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昨日の地元新聞・朝刊から。この新聞随想を書いている、奥野克巳君(立教大学・文化人類学教授)は同志社大学探検部時代の後輩にあたる。(奥野君の立教大学ウェブサイトは、(https://www2.rikkyo.ac.jp/web/katsumiokuno/)彼は、大学時代から『思索を深める』ことにこだわっていたように思う。
探検部の単独海外遠征も、バングラデッシュの仏教僧院にての修行であったり、メキシコの先住民族との共同生活であったりした。私は彼より二年先輩であり、私自身のフィールドは環ヒマラヤ文化圏でもあったので、遠征や合宿で重なったことはそれほど多くはない。
彼は大学卒業後に一般企業(貿易会社)に勤めるが、一年後に退社する。その際にさまざまな相談を受けたことがある。彼は学問(文化人類学)への情熱が断ちがたく、当時私が毎年調査渡航していたインドネシア事情にとても反応した。結果、彼は一年間インドネシアを放浪するのである。
帰国後は、千葉大学大学院に入りインドネシア・マレーシアの森に住む少数民族(ボルネオ島のカリス族など)を研究テーマにしていく。博士課程は一橋大学に進学し、三十歳代にて博士号取得する。そして、最初の教員生活を桜美林大学から始めたのである。
当初教職を探す折には、広島の大学も候補にあがっており、我が家に泊まってもらいながら関係者を紹介したりもしたことも思いだす。今や、著書も数多く出版し、学会にても主要なポストに就いている。日本の文化人類学分野にては、異種な経歴をもつユニークな存在ではないだろうか。
この随想を読みながら、彼がインドネシアを放浪していた際、現地から送ってくれた葉書文面を思い出す。それは、ほんとうに『一字一句が几帳面に、丁寧に』書かれていた。まるでアンダーラインが引いてあるかと思うほど、各文字の底部が一列に揃ってもいたのである。
※ ちなみに、大学探検部の彼と同期の連中には、独特のキャラを持ったメンバーが集まっていた。大企業で働きながらモンゴルとの人脈を広げ、現在では中国・モンゴルを相手に取引をする会社を経営している者。アメリカに留学し、MBA取得後、ニュージーランド人女性と結婚し、現在アメリカにてコンサルの仕事をしている者。などなど。
まあ、一九八〇年代のディスコブームやバブル先駆け時代に、汗臭い部室で海外の秘境や辺境への情熱をたぎらせた若者らは、その後の人生も通り一遍のプロセスではないのは当然と言えば当然であるが。
我々の大学探検部には大先輩として、写真家でジャーナリスト(アフガン問題で再び脚光を浴びてもいる)の長倉洋海(ながくらひろみ)さん(写真)もいる。今から振り返ると、一九七〇年代から一九八〇年代(一九九〇年代のバブル前)の約二十年間くらいが、大学探検部の興隆期だったのではと思う。
この時代に他大学探検部に所属し活動していた人には、グレートジャーニーの関野吉晴氏、冒険小説家の西木正明氏、ノンフィクション作家の高野秀行氏や角幡唯介氏などがいる。どちらかと言えば、ジャーナリスティックやアカデミックな分野にて活躍しているOBが多いのではないだろうか。
チョット珍しいのは、甲南大学探検部出身で、私のエージェント時代の後輩は、現在関西の名刹にて副住職をしている。まあ、タイセイ(体制・大勢)への反骨精神というか、ジセイ(自制・時勢)には群れない精神を持続させている人達が多いのは事実である。
ヒマラヤの国・ネパールにての養生プログラムは、数多く実践している。その中でも、ここバンディプールという街での夕暮れ時は忘れがたい『時の刻み方』をしていた。この街は、谷あい筋に舗装道路ができるまで、尾根筋の街道沿いにあった宿場町なのである。舗装道路が離れた場所にできたことにより、忘れられたように寂れていったのである。しかし、かえってその為に、昔の面影が色濃く残り、街に流れる刻(トキ)の速度も大幅には変わっていかなかった。
特に夕暮れ時には、街の中心である石畳の回廊では、子供たちが笑いながら走り回り、老人はいつもの場所で新聞に目を通す。そして、農作業帰りの男女が、道端で腰掛けながらよもやま話に華を咲かせている。ネパールの多くの町は、近代化することにより、便利にはなっているが、その『佇まい』は急速に変化してしまった。
その変化のスピードは、そこに住んでいる人達が自主的に選んだものではなく、外部のチカラによってなかば強引に早められたものである。その街、地域特有の風土性などは、一気に消滅の危機にある中、このバンディプールは『取り残された』ことにより、独自の『時の刻み方』を継続しているのである。
ネパールを訪れる諸外国人の中で、意識の高い人間は、この街を好んで訪れる。それは、この街特有の『時の刻み方』に、自らのカラダとココロを添わせようとする為であろう。日本の過疎地といわれる地域にも、このバンディプールから学ぶべき点は非常に多いと思う。
時代に迎合することなく、独自の風土が持つ潜在的資源に新たな生命力を与えるべきだろう。その潜在的資源の中には、(人と自然が営む、時の刻み方)という不可視の『流れ方』もあるに違いない。
健康ツーリズム・小笠原諸島編。父島にあるハートロック上部にて。小笠原諸島へのアクセスは、東京から丸一日かかるフェリーというツールしかない。それも週に一便のみ。ということは、少なくとも一週間の旅行期間となるのである。小笠原諸島界隈にては、再び海底火山噴火により新しい島の誕生がニュースとなっている。そんな海洋秘境ともいえる諸島の中心が父島。その父島には、ハートロックといわれる海岸の絶壁奇岩がある。その場所までは、亜熱帯植物群の中をトレッキングしてのアプローチになる。確かに、『わ~、ここは二ホンなの? え~、ここもニッポン?』と本土にては見慣れない自然環境に絶えず目を奪われながらのトレッキングなのである。
歩いて、カラダの健康を。旅して、ココロの養生を。
〜ため息を深呼吸に変える〜
このフレーズを冠とした、海外養生プログラムを15年ほど前にシリーズ企画していた。私が主宰する『深呼吸クラブ』と、とある大阪のエージェントとのタイアップであった。『深呼吸クラブ』は、現在も稼働している。
欧州アルプスでの健康ツーリズム実践編は、コロナ禍前までの二十年、毎年夏に実践していた。グリンデルワルド、ツェルマット(スイス)、シャモニ(フランス)、シュバルツバルトの森(ドイツ)、チロル(オーストリア)、ドロミテ(イタリア)、ピレネー(スペイン)などなど。
二十一世紀に入ってからは、旧東欧諸国の山岳地域がプログラムのフィールドに加わってきていた。バルカン半島、チェコの森などなど。その中でもスイスでのプログラム回数は群を抜いている。これは、スイス国内には地球一周分(四万キロ)にも及ぶ、ハイキング・散策ルートが設定されているからでもある。
山岳観光におけるインフラ環境も整っている。かといって、ちょっと前の日本のように、環境への配慮が不十分であることはないのである。世界的な山岳リゾート地であるツェルマットの町は、今でもガソリン車の入域は、地域での保全管理活動など以外は認められていない。散策歩きルート沿いには、簡素だが識別しやすい統一感のある標識などが設置されている。
場所によっては、乳母車やベビーカーを押しながら歩けるような工夫も施されてもいる。そして、ほっと一息つきたくなる場所には、程よい間隔をあけて、簡素な休息用ベンチが設置されているのである。そんなスイスの山岳観光促進策から、日本の中山間地域が学ぶべき点は多くあるように思われる。
ちょっと前の記事にて、五〇歳代になってから地元国立大学医学部(保健学研究科)の大学院で二年半、研究生活をしたことを記述している。その期間中に、秋田市にて開催された公衆衛生学会にて研究発表をしたことがある。その際の研究発表要旨(写真)である。この時の研究は、中山間地域でのヘルスツーリズムによる地域振興についてであった。そして研究の目的として、下記の記述を学会誌に寄稿している。
研究の目的(学会用語なので文節が長い):歯止めがかからない中山間地域の過疎化問題と都市部でのストレス社会の弊害という、ふたつの表象への取り組みの橋渡し的役割の可能性を「中山間地域でのヘルスツーリズムによる、健康・癒しのまちづくり」に焦点をあてて検証する研究過程には次のような課題がある。
1:健康や癒しを基本ビジョンとするまちづくりへの過程にて、愛着心や誇りがどのように醸成されていくのか。
2:行政・産業界・住民が連携しながら課題への対策を探求することにより、地域の社会資本(ソーシャルキャピタル)へどのような影響を与えるのか。
3:中山間地域における社会資本の熟成が、ツーリズムを介して中山間地域を訪れる都市部住民へどのように波及してゆくのか。
人と物が移動することによる地域への経済還元効果とともに中山間地域を訪れる人が持続可能性ある健全な地域社会構築の実現への諸影響の解明は、自らの地域の問題や、自身の健康問題を認識し、自らができる対策を探求し、それに取り組んでいくことを体験することで、自己の健康寿命の延伸、あるいは中山間地域の活性化に繋がることが期待される。そこで、本研究では広島県の中山間地に位置する安芸太田町が取り組むヘルスツーリズム事業に注目した。
事業施策の提言に至る合意形成過程を明らかにすることにより、「健康・癒しのまちづくり」を目指す中山間地域でのヘルスツーリズム事業展開の有効性を明らかにするとともに、施策案実現後に実施された各事業の実態や諸課題への取り組みを検証することにより、他の中山間地域における活性化プログラムのアプローチへの一助とするものである。
さらに、健康と観光の有機的融合を目指すヘルスツーリズム事業展開が、地域社会の健全化へ寄与することで、今後の中山間地域における「健康・癒しのまちづくり」の課題を検討することを目的とした。※ せっかく学会にて秋田県(研究費が支給された)に来たので、ついでに秋田内陸鉄道に乗り、マタギの村・阿仁村へも立ち寄ったことが懐かしい。
今回の十五日間にわたる調査プログラムの主な柱は、(遊牧と農耕における文化比較)(古代ユーラシアにおける、岩絵、人石、鹿石の類似性)の二この十五日間・約二千五百キロに及ぶ移動調査は、全て天幕泊であるので、調査行動そのものが、遊牧民スタイルの遊動生活であった。
その遊動生活は、毎日が夢を見ているかのような日々であった。これまで、チベット高原や、タクラマカン砂漠、アフリカ、カナダ、パタゴニアなど広大無辺なエリアへは、数多くの足跡を記してきた。しかし、初渡航であったモンゴル西部の毎日は変化の連続であり、さらに自然と人との共生風景や、さまざまな生き物の息遣いを肌でヒシと感じる事の出来た日々であった。
それに付け加えて、「肝の座ったニンゲン」達との出会いの数々。幾度となく繰り広げられた、荒野や湖畔にての咆哮に近い、蒙日対抗の唄合戦。還暦を迎える前年に、まさに精神と肉体が「暦かえり」へと向かう準備が出来ていくような気持ちであった。
モンゴルを含めた中央アジア、そしてカフカス、カスピ海、トルコ、旧東欧に至る広域ゾーンへの中長期的調査行動へ弾みがつく端緒的調査となった事は間違いないだろう。これらの中長期調査行動の先には、朝鮮半島や渤海を越えての、列島文化への様々な波及、連携などを見据えていかなければならないだろう。
日本の縄文、弥生、古墳時代を軸にした、ユーラシア大陸文化と通底する事象への眼差しを忘れてはならないと、ウランバートルの地にて改めて再認識している。
● 写真は、水が流れでない広大な内陸湖の湖畔にて、向かって右から、モンゴルの大親分、日本の親分さん、モンゴルの女傑さん、とのショット。
● ちなみに、モンゴルの大親分さんが被っている山で使う帽子と、私が被っているベレー帽は、「兄弟の盃?」を交わした記念に交換したのである。
健康ツーリズム・屋久島・縄文杉
縄文杉までの養生プログラムは、これまでに十数回実践している。
屋久島在住のガイドさんは、多い人は二日に一回くらいの頻度にて、十時間以上の縄文杉往復ルートを案内しているらしい。
私達の住む地球上には、『三つの極み=極地』と言われる場所がある。北極点・南極、そして世界の屋根ヒマラヤの3か所と言われている。それぞれ、隔絶された場所にあり、空間的・時間的・そして人間的にも超越された異次元世界が展開しているからであろう。
三十歳代の初め、エージェント組織で働いていたころ、縁あって『地球のテッペン』北極点へのプログラムをガイディングしたことがある。地球のテッペン・北極点に足を着地させながら、私は途方もないイメージ図の実現を密かに心に誓っていたのである。それは、『この場所の反対側⇒南極に立って、地球をサンドイッチする』というイメージ図である。(地球を抱く)イメージと言い代えてもいいだろう。
それから十年以上はご縁に恵まれなかった。拠点を大阪から広島へと移してから数年後、そのイメージ図が具体的になり始めたのである。年齢的に四十歳代となっていた。ただ、そのイメージ図の完成への道のりは、アプローチだけでも半端ないのである。当時一般人の南極入域の扉は非常に限られていた。
私が採ったアプローチルートは、一旦地球の反対側南米大陸へと回り込むことだった。日本⇒北米⇒南米(チリのサンチャゴ)⇒プンタ・アレーナス(チリ最南端)まで、実質三日くらいかけてのフライト旅であった。さらに、南米大陸最南端から、マゼラン海峡などを越えて、南極のチリ観測基地へと空路入域、というルートであった。
縦軸に地球サンドイッチする前に、アプローチフライトにて、図らずも斜め横回りの地球サンドイッチをしてしまっていた。マゼラン海峡やドレーク海峡など、地理(チリ?)の授業でしか聞かない地名の実物を窓外から眺めながら、南極へタッチダウンした。
季節は日本の冬。南半球の南極は初夏。気温はマイナス五度程度。同時期の北海道の方(マイナス二十度)がよっぽど凍てつくなか、白銀ではない南極に降り立ったのである。
そして、三つ目の極地・ヒマラヤへは、すでに三桁に近い渡航回数である。世界最高峰エベレストから流れ出る、ロンボク氷河での撮影場所の標高は約五〇〇〇メートルくらいであろうか。この氷河は一日数ミリ~数センチの幅で『動いている』のである。
北極点の氷床群も、時速四キロ前後のスピードにて絶えず動いている。三つの極みの中で、不動であるのは大陸である南極だけである。いずれにしても、三つの極みに足を着地させた際に体感した感触は、いまでも明瞭に足底部が記憶している。
地球の『極みの時空』で味わった、自分のカラダの末端細胞が揺らいだ『微細な震え』というものは、死ぬまで消却され得ない『カラダに刻まれた三つの年輪』へと昇華している。
健康ツーリズム・実践編。
二〇一〇年に広島県安芸太田町にて開催した、『健康ツーリズム フォーラム イン 中国山地』についても別途記事アップしているた。このフォーラムが契機となり、安芸太田町は『広島県初・森林セラピー基地構想』に取り組んでいくのである。
その先進事例となった、(島根県飯南町セラピー基地)にて実践した、森林セラピー養生プログラムである。森林環境と健康づくり、の相関関係をわが身で体感・体得する、環境型養生プログラムの一環である。
二〇一一年には、地元の自治体との連携にて、写真のような実践大学講座形式での、地域活性化プログラムを総合プロデュースした。この実践大学講座のキモは、下記のようなサブタイトルの教室を開講したことにある。サブタイトルの全てには、その頭に『里』という文字を入れ込んでいる。
中山間地域における『里』とはどのような意味や価値があるのか、を都市部の方々に実地で見てもらい、その代価として参加費を支払っていただく。参加者へのフィードバックは、『里』が包摂している『生命エネルギーの源』を感受していただくことにある。そして、その生命エネルギー感受は、参加者の心身魂への『健康・健全』という循環回路へと注がれていくはずである。
里山教室・恐羅漢山のブナ林歩き
里川教室・三段峡リバーサイドウォーク
里人教室・井仁の棚田と龍頭峡ウォーク
里地教室・深入山歩きと八幡湿原観察
里山登山・広島県最高峰・恐羅漢山登山
中山間地域の潜在的資源(自然環境と人の営み風景)を有効に活用したプログラムは、結果として、総数一〇〇名を超える参加者(ほとんどは都市部から)に集っていただけたのである。
五十歳に代前半(二年半)には、地元・広島大学の大学院(医学部保健学)に入学・在籍し、『健康と観光を融合した中山間地域の町づくり』を研究テーマとした。予防医学としての、『中山間地域の自然環境を活かした、健康開発プログラム』の実践研究であった。二〜三日前に記事アップした『森林セラピー』や『気候性地形療法』、『里地里山・養生プログラム』などなどを実践研究した。『気候性地形療法』については、本場ドイツ南部に赴き、現地にてのプログラムにも研究参加した。
また、里地里山・養生プログラムについては、地方自治体・地元エージェントとのタイアップにて、数多くの企画を遂行した。写真は、大学院から派遣された『公衆衛生学会』での研究発表の資料、記念撮影である。世界各国には、『自然環境を背景とする予防療法』が数多ある。その中でも、我が日本はそのバリエーション有る自然環境や精神風土を背景に、これからの可能性が非常に高い国の一つであろう。コロナ禍で注目されている、『自然免疫力』や『ホメオスタシス(恒常性)』を強化する予防療法の実践場は、中山間地域や島嶼部にそのアドバンテージがあると確信している。
健康ツーリズム実践編
一昨日にアップした記事に『古民家の縁側で人生を振り返る』という企画を実践した事を述べた。その企画プログラムの募集要項(案)が出て来たのでご紹介しよう。結果的に、この企画には三十名程度の参加者があった。
そして、参加者には子供の頃の写真を持参してもらうよう事前に依頼した。その写真を見ながら、古民家の縁側にて『我が人生の来し方』というものを語ってもらうような取り組みであった。
また、地元の森林組合長さんから、地域の「森と家づくり」について解説もしてもらったのである。
一度、変わった講演依頼を受けたことがある。自治体から『挨拶運動を展開しているので、世界の挨拶についてお話を』ということであった。そこで、演題を『(こんにちは)は、他者への慈しみの言葉』とした。
大きな会場であったので、当日の聴衆は一〇〇〇人近く。それだけの人数を前にするのは、これまでで初めてであった。ただ、この講演日の三日前までネパールに滞在していた。その渡航目的は、災害復興支援とチベット僧院にての瞑想実践研究であった。
チベット僧院にての早朝四時から約二時間程度、各種のエクササイズをする中で、『心身脱落の上での心身統一』といった感覚を掴みかけてもいた。一〇〇〇人を超える聴衆の前に出る前には、この瞑想エクササイズを数分間おこなった。その結果、心と身体、そして言葉が(ぶれる)ことなく講演を無事に終えられたのである。
※ その講演時の音源が収録されている。https://youtu.be/LjLC5agYZyk
二年前の夏は、『海外の神秘主義』・二ケ所の現地調査を行った。一つは、スイスにて、ルドルフ・シュタイナーが主宰した『神智学』や『人智学』。これについては後日記述する。そして、もう一つが、イスラム神秘主義(スーフィズム)である。トルコにても少しばかり現地調査したことがあるが、舞台をモロッコに求めた。
『神秘主義』とか『神秘思想』などと聞くと、どこかオカルティックな響きを持たれてしまうことだろう。しかし、足元を振り返ったら、日本での密教(真言系・天台系など)や禅などは、西欧から見れば、しっかりと神秘思想なのである。千日回峰行などという一種の心身変容術などは、まさに自然の中での『肉体の回旋運動』として捉えられるだろう。
また、護摩を焚きながら一心に真言を唱えたり、一日数時間も壁に向かって坐忘するのも、心身脱落という名の無意識世界との回路とも言えよう。そんな『心身変容術としての神秘思想』は、『脳で理解しようとする』既存宗教の教理や原理とは相いれないフィールドである。
私自身は、日本の縄文文化や渡来系文化、そして世界各地のシャーマニズムや伝統医療などに触れるたびに、この『身体で触知する判断』という世界に関心を持ってきた。一神教世界における善悪の分け方や、分析を主軸とするサイエンスの合理性・論理性では、なかなか人間の本質的部分にアプローチできないのではないか、という思いが蓄積してきたのだろうか。
世界の辺境や秘境に行けば行くほど、『価値判断』というものの『危うさ』に直面するのである。それは、辺境・秘境に暮らす人々の『人生上の重きを置くポイント』が、現代社会に住む我々と大きく食い違うのである。そんな時に、西欧社会でも日本でも過去を遡れば、『神秘思想』という名のアンチテーゼが点在していたことに気が付いたのである。
パンデミックの混乱が二年目に突入している。世界の何処かで新たな変異株の脅威が潜んでおり、まだ長引く可能性もある。これまでの『価値判断』というものが、大きくぐらついている時代だからこそ、これまでの評価に囚われずに、神秘思想など過去に忘却された『価値の置き所』についての再考が求められている。
富士山での養生プログラムは、ここ十数年間で総計十回程度だろうか。そのすべては、速攻登山ではない。
ゆっくりと時間をかけて五合目から八合目までを歩くのが初日のスケジュール。そして、朝日をしっかりと八合目にて拝んだ後、ゆっくりと山頂を目指し、さらにお鉢を巡るのである。
そして、この日も八合目に戻って宿泊するのである。そうすることで、八合目にて夕暮れ時の絶景も満喫できるのである。最終日は、八合目からゆっくりと五合目まで、砂走り道を下るのである。
このゆったり行程においての、山頂・お鉢巡りの達成率はとても高く、身体に負担のかからないプログラムとして人気である。
毎回、雲上人の気分を味わうのであるが、一度は夢のような絶景空間に佇んだことが忘れられない。
健康ツーリズム・ブックレビュー編 ※二〇二一年八月に発刊されたばかりの本である。
記述の多くは対談の書下ろしであり、難解な語彙もそれほど多くはなく、一般の人でも読みやすい印象である。コロナ禍による死者との別れの在り方や、東北震災時の行方不明者への追慕の在り方などから、『近代における死者と霊性』の捉え方を問い直す、という内容である。
その中でも、『霊性』という言葉に重きを置いている。霊性とか霊と聞くと、近代から現代においての人は、どこかオカルティックな響きを感じてしまうことだろう。私自身、スイスで神智学・人智学、トルコやモロッコでスーフィズム(イスラム神秘主義)を、健康ツーリズム実践編として調査したことがある。
また、チベット密教や空海密教、そして山岳修験道などに深い関心があるので、『霊性』という語彙には日常的に触れている。この『霊性』という言葉には、その解釈範囲が無限であるが故に、一般人には少々混乱を与えてしまうのではないだろうか。
あえて平易な語彙『摩訶不思議』に変換してみたらどうだろうか。誰でも、子供の頃は毎日が『摩訶不思議』な事に満ち溢れていたと思う。全てのことが、『初めて』であり、合理的知識の無い状態では『なにこれ?』と、驚きとその喜びにカラダの微細胞が震えていたことだろう。
レイチェルカーソンも言っている『子供にとって、知ることは感じることの、半分も重要ではない』と。https://youtu.be/Ehg38C9W6QY
この、『カラダの微細胞で感じる摩訶不思議』という体性感覚が、『霊性』への扉を開く鍵ではないだろうか。哲学者・内山節さんは、その著作『地域の作法から』の中で、下記のような事を記述されている。
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有名な仏教研究者の一人に、鈴木大拙という人がいます。彼はアメリカで長く暮らしていたこともあって、合理性の世界をよく知り、同時に仏教学者として、非合理の世界もよく知っていました。その鈴木大拙は、科学や技術で用いられる発想、システム化をすすめるときに有効な発想である、と述べています。
ところが、この発想を、本来的に合理的認識に適さない領域にまで適用してしまうと、問題が生じてくる。ある意味では、そのことに気がつかなかったのが、近代という時代なのです。鈴木大拙によると、日本人の伝統的な発想では、人間の究極の目的は、「霊性を高める」ことにあった。
人々はそのことを意識して生きていた。といっても霊性を高めるシステムがあるわけではありません。もちろん、修行の方法はいくつかあるとしても、その修行をすれば、誰でも霊性を高められる訳ではない。
つまり、霊性を高めるという目的も非合理であるならば、それを実現させる過程も非合理なのです。合理的な世界とは、合理的に付き合っておけばいいのです。ただし、そんなものに深い世界はない。便利な理解として使えばよい、ということです。
近代化された社会が壊してしまったものは、このバランスではないかと私は思うのです。その結果、合理性の破綻がすべての破綻になってしまう時代がつくられたのではないだろうか。
実質的に、この連載(月一回・一年半)への執筆がターニングポイントになったと言っていいだろう。三十九歳であった。その前年に活動拠点を関西から広島へと移した。当初は、ほとんど知人のいない土地で右往左往するばかりであった。
そんな折、とある知り合いのつてにて、地元の財界誌への連載企画をうけたのであった。確か原稿料は一回わずか五〇〇〇円。連載タイトルは、『鍼灸師・地球のツボを探る』とした。そして、毎月執筆し掲載された紙面を、ファックス(当時はメール添付なども発達していない)にて、知人友人などへ定期送付していた。
そうしていると、数ヵ月後くらいに、地元新聞社の編集委員の方から連絡を受けた。それは、地元紙への紀行エッセイ連載(毎週土曜日掲載)の依頼であった。最終的にこの連載は、一年半五十六回にもなった。(注:この連載は一冊のブックレットとして出版)
この地元紙への連載が結果として、地域での知名度を上げていくことになり、他メディアなどからも取り上げられるようになっていく。(例:https://youtu.be/zC0W-6VYPh0)この連載の翌年には、地元出版社から『里山を歩こう』という趣旨の本出版の申し出も受けることになる。
さらには、『里地里山・健康歩きプログラム』も徐々に回転しはじめるのである。誰の人生にも、『不遇の時代』というのはある。私自身、今から振り返ると、三十歳代後半が、なかなか先が見えない暗闇時代だったとも言える。
しかし、暗闇時代に暗中模索したプロセスが、後の実りへの『肥し』になっていることは間違いない。その意味では、暗闇時代と呼ばず、『光明探し時代』と言うべきなのだろう。
※ 尚、ラジオ出演などの音源を収録した映像リストは、下記のアドレスにて閲覧していただける。https://www.youtube.com/@marugotokenko/search?query=%E8%AC%9B%E6%BC%94
健康ツーリズム実践編
Meditation program at the Matterhorn Peak(swiss)
二年前に実施した、マッターホルン峰(ヘルンリ小屋周辺)にての瞑想タイム終了時に撮影。(写真左大)
一八八〇年にスイス山岳会により創設された歴史的な山小屋である。この山小屋(標高三二六〇m)にて、サンライズ・サンセットタイムに瞑想をおこなうプログラムである。
日本ホリスティック医学協会の広島事務局長を十五年弱務めた。四十歳代初めから五十歳代後半まで。残念ながら身内のケアの為に勇退せざるを得なかったが。事務局長時代には、数多くの『健康フォーラム』を主宰し、著名な講師の方々を広島にお招きをした。
その中でも、やはりこの方をお呼び(結果として計三回も広島に来ていただいた)したことが記憶に鮮明である。五木寛之さんとの対談本などほんとうに多くの著作のある帯津良一先生のフォーラムは、少々熱い想いをもって準備したことを思い出す。
医師であり、日本の養生論の第一人者でもあり、当時日本ホリスティック医学協会の会長でもあった方である。結果、帯津先生のフォーラムへの参加者は130名を超えるという盛大なものとなった。広島で有料にての健康関連のイベントとしたら、結構な集客力ではないかと少々自画自賛したものである。
健康フォーラム以外にも、森の中でのアーユルベーダ講座やホリスティックコンサート、医師同行・養生の旅プログラム、などなどを企画し主宰してきた。※ 帯津良一先生の書かれたコラムを最後に添付しておこう。
~確かなものはつながりだけである~
これからの医療や養生は死後の世界が非常に重要な存在になってくると思います。私は生と死の間に薄い境界があるような気がしていて、死ぬときにパーンと そこを突き破らなければならないので、死ぬ一週間前辺りで勢いをつけて加速し最後に死後の世界に勢いよく突入しなければならないと思っている。
藤原新也氏が『メメント モリ』の中でも書いていますが「死というのは、ずるずるとなし崩しに訪れるものではなくてある瞬間に訪れてくるもの、その一瞬を逃さないでつかみとる。だか ら日頃から覚悟をしていなければならない」と言っています。
五木寛之氏も「明日死ぬとわかっていてもするのが養生なのである」と語っていました。そして、著書『人間の関係』の中で「明日のことはわからない。今日 しっかりやればいい。確かなものは関係だけだ」と書いていますが、私もそう感じます。明日死ぬからいいのではなく、勢いよく死を乗り切るために養生するのです。
私は死後の世界へ突入する瞬間を「生命の躍動のクライマックス」と呼んでいます が、あまり歳をとってしまうとクライマックスができませんので人間には死に時というのがあり死に時を誤ってはいけないと思います。目に見える肉体や世の中の雑事、名誉やお金は変わり移ろいゆくもの。環境とのつながり、人と人とのつがなり、死後とのつながりなど、そういった関係やつ ながりだけが確かである、そう思うのです。
健康ツーリズム講演編
『里地里山・養生プログラム』については、数多くの場所にて講演をしてきた。
今回は、その際にプレゼンするパワポの一部を紹介。このバージョンにては、『里』とは何なのか?という事を導入部としている。
『里』という字を、上下に分解してみると、意外なアングルからの把握ができる。
健康ツーリズム・講演編。(旅はココロの栄養素)この講演は、日本旅行業協会と中国新聞社とが主催をし、シリーズ講演会(海外旅行セミナー)の第四回目であった。第四回目の来場者は、八十数名でありシリーズの中でも一番多かったと聞いている。この時の講演テーマは、 「歩く・見る・学ぶ、そして伝える旅~新しい健康旅行のありかた~」と題してのものであった。それは、私が主宰する『深呼吸クラブ』のモットーでもある(ため息を深呼吸に変える)、そして、(旅はココロの栄養素)を具現化する新しいツーリズムの提唱であった。言葉だけの講演ではなく、出来る限り映像や音声をフルに活動させて、現場の臨場感を来場者に感じていただけるよう創意工夫をしてみたのである。
二〇一二年十二その際には、日本及び諸外国における『自然代替療法』の可能性についての内容を公開している。その講演の音源などを含めた、これまでの森林セラピー関係の映像(私が撮影・収録・編集した)は下記アドレスにて閲覧できる。https://www.youtube.com/user/405921/search...
また、この合同研修会にて出逢うことになる、中四国のセラピー基地関係者とは、それ以降もおつきあいが継続していくのである。その関係性は、私の自著の中にも反映していくのである。各地のセラピー基地を紹介するページを設けた本を二冊上梓した。
特に、高知県梼原町との関係は濃厚なものであり、かの地にても講演をさせていただき、森林セラピーロードも関係者のご案内にて歩かせていただいている。その際に記録として収録した映像を、その後編集し、ユーチューブにアップしている。https://youtu.be/4QRbMzWCHps
昨晩は、遅くまでとある会合に出ておりました。その会合とは、近日中に立ち上げる「広島での山岳・自然ガイド協会」的な組織についてです。現在、プロの山岳・自然ガイドの資格を有して仕事をしているのは、広島界隈においては私くらいだと思います。
資格はあっても専業ではない人もいると思いますが。昨日会合に集まっていただいた方々は、近い将来山岳ガイドの資格取得を目指す方々でした。広島において、山岳・自然プロガイドのフィールドを確立していこうという話し合いだったのです。
そして、大きな柱が「次世代の育成」ということでした。このことは、私自身大きなテーマでありました。二十~三十歳代の若者達へ、山を中心とする自然への媒介者としてのガイディング技術やコミュニケーションスキルの伝授や育成は急務だと思っていたのです。
昨日の会合でも同意見(ある人は、小学生や中学生の段階からの育成も大切との意見でした)の方がおられました。私は、二十歳代からガイドの仕事をしてきました。三十歳代からは、医療系の資格(鍼灸師)の資格を併用しながら、自然の中での心身の養生プログラムへのガイディングも試行錯誤しながらはじめてきました。
そんな中で「ガイディング」とはなんなのか?ということにいつも思索を繰り返してきました。
確かに、現在の山岳ガイドと称せられる人の多くは、山岳登攀の技術指南などの分野で活動される人が多いのは事実です。
自然の中で「登攀技術」というツールを使いながらの「自然との会話術」も指南されていることでしょう。片や、自然ガイドと称せられる分野の方々は「自然観察」や「山野草ウォッチング」などのツールを使ってのナビゲートをされておられます。
どちらも、現代人が忘れかけている「自然から学ぶ姿勢」といったものを気づかせてくれるガイディングとなっているはずでしょう。私は、自然界と人間界とを仲介する役としての「ガイド」には、かならず「人生哲学」が必要だと考えています。
表現を変えると、そのガイド者が同行者へ、「人と自然の物語が語れるか」ということだと思います。「物語」とはなんでしょうか?人が人生を送る上で必要なスパイス・・、それが「物語」だと思います。衣食住、人間の生活に関わる事象が、現代社会では「コンパクト」に「コンビエンス」に、そしてその状態が「コンスタント」に繰り返されています。
百円ショップはほんとうに便利ですね。なんでもが、「エコノミー」に「エンターテイメント」された商品群を「エンジョィ・ショッピング」できるのです。しかし、そこには「物語」が抜け落ちています。作り手の顔が見えてきません。作り場の風景が見えてきません。ひとつひとつの商品に物語がないのです。
百円ショップで買い物したものは、五十年後に「平成の民具類」などとして後世の人に展示され、再びアンティークな味わいを醸し出すことはないでしょう。それは、作り手や作り場において「作り手側の思い」が漂っていないからでしょうね。「作り手側の思い」があるからこそ、五十年後にアンティークとして展示されたものを鑑賞する側に、その「思い」が伝わってくるのではないかと思います。
ガイディングも同じだと思っています。私達、山岳・自然ガイドは何を生産しているのでしょうか?固形物としての商品化できるモノではありません。私達ガイドが生産できるもの・・、それは、同行者の感動される顔であったり、豊かな表情であったり、明日への活力であったりするのです。
その生産の現場には必ず作り手の「思い」がないといけないと感じています。ガイドの「自然」に対する、「自然と人間との共生のあり方」に対する、そして「人間の社会の健全なあり方」に対する、「思い」がないといけないと思っているのです。その「作り手側の思い」が、作品である「ガイディング」に「物語性」を付与していくと信じています。
そう、ガイディングは、ガイドする側の人生が問われると言っても過言ではありません。だからといって、若年層の人がガイディングできないかと言っている訳ではありません。年齢ではなく、そのガイドが「日頃から何を思索しているのか」ということが大切ではないかと思うのです。
その上で自然をフィールドとした「ガイディング」は、同行者の気がつかなかった「感動への導火線」や、見えなかった「不安や不安定さからの解放」や、言葉にできなかった「なにものかに対する感謝の心」などを、ガイドも一緒に、導き出すことができるのではないかと強く感じているのです。
プロの山岳・自然ガイディングとは、単なるテクニカルな技能所有者に留まることなく、自然という養生所をフィールドとするセラピストとしての可能性と期待感を膨らませているのです。
※ 写真は二十歳代のもの。インドネシアにてのガイディング風景
二年前の同日は、モンゴル西部高原にての『サーベイ(巡回)調査』にて、カザフ族フィールドに入域した日である。先日アップしたモロッコでの調査が同年六月。七月にはスイスでの調査。そして八月末日にモンゴル調査に出発したのである。(==)線以下は、調査終了後ウランバートルにて、十五日間のサーベイ調査を振り返った際の記述文である。
===
今回の十五日間にわたる調査プログラムの主な項目は、
(遊牧文化における『天・地』概念)
(岩絵、人石、鹿石の歴史的意味背景)
(鷹匠・シャーマンとの接触)
(養生プログラム候補地選別)
の 四つであった。
この十五日間・約二五〇〇キロに及ぶ移動調査は、全て天幕泊であるので、調査行動そのものが、遊牧民スタイルの遊動生活であった。その遊動生活(サーベイ調査)は、毎日が夢を見ているかのような日々であった。
これまで、チベット高原や、タクラマカン砂漠、アフリカ、カナダ、パタゴニアなど広大無辺なエリアへは、数多くの足跡を記してきた。しかし、初渡航であったモンゴル西部の毎日は変化の連続であり、さらに自然と人との共生風景や、さまざまな生き物の息遣いを肌でヒシと感じる事の出来た日々であった。
それに付け加えて、「肝の座ったニンゲン」達との出会いの数々。幾度となく繰り広げられた、荒野や湖畔にての咆哮に近い、蒙日対抗の唄合戦。還暦を迎える前年に、まさに精神と肉体が「暦かえり」へと向かう準備が出来ていくような気持ちであった。
モンゴルを含めた中央アジア、そしてカフカス、カスピ海、トルコ、旧東欧に至る広域ゾーンへの中長期的調査行動へ弾みがつく端緒的調査となった事は間違いないだろう。これらの中長期調査行動の先には、朝鮮半島や渤海を越えての、列島文化への様々な波及、連携などを見据えていかなければならないだろう。
日本の縄文、弥生、古墳時代を軸にした、ユーラシア大陸文化と通底する事象への眼差しを忘れてはならないと、ウランバートルの地にて改めて再認識している。※ パンデミックが到来してなければ、この二年の間に、海外調査は中央アジアからトルコ西部までを複数回実施できていたはずである。
ここ十年ほど、地元の大学・広島修道大学にて非常勤講師を務めている。人間環境学部にて『環境演習・里山学』の講座である。二〇一二年には年間十五回ほどの、教室講座+現地フィールド学習のスケジュール繰りであった。(写真)
この時の現地フィールド学習は、広島県の中山間地域・安芸太田町であった。三段峡、井仁の棚田、龍頭峡などのエリアを、その場所に精通した土地の方々にご案内していただきながらフィールドワークをした。
座学の連続講義は、ヘルスツーリズムを主軸とした、地域活性化への取り組みと課題を、KJ法による解析にて意見交換する内容であった。そして、フィールド学習は、実際にヘルスツーリズム実践の現場を学生とともに歩き、その後学生の目線で見た感想とともに、改善点などを発表する内容であった。この連続講義は、広島修道大学の『熟議』という一連のキャンパス内発表会へと繋がっていくのである。
『一〇〇年』というスパーンについて熟考する。二〇世紀から二一世紀にかけて、地球上に「秘境」と呼ばれる場所は加速度的に減少している。二〇〇五年夏、日本山岳会百周年記念事業の一環で、数少ない秘境を訪れる機会を得た。
およそ百年前、一人の日本人僧侶が単身ヒマラヤを越えて禁断の土地・チベットヘ潜入した。「河口慧海(えかい)」その人である。ヒマラヤの奥地・ムスタンと呼ばれる土地から、八千メートル峰・ダウラギリの北側の峻険な山腹道をヒマラヤ越えした。その冒険行は「チベット旅行記」となって当時の人々を驚愕させた。
その約五十年後、同じ西ネパール・ドルポ地域を訪れた、文化人類学者でKJ法の創案者・川喜田二郎氏は帰国後「鳥葬の国」を上程し、ベストセラーになった。二〇〇五年夏、私は先人達の足音を求めて馬上の人となった。日本出発の三日後くらいには、いきなりの四〇〇〇メートルの峠越え。
冷気をいきなり吸い込んだせいか、手先が痺れ始め馬上から崩れるように地面に這い降りたこともある。千尋(いやいや万尋かな?)の谷のような深い峡谷を幾度も越えた。まるで悪魔の喉を通過しているような不気味な斜面も登った。
地図上ではなかなか判明できない谷を悪戦苦闘しながら遡行した。地球の終わりかと思われるような、そんな風景が幾度も眼前に展開した…。それに加えて、反政府勢力・マオイストのゲリラ軍団とも対峙した…。(★写真参照・四五歳の即席ゲリラ初年兵である)
河口慧海の一〇〇年前、川喜田二郎の五〇年前の記述と、ほとんど変わらない風景・光景の中を私は旅していた。彼らの記述を馬上にて思い出しながら私は、「一世紀=一〇〇年」という時間のスパーンについて、物思いに耽っていた。
そうなんだ。地球や人類の歩みという歴史に比べると、本質的なものは、五〇年、一〇〇年ではそんなに変化しないものなんだ、と。戦後の日本や先進国における社会の変化スピードは、これまでの人類にとって異質なのである。それを証明する為に、このパンデミックが強烈な一撃を喰らわしてくれている。
これまでの人生で、地球上のさまざまな土地を訪れた。その多くは、「秘境」や「辺境」と呼ばれる土地だった。二十一世紀にこんな生活を送っている人たちがいるんだ、とか、それまでに獲得した常識の範囲では、なかなか理解できない人たちやその文化背景があった。
市場経済至上主義やグローバリズムといった、その時の流行りの思想信条だけが地球を席巻していないことも確認できた。秘境や辺境の土地から帰国するたびに、私の脳は見事に「時差ボケ」に陥る。言ってみれば、「価値観」「人生観」「死生観」「幸福感」の時差ボケである。
日本の、見えない常識の枠に左右されながら、ボーダレスのグローバル時代のリアリティとの狭間で、心のメトロノームが揺れるのだ。哲学者・内山節さんが言っている。
「日本人はいつからキツネにだまされなくなったのだろう?」
社会のすべてが、合理的な論理で動いてゆき、あやふやで、危うく、霊性を持った世界はすべて拒否されてしまう。人間の体(ミクロ)や宇宙の根源(マクロ)への不思議さが残されているにも関わらず、社会には「不可視・不思議」を追求する時間も余裕もない。
まだまだ神話や伝説の残る社会では、ヒトはココロのヒダを大切にしながら生きているのだろう。神話や伝説は、その『ヒダの揺らぎ』の大切さを後世に伝えようとする物語に違いないのだ。
確かに、西ネパール・ドルポでは、地形的な景観のみならず、居住する人々の描く、心の風景までもが世紀を越えても、微小な変化のみだった。パンデミックが収束した後では、我々現代に生きる人類はもはや、パンデミック前の社会的価値観を全面的に肯定することはできなくなっているだろう。
収束後の新たな価値観構築には、それぞれの個人単位における『死生観』、『人生観』、『幸福観』への『振り返り作業』が求められているに違いない。
二十年前のこの日。私は北米のカナダにプログラム参加者とともに滞在中であった。ロッキー山中にてのフィールドワークが終了し、バンフの町へと降りてきたら、どうも、町の様子が変なのである。
あまりにも、人や車が見当たらないのである。 そして、建物上には、カナダ国旗の半旗が・・。
う~ん、だれか著名なカナダ人でも亡くなったのかな? なんて悠長に思いながらホテルの部屋へと戻ったのである。そして、何気なくテレビをつけてみたら・・・・。現実とは思えないような映像が次から次へと流れて来るではないか。なんなんだ、これは映画なのか・・??
大変なことがアメリカで起こっているな~。しかし、ここはカナダやさかいに、問題ないかな~。
なんて思っていると、そのうちに、カナダとアメリカの国境が閉鎖される、だとか、カナダの出入国も一旦クローズになる、とか怪しげな雰囲気が濃厚になっていく。
そして、決定打が下された。カナダやアメリカの国内線全てが運航取りやめ、再開のめどなし、ということになった。五日後には、バンフ→(陸路)→カルガリー→(空路)→シアトル→日本というルートで帰国する予定であった。
まず、カナダとアメリカの陸路国境が閉鎖という情報、そして、カナダ・アメリカの空の便がすべて運航中止。どうすりゃ、よかんべ~。打つ手がない! という緊急事態が迫ってきた。さてさて、こんな時、むやみに焦っても埒が明かないのは、これまでの危機突破経験からも体得できている。
しかし、これだけの未曾有の出来事は、私にも経験のないことであった。正直頭を抱え込んでいた。同行者をどうして安全に帰国させることができるか、などなどが頭をグルグル・キリキリと締め上げ始めていた。予定帰国便までのリミットも迫ってきていた。まあ、その帰国便そのものが運航されるのかどうかも不明の状態であったが。
しかし、幸運の女神は現れるものである。日本のカウンターパートナーとの連携により、急遽バスをしたててシアトルまでの陸路爆走突撃とあいなったのである。陸路突撃って言ったって、国境が閉鎖では? との問いに、カウンターパートナーは『とりあえず、国境まで行ってみましょう!』なんて前向きなお返事。
よっしゃ、そんなら突撃したるわい!
しかし、その時には、カナダ・ロッキー山中からシアトルまでの、陸路移動距離や時間などは全く頭になかったのである。グーグルアースにおいて、コンピューターがはじいた最短距離は、なんと九〇〇キロ! 時間にして十時間! である。
九〇〇キロっちゃ~、日本で言や~、東京・福岡間(直線にして)くらいでっせ~。それも、南北に伸びるロッキー山脈を何度も越えなくてはならない。さらに、その時間帯(シアトルの予定便に間に合うためには)は、午後から出発し、深夜のノンストップに近い走行になったのである。私は、カナダ人ドライバーが居眠りをしないかどうかが、心配のあまり、運転席横の助手席に座り、絶えずドライバーとの会話に努めた。
しかし、あまりにも疲れ果て国境近くにては、後方の座席にて眠りこけていた。突然、躰をゆすられ、起こされた。それは深夜三時頃のことだったろうか・・。いかつい顔をした(しかし東洋系の顔だったので先住民かな?)制服姿で腰の拳銃に右手を添えた国境警備官だった。
『Show! your passport !』
え? 国境まで来たん? パスポート見せろ、ちゅうんのんは、『国境開いたん?』と喜んだのもつかの間だった。私のパスポートには、カナダ渡航の直前に渡航していた、パキスタンの査証スタンプが押されていたのである。さあ、警備官さん、そのスタンプと私の顔を交互にジロジロと眺め始め、私とパスポート君は別室に連れていかれたのである。
ああ、なんでパキスタンなんかに行ってたんかな~、タイミング悪いな~、なんて思っていると、先住民の警備官さんが言ってくれたのである。『アンさん、そんなに悪そうな顔やないな、俺と同じDNAを感じる』だったと記憶(寝ぼけ眼状態なので鮮明ではない)しているのだが。
事なきを得、漆黒の闇の中アメリカ本土に入国した。しかし、飛行機予定時間まで残り僅か。
目が真っ赤のドライバーちゃんを、励ましながら疾風怒濤の如く、シアトルエアポートへと走らせたのである。そして、夜がしらじらと明ける頃、シアトルの高層ビル群が目に入ってきた。
よし、これで何とか間に合うかも???と甘い期待をもって、シアトル空港に到着したら、
『なんなのこれ~?』
シアトル空港は、九・十一から数日間閉鎖状態であり、この日に始めて一部の路線を再開しはじめたのである。なので、チェックインカウンターからは、まるで『ヤマタノオロチ』のような長蛇の列、列、列。さて、ここから先は、新聞に連載した紀行エッセイ(写真)をお読みくだされ。
二〇一三年頃からだろうか、庄原市の観光協会(当時)や、商工観光課さんからお声がけがあった。それ以降、ガイドスキル向上講座や、実践編、さらには一般者むけの養生プログラム企画などを手掛けている。昨年と本年は、コロナ禍の為に実践プログラムはなかなか実施できてはいないが、年間十数回程度の企画を立案提示している。
庄原市というのは、平成の大合併により、大阪以西では一番面積の大きな自治体となっている。それだけに、『合併後の統一コンセプトづくり』に苦慮されてたように思える。そんな中、市行政の四十歳代前後の係長・課長級人材が奮闘され、独自の風土性を背景とする、大きな傘(新しいコンセプト)の設営に励んでおられた。
庄原市は、比婆山文化圏(前述の若手人材の一人である文化財課のスタッフが提唱されている言葉)にスッポリと入っている。比婆山文化圏とは、神話・古事記における『国生み女神・イザナミ』が葬られた黄泉の国に関わる広域圏のこと。
大きな傘(新しい市のコンセプト)の一つとして、この『比婆山文化圏』は大きな魅力を発揮した。その成果として、一冊の書籍にまとめられてもいる。(写真)私は、その独自性ある風土(比婆山文化圏)は、国際的にもアッピール度の高いファクターであることを主張した。
まだまだインバウンドが盛況な時期であったので、下記のような広域連携ルートも提案した。神集う国・出雲⇒松江道⇒高野ICにてのストップオーバー⇒比婆山山麓にて宿泊⇒比婆山・古事記の里巡り⇒⇒尾道道⇒尾道⇒世界遺産・宮島、といった山陰から山陽に抜ける『陰陽ルート』である。
インバウンド盛況の時期には、京都や奈良などに外人客は集中していた。確かに、両都市には日本の古代から中世を中心とする歴史遺産が凝縮されてはいる。しかし、欧米人がその自国文化ルーツを、ギリシャへの旅に求めるように、いずれは奈良・京都時代よりも前のニッポンにもスポットライトがあたってくるはずだ、というのが私の提言である。
その一つは、この度世界遺産に指定された『北海道・東北における縄文文化遺跡』、そして、もう一つが、『古代・神話の物語が継承されている場所』であろう。神集う国(出雲)・古事記の里(比婆山文化圏)・世界遺産(宮島)のトライアングルルーティングの整備は、今からでも遅くはないと思っている。
『クールジャパン・古代神話の海・山・島、そして里を巡る』といったタイトルになろうか。今後も、庄原市をはじめ、各地の自治体や観光関連団体と連携しながら『心身魂の健康養生プログラム』のコーディネートや実践編のタイアップを手掛けていくつもりである。
中国山地の中山間地域自治体から、養生プログラムについてのコーディネートやコンサルティング、そして講演依頼をよく受ける。写真は、島根県奥出雲町にて開催された『中山間地域・広域連携観光促進セッション』での講演風景である。地方の行政関係者の方々とお話しをしていると、その地方特有の課題が垣間見えてくる。それは、予算配分の問題からはじまり、人材確保、潜在資源、などなど多岐にわたる。ただ、いつもアドバイス申し上げているのは、『短期戦略』や『物真似的発想』のみでは先は見えてこない、ということである。
自治体は『一年予算』という縛りの中で奮闘せざるを得ない現実はある。しかし、それに甘んじていると、いつも間にか可視不可視の『負の遺産』だけが残されていく。元来、中山間地域や島嶼部に住まう人達は、第一次産業に従事してきている。それらの『営み風景』は、身体を季節の変化に寄り添わせながら、等身大レベルにて中長期スパーンでの生活や制度の設計であったはず。
それらの『中長期スパーンを見据えた営み風景』というものは、残念ながら都市部では皆無に等しくなっている。そこに、現代人の『メンタル問題』などが多発する要因もあるのだろう。それだけに、中山間地域や島嶼部の『地域活性化』における『短期戦略』は、『その土地風土性のある中長期戦略』の一部として捉えていかねばならない。
数十年スパーンの林業における一年単位は、その典型事例であろう。その一年単位の短期戦略(仕事)は、確実に『年輪』として完成物の内部に刻まれていくのである。私の地元・広島県安芸太田町で活動するNPOは、『百年後を見据えた取り組み』を、国の名勝である三段峡にて実践されている。その提唱者は、Ⅰターンの若者である。
一九七〇年代以降、日本の中山間地域や島嶼部でも、過疎化が進み、住民の高齢化も加速するばかりである。中長期的展望を基軸とした営み風景は、それを支える精神とともに途絶えかけている地域もある。そんな地域にこそ、新しい活性剤として(アイ・ジェイ・ユー)ターンの(若者・ヨソ者・バカ者)などによる、シャッフル(かき混ぜ)作用が必要となると思われる。特に保守的な地域では、一時混乱もするだろう。しかし、そのシャッフルも中長期的視野で俯瞰するぐらいの度量が求められるだろう。
昨日は、とある政治分野の方との地域づくりにおける意見交換会に呼ばれた。感銘したのは、その政治家の方の『傾聴姿勢・態度』であった。私は、東洋医学従事者(鍼灸師)として、また旅の案内人として、これまで幾多の分野の人々と接してきた。その接する際に注目しているのが、『モノゴシ』である。
言葉の選び方・しゃべり方にはじまり、所作・動作・姿勢・目線の配り方などなどである。特に、『傾聴姿勢・態度』は、まさに『コンパッション=慈悲・思いやり』の根本が表出するものである。その政治家の方が、私の意見に対する質問をされた。『そのご意見の中の(風土)ということについて、もう少し詳しくお聞かせください。』と。
私は、(風土)という言葉に反応されたこと、また、そのソフトな質問語り口にも、『あ、この人は通り一遍の政治家ではないな』と感じていた。質問に対して、私は写真(講演時のパワポ資料)にある、『景観一〇年・風景一〇〇年・風土一〇〇〇年』についてもお話ししたのである。
和辻哲郎氏によって、市民権を得た『風土や風景』という言葉は、ある意味日本特有の概念が含まれている。風景を表現する英語には『ランドスケープ』、仏語には『ペイサージュ』、独語には『ランドシャフト』がある。風土は、翻訳ウェブ上にては英語『クライメイト』、仏語・独語『クリマット』であり、どれも(気候全般)を意味する概念に近くなってしまう。
それらの欧米語のいずれの語彙背景に、『風』という日本的概念は見当たらないのである。では、日本語の『風土』における(風)とはどのような意味背景を有しているのであろうか。私は、古来日本人はこのように感じていたのでは、と考える。
『風』は不可視のものであるが、『何か』を運んでくるのは間違いないだろう。その『何か』とは、『森羅万象におけるイノチのチカラ』ではないだろうか。言い換えると、『生命エネルギーの源』である。
木には『年輪』があり、それは(紋)という彩(あや)でもある。同じように、その土地の『土』にも歳月をかけた(紋=あや)がある。その土地特有の彩(あや)は、風が運んできた『生命エネルギーの源』によって、形成された『風紋』とも言えるだろう。
その土地特有の『森羅万象におけるイノチのチカラ』が一〇〇〇年の長期にわたり、一年一年の風紋として刻まれたものが『風土』だと言える。森羅万象のイノチのチカラには、『自然環境のチカラ』のみならず、その環境の中での『人の営みのチカラ』があり、双方の互酬関係性によって育まれたものが『風土』となっていく。
すなわち、『風土づくり』とは『自然と人間の互酬関係の、絶えざる見直し作業』によって為される行為なのではないだろうか。※ 写真は、『風土づくりと健康づくり』と題した講演時に使用したパワポ抜粋資料。
緊急事態宣言や、まん延防止措置などの拡大によって、今月と来月中旬までに予定していた健康・養生プログラムの全てが延期・中止となってしまった。参加者の方々や、提携先エージェントさんの落胆ぶりが目に浮かぶ。
(瓦~斯~)さんの『無意志・無感情な棒読み会見』は、ガス(瓦斯)の元栓を閉め忘れた場あたり的釈明対応と言わざるを得ず、悪臭だけが周囲に漂ってしまっている。それに対して、世間では怒りのマグマを伴った『冷めた諦め感』が漂っているとメディアが報じている。
この『冷めた諦め感』は、必ず『静かな抵抗』として何らかのムーブメントとなり、秋には地殻から憤怒マグマが噴出し、残存する悪臭の(瓦~斯~)を爆裂霧散させるかもしれないな~。それは、政府・与党・一部行政が垂れ流す悪臭の除去、というメッセージで研磨された、大衆からの『鬼滅の刃』による一撃なのかもしれない。
私自身の『静かな抵抗』として、少なくとも九月中旬くらいまでは、アーカイブ版・養生プログラムやコーディネート実践をアップしていく予定である。これまで訪れた海外・日本各地でのプログラム・コーディネート風景や、その土地の風情といったものを写真にて紹介していくシリーズである。首都に集う『我欲に走る人達』を尻目に、国内外の魅力や活動展開ヒストリーなどを追体験していこうと思っている。
まず最初は、二〇一〇年にコーディネート実践した活動フォーラムからである。タイトルは、『健康ツーリズム・フォーラム イン 中国山地』。第一回の会場は、安芸太田町の『いこいの村ひろしま』。鳥取県智頭町、島根県飯南町、岡山県真庭町、山口県錦町、そして広島県安芸太田町(広島大学との連携事業)からの活動報告に始まり、今後の健康をキーワードとしたツーリズム展開について意見交換のフォーラムとした。
このフォーラムの後、広島県安芸太田町は、『広島県初の森林セラピー基地構想』へと、行政が主体となって取り組んでいくのである。
※広島県で一番小さな自治体・安芸太田町が、このフォーラム以降取り組んでいく『ヘルスツーリズムによる町おこしプロジェクト』に関しては、次のアドレスから閲覧かのうである。
https://bccks.jp/viewer/179194/
実は、コロナ禍前には、私自身十冊目と十一冊目となる二冊の著作制作が最終段階となっていた。その十冊目本タイトル(最終候補段階)は、『ガイディング&ホスピタリティ ~東京オリンピックへ向けて~』であった。
表紙の装丁も写真のような感じかな、とも思案していた。しかし、オリンピックの延期に始まり、コロナ禍でのインバウンドなどのほぼ消滅。などなどによりこの出版企画案は、別の出版社探しというスタート地点に戻っている。
私自身、国内外での健康・養生プログラム実践や、ガイディング講座、自治体へのコンサルティングや、各種コーディネート活動する中で多くの事に気づかされてきた。特に、『人をガイディングする』とはどういうことなのか?
単に、山岳や観光にてのガイディングではなく、教育の場、職業の場、カウンセリングなど社会活動におけるガイディングの重要性などにも注目してきた。そして、『人を受け入れるホスピタリティ』の奥深さについても、異文化理解や深層心理学、さらには動作・しぐさなど幾多のマンウォッチング的フィールドからのアプローチへの思考を巡らせてきた。
そんな、これまでの思案・思考・思索などを一冊にまとめようとしたのが、この出版トライアルである。出版社との話し合い時にまとめた、本の構成一覧にもその痕跡が残されている。
数日前には、自身十冊目と十一冊目の著作出版が、コロナ前には最終段階であったことを述べている。十冊目は『ガイディング&ホスピタリティ』というタイトル候補であった。今日は、十一冊目となる予定であった『癒境への旅』というタイトル本について紹介する。
この本は、装丁も写真のように最終段階まで来ていた。日本各地から、心身魂を癒すことのできる『場のエネルギー』を有する土地をピックアップし、その奥深さを写真とともに紹介する、といった内容である。
候補地も、信仰の聖地、古代遺跡、風水的地相、神話所縁の地、などなど多岐にわたる。出版社とは、日本語版の後には英語への翻訳版も考慮し、インバウンドの新しい潮流としていこう、とも話し合っていた。
世界には、『聖なる土地への旅』とか、『グレートアース・エネルギースポット』などなど、トランスパーソナル的な超越空間への旅というのが一定の評価と人気を得ている。不可視のエネルギーを触知できる『土地』というのは、東洋医学(鍼灸)でいうところの『人体のツボ』ともいえよう。
鍼灸での不可視のエネルギー、『気』が流出入するツボ的場所は、地球上にも必ず存在している。それは、人体と同じく地球も、常に躍動しているからであろう。私は、そのような地球上の場所を『癒境』と呼ぶことにしている。この国内編に続いて、海外編の構想も温めている。
※ これまでの九冊の本に関しては、アマゾン(本)の下記アドレスを参照してほしい。
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E5%BC%98&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1WV54UFVCTOF7&sprefix=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E5%BC%98%2Caps%2C177&ref=nb_sb_noss_1
二〇一〇年に開校した『里山登山学校』。残念ながら、現在はコロナ禍により休止状態である。開校時のニュース記事が下記である。
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本日、清水先生が校長先生を務められる『里山登山学校』の入校説明会がありました。四〇名を超える来場者の方があったと聞いています。みなさん、どこの山のクラブにも所属をされていない、一般の方が多かったようです。
講師陣の方々も、そんな一般の方々への、「楽しく、安全に、そして自然との距離をより一層身近に・・・」という思いで、さまざまな技術や考え方の伝授を考えているようです。それだけでなく、「参加型の登山学校」を目指してもいるようです。それは、参加者からの声や提案、そして「思い」を企画に反映していく考え方があるようです。
トップダウンでの「教えちゃる」式の登山学校や教室は、日本全国的にも、しだいに姿を消していきつつあるようです。東京や関西の山岳ガイドネットワーク網でも、そのことがしきりと喧伝されてきています。
おそらくや、学校や教室に参加希望を持つ方々の傾向が変わってきているのでしょう・・。それは、「いつも連れて行ってもらうだけ」という考え方から、「自分たちも一緒に楽しみながら、学び、気づき、そして次世代へ伝えていく」という思考に変わりつつあるからだと思います。
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※ 開校以来、この実践編は二〇〇回(月二回開催)を超えている。実践フィールドも中国地方にとどまらず、日本各地の中山間地域の里山、そしてアルプスなど高山地域である。
昨日訪れた、旧ユング研究所。日本出発前にアポをとり個人カウンセリング・セッションを受ける。その際に、『若いころの髭の生えた写真』を持参してほしい、との依頼を受けていた。二〇歳代の頃に、短期間だけ伸ばしていた髭。数少ない髭面の写真の中からの一枚を持参。同行者の一人は、幼い頃の家族(父親との)記念写真持参をリクエストされていた。さて、セッションにて何を言われたかは、個人情報?の為公開できない。やはり、ユング派深層心理学は奥が深いということだけは理解できた。
深層心理学に関係する人々の聖地、旧ユング研究所。河合隼雄氏もここで研究された。チューリッヒ 湖の湖畔沿いにある。内部は撮影禁止。幾多のユング派心理学研究者が、この湖畔沿いの小径を歩いただろうな。さて、明日はバーゼルに行き、ユングが医学部で学び、ニーチェが教鞭をとっていた、欧州最古レベルのバーゼル大学へ。その後は、神秘思想家ルドルフ・シュタイナーの総本山とも言える、ゲーテアヌムを訪れるプログラムである。予報では、小雨模様とのこと。欧州の古都巡りと、神秘学本山であるので、雨模様の方が情感が増すに違いない。
養生ツーリズム構想は、今から三十年以上前になる。その具体的な着想の発露は、釈迦生誕地ルンビニで迎えた早朝時であった。このルンビニという土地は、ヒマラヤを有するネパールにありながら、なんと標高八十メートルくらいしかない。
インドとの国境地帯は、平原状態なのあり、「とっても暑い」というより、「とっても熱い」という漢字のほうが適切な気候である。そんな「熱さ」なので、日中はほぼ行動できない。だからというわけではないが、早朝の時間がとても貴重なのである。
写真は、ネパールに住む古くからの友人と二人でルンビニを訪れた時のもの。その目的は、ヒマラヤの国での養生プログラム拡大構築であった。すでに「ヒマラヤ養生塾」という名目では実践してはいた。その「養生塾構想」は当初ヒマラヤ山中のみをフィールドと考えていたのである。
そんな折に、友人に誘われてルンビニの農家に民泊したのである。夜明け前に、宿泊先であった農家の庭先に、そろりそろりと入ってきたのは牛車であった。なにをするのかな~?と思っていたら、『後ろに乗ってください』という言葉がけがあった。
早朝のすがすがしい空気の中、ギッタン・バッコン・ギッタン・バッコンとオンボロ牛車(木製の車輪)が、田んぼのあぜ道を動いてゆくのである。当時愛煙家だった私は、思わず朝の一服をつけたのであった。その煙の美味しかったこと・・。
さらに、この一時間の牛車散歩は、私に思わぬプレゼントをくれたのである。その光景が右下の写真。約一時間の牛車での散歩途上、森の茂みの中から子供の声が聞こえてきたのである。それも、学校から聞こえてくるような声であった。思わず、牛車から降りてその森に入った。
その森はなんと、早朝の樹下の教室だったのだ。ルンビニは日中暑いので、学校はなんと早朝に開かれている。それも校舎は、森の樹下だった。それぞれの木の下に、それぞれの学年の子供たちが集まっていた。
先生はたった一人。それそれの課題を与えられた子供たちは、大きな声でネパールの国語や算数に取り組んでいた。そんな素敵な光景に出くわしながら、『もしかすると、お釈迦様の時代の学校もこんな感じだったのでは』と思っていた。
こんな教室だと、いじめや自殺など皆無のことだろう。学校で自殺しようにも、二階や三階といった高い場所や閉鎖空間すらないのである。私は、この風景に出あった以降、『養生プログラム』の拡大構想に、(学び)と(気づき)というキーワードを付随させていく。
確かに、ヒマラヤなど圧倒的な景観を前にすると、ヒトは尊厳さへの崇敬の念をもつだろう。ただ、樹下の学校のような、何気ない日常の光景の中にも、(学び)と(気づき)への導火線は伸びているのである。
それ以降にも、ルンビニにおいては菩提樹下での瞑想プログラム(写真)など幾多の実践養生企画を推進している。また、この朝の光景を文章として、新聞連載エッセイ(神戸新聞)として掲載もしている。(写真)
昨日、とある地方自治体の観光振興機構と、とても有意義な打ち合わせをした。コロナ収束以降への展開が活発化してきている。ヘルスツーリズム企画やガイド養成講座の年間プログラムなどが具体化したら、このFB上にて紹介できるだろう。
その際にもご提案申し上げたのが、『里地・里山での健康歩き・養生プログラム』と『ガイディングの基礎スキル』であった。里山という文言はすでに市民権を得ている。それに比して、『里地』という言葉はまだまだ人々の鼓膜の奥深いところまでは響いていないかもしれない。
では、里地とはなんだろうか? 私はこう考える。『里』という漢字が頭につく、(山)以外の土地風景や事物背景を包摂する概念である。それは、『里川』、『里森』、『里原』、『里海』、『里空』、『里風』、『里人』、『里祭』、『里時』などなどである。
そこには、自然と人の織りなす文様が刻まれているのである。自然に寄り添いながら繰り広げられてきた人々の営み風景・背景、と言い換えてもいいだろう。そんな『里地』と『里山』をフィールドにした、心身魂の健康づくりのツーリズム。
それは、これからの時代を見据えた『未病を予防するプログラム』として有効であろう。写真の書籍は、単なるガイド本ではない。心身魂の健康・健全化を目指す為に行うプログラム、そのフィールドガイダンス本として上梓したのである。
特にパンデミックが頻発していく時代には、『自己免疫力』や『自然治癒力』の向上に必ずや寄与していくことだろう。これからは、過疎地とされてきた、『中山間地域』や『島嶼部』のエリアは、このような『予防医療行為の先進地』としてスポットライトがあてられていくことだろう。
これらの書籍は、アマゾンにてまだ購入可能である。
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E5%BC%98&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1WV54UFVCTOF7&sprefix=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E5%BC%98%2Caps%2C177&ref=nb_sb_noss_1
本年初夏から任期三年にて、『ネパール観光大使・中国四国ブロック補佐』を拝命している。ネパールとの付き合いは、大学生の頃からなので、ゆうに四〇年近くになる。その四〇年間に、かの地には養生プログラム・健康ツーリズム調査・災害支援活動、などなどにて三桁に近い渡航回数となっている。
ネパールの国土の東から西、北から南まで要所となる土地の殆どに、足跡を残してきた。パンデミック収束後には、いの一番にてネパールへと渡航するつもりである。その為にも、早期にワクチンパスポートも取得した。個人的には、これからのネパールでは『ヒーリング・ツーリズム』の新たな展開に寄与できればと思っている。
関東ブロック選出の女性は、『森林セラピーソサイアティ』の理事でもあるので、彼女からもアドバイスを得たいと思う。広義にては、自然の中を歩く登山やトレッキングなども一種の『ヘルスヒーリング行為』であろう。また、プレートテクトニクスによっての地球胎動の歴史が触知できる土地にての、『スピリチュアルヒーリング行為』など、数限りないプログラムが可能である。
これらの、『ヒーリングツーリズム・プログラム』は、日本の中山間地域との姉妹提携が可能である、すでに複数の自治体に提案している。世界の屋根ヒマラヤと、日本の中山間地域。空間的スケールの大小を問わず、自然と人間の循環型ライフスタイルから学ぶ点では、姉妹的フィールドなのである。ヒーリングツーリズムによる姉妹交流促進は、その先に学生相互交流などの『学びの場づくり』や職域交流における『研修の場づくり』等へと発展していく可能性を秘めている。
三十歳代の頃からだろうか、明治時代の青年群像(それも海外へ雄飛した若者)について、さまざまな研究・調査などをおこなってきた。その中でも、地元・広島出身者である『中村春吉』さんとの因縁はとても深いものがある。そして、複数の縁者、生前に出逢った方などからも、さまざまな事を聞き取ってきた。
ここ、十数年くらい前からは、晩年の春吉さんが取り組んだ『霊動法』なる霊術の世界についても、各種文献をあたりながら時代背景とともに研究をすすめている。来月くらいには、岐阜県にて同時代(大正時代)に全国的に名を馳せた、田中守平の足跡を辿る調査に出かける。田中は、(太霊道)という霊術団体の創始者である。
木曾御嶽の修験道における、霊媒師の憑依現象をヒントとした治療術や、(霊子)と呼ばれる量子力学における素粒子的存在についての理論構築などをおこなっている。まあ、とにかく明治末くらいから大正時代、昭和の初め頃くらいは、勃興する新興宗教とともに、霊術の世界も百花繚乱状態であった。
中村春吉さんは、その中でも優れた手技展開をされた方のようである。フランスのパリにて、野口英世氏を前にして治療実技を披露したりもしている。ご関心のある方は、下記のウェブをご一読されるとよい。
〇 自転車単独無銭・世界一周旅行について
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/887000/1
〇 中年~晩年にかけての活動について
https://books.google.co.jp/books?id=43YpEAAAQBAJ&pg=PT246...
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山のような量。昨日、中村春吉さんのご親族に会ってお話しを聞いた。そして、山のような量の関連写真を頂いた!のである。これまで公になっていない、親族から見た中村春吉像が浮き彫りとなってきた。
まさに、明治の快男児、ここにあり!!乃木大将、大隈重信、頭山満、などなど名だたる明治の偉人らとの交流話しには、聞いている私自身が興奮状態。特に、乃木大将が天皇陛下に最後に拝謁し、割腹自殺を遂げる寸前に、なんと春吉さんと会って一言会話を交わしたそうである。
また、一時期満州滞在時には、後のロッキード事件で名をはせた、児玉誉士夫氏が中村春吉氏の「パシリ」をしていたとも聞いた。令和元年となり、さらに「明治は、遥かに、遠くになりにけり」である。が、これら明治の日本男児の生き様は、必ず継承していかなくてはならないと強く思う。頂いた多量の、貴重な写真群(中には中村春吉氏自身の撮影によるものも多い)を凝視しながら、その「生き様」をさらに掘り下げていくつもりである。
『世界の辺境地域における防災とは?』という趣旨にての講演依頼を、教育機関(小学校高学年対象)から受けたことがある。私は、その講演タイトルを、『目に見えないセーフティネットとは』というフレーズにした。
阪神淡路大震災後の孤独死者数は一〇〇〇人を超えている(二〇一七年末・毎日新聞記事)。東日本大震災にても、相当数の孤独死者はいるだろう。対照的に、私が復旧支援活動にて関与した「南アジア大地震」、「ネパール大地震」にては、孤独死者は発生していない。
もとより被災時、平時に関わらず『孤独死』という概念が、これらの地域には存在してないのである。数年来多発する我が国での自然災害において、『関係性の消失から発生する二次被災』というのがクローズアップされている。電源の消失による(情報・視界の遮断)、水源の消失による(滋養・衛生の遮断)、交通の消失による(移動・流通の遮断)などなど。都市生活者にとっては、インフラというハードとの関係性が消失することは、目に見える『生活上のセーフティネットの崩壊』を意味する。
さらに追い打ちをかけるように、人間同士の空疎な関係性が、「孤独死」を誘発するのかもしれない。かたや僻地と称せられる国・地域にては、近代的インフラは未整備ではあるが、人間同士の関係性(縁)という『目に見えないセーフティネット』が平時から濃密に稼働している。それは、まさに地域社会に住む一人一人の人生を、その土地の風土とともに緩やかに包み込む、【自然と人間との互酬的模様の風呂敷】の如くでもある。パンデミックにて一躍市民権を得た言葉『ソーシャルディスタンス』は、本来的意味では『社会の中での関係性』ということではないだろうか。
(ソーシャルディスタンス)を単なる『人と人との数値的な距離』ではなく、『人と人、人と社会との関係性の濃密度』として捉えなおす。そして、(ソーシャルディスタンス)を、新たな関係性の再構築へと向かう、きっかけの言葉として認識しなければならない。
※ 岩波書店から先月出版された、『死者と霊性』という書物は、パンデミック後における(新たな関係性の構築)についてヒントとなる内容である。下記のページからは、試し読み(十四ページ分)もできる。https://www.iwanami.co.jp/book/b587793.html
『即身(密教パラダイム)』河出書房新社
まえまえから所望していた書籍をようやくアマゾンにてゲット。一気に読了する。この書籍は、一九八六年・高野山大学百周年を記念するシンポジウムの内容を文章化したものである。このシンポジウムに参加した方々の主な著名人とその代表的著書は下記である。
コリン・ウイルソン:『超越意識の探求』
フィリッチョプ・カプラ:『タオ自然学』
ライアル・ワトソン:『生命潮流』
松長有慶:『密教とはなにか』
松岡正剛:『空海の夢』
中沢新一:『チベットのモーツワルト』
河合隼雄:『宗教と科学の接点』
山折哲雄:『「ひとり」の哲学』
下河辺淳;『「森」の時代へ』
石川光男:『生命思考』
杉浦康平:『宇宙を叩く』
上記の著作名だけを見ていても、シンポジウムの雰囲気というのを追体験できそうな気がしている。読了後、下記の文章が鮮明に脳内インプットされたのである。ライアル・ワトソンさんの言葉である。人間と人間、人間と社会、人間と宇宙の『関係性』について語っている。
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私が気に入っている一つのたとえ話をいたしますと、出来たらこういうことを想像して下さい。針が沢山生えたヤマアラシという動物がいます。ものすごい寒い冬に、ヤマアラシが体を寄せ合っている。こごえそうに寒いため、お互いに体をすり寄せ合って、何とか体の暖かさを保とうとしている。ところが問題があります。
暖を求めて身を寄せ合うのですけれども、ヤマアラシですから針が生えているので、お互いにぴったり寄り添えません。そこで前後に少しずつ動きながら、寄り添いつつも、距離をとるということをしているうちに、とうとうヤマアラシは、ある合意をみました。
最大限の暖かさと、最小限の痛みと、その両方を可能にするある均衡(互いの関係性)というものをみつけたのです。生命はまさしく、そういう組織をもっています。私たちの体内の細胞は、近づきつつ適切な距離(関係性)を発見したのではないでしょうか。
かつての、今までどおりの個々のアイデンティティーを保つのに必要な配置(関係性)をとりながら、しかも新しい集合的な未知の能力を発揮する。人間にたとえて言うと、孤独から解放されて、暖かさを求めようと集まって社会を作ったのです。
ところが私たちには欠点(ヤマアラシの針に当たるもの)があるために、孤独の中でみんながバラパラに生活することにもなりかねません。均衡を作り出し、精密にお互のプラスとマイナスにてらして最適距離のとり方を発見して行かない限り、その恐れがあります。
その均衡のとり方が、複雑な倫理や習慣、礼儀として定着し、ふさわしいものを作り上げて行く。これをもっと大きな規模で見てみましょう。空海は、この点においても私は正しかったと思うのですが、ミクロコスモスというものは、つねにマクロコスモスと全く相似形であった、同一であった。
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※ワトソンさんは、空海は人間(ミクロコスモス)と宇宙(マクロコスモス)との間に存在する、『不可視の生命関係性』というものを、両界曼荼羅などにて図像化したとも語っている。
健康ツーリズム・海外実践編。
(ドイツ最高峰にて)
ドイツ、と聞いても『アルプス』を連想する人は少ないだろう。フランス、スイス、イタリア、オーストリアだと山岳地帯が身近にある。ドイツの北部は平野部が多いが、南部には山岳地帯が展開している。
ナチス統治時代のヒットラーは、この南部山岳地帯の中に別荘を建設している。そして、愛人とそこでしばしの休息タイムをとっていたのである。
この場所は、とても思い出深いものがある。30代後半に活動拠点を関西から中国地方に移した。知人も知り合いも無い状態で、フリーランス活動はかなり困難を極めていた。そんな中、時間だけは十二分にあったので、中国山地のあらゆる場所を視察に出かけていた。その中でも、ここ島根県雲南市にある『八重滝(やえだき)』は、地元の自治体職員さんに案内された場所である。名前の通リ、八つの滝が連続する渓谷に遊歩道が備えられている。そして、最終地点には、写真のようにまるで『天女が羽衣を広げた』ような滝が展開するのである。
最初の訪問で、マイフェイバリットな場所となり、それ以降も数えきれない頻度で訪れた。その多くは、『飛沫浴の養生プログラム』であった。そして、当時所属していた日本ホリスティック医学協会広島支部の野外セラピーとして、医師の方が同行するセラピープログラムも実践した。写真は、昨年度に実践した健康ツーリズム・プログラムにて数名をガイディングした際のもの。このような、滝や峡谷を巡る『飛沫浴』で享受するマイナスイオン効果は、『森林浴』でのフィトンチッド効果にも引けを取らないだろう。
『旅=タビ(給えが語源)』に対する研究から。
健康ツーリズム研究所の前身となる機関を設立後、最初に提示した論文要旨からの抜粋である。写真は、昨年度に個人的ヒストリーを振り返った際に作成したもの。
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哲学者の三木清氏は、『旅について』のなかで、下記のように述べている。
(1)「何処から何処へ、ということは人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのか。これが常に人生の根本的な謎である。」
(2)「漂泊の感情はある運動の感情であって、旅は移動する事から生ずるといわれるのであろう。旅に出る事は日常の習慣的な、 したがって安定した関係性から自主的に逸脱する事であり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくる」
(3)「旅とは未知のものに惹かれて行く事である。旅においてはあらゆるものが既知であるということは有り得ない」と述べている。
旅は、 ヒトにとり根源的に不安定感の上に立脚しているものである。日常の習慣的、既知の世界という、安定感のある土壌よりの脱出行為が旅ともいえよう。肉体と精神の内なる浮遊感を漂泊とよぶのであろうか。
それはこのように言い換えることもできよう。現代においては、肉体と精神の内なる浮遊感とは、『ロジック=論理・合理』や『サイエンス=科学・化学』一辺倒の考え方からの、『一時的な心身脱落』である。
十七世紀前後以降、『進化』という名の元に、我々人類は、『脱合理性・脱科学性』という野性の感覚に対する考察を重要視してこなかったのではないだろうか。そしてパンデミックに見舞われた現在、人類はそのことへの猛省を強いられている。新たなる『脱合理性・脱科学性への考察』を構築する為に、再び人類は旅にでなければならない。
旅へでることは、脱合理的・脱科学的な『野性への回帰』行為でなければならない。日常の習慣的なロジック性の世界から脱出し、ファジーとカオスで充満された空間への移動をおこなうのである。そこでは、肉体のほんの微少な細胞をも活性化させるべく、自らの五感を研ぎ澄まさなければならない。そして、すぎゆく時さえもが旅の同伴者になるのかもしれない。
松尾芭蕉も、旅の空を見上げながら、同じことを感じていたのかもしれない。
舟の上に生涯を浮かべ、
馬の口をとらへて老いを迎え、
日々旅にして旅をすみかとするのである。
『旅へでる』という行為は、人類にとり、体性感覚の復活を賭けた、最後のチャレンジではないだろうか。
広島県で一番人口が少なく、人口減少率も一番という。『一番?の町・安芸太田町』は、二〇一二年三月に広島県で初めて森林セラピー基地として認定された。
私は町が設立した『ヘルスツーリズム推進協議会』において、人材育成・商品開発部長の拝命を受けた。
そして、森林セラピーをガイドするだけではなく、広く『森林環境』を舞台に活動する『里山ガイド』という名称でのガイディング制度を立ち上げた。
そして幾度か『ガイディング基礎講座』などを開催し、人をガイディングするとは、とか、自然と人間の関係性について講義した。また、『古民家の縁側で人生を振り返る』、といったタイトルでのプログラムも企画した。
安芸太田町は、古来『山で暮らしを建てる』という歴史文化が継承されてきた。一部地域にては、入会山から村有林へと、森林からの恵みをコモンズ(社会財)としてきた歴史もある。さらに、人間からの働きかけに対する『自然界からの恵みや贈与、そして反動』は、人智を超えた予測不可能性を有している事を深く諒解してきた風土性を持つ。
森林セラピー基地構想も、その安芸太田町特有の『風土性』に再びスポットライトが当たる為の、一つのリーディングプログラムと認識していた。人智を超える『予測不可能性』は、一人一人の人生にも起こり得る現象であろう。
現代社会における『メンタル問題』とは、意外にもこの事に対する浅薄な理解から生じているように思える。林業や農業、漁業と言った、自然環境をパートナーとする一次産業従事者の多くは、現代のメンタル問題とは疎遠である。
コロナ禍の時代であればあるほど、自然環境と社会生活との互酬関係を再認識し、人間本来の『ウェルビーイング』とは何かについて、中山間地域や島嶼部からのメッセージが重要とされている。現在の若い町長さんも、自伐型林業など固有の風土を活かした、新たな町おこしを模索しているように見受けられる。頑張ってもらいたい。
写真は、セラピー基地認定を記念して、国の名勝・三段峡にての『森林セラピー・養生プログラム』のプレイベントである。当日の参加者総数は、百名を超えていた。
2024年6月30日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。