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(本の表紙写真は、明治のネパール人留学生というタイトルの書籍。著者は、Harendra B. Barua氏)
今から百年以上も前の一九〇二年のこと。ネパールの国費留学生の第一陣として八名の若者が、明治時代の日本を訪れている。そして、これらの若者を、河口慧海師をはじめ、多くの日本人がサポートしたのである。下記は書籍の日本文冒頭部抜粋。
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栗、菊、柿そして藤は、ネパールのカトマンズでもそれぞれ大きめのKam、Godavari‐phool、Haluwabed、そしてNll‐laharと呼ばれ、人々のあいだでよく知られた花。果物である。これらはいずれも、日本では何百年もの以前から、ごく普通に見られる植物である。
しかし、藤や菊の花の美しさや柿や栗の美味しさは、二〇世紀のはじめまでネパールでは馴染みのないものだつた。これらはすべて、今から百年前に日本での勉学を終えて母国に帰ったネパールの若者たちが持ち込んだものなのである。
この若者たちこそが、ネパールから日本に渡つた最初の留学生だつた。彼らは持ち帰った花や果物の種子を貴族の家の庭に植えた。そればかりでなく、若者たちは日本で学んだ専門的な知識をも祖国に持ち帰つたのである。
二十世紀初頭、アジアを含めた世界中の国々が西側諸国に学生を送り込み、近代化を学び取ろうとしているときに、ネパールは若者たちを日本に送り、兵器製造、機械工学、鉱山学、農業、応用化学、そして製陶術の分野で進んだ技術を学ばせた。
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二〇一五年に発生したネパール大震災からの復興には、明治時代に国造りに志を燃やした先人たちの行跡なども大いなる教訓となっていくことだろう。
※下記はとある寄稿文である。
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二十世紀初頭、アジアを含めた世界中の国々が西側諸国に学生を送り込み、近代化を学び取ろうとしているときに、ネパールは若者たちを日本に送り、兵器製造、機械工学、鉱山学、農業、応用化学、そして製陶術の分野で進んだ技術を学ばせた。しかし、その後ネパールでは、近代化の努力をうまく推し進めることができなかった。国の発展に必要な安定した政治と平和は維持されていたものの、それは封建制度という枠組みのなかであった。
一〇四年間にわたるラナ家(日本での将軍家にあたる)による平和な支配のあいだに、将来に対する明確な考えと意志さえあったならば、政府はさまざまな開発計画を実施することができたはずだ。しかし、実際には、この百年余りものあいだ、ネパールは世界から孤立した状態にあったのである。一八四六年から一九五一年にかけて、ラナ家は階級的な支配制度を確立し、ネパールに君臨しつづけた。
この間、国王の主権は敬意をもって認められてはいたものの、実際の権威はいくつかの儀式を司ることだけに限られていた。実質的な国の支配者は首相であり、首相も他の大臣職もラナ家の人間で占められていた。そうした国王と首相の関係は、一六〇三年から一八六七年まで続いた日本の江戸時代における、天皇と徳川将軍の関係に類似しているといえる。この期間、日本でも鎖国政策がとられていた。
ラナ家が勃興した背景には、一七七五年から一八四六年にかけてネパールを支配した不安定な宮廷政治がある。ラナ家の前身であるクンワル家やタパ家、パンデ家、バスニャト家といった一族出身の人たちが、宮廷政治でさまざまな役割を果たしていた。度重なる動乱のために政治は不安定になり、中央の権威は弱体化した。ラナ家を創設したジャンガ・バハドゥルはクンワル家の出である。ジャンガ・バハドゥルは一介の陸軍大尉から、わずか二九歳にして首相にまで上りつめた。
一八四六年から七七年に亡くなるまで、ネパールに君臨したのである。ネパールが当時インドを支配していた英国東インド会社の領地にならずにすんだのも、彼の働きがあったからである。ネパールのジャンガ・バハドゥルも日本の豊臣秀吉も、底辺からトップに上りつめた人物である。両者とも国の全土に支配を及ぼした。秀吉はごく普通の足軽で、ジャンガ・バハドゥルは陸軍大尉だった。歴代のラナ首相のなかには、国民の生活を改善する努力をした人もいた。しかし、改革を施そうとするたびに激しい反発にあい、ライバルである兄弟や従兄弟たちに首相の地位を奪い取られてしまうのが常だった。
そうしたなかで、デヴ・シャムシェル・ラナ首相は慈悲深く進歩的で、自由を愛する最初の支配者だった。彼には豊かな教養があり、さまざまな改革を実施した。カトマンズの南にあるナックーの兵器庫を大々的に改良し、万人への教育を唱えて全国に三〇〇の小学校を開校する指示を出し、ネパールで最初のニュースメディアである「ゴルカパトラ」 (大きな発行部数を誇る政府系日刊紙)を発行し、そして、奴隷制度廃止のために働きかけ、他のさまざまな社会福祉事業を行なった。
一九〇一年に彼が始めたカトマンズ市民に正午を知らせる大砲の音は、一九八九年まで毎日欠かさず鳴りつづけた。さらに、さまざまな分野の代表からなる顧問委員会を設置し、国王の下に議会制度を開くことさえしばしば口にした。デヴ・シャムシェルはつねに国民の生活が向上することを念頭に置き、そのための開発プログラムに資金を出したりもした。カトマンズのタパタリにあるデブ・シャムシェルの自宅には議会ホールがあり、人々の代表が集まって会議を開いた。デブ・シャムシェルのひ孫にあたるヒマラヤ・シャムシェル・ラナによると、この会議には初めて下層階級の代表が出席したという。おそらく、それはデブ・シャムシェルが心に描いたような議会だったのであろう。
もう一人の進歩的考えをもった首相であるパドマ・シャムシェルも教育や行政、地方自治、司法の独立、そして他の福祉計画を奨励し、改革を施そうと試みた。こうした発想はよかったのだが、彼は政治力と指導力に欠けたため、辞任をしなければならなかった。上にあげたことはデヴ・シャムシェルが始めた改革の一部にすぎない。改革をうまく進めるには、技術を身につけた人間と、先進諸国の進んだ知識や技術が不可欠である。それをどう獲得しようかと思案していたところ、彼はカトマンズを訪れていたインド人の旧友スワミ・プラナンダ・ギリに会う機会があった。
ギリはアメリカや日本をはじめとする多くの先進国を旅しており、デヴ・シャムシェルにとくに日本を賛辞する話しをした。スワミ・プラナンダ・ギリは、インドの偉大な哲学者であり改革者でもあるスワミ・ビベカナンダの信奉者であると言われている。ビベカナンダは、一八九三年にシカゴで開かれた世界宗教会議でヴェダンタを説いたことで有名になった。スワミ・プラナンダは彼の"グル"であるビベカナンダと、さまざまな国を旅したものと思われる。
デヴ・シャムシェルは、日本が農業中心の封建社会から産業国家へと急速に転換し、たくさんの中小企業や技術学校を設立したことに感銘を受けたのだろう。こうした日本の動向がネパールの発展にも役立つと考えたのか、八人の留学生を日本に送ることに決め、スワミ・ギリに彼らの案内役として付き添うように頼んだのである。しかし残念なことに、デヴ・シャムシェルは在任期間中に、その計画をやり遂げることができなかった。彼はあまりにも自由にすぎたのである。
ラナ一族のなかのライバルたちは、彼の進歩的な考え方を危険視した。その結果、一九一四年六月二七日に、おそらく国内外からの支持を得て、弟であるチャンドラ・シャムシェル・ラナがデヴ・シャムシェルに対する無血クーデターを行ない首相の地位を奪ったのである。デヴ・シャムシェルはわずか百十四日間在任しただけで首相の席を追われ、ダンクタに行った。その後、西ネパールに近いインドの丘陵地帯ムッソリーで晩年を送ったのである。
デヴ・シャムシェルは弟のチャンドラ・シャムシェルの陰謀を見抜いていたと言われている。しかし、彼は国民は自分の自由な政治思想を支持するだろうと信じていた。国民の支持さえ獲得することができれば、ライバルたちも彼に反する動きをすることはないだろうと考えた。そう信じて、改革計画を推し進めたのである。一九〇一年から二九年まで首相を務めたチャンドラ・シャムシェル・ラナは、万人に教育の機会を与えるという考えや社会を改革するためのプログラムには反対であったが、ネパールにおけるラナ家の支配を確固としたものにした、抜け目のないい支配者であり行政官でもあった。
チャンドラ・シャムシェルはデヴ・シャムシェルが手をつけたいくつかの改革プログラムを実施した。八人の若者が日本に行くことも許可した。日本がアジアの強国となりつつあることに気づいていたのである。彼は一九〇三年に、ネパールを二度目に訪れた河口慧海にも会っている。河口慧海はネパールを最初に訪れた日本人である。このとき、チャンドラ・シャムシェルは河口に「日本をこれほどまでに強くしたのは、何なのか」と質問した。河口は「教育、そして愛国心だ」と答えたと言われている。
(写真と文章は、在ネパール三二年になる知人の秋田氏の著作と、そのあとがき部分である。秋田氏との知己はすでに三〇年弱を経過したことになる。氏の息子・寅吉のことは幾日か前に記事として紹介している。ヒマラヤやお釈迦様生誕地としてのネパールのイメージから見事に抜け落ちている、もうひとつの美しいネパールの世界で生きる人々を描かれている。)一九九三年に上梓。
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なますて(合掌)。ネパールの虜になって十二年が経ちました。いろんな角度からネパールを追いかけているうち、ふとしたことからタルー族を知り、そのタルー族を追いかけてからもう三年が経っています。ネパールをタルー族を通じてまとめてみようと思いたち、こうして書くうち、今まで以上にネパールが大好きになりました。ネパールもいろんな角度からみると、好きなところ、嫌いなところがあります。でも、こうして書き終わってみて感じるのは、様々な人間の生きる姿の多様さこそがネパールの魅力なのです。
そしてもうひとつ記さねばならないことは、様々な人間がそのままでそれぞれに認めあい、認められあっている「心の自由さ」についてです。それこそが、私がネパールの神髄であると信じていることであり、この書の主題ともいうべきものです。そのネパールのもつ「心の自由さ」は、今では我々外国人まで包みこんでくれています。
タルー族との出会いを通して、尽きることのないネパールの魅力をどこまで記すことができたかわかりませんが、それはネパールを訪れた世界中の人々が、その体と心で感じ取っていただけるものと信じています。
この写真は、一〇年ほど前のものである。日本の中山間地域の小学校PTAから依頼されて、卒業生のランドセルをネパールで再利用してもらうべく運んだ際のもの。
日本のランドセルというのは、非常に作りがしっかりとしているので、六年間毎日使っていても、その形状や用途性は崩れることが少ない。そして、卒業とともに、まったく使われなくなってしまう。
PTAの方は、その使われなくなるランドセルの再利用を考えたのである。ネパールでは、経済的な理由で学校に行けない子供もまだまだいる。さらには、学校に行けても学用備品を購入できない子供もいる。
そんな需要供給のバランスを埋め、物のリサイクルも考えたアイデア出逢ったと思う。カトマンズ郊外の小さな小学校に寄贈したのである。ランドセル素材は、もちろん牛革ではなく、クラリーノと呼ばれる人工皮革のものである。

ネパール南部のタライ地方である。
このように、象の背中に乗ってのジャングルサファリができるのである。ネパールでサファリ?と驚かれる方も多いだろう。
ヒマラヤやお釈迦様生誕地・ルンビニといったイメージが先行してしまうネパール。もう一つの魅力が、この密林なのである。標高一〇〇メートルにも満たない低地がインドとの国境に広大に展開する。
北はヒマラヤ、南はジャングル、といった自然の障壁がこの国を他からの侵略などから守ってきたともいえる。亜熱帯性気候から亜寒帯性気候までが、一つの国で味わえるのは、世界広しといえど、ネパールくらいのものだろう。
幸いにして、このネパール南部は過日の震災の影響はあまり受けていないと聞いている。ヒマラヤ奥地での環境整備が復旧するまでの期間、ネパール南部のタライ地方を旅してみるのもいいだろう。
一二月には、ヒマラヤン・セラピー・プログラムと称して、この場所にも訪れる企画を予定している。
ネパールの国花は、ラリグラスと呼ばれる。とても美しい響きの言葉である、この花はシャクナゲである。それも、日本ではなかなかこのサイズの花を見ることは少ない。
この大きさの花弁が樹高二〇メートルを超す大木に、いくつも咲くのである。四月上旬ともなれば、山肌が赤く染まるぐらい壮観な風景となるのである。
麗しの湖・フェワ湖の湖上で迎える、ヒマラヤの朝陽。これは、『ヒマラヤン・水面(みなも)セラピー』と呼んでいる。約一時間、湖上での極上のひととき。
幾度となく実践してきたヒマラヤ養生プログラム。この湖上にての早暁タイムは、その中でも参加者からの評価がとても高い時間である。
ネパール・ポカラ近郊にあるチベット難民キャンプ。難民キャンプ、と聞くとトルコなどにあるシリア難民のキャンプを想像するかもしれない。しかし、このキャンプはすでに四〇年近くの歳月を経過している。ちょっとした村である。
そして、このチベット難民のおばあさんの手は、亜熱帯性気候であるポカラの地で、四〇年近く『糸の物語』を紡いできたのである。このおばあさんの『糸の物語の結晶』は、世界のどこかの居間で敷物の一部となり、静かにチベットの苦難の歴史を語っているのだろうか。
ネパール震災復興支援プロジェクト
カトマンズで最大級のチベット仏教寺院・ボードナートの現況 点描集。
この寺院は、かつて日本の求道僧・河口慧海師が明治時代に逗留もした名刹である。目玉寺から、その名の由来とされた法眼と、風にたなびく無数のタルチョが消えている。

この若い夫婦、男性のトラキチ(秋田寅吉君)は、小さい頃から知っている。一二歳の頃我が家にも数日ホームステイもした。現在三〇歳。カトマンズ市内にて、ボディーバランシングセンターの中心メンバーである。奥さんの名前はパサン。彼女はネパールで最も著名な女性アルピニストである。
世界最高峰エベレストのサミッターでもあり、毎年夏はアメリカのシアトル郊外のマウントレーニアにてガイディングをし、ヒマラヤのシーズンには、世界各国からの登山隊をガイディングしている。
この写真は、そんな彼らがネパールの秘境といわれる『ドルポ地区』への巡回診療から戻った際のものらしい。彼らは本年四月の震災時には、筆頭メンバーとなって外国からの義援金を集め、自らが行動してヘリコプターをチャーターしての山間部への物資搬送に尽力している。パサンの世界各国での知名度も力を発揮してたのである。
トラキチは、日本人の父とネパール人の母の下で生まれ、ネパール語、英語、日本語を使いこなし、さらに言葉を超えて身体の声を聴く仕事をしている。パサンはシェルパ族出身であり、もちろん世界的に著名な存在である。まだまだ若いジェネレーションであるが、ローカルな視線を持つ、グローバルな活動をする世代である。ネパールは、こんなジェネレーションが次世代として控えている、言ってみれば『これからの国』なのである。
追記:彼ら夫婦の最初の出逢いの縁づくりは、なんとアルピニストの野口健君だそうだ。野口健君とに紹介されたパサンが、トラキチのお父さん(秋田吉祥さん)のバランシングセンターに治癒に来たのが出逢いらしい。
本日は、まずカトマンズ近郊にある陶器の街として名高い、ティミから調査を始める。この街は古都バクタプルにも近く、一五〜一七世紀に建てられた建築物も多い。
その街で、偶然にもネパール仏教テーラワーダの少年僧による托鉢風景に遭遇する。こんな風景に出逢うのは、訪ネパール回数三桁に近い私も初めての僥倖である。
この一年間にて三回にわたる現地への支援渡航プログラムを実践してきた。これからも復興支援プログラムは継続していくが、この一年間の活動から見えてきたものを記しておく。
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第一次震災支援プログラムは、昨年一〇月。主に次のようなことを課題とした。(医療物資運搬・難民キャンプでの医療支援、パーマカルチャーツーリズム開拓調査)、第二次震災支援プログラムは、昨年12月。課題は、(医療物資運搬・祈りの場再興への支援金譲渡、南部タライ平野でのエコツーリズム開拓調査)、
そしてこの三月、半月をかけて第三次震災復興状況リサーチプログラムを実施。その課題は、(ネパール既存観光の目玉エベレスト街道復興調査トレッキング・カトマンズ近郊名刹復興調査・祈りの場再興への支援金譲渡)。
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ご存じのように、内陸国であり、南北にインド、中国(チベット)という大国に挟まれた小国・ネパールは、これまでも微妙なバランス感覚にて国を維持してきた歴史がある。今回の大地震災害(昨年四月二五日発生)以降も、国の内部事情のみならず、外国からの諸干渉にも絶えず復興への道のりが左右されてきた。
ネパールといえば、日本人には「ヒマラヤ」のイメージが強い。確かに年間二~三万人、この国に訪れる日本人の約六〇%前後は、ヒマラヤへのトレッキングマーケットである。それ以外には、お釈迦様生誕地ルンビニへの巡礼ツアーマーケットなどである。
今回の震源地は、ヒマラヤに近いエリアであり、ランタン谷など著名であったトレッキングルート上の集落などが全滅するなどの悲惨なニュースも流れてきた。日本のメディアは、致し方ないことであるが、震災被害の多くの映像を流した後、復興へ向かう現地の映像はほとんど巷に流れてこない。
日本人の多くは、悲惨な状況のイメージが脳裏に残りながら、風評に左右されている。その結果、往時の九割(現地での調査から)もの日本人ツーリストが減少しているとのこと。九割、といえば、ほとんど姿を見ないといってもいい数字である。実際、三回にわたる支援プログラムにては、ほとんど同邦人の姿を見かけなかった。
震災後一年間にて三回にわたる支援プログラムの主たる目的は、まず、ネパールの復興状況を現地から生の写真や映像を発信することにより、日本に未だ蔓延している、風評被害を払拭することにあった。確かに現地の知人からの情報発信でも、それは十分に確認ができるが、やはりツーリズムに関与する我が目にて、日本人ツーリストにとってのクリアー点を再確認することにあった。
二番目の目的は、これまで日本人にとって、「ヒマラヤ」「シャカ生誕地」としての旅の目的地であるネパールの、さらなる多様な目的地づくりとその情報発信であった。ネパールは、亜寒帯から亜熱帯までの気候分布が小さな国の面積に凝縮している、非常に稀な国でもある。動植生が豊か、さらには、それを背景とする文化の多様性、価値観・宗教観の共存する社会、などなど、これからのグローバル世界へ、明るい光明を投げかける大きな土壌を有しているのである。
すでに欧米系のツーリズムは、その多彩なネパールの土壌を有効に活用した新しいツーリズムに触手を伸ばしている。その一部に、パーマカルチャー的ツーリズムと呼ばれるものがある。これは、エコツーリズム、アグリツーリズム、リラックスツーリズム、スローツーリズムなどを混合した考え方でもある。近代化に遅れていると言われるネパールの山村、農村の生活スタイルそのものが、生物多様性を基軸におく循環型生活である。
衣食住、エネルギー、経済循環、共同体、などなど現代の先進国が行き詰まっている諸問題へ、何かヒントを与えてくれる「風景や営み」が点在しているのである。そんな風景や営みを実感できるプログラムが、パーマカルチャー的ツーリズムである。欧米系の若い層はすでにその実践をヒマラヤの山村にておこなってもいる。
さらに、多彩な自然環境の中には、亜熱帯ジャングルの存在を忘れてはいけない。ネパール南部・インドとの国境近くには、標高80m前後のジャングル地帯が展開している。その密林には、ワニ、サイ、虎、鹿、などの大型野生動物が棲息している。それらの野生動物保護区を象の背中にのってのエレファントサファリや、密林の中を流れる河川にての、手漕ぎ舟でのカヌーイング。
これら欧米では、ポピュラーとなっているネパールでの新しいツーリズムのアクティビティを、なんとか日本でも広く浸透させる目的が二番目の課題であった。ヒマラヤトレッキングや巡礼ツーリズムとともに、ネパール観光の4~5本柱を確立することにより、自然災害が特定地域に発生しても、被害のなかったエリアでのツーリズムの存続が可能となることは、外貨収入の多くをツーリズム産業で得ているネパール国の経済をさらに深く下支えすると確信している。
このような考え方から、第一次では、パーマカルチャー的ツーリズム調査開拓、第二次では、野生動物保護区でのツーリズム調査開拓、そして第三次は、既存の主たるディスティネーション・エベレスト街道、カトマンズ近郊名刹の復興状況調査プログラムを、医療支援とともに実践してきたのである。
三度に渡る調査プログラムにて感じたのは、外国人ツーリストを受け入れる体制は、ほぼ震災前と変わらないくらい復興しているということである。特に、ヒマラヤ以外のエリアは、震災の影響もほとんど受けていない。欧米系や中国系のツーリストはすっかり戻ってきているが、日本人の姿は異常に少ないと言えるだろう。
日本人を相手にしてきた、日本語ガイド、日本人対応トレッキングスタッフ、そしてその会社の多くは、悲鳴をあげている。その悲鳴を掬い取って情報発信する日本のメディアは無いに等しい。この記事を見ている方で、ネパールという国に関心を少しでも持たれた方は、どんな目的でもいいので現地に赴いてほしいと願う。一人で行くのが心配だという方は、私自身が同行するプログラムを、本年十月、十二月にも八日間前後の日程で予定している。
団体パッケージツアーでは、あまり感じることのできない、素に近いネパールの人々と触れ合ってほしい。ぜひ、ご検討を!
昨日、カトマンズ郊外にある尼寺に、新しい尼僧入門者十二名が加わった。彼女たちは、一年前のネパール大地震の被災地の女の子たち。その被災地への復興支援を継続している、私の弟分的存在・マハビール君も立会人として参加している。
マハビール君は、来月六月中旬、十五回目の研修来日を予定している。日本滞在中に、ネパールの復興状況、そして震災後一年を過ぎた、今後の支援のあり方を話し合う予定である。
また、本年十一月から来年四月までの期間にて、三度程度の復興支援を兼ねた、ヒマラヤ養生プログラムを計画している。関心のある方は、メッセージを。
2016年9月1日
昨年、和尚様とブッダ生誕の地を巡るネパール旅行から戻った一週間後に、大きな地震が起きました。旅行でガイドをしていただいたマハビールさんは、いろんなつながりを作って、支援活動を進めてきています。日本の侘び寂びが好きで、和のこころを大事にするマハビールさん。一人一人のつながりを大事にしているからこそ、災害時にも支援の輪が広がっているのだと思います。「友達とは何か」をアイデア・マラソンを一緒に取り組んでいる仲間と考えていたところなので、いい機会になりました。
いよいよ第四次復興支援への出発が近づいてきた。すでに、現地への支援物資・募金や巡回医療時の器具なども調整・調達は完了している。二〇一五年四月二十五日に発生した、ネパール大地震。それ以降に日本各地や世界各地にての自然災害多発により、多くの人々の記憶から薄れてきていることだろう。
しかし、ネパールという国は、私自身にとっては第二の故郷でもあり、思考母体となる風土環境の定点観測地点の一つでもある。震災発生からは、三次にわたって復興支援プログラムを実施してきた。そして、来る第四次はこれまでで一番長期間となる予定である。およそ一か月前後に渡り各地を巡りながら、直接的な支援プログラム実施とともに、今後の展開プロジェクト構想についても思考してきたいと思っている。継続している思考のテーマは「祈りと復興」である。
写真は、第一次復興支援プログラムの、医療支援プロジェクト(医師・チベット医師と組んでの被災キャンプにて鍼灸治療施術時)のものである。
第四次ネパール震災復興支援プロジェクト。活動期間は、残すところ約一週間となった。これまで約一ヶ月の滞在にて、医療巡回キャンプへの帯同、山間地被災キャンプ地への物資搬入、居住地改善プラン策定、また、各地被災復興状況・映像記録調査、ならびに状況情報発信などの作業を推進してきた。
残りの滞在期間においては、映像による記録調査を継続しながら、再び医療巡回キャンプへの帯同、さらには、継続支援をしているチベット仏教寺院・プラハリゴンパへ、支援金譲渡の為の訪問を予定している。ここ数日は、午前三時前後に起床し、早朝のチベット仏教寺院にての勤行に参座している。日中には、他の活動をこなした後、午後20時前には、見事に夢の中にいざなわれている。
滞在するロッジのすぐ隣は、チベット仏教寺院併設の小僧さん養成寄宿舎である。私も気持ち的には、年の行きすぎた小僧さんのようでもある。今、まさに、お昼前のボーイソプラノ読経が聞こえている中で、この文章を記述している。幾多のヒンズー教の神々、仏教の御仏達の御加護なのか、今までのところ体調を崩すことはなかったことに感謝している。
日中は、二十度位の気温であり、照りつける太陽光線により、我が顔はフェイスブラック状態。大雪だという日本のニュースをネットでチラ見しながら、我が身は外面(ソトヅラ)までチベット風に変幻したのかと、鏡の前で覚えたてのマントラを唸っている。
(チベット仏教カギュ派寺院・満月法要)宇宙に飛び散る・シナプス胞
論理脳を停止させる「マントラの読呪」。現代の医学では脳の右半球については、ごくわずかしか解明されていないそうである。その右脳に「直感的・総合的・非言語的認識の中枢」がある。それに対し、左脳では、「論理脳・分析的・言語的認識」中心の思考をしている。
そして、人間生活における、煩悩や葛藤の多くは、左脳において『言語的認識の下』にて意識されているとも言われる。
神秘学・ヨーガ・チベット密教・真言密教などでは、古来からマントラ(聖句)など、幾多の『読呪の行法』が実践されてきた。マントラの長時間の読呪は、日常言語としてのコトバを思考する左脳・言語野の働きを封じる働きがあるとも言われている。
チベット密教の、『倍音』を伴う長時間のマントラ読呪は、最終的には、体幹を虚空(アカシック・レコード)へ送り出し、自我が粉砕され、宇宙へと噴霧されてしまうのだろうか。
※第四次復興支援活動においては、人々の「信仰の場」の復興支援活動に重きをおいていた。その活動の途上に出逢った貴重な時間であった。
本年一月までに、計四次にわたりネパール震災復興支援活動を実践してきた。その活動において主たる柱の一つに設定してきたのが、「 祈りの場を再興する 」と言うことであった。ご縁を頂いたチベット仏教僧院・プラハリゴンパの「 釈迦の生涯を描いた壁絵 」。
震災にて崩落した壁絵の再興に対して、日本でご寄付頂いた支援金の一部を充当させて頂き、数度にわたり僧院事務長の、チョキリンポチェ師にお渡ししてきた。
本日、カトマンズのカウンターパートナー・秋田寅吉君を通じて、リンポチェ師から再興途上の壁絵写真数点が送られてきた。再興支援金をご寄付頂いた、多くの支援者の方々へ、FBを通じて感謝のリポートをさせていただきたいと存じます。
『 祈りの場・再興支援 』カトマンズ郊外にある、チベット仏教寺院・プラハリゴンパ。このゴンパでは、二〇一五年四月の震災にて、貴重な仏塔にヒビが入ったり、壁絵の仏画が崩壊するなどの多大な被害が出たのである。震災発生後から、私が実践してきた、第一次から第三次支援活動までは、医療品や食糧などの緊急支援を中心に行って来た。
当初から、次第に緊急支援から日常的生活支援へと、継続支援の主たる分野は移行していくという認識は持っていた。それは、阪神淡路大震災時の教訓でもあった。日々の日常的生活支援の中でも、多種の宗教が混在するネパール人にとっての、心の支えとなる柱は、『信仰心』である。その『心の安寧場所』が、各宗教の寺院なのである。その寺院群も震災にて大きな被害を受けていた。
第三次支援活動からは、『祈りの場・再興支援』へと、継続活動の主柱のウェイトを移し始めていた。昔からご縁のあった、プラハリゴンパへは、これまでも数回、日本から自発的にご寄進頂いた方からの『支援金』をお渡ししてきた。今日も、第六次活動の大きな柱の一つととして、ゴンパの執事長である活仏師へ、今回の支援金をお渡しする事が出来た。
これまでの支援活動への返礼として、執事長の活仏師のご高配により、本日ゴンパ内にて、日本からのご寄進者への、『安寧祈祷』のプジャ(供養)が、学僧を中心に執り行われたのである。その様子は、別途記事としてアップする予定である。また、修復作業が完了に近づいている、仏画の壁絵も別途紹介しよう。さらに、奇遇なことに、このゴンパにて『歴史の生き証人』的な人物との出会いもあった。これも別途紹介しよう。
ダディン県ドーラ村(被災タマン族の人々が建設をする、新しい村)の二年半ほど前の写真である。上の写真にある、支援活動ボードの左下に「sinkokyou club」の文言が見える。
私が主宰する、ボランティア活動の窓口にも指定している、「深呼吸クラブ」である。文字の間違いは、ご愛嬌である。この写真は、第一次支援時のものである。震災発生後の夏季に撮影している。
丘の斜面に急拵えの、被災キャンプ地へは、バイクと徒歩でしかアプローチできない狭い道しかなかった。当時の被災キャンプ地は、掘っ建て小屋や、ボロ布や工事用シートを掛けただけの、悲惨な居住環境が報告されていた。それから二年半の歳月が過ぎている。この集落には、強力なリーダーシップを発揮する三十歳代のまとめ役がいる。
さらには、集落のまとまりレベルも高く、チベット仏教への厚い信仰心にて結ばれてもいる。明日以降、本年度の現況を写真や映像にてレポートしていくが、私自身が驚きの連続である。昨年同時期の支援訪問時には、まるで野戦テントのような空間にて連泊していた。
それが、本年度は集落民自らが、その技術を習得し、現在の現金収入源ともなっている、「レンガ積み式居住家の建築術」によって、見事な居住棟群を完成させているのである。
まだまだ、内装などのメインテナンスや、チベット仏教の寺院建設が、進行中や検討中であると聞いた。しかし、ほんの二年半にて、ここまでの村づくりを成し遂げた、村民全員に「脱帽」である。今後の諸課題などを、ヒアリングしながら、これからのサポート体制を整えていきたい。再建の主体は、あくまで「村民全員」である。当たり前だが、決定権や諸判断は、彼等にある。
我々はサイドサポーターや、資金援助に徹しながら、これからの活動を話し合いながら進めていきたいと願っている。この集落では、被災による「震災孤児」が数多く発生したのである。継続支援活動の中には、彼等震災孤児への未来ケアも含まれている。
ある程度自分の意思が確認できる年齢の孤児には、本人と受け入れ先双方の許諾、了解を得た上にて、チベット僧院、尼寺にて預かって貰ってもいる。
ネパール震災復興・継続支援活動。『 被災民への生活支援』 タマン族の被災キャンプ地の記録から。ダディン県ドーラ村(被災タマン族の人々が建設をする、新しい村の事をリポートしている。
この記事のすぐ前のリポートにて、「震災孤児への未来ケア」についても述べている。その未来ケア活動のひとつが、「チベット僧院・尼寺への剃髪入山」である。
シェアしている記事は、私のネパールでのカウンターパートナーの一人である、マハビール・グル氏の記事からである。
震災被災した、タマン族の集落から、五十二人の震災孤児(男女)を、本人ならびに受け入れ先相互の了解のもとに、入山の剃髪式を、二年弱前に行っている。
チベット仏教ニンマ派の活仏、チョキ・ニマ・リンポチェ師が筆頭になっている、Seto寺院と、その関連する尼寺である。
『 幻日 』という気象現象に、カトマンズで出会う。
幻日とは?通常、幻日は太陽から約二十二度離れた太陽と同じ高度の位置に見える。雲の中に六角板状の氷晶があり、風が弱い場合、これらの氷晶は落下の際の空気抵抗のため地面に対してほぼ水平に浮かぶ。
この氷晶の一つの側面から太陽光が入射し、一つ側面を挟んだ別の側面から出る場合、この二の面は六十度の角を成しているため、氷晶は頂角六十度のプリズムとしてはたらく。と、サイエンス的解釈を読んでも、ファンタジー気分には浸れない。やはり、古代にこの現象に出会った縄文人に、感想を聞いてみたいものだ。
ダディン県ドーラ村(被災タマン族の人々が建設をする、新しい村の事をリポートしている。
村人たちからの、リクエストがあった追加食糧(ミカンなど)の購入買い出しの為、中継町に買い出しに。
この地に移住してから、高齢者など四名の村人が亡くなったそうである。その亡骸を火葬する場所が無いことが懸念材料である、とも聞く。現在、村の入り口にストゥーパ(仏塔)は建設済みである。その仏塔を軸とする、小さなゴンパ(寺院)の建設も検討していると聞いた。村人たちの希望は、小さくとも、信仰するチベット仏教の僧院を造り、そこに常駐する僧侶を迎えたい、との事である。その僧侶に死者の供養や、日々の祈りを指導して欲しいと願っている。火葬場の建設と併行しながら、「祈りの場・再興支援」が必要とされている。
タマン族の、新しい村づくり。現在の記録から。さて、この被災キャンプ地の歴史は、この男抜きには語れないだろう。彼の名前は、デニッシュ・タマン。まだ三十歳代後半である。意志の強さが宿るまなざし、不敵な面構え、しなる上腕二頭筋。まるで東映ヤクザ映画のワキ役のようでもある。この風貌は、壮絶な人生遍歴から磨かれて来たものである。ヒマラヤ山麓の寒村(被災キャンプの元の集落)に生まれている。少年時代から青年時代にかけては、マオイストと呼ばれる反政府ゲリラ部隊にいた。ネパールが内乱状態にあった時期である。ヒマラヤ山中にて銃弾の雨の中、生死の境を何度もくぐり抜け、餓死寸前の状態を幾度も体験したらしい。
目の前で何人もの同士が憤死していくのは、日常的光景だったと言う。彼の家族も政府軍に追われ、ネパール中を逃げ回ったとの事。本人は語らないが、何人かの命を奪ったのは間違いないだろう。彼の目がそれを物語っている。しかし、壮絶な人生遍歴は、彼に天与の才覚をも与えたのである。それは、生まれ故郷に突然起きた天災という、かなり強力な敵との闘いの場においてである。満足な教育を受ける事なく育ってきた彼は、幾度にわたる生死の境という実践教育の場で、多くの人間ドラマを学習してきたのである。その学習体験の成果は、天災で窮地に陥っていた故郷の再建という実践場での、タフネゴシエーターとしてフル稼動している。
中・長期的な再建計画を組み立て、村人の結束力を促進する生活術を考案していく。さらに、人的ネットワーク網を構築し、ネパール国内のみならず諸外国からのサポート体制も整備していく。日本の江戸末期に、萩にあった松下村塾にいた維新の志士のようでもある。彼のような人物が、これからのネパールを下支えしていくのだろう。
被災キャンプ地を離れる時が来た。次回訪れる時までにも、頻繁に情報を交換しあいながら、次期の課題克服への準備を始めていきたいものである。これから数日間は、ポカラ近郊にての、新しい『 ヒマラヤ養生プログラム 』の視察活動である。
その後は、ネパール各地にての『 祈りの場・聖地 』の復興状況確認プログラムを予定している。カトマンズに戻れば、鍼灸師としての『医療巡回キャンプ 』への帯同活動もある。ネパールの風土は、私の体質にフィットしているのか、体調はすこぶる良好である。
日本出発前は、「すわ、インフルか? 」と疑う、軽い風邪症状が出ていたが、ネパール到着後は、それも完全消失している。被災キャンプ地での活動により、体重も自然減少し、腹回りも少々スッキリしたようだ。自分の体験を元に、『 ネパール滞在・心身の自然ダイエットプログラム 』の新たな開発でもしてみるかな、とも思う。
ヨガと瞑想、ヒマラヤを見ながらの山里歩きと自然食、アーユルヴェーダによるトリートメントやチベット医学的養生指導、そして若干の社会奉仕活動、、。パーマカルチャー的ライフが満喫できる、農山村にての滞在プログラムである。こういったプログラムの隆盛は、いまや世界的な流れでもある。
しかし、その土地の独自性ある風土に合わせたプログラムは、意外にも少ないのである。いつも「流行りもの」に手を出し、自らの潜在的な地域資源を蔑ろにしている事例を、国内外にて散見する。
『世界の屋根・ヒマラヤ』、『釈迦生誕地・ルンビニ』、『象や虎の住む亜熱帯性ジャングル』、『ヒンズー教、仏教、イスラム教が共存する多宗教社会』、『シャーマンや修行者を含めプリミティブな精神世界が息づく社会』、『各種の伝統的治癒法やトリートメント法が継承されている』
などなど、
世界でも他に類を見ないほど、ネパールは『心身の安寧度を高める事の出来るゾーン』であり、『養生プログラム実践の土地』に相応しいのである。ネパールならではの歴史と文化、自然を背景とする『 心身の養生プログラム』は、新たなツーリズム展開への広大な可能性を秘めている事は間違いないだろう。
私自身、三十歳代半ばにてフリーランスの『旅のプロデューサー』となった時から、このプロジェクトに二十年以上取り組んで来た。それは、大学生の頃から、様々な局面にてお世話になって来たネパールの人々と大自然に対する、私自身の得意分野を生かした、『御恩返し』だと思っている。
総計八次にわたる、ネパール震災復旧・復興支援活動時に撮影した現地にての映像集を、ねっと本にて公開している。
このネット本の中では、現地での活動や状況などをユーチューブ映像にして、動画でメッセージ送信しているのである。
次のアドレスをクリックすれば、そのネット本を無料閲覧可能である。
https://bccks.jp/viewer/176354/
人と自然のつながり(写真は、ネパールの段々畑)
二十世紀の私たちは、ひたすら大戦後の復興を目指し、あらゆるものを犠牲にしてもそれに気づかず、経済発展を希求して努力してきました。その状況は「国敗れて山河あり」ではなく、「国栄えて山河なし」といってよい状況を招いたのです。
ですからその間の幸福感もまた、物の獲得の状況に指標されたのです。つまり、二十世紀の幸福の達成感は、「幸福=物的欲求分の物的充足度」といった図式で説明できるように思えます。私たち人間もまた自然生態系の一部であり、「命の運び手」である以上、環境との断絶、自然との断絶はありえないのです。
景観は目に見える環境の総和です。ただ、物理的に美しい、文明的な美の有り様を景観と称しているのではありません。風土・風景との文脈を有し、人と自然のつながりが正の状態であることが望まれる景観の姿です。
自己実現が成熟した社会の幸福感の基盤であるとするならば、それを果たし得る、目に見える環境の総和としての景観、人の顔色にその健康状態を見るのと同様、地域の健康状態を表す景観を整え、未来へ向け、「つながりを見ることができる社会」を心で観ることができる社会を構築すべきでしょう。
(涌井雅之氏・景観から見た日本の心)からの抜粋
開放系のホメオスターシス社会再建へ
今日ほど科学が発達しても、人間は本の葉一枚作ることができません。 一本の本は毎年何万、何十万枚という葉を作りますが、人間はただの一枚も作ることができないのです。 一枚の木の葉にもはかり知れない複雑さがあるのです。
一尾の鯉となると一枚の本の葉よりも複雑なことは私たちにもわかります。 一般相対性理論は、宇宙のほんの一部を方程式にしたものにすぎませんが、二尾の鯉を方程式に表すことはできません。そして最も複雑なシステムが人間なのです。
人体を宇宙にたとえて小宇宙ということがありますが、これには「みごとな調和」という意味とともに「はかり知れない複雑さ」という意味の二つの意味が含まれています。このシステムを理解するためには、構成要素同士、構成要素と環境がどう相互作用し、適応していくかを全体としてとらえる必要がありますが、構成要素が多いだけでなく環境も複雑ですから、研究は大変に困難なようです。
いくらか重要なことがわかっています。例えば複雑適応系では、一秩序と無秩序の中間が適応にとって最も好ましいことがよく見られます。完全なカオス(混沌)も、凍りついたような完全な秩序も、柔軟な適応にはむかないというのです。
実生活で考えてみますと、何だかあたりまえのことのように思えますが、私たちの生活をより豊かなものにする上で参考になります。人体や人体を構成する細胞の内部は、常にほぼ一定の状態に保たれています。
これを恒常性の維持(ホメオスターシス)といいますが、この恒常性は外部から供給されるエネルギーの流れによって保たれています。エネルギーの流れがないと、変調が生じて急速に衰弱してしまいます。
常にエネルギーが供給されているということは変動していることになりますが、この変動が恒常性を保つためにどうしても必要なのです。エネルギーの供給がないということは、外部との関係を閉じたことになりますが、 エネルギーの供給なしには人体も細胞も生命を保つことはできません。
このようなシステムを「開放系(開かれたシステム)」といいます。これに対して石やテーブルのように、外部との間に物質やエネルギーのやり取りなど、何の関係ももたずに成り立つシステムを「閉鎖系(閉じられたシステム)」といいます。
(藤岡義孝氏・人が自然に癒される時、からの抜粋)
2024年6月30日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。