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幕末から明治初期にかけて、宗教界にて一番近代化に成功したといえるのが、浄土真宗本願寺派ではないだろうか。このフィールドワークの根底には、その近代化の基盤を支えた長州三傑僧(島地黙雷・大洲鉄然・赤松連城)への深堀り調査がある。
深堀りしていくと、どうしても彼ら三傑僧へ多大な影響を与えた人物群らへのリサーチが必須となってくる。その人物群の一人が、原口針水師なのである。師は、後年になって大谷光瑞(内陸アジアへの求道探検隊を組織した)の帝王学を指導したことでも知られている。
すなわち、三傑僧のみならず、その次の世代の大谷光瑞師らにも原口師は影響を与えているのである。後年には龍谷大学の学長にも就任している。特に、原口師の特出すべき点は、文久三年(一八六三)に彼は長崎にてキリスト教の教義を学んでいることにある。
それは、本願寺本部からの指令であった。当時長崎に駐留していたウイリアムズとフルベッキという二人の宣教師のもとに派遣されるのである。これは、いわゆる『敵情視察』なのである。江戸末期の攘夷や開国などで動乱する社会事情のもと、本願寺本部は開国した後のキリスト教浸透への対応策を予め考えていたのである。
その為には、敵のことをよく知っておかねばならないということで、原口師が派遣されるのである。この辺りにも浄土真宗(この場合は西本願寺派)の、柔軟さを伴う先見の明があったと言わざるを得ない。
二人の宣教師からキリスト教(プロテスタント)の教義や、信徒との関係性などを学んだ原口師は、キリスト教の浸透を脅威と捉えるとともに、それに対する真宗側の対応策なども熟慮していくのである。
そして、真宗内にて反キリスト教の論理学=破邪学を確立させていくのである。若き頃に、原口師の私塾にて数年間滞在学習した経験のある島地黙雷は、本願寺本部内にて、原口師から対キリスト教への思索を伝授されていくのである。
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※ 若き頃の島地黙雷が学習した、原口師の私塾・累世黌(るいせいこう)は、熊本県山鹿市にある原口師の寺坊・光照寺の境内にあったといわれている。現在は、その建物の痕跡はなく、樹木が生い茂っているのみである。
ただ、原口師が所蔵していた書籍などが収められている蔵が残っている。事前にご連絡し、坊守さん(現在のご住職の御母堂)に蔵の内部を見せていただいた。とてつもない量の江戸時代から明治時代の文献書籍などが積まれている。おそらくや、島地黙雷も若き頃にこの文献書籍などを学習の折に見ていたのであろう。
福岡県博多にある『万行寺』から
近世から近代にかけての浄土真宗の人的歴史軸を明らかにする為の考察である。万行寺の始まりは、享禄二年(一五二九年)に本願寺第八世蓮如の命により、性空(七里隼人)が開基となり普賢堂町に草庵を結んだ事にある。
その後、現在の祇園町に移り、往時には筑州における真宗の触頭(筆頭寺)となり、傘下に数多くの末寺を抱えていた。博多駅から徒歩十分圏内にあり、周りは高層ビル街である。その中に広大な敷地を有する名刹である。
この敷地内に、曇龍などが開いた学習校があり、優秀な真宗僧侶を輩出していくのである。江戸時代後期以降における、万行寺を巡る僧侶相関は下記のようになる。三業惑乱の大瀛和上と、長州三傑僧の一人・島地黙雷が繋がっていくのがわかる。
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大瀛和上 芸州出身(三業惑乱)
↓
(弟子)
↓
曇龍 ・ 芸州出身(万行寺入寺)
↓
(弟子)
↓
原口針水 ・熊本県山鹿市出身
(万行寺にて学ぶ)
↓
(弟子)
↓
島地黙雷 ・山口県徳地出身
※ 曇龍没後には、原口針水は郷里の熊本県山鹿市に戻り、自坊にて学習校を開く。そこに、若き青年僧・島地黙雷が数年間滞在するのである。後に、原口針水は大谷光瑞への帝王学の指導者にもなる。曇龍没後、一時期廃れていた万行寺に入寺したのが、七里恒順(新潟県出身)。七里恒順は島地黙雷とほぼ同時代の人。明治十三年から二年間ほど、本願寺の僧侶トップである勧学を務めている。
原口針水、七里恒順、そして島地黙雷をはじめ長州三傑僧らが、大谷光瑞の諸学の指導役になっていくのである。すなわち、彼らの体験から紡ぎ出された思想が、大谷光瑞師に大きく影響を与えていくのである。
また、広く日本仏教の在り方を問い直す刷新活動の基盤を、明治二十年代までに構築していくのである。その基盤の上に、明治三十年代の求道僧の行動が上塗りされていくのである。
※この文章は二〇二三年十月三十日記述文からである。
昨日は、広島県呉市広の長浜という地区にある浄土真宗寺院へ。この寺院にて一八二四年に生誕した、幕末期の勤王僧(後には還俗し神社宮司や禰宜にもなる)宇都宮黙霖の胸像除幕式に出席した。
来年の生誕二〇〇年を前にしたプレイベントでもある。本人が聾唖者でもあったので、聾唖関係者や団体からも多く出席されていた。会場の寺院本堂には、長州の思想家・吉田松陰に宛てた書簡の複製や、本人よる七言絶句の詩文も展示されていた。
同時期に海防論を唱えた月性(長州三傑僧・大洲鉄然の師)や北畠道龍もそうであるが、幕末期の浄土真宗僧侶(他宗派の僧もいるが浄土真宗はずぬけて多い)は、どうして勤王思想を持ち苛烈な行動に走るのだろうか。
原始仏教や禅のようにより内省的にエネルギーを沈静化させていくのではなく、肉食妻帯により外向きエネルギーが放出されやすくなるのだろうか? 大谷光瑞に関するフィールドワークから、その一世代前の長州三傑僧・北畠道隆、さらにその前の原口針水・月性・宇都宮黙霖などへのリサーチを進めていくと、仏教他宗派とは異なる『現実との向き合い方』に改めて考えさせられる。


大谷光瑞と、その尊父・大谷光尊の時代と功績について
下記からも伺えるが、大谷光瑞の尊父・光尊氏は、明治維新の時には十八歳である。同年には神仏分離令は発布され、全国に廃仏毀釈の嵐が巻き上がっている。すなわち、大谷光尊(大谷光瑞の父)は、青春真っただ中の十八歳に仏教荒廃の現実を目の当たりにしている。
そして明治四年(二十二歳)で本願寺宗門となっている。その年には、本願寺三傑といわれた、島地黙雷と大洲鉄然はともに三十四歳。赤松連城は二十七歳であった。
新門主となった大谷光尊にとっては、この三傑は兄貴分的相談役であったのだろう。さらに、三傑は長州藩出身であり。明治新政府にも強力な人的ネットワークがあった。島地黙雷と大洲鉄然は、慶応二年(一八六六年)に、萩にて防長の僧侶の子弟に、学問と同時にフランス式の軍事訓練も学ばせている。
そんな兄貴分的相談役を揃えた執行部体制のもと、若干二十二歳の新門主・大谷光尊は、次々と浄土真宗組織内部を近代化していくのである。この宗派近代化が、明治三十年代の中央アジア(チベットを含む)への求道探検新時代の礎となるのである。
(論文・本願寺の系譜 by 藤島達朗) より抜粋
第二十一代宗主 明如上人(大谷光尊)
嘉永三~明治三十六年(一八五〇-一九〇三)五十四歳
童名:峩。諱:光尊。諡号:信知院。
■ 家族
広如の第六子(五男)。母は岡田栄柄の女為子(蓮界院寿照)。妻は如尊(心光院)。子には鏡如上人(大谷光瑞)、大谷光明(浄如)、大谷尊由、九条武子らがいる。
■ 経歴 ─近代教団の基盤確立─
誕生・新々門跡 嘉永三 年(一八五〇)二月四日、本山永春館で誕生した。徳如新門(広如上人の猶子)の入寺後三年である。安政四年(一八五七)徳如新門の養子となって嫡子として継嗣と定められ、九条尚忠の猶子となった。
安政七年(一八六〇)得度、新々門跡と称した。即日、法眼・大僧都、文久三年(一八六三)大僧正に任じられた。明治元年(一八六八)徳如新門が四十三歳で示寂して新門跡となった。
明治四年(一八七一)に広如上人が示寂し、満中陰ののち二十二歳で継職した。政教分離、明治政府の廃仏毀釈・政祭一致の宗教政策に対し、政教分離を推し進めた。政府は各省の上位に神祇省を置き、仏教は民部省の所属となったが、島地黙雷・大洲鉄然は寺院統轄官庁の設置を建議し、寺院寮が設置された。
明治四年(一八七一)京都府による宗名「一向宗」の通達があり、東本願寺・仏光寺・専修寺・興正寺代表と宗名問題を協議した。
明治五年(一八七二)真宗の公称許可を受け、一宗一管長制のもと、専修寺堯煕が真宗管長になった。同年教部省が設置された。
明治七年(一八七四)太陽暦を採用した初めての御正忌報恩講が行われた。
明治八年(一八七五)大教院が解散し、明治九年(一八七六)興正派が独立した。
明治十年(一八七七)真宗五派に管長が置かれ、明如上人が本願寺派管長となった。
(諸制度の整備)
〇 明治五年(一八七二)梅上沢融・島地黙雷を欧州視察、赤松連城らを英独へ留学させた。
〇 明治九年(一八七六)学制改革を発し、本山に大教校を地方に小学校を設立することとした。
〇 明治十三年(一八八〇)寺法を制定、翌十四年宗会を開設するなどして、教団諸制度の近代化を進めた。
〇 明治十四年(一八八一)西本願寺派を本願寺派と改称した《明教新誌》。
〇 明治十九年(一八八六)護持会を設置して教学資金を充実させ、明治三三年(一九〇〇)大日本仏教慈善会財団を興し社会救済事業にあたった《明如伝・内事旧記・宗会百年史・本山録事》。
〇 明治二三年(一八九〇)本山月報、明治三〇年(一八九七)教海一瀾が創刊されている。
〇 宗門教育にも尽力し、北海道・鹿児島・沖縄やハワイ・北米開教を推進した。
(文化面)
明如上人は有栖川熾仁親王、村山払根、高崎御歌所長に和歌を習い、多数詠んだことで知られ、その和歌は鏡如上人が明如上人七回忌にあたって大口和歌所寄人に嘱して二万余首から選んだ『六華集』二 巻に収められている。なお、明治四年(一八七一)本山書院で日本最初の博覧会が開催されている《京都博覧会史略》。
(示寂) 明治三六年(一九〇三)一月十八日、五十四歳で示寂した。葬儀は、一月二十四日にカルカッタにいた鏡如上人(大谷光瑞)より指示があり、三月十六日鏡如上人が納骨した。
近代日本とインドを結んだ人々・北畠道龍(元・豪傑浄土真宗学僧)
(一八二〇-一九〇七・文政三年九月十六日和歌山県生まれ)
明治十八年(一八八五)、当時のとある新聞が「現今日本十傑」という番付を発表している。その番付では、政治家は伊藤博文、著述家は福沢諭吉、そして教法家は北畠道龍が一位となっている。※ 教法家とは現在で言う、思想家・聖賢者であろう。
今の時代に、この人物の名前を知っている人は少ないだろう。かくいう私も最近になってその存在に触れている。ただ、調べれば調べるほど、豪放磊落な彼の人生には、もっとスポットライトが当たってもいいのではないかと強く思うのである。
まず彼は浄土真宗本願寺派の僧侶であった。にもかからわず、第二次長州征伐の戦闘にては、一隊を率いて奇兵隊をけちらかす大活躍を演じている。和歌山藩の内政にも関与し、維新前後に津田出(いずる)と協力し、藩の兵制を洋式に近代化改革している。(※津田出については司馬遼太郎さんも高く評価している)
その兵制改革においては、日本体育共和軍隊(義烈隊、遊撃隊)を設置し、当時の佐幕派藩では珍しい徴兵制へも関与していくのである。さらに本山である西本願寺内においては、『北畠騒動』と言われるある意味ハチャメチャな行動をとっている。
それは、当時の浄土真宗本願寺派の内部刷新を図るため、明治十二年、本願寺門主を東京に連れ去り、本願寺の東京移転と西本願寺派の大粛正を宣言したのである。当時の本願寺派は、島地黙雷など長州派閥にて実権が握られており、それに対して徳川御三家の和歌山藩出身である道龍が異議を唱えていたという構図である。
すなわち、幕末から維新にかけての権力争いの構図は、宗教界の内部においても同時進行していたのである。大混乱に陥った西本願寺派は、収束を図るために明治十四年、道龍に海外視察という名目での、一定期間の国外追放を指示したのである。
これに黙っていない道龍は、その視察への莫大な予算を要求している。その潤沢な資金を元手に、当時すでに六十二歳の道龍は随行員二人を連れて洋行に出る。ドイツ・オーストリア・イギリス・ノルウェー・ロシアなどを歴訪し各国要人とも会見している。
二年近くの欧州歴訪を終えた道龍は、明治十六(一八八三)年十一月インドのボンベイ(現・ムンバイ)に上陸した。その後、ベナレス(現・ヴァラナシ)を経てブッダガヤにて仏跡巡礼をしている。
帰国後も、仏教改革を推進したり、明治二十二年(一八八九)には精神学・歴史学等を専門とする北畠大学を設立しようとした。しかし、この計画は会計係の不正により、大きな負債を負い、計画は崩れてしまっている。晩年は宗門からも飼い殺しの末、僧籍剥奪にあっている。
ここまで一読されると、なんと破天荒な人生だと思われるだろう。人の生き様は、その人が生きた時代背景によって大きく影響される。幕末から明治中期というのは、様々な分野において『坂の上の雲』を、絶えず仰ぎながら人生を駆け抜けていった先達がいた。
※ 北畠道龍については、神坂次郎著の『天鼓鳴りやまず・北畠道龍の生涯』を薦める。
※ 北畠道龍のインド仏跡行を記した、『インド紀行』は、国会図書デジタル版にて閲覧できる。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816339
※ 明治時代の和歌山県人には、特出したキャラ人物が多い。その中でも南方熊楠は筆頭格。
※写真は、(本願寺の三傑)と言われた、左から大洲鉄然、島地黙雷、赤松連城。幕末から明治にかけて、周防の国は長州閥として中央政権中枢に人材の多くを送り込む。前述の三人は、その長州閥と強固な人的ネットワークを構築していたのである。これら明治新政府の中枢と密接につながる長州ネットワークがあればこそ、廃仏毀釈からの仏教界復興、ならびに本願寺教団内改革などを革新的に行えたのである。
この執行部の面々を背後に、大谷光瑞は『帝王学』を身に着けていくのである。そして、光尊・光瑞と二代にわたり、教団内における維新的改革を他宗派に先んじて着手していったのである。
高杉晋作が挙兵した『奇兵隊』については、誰もが知っている存在であろう。それまでの武士階級ではなく、町民や農民などを戦術訓練し、幕末の長州勢力を近代化(国民意識への序章)させた大元の組織ともいえるだろう。
その奇兵隊に『第二奇兵隊』と呼ばれる組織が別途存在したことは、ほとんど知られていない。高杉晋作が一八六三年に下関の功山寺にて挙兵した際には、どちらかと言えば長州藩でも西部地域に住む人々が中心である。
それに対して、同じ長州藩でも南東部(周防地域)に住む人々を中心として、奇兵隊に準ずる組織が立ち上がっている。当初は、真武隊と称し、やがて、南奇兵隊(長州の南東部ゆえに)と改称され、一八六五年には『第二奇兵隊』と格上げ?され、藩からも公的に認められている。
多い時には、三百人を超える兵士が在籍し、古代山城(神籠石・こうごいし)であった写真の石城山(いわきやま)山頂付近にあった神護寺がその本陣となっていた。幕府側の長州征討軍を撃破し、一気に倒幕へと流れを変えたといわれる『大島口(周防大島)の戦い』には、この石城山の本陣から第二奇兵隊が出撃しているのである。
そういう意味では、この第二奇兵隊の存在が、日本の歴史(倒幕から明治維新へ)の大きな転換点をつくったともいえるだろう。
大洲鉄然は、勤王僧・月性(げっしょう)から尊王攘夷思想を伝授され、若き血潮を滾らせてこの第二奇兵隊に参加し参謀幹部になっていくのである。大洲鉄然三十二歳のことである。この翌年(一八六六年)頃から、島地黙雷とともに真宗僧団内部の風紀刷新運動も始めている。
すなわち、師匠・月性からの尊王攘夷思想を受け継ぎ、奇兵隊という近代国民意識の端緒となる組織を経て、自ら属している浄土真宗という巨大組織の近代化を構想していくのである。江戸末期の浄土真宗は、幕府の寺請(てらうけ)制度の上に胡坐をかいた風通しの悪い組織構造であったという。
そこに、国民意識が芽生え、軍事戦略的思考ができた長州三傑僧が登場していくのである。彼らは、維新政府中枢部にいる、松下村塾や奇兵隊関係者とも昵懇の仲であった。その人的ネットワークを活用し、三傑僧は浄土真宗本願寺内部の大改革を推進していくのである。
それだけにとどまらず、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や、キリスト教浸透という日本仏教界にとっての大きな難問に対して、八面六臂の大活躍を果していくのである。長州三傑僧のネットワークを再整理していくと、下記のようになる。
(一)曇龍=原口針水=(弟子)= 島地黙雷
(二)廣瀬淡窓=月性=(弟子)= 大洲鉄然
(三)廣瀬淡窓=青邨=(弟子)= 赤松蓮城
大洲鉄然は九州に遊学してはいないが、他の二人(島地黙雷・赤松連城)は、それぞれ熊本県山鹿市、大分県日田市の私塾に遊学している。
幾度か他のページにても記述しているが、明治三十年代に盛んとなる内陸アジアへの求道探検僧(大谷光瑞・河口慧海・能海寛など)の活動源泉を紐解くには、ひと世代・ふた世代前(江戸後期から明治初頭)における、仏教界の動きから読み解くことが必要だと強く感じている。
自らを『清く狂う=(清狂)』と号した僧侶・月性について
長州三傑僧の一人、周防大島生まれの大洲鉄然が、多感な青年期に影響を受けた人物に、江戸末期の怪僧・月性(げっしょう)がいる。現在の山口県柳井市に生まれた浄土真宗僧侶・月性は、「明治維新の礎を築いた人である」とも言われている。
全国的には無名に近い僧侶(西郷隆盛と入水自殺を図り、自殺した僧・月照と勘違いされることも多い)ではあるが、その人生は怪異に富んだ一巻の物語でもある。月性は、僧侶であると同時に、詩人であり、教育者であり、思想家であり、文武両道の剣術家でもあった。
そして、一番の魅力は『放浪者』なのである。江戸時代末期頃に、日本全国を渡り歩いているのである。そして、各地の志士たちと交流し、尊王論、海防論、倒幕論を唱えた思想面での先覚者であった。
また、護国・護法・防邪(キリスト教を邪宗とする考え)の三位一体思想に基づく行動を起こしたとも言われている。彼の説く海防論とは、日本は四方を海に囲まれていることから、海からの防備をしなければならないという訴えである。
吉田松陰も月性の考えに感化されて最終的には倒幕論に傾注し、松下村塾の門下生たちが実際の行動を起こして行くことになるのである。この月性に感化され、大洲鉄然は僧侶でありながら『第二奇兵隊』に参同し、高杉晋作などとも行動をともにする。
さらに、その行動によって明治維新以降、新政府の要人(長州閥)、特に木戸孝允(桂小五郎)と懇意になっていくのである。すなわち、月性という人物は、大谷探検隊など明治三十年代に活躍する求道僧らの前駆的初動エンジン(長州三傑僧ら)を温めた人物といっていいだろう。
いやはや、紀州藩の浄土真宗の怪僧・北畠道龍といい、どうして本願寺派はこのような傑物僧群を輩出したのであろうか。内寂を求める禅宗系、山林修行の密教系などに比べて、肉食妻帯(にくじきさいたい)系の浄土真宗は俗事への接近が容易なのであろうか。
周防大島の覚法寺。ここは、三傑の一人・大洲鉄然(おおずてつねん)の生誕地である。
この寺院にては、坊守さん(住職の奥さん)に奥の間までご案内いただき、普通は見れないであろう貴重な資料・文献・書画などを見せていただいた。明治政府の重鎮(多くは長州藩出身者)よりの寄贈品なども多くあり、やはり仏教界のみならず政財界との太いパイプが感じられる。
また、非売品である『傑僧・大洲鉄然の生涯』という本までいただいたのである。三傑僧の一人・島地黙雷には伝記本が存在するが、大洲鉄然には市販されている伝記がない。
地元の郷土史家による編集本であるので、あまり知られていない幼少期のことなども詳しく記述されている内容である。この大洲鉄然が青年期に多大な影響を受けたのが、『月性(げっしょう)』という浄土真宗僧侶である。
山口県徳山市にある『徳応寺』は、赤松連城師の寺院である。坊守さんから詳しいお話を聞き取った。その中でも、与謝野鉄幹についてのお話しはユニークなものであった。ここでもまたご縁をいただき、非売品である「寺史」を頂戴することになる。その寺史の中には、赤松連城師の履歴をはじめ、その子孫の方々についても詳しく記述されている。
長州三傑僧の一人、赤松連城師は石川県の生まれである。十六歳の時に九州の日田にある私塾で学んでいる。そして、縁あって二十三才の時に、山口県徳山にある徳応寺に養子として入寺している。
という訳で三傑の内、赤松師だけが長州藩生まれではない。しかし、徳応寺に養子として入った文久三年(一八六三)は、長州征討が始まる前年である。安政七年(一八六〇)に、すでに熊本にて島地黙雷と会っていた連城師は、彼ら護国・護法・勤王僧らと行動を共にしていくのである。もしかすると、徳山に養子に来たのも、島地らの口添えなのかもしれない。
明治五年(一八七二) 三十二才より二年間は、本山の命により英国に留学し、西欧の宗教事情を始め広く文化一般を視察修学して帰国している。渡欧中の連城師の勉学は殊のほかめざましく、明治六年、英国より島地黙雷師が大洲鉄然師にあてた手紙には、次のような内容が記されている。
「赤松の進歩に驚愕す。 通弁 (通訳)もよくでき、書物(洋書)もよほどよく読む。頓て大翻訳家になるであろう」。
明治七年帰国後は、島地黙雷師と共に本願寺の双壁と称せられ、神仏分離、政教分離の運動をおこし、宗教の独立を守り、宗教界に貢献する所多く、また本願寺諸制度の近代化に尽力した。
明治八年、本願寺の学林改革によって普通科が開講されるに当ってその教授に推される。
明治十二年(一八七五)には寺院子弟教育のため、地方には「小教校」が、本願寺には「大教校」が開設せられ連城師は大教校(後の龍谷大学)の校長職につくのである。その後布教をすべく台湾に赴くが、病を得てやむなく帰国する。
そして滞在先の広島にて腸チフスにかかり、病状は回復せず徳応寺で七九歳の生涯を閉じるのである。
※一部、「寺史」よりの抜粋
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与謝野鉄幹について
赤松連城夫妻には二人の女子の子供しかいなかった。ので、長女の安子に養子を迎えるのである。この養子は、京都の与謝野家から迎えている。
この養子(徳応寺の第十六世)の弟が与謝野寛(鉄幹)である。この鉄幹は、若いころに京都で無職になっており、兄(十六世)の導きにて徳山に来たという。しかし、徳山でも素行品性が著しく良くなく、地元民からは大顰蹙モノであったそうな。
後に、文学者として大成し慶応大学教授にまであった鉄幹であるが、徳山での評判は著しく良くないままだというのである。どれだけ素行が悪かったのか、一度調べてみたいと思っている。
江戸後期の勤王僧で浄土真宗刷新活動家でもあった、長州藩出身の僧・月性(げっしょう)と、長州三傑僧の一人・赤松連城師が学んだ、大分県日田市にある私塾『咸宜園(かんぎえん)』である。
この咸宜園は、江戸後期以降明治三十年代まで継続した、庶民(商人階級出身)出自の人物による開塾なのである。天領であったことも有利(所属藩の藩主の意向はあまり影響しなかった)に働いたのか、日田の咸宜園は、江戸時代後期に生まれた商家出身の儒学者・廣瀬淡窓が創始している。
在籍した塾生は数千人となっており、日本最大規模の私塾(学校)である。塾の名前である「咸く宜し」(ことごとくよろし)という意味には、すでに門下生への平等対応とともに、一人ひとりの意思や個性を尊重する教育理念が込められている。
封建制が色濃かった江戸時代も、後期頃になると地方にてはこのような自由闊達な校風の私塾が出来てくるのである。さらに、驚くべきことは、在籍した塾生の数十%は、なんと僧侶階級者であったことだ。
宗派的には浄土真宗が筆頭格である。その中でも東本願寺系が一番在籍者が多いと記録されている。もちろん、西本願寺系の僧侶も多く在籍した。その多くは、芸州(広島)、加賀(富山)、長州(山口)といった真宗が盛んな土地からの遊学者たちである。その中に、月性(げっしょう)や赤松連城なども含まれてくるのである。
以前の記事にも記述しているが、月性は長州三傑僧の一人、大洲鉄然の師匠である。では、なぜ他藩からの僧侶階級者の在籍が多かったのだろう。咸宜園資料館のスタッフからは次のような話しを聞いた。
当時の学問の主体である儒学の派生系である『漢学』であった。すなわち、中国渡来の漢字表記の実学である。当時はまだ梵字などの仏典回帰運動はおきておらず、全て仏典記述は漢字表記である。仏典の基礎を漢字で学ぶ僧侶階級者は、『漢学』の基礎知識もあり、さらに向学意欲が盛んであったとのこと。
さらに浄土真宗は、肉食妻帯など他宗派より『現実俗世』への接近が顕著である。実学としての『漢学』を学ぶことは、真宗派僧侶にはより(教)の分野に役立つと考えていたのだろう。また僧侶は、武士や農民のように藩籍や土地に縛られることはなく、ある程度自由な移動も許可されていたらしい。これは、商人にも同じことが言えるという。
咸宜園在籍者の多くは、僧侶階級者、もしくは商人階級、そして医者や庄屋の子息などが主だった面々だったという。遠くは、東北の諸藩からも遊学に来ている。この咸宜園出身者の中からも、明治維新後に各分野にて活躍する人材が多く輩出されている。
大村益次郎(倒幕の立役者)
周防出身 天保14年(1843)入門
高野長英(蘭学者)
陸奥出身 文化12年(1829)頃入門
上野彦馬(写真術の先駆者)
肥前出身 嘉永6年(1853)入門
中島子玉(佐伯藩藩校教授)
豊後佐伯出身 文化13年(1816)入門
平野五岳(詩・書・画に優れた三絶僧)
豊後日田出身 文政2年(1819)入門
恒遠醒窓(私塾蔵春園・遠帆楼主宰)
豊前出身 文政2年(1819)入門
長三洲(奇兵隊参加・文部大丞(官僚)
豊後日田出身 弘化2年(1845)入門
清浦奎吾(第23代内閣総理大臣)
肥後出身 慶応元年(1865)入門
当時(江戸時代後期)の学びの体系は次のようなものであった。
(1)武士が学ぶ『藩校』
(2)藩主が主となり領地民への学習場『郷校』
(3)商人や医家などが経営する学習場『私塾』
(4)地域の農家などの学習場『寺子屋』
江戸時代後期になると、貨幣経済の発展とともに、武士階級よりも商人階級や儒者・医家などの知識階級が力を持ち始める。その階層者によって、全国に私塾が開かれていくのである。
ここ咸宜園は、その中でも日本最大級の塾生数を抱えていたのである。その校風は、自由平等精神が根ずいた、心身の修養と人徳を高めることを目的としている。若き時代の島地黙雷が遊学していた熊本県山鹿市の私塾・累世黌(るいせいこう)や咸宜園など、当時の僧侶階級者の向学心の旺盛さには、現代との大きな隔世感を覚えざるを得ない。
明治五年~十年までの期間、日本の仏教界においては「黙雷の時代」と称せられるほど、浄土真宗のみならず日本仏教界における巨大な存在であった島地黙雷。この人物の生誕地は、意外にも僻村であった。
山口県の名勝地である「高瀬峡」入り口から、車一台がようやく通過できる山道をすすむ。そして、まだこんな鄙びた山村風景があったのか思われる景観の中に、誕生寺である専照寺はあった。島地本人も『自伝略史』の中で次のように回想している。
『四方の村落皆半里あるいは一里許り隔て、往来峻険山渓に沿ひて僅かに兎路あるのみ』
島地黙雷の旧姓は「清水」である。現在の専照寺の標札名も「清水」であった。すなわち、現・住職もこの島地黙雷の血筋の方なのであろう。
黙雷には兄がおり、この専照寺はその兄(円諦)が黙雷時代には住職となっている。後に黙雷は二十歳代後半になり、この地から山裾を下った先、島地川の傍にある(島地)という村にある妙誓寺へ、二度目の養子住職となり入寺し、その姓も(島地)と改めるのである。
最初の養子縁組は、旧・堀村にあった妙蓮寺であったが、そこを出奔し熊本県山鹿市にあった、原口針水の私塾に数年間在籍するのである。大洲鉄然といい、赤松連城といい、後の時代に日本仏教界を刷新していく長州三傑僧は揃って、青年時代に故郷を出奔し他国にて修学しているのである。
養子先を十代後半で出奔し、黙雷が数年在籍した熊本県山鹿市にあった私塾・累世黌(るいせいこう)。この私塾での恩師・原口針水は、後に大谷光瑞の学事長(帝王学の最高師範)となっている。
原口針水は、長崎にてキリスト教を研究・勉学した時期があり、真宗教学きってのキリスト教精通者といわれている。この研究・勉学はいかに真宗がキリスト教に対抗できるかを模索する為のものであった。
いずれにしても、このような僻村出身者の島地黙雷は、激動の時代の波に乗って、長州の一真宗僧侶が京都本山の改革リーダーとなり、そして明治5年には欧州視察へも出かけてしまうのである。その帰路途上に、日本人として初となるエルサレム入りも果たしている。
(※ただ、エルサレム入りは、ペトロ岐部→日本名・ 岐部茂勝という江戸初期のカトリック司祭が日本人初ともされている)
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※ 原口針水については、別途レポートしている。
※ 専照寺の狭い境内には、島地黙雷の息子であり、インド留学中に客死してしまう「清水黙爾(もくじ)」の墓らしき石塔もある。この清水黙爾は、大谷探検隊の活動にも関与している。日本人で初めて釈迦生誕地へ入域した三人の僧侶の一人である。清水は、島地黙雷の次男として東京に生まれ、一八九四(明治二十七)年五月に、浄土真宗本願寺文学寮に入学し、一八九七(明治三〇)年四月文学寮高等科を卒業している。
その後、真宗本願寺よりインド遊学を命じられ、まずはカルカッタに滞在するのである。そして、明治三五年、大谷光瑞率いるインド探検隊に加わり、ルンビニなどを調査するのである。その後は、ベナレスで梵学(サンスクリット学)の研鑚に励むが、病に冒され当地で死去する。二八歳という若さであった。このベナレスでの梵学研究は、後に第二回チベット潜入前の求道僧・河口慧海に引き継がれていくのである。
山口県徳地島地にある『雨田草堂』。この草庵の完成は、明治三十四年(一九〇二)一月のことである。明治三四年には黙雷はすでに六四歳となっている。また、この前々年の明治三二年には、郷里の専照寺(黙雷生誕地)を継いだ実兄(円諦)が亡くなっている。
明治半ばには日本仏教界の重鎮となっていた黙雷を誇りに思い、郷里(島地地区)の人々が記念堂の設立を検討していた。黙雷は明治二六年には、すでに本願寺の執行長になり翌年には、本願寺学階の最高位である勧学となっている。
これに対して、黙雷は記念堂建築は固辞し、簡素な草庵なら承諾できる旨手紙にて伝えている。これは黙雷にとり、郷里において二度の養子縁組を反故にした罪の意識があったのではないかとも言われている。
完成したのは、四畳半と三畳座敷に、台所と土間つきといった質素な『雨田草堂』である。雨田草堂の落成後に、黙雷は長男(前妻との間の息子・俊雄)とキリスト教入信後の三男・雷夢を伴ってきている。現在は、この草堂のある山裾と道路を挟んで温泉があり、そこの食堂が『黙雷亭』という名前である。
大谷光瑞のアジア広域探検に参加した、清水黙爾・島地大等・藤井宣正に関して。
大谷光瑞は、次のようにアジア広域探検について述べている。
「仏教東漸の経路を明らかにし、往昔支那の求法僧が印度に入りし遺跡を討ね、又中央亜細亜が夙に回教徒の手に落ちたる為に、仏教の蒙りし圧迫の状況を推究するが如き、仏教史上に於ける諸の疑団を解かんとするに在りき。 次に此地に遺存する経論、仏像、仏具等を蒐集し、以て仏教々義の討究及び考古学上の研鑽に資せんとし、若し能うべくんば地理学、地質学、及び気象学上の種々なる疑団をも併せ氷解せしめんと欲したり」
スウェーデンのスウェン・ヘディンやヨーロッパ列強各国の探検隊はひたすら未知の秘境なるがゆえの西域探険であった。けれど光瑞は仏教者として、真なる仏教の探究を目差している。すると最終はインドに行きつくことになる。
大谷光瑞は明治三十五年(一九〇二)にロンドンを発し、先ずロシアの首都ペテルブルグを発進基地とした。そこからは光瑞を隊長に本多恵隆、井上弘円がインドに向かい、途中で別れた堀賢雄、渡辺哲信はタリム盆地を調査した。
ここで注目すべきは、インドに到着する光瑞によって呼び集められたのが島地大等、清水黙爾、それにロンドンからは藤井宣正らの人間関係についてである。この三人に、光瑞に随伴した井上弘円を加えれば、四人は東京の島地家にあって兄弟のように慣れ親しんだ仲なのである。
インドにおいても、彼らがまた出会い、大きな目的のために力を合わせ身を挺して働いたのは単に偶然とはいえないだろう。島地大等は新潟県中頸城郡三交村の勝念寺に生まれた。姫宮がその姓であった。
京都の大学林において清水黙爾(島地黙雷の息子)と首席を争い、二人は肝胆相照らす仲となる。当時島地黙雷は盛岡市の願教寺に住しているが、息子でこれを継ぐ者がいない。清水黙爾は島地の旧姓(清水)として実家の寺を継ぐように指示されていた。
清水黙爾は、島地黙雷の出生した故郷の専照寺を継ぐように生家の清水家の養子としていたのである。黙雷の三男雷夢、四男威雄は僧侶にならないと表明していたのである。そのために次女の篤子に婿養子を迎え、願教寺住職を継がすことにしていたのである。
その婿養子として白羽の矢が島地大等に立てられたのだ。そのことについて大等は「逸事」に「明治三十四年五月六日、予は島地家の人となって、此の過ぐる七年間の我親友・清水黙爾との関係は、更に兄と呼び弟と呼ぶべき新たなる関係を作ったのである」と書いている。
さらに続けて、インドで大谷探検隊に参加する経緯を次のように述べている。
「兄(清水黙爾)が年来の宿志たる尼波羅梵典の捜索の為の入竺の事に就て、家厳(島地黙雷)が熱心に本山当局に向つて印度留学の辞令を送る様にと心配せられた事は非常なものであつた。当時僕は大学林高等科在学中で、京都に在つたからでもあり予て兄の宿志に就ては、文学寮在学当時より談り合つて居た事でもあるから、殆ど一書生としての凡てを尽して、本山の当局にも説き(中略)翌三十五年二月になつて、漸くにして名計りの印度留学を命ずると云ふ辞令が本願寺当局から送って来た(中略)。
兄が錦衣還郷の時迄は、握手する機会の無いものと一図に思って居た僕が、図んや同年の十月、宗主の印度聖蹟探険と云ふ盛挙に加はるべく、突然当時奉職中の高輪仏教学院を辞して、僕は印度へ渡航することになった。孟買(ムンバイ)へ上陸すると直ぐ知らせる、兄からも直に通信する、夫からは踏査地域が違う為めに会見の機会がなかつたが、十二月の初、仏陀伽耶の調査に従事して居る時であった、突然兄は伽耶のダックバンガローへやって来て、別後の渇情を慰め合った。が宗主の台命で、兄は逗留わづかに数時間にして辞し去つて北方ゴンダ地方へ住つた。此時予は兄が意外に肥つて居るのに驚いた、顔色は流石に熱帯の光線と風塵とご別人かと思わるる程に変つて居た」
清水黙爾は梵語研究のためベナレスの大学に留学していたが、大谷光瑞から指名されての探検隊参加であった。インドでは光瑞に随伴して中央アジアを越えてきた井上弘円と共に各地を探索。その様子については、藤井宣正の義弟の井上弘円が「逸事」に書いている。
「僕が兄(清水黙爾)と仏蹟探険の為め印度の藪やネポオル(ネパール)の森の中を徘徊して居つた際、或る晩色々の話の末サンスクリットの研究も随分面白いが、サンスクリットと現今印度の用語たるウルドウとは切て切れぬ関係があり、其ウルドウと亜剌比亜(アラビア)語とは兄弟の様なものであるから、サンスクリット研究の副業として亜剌比亜語を習得し、大に亜刺比亜文学を日本へ輸入しては如何と云ひしに、ウムやつて見ようと言われたが兄と僕の今生に於ける真面目な話の最後のものであつた」
かつて東京の島地家では悪童連で、総大将が藤井宣正。いわば黙雷の手塩に掛けて育てた若者たちである。その四人までが歴史的大事業でもある大谷探検隊に参加して、インドで仏跡探究にいそしんだわけだ。
宣正と弘円は信州飯山の自寺に、探険地から絵ハガキなどで通信している。島崎藤村はそれを見て宣正の存在を知り、彼をモデルに「椰子の葉蔭』という小説を書いた。その寺に興味を持ち小説『破戒』も書く。
宣正は、インド仏跡を探索した後、再びヨーロッパへと赴き仏国で客死している。その二カ月後には黙爾がベナレスにて死去するのである。享年二十八。清水黙爾の墓は、島地黙雷の実家である山口県の山間部にある小さな寺の境内にある。
清水黙爾(もくじ)・島地黙雷・島地大等・宮沢賢治
釈迦生誕地であるルンビニ(ネパール)への初期における日本人来訪者群像の中でも大きな役割を果たしたのが、大谷探検隊(浄土真宗本願寺派)である。その隊員の一人に、清水黙爾(しみずもくじ)一八七五~一九〇三という人物がいた。
この人物は、インドにて若死にしてしまっているので、後の仏教界における知名度はほんの僅かなものである。が、彼はなんと明治初期の仏教革新運動の中心人物である島地黙雷(しみずもくらい)の次男なのである。島地の旧姓は清水である。島地黙雷は、清水家から島地家へと婿養子となっている。
すなわち清水黙爾は父親の旧姓と名前の一文字を継いだのである。また彼は仏教の求道僧でもあるが、同時に深い文学性を併せ持った人物であった。彼の兄である、島地雷夢(彼も父の名前一文字を継いでいる)が編集をした紫風全集がある。紫風とは清水黙爾の(俳号)である。
ちなみに、編集をした兄の島地雷夢は、キリスト教徒に改宗している。このことに父親である島地黙雷は晩年相当に苦しんだと伝えられている。清水黙爾は、島地黙雷の次男として東京に生まれ、一八九四(明治二十七)年五月に、浄土真宗本願寺文学寮に入学し、一八九七(明治三十)年四月文学寮高等科を卒業している。
その後、真宗本願寺よりインド遊学を命じられ、まずはカルカッタに滞在するのである。そして、明治三十五年、大谷光瑞率いるインド探検隊に加わり、釈迦生誕地ルンビニなどを調査するのである。その後は、ベナレスで梵学(サンスクリット学)の研鑚に励むが、病に冒され当地で死去する。二十八歳という若さであった。
このベナレスでの梵学研究は、後に第二回チベット潜入前の求道僧・河口慧海に引き継がれていくのである。ここで、奇縁を感じざるを得ないのは、『文学性』というキーワードである。それは、宮沢賢治に繋がっていく奇縁なのである。そのことは、別途にレポートしている
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(島地家の人々)
※ 島地黙雷とは=島地黙雷(旧姓:清水、幼名:謙致(かねとも)は、一八三八(天保九年)ニ月十五日、周防国(現:山口県)佐波郡にある西本願寺派専照寺住職清水円随の四男として生まれた。一八六六年(慶応ニ年)に同郡島地村妙誓寺の住職となり、姓を島地と改めた。
黙雷は学問、識見、人徳ともにすぐれ、大洲鉄然(おおずてつねん)、赤松連城(あかまつれんじょう)とともに西本願寺における維新の三傑と称せられた。一八六八年(明治元年)、大洲、赤松らとともに本山諸制度の改革を西本願寺に対して建議、改正局を設けて末寺の子弟教育に力を注いだ。
さらに黙雷は、廃仏毀釈で大きく揺らぐ明治初期の仏教界を憂い、時の政府に政教分離と仏教信仰復興を働きかけるのである。これは、彼が長州人であったことも大きく影響している。時の政府要人の多くは長州人であった。
また、一八七二年(明治五年)、本山の派遣で仏教徒としてはじめてヨーロッパ各国を視察し、先進国における宗教事情を学んでいる。仏教は明治維新後、新政府により従来の封建的特権を奪われ、未曾有の危機にさらされていた。これに対して黙雷は仏教復興を目指して奔走、その地位を確立させることに尽力した。
一方、東京麹町に女子文芸学舎(現:千代田女学園)を開設するなど女子教育にも携わり、その活動は宗教だけにとどまらず、社会事業や女子教育など多方面にわたった。一八九二年(明治二十五年)、数え年五十六歳の時に盛岡市北山の願教寺第二十五世住職となり、一九〇五年(明治三十八年)に奥羽開教総監の役名で退隠した。盛岡に着任した黙雷は、一九〇八年(明治四十一年)に夏期仏教講習会を開催するなど仏教の布教に努めた。
※ 島地大等とは=島地大等(旧姓:姫宮、幼名:等)は、一八七五年(明治八年)十月八日、新潟県頸城(くびき)郡三郷(さんごう)村(現:新潟県上越市)西松之木の勝念寺の住職姫宮大圓、操子の次男として生まれた。
4年間の上京をへて、一八九三年(明治二十六年)に京都にある西本願寺の文学寮(現:龍谷大学)に入学した。島地大等は、一八九七年(明治三〇年)には大学林で、一八九九年(明治三十二年)には本願寺最高の学問所大学林高等科へと進学している。
大等は同宿の学生にもいつ寝ていつ起きているのかわからないほど学道に励んだ。そのため、大等の学才と謹厳なる様子に対し周囲は大いに嘱望し、一九〇二年(明治三十五年)一月には、明治仏教を牽引し盛岡で願教寺住職を務めていた島地黙雷に見込まれその法嗣(ほうし)となった。
のちには黙雷の跡を継いで願教寺住職となっている。同年十月にはインドや中国の仏教史蹟を調査、帰国後は比叡山及び高野山にて諸古蔵資料の研究に没頭した。また曹洞宗大学(現:駒澤大学)、日蓮宗大学(現:立正大学)、東洋大学などで教鞭をとり、一九二三年(大正十二年)からは東京帝国大学にてインド哲学を教えている。
一九〇八年(明治四十一年)からは義父黙雷とともに盛岡で願教寺夏季仏教講習会を開催した。この講習会には、宮澤賢治やのちの刑法学者小野清一郎らが出席している。
※ 島地雷夢とは=近代日本における仏教革新運動のリーダーで浄土真宗本願寺派僧侶として名高い島地黙雷の長男として生まれ、旧制第二高等学校(仙台市)学生時代に吉野作造、内ヶ崎作三郎らと女性宣教師アニー・S・ブゼルに導かれてキリスト教に入信した人物である。
宮沢賢治は、盛岡での学生時代に、島地大等の講話に多大な影響を受けていたといわれている。賢治がその講話を聞いた場所が、盛岡にある『願教寺』である。写真の紅葉の樹の下には、島地黙雷と島地大等の墓がある。島地大等は、大谷光瑞率いる西本願寺主導の、『中央アジア・インド探検隊』の一員としてインド、スリランカを探査している。
宮沢賢治は、島地大等著の『漢和妙法蓮華経訳』に影響を受けたと自ら述べている。その著作のみならず、大等のインドやスリランカでの仏教探査話にも大きな影響を受けたともいわれている。
宮沢賢治といえば、田中智学による国柱会への参加が知られているので、日蓮宗との関係が深いと思われている。
しかし、宮沢賢治の実家は熱心な浄土真宗門徒であった。その信徒である父親の家業が質屋であったことに大きな疑問を感じ、賢治は東京滞在中に日蓮宗へと信仰を深めていく。
インド留学途上に夭折した島地黙雷の息子・清水黙爾と、こちらも同じく無名のまま亡くなる宮沢賢治。二人とも信仰と文学に情熱をかけた明治の若者群像である。
大谷探検隊誕生への前駆段階(明治二十年代の浄土真宗とスリランカ、神智学協会の関係性)を考察する。
ここ数日来は、大谷探検隊と浄土真宗についての記事が連続しているが、本日は明治二十年代における浄土真宗の海外への視座についてである。大谷探検隊や河口慧海、能海寛などの大陸への仏教求道者群像は、明治三十年代にそのおおきな胎動を迎えている。
この胎動には前駆段階というのが存在する。また、その前兆がなければ、日本における大陸求道探検時代は訪れていないのである。その『時代のうねり』の波紋は、やはり浄土真宗がその起点石を水面に落とすことで広がっていく。そこを把握しなければ、大谷探検隊の全貌は俯瞰できないである。
当時の浄土真宗の法主は、大谷光瑞のご尊父・大谷光尊であった。この大谷光尊や島地黙雷など執行部の未来への慧眼が、後の大谷探検隊誕生の素地を繕うことになる。仏教経典原語である、パーリー語やサンスクリット(梵語)語の習得のために当時の浄土真宗本願寺が連携をとっていくのが、スリランカのダルマパーラやスマンガラ、そして神智学協会なのである。
下記は、龍谷大学学長・入澤崇氏の論文より抜粋している。
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浄土真宗の学僧で最初にスリランカに学んだのは仏光寺派の善連法彦(よしつら・ほうげん)であろう。一八八八(明治二十一)年二月,大谷派の織田得能とタイにいた善連は単身コロンボに赴く。
善連はそこでスリランカ仏教改革僧で神智学徒ダルマパーラと親交を結び,仏教文化学校(スマンガラ僧正が一八七三年に設立)でパーリ語を学ぶ 。善連とダルマパーラは 西本願寺普通教校に設立された反省会に度々書簡を送り,ふたりの書簡は機関誌『反省会雑誌』後の『中央公論』に掲載された。
善連の書簡が『反省会雑誌』に載っていた一八八八年の年末,『反省会雑誌』の編集員のひとり東温譲がスリランカに向けて旅立つ。反省会に集ったメンバーたちがインド・スリランカ ・チベットに大きな関心を寄せていたことは『反省会雑誌』 の記事から散見されるが ,反省会自身が仏教再生の理念を高く掲げていたこともあって ,とりわけスリランカの仏教復興運動とは密接に結びつくこととなる 。
反省会の主要メンバーのひとりが沢井(小林)洵、後の高楠順次郎であった。高楠は普通教校で海外宣教会のメンバーでもあり,宣教会の機関誌 『海外仏教事情』には ダルマパーラやオルコットの論説書簡が度々載った 。
高楠がロンドンへ留学する途中,コロンボでダルマパーラと会っていることも 『海外仏教事情』(第十集 )から知り得る 。一八八九(明治二十一)年二月九日,オルコットとダルマパーラが来日し,日本各地で講演活動をして日本仏教界に大きな刺激を与えた。
オルコットはスマンガラ僧正の親書を携えての来日であったが ,彼らが帰国するとき同行してスリランカに渡ったのは浄土真宗の僧侶ばかりであった 。
この年の五月十四日,ダルマパーラは本願寺派の徳沢智恵蔵を伴って帰国する。おくれて五月二十八日にオルコットが帰国するが,その際同行したのが川上貞信(本願寺派 ),朝倉了昌(大谷派),小泉了諦(誠照寺派)の三名である。
島地大等にスマンガラ僧正への紹介状を書いた川上貞信はこの時スリランカへ渡ってスマンガラ僧正の知遇を得ていたのである。ダルマパーラの書簡によれば,川上・小泉はスマンガラ僧正の学林でパーリ語を修め、東・徳沢はバツウォンダベについて梵語を学んでいたという(『海外仏教事情』第十集 )。
一八九〇(明治二十三)年六月九日に釈興然がスマンガラ僧正を戒師として日本人として初めて上座部仏教での受戒をするが,その周辺では同時期、浄土真宗の学僧が研究に励んでいたのである。
これまで日本の近代仏教とアジアの関係を見てきた上で、特に浄土真宗(東、西ともに)一門が果たした成果は特出している。
それは、明治維新時に困窮する新政府の財政への協力体制が、宗門の潤沢な資産を背景に他宗に比べて強力だったことも関係していた。戊辰戦争後、一時期新政府が京都にあった頃、あまりの資金難に新政府は本願寺へ献金を要請していたと司馬遼太郎さんも書いている。(※明治という国家)まあ、大谷法主などは妾を囲っていた(後に批判されるが)くらいなのでお金には困ってはいなかったのだろう。
島地黙雷や北畠道龍らの洋行留学、さらには三次にわたる大谷探検隊の遠征などへの資金援助は並大抵の事ではない。潤沢な資金をバックに、仏教刷新・復興の為に欧米やアジアとの繋がりに先鞭をつけたのも東西本願寺である。
国内の寺院数も飛びぬけて多いのである。明治期に来日したスリランカ僧・ダルマパーラ師も田中智学との会見時に浄土真宗と日蓮宗の寺院数差に触れている。※一九〇三年(明治三六年の会見当時約二万を数えた真宗の寺院数に対して、日蓮宗の寺院数は約五千ほどだったという)
しかし、やがてそのアジア諸地域との連携に、怪しい影が忍び寄ってくる。日清日露戦争を経て、日本のアジア植民地時代が始まると、真宗の大陸での活動にも変化が生じ始める。大陸各地に設置した「別院」と呼ばれるブランチを軸にした、新たな開教(布教ではない)活動である。
その活動は、真俗二諦(しんぞくにたい)と言う、ある意味ご都合主義的な見地から、日本の軍事植民地支配に力を貸していたと言う最近の研究もある。真俗二諦とは、信仰上の真理と生活上の真理は、分けて考えられるというもの。
すなわち、仏教的利他精神と大アジア主義的な植民地政策は矛盾しないと言う弁説である。その弁説に従っての開教活動は、宣撫工作(スパイ活動)への協力にまで至る事になってしまうのである。
朝鮮半島、満蒙地域、中国本土にての「開教」活動のほとんどが、残念ながら軍部への擦り寄りであったともいわれる。西本願寺の二十三世宗主・大谷光照(大谷光瑞の甥)は、将校の軍籍のままで従軍慰問をしている。
思想犯や植民地解放闘志らへの、監獄にての「歎異抄」を使いながらの「転向促し」も行われている。即ち、日本の植民地統治に恭順すべく、アジア人への思想改善のツールとして、仏教(特に真宗)が使われた一時期がある。
近代宗教史が専門の大谷栄一氏は、次のように分析している。
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日清戦争時からアジア・太平洋戦争に至るまで、伝統仏教教団は仏戒によって戦争を正当化し、戦地従軍慰問、戦病者・出征家族慰問・捕虜撫恤(ぶじゅつ)の軍事援護活動を行っていた。
二十世紀初頭において、「平和のための戦争」というイデオロギーを支持し、宗教界全体の協力体制の下、軍事援護活動に多くの仏教者と仏教教団は存在意義を見出していた。こうした仏教界の中で、非戦論を掲げることは困難を極めたのだろう。
※ 写真右が大谷光照。中国の南京にて。
大谷光瑞の人生と功績、そして時代背景を検証する作業は、必ずや混迷する現代社会への有効な処方箋の一つを生み出すに違いない。
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第二十二代浄土真宗本願寺宗主 鏡如上人
明治九~昭和二十三年(一八七六-一九四八)七十三歳没
童名:峻麿、諱:光瑞、諡:信英院
■ 家族
明如上人の長男。母は円明院藤子(明治四十四年〈一九一一〉没)。明治三十一年(一八九八)九条籌子(九条道隆の子、光顔院如性)と結婚した。
■ 経歴(一) ─本願寺の組織的強化─
誕生・海外視察
〇 明治九年(一八七六)十二月二十七日誕生。
〇 明治三十二年(一八九九)清国の視察に赴き、翌年からはインド仏跡巡拝ならびに欧州への外遊。
〇 明治三十五年(一九〇二)には大谷探検隊を組織し、自ら指揮を執って西域文化の重要な史跡を発掘して仏教関係資料を収集した。島地黙雷らを海外視察に派遣し、宗教・教育事情を学ばせている。
〇 明治三十六年(一九〇三)一月外遊中であったが、明如上人示寂の知らせを受けて、葬儀等の指示を出し、三月に帰国。二八歳で本願寺住職、本願寺派管長となった。五月に本山・大谷本廟で初めて伝灯奉告法要を行い、門徒の参詣を促した。継職後は、宗政刷新、学事興隆、人材養成などに尽くした。仏教婦人会と仏教青年会が設立され、法式と僧階が改められた。
〇 明治四四年(一九一一)宗祖六五〇回忌を二期に分けて勤修した。初めて全国から団体参拝を受け入れ、鉄道の「梅小路停車場」も建設された。法要総参拝者は百万人を超えたとされる。
(引退) 明治四十一〜四十四(一九〇八-〇九)にも探検隊を派遣し西域の調査を行わせた。それらの出費などから経済的問題が生じ、明治四四年(一九一一)大谷家の負債が明らかとなった。
その責を負って、大正三年(一九一四)五月十四日本願寺住職、本願寺派管長を引退した。
以後は上海や大連などを拠点に、アジア諸地域の産業の振興に尽力するとともに、仏教興隆のために人材育成や著述・出版活動に努めた。内閣参議、同顧問にも任ぜられた。
■ 経歴(二) ─研究調査・海外事業─
鏡如上人の研究調査や海外事業等については、時期・内容が多岐に渡る。
〇 二楽荘 明治四十年(一九〇七)から二楽荘を施工し、武庫中学並簡易科を設置、『二楽荘月報』、『仏教青年』(一九一三年刊)を発刊した。園芸試験場を併設した。大正元年(一九一二)橘瑞超は二楽荘より『諸訳浄土三部経』を刊行している。
〇 農事開発 シンガポール・ジャワ島・上海・トルコ・台湾などアジア諸地域の農事開発にも従事した。海外別邸には無憂園(上海)、浴日荘(大連)、大谷邸(旅順)耕雲山荘(セレベス島)、逍遙園(台湾高雄)がある。
〇 西域探検 明治三二年(一八九九)には清国を巡遊し、以後三年渡って第一次印度欧州巡遊に赴いた。それ以降、三次に渡って西域を探検している。明治三五年(一九〇二)ロンドンからの帰りに西域を探検し、翌年帰国した。西域に留まった二名(堀賢雄・渡辺哲信)は明治三七年(一九〇四)に帰国した。第二次は明治四一~四二(一九〇八-〇九)に行われ、橘瑞超・野村栄三郎が派遣された。第三次は明治四三~四四(一九一〇-一一)に橘瑞超を派遣していたが、さらに吉川小一郎が派遣され、大正三(一九一四)に帰国した。
西域探検の将来品は大谷コレクションと呼ばれ、仏典・古典籍・仏像・壁画・刺繍・染織・古銭、その他古美術品、ミイラに至るまで様々なものが収集されている。将来品は、『西域考古図譜』二 巻(一九一五年刊、六九〇余点)、新西域記』二巻(一九三七年、隊員の手記・日記・報告記録等)、『西域文化研究』六巻(一九六三年完結、龍谷大学西域文化研究会による組織的研究)等にまとめられている。
(巡遊) 明治三九年(一九〇六)南樺太、第二回清国、明治四二(一九〇九)に第二 回印度・欧州巡遊を行った。
【参考文献】
〇 広田四郎『法主大谷光瑞上人伝』(国晃館、1910)、
〇 『鏡如上人芳躅』(本派本願寺、1964)、
〇 『鏡如上人年譜』(本派本願寺、1954)、
〇 徳富蘇峰『大谷光瑞師の生涯』(大谷光瑞猊下記念会、)
〇 杉森久英『大谷光瑞』(中央公論社、1975)、
〇 岡西為人『大谷光瑞師著作総覧』(瑞文会、1964)、
〇 津本陽『大谷光瑞の生涯』(角川書店、1999)、
〇 廣瀬覚『大谷光瑞と現代日本』(文芸社、2001)、
〇 白須浄真『大谷光瑞と国際政治社会─チベット、探検隊、辛亥革命』(勉誠出版、2011)、
〇 柴田幹夫『大谷光瑞の研究─アジア広域における諸活動』(勉誠出版、2014)
大谷光瑞が派遣した 「大谷探検隊」の近代史における意義とは何かを問うことは、現代の仏教界の未来展望にとってもとても奥深いことであろう。
島根県邑南町にある浄土真宗寺院の僧侶でもあり、日本における大谷探検隊調査分析の第一人者である白須淨眞先生は、次のように述べている。
西欧の内陸探検の時代の内陸アジア。西洋世界には、「大航海時代」 と並ぶもう一つの探検の時代がありました。「内陸探検の時代」です。
それは、十九世紀後半から二十世紀前半のこと、北極と南極・アフリカ・アジアの内陸へと探検活動が集中した時代です。北極には大陸はなかったと分かったのもこの時代なのです。地図すらもない未知の世界 世界に残された最後の空白地帯とみなされたその内陸の一つが 「内陸アジア」でした。
ヘディン(瑞)、スタイン (英)、ペリオ (仏)、ルコックとグュンヴェーデル (独)、コズロフ (露)など数多くの西洋の探検家たちが競うように内陸アジアへと向かいました。当時の内陸アジアは、南下政策を取る露国と英領インドを拠点とする英国が相互に謀略を巡らす抗争の場となっていました。
しかしその内陸アジアには、ヒマラヤ山脈や天山山脈のような知られざる大自然とともに、東方の絹織物を遠くローマにまで届けたシルクロードやアレクサンドロス大王が形成したヘレニズム世界までも想起させる古代世界もありました。
政治的な思惑などまったくなかったとは言えないとしても、その内陸アジア探検活動によって将来された巨大な古代シルクロードの歴史遺産は、世界の学術水準を飛躍的に高めていくほどの画期的な成果をもたらし、 「敦煌学」や 「吐魯番学」 と呼ばれるような新たな研究学域までも拓いていったのです。
ところで、西洋世界のこの内陸アジア探検に、非西洋からの唯一参入したとみなされた東洋の探検隊がありました。それがここに語ろうとする日本の大谷光瑞(一八七六~一九四八) が派遣した「大谷探検隊」(以下、「大谷隊と」 略称します) がありました。
この探検隊も、西洋世界の「内陸探検の時代」の「内陸アジア探検」 と同じくシルクロード探検隊とみなされました。 私もそのように考えてきました。しかし今は、その活動域はシルクロードと重なりながらもはるかにそれを越え、その目的も決して同一とはみなせないことから、 「アジア広域調査活動」と呼ぶことにしています。
それは西洋を中心とする「内陸探検の時代」の「内陸アジア探検」と確かに重なりつつも、その認識だけに閉じ込められないという意味です。そう理解しなければ、 東洋日本の大谷光瑞が 「大谷隊」 を派遣した根源的なリビドー (精神的なエネルギー) がみえなくなってしまうのです。
仏教聖地ルンビニを目指した日本人群像(ある資料の整理から)
(※このリストは十九世紀末から二十世紀前半にかけてのリスト。氏名の中で〇部分は当用漢字にはない文字)
(1)1903年 2月25日~3月3日、(明治36年)日本人最初の参詣
大谷光瑞が組織した探検隊の隊員、清水黙爾、本多恵隆、
井上弘園はタライに入り、アラウラコット、チラウラコット、ルンミンディ(ルンピニ)に行き、仏蹟調査をした。
(2)1905年10月 (明治38年)
天台宗・大宮孝潤と成田山留学僧・池田照誓がカピラ城、ルンビニを巡る
(3)1909年10月 (明治42年)
河口慧海(チベット潜入僧)
(4)1910年4~5月 (明治43年)
青木文教(真宗本願寺派遣僧)
(5)1910年10月 (明治43年)
京都槇ノ尾山の僧・釈大真と妙興寺・松岡寛慶
(6)1912年 (明治45年)
曹洞宗・日置黙仙と来馬琢道
(7)1912年 (明治45年)
本願寺派・藤谷晃道
(8)1912年12月~1913年1月 (大正元年)
英国帰りの高楠順次郎、インド留学の増田慈良、渓道元がインド滞在中であった河口慧海の案内でルンビニへ
(9)1916年11月 (大正3年)
立正大学教授・岡教〇は、ミャンマー僧になってルンビニに3日滞在
(10)1921年2月 (大正10年)
臨済宗・〇精拙、高橋宗圓、奥大〇とルンビニへ
(11)1925年1月 (大正14年)
真宗僧、成瀬・原・織田の3名
(12)1926年(大正末年)
3月3日日本女性初・尼僧・村上妙精
(13)1927年(昭和2年)以降5年間の日本人ルンビニ訪問者
(現地記録を日本人が筆写したものから)
1927年1月24日or25日 女性1名含む総勢10名
(この中には暁烏敏なども含まれている。)
1928年神奈川の女学校校長・森下國松
1929年九州大学教授・干潟龍祥
1930年8月富山県選出政治家・高見之通
日印貿易商会を設立
そのほか、竹原義一(奈良)、
能見山黙耕、立花大甕(堺市)
(14)1931年2月17日 (昭和6年)
日本山妙法寺創始者・藤井日達
(15)1931年11月11月 (昭和6年)
生け花の教師・橋本眞機子
(チャンドラボースの妻の親戚筋)
藤井日達が案内し、カルカッタ在住の井本夫人と同行
(16)1932年2月19(昭和7年)
美術史家の尾高鮮之助
(17)1933年2月 (昭和8年)
ジャーナリスト・翁久充
(18)1933年秋 (昭和8年)
四高教授 江上秀雄
(19)1933年12月 (昭和8年)
インド文学者・平等通昭
(20)1934年1月 (昭和9年)
臨済宗・緒方宗博
(21)1934年1月 (昭和9年)
相国寺・河野寫寛
(22)1934年12月 (昭和9年)
法華宗・興津忠男、三木慈教
(23)1934年11月 (昭和9年)
松坂屋の元祖・伊藤次郎左衛門とカイラス詣でをした長谷川伝次郎とともに。
(24)1936年2月 (昭和11年)
長崎山田水産・山田吉太郎
別府老人ホーム創始者・矢野嶺雄
(25)1936年2月26(昭和11年)
京大教授・天沼俊一
(26)1936年夏 (昭和11年)
野生司香雪
(27)1937年5月 (昭和12年)
山本普道
(28)1937年12月16日 (昭和12年)
藤井日達、渡辺平吾、
中間スエ(福岡市)
石橋壽眞子(佐賀市)
(29)1938年1月 (昭和13年)
古義真言宗本願寺派(徳島)・吉岡智教
(30)1938年3月21(昭和13年)
高野山大学・山本智教
(31)1938年6月6(昭和13年)
東京渋谷区・西川浩
(注)前記一覧はあくまで記録に残っている人名である。戦時下になるとさすがにルンビニへの参拝などは困難となったのであろう。
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明治初期前後から第二次世界大戦戦中までに、ルンビニを目指した人(中には入域できなかった人もいる)で記録に残っているのは、七十五名。僧侶三十七,学者研究者十一,画家写真家三,ジャーナリスト二、軍人、政治家、会社員、柔道家、教員、生け花教師各一。その他一般人不明者十三。全体の内六名が女性。
日本人が最初にルンビニに入域したのは、明治三六年二月二十二日の事であった。明治三十六年とは一九〇三3年。浄土真宗本願寺派が派遣した『大谷探検隊』の三人の青年僧である。
大谷探検隊の3人とは、井上弘円・清水黙爾・本田恵隆である。インドのゴラクプール駅を出発。ネパール領内の悪路に悩みつつ、牛車や馬を雇いタライ州ルンビニに到着した。
このアショカ王石柱は、彼らが訪れた明治三六年の七年前、一八九六年にドイツ人によって発見されたばかりであった。(※写真)アショカ王の石柱が発掘された事によって、この地が釈迦生誕地である可能性が現実化したのである。
清水黙爾は、日記に「三人がおそらく日本人最初。親しく聖地に立てることのなんと幸福な身の上でありましょうか」と記述している。
石柱碑面の文字を拓本に取ろうとしたが許されず、三人は夜陰に紛れて釣鐘墨(水を使わないで拓本をとるために使う墨)を使いかろうじて写したという。この石柱は建立後落雷により上部が中折れしている。上部には現在のインドの国旗にも表現されている獅子像があったといわれている。
アショーカ王という王に、日本人で最初に注目をしたのが大谷探検隊なのである。隊長は西本願寺の第22世法主である大谷光瑞。そして隊を構成するのは、龍谷大学が文学寮と呼ばれていた時にそこで学んでいた者たちや、教授として活躍していた者たちであった。
一九〇二年、ロンドンにてそのメンバーが集結し、そこからシルクロードそしてインドを目指した。仏教のインドから日本への足跡を追うという、非常に当時としては大がかりな調査であった。
調査の目的の一つとして、アショーカ王の事跡を探るということがあったので、シャーキャムニ・ブッダが生まれた場所・ルンビニーへも調査に入っている。
ルンビニへは隊の若者数名が入り、一八九六年に見つかったばかりのアショーカ王の記念の柱を調査した。その際に撮影された写真が意外な場面に流用されている。流用した人物は、明治の文豪・森鴎外である。
森鴎外は医者であると同時に文学者であるが、もう一つの顔が仏教学者であったことはほとんど知られていない。彼はドイツの留学を終えて日本に帰る途中に、スリランカに立ち寄ってスリランカの仏教遺跡を巡っている。
そして、日本で最初にアショーカ王に関する本を出したのはこの森鴎外なのである。密教学者の大村西崖と共著という形で『阿育王(アショカ王)事績』という本を出版している。その『阿育王事績』という書物の中で、アショーカ王柱の写真が出ているが、その写真は大谷探検隊がルンビニにて撮影したものなのである。
※写真は二〇一八年に撮影した、ルンビニ苑にあるアショカ王の石柱
※森鴎外著の『阿育王(アショカ王)事績』は、国会図書館デジタルで閲覧できる。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816197
明治三十〜四十年代に、浄土真宗本願寺派が派遣した『大谷光瑞率いる探検隊』⇒『内陸アジア諸地域への探検隊』。その隊員であった橘瑞超(たちばなずいちょう)という若干十九歳の僧侶が、李伯文書を楼蘭遺跡から発掘・発見したのである。
彼は第二次大谷探検隊の隊員として派遣され、外モンゴル、グチェン、トルファンなどで発掘調査を実施した後、一九〇九年に楼蘭の遺跡に史上四番目に足を踏み入れたのである。彼の前には、偉大なる探検家(スウェイン・ヘディン)や(オーレル・スタイン)などが楼蘭を訪れている。
李伯文書とは、五胡十六国の前涼の西域長史・李柏が,東晋の咸和3年(西暦三二八) 頃に焉耆 (えんき) 王の龍煕に送る漢文書簡二通のことである。当時秘境中の秘境でもあった楼蘭へ、若干十九歳の橘少年がなぜ到達できたのか。その背景的事情も白須浄真先生から解説をしていただいた。
いずれにしても、当時の浄土真宗を筆頭とする日本仏教界における、求道的諸活動には改めて感銘を覚える。さらに当時の仏教界における諸活動を深掘りリサーチしていこうと思っている。
それは同時に、新宗教の迷走や伝統宗教の衰退など、『信』への人心離反が著しい現代社会に対する処方箋探しにも繋がるだろう。
※ 写真手前は、李伯文書のコピー。そのガイダンスをされる白須先生。
※ 李伯文書が書かれた西暦三百年代とは、日本で言えば卑弥呼時代に相応する時代である。
(トルコ・ネパール・インド・スリランカ・日本)
一八九〇年(明治二十三年)九月十六日夜半にオスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本町沖にある紀伊大島の海上で遭難し、五百名以上の犠牲者を出した。この時のトルコ側生存者を、日本の軍艦がイスタンブールまで送っていくことになる。イスタンブール到着は遭難の翌年一八九一年一月二日である。
司馬遼太郎著・「坂の上の雲」の主人公である秋山真之は、この際に海軍軍人として日本軍艦に乗り込んでいる。トルコの兵士を日本の軍艦が送っていく際、スリランカに立ち寄っている。その時のスリランカでは、浄土真宗の二人の僧侶が上座部仏教の勉強をしていた。
二人の名前は、小泉了諦(浄土真宗誠照寺派)と、善連法彦(浄土真宗仏光寺派)である。善連法彦は、仏教学の泰斗・南條文雄の親戚筋である。二人の若い浄土真宗僧侶は、艦内にいるトルコ兵士を説法にて慰めたのである。その慰めと励ましに感銘を受けたトルコ側は、この二人の僧侶をトルコへと誘うことになる。
その僧侶らは、日本の軍艦に乗り込みトルコまで同乗した。さらに二人はフランスのパリへと向かうことになる。パリでは、知識人・著名人の前で報恩講を執り行ってもいる。和歌山県串本沖にて、台風による転覆したトルコの軍艦エルトゥールル号の遭難現場は、現在記念公園になっている。
その公園内には弔魂碑があり、その碑文を記しているが大谷光瑞師なのである。
※写真は二〇一九年五月、紀伊半島(串本)へフィールドワーク時に撮影。浄土真宗の若い僧侶がトルコとの縁を結び、そして宗門宗派を越えて、光瑞師によって慰霊碑文が記されたのだろう。
※大谷光瑞を隊長とする、大谷探検隊は明治期に三度の仏跡調査遠征隊を組織している。そして、中央アジアのみならず、パミール高原、インド、ネパール、スリランカなどをフィールドワークしているのである。
この別府の地は、大谷探検隊を組織した、浄土真宗本願寺派の第二十二代宗主・大谷光瑞師の遷化地でもある。宗主を退任後、アジア各地を歴訪し、各地に別荘や庭園を構え、農園経営や人材養成、仏典研究(梵本翻訳)に勤しまれている。
昭和二十二(一九四七)年に引揚送還船「遠州号」に乗り、中国・大連から佐世保に帰国する。その後、別府亀川国立病院に入院。膀胱癌の治療にて鉄輪(かんなわ)温泉にて静養されていた。
昭和二十三(一九四八)年十月五日、現在・大谷公園となっている場所にて遷化(死亡)されている。光瑞師は、病床に伏しながらも博覧強記ぶりを発揮されていたと言う。当時の別府市長の脇鉄一氏とともに別府の国際観光都市化計画に尽力している。
大谷公園では、写真のような記念碑が建てられ、公園横にある大谷会館では、光瑞師ゆかりの写真や品々も展示されている。さらに、別府別院にては『大谷記念館』があり、大谷探検隊ゆかりの展示物がある。別府別院は、遷化後の仮通夜がおこなわれた場所でもある。
※追記:先日、浄土真宗の怪僧・北畠道龍のことを記した際に、新たなことに気が付いた。大谷光瑞の生母(お藤の方)は、北畠道龍を里親として本願寺に側室として入っているのである。すなわち、浄土真宗本願寺派における明治期の二大巨頭は深い縁で結ばれていたのである。
別府にてのフィールドワークの最中、次のような文章に出逢った。
大谷光瑞の仮通夜がおこなわれた本願寺別府別院に併設され、光瑞の片鱗を見出すのに最適な大谷記念館は、別府駅から徒歩十分。顕彰碑は記念館から車で二十分ほど走ったところにある。
浄土真宗本願寺派第二十二世宗主、大谷光瑞(鏡如)上人は一八七六年、第二十一世明如宗主の長男として誕生し、九歳で得度。後の龍谷大学学長となる前田慧雲らに学び、一九〇二年に「大谷探検隊」を結成。西域探検のためにシルクロードへと旅立った。
廃仏毀釈の風が国内に吹き荒れるさなか、仏教の原点を求め、また教団と教義の再構築を模索するための私的な学術探検は、列強諸国が資源を貪るための西域探検とは全く目的を異にし、仏教教義上の様々な疑問など、それらの解明に命をかけた玄奘三蔵を想起させる。
探検隊が収集した数万点にも及ぶ膨大な資料は、龍谷大学図書館が九千点を所蔵するほか、ソウルや旅順、東京国立博物館など様々な場所に所蔵されている。
大谷記念館では、三回にわたっておこなわれた探検のうち、特に貴重とされる第一次探検時の隊員達との電報や書簡を始め、元秘書達から寄贈された光瑞愛用の品々、百万人の門徒を集めた親鸞聖人六五〇回大遠忌の際の衣装などが展示されている。
記念館は一九九〇年に開設に漕ぎつけ、光瑞との縁の深さを改めて感じる事となった。顕彰碑(別府にある大谷探検隊の顕彰碑)のデザインを手がけた、大谷記念館副館長の掬月誓成さんはつぎのように話す。
「大谷探検隊の隊員達の日記には、泣き言が一切ないんですよ。帰りたい、どうしてこんな事をしているのかといった疑問もない。それは、光瑞から使命を受けた事そのものに、崇高な精神を感じていたからでしょう。彼らにとって光瑞は、生き仏のような存在だったんですね」
一九四七年、光瑞は病の療養に別府の地を選ぶ。温泉があり、食糧が豊富であり、また関西航路を経て本願寺へと渡る交通の簡便さから、別府は光瑞にとって地の利があったのだろう。
床に伏しながらも博覧強記ぶりはここでも発揮され、市長の脇鉄一氏とともに別府の国際観光都市化計画に尽力。一九四八年に息を引き取るまで、別府の発展に心を砕いたという。
「別府を『はやみ』という名前に変えろ、四〇メートル道路を作れなど計画は壮大なものでしたが、ヨーロッパの植民地支配を反面教師として、日本人も外国人も区別なく、全ての人々が幸福を感じられるような町づくりを光瑞はめざしていました。国際観光都市という発想も光瑞が最初。グローバルという言葉はまさにこの人のためにあるようなものです」
明治半ば(日清・日露戦争前後)に、三次にわたって大陸に探検隊を派遣した大谷光瑞。大谷光瑞といえば、『シルクロード探検調査』というイメージで語られることがほとんどである。近年になり、三次にわたる探検隊の新資料関係も出てきている。
それらを丹念にリサーチしていくと、その壮大な全貌が垣間見えるのである。シルクロード・印度仏跡のみならず、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸へも隊員・調査員を派遣している。その目的は、仏教をはじめ宗教分野のみならず、地理学・気象学・農業開発学などへと、未知なる世界へ触手を広角に伸ばしている。
私自身、ルンビニにてのフィールドワークの為に始めた大谷探検隊への再・文献渉猟は、新たな探査のキッカケになっている。手始めには、三次にわたって探検隊の中核メンバーであり、後に築地本願寺の輪番(執行長)にもなる、渡邊哲信の人生を追尾したい。
渡邊哲信は、広島県三原市浄念寺の出身である。弟の哲乗も探検隊の隊員でもあった。渡邊哲信は、一八九九年に神戸港を出港し、インド・スエズ・黒海・オデッサを経由してロシアに入る。その際には、徳富蘇峰にも現地で会っている。
このロシア行は、後の一次探検隊のロシア領通過時の下準備であった。一次探検隊では、パミール越えした後に、写真の堀とともに、新疆エリアの仏跡調査別動隊となる。一九〇八年には大谷光瑞の弟・尊重の随行員として、南アフリカからビクトリア瀑布などアフリカ大陸東側を地理学探査し、インド仏跡調査もする。
その後は、ニューヨークなど北米各地を巡回した後、活動拠点であるロンドンへ戻っている。明治中~後半において、これだけ世界を漫遊した人物も少ないのではないだろうか。遠征後には、中国大陸にわたり北京にて新聞社(順天時報)の社長をしたり、築地本願寺の輪番を務めたりしている。
晩年は、出身地の広島県三原市浄念寺に戻る。二〇一七年には、童謡・「かもめの水兵さん」を作詞した姪の武内俊子とともに顕彰碑が境内に建てられている。
不帰の人となった求道者・能海寛と東温譲
下記は、能海寛(のうみゆたか)の出身地・島根県金城町波佐を拠点とする、能海寛研究会の機関誌『石峰』からの抜粋である。この文章は、研究会の事務局を長年務められている、隅田正三さんによる記述である。私も一度お会いしている。
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明治二一年には、普通教校に学ぶ親友の東温譲がインド(実際にはスリランカ)へ留学する際に、寛は送別会の席で入蔵の必要性の熱弁を述べたことがノート「予と西蔵」(明治三〇年五月九日記)に書き記されている。
こうしたことからも、数年間でチベットに関する知識の習得が相当に進んでいたことを示すのである。明治二一年八月二四日の記録に、
「本山に必ず外国の書生をとめ、本国本山近辺に一つの洋館の学校を建て、仏教と普通学を□□□し、外国人の使布教をなすべし。教員は、外国人及び日本仏学家を。校長は、外国に於いても名ある如き日本人仏教者をすべし。」 としている。
大学林の設置で普通教校が二一年一二月を以て閉校されることで、普通教校内では学生運動が起こり大変揺らいでいた時期のことである。このことからして、寛は普通教校の設立の精神に則り、将来、自分が「佛教大学」を設立する構想を既に描いていたものと思える。
同年(明治二十一年)七月になると、寛は、「富士山単身登山」を決行して、山頂で野宿をして尺八を吹いている様子を、
「富士の嶺の 去りなき月も 見る人の ふく笛の音も いまは絶妙なる」 と詠んでいる。この富士山頂で、亡き妹の悲しみを断ち切り、チベット行きの決意をはっきりと決めたのである。下山してからの寛のチベット研究が急に拍車がかかり、二十六年十一月に自費出版された『世界に於ける佛教徒』が完成したのである。
序文を担当したのが、大内青巒氏であった。東本願寺からチベット派遣僧としての任命を勝ち得た重要な論文であったことは申すまでも無いことである。チベット行きの布石になるものは何でも学ぼうとする姿勢が鮮明になってきた。
十月六日には、「哲学研究会」へ第一期会員(「証票」第百五十号)として加入した。「海外宣教会」へも入会して活動した。明治二十五年八月には、「伊豆七島めぐり」を実行したのであるが、中国での長江遡上の時の船旅の体験であったのだろうか。
振り返れば、幼い頃から広島へ出て行くために加計(安芸太田町加計)の了川(よろがわ)の運河から太田川を下る川舟の旅を幾度も経験済みであった。
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※ ちなみに、能海寛の実家である浄蓮寺は、私の居住する安芸太田町からでも車で一時間圏内である。(写真参照)
※ 能海寛は、残念ながらチベットへの潜入途上に行方不明となってしまうので、詳細な行動記録や事後記述などの公開は河口慧海ほど多くはない。
※ 若干三十歳代の若さでこの世と永別してしまうのであるが、生前に膨大な量の記述をさまざまな分野で残しているのである。
※ その中には、『宇宙・自然・人間』の調和を求める哲学についても論述していることに、非常に興味深いものを感じるのである。
※ 二十五周年記念論集の表紙写真。この風景が、能海寛の生誕地である島根県金城町波佐地区である。そして、写真中央に見える大きな屋根の寺が、彼の実家である。
※ こんな山間部に生まれた青年が、京都、東京へと勉学に出掛け、果ては世界の秘境チベットへと夢を馳せていくのである。
※ 明治半ばに西中国山地の山間部においても、地域の将来の為に『大いなる英断⇒入会山を村有林化する』をしている。
※ 明治時代の半ばというのは、日本の大きな転換期(日清・日露戦争前後)であった。その時代に生きた市井人の気質というものから、現代の私たちが学ばなければいけないことが多くあると強く思うのである。
山陰養生プログラムとして、島根県金城町波佐を訪れた。
ここは、明治時代にチベットへ大蔵経の原書を求めて出かけ、戻ってこなかった浄土真宗の僧侶・『能海寛(のうみ・ゆたか)』の生誕地である。史料館では、郷土史家であり能海の発掘者でもある、隅田さんのお話を聞くことができた。
私自身、河口慧海師の足跡を辿った調査隊参加時の話しもさせていただき、往時の精神風土などについて非常に盛り上がった。ここ最近の個人的なテーマは、『縄文時代の精神世界』と『明治時代の精神世界』であろうか。
明治の中頃(明治二十年代~三十年代←日清日露戦争前後)という時代には、数多くの若者たちが(宗教界や言論界などだけではなく、一般人においても)海外へ雄飛していくのである。その動機はさまざまなのであるが、意外にもユニークなことは、『彼らのその後』なのである。
例えば、瀬戸内海の小島・大崎下島の御手洗(みたらい)出身で、単独自転車無銭世界一周旅行を成し遂げた、中村春吉という男は、後年になり『霊動術』という心身変容術の使い手となった。私が追いかけた河口慧海師は、晩年還俗したのち、写真にあるような『養生術』の書籍も出版している。
海外においても、同時期ギリシャ系ロシア人であった、GI・グルジェフは、チベットや中央アジアにての探検行を繰り返したのち、神秘宇宙論とでもいうべき思想体系を構築している。
金城町史料館の創始者である隅田氏によると、能海寛も生前から『新仏教運動』や『新しいグローバル教育』、そして『ユートピア構想』などへも関心が高かったといわれている。明治半ば(一九〇〇年前後=二十世紀の始まり頃)というのは、欧州とアメリカの一部の知識人以外の、地球上の場所や人々の間にては、まだまだ『目に見えない世界』に対しての直感的洞察などが、心に通底する重要事項だったのであろう。
現代では、オカルトという言葉でひとくくりにされてしまう世界が、厳然と生活の中に深く浸透していたのであろう。そして、秘境や辺境と呼ばれている場所や土地では、その『目に見えない世界』への洞察が、見事なまでの思想や哲学にまで昇華していたのではないだろうか。
その精神世界に触れた探究者や求道者、探検者らは、その魅力に取りつかれたのではないだろうか。彼らの行動の『その後』を見ていると、どうもそんな気がしてならないのである。
この分野への探索を、これからもっと深めていくつもりである。
浄土真宗からスリランカへ派遣された僧侶・『東温譲』
東温譲(とうおんじょう)とは、熊本県出身の浄土真宗僧侶である。浄土真宗が独自に実施した、明治初年からの教育改革で設置された熊本の真宗系学校(素川教校)を卒業し、東京の二松学舎を経て、京都の真宗系普通教校(後の龍谷大学)へと進学する。
その京都の普通教校にて、高楠順次郎と同じく、本願寺内での若い僧侶や学生らが中心となった仏教刷新運動(反省会雑誌という出版物を中心とする)の中心メンバーになっていく。明治二十二(一八八九)年二月九日、神智学協会の中心人物・オルコット大佐がスリランカ僧・ダルマパーラを伴い神戸港に来航する。
この時、一行を乗せたフランス郵船が接岸した神戸港小野濱桟橋には、歓迎の僧侶七十人余りが待ち構えていたという。明治二十二年は、東温譲が丁度二十二歳の時である。前年にすでにスリランカに渡っていた東温譲も、ダルマパーラや神智学協会には多大な影響を受けていた。
そして、上座部系僧侶とアメリカ生まれの神智学協会会長が発信する、『新しい時代の仏教(大乗・上座部の統一仏教)』に魅了されていくのである。東温譲は、スリランカにて現地の仏教学院ウィドヨーダヤ・ピリウェナでパーリ語,梵語などを学んでいくのである。
そしてスリランカ滞在時には、インド・ネパールを通過して(ヒマラヤ山脈を越える)チベットへ仏典原書を求める旅を起案する。さらに、その計画を実行に移すべく、本願寺本山へ、その遠征費用の送金なども打診する文面を送っているのである。
だが、残念ながらスリランカ滞在六年目(東温譲二十六~二十七歳)の折、インドのムンバイ(旧・ボンベイ)にて熱病にて亡くなってしまうのである。この悲報を聞いた、普通教校(京都)で同窓生であった真宗(大谷派)の僧侶が、東温譲の意志を継ぐべく、チベットへの仏典原書を求める計画への決意を新たにし、より具体化を図っていくのである。
その僧侶が前述した能海寛である。今回抜粋紹介している追悼文集は、この能海寛の出身寺(浄蓮寺)に残されていた書物群から発見された。
前・高野山大学教授で、河口慧海の研究者でもある奥山先生は、次のように指摘する。
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一八九〇年頃(明治二十三年・東温譲は二十三歳)から,京都の普通教校の学徒、特に真宗僧侶の間からインド・チベットを目指そうという動きが起こることである。こうした動きを促進したものの一つは,同年七月十日発行の『反省会雑誌』の巻頭の社説「印度留学の諸兄に望む」[反省会雑誌 1890a]である。
彼らに対して梵語・パーリ語で書かれた大乗経典の原典の探索・収集の必要性を訴えたこの記事は,実は,この年の三月三十日に欧州留学の途中でコロンボに寄港し,留学生たちと懇談した高楠順次郎(一八六六-一九四五)が,おそらくは欧州行きの船中で書いたものであった。
しかも,高楠はその原稿をまずコロンボの東に送り,添削と反省会への転送とを依頼している。そのことを明かすのは,『東温譲日記』(稿本,宇城市円光寺所蔵)の一八九〇年四月二五日の条に書かれた次のくだりである(括弧内引用者)。
沢井(高楠順次郎)ヨリ印度留学生ニ望ムテウ一文ヲ寄送シ添削ノ上反省会ニ転送ノコトヲ依頼シ来レリ蓋シ該状ハスエスヨリ投函シタルモノ也。
実際に東が高楠の原稿にどの程度手を入れたかは分からないが,高楠がコロンボで東・善連等から聴取した意見を十分に踏まえてこれを書いたことは確かであろう。その上で高楠は彼らの行動に意義と方向付けを与えたのである。このようにして,明治の「西天取経劇」の幕が開く。
ところが,この年十一月十六日朝,コロンボ港に「比叡」と「金剛」が入港し,この両艦に便乗してトルコまで行く布教師に小泉と善連が選ばれたことによって,二人の運命は大きく転換することになる。
「世界の偉大な歴史的宗教の指導者たちを、史上はじめて一堂に会合せしめること」を目的に、万国宗教議会(The World's Parliament of Religions)がシカゴ・コロンブス記念万国博覧会と合わせて開催した本会議は、世界各国の代表的宗教家達が、歴史上初めて平等の立場で集まり意見を戦わせた、宗教史上最も重要かつ記念すべき出来事でした。約2ヶ月間に亘り、シカゴのArt Instituteを会場に繰り広げられたこの会議には、世界中から数千人以上が参加したと伝えられ、特に仏教やヒンドゥー教など東洋からの参加宗教家は、そのいでたちからも当時のアメリカ人に強い印象を与えたようです。
大会には19世紀イギリスを代表する宗教学者マックス・ミュラーが献辞を寄せ、テーラヴァーダ仏教のダルマパーラ、ヒンドゥー教改革指導者スワミ・ヴィヴェーカーナンダらにまじり、日本からも仏教界から釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)土宜法竜(真言宗高野山派)芦津実全(天台宗)八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)と英学者・平井金三、神道を代表して柴田禮一(実行教管長)、日本のキリスト教会から小崎弘道が参加しました。当時の日本の仏教界にはこの会議への参加に慎重なむきも多かったようですが、一方これを契機とした日本からの海外への仏教布教の期待も大きく、実際釈宗演や土宜法竜の講演そして平井金三のキリスト教批判は大きな反響を呼んだようです。また、この会議の釈宗演の演説草稿を英訳した鈴木大拙は、その後海外へ大きく活動の場を移してゆきます。
(釈宗演)
このように、本会議はアジア・東洋の宗教や精神文化を西洋社会に知らしめるターニング・ポイントとなりましたが、主催した西洋側にはキリスト教的宗教観によって植民地支配下の非西洋精神文明包み込もうとする意図も見え隠れしており、結果的に今日まで続く諸宗教間の大きな問題を提起する機会となったといえます。
本書は、この会議の直後に編集された講演録で、主要な講演約120点(一部要約のみ)が収録、前述日本からの参加者の講演はほぼすべて掲載されています。巻末には大会議と平行して開かれた各宗教、宗派毎の約40の会議記録も合わせ収めされています。宗教史研究に避けては通ることのできない、この万国宗教会議に関するもっとも充実した一次文献です。
収録講演者名:
Abbott, Rev. Lyman D. D
Alger, Wm. R
Arnett, Bishop B. W., D. D
Ashitsu Zitsuzen
Azarias, Brother
Baldwin, Rev. S. J., D. D
Brown, Rev. Olympia
Berkowitz, Rabbi H., D. D
Bernstorff , Count A
Blackwell, Rev. Antoinette Brown
Brand, Rev. James
Boardman, Rev. Dr. George Dana
Briggs, Charles A., D. D
Bruce, Prof. A. B
Burrell, David James, D. D
Byrne, Rev. Thos. S., D. D
Carpenter, J. Estlin
Chatschumgan, Ohannes
Chudhadharn, Prince Chandradat
Cleary, Rev. James M
Cook, Joseph
Dawson, Sir William. F. R. S
Dickinson, Mrs. Lydia H
Dennis, Rev. James S
Dharmapala, H
D'Harlez, Mgr. C. D
Donnelly, Charles F
Dvivedi, Manilal N
Drummond, Prof. Henry
Eastman, Rev. Mrs. Annis, F. F
Elliott, Rev. Walter
Ely, Prof. Richard T
Faber, Dr. Ernest
Field, Dr. Henry M
Fisher, Prof. G. P., D. D
Fletcher, Miss Alice C
Sandlhi, Virchand A
Gibbons, His Eminence Cardinal
Gladden, Rev. Washington
Goodspeed, Prof. G. S
Grant, J. A. S. (Bey)
Hale, Rev. Edward Everett
Harris, Hon. W. T
Haweis, Rev. H. R
Headland. Isaac T
Hewit, Very Rev. Augustine F
Higginson, Col. T. W
Hirsch, Dr Emil G
Ho, Kung Heien
Hirai, Kinza Riuge平井金三
Hoyt, Ex. Gov. J. W
Hultin, Rev. Ida C
Hume, Rev. R. A
Jessup, Rev. Henry H
Keaue, Rt.-Rev. John J., D. D
Kohut, Dr. Alexander
Kosaki, Prof. Harnichi小崎弘道
Landis, Prof. J. P., D. D
Lazarus, Miss Josephine Ph. D.
Lewis, Rev. A. H., D. D
Latas, Most Rev. Dionysios
Martin, Dr. W. A. P
Mendes, Rev. H. Pereira
Mueller Prof. Max
Mills, Rev. B, Fay
Modi, Jinanji Jamshedji
Momerie, Rev. Alfred W
Mercer, Rev. L. P
Moxom, Rev. Philip S
Mozoomdar, Protap Chunder
Munger, Rev. Theodore T., D. D
Murdoch, Miss Marion
Nagarkar, B
Niccolls, S. J., D. D., LL. D
Noguchi, Zenshori野口復堂
Peabody, Prof. F. G
Pentecost, Rev. Geo. F
Powell, A. M
Rexford, Rev. E. L., D. D
Richey, Rev. Thomas
Schaff, Rev. Philip, D. D
Scovell, President (of Wooster College)
Semmes, Thomas J
Seton, Rt.-Rev. Mgr
Sewell, Rev. Frank
Shibata. Rt.-Rev. Reuchi柴田禮一
Silverman, Rabbi Joseph
Slater, Rev. L. E
Slattery, Rev. J. R
Smyth, Rev. Julian K
Snell, Merwin-Marie
Somerset, Lady Henry
Sorabji, Mrs. Jeanne
Soyen, Shaku釈宗演
Spencerl Rev. Anna G
Stead, W. D
Sunderland, Mrs. Eliza R., Ph. D
Szold, Miss Henrietta
Terry, Milton S
Tiele, Prof. C. P
Toki, Horin土宜法竜
Toy, Prof. C. H
Vivekananda Swami
Valentine, Prof. M
Wade, Prof. Martin J
Warren, Rev. Samuel M
Washburn, Rev. George D. D
Webb, Mohammed Alex Russell
Williams, Mrs. Fannie B
Wright, Rev. Theodore F.,Ph. D
Wise, Dr. Isaac M
Wolkonsky, Prince Serge
Wooleyl, Mrs. Celia P
Yatsubuchi, Banrieu八淵蟠竜
Yu, Hon Pung Kwang
講演テーマ:
A New Testament Woman
A Religion of Facts Christianity
America's Duty to China
Argument for God
Argument for Immortality
Being of God
Belief and Ceremonies of Zoroaster
Bible; What it has Taught
Buddhism
Buddhism and Christianity
Buddhism, As it Exists in Siam
Buddhism, Man's Relation to God
Buddhism, What it has Done in Japan
Catholic Church and Scriptures
Catholic Church, Relation to Poor
Certainties of Religion
Character and Degree of the Inspiration of Seriptures
Christ the Unifier of Mankind
Christianity and Evolution
Christianity and Negro
Christianity and the Social Question
Christianity as a Social Force
Christianity as Interpreted by Literature
Church and Labor
Comparative Study of the World's Religions
Concessions to Native Religions, ldeae, Having Special Reference to Hinduiem
Confucianism
Cooperation of Women and Men
Crime and the Remedy
Elements of Universal Religion
End of Parliament
Errors About Jews
Essentials of Religion
Evangelism in America
Extracts from Koran
Faiths, Harmonies and Distinctions in the Theistic Teachings of the Various Historic
Genesis and Developlment of Coufucianiem
Greek Philosophy and the Christian Religion
Grounds of Sympathy and Fraternity
Hinduism
Hinduism as a Religion
Importance of the Study of Comparative Religions
Incarnation Idea in History and in Jesus Christ
Incarnation of God in Christ
Influence of Ancient Egyptian Religions, on Other Religions
Influence of Religion on Women
Influence of the Hebrew Seriptures
International Arbitration
International Justice and Amity
Japan, Christianity, its Present Condition and Prospects
Law of Cause and Effect Taught by Buddha
Letter From Somerset, Lady Henry
Man From a Christian Point of View
Man's Plaee in Nature
Marriage Bond, The Catholic Church and Mohammedanism and Christianity, Points of Contact
Moral Evidence of Existence God
Music, Emotion and Morals
Need of a Wider Conception of Revelation
Needs of Humanity Supplied by Catholic Church
"North American, Religion of Indians"
Only Possible Method of Religious Unification
Opening of Parliament
Orthodox Greek Church
Plea for Toleration
Practical Service of the Science of Religions to the Cause of Religious Unity
Prize Essay Confucianism
Rational Demonstration of the Being of God
Reconciliation, Vital Not Vicarious
Relation Between Anglican Church and Church of First Agos
Relation Between Religion and Conduct
Religio Scientiae
Religion and Criminal and Erring Claeses
Religion and the Love of Mankind
Religion and Wealth
Religion Essentially Characteristic of Humanity
Religion of Pekin
Religion of the World
Religions, What the Dead. Have Bequeathed to the Living
Religious as Distinguished From Moral Life
Religious Duty to Negro
Religious Mission of the English Speaking Nations
Religious State of Germany
Rest Day, The Divine Element in Weekly
Sacred Books of the World as Literature
Saviour of the World Christ
Science of Religion, Aid to, From Philosophy
Scriptures, Truthfulness of Seriptures
Scriptures, What they have Taught Seriptures
Shintoism
Soul and its Future Life
Spirit and Mission of tho Apoetolic Church of Armenia
Spiritual Forces in Human Progress
Study of Comparative Theology
Supreme End and Office of Religion
Swedenborg and the Harmony of Religions
The Catholic Church and Negro Race
The Civic Church
The Contact of Christian and Hindu Thought
The Essential Oneness of Ethical Ideas, Among all Men
The Ethics and History of Jaine
The Influence of Social Condition
The Message of Christianity to Other Religions
The Present Outlook of Religions
The Principles of Brahmo-Somaj
The Relation of Historic and its Future Judaism
The Religious Intent
The Religious Training of Children
The Reunion of Christendom
The Social Office of Religious Feeling
The Spiritual Ideas of Buddha Brahmo-Somaj
The Sympathy of Religions
The Ultimate Religion
The Voice of the Mother of Religions on Social Question
The Work of Social reform in India
The World's Debt to Buddha
Theology of Judaism
Tho Outlook for Judaism
What Christianity has Wrought for America
Woman and the Pulpit
Women of India
What Judaism has done for Woman
World's Debt to America
2024年6月21日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。