私、一度でいいから光みたいに速くなってみたいの。」

ヒデキは軽く頷いた。レオナを見ていると、やさしい気持ちになれるようだった。太腿は相変わらず美しく、パンティーは相変わらず見えそうで見えなかった。レオナは続けた。
「ヒデキといると、そんなことが出来そうに思えるわ。」
ヒデキは素直に答えた。
「嬉しいよ。本当にそうなれたら、最高だろうな。」
ヒデキは再び、遠い星を見上げながらそう言った。
レオナが言った。
「賭けましょうか?」
ヒデキは思わず、レオナの顔を見上げ、見つめなおした。
「賭けましょうよ。出来るか、出来ないか?光になれるか、なれないか?」
レオナは真顔だった。その冗談ともつかない言葉が、決して冗談ではないことを伝えたがっているかのようだった。
ヒデキは暫くレオナの顔を見続け、やがて頷いた。
レオナがニッコリと笑った。賭けは成立だ。しかし、確認しておかなければならないことがある。ヒデキは言った。
「じゃぁ、レオナが勝ったら何が欲しい?」
そうだ、賭け事には賞品がなくてはならない。レオナが勝ったら、買えるものは何でも買ってやろう、できることは何でもしてやろう。
レオナはちょっと考え、そして言った。
「私が勝ったら、この革ジャンをもらうわ。いいでしょ。」
ヒデキは笑って頷いた。そして続けた。
「なら、俺が勝ったら何をくれる?」
レオナは答えず、ゆっくりと水辺へと歩いて行った。そして革ジャンを置き、服を脱ぐと、裸のまま湖水に首まで浸かった。

ヒデキが上体を起こすのが見えた。湖水が汗を拭ってくれた。気持ちのいい冷たさだった。レオナはそのまま立ち上がり、岸辺に上がった。何も隠さず、ヒデキの方に向き直った。
「これでいいかしら。」
言い終わる前に、ヒデキが突進してきた。その恰好が可笑しかった。身をかわして笑いながら足を掛けた。久しぶりに湖水の大きな飛沫が上がった。
「ダメよ、勝つまでお預け。」
レオナが笑いかけると、湖のヒデキも笑った。すると何を思ったのか、湖を泳ぎ出した。気持ちよさそうに湖面に浮かぶと、空を見上げて漂った。
それを見たレオナは、慌てずに身体を拭くと、服を着た。レオナが着ると、今度はヒデキが脱ぐ番だった。
満天の星が、何も言わず二人を眺めていた。平和な一時が二人を包み込んだ。
服は朝までには乾きそうもなかった。

第Ⅺ章 振り向かずに突っ走れ

通り一つを隔てた所で、シンイチロウはスティードを停めた。キーもエンジンに付けたままにしておく。脱いだヘルメットもそのままぶら下げた。どうせ時間を掛けることは出来ないのだ。掛かり過ぎれば、それは二度とこいつに乗れないことを意味する。
小さな紙切れを取り出した。湖までの地図。使いたくはない。自分で小夜子を連れて行くのだ。だからそんな紙切れは必要はない。
しかし、万が一のために持っておくことにしよう。それが必要になるのはきっと、文字通り一万回に一度の事だろう。今日はその第一回目というだけのことなのだ。紙切れをポケットにしまうと、シンイチロウは腹に呑んだドスを確かめて、走り出した。
流石に警戒は厳重だった。しかし、ついこの前まで自分が警護していた家だ。勝手は分かっている。月夜はやや雲に隠れている。多少は好都合だ。
外の警護が交代した。その隙に塀に取り付いた。それ程の高さではない。攀じ登って中を見た。すぐに飛び降りた。竹を植えた築山になっている。姿は隠せる。
暫く待った。内側の警戒も甘くはないようだ。しかし、気が付かれてはいない。大軍が押し寄せることはみな警戒しているようだったが、特殊部隊が来ようとは誰も思っていないようだった。音を立てずに動いた。身を隠せるギリギリまで近づいた。
外から伺う限りでは、明かりの様子から、小夜子はどうやら部屋にいるようだった。
しかし、これ以上見つからずに近寄ることは、もう無理だろう。シンイチロウは待った。人の臭いが流れるのを待った。その鋭い嗅覚が臭いを嗅ぎつけ、耳が気配を察するのを待った。
待った甲斐はあった。
シンイチロウはニヤリと笑うと、人差し指を口にあてた。躾通り吠えることもなく、大五郎は寄ってきた。頭をさすると、嬉しそうに押し付けて来た。シンイチロウは大五郎の顔を両手で優しく包み込み、しっかりと眼を見た。そして小夜子の部屋を指さした。
大五郎はもう一度頭をシンイチロウに擦り付けると、くるりと背を向けて小夜子の部屋の前まで歩いて行った。そして三度吠えた。
「チャン、チャン、チャン。」
相変わらず変な声だった。
小夜子が出てきた。警備の男も一緒についてきた。
大五郎が男に向けて、低い唸り声をあげた。
いつものことなのか、気味悪がった警備の男は、辺りを見回すとそのまま部屋に戻って行った。小夜子も大五郎の頭を軽くなでると、同じように部屋に戻ろうとした。
ダメか。ダメならもう出ていくしかなかった。大五郎はよくやってくれた。
シンイチロウが諦めかけて、飛び出そうとした瞬間、大五郎がもう一声小さく吠えて、振り返った。その視線を追う小夜子の眼が、シンイチロウを捕らえた。
何事もなかったかのようにシンイチロウから視線を外すと、小夜子は一度廊下の向こうに消えた。するとすぐに、スニーカーを持って戻ってきた。縁側に腰を下ろし、スニーカーを履く。警備の組員が寄ってきた。そばで大五郎が睨みつけて、唸った。
「ちょっと庭を散歩したらすぐに戻ります。この子も緊張しているみたいなので。」
組員はチラッと大五郎を見ると、肩を竦めて離れて行った。
散歩のようにゆっくりと、小夜子と大五郎は近づいてきた。
よし、とシンイチロウは思った。もう少しだ。その時間がやたらと長く感じられた。もう少しの我慢だ。頭では理解していた。身体が我慢しきれなかった。
「さぁ、早く!」
シンイチロウは身を乗り出して叫んだ。
シンイチロウの姿をみると、迷わず小夜子は走り出した。ただ、ほんの少し走り出すのが早すぎた。
組員が怒鳴った。大五郎が吼えた。シンイチロウも叫んだ。小夜子の手を握った。そのまま走った。走りながら紙切れをその手にねじ込んだ。塀に駆け寄り、その身体を押し上げた。組員たちが追ってくるのが、その足音で分かった。小夜子が乗り越えた。叫んだ。
「左だ。」
シンイチロウは振り返った。銃口が眼に入った。ドスでは遠すぎた。紙切れを持ってきた自分を誉めてやろうと思った。
何かが横から飛びついたのが見えた。大五郎だ。銃声はあらぬ方向へ響いた。頭を撫でてやりたかったが、すぐに諦めた。
シンイチロウは壁に飛びつき、そのまま道へと身体ごと落ちた。小夜子は既に走り出していた。すぐさまシンイチロウも後を追った。その先には痺れを切らしたスティードが待っていた。
小夜子が跨るのが見えた。
そうだ、その乗り方を教えたのは俺だ。間違いはない。そう思うとシンイチロウはなにか誇らしかった。後部シートか、それも悪くないだろう。しっかりと小夜子の腰を掴んでやろう。その腰はもうすぐだ。
ふくらはぎが焼けた。気が付くと目の前にアスファルトが見えた。立とうと思った。転んだ。初めて撃たれたとわかった。小夜子が振りむいて、シンイチロウに気が付いた。
「行け!」
叫んだ。
銃声は聞こえない。
なるほど、射程に小夜子が入っているのだ。やたらと撃つことは出来ない。そう思いながら、よろけるように立ち上がった。
「行け!」
もう一度叫んだ。
小夜子は握りしめた紙切れを見つめると、スロットルを思い切りふかした。
「振り返らずに突っ走れ。」
次の瞬間、バイクは猛スピードで走り去った。
小夜子とはサヨナラだ。その向こうに待つはずのものともサヨナラだ。走れ、何処までも。決して止まらずに、その向こうまで、振り向かずに突っ走るのだ。
柄を握った。振り向きざまに引き抜いた。背中でスティードがサヨナラといっているようだった。「あばよ。」という代わりに、シンイチロウは叫びながら男たちの中に突っ込んでいった。
挨拶は銃声だった。「こんにちわ」とは聞こえなかった。ただ、身体のどこかが焼けるのが分かった。そこまでだった。

ブラックホールが見えないのは何故か?それはブラックホールの崩壊した質量が、巨大な引力となって、光を離さないからだ。光のスピードをもってしても、そこから逃れることは出来ない。光は決して、光のスピードを超えることは出来ないからだ。
『ヒデキとレオナか。』
一人、ハンタロウは考えていた。逃げたければ、逃げたいだけ逃げればいい。ただし、そのためには、逃げ足は速くなければならないだろう。速くなりたければ、速くなりたいだけなればいい。しかし、所詮、無限に速くなることなどできはしない。そろそろそれに気が付く頃だろう。逃げれば逃げるほど、加速すれば加速するほど、それが重たくのしかかる事だろう。重さは速さと比例して増大することだろう。重さは着実に無限大となるまで増大するのだ。それが分かった時、もがく光がブラックホールから抜け出せないように、二人は戻ってくるはずだ。それまで待っても遅くはない。
ハンタロウには待つ余裕があった。嘗てはヒデキが切り札であり、レオナも別な意味での切り札だった。しかし、それはその時だけ使える、手札としてのエースだ。そしてそのエースは、場に晒すことに意味があり、一度晒せば、再び手元に戻す必要のない手札だった。
元々、関が死のうが死ぬまいが、ハンタロウにとってはあまり意味のない話だった。たとえしくじったとしても、狙われたというその事実自体が口実となる。関と平賀と、その何れに非があろうと、責められるべきは世代だった。終わろうとする世代だった。一つの時代の責任を負うのは、その時代に生きた世代であり、その時代を終わらすのは、その次の時代に生きるものの役目なのだ。そして、次の時代を生きる世代には、ビジネスという後ろ盾が付いている。それを理解させるのが一回目のゲームだ。
次は、二回目のゲームにアンティを払おう。今度はもっと面白いゲームになるだろう。勿論、二回目のゲームに勝つためには、一回目で晒したカードは使えない。既にディーラーはカードをシャッフルし、新しいカードを配ろうとしているのだ。使い古したカードは捨てて、新しいカードを待つのがルールだ。
しかしそれでも、ハンタロウにはまだ余裕があった。何故なら二回目のゲームにも通用する切り札を握っていたからだ。どんなカードが配られようと、その切り札がハンタロウの手にある限り、ゲームには勝ったのも同然だった。
小夜子というエース。

電話が鳴った。コードレスの「通話」を押す指は、相変わらず落ち着いていた。
会話は短かった。カードが一枚足りなくなったと言っていた。そのカードはエースだった。
再び、「通話」を押した指は、僅かながら震えていた。ハンタロウは余裕を一瞬で使い果たしたことを理解した。理性が、コードレスを窓に叩きつけるのを辛うじて抑えた。その理性が、二回目のゲームを終わらせろと命じていた。そのためには手段を選ぶ余裕もないことも、ハンタロウは理解した。

小夜子は随分と走った気がした。既に紙切れを五回ほど見返した。こんな山にこんな道があることを、小夜子は初めて知った。山の自然が、こんなにも複雑な物とは思ってもいなかった。小さな街の自然が、意外に大きいことに感心していた。少なくとも小夜子にとっては、これまで生きていた場所が小さく感じられた。
もう一度紙切れを確かめるために、スティードを止めた。確かめようとしたが、殴り書きの紙片は、すでにどちらを上にすればいいのか、分からなくなっていた。しかし、焦りはしなかった。暗くて鬱蒼としていたが、山は小夜子の気持ちを落ち着かせた。この山のどこかにあるその場所は、決して遠くはない。
スティードを道の脇から、藪の中へ押し入れた。周りの小枝を集めて、その上に横になった。木々の間から星が見えた。一つ一つの星が、父のようで、ハンタロウのようで、今まで出会った人たちのようであった。

あの時、大五郎が見えた。「チャン」と鳴いて、小夜子の身体をシンイチロウの方へ突き飛ばしたのだ。
その後を小夜子は知らなかった。
シンイチロウが、「行け!」と叫ぶのが聞こえた。振り向かずに突っ走れ、と背中で叫んでいた。命を賭けているのが、見えてもいないのに手に取るようにわかった。身体が勝手に動いて、気が付いたらバイクを発進させていた。無心でバイクを飛ばした。言われた通り、一度も振り返らなかった。
だから、その後を小夜子は知らなかった。
知りたかった。
思えば多くのことが、ある瞬間から知りえないものへと変わっていった。
レオナはどうしているのだろう、と小夜子は思った。
「ある」ことも「ない」ことも、それは結局分からない、とレオナは言った。でも、それは「ある」のだから、怖がる必要はない、とも言った。
その通りだ。どこにいるのか、何をしているのか、そんなことは分からなくても、それが「ある」ことは確かだ。だから怖くはなかった。
でも、会いたかった。
夜は寒くはなかった。徐々に朝へと向かっていた。
やはり会いたかった。
もう何年も会っていない気がする。いや、正確に言えば、二人で会ったと言えるのは一度きりなのだ。
眼を閉じた。そして何度も何度も思い出したように、小夜子は再び、あのラブラドールの夜を思い出した。
椅子とベッドが浮かんできた。ルームライトと夜景が見えた。扉が見えた。その扉を開けたのは、小夜子自身だった。スーツが見えた。チンピラっぽく、オープンシャツを外に出していた。シャツからのぞく素肌を目で辿った。のどぼとけが大きかった。そして、、、。
何故か顔が浮かんでくるのに時間が掛かった。まるで、どんな顔をしようかと迷っているかのように。
やがて、緊張した面持ちのヒデキの顔が浮かんできた。しかし、その表情はすぐに綻んだ。何度も何度も思い出したから、もう既に二人は他人行儀ではないのだ。何度も何度も瞼に浮かべたから、眼を見れば何を考えているのか、すぐにわかるのだ。
しかし、浮かぶのはそこまでだ。その眼は、そこから何も語ってはくれないのだ。だからいつも涙が出てくるのだ。
しかし、その涙は何時もの涙とは違って温かかった。ここはもう山なのだ。その場所はもうすぐそばなのだ。止まってしまった二人の瞬間は、また再びその場所から始まるのだ。それは必ず始まるだろう。きっとこの仮説は証明されるだろう。
今しばらく信じるのだ。それが信じる意思など必要のない事実となるのは、遠い未来の話ではない。もうすぐそこだ。
夜が明けようとしていた。もう少しだけ目を閉じていようと小夜子は思った。忙しい街とは違って、穏やかに流れる山の時間が、ゆっくりと過ぎて行った。

夢のようだった。
しかし、それは夢ではなかった。身体の痛みが、現実を証明していた。眼を閉じたままシンイチロウは思い出そうとした。小夜子、昔の仲間、銃声、ふくらはぎ、肩、太腿、覚えているのはそこまでだった。
呻いた。物凄く熱かった。身体中が沸騰して、今にも蒸発してしまいそうだった。右のふくらはぎ、右の肩、右の太腿、全部右だ。そう考えられるくらい、意識ははっきりしていた。
助かった。どうやら死ななかったらしい。笑おうとしたが、呻くことしかできなかった。
ゆっくりと眼を開けた。
知っている空間だった。ぼんやりと眼に映るものが懐かしかった。何時見たのだろうか、と考えた。考えていると、少しは熱さを忘れることが出来た。何か、遠い昔に来たことがあるように思えた。起きようとしたが無理だった。どうやらマットレスに寝かされているようだった。仕方なく頭を横に寝かせた。向こうの壁が見えた。弾けたコンクリートはまだそのままだった。
二日前。たった二日で全てが変わった。
再び眼を閉じた。
閉じると、二日前が見えてきた。この倉庫で、ヒデキと拳銃の練習をしていた。的に当てたヒデキが嬉しそうに振り返った。シンイチロウは、笑って肩を竦めた。
ドアが開いた。ハンタロウが立っていた。ヒデキもシンイチロウもその顔を見るのが嬉しかった。それから、ハンタロウが何か難しい説明をした。理屈は分かったようで分からなかったが、何故か楽しかった。そしてハンタロウが言った言葉だけが、何故か耳に残った。
「アインシュタイン。」
そうだ、銃を撃つ時にはこいつを言わなきゃ始まらない。
ヒデキもきっと言ったことだろう。奴らはきっと言わなかったのだろう。ヒデキは関を殺り、奴らは、
『俺を殺れなかったのだから。』
ドアが開く音が聞こえた。
あの時と同じように、ハンタロウが立っているのが見えた。ただその顔を見ても、何も嬉しくはなかった。

ハンタロウは何も言わず近づいた。転がっている眼も、何も言わずこちらを見上げていた。そのまま近づき、その眼を見降ろした。そして、口を開いた。
「久しぶりだな、シンイチロウ。」
口は開かず、眼だけが見つめていた。血だらけになった身体で、眼だけが生き生きとしていた。
何がこいつの眼をそうさせるのか。それがこいつのロマンという奴か。
「挨拶はするもんだ。」
つま先で肩を小突いた。
押し殺した呻き声が返ってきた。しかし、視線は外れなかった。
ハンタロウも外さなかった。ロマンだと、笑わせるな。そんなもののため、生まれてこようとする時代を台無しにさせるわけにはいかない。そんなもので世界など変えられるわけなどない。ましてや、時の流れを逆行させることなど出来はしない。
「見上げたもんじゃねぇか。三発食らっても生きているとはよ。」
眼は相変わらず見つめていた。
憎しみなら憎しみで、哀願なら哀願で、それはそれでいいだろう。しかし、その眼はそれら何れでもなかった。ハンタロウにはそれが許せなかった。
ゆっくりと見つめ返しながら、ハンタロウは思った。生みの苦しみは、女だろうとヤクザだろうと同じだ。新しい時代を生むためには、犠牲は避けることはできない。その犠牲が、ヒデキであり、レオナであるはずだった。それは私利でも私欲でもなければ、偽善などでもなかった。変わろうとする時代の狭間に生きた者たちの宿命なのだ。そしてその宿命こそが、この世に生を受けた無数の生命体の中で、選ばれたことを自覚できる少数者の特権なのだ。
だからこそ、犠牲の果てにやってくる新しい時代の苦難を、ハンタロウが一人で背負うことができるのだ。それは高揚もせず動揺もしない、平和の時代の苦難なのだ。その苦難こそが最も耐え難く、最も退屈で、そして最も重要な苦難なのだ。
誰がそれを理解することだろう。愛するものを振り切り、信じるものを捨て去り、黙々と新しい時代を築くのだ。英雄的でもなく、劇的でもない、ただの日常を築くのだ。それを築こうとすることこそ、真の勇気が必要とされることなのだ。
「さぁ、本題に入ろうか。」
眼はそれでも泳がなかった。
そんな眼をしなくても、俺はお前が十分に羨ましい、そういってやりたかった。そうやって、時代のために恥ずかしげもなく英雄的な行為を行えることが羨ましかった。自ら選びもせずに、歴史にその名を残せることが、羨ましかった。
「小夜子はどこだ?」
本題に入った。
眼は見続けることを止めず、答えは返ってこなかった。その眼は、まさかハンタロウが答えを聞けるとは思っていない、という確信を諦めてはいなかった。
もう一度聞いた。
「小夜子はどこだ?」
答えはなかった。
諦めたくはなかった。ロマンに負けるなど、信じたくはなかった。もう一つだけ聞いた。
「何がお前をそうさせるんだ。」
初めて、シンイチロウが答えた。
「ア・イ・ン・シュ・タ・イ・ン」
諦めた、あるいは諦めさせられた。どちらでもいいことだ。
心の中で呟いた。呟かざるにはいられなかった。
『サヨナラだ、シンイチロウ。時代は変わったんだ。』
ハンタロウはホルスターからワルサーを取り出すと、狙いも定めずに引き金を引いた。
狙いもしないのに、心臓に穴が開いた、眼があらぬ方向を向いた。
その眼は、ハンタロウを見つめるのは止めても、それ以外の何かを見つめているようだった。
羨ましかった。すぐさま、その感情を消し去った。

長かった夜が、ようやく明けた。
すがすがしい朝の空気の中を、清掃車が移動していた。街の中心部、繁華街のごみは前日の夜に出される。清掃員は朝早くからそれらを回収した後、住宅街へと向かうのだ。従って、それよりも早ければ、人通りのない繁華街には、ごみだけがいる。
清掃車は停まり、男がごみを集め始めた。
「コラ、あっちへ行け。」
カラスを追い払いながら、男はごみを清掃車へと放り込んでいた。
舌打ちしながら男が言った。
「まただ。」
相方の若造はすぐにさぼりやがる。最近の若いのには根性がない。ゴミを集めるのにも、根性が必要だ。そんな時代なのだ。
「オーイ、何やってんだ、コラ。」
男は相方を探して、車道の方に回った。その若造は立っていた.
「早くしねぇか、全く。ちっとは仕事しろ。」
若造は振り返り、そして見ていた方向を顎でしゃくった。その眼は怯えていた。
男は、その方向を眼で追った。いつも見かける広場だ。
それほど広くない、街のテーマパーク。中央には今度建設される道路を記念した、オブジェが立っている。
視線の先に、そのオブジェが眼に入った。意味の分からない現代美術、今朝はその意味がもっとわからなくなっていた。眼を凝らした。オブジェの天辺に不自然にぶら下がっているものが見えた。
近づいた。こいつは美術なのか、新しいオブジェなのか。オブジェといえば言えなくもなかった。人の形をしたオブジェ。胸の部分が天辺に突き刺さっている、オブジェ。眼を見開いたままのオブジェ。
「ウ、ウ、ウァ、ウ、ワ。」
言葉にならない言葉を吐くと、男は既に走り出していた。

男が駆け出して、三十分もしないうちに、報道は開始された。
「本日、未明、暴力団平賀組系構成員とみられる射殺死体が発見されました。警察は、孝和会系関一家との抗争に絡むものとして捜査を進めております。また、警察は孝和会系関一家、関孝和が既に一昨日の夜に射殺された事件の発表にも踏み切りました。これは、人質の安否を考慮したため、これまでの公表を控えていたものであります。
人質として安否が気遣われているのは、香坂レオナさん、三十一歳で、道路建設による利権争いによる、平賀、関両暴力団の抗争に巻き込まれた模様。現在も警察による必死の捜索が続いております。
繰り返しお伝えします、・・・」
朝はいつも通りやってきた。新しい夜明けだった。その夜明けは等しく平等に分け与えられるべきものだ。貧富の差もなければ、老いも若きもない。誰もがその権利を持っていた。
ただ、一人、シンイチロウを除いて。

第Ⅻ章 約束の畔

 二日目の夜が明けた。二日間も男性と夜を過ごしたのは初めてのことだった。いや、夜を過ごした、という言い方は相応しくないだろう。飽くまで夜という時間が経過して行っただけだ。その時間の中に彼がいただけだ。
レオナは車の中から彼を見た。
丈の短い革ジャン。いくらくるまっても、その長い脚ははみ出している。寒いのか、寒くないのか、夢を見ているのか、見ていないのか、車の中からではその表情は良く分からなかった。
既に陽は上がっていた。朝はやって来ていた。
朝とは残酷なものだと思う時がある。生きている限り、人は永遠に夢を見続けることはできない。夜が去ることも、朝が来ることも、止めることは出来ない。朝の光がいくらか優しかろうと、その光は、夢の延長をお預けにしたまま現実を照らす。
勿論、うなされる夜もあれば、待ち遠しくて堪らない朝もある。その一方で、夢とわかりつつも見続けたい夢があり、出来ることなら目覚めたくない現実がある。
もう一度、レオナはヒデキを見た。ひょろ長い脚、細い顎、黒い髪。この男性と二日間の時を過ごした。
時間とはおかしなもので、濃度がある。膨大な時間を過ごしても、希薄な場合もあれば、ほんの一瞬でも濃厚な時が過ごせる場合もある。
レオナにとって、この二日間は密度が高すぎて凝固しそうなくらいだった。きっと普通の成分なら、その液体は凝固して固化してしまったことだろう。がっちりと原子の格子が絡まり合って、その分子構造は到底分解することは出来なかっただろう。
しかし、その成分は時間だった。改めて、レオナは時間が容赦なく一方向にしか経過しないことを思い知った。
夜は去り、朝はやってくるのだ。夢はお預けとなり、現実が歩き始める。
止めたかった。こんな時間など、止めてしまいたかった。光となって、永遠の時間を今のままでいたかった。しかし、レオナはそれほど速くはないのだった。
ラジオが鳴っていた。レオナの名前が幾度となく叫ばれていた。
これは知らせなければならない出来事だ。少なくともヒデキには、知る権利があるだろう。知った後、ヒデキがどうするのか、そしてレオナがどうしなければならないのか、レオナには予想もつかなかった。
しかし、決着は何らかの形で付けざるを得ないだろう。いずれにせよ、今のままなら時間は一方向にしか進まない。レオナはゆっくりとドアを開けると、ヒデキの方へ歩いて行った。

鳴りっぱなしのラジオの内容をもう一度確かめた。
『孝和会か?』
いや違うだろう。もし、孝和会だとしたら、こんな大っぴらなことはしないはずだ。ただでさえ、大きな利権が動こうとしている今、いくら組長への報復とはいえ、その利権までパァにするような危険は犯さないはずだ。プロにはプロのやり方がある。少なくともチンピラ一人殺したことを、ここまで無防備に警察やマスコミに晒すようなことはしない。
やはり奴だ、とヒデキは思った。
上手い手だ。三発も食らった挙句、心臓をぶち抜かれた死体。ご丁寧にも、その死体が街のど真ん中のオブジェとは気が利いている。
マスコミは、てっきり抗争だと思い込み、ヒデキは逆上してひょっこりと顔を出す。一石二鳥。余程頭の回る奴でなければ、こんな手の込んだ芸当は思いつかないだろう。
落ち着け。
そこまで分かっていて、奴の手に乗ることはない。シンイチロウは死んだ。いや、殺された。ヒデキは何もしてやれなかった。なおかつ、シンイチロウは勝手に死んだのではないのだ。死んだ理由、いや死なせた理由の全てがヒデキにあるのだ。そうやって死んだ弟分の死に水さえ取ってやれなかったのだ。
しかし、落ち着くのだ。だから、落ち着くのだ。今はそれ以上の方法はない。
運転席のレオナを見た。
心配そうな眼は美しかった。
その眼の言うとおり、ここで泣き崩れようと、怒り叫ぼうと、何の得にもなりはしない。美しい眼が言った。落ち着け、と。考えろ、と。

ヒデキは考えた。
確かに上手い手だ。しかし、危険な手でもあることも確かだ。奴は危険な橋を渡っている。それは取りも直さず、危険と承知で渡らざるを得なかった証拠だ。でなければ、奴は是が非でも他の手段を考えただろう。
奴も焦っている。他に打つ手はないのだ。
そして、次の手を打つのはこちらの番だ。
レオナに向き直った。
「シンイチロウが殺された。シンイチロウは俺の弟みたいな奴だった。殺したのは、俺のアニキみたいな奴だ。だから、俺は行かなきゃならない。」
レオナはこっくりと頷いた。
「最後のお願いだ、もう少しだけ付き合って欲しい。」
ヒデキはレオナに近づき、耳打ちした。レオナとする、最後のちょっとしたゲームだ。危険はない。
レオナは吹き出すように笑ってから、右手の親指を突き上げて、拳の背中を見せた。
「じゃぁ、行こうか。」
レオナは微かに微笑み、そして真顔に戻った。
良い笑顔だ。忘れはしない、とヒデキは思った。
「レオナの代理店の電話番号は、なんだっけ?」
レオナは不思議そうな顔をして、ダッシュボードから手帳を取り出した。ヒデキは、番号を白紙のページに書き写し、そのページを引きちぎった。
「また、仕事がある時には電話するよ。きっとそんな時もあるさ。
さぁ、行こう。」
レオナは首を振りながら、ハンドルを握った。
街道に出る前に電話ボックスに寄った。何か所かに電話をした。電話する相手が正しい相手なのか、その内容が的確なのか、それは分からなかった。しかし、やるだけはやろう。後は思い切るしかない。
街道に出ると、レオナがビトルボを止めた。ヒデキが降りようとすると、レオナが口を開いた。
「ねぇ、ヒデキ、あの賭け覚えてる?」
光になれるか、なれないかの賭け。バカバカしくも充実した時間に交わした会話。確かにそれは、ヒデキとレオナ、二人きりの時間であった。
ヒデキは答えた。
「あぁ、忘れやしないさ。」
そうだ、決して忘れることはない。レオナが勝ったら、ヒデキが革ジャンをやり、ヒデキが勝ったらレオナを頂くのだ。
バカバカしいが、気が利いている。
「嬉しいわ、約束ね。」
と言ってレオナは小指を立てた。その小指に自分の小指を軽く絡めた。
絡めたレオナの小指は、寒くもないのに震えていた。
優しい女だ。別れの言葉など言わせないぐらい、優しい女だ。賭けは成立した。もうバカバカしくはない。こいつは参加する事に意義がある。そして、決して忘れないことにも意義がある。
ヒデキはビトルボのドアを閉めると、すぐに道路沿いの茂みに身を隠した。
何台かの車が通り過ぎた。ビトルボは止まったままだ。レオナは出てこなかった。
向こうからお誂え向きのメタリックグレーのセルシオがやってきた。新車だろう。どうやら乗っているのは男一人。ヒデキとレオナの最後のゲームの始まりだ。
車からレオナが降りてきた。
その姿にはヒデキも驚いた。ブラウスを外に出したまま、その下は生の太腿だ。穿いていたはずのピンクのミニは、すでにどこかに行っていた。スラリと伸びた腿の付け根を、かろうじてブラウスの裾が隠していた。
ヒデキはニタリと笑った。女は役者だ。ゲームは二人の勝ちだろう。
レオナはそのままボンネットを開けると、ハリウッド的古典映画を忠実に再現した。そして、メタリックグレーのセルシオも、その演技に忠実だった。
セルシオがビトルボの後ろに車を付けた。中年の男。きっと悪い奴ではないのだろう。ヒデキは音もなく車に駆け寄った。つけっぱなしのキーが見えた。レオナを見やった。ヒデキを無視して男と話す横顔。ついでに太腿も見た。これで見納めだ。
ヒデキは運転席に飛び込んだ。セルシオが動いた。呆気にとられる男の顔が横切る。レオナもボンネットを叩きつけ、ビトルボに飛び込んだようだ。やはりゲームは二人の勝ちだ。互いに反対方向に走り去るセルシオとビトルボのエキゾーストノートが、「See You!」と男に別れを告げた。

どこかで車の音がした。その音で小夜子は眼が覚めた。すぐに起き上がると、周りを見回した。
音はどこか近くの支道を走っているようだった。音からして複数台のようだった。追っ手か、ならばどうするか。身をひそめたまま考えた。暫くすると、音はそのまま追いつけないところまで遠のいていった。
小夜子は、スティードに戻った。そして、クシャクシャになった紙切れを丁寧に広げた。小さくても、汚くても、シンイチロウの心のこもった紙切れだ。このパズルは諦めてはならない。目的地はもうすぐのようだった。
「何処に行けと言っているのだろう?」
しかし、シンイチロウが命がけで渡してくれた地図だ。街に戻るために描いたわけではないことはたしかだ。スティードを起こした。後は押していくしかない。
スティードを押しながら、小夜子は懐かしかった。バイクの乗り方を教えてくれたのは、シンイチロウだった。バイクは乗り方より押し方なんだと言って、なかなか乗せてくれなかった。小夜子がむくれると、むくれた顔も可愛いと言うので、バカバカしくなって素直になった。そんなことを思い出すと、涙が出そうになった。
小夜子は何も考えないことにした。山の空気を吸って、スティードを押した。押しては紙切れを確かめ、行く先を確認した。何度か、そんなことを繰り返した。最後の角を曲がった。
見えた。
小夜子は思わず息を飲んだ。自然と笑みを浮かべてしまうくらい、美しい湖が待っていた。サイドスタンドを出しスティードを止めて、ゆっくりと水辺へ近づいた。水はそれほど冷たくはなかった。手を浸し、唇を湿らせた。
シンイチロウが連れてきてくれたのだ。
ここで待つとしよう。ここに来ることを信じることにしよう。ここにいる限り、一人ではないのだ。シンイチロウもいるし、大五郎もいるのだ。たとえ眼には見えなくとも、この湖のどこかにきっといるのだ。
風がそよいだ。木の葉がささやき、湖面が揺れた。確かにシンイチロウもいて、大五郎もいた。湖は優しかった。

レオナはセルシオと別れると、再び山の方へと戻った。戻るまでに一度電話ボックスに立ち寄り、電話を掛けた。山の支道で車を止め、その電話の内容をどうするかを考えていた。
街へ車を向けて十分も走れば、元の生活だ。きっと警察が盛大な出迎えをしてくれることだろう。危うく難を逃れた抗争事件の人質。またぞろ福井のような代理店が、上手くイベントの材料にするのか。
何かレオナには、物足りなく思えて仕方がなかった。何故なのか、レオナは思った。
「小夜子。」
レオナは一人笑った。小夜子だ。あの美しい娘は、きっとヒデキを待ち続けていることだろう。
しかし、ヒデキと小夜子は、多分会うことはない。それをレオナは知っていた。それこそが電話の内容だったからだ。
しかし、それがどうであろうと、小夜子は待ち続けるに違いない。信じ続けるに違いない。何処にいるのか分からなくても、何をしているのか知らなくても、信じることだろう。恐れはしないだろう。何故なら、それはあるのだから。
そう教えたのはレオナだった。
きっと小夜子はそうするだろう。
ならばレオナは。
レオナはヒデキとの賭けを思い出した。もう一度だけゲームをしてみよう。それからでも、元の世界に戻るのは遅くはないはずだ。
レオナはそう心に決めると、ビトルボのハンドルを回し、行き先を山から街へと変えた。

ヒデキは、セルシオで街を流しながら、様子を窺っていた。今頃警察は、盗難車の通報を受けていることだろう。しかし、すぐには警察も動けまい。そして、ヒデキには一時間ほどあればいいだけだ。
一時間したら、奴と決着を付ける。
ヒデキは三か所に電話をした。一つ目は関の事務所だった。シンイチロウの仇を今日取りに行くと言ってやった。それだけですぐに切った。
二つ目は警察だった。同じく、シンイチロウの仇を討ちに、関の事務所に突っ込む、と言った。
信じるか、信じないか、それは分からない。上手くいけば、関の方へ注意が向く。向かなければ向かないで仕方がない。
三つ目は、レオナの代理店だった。
ハンタロウの秘書を装った。もしかすると代理店がハンタロウのスケジュールを知っているかもしれない、そう思っただけだ。知らなければ知らないで、これも仕方がない。それならそれで運がないだけだ。
運はあった。ハンタロウは二時に中央の役人を迎えに出る。
それだけでいい。相手の手の内が分かれば、後は実行に移すだけだ。冷静に考えて、五分と五分だ。不意さえ突ければ、七分三分も嘘じゃない。いや、今はそう信じておくことにしよう。
ゆっくりと、ヒデキは街を流した。あと一時間で決着はつく。それまでは小夜子の事でも考えていよう。勿論、決着が付いた後まで考えよう。ヒデキの時間は決して一時間で止まることはないはずだ。その後にはまた、新しい時間が待っているはずだ。そこにこそ、小夜子は待っている。早く来て欲しいと、待っている。そこに着くまでには、ヒデキはもっと速くなっていることだろう。物凄い速さになっていることだろう。必ずなってみせる。
ヒデキは街を眺めた。そして思いを小夜子からシンイチロウに移し、最後にこれから決着を付ける相手に移した。
腹の底から憎悪が湧き上がってきた。ここからはこの憎悪を醸造させる時間だ。たっぷりと発酵させてやろう。そして、たった一度だけその味をふるまってやろう。二度とは味わえない代物だ。そいつはどんな赤ワインの赤よりも濃い赤と交じり合い、得も言われぬ液体となって、奴の身体に滴る事だろう。
ヒデキの憎悪は発酵し続けていた。残りの時間が無くなるまで、ヒデキはそれをし続けようと思った。

じりじりとした時間が過ぎていた。ハンタロウは時計を見た。一時三十分。もう出かける時間だ。奴は来なかった。
来るならここだと思っていた。思い出の倉庫。そこは奴とハンタロウとシンイチロウの倉庫だ。必ず来る、そうハンタロウは踏んでいた。
どうやら奴は遅れている。
指で時計を指しながら、男たちを見やった。頷く男たち。出掛けている間に奴が来たとしても、その打ち合わせは済んでいる。奴らにとっても二度目の失敗は許されないのだ。問題はない。
問題は何もない、とハンタロウは頭の中で反芻した。とち狂ったロマンとやらを叩き潰す、それが今しなければならないことなのだ。
中央の役人は、レオナなしでもなんとかなる。そして、小夜子はヒデキなしでは何もできない。役人にはそもそもロマンの必要などなく、小夜子には、ロマンの後の現実に目覚めてもらおう。バカは死ななきゃ治らない。そして死んだバカを見て、利口なバカは現実に目覚めるのだ。
既に目覚めていないバカは少なかった。関も平賀も、住民も代理店も、現実に気が付き始めている。ほんの少しだけ、マスコミと警察がうなされているだけだ。それももうすぐ、目が覚めることになる。
だから、問題はない。
ハンタロウは男たちに手で合図をすると、倉庫を出ようとした。その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、私、代理店で福井の代わりを務めております、高野と申します。」
「はい。」
「大変お世話になっております。失礼ですが、、、」
福井の後任には、高野という人物がついていた。代理店らしい代理店の男。福井と違い、度胸はない。福井はその点、惜しいことをしたものだとも思ったりする。ただ、それも犠牲の一つに過ぎない。惜しすぎるほど、惜しいものでもない。
「どうも、こちらこそ。これから出るところなので、また連絡しますよ。」
ハンタロウは切ろうとした。
「大変申し訳ありませんでした。何か連絡の手違いがあったようで、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。二時の出迎えはオンスケジュールのままですので、よろしくお願いいたします。」
二時の出迎えは、昨日の打ち合わせのままなはずだ。何の変更もない。切ろうとする手を止めて、ハンタロウは携帯を握りなおした。
「はい、こちらもそのつもりですが、何か不都合でもありましたか?」
「いえ、直前になって二度も確認の電話が入りましたので、こちらも何かのミスがあったのかと思った次第です。そのため、念のための確認をさせていただきました。」
念のための確認だと。ありがたい確認だ。度胸のない奴のご確認、たいそうなことだ。
「それではよろしくお願いします。どうもしつこい確認で申し訳ありませんでした。」
電話は静かに切れた。しつこくて申し訳ありましたよ、とでも今度会ったら言っておこう。
出る前に倉庫を振り返った。それなりに懐かしかった。決して悪い時間を過ごしたとは思わない。ヒデキ、シンイチロウ、そして小夜子。恨みたければいくらでも恨め。しかし、この世に生きる限り、俺のやり方は正しいのだ。それは誰も避けることのできない、時の流れなのだ。
数名の男たちとともに、ハンタロウは車に乗り込んだ。既に時刻は二時に近づいていた。

この街の時間は、確実に流れていた。そして、ある者たちにとっては、非情に密度の濃い時間が訪れようとしていた。いつもと同じ時を刻んで。いつもと同じ速さで。
町中の時計という時計が、何時もと同じように同じ角度になった。二時だった。

ヒデキは迷わなかった。セルシオをゆっくりとターミナルから駅の入口へと進めた。それらしい男たちが、そこかしこに見えた。まだセルシオの持ち主がヒデキだとは気付かれてはなかった。しかし、彼らの眼はヒデキが来ることを確信している。
それ程大きくない街の中心駅。中央の役人の出迎え。見ると警察の姿は少ない。どうやら多少は電話が効いたらしい。それだけが唯一の救いだった。
なおも車を進めた。その瞬間を待った。大勢の出迎え、そこに混じろうとする時が勝負だ。
役人が出迎えの人たちと握手した。その一群の中にハンタロウの姿も見えた。
出迎えの輪、それが縮まった。
今だ。
ヒデキはセルシオから飛び出ると、ハンタロウに向かって一直線に走った。何人かの男たちは気付いたようだった。しかし、出迎えの人々は、まだ気づかない。今なら男たちは撃てないはずだ。
そのまま走った。眼と眼が合った。
引き金を引くタイミング。
その時ハンタロウが、輪の中に溶け込んだ。
ヒデキと同じ手だ。
そのまま輪の中に突っ込んだ。男たちも突っ込んできた。ようやく輪が異変に気が付いた。
しかし、まだ撃てないはずだ。ヒデキも男たちも。右の男に銃尻を叩きつけた。後ろからも来た。そのまま振り返り、銃を横に払った。空振りだった。下から顎に食らった。倒れ様に、再び輪の中に紛れる。間に人が入る。反転して走り出す。
ハンタロウへ向かおうとした。また別の男だ。構えようとする銃の間合いに飛び込んだ。銃声が空に鳴った。両脇から悲鳴が上がる。勢いで押し倒し、脳天に銃尻を叩きつけた。
そのまま追った。振り返らなかった。ハンタロウの背中だけを追った。
奥に行くと見せかけて、ハンタロウは左に迂回した。激しく動く標的は狙えない。ハンタロウはそれを知っていた。ヒデキは追った。ヒデキも同じことだ。男たちを気にはしなかった。撃たれることも気にはしなかった。攻撃こそ最大の防御だ。
輪は完全に広がっていた。動いているのはヒデキとハンタロウと、そして男たちだけだった。身を護るものなど、すでになかった。
どちらが速いかだ。やられる前にやるか、やる前にやられるか。速くなりたかった。自分の速さがもどかしかった。銃声がした。足元が弾けた。構わなかった。ハンタロウが車に取り付こうとしていた。そこに辿り着く前に、撃つのだ。走りながら右手を突き出した。狙いは定まらなかった。なおも走った。撃った。車にさえ当たらなかった。ハンタロウが車に飛び込むのが見えた。終わった。後方の男たちが、ようやく狙いを定められているのを背中に感じた。
いきなりブレーキ音が鳴った。横から物凄いタイヤの音がした。
一瞬、ヒデキは何をすればいいのか分からなかった。男たちも同じだった。
その瞬間に、車が突っ込んできた。ビトルボだった。
「バカな。」
そう思った時には走り出していた。
男たちは一瞬だけためらった。その間隙をついて、ビトルボがヒデキの眼の前に突っ込んだ。そう思った時には、ビトルボはスピンしていた。そのままドリフトして、一瞬、止まった。いや、方向を百八十度変えただけだった。
一瞬振り返った。男たちが態勢を取り直しつつあった。その中の一人が銃を構えているのが見えた。
「ヤバい。」
ヒデキは横っ飛びに、車の屋根を横転した。銃声がした。激しくフロントガラスが割れる音がした。一瞬、血飛沫も見えたような気がした。
車の屋根を横転して、逆側に転がると、すぐにドアを開けた。呻き声のレオナを強引に助手席に押しやり、すぐにハンドルを握った。
眼の前に銃口が見えた。その銃口めがけて、ヒデキはアクセルを全開で踏み込んだ。

「ヒデキ。」
蚊の鳴くような声だった。爆走するビトルボの走行音に掻き消されないのが不思議だった。
「何も喋るな!」
レオナの胸からは、恐ろしいくらいの血が流れだしていた。その血がミッションといい、シートといい、ビトルボのいたるところを赤に染めていた。
「ヒデキ。」
レオナは力なくヒデキの顔を見上げていた。溢れ出た血は、レオナの身体を真っ赤に染めていた。胸も、腰も、太腿も、つま先も、全部真っ赤だった。ピンクのミニも真っ赤だった。恐ろしいぐらい美しい赤だ。悔しいぐらい美しい赤だ。
「ヒデキ、あの賭け覚えてる?」
そう言うと、レオナは咳き込んだ。口からも真っ赤な液体が零れ出た。
ビトルボは悲鳴を上げるようにして、突っ走っていた。
車体の揺れが、その赤を微妙に震わせ、それは艶めかしいぐらい美しい赤だった。今すぐ抱きしめて、口づけして、髪を撫でて、肩を抱いて、くびれた腰に手をやって、それから、、、。
それから何をすればいいのか。
「ワタシ」
レオナはさらに何かを言おうとした。
フッと、レオナが速くなったように思えた。
「待て、待つんだ、レオナ。」
ヒデキはなおもアクセルを踏みつけながら叫んだ。
レオナが言うのが、かろうじて聞こえた。
「あの賭け、、、」
更にレオナが加速した。
「私の負けね。」
レオナが見上げてきた気がした。
首がガクリと崩れた。
その瞬間、レオナが光になった。
「バカヤロウ。」
あらん限りの声を張り上げて、ヒデキは叫んだ。叫んでも叫んでも、レオナは光のままだった。

ビトルボは、すでに停車していた。高速道路建設予定の高架橋。海に突き出したまま、その先端は向こう岸を見つめていた。全ての片が付く頃、その先も繋がることだろう。
ヒデキは優しく語りかけた。助手席で目を瞑ったままのレオナに語り掛けた。
「なぁ、レオナ、何時からお前はそんなに速くなっちまったんだよ。」
真っ赤に染まったレオナに話しかけた。
「レオナ、嘘だろ。そんなに速くなる訳なんて、ねぇじゃねぇか。」
レオナの身体を揺さぶった。
顔も、首も、胸も、太腿も、すぐそこにあるのに、レオナの時間だけが止まっていた。
「なぁ、レオナ、お前は今、光のスピードで突っ走っているだけなんだろ。そうなんだよなぁ。俺はのろすぎちまって、お前の時間が止まっちまったようにしか見えねぇじゃねぇぁ。」
涙が溢れた。もっともっと溢れ出て、レオナの赤を洗い流してしまいたかった。洗い流してもレオナは戻って来そうにないのが、悔しくてまた涙が出た。
「レオナ、お前は言ったじゃねぇかよ、永遠に二人の時間になるんだって。他の人間が立ち入ることのできない時間になるんだって。
なぁ、頼むよ。俺はまだそんなに速くないんだよ。もう一度、ゆっくりしてくれよ。それから一緒に光になっても遅くはないだろう。」
ヒデキはレオナを抱きしめた。思いっきり強く抱きしめた。いくら抱きしめても、レオナは遅くはならなかった。
遠くで車の音がした。微かにサイレンの音も混じっていた。
ようやく追いついてきたようだ。
ヒデキはもう一度レオナの身体を両手で抱き直し、崩れかかろうとする姿勢を直した。
「レオナ、賭けはお前の勝ちだよ。」
そう言って、丈の短い革ジャンをレオナに掛けてやった。
レオナが微笑むのが分かった。
レオナの顔を両手で触りながら、顔を見つめた。赤く染まっても、その顔は美しかった。口づけをした。そして言った。
「今度は俺の番だ。すぐにお前に追いついてやるよ。すぐさま追いついて、お前の時間を止めてやる。それまでちょっとの辛抱だ。」
何も言わず、レオナが凭れかかってきた。
そうだ、二人で行くのだ。もう誰も止めることも、見ることも出来ない、そんな時間に二人で飛び込むのだ。
「さぁ、行こうか。どんな世界が待っているのか、二人で見に行こうぜ。」
ヒデキはエンジンを吹かせた。どうやらビトルボも着いて来る気らしい。
ニヤリと笑った。海を見つめて笑った。
アクセルを思い切り踏み込んだ。

一台の車が建設中の高架橋の先端から海へ飛び込んだ。男たちには、その車がゆっくりと弧を描いて海に舞うのが見えた。それは確かにゆっくりと落ちて行った。まるで時間の経過が遅れてでもいるかのようにゆっくりと。そして、ゆっくりと男たちの視界から消えて行った。

第ⅩⅢ章 方程式の解

ハンタロウは自宅のマンションの前に車を停めた。既に夜だった。
派手な駅前の事件の後では、なす術もなかった。中央の役人、そして警察、どちらもやり直しだ。男たちも緒方と共に帰って行った。
エレベータに乗った。
何を間違えたのかと考えた。何も間違えてはいなかった。論理的には正しかったのだ。ただ、論理と現実が食い違っていた。
よくあることだと思いながら、エレベーターを降りた。こういう時はゼロからやり直せばいい。もう一度、丹念に方程式を組みなおせばいい。解けるまで、何度でもやる。それだけだ。
マンションのキーを回した。
今日だけはゆっくりと休むことにしよう。そして明日から、もう一度取り組むのだ。こんなことで気力が萎えてしまうことはない。
「春江!」
返事がないところを見ると、今日も出掛けているようだ。
シンイチロウの一件以来、殆ど家に寄り付かなくなってしまった。別に何を問いただすでもないが、口を利く気もないようだ。勿論、ハンタロウから話すことも何もない。時が流れるのを待つだけだ。
靴を脱いだ。
影が揺れた。
前方に眼を凝らした。
明かりは点けなかった。
「誰だ?」
影が揺れるのを止めた。
「誰だ?」
繰り返した。
影が答えた。
「アインシュタイン」
その瞬間、ハンタロウの額に穴が開いた。
ハンタロウが銃声を聞いた時には、ハンタロウの時間は既に止まっていた。

全てが終わった。ハンタロウも、シンイチロウも、そしてレオナも光になった。
歩きながらヒデキは思った。こうなるしかなかったのか。
考えても答えは出なかった。
歩いた。
考えまいとしても、次から次へと考えが湧いて出た。
ハンタロウが感想文を募集していた。
シンイチロウが原稿用紙の上に涎を垂らしていた。
関の向かい側にレオナが立っているのが、窓の外から見えた。
みんなほんの少し前の出来事だった。
しかし、逆戻りは出来なかった。
歩いた。
夜空には、星が光を湛えていた。みんな遠い彼方へと、永遠の旅を続けていた。
こうなるしかなかったのか、もう一度ヒデキは考えた。
考えても答えは出てこなかった。
道を曲がった。湖が見えた。

答えが、たった一人で待っていた。

大きめの石を一つ拾い、そして投げた。湖が大きめの音を立ててヒデキを出迎えた。

答えが、振り返った。
小夜子。

二人だけの時間だ。もう誰もこの時間に入り込むことは出来ないだろう。

ゆっくりとヒデキは、小夜子に向かって歩いていった。




あとがき

現在は二〇二三年です。一方、この原稿が書かれたのは、本文の記載からすると、どうやら一九九二年の事のようです。今から実に三十一年前と言う事になります。私が丁度現在六十二才なので、折り返し地点の丁度三十一才の時に書いたものと言う事になります。
サラリーマンを辞め芸能プロダクションに入ったのが二十八才、そこを一年半ほどで追い出され、その次はホコ天を仕切るプロダクションに厄介になったので、三十一才というと丁度その頃のことになります。
一九九二年というとまだ、Windowsやインターネットが出回る前ですから、小説では、小道具で出てくる携帯電話はガラケーですし、プッシュホンがまだ生きています。思えば、丁度バブルが崩壊して、失われた三十年が始まった年代と言う事にもなります。
パソコンでいうならPC98でしょうが、今ほどの普及率でもなく、小説を書くならワープロはあったかと思いますが、この小説の原稿はなんと原稿用紙に手書きです(まぁ、原稿用紙って手書きするしかありませんけど。)。つまり、この原稿は文字通り原稿用紙に書かれているものです。しかも、全部で三百十九枚です。原稿用紙三百十九枚って、厚さにして5センチは下りません。重量もかなり重いです。幅もあるし、紙がしなるので、持ち運びはかなりしんどいです。そのため、きちんとパンチで穴あけされ、タコ紐と括るための結び目に段ボールでクッションを挟んで、厳重に保存状態にされた原稿用紙のコピーが、二階の屋根裏部屋に長らく眠っていたのでした。
かなり記憶は薄れていますが、小説なので当然、自己アピールのため書いたわけですから、他の人に配って読んでもらう必要があります。そりゃぁもうコピーするだけで、死にそうになったんではないかなぁ。しかも当時のコピー機なので、その後のゼロックスのように、何部も同時に複写なんかしてくれるようなものでもなかったはずです。
それをいちいち、前述したように自前の製本状態にして、配って歩いたんだと思います。配ったのは、一緒に踊っていたメンバー、舞台監督の福井さん、代プロ時代からお世話になっていた大和田さん。それから、代表と呼んでいた大戸さんとか女性マネージャーの高嶋さんとかにも配ったんだっけかなぁ。後は、テレビプロデューサーの河村さんには配ったはずだけどなぁ。あんまり覚えてはいないですね。反響が全然なかったのだけは鮮明に覚えていますけど。まぁ、反響はそもそも全然期待していなかったですし。だって、配っている時点で、「これは読み辛くって敵わないなぁ。」と自分でも思えましたから。でも、当時はどうやっていたんですかね。というか、昔はこういう方法しかなかったはずですもんね。大変だったろうなぁ。まぁ、いいか。
そんな紙媒体のものを、今回電子データに打ち込みなおしたのが、この文章になります。ただ、打ち込むにあたっては、当然誤字脱字は直しますし、前後の矛盾した記述も修正してしまいます。また、文章自体はおかしくなくとも、三十一年の時を経てしまうと、相応しくないような表現も、同じく修正せずにはいられません。まぁ、それも含めて初版と言う事にしてもらおうと思います。
この文章を打ち込みなおしていて、自分で書いたものなのに、本当に覚えていないものだと驚かされました。相当な時間と相当な想像力を費やして、当時書いたもののはずなのに、三十年も経つと忘れてしまうものなんですね。学生時代は勉強しなかったので何も比較にはなりませんが、会社員時代は学会発表含めてかなり文章は書いた記憶がありますが、これほどまでの文章量になることはありません。そりゃぁそうですよね。原稿用紙三百枚って言ったら単行本に出来ますからね。
そんなことをしたって言うのに、殆ど何も覚えていないのには我ながら何と言うか。
しかし、これを書いている前後か途中には、一部を脚本にしてコントを作って舞台で公演したりもしているんです。その内容も本当に断片しか覚えていないんだよなぁ。舞台公演なので、効果音も使っていたから、その際には、トーマス・ドルビー(Thomas Dolby)のタイトルまで小説の内容にピッタリの「彼女はサイエンス」(She Blinded Me With Sience)や、これまた内容のスポーツカーにもオーバーラップする「フェラーリをぶっとばせ」(The Key To Her Ferrari)何かも使っていました。トーマス・ドルビーは行けてますよね。今でもジャジーでスリリングです。
でも、この舞台の事もあんまり覚えていません。この舞台は映像記録も残っているのかなぁ?シャープの画面が大きなビデオカメラが流行ったのが、丁度この頃だったんじゃないかと思ったりします。ただ、いずれにせよスマホとか ユーチューブの時代ではありませんからね。

兎にも角にも、タイムカプセルのように三十年の時を経て、現代に戻って来てくれたのがこの小説です。大切にしなきゃ罰が当たるのかなぁ、とは思っています。

二〇二三年十月二五日 羽根木 山口祐史

科学になぐさめられる時Ⅰ

2024年5月19日 発行 初版

著  者:山口 祐史
発  行:山口 祐史出版

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