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(とあるコラムからの抜粋)
オーストラリアの先住民族アボリジニの人々は、4万年以上前にアジアからオーストラリア大陸に渡ってきたと考えられています。数千ともいわれる部族がそれぞれ独自の言語で話し、文字を持たなかったため部族の掟やさまざまな知恵を壁画に記したり、物語にして語り継いできました。 各部族がそれぞれ異なる風習や文化を持っていますが、共通しているのは、自然界と調和して生きる、ということ。自然への畏敬の念を忘れずに暮らすことこそが、本当の幸せをもたらすと考えているからです。彼らが祖先から受け継いできた風習や文化は、「ドリーミング」と呼ばれる物語として、今も伝えられています。どの物語も自然や生き物たちを擬人化した抽象的な表現が多いのですが、すべての部族が共通して持つ『天地創造の神話』が世界の始まりだと信じられていること。話の内容は部族によって異なるものの、空と大地の神が世界を作り、私たち人間が生まれ育った大地は家族が暮らす大きな家、という概念が根底にあるということです。
もともと住居を持たないアボリジニの人々は、狩猟を続けながらすみかを転々とし、自然の中に住まいを見つけてきました。それは、洞穴であったり、岩陰であったりするのですが、それぞれの場所は、女性たちの出産のための洞穴、男性のみが立入りできる洞穴など、部族の掟によって厳しく用途が決められていることが多かったようです。その場所がどんな用途で使われたのかは、岩肌に残された壁画によって今に伝えられています。現在、アボリジニの人々のほとんどは、私たちと変わらぬ普通の家屋に暮らしていますが、なかには太古の昔と変わらず、自然にできる限り近い場所で、自然の神々を敬いながら暮らしている人々もいます。森の中の岩陰に寝床を作り、朝夕には大自然の神に祈りを捧げながら、川に水を汲みに行き、糧となる木の実を探すなど、原始的ともいえる生活が基本。現代の便利な文明の利器や大金には見向きもせず、ひたすら先祖から受け継いだものを守る姿には、身震いするような感動を覚えます。
オーストラリアでは、アボリジニの人々の教えを学ぶツアーもあります。それに参加すると、彼らの伝統的な暮らしぶりを垣間見ることができます。例えば、トゲのついたツル状の植物を釣りに使ったり、木の根のへの字型の部分でブーメランを作って狩猟を行うなど、いかに自然が暮らしに根付いていたかがわかります。また、彼らの考え方や教えは、ふだん忘れかけている大切なものを思い出させてくれます。それは、どんなに大変なことがあっても、どんなに周囲の環境が変わってしまっても、どんなに悪い誘惑があっても、守るべきものは家族であり、忘れてはならない大切なものは、私達を取り巻く自然なのだということ。大地と空、宇宙、そしてこの地球上のすべてのものが調和して生きている=生かされているのだと、気づかせてくれます。
私たちにとって「本当に大切なものは何か?」「守るべきものは何か?」ということを彼らは常に意識しながら暮らしています。そして、自分が地球上に生を受けた意味を考え、受け継いだ大切なものを後世へと伝えてほしいと願っている。彼らは、そうして何万年という年月を生きてきたと言います。
二〇〇九年記述
二〇〇九年を締めくくる蔵出し写真として適切かどうか、一瞬だけ迷ったのですが、「エイヤ!」とばかり、気合の入った写真で締めくくることとしましょう。タイトルは、 「ニューギニアのアントニオ猪木!」、 「いち、に、さん、ダ~!!」といった瞬間の撮影だったのでしょうか・・?正直いって、この瞬間は全然覚えていないのです。
場所は、ニューギニア。それも、ニューギニアの東半分にある、パプア・ニューギニアです。ハイランドを呼ばれるニューギニア高地を車で走っていたら、ちょうど、現地のお祭りに出くわしました。現地で「シンシン・ダンス」と呼ばれる戦士たちの勇壮な踊りは、そのメイキングにも現われています。
どちらが誘ったか、それとも、自主的に立候補したのかは、未だに記憶にありませんが、気が付いたら、私は、このような、密林戦士のボディ・メイキングを施され、なんと踊りの輪の先頭に立っていたのです。
そこからの記憶はまったくありません。密林の呪縛に取り付かれていたのでしょうか・・・? それとも、シャーマンのかけた呪術にトランス状態になっていたのでしょうか・・? いずれにしても、にわか戦士として人の命を奪うことはなく、奪っていたのは人から笑いだけでした・・。かすかな記憶では、私の後ろで踊っていた戦士たちが、笑いすぎて、踊りが腰砕けになっていた姿が脳裏に浮かんでくるのです・・。そんなに可笑しかったのかな~・・・?
このとき、若干二十四歳。怖さをしらない年代です。腹も出ていません・・・。おなかだけは、この当時に還りたいのですが、怖さ知らずと厚顔無恥は、すでに卒業?しているかな・・・? え? あれれ・・? 今でも、人前で緊張する時(た~まにあるのですよ、これでも)、この写真を思い出し、心の中で、 「いち、に、さん、ダ~!!」と叫んで自らを鼓舞しているのです。さすがに、おなかは出てきていますので、少々くたびれた心のつぶやきになっていますが・・。
それでは、みなさま、よいお年を、「いち! に! さん! し! しんねん、あけまして おめでとうございます!」 いやいや、 ちょっと早かったですね・・。 気合が入りすぎて、ちょっと勇み足でした・・・。 あしからず・・。
場所は、お釈迦様生誕の地・ルンビニです。時間は早朝の六時頃です。このルンビニという土地は、ヒマラヤを有するネパールにありながら、なんと標高八十メートルくらいしかありません。インドとの国境地帯は、平原状態なのですね。ということは、「とっても暑い」というより、「とっても熱い」という漢字のほうがあっています。
そんな「熱さ」ですので、日中は行動できません。だからというわけではありませんが、早朝の時間がとても貴重なのです。写真のときにはネパールに住む古くからの友人と二人でルンビニを訪れたのです。その目的は、ヒマラヤの国での養生プログラム構築だったのです。今年の十一月の実施した「ヒマラヤ養生塾」はすでに第四回目になりました。第五回は来年の四月に実施いたします。
その「養生塾構想」。当初(というのは、なんと二十年前から温めてきたものです)から、ネパールでは二種類のプログラムを考えていたのです。ひとつは、ヒマラヤ山麓にてのプログラム。そして、もうひとつが、このルンビニでのプログラムなのです。
ルンビニでのプログラムの柱となるのが、この早朝の一時間なのです。愛煙家だった私が背中なられているのは、なんと牛車なのです。夜明け前に、宿泊先であったルンビニの農家(農家に民宿するのです)の庭先に、そろりそろりと入ってきたのは牛車・・・。なにをするのかな?と思っていたら、期待通りの「牛車散歩」が始まったのです。早朝のすがすがしい空気の中、ギッタン・バッコン・ギッタン・バッコンとオンボロ牛車が、田んぼのあぜ道を動いてゆくのです。
愛煙家だった私(断煙してからすでに十年弱になりますが)は、思わず朝の一服をつけたのでした。その美味しかったこと・・!さらに、この一時間の牛車散歩は、私に思わぬプレゼントをくれたのです。その光景が写真です。
一時間の牛車での散歩途上、森の茂みの中から子供の声が聞こえてきたのです。それも、学校から聞こえてくるような声なのです。思わず、牛車から降りて森に入りました。なんと、早朝の樹下の教室だったのです。ルンビニは日中暑いので、学校はなんと早朝に開かれ、それも校舎は、樹下だったのです。
森のそれぞれの木の下に、それぞれの学年の子供たちが集まっていました。先生はたった、一人だけ・・。それそれの課題を与えられた子供たちは、大きな声でネパールの国語や算数に取り組んでいたのでした。
感動しました。早起きは三文の得といいますが、まさにそのとうり!こんな素敵な光景に出あわさせてくれたのですから・・。もしかすると、お釈迦様の時代の学校も、このような樹下の学校だったかもしれませんね。こんな教室だと、いじめや自殺など皆無のことでしょう。なんたって、学校で自殺しようにも、二階や三階といった高い場所すらありません・・。
今日の尻出し、じゃなくて、蔵出し写真は、なんと「エイホ!エイホ!と密林の戦士になった私」です。場所はインドネシア領ニューギニア(イリアンジャヤ)という場所の密林の中です。この踊りは、戦士の舞といって、部族間の争いごとがあったときに、必ず踊られる舞い(といっても、気勢と奇声を上げながら、円形に走り回るだけなのですが・・)なのです。槍を手にした私の後ろに、なぜか長髪で戦士たちを「挑発」しているかのような、可愛らしい女の子の後姿がありますね。これは、私を含めて合成写真ではありません。当時、大阪の女子大生が3人ほど一緒にジャングルに出掛けていたのです。その大学の名誉教授が、私の師匠的存在でした。その教授が団長になり、女子大生や一般の人たちとともに、密林へと入っていったのです。写真の女子大生の方も、すでに四十歳前後・・。お子さんもおられることでしょう。しっかりと、お母さんの雄姿を伝えてくださいね。この頃から、日本においては、男性より女性の方が行動力が勝り始めているのです。
アフリカからです。アフリカの最高峰・キリマンジャロを登山した際のものですが。、背後に写っている山は、キリマンジャロではありません。その脇にある、五千メートル峰です。この山の山麓を歩いてまず、高度順応をしてから、キリマンジャロにアタックするのですが、すでに写真撮影の場所は、標高三六〇〇メートルくらいあります。いわば、富士山の頂上付近と同じ高さなのです。しかし、赤道近くにある山ですので、こんな半袖の方も登場するのです。
お気づきでしょうか?この高さであればまだまだ運動靴でも、なんとか大丈夫なのです。地面を見ていいただいたらお解かりのように、雪はないし、乾燥した低灌木帯なのです。しかし、キリマンジャロ登山は、ここからは勝負なのです。富士山と同じく、下り道やアップダウンのない山ですので、ひたすら標高があがってゆくのです。正直何人かの人が毎年高山病で命を落としてもいます。

テロリスト、ではなく、ヘロリストというぐらいがちょうどなくらい、ヘロヘロしていた時期の写真です。場所は、テロリストの本場的土地、パキスタンです。不老長寿の里への視察に出かけた際、移動中の安全を期して、パキスタン政府が兵隊を同行させてくれました。確かに、薄暗い時間の峠越えには、山賊らしき集団がうろうろしておりました。しかし、失礼ながら、同行してくれた兵隊さん(写真左)らの風貌は、まさに「山賊」そのもの・・。
いつ、兵隊から山賊に変身されやしないかと、ひやひやしているのもしゃくにさわるので、「えいや!あんさんのライフル銃、ちょっとかしてちょ~!」といって、相手の緊張感を確かめたのが、この写真です。しかし、予想に違って、兵隊さん・・。なんのリアクションもありませんでした。ちょっと、勤務に疲れたおっさん、という風情です。「こりゃ、山賊にもなれんな~」と妙に安心した記憶があります。
カンボジアのアンコールワット遺跡です。この頃のアンコールワット遺跡は、現在のように管理されたものではありませんでした。実は、私達が訪れたときにも、シェムリアップというアンコールワットに一番近い町のホテルから、なんと砲撃音が聞こえていたのです。まだまだ、内戦の名残が残っていた時代です。私の後姿も二十歳代のものです。この頃、よくアンコールワットやアンコールトム遺跡、そしてインドネシアのボロブドゥール遺跡を毎年のように訪れていました。
しかし、現在と違って、仏教や宗教にはなかなか興味が無かった頃なので、現地の案内人の解説を通訳して同行者に伝えているのですが、ちょっと怪しい内容だったかもしれません。その当時の同行者の方々、申し訳ありません。現在であれば、年齢的にも個人的関心も、仏教その他信仰心について密度が濃くなっていますので、これから同行される方は、ご安心あれ!
二〇〇一年年春。私はエベレスト遠征隊に参加したのでした。その時の写真です。このときは、一度高度順応のために五五〇〇メートルの小さなピークを登り、一旦所要のために、日本まで帰国いたします。そして日本でものの1週間程度滞在した後、再度ネパールへ渡航し直し、エベレストのベースキャンプへと向かうのでした。色彩は「白」と「青」しかない、標高五五〇〇メートルの世界から、一気に「命芽吹く日本の春」を一週間だけ味わい、再度、雪と氷、そして気温マイナス二十度の世界に戻ったのです。頭が少々こんがらがりましたが、そんな中で、微細に変化する日本の四季の季節感の深みに改めて驚かされたものでした。なんたって、五五〇〇メートル以上では、イエスかノーの選択しかないような世界なのです。「淡さ」とか「まどろみ」とか「おだやかな」とか「うららかな」・・・、なんて言葉が入り込む余地は一切ないのです。それだけに、一時帰国の際に感じた日本の風景には、心打たれたのです。
一九八九年八月五日という日付けが読み取れますね。確かにこの頃、矢沢の栄ちゃんソングが流行っていました。その影響なのか、矢沢風のタオルをもって、パキスタンのナンガパルパット峰の氷河に立っています。
八月のパキスタンは、「もう、殺してくれ!」と言いたくなる位の、猛暑というより酷暑なのです。単純に、その標高が高いだけからの命名なのか・・?「カラコルム・ハイウェイ」という、尋常でない場所につけられた道を、尋常でない気温の中を走ってきたのです。
そうすると、不老長寿の里として名高いフンザ地区に到着します。そこで、一旦体制を整えた後、おんぼろジープでガードレールもなにもない激流沿いの山道を、暑いにもかかわらず、冷や汗を流しながらアプローチするのです。
そうすると、なんと「メルヘンの高原」と名づけられた標高三〇〇〇メートルのこの場所に到着するのです。周りには氷河が展開し、朝晩は結構冷え込むのです。
そして眼前には、「悲劇の山」として知られる、何人もの登山家が命を落としたナンガパルパット峰の巨峰が展開しているのです。
そんな場所での、「コーク イズ イット!」。矢沢の上をいってるかな・・・?
「さあ!急ぎましょう!」という言葉が聞こえてきますね・・。場所は、カナディアンロッキーの山中です。このプログラムは、カナディアンロッキー山中でのヘリを使ったトレッキングだったのです。ヘリを降りてからの注意事項が、頭を下げて、思いっきり羽根の回転範囲から逃げ出す、とのことでしたので、重たい荷物を抱えながら、まるで戦場からの逃避のような姿になっています。
この荷物の中には、テントや食料が満載されており、山中で確か三泊くらいしたと記憶しています。それも、灰色熊の出没する山中のテント場だったのです。ある日の早朝(四時頃だったかな)テントの中で寝ていると、「ブスブス、ガザガザ」という音が聞こえました。思わず、「グリズリー!」と体中に緊張が走りました。しかし、テントの薄い布地1枚隔ててはいるものの、物音を極力たてまい、と身動きひとつたてず、呼吸も喉の奥で止めるくらい静かに、していました。
ほんとうに脇の下から「じわ~」と汗が流れ落ちてくるのがわかります。テントの外では「ブスブス」と、鼻息を鳴らす音と、四足の足音が聞こえます。ほんとうに生きた心地がしませんでした。何分間か経ったのでしょうか・・。記憶がありません。外で物音がしなくなってから、三十分はそのままの体勢でいたと思います。そして、おそるおそる、テントのジッパーを開けて外を見ると、なにもいません。
足跡を確認し、写真をとって後日、「カナディアンロッキーに住んでいる友人に見せると、「そいつは、エルク(へら鹿)だ」、とのことでした。確かに、熊の足跡ではなかったのです。現在は、ほとんどのプログラムがヘリで入域し、完備された設備のあるロッジに宿泊するのがほとんどになっていますので、このような緊張感を味わうことはまずないでしょう。
「にわか日焼け、にわかハミ瓜・売り」です。中国の新疆ウイグル自治区も、現在のような経済成長の時代ではありませんでした。ほんの二十年ほどの前の話なのです。ウイグル族のおと~さんたちもの表情も、ハミ瓜のように甘く、にこやかなものです。
本年にメディアを揺るがせた、新疆ウイグル自治区での民族問題・・。根っこは、この時代から起こり始めていたのです。写真は一九八〇年代後半ですが、すでに砂漠の中では、核実験がおこなわれ、そして天然ガスや石油の開発がはじまろうとしていたのです。
まだ、一九八〇年から一九九〇年代にかけては、そこまで、漢民族の新疆地区への移住は多くありませんでした。しかし、二〇〇〇年代に入ると、この地域の急速な発展振りには、目を疑うものがありました。
新疆に住むウイグルの人たちは、イスラム教徒がほとんどです。イスラムの教えでは、富むものが富まざるものへ、さまざまな支援を施すのは当たり前のことなのです。イスラムの教えにも書いておることなのです。そこへ、急速に変貌を遂げる、中国式(漢民族式)資本主義が入り込んでくるのです。摩擦が起きないのが不思議なくらいでした。
美しい自然と、シルクロード時代からの歴史遺産を誇る新疆ウイグル自治区の将来をしっかりと定点観測地に設定していきたいと思っております。ということは、これからも幾度と無く訪れるということです。希望者がいれば、ご一緒しませんか?
さて、この場所がお解かりになる方は、相当のアジア通でしょう。私の左手には、アジアの団体さんが写っていますね。そして、右手には、ちょっとレトロなファッションの白人さん・・。私の表情も、人々の表情もなにか物憂げに感じませんか・・?
その理由は、写真左手から「ヌ~」っと伸びてきている手とその帳面にあるかもしれません。ここはタイの首都バンコックの水上マーケットなのです。早朝に、エンジン付きボートに乗せられ(といっても自分たちで選んだ行程なのですが・・。
早朝から暑くて、暑くて・・、どこにでも連れて行って・・・!状態なのです)ついた先が、冷房の効いていない、市場の中のみやげ物屋さん。
周りは水郷なので、売り子の攻勢から逃げるわけにもいかず、「いいかげん、はよ移動しようや・・」と、みんながつぶやいているのがわかります。でも、ある一定の時間は、このみやげ物屋さんに拘束されるのです。それが当時のシステムなのです・・。
現在タイも経済成長が著しいので、一時のようなアジア的混沌風景が減少しています。でも、一九八八年五月一日、その日の朝には、確実にアジア的エネルギーに敗北していた外国人がいたのです。
人民帽が写っております。この当時の私のファッションだったのです。妙に人民帽が、思想的なこととは全然関係なく、ピタッとわが頭にフィットしていたのです。写真は、これまた、ふざけた調子で靴の裏のクローズアップ撮影をお願いしているのです。かすかな記憶では、日焼けした顔の黒さより、靴の裏の方がまだ白い!といったことを証明したいがためのポーズでした。場所は、パミール高原。平均標高三〇〇〇メートルの後半です。この写真の前方には、七〇〇〇メートル級の非常に美しい山・ムスターグ・アタ(氷河の父、という意味)峰が聳えているのです。その峰のベースキャンプ地までのトレッキング調査に出かけているときの写真です。夏のパミール高原は、紫外線が非常に厳しく、ものの三〇分もすれば、顔の至る所が真っ黒けっけ。二十歳代の私は、日焼けをものともせず、休憩ごとに、太陽に向かって地肌をむき出していたのです。こんなことをやっていたから、厚顔無垢?それとも厚顔無恥?になったのでしょうか・・・?
私の左手にいる人物は、タイ陸軍の特殊部隊の隊長さんなのです。なんで、こんな人と一緒にお寺にいるのか?ということですが・・。まず、経済成長がまだまだ著しくなかった時代のタイ。資本主義経済の波にもまれ始めていたのは、なにも庶民ばっかりではなかったのでした。
私のタイ人の友人から、こんな誘いが入りました。「日本の若い男を鍛えなおすツアーを考えないかい?」。それは、タイの特殊部隊への体験入隊のプログラムだったのです。その当時、私は、日本の若い男の子にとっての成人(通過儀礼としての)式の形骸化に少々憂いがありました。
私の二十歳の時代には、まだまだ、海外への貧乏一人旅、というものが多少ともなり通過儀礼的に存在していました。ガイドブックも「地球の歩き方」シリーズは発売されていない時代です。海外での貧乏旅行は、等身サイズの自分を直視せざるを得ないのです。旅先での経験は、男の子を「愛情を注がれる側」の住人から、「愛情を注ぐ側の」住人へと変身させてゆく可能性を秘めているのです。
栄養が行き届いた日本の男の子の身体は一人前ですが、心の成人をいつ、どこで、誰から、教わったらいいのか・・?ということに気を揉んでもいました。成人式で、行政の長である人からのお話しでは、なかなか実感が伴わないのでしょう。
そんな時に「特殊部隊体験入隊」のプログラムの話でしたので、「こりゃ、一度自分が体験せないけまへんな~」ちゅうことで、行ったんです。タイ中部の基地まで、のこのこと・・・。確かに、なかなかユニークです。実弾射撃などもできます。落下傘降下擬似体験もできます、そして、ジャングルの中でのサバイバル技術も教えてくれます。格闘技も習得できます。
そして、なにより、「祈り」の大切さも教えてくれるのが、タイ式特殊部隊のいいところでしょうか。写真のように、部隊の中に寺院があり、絶えず隊員が訪れています。そして、お坊さんの話に、耳を傾けているのです。
このプログラム。結果的には実現できませんでした。というのも、日本のヤクザ屋さんたちからもオファーがはいっているようで、その筋の方々と一緒に体験するのは、なかなかエキサイティングですが、帰国後、その筋の方々と妙な仲良しになってもいけませんので、実現化を延期しています。しかし、この通過儀礼としての、体験ツアー・・。いつか実施したいものですね。ただ、希望者が現在の日本にいるかどうか、そっちの方が心配になっています。
現在経済成長著しいチャイナ。ものの二十年前くらいは、「イケテナイ国」の代表格だったのです。写真は、そのイケテナイ時代の中国新疆ウイグル自治区の空港です。飛行機もオンボロ・ロシアからの使い古した機材・・。私の後ろを歩いてくる、スッチーさんの制服も、どこか一九六〇年代の日本の百貨店の売り子さん状態。
飛行機の横にある機材収集車もどこか軍用車仕立てです。そのようなチャイナに、タンクトップの黒尽くめの、アンちゃんが降り立ったのです。頭には人民帽。今から思うと、解放軍の兵士に、よくよく殴られなかったな~、と冷や汗かいています。若気の至りとは、オソロシイものですな~。知らないってことは、それだけで十分冒険していることなのでしょうな~。
場所は、インドの北部・ラダック地方です。ここは、チベット文化を独特の形で継承してきた地域なのです。訪問年は、一九八五年。大学を卒業したばかりの私が写っています。貧乏だったのでしょう・・・。履いているジャージは、卒業したての大学の体育会専用ジャージです。このときご一緒した岡山からのグループの代表者の言葉が今でも心に響いています。写真左手から二番目の方です。
ラダック地方を訪問したのち、インドの首都デリーに戻ってきました。日本へ帰る飛行機へと向かうバスの中のことでした。それまで、ラダック地方も含め、すべての行程の全線ガイドしてくれた現地のインド人ガイドも同席していました。揺れるバスのなかで突然、代表者の方がすくっと立ち上がり、同行メンバーにこう言ったのです。
「みんな!四ドルづつ、私に渡してくれ!」。事由のわからないメンバーは、首をかしげながらも、みんな四ドルを集めて、バスの前方に座っている代表者の手に渡していきました。紙幣をきれいに束ねたのち、代表者の方は、再度立ち上がり、同行してくれたインド人ガイドに向かって、こう言ったのです。
「今日までほんとうにありがとう。御蔭で楽しかった。お礼に、あなたに、皆からの(幸せ)を差し上げる!」
そして、四ドルづつ束ねた、紙幣を「4・あわせ」といいながら、手渡ししたのです。その瞬間、私は、「アッ!」と小さく声を洩らして、感動していました。こんな気の利いたチップの渡し方があるのか・・・。それも、日本人ならではのウィットに富んだフレーズを、アドリブ利かせた会話で包み込むなんて・・・。
当時も四ドルなんて、日本円にしてみればわずかなお金です。しかし、そのグループは二十五名くらいはいたのです。集めると結構なお金になり、それはインドの物価に照らせると、過分なほどのチップになっていまいた。しかし、それだけ、そのインド人のホスピタリティーは抜群のものだったのです。
代表者の頭の中には、そのようなインドの物価や、集金した際のお金の価値なども、十二分に入っていたはずです。さらには、同行日本語ガイドさんの「日本語理解力」も当然頭の中には入っていたはずです。 この岡山からの代表者もただものではなかった・・。地方都市の零細な鉄工所の社長さんでしたが・・。世の中には、肩書きや世間の通評だけでは判断できない人物観があります。私は、この岡山の鉄工所のオジサンのような人物を好みます。
世界で一番古い木なんて聞くと、屋久島の縄文杉のような巨大な大木を想像しませんか?何千年もの存在感を体現してるような、そんなイメージですよね。ところがこのクリスマスツリーに似た世界一古いと言われる木は、高さがたった四㍍ほどしかない細い木です。しかしこの木は、わかっているだけでも樹齢九五五〇年だと言うから驚きです.
この木の年齢を調査した結果によると、見えている上部はそれほど古代のものでもないのですが、その根は少なくとも九五五〇年も成長を続けているのです。二〇〇四年に発見されたこの木はノルウェー・スプルース(えぞ松に似た木)と呼ばれヨーロッパではクリスマス・ツリーとして各家庭を飾ってきました。しかし植物の中で一番長生きをしてきたこともわかりました。
高度九一〇メートルの位置で発見されたこの針葉樹の長寿の秘訣は、その根のクローンシステムにあると言われています。このスプルース(Norway spruce)という名の木の茎は六〇〇年くらいの寿命があり、茎部が死ぬと同時に根から新しい茎が息づいて出てくるのだそうです。
スウェーデンは一一〇〇〇年前までは氷河期の最後の時代として国を氷の層が覆っていたため、九五五〇年前より前から生きていることは不可能だとしています。それまでの調査ではスプルースは二〇〇〇年くらい前に入植されたと考えられていたので、今回の調査結果によってテキストを書き直えることになりそうです。
継続してずっと生きながらえてる木で一番古いのは、カリフォルニア州のホワイトマウンテンにある松の木で約五〇〇〇歳と見られています。この木の樹齢は年輪から測定されていますが、スプルースの場合は根っこは一緒でも幹は生え変わるので、放射性炭素年代測定をしています。
他にも同じような木のクローンを作り出すことで生きながらえている木があるらしく、タスマニアにある松も一万年以上経っているかもしれないと言われています。何千年も経ち続けている木というのが想像つきませんね。古代から生命が途絶えずに生きながらえているとはなんとも不思議なものです。
そういえば、世界遺産屋久島の屋久杉のシンボルともいえる縄文杉(じょうもんすぎ)は、樹齢七千年だと話題になっていた記憶なので、気になって調べてみました。Wikipediaによると諸説あるものの、現時点の定説ではこのようです。「約七三〇〇年前に鬼界カルデラから広がった幸屋火砕流によって、屋久島を含む九州南部諸島の大型植物は全滅したと考えられており、縄文杉の樹齢は古くとも四〇〇〇年以上はさかのぼらないとするのが定説になっている。」
「より良い暮らし指標」を開発=豊かさ、花びらで表示-OECD
ブータンが提唱する「国民総幸福(GNH)」など、国内総生産(GDP)とは異なる尺度で豊かさを測る新たな指標が注目される中、経済協力開発機構(OECD)は24日、国民生活の豊かさを表すことを目的に独自に開発した「より良い暮らし指標(ベター・ライフ・インデックス=BLI)」を発表した。
加盟34カ国を対象に、雇用や健康、環境など11の評価項目を花びらに見立て、視覚的に表現したのが特徴。各項目の評価が高ければ、対応する花びらも大きくなる。花の形や大きさは各国さまざま。日本は「安全」や「教育」の花びらが大きい半面、「ワークライフバランス」や「生活満足度」が小さく、ややいびつな花となっている。
今日は、午後から毎月一回のレギュラー出演にラジオ局へ出掛けてきました。この収録は、私の旅エッセイを毎回一編、アナウンサーが朗読くださり、その後、その旅について私と対話するという具合なのです。
ただ、五十編あるエッセイから、どのエッセイが読まれるかは、その日の出演前にならないと、私はわからないのです。それも、ドキドキ感といい意味での緊張感、そして、リアルタイム感があるので、引き受けたのです。
今日のお題は、北極点でした。暑い夏には、もってこいの話題かもしれませんね。この日も録音されていますので、後日、ユーチューブにてアップいたします。前回の録音をいただきましたので、近日中に、その分はユーチューブにてアップする予定です。
ドイツにて気候性地形療法のプログラムに参加してきました。その前に、朝一番でホテルからとある場所に出かけてきました。その場所とは、クアパークと呼ばれる街中の森公園でした。クアパークとは、街中においても「気分・気持ち」を癒してくれるアクティビティが用意されている公園なのです。
ガルミッシュ・パンテルキルフェンの街中にも、その公園はあるのです。公園内には、静かに思索ができる場所や、散策できる場所、そして観劇する劇場、野外コンサート広場、などなどが複合的に配置されています。
そして、このガルミッシュ・パンテルキルフェンのクアパークだけにあるものを確認してきたのです。それが、写真のものです。そうです。「モモ」を書いた、ミヒャエル・エンデさんです。なんと、このガルミッシュの町で、エンデさんは生まれているのです。クアパークの中には、エンデさんゆかりのオブジェなどが静かに刻を育んでいます。「モモ」に出てくる、「亀」のオブジェもありました。
すでに、お解かりでしょうか?なぜ、ガルミッシュが気候地形療法の聖地としてドイツ中の人が集ってくるのか・・? ドイツ最高峰やドイツアルプスの自然環境だけでなく、ミヒャエル・エンデさんの「時の刻み方」への哲学する気持ちが、この町へ足を向けさせるのでしょうね
屋久島での魅力・・、なんといっても縄文杉なのでしょうが、私は、右上の写真のような一瞬の出来事にも強く惹かれてしまいます。岩肌にまとわりつくむき出しの木の根、倒木を緑で覆い隠す苔、揺らぐように差しこむ午後の陽射し・・・、それらが奏でる、一瞬だけの森のミニ・ハーモニー。このような自然の織り成す風景に身を投じていると、自分の身体に眠る太古からの「縦軸」のようなものを感じるのです。
瀬戸内海の夕暮れ時
遠くには、愛媛県松山の灯群が、はっきりと見えていました。私は常々、瀬戸内海の景色は、世界中のどんな海の景観をも凌駕するものがあると言っています。
エーゲ海、バルト海、地中海、アドリア海、などなど・・・。確かに、それぞれの良さはあると思います。ただ、言いたいのは、この多島美世界の瀬戸内海に沈みゆく夕陽の時間帯は、確美に日本人の心情風景の一部に刻み込まれているのではないでしょうか。
「和」の世界とは、いかに「自然の光」を、無理なく日常の生活に取り込もうとするのか、が骨子のような気がするのです。昨今、リフォームなどが不況のせいかブームとなっているようですが、果たして、そのような和の遺伝子が継承されているのでしょうか・・?日本の風土にそぐわないリフォームや建築をしても、その建物は「時」を刻んでいかないような気がしてなりません。
知人に、和の建築物の修繕や修築を手がけている職人さんがいます。いい顔をされています。日本の風土にあった「時」を刻む建物を手がけている、その顔も、しっかり日本という風土の中で、「時」を刻む自信と誇りに満ちているのかもしれませんね。
正調?おしくらまんじゅう! ヘルスツーリズムの企画・縁側と大黒柱に出逢う旅のプログラムにおいて、アドリブとハプニングで参加者よりの発案で、小学校唱歌を歌う前に、寒さをしのぐためにも、みんなで、おしくらまんじゅうをすることになりました。でも、このおしくらまんじゅうにて、参加者全員が、あったかい気持ちを共有することができたのではないでしょうか?そのあと、廃校になった木造の小学校の校庭で、ふるさと、や、仰げば尊しなどをみんなで歌いました。
一昨日の、毛無山から鯛の巣山への縦走。行程五時間のほとんどを、ブナ林の縦走路であった。ご存知かな?ブナを漢字で書くと、木へんに、無しと書き、「橅(ぶな)」・・・。そうなんですな、なぜ「毛無山(けなし山)」という山名が、中国地方に多いのか?中国山地には、橅の林をもつ山が多いのです。橅の漢字を分解すると、木が無い・・。「毛が無い」→「毛無山」なのである。ブナが多い山のことを、総じて、毛無山と呼んできた歴史はある。一昨日は、そんなガスに煙るブナ林の縦走路を歩きながら、ふっと感じていた。
写真のような光景は、広葉樹のブナ林特有の風景である。このような風景を、中国地方の山村の人々は、当たり前のように(山仕事の途中や、子供たちは薪拾いなどの時間に)出逢ってきたはず。その土地の風景や風土が、その土地の文化や営みの背景に必ずなってきた歴史がある。とするならば、写真のような光景は、中国地方の山村に住む人々の「心情」や「審美眼」、「自然への視座」などを形成する要因のひとつになってきたことだと思う。 私にとって、晴れた日のブナ林よりも、ガスった日のブナ林のほうが、しっくりとくるのは何故なのであろうかと自問しながら歩いていた。もしかすると、十数年の山村での暮らしの蓄積が、その感覚を育んでてきたのではないかと自画自賛したのである。
一昨日に開催された、ヘルスツーリズ推進協議会主催の、講演会やシンポジウムは、広く多くの方々へ、「ヘルスツーリズムとは?」といったことへの理解を求める趣旨もあった。どれだけの情報をお伝えすることができたか、不安でもあるので、わかりやくす解説された資料を紹介しよう。この資料は、全国観光協会という組織が平成22年に編集したものである。
資料で注目していただきたいのは、ヘルスツーリズムに用いられる主な療法という項目である。すでに、森林セラピーや温泉療法、食事療法などは、全国多くの地域で実施されている。しかし、それらの療法の紹介よりも前に、運動療法、気候療法、地形療法という聞き慣れない言葉がくるのである。さらに、海洋療法などもすでに紹介されている。
日本の四季折々変化に富んだ、気候やその背景となる地形、そして海洋国家である日本という国は、すでに多くのヘルスツーリズムへの展開素材を所有しているのである。日本の豊かな自然環境を活用しながらの、新たなヘルスツーリズムという手法展開は、その素材への新たな視座の確立なくしては語れない。では、その視座は、どのようにして養うことができるのか・・・。そこは、し~! 企業秘密なのである??
職場においては若手~中堅にあたるR二十五世代。「働き盛り」なんて言葉もあるけれど、実際のところ、僕らが働くうえでもっとも能力が高まるのって何歳ごろなんだろう? 職種によって異なるとはいえ、人間の能力は大別すれば「身体能力」か「知的能力」のはず。そこでサンプルとして、両者の象徴的な職業におけるトップ集団の全盛期を探ってみた!
まずは肉体エリートの代表として、今年度のプロ野球十二球団の開幕スタメンの年齢を調べてみると、平均は二十九歳。より運動量の多いサッカーJ一の開幕スタメン平均は二十七歳。競技特性の違いもあるが、二十代半ば~後半が身体能力のピークというのはイメージ通りかも。それに対して、頭脳エリートの全盛期はいつ頃か。プロ棋士のデータを見てみると、囲碁の日本七大タイトル保持者の平均年齢は意外と若く三十二歳。将棋の七大タイトル保持者は、やや上の三十九歳だった。肉体に依存しない知的能力は三十代がピークということ?
「人間の知能構造は、記憶力や瞬間的な計算力、運動能力などを左右する『流動性知能』と、マネジメント能力に相当する『統括性知能』、知識や経験に相当する『結晶性知能』の三種類によって成り立っています。流動性知能は一八~二五歳をピークに衰えていきますが、統括性知性と結晶性知能は年齢を重ねるほどに伸びていき、五〇代でピークを迎えるんです」と教えてくれたのは、脳神経科学を専門とする諏訪東京理科大学の篠原菊紀教授。
「立場によっても異なりますが、マネジメント的な役割が求められるビジネスマンなら、必要なのは頭の回転の速さより、深い経験と洞察に基づいた思考力や判断力です。ビジネスマンの脳(能)力の全盛期は五〇代といえるでしょうね」ルールが複雑な現実社会のビジネスでは“年の功”が勝る領域が大きいということかも。将来の全盛期に力を発揮すべく、多くの経験を積んでおきたいものだ。
ここは、塩飽本島に残されている芝居小屋跡です。塩飽の人たちは、躁船、造船技術に長けた集団だったのです。その背景がこの芝居小屋にも繋がるのです。まず、躁船、造船議場集団は、日本各地に呼ばれてその技能を要請されたのですが、特に大阪での仕事が多かったようです。お分かりのように、江戸時代以降、大阪では芝居の文化が華やかになっていましたので塩飽の技能集団も、大阪の芝居に触れたのでしょう。そして、造船技術には、特に木造船でしたので、木材の加工技術(平たく言わば、大工仕事)にも長けていたのでしょう。その二つの背景から、ものような立派な芝居小屋が地域の力によって、立てられ、保存されてきたのです。
咸臨丸の絵図が、塩飽諸島の勤番所といわれる、建物跡に残されています。この勤番所・・・。地方自治の在り方の先進事例でもあるのです。江戸時代、この塩飽諸島はなんと、どこの藩(近接するのは香川や岡山の諸藩)にも属さず、かといって、天領のような直轄地でもなかったのです。なんと、一〇〇〇石以上が幕府から与えられ、その統治は、なんと住民によって選ばれた「年寄」という人物たちの合議制で決定されていたのです。
その合議場所や、意志決定場所がこの勤番所であったのです。さてさて、この勤番所になぜ、咸臨丸の絵図が残されているのか・・。それは、咸臨丸に乗りこんだ五〇名近くの水夫の中で35名が、ここ塩飽諸島出身者であったらしいのです。広島県東部の瀬戸内海を根城にしていた、村上水軍のように、勇猛果敢な戦を挑むような水軍組織ではなかったようですが、塩飽水軍は、その躁船、造船技術に非常に長けた集団だったようです。村上水軍が戦いに優れた集団とすれば、塩飽水軍は戦国時代から、輸送システムに優れた集団だったといえるようです。この伝統が、我が国初の太平洋横断航路をとった、咸臨丸の人員構成に波及していくのです。そんな輸送システムに優れた技能を持つ集団が、江戸時代には地方自治をおこなっていたのです。その中心であった、幾人かの年寄りの墓が下記のような立派なものなのです。
日本の神話の原点といえば、古事記や日本書紀。それぞれの始まり部分には、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男性神と女性神が、国生みをおこなう場面があります。
その国生みの物語の、これまた最初の部分に、「オノゴロ島」というのが出てきます。両神が「オノゴロ島」にて夫婦の契りを交わしたのち、淡路島から始まる大八島を造っていった、との記載があるのです。
淡路島や壱岐、隠岐、四国などなどの島々の名前は、現代にも受け継がれており、地名としても確認できるのですが、「オノゴロ島」については、場所の確定などが不明瞭となっています。
この「オノゴロ島」・・・。さてさて、どこのことなのでしょうか? また、実際に存在している島なのでしょうか・・? ということで、今回は、その神話の謎が漂う、周囲一〇キロ程度、人口四五〇人前後のとある島にウォーキングに出掛けたのでした。
私の記憶がただしければ、これまでの人生で一番多く渡航した国は、間違いなくネパールである。およそ九〇回くらいにはなるだろうか・・。そんなネパールには友人知人がたくさんいる。その中でも、この写真の家族とは25年以上にも渡すつきあいである。写真右手上の若い男性は、寅吉( torakichi)という名の、日本ネパールの双方の血が入っている身長一八〇センチのイケメン青年。
この青年が三歳のころからのつきあいである。毎年数度のネパール渡航であるが、必ずといっていいくらいこの家族とカトマンズで会っている。現在は、家族でカトマンズ市内にて「操体(sotai)」という、ボディバランシング術のクリニックを開いている。カトマンズ在住の各国大使館の職員などの多くの健康状態を支えてもいる。イケメンの青年は昨年結婚した。
その相手の女性というのが、ネパールでの有名人でもある。若干二〇歳代の半ばで、ネパール人女性で世界最高峰エベレストに登頂をした数少ない人なのである。登山の技術のみならず、その才色兼備の容姿も世界各国の登山家の間で垂涎の的だったらしい。 今回も、テーピング用のテープや治療にかんする書籍などを持参した。
本日は、ほんとうに久しぶりに仕事のない日曜日・・。天気もよく、あらかじめ予定していた個人的なスケジュールをこなしてきました。場所は、広島市内のとある高校のサッカーグランド。広島県高校サッカートーナメント大会・ベスト八を争う試合の会場です。
昨日のベスト一六選出時には、広島を代表する皆実高校が敗れるなど、大番狂わせもありましたので、各高校とも、モチベーションが上がりっぱなりです。本日の第一試合も、延長戦でも決着がつかず、PK選での決着となりました.その余韻が冷めやらない中、息子が所属する高校が本日の第二試合目として、強豪チームとの対決が始まりました。息子が所属する高校は、これまでベスト八などお話にならないくらいの弱小チームでした。いつも、予選の段階で姿を消していたのです。
それが、昨年から赴任された、新しい指導者のもと、快進撃を続けていたのです。そして、本日。前半は、0-0のまま、決定機がお互いにない状態で膠着ぎみでした。そして、後半にはいり、我が(息子の所属する高校)チームのコーナーキック・・・。ちょっと低めのコーナーからのクロスに、フォワードが頭を合わせ、ゴール右隅にゲット!そのまま、後半も互いに決定打が出ないまま、時間終了か!と思われたその時、相手チームが我が方の自陣ペナルティエリアすぐそばにて、ファールをゲット・・・!!!うわ~!ペナルティエリア近くからのフリーキック~!!
ありゃ~!!どうする!そして、ゴール前にて壁を作る自軍、その壁とつばぜりあいをする相手選手・・、時が止まったかのような時間が一瞬流れ、「ピー!!」というレフェリーの合図。「バーン」とキック音! 一瞬の間をおいて、「ワオ~」「ウオ~」・・・、「ええ! うそやろ・・・」
そして、ゴールに入ったボールをセンターラインに戻した自軍選手がひと蹴りした、その直後、試合終了の笛。崩れる自軍の選手たち。小躍りする相手チーム。しかし、物語はそれで終了しません。その後、延長戦も前半・後半ともにお互いに決定打のないまま、延長を終了・・・。いよいよ、PKでの決着です。いやがおうにも、盛り上がります。
我がチームは、後攻でした。四名までお互いに難なくゴールゲット!相手チームの五なんと、自軍のキーパーがスーパーセーブ!! 「よし!これで大丈夫や・・・!」と思い、ベスト八がチラチラと目の前に揺れたのでしょうか?? なんと、自軍の五人目がキックした瞬間、大きな悲鳴が。なんと無情にも、ボールは左ゴールポストの外を流れていったのです・・・。
肩を落とす、自軍の選手たち。二度まで、勝利を目前にしながら、女神が笑ってくれないのです。もう、こうなると、世の中の経験則として、相手チームに「完全な流れ」が移っています。そして、相手チームの六人目は、なんなくゴールをゲット! もうこうなると、自軍のメンバーに異常なプレッシャーがかかるのは当然です。そして、自軍の六人目のキック! 相手チームのゴールキーパーが、ボールの方向を読んでいました。「うわ~、あかん!」 と思った瞬間、キーパーの手をすり抜けて、なんとかゴールゲット!! 「生き延びた~・・。」
もう、この段階にて、会場であるサッカーグランドは「異次元の空間」になっています。いわゆる「新しい物語が生まれる瞬間」を待つ空気が流れ始めているのです。私は、このような空間に同席できることが、たまらなく嬉しくてなりません。さあ、PKの続きです。七人目も互いにゴールゲット! 「どこまでこのPKが続くんかいな!」八人目の番が来ました。 先攻の相手チームがキック! なんと、自軍のキーパーが、またまたファインセーブ!! 大きな歓声と拍手がおきました。さ~て、自軍の八人目です。ゼッケン12番!2年生の選手(後でわかりました)です。
「あれ? えらい、ゆったりとした動きやな? ん~!よっしゃ!それでええんや!」 遠目に見ても、十二番の落ち着きが見てとれます。 そして、レフェリーのキック開始の笛!!「ピー!」・・・、「ウワオ~!」「キャ~!!」「ウリャ~」・・・・、 「よっしゃ~!!!」
歓喜の輪に飛びう込もうとする控えの選手(その中に息子の姿もありましたが)、片や膝を屈し、肩を震わせる相手チーム。高校生の、それも、一地方のサッカー大会、それも、ベスト8選出の試合。家人が所属しているチームの試合とはいえ、このような「まさに、筋書きのないドラマ」を地でゆくプロセスを、リアルタイムで共有できたのです。息子にはあとで言いました。「今日のような、歓喜の輪に飛び込み、感激をチームで共有した時間は、これからの人生の中で大きな大きなココロの糧となるはず」
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(地元紙の記事より)
平茂二十四年度 広島県高等学校総合体育大会(男子サッカーの部)二回戦八試合が行われる!高校総合体育大会(男子サッカーの部)二回戦八試合が、二〇一二年五月二十七日に四会場で行われる!観音が県工業に快勝!瀬戸内は城北を退ける!山陽は逆転勝利!盈進は、海田に対して、昨日の勢いで敗戦濃厚な試合をひっくり返す!国泰寺・高陽は接戦をものにする。祇園北・国際学院はPK戦をものにする!(広島県立祇園北高等学校 1 - 1 近畿大学附属東広島高等学校 )=( PK8-7で祇園北 )ベスト8は、盈進・祇園北・山陽・高陽・瀬戸内・国泰寺・国際学院・観音に決まる!6月3日に準々決勝4試合が、呉総合と広島スタジアムで行われます。11時と13時キックオフ!皆さん応援に行きましょうね!
昨日、カトマンズの知人が営んでいる、曼陀羅の工房を訪れました。この工房は、カトマンズでも指折りの絵師を揃えています。代表者のSさんは、昨年も日本に来日され、曼陀羅の展示会などを開かれています。私は、そのお手伝いをしながら、曼陀羅の紹介にも力をそそいでいます。あまりにも、まがい物や偽モノ、そして稚拙な曼陀羅が、堂々と仏教関係者の間のみならず、日本の中でまかりとおっていることに、友人は心を痛めてもいます。曼陀羅の絵師は、同時にチベット仏教の深い理解者でなくてはなりません。芸術としての曼陀羅は、それ以上に、信仰の背景の意味が付されているのです。その意味とは、宇宙の真理といってもいいでしょう。そのような、チベット仏教美術の最高峰として、両界曼陀羅が存在します。この工房で二人の絵師により一年以上の歳月が費やされた両界曼陀羅の開眼式が六月におこなわれます。この開眼式とは、チベット僧侶により、曼陀羅に「魂入れ」がおこなわれるのです。めったに見学できるものではありません。
京都の街中を流れる川。この水も琵琶湖の疎水から流れているのかな?なぜかこのような景色は、昔の学生時代を振り返ることができます。しかし、現代の京都ではこのような新しいはやりの風景が展開しています。そこは、修学旅行生の町・寺町や新京極周辺。
私は、この通りの背後あたりで、修学旅行生相手の旅館で布団敷きのアルバイトをしていました。懐かしさを求めて歩いていると、「ええ~!パタゴニアやんかいさ!」その至近距離には、「ええ!レディースとキッズ専用のアウトドア専門店・・・」、こりゃ、近々広島にもこのムーブメントは来るそ!と、実感しました。
四十歳代以下の人は、生の紙芝居を体験してないかも?私の古くからの知人に、九州は筑豊の紙芝居屋さんがいます。まあ、地元では、「紙芝居のおいちゃん」として親しまれています。
もう三十年の付き合いになります。なにをかくそう、私の仲人さんでもあるのです。
そんな筑豊の紙芝居屋さんと一緒に、九州の山に登ったのです。ご一緒した方々を前に、マイクロバスの中で即興で紙芝居をしている風景をご紹介!
ちょっと、レアな写真です。
シリコンバレーが退社時間を迎えると、アメリカ人技術者のする仕事は、インドへの引き継ぎのメールを送ることらしい。インドの技術者たちが朝出勤後すぐにとりかかるのは、アメリカからのメールを開くことらしい。時差を活用した二十四時間体制でのプログラム開発が現在の最先端技術を生む素地となっている。インドの経済成長の大きな柱には、このITテクノロジーの高さと言葉におけるハンディのなさ、そして二十四時間フル稼働できるために都合のいい、アメリカとの時差がある。
その一端を、技術的には改善の余地を残してはいるが、世界最安値での乗用車(ナノ)の開発に見ることもできる。世界における注目度は、中国を抜いてインドにシフトしつつあるようだ。かたやインドからは、別次元での、驚くようなニュースも流れてくる。四月に、七十年間飲食をせずに生きてきた八十三歳のヨギ(インドの聖者)をインドの軍医チームが病院に聖者を缶詰にして観察している、といった内容の記事が流れた。医学的な検証の結果とその信憑性は定かではないが、二十一世紀にこのようなニュースが出現する素地がインドにはある。
無機質なコンピューターの技術開発において無限大の可能性を秘めている国から、非科学的で一般常識では把握しきれないような事象が出現してくるのである。七十年間も飲食せず、そして排泄もしない生命体が果たして存在できるのか…、ということはサイエンス的実証の世界ではなく、フィロソフィー的思索の世界で受け止めないと単なる酒場での話題提供のひとつで終わってしまうだろう。
システム開発のエンジニアをしていたインド人の知人は、このヨギのニュースに深く感銘を覚えていた。おそらくやインド人の多くは、このヨギをリスペクトしていることだろう。現世での森羅万象をフィロソフィー的思索でアプローチしようとするのか、それともまず、サイエンス的実証で分析しようとするにかによって大きく人間のタイプは分かれるように思う。インド人の多くは前者のような気がする。
その背景には、「自然の大きな循環に寄り添う人間の一生」という考え方がある。ヒマラヤに降った雨や解け出た雪は、インドの大地を滔々とガンジスの大河となって流れてゆきインド洋へとたどり着く。灼熱の太陽に熱せられ、水蒸気となって天空へと昇り雲となる。地球の自転によって発生する風に運ばれ、その雲はヒマラヤに戻ってき、冷えた大気に晒され雨や雪に変化しながら再び源流へと回帰するのである。そのおおいなる循環の中流域に聖地・バラナシがある。インド人にとって至福の終末の迎え方は、そのバラナシにて荼毘に付され、遺灰をガンジスに流してもらうことだと聞く。遺灰は、大いなる自然の循環によって、ヒマラヤからインド洋の旅を繰り返すことになるのだろう。
このような「誕生」「流転」「昇天」「再生」「回帰」の循環を自然のサイクルとシンクロさせるフィロソフィーがインドの大地には二十一世紀でも、太い根となって張り巡らされていると感じる。遥か昔の出来事ではあるが、「ゼロ」の概念の発見も、そのフィロソフィーが背景となっているのではないだろうか。このフィロソフィー的思索は、二十世紀の欧米諸国や日本、そして二十一世紀の中国の経済発展では疎かにされてきた。今を生きる私達は、各分野においてその猛省を強いられ始めている。自然という言葉さえ、安直に使用されすぎてもいる。
インドという国が歩んでいく未来図が、もしかすると人類にとって明るい光明のひとつになるのではないだろうかと感じるのである。それだけに、七十年間飲食・排泄をせずに生存しているといわれるヨギ(聖者)の存在が気になっていたしかたないのである。
昨夜は、某国立大学のゼミにて発表をしてまいりました。ウン十年ぶりの「ゼミでの発表・・」、研究の入り口にも到達していない者に、発表の機会を与えてくださった担当教授の懐の深さに、まず感謝しています。
これまでの山岳・自然分野での「心身の健康回復、健康増進、いきがい創造」などの為のプログラムに従事してきた個人的な動機や、その必要性を感じた社会的背景。その上で参加者のプログラム実施時における感想や、参加前と参加後の行動変容、参加者の動向(男女比や年齢別傾向など)。
そして、「自然の中で、歩行を中心とする旅プログラム」の日本における歴史的変遷。さらには、その旅プログラムの内包する、個人、社会に対するヘルスプロモーション効果の可能性などについて、自分自身の二五年以上の山岳ガイドとしての体験に、代替療法家(鍼灸師)の目線を加えた立場からの分析と課題をお話いたしました。
拙い発表内容だったにも関わらず、発表後はゼミ参加者から多くの参考意見を出していただき、久しぶりに「大きな知的興奮」を感じることができました。自分自身が感じてきたことや学んできたことを、どのように社会に還元していけばいいのか、ということをここ十年くらい絶えず考えてきていました。そんな時に出会ったのが、このゼミの担当教授(ヒマラヤでのご縁なのです)だったのです。
これからも、現場で実践していきながら、その学術的論拠を明らかにするためにも、ゼミ通いが続きそうです。
本日、記念すべき「里山登山学校」の開校式を迎えることができました。開校式の場所は、島根県の名峰・三瓶山。参加者は、講師陣も含めて四十名を超えていまいた。私がこの学校の校長先生・・、ちょっと脇の下がこちょばい・・。しかし、講師陣には、世界的な登山家・名越實先生や、装備のプロの鈴木先生なども参加していただきました。私が、企画監修ならびに医療部門担当講師として、これから二年間の講座を受けもちます。
講座といっても、固ぐるしいものではなく、「一緒に自然の中での共有できる時間」を創造していきましょう!といったコンセプトなのです。講師陣のキャラもユニーク・・。上から目線の「教えチャル!」というスタイルはとらずに、「ともに気づき、学んでいきましょう!」といったスタイルでしょうか・・。これから、多くの人たちとの会話や出来事を楽しんでいきたいと願っております。
今日は、クラブ主催の『森の賢者の声を聞く』シリーズ第一弾を実施しました。講師には、ヒマラヤン・ユキのカルキ・パラメソールさんでした。森の中で、南アジアの伝統医療である、アーユルベーダの講義と実践編(呼吸法や瞑想法、ネイチュアーウォークなど)のプログラムを実施いたしました。多くの方のご参加をいただき、また、スペシャルゲストとして、ヒマラヤの山岳案内人のマハビールさんも参加してくれました。
まずは、夜の懇親会の様子です。マハビールさんも参加となり、この夜は、まさに、ヒマラヤンナイトとなったのでした。カルキ先生からの、二時間にわたる、アーユルベーダーの入門編のお話・・・。カルキ先生は、アーユルベーダの考えに基ずいたヒマラヤの紅茶の入れ方を教授してくれました。やっぱり、本場の先生からの紅茶談義、講義、そして実践のお話は、深みがありました。翌日には、森の中での呼吸法や歩く瞑想などの指導を受けました。
本日の毎日新聞朝刊・広島面にて、清水代表の新刊本のことが大きく取り上げられています。その記事を紹介いたしましょう。
中国新聞社の記者からも先日詳細な取材を受けられていましたので、近日中にその記事をご紹介できることでしょう。
また、昨日には、テレビ局のRCC中国放送からもコンタクトがありましたので、テレビ放送の中でも紹介されるかもしれませんね。
加速する欲望・理想だけではないブータン・・。
下記の文章は、現在ブータン国にお住まいになっている、広島出身の女性の文章です。考えさせられますね・・。
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<加速する欲望>
GNHという概念がブータンから生まれたのは、ある意味でブータンの人々が周囲のどの国に比べても、集団として「満たされていた」ということだろう。そう、かつてのブータン人は充足していた。種類は限れてはいたが食べ物は十分あり、家族はいつも一緒で、村の人はみんな知り合いで、子ども達は地域に守られていた。
店に売っているものはどこも同じで、どの家にも同じものが並んでいた。子ども達は同じインド製のサンダルを履いて学校に通い、靴でないから、靴下を履いていないからと子どもを叱るような先生もいなかった。だって、先生もサンダル履きだったから。
ブータン人は自覚こそしていなかったが、実は幸せだった。おそらく今以上に。外からの情報を手にすることのできる人は限られ、それは楽しいおとぎ話のように村々で語られた。私の夫は都会にあるという「電気」というものの話を聞いたときのことを、今でもはっきり覚えているという。ブータンにも情報化社会が出現した今、情報は楽しいおとぎ話とはなりえない。それはただ欲望を生み、社会は不公平感を増幅していく。
二〇〇五年十一月に行われた第八十三回国会で、あるチミ(国会議員)はこんな質問をした。「大規模な発電所建設が西ブータンに偏っているのはなぜなのか。東では自国内に存在する発電所が作る電気を、インド経由受けなければならない地域もあり、慢性的な電気不足は解決してはいない。」
もちろん、発電所建設には適した地形が必要だということを見逃すわけにはいかないが、「海外からの資金は東や南へは届かない。」という思いは、人々の心の中に根強く潜んでいる。それは、ブータンにおける開発の歴史を見れば明らかな事実でもある。また先ごろの憲法草案についてのモンガルでのミーティングで、ある学生はこんな質問をした。「外国籍を持つ外国人はブータン国籍を取得できるのか。その場合、元の国籍を放棄しなくてはいけないのか。外国籍を得たブータン人は、ブータン国籍を放棄しなくてはいけないのか。」
知らなければそれで済んだのに、見なければ今まで通り、穏やかに充足して暮らせたのに。知ってしまったら比べたくなる、見てしまったから欲しくなる。隣人が持っている物は、それがどう自分の生活に役に立つかはさておき、手に入れなければならない物となる。
かつて国王陛下は「欲望は人間が受け取る情報量と比例して増大する。」と述べられた。まさに、今の首都ティンプーを想起しておられたかのような言葉だ。「我が国民の良識を信じる。」と語られ、導入となった衛星テレビ、インターネット。それらがもたらす莫大な情報量が、どういった影響を与えたか。今ブータンに生きる人々はこの国始まって以来の、外界からの多種多様な情報にさらされている世代なのだ。そして残念なことに、ブータン人にはまだこういった情報を、取捨選択する能力が開発されていない。まさに、ここにブータンの現在の苦悩がある。
<GNHという概念によって不幸せを自覚していくブータン人>
十二月になって、ティンプー市内には親戚を訪ねてきた地方の人たちが目立つようになった。明らかに首都生活者でないことが見分けられるという現実は、何を示しているか。電気店で遠慮がちに山と詰まれた輸入電化製品を遠巻きにする彼らは、つい七年前の私の家族の姿だ。
家族がこの七年間に手に入れたもの。乗用車、フラットテレビ、マルチビデオデッキ、DVD/CDV/CD プレーヤー、冷蔵庫、新型保温炊飯器、湯沸かし器、洗濯機(この七年で二層式から全自動へと変わった)、電気調理鍋、掃除機、夫婦一台ずつの携帯電話、子どものための自転車、そして首都郊外の猫の額ほどの土地。だけど、まだまだ足りない。まだまだ十分ではない。
水道をひねれば水が出るのが当たり前。毎日、温水でシャンプーするのが当たり前。真実なにが美しいのかさえ、今の首都ティンプーは見失いつつある。日本が来た道、ブータンが行く道。GNH はわざわざ言葉にして概念化する必要もなく、昔からブータンに存在したのだとある政府高官は語った。
さて、GNHが世に出、「世界で一番幸せな国」などという枕詞がブータン紹介に必ずつくようになり、自分が「幸せですか?」と面と向って尋ねられて初めて、ブータン人は自己の置かれた状況を振り返ることになる。そんなことを考えずに暮すことのできた時代は、すでに終わりを告げた。二〇〇一年七月にNHK にて放送された「地球家族」の取材の際、日本語通訳である夫はその仕事の難しさに苦りきっていた。『単純に「あなたは今幸せですか?」とその通りの言葉・単語を使って聞いて、その質問の意図を即座に理解できるブータン人は、ほとんどいない。
そういう人達は、かなり恵まれた生活・外の世界での教育を知っている人だと思う。村の人には「幸せ」という単語はそのまま通じないんだよ。「家族は元気ですか。」とか「心配はないですか。」「よい暮らしですか。」とか「家畜は元気ですか。」と「農作物はどうですか。」とか、噛み砕いて質問しないと、ただ『Are you happy?』って聞いたって、わかってもらえないんだよ。で、そういう状況だっていうことを取材チームの人にわかってもらうことが、また難しくてホントに大変なんだ。』
昨日、大阪の民族学博物館にての、梅棹忠夫展に行ってきました。初代・民族学博物館の館長さんです。私が、大阪にいた頃、この知の巨人を招いての座談会を主催したことがあります。大阪の料亭にての設定でしたが、さすがに、緊張いたしました。京都大学の人類学・民族学の王道を往き、今西錦司さんに師事をし、民族学博物館を創設し、そして、数多くの著作を上梓されている、知の巨人です。旅についてのテーマでの座談会でした。お話になる姿には泰然とした風格を感じました。
今回、その時に務めていたエージェンシーの仲間が四名集い、この回顧展を見学したのです。梅棹さんの回顧展示を見ながら、途中の休憩時間には、昔の若かった頃の話で盛り上がり、再び、展示物に見入り、さらにまた、休憩時間に、いやというほど笑いあい・・・、学びと気づきと、そして、思い出の、充実した一日でした。
下記は、とある僧侶と鍼灸師との間で交わされた往復書簡です。
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(僧侶より)
散髪屋のおっさんと世間話をしていました。神戸の地震の時、散髪屋のおっさんは地震で店が壊れて避難所暮らしでした。弁当の配給が一段落すると自炊資財が配られたそうですが、公民館の台所でジャガイモの皮をこうとして包丁がガタガタなのに気づき、刃物研ぎをしたそうです。すると皆から喜ばれ、そのうち、やる気が出てきて店を再建したとのことでした。
やはり、特技は持たなくっちゃなりません。そういえば僕が出石の水害でボランティアをした時は、大きな声で「休憩にしましょう」といって、お茶にして、皆(ボランティアの人たち)から喜ばれました。自分の特技が「休憩!」という号令かけかどうかはさておき、技能のある人は立ち直りも早く、「一芸を持つ」ことは生き抜く術を持つことでもあります。
現在、募金集めに奮闘していますが、これはなかなか難しいです。それでもお寺というブランドのおかげで、軽四の新車が買える程度には集まってきました。僕の特技はしばらくの間おあずけにして、頑張ってみます。
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(鍼灸師より)
その通りですな。修羅場に強い、というのも、特技のひとつです。その修羅場に強い、という特技は、現代のエリート教育では養うことがなかなか難しい。江戸時代や明治時代では可能だったかもしれない。しかし、戦後の民主教育下では、困難である。ましてや、運動会の徒競争で、みんな一緒にゴールさせる教育下ではさらに困難である。では、どうすれば・・・?
国家の命運を担うエリートは、イギリスの特権階級の子息たちのように、寄宿舎に入れて、エリート教育をするべきである。しかし、そこで教え込むのは、グローカルな教育と同時に、ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige、 ノブレッソブリージュ)は、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」)ではなかろうか。英国の王室の息子たちは、必ず軍隊勤務が義務ずけられる。
そして、侯爵、子爵などサーを持つ階級人は、かならず社会奉仕活動を義務づけられる。かたや、労働者階級は、サッカーのフーリガンにもなるけんど、職人的生活をおくる。ドイツのマイスター制度などは、その典型ではなかろうか。エリートは、国難の時に最前線にでる義務があり、普段は国家大系を考える。一般民衆は、それぞれの分野の「匠の技」を磨き、その技の熟練度で尊敬を集める。散髪屋は刃物研ぎで、農家はよき食材を見分ける技、鍼灸師は体を癒す技、僧侶は心を癒す技・・・・。
では、サラリーマンと呼ばれる人種は、なんの「技」をもっているのであろうか?特に、サービス産業に所属しているサラリーマンの技とは・・?漫然と人にサービスを提供しているのでは、なかなか、サービスの技は養えない。サービス産業の本来の「技」は、人々を笑顔にすることであり、そのパフォーマンスの技であるべき。
そんな「スマイル・メイキング」の技は、平時の社会では、なかなか養えない。それこそ、難民キャンプでの子供たちの「無垢のスマイル」や、疲れ切った前線の兵士たちの「沈黙のスマイル」、未開発と呼ばれている秘境の民族の「他意のないスマイル」、などなどを、わが目で見る体験が、そのオリジナルのスマイル・メイキング術を育成するのではないだろうか?
やはり、「一人旅」は、現代に残された、「品性を持った大人への通過儀礼」ではなかろうか?
『内なる辺境』=旅とは、心の空白部分への刺激である。
エージェント組織に属していた26歳(組織人2年目・昭和61年)の時。組織が発行するニュースレター紙に写真のような解説文を執筆している。(下記がその抜粋文章・まだ旧姓である)
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辺境・秘境の旅 Q&A
(Q)私は旅が好きです。一度海外旅行をしようと考えているのですが、ありきたりの行き先では、満足感が得られない気がします。
その土地に住む人々との触れ合いが大好きで、他人とは違ったユニークな体験をし、感動し、そして大きな満足感を得たいのです。一人で行くには少々心配ですし、何か良い方法があれば教えていただきたいのですが。
(A) 地図上での空白部分はほとんど残されていません。しかし、交通、通信の問題上、外部との接触の少ない辺境・秘境の地はまだまだ残されています。
ネパールの山奥、ニューギニアの密林、チベット高原、パミール高原、北極圏、サハラ砂漠などなど。
これらの土地に住む人々は、外部との接触の少ない環境の中で生活を営んでいます。明らかに彼達は、現在の日本のように文明の恩恵にたよりきった生活をしていません。
押し寄せる文明の波にとまどいながらも、自分達の生活に必要なものは吸収しようとしています。私は、そんな人々の姿に触れることで、 ドラマチックな感動を覚えます。
感動というのは、実は自分自身の日頃の生活態度、物の考え方、見方を反省する部分が大きいと思います。
現代文明の中で暮していると、高地の岩陰にひっそりと咲く小さな花を見ても湧き起こる想いがなくなってしまうようなことになるかもしれません。
地理学上の空白部分としての辺境は残されてはいませんが、自分自身の『内なる辺境』という空白部分が残されているのではないでしょうか。
感動とはその心の空白部分より生ずるものであり、生活全般の異なるドラマチックな世界は、そんな私達の心の空白部分に多くの刺激を与えてくれることでしょう。
絵ハガキの写真を、もう一度確認するための旅ではなく、“発見、感動"を覚えるための辺境・秘境の旅をもっともっと身近なものとしてとらえてもよいのではないかと考えます。
※ 写真資料は、昔のハードディスクの記録集から。
2024年6月22日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。