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オープン・ボート、青いホテル、モンスター
スティーヴン・クレイン傑作短編集
明瀬 和弘訳
目次
『誰がために鐘は鳴る』や『老人と海』などで知られるアーネスト・ヘミングウェイは、装飾を排した簡潔な引き締まった文体と骨太の世界観に基づく作品で、同時代やそれ以降の世代に大きな影響を与えた二十世紀アメリカの作家です。
そのヘミングウェイは二十代の若い作家志望者に助言を求められ、十六冊の必読書をメモに書いて渡していました。
手書きの英語なので読みにくいかもしれませんが、このリストにはトルストイの『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』、ドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、スタンダールの『赤と黒』、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』など、世界文学の古典となる長編小説がずらり並んでいます。
他にもジャームズ・ジョイス、フローベル、トーマス・マン、ヘンリー・ジェームズなどそうそうたる大家が名をつらねています。そして、そのリストのトップに記されているのが、スティーヴン・クレインの『青いホテル』と『オープン・ボート』という二つの短編なのです。
クレインは米国の自然主義文学の先駆とされる作家ですが、二十八歳で早世したため、作品の数は多くありません。日本では英米文学の愛好家や専門家をのぞいてあまり知られていませんが、フォークナーやヘミングウェイなど後の世代の作家にも大きな影響を与えています。
余談ですが、ザ・ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の表紙に数十名の著名人の顔写真が使われていることはよく知られています。マリリン・モンローやアインシュタインなど当時の超がつく有名人とならび、エドガー・アラン・ポーやルイス・キャロルなどの作家とともにクレインの顔も出ています(中央のビートルズの四人の左隣)。ちなみに、この表紙はアルバム・カバーとしてグラミー賞を受賞しました。トリビア・ネタとしては、日本の福助人形も小道具として使われています。
それはともかく、『オープン・ボート』は、スペインからの独立を画策しているキューバに新聞社の通信員として取材に向かうために乗っていた船がフロリダ沖で沈没し、三十時間漂流した末に生還したというクレイン自身の実体験に基づいています。
クレインはその体験を海難事故の四日後には新聞にノンフィクションの手記として発表しました、その半年後に小説『オープン・ボート』を雑誌に掲載しています。
手記では状況について事実に即して簡潔に報告しています。一方、短編小説では、全長三メートルの手こぎボートに乗った四人の心の動きに焦点をあて、状況の説明は極力はぶき、極限状況における心理劇として再構築しています。本書では新聞に掲載された手記もあわせて訳出していますので、同じ事故をめぐるノンフィクションとフィクションを読み比べることで、すぐれた作家の創作手法や意識の違いが明確になるでしょう。
『青いホテル』はオープン・ボートとは逆に心理描写がなく、登場人物の目に見える行動のみを追うことで、東部からの旅行者の不条理な死の顛末を描いています。簡潔で乾いた文体でつづられ、ヘミングウェイの短編集に入っていてもさほど違和感がないと思われる作品です。というか、時系列では、クレインが死去した後、それと入れ代わるようにヘミングウェイが生まれているので、ヘミングウェイが親世代のクレインに影響を受けたという方が正確でしょうか。
この短編集には、前記の二作品に加えて、ワイロムヴィルという中西部の架空の町を舞台にした短編『新しい手袋』と中編『モンスター』を併載しています。
前者は他愛もないといえばいえる子供の家出騒動について、子供の視点から心の動きを克明に描いた佳品です。
後者では医師の家庭で起きた火災をめぐって、人間の誠実さとは何か、小さな共同体における人の噂や社会の空気、フェイクやヘイトといったものの持つ力などが描かれ、SNS全盛の二十一世紀のネット社会の縮図を見るようです。あまりに現代的で、現代にこそ通じる作品といえるかもしれません。
ヘミングウェイが若い作家志望者に示したという必読書十六作のリストについては、巻末の「訳者あとがき」で改めて紹介しています。日本では絶版のものもありますが、図書館や古本屋で忘れられた名作を探すのもミステリーの謎解きみたいで楽しいですよ。
おことわり シェイクスピアの戯曲やディケンズの小説など古典の名作と呼ばれるものには、現代の観点からは不適切と思われる表現や用語が用いられている場合があります。
それについて、本書では、文章全体を通した作者の意図を考慮し、意味をそこなわない範囲で必要に応じて現代の表現に改めてあります。あらかじめご承知おきください。
His New Mittens
一
ホレス少年は歩いて下校していた。手に赤い手袋をはめている。まだ新しくて光り輝いている。
原っぱでは、大勢の少年たちが楽しそうに雪合戦をしていた。
彼らはホレスに声をかけた。
「ホレス、来いよ。戦争ごっこやってるんだ」
ホレスは悲しかった。
「だめだよ」と、彼はいった。「できないんだ。家に帰らなくちゃ」
家で昼食を食べたとき、彼は母親にこう命じられていた。
「いい、ホレス。学校が終わったらまっすぐ帰ってくるのよ、聞いてる? こんなきれいな新しい手袋をぬらしちゃだめよ、わかった?」
また、伯母もこういっていた。
「この子がモノを粗末にしないように、きちんとしつけないとだめよ、エミリ」
伯母はこの手袋のことをいっていたのだ。そのとき、ホレスは母親には素直に「わかった」とこたえた。とはいえ、彼はいま大声で騒いでいる仲間のそばを歩いていた。白い雪の玉が飛びかい、そのたびに連中はタカのように叫び声をあげている。
いつもとちがってホレスがなぜ参加をためらっているのか、すぐにわかった子もいた。
「ははーん」と、彼らは足をとめて小馬鹿にしたようにいった。「そうか、新しい手袋をよごしたくないんだな、そうだろ?」
まだ人の動機を見抜くほど知恵がついていない年少の子たちの中には、そうした攻撃に拍手喝采する者もいた。
「手袋をよごしたくないんだ! よごしたくないんだ、手袋を」と、彼らはその言葉を単調で残酷なリズムに合わせて歌うように口をそろえて叫んだ。「手袋をよごしたくないんだ!」
こういうはやし言葉のコーラスは、一人前になった大人たちはすっかり忘れてしまっているが、子供の世界ではずっと昔から続いていることだ。
ホレスは遊んでいる仲間をつらそうに眺め、それから足下の雪に視線を落とした。歩道の縁にはカエデの並木が続いている。彼は大きな幹の一つに向かった。ごつごつした分厚い樹皮を子細に調べるふりをする。恥ずかしいという思いがあるせいか、ワイロムヴィルのこの見慣れた通りは濃い影におおわれていた。暗くなったように感じられた。木々も家々も今はもう紫色がかって見えた。
「手袋をよごしたくないんだ!」
このおそろしい合唱には、野蛮人たちが歌をうたいながら月明かりの下でたたく太鼓のように士気を高める効果があった。
ホレスはやっとの思いで、顔を上げた。
「そんなこと、気にしてないよ」と、彼はぶっきらぼうにいった。「家に帰らなきゃならないんだ。それだけ」
すると、少年たちは、小馬鹿にするように左の人差し指を鉛筆みたいに突き出し、それをナイフにみたてた人差し指で削りはじめる。彼らは近くまでやってくると、訓練されたコーラスのように声をそろえた。「手袋をよごしたくないんだ!」
それを否定しようと、ホレスは声を張り上げる。が、大勢の叫び声にかき消されてしまう。
少年期の常で彼らは情け容赦なく攻めてくる。ホレスはそれに一人で立ち向かっていた。そんなみじめな状態に陥っていたので、ほんの赤ん坊のような子が彼の脇にまわってくるのにも気づかなかった。その子は大きな雪玉を投げ、それが彼の頬に当たった。
その行為は大喝采を博した。
ホレスはその攻撃者に飛びかかろうと振り向きかけた。が、すぐにその反対側でも不穏な気配を感じたので、ホレスとしては自分を悩ませて大はしゃぎしている連中の方に顔を向けたまま警戒していなければならなかった。その赤ん坊のように小さな子は無事に仲間のところに戻り、まわりの子たちから大胆不敵なその行為をほめそやされている。
ホレスはゆっくりと歩道を後ずさった。自分は寄り道せず家に帰らなければならないのだと懸命に説明しようとするが、聞こえてくるのは「手袋をよごしたくないんだ!」という大合唱だけだった。
こうした攻撃に意気消沈したホレスは絶望的な思いで退却しながら、なんともいえない苦しみを感じていた。
ホレス自身も少年だったが、彼はその年頃のは男の子がどういうものか、まるで理解していなかった。連中はしつこく追ってくるだろうと彼は思いこんでいた。が、原っぱの端の方にまでくると、彼らはいきなりそんなことをまるで忘れてしまったようだった。彼らは気まぐれなスズメの群れのような悪意を持っていただけだった。彼らの興味は気まぐれで、すぐに何か他のことに向けられる。誰かボス的な立場の少年が、「おい、こっちに来いよ」とでもいったのだろう。彼らはまた原っぱに戻っていき、雪にまみれて大騒ぎを再開した。
追跡が中止されると、ホレスもまた退却するのをやめた。プライドを回復するのに、しばらく時間がかかった。それから、みんなの方にそっと歩いていく。
彼の心にもまた大きな変化が起きていた。相手の敵意が消えてしまうと、彼の痛いような苦しみもなぜか消えてしまったのだ。こういう子供たちの生活では、きちんと決まった型のない行動というのは気まぐれだ。無慈悲だし、きびしくもなる。とはいえ、連中も結局はホレスの仲間であり友だちではあった。
少年たちはホレスが戻ってきたことに気がつかなかった。口論していたからだ。
彼らの戦争ごっこは、先住民と騎兵隊との戦いという設定になっていた。
最初のうち、小さくて弱い少年たちが先住民になるよう仕向けられていた。しかし、彼らはもうそれに嫌気がさし、立場を変えてくれと強く主張していた。年長の少年たちは最初の戦闘で先住民を手ひどくあしらって大きな武勲をたてていたので、当然のことながら彼らは当初の想定通りの戦闘続行を望んでいる。
彼らは、騎兵隊が先住民をやっつけるのは当たり前だ、と大声で説いている。小さい子たちはこの主張の正しさを否定するものではなかったが、彼らはただ、その際には自分たちも騎兵隊になりたいのだという一点に主張を限定した。年少の少年たちは、それぞれ他の少年に対し先住民になってくれるようてんでに頼んでいる。で、自分自身はどうかというと、騎兵隊に加えてもらいたいと繰り返すのだった。
年長の少年たちは小さい先住民の熱意不足をなげき、すかしたり、おどしたりしている。が、小さい子たちを説き伏せることはできないでいた。
小さい子たちはまた騎兵隊の攻撃を受けるくらいなら――先住民になるのをやめさせてくれるのなら――多少のはずかしめを受けても仕方がないと思っていた。彼らには「臆病者」とか「弱虫」といった言葉が投げつけられ、そうした言葉は彼らの誇りを深く傷つける力を持っていたが、とはいえ、年少の子たちは断固としてひるまなかった。
すると、長ズボンをはいた年長の少年たちの親分格で、仲間うちでは圧倒的な腕力を持つ少年が、突然、頬をふくらませ、「わかった。もういい、俺が先住民になってやる。さあこい」と叫んだ。
小さい子たちは喝采した。騎兵隊への参加が認められたことを喜び、それで満足したように見えた。ところが事態はすこしもよくならなかった。というのは、その手強い少年の子分たちが、子分でない連中も含めて年長の子たち全員が、みずから騎兵隊の旗を捨て、自分は先住民だと宣言したからだ。今度は年少の子たち以外の騎兵隊がいなくなってしまった。
先住民たちは皆そろって、騎兵隊の陣地からあらゆるものを運び去った。親分格の少年は自分の方にはせ参じてくる連中ににらみをきかせていたが、自分に忠誠を誓っている友だちの忠義を袖にすることはできない。年長の子たちは彼の旗の下でなければ戦うことをこばんだのだ。
そうなると、年少の子たちに勝ち目はなかった。といって騎兵隊を負けさせるわけにはいかない――親分格の少年は再び騎兵隊に復帰し、本当に戦える力を持つものだけに自分の隊に参加することを認めた。そういうわけで、また、みじめな一群が先住民として取り残されてしまった。そうしておいて、騎兵隊は先住民を攻撃しつつ、同時にちゃんと戦えと相手に命じた。
その結果、先住民とならざるをえなくなった子たちは、はじめのうちは急いで降伏するという方針をとった。が、これは不首尾に終わった。誰も降服したとは認められなかったからだ。そこで彼らは大声で抗議しつつ、きびすを返して逃げ出した。凶暴な騎兵隊が歓声をあげて彼らを追いかける。戦線は各地に広がり、あちこちで分遣隊が生まれていく。
ホレスは何度も家の方に歩きかけたが、当然のことながら、この場の情景に金縛りにあったように動けなくなった。眼前の光景は、大人が理解しえないほど、それほど彼の心をそそったのだった。彼の頭の隅には常に後ろめたい気持ちがあったし、言いつけにそむいた罰を受けることも意識していた。が、そういうことは、この雪合戦の極度の興奮に比べればとるに足らなかった。
二
攻撃中の騎兵隊の一人がホレスを発見し、通りすぎながら叫んだ。
「手袋を気にしてらー」
ホレスはこの蒸し返しにたじろいだ。すると、相手の少年はまた立ちどまって彼を嘲笑する。ホレスは雪をすくって玉を作り、その少年に投げつけた。
「おや」と、その少年は叫んだ。「おまえは先住民なんだな。おーい、みんな、まだ殺されてない先住民がいるぞ」
彼とホレスは戦闘を開始した。二人とも雪玉を作るのを優先したので、狙いをつけている暇はなかった。
ホレスは敵の胸の真ん中に玉を命中させた。
「おい」と彼は叫んだ。「おまえは死んだんだぞ。おまえはもう戦えないんだ、ピート! 俺が殺したんだ。おまえは死んだんだ」
相手の子は真っ赤になったが、熱に浮かされたように玉を作り続けた。
「かすってもいない」と、ピートはむっとした顔をしていい返す。
「当たってないよ。どこに――」と、彼は挑みかかるようにいい足した。「どこに当てたって?」
「上着だよ。胸のどまんなか。おまえはもう戦えないんだ。死んだんだ」
「当たってないよ」
「当たったさ、もちろん。おーい、みんな、こいつ、死んだよな? ちゃんと当てたんだ!」
「当たってない!」
誰もこの戦いを見ていなかった。が、四、五人の少年たちは自分たちの友情に従って当事者の一方に味方した。ホレスの相手は「あいつ、俺に当てたりしなかった。かすりもしなかった。近くにも来なかった」といい張っている。
すると、親分格の少年が進み出てきて、ホレスに話しかけた。
「おまえは何者だ? 先住民か? よし、そんならおまえは死んだんだ。それだけだ。あいつ、おまえに当てた。俺は見てた」
「ぼくが、か?」と、ホレスは鋭く叫んだ。「あいつの玉はずっと離れたところに飛んでっただけだ――」
そのとき、彼は自分の名前が、ある聞き慣れた調子の二音――あとの音を鋭く引っ張るリズム――で呼ばれたのを聞いた。
彼は歩道の方を見やった。未亡人の喪服を着た母親が茶色の紙袋を二つ脇にかかえて立っていた。
少年たちは皆しんと静まりかえってしまう。
ホレスはゆっくりと母親の方へ歩いていく。彼女は息子が近づいてくることなど気にもとめていない風だった。葉が散ってしまったカエデの枝のはるかかなたに、虹のかった夕焼けの光が二筋、真っ青な空に横たわっているのを、彼女はいかめしい顔をして眺めている。
十歩ほどの距離まで来たところで、ホレスは思いきっていってみた。「お母さん」と、彼は泣き声を出す。「もう少し外にいても……?」
「だめ」と、彼女ははっきりといった。「私と一緒に来るのよ」
ホレスはその横顔をよく知っていた。情け容赦のない顔だ。それでも彼は頼みつづける。というのも、いまここで大げさに泣いておけば後であまり苦しまなくてもすむという考えが頭をよぎったからだ。
友人たちを振り返って見るなんてことは、とてもできなかった。他の少年たちと同じように遅くまで外にいることができないのは屈辱ではあったし、いまもまた仲間たちが見ている前で母親に連れていかれようとしている。ホレスは自分の立場がどんなものであるか十分に想像することができた。心底みじめな気がした。
二人が帰宅すると、マーサ伯母が玄関の扉を開けてくれた。伯母のスカートの背後から光が漏れてくる。
「あら」と、伯母はいった。「じゃ、途中で見つけたのね? まあ驚いた。そんなことだろうと思ったわ!」
ホレスはこそこそと台所に入っていく。
鉄製の四本の脚を広げたストーブが低いうなり声をあげていた。マーサ伯母はランプをともしたばかりらしかった。ランプのところに行って芯を調べるようにひねったからだ。
「さあ」と、母親がいった。『手袋をみせてごらん」
ホレスはうつむく。
彼の心中では、罪人の抱く願望が――懲罰や正義の手から逃れる場所を求める激しい気持ち――が炎となって燃えていた。
「どこにあるのか、ぼ、ぼく知らないよ」と、彼はポケットの外側で手をもぞもぞ動かしながら、やっとこたえた。
「ホレス」と、母親が声に抑揚をつけていった。「ウソをついてもだめよ!」
「ウソじゃないよ」と、彼はかん高い声でこたえた。羊泥棒みたいだった。
母親は彼の腕をつかみ、ポケットを探りはじめる。すぐにひどく濡れた手袋が引っ張り出された。
「まあ、驚いた!」と、マーサ伯母が叫んだ。
二人の女性はランプのそばへ行き、何度も何度も手袋をひっくり返しては子細に調べている。その後でホレスが顔を上げると、母親の悲しげな主婦らしい顔が彼の方を向いた。ホレスはわっと泣き出した。
母親は椅子をストーブのそばに引き寄せる。
「さ、ここに座りなさい。いいというまでずっとよ」
彼は横手からおとなしく椅子に座りこむ。母親と伯母はせかせかと夕食の支度にかかった。彼女たちはホレスの存在など気にかけていないふりをした。忘れてしまったという感じを強く出したため、お互いに口もきかない有様だった。やがて、二人はリビングを兼ねているダイニングルームへと姿を消した。
皿がガチャガチャと音をたてるのが聞こえてくる。
マーサ伯母が食事をのせた皿を持ってきた。彼のそばの椅子の上に置く。一言もいわずにまた出ていく。
ホレスは食べ物には一切手をつけないでおこうと決めた。彼は母親を相手に何度もこの手を使ったことがあった。その手を使うとなぜか母親が折れてくれる。理由はわからないが、実際に母親が折れてくれたことも何度かあった。
伯母が部屋に戻ってくると、母親は顔を上げた。
「あの子、夕飯を食べてた?」と、彼女はたずねた。
未婚の伯母はそれにはこたえず、母親を憐れみとさげすみの目で見つめる。
「さあ。だって、私が知るわけないでしょ」と、伯母はいった。「私、あの子を見張ってなきゃいけないわけ? あんた、いつもあの子を甘やかしすぎなのよ。あんたの子育て、なってないわ」
「でも、あの子、何か食べなくちゃ。食べないでいるなんてよくないでしょ」と、母親は弱々しくいい返す。
マーサ伯母は、その言葉から母親が折れるつもりなのだと予想し、情けないというように長いため息をついた。
三
ホレスはひとりぼっちで台所にいた。
陰気な顔をして皿の食事を見ている。彼はかたくなになっていた。ずっと意地を張っていた。食事はパンとコールドハム、それにピクルスが用意されていたが、だからといって仕返しを断念したりはしないと、決意してもいた。とはいえ、目の前に食べるものが並んでいると、その決意がゆらいだのは事実だった。とくにピクルスには心がひかれた。彼はぼんやりとそれを見つめている。
そうして、とうとう眼前の誘惑にがまんできなくなり、そっと指をのばし、ピクルスにふれた。
ピクルスは冷たくて、緑色で、丸々としている。するとふいに、自分の置かれた立場は残酷で悲惨なものだという思いがあふれてきた。目に涙が浮かび、頬をつたって落ちた。鼻をすする。
彼の心は憎しみで真っ暗になった。頭の中で、ひどい仕返しをする様子を思い描いてみる。自分が腕で体を守ろうともせず、おとなしく叱責を受けるようなヤワな子ではないことを母親に思い知らせてやりたい、と。それで、彼の抱いた夢というのは感情を押し殺したものになった。その想像の最後の方では、苦しんだ母親が頭をたれて彼の足下にすがりつくものとして描かれた。彼女は涙を流しながら彼の情けを乞う、と。
それで、母親を許してやるのか?
否。
かつてやさしかった彼の心は、いまはもう母親の不正な仕打ちのために石のようにかたくなっている。母親を許すことはできない。彼女は大きな罰を受けねばならない、と。
この恐ろしい計画の第一歩が食事を拒否することだった。それが母親には大きな打撃となることを、ホレスは経験から知っていた。それで、彼はけわしい顔をして待っていた。
しかし、ふいに自分の復讐劇の前半は失敗しそうな予感がしてきた。母親はいつものようには屈しないのではないか、と。
いつもなら心配した母親が悲しそうな顔でやってきて、愛情たっぷりに気分は悪くないかなどとききにきているはずだった。しかし、そういう時間はとっくに過ぎていた。母親が入ってきたら、もうすっかりあきらめたような声で、自分は人にはわからない病気にかかっていて、黙ったまま何もいわず、このまま一人で苦しんでいたい、といった風なことをいう――というのが彼の常だった。
心配でしようがない母親に対し、低い陰気な声で、あっちに行ってよ、ぼくは食べる物さえない暗闇で、一人静かに苦しむんだ、ほうっておいてくれ、というわけだ。そうした駆け引きをしておけば、後でパイにありつけることを彼は経験で知っていた。
それにしても、この長い間と静けさは何を意味するのだろう?
彼のいつもの貴重な戦略が無意味になったとでもいうのだろうか。
こうしたことが心の中に深く入りこむにつれて、ホレスは人生をのろい、この世も、母親も嫌いだと感じた。母親の心は反撃しようとするホレスに背を向けてしまっている。このままでは敗北するしかない。
ホレスはしばらくの間、泣いていた。そうして、こうなったら最後の一撃を与えてやろうと決意した。家を出てやる、と。
遠く世界の果てで、母親が無慈悲だったために犯罪に手をそめて血で汚れてしまった男といった存在になってやろう。自分がどうなるのか、母親に知らせたりしない。母親はずっと疑問に思ったまま苦しむ。死ぬまで後悔させてやる。マーサおばさんだって見逃したりはしない。百年後のいつか、母親が死んだとき、マーサ伯母に手紙を書いて、自分の一生を台なしにするのに伯母がどんな役割を果たしたのかを教えてやる。いま受けている一撃を、いずれ千倍どころか一万倍にして返してやる、と。
ホレスは立ち上がって、コートと帽子をつかんだ。足音を忍ばせてドアの方へ進みながら、そっと振り返ってピクルスを見た。それを持っていきたいという思いにかられた。が、皿に手をつけないでいた方が母親はさらに傷つくだろうとも思った。
外は青い雪が降っていた。
人々は前かがみになって歩道を急ぎ足で歩いていく。たえまなく雪が降り、外灯がジージーと音を立てている。
台所から外に出てみると、家の角あたりで突風に飛ばされた雪が舞っていた。ホレスは体を縮めてその風を避けた。
その風はとても強かった。彼の心にぼんやりとだが新しい啓示がひらめいた。
最果ての地に行くとして、どこにしようかと思案する。地理的に明確なプランはなかったが、たいして時間をかけず、カリフォルニアへ行こうと決めた。
彼は家の表門まで急いでいった。さあ、カリフォルニアへ。ついに、旅立つ――何の支障もなく門まで行けたのが、ちょっとこわくはあった。息がつまった。
ホレスは門のところで足をとめた。カリフォルニアへの旅が、ナイヤガラ・アベニューを行った方が近いのか、ホーガン・ストリートを抜けていった方が近いのか、彼にはよくわからなかった。
嵐は非常に冷たかったし、それは極めて重要な問題でもあったので、よく考えてみるため、彼は薪を入れておく小屋に忍びこんだ。
中は暗かった。いつも午後に学校から帰ってくると、そこで薪を割るのが日課だった。薪をのせて割るための台に腰を下ろす。板壁にはすき間があった。そこから、嵐の吹きすさぶ音が聞こえてくる。よく見ると、板の割れ目の風下にあたる床には、吹き寄せられた雪が筋のように積もっている。それで床が割れているようにも見えた。
そうなると、こんな嵐の夜にカリフォルニアに出発するという考えは頭から消えてしまった。自分がただ悲劇の主人公になったようで、みじめだった。
ホレスはともかくこの薪小屋で夜をすごし、翌朝早くにカリフォルニアに出立するしかないと思った。寝場所をどうしようかと思案し、床を蹴飛ばしてみる。床には木くずが無数に散らばっていたが、すべてかたく凍っていた。
まもなくすると家の方で何か騒いでいる様子があった。それを見るとうれしかった。
ランプの炎があわただしく窓から窓へと動いている。それから、台所のドアが音をたてて開き、ショールをまとった人の姿が門の方へと向かった。ホレスはついに、彼女たちに自分の力を知らしめた、と思った。彼は寒さに震えていたが、薪小屋の暗闇から自宅で騒いでいる様子を満足して眺め、陰気な喜びでにんまりする。
ショールをまとった人影は、急を告げるべく近所の家へ駆けていくマーサ伯母だった。
薪小屋の寒さは厳しかった。
ホレスは自分があの驚きを引き起こしたのだという思いだけで寒さに耐えていた。が、ふと、もし彼女たちが捜索を開始したら薪小屋もおそらく調べられるだろうという考えが浮かんだ。
決死の家出を敢行したのに、あまりにも早くつかまってしまうのではなんともカッコ悪い。その頃には、もう永久に家に寄りつかないなんてことにはあまり乗り気ではなくなっていたが、とはいえ、ともかく、とらわれの身となってしまうまでに、あの人たちをもっと傷つけてやらなければならない。
自分がどんなにうまくやっても、せいぜいが母親を怒らせる程度にすぎないのであれば、母親は自分を見つけしだいにひっぱたくだろう。そんな心配がないようにするには、もっと時間を長引かせなければならない。もしほどよく頑張り通せたら、自分がたとえ犯罪まみれだったとしても、きっと深い愛情で迎え入れてくれるだろう。
嵐はひどくなってきている。
というのも、ホレスが小屋の外に出てみると、荒々しい無慈悲な暴風に激しく体を揺さぶられたからだ。彼はあえいだ。肌を刺すような冷たさを感じた。そうして、飛んでくる雪片のため視界も半分ほどになってしまっている。
そうなってみると、彼は友だちもなく、金もないまま、ただ家を追い出された浮浪児といった存在にすぎなかった。胸が張り裂けるほどの思いで、ホレスは家や母親のことを思った。見捨てられた彼の立場からすれば、わが家や母親は天国と同じくらいはるかかなたにあった。
四
ホレスの感情はめまぐるしく変化した。風にあおられたタコのように右往左往した。
いまや、彼は母の無慈悲な残酷さに、がくぜんとしていた。このすさまじい嵐に放り出した張本人なのに、その原因をつくった母親はあまりにも息子の運命に無関心ではないか。あまりにも関心がなさすぎるではないか。
わびしい放浪者となった彼は、もはや泣くこともできなかった。
すすり泣こうとするが、喉がつまってしまい、何度も短かく息をした。
彼にあるすべてのものが敗北した。しかし、流儀や態度に対する、大人にはよくわからない子供らしい理想だけは残っていた。この理想に対する根源のものだけはなお保持されていて、それが彼が全面降伏するのをさまたげる唯一のものとなっていた。降服するのなら、はっきりと定義されてはいないものの、一定の流儀に従ったやり方でなければならない、と。
いまとなってはホレスの希望は、なんとか暖かい台所に転がりこみたいという一点にしぼられていた。しかし、それではどうしてもダメだという思いも心の底にあって、彼はどうしてもそうできなかった。
ふと気がつくと、ナイヤガラ・アベニューの入口のところまで来ていた。
降りしきる雪の向こうに、肉屋のスティクニイの店が見える。彼は明るく輝く窓を見つめた。
スティクニイはホレスの家にも出入りしている肉屋だ。肉屋としてワイロムヴィルで一番というわけではなく、ただ隣に住んでいて、ホレスの父親の友人だったというだけのことにすぎないのだったが。
電灯に照らされたテーブルには、赤い大きな牛肉が載っていた。その奥には頭を下にしたブタが何列も並んで吊されている。ほっそりした七面鳥の塊もあちこちに掛けられていた。
スティクニイは元気そうで、にこにこしている。
何か八セントほどのもので値切り交渉しているらしい大きなカゴをさげた外套姿の女を相手に、冗談をいって笑いあっている。
凍りついた窓ガラスごしに、ホレスは彼らを見つめる。
客の女が出てきて、彼の脇を通り過ぎていった。
ホレスは肉屋の扉に向かった。掛け金に指がふれたが、ふいにまた歩道にしりぞいた。店の内では、スティクニイが包丁をそろえながら楽しそうに口笛を吹いている。
とうとうホレスは思い切って前進し、扉を開けて店に入った。顔は下を向いたままだ。
スティクニイは口笛をやめた。
「よお、坊主」と、彼は大きな声でいった。「どうした?」
ホレスは立ちどまったが、何もいわない。おがくずを敷き詰めた床に立ったまま、片足を前後にぶらぶらさせている。
スティクニイは肉屋が客に向かっているときの姿勢で、掌を下にして大きな両手をテーブルの上に広げていたが、上体を起こした。
「おい」と、彼はいった。「どうした? なんかあったか、坊主?」
「べつに」と、ホレスはかすれた声でいった。しばらくの間、喉につかえてくるものがあった。なんとか、こうもつけ足した。
「ただ――ぼくは――にげ、逃げてきたんだ――」
「逃げてきたって?」と、スティクニイは叫んだ。「何から逃げてきたんだ、誰から?」
「家――から」と、ホレスはこたえた。「もう家なんか嫌なんだ。ぼくは――」
彼は肉屋の同情を引く言い方をそこに入る前に考えていた。整然と自分に理があるように説く手順を考えておいた。だが、そんなものは風のために吹き飛んでしまった。
「逃げ出したんだ。ぼくは――」
スティクニイは牛肉の上から大きな手を伸ばし、この逃走者をしっかりとつかんだ。そうして、ホレスのいる側にまわってきた。彼の顔は笑っていた。そうして、愉快そうに捕まえた相手をゆさぶった。
「さあ、さあ、さあ。何てことだ。逃げてきたって、え? 逃げ出したって?」
すると、それまでずっとこらえていたホレスは、わっと泣き出した。
「いいんだ、いいんだ」と、スティクニイはせわしげにいった。「もう心配はいらない。大丈夫。俺についてくるだけでいい。大丈夫だって。俺がなんとかしてやる。気にすんな」
五分後、肉屋はエプロン姿の上から分厚いアルスター外套をはおり、少年を連れて家へと向かっていた。
ちょうど玄関まで来たところで、ホレスは最後に残っていたプライドを示す。
「やだ、いやだ」と、すすり泣く。「入りたくない。ぼくは入りたくないよ」
彼は階段で足をふんばり、懸命に反抗する。
「さあ、ホレス」と、肉屋は叫んだ。勢いよく音を立てて扉を開ける。「ども、こんばんは!」
暗い台所の奥のリビングに通じたドアが開き、マーサ伯母が姿を見せた。
「見つかったんですね!」と、彼女は甲高い声を出す。
「お邪魔しますよ」と、肉屋も大きな声を出した。
リビングルームの入口で、みんな黙りこんでしまう。
ホレスは、母親が死んだように青ざめてカウチにぐったりと横になっているのを見た。心痛のため目に涙を浮かべている。母親はすぐに青白い手をホレスに向けて振った。
「ホレス」と、彼女は震える声でつぶやいた。
その瞬間、世界の果てで極悪人になるはずだった少年は、悲しみと喜びとが入りまじった叫び声をあげて、母親に駆け寄った。
「お母さん! お母さん! ああ、お母さん!」
母親は言葉にならないことをつぶやきながら、細い腕で息子を抱きしめた。
マーサ伯母は思わずもらい泣きしそうになったため、いどむように肉屋の方を振り向き、半ば軍人のような、半ば女性のような身振りで叫んだ。
「スティクニイさん、ルートビアを一杯いかが? 自家製なんですよ」
Stephen Crane's Own Story
コモドア号はいかにして難破し、いかに脱出したか / 恐怖にかられる乗員と浸水 / 火災が発生した機関室で息をつまらせつつ奮闘 / マーフィー船長とヒギンズの勇気 / 救命筏の仲間を曳航しようと試みる / 打ち寄せる波をかいくぐって浜へと向かう
フロリダ州ジャクソンビル、一月六日 元旦の午後。コモドア号はジャクソンビルの埠頭に係留され、黒人の港湾作業員たちが列をなして箱詰めされた大量の弾薬やライフルを積み込んでいた。船のハッチが怪物の口のようにそれを飲みこんでいく。伝説の海洋生物に餌が与えられているようでもあった。白昼公然と行われており、埠頭で気分を高揚させたキューバ人たちは、祖国の、ぼくらには耳なれない愛国歌をうたいだした。
すべては公然と行われていた。コモドア号にはキューバ向けの武器や軍需物資が積まれていた。以前のように秘密裏にことを運ぶといった配慮はどこにもなかった。レミントンからキューバへ物資を運ぶというより、ちょっとニューヨークまでオレンジを運ぶだけという感じで、コモドア号では平然と荷の積み込み作業が行われていた。さらに、川の下流には、セントジョンで合衆国の利益を保護する二等辺三角形の形をした古い密輸監視艇のバウトウェル号が錨泊していた。船上にあわただしさのようなものは見られない。
別れの挨拶
コモドア号の甲板では、二カ国語で別れの挨拶がかわされた。この船で出発しようという男たちの多くは南部の町に友人がいたし、北部から来たぼくらといえば、この激しくも切実な別れの場面を目撃して、もの悲しさを感じてもいた。
とはいえ、税関はそう単純ではなさそうだった。
夕闇が迫り、濃い霧を通してジャクソンビルの町の灯がちらほら見えるようになるまで、船の航海士やキューバ人のリーダーたちはずっと拘束されていた。それから、別れの挨拶が盛んに飛びかうなかで、コモドア号はやっと離岸した。
船首をはるか沖合に向けると、陸に残ったキューバ人たちが何度も喝采した。コモドア号はそれにこたえて汽笛を三度、長く鳴らしたが、そのときもぼくは彼らの悲しみに胸をうたれた。ともかく、彼らは声をあげて泣いていた。
そうこうしているうちに、自分が他国の反乱の扇動者になったような気がしてくる。内戦の取材にいくだけなのだが、そういう行為の危険が小さいとは、とても思えなかった。ジャクソンビルの町の灯が遠ざかっていき、船のエンジンのドンドンといういつもの音を聞きながら、ぼくらは物思いにふけった。
とはいえ、遠ざかっていく陸地をながめている乗客の顔に激しい感情はなかったように思う。実際、厨房の下働きをしているボーイから船長にいたるまで、ぼくらは全員、穏やかに満ち足りた気分で上機嫌だった。しかし、ジャクソンビルから二海里と進まないうちに、性悪の霧のために水先案内人が判断を誤り、コモドア号は座礁してしまった。この恥ずかしい状態で、ぼくらは夜が明けるのをじっと待たざるをえなかった。
バウトウェル号からの助け
これは、単に物理的な災難に遭遇しただけではなかった。他国の争いに口をはさむどころか、ぼくらは座礁した船の搭乗者、つまり難破者にすぎなくなったわけで、気持ちの上で一度ならず落ち込むことになった。
ジャクソンビルへの通信で情報が伝達され、そこからさらに海上での略奪行為を監視する役目のバウトウェル号に連絡が送られ、その監視船のキルゴア船長は三角の形をした船のポンコツのエンジンを始動させ、全速力で助けに駆けつけてくれた。バウトウェル号がコモドア号を海底の泥から引っ張りだしてくれたので、ぼくらはまた河口へと向かった。略奪監視船は、コモドア号がキューバ軍の志願兵を川沿いで拾い上げないか監視するため、コモドア号の半マイルほど後方をついてきた。
一月一日の早朝のことだった。
美しく金色に輝く南からの陽光が川にふりそそいでいる。それが古びたバウトウェル号の上空で輝やき、真珠のような白い船体をきらりと光らせ、さらに船の索具を金の糸のようにきらきらさせた。
すれ違う船や陸上から、ポンコツのコモドア号に対して喝采が送られた。出港したときと同じような陽気な歓迎だった。メイポートで川の水先案内人が公海までの資格を持つ人に代わった。だが、コモドア号はまたしても座礁してしまった。伴走してくれていたバウトウェル号は、ぼくらの苦境を知るとまた支援してくれた。コモドア号はこんどはエンジンを逆回転させて自力で脱出し、再び外洋をめざした。
略奪監視船の船長はだんだん好奇心をそそられてきたようだった。コモドア号に挨拶し、「このまま海に出るのかね?」ときいた。
コモドア号のマーフィー船長は「そうです」とこたえた。
コモドア号が敬意を示して汽笛を鳴らすと、キルゴア船長は帽子をとり「諸君、楽しい航海を」といった。これが沿岸で耳にした最後の言葉となった。
砂州を超えて巨大な巻き波が打ち寄せているあたりまでくると、コモドア号の楽しい雰囲気は船の乗組員から消えてしまった。
眠れない
海に夜の闇がおとずれた。コモドア号の船尾には夜光虫による幅の広い青白い光の航跡がのびている。コモドア号のずんぐりした船首が黒く大きな波に突っこむたびに、船の一方の側で海水が渦をまき、点滅しつつ滝のように流れ落ちていく。聞こえるのは、リズミカルで力強いエンジン音だけだ。外国の紛争の片棒をかつぐ形の船に特派員として便乗した駆け出しの記者として、ぼくは出港してからずっと興奮状態にあったので、なかなか眠くならなかった。ぼくは体を休めるために一等航海士の寝床で横になっていた。船が傾くたびに隔壁ごしに衝撃が伝わってくる。薄暗い中で、船がゆれるたびに、胃の上あたりで吐き気がもよおしてくる。これは楽しくもなければ何かの教訓になるようなことでもなかった。
料理長、行く末を案じる
料理長は厨房の長いすで眠っていた。太った堂々たる体躯をしていたが、チェッカーゲームのボード盤をうまくつかって、船が動いても体が長いすから落ちないようにしていた。ぼくが厨房に入っていくと彼は目を開け、周囲を見まわしながら、つらそうに「神様」とつぶやいた。
「なんとも居心地が悪いんだよな。この船で何かが起きるような気がしてしょうがないよ。それが何なのか俺にはわからないが、このポンコツ船で何かが起きそうないやな予感がする」
「で、乗客の方はどう?」と、ぼくはきいた。「誰かいなくなるとかあるかな、予言者先生?」
「そうだな」と料理長がいった。「ときどき、なんだか呪われてるような気がすることがある。それはともかく、なんとなくなんだが、あんたも俺もどっちもこの船から離れることになって、またどこかで、少し先のコニーアイランドとかそんなところで再会するような気もするんだな」
一人で十分
眠れないとわかったので、ぼくは操舵室に戻った。チャールストン出身のベテランの船乗りであるトム・スミスが舵を握っていた。暗かったのでトムの顔は見えない。が、羅針盤を見ようと前かがみになるたびに、羅針盤が収納されている箱の薄暗い照明で、風雪に耐えてきた彼の姿が浮かび上がった。
「やあ、トム」とぼくはいった。「この航海はどう、うまくいくかな?」
彼はこうこたえた。
「やり通せるとは思うぜ。こんな航海は何度もやってるし、なんせ給料がいいからな。だが、無事に戻ったら、こんどで終わりにするよ」
ぼくは操舵室の隅に腰をおろし、うつらうつらしていた。やがて船長が職務を果たすためにやってきて、ぼくのそばに立った。と、機関長が階段を駆け上がってくる。あわてた様子で、船長にエンジンルームで問題が起きたと知らせた。機関長と船長はそっちへ向かった。
船長が戻ってきたとき、ぼくは同じ場所でうとうとしていた。船長は操舵室の真うしろにある小部屋の扉まで行き、キューバ人のリーダーに大声で呼びかけた。
「おい、君の仲間に手を貸してくれるよう頼んでくれないか。私はそっちの言葉ができないから説明できんのだ。仲間を連れて一緒に来てくれ」
機関室での支援
キューバ人のリーダーはぼくを見て、こういった。
「機関室に行って手を貸してくれ。バケツで水をくみ出すんだ」
機関室といえば、いわば灼熱地獄の釜のような光景が展開されているところだ。そもそも耐えられないほど熱く、燃焼による薄暗い光にあやつられるように、不可解で身の毛もよだつような影が壁をうごめいている。そこに大量の海水が流入し、泡立ちながら機械類の間をゆれ動き、大きな音を立ててぶつかりあい、がたがた鳴り、蒸気を立ちのぼらせていた。船底の一番奥にある奈落の底というわけだ。
その場所で、ぼくは若い機関手のビリー・ヒギンズと知りあった。彼はこの地獄のようなところに陣どり、バケツに水をくんでは男たちに手渡し、男たちは一列に並んでバケツを順送りして舷側から中身を捨てていく。その後、指示に従って手順を変え、船の風上側にある、機関室に通じている小さなドアから排水するようになった。
船でパニックは起きなかった
その間も、排水ポンプが故障しているとか、機械に関する他の専門的なやりとりが頻繁になされたが、ぼくにはちんぷんかんぷんだった。とはいえ、機関室でいきなり大きな破壊が生じたということだけは理解できた。
このとき、乗客の間に扇動するような行為は一切なく、その後もコモドア号でパニックめいたものは発生しなかった。ヒギンズやぼくと一緒に作業をした連中は全員キューバ人だったが、彼らはキューバ人のリーダーの指示に従っていた。やがて、ぼくらは船倉に移るよう命じられた。またあの不快な機関室に入るのかとためらったが、ヒギンズが率先してバケツをつかみ、昇降用階段を降りていった。
救命ボートを下ろす
機関室の熱と重労働に耐えきれず、ぼくはまた甲板に戻らざるをえなかった。船の前部に向かっていると、ボートを下ろすという話が聞こえてきた。厨房のそばで、航海士が一人の男と話をしている。
「なんで救難信号を打ち上げないんだ?」と、知らない男がいった。
すると、航海士はこうこたえた。
「何のために救難信号を出すんですか? 船は大丈夫ですよ」
ゴム引きのオーバーコートを着て戻ってくると、最初の救命ボートが下ろされようとしていた。最初のボートに真っ先に乗りこんだのが例の男で、他の男たちが彼にバカでかいスーツケースを手渡している。その驚きも冷めぬ間に、別のスーツケースがまた渡されるのを目撃した。金持ちのこういう行動はおもしろくもあった。
救命具を着こんでふくれあがった男
ホテルとみまがうほど、というのはいいすぎかもしれないが、例のスーツケースは、とんでもなく巨大だった。さらにその後にオーバーコートのようなものまで手渡されていた。
機関長が小さな窓に顔を寄せて眺めていたので、ぼくは彼に話かけた。
「あの人、どう思います?」
「小鳥みたいなやつだな」と、老機関長がいった。
そのとき、救命ボートから離れろという指示が聞こえた。救命ボートは甲板室の屋根に固定されていた。甲板室は頑丈だがすべりやすく、船が横ゆれするたびに、そこにいた連中は黒い海に頭から飛びこみそうになっている。
甲板室の屋根にはヒギンズがいた。一等航海士と二人の有色の機関員も一緒だ。ぼくらはそのボートを下ろそうと骨を折った。ブロードウェイのケーブルカーほどの重さがあったと断言したいくらい重かった。ボートは甲板にきつくネジどめされていたのかもしれない。このボートを動かせるのであれば、レンガ造りの校舎だって軽々と押し動かせただろう。一等航海士は風下側の吊り柱から伸びた滑車一式をボートにとりつけた。下の甲板では船長が十分な人手を確保してボートを受けとる用意をしている。
それから、ぼくらは引くのをやめるよう命じられた。そうしたさなかに船の料理長がぼくのところにやってくると、「お前さん、どうするつもりだ?」ときく。
ぼくが自分の計画していることを話すと、彼は「そうか、じゃあ俺とおんなじゃねえか」といった。
失意の汽笛
いまはもうコモドア号の汽笛も弱々しくなっていた。失意と死に声があるとすれば、それはこの汽笛の音に示されていた。音調も変化している。すでに海水がのどに詰まっている感じだった。船に水しぶきを舞い上がらせる風の音とともに、怒濤のように船首を乗りこえてきた波が白濁しながら甲板のいたるところで渦をまいている。夜の海で、こうした汽笛の叫びは、ぼくら一人一人のために、おそらくは臨終の歌をうたっていたのだろう。
そのとき、一等航海士が手を離すよう合図をした。ぼくらは救命ボートを浮かべるため能力と経験の限りをつくして努力していた。彼も激しい怒りにかられたようにぼくらを叱咤し激励している。やっとボートが動いて海へ向かって滑り降りていく。
その後で船尾に向かうと、船長が立っていて、片手を吊ったまま、負傷していないもう片方の手で支索を握っているのが見えた。船長はぼくに五ガロン入りの水入れを持たせ、君はどうすると聞いた。自分が正しいと思うことをしますよと告げると、船長は料理長と同じ考えってわけかといい、船の前甲板で全長三メートルの小舟を下ろす用意をするようにと命じた。
全長三メートルの小舟
周囲でうろちょろしていた有色の機関員に、船長が羽毛布団みたいに見える救命具を着こむよう命じたのをよく覚えている。ぼくは五ガロン入りの水入れを抱えて船の前方に行った。
船長がやってきたので、小舟を下ろした。すると、連中はぼくを小舟に乗せ、一本のオールで押して船から離れさせた。
ぼくは彼らから水入れを受けとった。それから料理長が乗りこんできた。ぼくらは暗闇に座り、なぜこうなってしまったのだろうと思案しながら、とはいえ楽観的な希望を抱いてもいた。船長が小舟のところまでやってくると、沈んでいく船からは離れているんだぞと指示した。
船長自身はまだ乗りこまず、他の救命ボートが動き出すのを待っていた。そうして、やっと暗闇で声を発した。
「大丈夫か、グレインズ?」
一等航海士は「大丈夫です、船長」とこたえた。
「ボートを押し出せ」と、船長が叫んだ。
船長が船の手すりを乗りこえてボートに乗り移ろうとした瞬間、黒い影が駆けてきて「船長、お供します」という声が聞こえた。
船長は「ビリーか、乗れ」とこたえた。
船を最後に離れたのはヒギンズ
声の主は機関手のビリー・ヒギンズだった。ビリーがさっと飛び降りると、一瞬遅れて船長が続いた。その手には四十ヤード(約三十六メートル)ほどの測深に使うロープの一端が握られていた。その細いロープのもう一方の端は、母船の手すりにつながれている。
小舟が風下に流されると、船長は「君たち、船が沈んでしまうまでは離れすぎないようにしておくからな」といった。
このなんともうれしい指示をぼくらは歓迎した。この細いロープのおかげで、ぼくらの乗った小舟は船首を風上に向けておくことができたし、巨大な波を乗りこえてボートが高く持ち上がるたびに、死につつあるコモドア号のゆれている灯火が見えた。
夜明けが近づき空が灰色がかってくると、全長三メートルの小舟が波で持ち上がるたびに、コモドア号の姿が少しずつくっきりと見えてきた。船内にはまだ大量の空気が残っていて、浮力を維持しているのだ。ぼくらはあんなにあわてて脱出することはなかったなと笑いあった。
「船が沈没しなかったら、俺たちの行動はとんだお笑いぐさだろうな」といいあったりもした。
だが、その後に、ぼくらはコモドア号の船上に人影を見ることになる。しかも、こっちに向かって何かを叫んでいるのだ。
航海士に手を貸す
書き忘れていたが、ぼくらはコモドア号と小舟をつないでいる細いロープを一杯に伸ばしていたので、ボートはずっと風下に押し流されていた。当然のことながら、なぜ連中がまだ船に残っているのか、ぼくらには不可解だった。すべての救命ボートが船を離れるのを見届けてから小舟に乗り移ったはずなのだ。
ボートを漕いでコモドア号に戻ろうとしたものの、ぼくらは近づくことさえできなかった。わずか三メートルの小舟に四人もの男が乗っているので、舷側に手を置いただけで水没しそうだった。
船上の一等航海士が、自分たちが乗った第三の救命ボートが沈没したと叫んだ。人数分の筏のようなものを急ごしらえで作ったので曳航してほしいという。
船長は「わかった」と返事をした。
筏はコモドア号の後方に浮かんでいた。
「飛び乗れ」と船長が叫んだが、彼らはむずかしい顔をして、ためらっている。白人五人と黒人二人だ。薄暗い早朝の淡い光を受けて、幽霊がゆっくり動いているような感じがした。沈みかけたコモドア号に残っている七人の男たちは無言だった。航海士が船長に話しかけるのをのぞいて、会話がかわされることはなかった。死がそこにあった。
だが、同様に、言葉ではいい表せない不屈の精神もたしかに存在していた。
ぼくの記憶では、四人の男たちが手すりをよじ登って立ちあがり、波が見渡す限り冷たい鋼のように輝いているのを見つめている。
「飛び降りろ」と、船長がまた叫んだ。
最初にその命令に従ったのは老機関長だった。彼は筏のそばに落ちた。船長は筏から離れないように、どうすればつかまっていられるかを指示した。機関長は、乗馬学校の生徒のように、すぐに素直にそれに従った。
航海士の決死のダイブ
一人の機関員が彼に続いた。それから、一等航海士が両手を頭上に伸ばし、頭から海に突っこんだ。航海士は救命具を身につけていなかったし、この恐ろしい行為をするときに彼が両手で表現したことに、そして死に向かってダイブする際の彼の頭の動きに、ぼくは彼の心にある、言葉ではいい表せない怒りのようなものを感じた。
それから、今度の航海が終わったら、この手の仕事はやめるつもりだと語っていたトム・スミスが筏に飛び移り、ぼくらに顔を向けたのが見えた。残った三人はコモドア号の船上でぐずぐずしている。黙ったまま、顔だけぼくらの方に向けている。一人は腕を組み、デッキハウスにもたれていた。両足を交差させ、左足のつま先は下に向けている。彼らは立ったままぼくらを見つめている。コモドア号の甲板からも筏からも、ひと声も発せられなかった。重苦しい沈黙が続いた。
筏を曳航しようとしたが……
先頭の筏に乗った有色の機関員がぼくらにロープを投げてよこしたので、ぼくらは筏の列を曳航しながら小舟を漕ぎはじめた。むろん、こんなことは絶対に無理だとわかってはいた。ぼくらの乗ったボートの舷側自体が海面から十五センチたらずの高さだったし、大海原で波が押し寄せてきているのだ。こんな状況でこんな風に筏を曳航するのはタグボートでも容易ではないだろう。
だが、ともかくやってみた。どこまでも続けてみるつもりでいたのだが、深刻な事態が起きてしまった。ぼくはオールを握って漕いでいたので、後方の筏の方を向いていた。曳航ロープの調節は料理長がやっていた。と、ボートがいきなり後方に引かれはじめたのだ。先頭の筏に乗った黒人が、両手で曳航ロープをたぐり、どんどん自分の方にたぐりよせているのだった。
悪霊でも乗り移ったようだった。野生のトラのようでもあった。筏にしゃがんだ状態で、いまにもこっちに飛び移ろうとしている。筋肉という筋肉が盛り上がっていた。目はほとんど白目で、自分を見失い、心ここにあらずといった顔をしている。彼の手の重みがボートの舷側に加わった瞬間にボートは転覆するしかない。
コモドア号の沈没
思わず、料理長が曳航ロープから手を放してしまった。ぼくらは小舟を漕いで、なんとか老機関長の乗った筏の曳航ロープをつかもうとした。その間ずっと、悲鳴もなければ不運を嘆く声もなく、ただただ沈黙だけがあったことを忘れないでほしい。そうこうしているうちに、コモドア号が沈んでいった。
コモドア号は急に風上側に傾き、それから後方に振れ戻すように動いて、そのまま直立しつつ海中に没した。すると、この恐ろしい大海原に開いた口に、筏がいきなり飲みこまれた。三メートルの小舟に乗ったぼくらは声にならない声を発した――言葉でいい表せない出来事だった。
モスキート湾の灯台が、ピンの先端のように、水平線から突き出ていた。
甲板のないむきだしの小舟での三十時間の漂流は、うたがいもなく、ぼくのような若造にも何かしらを教えてくれたのだが、それについては、ここでは語らないことにする。エドワード・マーフィ船長とウイリアム・ヒギンズ機関手の立派な最後を伝えるため、ぼくとしては一度はその話をするつもりでいるのだが、ここで語る気にはならない。
ともかく、ボートが波打ち際で転覆したこと、やっとのことで海岸にたどりついたこと、押し寄せる波に翻弄されながらも船長は軍艦の指揮をとっているように明確に命令を発しつづけたことを述べれば十分だろう。
デイトナのジョン・キッチェル氏が服を脱ぎ捨てながら浜辺を駆け下りてきた。彼が馬車を止めて服を脱いだのだとしても、それが消防馬車の装具だったとしても、ぼくには、あれ以上の早さで服を脱ぐことはできないように思えた。氏は海にとびこむと、料理長を引っ張りあげた。それから船長の方へ向かったが、船長はぼくを先に助けるよう合図した。その後で、氏は、寄せては返す波の合間に露出する砂地で、ビリー・ヒギンズがうつぶせに倒れているのを見つけた。すでに死んでいた。
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背景となる状況(訳者による注記)
この海難事故が起きたのは一八九七年一月二日です。当時、キューバではスペインから独立する機運が高まっており、この海難事故の翌年に、キューバを背後から支援していた米国とスペインとの間で米西戦争が勃発します。
そうした戦争前夜の緊迫した状態で、スティーヴン・クレインはキューバ情勢を探る特派員として新聞社から派遣され、コモドア号に乗船したのでした。
貨物の積載に大晦日までかかったコモドア号は、予定より遅れて一月一日に出港し、霧のため二度も座礁したことが原因で、翌二日午前七時に沈没しました。
脱出したスティーヴン・クレインたちが乗ったボートは、一月三日午前七時三十分から午前十時ごろに陸に到着したとされています。
この手記は、スティーヴン・クレインが救助されてからわずか四日後の一月七日に、ニューヨーク・プレス紙に発表されました。
フィクションの短編小説『オープン・ボート』は、その数週間後の二月中旬には書き上げられていたといわれていますが、発表されたのはスクリブナーズ・マガジンの同年六月号でした。
The Open Boat
沈没した蒸気船コモドア号から脱出した四人の男たちの実体験にもとづく物語
登場人物
記者
料理長
機関手
船長
一
空の色はだれにもわからなかった。目は水平線に向けられ、自分たちに向かって次々に迫ってくる波を見つめている。波はスレートのような濃い灰色で、頂点は白く泡だっている。四人とも海の色ははっきり見えていた。水平線は、狭くなったり広くなったり、急に沈みこんだり盛り上がったりしている。上端はけわしい岩山のようにギザギザだった。
彼らが乗ったボートは、たいていの家にあるバスタブよりも小さいくらいだった。次々に押し寄せてくる波は悪意に満ち、残忍で、切り立ち、しかも大きかった。こういう波の頂点で白濁している部分は泡である。ボートを支える実体がないため、小さなボートの操船ではやっかいだ。
コモドア号の調理担当だった料理長はボートの舟底にしゃがみ、自分と海とを隔てている海面からの高さが六インチ(約十五センチ)ほどしかない船べりを見つめていた。両腕の袖をまくり上げているが、舟底にたまった海水をくみ出そうとするたびに、ボタンをとめていないベストの前みごろが垂れ下がって揺れた。
「くそったれ! いまの、やばかったな」と、何度もいった。そのたびに、料理長はきまって、大荒れの東の海面を眺める。
機関手はボートに積んであった二本のオールの片方で舵をとっていたが、ときどきふいに立ち上がる。船尾ごしに渦をまいて飛びこんでくる海水を避けるためだ。そのオールは薄くて小さく、何度も折れそうになった。
一乗客にすぎなかった記者は、もう片方のオールで漕ぎながら、波を眺めては、自分はどうしてこんなところにいるんだろうと思っていた。
負傷した船長は、船首で横になっている。この時点では、皆はすっかり意気消沈し、周囲の状況にも無関心になっていた。どんなに勇敢でがまん強い人であっても、会社が倒産したり、戦争で負けたり船が沈んだりというような場合には、否応なく、少なくとも一時的には、こういう心理状態に陥ったりする。新米だろうと、キャリア十年のベテランであろうと、船長の心は船と共にあるものなのだ。しかも、この船長は、夜明け前の薄明で見た光景、振り返った七つの顔と、先端に白い玉をつけたトップマストの帆柱が、波に揺れながらだんだん低くなり、やがて沈んでいった様子に衝撃を受けていた。
それからは、彼の声音に変化が生じた。落ち着いてはいるが、言葉や涙では表現しきれない深い悲しみが感じられた。
「ボートの向きはもう少し南だ、ビリー」と、船長がいった。
「もう少し南ですね、船長」と、船尾の機関手が応じる。
このボートに乗るのは、ロデオで暴れ馬に乗っているようなものだった。馬とボートを比べても、大きさにたいして変わりはない。ボートは馬のように跳ねたり、船尾を下にして立ち上がったり、頭から海面に突っこんだりした。波が来るたびにボートは高く持ち上げられ、とんでもなく高い壁に突進していくようにも思えたが、こうした海水の壁をボートが登っていく様子は神秘的でもあった。波の頂点は白濁した泡になっている。巻き波の頂点から崩れ落ちていくのだが、そのたびにボートは宙を飛び、海面に激突しては、水しぶきをあげて滑り落ちていく。そうして、次の脅威となる波の前では武者震いするようにまた揺れ動くのだった。
海で特筆すべきことは、波には限りがないということだ、
一つの波をうまく乗りこえても、すぐにまたボートを沈めようとたくらむ次の波が押し寄せてくる。長さ三メートルのちっぽけなボートに向かって波が次々に押し寄せてくるのを見ていると、海の資源は無尽蔵だと痛感させられるが、こういったことを小さなボートで海に出たことのない普通の人々が経験することはまずないだろう。灰色の海水の壁が迫ってくるたびに、ボートに乗っている人間の視界から他のすべてが遮断される。これほどひどい波はこれが最後かなと、つい思ってしまうが、それが果てしなく続く。波の動きには非常に優雅なところがあって、巻き波が頂点に達して崩れ落ちるときをのぞけば、音もなく迫ってくるのだ。
ボートに乗って青白い光を受けた男たちの顔は灰色だったに違いない。視線はたえず船尾の方向に向けられ、目には異様な光がやどっていたことだろう。そうした様子を高い所から眺めれば、その光景は全体として疑いもなく絵のように美しかったかもしれない。だが、ボートの男たちには、それを風景としてとらえて眺める余裕はなかったし、かりにあったとしても、心はそれ以外のことで占められていた。太陽はたえず空を背景にゆれていた。海の色が灰色からエメラルドグリーンに変化したことで、夜が明けたことを知った。黄金色の光の筋が走り、水泡が雪のように舞っている。夜が明けていくんだなという認識はなかった。自分たちに向かってくる巻き波の色が、それに応じて変化したことに気づいただけだ。
料理長と記者は、互いにかみ合わない言葉で、海難救助の詰め所と避難小屋の違いをめぐって言い争っている。料理長は「モスキート湾の灯台*のすぐ北に海難救助の詰め所があるんだ。俺たちを見つけさえすればすぐに船を出して拾い上げてくれるぜ」といった。
「だれが俺たちを見つけてくれるって?」と記者。
「詰め所の連中さ」と料理長がいう。
「避難小屋に詰めてる人間なんていないよ」と記者がいう。「ぼくの知る限り、船の難破に備えて服や食料が保管されているだけさ。スタッフが配属されてるわけじゃない」
「いるんだよ、本当に」と、料理長がいった。
「いるわけない」と、記者がいう。
「おいおい、俺たちはまだそこに着いたわけじゃないんだ」と、船尾の機関手が口をはさむ。
「そうだな」と料理長がこたえた。「俺のいうモスキート湾の灯台*近くにあるっていうのは避難小屋じゃなくて、海難救助の詰め所のほうなんだ」
「だから、そこへもまだ遠いだろうって」と、船尾の機関手がいった。
* モスキート湾の灯台 ─ フロリダ半島中部の大西洋に面した湾にある、米国でも有数の高さ(五十三メートル)を誇る灯台。
灯台は光が遠くまで届くように岬などの高い場所に造られることが多いが、この地域は平地なので、灯台自体を高くしてある。
『オープン・ボート』は、作者のスティーヴン・クレイン自身が乗船した船の沈没と小型ボートでの実際の漂流に基づいており、この灯台も実在している。
なお、モスキート湾付近にはモスキート沼やモスキート川があり、当時は行政区画もモスキート郡となっていたことから、この付近では開拓者たちもさぞ蚊に悩まされたらしいことがわかる。
現在、モスキート郡はオレンジ郡、モスキート川はハリファックス川、モスキート湾は、十六世紀のスペインの開拓者にちなんでポンス・デ・レオン湾と名称変更されている。
二
波の頂点でボートが跳ねると、風が無帽の男たちの髪をかき乱した。ボートがまた船尾から着水すると、水しぶきが乱れた髪をなでつけていく。盛り上がった波は平原にできた丘のようだ。その頂点にくると、一瞬だが、風の吹きすさぶ、広大な光輝く大海原が見えた。このエメラルドや白や黄色の光に満ちた、荒々しくも自由奔放な海は、おそらく壮大で、輝かしいものであっただろう。
「いいぞ、陸に向かって風が吹いてる」と料理長がいった。「そうじゃなかったら、どうなるんだろうな? 考えたくもねえけど」
「そうだね」と、記者。
舵を担当して、ともかくてんてこまいの機関手も無言でうなづき同意する。
すると、船首にいた船長が、ユーモアと侮蔑、悲しみの入り混じった複雑な笑顔を見せ、「ひょっとして助かるかも、とでも思っているのかね、君たちは?」ときいた。
すぐに三人は黙った。気まずく咳ばらいしたり、口ごもったりした。こんな状況で何かしら希望的観測を述べるのは子供じみてばかげていると、彼らも感じたのだった。とはいえ、心の中では疑いもなく、なんとかなるんじゃないかとも感じていた。若者というのは、そんなときほど強情になるものだ。彼らは若くもあったし、あからさまに示された絶望には反抗したいという思いもあった。だから、船長に反論せず黙りこんだのだ。
「まあ、そうだな」と、船長はとりなすようにいった。「なんとか陸には着けるだろうよ」
だが、彼の声の調子には、ただし条件つきだぞと思わせるものがあったので、機関手はそれを受けて「そうですね! この風が続いてくれさえすれば!」と続けた。
海水をくみ出していた料理長は「そうそう! 波でひっくり返りさえしなけりゃな!」といった。
中国製のネルの生地でできているようなカモメがボートの周囲を飛んでいた。洗濯ロープにかけられ強風で揺れているカーペットのように、茶色い海藻の塊が波とともに揺れ動き、巻き波になってくずれ落ちたりしているが、カモメたちはその近くの海面に降りて浮かんでいたりしている。海鳥の群れが平気な様子で浮いているので、ボートに乗った四人のうちには、それをうらやましがる者もいた。というのは、荒れ狂う海といえども、カモメにとっては、数千マイルも内陸にいるライチョウの群れにとっての草原のようなものにすぎなかったからだ。
カモメたちは何度も近くまで来て、黒いビーズ玉のような目でボートの連中を見つめた。
鳥はまばたきをしないので、監視されているようで不気味だった。何かをたくらんでいるようにも見えた。
男たちは鳥に向かって怒鳴ったり、あっちに行けと叫んだりした。一羽のカモメが接近してきて、船長の頭の上に降りようとした。そのカモメは円を描かず、ボートに並行して飛びながら、ニワトリのように短く空中を斜めに移動した。物欲しそうな黒い目は船長の頭に向けられている。
「くそったれの畜生野郎が」と、機関手が鳥に向かって叫んだ。「てめえの体はジャックナイフでできてるみたいじゃねえか」
料理長と記者もその鳥をあしざまにののしった。当然のことながら船長も太く重いもやい綱の端を振りまわしてその鳥を追い払いたいと思っていたのだが、あえてそうしなかった。というのも、激しい動作をすると、自分たちを乗せたボートが転覆してしまいかねないからだ。
船長は手を広げ、あっちに行けと穏やかに追い払った。カモメに狙われたことで弱気になった船長は、ともかく頭を守ることができてほっとしたように息を継いだ。その鳥を何か嫌な不吉なもののように感じていた他の男たちもほっと一息ついた。
一方、機関手と記者はボートを漕ぎ続けていた。漕ぎに漕いだ。
彼らは同じシートに腰かけ、それぞれ一本のオールで漕いだ。やがて機関手が両手で二本のオールを左右に持って漕ぐようになった。それから記者が交代し、同じように両手で左右のオールを漕いだ。彼らは必至に漕いだ。細心の注意が必要なのは、船尾で休んでいる方が漕ぎ手と交代するときだ。
小さなボートで席を移動するのは、卵をあたためているメンドリから卵を盗みとるよりむずかしい。
まず、船尾で待機していた方が手を漕ぎ座にそってすべらせ、壊れやすい陶器でできているみたいに慎重に移動しなければならない。それから漕ぎ座にいた方が手を反対側にそってすべらせる。すべてに細心の注意を払わなければならなかった。二人が互いにすれ違うときには、ボートに乗っている全員が迫ってくる波を見張っていた。そして船長が「よく見ろ。さあ、いまだ!」と叫んだ。
茶色いカーペットみたいな海藻の塊が、ときどき島のように出現した。そうした海藻の塊は、明らかにどっちの方向にも動いていなかった。海藻の塊はほとんど静止していた。それで、ボートの男たちは自分たちが岸の方にゆっくり流されているとわかったのだった。
船首にいて後方に目を配っていた船長は、ボートが大きな波で高く持ち上げられると、モスキート湾の灯台が見えたといった。やがて、料理長が俺も見たといった。そのとき、記者は漕いでいたのだが、自分でもどうしても灯台を見てみたいと思った。とはいえ、はるかかなたの陸地に背を向ける格好で座っていたし、波をうまくやりすごすのが最優先だったので、振り返って眺める機会はなかった。それまでより穏やかな波が来て、波でボートが持ち上げられたとき、やっと西方の水平線をちらっと眺めることができた。
「見えたかね?」と、船長がきく。
「いえ」と、記者がゆっくりこたえる。「何も見えませんでした」
「もう一度、見てみなさい。こっちの方角だ」と、船長が指で示した。
別の波の頂点にきたとき、記者は指示された方向を眺めた。今度は、揺れ動く水平線の端に何か小さな動かないものが見えた。ピンのように尖っていた。こんな小さな灯台を見つけるのは、よほど注意していないと無理だ。
「あそこまで行けると思いますか、船長?」
「風が続いてくれて、ボートが水没しなけりゃね。他に手はないし」と、船長がいった。
小さなボートは高く盛り上がった波に持ち上げられては水しぶきに洗われ、海藻のないところでは動いていることすらよくわからなかったが、少しずつ進んでいた。ボートは大海原にもみくちゃにされながら、溺れかけた子供のように奇跡的に船首を上にあげて進んでいる。ときどき目の前いっぱいに広がった海水が、真っ白な煙が充満するようにボートに流れこんでくる。
「くみ出したまえ、料理長」と、船長は冷静な声でいった。
「承知しました、船長」と、元気のよい返事が返ってきた。
三
海の上で同じ船に乗りあわせた者たちに生じる微妙な連帯感を言葉で表すのはむずかしい。誰も同志だとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかったが、一緒にボートに乗るはめになってみると、そういう感情というものが実際に存在し、互いに親近感がわいてくるのは事実だ。
船長がいた。機関手がいて、船の料理長がいて、それに乗客の記者がいた。この四人は同志だが、普通の仲間よりもっと強いきずなで結ばれていた。負傷した船長は船首に置いた水がめにもたれ、いつも低い声で穏やかに話した。しかし、船長にとって、このボートに乗り合わせた他の三人ほど命令をすぐに受け入れて機敏に動くクルーはいなかっただろう。そこには、安全という共通の目的のために何が最善かをただ認識しているだけということを超えるものがあった。
たとえば、司令塔たる船長の命令に従ってみると、すべてを批判的に見ろと教えられてきた記者のような者であっても、遭難している状態とはいえ、これが自分の人生で最高の体験になるとわかった。だが、誰もそうだとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかった。
「帆があったらなあ」と、船長がいった。
「私のオーバーコートをオールの先端にかけてみようか、そうすれば、君ら二人も休めるんじゃないか」
それで、料理長と記者はオールをマストのように立てて持ち、コートを広げた。機関手が舵をとった。すると、この新しい帆は小さなボートをうまく前に運んでくれた。機関手は、ボートが波に突っこまないように、ときどき舵をすばやく動かして漕がなければならなかったが、それをのぞけば、この帆走はうまくいった。
一方、灯台は少しずつ大きくなってきた。いまでは塗られている色もだいたいわかるようになり、空を背景に小さな灰色の影のように見えている。両手でオールを漕ぐ場合、灯台に背を向ける格好になるが、この小さな灰色の影の灯台を見ようと、たびたび振り返った。
やがて、波に頂点まで持ち上げられるたびに、揺れるボートからようやく陸が見えるようになった。灯台は空を背景にした垂直線のような影だったが、陸地は水平線上に細く伸びた黒い横線のような影だった。たしかに紙よりも薄かった。
「ニュースミルナの沖あたりかな」と、料理長がいった。彼はこの海岸沿いをスクーナーで何度も航海したことがあるらしい。「ところで、船長、海難救助の詰め所が廃止されたのは一年ぐらい前だったでしょうか?」
「そうなのか?」と、船長がいった。
風は徐々に落ちてきた。
料理長と記者はもう風を受けるためにオールを立てておく必要がなくなった。だが、波はあいかわらずボートに襲いかかってくる。小さなボートは進むこともできず、波に翻弄された。機関手と記者はまたオールを手にした。
船の沈没は、いきなり起きるものだ。避難訓練を受け、心身ともに健康でベストの状態のときに沈没が起きるのであれば、海での溺死者は減るはずだ。だが、このボートに乗っている四人は、救命ボートに乗りこむ前の二日二晩というもの、ろくに寝ていなかったし、沈みかけた船の斜めになった甲板をはいつくばって登るという異常に興奮した状況にも置かれていたので、腹一杯食べておこうという気にもならなかった。
そういうわけで、機関手も記者も好んでボートを漕ぎたいとは思っていなかった。
記者は、正直にいうと、まともな人間であれば、こういうときにボートを漕ぐのが楽しいと思うようなやつがいるわけないと感じていた。気晴らしのレジャーではないのだ。ひどい罰を受けているみたいだったし、頭のいかれた天才であっても、これが筋肉に対する拷問ではなく、背中に対する罪悪でもないと断言することはできなかっただろう。
ボートを漕ぐのがこんなに楽しいとは思わなかったよ、と記者がボートに乗った三人につぶやくと、疲れ切った機関手がまったく同感だというように苦笑する。船が沈没する前、彼は船の機関室で昼も夜も当番を続けていたのだった。
「まだ無理はするなよ」と、船長がいった。「体力を残しておくんだ。波打ち際まできたら、必死でがんばらなきゃならなくなる――泳ぐ羽目になるだろうからな。のんびりいこう」
陸地が少しずつ海面から高くなってくるのがわかった。黒っぽい一本の線だったものが、黒い線や白い線、樹木や砂浜が見わけられるようになってくる。
とうとう、岸辺に家が見えると船長がいった。
「あれが避難所でしょう、きっと」と料理長が応じた。「そのうち俺らを見つけて、救助に来てくれますよ」
遠くに見えていた灯台は、建物の背後にそびえている。
「もう灯台守が気づいてるはずだな、ちゃんと望遠鏡で見張ってくれていれば」と船長がいった。「救助隊に連絡してくれるだろう」
陸地が徐々に、しかも美しく、登場してくる。また風が強くなった。風向は北東から南東に変化している。そうして、ついに今まで聞こえなかった音がボートの男たちの耳に聞こえてきた。岸に打ち寄せる、低い雷鳴のような波の音だ。
「まっすぐ灯台に向かってはいけないだろう」と船長がいった。「ボートを少し北に向けてくれ、ビリー」
「少し北ですね、船長」と、機関手が応じた。
小さなボートが船首をまた少し風下の方に向けた。漕ぎ手以外の者は、陸が大きく迫ってくるのを見守っている。陸がだんだん大きくなってくるにつれて、無事に上陸できるのかという疑念や不吉な予感めいたものも彼らの心から消えていった。ボートを操船するのは相変わらずやっかいだったが、それでも、うれしい気持ちは隠しきれなかった。たぶん、あと一時間もすれば上陸しているはずだ。
男たちは自分の体重を使ってボートのバランスをとるのになれてきていた。今では暴れ馬に乗ってロデオをやってみせるサーカスの男たちのようだった。記者は全身びしょ濡れだと思っていたが、上着のポケットを探ってみると、葉巻が八本見つかった。半分は海水で濡れていたが、残りの四本は無事だ。探すと乾いたマッチも三本見つかった。ボートに乗った四人は、救助が近いことを確信し、目を輝かせて葉巻をくゆらせ、人物評をあれこれいいあい、それぞれ水を一口飲んだ。
四
「料理長」と、船長がいった。「君のいう避難所には、人のいる気配がないようだが」
「そうですね」と料理長がこたえた。「妙ですね、俺たちのことが見えてないなんて!」
ボートに乗った男たちの眼前には、低い海岸が広がっている。上の方が植物で黒っぽくなった低い砂丘のようだった。波の打ち寄せる轟音ははっきり聞こえている。ときどき海岸に打ち上がる白い唇のような波頭も見えた。空を背景に、小さな家が一軒、黒い影となって見えている。南の方には、細い灰色の灯台も見えている。
潮流に加えて、風や波がボートを北に押し流していた。
「おかしいな、誰も見てないなんて」と、男たちはつぶやきあった。
ボートに乗っていると、波の音はそれほど明瞭ではなかったが、雷鳴のように力強くはあった。ボートが大きなうねりで持ち上げられると、ボートに座っている男たちにも轟音がはっきり聞こえた。
「こりゃきっと転覆するな」と、誰もが口をそろえた。
公正という点では、ボートがいまいる場所からは、どの方向にも、二十マイル以内に海難救助の詰め所はなかったという事実をここで述べておくべきだろう。が、ボートの男たちはその事実を知らなかったので、国の海難救助にたずさわっている人々の視力について、そのときは口を極めて悪口をいいあった。しかめっ面をしてボートに座り、四人は罵詈雑言の限りをつくした。
「俺たちが見えないって、おかしいだろ」
少し前までの助かったという安心感は完全に消え失せていた。心も辛辣になり、やつらは無能なんだとか、何も見えちゃいないんだ、ひどい臆病者だなどと、自分たちがまだ発見されていない理由を次から次に数えあげていく。人がたくさん住んでいそうな海岸で、人影がまったく見られないというのは、なんともつらいことだった。
「どうやら」と船長が、やっと口を開いた。「自力でなんとかするしかないようだな。こんなところに浮かんだままで救助を待っていたら、ボートが転覆したときに陸まで泳いでいく体力も奪われてしまう」
それを受けて、オールを手にしていた機関手がボートをまっすく陸に向けた。ふいに全身の筋肉が緊張した。考えるべきことがまだあった。
「全員が上陸しなかったとしても」と、船長がいった。「全員が上陸できるとはかぎらないが、もし私ができなかったとして、私の最後を誰に連絡すればいいか、君らは知ってるかね?」
彼らは万一のときに必要となる連絡先の住所や伝言について教えあった。
彼らには強い怒りがあった。それを言葉で表現すると、おそらく、こういうことだ――万一、自分がおぼれることがあったら、もし俺がおぼれたりしたら――おぼれてしまったら、海を支配している七人の怒れる神の名にかけて、なぜこんなにも長く漂流したあげくに砂浜や木々を見せられているのか? 苦労してここまでやってきて、どうやら助かりそうだとなったところで、無慈悲にも、その望みを絶つ――そのためにここまで生き延びさせたってことなのか? それはおかしい。運命という名の年とった愚かな女神にこんなことしかできないのであれば、人間の運命をもてあそぶ力を剥奪すべきだ。自分が何をしようとしているかすらわからない老いたメンドリにすぎないのか。運命の女神が俺をおぼれさせると決めたというのなら、どうして船が沈没したときに殺してくれなかったんだ。そうすれば、こんなきつい目にあわなくてすんだのに。すべてが……不条理だ。だが、いや、運命の女神だって俺をおぼれさせることなんかできはしない。俺をおぼれ死んだりさせはしない。こんなに苦労させられた後で、死ぬなんてありえない。そうして、天にむかって拳を振り上げたい衝動にかられもした。
「俺をおぼれさせてみろ。そしたら、俺がお前を何と呼んでやるか聞きやがれ!」
そのとき迫ってきた波は、さらにおそろしかった。こういう波はいつだって、小さなボートに襲いかかっては泡立つ海に引きずりこもうとする。波が迫ってくるとき、その前から長いうなりのような音がした。海になれていなければ、ボートがこれほど急激に盛り上がってくる波を駆け上がっていけるとは、とうてい思えない。岸までは、まだかなりの距離があった。
機関手はこういう磯波にはなれていた。
「いいか」と、彼は早口でいった。「このままだとボートはあと三分と持たない。といって岸まで泳ぐには遠すぎる。またボートを沖に戻しませんか、船長?」
「そうだな! そうしよう!」と船長がいった。
機関手は目にもとまらぬ早さでオールを操り、次々に打ち寄せる波と波の間でうまくボートの向きを変え、なんとか沖に引き返した。ボートが水深のある沖まで戻る間、ボートでは沈黙が続いた。やっと一人が暗い調子で口を開く。「やれやれ。ともかく、これで陸の連中には俺たちが見えたはずだ」
カモメたちは風を受けて斜めに上昇し、灰色の荒涼とした東の方角へと飛んでいった。
南東ではスコールが起きていた。出火した建物から立ち上るどす黒い煙のような雲やレンガ色をした赤い雲でそれとわかった。
「救助隊の連中をどう思う? なんともいかしたやつらじゃないか?」
「俺たちを見てないってのは、どう考えてもおかしいよな」
「たぶん遊びで海に出てるとでも思ってるんだろう! 釣りをしてるとか、とんでもないバカだとでも思ってるんだろうよ」
午後は長かった。潮流が変わり、ボートを南に押し流そうとする。ところが、風と波は北へ追いやろうとしている。前方はるかに海岸線をはさんで海と空が接していた。岸辺には小さな点のようなものがいくつかあったが、それは街の存在を示しているようだった。
「セントオーガスティンかな?」
船長が頭を振る。
「モスキート湾に近すぎる」
そうして、機関手が漕いだ。それから記者が交代して漕ぎ、また機関手が漕いだ。うんざりするような重労働だった。人間の背中には、分厚い解剖学の本に書いてあるよりもっと多くの痛点があるようだ。背中の広さは限られているが、いたるところで筋肉のせめぎあいやもみあいが無数に生じ、よじれたりからみあったり、なぐさめあったりしている。
「ボートを漕ぐのが好きだったことあるかい、ビリー?」と、記者がきいた。
「いいや」と、機関手がこたえる。「くそおもしろくもねえよ」
漕ぎ手を交代してボートの舟底で休むときには、極度の疲労感から、かたまってしまった指をほぐすのをのぞけば、すべてのことがどうでもよくなってしまう。舟底では、冷たい海水が揺れ動きながらパシャパシャはねている。そこに横になるのだ。漕ぎ座を枕がわりに頭をもたせかけると、そのすぐ横では波が渦をまいている。海水がどっとボートに流れこみ、一度ならずびしょ濡れになった。だが、そんなことは気にもならなかった。ボートが転覆してしまえば、巨大な柔らかいマットのような海面に投げ出されるのは確実だったからだ。
「見ろ! 岸辺に男がいるぜ!」
「どこ?」
「あそこだ! 見えるだろ、やつが見えるだろ?」
「見えた。歩いてるな」
「お、立ちどまった。見ろよ! こっちを見てる!」
「俺たちに手を振ってるぜ!」
「たしかに! 間違いない!」
「やった、もう大丈夫だ! 大丈夫だぜ! 三十分もあれば、救助のボートがここまでやって来る」
「あいつ、まだ動いてる。走りだした。あそこの家まで駆けてくつもりなんだ」
砂浜は遠く離れていて、海面より低く見えた。小さな黒い人影を見分けるには、目をこらして探さなければならなかった。船長が棒きれが浮いているのを見つけたので、そこまでボートを漕ぎよせた。ボートにはなぜかバスタオルが一枚あった。それを棒きれに結びつけて、船長が振った。ボートを漕いでいると振り返って見ることもままならないので、聞いて確かめるしかない。
「あいつ、どうしてる?」
「立ったまま動かない。こっちを見てるんじゃないか……また動いた。家の方に向かってる……また立ちどまった」
「こっちに手でも振ってるかい?」
「いや、もうやってない」
「見ろよ、別の男がやってきた」
「走ってるぜ」
「よく見ててくれよ」
「なぜか自転車に乗ってる。別の男と話をしてるな。二人ともこっちに手を振ってる。見ろよ!」
「何かビーチにやってきた」
「何だ、ありゃ?」
「ボートみたいだ」
「そう、たしかにボートだ」
「いや、車輪がついてる」
「そうだな。救命ボートじゃない……馬車に乗せて引いてるんだ」
「救命ボートだよ、きっと」
「いや、えーと、あれは、あれは乗合馬車だ」
「救命ボートだよ」
「ちがう。乗合馬車だって。はっきり見える。ほら、あそこにある大きなホテルのどれかの馬車なんだ」
「畜生め、そうだな。馬車だ。乗合馬車で何をしようってんだろう? 救助隊のメンバーでも集めてるのか」
「そうだよ。見ろよ! 小さな黒い旗を振ってるやつがいる。乗合馬車のステップに立ってる。あと二人やってきた。ほら、みんな集まって話をしてるぜ。旗を持ってたやつを見てみろよ。もう旗を振ったりはしてないだろ」
「あれは旗じゃないんじゃないか? やつの上着だ。間違いない、あいつの上着だよ」
「そうだな。上着だ。上着を脱いで顔のまわりで振りまわしてる。振ってるのが見えるだろ」
「そうだな。あそこは海難救助の詰め所じゃなかったんだ。ただの避寒地のリゾートホテルの乗合馬車で、おぼれかかってる俺たちを乗客がたまたま見つけたってところか」
「あのくそったれ野郎、上着で何をしようとしてるんだ? 何か合図でも送ってるつもりか」
「北へ行けっていってるみたいだ。そっちに海難救助の詰め所があるに違いない」
「そうじゃない! あいつは、俺たちが釣りをしてるって思ってるんだ。ただ合図してるだけさ。見えるだろう、ほら、ウィリー」
「うーん、あれが何かの合図だったらいいんだが。お前はどう思う?」
「意味なんてないんじゃないか。あいつ、ただ遊んでるだけだ」
「そうだな、もういちど陸に近づけとか、沖に出て待てとか、北とか南へ行けとか伝えようとしてるんだったら、そこには何か理由があるはずだ。だけど、よく見ていると、ぼうっと突っ立って上着を腰のあたりで車輪みたいに振りまわしてるだけの大馬鹿野郎だ」
「人が集まってきてる」
「大勢やってきたな。見ろよ! あれこそボートじゃないか?」
「どこ? ほんとだ、見えた。いや、あれはボートじゃない」
「あの野郎、まだ上着を振りまわしてやがる」
「俺たちが感心して眺めてるとでも思ってるんだろう。いいかげん、やめりゃいいのに。意味なんかないんだし」
「かもしれんが、俺には北へ行けっていってるようにも思えるんだがな。そっちの方に海難救助の詰め所があるんだ」
「おいおい、飽きもせずまだ振ってるぜ」
「どんだけ長く振ってられんだよ。俺たちを見つけてからずっと振ってるんだぜ、あいつ。バカじゃねえか。なぜボートを出してくれないんだ、あいつら。ちょっと大きな漁船でここまで来てくれさえすれば一件落着なのに、なんでそうしないんだろ」
「あ、もう大丈夫だ」
「やつら、すぐにボートを出して、ここまで来てくれるさ。今、俺たちのことをじっと見てるからな」
低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。
「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」
「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」
岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。
音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞う。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。
「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」
「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」
「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」
そうこうしている間も、機関手はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関手が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前かがみになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。
「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」
忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる者にときおり意識して声をかけていた。
「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」
その声は疲れていて低かった。
本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。ときどき波頭を抑えつけるようなうなり音が聞こえたが、それを除けば、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。
料理長は頭を漕ぎ座に載せたまま、眼下の海水を興味もなく見つめている。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」
五
「パイだと」と、機関手と記者が怒ったようにいった。「そんな話するな、バカヤロー」
「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えてたんだ。そしたら――」
海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。
とうとう完全な闇がおとずれ、南の海から射していた光は黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。
ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っている。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足にまで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力した。が、ときどき波がボートにどっと入りこむ。夜の、氷のように冷たい波だ。またしても冷たい水でびしょぬれになる。彼らはその瞬間、体をひねってうめき、また死んだように眠りこむ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てている。
機関手と記者のプランは、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。
機関手は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼ぶ。
「ちょっと交代してくれないか?」と、静かにいう。
「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移る。
二人は慎重に場所を入れ替わった。機関手は料理長に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。
海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。
記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。
「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」
船長はいつもの落ち着いた声でこたえた。
「そうだ。船首の左舷から二点(二二・五度)ほど離しておけ」
料理長は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけている。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理長はストーブのように暖かかった。
記者は漕ぎながら、足元で眠っている男二人を見おろしている。料理長の腕は機関手の肩にまわされていた。服はやぶけ、疲れ切った顔をして、海に迷いこんだ二人の赤ん坊といった風だった。昔話で森に迷いこみ抱きあって死んでいたという赤ん坊を奇怪な姿で再現してみせた感じだ。
彼はほとんど意識もなく漕いでいたに違いない。というのも、いきなり、うなるような波の音が聞こえた。と思ったら、波がしらが音をたててボートに崩れ落ちたのだった。救命帯をまきつけた料理長が浮いて流されなかったのが不思議なくらいだった。料理長はそのまま眠り続けているが、機関手は上体を起こし、目をぱちくりさせ、新たな寒さに震えた。
「すまない、ビリー」と、記者は申し訳なさそうにいった。
「いいってことよ、坊や」というと、機関手はまた横になって眠った。
そのうち、船長もうとうとしているように思えた。大海原で、自分ひとりが漂流しているみたいだと、記者は思った。波の上を吹きすさぶ風の声は、なんともみじめな感じをいだかせた。
ボートの後方で、ヒューっと長く続く音がした。黒い海で、夜光虫の放つ光が溝のように青い炎の航跡となってきらめいている。巨大なナイフで刻んだようだった。
それから静寂があった。記者は口を開けて息をし、海をながめた。
とつぜん、また別の風を切る音が聞こえたと思うと、さっきとは別の青みがかった光がさっと走った。今度はボートと並行に、オールを伸ばせば届きそうなくらいの近さだった。記者は巨大な影のようなひれが、透明感のある水しぶきをあげて海面を切り裂き、きらきら光る長い航跡を残していったのを見た。
彼は肩ごしに船長を見た。顔は隠れているが、眠っているようだった。海の赤ん坊二人を見た。彼らも眠っているようだった。感情をわかちあう者が誰もいないので、記者は片側に少し体を寄せて海に向かって小さな声で毒づいた。
だが、そいつはボートの近くから離れなかった。船首や船尾にあらわれたかと思うと、右舷や左舷に出没し、その間隔も長かったり短かかったりしたが、きらきらと光る筋がさっと長く走り抜け、黒っぽいひれの風を切るヒューという音が聞こえた。そのスピードとパワーには感嘆すべきものがあった。海面を、巨大な鋭い弾丸のように、切り裂いていく。
じっと何かを待っているこいつの存在は、遊んでいるときに出会った人ほどの恐怖を彼には与えなかった。彼はただ海をぼんやり見つめ、低い声で毒づいただけだ。
とはいえ、本音では、こいつと一人で対峙するのは嫌だった。だれか仲間の一人が何かのはずみに目を覚まして、一緒に見守っていてほしかった。だが、船長は水入れにもたれかかって身動き一つしないし、機関手と料理長は舟底で爆睡しているのだった。
六
「もしもぼくがおぼれるとして――おぼれて死ぬのかもしれないが――おぼれ死ぬとして、海を支配している七人の神様の名にかけて、ぼくはなぜこんな遠くまでやってきて、砂浜や木々をながめさせられているのだろうか?」
この暗く憂鬱な夜に、理不尽なほど不当に、本当に自分をおぼれさせようとするのが七人の神の真意なのだと思ったとしてもやむをえまい。懸命に努力し生きてきた者をおぼれさせるのは、たしかに理不尽きわまりない不当な行為だ。これは自然の摂理にそむく犯罪だと、彼は感じた。装飾した帆を持つ数多くのガレー船が出現して以来、これまでも他に大勢の人間が海でおぼれている。とはいえ――
自然というやつは、ぼくが溺死したとしても、たいしたことはないとみなし、ぼくみたいな人間を消したところで世界の完全性がそこなわれるわけではないと感じているのだと思うと、彼は石でも拾って神殿に投げつけたい気分だった。が、そういう石ころや神殿も周囲に存在していないので、くやしくて歯ぎしりしたくなった。母なる自然というものが目に見える形で近くに存在していれば、彼はそいつに向かって罵詈雑言の限りをつくしたことだろう。
自分の感情を吐露する目に見える対象がないのであれば、それを象徴するものに向かって膝まづき、両手をあわせ、「おっしゃるとおりです。でも、ぼくはまだ死にたくないんです」と命ごいすらしたかもしれない。
冬の夜、高い位置で冷たく光っている星は、自然が自分に向かって語りかける言葉だと、彼は感じた。そうして自分のおかれている絶望的な状況に思いいたるのだった。
ボートに乗った男たちは、こうした問題を実際に口に出して論じたりはしなかった。が、疑いもなく、それぞれが黙ったまま自分の心に問うていた。疲れきった様子を示してはいたが、それを別にすれば彼らはめったに感情をあらわさなかった。会話はボートの操船に関することだけだった。
感情が音楽で示されるように、不思議なことに、ある詩がふいに記者の脳裏によみがえった。その詩を忘れていたことすら忘れていたが、いきなり心に浮かんできた。
外人部隊の兵士が一人、アルジェで倒れて死にかけている。看護してくれる女はいないし、涙を流してくれる女もいなかった。だが、戦友の一人がそばに立っている。兵士はその手を握り、こういった。「自分は二度と祖国を、母国を見ることはないんだろうな」と。
彼は子供の頃から、この外人部隊の兵士がアルジェで死にかけているという詩*はよく知っていた。が、そこに描かれていることが重要だと思ったことすらなかった。食事のときに、おおぜいの学友がその兵士の苦しみについて説明してくれたものの、逆に、彼はまったく関心がなくなってしまった。外人部隊の兵士がアルジェで重傷を負って死にかけているという出来事が自分の身に起きるとは思えなかったし、それが悲しいことだとも感じなかった。鉛筆の芯が折れたほども共感しなかった。
だが、不思議なことに、いまになって、それが人間として、生きている人間の問題としてよみがえってきた。その話はもはや、暖炉で暖をとりながらお茶を飲んでいる詩人が頭の中でつむいだ絵空事ではなくて、現実として――過酷で悲しく、美しくもある現実として――感じられたのだ。
*イギリスの社会改革家で著作家のキャロラインE・S・ノートン(1808年~1877年)による『ビンゲン・オン・ザ・ライン』という詩集に収録された詩の一節。
この兵士はドイツのビンゲン・アム・ラインの出身で、アルジェリアでの戦闘に外人部隊として参加し、瀕死の重傷を負ったとされる。
記者には今はもう兵士がはっきりと見えていた。足をのばして砂の上に横たわり、じっと動かない。命が消えていくのを阻止しようとでもするかのように、青白い左腕を胸に載せているが、指の間から血が流れ出ている。はるか遠くアルジェリアの地で、角ばった形をした市街地が、日没まぎわの淡い空を背景に低く見えている。記者はオールを動かしながら、兵士の唇の動きがだんだん遅くなるのを夢を見るように思い浮かべていた。かつてないほど深く、完璧なまでに兵士の感情を理解できたことに心を動かされた。アルジェで横たわり死にかけている外人部隊の兵士に心からの共感をおぼえた。
ボートを追ってじっと待っていたサメは、なかなか状況が進展しないので、明らかに退屈したようだ。海面を切り裂く水音も聞こえなくなった。夜光虫の長い航跡も消えていた。北方の光はまだかすかに見えているが、ボートとの距離がせばまっていないのは明白だった。ドーンと岸に打ち寄せる波の音が、ときどき記者の耳に響いた。そのたびに、ボートを沖に向けて必死に漕いだ。
南の方では、誰かが明らかに浜辺でかがり火を焚いていた。とても低く遠くにあって直接それを目で見ることはできなかったが、その火が岸辺の崖に反射した光の揺らめきで、ボートから見わけることはできた。風が強くなる。ときどき、怒って背を丸めた山猫のように波が盛り上がっては激しく泡だった。
船長は船首にいたが、上体を起こし、水入れに体をもたせかけている。
「なんとも長い夜だな」と記者にいい、岸の方に目を向けた。「救援隊は時間がかかってるようだ」
「サメが周囲をうろついてるの、見えました?」
「ああ、見た。でかいやつだったな、たしかに」
「船長が目をさましていらっしゃるとわかっていたら――」
それから、記者は舟底に寝ている機関手に声をかけた。
「ビリー!」ゆっくり動く気配があった。「ビリー、交代してくれるかい」
「了解」と、機関手がいった。
舟底にたっぷりたまった冷たい海水につかって料理長の救命帯に体を寄せると、記者はすぐに歯をガチガチいわせながら眠りに落ちた。この眠りはとても心地よかったので、極度の疲労の最終段階といった調子の声で自分の名前を呼ばれたとき、眠っていたのはほんの一瞬だったような気がした。
「よう、代わってくれ」
「わかったよ、ビリー」
北方の光はなぜか消えていた。が、すっかり目をさましていた船長が方角を教えてくれた。
その夜遅く、彼らはボートをさらに沖に出し、船長は船尾の料理長に、オール一本でボートをたえず沖に向けておくよう指示した。打ち寄せる波の音が聞こえるほど岸に近づいたら、料理長が大声で知らせることになった。この計画のおかげで機関手と記者は二人そろって少し休憩することができた。
「若い連中の体力を回復させてやろうや」と船長がいってくれたので、機関手と記者は舟底で丸くなった。体を振るわせながら言葉を交わしたりもしたが、二人ともやがて死んだように眠りに落ちた。さっきのと同じか別のやつなのかはともかく、またサメが出現したことも知らなかった。
ボートが波を乗りこえるたびに、水しぶきが舷側を超えて流れこみ、そのたびにずぶ濡れになったが、眠りをさますほどではなかった。不気味な風や海水も、ミイラに対して効果がないように、影響はまるでなかった。
「おい」と、料理長が遠慮しいしいいった。「また陸にかなり近づいちまった。どっちか漕いで沖出ししてくれないか」
記者は上体を起こし、巻波がくずれ落ちる音を聞いた。
漕いでいると、船長がウイスキーと水をくれたので、寒さを感じなくなった。
「もし私が上陸できて、誰かがオールの写真を見せでもしたら――」
やがてまた短い会話がかわされた。
「ビリー、ビリー、交代してくれるかい?」
「わかったよ」と、機関手がこたえた。
七
記者が再び目を開けたときには、夜が明けかけて、海も空も灰色がかっていた。それから海面が深紅と金色に彩られた。とうとう夜が明けたのだ。空は真っ青で、波の一つ一つに朝日が反射し輝いている。
遠くの砂浜には、黒っぽい小さな家がたくさんあって、その上に白い風車が高くそびえていた。人の姿はない。浜辺には犬も自転車も見えない。家々は見捨てられた村のようだった。
ボートの男たちは海岸をじっと目で探り、相談しあった。
「そうだな」と、船長がいった。「助けが来ないのなら、このまま波に乗って陸に向かったほうがいいかもしれんな。こんなところに長くいたら、いざというとき何かする体力も残ってないだろうし」
他の者はその意見を無言で受け入れた。
ボートは陸を目ざした。
あの高い風車の塔には誰も登っていないのだろうか、誰も海を見ていないのだろうかと、記者は思った。その塔はアリの窮状に背を向けて立っている巨人という格好だった。記者には、苦闘しているちっぽけな人間どもにはそっぽを向いて平然としている自然――ただ風が吹き荒れている自然――というものを、いくぶんか人間の目に見える形で示しているように思えた。
自然が残酷だとは思えなかった。といって慈悲深いわけでもない。誠実でもなければ賢明でもない。そういうものではなくて、自然は無関心、彼らにまったく関心がないだけなのだ。
こういう状況におかれた人間は、おそらくは宇宙が自分の境遇に無関心であることに強い印象を受けるあまり、人生において自分がおかしたたくさんのあやまちを思い起こし、いたたまれない思いで、もう一度チャンスがあればと願うのだ。この死に瀕した瞬間に自分の無知をさとり、物事の白黒なんてものはばからしいほど明白に思われて、もしもう一度やり直す機会が与えられたら、自分の言動を悔い改め、人に紹介されたり一緒にお茶を飲んだりするときにはもっとうまく明るくふるまおうと思ったりするのだろう。
「いいか、君たち」と船長がいった。「ボートはまちがいなく沈むだろう。私たちにできるのは、ボートが沈むのを遅らせることだけだ。沈んだら、ボートを離れて浜辺に向かうんだ。ボートが本当に沈んでしまうまで、あわてて海に飛びこんだりするんじゃないぞ」
機関手が二本のオールを手にして、肩ごしに打ち寄せる波を見ている。
「船長」と、彼はいった。「ボートの向きを変えて、沖に向けておいたほうがよいと思いますよ。そうしておいて、バックで陸の方へ進むんです」
「いいだろう、ビリー」と船長がいった。「船尾から行こう」
機関手はボートの向きを変えた。船尾に座っていた料理長と記者は、人気のない無関心な浜辺を見るには肩ごしに振り返らなければならなくなった。
巨大な波がボートを高く持ち上げた。岸に打ち寄せる一面の白波が斜面を駆け上がっていくのが見える。
「岸のすぐ近くまで沈まないで行くのは無理だろうな」と船長がいった。
大波から目を離すことができるようになると、そのたびに岸の方を凝視する。そうやって、じっと見つめていると、その目にはその人の本性があらわれるものだ。記者は他の連中を観察した。彼らはおそれてはいなかった。が、そのまなざしにこめられた真意までは読みとれなかった。
記者自身はといえば、とても疲れていたので、事実に基づいて物事の本質を把握することはできなかった。無理にでもそのことを考えようとしたが、このとき、彼の心は筋肉に支配されていて、筋肉はそんなことはどうでもいいといっていた。おぼれたりしたら、はずかしいだろうなと、ふと思ったりしただけだった。
あわてふためいた言葉もなければ、蒼白な顔もなく、はっきりした動揺もなかった。男たちはただ浜辺を見つめていた。
「いいか、飛びこんだら、できるだけボートから離れるようにしろよ」と、船長がいった。
押し寄せてきた大波の頂点がいきなり轟音をあげて崩れ落ち、長く続く白い砕け波がボートに襲いかかった。
「ようそろ。そのままいけ」と船長がいった。岸の方を眺めていた男たちは無言のまま視線を押し寄せてくる波の方に移し、そうして待った。ボートは波の前面でなめらかに持ち上がり、怒り狂った波の頂点で跳躍し、波の背後の長く続く斜面に着水した。海水が入ってきたが、料理長がくみ出した。
だが、また次の波がやってくる。沸騰したような白濁した波頭がボートに激突し、ボートはでんぐり返った状態で翻弄された。四方八方から海水がどっと流れこんでくる。記者はそのとき舷側を両手でつかんでいたが、そこから海水が入ってくると、濡れたくなくて反射的に指を離した。
小さなボートは水の重みで沈みかけ、旋回しながら海中に引きづりこまれそうになる。
「海水をくみ出すんだ、料理長! 急げ」と船長がいった。
「はい、船長」と、料理長がいった。
「いいか、お前ら、勝負は次の波だぞ」と、機関手がいった。「ボートからできるだけ遠くへ跳ぶんだ」
その三つ目の波がやってきた。巨大で、荒々しく 情け容赦ないやつだ。ボートが波に飲みこまれる。と同時に、彼らは海へ跳びこんだ。船底に救命帯の切れ端が残っていたので、記者はそれを左手でひっつかんで胸に当てて跳びこんだ。
一月の海は氷のように冷たかった。フロリダ沖だからそこまで冷たくはあるまいと高をくくっていたが、予想したより冷たかった。ぼうっとした頭で、なぜかこのことは記憶しておくべき重要な事実に思えた。海水の冷たさは悲しいほどだった。悲劇的だ。この事実と自分の置かれた状況とを考えあわせて彼は当惑したが、泣いてもおかしくない理由があるようにも感じられた。このときの海水はそれほど冷たかった。
海面まで浮上する。潮騒の他はほとんど気にならなかった。それから、海面に浮かんだまま、他の連中を探した。機関手は先頭をきって泳いでいた。力強く、泳ぎも達者だった。少し離れたところに、救命帯のコルクを巻きつけた料理長の白い大きな背中が浮いていた。後方では、船長が負傷していない方の手で転覆したボートの竜骨につかまっていた。
岸の方へはなかなか進めなかった。波に翻弄されながら、記者はそのことについて考えた。
理由を探りたい誘惑にもかられたが、どうやら岸にたどりつくまで長い勝負になりそうだとわかったので、あせらないよう肩の力を抜いて泳いだ。跳びこむときにつかんだ救命帯の切れ端を体の下側に巻きつけ、ときどき手押しのそりにでも乗ったように波の斜面を滑り落ちた。
だが、とうとう、それ以上はどうしても進めなくなった。その場所の潮流がどんな風に流れているのか泳ぐのをやめて調べたりはしなかったが、どうしても前に進まない。海岸は舞台の景色のように目の前にあった。細部にいたるまではっきり見えたし地形もよくわかった。
ずっと離れた左の方を料理長が追いこしていく。船長が料理長に声をかける。
「仰向けになれ、料理長! そうしておいてオールを使んだ」
「了解」
料理長は仰向けになり、自分自身がカヌーになったように一本のパドルをうまく使って漕ぎだした。
船長が片手で竜骨につかまっていたボートも、やがて記者の左側を通過していった。ボートが上下左右にとんでもない動きをしていなければ、船長は自分の体を持ち上げて板塀の上からのぞきこんでいる男のように見えただろう。記者は船長がまだボートにつかまっていられることに驚いた。
彼らは記者の先を進んでいた。機関手、料理長、船長の順にどんどん岸の方へと近づいていき、その後を追いかけるように水入れが跳ねまわりながら流れていく。
記者はといえば、潮流という奇妙な新しい敵にずっととらえられていた。白い砂浜や緑の断崖、その上にある静まりかえった小さな家々のある海岸が絵画のように眼前に広がっていた。すぐそばにあるのに、フランスのブルターニュ地方やアルジェの風景画を画廊で眺めているような気分だった。
「自分はおぼれ死ぬのだろうか? そんなことがありうるだろうか? ありうるのか? 本当に起こりうるのか?」と思ったりした。
人間は、自分自身の死を最後の自然現象とみなすほかないのだ。
とはいえ、その後で、ひとつの波が、死を招く小さな潮の流れから彼を引き出してくれた。彼はふいに自分がまた岸の方へと進むことができるとわかった。片手でボートの竜骨につかまっていた船長が海岸ではなく記者の方を見て、「ボートまで来い、ボートまで来るんだ!」と彼の名を呼んでいた。
船長やボートのところまで行こうと悪戦苦闘しつつも、人が本当に疲れきっているときには――溺死は実際にはむしろ心地よい救いとでもいうべきものであって、苦しみから解放され、やっと楽になれるのだと思ったりもする。だから、もうじき楽になれると、ほっとしてもいたのだが、それというのも、一時的にせよ苦痛がくるのではないかという恐怖感があったからだ。負傷して苦しむのはごめんだった。
と、一人の男が浜辺を走ってくるのが見えた。驚くべき早さで服を脱ぎ捨てている。上着、ズボン、シャツなど、あらゆるものが魔法のように脱ぎ捨てられていく。
「ボートまで来い」と、船長が呼んでいた。
「わかりました、船長」
泳いでいきながら、船長が竜骨から手を離してボートから遠ざかるのが見えた。その後で、記者はひとつの小さな驚異を体現することになった。大きな波が彼をとらえると、彼の体をものすごい速度でボートの方へ、それを飛びこえた向こう側へと軽々と放り投げたのだ。まるで体操競技のようだった。まさに海で起きた本当の奇跡だった。波打ちぎわで転覆しているボートは、泳いでいる人間にとってはオモチャどころではない凶器なのだから。
水深が腰くらいまでしかないところに到達した。一瞬も立っていられないほど体力を消耗していた。波が来るたびに何度も倒され、引き波にさらわれそうになる。
すると、男が走りながら服を脱ぎ、脱いでは駆けて海に飛びこむのが見えた。彼は料理長を浜に引き上げ、それから船長に近づこうとしたが、船長は手を振って来なくていいと合図し、記者の方へ向かわせた。男は裸だった。冬の木のように裸だったが、その姿には後光が射して見えた。聖人のように光り輝いていた。男は記者の手をつかみ、力強く引き寄せ、引きずり、かかえ上げてくれた。身につけた習慣で、記者は礼儀正しく「ありがとう」といった。
だが、男はいきなり「あれは何だ!」と叫び、指さした。記者は「行ってやってくれ」と応じた。
浅瀬で機関手がうつぶせに倒れていた。その額は、寄せては返す波で規則的に水が引いたときにできる砂地にくっついたままだ。
記者は、その後のことは何も覚えていない。
やっとのことで上陸すると地面に倒れてしまい、全身を砂にぶつけた。まるで屋根から落ちたようだったが、ドスンという衝撃も心地よいものだった。
海岸にはすぐに人々が集まってきた。男たちは毛布や服や気付けのウイスキーの瓶を手にし、女たちはコーヒーポットや薬などをかかえていた。海からやってきた男たちに対する陸の人々の対応は温かくて寛大だった。海水をしたたらせながらもじっと動かない一人は、砂浜の上の方へと運ばれていった。生還者の場合と少し異なり、死者に対する人々の対応は重苦しいものだった。
夜になると、月明かりの下で、白い波が寄せては返すのが見えた。浜辺にいる男たちに、風が大海原の声を届けてくる。彼らは風の声を通訳できるような気がした。
The Blue Hotel
一
フォートロンパーにあるパレス・ホテルは明るい青色に塗装されていた。
ある種のアオサギにそうした色合いの脚を持つものがいる。そのため、その鳥はどんな背景のところにいても、自分がそこにいることをはっきり示すことになる。
というわけで、パレス・ホテルは常にその存在を主張し、かつ、誇示し続けていた。それに比べれば、ネブラスカ州のすばらしい冬景色も、灰色の沼沢地の静寂を思わせるにすぎなかった。
ホテルは草原に一軒だけ建っていた。雪が降れば、二百ヤード先の町も見えなくなる。しかし、駅に降りた旅行者が板壁の低い家々の集落であるフォートロンパーの町へ行くには、どうしてもパレス・ホテルの前を通らなければならない。旅行者がパレス・ホテルを視界に入れずにホテルの前を通り過ぎることはできない。
ホテルのオーナーのパット・スカリーがこの色を選んだとき、自分が商売上手であることを証明したわけでもあった。
晴れた日に大陸横断の特急列車がプルマン式車両を何両も長くつらねてフォートロンパーを通過するとき、列車の乗客たちはこのホテルを見て圧倒された。しかし、東部の赤茶や深緑系の色彩を見慣れた連中は、みっともないとか哀れだとか、恐怖だねといった意味の含み笑いを浮かべたのも事実である。
とはいえ、この草原の町の住民や、当然のようにこの町で下車する人々にとって、パット・スカリーは見事な才覚を示したということになる。この豪勢で壮観なホテルと、かつて砦があったロンパーの町を、来る日も来る日も列車が通りすぎていく。さまざまな信条や階級やエゴを持つ乗客たちに共通の色があるわけではないのだ。
青い色でホテルに目を引きつけるだけでは十分でないと思ったスカリーは、毎日、朝と夕方、急行ではなくロンパーに停車する列車を出迎えにいき、宿を決めていないらしい下車した人を見つけては客引きするのが習慣になっていた。
ある朝、雪におおわれた機関車が客車一両と長い貨車の列を引いて駅に入ってくると、スカリーは見事な腕前で三人の男をつかまえた。
一人は体が大きくて抜け目のなさそうなスウェーデン人で、ピカピカだが安物のスーツケースを持ち、寒さに震えていた。一人はダコタ州との境に近い牧場に向かう途中の、背が高くて日に焼けたカウボーイだった。もう一人は東部から来た小柄で無口な男だったが、東部の人間には見えなかったし、自分でもそうとはいわなかった。
スカリーは彼らを捕虜にしたも同然だった。
彼は頭の回転がはやく、陽気で親切でもあったので、下車した三人はこの客引きの手から逃れようとするのは無礼な行為だとでも思ったらしい。彼らは小柄だが熱心なこのアイルランド人の後について、ギシギシ鳴る板敷きの歩道を歩いていく。スカリーは分厚い毛皮の帽子を頭に深くきつくかぶっていた。そのため、二つの赤い耳がまるでブリキ製の耳のように堅く突き出していた。
スカリーは大げさで派手な歓迎ぶりを示し、三人を青いホテルの玄関から招き入れた。
彼らが入った部屋は狭かった。
その部屋は巨大なストーブが祭られている寺院といった風で、ストーブが中央に置かれ、ごうごうと音を立てて燃えていた。ストーブの表面のあちこちで、熱せられた鉄が明るく黄色く輝いている。ストーブのかたわらでは、スカリーの息子のジョニーが白髪や薄茶のまじった頬髭の老農夫とカードゲームのハイ・ファイブをやっていた。
二人は口論している。
テーブルの背後にオガクズを入れた箱が置いてあった。タバコの汁で茶色くなっている。老農夫は頻繁にそれに顔を向けては――ストーブの背後に置いてある、タバコの汁で茶色になった、おがくずを入れた箱の方を何度も振り向いては――腹を立て、いらいらした様子でつばを吐いていた。
スカリーは大声で一喝し、カードゲームをやめさせた。
息子に新しく来た客の荷物を二階の部屋まで運ばせる。
スカリー自身は、三人の客をこの世で最も冷たい水をいれたのではと思わせる三つの洗面器まで案内した。カウボーイと東部出身らしい男はその水を使い、なにか金属でもみがくようにごしごし顔を洗ったので、顔が真っ赤になった。スウェーデン人は慎重に、そしてこわごわと指先をつけただけだった。
こうした一連のちょっとした儀式を通じて、スカリーは三人の旅行者に彼は本当に思いやりのある人だと感じさせた。その手腕は注目に値した。彼は客の便宜をはかってやった。いかにも親切そうにタオルを順に手渡したのだ。
そのあとで、彼らは最初の部屋に戻り、ストーブのまわりに座り、スカリーが昼食の支度をしている娘たちにおせっかいな指示を出す様子に耳を傾けた。初対面の者同士は相手がどういう人間かさりげない会話で慎重にさぐりをいれるものだが、三人は経験を積んだ者として沈黙を守りつつ思案している。
老農夫はそうしたことには無頓着だった。じっと動かず、ストーブのまわりの一番暖かいところに自分のイスを置いたまま、オガクズの箱から顔をあげては客人たちにしきりに当たりさわりのない話題を提供した。たいていの場合、それに対してはカウボーイか東部男のどちらかが短いが適切な返事をした。
スウェーデン人は何もいわなかった。彼は部屋にいる一人一人をひそかに値踏みすることに熱中しているようだった。犯罪がらみの愚かな疑いを抱いているように見えなくもなかった。ひどくおびえた男のようにも見えた。
その後、食事になると、彼は少し口を開いた。が、スカリーだけを相手に話をした。
ニューヨークで服の仕立屋を十年もやっていて、それからこっちへ来たのだとうち明ける。その事実はスカリーの興味をひいたようだった。スカリーはロンパーに来て十四年になると自分からいった。スウェーデン人は農作物のことや労働者の賃金について質問した。とはいえ、彼はスカリーの長い返事をろくに聞いてはいないようだった。彼はその場にいる男たちの顔をかわるがわるながめている。
やがて、彼は西部のこんな町にはなかなか危険なところもありますねと、笑いながら片目をつぶった。そういってから、テーブルの下で両足を伸ばし、頭を傾け、また高笑いした。そうした彼の振るまいは、明らかに他の連中にはどういう意味かわからなかった。彼らは驚いて黙りこみ、じっと彼を見つめた。
二
男たちが部屋に荷物を置いて正面入口の部屋にそろって戻ってきたころには、二つの小さな窓の向こうは一面の雪景色になっていた。雪嵐が荒れ狂っている。舞い散る雪片をとらえようと風の巨大な腕が――乱暴にぐるぐると無駄に――振りまわされていた。
こうした悪天候のさなかにも、驚愕して動けない真っ白な顔をした人間のように門柱が微動だにせず突っ立っている。
スカリーは大きな声で「猛吹雪になりましたな」と告げた。
青いホテルの客たちはパイプに火をつけながら、のんびりした男たちに特有の低い声で同意した。
どんな海の孤島でも、この燃えさかるストーブのある小さな部屋ほどには孤立していなかっただろう。
スカリーの息子のジョニーは、自分はカードの達人だとひけらかすような声の調子で、老農夫にハイ・ファイブをやろうと提案した。農夫の頬髭は白と薄茶のごま塩だった。農夫は小生意気な若造を相手にするような態度でそれに応じた。二人はストーブの近くに膝をそろえて座り、その上に板をのせた。
その勝負をカウボーイと東部男とが面白そうに見守っている。スウェーデン人は少し離れた窓際にいた。なんともいいようのない興奮した表情をしている。
ジョニーと老農夫の勝負はまたもやケンカになった。
老人は相手を軽蔑したようににらみつけて立ち上がる。ゆっくりと上着のボタンをかけ、毅然とした様子で部屋から出ていく。他の男たちは用心深く黙っていた。が、スウェーデン人は声をあげて笑った。どこか子供じみた笑いだった。男たちは、こいつはどうしたんだといわんばかりに、彼をいぶかしげに見ている。
また新しいゲームが暇つぶしに行われることになった。カウボーイはジョニーと組んでもいいと申し出た。彼らはスウェーデン人に対し、小柄な東部男と組んでやってみないかと誘った。
スウェーデン人はそのゲームについて、いくつか質問した。そのゲームには別名がいろいろあって、自分も以前に違う名前だが同じゲームをしたことがあるとわかると、その誘いを受けた。乱暴されるのではとビクビクする様子もかいま見えた。が、大股で三人のそばに移った。イスに座り、一人一人の顔をじっと見つめ、甲高い声をだして笑った。
なんとも奇妙な笑い声だった。東部男ははっと顔を上げた。カウボーイはじっと座ったままだったが、口をぽかんと開けている。ジョニーは手をとめ、指を動かさずカードをぎゅっと握りしめた。
しばらく沈黙があった。
すると、ジョニーが「さあ、やろう。はじめるぜ!」といった。
彼らは板の下で膝がぶつかるほど前方に身を乗り出す。ゲームが開始されると、それに夢中になり、スウェーデン人のおかしな態度は忘れられた。
カウボーイは板にカードをたたきつける癖があった。
有利なカードが手に入ると、きまって一枚ずつ即席のテーブルに激しくたたきつけ、得意満面といった表情でカードを扱うので、そのたびに相手をムッとさせた。カードをボードにたたきつける癖のある者がいれば、勝負はおのずと白熱する。東部男とスウェーデン人の顔つきは、カウボーイが自分のエースやキングをたたきつけるたびに曇っていった。その一方、ジョニーは嬉しそうに目を輝かせて含み笑いをしている。
ゲームに気をとられていたので、誰もスウェーデン人の妙なそぶりを気にとめなかった。彼らはゲームに集中していた。
新しくカードを配るため、小休止となったとき、スウェーデン人がいきなりジョニーにこういった。「この部屋ではたくさんの人間が殺されたんだろうね」
他の連中はあんぐりと口をあけて、彼を見つめる。
「何のことだ?」と、ジョニーがいった。
スウェーデン人はまた、わざとらしい笑い声をあげた。意識的で、挑発するような態度だった。
「おい、私が何をいってるか、あんた、よくわかってるだろ」と、彼はこたえた。
「まったくわからねえ!」と、ジョニーがいい返す。
ゲームは中断した。男たちはスウェーデン人をじっと見ている。ジョニーは宿屋の息子として、本人に直接問いただすべきだと感じたようだった。
「あの、どうされたんですか、お客さん?」と、彼はきいた。
スウェーデン人は彼にウインクした。抜け目のない目配せのようでもあった。スウェーデン人の指は、板の端のところで震えている。
「そうだな、あんたは私が世間知らずだとでも思ってるんだろう。たぶん、慣れてないカモだとでも思ったんだろ?」
「おたくのことなんか、おれ、何も知らねえよ」と、ジョニーがいった。「おたくが世間の荒波にもまれてようが、もまれてなかろうが、おれの知ったこっちゃない。おれがいいたいのは、おたくが何でそんなことをいいだしたのか、こっちは皆目見当もつかないってことださ。この部屋で殺された者なんか、一人もいやしねえよ」
カウボーイはずっとスウェーデン人を凝視していたが、ここで口を開いた。
「いったいどうしたんですか、あなた?」
明らかに、スウェーデン人は恐ろしい脅迫を受けていると思ったらしい。身体がふるえて、口の両端が白くなった。助けを求めるように小柄な東部男の方を見た。そうした間も、ひどく酔っ払った雰囲気を振りまくのを忘れなかった。
「こいつら、私が何をいっているのか、わかないそうだ」と、彼は嘲笑するように東部男にいった。
いわれた方は、しばらく考えてから、用心深く、冷静にこうこたえた。
「わたしにも、あなたが何をおっしゃっているのか、わかりませんよ」
すると、スウェーデン人は、助けるといわないまでも同情くらいはしてもらえると当てにしていた唯一の者からも裏切られたという意味の仕草をした。
「そうか。みんなして私に反論するんだな。そういうことか――」
カウボーイはあっけにとられている。
「あんたよう」と、彼は手持ちのカードをすべてボードにたたきつけて叫んだ。「あんた、何のつもりだ、え?」
床にヘビがいるのを見て逃げるように、スウェーデン人はすばやく飛び上がった。
「私はケンカしたいんじゃない」と、彼は叫んだ。「ケンカなんかしたくないんだよ」
カウボーイは長い足をのろのろと伸ばした。両手はポケットにいれたままだ。オガクズの箱につばを吐く。
「おい、誰があんたとケンカなんかすんだよ?」と、彼がきく。
スウェーデン人はすばやく部屋の隅まで退却した。身を守ろうと、両手を胸の前に突き出す。どうみても、彼は自分の恐怖心と戦っているようだった。
「みなさん」と、彼は震える声でいった。「私はこのホテルから出る前に殺されてしまうんでしょうね! 私はホテルから出る前に殺されるんだ!」
彼の目には、死んでいく白鳥のような自分が見えていた。暗くなってきていた。窓から見える雪は青みがかっている。風は建物を引き裂くように吹きすさび、何かぶらぶらしたものが壁の板にあたり、幽霊がたたいているような規則正しい音をたてている。
戸が開いた。
スカリー本人が入ってくる。
スウェーデン人のおびえた様子に気づいた彼は、驚いて立ちどまった。それから、「どうかなさいましたか、ここで?」といった。
スウェーデン人はすぐに真顔でこたえる。
「この人たち、私を殺そうとしてるんです」
「あなたを殺すって!」と、スカリーは大声を出す。「あなたを殺す、ですと! 何の話です?」
スウェーデン人は、殉教者のような仕草をした。
スカリーはいかめしい顔をして息子の方を向く。
「どういうことだ、ジョニー?」
息子は不機嫌になっている。
「知らねえよ」と、彼はこたえた。「わけ、わかんねえ」
彼はカードを集め、怒ったようにシャッフルしはじめた。
「この人、この部屋で大勢の人間が殺されるか何かしただろうっていうんだ。それに、自分もここで殺されるってね。なんでそうなるのか、わからねえよ。頭、おかしいんじゃない。いかれてるよ」
スカリーは説明を聞こうとカウボーイを見たが、彼はただ肩をすくめただけだった。
「あなたを殺す、ですって?」と、スカリーはまたスウェーデン人にいった。
「あなたを殺す? ねえ、あなた、どうかしてますよ」
「ああ、わかってるよ」と、スウェーデン人は叫んだ。「何が起きるか、知ってるんだ。そう、私はいかれてる――そう、そうなんだ。私はいかれてるんだ――たしかに。だが、一つだけ、わかっている――」
彼は苦悩と恐怖で、あぶら汗を浮かべている。
「私は生きてここを出られないって、わかってるんだ」
カウボーイは支離滅裂だという風に、深く息を吸った。
「くそったれが」と、彼は独り言のようにつぶやく。
スカリーはふいに向きを変え、息子と対峙した。
「おまえ、この人を困らせたんだな!」
ジョニーは、腹立ちまぎれに大きな声をだす。
「なんでそうなるんだよ、おれ、この人に何もしてねえよ」
スウェーデン人が割って入る。
「皆さん、騒がないで。私、ここから出ていきます。私が出ていきますよ、だって」――彼は思い入れたっぷりに、とがめるような視線を彼らに向ける。「私、殺されたくないですから」
スカリーは息子に激怒した。
「きさま、何をやったか、ちゃんと説明しろ? 何があった、え? ちゃんと話せ!」
「やってらんねえよ」と、ジョニーもやけになって怒鳴る。「だから、わけがわからないっていってるだろ。こいつは――こいつは、おれたちがこいつを殺したがっているっていうんだ。それだけだ。こいつが何でそういうのか、おれは知らねえよ」
スウェーデン人は何度も繰り返す。
「気にしないでください、スカリーさん。心配しないで。私、ホテルを出ていきます。いなくなりますよ。殺されたくないのでね。そう、もちろん、私、頭がおかしいんです――そうなんです。でも、一つだけわかっています! 私、出ていく。この建物から出ていきます。気にしないで、スカリーさん。大丈夫、私、出ていきますから」
「そういうわけにはいきませんよ」と、スカリーがいった。「事情がはっきりするまで、あなたを出ていかせたりはしません。誰かがあなたを困らせたのなら、そいつには私からちゃんといっておきます。ここは私の家なんです。あなたは、うちの屋根の下にいらっしゃる。ここでおとなしくしている人を困らせるようなことは、私が許しはしません」
スカリーはそういって、ジョニーとカウボーイと東部男をにらみつけた。
「気にしないでください、スカリーさん。かまわないんです。私、出ていきます。私、殺されたくないので」
スウェーデン人は階段に向かって開いているドアの方へ歩いた。すぐに荷物をとってこようとしているのは明白だった。
「だめ、だめですよ」と、スカリーは断固として叫んだが、真っ青な顔をした男はするりと彼の脇を通り抜けて姿を消した。
「おい」と、スカリーは重々しくいった。「なぜだ、どういうことなんだ?」
ジョニーとカウボーイが同時に叫ぶ。
「なぜって、おれたち、何にもしちゃいねえよ!」
スカリーの目は冷たかった。
「何もしていないだと」と、彼はいった。「おまえたち、何もしてないだと?」
ジョニーは誓った。
「ちぇ、あんなやつ、はじめてだよ。まったくいかれてるよ。おれたち、何もしてないって。ただ、ここに座ってトランプをしてたら、あいつが――」
父親は突然、東部男に話しかけた。
「ブランクさん」と、彼はたずねる。「こいつら、いったい何をやらかしたんですかね」
東部男はまた考えこむ。
「何も変わったことはなかったような」と、彼はゆっくりと述べた。
スカリーは吠えた。
「だが、おかしいだろ。一体どうしたっていうんだ?」
彼は恐ろしいまなざしで息子をにらみつけた。
「おい、こんなことをやらかしやがって。きさま、ぶんなぐるぞ」
ジョニーも激しく抗弁する。
「おれが何をしたっていうんだよ?」と、父親に怒鳴り返す。
三
「おたくら、まともに口がきけないようだな」と、スカリーは最後に息子とカウボーイと東部男にそういった。そう侮蔑の言葉を吐いて部屋を出ていった。
二階では、スウェーデン人が大きなスーツケースのストラップを締めようとしていた。彼の背中は半分ほどドアの方に向けられている。足音が聞こえると振り向いたが、大声をだして飛び上がった。
戸口のところで、シワの寄ったスカリーの顔が、手にしたランプの光で不気味に照らされていた。その黄色い光はホテルのオーナーの顔を下から照らし、極端な陰影をつけて闇に浮かび上がらせていた。その両目は光によってできた影で得体の知れない闇に沈んでいる。つまり、人殺しのように見えた。
「ねえ、あなた!」と、スカリーは大きな声をだす。「どうしたっていうんです?」
「いや、そうじゃなくて!」と、相手はこたえた。「世の中には、あなたがたに負けないくらい、ちゃんとわかっている人間がいるってことですよ――おわかりでしょ?」
彼らはしばらく互いの顔を見ながら立っていた。
スウェーデン人の死人のように青ざめた両ほおには、入念に描かれたような二つの赤い斑点がくっきりと現れている。
スカリーはランプをテーブルに載せ、ベッドの端に腰を下ろした。思案しつつ語りかける。
「なんというか、こんなこと、まるで聞いたことがないですよ。まったく、おかしな話じゃないですか。あなたが、どうしてそんな風に考えてらっしゃるのか、私には見当もつきません」
スカリーはしばらく間をおく。そうして、顔をあげる。
「で、あなたは、連中が本当にあなたを殺そうとしていると、お考えなんですか?」
スウェーデン人は相手の心をさぐるようにスカリー老人を見た。
「そうです」と、彼はなんとか口にした。明らかに反撃をくらうと覚悟しているようだった。カバンのストラップを締めるとき、腕全体が震え、肘も紙切れのよう揺れている。
スカリーはベッドの足台を手でバンとたたいた。
「いいですか、あなた。来年の春には、この町にも路面電車が走ろうってご時世なんですよ」
「路面電車ね」と、スウェーデン人はぼんやり繰り返す。
「しかも」と、スカリーはいった。「ブロークン・アームからここまで、新しい鉄道も引かれようとしてるんです。教会だって四つもあるし、立派なレンガ造りの学校まであるんですよ。大きな工場だって、ね。つまり、あと二年もすれば、このロンパーは大都会になるってわけです」
荷造りをすませると、スウェーデン人は上体を起こした。
「スカリーさん」と、彼は急に大胆になっていった。「宿代、いくらですか」
「お金なんかいりませんよ」と、老人は怒っていう。
「いや、払いますよ」と、スウェーデン人がいい返す。彼はポケットから七十五セント出して、スカリーに差し出す。が、相手は拒絶するように指をとじた。二人は突っ立ったまま、スウェーデン人の開いた掌に載っている三枚の銀貨を奇妙な形で見つめ合う。
「あなたからお金はいただきません」と、スカリーはとうとういった。「こんなごたごたがあったわけですから、受けとれませんよ」
と、そのとき、彼はある計画を思いついた。
「ねえ、ちょっと私と一緒に来てくださいよ」
「いやです」と、スウェーデン人はおびえたように警戒している。
「いいから」と、老人は誘った。「来てくださいよ! ホールのすぐ向こうです――私の部屋にある――写真を見に来てくださいよ」
スウェーデン人は最後のときが来たと思ったに違いなかった。口を開け、死人のように歯をむき出す。なんとかホテルのオーナーの後について廊下を横ぎったが、鎖で足をつながれたような歩き方だった。
スカリーは部屋の壁の上の方をランプで照らした。風変わりな少女の写真が浮かび上がる。
その少女はきらびやかに飾られた手すりにもたれていた。切り下げた前髪が特徴的だ。その姿は、ソリの板を立てたようで優雅というにはほど遠く、色調も鉛色だった。
「ほら」と、スカリーはいとおしそうにいった。「この写真は私の死んだ娘です。名前はキャリー。とてもきれいな髪をしていました! この娘がまたかわいくて、この娘は――」
彼が振り返ると、スウェーデン人は写真の方はまるで見ていなかった。代わりに、背後の暗闇を警戒している。
「見てくださいよ、あなた!」と、スカリーは熱をこめて叫んだ。「あれは死んだ娘の写真なんです。名前はキャリー。それから、こっちの写真は長男のマイケル。リンカーンで弁護士をしてて、立派にやってますよ。ちゃんとした教育を与えましたからね。そうしておいてよかったと思いますよ。ね、立派な子でしょうが。ほら、見てくださいよ。仕事だってばりばりこなす、たいしたやつですよ。リンカーンじゃ賞賛され尊敬もされているジェントルマンなんですよ」と、スカリーは身ぶり手ぶりをまじえて説明し、そういってから、スウェーデン人の背中を勢いよくたたいた。
スウェーデン人はかすかに笑った。
「さあ」と、老人はいった。「もう一つだけ」
スカリーはいきなり床の上に四つんばいになると、ベッドの下のぞきこむ。くぐもった声がスウェーデン人にも聞こえた。
「息子のジョニーがいなかったら、枕元にでも置いておいたんですが。それに、婆さんもいますしね――あれ、どこへやったんだっけな。私、毎回場所を変えるもんですから、おい、出てこい!」
まもなく彼はうしろ向きにはい出てきた。ベッドの下から丸く巻いた古い上着を引っ張り出す。
「やっと見つかった」と、彼はつぶやいた。
床に膝をついたまま上着を広げ、内側から大きな黄褐色のウイスキーのボトルをとり出した。
まずボトルを持ち上げて、光にすかして見る。誰もそれにさわっていないことがはっきりしたので、それをスウェーデン人の方へ気前よく差し出す。
膝の力が抜けたスウェーデン人は、この元気の素を受けとろうとしたが、はっとして手を引っこめると、恐怖のまなざしでスカリーを見つめている。
「飲んでくださいよ」と、老人は愛想よくいった。
スカリーは立ち上がり、またもスウェーデン人と向かい合う。
沈黙があった。それから、スカリーがまたいった。
「飲みなさいって!」
スウェーデン人は引きつった笑みを浮かべている。ボトルを奪いとるようにつかむと、口にあてた。唇はみごとにボトルのそそぎ口の形に丸くなり、のどを動かして一気に飲んだ。その間も、彼は憎悪に燃えた視線を老人の顔からそらさない。
四
スカリーが部屋を出ていってからも、三人の男は膝にボードを載せたまま、しばらくの間あっけにとられて沈黙していた。やがて、ジョニーが口を開く。
「あんなスウェーデン人、見たことねえ」
「スウェーデン人なんかじゃねえよ」と、カウボーイが軽蔑するようにいった。
「じゃあ、何者なんだ」と、ジョニーがいう。「あいつ、何者だ」
「俺の考えでは」と、カウボーイは慎重にこたえる。「あいつ、オランダ人かなにかだろうぜ」
この国では、発音が聞きとりにくく明るい髪の色の人間はすべてスウェーデン人だとする習慣が根強く残っている。そのため、カウボーイの意見は思いきった発言といえないこともなかった。
「そうなんだ」と、彼は繰り返した。「あいつ、オランダ人か何かだろう」
「まあ、ともかく、本人はスウェーデン人だといってたよな」と、ジョニーが不機嫌につぶやき、東部男の方を向く。「おたく、どう思う? ブランクさん、おたく、どう思います?」
「うーん、わからんね」と、東部男はこたえた。
「だけど、どうして、あんな風にふるまったんだろうな?」と、カウボーイが首をひねる。
「ま、こわかったんだろ」と、東部男はパイプをストーブの縁でたたいて灰を落とした。「ほんとにこわかったんじゃないかな」
「何が?」と、ジョニーとカウボーイが声をそろえて叫んだ。
東部男は考えこむ。
「こわいって、何が?」と、二人はまた繰り返した。
「まあ、わたしにもわからないんだが、あの人、そこらの西部開拓時代の本かなんか読みあさってて、自分がそういうところに来てしまったとでも思ったんじゃないか――銃で撃ったとか刺したとか、そういう血なまぐさい世界にね」
「だけどよう」と、カウボーイがあきれたようにいう。「ここ、ワイオミングじゃないんだぜ。そんなところじゃない。ネブラスカだぜ、ここ」
「そうだ」と、ジョニーが続けた。「そんなこと、西部*に行ってからやれって話じゃないか」
* 西部劇でおなじみのアメリカの「西部」は、西部開拓の進捗状況(時代の推移)に応じて西へ西へと移っていきます。
米国の国勢調査局による現代の分類では合衆国本土は北東部、中西部、南部、西部の四つに分類されます。ネブラスカ州は中西部(の西の端)。さらにその西隣にあるワイオミング州は西部(ロッキー山脈地帯)に含まれています。
あちこちを旅してきた東部男は笑った。
「同じですよ、向こうも――今となっては、ね。でも、あの人、自分が地獄のど真ん中に入りこんでしまったみたいに思ったんでしょう」
ジョニーとカウボーイはしばらく考えこむ。
「なんとも妙だよな」と、ジョニーがやっと口を開いた。
「そう」と、カウボーイがいう。「妙な話だ。これで雪に閉じこめられていなけりゃいいんだが。でないと、あいつ、ずっとまわりをうろうろしてて、それをがまんしなけりゃならないってことになっちまわねえともかぎらない。ぞっとしないね」
「親父が放り出してくれればいいんだけど」と、ジョニーがいった。
やがて、ジョークを飛ばすスカリー老人の大きな声と、まぎれもないスウェーデン人の笑い声まじりに、大きな足音が階段の方から聞こえてきた。ストーブをかこむ男たちは、ぽかんとした表情で見つめあう。
「うそだろ」と、カウボーイがいった。
ドアがさっと開く。
スカリー老人は顔を紅潮させたまま、話に夢中の様子で部屋に入ってきた。スウェーデン人とおしゃべりしている。スウェーデン人も老人の後から機嫌よく笑いながらついてきた。宴会場から酔っ払い二人が出てきたようだった。
「やあ」と、スカリーは座っている三人に依頼するような口調でいった。「そっちに詰めてくれませんか。私らもストーブにあたらせてくださいな」
カウボーイと東部男は何もいわず椅子をずらして新しく来た二人の場所をつくってやった。とはいえ、ジョニーはさらに楽な格好になるよう姿勢をくずしたが、その場所を動こうとはしなかった。
「おい、そこ、詰めてくれ」と、スカリーがいった。
「ストーブのあっち側はずっと空いてるじゃないか」と、ジョニーがいう。
「私たちにすきま風があたるところに座れっていうのか」と、父親が怒鳴る。
すると、スウェーデン人が鷹揚に口をはさんだ。
「いやいや、息子さんには好きなところに座っていてもらいましょう」と、自信に満ちた声で父親にいう。
「わかりました、わかりました」と、スカリーが丁重な口調で応じる。カウボーイと東部男はびっくりして顔を見合わせた。
ストープの一方の側に五脚のイスが三日月の形に並べられた。スウェーデン人が口火をきる。横柄で、口汚く、腹をたてているように話をする。ジョニーとカウボーイと東部男はむっつりと黙っている。一方、スカリー老人は聞き入っていて、たえず同感だと相づちをうつ。
やがて、スウェーデン人が喉がかわいたと告げる。イスに座ったまま腰を浮かせ、水を飲んでくるという。
「私が持ってきますよ」と、スカリーがすかさず叫んだ。
「いいや」と、スウェーデン人は小馬鹿にしたようにいう。「自分でとってきますよ」
彼は自分がホテルのオーナーでもあるような様子で立ちあがり、大股で調理場に向かった。
スウェーデン人が話し声の届かないところに行ってしまうと、スカリーはさっと立ち上がり、他の者に小さな声でいった。
「二階では、私が彼を毒殺すると思いこんでたよ」
「まったく」と、ジョニーがいった。「やになるよ。なんで雪のなかに放り出さないの?」
「なに、もう大丈夫だ」と、スカリーは宣言した。「あの客は東部から来たばかりで、ここが荒っぽい西部だと思いこんでしまったんだ。それだけだ。もう問題ない」
カウボーイは感心し、東部男を見た。
「あんたのいうとおりだったな」と、彼はいった。「あんた、あのオランダ人のこと、お見通しだった」
「それで」と、ジョニーは父親にいった。「もう大丈夫かもってことだけど、本当にそうかい。さっきまでおびえていたのに、今度は妙に厚かましいじゃないか」
スカリーの話しぶりにはいつもアイルランドのなまりや方言、西部特有の鼻にかかったいい方、それに小説本や新聞で覚えた妙に堅い表現が入りまじっていた。で、彼は息子に対し、そうしたごちゃまぜの言葉をすさまじい勢いであびせた。
「私が何を経営してると思ってる? 何を経営をしてるか、わかってるよな? 私が経営しているのは何だ?」と、雷鳴のような声で詰問する。そして、その答えは自分でいうから他の者は黙って聞いていろといわんばかりに自分の膝を強くたたいた。
「私はホテルをやってるんだ」と、彼は怒鳴った。「ホテルだ、わかってるよな? ここに来たお客さんには、神聖不可侵な特権というものがある。誰にもおびえさせられたりしないという特権がね。もう出ていくと思わせるような言葉を聞かせるわけにはいかない。私が認めない。私のホテルで怖い目にあって客が逃げだしたなんてことがあってはならんのだ」
彼はふいにカウボーイと東部男の方を向いた。
「そうでしょ」
「そうです、スカリーさん」と、カウボーイがいった。「その通り」
「そうですね、スカリーさん」と、東部男もいう。「その通りだと思いますよ」
五
夕食は六時だった。スウェーデン人は回転花火のようにシューシューしゃべりまくっている。今にも騒々しく歌でもうたいだすのではと思うほどだったが、そういう躁状態のときでも、スカリー老人はそれをたしなめようとはしなかった。東部男は口をださなかったし、カウボーイはあっけにとられて食べるのも忘れていた。ジョニーは腹立ちまぎれに山盛りの料理を次々にたいらげている。
ホテルでメイドをしている娘たちは、ビスケットを出さなければならないときは気配を消して用心深く近づき、目的を果たすと、おびえている様子を隠しきれず、すぐに逃げていった。
その食事の間、スウェーデン人はずっといばり散らしていたので、荒っぽいどんちゃん騒ぎをやっているように見えた。彼は背筋をぴんと伸ばし、一人一人の顔を見くだしたようにながめた。その声は部屋中に響き渡った。一度など、フォークを銛のように突き出してビスケットを押さえたが、同じビスケットを狙ってそっと出された東部男の手があやうく串刺しになるところだった。
食事がすむと男たちは別室に移った。スウェーデン人はスカリーの肩を強くたたいた。
「やあ、あなた、おいしい食事でしたよ」
ジョニーはある種の期待をこめて父親を見た。老人が以前に高いところから落ちて、その肩をいためているのを知っていたからだ。
実際、スカリーは立腹したようにも見えた。が、それも一瞬で、彼は苦笑しつつ、結局、何もいわなかった。彼のそうした様子から、他の者たちは、スウェーデン人の態度が変わったことについてスカリーが自分に非があるのを認めているのだと理解した。
とはいえ、ジョニーは父親にそっといった。
「いっそのこと、あいつにおれを階段から突き落としてくれとでもいってみたらどうです?」
スカリーはそれにはこたえず、怖い顔でにらみつけた。
彼らがストーブのまわりに集まると、スウェーデン人はまたハイ・ファイブをやろうといいだして聞かなかった。スカリーははじめは穏やかにその計画に反対していた。スウェーデン人が恐ろしい目つきでにらみつける。老人が沈黙すると、スウェーデン人は残りの者を勧誘した。彼の声音には、強い脅迫めいた調子があった。
カウボーイと東部男は二人とも「やりますか」とそっけなくいった。
スカリーはもうじき六時五十八分の汽車を迎えに行かねばならないといった。
すると、スウェーデン人は威嚇するようにジョニーに顔を向けた。一瞬、二人のまなざしが刃物のように渡りあった。やがて、ジョニーはにやりと笑い、「やりましょう」といった。
彼らは膝に小さなゲーム用の板を載せて、四角に座った。東部男とスウェーデン人が再び組になった。勝負が進むにつれて、カウボーイはいつものようにはボードにトランプをたたきつけなかった。前との違いはそれくらいだった。その間、スカリーはランプの近くにいて、メガネをかけた不思議な老僧のような格好で新聞を読んでいた。やがて六時五十八分の汽車の客を迎えるために出ていった。
注意していたにもかかわらず、扉が開くと同時に、北極からの冷たい風が部屋に舞いこんでくる。トランプが飛び散った。それだけではなく、勝負をしている男たちの体も心底冷えきってしまった。スウェーデン人が恐ろしい暴言を吐く。
スカリーは用をすませてまた戻ってきた。しかし、彼が扉を開けて部屋に入ったことで、暖かいなごやかな空気がまたも乱れてしまう。スウェーデン人が罵声をあびせる。
しかし、しばらくすると彼らはうつむいて手をすばやく動かしつつ、前かがみになってゲームに熱中した。ボードにトランプをたたきつける癖は、カウボーイからスウェーデン人の方に移ってしまっていた。
スカリーは新聞を取り上げて、自分の身辺から非常に遠いところの事件に没頭している。ランプの燃焼が悪くなり、一度、彼は読むのをやめて芯の具合を調節した。ページを繰るごとに、新聞紙がカサカサと快い音を立てた。そのとき、突然、スカリーは短いが恐ろしい言葉を聞いた。
「いかさまだ!」
このときの状況――環境そのもの――には、劇的な要素がほとんどなかった。どんな部屋であっても悲劇は起きるし、どんな部屋であっても喜劇が展開されたりするわけで、この小さな部屋は、今や拷問室のようなおぞましいものになった。
男たちの顔つきが一瞬にして変化した。
スウェーデン人はジョニーの眼前で大きな握りこぶしを振りまわしている。一方、ジョニーは自分を告発した者のぎらぎらした目を落ち着いて見つめていた。東部男は青くなり、カウボーイは癖のある鈍重な驚きの表情を浮かべ、口をあんぐりと開いたままだった。
例の言葉が発っせられてから新聞がスカリーの手を離れて床に落ちて音をたてるまでにに、やや間があった。彼のメガネも鼻からずり落ちた。が、きわどいところで、なんとか手をのばして押さえたので、床に落ちずにすんだ。伸ばした手は、肩のあたりで、そのままぎこちなく宙にとどまっている。彼はトランプをしていた連中の方に目をやった。
そうした沈黙は、おそらく一秒たらずにすぎなかっただろう。
その後、連中は機敏な動きをみせた。足元の床板がいきなり引きはがされたとしても、これほどすばやくは動けないだろうというほどの敏捷さだった。
五人は同じ一点に向かって突進した。
ジョニーはスウェーデン人にとびかかろうと立ち上がったが、ふと本能的にトランプとゲームボードを気にしたためか、少しよろめいた。その一瞬の遅れを逃さず、スカリーが間に割りこむ。カウボーイもそのすきにスウェーデン人をぐいと押し戻し、スウェーデン人を後退させた。男たちは一斉に怒鳴りあった。怒りや抗議や恐怖の叫び声が発せられた。
カウボーイは興奮してスウェーデン人を押したり体をぶつけたりしていたし、東部男とスカリーは必死でジョニーを押さえつけた。しかし、煙にかすんだ空気を通して、仲裁しようとする者たちの揺れる身体ごしに、互いに殴り合おうとしている二人の目はぎらぎらと熱く、しかし鋼のように冷静に、相手の居場所を探し求めている。
むろん、ゲーム用のボードはひっくり返って、カードすべてが床に飛び散っていた。男たちのブーツに踏みつけられた肥満ぎみの彩色されたキングやクイーンは、間の抜けた顔つきで、頭上で展開される取っ組み合いをながめている。
スカリーが怒鳴りあう声を圧するように叫んだ。
「もうやめろ! やめろったら! やめないと──」
立ちふさがっているスカリーと東部男の壁を突き破ろうとしながら、ジョニーが叫ぶ。
「あのな、あいつ、おれがいかさまをやったといってるんだ! おれがいかさましてるってね。そんなこと、だれにもいわせねえよ! おれがいかさましたっていうんなら、あいつは―──!」
カウボーイはスウェーデン人に向かって「やめろ、おい! やめろったら──」と叫んでいる。
だが、スウェーデン人の叫び声が途切れることはなかった。
「あいつはいかさましたんだ! 私は見た! 見たんだよ──」
東部男も何かをぶつぶついっていた。
「待てよ。ちょっと待てよ。ケンカなんかするなよ、たかがトランプだろ? 待てよ──」
が、だれも注意を払わない。
大騒動になって、だれの言葉もきちんと聞きとれない。
「いかさま」──「やめろ」──「あいつがいった」──騒ぎの最中にも、こうした言葉の断片が突き刺すようにするどく響いた。疑いもなくスカリーが一番大きな声を出していた。しかし、不思議なことに、この騒ぎで彼に耳を貸す者はもういなかった。
とはいえ、騒ぎはいきなりおさまった。まるで各人が息をつぐために一休みしたかのようだった。
部屋の中にはまだ男たちの怒りの炎が残っていたものの、すぐにまた衝突が起きるという危険はもうなかった。ジョニーは肩で人を押し分けて前へ進み、スウェーデン人と対峙する。
「なんだって、おれがいかさまをしたなんていうんだ? なんでおれがいかさましなきゃなんないんだよ? いかさまなんかしてねえし、したなんて、だれにもいわせない!」
スウェーデン人はいった。
「私は見たんだ! この目で見たんだよ!」
「いいだろう」と、ジョニーは叫んだ。「おれがいかさまをしたなんていうやつとは、決闘でもなんでもしてやるぜ!」
「いや、だめだ」と、カウボーイがいった。「ここじゃだめだ」
「ああ、じっとしてろ、動くな」と、スカリーも二人の間に割りこむ。
静かになったので、東部男の声もやっと聞こえるようになった。同じことをずっと繰り返し口にしていた。「おい、ちょっと待てよ、ケンカなんかするなって。たかがトランプだろ。待てって!」
ジョニーは父親の肩ごしに真っ赤な顔をのぞかせ、またスウェーデン人に声をかけた。
「あんた、おれがいかさましたっていうんだな?」
スウェーデン人は歯を見せてこたえる。「そうだ」
「じゃあ」と、ジョニーがいった。「決闘するしかない」
「よし、決闘だ」と、スウェーデン人も怒鳴った。悪魔にとりつかれたようにも見えた。
「そうだ、決闘だ。私がどんな人間か、教えてやろう! あんたがどんな男と決闘したがっているか、教えてやるよ! たぶん、私が決闘なんかできないと思ってるんだろうな! たぶん、私には無理だって! あんたはだましたんだ。このインチキ野郎! あんたはいかさまをした! あんたはいかさまをした! あんたはいかさまをしたんだ!」
「そうかい。じゃ、やろうぜ、おっさん」と、ジョニーは冷静な声を出す。
カウボーイは、どんな攻撃も未然に防ごうと懸命で、汗びっしょりになっていた。その望みがつきた今、彼はスカリーの方を向いた。「どうします?」
老スカリーのケルト人ぽい顔つきが変化した。すっかり乗り気になったようで、目を輝かせている。
「じゃ、決闘させてやろうじゃないか」と、彼は断固としてこたえた。「このスウェーデン人には、もう、がまんならない。決闘させてやる」
六
男たちは外に出る用意をした。
東部男は興奮しすぎて、新しい革のコートの袖に腕を通すのにも難儀した。カウボーイは毛皮の帽子を耳まで深くかぶろうとしたが、両手はぶるぶる震えている。動揺といったものを何も示さなかったのはジョニーとスカリー老人の二人だけだった。こうした決闘の準備は無言で行われた。
スカリーがドアを押し開く。
「さあ、来いよ」と、彼はいった。
とたんに、ものすごい風が吹きこんできた。ランプの炎は激しくゆれ、ほやの先端から黒い煙がポッと吹き出した。ストーブは強風が吹きこむど真ん中にあったので、そのたてる音は嵐のたてる轟音に匹敵するほど大きかった。傷がつき泥にまみれたトランプのカードの何枚かは、床から巻き上げられ、無残にも奥の壁にたたきつけられた。男たちは頭を低くし、海に飛びこむように嵐の中へと飛びだしていく。
雪はもうやんでいた。
が、雪まじりの巨大な渦や雲が、すさまじい勢いの風に吹き飛ばされ、弾丸のような速さで南の方へと流れていく。雪のつもった地面は、この世のものとは思えないサテンめいた光沢で青くなり、鉄道の駅がはるか遠くに低く黒く見えるあたりに、小さな宝石のような明かりが一つ見えていた。
見渡す限り青い世界が広がっていた。男たちは太ももまで達する雪の吹きだまりを苦労して進んだ。スウェーデン人が何か大声で叫んでいる。スカリーはそばまでいって肩に手をかけ、片方の耳を向けた。
「何だって?」と、彼も怒鳴った。
「どうせ」と、スウェーデン人はまた大声で叫んだ。「こいつらを敵にした私に勝ち目はないだろうな。みんなして、かかってくるんだろ」
スカリーは、怒ったようにスウェーデン人の腕をたたいた。
「あのな、あんた!」と、彼は叫ぶ。風がその言葉をスカリーのくちびるから奪いとり、はるか風下へと吹き飛ばす。
「おまえたち、みんな──」と、スウェーデン人も声を張り上げる。が、今度も嵐のうなり声のために、残りの言葉は聞こえなかった。
男たちはすぐに風に背を向けるようにして建物の角をまわりこみ、ホテルの風下側に抜けた。ホテルの小さな建物があるおかげで、風下側は雪の猛威をまぬがれていた。不規則なV字形の草地が残っていて、男たちの靴の下でザクザクと音を立てた。風上の方はひどい吹きだまりになっているだろうと想像がついた。
一行が多少はおだやかなこの場所にやってきたときも、スウェーデン人はまだ何やらわめいていた。
「そうさ、どんな目にあうか、ちゃんと知ってるんだ! みんなでよってたかって私に向かってくるんだろ。全員を相手にしちゃ、勝ち目はないよな」
スカリーは豹のようにすばやくスウェーデン人の方に向き直った。
「あんた、全員を相手にする必要はないよ。息子のジェニーをたたきのめせばいいだけだ。決闘の途中であんたの邪魔をするやつがいたら、私が相手になってやる」
すぐに手順が決められた。
スウェーデン人とジョニーはスカリーの厳命を受けて、互いに向かいあった。
ほのかに残る明かりに照らされたスカリーの顔には、ローマの古参兵の顔に描かれているような陰鬱なシワが刻みこまれている。東部男は歯をガチガチ鳴らし、機械じかけの玩具のように飛び跳ねている。カウボーイは岩のように立ったままだ。
決闘する二人は服を脱がなかった。どちらも普段のままの格好だ。彼らはこぶしをあげ、静かに、しかし獅子のような残忍さを秘めて、互いの顔を見つめあっている。
この沈黙の間、東部男の頭には、映画のように、三人の男の姿が焼きつけられた──鉄の意志を持つ立会人のスカリー、顔面蒼白で、じっと動かない、すさまじい形相のスウェーデン人、冷静にして残忍、狂暴にして大胆なジョニー。この決闘の前奏曲というべき状況には、嘆き悲しむだけの悲劇を超える悲劇という雰囲気があった。そうした気分は、巻き上げられ悲鳴をあげる雪片を南の方の闇の奥へと吹きとばしている猛吹雪の、長く豊かな叫ぶような音でますます高まっていく。
「よし!」と、スカリーがいった。
ジョニーとスウェーデン人は突進し雄牛のように激しくぶつかりあった。にぶい殴り合いの音と、食いしばった歯の間から絞り出す悪態が聞こえた。
立会人の側では、東部男は当初の緊張から完全に解放され、ほっとしたように息をついた。カウボーイは吠えるように大声をあげて宙に飛び上がっている。スカリーは彼自身が許可し手配した決闘の激しさに驚いて、おびえたように身動きしない。
しばらくの間、暗闇での格闘は腕と腕とが動きまわるばかりだった。輪のようなものがめまぐるしく回転しているような印象で、こまかい動きはまったく見えなかった。ときおり、だれかの顔が光に照らされたように不気味にピンクのシミをつけたように見えることがあった。そのすぐあとに低い声で思わず口をついて出る悪罵がなかったら、見えたのは人間ではなく影法師のように思えただろう。
突然、カウボーイは戦時における殺戮の欲求にかられ、野生の馬のような速さで前に飛び出した。
「やれ、ジョニー! やっちまえ! 殺せ! 殺しちまえ!」
スカリーがその前に立ちふさがる。
「さがってろ」と、彼はいった。カウボーイはその目を見て、その男がまさにジョニーの父親だとわかった。
東部男にとっては、単調な変化のない殴り合いは唾棄すべきものだった。彼には、この入り乱れたケンカが果てしなく続くように思われた。彼は決着がつくことを、何にもまして早く決着がつくことを待ち望んでいた。一度、決闘している二人が彼のそばまでよろけてきた。彼はあわてて下がってよけたが、そのとき、二人の男の拷問されているような息づかいが聞こえた。
「殺せ、ジョニー! 殺しちまえ! 殺せ! 殺せ!」
カウボーイの顔は、博物館に陳列されている苦悶の表情を表す面のようにゆがんでいた。
「静かにしろ」と、スカリーは冷淡にいった。
そのとき、大きなうめき声がした。そうしてその声は途中で途切れた。
ジョニーの身体がスウェーデン人から離れたと思うと、彼は鈍く重い音をたてて草の上に倒れた。倒した相手になおも飛びかかろうとする猛り狂ったスウェーデン人を、カウボーイがきわどいところで引きとめる。
「だめだ、あんた」と、腕を差し出して割って入ったカウボーイがいう。「ちょっと待て」
スカリーは息子のそばにいた。
「ジョニー! 私のジョニー!」
彼の声は悲しいいたわりを示している。
「ジョニー、まだやれるか?」
血まみれの息子の顔を心配そうにのぞきこむ。
ジョニーはしばらく口をつぐんでいたが、やがていつもの声でこたえた。「ああ、おれ──えと──やれるよ」
父親に助けられて、ジョニーはやっとのことで立ち上がった。
「息ができるようになるまで、ちょっと待て」と老人がいった。
少し離れたところで、カウボーイがスウェーデン人に説教していた。
「だめだ! ちょっと待てって!」
東部男は、スカリーの袖をひっぱった。
「ああ、もうたくさんだ」と、彼は嘆願した。「もうたくさんだ。これでやめにしよう。もうたくさんだ」
「ビル」と、スカリーがいった。「そこをどけ」
カウボーイは横にのいた。
「はじめ」
決闘は再開され、二人は前に進んで対決姿勢を見せたが、互いに警戒もしていた。
二人はにらみ合ったままだ。それからスウェーデン人が全体重をかけた電光のような一撃を繰り出した。ジョニーは明らかに弱っていて、意識もなかば薄れていたが、奇跡的にその一撃をかわし、体のバランスを崩していたスウェーデン人に拳を打ちこんで倒した。
カウボーイとスカリーと東部男は、勝ち誇った兵士たちが合唱するように、どっと喝采したが、それが鳴りやまないうちに、スウェーデン人はすばやく立ち上がり、狂ったように敵に襲いかかった。またも腕と腕が振りまわされ、またもジョニーの身体が吹っ飛んで、ちょうど荷物が屋根から落ちるように倒れた。
スウェーデン人はよろけながらも風に揺れている小さな木のところまでいって体をもたせかけ、機関車のように激しく息をしながら、ジョニーの上にかがみこんでいる男たちの顔を、凶暴な燃えるような目でにらみつけた。
このときの彼の立場には、孤軍奮闘する栄誉というようなものがあった。東部男は、地面に倒れた男から目を上げた。そうして、次の展開を待っているスウェーデン人に不思議な孤独の影を感じた。
「まだ、やれるか、ジョニー?」と、スカリーは低い声できいた。
息子はあえぎながら、やっとのことで目を開く。少し間をおいて、彼はこたえた。
「いや──無理だ──だめだ──もう」
そうして、屈辱と肉体の痛みのために彼は泣き出した。血まみれの顔を涙が筋を引いて流れ落ちる。「あいつは、ちょっと──ちょっと荷が重すぎた」
スカリーは体を伸ばし、待ちかまえている格好の男に声をかけた。
「あなた」と、彼は淡々といった。「こっちはお手上げですよ」
彼の声は、さらに、単に最終宣告をするときのような力強いが空虚な調子に変化した。
「ジョニーの負けだ」
勝利者は、それには返事もせず、ホテルの正面玄関に通じる道を歩いていく。
カウボーイは、とても文字には表わせない暴言の数々を口走った。東部男は自分たちが太陽の昇らない北極の氷の世界から直接吹いてくるような、そういうとんでもない冷たい風に身をさらしていることに改めて気がついて驚いた。南の墓場のようなところへと吹きとばされていく雪の、もの悲しい音がまた聞こえてくる。そうして、まさにこのときまでに寒気が徐々に自分の体の奥深くまで沈みこんできていたのだということを知り、よく凍死しなかったものだと不思議に思った。負けた人間がどうなっているか、どうでもいい気もした。
「ジョニー、歩けるか?」と、スカリーがたずねる。
「おれ、少しは──あいつを痛い目にあわせたかな?」とだけ息子はいった。
「歩けるか、おい? 歩けるか?」
ジョニーは急に語気を強めた。乱暴な焦燥にかられた声だった。
「おれは、あいつを少しは痛い目にあわせたかって聞いてるんだ!」
「イエスだ、よくやった、ジョニー」と、カウボーイが慰めるようにいう。「あいつ、かなり痛い目にあってたよ」
彼らはジョニーを地面から抱き起こした。
立ち上がったジョニーは助けようとする者の手を払いのけ、よろめきながら歩き出した。
建物の角を曲がって引き返した一行は、激しく吹きつけてくる雪に目がくらんだ。彼らの顔は火のようにほてっている。カウボーイは、吹きだまりの雪を踏みつけながら、ジョニーをドアまで運んだ。部屋に入る際に、何枚かのトランプがまた床から舞い上がって壁にたたきつけられた。
東部男はストーブに駆け寄った。体の芯から冷えきっていたので、赤くなっている鉄のストーブに抱きつかんばかりだった。スウェーデン人はその部屋には入ってこなかった。ジョニーは椅子に深く体を沈みこませ、両ひざを腕で抱きかかえ、顔をその中にうずめた。スカリーはストーブの縁で両足を交互に温めながら、アイルランド人特有の悲しげな様子で、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。カウボーイは毛皮の帽子を脱ぎ、放心状態の悲しみに満ちた様子で、片手をくしゃくしゃになった巻き毛につっこんでかきまわしている。
頭上からは、スウェーデン人が自室で行ったり来たりするたびに床がきしむ音が聞こえた。
台所に通じるドアが乱暴に開いた。男たちの悲しい沈黙が破られた。
女たちが一斉に飛びこんでくる。彼女たちはジョニーに駆け寄り、そろって悲鳴のような声をあげた。彼女たちは哀れな被害者を台所に運びこみ、女性特有の同情と悪口をいやというほどあびせることになるのだが、その前に、母親は背筋を伸ばし、きびしい非難の目をスカリー老人に向けてにらみつけた。
「はずかしくないのかい、パトリック・スカリー!」と、彼女は叫んだ。「あんたの息子じゃないか。恥を知りなさい!」
「まあ、まて! 静かにしろ!」と、老人は力なくいった。
「恥を知れっていってんの、パトリック・スカリー!」
娘たちも、その言葉に調子をあわせ、震えている共犯のカウボーイと東部男の方を軽蔑したように見た。そうして、暗い物思いにふけっている三人の男たちを残し、女たちはジョニーを運び去った。
七
「あのオランダ野郎の相手を俺がここでやってみたいんだが」と、カウボーイが長い沈黙を破っていった。
スカリーは悲し気に首を振る。
「いや、だめだ。よくない。よくない」
「だって、なんでだよ」と、カウボーイが反論した。「なにも問題ないだろ」
「いや」と、スカリーは悲しみをこらえて断言する。「それはよくない。ジョニーの決闘だったんだ。だから、あの人がジョニーをたたきのめしたからといって、私らが彼に仕返しをするのは許されない」
「ま、それはそうなんだが」と、カウボーイがいった。「だけど──あの野郎、俺に対してはもう偉ぶったりしない方が身のためだな。これ以上はがまんできない」
「あいつには何もいうなよ」と、スカリーが指示した。ちょうどそのとき、スウェーデン人が階段を下りてくる足音が聞こえた。
彼の登場は芝居がかっていた。バタンと音を立ててドアを押し開き、肩で風を切るようにして部屋の中央まで歩く。誰も彼を見る者はいない。
「さて」と、彼はスカリーに向かって横柄な口調で大きな声をだした。「いくら払えばいいんだ? いってくれ」
老人は無表情のままだ。
「払う必要はない」
「へっ!」と、ウェーデン人がいった。「そうか! 一銭も払う必要はないっていうんだな」
カウボーイがスウェーデン人に言葉をかけた。
「あんたねえ、何もこんなところで、そんないい方するこたないだろ」
スカリー老人が即座に注意する。
「やめろ!」彼は指先を上にして片手を突き出しながら叫んだ。「ビル、黙ってろ!」
カウボーイは、おがくずを詰めた箱に無造作につばを吐く。
「俺、何もいってないだろ?」と聞き返す。
「スカリーさん」と、スウェーデン人が呼びかけた。「いくら払えばいいんですか?」
彼は宿を出るつもりで服装をととのえていた。スーツケースも持っている。
「一銭も払っていただく必要はございません」と、スカリーは前と同じように落ちついた口調で繰り返す。
「へっ!」スウェーデン人はいった。「そうかもしれんな。払うとすれば、そっちがこっちに払うべきなんだろう」
彼はカウボーイの方を向き、「やっちまえ! 殺せ! 殺しちまえ」とカウボーイの口真似をしつつ、勝ち誇ったように大笑いした。「殺しちまえ、だと!」
スウェーデン人は皮肉たっぷりに身もだえしてみせる。
だが、彼は、死者を相手に嘲笑しているようなものだった。三人の男は身動きせず、無言のまま、ぼんやりとストーブを見つめている。
スウェーデン人はドアを開けた。じっと動かない人々に嘲笑の一瞥をくれると、嵐の中へと出ていった。
ドアが閉められると同時に、スカリーとカウボーイはさっと立ち上がり、出ていったばかりの客を罵倒した。足を踏み鳴らして歩きまわり、腕を振りまわし、こぶしを宙に繰り出す。
「ああ、さっきはやりきれなかった!」と、スカリーは嘆いた。「さっきはなんともやりきれなかった! あいつのあの目、せせら笑ってた! あのとき、あいつの鼻っ柱を一発なぐってたら四十ドルの値打ちはあった! おまえ、よくがまんしたな、ビル?」
「よくがまんしたなって?」カウボーイは声を震わせて叫んだ。「俺がどうやってがまんしたかって? くそっ!」
老人は、ふいにアイルランドの方言まるだしで怒鳴った。
「あのスウェーデン人をひっつかまえて――」
彼は泣き声になる。
「石を敷き詰めた床に押さえつけて、棒でなぐってやりてえよ!」
カウボーイは同情し、うめくような声をしぼりだす。「俺はあいつの首根っこをつかんで、たたきのめしてやりたい」
彼は片手を椅子をたたきつけた。拳銃で撃ったような音がした。
「バンッとあのオランダ野郎をぶちのめして、死んだコヨーテと区別がつかないようにしてやりてえよ!」
「あいつをひっぱたいて──」
「あいつに思い知らせてやる──」
それから二人は声をあわせ、願望をこめて熱狂的に叫んだ──「あーあ、あ! あいつをひっつかまえて──」
「そう!」
「そうだ!」
「そうして、俺はあいつを──」
「あー、あー、あー!」
八
スウェーデン人はスーツケースをしっかり手で握りしめ、正面から吹きつけてくる風雪を帆船のようにタッキングで左右にかわしながらジグザグに進んだ。小さな裸の木々の並んでいるところが道だろうと見当をつけて、その並木に沿って歩いていく。
顔はジョニーのこぶしで殴られたばかりだったが、彼は、強い風や吹きつけてくる雪に対しては痛みよりむしろ快感めいた一種の爽快さを感じてもいた。
やっと前方に四角ばった形のものが見えてくる。そこが町の中心だとわかる。通りを見つけ、それに沿って進み、曲がり角にくるたびに恐ろしいほどの突風に見舞われたが、上体を前に傾けてしのいだ。
通りは見捨てられた廃村のようだった。
この世の中について、われわれは勝ち誇って意気揚々とした人間に満ちていると想像している。だが、暴風雪が音をたてて荒れ狂っている場所では、この世界に人が暮らしていると想像することすらむずかしかった。そうなると、人間の存在そのものに驚嘆すべき魅力が感じられてくる。
くるくる回転し、火に焼かれ、氷に閉ざされ、病に見舞われ、宇宙で迷子になっている惑星。それにしがみつくしかないシラミのような存在の人間にとって、存在していること、それ自体がすばらしい驚異である。こうした嵐に遭遇してみると、人が生きていくための力の源泉は己に対するプライドにあるとわかる。これほどの嵐でも死なないのは、相当に強い自尊心の持ち主――というわけだ。
で、スウェーデン人は一軒の酒場を見つけた。
酒場の前には、赤い光が消えることなく燃えていて、そのランプの光が届く範囲では、吹き飛ばされていく雪片が血の色に染められていた。
スウェーデン人は扉を押し分けて中に入った。床一面に砂をまいた空間が眼前に広がり、その奥で四人の男がテーブルで酒を飲んでいた。部屋の一方の側には、ぴかぴかに磨かれたバーカウンターが置かれている。バーテンは両肘をついてもたれ、テーブルの男たちの話に耳を傾けている。
スウェーデン人はスーツケースを床に置き、バーテンに親しげに笑いかけながら、「ウイスキーをくれないか?」といった。バーテンは、酒のボトルとウイスキーグラス、それに水に氷を浮かべたコップをカウンターの上に置いた。スウェーデン人は、ちょっと異常なほどたっぷりとウイスキーをそそぎ、それを三口で飲みほした。
「今夜はひどい天気ですね」と、バーテンが淡々という。こうした仕事をする者の常で、彼は何も気づかないふりをしている。よく観察すれば、スウェーデン人の顔に消しきれず残った血の跡が見えただろう。「ひどい夜ですね」と、バーテンはまた繰り返す。
「まあ、私にはちょうどいいがね」と、スウェーデン人は無造作にウイスキーをつぎ足しながらこたえた。
バーテンは代金の小銭を受けとると、ニッケル硬貨のつまったレジを操作して金をしまった。チンと音がした。「二十セント」と印刷したレシートが出てくる。
「それどころか」と、スウェーデン人は続けた。「こんなもの、悪天候というほどでもないな。私にはちょうどいい」
「そうなんですか?」と、バーテンはけだるそうにつぶやく。
大量の酒を飲んだせいで、スウェーデン人の目は泳ぎ、呼吸もやや荒くなった。
「そうなんだ。こういう天気、好きだよ。私は好きだよ。自分にあってる」
彼が、その言葉に深い意味を持たせたいと思っているのは明白だった。
「そうなんですか?」と、バーテンはまた小声でいった。彼はカウンターの奥の鏡に石けんで描かれた渦巻きのような小鳥と小鳥のような渦巻きの方に顔を向け、それをぼんやり見つめている。
「さて、もう一杯もらおうか」スウェーデン人は語を継ぐ。「あんたも飲むかい?」
「いえ。わたしは結構です」と、バーテンはこたえた。それから、こうたずねた。「お顔の傷、どうなさったんですか?」
スウェーデン人はすぐに大きな声で自慢しはじめた。
「なに、けんかだよ。この先のスカリーのホテルで、ある男をたたきのめしてやったんだ」
テーブルにいた四人の男が、やっと関心を示す。
「相手はだれ?」と、一人がきく。
「ジョニー・スカリー」と、スウェーデン人はもったいぶってこたえた。「経営者の息子だ。あいつ、数週間は死んだも同然だろうよ。コテンパンにしてやったから。立ち上がれなかった。見てた連中が家の中へかつぎこんでったよ。一杯、どう?」
男たちの様子は一瞬にして微妙に変化し、押し黙った。「いや、結構だ」と一人がいった。
客たちは奇妙な組み合わせだった。二人は地元の名士で実業家、一人は地方検事で、残る一人は「スクエア」として知られているプロのギャンブラーなのだ。もっとも、ギャンブラーとはいえ「あこぎなことをしない」部類の賭博師ではあった。
どんなに綿密に観察しても、この立派な肩書を持っている男たちの中からギャンブラーを見極めるのはむずかしかった。実際、彼は立派な立場の人々に接しているときは物腰もやわらかく、カモの選定も非常に慎重に行ったので、町の生活、特に男たちだけの世界では、彼は信頼され尊敬されるようにもなっていた。
人々は彼を毛並みがいいとみなしていた。賭博師という仕事に対する恐れや軽蔑はあったものの、物静かで威厳のある様子は、ただの帽子屋やビリヤードの記録係や食料品店の店員などといった連中より疑いもなく光っていたからだ。
汽車でやってくる旅行者をカモにするのはときたまだった。
この賭博師がもっぱら狙いをつけるのは、向こうみずな年配の農夫と考えられていた。そういう連中は豊作でふところ具合がよくなると、底抜けの愚かしさを丸出しにして、自慢と自信をひけらかしつつ町に乗りこんでくる。そんな農夫が有り金を巻き上げられたという話が、ときおり婉曲な形で耳に入ってくる。ロンパーのお歴々は食われたカモの方をバカにして笑ったものだ。
彼らがカモを食ったオオカミのことを考えるとしても、さすがのオオカミも自分たちのような知恵と勇気をあわせ持つ者に勝負をいどんできたりはしないだろうとプライドに満ちた確信を抱いていた。おまけに、この賭博師には実在の妻と二人の子がいて、郊外のこぎれいな家で暮らしている。彼もそこでは模範的な家庭生活を送っていることが広く知られていた。
誰かが彼の性格の矛盾を少しでも口にしようものなら、たちまち大勢の人間が一家は道徳的な生活を送っていると声を大にして述べたてるので、模範的な家庭生活を送っている人々も、そうでない人々も皆、静まり返り、それ以上何もつけ加えることはないという風だった。
とはいえ、彼に対してはある制限が加えられるときもあった。たとえば、新しく「おたまじゃくしクラブ」なる会ができたとき、会員の一部が結束し、傍聴人の立場であっても彼がクラブに顔を出すことを拒否し認めなかったことがある。そのような場合、この賭博師は文句もいわずその判断をあっさり受け入れたので、彼を敵視している者の多くは警戒心を緩め、彼をひいきしている連中はますます強く彼の肩を持つ、という風だった。
彼はどんなときでも、自分と堅気であるロンパーの町の人々との違いについては即座に率直に認めてけじめをつけていた。そうした態度は、事実上、周囲の人々に対して広く敬意を抱いている証拠だと受けとられていた。
それに、ロンパーの町で彼が占めている全体から見た立場というものについて、基本的な事実をはっきりさせておく必要があるだろう。いかさまトランプのギャンブラーたる彼は、自分の商売以外ではどんなことについても、およそ人と人との間で常に起きるすべての問題に関しては実に寛大かつ公正で、非常に道徳的でさえあったので、誰が相手であっても、彼はロンパーの町民の十人のうち九人までの良心を顔色なからしめることができたほどだ。
というわけで、彼はいま、この酒場で、当地の著名な二人の商人や地方検事と同じテーブルについていたのである。
スウェーデン人は依然としてウイスキーを水で割らずに飲みながら、バーテン相手にペラペラしゃべり、何とか酒の相手に引っ張りこもうと懸命だった。
「そういわずに、一杯やれよ、いいだろ? 何──だめ? ほんのちょっとだけ、どう。私、今夜、試合に勝ったんだよ。祝杯をあげたいわけさ。相手を嫌というほどたたきのめしてやったからね。ねえ、皆さん」
スウェーデン人はテーブルの男たちに向かって叫んだ。「一杯いかがです?」
「シーッ」と、バーテンがいった。
テーブルの連中は聞き耳をたててはいたが、自分たちの話に夢中になっているふりをしている。そこで、男の一人がスウェーデン人の方に目をやり、簡単に「ありがとう。もう十分飲んだから」といった。
この返事を聞くと、スウェーデン人は雄鶏のように胸を張った。
「そうか」
彼は大声を出す。
「この町では、誰を誘っても私と一緒には飲まないらしい。そうなんだ、え、そうなんだな!」
「シーッ!」と、バーテンがいう。
「おい」スウェーデン人は噛みつくようにいった。「そんなにシー、シー、いうな。やめろ。私は紳士だ。皆さんにも一緒に飲んでもらいたいんだ。それも、いま飲んでもらいたいんだよ。いま、ここで──わかったか?」
彼は拳でカウンターをたたいた。
長年の経験で、バーテンはこんな場面にはなれていた。ただ不機嫌になっただけだ。「わかりました」とだけ彼はこたえた。
「そんなら」スウェーデン人は大声でいった。「よく聞くんだ。ほら、そこに客がいるだろ。いいか、私はあの人たちに盃を受けてもらいたいんだ。忘れるなよ。よく見てろ」
「あの!」と、バーテンが大きな声を出す。「それはいけません!」
「なぜいけない?」スウェーデン人がいい返す。
彼はそのままつかつかとテーブルのそばまで歩いていき、偶然だったが賭博師の肩に手をかけた。
「どうですか?」彼は腹立たし気にいった。「一杯どうです、といってるんだが」
賭博師は首を少しひねって彼を見て、肩ごしにいった。「君とはつきあいがない」
「何をいってる!」スウェーデン人はこたえた。「まあ一杯やりな」
「いいか、小僧」と、賭博師は穏やかにいう。「肩から手をはなせ。向こうで飲んでろ。人のことなんかほっとけ」
彼は小柄できゃしゃだった。大きな図体をしたスウェーデン人に向かって、こんな口調で相手にしているのは奇妙な感じではあった。テーブルに座っている他の男たちは何もいわない。
「なに! 私が相手では飲めないっていうのか、ちびのクソ野郎。それじゃあ飲ませてやるよ! 飲ませてみせるぜ!」
血迷ったスウェーデン人は賭博師の喉をつかみ、椅子から引きずりだす。
他の男たちは飛び上がった。バーテンがカウンターの角をまわって駆けつける。大騒ぎになった。賭博師の手に長い刃物が握られているのが見えた。その刃が前に突きだされると、人間の肉体――この、美徳と英知と権力の城――に、まるでメロンに刺すように簡単に突き刺さった。スウェーデン人は驚きの叫び声をあげて倒れた。
名士の商人二人と地方検事とは、ひっくり返っていたに違いない。バーテンは、気がついてみると、椅子の肘に力なく寄りかかり、殺人者の目をじっと見つめていた。
「ヘンリー」
人殺しとなった賭博師は、カウンターの手すりにかけてあるタオルでナイフの血をぬぐいながらいった。
「俺の居所をきかれたら教えてやれ。俺は家でやつらが来るのを待っている」
そうして姿を消した。
それからすぐにバーテンは外へ飛び出した。嵐の中に大声で助けを求めた。と同時に、話し相手も求めていた。
酒場に一人残されたスウェーデン人の死骸は、レジの銘板に記載された恐ろしい文字――「お買い上げ合計金額」――をじっと見つめていた。
九
それから何か月も経った後、ダコタ州の州境に近い農場で、カウボーイがかまどで豚肉を揚げていると、外でバタバタと馬の蹄のせわしない音がした。やがて東部男が手紙や新聞を手に入ってくる。
「よう」東部男はいきなりいった。「スウェーデン人を殺ったやつ、三年の刑だってよ。たいしたことなかったな」
「そうか、三年か?」カウボーイは豚肉の入ったフライパンを持ったまま、その知らせに思いをめぐらせる。「三年か、たいしたことなかったな」
「うん、軽い刑だ」東部男は、拍車の留め金を外しながらこたえる。「ロンパーじゃ、あの男にかなり同情してるらしい」
「バーテンが気のきいたやつだったら」と、カウボーイは思いをめぐらしながらいった。「ぐずぐずしないで、最初っからオランダ野郎の頭をボトルで一発なぐっときゃよかったんだ。そしたら、こんな人殺しなんて防げたのに」
「そうだな。後から考えれば、いくらでも方法はあったよな」と、東部男は辛辣な口調でいった。
カウボーイは、豚肉の入ったフライパンをかまどに戻したが、まだ考えつづけている。「それにしても妙な話じゃねえか。もしあいつが、ジョニーがいかさましたなんていわなきゃ今でも生きてたんだろうに。大バカ野郎だな。ただのゲームだぜ、金を賭けてたわけでもないのによ。頭がおかしかったんだろうな」
「わたしはあのギャンブラーに同情するね」と、東部男がいった。
「ああ、まったくだ」と、カウボーイが応じる。「あいつをあんな風に殺したからって、こんな目にあう必要は全然ないのに」
「すべてきちんとしていたら、スウェーデン人も殺されないですんだろうに」
「殺されないですんだ?」と、カウボーイが叫んだ。「すべてがきちんとしていたら? いいか、あいつ、ジョニーがいかさまをしたといって、あんなバカみたいな真似をしたんだぞ。それから酒場へ行って、わざわざ殺してくださいといわんばかりのことをしたんだ」
こんな風に弁じ立てて、カウボーイは東部男を怒鳴りつけた。
相手はかんかんに怒った。
「あんた、バカか!」東部男は吐き捨てるように叫んだ。「あんた、スウェーデン人より百万倍も間抜けだ。いいか、いっておくぞ。教えておいてやる。よく聞け! ジョニーのやつ、ほんとにいかさましてたんだ」
「ジョニーが――」カウボーイはぽかんとして、一瞬、沈黙した。
が、やがて乱暴な口調でいった。
「そんなこと、あるわけがない。あの勝負、ゲームとしてやってただけだ」
「ゲームだろうとなんだろうと」と、東部男はいった。「ジョニーはいかさまをしてた。この目で見た。間違いはない。この目で見たんだ。それなのに、わたしは勇気を持って立ち上がろうとはしなかった。私はスウェーデン人に最後まで一人で戦わせた。あんたは──あんたは偉そうにただ歩きまわって喧嘩したがってただけだ。それに、あのスカリーの爺さんときたら! わたしたち、みんな関係者だ! この気の毒なギャンブラーのやつ、役すらついてなかった。名詞どころか、せいぜい副詞くらいのもんだ。世の中の罪ってやつはすべてまわりまわった結果なんだ。わたしたちは、五人とも、このスウェーデン人殺しでは何らかの役割を果たしたんだ。普通、殺人には一ダースから四十人くらいの女が関係してるっていうじゃないか。こんどの事件じゃ男が五人だけ──あんたと私に、ジョニーとスカリーの爺さんとあの間抜けなやつ。あの運の悪いギャンブラーはただ締めくくりに登場しただけで、それで一人ですべての罰を受けたってわけだ」
カウボーイはむっとして反抗的になった。なんとも霧のように不可解なこの理論に対し、やみくもに叫んだ。
「だって、俺、なんにもしてないんだぜ」
The Monster
一
ジムは36号機関車になりきってシラキウスとロチェスター間を走行していた。十四分もの遅れだ。エンジン全開で花壇の角をぐるっとまわる。と、引いていた台車の車輪がシャクヤクに当たってしまう。茎が折れてしまった。
36号機関車はすぐに速力を落とした。
しまったという顔で、父親の方を見る。
医師は芝を刈っていた。この事故が起きたとき、彼は息子に背を向けて芝刈り機を押しているところだった。庭をゆっくり行ったり来たりしている。
ジムは台車の持ち手を地面に下ろし、父親と折れた花を見た。
それから、シャクヤクのところまで行って、茎をたてて元に戻そうとする。しかし、いたんだ茎は力なく垂れ下がったままだ。元通りにはならない。
ジム少年はもう一度、父親の方を見た。
それから地面を蹴とばしながら、みじめな思いを抱いたまま、ゆっくり芝生の方へと進んでいく。やがて、父親が芝刈り機をブンブンいわせているところまでやってきた。
ジムは低い声でいった。「おとうさん」
父親は牧師のあごひげみたいに芝生を短く刈りこんでいた。
この季節になると、いつも夕食後の涼しい静かな時間帯に、この作業をしていた。桜の木陰になって日が当たらない場所でも、こうした植物はたくましく丈夫に生きている。
ジムは少し大きな声を出した。
「おとうさん」
父親がやっと作業の手をとめた。
芝刈り機のうなるような音が消えると、桜の木々で鳴きかわしているコマドリの歌声がまた聞こえてきた。ジムは両手を背中にまわしていた。両手の指を開いたり閉じたりしている。
もう一度、彼はいった。「おとうさん!」
少年のしっとりしたバラのような唇はゆがんでいた。
医師は頭を前に動かし、かすかに眉をよせて息子を見た。
「なんだい、ジミー?」
「おとうさん」と、ジムは繰り返す。
それから、指で花壇を示す。「あそこ!」
「どうした?」と、父親は眉をさらにひそめる。「どうした、ジミー?」
しばらく沈黙があった。その間、ジミーは葛藤していた。が、また指で示しながら、さっきの言葉を繰り返す。
「あそこだよ!」
父親も息子が口を開くまでじっと沈黙を守っていた。そうして、子供が指さしている方向を注視する。が、意味のありそうなものは何も見当たらない。
「なんのことか、わからんよ、ジミー」と、彼はいった。
ことの重大さにすっかり言葉をなくしたように、ジムはただ「あそこ!」と繰り返すだけだ。
父親は状況について考えをめぐらせてみるが、まるでわからない。で、しまいにこういった。「さあ、教えてくれよ」
二人は芝生を横切って花壇に向かった。
折れたシャクヤクから数メートルのところまで来ると、ジミーの足が遅くなる。
「あそこ」
声を出すのもやっとだ。
「どこ?」と、父親がいう。
ジミーは芝を蹴った。「あそこ!」
父親は一人で先に進まざるをえなかった。そうして、少し手間どったものの、問題となっている茎の折れた花を見つけた。振り返ると、息子は後方に残ったまま、父親の様子をうかがっている。
父親はちょっと考えこんでいたが、やがて、こういった。
「ジミー、ここに来なさい」
息子は真剣な顔で前に歩いていく。
「ジミー、どうしてこうなったんだ?」
息子はこたえた。
「あのね――機関車ごっこをしてて、えと、それで――轢いちゃったんだ」
「何をしてたって?」
「機関車ごっこ」
父親はまた考えこむ。
「いいか、ジミー」と、彼はゆっくりいった。「今日はもう機関車ごっこはしないほうがいいな。そう思うだろ?」
「うん」と、ジミーはいった。
刑の宣告をいい渡されている間、息子は父親の顔を見られなかった。それから、頭をたれ、足を引きずるようにして、その場を離れた。
二
ジミーの様子からすると、本当に消えてしまいたいと感じているようだった。
彼は馬小屋の方に歩いていく。馬の世話係のヘンリー・ジョンソンが小型の馬車をスポンジで洗っていた。彼はジミーが来るのを見て、にっこり笑いかける。
二人は仲がよかった。
この世のほとんどすべてのものについて、二人はまったく同じ考えを抱いているようだった。むろん、はっきりと見解を異にする点もあった。
たとえば、ヘンリーは二枚目の黒人だったし、その口ぶりからすると、多くの黒人たちが住んでいる地域では立派な人で通っていて、有力者や名士とみなされていることは明らかだった。むろん、子供のジミーにそういう評判はわからない。しかし、ジミーは、ばくぜんとではあるが、そうした評判について認めてはいた。ヘンリーに敬意を払ってもいた。というのも、そもそもヘンリー自身が自分の評判について自覚していたし、それを誇りに思っていたからだ。
そういう相違が多少あるとはいえ、父親であり雇い主である雲の上の月のような存在のドクターに関しては、口にこそださなものの、二人はあらゆる点で完全に理解しあっていた。
ジミーは父親に叱られるといつも馬小屋に行った。ヘンリーが自分の失敗談を語ってくれるので、それに耳を傾けて自分を慰めることができるのだ。
ヘンリーは何事にも柔軟に対応した。自分も同じようなヘマをしたことがあると、面目をなくした者と同じ立場に自分を置くドジな話をしてみせる。
つい最近も、オレ、馬車に革ひもをつけ忘れてドクターに叱りとばされたんだぜ、と話してくれたりした。二人はそうやって、月のような絶対的な存在の人については何もいわなくてもすぐに気持ちが通じ、さながら同じ裏切りをした者同士のように共感しあったりするのだった。
その一方、ヘンリーはそうした関係を排除しようとすることもあった。
ジミーが面目を失ってやってくると、むしろ道徳的な見地から彼を責め、ドクターが信条としている教訓について説教し、ジミーが間違っている点をすべて指摘したりもした。
仲間であるヘンリーのこうした態度について、ジミーは別に不愉快に思ったりはしなかった。彼のいうことは素直に受け入れられたので、謙虚になり、ヘンリーを聖人のような存在として尊敬してみたりもした。それが功を奏すると、たとえジミーがどんなにひどい悪さをしたときでも、ヘンリーはときには馬車の車輪を洗ったりスポンジをしぼるといった楽しい作業をジミーにさせてくれたりもした。
反対に、ヘンリーが落ちこんでいると、ジミーは彼の肩を持つことはなかった。そうするには幼なすぎた。まだそういうことを理解できるようにはなっていなかった。
ヘンリーは馬を巧みに御することができたし、ジミーもそのすごさは十分に感じていた。なにしろ彼ら二人にとって雲の上の月のような存在の人物が往診に出かけるとき、ヘンリーは郊外のヒツジや牛や他の珍しい生き物がたくさんいる農家の方にまで案内していたのだ。
「やあ、ジム」と、ヘンリーはスポンジを持ったまま声をかけた。
馬車からは水がしたたり落ちていた。馬小屋では、馬たちがときどき松の床板を踏みならし、雷鳴のような音をたてている。干し草や革具の匂いが鼻をつく
ジミーはしばらくの間、ヘンリーのやっていることにまったく興味を示そうとしない。すっかり落ちこんでいた。馬車を洗うというすてきなことにもまるで関心を示さない。
ヘンリーは作業を続けながら、ジミーをじっと観察している。
「お父さんに叱られたんだろ、え?」
ヘンリーが問う。
「ううん」と、ジミーは否定する。「しかられてなんかない」
それを聞くと、ヘンリーはいつものように渋面を浮かべたまま作業を続ける。そうして語を継いだ。
「あの花のところで遊んじゃダメだって、何度もいっただろ。お父さん、そういうの、大嫌いだって」
むろん、ヘンリーはそうしたことをこれまで一度だってジミーに話したことはない。
ジミーは無言のままだ。
それで、ヘンリーは馬車の洗車作業でジミーの気を引こうとした。
木の枝に車輪を引っかけて回転させ、水を四方八方に飛び散らせる。
すると、ジミーがもぞもぞし始める。
彼は馬車小屋の入口の敷居のところに腰をおろしていたのだが、このむずかしそうな作業がはじまると、立ち上がり、遠まわりしながら馬車の方に近づいてくる。興味がわいていた。それにつれて、さっきまでの不名誉な記憶も薄れてくる。
すると、ヘンリー・ジョンソンは、ジミーに水がかからないよう保護するのが自分の責務であるとばかりに、重々しく声をかける。
「気をつけろよ、坊主。注意しろ、ズボンが濡れないように。奥様がご存じだったら、こんなバカなこと、させてくれねえぜ。こんなところにいさせてズボンを濡らしたって、オレが叱られるんだ、奥様に。オレのせいじゃないのに」
彼は憤懣やるかたないといった様子でしゃべりつづける。
が、少しも怒ってはいなかった。そうした口ぶりは、自分の立場をわきまえて口にしているだけのことにすぎなかった。ヘンリーは内心ではジミーをそばにいさせて馬車置き場での仕事を見せてやるのを楽しんでいた。美しい馬具がどんな風に磨かれているか、きれいな馬がどんな風に手入れされているかを教えてやると、ジミー少年はいつも尊敬の念にうたれてくれるのだ。
ヘンリーはこういった作業を細部にいたるまで説明し、ジミーが感嘆してくれることに大きな喜びを感じていた。
三
ヘンリー・ジョンソンは台所で夕食をすませると、馬車置き場の二階にある自室で念入りに身だしなみを整えた。王宮に出入りする貴婦人であっても、ジョンソンほど身なりに気を使ったりはしないだろう。
というより、ジョンソンはどこか教会のパレードに参加するために装いをこらしている牧師に似ていた。
彼が部屋を出て馬車道をぶらぶら歩いていくと、馬車を洗ったりする下働きの男だと思う者はいなかった。
それは、ラベンダー色のズボンをはき、きらびやかな絹の帯のついた麦わら帽子をかぶっているからというわけでもなかった。そうした変化は、どこかヘンリーの内面の深いところから生じてきていた。といって、気どって歩いているわけでもなかった。地位も財産もある育ちのよい紳士が、いかにもそれらしい格好で夕方の散歩をしているという風で、そうした様子からは、とても馬車を洗ったりするのが仕事の人間には見えないというわけだ。
その日の午前、ヘンリーは作業着姿のときに友人に会っていた。
二人は「やあ、ピート」「よう、ヘンリー」といった調子で言葉をかわした。
で、一張羅できめているときに、ヘンリーはまたその友人と出会った。
彼は会釈した。
お高くとまっているという風ではないが、恵まれた立場の者がそうでない人々に示す寛容さのようなものがにじみ出ていた。
「こんばんは、ワシントンさん」
相手のピートはじゃがいも畑での一日の労働を終えたところで泥にまみれていたので、はずかしさと感謝の入りまじった気持ちでこたえた。「こんばんは、ジョンソンさん」
街のメインストリートはアーク灯の青い光に照らされていた。
その青い光は、しかし、立ち並ぶ店々のウィンドウを飾っているオレンジ色のガス灯のきらめきにかき消されてしまう。
そうした光の回廊を人波が動いていく。
郵便局の前に人だかりができていた。夕方の郵便物の配付を待っているのだ。
ときおり、カゴにぎゅうぎゅうに押しこめられたバッタのような音をたてて市街電車がやってくる。ドラを打ち鳴らし、甲高い音を立てて接近してくる。ドラは危険だと警告するためだが、大変な騒音源にもなっていた。
ニューヨークの有名な劇場を小粒にしてニスを塗りたくり、いたるところ赤いビロードを敷き詰めた小さな劇場では、旅役者の一座による「イースト・リン」*の上演が予定されていた。
* 十九世紀英国の作家ヘンリー・ウッド夫人の小説。駆け落ちした既婚女性の転落をミステリー仕立てで描いた作品で、当時の舞台の人気演目。
街角には、社会的立場に関係なく気のあう仲間同士でさまざまなグループを作った若者たちがたむろしていた。彼らは行きかう町の人々を眺めては、辛辣な感想を吐露しあっている。
電車の警笛が鳴りやんで静かになると、青い光に照らされた敷石の上をゆっくり歩いていく群衆の足音がまた聞こえてくる。それは静かな夕方に湖の岸辺に打ち寄せる波音のようだった。
丘のふもとには、二列になったカエデの並木が歩哨のように続いていたし、高いところで輝いている電灯が茂った枝々を照らし、エッチングのように見事な影を道路に作り出していた。
ヘンリー・ジョンソンがそうした人々のところに姿を見せると、街角でたむろしている粗野な若者のグループの一人が、この予期しない人物の到着をすぐに知らせた。連中から声がかかる。
「よお、ヘンリー! やけに気どって歩いてるじゃないか?」
「お上品だねえ」
「俺様が一番って顔してるな、ヘンリー!」
「もうちょっと胸を張りな」
こんな忠告とも賞賛ともつかない冷やかしを耳にしても、ヘンリーは少しも腹をたてなかった。人の好さそうな含み笑いで応じただけだ。その笑みには、隠しきれない、内に秘めた満足感がにじみ出ていた。
グリスコムは若手の弁護士で、ライフスナイダーの床屋から満足した様子であごに手をやりながら出てきたところだった。石段の上に立って人混みに目を向けていたが、その手を下におろした。目を見張り、それから、いきなり店の中に引き返す。
「わおっ!」と、彼は店内の連中に向かって叫んだ。「あそこにいる黒人を見てみろよ!」
ライフスナイダーとその助手はすぐにカミソリを持った手を高く持ち上げて窓に顔を向けた。石けんをぬりたくられた頭も二つ、椅子から立ち上がる。
彼らはライフスナイダーの店の魅力的な黄色い部屋から窓ガラスごしに外を見た。
通りを照らしている電灯の輝きのためか、外の世界は水中にあるような印象を与えた。実際、屋外の人々は四角いガラスをはめた巨大な水槽の住人のようにも見えた。そうして、その四角い枠の中をヘンリー・ジョンソンの上品な姿が泳いでくるのが見えた。
「なんとまあ」と、ライフスナイダーがいった。床屋とその助手は理髪師としての職務を放棄し、石けんを塗られたままどうすることもできないでいる客を放り出して窓辺に近寄った。
「やっこさん、いかしてるじゃないか?」と、ライフスナイダーが驚いていう。
すると、一番目の椅子に座って腹を立てていた客は、怒りをぶつけるための武器を見つけた。
「なんだ、ヘンリー・ジョンソンじゃないか! おいおい、ライフ、ひげを剃ってくれよ。いったい俺を何だと――ミイラだとでも思ってるのか?」
ライフスナイダーは振りかえった。ひどく興奮している。
「賭けてもいいですが、ヘンリー・ジョンソンじゃありませんよ。ヘンリー・ジョンソンだって、ご冗談でしょ」
思わず口をついて出た最後の言葉は嘲笑のようでもあった。
「あの男、列車のポーターか何かですよ。あれがヘンリー・ジョンソンなもんですか」と、ライフスナイダーは強い調子でいった。「おたく、どうかしてますよ」
一番目の椅子の男は憤慨し、床屋に面と向かって吠えた。
「あのラベンダー色のズボンをやつにくれてやったのは、この俺なんだ」
さらに、窓辺に残ってじっと見つめていたグリスコム青年もいった。
「うん、ヘンリーだと思うよ、ぼくも。似てるよ」
「まあいいさ」と、ライフスナイダーは仕事に戻りながらいう。「そう思うのならね。まあ、いいですよ」
客に愛想よくするために折れたといわんばかりだった。
最後に、二番目の椅子の男が、石けんのせいで口を思うように開けられず、口ごもりながらいった。
「だな。あれはヘンリー・ジョンソンにまちがいない。だって、あいつ、格好つけるとき、いつもあんななりをするんだ。町一番の伊達男って――みんな知ってる」
「ふーん」と、ライフスナイダーがいった。
ヘンリーは自分の背後から船の航跡のように追いかけてくる驚きの声に無関心というわけでもなかった。というか、それは喜びでもあったが、そういう気持ちは他の機会にも感じたことがあった。それで、彼はいつも自分がどう見られているかは意識していた。ヘンリー・ジョンソンは喜びに満ちた顔で誇らしげに歩いていく。と、さっと狭い路地に入りこむ。
そこにも電灯があった。
高いところから、体の不自由な者同士が肩を寄せ合っているような傾いて壊れかけた家々を照らし出している。
キャラコ生地の上着でサフラン色に染まっていたミス・ベラ・ファラガットは、玄関の階段に腰を下ろして、少し離れたところにいる近所の人と話をしていた。が、遠くに訪問者が近づいてくるのを目にすると、大あわてで家の角に姿を消した。
ヘンリーは彼女のそうした様子をずっと見ていた。給仕が赤ワインをこぼして袖口を濡らしても怒らない客のように、彼は礼節を保っていた。こういう間の悪い状況にあっても、彼にはまったく非の打ちどころがなかった。
ベラは奥の部屋で大急ぎで一番上等の服に着がえている。
その間、ヘンリー・ジョンソン氏を迎え入れる役目はファラガット夫人が引き受けた。肥満気味の老婦人は、白い歯を見せ、にっこりしてヘンリーを出迎える。さっとドアをうしろに押し開き、腰を低くしてお辞儀した。
「どうぞ、おはいりください。ジョンソンさん。どうぞ、中へ」
ヘンリーの方も、鏡に映したように、深く頭を下げ、何度もお辞儀を繰り返す。
「こんばんは、ミセス・ファラガット。ごきげんいかがですか。皆さん、お元気ですか、ミセス・ファラガット?」
ぺこぺこ何度もお辞儀をしあった後、二人はリビングにある二つの椅子に向かいあって座った。ここでも、おそろしく丁寧な言葉使いで会話がかわされる。
そうこうするうちに、ミス・ベラが部屋に入ってくる。すると、双方でまたもお辞儀が繰り返され、にこにこした顔に白い歯がイルミネーションのように輝いた。
この客間には調理用のストーブが置いてあった。火にかけた鍋ではシチューのようなものがことこと煮られていた。ファラガット夫人は話の合間に立ち上がって火加減をみたりしている。やがて息子のシムが部屋に入ってきた。彼はそのまま部屋の隅にある寝床にもぐりこんでしまう。
こうした日常の出来事について、三人はいっさい言及しなかった。
彼らは夜のふけるまで、互いの真似をするようにお辞儀をしあい微笑していた。無関係な者の行動は無視された。どれほど豪華なサロンであっても、この三人ほどの社交術を身につけている者はいないとさえ思われた。
ヘンリーが辞した後、ベラは思い切ってこういった。
「ねえ、お母さん。あの人って最高よね?」
四
土曜の夕方になると、多くの人々が街に繰り出した。夏には、小さな公園で楽団が午後十時まで演奏していたりする。
この町の青年たちは、その多くがそんな楽団なんかに興味はないという風をよそおって小馬鹿にしていたりする。が、夕方にはさまざまな香りがただよい、きまって大勢の人々が戸外に出てくる。若い娘たちのお目当ては公園の演奏会だ。昔からそうだが、彼女たちは二人とか三人で連れだって、ぴったり体をよせあって芝生の上をゆっくり歩いていく。
こうした集まりには特に社交という側面はなかったが、グループごとに行きかう相手のグループには興味津々だった。といって互いに声をかけあうというわけではない。娘の一人が連れの女を肘でつつき、ふいにこういったりする。
「見てよ! あれ、ガーテイ・ホッジソンと妹じゃない?」
そうして、彼女たちはそんなことでも大きな出来事とみなしているらしかった。
ある夜、相当な数の青年たちが公園の周囲の歩道にたむろしていた。
公園の中で繰り広げられる年少の子たちの楽しみの輪に入るには、彼らはプライドが高すぎた。もうガキではないと思っている彼らは、公園の年少の連中からは意識して距離を置いていた。年少の子たちは人ごみの中で大騒ぎをして駆けまわり、ちょっとしたいたずらを仕掛けたりしている。たいていは捕まって罰を受ける前に、風に吹き消される霧のように逃げていく。
その夜、楽団はバスホルンを主旋律にしたワルツを演奏していた。
歩道にいた青年の一人は、その音楽について、丘の上で貯水池に水を送りこんでいる新しいポンプのエンジン音を連想させるといった。それに似ていなくもなかったが、彼は楽団の演奏が気に入らないのでそう述べたわけではなかった。そういういい方をするほうがクールに見えるからというのにすぎなかった。
とはいえ、音楽堂の方では、スネアドラムを打ち鳴らしているビリー・ハリスがいつものように彼のドラム演奏を崇拝する少年たちに取り囲まれていた。
ニューヨークとロチェスターから届いた郵便物の配付が終了すると、郵便局に集まっていた群衆も公園の人ごみに加わる。
カエデの葉が風にそよぎ、高いところで青く輝くアーク灯の光が、地面にすばらしい網目模様の陰を作り出している。顔を上げた少女の顔にその光が当たり、すばらしい青色に輝いた。
いきなり巡査が暗闇から飛びだしてきた。わんぱく小僧ども追いかけているのだ。遠くからやじが飛ぶ。
楽団の指揮者は、偉大な音楽家によくある癖を身につけていた。静まり返る聴衆――その指揮者は手を額に当て、感傷的にとんとんとたたき、詩的苦悩に満ちた顔つきをして空を見上げる。
そうした様子を人々は微笑して眺めている。
周囲の光に囲まれた公園は、巨大な丸天井を持つホールのような印象を与えた。集まってくる群衆の衣ずれの音がさわさわと芝生に響き、たえず人々の話し声も聞こえている。
ふいに、何の前ぶれもなく、遠くの工場から大音量の警笛が響いてきた。その音は高く舞い上がり、不吉な調べとなり、夜風に乗って響いた。
公園にいる人々ははっとして動きをとめ、耳をすます。
楽団の指揮者は人気の行進曲をにぎやかに開始しようと手を振り下ろしかけたところだった。が、夜空を通して響いてくる巨大な叫び声に心を奪われてしまう。彼はそのまま手をゆっくりと膝のところまでおろした。呆然と口を開けたまま、無言で楽団員に目をやる。
警笛の咆哮はすすり鳴きに変わり、やがて静かになった。
身動きせず彫像のように耳を傾けていた歩道の青年たちの緊張がほぐれた。と同時に、彼らは顔を見あわせ、口をそろえて叫んだ。「ひとつ!」
再び、夜空に警報音が鳴り響き、長く不吉な叫び声を上げた。その音が消えると、青年たちは互いに顔を見合わせ、口をそろえて叫んだ。「ふたつ!」
息を殺して次を待つ。
そうして、彼らは叫んだ。「第二地区だ!」
怠惰で何かにつけて冷笑的な態度を示そうとしていた若者たちの姿は、一瞬にして、ダイナマイトで粉砕された雪玉のように消え去った。
五
真っ先にタスカローラ第六消防団の詰め所に到着したのはジェイク・ロジャーズだった。彼は通りを駆けながら鍵をポケットから引っ張り出し、ものすごい形相で錠前に飛びつく。
ドアが後方にさっと開いた。
彼は中に飛びこんで両輪の車輪止めを蹴とばし、ながえを金具から外した。遅れて駆けつけてきた連中は、各消防団詰め所の前に町が設置した電灯の光に照らされて、ジェイク・ロジャーズがヒッコリーの枝のように体を曲げて車を引きだそうとしているのを見た。重い車両がゆっくりと入口の方へ移動してくる。そこに四人の男が加勢に入り、全員で車を街路へと引っぱり出す。
電灯の背後の濃い闇から黒い人影がいくつか飛び出してくる。当然ともいえる問いが発せられる。
「どの地区だ?」
「第二だ」と、ひきしまった声の返事が聞こえた。
タスカローラ第六の消防車はナイアガラ・アベニューを片輪を浮かせるようにしてつっ走った。車の引き手の下に設置されたウインドラスから伸びているロープを持った面々は、熱に浮かされたように激しく消防車を引っ張り、車軸の下の鐘が人々を鼓舞するように鳴り響く。
ときおり、同じような叫び声が聞こえた。
「どの地区だ?」
「第二だ」
坂でジョニー・ソープが転んだ。彼は身をよじって脇に転がり、自分の背後に迫っていた車輪を避けた。乱れた髪のまま痛そうに立ち上がりると、消防車の後から押し寄せてくる黒い群衆を、魔法がとけたような悲しいまなざしで見つめた。
消防車はダムが崩壊して渦巻く濁流の頂点にあるように見えた。
ジョニー・ソープの背後には芝生が続いていた。そっちの方でも、玄関ドアを勢いよく開けた男たちが騒がしい通りに向けて、かすれた声で「どの地区だ?」と叫んだりしている。
そうした家々の戸口の一つに、ランプを手にした女が姿を見せた。
顔に当たる光をまぶしそうに手でさえぎっている。刈りこまれた芝を隔てた通りは、彼女には黒い急流か何かのように見えた。そうした流れの上を奇跡のように自転車に乗った無数の人影が流れていく。街角にある街灯は点灯すると特有の音を立てるのだが、彼女にはそうしたいつもの音も聞こえない。
ふいに一人の子供が階段から突き飛ばされでもしたように飛び出してきた。家の角のあたりでひっくり返る。彼は妙な具合に回転すると、家の正面で足をとめた。
「あ、お母さん」と、彼は息を切らしていった。「行ってもいい? いいでしょ、お母さん?」
彼女は分別のある冷静な母親を装っていたが、ランプを持つ手はかすかに震えている。
「いけません、ウイリー。寝てなさい」
彼はたちまち野生の馬のように怒って飛び跳ねる。
「お母さん」と、彼は体をねじりながら叫ぶ。「お母さん、行っちゃいけないの? おねがい。ねえ、行っちゃいけない? 行っちゃいけないの?」
「もう九時半よ、ウイリー」
彼はしまいに泣き声で妥協を申し出る。
「じゃ、ちょっとその角まで。ね、お母さん、ちょっとそこの角まで」
通りからは、何やら大声で叫びながら突進していく男たちの声が聞こえてくる。
誰かがメソディスト教会の鐘を鳴らすロープをつかんだ。それで、この荘厳で怖ろしげな鐘の音が頭上から町中に響き渡った。いつもの平和な仕事を離れた教会の鐘は、この不吉な夜に新しい魂を得て、前後左右に振られるたびに、人の心をゆさぶるように鳴り響いた。
「ちょっとその角まで、ね、お母さん」
「ウイリー、もう九時半なのよ」
六
夕闇がおとずれると、トレスコット医師の家の輪郭はその闇にまぎれていき、クイーン・アン様式といわれた館は暗い空のとばりに姿を隠した。この時刻になると一帯は静寂に包まれる。
ハニガン家の飼い犬が何も邪魔するものがいないとばかりに、普段は立ち入ることができないエリアに侵入し、芝をひっかいたり、恐るべき猛獣にでもなったようなうなり声を上げたりしている。
しばらくすると、ピーター・ワシントンがぶらぶら歩いて邸の前までやってきて口笛を吹いた。だが、ヘンリーの部屋に明かりが見えなかったので、そのまま立ち去った。
街路からの光が芝生の上に銀色の波のように射しこみ、玄関へ向かうアプローチに沿って植えてある灌木の影をくっきりと鮮やかに描きだしている。
トレスコット邸の端にある窓の一つから、細い煙が立ちのぼり、桜の木の枝の中へと静かに流れこんでいく。煙は徐々に勢いを増し、増水した川の水が目に見えない堰堤に導かれるように、サクランボの木の大枝にそそぎこんでいく。輪郭のはっきりしない灰色のサルたちが静かにぶどうの木に登り、雲のように鈴なりになっても気づかれないように、その煙は誰の目にもとまることはなかった。
やがて、四枚のガラスのはまった窓が血にそまったように真っ赤になった。
耳のいい人ならば、パチパチはぜる小さな火が互いに呼びかわし集まりあって広がっていく様子が聴きとれたかもしれない。だが、通りから見ると、この家は闇に沈んだまま静寂を保っていて、通りすがりの者には、家人が早くに就寝し、やすらかな夢をみようとしている平穏な住居としか思えない。誰一人として、大きくなってきつつある火の気配を感じとることはできなかっただろう。
突然、赤い窓ガラスが音をたてて地面に砕け落ちた。
すると、すぐに他の窓にも幽霊屋敷に出現した血の亡霊のように別の炎が立ちのぼる。この出来事は、まるでプロの革命家が巧妙に策をめぐらしていたかのようだった。
ふいに、男の声が叫んだ。
「火事だ! 火事だ! 火事だ!」
ハニガンははっと息をのみ、あわててパイプを放り投げた。
寝床から転がるように下りると、さっとフェンスを乗りこえ、大声を出しながら、トレスコット家の玄関に向かって駆けていく。木槌のように握りこぶしで扉をドンドンたたく。
すぐにトレスコット夫人が二階の窓の一つから顔をのぞかせた。後になって、彼女はそのとき「先生は家におりませんの。名前をいってくだされば戻りしだいに伝えます」というつもりだったことを思い出すことになるのだが、そのときはハニガンのわめく声が何を伝えようとしているのか、しばらくわからなかった。が、それが咽頭炎に関する件ではないことは理解した。
「何ですって?」と、彼女は窓を押し上げながらきいた。
「火事ですよ! お宅が燃えてるんです! 急いで出て。でなきゃ──」
彼の叫び声は、残響の大きな洞窟のように街に響き渡った。
バタバタと大勢の急ぐ足音が石畳の上に聞こえた。
と、ほとんど信じられないほどの速さで走ってくる男がいた。
ラベンダー色のズボンをはいている。きらきら光る絹の帯をつけた麦わら帽子はその手に握られたまま押しつぶされていた。
ヘンリーが玄関の扉までたどりついたとき、ちょうどハニガンが錠を蹴破ったところだった。濃い煙が二人の頭上に噴き出してくる。
だが、ヘンリーは頭を下げて家の中へ飛びこんだ。ハニガンの叫び声から、彼には一つのことしかわかっていなかった。しかし、それだけで恐怖に青ざめた。
広間では『独立宣言への署名』と題された絵の吊り紐を炎がなめていた。その版画は片端がいきなりガクッと下がり、やがて床に落ちて爆弾のような音をたてて壊れた。火は松林を吹き抜ける冬の木枯らしのように、ごうごうと音をたてて燃えさかっている。
階上では、トレスコット夫人が両腕を二本の細いアシのように振っていた。
「ジミー! ジミーを助けて!」と、彼女はヘンリーに向かって叫んだ。
彼はすぐさま夫人のそばを通り抜け、通路の奥に姿を消した。
二階の間取りについては知悉していた。ヘンリーはかつて下働きとして二階で仕事をしたことがあった。
ハニガンもヘンリーに続いて階段を登ってきたが、そこで気がふれたようになっている夫人を見て、その腕をつかんだ。彼は興奮し、ものすごい形相で「降りなくちゃだめだ」と叫んだ。
それに対し、夫人はただ「ジミー! ジミー! ジミーを助けて!」と叫ぶばかりだ。ハニガンはわけのわからぬことを口走る彼女を力づくで連れ出す。
二人が転がるように家の外に出ると、一人の男が芝生の上を走ってきて、よろい戸をつかみ、蝶番から引きはがして遠くの草の上にほうり投げた。さらに、とりつかれたように次のよろい戸に立ち向かっていく。それは一時的な狂気のようだった。
「おい、君」と、ハニガンは叫んだ。「トレスコット夫人をつかまえててくれ。だめですよ。おやめなさい──」
この出来事は、街角に設置されている火災警報装置のところに駆けつけた隣人の手ですぐさま伝達された。そうして、ハニガンとトレスコット夫人がなんとか家から脱出したちょうどそのとき、例の不気味な警報が夜空に鳴り響いたのだった。公園の群衆は息をのみ、楽団の指揮者は勇ましい軍隊行進曲の冒頭を打ち鳴らさせようと振り上げた手を、ゆっくり膝までおろした。
七
ヘンリーは煙が充満している二階の広間を手探りしながら進んだ。壁づたいに歩こうとしてみるが、壁もおそろしく熱かった。壁紙が縮れ、手をあてるとその下から今にも炎が吹き出しそうだった。
「ジミー!」
音をたてて燃えさかる炎に聞かれるのを恐れるように、ヘンリーは大きな声を出さなかった。
「ジミー! おい、ジミー!」
何かにつまづいたり息を切らしたりしながら先を急ぎ、なんとかジミーの部屋の入口までたどりつくと、さっとドアを開けた。その小さな部屋に、煙はまったくなかった。ただ、家を焼きつくそうとしている炎の反射を受けた美しいバラ色の光で、ぼんやり明るくなっていた。
ジミーは物音で目をさましたばかりという風だった。口をぽかんと開け、目を見開いたままベッドに座っている。小さな白いガウンを着た姿をなめるように火から出た光がちらついている。
ドアがさっと開いたとき、ジミーが目にしたものは、焼き焦げた髪を振り乱し、恐怖におののいている友人の姿だった。ヘンリーは強盗団のボスが誘拐でもするようにジミーに飛びつくと、少年を毛布で包んで抱き上げた。いつもならジミーは顔をくしゃくしゃにしてから叫ぶのだが、そういったことはせず、いきなり大きな叫び声をあげた。それは、おびえた子牛のあげる声のようでもあった。ヘンリーは彼を抱いたまま、よろめきながら煙の充満する広間に向かった。ジミーは腕を彼の首に巻きつけ、毛布に顔をうずめている。毛布に口を押さえつけたまま小さく「お母さん! お母さん!」と二度叫んだ。
子供を抱いて階段のところまできたヘンリーは、思わず、一歩後ずさった。
自分の方に押し寄せてくる煙の向こうで、階下の広間がすっかり炎に包まれているのが見えた。ヘンリーもさきほどジミーが出したような叫び声をあげた。大きな力を受けて足が折れ曲がってしまいそうだった。
彼はおぼつかない足どりで、よろけながらもゆっくり後ずさった。二階の広間を後退していく。その様子からすると、この燃えさかる家から逃げ出そうという考えも、逃げだしたいという欲望もほとんど消え失せたようだった。彼は膝を屈した。祖先が奴隷として膝を屈したように、この火炎に彼も屈服しようとしていた。
ヘンリーはジミーを抱きかかえていた。無意識にそうしていた。主人の家に向かって駆けてくる際に、あざやかな絹のリボンのついた帽子を無意識に握りしめていたのと同じように。
ふいに彼は思い出す。
ドクターが実験室兼仕事場として使っていた部屋に寝室から通じている、小さな私用の階段があったことを。トレスコット医師は時間があるときや就寝時に、その実験室兼仕事場で研究に必要だったり興味を持ったりする実験を行ったりしていたのだ。
その階段のことを思い出すと、ヘンリーの炎に対する敗北感はたちまち消え去った。その階段のことはよく知っていたのに、気が動転して失念していた。
さきほどの一時的に感覚が麻痺したようなときには恐怖をほとんど感じなかったが、脱出可能な経路が心に浮かんだとたんに、それ以前の猛烈な恐怖感がよみがえってきた。もはや炎が生み出した状況ではなく、炎そのものと対峙することが怖かった。炎には屈しないが恐怖を感じたことが二度、恐怖心はないのに炎に屈したことが一度あったことになる。が、そうした変化はいずれも一瞬のことだった。
「ジミー!」と、彼はよろけながら叫んだ。
胸に抱いたこの死んだような小さな体が、自分と一緒に震えてくれたらと願った。しかし、こうした感情がめまぐるしく変化する間、ジミーはぐったりとしたまま何の反応も示さない。
ヘンリー・ジョンソンは部屋を二つ通り抜け、階段の上までやって来た。ドアを開けると、大きな煙のかたまりが噴き出してくる。彼はジミーをさらにしっかり抱きかかえ、煙の中へ突っこんでいく。
さまざまなにおいが鼻をついた。羨望と憎悪と悪意とに満ちているようだった。
実験室の入口で、ヘンリーは奇妙な光景に遭遇した。
部屋はまるで燃えている花が咲き乱れた花園のようだった。
すみれ色や紅色、緑や青、だいだい、紫など、そうした色の炎がいたるところで咲き誇っていた。優美なサンゴそっくりの色をした炎もあった。別のところでは、山のように積み上げたエメラルドが燃えあがらず燐光だけを放っているように見える塊もあった。しかし、こうした驚くべきものはすべて、高く舞い上がって揺れ動く煙を通しておぼろげに見えただけだ。
ヘンリーは敷居の上で少し足をとめた。
あの黒人特有の沼沢地での悲しみに満ちた悲嘆の声をあげる。そうして、その部屋を一気に突っ切った。一筋のオレンジ色の炎がヒョウのようにラベンダー色のズボンにとびかかる。この獣はヘンリーの身体にしっかり噛みついた。片側で何かが爆発する。と、いきなり妖精のような姿をして優雅に打ち震えるサファイア色の炎が立ち昇った。微笑を浮かべた彼女は無言のままヘンリーの行く手に立ちふさがり、彼とジミーの運命に宣告を下す。
ヘンリーは金切り声をあげ、喧嘩でやるように頭を低くした。彼はサファイア色の女性の左手のガードの下をすり抜けようとした。が、彼女は鷲よりもすばしこかった。その爪が自分の脇に突進してきた男をとらえる。ヘンリーは首をはたかれたように頭を低くし、体をひねりながら前のめりになって仰向けに倒れた。その両腕から毛布に包まれた身動きしないものがほうり投げられ、部屋の隅へ、窓の下へと転がっていく。
ヘンリーは古びた机の脚付近に上半身がくるような状態で倒れた。
その机にはビンが並べてあった。ビンのほとんどは、こうした騒ぎの最中も静寂を保っていたが、一つだけ、身をくねらせるヘビのようにゆれ動くビンがあった。
そのガラスビンがいきなり割れた。ルビーのように赤い、ヘビのような液体が古い机の上に流れ出る。それはとぐろをまき、ためらっている。やがて、傾いたマホガニーの机の上を物憂げに流れだす。机の角のところまで来ると、その下で横になっている男の閉じた目の上で、シューシューと音をたて、溶けた頭を左右に振る。と、神秘的な衝動にかられたように再び動きだし、その赤いヘビは仰向けになっているジョンソンの顔へとそのまま流れ落ちていった。
この生き物のような液体が流れた跡からは煙のようなものが出ているように見えた。炎は燃えさかり、小さな爆発が続いている。その間、真っ赤にやけた宝石のようなそのしずくは、間隔をおきながら静かにポトリポトリと落ち続けた。
八
すべての道は、唐突にではあるが、トレスコット医師の家へと向かう道になった。
町全体が一点に向かって流れていく。タスカローラの消防団がナイアガラ・アベニューをものすごい勢いで突っ走っていたとき、チペウェイの消防団の一号車もブリッジ・ストリートの坂を懸命に駆け上がっていた。他方、川の対岸からもハシゴ車がすっ飛んでくる。
消防署の署長はホワイトリーのタバコ店の奥まった部屋でポーカーに興じていたが、最初の警報を聞くとすぐに、賭け金を持って逃げる男のように外へ飛び出した。
ワイロムヴィルには、こういう状況下ではすぐに教会や学校の校舎にある鐘に注意を向ける人も大勢いた。そうやって鳴らされた鐘は警報として響くわけだが、実際に鎮火するまで、大音量で夜空に響き渡り、人の心をかき乱し続ける。そうした鐘の音は、どこの鐘が一番大きな音をたてるかという競争のようでもあった。四マイルほど離れた農村にあるヴァリー教会でも、他の鐘の音を聞くとすぐに古風で小さな叫び声をつけ足した。
そのころ、トレスコット医師はのんびり葉巻をふかしながら家路についていた。
その日の最後に診察した患者の病状に治療の効果が出ていたので、野生生物を自分の力でおとなしくさせたといった風な喜びを感じてもいた。長い警報が聞こえてきたのはそのときだった。
はじめのうち、はっきりした根拠はなかったものの、オークハーストあたりで火事が起きたのだろうという印象を抱き、馬にそう声をかけたりもしていた。オークハーストは彼の家から少なくとも二マイルは離れた郊外の、この町では洗練された新興地区だった。
だが、二つ目の警報の後に何も聞こえなかったので、トレスコット医師は自分の住んでいる地区で火事が発生したのだと悟った。そのとき、彼は自宅からほんの数ブロックのところにいた。
ムチをつかむと、牝馬にムチを入れる。
馬はいきなりの仕打ちに驚き、おびえたように猛然と駆けだす。手綱が鋼の帯のようにまっすぐに伸び、医師は少し後ろにのけぞった。
馬車は疾駆した。
門を閉じた自邸のところに来るまで、ドクターはどこが火事なのだろうといぶかっていた。火災警報装置を鳴らした男がドクターを見つけて何か叫んだ。その時点で、医師は悟っていた。馬を乗り捨てる。
玄関前に、ネグリジェ姿で気のふれたような女がいる。
「ネッド!」と、女はドクターの姿を見ると叫んだ。「ジミーよ! ジミーを助けて!」
トレスコットは身体が硬直し寒気がした。
「どこだ?」と、彼はいった。「どこにいる?」
トレスコット夫人の声が泡のように吹き出てくる。
「上よ――上。うえにいるの──」
彼女は二階の窓を指さす。
ハニガンがわめいていた。
「そこから入っちゃだめだ! そっちからは入れない!」
トレスコットは駆けた。家の角を曲がって姿を消した。火災の状況から、玄関から二階に上がるのは無理だと悟ったのだ。
今となっては、実験室から二階に通じる階段があるというのが彼の唯一の希望だった。庭から実験室に出入りできる扉にはかんぬきがかかっていて施錠もされていた。
彼は錠前の脇あたりを蹴り、さらにかんぬきの周囲も蹴った。扉は大きな音をたてて後方に開いた。トレスコット医師は吹き出してくる大量の煙にひるんだが、上体を低くかがめると、燃えさかる花々の中に踏みこんでいく。両目が刺すように痛い。だが、窓の近くの床に、くすぶっている毛布に包まれたものが見えた。
医師は息子を扉の方へと運んだ。町で重責をになっている大人や子供たちが庭の芝生に大勢いるのが見えた。そうした人々はドクターと彼が抱えているものを引きずりだし、濡らした毛布で包み、さらに水をかけた。
だが、ハニガンはまだ叫んでいた。
「ジョンソンがまだいる! ヘンリー・ジョンソンがまだ中にいるんだ! その子を探しに入ったんだ! ヘンリー・ジョンソンがまだ中にいるんだよ!」
トレスコットのおぼろげな意識に、その叫び声が入ってくる。彼は自分を押さえようとしている人々ともみ合い、自分にとも相手にともつかず、医学生時代に使っていたありとあらゆる罵詈雑言をあびせた。医師は立ち上がり、なおも実験室の出入口の方へと進んでいく。人々は彼にひどい恐れを抱いたが、それでも押しとどめようとした。
それを尻目に、トレスコット家に近い裏通りに住んでいた鉄道の制動手の青年が実験室に飛びこんだ。そうして、彼は一つのモノを引きずり出して草の上に横たえた。
九
消防団のしゃがれ声の命令がトレスコット邸の表の方から聞こえてくる。
「五番、放水!」
「一番、消火!」
群衆が左右に揺れる。
炎は空高く舞い上がり、人々の顔を赤く照らし出す。どこか近くの通りからドラの鳴る音が聞こえてくる。それを耳にした群衆が叫ぶ。
「第三が来るぞ!」
「第三が来てるぞ!」
消防団が息をはずませ隊列を乱しながらも消防ポンプを引いて来るのが見えた。子供たちから歓声がわきあがる。「第三が来た!」
少年たちは不死身と異名をとる消防団の三号車を、まるで神の軍隊に率いられた戦車のように歓迎した。
汗びっしょりの市民たちが火との戦闘に身を投じていく。
子供たちはそうした勇気を目にして、大喜びで飛びはねている。彼らは第二分団の消防車の接近に喝采し、第四分団の消防車を歓呼の声で迎えた。
彼らはそうした先陣争いにひどく感動していたので、到着が遅れたハシゴ車には野次が飛んだ。
遅れた消防車は重量があり、ブリッジ・ストリートの丘で立往生してしまったのだ。むろん若者たちは火事を憎んでいたし恐れてもいた。誰かの家が燃えることなど望んではいなかった。それでも、消防団が現地にぞくぞくと集合してくるのを目撃したり、喧噪のなかで自分たちの英雄の驚嘆すべき働きを目にしたりするのは、やはり素晴らしいことではあった。
彼らにはそれぞれひいきの消防団があり、自分たちの推す分団に肩入れしていた。
たとえば、第四消防団の詰め所があるあたりで、どこか別の地域の消防団の方がすぐれているなどといったりするのは、少年たちにとって、きわめて勇気のいることだった。同じように、他の、たとえば第一地区で、よそから来た少年が「どの消防団がワイロムヴィルで最高の消防団か」と聞かれたとすれば、当然のことながら「第一」とこたえなければならない。町全体にそういう競争心が存在しているのも事実だった。
もっとも、普段は意識されることはない。何かの拍子に、あるいは最近起きた出来事の重要度に応じて、そうした優劣の感情が思い出されたりするのだ。
消防署のジョン・シプリー署長は、そういう若い連中が推すタイプではなかった。
火災現場に天使が舞い降りるほどの速さで駆けつけるというのは事実だったが、彼は現場に到着しても派手な言動はせず、おとなしいのだ。心ここにあらずという風で、葉巻をくわえたまま、燃えている建物の周囲をゆっくり歩いて調べたりしている。
この沈着冷静な男は命の危険が迫っていてもめったに大きな声を出さないので、少年たちの受けはよくなかった。
サイクス・ハンティントン老が署長だった頃は牡牛のように大きな声で指示を出し、熱狂し、派手なジェスチャーを見せてくれたものだ。現在のシプリーに比べると、サイクスの方が見ごたえがあった。
シプリーは多額の賞金をかけたポーカーで賭け金があがるのを平然と見ているように、火事についても平然と眺めていた。若者たちのほとんどは、なぜ消防団の団員たちがシプリーの再選を支持しているのか理解できなかった。
とはいえ、それもわからないではないというフリをすることも多かった。
「親父がいってた」という表現には、議論で反抗を認めない強い響きがあった。事実、彼らの父親たちもほとんど皆、異論なくシプリーを支持しているらしかった。
この頃になると、どこが最初に放水を開始したか、一番乗りの消防団をめぐって激論がかわされた。大半の若者は第五分団だと主張した。だが、少数だが第一分団だといい張る者たちもいた。他の消防団びいきの少年たちは、今回の火災では第五と第一という二つの消防団の一方を選ばなければならず、議論は白熱した。
その最中に、とんでもないニュースが流れてきた。そのニュースは声をひそめて伝えられていく。しかも、それを聞いた若者たちは黙りこむ――ジミー・トレスコットとヘンリー・ジョンソンが焼死し、トレスコット医師もひどいやけどをおったというのだ。
現場を整理する警察官に押しのけられても人々は不満を感じなかった。野次馬たちは、今となっては恐怖に目を輝かせて、高く立ち上る炎を見上げている。
情報通の男は得意満面だった。声をひそめて事件の全貌を伝えていく。
「子供の部屋はあそこ──あの角──ジミーはハシカかなにかにかかっていて、その黒人──ジョンソンだっけ――そいつが寝ずに看病してたらしいんだ。で、寝ぼけたジョンソンが何かの拍子にランプを倒したってわけよ。下の診察室にいたドクターがあわてて二階に駆け上っていって、そうして三人とも焼かれてしまったんだ。なんとか家の外に引きずり出しはしたんだけどね」
最後まで判断をとっておいていつも後出しで宣言する別の男がこういった。
「だな。きっと死ぬぜ。焼けてボロボロなんだ。よくなるとは思えない、どうみたって。誰だってわかる」
暗い夜空を背景に、ゆらゆらと陽気に振られている旗のような炎を、人々は前にもまして凝視している。町のあちこちの鐘も鳴りやまない。
小さな行列が医師宅の前庭の芝生を横切って通りの方へと進んでいく。
三つのタンカを十二人の消防士がかついでいた。警官たちはいかめしい顔をして付き添っていたが、このゆっくりした行列のために道を開けさせようと努力する必要はなかった。
タンカをかつぐ消防士たちは町の人々にはよく知られた存在だったが、鐘の音が鳴り響き、さまざまな叫び声が飛びかっている場所で赤く染まった空の下を進んでいく厳粛な行列では、彼らはまったく見知らぬ人のように見えた。
ワイルムヴィルの町は彼らに深い敬意を示した。
タンカをかついだ者すべての表情がその場の厳粛さを反映していた。彼らは死の従者であり、この三人は墓に埋葬されるのだという意識から生じた荘厳な思いに、周囲の人々も我知らず黙礼した。
最初のタンカに乗せられ布をかぶせられた人を見て、一人の女が金切り声をあげて顔をそむけた。人々は悲しみに満ち憤慨した目で彼女を無言でにらみつける。この十二人の厳粛な人々が整然とその荷を運んでいく際、物音はほとんどしなかった。
少年たちはもはやひいきの消防団の功績を論じあってはいなかった。その多くはすでに追い払われていた。勇気のある者だけが残って、黄色い毛布に包まれた三人をじっと眺めていた。
十
トレスコット邸のほぼ真向いに住んでいたデニング・ハーゲンソープ老判事は自発的に門戸を開き、罹災した一家を引きとって住まわせた。
医師と息子、それに黒人がまだ生きていることが知れわたると、判事邸の正面ポーチから敷地内に侵入し、重症を負った病人と接触しようとする人々が続出したため、警官が派遣されるような騒ぎになった。
ある高齢の婦人は奇跡のような効能があるという湿布を持参した。警官にここから先へは通せないと阻止されると、嫌悪すべき言葉を聖書から引用して抗議した。夜に出歩くことを母親から黙認されるほど年長の少年たちは、誰が死んだとかそれに類するニュースをいち早く知ろうと、一晩中、邸周辺の歩道にたむろしていた。
モーニング・トリビューン紙の記者は、午前三時まで一時間おきに自転車に乗って情報収集にやってきた。
ワイロムヴィルには医者が十人いた。そのうちの六人までがハーゲンソープ判事邸に詰めていた。
医師たちの診断によれば、トレスコットの火傷は生命にかかわるほど深刻ではなかった。子供の方も、ひどい火傷の跡が残るだろうが、命に別状はない。
しかし、黒人のヘンリー・ジョンソンの生存の可能性は低かった。全身にひどい火傷をおっていた上に、ヘンリーにはもはや顔というものがなかった。すっかり焼けただれているというしかない状態だった。
トレスコットは他の二人の病人の容体をずっと気にかけていた。
朝になると、トレスコットが元気を取り戻したように思えたので、周囲の者たちは、ジョンソンはもうだめだろうと告げた。
すると、ジョンソンが少し体を動かした。医師たちはすぐに立ち上がって包帯を替える必要がないかを確かめた。ジョンソンはその場にいる者を、一人一人眺めていく。その姿は獅子のようでもあり、また現実のものではないような、そういう印象を医師たちに与えた。
朝刊はヘンリー・ジョンソンの死を報じた。
エドワードJ・ハニガンの長いインタビュー記事も掲載された。
その記事で、ハニガンは火災現場におけるヘンリー・ジョンソンの行動をあますところなく述べていた。また、記者たちが自分の知りうる限りの立派な言葉を使って書いた社説も掲載されていた。
町はいつもの斜に構えた物の見方をやめ、厩務員だった男に丁重な敬意を示した。多くの人々は胸のうちで、彼がまだ生きていたときに手を貸したり援助したりするほどの知り合いではなかったことを悔やんだ。自分たちを愚かで狭量な人間だったとみなした。
ヘンリー・ジョンソンという名は、子供たちにとっても、一夜にして聖なるものと呼ぶべき存在になった。それを最初に思いついた少年は、口げんかの最中にヘンリーの名を引き合いに出し、それがケンカの理由に関係していようといまいと、たちまち相手をいい負かすことができた。
歩いていくジョンソンの背後から、肌の色で差別的な言葉を叫んではやしたてたことのある者たちは、その事実を心の奥深く押しこんだ。
死亡記事が出た日の午後、裏通りのウォーターメロン七番地に住むミス・ベラ・ファラガットは、自分はヘンリー・ジョンソン氏と婚約していたと公表した。
十一
老判事のステッキには象牙の握りがはめこんであり、彼はそれを愛玩していた。
考えをまとめようとするとき、決まってステッキに軽く寄りかかり、ゆっくり手を動かしながら白い握りをなでた。判事にとって、ある種の麻薬のようでもあった。
だから、ふとした拍子にステッキがないことに気づくと、イライラして妹にきつく当たったりした。妹は気配りができるような性格ではなかった。オンタリオ・ストリートに面したこの古い館で、判事は三十年もの間、妹には辛抱強く対応し、がまんしてきた。とはいえ、妹の方では、兄が自分を気のきかない女だと思っているなどとは、夢にも思っていなかった。判事はステッキが見当たらないときにだけ妹に本音をぶつけ、そうすることで四半世紀もの間、なんとか自分の本音を隠してきたとはいえた。
ある日のこと、老判事はベランダの肘かけ椅子に座ってくつろいでいた。
ライラックの梢を通してベランダの床板に大きなコインのような丸い日だまりがいくつもできている。舗道の並木では、スズメがさえずっている。判事はステッキの象牙の握りをそっとなでながら物思いにふけっていた。
やがて立ち上がり、家のなかに入っていく。厳しい顔つきのままだ。
ステッキの音が規則正しく響いた。二階まで来ると、判事はトレスコット医師がヘンリー・ジョンソンに付き添っている部屋に入った。黒人の頭には包帯が巻かれていた。包帯のすき間から片目だけが見えている。
その目はまばたきもせず判事を見つめた。判事は病人の容体をトレスコット医師に確認した。いいたいことが他にもあることは明白だったが、病人のまばたきしない目に見つめられていると、さすがにいい出しにくかった。判事はときどきその目を盗み見た。
息子のジミーがすっかりよくなったので、母親は息子を連れてコネチカットの実家にある祖父母のところに里帰りしていた。トレスコット医師は患者たちを放ってはおけないという理由で残ったが、事実としては、トレスコットはハーゲンソープ判事邸で大半の時間を過ごしていた。ヘンリー・ジョンソンがそこにいたからだ。
トレスコット医師は判事の家に詰めており、昼夜をわかたず看病し、そこで眠り、食事もほとんどそこですませた。
夕食時に、まばたきしない目の魔力から逃れた判事は、こう切り出した。
「トレスコット、君の考えでは──」
トレスコットは次の言葉を待って食事の手をとめた。判事は指でナイフをいじっている。何か考えこんでいる様子だったが、やがて口を開く。
「こんなことを口にしたくはないのだが、あのあわれな男はいずれ死ぬしかないと私には思えるんだが」
判事の言葉を聞くと、トレスコットの顔には瞬時にすべてを悟ったという表情が浮かんだ。判事のおっしゃりたいことはずっと前から考えていましたよ、という風に。
「わかりませんよ、誰にも」
どちらとも受けとれるような、しんみりした口調だ。
判事は、法廷で見せる沈着冷静な態度に戻った。
「おそらく、こういう種類の行為について論じるのは妥当ではないだろうが、それでも私としては、君があの黒人を生かしておこうとする慈悲なるものには疑念があるといわざるをえないのだよ。私にわかることは、今後、この男はモンスターとでも呼ぶしかない、そういう存在になるということだ。おそらくは頭にも影響が出てくるだろうし。私は君を誰よりもよく見てきたが、君にとっては良心の問題なのだということはわかる。だが、友人としていわせてもらうと、間違った美徳というものもあると私は思うのだよ」
判事はいつものように雄弁に自分の見解を述べた。最後の「間違った美徳」という言葉については、自分でその表現を見つけたように特に力をこめた。
トレスコット医師はうんざりしたような身振りをした。
「彼は息子の命を救ってくれたんです」
「そうだ」と、判事は即座にいった。──「そうだとも。私も知っている!」
「では、私はどうすべきなんでしょうか?」と口にして、ふいにくすぶっていた泥炭がパッと燃えあがるようにトレスコット医師は目を光らせた。「私はどうすべきなんでしょう? ヘンリーは命がけで──ジミーを、命を賭して息子を救ってくれたんです。私はあの男のために何をすべきなんでしょうか?」
こうした言葉を前にすると、判事はまったくひるんでしまう。少し視線を落とし、キュウリをつつく。
やがて、彼は椅子に座りなおした。
「あの男は君が創り出すことになるんだよ。いいかね、やつはまったく君が創り出した存在になっていくんだ。自然が彼を見放してしまったのは明白だ。死んだも同然なんだ。君はあの男を生き返らせようとしている。そうして、あの男は怪物になる。心を持たないモンスターにね」
「ヘンリーについては、判事さんのおっしゃるようになるのかもしれません」と、トレスコットは怒りをおぼえたものの、礼を失っしない程度に叫んだ。「彼はそういう何者かになるんでしょう。だが、神にかけていいますが、ヘンリーは息子のジミーを救ってくれたんですよ」
判事は震える声でさえぎる。
「トレスコット、いいかね、私だってわかってはいるのだよ」
トレスコットは不機嫌そうな表情になる。
「そうです。ご存じです」と、彼は辛辣な口調で応じた。「ですが、あなたは自分の子供が死の淵から救われたということが、親にとってどういう意味を持つのか、まるでわかってらっしゃらない」
これは独身を通した判事に対する大人げないあてつけだった。
トレスコットはそういう物言いが幼稚なことは承知していたが、自暴自棄になる喜びを感じてもいるようにも見えた。
とはいえ、その言葉は判事には響かなかった。彼の急所ではなかったのだ。
「弱ったな」と、判事は熟慮しながらいった。「どういえばよいのか、わからない」
トレスコットは後悔しはじめていた。
「判事さん、あなたのおっしゃったことを私がありがたく思っていないなどとは考えないでください。ですが──」
「むろんだ」と、判事はすかさずいった。「むろんだよ!」
「それは──」と、トレスコットがいいかける。
「むろんだ」と、判事が繰り返す。
二人は再び無言で夕食を食べ始めた。
「まったく」と、判事が口を開く。「人間、何をすべきかを知るのはむずかしい」
「そうですね」と、トレスコットは熱意をこめて同意した。
ふたたび沈黙が訪れる。
判事がその沈黙を破った。
「いいかね、トレスコット。君にこう考えてほしくはないんだが、その──」
「ええ、決して思いませんよ」と、トレスコットも真面目にこたえる。
「いや、私は、自分が文句をいいたがっていると思ってほしくないんだ。私はただ、君に、こう考えられやしないかと思ったんだ。つまり──たぶん──これって少し心もとないことだ、とね」
医師が応じる。心中の動揺が表に出てきたようだった。
「では、あなたならどうされますか? あなたなら、あの男を殺しますか?」と、ぶっきらぼうに、きつい言葉できく。
「トレスコット、ばかなことを」と、老人は穏やかにいった。
「ええ、判事さん、わかってます。だけど、それなら──」と、彼は赤くなった顔で、強い調子でいった。「あの、ヘンリーは息子を救ってくれたんですよ。おわかりでしょ? 彼は私の息子の命を救ってくれた恩人なんです」
「たしかにそうだ」と、判事も熱くなって叫んだ。「それはたしかだ」
そうして、火事場での英雄的な行為を思い出して顔をほてらせながら、二人はしばらくの間、互いに相手を見つめ合っていた。
また沈黙があり、その後で判事が語を継いだ。
「何をすべきかを知るのはむずかしい」
十二
ある夜のこと、トレスコットはすっかり暗くなってから往診から戻ってきた。
ハーゲンソープ邸の門のところで馬車をとめた。先端にブリキをかぶせた古い柱に馬をつないでから家に入る。まもなく何者かを連れて出てきた。
連れてきた人影は、足慣らしでもするかのように、慎重にゆっくりと歩いている。流行遅れのアルスターコートで全身を、かかとまで、すっぽり包んでいた。二人は馬車に乗りこみ、その場を去った。
静かな夜だ。
平坦な道で、速くリズミカルな車輪の音だけが聞こえている。
やがて、トレスコットが口を開いた。
「ヘンリー」と、彼はいった。「お前の家をアレク・ウイリアムズのところに確保したよ。食べたいものはなんでも食べられるし、ぐっすり眠るところもある。あそこならうまくやっていけるよ。費用はすべて私が負担するし、できるだけ会いに行くようにする。何かまずいことでもあったら、早めに知らせてくれ。そしたら、もっとよくなるようにしてみるから」
ドクターのそばにいる黒い人影は笑って陽気にこたえた。
「この馬車の車輪、俺が昨日洗ったようには見えませんね、先生」
トレスコットは少しためらっていたが、念を押すようにいう。
「これから、お前はアレク・ウイリアムズのところに行くんだよ。ヘンリー。そして私は──」
人影はまたくすくす笑った。
「いやはや、なんとも。アレク・ウイリアムズは馬のことなんか知りませんよ。まるで知らないんですから。馬とブタの区別もつかないかも」
それに続く笑い声は、小石がカラカラとたてる音に似ていた。
トレスコットは振り返り、馬車の幌の下の薄暗がりでぼんやり見えている人影に厳しく冷たい目を向ける。
「ヘンリー」と、彼はいった。「私は何も馬のことなんかいっていない。私がいっているのは──」
「馬? 馬ですか?」と、近くの薄暗がりから震える声がした。「馬ですって? 私だって馬のことを何もかも知っているわけじゃないんですよ、ほんとに」
皮肉な忍び笑いが聞こえた。
三マイルほど走ったところで、馬車の速度が落ちた。
トレスコット医師は手綱を手に持ったままピンと張り、道をよく見きわめようと前かがみに身を乗り出している。馬車の車輪は何度も大きな石に乗り上げて揺れながら進んだ。周囲の丘が黒い影となって取り囲んでいる。その影を背景にして、窓が一つ見えた。大きな四角いトパーズのような光を放っている。
犬が四匹、馬車めがけて走ってきた。威嚇しても馬車がすぐには退散しそうにないとわかると、ひるまず横手にまわり吠え続ける。丘の中腹にあるように見えた窓の近くの扉が開く。一人の男が姿を見せる。
「おい! こら! ローバー! ほら、スージー。こっちへ来い! すぐに来るんだ!」
トレスコットは暗い草の海ごしに叫んだ。
「おーい、アレク! こっちまで来て、馬車が入れる道を教えてくれ」
家から出てきた男は光に照らされている浜辺のあたりにいたが、ドクターの声を聞くと草の海へと飛びこんだ。男は接近しながら大きな声を出し続けている。トレスコットにはその声をたどって相手がやってくるルートの見当がついた。
やがて、ウイリアムズは牝馬の頭をとらえた。
歓迎の挨拶を叫ぶようにいい、寄ってくる犬を叱りとばしながら、馬車を光の方へ導いていく。トレスコットは馬車を玄関の前でとめ、馬車から降りた。
ウイリアムズが叫ぶ。
「この馬はじっとしてますかね、先生?」
「大丈夫、おとなしいよ。とはいえ、しばらく手綱をつかんでいたほうがいいだろう。さあ、ヘンリー」
医師は振り向いて黒い人影に両手を差し出す。
その人影は、ハシゴを降りてくる人のように、のろのろと、苦しそうに、彼の方へとやってきた。ウイリアムズは馬を連れていき、小さな木につないだ。戻ってくると、二人は玄関の光が届かない暗がりで彼を待っていた。
そこで、ウイリアムズは堰を切ったように、どっとしゃべり出す。
「ヘンリー! ヘンリー! 久しぶりだな、会えてうれしいよ!」
トレスコットは無言の人影の腕をつかみ、光にすっかり照らし出されるところへと導き出す。
「さ、では、アレク。ヘンリーを寝かせてやってくれ。私は朝になったら──」
この言葉をいい終えるまぎわに、アレク・ウイリアムズ老はヘンリー・ジョンソンと向かいあった。次の瞬間、はっと息を飲み、それから心臓を突き刺された男のような叫び声をあげた。
ほんの一瞬、トレスコットは言葉を探しているようだった。そして、彼は怒鳴った。
「この間抜け! だまれ、爺さん! おい爺さん──黙れ! 黙らんか! わからんのか!」
ウイリアムズはすぐに叫ばなくなったが、それでも声をひそめて語を継ぐ。
「ああ、なんてこった! こんな風だとは! なんてこった!」
トレスコットは再び大隊司令官のように叫んだ。
「アレク!」
老いた黒人はまたもそれに従ったが、ささやくような声で独り言を繰り返している。
「ああ、神様!」
彼は愕然とし、震えていた。
金色の光にあふれた戸口に近づくにつれて、三人の影は幅を広げていく。元気そうな黒人の老婦人が姿を見せ、頭を下げた。
「こんばんは、先生! こんばんは! どうぞ、中へ。どうぞ、お入りください!」
彼女は明らかに大急ぎで部屋を片づけようとしたものの、それをやめて出てきたという風だったが、今は何度もお辞儀を繰り返している。泳いでいる人のように頭を下げ続けている。
「かまわんでくれ、メアリー」と、トレスコットは家の中に入りながらいった。「お前さんたちに世話してもらおうと思ってヘンリーを連れて来たんだ。私が話したことだけをやってくれたらいい」
自分の後に誰もついて来ないので、彼は戸口に向かって声をかけた。
「入っておいで、ヘンリー」
ヘンリー・ジョンソンが入ってくる。
「ひぃ!」と、ウイリアムズ夫人が金切声をあげた。彼女はひっくり返らんばかりだった。ウイリアムズ家の六人の子供たちもあわててストーブの背後に隠れ、一斉に泣き出した。
十三
「お前、よくわかってるだろ。お前とお前の家族は週に三ドルもあればずっと暮らしてこれたじゃないか。ところが、だ。今はジョンソンの下宿代としてトレスコット先生に週に五ドルも払ってもらっている。リッチなものだ。ヘンリー・ジョンソンがお前の家で暮らすようになってから、お前さん、少しも仕事してないよな──みんな、知ってるぞ──で、いったい何が不足だっていうんだね?」
ハーゲンソープ判事はベランダの椅子に座り、ウイリアムズ老人を見おろしている。手はステッキの握りをなでている。ウイリアムズは庭のライラックの繁みのところに立ったままだ。
「わかってますよ、判事さん」と黒人はいったが、困ったように頭を振る。「先生のしてくださってることをありがたいと思ってないわけじゃないんです。ですが──ですが──ね、判事さん」と彼は語を強めた。「これって──これって、きつい仕事なんですよ。こんなきつい仕事、したことないですよ。ほんとのところ」
「バカなことをいうな、アレク」と、判事はきつく叱るようにいった。「お前、これまで本当に働いたことなど一度もないじゃないか──とにかく、スズメの家族を養うほどにも働いたことないだろ──それなのに、今ではもう結構な身分になっている。それなのに、バカ丸出しでそんな話をしに来るとはな」
黒人は頭をかきだす。
「実は、判事さん」と、彼はしまいにいった。「うちの婆さんがどうしても女性の客を家に呼ぶことができないでいるんですよ」
「女の客なんぞ、どうでもいい!」と、判事が怒っていう。「食べるだけの小麦粉や肉に不自由しなけりゃ、お前の女房殿だって女の客を呼ぶ必要もないだろう」
「そうおっしゃいますがね、判事さん、女の客の方が来ようとしないんですよ」と、さらに当惑した様子でウイリアムズが応じる。「婆さんの知り合いも俺の友達も、だれも俺の家に近づこうとしないんです」
「ふん、連中がそんな風なら、来なきゃ来ないでいいじゃないか」
老いた黒人はこの堂々めぐりから抜けだす思案をしたが、何の方策も見つからない。おとなしく足を引きづりつつ立ち去ろうとして、その足をとめた。
「判事さん」と、彼はいった。「うちの婆さん、頭がおかしくなりかけてるんですよ」
「元からおかしいだろ」と、判事が応じた。
ウイリアムズは近づき、ライラックの枝を通し、真剣な顔でじっと見つめる。
「判事さん」と、ウイリアムズはささやく。「子供たちもですね」
「子供たちがどうした?」
まるで葬儀のように声をひそめてウイリアムズはいった。
「やつら、食欲がないってんですよ。飯が食えないって」
「食欲がない!」と、判事は大笑いした。「飯が食えないだと! お前は、私が自分と同じくらいぼんくらだとでも思ってるんだろ。飯が食えないだと──あのガキどもが! 食欲がないって、なぜだ?」
それに応じるウイリアムズの声には悲しみがこもっていた。
「ヘンリー」
ウイリアムズはその名前を悲劇的に使うことができた。そういう満足感に満たされた彼は、どんな効果が現れるかと、判事の顔を凝視する。
判事はイライラした様子を示していた。
「おい、いいか、このくそったれが。そういう持ってまわったいい方はやめろ。一体、何をたくらんでる? 何がほしい? さっさと用件をいえ。もうこんなうんざりする話はまっぴらだ」
「べつに持ってまわった言い方なんかしてませんよ、判事さん」と、ウイリアムズはムッとしてこたえる。「遠まわしになんていいませんよ。いわなきゃならないことはいいますよ。ほんとにいいますよ」
「わかった。いってみろ」
「判事さん」と、ウイリアムズは帽子をとり、それで膝をたたきながら語を継ぐ。「俺は、他のやつらにはひけをとらないし、週に五ドルに見合うだけのことは絶対にやります。だけど──今回の仕事はひどいもんですよ、判事さん。ドクターがあの男を連れてきてからというもの、その──俺の家じゃ誰も眠れないんです」
「で、どうしようというんだね?」
ウイリアムズは伏せていた顔を上げて木々の間から遠くを見た。
「たしかに俺は食欲はあるし、犬のようにぐっすり眠ります。だけど、俺は──あいつのおかげで、すっかり参っちまいました。ぜんぜんよくありません。夜に目がさめるんです。すると、たいてい、あいつがしくしく泣いているのが聞こえるんですよ。それで、俺はそっとあいつの部屋のドアに鍵がかかっているか確認しにいくんです。あいつのために一晩中悩まされて、身体が震えるんですよ。冬になったらどうなるんだか、まったくわかりません。子供たちのいるところに顔を出させるわけにはいかないし、といって今いるところじゃ凍えてしまうでしょうしね」
ウイリアムズは独り言のようにつぶやいている。黙りこみ、思いをめぐらし、そうして続けた。
「みんな、あいつ、ヘンリー・ジョンソンじゃないっていいふらしてるんですよ。あいつは悪魔だって」
「何だと?」と、判事が叫んだ。
「そうなんですよ」と、ウイリアムズは本当のことをいっているのに疑われ傷ついた口調で繰り返す。「そうなんです。ほんとのことですよ、判事さん。近所の大勢があいつは悪魔だっていってるんです」
「そうか。で、お前自身はそうは思ってないんだろ?」
「はい。悪魔じゃないです。あいつはヘンリー・ジョンソンです」
「そういうことか。で、それが何だっていうんだ。バカな連中がよってたかっていいふらしていることなんか、気にしなけりゃいいだろ。自分のやるべきことをしっかりやって、そんなしょうもない話はうっちゃっておけばいい」
「たしかにバカな話ですよ、判事さん。ですが、あいつ、悪魔みたいに見えるんです」
「あいつの外見がどうあろうと、お前が気にすることではあるまい?」と、判事。
「うちの家賃は月に二ドル半」と、ウイリアムズはゆっくりいった。
「月一万ドルだって同じことだ」と判事がこたえる。「どっちみち払ってないだろ」
「まだ他にもあるんですよ」と、ウイリアムズが考えこんでいる風に続けた。「もしあいつの頭が大丈夫なら我慢もできるんですが。判事さん、あいつ、いかれてるんですよ。おまけに悪魔みたいに見えるし、俺の友だち、すっかりおびえちまって寄りつきゃしません。子供たちは飯が食えなくなるし、婆さんはしょっちゅう大騒ぎ。家賃は月に二ドル半だし、あいつの頭はおかしいし、どうも週五ドルでは──」
判事は突然、ステッキでベランダを鋭く突いた。
「そらみろ」と、彼はいった。「それがお前の狙いか。思った通りだ」
ウイリアムズは彼らに特有の仕草で頭を左右に振った。
「まあ、待ってください、判事さん」と、彼は受け身になっていった。「俺は何も先生のしてくださることをありがたいと思ってないわけじゃないんです。そうじゃなくて、トレスコット先生は親切だし、先生のなさってくださることをありがたく思ってないわけじゃないんです。ですが──ですが、ですね」
「ですが、どうした? お前、七面倒くさいな、アレク。さあ、いってみろ。いいか、お前、生まれてこのかた毎週きまって五ドルも稼いだことがあるか?」
ウイリアムズはむっとし、昂然と頭を上げた。が、やがてうなだれる。彼は勇気をふりしぼってこうこたえた。
「いえ、判事さん。手に入れたことはありません。それに、俺は、俺みたいな者にとって五ドルがはした金だというんでもありません。ですが、判事さん、こういう仕事でいただくものって給料ってやつでしょ。そうですよね、判事さん」と、彼は相手に強く印象づけるような身振りで繰り返した。
「こういう仕事では、いただかなくては、給料を」
ウイリアムズはこの最後の給料という言葉を強調した。
判事は笑った。
「私はこの件についてのトレスコット先生のお考えはよく知ってるんだよ、アレク。もしお前が自分のところの下宿人に不服だというなら、先生はあの男をよそへ移されるだけだ、いつでもね。だからお前があの取り決めが嫌になって変えてもらいたいと思っているという伝言を私に預けておくっていうんなら、ドクターはすぐにヘンリー・ジョンソンを引きとりに行かれるだろうな」
ウイリアムズはひどく面くらって、また頭をかく。
「五ドルというお金は食費としては大金ですが、頭のいかれた男の食費となれば、そうたいした額ではありませんよ」と、彼は思い切っていった。
「いくらもらうべきだと考えてるのかね、お前は?」と、判事がきく。
「そうですね」と、心の中であれこれ計算しているような様子でアレクがこたえた。「あいつは悪魔のように見えるし、みんなをおびえさせてます。子供たちは飯も食えません。俺は眠れないし、あいつは頭がいかれてて、それに──」
「もう聞いたぞ、そんなことは」
羊毛のような髪を手ですき、帽子で膝をたたき、木々の間からはるか遠くを見つめ、そうして地面を見つめる。アレク・ウイリアムズは砂利を蹴とばしながらいった。
「そうですね、判事さん。俺の考えでは、そういうことの値打ちは──」と、彼は口ごもる。
「どれくらいだ?」
「六ドルですよ」と、ウイリアムズはやけになって叫んだ。
判事は大きな肘かけ椅子に背をもたせかけ、腹の底から笑っている人のように身体をふるわせたが、ちょっとセキをしただけで、声はたてなかった。ウイリアムズは不安気に見守っている。
「そうか」と、判事がいった。「六ドルなら給料というのだな?」
「違いますよ、判事」と、ウイリアムズは即座にこたえた。「給料じゃないです。そう、給料なんかじゃありません」
ウイリアムズは自分の知性を疑う男に腹をたてたように眺めている。
「で、もし、お前の子供たちが飯も食えないとしたらどうだ?」
「俺は──」
「それに、もしあいつが悪魔のように見えるとしたらどうだ? しかも、これがずっと続くとしたらどうだ? お前は週六ドルで満足できるのか?」
こうした質問をあびせられると、いろんな思いがウイリアムズの心に渦巻き、彼はおぼつかなさそうにこたえた。
「もちろん、いかれた悪魔みたいに見える男は──。ですが、六ドルは──」
考えをまとめて口にしようと二度までもいいかけて口ごもったウイリアムズは、ふいに雄弁家がするように大きくつやのある手のひらを空中で振りまわした。
「いいますけどね、判事さん。六ドルは六ドルです。ですが、俺がヘンリー・ジョンソンを食べさせて六ドルをもらうってことなら、それは俺の稼ぎってことになります。俺の稼ぎってわけですよ」
「私もお前が毎週する仕事で六ドル稼ぐのは疑わないよ」と、判事がいった。
「そう、もし俺が週六ドルでヘンリー・ジョンソンを食べさせてやれば、そいつは俺の稼ぎってわけですよね。俺の稼ぎなんだ」と、ウイリアムズは熱をこめて叫んだ。
十四
ライフスナイダーの理髪店では、助手が食事に出ていた。主人はすぐにひげをそってもらおうとする四人の客をなんとかなだめている。ライフスナイダーはとても話し好きで知られていた──同業者のうちではかなり目立つ存在ではあった。床屋で話をするのは客の方だし、業界の昔からの伝統で黙って仕事をしろとたたきこまれているからだ。
ライフスナイダーは椅子に座った男の頬にカミソリを当てながら、何度も振り返っては待たされている他の客の気持ちをなごませようと楽しそうな話題をふっていた。が、相手はなかなかその手に乗ってこない。
「ま、先生はやつを死なせるべきだったよな」と、鉄道技師のベインブリッジがやっとライフスナイダーがふった話題の一つに反応した。
「いいから、黙ってろ、ライフ。でもって仕事を続けろや」
ライフスナイダーはそれには従わず、カミソリの手をとめ、振り返って、反応してくれた相手の方を向く。
「死なせるですって?」と、彼はきいた。「どうやって? なんでまた。どうやって死なせるんです?」
「そのまま死なせるだけだ、バカヤロー」と技師がいった。他の者が少し笑う。ライフスナイダーは皆に小馬鹿にされたようにむっつりだまりこみ、仕事を再開する。
「なんでまたそんなことを」と、少し間を置いてつぶやく。「自分のためにつくしてくれた者をどうして死なせるんです?」
「やつはあんたにつくしたわけじゃないだろ?」と、ベインブリッジが繰り返した。「あんたはヒゲを剃ってりゃいいんだ。床屋だろ、ここ?」
すると、それまで沈黙を守っていた男が口を開く。
「私が先生でも同じことをしただろうな」
「ですよね」と、ライフスナイダーが受ける。「誰だってそうしますよ、誰だって。あんたのような人は別かもしれませんがね。この──年くった──頑固な──人でなし」
彼はいろいろ言葉を探った末になんとか最後の言葉をひねり出し、それを得意げにベインブリッジに向かって吐き出した。技師は笑っている。
ライフスナイダーはひげそりを終え、クシをつかって整髪しはじめた。椅子の男は上体を起こして気持ちよく話に加わることができるようになった。その男はこういった。
「みんなの話じゃ、あの男はなんともおそろしい姿をしてるっていうじゃないか。息子の方のジョニー・バーナード──食料品の車を動かしてる方のやつだが──あいつ、アレク・ウイリアムズの小屋であの男を見たんだってよ。二日間、何も食えなかったらしい」
「へえ!」と、ライフスナイダーがいった。
「ふうん、なんでそんなに恐ろしいんだ?」と、別の一人がたずねる。
「顔がないから」と、床屋と技師が口をそろえた。
「顔がない?」と、男は繰り返す。「顔がなくて、どうやって生きていけんの?」
「頭の表に顔がない。あるべきところに顔がない」
ベインブリッジは悲哀に満ちた調子で歌うようにそういうと、立ち上がって帽子掛けに帽子をかけた。椅子に座っている男は彼に席を譲ろうとする。
「急いでやってくれよ」と、技師はライフスナイダーにいった。「七時三十一分の列車で出かけるんだ」
床屋は技師の頬に石けんを塗りたくりながら、何か考えこんでいたが、ふいに大きな声でいった。
「顔がないって、どんな気持ちなんですかね?」と、居あわせた人々に声をかける。
「そうだな、あんたみたいな顔をくっつけなきゃならないとすると──」と、客の一人が応じる。
ベインブリッジの声が石けんの泡の下から聞こえてくる。
「顔をなくすのが流行したりすると床屋は商売あがったりだって文句をいってんのか」
「そんなの、流行ったりしないでしょう」と、ライフスナイダーがいう。
「そりゃそうだ。あいつみたいな目にあって顔がなくなるってんなら、絶対にはやったりしない」と、もう一人がいう。「できることなら、顔はついててほしいな」
「そりゃそうでしょう!」と、ライフスナイダーが叫ぶ。「でも、考えてもみてください!」
ベインブリッジのひげ剃りでは、客は自由になれる段階になっていた。
「ドクターはどう思ってるんだろうな?」と、彼がいった。「あいつを生かしておいたことを後悔しているかもしれん」
「ああするしかなかったのさ」と、一人がこたえる。他の者も同意しているようだった。
「まあ、彼の立場になってみろよ」と、一人がいう。「そうして、ヘンリー・ジョンソンが自分の子供を助けてくれたとする。で、どうする?」
「たしかに!」
「当然だな! やつのためなら、どんなことでもしてやるだろうぜ。どんな面倒なことでもしてやるよ。そうやって全財産使いきってしまうのさ。そうだろ?」
「顔がないって、どんな気持ちなんですかね?」と、ライフスナイダーが物思いにふけりながらいった。
さきほどしゃべった男は、自分の思っていることをうまく口に出せたと感じていたので、もう一度繰り返す。
「あいつのためにはどんなことでもしてやるだろうぜ。やつのためなら、どんな面倒なことでもね。そうやって全財産使い果たすってわけだ、そうだろ?」
「どうでしょうねぇ。でも」と、ライフスナイダーがいった。「顔がないって想像すると!」
十五
ウイリアムズは老判事から見えないところまでくると、すぐに手や足を動かしながらぶつぶつ独り言をつぶやきはじめた。はた目にも意気揚々となっているのは明らかで、体もひとまわり大きくなったようだ。堂々として見える。手を突き出して指を鳴らし、陽気な音楽を口笛でかなでる。家路をたどりながらも、ときどき夢中になり、まるでダンスをしているようにすり足で動いたりした。
その合間に口にする言葉からは、、彼が試練をくぐり抜けて手柄を立て、どや顔になっているのがよくわかった。
いまや彼は天下に敵なしのアレクサンダー・ウイリアムズだった。
自信に満ちあふれ、豪胆な彼に抗するものは何一つない。王者のように歩き、英雄をきどったような歌をかなで、相手を愚弄した手の動き──こうしたことはすべて、世界に挑んだ末に勝利を得た男というものを示していた。
途中で、町の方にやってくるジーク・パターソンと会った。彼らは五十ヤードも離れたところから互いに声をかけあった。
「よう、パターソン?」
「やあ、ウイリアムズ?」
二人とも教会の助祭を務めていた。
「みんな元気か、パターソン?」
「まあな。まあまあってとこだ。そっちはどうだい、ウイリアムズ?」
二人とも歩調を緩めたりはしない。
かなり距離がある地点から互いにこうした挨拶をかわし、話をしながらすれ違い、そのまま離れていきながら礼を失しない質問を投げかけあう。
ウイリアムズの心は風船のようだった。あまりにも得意満面で浮かれていたので、すれ違う際にパターソンが干からびた溝に足を落としたことにも気づかなかった。
さらに、人気のない道を進む。また大きな声で歌いだし、パントマイムで戦利品の獲得を祝う。彼は飛び跳ねるように歩いていく。
自宅が見えるところまで来た。
畑は夕景に青味をおびて染まり、窓も青白く光っていた。踊るようにしきりに手足を動かしながら、ウイリアムズは、しばらくの間、そうした夕方の光を嬉しそうに眺めていた。
と、ふいに別の考えが心に浮かび、急に元気をなくして立ちつくす。そうして、自分の家が敵の砦でもあるかのように接近していく。
近くまでくると、数匹の犬がうるさいほどに吠えたてた。怪しい人影が自分の飼い主だとわかると、犬たちは当惑したように離れていく。彼は低い声で犬どもを𠮟りとばす。
入口で、駆け出しの泥棒のように、おっかなびっくり戸を押し開く。慎重に家の様子をうかがう。
女房と目が合った。彼女はテーブルの脇に座っていた。その顔の片側をランプの光がくっきり映し出す。「シッ」と、彼は理由もなくいった。すばやく奥の扉に目をやる。その向こうに寝室があるのだ。
子供たちは居間の床に散らばり、静かな寝息をたてていた。腹いっぱい食べた後で、すぐにそのまま眠ってしまったらしい。
「シッ」と、ウイリアムズはまた、身動きもせず無言でいる妻に向かっていった。
入口の扉からはウイリアムズの頭だけが見えていた。妻は片手をテーブルの端に載せ、もう一方の手を膝にのせて、幽霊でも見ているように目を見開き、ぽかんと口をあけている。彼女は恐怖におびえながら暮らしていたので、玄関にいきなり出現した顔に、それが見なれた夫の顔であってもぞっとしたらしかった。
その張り詰めた沈黙を破ったのはウイリアムズだ。
「あいつ、大丈夫だったか?」と、奥のドアの方を見ながらささやく。その視線をたどった女房はうなづくと、低い声でこたえた。「もう寝たんじゃないかしら」
すると、ウイリアムズは足音をしのばせて家の中に入った。
彼は椅子をかかえ、奥の不気味なドアに向けて置いた。妻もそのドアに正面から向き合うように少し姿勢を変える。
沈黙が訪れた。二人は何か命にかかわるような災難がふりかかってくるのを待っているかのようだった。
しまいに、ウイリアムズは手を口にあててセキをした。
妻の方がびくっと驚いて夫を見る。
「あいつ、今夜はおとなしくしているつもりらしい」と、彼はつぶやいた。
二人はぼそぼそと言葉をかわす。遺骸や幽霊に対するような視線は、しかし、ずっと奥のドアの方に向けられている。その後、また長く沈黙が続いた。
二人の目は白く大きく光っている。遠くの道を荷馬車がガタガタと通りすぎていく。夫婦は椅子に座ったまま窓に目をやったが、部屋が明るいので、外はまっくらで荘厳な印象を与えた。老いた妻はいつも教会で葬式のときに示すような態度をとっていた。今にも祈りの言葉をささげようとするかのように見えるときも、ときどきあった。
「あいつ、今夜は静かだな」と、ウイリアムズがささやく。「今日はおとなしかったか?」
彼の妻はそれにはこたえず、嘆願するように天井に目を向けた。ウイリアムズは落ち着かない様子でもぞもぞしている。で、しまいに彼は爪先立ちでドアのところまで行った。ゆっくりと音をたてずに膝まづき、耳を鍵穴付近にあてる。その背後で物音がした。彼はさっと振り返る。妻はびっくりして夫を見つめている。彼女はストーブの前に立ちはだかり、眠っている子供たちを守ろうと本能的に両腕を広げた。
だが、ウイリアムズはドアにはさわらず、立ち上がった。
「眠っているらしい」と、彼は縮れた髪の毛をいじりながらいった。
しばらく思案していた。その間も、母親の方は子供を守る巨大な彫像のように突っ立ったままだ。
彼は急に向こうみずな勇気にかられたようだった。
足音をたててドアに向かった。指がドアのノブにふれる直前に、彼は首をすくめた。さっと身をかわし、頭のうしろを両手で軽くたたく。その入口自体が彼をおびえさせたようにも思えた。
ストーブの周辺でちょっとした騒ぎが起きた。ウイリアムズの妻があわてて後退しようとして、眠っている子供たちの間に足を踏み入れたからだ。
そうした恐慌状態がすぎると、ウイリアムズは恥ずかしさを感じて再び攻めに転じた。ドアノブを左手でしっかりつみ、もう一方の手で鍵穴に入れた鍵をまわした。ドアを押す。ドアがゆっくり開く。おっかなびっくりでライオンをオリからだそうとしている奴隷のように、すばやく片側へ飛びのく。ストーブの近くでは、皆が寄せ集まっていた。恐怖におびえた母親は両腕を広げ、目ざめた子供たちは必死にスカートにしがみついている。
開いたドアの後方から光が射しこみ、六フィート四方の部屋が見えてくる。
その部屋は一目で内部が見わたせるほど狭かった。ウイリアムズはドアを取りつけている柱の陰からこわごわのぞきこむ。
いきなり前に進んだ。
と、すぐに後ずさりし、また叫び声をあげて前へ進んだ。
感覚が麻痺したようになっていた家族は、ウイリアムズがすぐに飛び出てくるだろうと思っていた。それで、彼の叫び声が聞こえると、体を寄せあって一つの塊になった。とはいえ、ウイリアムズは小さな部屋に突っ立ったまま、開いた窓の前で叫んでいるにすぎなかった。
「いない! いなくなった! あいつ、いないぞ!」
彼の目と腕はすばやい動きを見せた。それは彼の発言が事実であることを示していた。ウイリアムズが隠れてやしないかと、小さな食器棚を開けてみたりもした。
やがて、部屋から飛び出してくる。
帽子をつかみ、玄関のドアをさっと開け、夜の闇へと転がり出た。彼はわめきたててた。「トレスコット先生! トレスコット先生!」
ウイリアムズは猛烈な勢いで畑を駆け抜け、町の方角に向けて走った。相手が声の届くところにいるみたいにトレスコット医師の名を呼びつづける。あたかもトレスコット医師が宙に浮かび、駆けていく自分を、頭上に広がっている空から眺めていて、この「トレスコット先生」という声を聞いているかのようだった。
家の中では、ウイリアムズの妻が震えながらも夜明けの光が援軍となってやってくるまで見張りを続けた。子供たちは交代で母親を励ました。ウイリアムズ夫人は子供たちを元気づけ、激励し、鼓舞しつづけて、勇敢な母親であることを示した。
十六
テレサ・ペイジはパーティーを開いていた。開くか否かをめぐって母親と口論したあげく、なんとか開催にこぎつけたパーティーだった。妻と娘の言い争いを耳にした父親が、「ま、やらせてやれよ」といい、母親がそれを受け入れたのである。
テレサは十九通もの招待状を書き、学校の休み時間に友達に渡した。母親は大きなケーキを五個もこしらえた。さらにレモネードもたくさん用意した。
そういうわけで、ペイジ家のダイニングルームには九人の少女と十人の少年がかしこまって着席していた。テレサと母親はケーキやレモネード、それにアイスクリームを勧めてまわる。
客たちはお行儀よくふるまっていた。その場にペイジ夫人がいたからだ。
その少し前は客間にいて、子供たちだけでゲームをしていた。そのときは椅子がひっくり返ったりしていた。男子が本来のやんちゃぶりを発揮したわけだ。とはいえ、そういう男子特有の勝手気ままな振る舞いが認められない状況においては、女の子たちはつんとすまして男子を冷たい目でながめている。そのため、ダイニングルームは日曜学校のような雰囲気になっていた。
むろん、子供のパーティーなので、こっそり笑いあったり、合図したり、肘で突っつきあったり、ふくれっ面をしたりといったことはあった。
このお行儀のよい集まりで、大きな窓に背を向けた長椅子に二人の少女が腰かけていた。二人は互いに顔を見ては微笑し、そうすることで、なげかわしい男子をさげすんでいた。
背後の窓のあたりで物音がした。少女の一人がそっちを振り向いた。その瞬間、彼女は悲鳴をあげ、両手で顔をおおって飛びのいた。
「何だ? どうした?」と、みんなが大声で叫ぶ。
少女は体をぶるぶる震わせて泣きだした。窓から見たものに怯えているようだった。部屋は一瞬、静まりかえる。全員がすかさず重厚感のある窓の方に顔を向けた。
利発な少年がすぐに男子の頭数を調べた。こっそり部屋を抜け出して窓からお化けを装っておどすといういたずらが昔からよくあったからだ。しかし、少年たちは全員が部屋にいて、皆、びっくりした顔をしている。
驚きからさめた少年たちは、今度は勇ましく叫びながら脇のドアから恐怖の対象となっているものに向かって突撃した。彼らは互いに自分の勇敢さを競いあった。
彼らは誰も庭の暗がりでドラゴンに遭遇することを望んではいなかった。が、女子がダイニングルームにいるとなると、自分がおびえているところを見せるわけにはいかない。互いに声をかけあいながら芝生を駆け抜け、勇ましく、しかし、理性を持った人間らしく、彼らは慎重に物陰になっているところに踏みこんでいく。
だが、静かで平穏な夜で、庭にこれといって異状はなかった。
むろん口からでまかせをいう少年はいた。彼は、垣根のそばで、低くしゃがんで逃げていく、ぞっとするような人影を見たといった。その様子を細かく描写し、冒険物語で読んだ怪物の姿を思い出しながら何度も繰り返して自分のウソを説得力のあるものにした。たとえば、その生物の不気味な笑い声を聞いたと断言したりした。
家の中では、悲鳴をあげた少女が泣きじゃくりながら、ずっと体を震わせている。ペイジ夫人がなんとかなだめたおかげで、どうやら落ち着いてきた。そして、すぐに家に帰りたいといった。
ペイジ氏が家に戻ってきたのは、そういう状況のときだった。氏は子供たちのパーティーがすんで皆が帰るころまで外をぶらついて時間をつぶしていたのだ。
氏がその少女を家まで送っていくことになった。それというのも、扉を開けて外がすっかり暗くなっているのを見た娘がまた金切声をあげたからだ。
彼女は自分の母親に対しても何があったのかちゃんと説明できなかった。見たのは男の人だったかと聞かれても、彼女にはわからなかった。それはただ「モノ」、「おそろしいモノ」というよりほかなかった。
十七
裏通りにあるウォーターメロン地区では、ファラガット家の人々が、いつものように、狭くてガタガタするベランダに出て夕涼みをしていた。同じように古びたベランダにいる他の住人たちと大きな声で噂話をしあっている。近所の家で赤ん坊が泣き出す。すさまじい夫婦げんかも聞こえてくる。裏通りの連中は気にもかけない。
そこに、ファラガット家の人々の前に、いきなり、怪物と呼ぶしかないモノが出現した。
そのモノは腰を低くし、深く頭を下げている。一瞬、全員、黙りこむ。それから、地面が隆起したような騒ぎが起きた。
ファラガット夫人は悲鳴をあげてひっくり返った。息子のシムは気どった格好で手すりにもたれるように座っていたが、その生き物を目にしたとたん、手すりごしにそのまま地面に落ちた。何もいわず、両目を見開き、感覚のない手で手すりをつかもうとしつつ、そのまま背後に消えていった。ベラは泣くような声をあげたまま、いきなり髪を振り乱し、四つんばいになって階段をはい上がろうとした。
家族の団らんは一瞬にして崩壊した。だが、その怪物のようなモノはなおもお辞儀を続けている。言い訳をするように手を上げたりもしている。
「どうか、おかまいなく。ミス・ファラガット」と、丁寧な言葉づかいでいった。「本当におかまいないく。今夜はどうしていらっしゃるのかと、ちょっとご様子をうかがいに来ただけなんです。ファラガットさん。どうぞ、おかまいなく。ほんとに。一緒にダンスに行っていただけないかと、お願いに来たんですよ。ダンスに一緒にいっていただけないかと、お誘いにきたんですよ、ミス・ファラガット」
ベラ嬢はこわごわ背後に目をやる。彼女はまだはって逃げようとしていた。ベランダ脇の地面に転がっていたシム少年は、恐怖にかられて息が切れたような弱々しい声をあげている。やがて、そのヒトは落ち着いたゆっくりした足どりでベラ嬢の後から階段をあがっていく。
そのヒトは椅子に腰をおろした。
ベラ嬢は部屋の隅にはいつくばっている。
そのヒトは礼儀正しく椅子の端の方に腰をおろしている。両手で古い帽子をにぎっていた。
「どうぞ、おかまいなく、ファラガットさん。おかまいなく。ほんとに。ダンスにお招きしようと、お誘いにあがっただけなんですよ、ミス・ファラガット」
彼女は両腕で目をおおい、そのヒトの脇をはってすり抜けようとした。そのヒトは穏やかに道をはばむ。
「ダンスに誘おうとお寄りしただけなんですよ、ミス・ファラガット。一緒に来ていただけないものかとね、ミス・ファラガット」
絶望しきった娘は身体をふるわせながら床の上に突っ伏してすすり泣いた。
そのヒトはというと、椅子の端に軽く腰を乗せたまま、古い帽子を上品に手にし、丁重な言葉づかいで、ダンスへの誘いを早口でしゃべり続けている。
ファラガット夫人は家の裏手にいた。
この八年あまり、ほとんど体を動かさず安楽椅子に座ったまま、体の不調をあれこれ愚痴っていただけなので体重も相当に増加していたが、その肥満体にも似合わず機敏かつ敏捷に動いて高い板塀をよじ登ろうとしていた。
十八
トレスコット邸の中央にある黒い残骸がまだ冷えきってしまわないうちに、医院の再建が開始された。新しい家は信じられないほどの速さで出現した。まるで魔法によって灰から生じたようだった。最初に診察室が完成した。医師はすでに新しい本や器具や薬品に囲まれて仕事をしている。
警察署長がやってきたとき、トレスコットは机に向かっていた。
「やあ、やつを見つけましたよ」と、署長がいった。
「そうですか」と、ドクターが叫ぶ。「どこでです?」
「今朝がた、街をうろついてましたよ。あいつがどこで夜をすごしたのかわかりませんがね」
「今はどこに?」
「留置場に入れておきました。そうする他なかったもんですから。それをあなたにお伝えしにきたというわけです。とはいえ、ブタ箱にずっと入れておくわけにもいきません。何か犯罪をおかしたというのでもありませんしね」
「私が引きとりに行きますよ」
署長は何か思い出したようにニヤリと笑った。
「外に出ている間、やつはえらいことをやらかしたようです。最初はペイジさんのお宅で子供たちのパーティーを台なしにしたんです。それから裏通りのウォーターメロンまで行ってます。そこでみんなを追い散らかしてしまいました。男も女も子供も大あわてで叫んでたようです。塀をよじ登ろうとした婆さんが一人、足を折ったか何かしたらしいです。それから、そのまま大通りに出ていったんですが、アイルランド人の娘がヒステリーを起こしたり、ちょっとした暴動のような騒ぎでしたよ。やつが走り出したんで、大勢が追いかけて石を投げたんですが、鋳造所の脇から駅の構内にもぐりこんで連中をまいたようです。私どもも徹夜で捜索したんですが見つかりませんでした」
「ケガしてませんでしたか? 誰かの石が命中したりしてませんでしたか?」
「やつはあれ以上、ケガのしようがないと思いますけどね。目一杯、これ以上は無理ってほどのケガを負ってるじゃないですか。いや、石は当たっていないし、連中はさわってもいませんよ。むろん、誰だって本気で石をぶつけようなんて思ってなかったんです。ですが、群衆心理というか、そういう流れになってしまうとどうなるか、ご存じでしょう。まあ──なんというか、その──」
「ええ、わかってますよ」
警察署長はしばらく考えこむように床を見つめている。そうして、ためらいがちに語を継いだ。
「やつがパーティーでおびえさせたというのがジェイク・ウインターの娘なんです。ひどく具合が悪いらしいです」
「本当ですか、私を呼びに来ませんでしたが。ウインターさんのご家族はいつも私が診てるんですがねえ」
「呼びにこなかった? そうですか」と、署長はゆっくりいった。「となると─つまり──ウインターは──いやウインターはこの件ですっかり腹をたててましてね。彼は──あなたを逮捕させるといってるんです」
「私を逮捕させる? バカな! なんでまた私を逮捕させたりできるんですか?」
「むろん、できゃしません。私は黙ってろといってやりました。ですが、あの男が町中にどんな風にいってまわるかわかりませんからね。あなたにもお知らせしておいた方がよいと思ったんです」
「いや、彼は問題じゃありません。むろん、あなたには感謝しています、サム」
「いや、いいんですよ。では、今晩、彼を引きとりにいらっしゃるんですね? 看守は歓迎するでしょう。もうこの仕事にすっかり嫌気がさしてましてね。いつでも好きな時にあいつを引きとって下さってけっこうだといってます。どうもやつを持てあましてるようです」
「しかし、私を逮捕させるというウインターの方はどうなります?」
「ああ、あなたには、この──この男を──やつを好き勝手にさせておく権利なんかないといったことが、あれこれいわれてるんです。ですが、私としては、余計な口出しはするなといっておきました。ただ、あなたには知らせておいた方がよいと思ったわけです。それに、今ここでいっておいた方がよいと思うんですが、先生、今回の件については、いろいろと噂になってますよ。私があなただったら留置場に行くのは夜も遅くなってからにしますね。たぶん出入口付近に人が集まってたりするでしょうから。それに私なら──まあ、マスクとベールのような何かかぶせるものを持っていくでしょうね」
十九
マーサ・グッドウインは独身で、もう中年と呼ばれる年齢になっていた。ワイロムヴィルで妹夫婦と同居している。同居する代わりに、マーサが家事のほとんどを一手に引き受けていた。
彼女にはかつて婚約者がいたのだが、若くして死別していた。死因は天然痘だ。彼女から感染したのではなかったが、それで独身を通していると周囲にはなんとなく思われていた。
家事にはこれで終わりということがないので、マーサの毎日は忙しかった。とはいうものの、彼女はしっかりした精神の持ち主だった。アルメニアの現状や、中国における女性の立場、ナイアガラ・アベニューのミセス・ミンスターとグリスコムの息子の不倫、バプティスト派の日曜学校での聖書講読会における論争、はたまたキューバの反乱軍に対してなすべき合衆国の責務など、そういった大問題について、マーサは明確な意見を持っていた。
彼女が実際に自分で見たり聞いたりした暴力というのは、猟犬が棒でなぐられたことくらいだったが、世の中をよくするために彼女が頭の中で組み立てているプランでは、かなり過激な措置が提唱されていた。たとえば、トルコ人なんかみんな海に放りこんで溺死させるべきよとか、ミセス・ミンスターとグリスコムの息子なんか二人並べて絞首刑にすべきだわ、といった調子で。
この平和を愛する女性は、これまでずっと静かで穏やかな生活を送ってきている。しかし、外部の出来事については極端に残忍な主義を主張した。しかも、そういう問題で彼女がいい負かされることはまずなかった。
というのも、意見が異なる者については小馬鹿にして無視するからだ。
この小馬鹿にするという行為は効果てきめんで、異論を述べる者にとっては頭ごなしに否定されたも同然だった。彼女に自信満々に軽蔑されてしまうと、もう立ち直ることができない。マーサに小馬鹿にされた瞬間、相手は絶句し、何もいえなくなってしまう。二度と彼女と論争しようという気にはならない。
というわけで、彼女はナポレオンのような無敵の存在として、今日もいかめしい顔をして台所仕事に精を出している。
一方、彼女にいい負かされた知人たちが自分の受けた心の痛みを忘れることはなかった。ひそかに反乱をたくらんでもいた。
とはいえ、公然と彼女に反逆を宣言する勇気はなかったし、それは決して陰謀といったものではなかった。しかし、マーサの主張と一つでも意見を異にする人がいれば、どんな女性でもマーサに論破された女たちから支持される、という了解がなされていた。つまり、マーサが主張するどんな説も信じてはいけないという暗黙の了解が生まれていたわけだ。
そうはいっても、周囲の人々はやはり彼女の説く主張については敬意を払っていた。
彼女の主張をいつも聞かされている人間が二人いた。
妹のケイトがその一人で、明らかにマーサにおびえていた。
もう一人のキャリー・ダンジェンは自宅からちょくちょく訪ねてきては、マーサの足元に膝まづき、社会情勢について教えを受けた。王様の前では口答えなどせず感服した様子を示す。そうしておいて、その後で別の有力者のところにいくと、きまってマーサを笑い者にしていた。
妹のケイトの意見は彼女たちには鼻から問題ではなかった。自分は家の二階でやるべき仕事をやり、マーサは階下で家事をしているだけだとケイトは思っていたが、それは勘違いだった。二人の力関係を見抜いていたのは夫だけだ。彼はマーサに対しては気軽に冗談をいったり敬意を示したり――と、いわば丁重に接していた。
マーサは自分がこの建物に住む家族の大黒柱であることを疑ってもいなかった。とはいえ、彼女の立場はばくぜんとしていた。マーサ自身ははっきりした物の言い方をしたが、その対象はアルメニア人やグリスコムや中国人などにのみ向けられていた。
彼女も若いころには緑の草原や緑陰、あるいは好きな人の顔を夢見たりしていたものだ。が、今となっては、そういうものとは別のことに熱中していた。自宅のキッチンで、キューバ問題と火にかけたヤカン、アルメニアと皿洗いなどが奇妙な具合にまじりあっていた。
社会に反する不品行については、夢見る乙女のなれの果てである彼女は、おそらく町で一番辛辣な批評家だった。
井戸に隠れるように台所に隠れているこの名もない女性が、この町の人々の生活にそれなりに何らかの影響を及ぼしているのは確かだった。町が一メートルほど動いたとすると、彼女個人は数センチくらいの貢献はしていた。彼女があまりにも厳格に不品行をとがめるので、その問責がめぐりめぐって彼女にふりかかってくることもあったが、ともかくそれで世論が動くこともあった。
彼女は町を動かす機関車でもあった。が、自分が機関車であることを知らないという事実がむしろその効果を大きくしていた。彼女が手ごわい論者である理由の一つは、自分が手ごわいということを思ってもいないことにあった。
マーサ自身は、あくまでも、か弱く、純粋で、意固地な人間だった。しかし、もし宇宙はこうあるべきだと思うと、宇宙にも挑戦しかねない人間ではあった。
ある日のこと、キャリー・ダンジェンがあわてた様子で彼女の家にやってきた。ゴシップを山ほど抱えていた。
「ねえねえ」と、彼女は叫ぶ。「ヘンリー・ジョンソンが預けられていたところから抜け出して、昨日の夜に町までやって来て、みんなを死ぬほどおびえさせたんだって」
マーサは洗いおけを磨いていた。
分別のある人には彼女がなぜそんなことをしているのか理解できなかったろう。というのも、洗いおけはもう銀器のようにピカピカだったからだ。
「あら、そうなの」と、彼女も言葉に深い意味をこめて叫んだ。「私の予言が当たったってわけね」
いつもの口癖だ。
情報が多すぎて何から話せばよいかわからなくなったキャリーは、しばらく間をおく。
「でね、サディー・ウインターちゃんがすごく具合が悪くなったんだって。みんなの話だと、今朝、ジェイク・ウインターがやってきて、トレスコッット先生を逮捕させようとしたらしいわ。かわいそうに、ファラガットのお婆さんなんか、塀をよじ登ろうとして足首を捻挫したんですって。ヘンリーを牢屋に入れちゃったもんだから、留置場のまわりには大勢の人が集まってるんですって。他にどうしたらいいのか、わからなかったんでしょうね。ヘンリーって、ほんとにおそろしいみたいよ」
マーサは洗いおけからやっと手を離し、早口でまくしたてる相手に顔を向けた。
「そうなんだ」と、彼女は大きな茶色の布を手に持ったままいった。
自室で小説を読んでいたケイトが興奮した客の話し声を耳にして、ふらふらと階段を下りてくる。彼女は小柄でこわがりだった。いつも肩をすくめてばかりいるので、彼女の肩甲骨は二枚の薄い氷の板のように見えた。
「患者が、だれも、来なく、なったって、当然の、むくいよ」と、彼女はふいに血に飢えたようにいった。唇がハサミになったように、言葉をチョキチョキ切りながらしゃべった。
「そうね、きっと来なくなるでしょうね」と、キャリー・ダンジェンも叫んだ。「もうあの先生には診てもらわないっていってる人、けっこういるわよ。具合が悪くて弱っているときにトレスコット先生に診てもらったりしたら、こわくて命が縮んじゃうわ。私もそうなっちゃう。考えさせられるわよね」
マーサは、ときどき二人の女の反応を探りながら、物思いにふけっているようだった。顔をしかめて部屋を歩きまわっている。
二十
コネチカット州から戻ってきた当初、トレスコット医師の息子のジミーは馬車小屋の二階で暮らしているヒトをとても怖がっていた。どうしてもその人がヘンリーだと思えなかったのだ。
しかし、ジミーの恐怖心は、少しずつではあるが不思議な魅力のようなものに影響されて薄れていく。ジミーは徐々にそのヒトとも親しくなっていった。
ある日の午後、そのヒトは馬小屋の裏手に置かれた箱に腰をおろしてひなたぼっこをしていた。分厚い布を頭に巻いている。
ジミーと大勢の仲間たちが馬小屋の角をまわってやってきた。全員が幼児学級の子供で、他の生徒たちより半時間ほど早く授業を終えて下校してきたのだ。
彼らは箱に座っているそのヒトの姿を目にすると急に立ちどまった。ジミーは主人らしくきどった様子で手で差し示す。
「ほら、あそこにいるだろ」と、彼はいった。
「ほんとだ」と、小さな子供たちがつぶやく。
その声を聞いた例のヒトがゆっくり彼らの方を見ると、皆は尻込みして、同程度の勇気や経験を持つ者同士でかたまりあう。ジミーだけが先頭にとどまっている。
「こわがらなくても大丈夫。君たちに悪さなんかさせないから」と、彼は楽しそうにいった。
「ふん」と、彼らは憤慨してこたえる。「こわがってなんかないよ」
ジミーは世界の不思議の一つを所有し展示した人が感じる喜びをたっぷり味わった。見物人の方は畏怖や呆然、不安、羨望といった感情を示しつつ遠まきにしている。
彼らの一人が低い声でジミーに話しかける。
「おまえ、あいつのそばまでは行けないだろ」
そう挑発した少年はジミーより年上で、いつもジミーをすこし見くだす立場にいた。ところが今では、ジミーみたいな小さな子が自分を追い越して仲間うちでの地位を高めているわけで、それが彼には革命でも起きたように思えたのだ。
「ちぇ」と、ジミーは憤慨する。「行けないって? あそこまで行けないだろって? ねえ、ぼくがあそこまで行けないっていってるわけ?」
少年たちはひどく興奮していて、いっせいにジミーが話しかけている相手の少年に目を向けた。
「そうさ。行けやしないだろ」と、彼は気持ちで押されながら、頑固に、頑強にいい張った。彼にはジミーが決意しているのがわかったが、「そうさ、行けやしないだろ」と、かたくなに繰り返した。
「へえ?」と、ジミーはいい返す。「見てなよ――ちゃんと見てなよ」
ジミーは向きを変え、静まりかえったなかを、そのヒトの方へと歩いていく。
しかし、友だちが警戒する様子が伝染したのか、以前にそばまで行ったときより重たい空気の抵抗にあったように、そのヒトのそばまで来ると、ふいに心細そうに立ちどまってしまった。すると、後方の仲間たちからバカにしたような声が飛んでくる。その声に無理やり後押しされたようにジミーは前に進んだ。そのヒトのところまで行くと、彼はそっとその肩に手を置いた。
「やあ、ヘンリー」と、声をかける。少しふるえている。そのヒトは、音の連なりにすぎないような黒人特有の音楽の一節を口ずさんでいて、ジミーには何の注意も払わなかった。
得意満面で仲間のところへ戻ってきたジミーは拍手喝采された。彼らはジミーを賞賛し、挑発した少年をあざ笑った。そういう騒ぎのなか、その大きい方の少年はなんとか威厳を保とうとしていた。
「ぼく、行ってきたよ」と、ジミーは彼にいった。「あんないい方したんだから、君もやってみせてよ!」
それを受けて、他の少年たちも彼を挑発した。大きな少年は頬をぷっとふくらます。
「べつにこわくなんかないよ」と、彼は口数も少なく抗弁した。
彼は駆け引きでミスをおかしてしまった。そのため、今となっては彼の威信は根底からぐらぐらとゆれていた。少年たちはニワトリのような声を出したり、羊のような鳴き声を真似してみたり、彼を嘲笑と恥辱のなかに葬り去ろうとするようにいろんな叫び声をあげた。
「べつに、こわくなんかないよ」と、そうした騒ぎの間、彼はずっといい続けている。
野次馬たちの英雄となったジミーは容赦しなかった。
「こわくない? そうなんだ」と、彼は鼻で笑った。「じゃあ、やってみてよ、こわくないんでしょ」
「なあに、やりたきゃやるさ」と、相手もいい返す。
少年の目にはみじめさがはっきり見てとれた。が、酔っ払いの蛮勇のようなものはまだ残っていた。彼はいきなり自分を責めている子供の一人の顔をにらみつけて、「そんな口きくんだったら、まずおまえがやってみせろよ」といった。
少年をけしかけていたその子はたちまち尻ごみして後方に退却する。それで嘲笑されていた少年はひと息つけた。で、その挑発を別の方向に向けた。
彼は好機をのがさず、「誰か他の者がやるんなら、おれもやってやるよ」と、集まった子供たちの顔を見まわしながらいいはなったのだ。
その挑発に応じて冒険に名乗り出る者は、だれもいなかった。この反撃から身を守ろうと、他の少年たちは再びわいわいガヤガヤ騒ぎ出す。しばらくの間、みんな、彼のいうことを何一つ聞こうともしなかった。彼が口を開こうとすると、みんな大声をだして聴きとれなくする。とはいえ、彼はどうにか他の誰かがやるのなら自分も同じようにやってやると繰り返すことができた。
「では、お先にどうぞ」と、彼らは叫んだ。
ジミーが両者の間に割ってはいり、大きな少年の退路をふさぐ。
「きみ、すごく勇敢なんだろ?」と、ジミーは少年にいった。「きみがぼくにやってみろというからぼくはやったんだ――そうだろ? となると、こわがってるのは誰かということになるよね?」
他の子たちはその発言に声をそろえて賛同し、またもや大きな少年を挑発しにかかる。
彼はもじもじしつつも、右足で器用に左の向こうずねをかいている。「べつにこわくなんかないし」
そのヒトの方を盗み見る。
「べつにこわくなんかない」
そうして自分をとりまいて騒ぎ立てている連中を憎々しげに眺めていたが、ついに決意する。
「わかった。そこまでいうんなら、やってやろうじゃないか! よく見てろよ!」
彼はきびしい顔つきになり、箱に座ってじっとしている人影の方に向き直った。
皆は静まりかえった。
少年は前へと歩を進めた。が、歩幅はだんだん狭くなり、ためらいがちに速度も遅くなっていく。
そのヒトからほんの数メートルのところまでくると、石壁にさえぎられたように彼の足は完全にとまってしまった。
遠くから眺めていた小さな子たちは、すぐに冷やかしたりからかったりした。そういった声に反発するように、少年はさらに二メートルほど前に出た。いつでも後ずさりできるよう猫のように身をかがめる。ずっと後方にいる子供たちの集団は、彼の勇気の発現に敬意を持ちはじめてもいた。励ましの声をかける者も出てくる。
と、勇気を奮い起こした彼は真っ青になりながらもやけくそに進み、手と指先を最大に伸ばしてその人の肩にふれた。
即座に駆け戻る。
彼は、発作がおきたように甲高い誇らしげな笑い声を響かせた。
少年たちは歓声をあげながら彼の周囲に群がり、その崇拝者に変わった。ジミーはしばらくの間は当てがはずれたような顔をしていたが、彼とその大きな少年は暗黙の了解で休戦協定を結び、二人一緒になって他の子供たちを謁見した。
「なに、どうってことないよ」と、大きな少年が息を切らしながらいった。「そうだろ、ジム?」
「だよね」と、ジミーも得意な顔をする。「別にどうってことないよ」
この二人は子供たちの間で別の階級の人間となっていた。十を超える戦場で武勲をあげ勲章を授けられたとしても、他の少年たちに「それができない自分がはずかしい」と感じさせることはできないだろうと思われるほどだった。
そうこうするうち、二人は尻ごみする者なんか徹底的に軽蔑するといって、この冒険について説明してやる。
「なあに、なんでもないさ。アイツ、何にもしやしないし」と、二人は他の子たちを小馬鹿にするような調子でいった。
彼らのなかで一番小さな男の子が、自分も英雄の仲間入りをしたいという願望を隠せなくなった。
少年たちはその子に注意を向けた。彼は夢を見ているようにふらふらとみんなから離れていく。皆の視線が彼の背中を押す。その子は無言のまま大冒険に足を踏み出したが、それもほんの数メートルのことだった。数メートル進むと、彼は口を開けてじっと見つめたまま足をとめた。まったく身動きしなくなる。ジミーや大きな少年が大声で叱咤しても一向に効果がなかった。
そのとき、ハニガン夫人がバケツを持って家の裏手にあるベランダに出てきた。ベランダの端から、トレスコット邸の馬小屋の奥まった裏手が見えた。彼女は集まっている子供たちと、箱に座っている例の人影を目にした。もっとよく見ようと片手を目にかざす。すぐに、まるで殺人鬼に襲われたように金切り声をあげた。
「エディー! エディー! すぐ家に帰りなさい」
彼女の息子は不服そうに聞き返した。
「なんで、どうして?」
「すぐに家に帰りなさいっていってるでしょ、わからないの?」
他の少年たちは、仲間の一人に災難がふりかかったため、自分たちもしばらくの間は罪人みたいにこそこそしていなければならないと感じた。ハニガン家の息子が腹をたてて抗議するのもむなしく家の中に押しこめられてしまうまで、彼らはやましさを感じて無言を通した。ハニガン夫人は彼らを見つめ、新築された美しいトレスコット邸が自分を侮辱しているかのように苦々しい顔でにらみつけてから、息子を追って奥に消えた。
子供たちはみんな動揺していた。
一人の子の母親に見つかったということは、他の母親もやってきてるのではないかと、念入りに周囲を見渡している。
「ここはぼくんちだ」と、ジミーがいばっていった。「家に帰る必要はないんだ」
箱に腰をおろしたそのヒトは、黒い布でおおった顔で空を見上げ、、賛美歌を歌いながら両腕を振っている。
「ねえ、アイツ、見てごらんよ」と、小さな子が叫んだ。
振り向いた彼らは、言い表しようのない厳粛な手の動きとその神秘に立ちすくんだ。すすり泣くような旋律はゆるやかで、もの悲しかった。彼らは後ずさりする。葬式のときに感じるような力を受けて彼らは動けない。深く心を奪われていたため、ドクターの馬車が馬小屋までやってきた音すら耳にはいってこなかった。
トレスコット医師は馬車から降りた。
馬をつなぎ、子供たちの方に近づいていく。ジミーが最初に気がついた。彼の狼狽ぶりを見て、他の少年たちも振り向く。
「何してるんだ、ジミー?」と、トレスコットが驚いたようにきく。
ジミーは仲間の前に出てきたが、何もいわなかった。その場の状況を見て悟ったトレスコット医師の表情には、かすかに暗い影がただよった。
「ここで、何をしてたんだ、ジミー?」
「遊んでただけだよ」と、ジミーがかすれた声でこたえる。
「何をして遊んでたんだね?」
「ただ遊んでただけ」
トレスコットは怖い顔をして他の少年たちを見まわすと、もう家に帰りなさいといった。
彼らは任務を果たせず正体がばれてしまった暗殺者のように通りへ出ていった。よその子の家に侵入するのは、たとえ、そこの子供から誘われた場合であっても罪ではあった。彼らは父親や母親がいきなり現れて、その家の庭から追い出されるのは何度も経験して慣れていた。
ジミーはみじめな思いで仲間が去っていくのを見送った。それは、自分の家の庭を自由にできる特権を持っている子供としての自分の地位の喪失を意味したが、同時に、これほど多くの少年たちを客として招く権利など自分にないことを知ることにもなった。
追い出された子供たちは、しかし、いったん歩道に出てしまうと、侵入者としての恥ずかしさはすぐに忘れてしまう。大きな少年はさきほどの肝だめしにおける自分の武勲を得意そうに語った。
彼らは足早に通りを歩いていく。さきほどの冒険に失敗した一番小さな子は集団の後方から自慢げに叫んだ。「そうだよね、ぼく、アイツのすぐそばまで行ったよね。行ったよね、ウイリー?」
体の大きな成功者は、そっけない口調で彼の面目を失わせる。
「ふん」と、彼は鼻で笑った。「おまえ、ほんのちょっと行っただけじゃないか。おれはアイツのいるトコロまで行ったんだぞ」
他の子供たちの足どりがあまりにも勇ましかったので、この小さな子は小走りしていた。それでも遅れぎみになる。そして、先頭の列に追いついて余裕を見せようとして、みんなの足とからまって、あちこちでよろけたりしながらも、ずっと自分のささやかな栄光の承認を求めて甲高い声をあげていた。
二十一
「ところで、グレース」と、トレスコット医師は診察室のドアからダイニングルームをのぞいて声をかけた。「学校に行く前にジミーを私のところに来させてくれ」
ジミーがやってきた。
あまりにも静かだったので、トレスコットは息子が来たことにしばらく気づかなかった。
「ああ」と、ドクターはキャビネットから振り返っていった。「来たな、坊主」
「はい」
トレスコットは椅子に深く腰をかけ、考えをまとめるように指先で机をたたいている。
「ジミー、昨日、裏庭でおまえは――おまえと友だちは――ヘンリーに何をしてたんだ?」
「何もしてなかったよ、お父さん」
トレスコットは息子の目をきびしい表情でのぞきこむ。
「本当にヘンリーをこまらせたりはしなかったんだな? じゃあ何をしてたんだ、本当は?」
「えと――ぼくたちは――えと――ぼくたちは――あの――ウイリー・ダンゼルがぼくにヘンリーのそばまでは行けないだろといったんだ。だから、ぼくは行ってみせた。それから彼が行って、それから――他の子たちはこわがってて、そこに――お父さんが来たんだよ」
トレスコットは低い声でうなった。父親の顔が深い悲しみにくもったので、息子はその不可解さに当惑し、いきなり泣き出した。
「おい、おい、泣くなよ、ジム」と、トレスコットは机をまわって彼のそばへ寄る。
「ただ――」父親は革張りの大きな読書用の椅子に座り、息子を膝に乗せた。「ただ、おまえにはきちんといっておきたいんだが――」
ジミーが登校し、トレスコット医師が午前の往診に出かけようとしているところにモーザ医師からの伝言が届いた。メッセージによれば、二十マイルほど奥地にある谷間の農家でモーザ医師の妹が危篤になったため、少なくともこの日だけでも代診を頼めないかということだった。
封筒にはさらに各患者の病状、病歴、講じた処置を書いた簡単なメモが入っていた。トレスコットは喜んで代診を引き受けると使いの者にこたえた。
トレスコットはモーザの患者リストの一番上にウインターという名前があることに気づいたが、それを特に重大なこととは思わなかった。往診の順番に従い、彼はウインター家の呼び鈴を鳴らした。
「おはようございます、ミセス・ウインター」ドアが開くと、トレスコットは快活にいった。「モーザ先生がどうしても今日は町を離れなければならなくなったそうなので、私が代診を頼まれました。娘さん、今日はいかがですか?」
ウインター夫人は驚きのあまり石像のように立ちすくみ、彼をまじまじと見つめている。彼女はやっとこういった。
「お入りください。夫を呼んできます」
彼女はさっと家の中に引っこんだ。トレスコットは玄関ホールに入ると、左手に折れてリビングへ向かった。
やがて、ウインターが足をひきずりながらやってきて、ドアから顔をのぞかせた。トレスコットを一瞥する。が、リビングの中へ入ってくるつもりはないようだった。
「何しにきた?」と、彼はいった。
「何しにきた? 何しにきた、か」と、トレスコットは顔をあげながら繰り返した。夜のジャングルでいきなり歩哨から誰だと警戒されたようだった。
「そう。俺の知りたいのはそれだ」と、ウインターが怒鳴る。「何しに来たんだ?」
トレスコットはしばらく黙っていた。モーザのメモを見直す。
「娘さんの容態はいささか重いようですね」と、彼はいった。「すぐにお医者さまを呼ぶようお勧めしますよ。お呼びになったドクターに渡せるようにモーザ先生のメモの写しを置いておきましょう」
彼はそういうと、メモを自分の手帳に書き写し、そのページを破りとった。それからドアの方へ向かい、ウインターに差し出す。壁の方へ後ずさりしたウインターが紙を受けとろうと手を伸ばした拍子に頭が下がって前のめりになった。トレスコット医師は手に持った紙片を相手の足下にヒラヒラと落とした。
「おじゃましました」と、トレスコットはホールから声をかけた。
相手が沈着冷静なまま退却したことがむしろウインターの怒りを駆り立てたようだった。トレスコットに会ったら浴びせてやろうと用意しておいたありったけの非難や糾弾の言葉をふいに思い出したように叫びながら、ウインターは激怒してトレスコットを追った。
とはいえ、一定の距離をおいたまま医師の後からホールに入り、玄関へ、そこを抜けてポーチへと、家の外まで追いかけていく。
トレスコットは動じる様子も見せず、牝馬を帰り道の方に向けた。ウインターはまだポーチから叫んでいる。小さな犬がキャンキャン吠えているようだった。
二十二
「あの話、聞いた?」と、キャリー・ダンジェンがマーサのキッチンに飛んできた。「あの話、聞いた?」
彼女の目は喜びに輝いている。
「いいえ」と、マーサの妹のケイトが興味ありげに前のめりになる。「何かあったの? 何があったのよ?」
キャリーは開いていた戸口から得意気な顔をのぞかせている。
「それがね、トレスコット先生とジェイク・ウインターとの間で、すごい騒ぎがあったんだって。ジェイク・ウインターにそんな勇気があるとは思ってなかったんだけど、今朝、あの人、先生に思う存分、腹の中をぶちまけたんだって」
「へえ、どんなこと?」と、マーサがきく。
「全部よ。全部ぶちまけたんだって。ハワースの奥さんがブラインドの裏からそれを聞いてたの。すごかったって。もう町中の噂よ。みんな知ってるわ」
「先生はいい返さなかったの?」
「らしいわ。ハワースの奥さんの話だと、先生は何もいわなかったみたい。ただ黙って馬車まで歩いていって乗りこんで、平気な顔をして馬を走らせたんだって。誰に聞いても、ウインターさん、先生にガツンといってやったって」
「で、ウインターさん、何ていったの?」と、ケイトが興奮し高い声で叫んだ。明らかに何か大好物をせがんでいる風だった。
「でね、ウインターさん、先生にね、テレサ・ペイジのパーティーでヘンリー・ジョンソンがサディーを驚かしてからというもの、サディーの具合は一向によくならない。その責任はあんたにあるんだ。よくも厚かましくうちに来れたもんだ、って――それで――それで――それで――」
「それでどうしたの?」と、マーサがいった。
「ウインターさん、先生に汚い言葉とか使ったの?」と、ケイトがわくわくしつつも、こわごわとたずねる。
「それが、それほどでもなかったみたい。ハワースの奥さんの話だと、ウインターさん、先生に文句をいったんだけど、それって男の人が本当に腹をたてたときにいう程度のことだったって」
「そうなんだ」と、ケイトが小さな声でいった。「どんな悪口、いったんだろ?」
マーサを仕事の手を休めず、しばらく無言で考えこんでいたが、このタイミングで二人の話に割って入った。
「ヘンリー・ジョンソンが逃げ出してからずっとサディー・ウインターが病気だったとは思えないんだけどね。あの子、あれからもずっと学校に通ってたんじゃなかった?」
二人はたちまち腹を立て、二人して彼女に抗弁する。
「学校? 学校って? まさか。考えられない。学校に行ってただなんて?」
マーサはシンクのところにいたが、振り返った。鉄のスプーンを手にしている。二人を攻撃するようにも見えた。
「サディー・ウインターはあんなことがあってからも、朝になるとカバンを持って何度もここを通ってたのよ。あれ、どこに行ってたっていうわけ? 結婚式にでも出かけてたとか?」
マーサの相手の二人は彼女の精神的支配には慣れっこになっていたので、すぐにホコをおさめた。
「でも、ほんとなの?」と、ケイトが口ごもりながらいう。「私、一度も見たことがないけど」
キャリー・ダンジェンは弱々しいそぶりを示している。
「私がトレスコット先生なら」と、マーサが大きな声でいった。「あの情けないジェイク・ウインターの頭をぶんなぐってやったんだけど」
ケイトとキャリーは目くばせして極秘に同盟を結ぶ。
「どうしてそんなこといえるのか、あたし、わからないわ、マーサ」と、キャリーが思い切ってこたえた。その彼女をケイトの微笑が支える。賛同しているわけだ。「自分の娘が死ぬほどおびえさせられて、そのために具合が悪くなったりしてるのよ。それに腹をたてたからって非難されるいわれなんかないじゃない。それに、みんな、いってるわ――」
「あら、みんながどういってようと、私、なんとも思いませんよ」と、マーサがいった。
「でも、町全体にさからうわけにはいかないでしょ」と、ケイトがすかさずキャリーの背後から援軍の高い声をあげる。
「町全体!」と、マーサが叫んだ。「あんたたちのいってる町全体って、どんなものか教えてよ。あんたたち、ヘンリー・ジョンソンを怖がってるおバカな連中を町全体っていうわけ?」
「だって、マーサ」と、キャリーが分別のある口調でいった。「あなた、アイツなんか、こわくないって口ぶりに聞こえるけど!」
「こわがってなんかないわよ」と、マーサがいい返す。
「まあ、マーサ、そんなこといって!」と、ケイトがいった。「とんでもないわ、そんなこと。みんな、アイツをこわがってるのよ」
キャリーは歯をみせて笑った。
「あなた、一度もアイツを見たことないんでしょ?」と、彼女は誘導するようにいう。
「ないわ」と、マーサは認めた。
「じゃ、どうして、こわくないってわかるのよ?」
マーサも反撃する。
「あんたはどうよ、見たことあるの? ないのね。じゃ、どうして自分もこわいと思うってわかるのよ?」
キャリーとケイトの連合軍は口をそろえて叫んだ。
「だって、マーサ。みんな、そういってるのよ。みんながそういってるの」
「そのみんなってやらは何ていってるわけ?」
「見た人はみんな、死ぬほど恐ろしかったって。女だけじゃないのよ。男もよ。おそろしいじゃないの」
マーサは厳粛な顔をして頭を振る。
「私はアイツを恐れないようにするわ」
「だけど、どうしてもこわかったら、どうする?」と、ケイトがいった。
「そうよ。それに」と、キャリーが叫んだ。「話はまだあるのよ。ハニガンさんのご一家、あの家の隣から引っ越すんだって」
「あの男のせいで?」と、マーサがきく。
キャリーはうなづいた。
「ハニガンの奥さんが自分でそういってたんだから」
「まあ、それは驚きね!」と、マーサは叫んだ。「引っ越すの、へえ? まさか、ね! で、どこに引っ越すってわけ?」
「オーチャード・アベニューの方だって」
「驚いた。いい家なの?」
「それは知らない。聞いてないから。でも、オーチャード・アベニューにはいい家がたくさんあるわよね」
「そうね。でも、どこも誰か住んでるんじゃない」と、ケイトがいった。「オーチャード・アベニューに空き家はないはずよ」
「そういえば、あった」と、マーサがいった。「ハムステッドさんの古い家が空いてたんだった」
「あ、もちろん、あそこは空き家だけど」と、ケイト。「ハニガン夫人が気に入るとは思えないし、いったいどこに引っ越すんだろう」
「まるで見当がつかないわね」と、マーサがため息をつく。「どこか、私たちの知らない所なんでしょうよ」
三人が考えをめぐらせて静かになった後、キャリー・ダンジェンが「でも、知るだけならわけないわ」
「誰が知ってるっていうの――このあたりで?」と、ケイトがたずねる
「そうね、スミスの奥さんなら、ね。ほら、いまもお家の庭にいらっしゃるわ」
キャリーはさっと立ち上がりながらいった。彼女がドアから飛びだしていくと、ケイトとマーサは窓辺に寄った。キャリーの声が階段の近くから響いてくる。
「スミスさん! スミスの奥さん! ハニガンさんがどこに引っ越されるか、ご存知ないですか?」
二十三
秋の到来は木々の葉を見ればわかる。ワイロムヴィルの木々は紅葉と黄葉で華やかに彩られていた。風も強くなり、哀愁に満ちた紫がかった夜のとばりが下りると、家々の窓の明かりはますます魅力を増していく。
子供たちはカエデの木から焼け焦げたような枯れ葉が悲しげに舞い落ちてくるのを眺めながら、すぐに暗くなる秋の夕暮れに、道路脇に集めた枯れ葉で焚き火をする時期が近づいているのを感じている。
ナイヤガラ・アベニューを三人の男が歩いていた。
ハーゲンソープ判事の家まで来る。判事が庭から歩いて出てきて三人を出迎えた。
「よろしいですか、判事さん?」と、一人が声をかけた。
「いつでも」と、判事がこたえる。
四人の男はトレスコット邸へと歩いていった。
ドクターは診察室で本を読んでいた。そこに四人を迎え入れた。町の有力者で影響力のある立場の市民が四人もそろって来宅したことにトレスコットは驚いたが、それについては何も口にしなかった。
彼らは腰を下ろした。トレスコット医師は一人一人の顔をみまわしている。
沈黙があった。
やがて、ジョン・トゥエルブが沈黙を破った。食料品の卸商で、四十万ドルもの資産家である。資産は百万ドル超だという噂もあった。
「ねえ、先生」と、彼は少し笑みを浮かべて語を継いだ。「最初に申し上げておきますが、私たち、余計なお世話をしにきたんですよ」
「ほう、そりゃまた何のことでしょう?」
トレスコットはもう一度、四人の顔を一人一人見まわす。
彼はとくにハーゲンソープ判事に問いかけるような視線を送ったが、老判事は物思いにふけっている風にアゴをステッキに乗せたまま、彼と目を合わせようとしない。
「誰も口にしないことなんですが――あんまり、ね――」と、トゥエルブがいった。「ヘンリー・ジョンソンのことですよ」
トレスコットは椅子に座ったまま、居住まいを正した。
「ほう?」と、彼はいった。
トゥエルブは用件を口にしたので、すっと気が楽になったようだった。
「その件なんです」と、有力者は穏やかに応じる。「その件で、お話をしにきたわけです」
「で?」と、トレスコット。
トゥエルブはすぐに話の核心に入った。
「いいですか、トレスコット。私たちは先生が好きなんですよ。でもって、この件について率直に話をしようとやってきたわけなんです。こんなことは私たちが首を突っこむ筋合いのものではないし、私としては、あなたに余計なお世話といわれたらそれまでなんですが、私としては、いいですか、私としては先生が破滅していくのを黙って見ているわけにはいかないんです。で、私たちはみんな、そういう風に感じているんです」
「破滅なんかしてませんよ」と、トレスコットはこたえた。
「そうですね。ま、厳密にいえば、先生は破滅しかけているわけではない、とは思いますよ」と、トゥエルブがゆっくりといった。
「しかし、先生は自分に、あなた自身に非常な危害を加えているんですよ。先生は町一番のお医者様だった。が、今ではどん尻もいいところだ。それというのも、ちゃんと考えないバカな連中が大勢いるからなんだが、だからといって、そういって状況が変わるってもんじゃないからね」
いままで黙っていた一人の男が真面目な口調でいった。「家内とか、ね」
「で、いいたいことは」と、トゥエルブが話を続ける。「ま、この世の中にバカな連中が大勢いるとしても、先生がそんな連中を敵にまわして身を滅ぼさなきゃならん理由は何もない、ってことなんですよ。あいつらに物を教えるなんてできやしないんだから」
「私は何かを教えようとしているのではないんですがね」と、トレスコットは疲れたように微笑む。「私は――問題は――その――」
「この件では先生をとても尊敬している人だって大勢いるんですよ」と、トゥエルブがさえぎった。「ですが、だからといって、愚か者の心を変えることにはつながらないわけなんです」
「家内とかね」と、この見解に固執する人がまたいった。
「で、私が申し上げたいことは、こういうことです」と、トゥエルブがいった。「私たちは先生には今回のごたごたから早く抜け出してもらって、もう一度、以前の状態に戻ってもらいたい、とね。先生はあまりにも頑固で融通がきかなすぎる。それで自分の商売もあやうくしてるってわけです。こういう問題はしょっちゅうあるようなことではないですが、それでも何か打つ手が――なんとか、うまくやる方法があるはずですよ。それで、私たちは――十数名の仲間がですね――この件について話し合ったわけです。むろん、最初に断っているように、これが余計なお世話だったら、そういってください。ですが、私たちは話し合った上で、この結論に達したのです。つまり、現時点でできる唯一の方法として、どこか渓谷の奥の方にでもジョンソンの居場所をこしらえてやって、そうして――」
トレスコットは疲れたような身振りをした。
「皆さんはご存じないんですよ、みんながヘンリーを怖がっているものだから、彼の世話が十分にできていないんです。私のように彼の面倒をみることは、誰にもできゃしませんよ」
「でね、私、クラレンス山の向こう側に農場を持ってるんですよ。たいしたことない小さな農場なんですが、それをヘンリーにやろうと思ってるんです」と、トゥウエルブが悩ましそうにいった。「もし先生が――もし先生が――先生が――火事なんかが起きてしまったために――いや、私たちは先生の手からヘンリーをすぐにも引きとろうと、その準備までしてるんですよ。それで――それで、ですね――」
トレスコットは立ち上がり、窓のところまで行った。皆に背を向ける。
四人は座ったまま無言で待っている。トレスコットが元に戻ったとき、彼の表情は暗いままだった。
「だめです、ジョン・トゥエルブ」と、彼はいった。「それはできません」
再び静寂が訪れた。
一人の男が椅子に座ったまま身動きする。
「だとしたら、公共の施設で――」と、彼がいいかける。
「だめです」と、トレスコットがいった。「公共の施設はどれも立派ではありますが、ヘンリーはどこにもやりません」
彼らの背後にいたハーゲンソープ老判事は、物思いにふけったまま、磨きぬかれたステッキの象牙の頭をなでている。
二十四
トレスコットは足を踏みならして靴の雪を落とし、ぽんぽんと肩をたたいて雪片を振り払った。家に入る。そのままダイニングルームへ行き、それから居間へと向かう。ジミーがいた。キリンやトラやワニが描かれた大きな本をたどたどしく読んでいる。
「おかあさんはどこだい、ジミー?」と、トレスコットがきいた。
「知らないよ、お父さん」と、少年はこたえた。「二階じゃないかな」
トレスコットは階段の下から声をかけた。返事はなかった。客間のドアが開いているのが見えたので、彼は部屋に入っていく。
大きなストーブの前に置かれた四枚の半透明の雲母の飾り窓を通して、部屋に薄明かりが射しこんでいる。目が暗さになれてくると、妻が体を丸めて肘かけ椅子に座っているのが見えた。
トレスコットは妻の方へと近寄った。
「ああ、グレース」と、彼はいった。「声をかけたんだけど、聞こえなかった?」
返事はない。
肘かけ椅子にかがみこんでみる。すすり泣きが聞こえた。グレースは顔をクッションに押し当てて声を押し殺そうとしていた。
「グレース!」と、彼は叫んだ。「泣いてるのか!」
彼女は顔をあげた。
「頭がいたいの、すごく痛くて、ネッド」
「頭が痛い?」
驚いた彼は眉をひそめて繰り返し、一脚の椅子を肘かけ椅子の近くに引き寄せる。
そうして、重厚な赤い色の窓枠から射しこんでくる光の帯の先に視線を向けた。
ローテーブルがストーブのそばに寄せられていて、小さなカップや未開封の茶菓子が盛られた皿がたくさん並んでいるのが見えた。今日は水曜日だった。毎週水曜には妻の客が集まる日だということをトレスコット医師は思い出した。
「今日はだれが来てくれたの?」と、彼はきいた。
肩の向こうから、妻のつぶやく声が聞こえた。
「トゥエルブ夫人」
「そうか、そうか」と、彼はいった。「アンナ・ハーゲンソープは来なかったのかい?」
肩の向こうから、つぶやくような声が語を継ぐ。
「まだ、すっかりよくなってらっしゃらなくて」
トレスコットはカップに目をやり、機械的にかぞえた。カップは十五あった。
「さあ、さあ」と、彼はいった。「泣くのはおよし、グレイス。もう泣かないで」
家の周囲では風がもの悲しい音をたて、窓には雪が斜めに吹きつけていた。ときどきストーブの石炭が音をたてて崩れ、四枚の雲母の窓板がふいに赤く輝いたりした。
トレスコットは妻の頭を自分の肩にもたせかけたまま、ときどき無意識にカップを数えようとしている自分に気づいた。カップは十五あった。
(了)
スティーヴン・クレイン(一八七一年~一九〇〇年)は十九世紀アメリカの自然主義の先駆とされる作家です。二十八歳で夭逝し、作品数も多くないため、日本では知名度が低いのですが、英米では高く評価されている作家の一人です。
調べ物をするときにオンラインの百科事典ウィキペディアを利用する人も多いと思いますが、日本語版の「スティーヴン・クレイン」の項に比べ、英語版の 〟Stephen Crane〟 の項の分量は(質については問わないとしても)その十倍はあります。
そうしたことは別にしても、現代の作家・作品として読んでも十二分に面白いことは、この「あとがき」まで読み進めてきた読者の皆さんには理解していただけるのではないでしょうか。
ここでは掲載した作品について簡単に説明した後、クレインの他の作品やヘミングウェイが若き作家志望者に推奨した必読書十六冊について少しふれておきます。
* * * * *
新しい手袋 原題を直訳すると「彼の新しいミトン」です。ミトンは五本指ではなく親指と他の四本の指用に二つにわかれた子供の手袋ですね。
主人公の少年は母と子と未婚の伯母の三人暮らしで、父親は亡くなっています。母親は息子に甘く、伯母が父親代わりにきびしく接している――という感じでしょうか。
真新しい赤い手袋をもらった少年は母親と伯母から汚さないよう注意されますが、下校時に雪合戦をしている友だちに誘われ、親の言いつけに従うことと遊びたい欲求との板ばさみになりつつも、後者の誘惑に負けたところで通りかかった母親に連れ戻され、お仕置きを受けます。彼はそれに反抗して家を出る決心をし……という展開です。
口うるさい家族に気のいい近所の肉屋の親父と、だれにでも似た経験がありそうな、どこかなつかしい感じのする物語です。子供の頭の中では、それが世界の果てまでいった自分が落ちるところまで落ちることで母親を苦しめ、百年後には伯母に――と、過激な妄想がふくらんでいくところなど、子供の感情の起伏、心の揺れ動きが巧みに表現されています。
オープン・ボート クレインの乗船した船が出港時に何度も浅瀬で座礁し、それが原因の損傷で真冬の一月に沈没したことは、事故の直後に新聞に掲載された手記に記載されている通りです。少なからぬ死者も出たようです。
キューバに向かう乗客や航海士を含む乗員は救命ボートで脱出しますが、作者自身の投影である記者とコック長、機関手、それに最後まで残った船長の四人はぎりぎりの段階まで待ってから全長三メートルの手こぎボートで脱出をはかります。
オープン・ボートというのは「甲板のない無蓋の舟」という意味です。大きな船が係留できる施設のない島や浅い港では、本船は沖に錨泊し、陸との連絡などの雑用に足船(テンダー)を使うことがよくありますが、これはそれでしょうね。
全長三メートルといえば、公園や海水浴場にある手こぎの貸しボートとほぼ同じ大きさです。これに大人が四人も乗ったら身動きとれませんよね。しかも、海はしけていて大波が次々に寄せてくるし、漂流時の最大の恐怖であるサメまで登場するという極限状況で、記者の独白を軸にした心理劇が繰りひろげられます。
船の遭難や漂流をめぐる作品は、実際の体験記や創作を含めて相当の数がありますが、これは読んでいるこちらまで絶望的な気分で凍えそうになる数少ない傑作の一つでしょう。
青いホテル アメリカ合衆国の東西南北どこから見ても中央付近に位置するネブラスカ州のフォート・ロンパーという架空の町を舞台に、青色に塗られたホテルでの出来事と客の一人の予期せぬ死の顛末が描かれています。
ストーリー自体はシンプルで、ホテルの主人が客引きのため駅に出向いてつれてきた三人の客と主人の息子がトランプをし、いかさまをめぐって口論となり、客の一人と息子が決闘するはめになります。その客は息子をなぐり倒し、吹雪の夜にホテルを出て町の飲み屋に入るのですが、決闘で勝利した高揚感もあって横柄な態度をとったところ、先客だった初対面の賭博師にあっけなく刺殺されてしまうという話です。
殺されることになる客は、フォート・ロンパー(フォートは砦で、騎兵隊の駐屯地になっていることが多かった)について、かつて存在したが今はもう存在しない(あるいは、さらにずっと西に移動してしまっている)小説などでおなじみの西部劇の舞台となった無法地帯だと思いこみ、ホテルでは被害妄想めいた恐怖心にとらわれています。が、その恐れていたホテルでは何事もなく、その後に勝利者として入った飲み屋で殺されてしまうわけです。
彼の死は、ある意味、不条理な死ともいえます。
不条理という言葉はラテン語に由来しますが、一般に流布するようになったのはアルベール・カミュの『異邦人』以降でしょうね。「今日ママンが死んだ」という印象的な書き出しで始まり、殺人事件の裁判で理由を問われて「太陽がまぶしかった」から撃ったとこたえる主人公は、旧来の人間社会と相容れない存在で、文学の枠を超えて衝撃を与えました。
カミュはほぼ同時期に刊行された哲学書『存在と無』の著者ジャン・ポール・サルトルと並んで第二次世界大戦後の思潮の旗手、というか日本を含めた世界中でアイドル的人気を博するスターになっていきますが、『青いホテル』はその先駆といえないこともない――とまあ、その気になればいくらでも深読みできる作品です。
それはともかく、この作品の心理描写をはぶいた簡潔で乾いた叙述や文体はどこかヘミングウェイを連想させます。「はじめに」でもふれましたが、ヘミングウェイの短編集に含まれていてもさほど違和感はないでしょう。
エピローグとして刺殺した賭博者の裁判の顛末と、トランプのいかさまをめぐって「実は……」という後日談がついていて、この部分の要・不要をめぐっても議論があります。それだけ一筋縄ではいかない「仕掛け」のある作品だということですね。
モンスター 舞台は『新しい手袋』と同じワイロムヴィルという架空の町です。トレスコットという医師宅で火災が発生し、炎上した家に幼い息子が取り残され、住みこみで馬の世話と往診時の馬車の御者を担当していたヘンリーという黒人が命がけで救助します。
息子は軽傷ですんだものの、ヘンリーは誤報ながら新聞に死亡記事が出るほど瀕死の重傷を負い、彼の勇気ある行動は町の人々を感動させます。が、死はまぬがれないと思われた彼は、医師の手厚い看護と介護を受けて町を歩きまわれるほどに回復します。
とはいえ、おしゃれな伊達男と評判だったヘンリーは、火傷や薬品によるただれで「顔がない」と称される怖ろしい外見となり、遭遇した人々は恐怖におびえて――という状況に。
モンスターと呼ばれるようになった彼に対する恐怖は、やがて、息子を救ってくれた恩人なので最後まで自分で面倒をみると言い張るトレスコット医師への反感となり、患者も減少し、医師の一家はしだいに孤立していきます。町一番の名医から底辺まで転落したトレスコット医師ですが、頑固なまでにヘンリーを手放そうとしません。
ある日の夕方、医師が帰宅すると、茶話会を開いたはずの妻が一人で声をひそめて泣いていて――と、明るい希望が見えない、学校の試験のようなすっきりした正解など存在しない状況のまま物語は終わります。
ここに絵に描いたような悪人は登場しません。善意の人や、自分の考えや行動は正しいと思っているごく普通の人々ばかりです。モンスターと呼ばれるようになった男とその庇護者をめぐり、そうした普通の人々の間に、事実や虚偽の憶測、無責任な噂話など尾ひれのついた情報がゴシップとして拡散していき、一家をじわじわと追い詰めていくのです。
スマホやネットニュース、SNSなど影も形もない時代の物語ですが、フェイクニュースやヘイトスピーチが飛びかう現代のネット社会を彷彿とさせる場面も多く、背景や道具は変わっても人間そのものは変わっていない――ということに改めて気づく人も多いかもしれません。現代的な、あまりにも現代的な作品です。それが優れた文学の持つ力ということになるのでしょう。
二十世紀の米文学を代表する作家ウィリアム・フォークナーには、架空のヨクナパトーファ郡を舞台にして登場人物にも関連性がある一連の作品があり、「ヨクナパトーファ・サーガ」と総称されていますが、スティーヴン・クレインにもワイロムヴィルを舞台にした十以上の短編があって、ワイロムヴィル・ストーリーと呼ばれています。
邦訳のあるクレインの作品としては他に大学時代に自費出版した処女作『街の女マギー』 〝Maggie: A Girl of the Streets〟 (1893年)、『赤い武功章』〝The Red Badge of Courage〟(1895年)などが知られています。
前者はニューヨークのスラム街で売春婦となった女性を描き、後者はクレインが生まれる前の南北戦争に従軍した底辺の脱走兵の心理を描いています。クレインは実際に従軍した経験がないのですが、後者における戦場での描写があまりにもリアルで克明に描かれているため、アメリカの自然主義文学の記念碑的作品となっています。
最後に、ヘミングウェイが若い作家志望者に示したという必読書十六作は、こうなっています。
『青いホテル』 スティーヴン・クレイン
『オープン・ボート』 スティーヴン・クレイン
『ボヴァリー夫人』 ギュスターヴ・フローベール
『ダブリン市民』 ジェームズ・ジョイス
『赤と黒』 スタンダール
『人間の絆』 サマセット・モーム
『アンナ・カレーニナ』 トルストイ
『戦争と平和』 トルストイ
『ブッデンブローク家の人々』 トーマス・マン
『歓迎と別れ』 ジョージ・ムーア
『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー
『英語韻文集』 オックスフォード大学出版
『大きな部屋』 E・E・カミングス
『嵐が丘』 エミリー・ブロンテ
『はるかな国 とおい昔』 ウィリアム・ハドソン
『アメリカ人』 ヘンリー・ジェームズ
名作ぞろいです。未読の作品がある人はラッキーかも――人生の極上の楽しみがまだ残っているわけなので。
翻訳に使用した底本 "The Portable STEPHEN CRANE" (The Viking Press) 1969 他
オープン・ボート、青いホテル、モンスター
スティーヴン・クレイン傑作短編集
著者 スティーヴン・クレイン
訳者 明瀬和弘
二〇二四年三月一〇日 発行
ISBN 978 4 908086 19 9
発行所 エイティエル出版
https://atl-publishing.com/
2024年6月17日 発行 初版
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