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時の刻み方

清水正弘

深呼吸出版



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目 次

国際教養大学学生からのインタビュー

地方紙(中国新聞)への寄稿文記事
半径五〇〇メートル圏内での生活
大学非常勤講師をニ十年
流離うインドの行者への追想
ネパール震災復興・復旧支援活動
遊動人間の先駆者たちとの出逢い
ドイツ・里山自然療法の最新事情調査
中山間地域(庄原市)とのつきあい
山岳辺境文化セミナー報告
男五十代、イタリア一人旅
ホリスティック医学との出会い
中国の絶景巡り、貴州省・万峰林
たたら師(村下)・木原さんとの出会い
ロシアの大地にある盛り土
コロナ禍での「時の刻み方」
五十歳代最後のモンゴル行

※これらの寄稿文はコロナ禍の期間中、主に二〇一〇年代(著者の五〇歳代)を振り返り作業する記録文からの抜粋である。

働くって、なんだろう?(二〇二二年一月インタビュー)

清水正弘さん トラベルセラピスト

ー好きなことで、生きていくー

「好き」を仕事にすることは、現代の理想の働き方のひとつなのではないだろうか。でも、どうすれば「好き」を仕事にできるのか?「好き」とは好奇心のその先にある感情である。「働くこととは好奇心を広げていってその中で自分が何に納得しているのかを探す行為だ」と清水さんは語る。

清水さんは、一九六〇年に兵庫県に生まれ、学生時代より国内外の秘境・辺境を訪れる。大学卒業後は、旅行会社に勤務。三五歳で同会社を退職し、フリーランスのトラベルセラピストとして働き始める。その後、三八歳の時に鍼灸師、そして四二歳の時に山岳ガイドの資格を取得。

その他にも紀行作家や広島修道大学の非常勤講師などの顔も持つ。常に新しいことに挑戦し、納得のいくものを探し続けている清水さんの働き方、そして、彼の人生という旅を紐解いていきたいと思う。

(記事執筆者:​へ​ディ・ワン、辺見彩佳、ななり)

清水さんのお仕事

ー現在、清水さんの職業はなんですか。

私は職業という形でこれだっていう風なことを固めたくないなっていうような想いがずっと前からあって、色んなことをやっています。中でも今は何をやってるかというと、トラベルセラピーっていうことをやっています。それから山歩きなんかの自然ガイドみたいなものをやったり、鍼灸師をやったり、多様なことをやりながら生活をしているっていう感じなんです。

“ひとつの職業にこだわりたくはないんですね——”

トラベルセラピストとは?

—トラベルセラピーとは、何ですか。

最近は、国内外問わず、メンタル面で様々な問題を抱えている人がたくさんいらっしゃいます。その人々を国内外のいろいろな場所にお連れして、そこに滞在していただく。要は、人間の人智を超える大自然や聖地のようなところですね。そこを旅することで心を癒す。それがトラベルセラピーです。そして、そのお手伝いをするのがトラベルセラピストという職業です。

—トラベルセラピストになられたきっかけは何ですか。

大学生の頃、外国に行きたいという思いがあって、一年間休学し、一人で外国を旅行して、色々な人と出会ったんですね。そこで、日本とは異なる文化に触れ、カルチャーショックを受けたんですね。それがきっかけで、私達が住んでいる地球に存在する、多種多様な価値観に関心を持つようになったんですよ。そうして、もっとこの世界を見るために、様々な国に行ってみたいと思うようになりました。その後、専門性を高めるために旅行会社で十二年間働いた後、フリーランスになったんですね。

清水さんのトラベルセラピーに関する著書

大学時代

大学生の頃・北アルプスにて(後述記載写真)

—大学生の頃から、たくさん海外に行かれていたそうですが、海外に行ってみたいと思われたきっかけは何ですか。

当時、考古学を専門にしてた兄の韓国でのフィールド調査の話を聞いたりしてたんですよ。その話を聞きながら、(私は)現在において人類は価値観や言語や宗教とかが違ってはいるけれど、(この地球の人類のおおもとのルーツは一緒なのだから)共通する部分はどこかにあるだろうということを思ったわけです。そしたら、やっぱり若いうちから海外を見てみたいって思ったんですね。

ダライ・ラマとの出会い(後述記載写真)

—プロフィールに二十歳のときダライ・ラマ十四世に個人的に出会ったことが人生の転換点となると書かれていたのですが、どのような変化があったのですか。

一九八〇年にダライ・ラマさんが訪日された際、私は彼の講演に参加したんですが、人が多くて後ろのほうからでは全然見えなかったんですよ。なので、彼に何とか会えないかと交渉をして、一時間半ほどお話したんです。その時の彼のオーラみたいなものに非常に衝撃を受けたというか(笑)。どういう衝撃かというと、彼の故郷が他国の勢力から弾圧されていて、いつ帰れるのかわからない状況にあるにもかかわらず、なぜこんなに穏やかな雰囲気を持たれているのかなっていう。その背景には、おそらくチベット仏教というのがあるんだろうということに自分の関心が向いていく、そういう意味合いでの転換点だったんです。

山岳ガイド

—今度は山岳ガイドのお仕事についてお聞きします。清水さんがお持ちのガイドの資格というのは具体的にどのようなものですか。

これは、国の環境省の認定団体である日本山岳ガイド協会が認定する資格で、「登山ガイド」と言うんですね。私が持っているのは「登山ガイドステージⅡ」という資格です。今から二十年前に取りました。

—そうなんですね。その資格を取られたきっかけは何だったのですか。

私は高校時代から山歩きが好きで、高校でワンダーフォーゲル部、そして、大学では山岳部に所属していて、日本国内の色々なアルプスを歩いたりしていたわけなんですね。また、私が働いていた旅行会社は、世界の秘境とか辺境ばかりではなく、山岳辺境地帯というのも(旅行先に)入ってたんです。やっぱり、登山とかトレッキングにはずっと関係していたんですね。

紀行作家としての顔

—紀行作家としての顔もお持ちだそうですね。ご自身で作家になろうと思われたのですか。

元々、大学時代は文学部新聞学専攻で、その頃になりたかったのは新聞記者だったんです。ですから、文章を書くということに少し憧れがあったんですね。それで大学時代から旅行会社に勤めていた頃にかけて、外国に行った際に色々な自分の想いみたいなものを記録をしたり。また、フリーランスになってからは地元の新聞社に頼まれて、紀行エッセイを新聞に書いていたりとかしていました。

地元新聞社連載エッセイを一冊の本にしたもの(後述記載写真)

鍼灸師の資格

—鍼灸師の資格をお持ちだそうですが、なぜ取ろうと思われたのですか。

世界の秘境・辺境に行くと、いわゆる現代医療みたいなものは、ほとんどないわけなんですよね。すると、現地の伝来の医学が未だに残ってるわけですね。私自身がそういうものに触れていく中で、伝統医療みたいなものに非常に関心が湧いてきたんですよ。それで、(知識として)知ってるのだけではなく、やっぱり実際に自分で資格を取って、ひとつの技として身につけたいなって——「針灸」というのは考え方の基底に東洋思想があり、宇宙観みたいなものが非常に奥が深いので、それに惹きつけられて資格を取ったわけです。

鍼灸師として、ネパールでの医療ボランティア活動(後述記載写真)

—鍼灸師の資格を取って得た知識は、清水さんのその他の仕事に役立っていますか。

そうですね。針灸なんかの東洋医学っていうのは、自分の身体が小宇宙で、そのどこかを循環するものが崩れたりとかしたら病気になるんだという考え方なわけですね。トラベルセラピーの話に戻りますが、人は昔から聖地という所によく行って、日常生活の中での色々な悩みとかを浄化してまた日常に帰ってくる——要するに、トラベルセラピーは自分で針を持って(鍼灸の治療をするように)その聖地に入っているようなものなんですよね。ですから、「人を治療する針灸で人体の宇宙のゆがみを治していくという行為」と「人を聖地やヒマラヤのような自然に連れていって日頃のメンタルの悩みとかを治していく(行為)」は同じような気がしてならないんですね。

フリーランスの仕事をするということ

—フリーランスというのは今でこそポピュラーな働き方になってますが、清水さんがフリーになられた当時はあまり一般的ではなかったと思います。フリーランスに対して不安な気持ちはありませんでしたか。

時代的に私が組織人を辞めたあたりは、フリーランスに対して肯定的ではなくて否定的に取られたりしていました。そういう意味では、不安になろうと思えばいくらでもなれる。でも、その考え方は自分の考え一つでいかようにも変わるわけですよね——安定した収入がないというところに注目してしまえば不安ばっかりです。逆に、自分の関心のあるようなことがあったらずっとその仕事をしてもいいわけですよね。

仕事をする上でのやりがい

—​​お仕事をしていて「やりがい」を感じるときはどんなときですか。

ヒマラヤに日本から人をトラベルセラピーのような形でお連れする時に、朝、その方々と一緒に山の中のロッジの屋上に上がって、太陽に赤く染められたようなヒマラヤ山脈を無言で観るんですよ。大自然の一期一会のドラマですから。中には涙を流している方もいらした。後にお連れした方々が私の方を振り返ってきて「よかった。」と一言おっしゃいますし、「人生観が変わった」とおっしゃる方も。その言葉が発せられた瞬間に、非常にやりがいを感じますね(笑)。

パズルの話

(人生は)パズルのピースを一枚ずつ積み上げていってるような感じだと思うんですよね。でも、そのパズルを積み上げていった先にはどういう風な模様があるのかは、最初わからないわけですね。これは人生ですから、そのパズルのひとつひとつのパーツ—色々な価値観みたいなもの—が、人生の経験を踏む上で積み上がってくると思うんですよ。

すると、だいたい四十歳とか五十歳ぐらいには、何となく模様みたいなものが見えてくるような感じがしてしまうんだと思うんですよ。それがその人の持っている人生観じゃないのかなと思うんですね。そういう積み上げてきたようなパズルが、ヒマラヤの朝日の一回こっきりのドラマを見たら、パラパラと崩れ去るみたいな(笑)。(積み上げてきたパズルを)いっぺん、スクラップするっていうことがこのトラベルセラピーの僕の目的ではあるんですね。

仕事をする上で一番大切なこと

—お仕事をする上で一番大切にされていることはなんですか。

やっぱりスクラップアンドビルドじゃないですかね。(仕事を)やっていく中で、色々な考え方みたいなものがどこかで凝り固まらないかっていう心配があるわけですね。——それこそパズルの話をしましたけども、そのパズルの一番最後のワンピースを絶対にはめたくないっていう思いがあるわけですよね(笑)。自分の死後の世界もどこかで空白のピースがあるってことは、そこの最後のワンピースをどこかに求めようとするわけですよね。

“最後のワンピースの部分はいくつになっても探し求めたい—”

—探究心というか、好奇心というか、常に求める姿勢がとても格好いいですね。

(常に求める姿勢は)まさに、好奇心だと思うんですよ。青春時代なんて言葉がありますけど、好奇心を維持できている間は青春時代じゃないのかなと思ったりもします。いくら十六歳であろうが好奇心がない十六歳は青春してないという風に思ったりもするくらいです。

—清水さんは今も青春時代ですか。

はい、青い春を送っています(笑)。

清水さんにとって、「働く」とは何か——

—清水さんにとって、「働く」とはどんなことですか。

自分を納得させていくことじゃないのかなと思うのです。働くってことは「金銭を得る」ということよりかは「自分とは何なのか」みたいな。先ほどパズルの話をしましたが、パズルを組み上げていく行為っていうのは自分が納得できるような組み方を探していることだと思うんですよ。ですから、パズルを組んでいて、これは違うんじゃないかと思ったらスクラップ・アンド・ビルドですね(笑)。

新しいことに挑戦してみるとか、新しい働き方に挑戦してみるとか。そのパズル自体を組み立てていくという行為が、要は自分がどういう風に自分の人生に納得できるかという作業そのものが「働く」ってことじゃないのかなと思います。


筆者のプロフィール
ヘディ・ワン

インタビューを通して、清水さんの様々な経験を聞いて、たくさんのことが勉強になり、どうしてこの方が一つの仕事に縛られず、自分が好きなことを生かした仕事に就けられるのか分かりました。なぜかというと、清水さんはいつも好奇心を持ち、色々なことに挑戦する方なので、人生に納得できます。清水さんから教えていただいた話の中で、最も心に残っているのは、自分の考え方や価値観が人生を変えられることです。それは、年齢にもかかわらず、いつでも新しいことに挑戦したら、納得のいく生き方を見つけられる。そのため、これから、私も、清水さんがフリーランスで働き始めたように、社会の常識に自分をあてはめていけず、自分で自分自身の人生を探していきたいと思います。

辺見彩佳 

「働く」とはどういうことか。清水さんは、「それは、自分がどういう風に自分の人生に納得できるのかを探す作業だ」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。最近、YouTubeで「好きなことで生きていく」という広告をよく見ますが、そんな風に「好きなこと」を仕事にできる人は、ほんの一握りなのだろうなとインタビュー前は考えていました。しかし、清水さんにおはなしを伺っていくなかで、好奇心を持ち、常に自分が納得いくものを探す作業を諦めなければ、誰だって自分の好きなことで生きていけるのではないのかと気づくことができました。自分の納得できる人生を送るため、好きなことで生きていくため、好奇心を持ち続け、失敗を恐れずに挑戦し続けたいと思います。

ななり

今回お話を伺った清水さんの「働き方」は、まさに私が理想とする「型にはまらず、自分の好きなことを生かして働く」というものでした。二時間にも及ぶインタビューの中で清水さんはたくさんのことをお話し下さいましたが、その中でも自分の人生観をパズルに例えたお話は特に印象に残っています。『最後のワンピースの部分はいくつになっても探し求めたい』とおっしゃっていたように、清水さんの好奇心を忘れずに常に何かを求め続ける姿勢は、これから社会に出ていく私たちが見習うべき姿だと思いました。私も清水さんの様に幾つになっても人生の青い春を過ごせるように、常に様々なことに興味を持ち続け、自分で納得のいくまでパズルをスクラップ&ビルドしていきたいと思います。

※大学による告知ウェブより

公立大学法人・国際教養大学の「JAS355:グローバル化する日本の重要課題」を履修する国際教養大学の学生と「JPL355:中上級日本語オンライン:対話で学ぶ現代日本社会」を履修する国際教養大学 海外提携校の学生が「働き方」をテーマに行ったオンラインインタビュープロジェクトの結果をまとめたものです。

「働き方」をテーマに始めたこのプロジェクト。ただ、インタビューで浮かび上がってきたのは、仕事観だけではなく、それぞれの方の多様な人生観でした。また、私達執筆者全員は、このプロジェクトを通して、秋田に特別な思い入れを持つようになりました。

インタビューは、秋田で活躍されている人たちが中心ですが、秋田と縁もゆかりもない方もいらっしゃいます。ただ、私達の秋田への思いも込めて、あえて「秋田と」と最初につけることにしました。

この副題「What does work mean to you? (あなたにとって「仕事/働く」とは?)」にもあるとおり、この冊子を読んで、「働く」って何だろうと読者の皆様が少し立ち止まって考えていただけるきっかけになれば幸いです。

大学時代・北アルプスにて
二十歳の時に出逢う、ダライ・ラマ十四世
紀行作家としての著作第一号
トラベルセラピーに関する著作
大学にての講義風景
地球のテッペン・北極点
ネパール震災ボランティア鍼灸治療
ヒマラヤ五千メートルの景観
旅のエッセイ本

地方紙(中国新聞)への寄稿文記事

『 時の刻み方 』

かつて時間には、さまざまな様相があった。それは風土に応じた時の刻み方と言い換えてもいいだろう。個人にとっての「人生の刻み方」も、本来は独自の「針」を持っていたはず。しかし急速に変転するグローバル時代の時計の針は、世界共通の均質性ある進み方を加速させてきた。その針のスピードを新型コロナウイルスは、一時減速させている。

これは見方を変えれば、「世界共通の針」の束縛から解放され、「自分だけの針の刻み方」を見直す絶好の機会なのではないだろうか。我々現代人は、時が身体や人生に刻まれていくことよりも、時の間を浮遊し浪費していくことに毎日を費やしているのではないだろうか。

コロナウイルスは、半ば強制的にそんな日常をストップさせ、時は静かに刻まれていることに改めて気付く契機を与えてくれているのかもしれない。一方でコロナウイルスは、自然環境には全くアタックをかけない。社会が行動自粛期間中でも季節の巡りは確実に循環しているのである。なかなか抜け出せない負の連鎖状況下では、我々の目線はどうしても足元に落としがちになる。

そんな時こそ、ふっと顎を上げて窓の外を眺めてみよう。木々が放つ淡い香りを緑風が柔らかく包み込もうとしている。その流れるささやき音が聞こえてくるだろう。

さらに耳を澄ませば、遠くの山の端から近づいてくる、ほのぼのとした初夏の足音が、あなたの鼓膜を揺らすことだろう。そして静かに瞑目(めいもく)し、過去に接した風、波、せせらぎなどの「記憶の残響音」に身を浸してみてはどうだろうか。

もしかすると、普段思い出す頻度の少ない、遠くに住む友人や疎遠となった知人、さらには亡くなった親族らの「面影と気配」が漂い始めるかもしれない。ソーシャルディスタンスと同時に「自然との距離感(ナチュラル・ディスタンス)」への新たな取り組みは、我々現代人へ「静かな時の刻み方」とともに「自分らしい時の刻み方」への再考を促してくれるはず。(トラベルセラピスト・清水正弘)

半径五〇〇メートル圏内での生活

これまでの人生では、地球のテッペン北極点や、地球の底・南極にまで足を伸ばしてきた。遊動生活に費やす時間がほとんど多かった生活であった。ここひと月ほど、半径五〇〇メートル圏内での生活をしている。しかし、この半径五〇〇メートル圏内での生活にも、『心の遊動』を再発見し、満喫してもいる。

最近は、朝四時には目が覚める。夜は早々に寝ているのだから当たり前かもしれないが。そして、しばしの瞑想タイム。この瞑想の間には、『イメージの遊動』を試みるのである。それは、『地球基底部→マグマ→地球表面→大気圏→銀河系→大宇宙→ブラックホール→ジェット噴射』というイメージの連続遊動である。

イメージ遊動中には、脳内ホルモン(オキシトシン?)分泌のような微細なサザナミが、身体の深部にて湧き起こる感覚を得ることができる。十数分程度の瞑想終了後は、まず五十メートル離れた田んぼの水量の点検と、その先にある小川の流れを見に行く。この小川沿いにて佇み、『流音の遊動』にしばし鼓膜をゆだねるのである。

広島市内へと流れる太田川の上流にあたるこの小川。そのセセラギ音に身を浸しながら、『上流→中流域→下流→河口→瀬戸内海』へと脳内の流音は遊動していくのである。

六時ころには朝食をとり、やおらつなぎの作業服に着替え、百メートルほど離れた持山(竹林)へと、チェーンソーや道具をもって歩いていく。ここでは、『風と光の遊動』を体感しながら、多量の汗をかくのである。

整備していく毎に、竹林を抜ける『風や光の質と量』が変化していき、空間のユラギに視覚が微睡みはじめるのだ。三時間程度の独り作業であるが、そのほとんどは『動き瞑想』と言っても過言ではない。作業開始時には、その日の整備の全体構想を練るのである。しかし、そののちは、ほとんど大脳新皮質は駆動していない。

身体が自然(じねん=オノズカラ・シカリナリ)と動いているのである。絡まったつる草、棘のある小枝、古びた竹、伐採後の古木などなど、目に入った時点で身体が『オノズカラ』処理への対応を始めている。

これは『慣れ』もあるのだろうが、『我が身が自然(しぜん=ネイチュア)と、言葉を必要としない対話』をしているのだろうと妙に合点がいくのである。小一時間ほど働くと、やはり『一息つきたい』と身体が訴えてくる。

すぐそばの用水路を流れる、山からの天然水を両手で汲み上げ、顔を流れる汗を一掃する。禁煙する前ならここで『一服』もしたくなるだろうな。昔、母方の爺ちゃんんが山仕事の最中に、キセルを大事そうに扱っていた姿を思い出す。

二世代以上前の、日本列島に住んでいた多くの人々は、半径百m~一キロ圏内で人生を終えたにしても、このような『心の遊動』を体感しながら『一日の充足感』を味わっていたのだろう。

田の水管理
さぎょう

大学非常勤講師をニ十年

四十歳代半ばから五十歳代半ば、そして本年も、地元の私立大学にて非常勤講師をしている。担当は、人間環境学部にての『里山学』である。その講義の中で『環境プロジェクト演習』のフィールド実践(二〇一二年度)の報告書寄稿文である。

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広島修道大学・熟議プロジェクト
(環境プロジェクト演習「森林セラピー・モニタリング」) 
  
最近の世相から失われたものの一つに『熟する』という概念がある。アンチエイジングなどという美辞麗句の影で、『円熟してゆく人生』などという言葉から力が失われてもいる。

仕事の世界においても、時を刻むと同時に深まってゆく『匠の技』が、派遣労働という効率優先の社会ではフォーカスされなくなってゆく。インターネットによって、数秒で誰かが記述した模範解答を導き出すことが学問分野においても容易となっている。

現代社会は、学生さんにとっては、『共に考え、静かにそして深く洞察し、自らの思考を熟させてゆく』といった環境を構築することが極めて困難であろう。それは、『手ごたえ感のない、不幸な時代』であるといってもいい。

すべてが『コピー&ペースト』できてしまう時代では、技も思考も、人間関係や地域との繋がり、そして個人の精神や人生も熟していきようがないのかもしれない。

修大の熟議プロジェクトは、そんな時代や世相へのアンチテーゼとして提唱されたと思いたい。今回、課題提供者の一人として参加した際、私自身が一番心がけようと思ったのは、課題への興味関心を導くこと以上に、前述した『自らの思考を熟させてゆく』ためのきっかけを創ることだった。

今回は、私が居住している広島県安芸太田町が展開している、町づくりプロジェクト『森林セラピー・モニタリング』への参画を学生さんに課題として提供した。若い発想力をもっての斬新な町づくりプログラムへの提案も期待はしていたが、それ以上に「中山間地域・疎地域の現状」というものへの視線や思考を蓄積してもらいたかったのである。

先人の技や思いの結晶であり、地域の文化や歴史といった『風土』を形成してきた自然資源の結晶である『森』を活用し、都市住民との交流を軸とするソフトな経済還元効果を目的とした『森林セラピー・プロジェクト』。

そのプロジェクト推進の背景にある、中山間地域(安芸太田町)の現状に対する『学生さんの思考』をどのように『熟させて』ゆくことができるのだろうか、というのが私自身の課題でもあったように思う。

森林セラピーの実習体験

流離うインドの行者

コロナ禍と梅雨により、晴耕雨読の日々である。こんな時こそ『ここ十年の人生景観』を再点検するには丁度いい。十年前(二〇一〇年)には、インド、ペルー、ブータン、ネパール、中国にての『海外養生プログラム』を実践している。

その中でも、印象が最も深いものは、インドでのプログラムである。場所は、ヒンズー教聖地・バラナシであった。そもそもバラナシ(旧ベナレス)は、学生時代にニ週間ほど滞在し、いわゆる『沈没』してしまった土地でもある。

二十四時間、絶えず荼毘の炎が絶えないガンジス河畔に佇み、若造は『生と死』についてとめどない思索をしてしまい、メンタル的沈没状態に陥ったのであった。そんなほろ苦い記憶の土地・バラナシ。そのガンジス河畔で毎夜繰り広げられる『炎の祈り』。

その写真を撮影していたら、唐突にレンズに入り込んできた世捨人であるヨガの行者・・。

この行者の視線は、鋭利な刃物のような切れ味にて、当時五十歳の私の、心・身・魂を見事に切り裂いてくれていた。

『アンタ、死生観への思索はそれ以降深まっているのかい?』

二十一歳の時から五十歳までの約三十年間。私の『時の刻み方』は、ただただ慌ただしく、思索を掘りさげていく深度もさほど進んでいなかったであろう。その一方、ガンジス河畔での風景はほとんど変わっていない。

『時の刻み方』も極めて悠久的な深度を有している。はて、あの行者からの視線は、今はいずこを彷徨っているのだろうか・・。

ネパール震災復興・復旧支援活動

四年間、計六次にわたるネパール震災復興・復旧支援活動。

私にとっては第二の故郷とも言える、ヒマラヤの小国・ネパール。これまで三桁に近い渡航回数である。その第二の故郷を、二〇一五年四月突然の大地震が襲ったのである。世界最高峰エベレスト・ベースキャンプ付近を大きな雪崩が襲ったニュースは世界中に報じられた。

また、世界遺産である首都カトマンズの街中では、レンガ造りの家々や、貴重な歴史的建造物が次々と倒壊し、多くの人命も失われた。地震発生の約一週間前まで当地に滞在していた私は、緊急支援活動の為、日本にてすぐに募金の呼びかけや緊急支援医療品の調達をおこなった。

そして震災発生後からの一年間に実施した第一次から第二次支援活動では、医療品や食糧などの緊急支援物資を日本、もしくは現地にて調達し被災地へと届けていた。

当初から、次第に緊急時復旧支援から日常的生活復興支援へと、継続支援の主たるフィールド分野は移行していくという認識は持っていた。それは、私自身が体験した阪神淡路大震災時の教訓でもあった。

日々の日常的生活復興支援の中でも、多種の宗教が混在するネパール人にとっての心の支えとなる柱は、なんといっても『信仰心』であるとの認識は強く持っていた。その『心の安寧場所』は、各宗教の寺院群なのである。

その寺院群も震災にて大きな被害を受けていた。震災発生からニ年目に入り、第三次支援活動からは、『祈りの場・再興支援』へと、継続活動のウェイトを移し始めたのである。

昔からご縁のあった、カトマンズにあるチベット仏教寺院・プラハリゴンパへは数回にわたり、日本から自発的にご寄進頂いた方からの『支援金』をお渡し、本堂外の壁に描かれた仏画の修復に活用してもらった。

第六次支援(震災発生後四年目)の際には、この本堂内にてチベット学僧らにより、日本からのご寄進者への、『安寧祈祷』のプジャ(供養)が執り行われたのである。写真の一枚は、第六次活動の際に、ゴンパの執事長である活仏師へ支援金をお渡ししている場面である。そして私が見上げているのは復旧した壁絵である。

また、別の写真は、ネパールの知人らが現地にて活動していた、被災キャンプへの生活物資支給活動、さらには医療支援巡回キャンプにての治療(鍼灸)支援活動時のショットである。

遊動人間の先駆者たちとの出逢い。
~ペドロ・カスイ岐部編~

「グローバル時代における多様な文化・価値共生社会」構築に向けた先駆者たちの行動軌跡調査、と称して五十歳代からは江戸時代以前の先駆者群像を探査してきた。

ここで紹介するのは、日本人最初の「エルサレム巡礼者」ペドロ・カスイ岐部の足取りである。遠藤周作著の「王国への道」は、江戸時代初期にタイ国のアユタヤに渡った、山田長政と同時期にローマへと渡ったペドロ・カスイ岐部に関する物語である。

ペドロ・カスイ岐部は、一五八七年、豊後国(現在の大分県国東で、ロマーノ岐部とマリア波多(つまり両親共にキリシタン)のもとに誕生する。一六〇一年、 すなわち関ヶ原の合戦の翌年、一家は宣教師を頼って長崎へ移住し、岐部 (十三歳)の時に島原半島有馬にあるセミナリオ(小神学校)へ入学。六年間の過程を終え、卒業する。

一六一二年、 江戸幕府はキリシタン禁制を法制化。 一六一四年、 幕府はキリシタン宣教師を海外追放しはじめる。一六一四年、 二十七歳の岐部らは宣教師らと共に脱出船に乗り、マカオへ向けて出帆する。マカオにても司祭になる希望が打ち砕かれた岐部は、他の二人の若者(一人は小西行長の孫・小西マンショ)と、カトリックの総本山ローマへ行く決心をする。三人は船に乗りマラッカからインド西海岸のゴアへ上陸。

ここからは、岐部は他の二人と別れて、たった一人で陸路にてローマへ向かうことになる。インドを北上、ペルシヤの砂漠を横断し、聖地巡礼をするべく、エルサレムに立ち寄るのである。さらに、パレスチナから船で一六二〇年頃、ヴェネツィアへと渡り、陸路ローマへと到達するのである。

一六一四年から一六二〇年までの六年間を、長崎からマカオ、ゴア、ペルシャ、エルサレム、ヴェネチア、ローマの旅に費やすのである。その旅そのものの詳細は明らかではない。しかし、単独徒歩にてインドからアラビア砂漠を抜けイスラエルまで到達したことは間違いない事実であろう。

『日本のマルコポーロ』とも称せられる彼の旅路は、もっと注目されてしかるべきだろう。このような壮大な旅を経験した彼の末路は、さらに衝撃的なものである。ローマにて司祭の資格を取得し、喜望峰周りの海路にてキリシタン禁制下の日本に帰国後、彼は東北などにて潜伏しながら布教活動に邁進する。

しかし、最期は捕縛され、浅草待乳山聖天近くの明地で穴吊りにされる。そのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、一六三九年七月四日(旧暦六月四日)に腹を火で炙られ殺されている。五十二歳没。

う~む、と唸るしかない人生である。昨年、島原にて『天正の遣欧少年使節団』・千々石ミゲルの生涯を辿るプログラムの折に、ペドロ・カスイ岐部のことを再確認し、その足跡をリサーチした。また、同時代前後から明治時代くらいまでに「遣外使節」「旅芸人」「漂流民」「留学僧」「冒険者」などの、海を越えていった日本人の足跡を再び調査する作業を開始している。

大学時代から二十歳代半ば頃まで、同じような作業に没頭した時期があった。対象とした人物群は、明治から第二次世界大戦までの遊動者であった。四十歳代半ばには、明治後半に単身仏典原書を求めヒマラヤ越えした、河口慧海師(黄檗宗の僧侶)の足跡を辿る学術遠征隊にも参加した。

一昨年からは、島根県金城町(我が家から車で三十分)出身者で、河口慧海師と同時期にチベット潜入を計った、能見寛(浄土真宗大谷派の僧侶)の足跡の再リサーチも始めている。彼ら『旅の先達』らが旅路の中で、その眼差しを向けた様々な風景や事象の数々。そして眼差しを通して体得した『手ごたえ感』は、その後の人生カンバスの彩りをどのように豊かにしていったのであろうか。

その問いかけは、現代に生きる者への、「グローバル時代における多様な文化・価値共生社会」構築への有効な処方箋になり得ると思うのだが。

ペドロより約三百年も前には、イブン・バットゥータが、その行程の一部逆コースを陸路旅している。そして、マルコポーロの東方への旅は、イブン・バットゥータよりも約三十年ほど前のことである。ベネチアにてはマルコの生家を訪ねたこともある。

残念ながらイブン・バットゥータが生まれた、ジブラルタル海峡近くのタンジェは訪れたことはない。ただ、イスラム社会にての『タラブ・アル=イルム』と呼ばれる、『知識欲への旅衝動』については、しっかりと探査していきたいと思っている。

イギリスの『世界最悪の旅』などを著したドキュメンタリー作家・チェリーガラードは言う。

『探検とは、知的好奇心の、肉体的表現である。』

そうである。身体が『未知世界』との接触を欲するのである。 そして身体が感じたことを、言語化する前に無意識次元の記憶として、魂世界にしばし留めておくのである。

ペドロ・カスイ岐部の出身地・国東半島にある銅像

ドイツ・里山自然療法の最新事情調査

※次の文章は、とある雑誌への投稿文である。

里山・山岳地形を予防医学やリハビリに活用  清水正弘
~ドイツ人気質と日本的自然観~

ドイツは昔からゲーテやベートーベンなど芸術家や哲学、文学者を多く輩出してきた国。その伝統は医学分野でも顕著である。現在、予防医学やリハビリ分野において、自然環境を活用した「気候性地形療法」という分野にスポットライトがあたりはじめている。

その事情視察に先月(十月)現地視察に出掛けた。昨今、日本においても里山環境や登山という行為を活用した、自然治癒力向上や生活習慣病予防対策などの研究が進んできている。ドイツはその先進国であり、原子力発電政策や環境保全政策においても世界をリードしている。そこには、ドイツ人気質といってもいい文化的背景があるように感じる。

明治時代、医師でもあった森鴎外が、ドイツ語の「ナツール」という言葉を「自然(じねん)」と翻訳したことから、日本語の「自然(しぜん)」概念が誕生する。ドイツ人的気質では、自然を論理的に解釈していこうとする。ワンダーフォーゲルの語源はドイツ語で「若者に、野山を彷徨しながら哲学することを薦める運動であった」と聞く。

自然と対峙しながら自らの内面構築を図るのであろう。それに比して、日本人の自然に対する姿勢は、「自然(じねん)=自然と融け合い、一体化しながら共生する」という自然哲学がその背景にあるように思う。

気候性地形療法とは

ドイツアルプスは、ミュンヘンの南・オーストリアとの国境に展開する。その山麓にガルミッシュ・パルテンキルフェンという町がある。晩秋の暖かい日差しの中、気候療法士が同行指導するプログラムに参加した。指導者は、二十四歳の美形スポーツマンタイプ。気候療法士の資格を得るには、医療系もしくは運動系の国家資格を有しながら、特別講座の受講が義務づけられている。

ドイツ最高峰の山麓にあるアイブゼーという湖を一周するプログラムは、意外にも速歩に近い運動療法的コースであった。参加者の中には、医師の処方指導を受けてプログラムに参加した年配者夫婦やスイスの山岳ガイド協会の重鎮、そしてドイツのリハビリが専門の医者などがいた。

ドイツでは気候性地形療法を受診する人への保険の適応が考慮されている。ドイツではその他、クナイプ療法、温泉療法、音楽療法などなどの代替療法にも一部保険が適応になっているとも聞く。ドイツではこのように、自然環境を活用しながらの予防医学やリハビリへの展開が新たな取り組みとして注目されているのである。

ドイツのみならず欧州の多くの国が、独自の自然環境を活用しながら、医療・教育・地域再生などのプログラム推進に取り組んでいる。それは、人間の身体感覚を超越した、科学技術文明のさまざまな災禍からの再生や創生への模索の現れといっても過言ではない。

日本の里地・里山の今後について

歴史的に見ても、我が国では温泉湯治などの転地療法が盛んであった。温泉湯治場の多くは、奥山深い場所にあったが、アクセスの改善により現代では「里地・里山ゾーン」に含まれてきている。日本の「里地・里山ゾーン」は自然からの恵みを享受しながら生活を営む場であり、心身の機能や状態の養生の場でもあった。

それは、日本人の自然観や死生観、人生観の大きな背景にもなってきたのである。昨年名古屋で開催されたCOP10(生物多様性国際会議)以降は、日本語の「里山=SATOYAMA」が、その概念とともに国際語として普及するよう環境省が力を注いでいる。

自然環境下での活動(登山のみならず里山保全活動や地域再生)に関与する者の戒めの言葉としては、「ひと時の流行に左右されることなく、世紀を跨ぐ理念をもつ」ことではないだろうか。スカートをはいた女性の山姿に一喜一憂するのではなく、自然界からの「おおいなる声」というものに真摯に耳を傾けるべきではないだろうか。

我々の活動の中心である、中国山地は、永年の長きにわたり、「踏鞴(タタラ)製鉄」の文化が蓄積されてきた。一見、自然と対峙するかのようにも思えるこの製鉄技法からは、「人間と自然」との共生の在り方へのヒントを学ぶこともできる。意外にも処方箋は足元に点在しているのかもしれない。

中山間地域(庄原市)とのつきあい

ここ数年来、中国山地の自治体・広島県庄原市とのご縁をいただいている。年に十回前後の『里地里山・健康歩き講座』や、『ガイディング講座』などなどの講師として相互交流させていただいている。

そんな実践編については別途に本を作成する予定であるが、今回は、非常に印象深かった書籍出版についてである。庄原市の行政(文化財保護担当)には、とても郷土愛に溢れた職員さんがおられる。

その職員さんが中心となって、大きな潜在的資源である地域のオリジナリティ(日本神話の故郷)を一冊の書籍として出版されている。

幸運にも、私は二つのテーマにての原稿依頼をいただいた。下記は、そのうちの一つの原稿。それも冒頭部分のみであるが。この書籍(写真)は、とても意義のある出版である。地方自治体の役場が主体となって、後世に残す地域の資源を一冊の書籍(一般向け販売本)にまとめた稀有な事例であろう。

そんな職員さんの心意気に応えるように、冒頭には古事記研究の第一人者、三浦佑之氏も紀行文で解説されてもいる。出版は、平成二十八年度である。



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山の霊力を感じながら歩く 

 「水」・「土」・「石」・「樹」・「風」・「時」

比婆山山麓には四つの参拝ルートがあったと言われる。その一つ、備後東口からの参道において下斎所とされていたのが熊野神社である。私はこの神社境内に足を踏み入れる度、身体の周囲の空気が一変するのを感じるのである。

それをあえて言葉で表現すれば、「ツーンとするナニモノかが、頭頂部から体幹深くを突き抜けていく」、と同時に、「フワ~とするナニモノかに、身体と周縁の空気が包みこまれていく」といった、「浄められながら溶かされていく」ような感覚であろうか。

うららかな春先、木々の葉が揺らめく盛夏、寂寥感に包まれる晩秋、そして空気までが凍てつく冬。いずれの季節に訪れてもこの感覚は変わらなかった。科学的には数値化できない一個人の身体が記憶する感覚は、あくまで獏として空ろであやふやなものである。しかし、似たような身体の感覚記憶の蘇りを、私はこれまで国内外の各所にて体感したことがある。

それは、霊峰・白山の禅定道入口である神社境内の流水場や、空中都市と称せられるインカ帝国の遺跡・マチュピチュにある巨石の祭壇、さらには、神々の座と呼ばれる世界の屋根・ヒマラヤ山脈で迎える曙光時などにてである。

私は、それらに共通していることは、「山の界(聖)」と「里の界(俗)」を結ぶ「結界的時空間」ではないかと思うのである。それでは、代表的な比婆山の登山ルート沿いに、共通する「結界的時空間」を持つ土地と照らし合わせながら、「山の霊力場」としての比婆山の奥深い魅力を紹介していくことにしよう。

山岳辺境文化セミナー報告(by広島県山岳連盟)

山岳SCセミナー清水正弘講演会報告(理事長・国際部 豊田 和司)

二〇一〇年十月十日、第二十八回目となる山岳・SCセミナーは、健康ツーリズム研究所代表の清水正弘氏を講師にお招きし「山岳辺境というフィールドの魅力」と題して開催された。清水氏は、一九六〇年年兵庫県生まれ、健康と里山歩き、癒し旅のプロとして国内外での「山岳辺境・養生プログラム」を企画監修し同行もされている。

実は、当セミナーは、二十八年前に清水氏が前職であるアルパインツアーサービス広島支店長時代に、当時広島県山岳連盟の国際部長だった兼森氏と二人で企画し「山岳辺境文化セミナー」として立ち上げられたものである。

講演の冒頭、その経緯も話され「辺境」に対する思い入れの深さも語っていただいた。(二年前から、連盟の名称変更に伴い、セミナーの名称も変更されている)清水氏は世界中を旅行されており、豊富な映像を駆使してその貴重な経験を話していただいた。ジープでゴビ砂漠を走り、砂嵐に遭遇する場面と、飛行機で北極点に降下する場面を、視覚がなくなり、自我が消失する瞬間として、それを禅僧の悟りとの関連で話されたのが特に印象深かった。

私が当セミナーの企画担当に携わるようになったのは、二〇〇一年の椎名誠氏からであるが、毎回講師にお招きしているのは、「行動する思想家」とでも呼ぶべき方たちだ。清水正弘氏も、まさにその称号にふさわしい素晴らしい方であったと思っている。尚、今回の講演の模様は、YouTube で見ることができます。

(補足)

清水さんの YouTube チャンネル名は『トラベルセラピスト・清水正弘』で、このたびの講演会動画(『山岳辺境文化セミナー 講師:清水正弘』)は vol01 から~vol06 最終の六編があり、vol01~05 はいずれも二十分前後、vol06 最終は約 八 分の動画です。YouTubeで「トラベルセラピスト・清水正弘」を検索してみてください。また、清水正弘さんの Facebook 投稿にも YouTube動画のリンクが貼られています。

男五十代、イタリア一人旅


五十歳代半ばだったろうか。思い立ってイタリアへニ週間ほどリサーチ独り旅に出掛けた。ローマ、ベネチア、フィレンツェ、ミラノ、それぞれの下町を中心に巡った。私にとってのイタリアは、欧州各地にある定点観測地点の一つであり、大きな観測ゾーンである。

イタリアへのデビューは意外にも遅いのである。四十歳代に入ってから初めてかの地に足を運んでいる。今から振り返ると、その年齢でデビューして良かったと思っている。イタリアは、なかなか手強いのである。二十歳代や三十歳代の私であれば、到底太刀打ちできていなかっただろうとも思う。

地中海に、大きな盲腸のように、また、女性のブーツのように伸びるイタリアの国土。海に囲まれ、火山帯も有しているので、日本人にも親近感が湧きやすい。もちろん、歴史的遺産も多い。なぜイタリアを定点観測ゾーンとしているかは、少々複雑な理由からでもある。

それは、キリスト教的価値観の欧州(アメリカも含め)と、他の価値観(東洋諸国、イスラム諸国、北アフリカ圏、ロシアを含めた旧東欧圏)との接着剤は、このイタリアとギリシャの古代史を読み解くことにあるのでは、と感じるからである。

ギリシャに端を発する現在の欧州文化のルーツは、ローマ時代にその繁栄を極める。しかし、その古典的価値観は、意外にもイスラム圏からの回顧運動によって再発掘されているのである。北アフリカを含み、地中海においてその覇権をほしいままにした、古代のイタリア海洋国家群。

中世の混乱や、ナポレオンの時代などを経て、イタリアが統一国家になるのは一八六一年と、欧州の中では意外なことに遅いのである。一八六一年・・・。この七年後の一八六八年、日本では『明治維新』とされている。

近代日本の統一国家の始まりと同じ時期に、イタリアも統一国家となるのである。そして、第一次大戦では局部的中立を維持し、第二次世界大戦では、日本と同じくドイツと組むのである。戦後の経済的発展は、日本のスピードには追い付かないが、敗戦国にも関わらずG7のメンバーには入っているのである。

すなわち、東洋の端っこの日本とは、同じような時代背景を過ごしながら、ローマをはじめ、諸都市が独自の文化を維持し、さらには、バチカンという大きな『勾玉』をも内蔵しているのである。

初めてイタリアを訪れた際には、その奥底の見えない深さにたじろいたものである。何を見、どう感じ、そして、身体のどこにそれを収めたらいいのか・・。戸惑いながら、フィレンチェやベネチアの町を流離っていた。四十歳代でもこれだから、二十歳代、三十歳代ではキャパオーバーだったろう。ガイドブック通り歩くしかなかったかもしれない。

数度のイタリア通いくらいでは、なかなかこの『手強い対手』には太刀打ちできはしない。まだ未踏地帯である、イタリア南部や島嶼部、この辺りを近年中に、エスノグラフィックなフィールドワークで攻めてみたいと思っている。

※ 写真は、ベネチアの下町にて出逢ったギター弾き。

ホリスティック医学との出会い

日本ホリスティック医学協会との関わりは、ひょんなことから始まった。二十世紀末に『鍼灸師』の資格を取得し、本格的に『トラベルセラピー・養生プログラム』を研究・実践する為に、さまざまな文献を読み漁っていた。

その際に、偶然出会ったのが帯津良一先生の著作であった。その帯津良一先生が会長をされていた『日本ホリスティック医学協会』広島支部にメンバー入りし、一昨年遠隔地介護の為に辞任するまで約十年間、広島事務局長を務めた。

事務局長時代には、さまざまな分野から講師をお招きし、一年に数度のセミナーを開催した。医療分野のみならず、宗教界、教育界、ヒーラーや能楽師などなど多彩な講師陣から刺激を受けてきた。私自身も講師役として、海外での養生プログラムの現状や可能性などについてや、日本の古代における自然観と死生観などについてお話ししてきた。

そんな中でも、やはり印象に深いのは、二〇一二年七月に広島県医師会館にて開催した、帯津先生の講演会である。さすがに著名な方とあって、参加者は二〇〇名弱の大盛況であった。講演終了後、ほんの少しではあるが、先生とスタッフだけでの懇親会のような時間を設けることができた。

先生は、ほんとうに穏やかな方でユーモアのセンスにも長けていた。ビールを片手に、少々赤ら顔を見せながら、陽気にお喋りや記念撮影に応じていただいた。まさに、生き方そのものが『ホリスティック的』であるな~、と感じ入ったものである。

このホリスティック医学との関わりは、それまでにも関心のあった、自然を活用した代替療法やトランスパーソナル心理学、インテグラル理論、神秘主義思想などへのアプローチをさらに太くしていくのである。

中国の絶景巡り、貴州省・万峰林

中国は広大な国土であることは言うまでもない。これまで、チベット自治区、新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区など多くの辺境地の絶景に触れてきた。残念なことに、ここ二十年の急速な経済成長とともに、それらの絶景の数々は姿を消したり、人工の手が加わり悲惨な状況となってしまっている。

昔からの知人(台湾生まれの大陸中国育ち)がいる。彼は、中国の少数民族文化を研究しており、自ら現地に赴き、貴重な映像資料を数多く集積してきた。その彼から、

『ここは今のうちに行っといた方がいいよ』

とサジェッションされた一つに、貴州省の万峰林があった。

文化大革命という激変時に、中国各地を潜伏逃亡した『破天荒な』人生経験のある彼の助言には、即座に従ったのである。二〇一八年二月、縁あって貴州省と雲南省の少数民族文化探訪プログラムを彼とともにコーディネーターとして訪れた。

その際に、ここ万峰林にも足を伸ばしたのだ。万峰林は、中国貴州省のカルスト地形の絶景である。三畳紀の石灰岩からなる峰々が無数に林立する景観である。平野部はカルスト台地が地構状に落ち込んだ地域であり、斜交するような断層もみられる。成因は不明だそうだが.典型的な皿状ドリーネが各所に分布し、同心円状に水田が広がりを見せている。

二年前でさえ観光地化への転換は急速に進んできていた。果たして、いつまでこのような穏やかな景観を維持してくれるものやら・・・。皮肉にも、中国の環境汚染被害は、コロナ蔓延期間内は減少していた。自然界にとっては、コロナは意外にも味方になっている。

たたら師(村下)・木原さんとの出会い

三十歳代後半に、島根県雲南町にて『蹈鞴(たたら)』の関連施設・菅谷山内に出逢ったことが、そのきっかけであった。

中国山地の各地には、砂鉄から鉄をつくる『蹈鞴(たたら)工法』の跡地などが多く点在している。三十歳代から四十歳代にかけては、その多くを自分の足で巡ってきた。五十歳代に入ると、その魅力を知人友人に伝えはじめ、一緒にかの地を再訪したりしていた。

そんな『たたら』との付き合いの中でも、村下(ムラゲ=職人頭)である木原さんとの出会いは強烈だった。木原さんとの出会いを寄稿したことがある。写真は、木原さんの後ろ姿である。

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その炎の揺らぎを仰ぎ見ながら、私は「鉄の道」に思いを馳せていた。数年前の年明け早々、奥出雲の船通山山麓は、まだまだ雪深かった。

ヤマタノオロチ伝説の発祥地ともいえる斐伊川の上流にある、「たたら製法」の現場。現代の村下(ムラゲ)・木原さんら技師集団の手によって、炉心から舞い上がる炎・・。炎と出逢う日の朝には、安来町の金屋子神社へも参詣してきた。ここは、鉄の技法(たたら)を伝えた金屋子神(カナヤゴノカミ)の神話の発祥地である。

木原さんたち技師集団は、火入れの前には、必ずこの神社へ参拝するという。このように、我が国における金属の中で、「鉄」ほど神話や伝説など、伝承された物語の素材や舞台となっているものはないだろう。

それだけ、「鉄」が日本の歴史みならず大陸との交流の歴史に大きな影響を与えたことが想像される。鉄器文明は人類が隕鉄を手にした時から始まったといわれている。隕鉄とは、星の爆発などで生じたもの。大気圏を突入する際にほとんどが消滅するといわれているが、その一部が地球に到達し、その破片を人類の誰かが偶然手に取り、その効用を発見した。

諸説あるようだが、紀元前一一八〇年頃トルコ東部のヒッタイト地方にて、人類初の製鉄技法が発明された。シルクロードを東へと向かうラクダや馬の鞍に乗せられ、長安の都、韓半島などを経ながら、山陰地方の沿岸にその「技法」が伝わってきたのだろう。

私たちの祖先は、その「技法」を日本の風土の中で昇華させてきた。それが「和鋼」の製法である「踏鞴(たたら)」である。海の外から運ばれきた技法を、日本の自然環境と調和させる技術に仕上げたのだ。

その技術の背景で活躍したのが、中国山地の砂鉄と広葉樹の森だった。全国の刀匠たちへ、日本刀の素材である「玉鋼」を供給できるのは、「たたら製法」の炎を継承している島根県横田町の工房だけであると聞く。

美術品としてではなく、日本人の心の佇まいを表象するともいわれる、「日本刀」の未来は、「たたら製法」の存続に委ねられている。私たちが「たたら」について考える、ということは、少し大げさではあるが、私たち日本人の「昨日までの歴史」と「明日からの歴史」、この双方を考える視座を養うということかもしれない。

「たたら」は産業としては衰退したが、歴史上にその時系列の縦軸を刻み続けているのである。

※木原さんは、この本を作成期間中(二〇二四年六月二十二日)八十八歳にてご逝去されている)

ロシアの大地にある盛り土

ようやく、その時期が二〇一七年七月に訪れたのである。

ロシアという国へは、すでに一九九〇年代初頭に沿海州(ウラジオストックやハバロフスク)に足を踏み入れていた。もちろん、ソ連時代崩壊すぐのことである。ので、現地では、元KGB幹部だった人間がカウンターパートナーだった。

さすがにKGB出身だったので、フィールドワークなどにも長けていたことを思い出す。極北の熱き男たちの宴にも参加したことが記憶に鮮明に残っている。中国もそうであるが、ロシアにおいても、この二十年間における変化スピードは、尋常(これまでの歴史的にみても)ではなかったと思う。

二十二の人々が、今回のパンデミックのみならず、一九九〇年から二〇二〇年における世界主要国の内情や国際情勢の変化などを振り返った際、必ずや『歴史の大きな転換点』だったと記述するだろう。

さて、ロシアの大地である。ロシアの文学や芸術には、昔から関心があった。特にトルストイにはなぜか惹かれるものを感じていた。それは、彼の文学作品の中に散りばめられた、珠玉の言葉群であった。

『悔恨がないのは、前進がないからである。』
『慈善は、それが犠牲である場合のみ、慈善である。』
『逆境が人格を作る。』
『もし善が原因をもっていたとしたら、それはもう善ではない。もしそれが結果を持てば、やはり善とは言えない。だから、善は因果の連鎖の枠外にあるのだ。』

などなど、トルストイの生い立ちや人生経験から紡いできた言葉の数々である。当時の各国の著名人が、彼の自宅を訪れている、日本からは徳富蘇峰などの知識人らである。そんな世界的に名の知れた文豪は、なんと八〇歳にて、妻との長年の不和を理由に家出(トルストイは大金持ちであった)するのである。そして、小さな鉄道駅舎内にて、肺炎をおこし、亡くなってしまうのである。

後世の人を唸らせる名言の数々を創作しながらも、自らの足元の『ぐらつき』を修正することはできなかった。なんとも『ロシア人』らしくて、大好きなのである。誰もが聖人君子に憧れるだろう。悩み多き時代であればこそ、『大きな善』や『清廉な導き』に期待をかけるだろう。

しかし悲しいかな、得てしてそれは『弧を恐れるばかりの、もたれあい』に留まってしまうことが多くみられる。トルストイは、なぜ八〇歳にもなってから『家出』をしたのであろうか・・。それが、私の彼に対しての最大の疑問であった。その疑問に対する答えを、やはりトルストイは用意してくれていた。

それは、彼の墓にあった。森の中に、ひっそりと墓標もなにもなく、ただ緑の苔むした『盛り土』があるのみ。そうか、彼は東洋的な『虚空の境地』に達しようとしていたのではないだろか。

トルストイの盛り土墓
トルストイの墓への道

コロナ禍での「時の刻み方」

コロナ禍の影響が如実にわかるショットでもある。馬籠~妻籠を結ぶ中山道の区間は、日本人のみならずインバウンド外国人の人気場所であった。この撮影時間は、馬籠宿の夕暮れ時である。この風情ある街並みの夕暮れ時、メイン街道筋にて人影がまばら・・・。

コロナ禍前では、あり得ない光景である。これから家々の灯が点灯し始めるこの黄昏時は、道から溢れんばかりのツーリストがウジャウジャしており、地元の子供が遊べる隙間は無かった。古い街道の宿場町の黄昏時、地元の子供たちの嬌声が響く光景は、ネパールのバンディプールという街で体感したことがある。

この街も、やはり峠越えする街道筋にある宿場町。ただ、舗装道路が谷筋に新たに設営されたことにより、時代に取り残されたような雰囲気が滲み出ているのである。そのゆっくりとした『時の刻み方』という、街の魅惑的な佇まいに魅了されて、意識が高い系のツーリストが中長期滞在するモデムチェンジが為されたのである。

この事例は、日本での地域活性化における注意喚起を呼び覚ますいい教材だと思っている。金太郎飴みたいな、どこを切っても同じような活性化プランを、都会のコンサル業者に提案され、それを鵜呑みにして行政が展開していく。

案の定、数年もたたないうちに地元のメディアも取り上げなくなってしまい、可視化できる(看板など)負の遺産ばかりが目立っていく。それ以上に、不可視の負の遺産(自主独立の独自性改革を放棄)していることにも気がつかなくなっている地方自治体の多さには、日本の将来に危機感すら覚えるほどである。

インバウンド需要が回復兆候すらない、今という時間の間に、これまでの、可視不可視の『負の遺産』を総点検し、新たな独自色とはどのように獲得されるのか、ということへの熟考が求められている。

五十歳代最後のモンゴル行

遥か垂涎の地・モンゴルへ。還暦前年(二〇一九年)五十九歳の秋に踏査訪問した。帰国後、地元新聞にそのレポートが掲載された。還暦前年のこの踏査は、まさに精神の『暦還り』となり、わが青春の原点回帰ができたのである。

地元紙に掲載された寄稿全文を次に記している。(※写真はそのオリジナル記事)

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今年秋、モンゴルのアルタイ山脈の山麓に古代の民が残した岩絵(ロックアート)についてニ週間にわたって調査した広島県安芸太田町の辺境の旅プロデューサー、清水正弘さん(五十九)から旅のリポートが届いた。写真とともに紹介する。

〇 モンゴル 東西交流史に思いはせる

モンゴルと聞けば、大草原を駆ける遊牧民の姿が浮かぶことだろう。確かに国土の大半は広大な草地や半砂漠だ。しかし、国の最西端部、ロシアやカザフスタン、中国との国境エリアには標高三千~四千メートル級の山脈がそびえ立つ。

この地域の遊牧民が「金の山」と呼ぶアルタイ山脈である。チンギスハンを始祖とするモンゴル帝国の騎馬隊も、この山脈を越え、中央アジアから、さらに旧東欧圏にまで、その足跡をしるしたのである。

私は今年九月、このアルタイ山脈で最高峰であるフィティン山(四三七四メートル)の山麓を中心に残されている岩絵や石を彫って人の姿をかたどった「人石」、シカなどの文様が彫り込まれた「鹿石」をニ週間にわたって踏査した。

〇 二〇一一年に世界遺産

モンゴルの首都ウランバートルから国内線で三時間半飛び、最西端の県、バヤンウルギーの空港に到着した。私はカザフ族の家に民泊しながら踏査の準備を整えた。アルタイ山脈は毎年六月には色とりどりの高山植物の宝庫となるが、短い夏が終わり、九月ともなると朝晩は肌を刺すような冷気が降りてくる。踏査の間はテント泊なので寒さへの対策が必須となる。

踏査した岩絵群の一部は二〇一一年に「モンゴル・アルタイ山脈の岩絵群」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された地域の中にある。世界遺産とはいうものの、そのエリアの面積は二一〇〇ヘクタール、東京ドームの四五〇個分にも及ぶ広大なもので、その中に約5千カ所もの小さな岩絵群が点在しているのだ。

踏査は初日から難渋した。三〇分も走れば舗装道は姿を消し、それ以降は単なるわだちが草地や石ころだらけの大地に刻まれているだけ。つまり、どこを走っても構わないのである。ドライバーは、いつ廃車になってもおかしくないような旧ソ連製の四輪駆動車を疾走させながら、

「これがモンゴリアン・ハイウエーだ」と言い放った。

車体の中で自分の体が絶えず乱高下し、車だけでなく、こちらの体からもきしみ音が聞こえてくるようだった。ただ、フロントガラス越しに時折見える、カザフ族の人々の乗馬姿や、羊、ヤギ、牛、ラクダなどが大群で移動する様子には、目も心もすっかり奪われてしまっていた。

〇 際立つシカ文様

標高二五〇〇メートル余り、フィティン山から流れ出る氷河の末端部にあるツァガーン・サラーの岩絵群に到着したのは日暮れ時だった。周囲は岩の山と石ころが転がる大地が広がり、黒と茶と灰色だけの世界だ。

その岩山の中に紀元前一万一千年前後から紀元後九世紀ごろまで、約一万ニ千年もの長い期間にわたって岩に刻まれ描かれた絵が点在していた。特に、紀元前一二〇〇年前後、この地域の青銅器時代に描かれたと推測される絵には、動物の文様や狩猟する人の姿、二輪の馬車のような車両などが刻み込まれている。シカの文様はほかの動物と比べても際立っている。

特に角の描き方にそれは表れていた。数多くのシカが描かれる中でとりわけ大きく描かれたシカの角の形は、カフカス山脈西北部で発掘された古代スキタイ時代(紀元前八世紀前後)の金製の盾に刻まれた装飾のシカととてもよく似ている。

スキタイは黒海北岸エリアに起源を持ち、世界でも最も古い騎馬遊牧民といわれる。彼らは西方のギリシャ文明とも交流を持ちながら、東方へ騎馬遊牧の文化を広げた。岩絵や騎馬遊牧の文化が広がっていくさまはユーラシア大陸の一万年を超える東西交流史の多彩さを物語っているのではないだろうか。

その夜、私は寝袋の中で、縦横無尽にユーラシアを遊動する人々の夢を見ていたに違いない。

清水正弘(しみず・まさひろ)

一九六〇年、兵庫県姫路市生まれ。「健康」「山歩き」「旅」のプロとして国内外での健康山歩き講座を企画・同行しているほか、紀行作家として旅エッセーやガイド本なども発表している。
二十歳の時、ダライ・ラマ十四世に出会ったことが世界の山岳辺境・秘境地域への情熱の源泉で、これまでにエベレスト遠征やタクラマカン砂漠踏査などに参加した。

※掲載紙(中国新聞社)からは転載の許諾を受けている。

時の刻み方

2024年6月21日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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