───────────────────────
───────────────────────
縄文人は、日本列島の北海道から沖縄まで、現在の日本全土に居住していましたが、その特徴には地方的な差がありました。大陸から日本に渡来するルートは、いくつかありましたので、日本の各地に住みついた縄文人の祖先も、 一様ではなかったと思われます。
弥生時代になると新モンゴロイドの渡来が徐々に増えてきましたが、最初の上陸地は北九州や山口県を中心とする地域でした。この地方に渡来した人々は、山陽の狭い平地を通って大和地方の盆地に定住の地を見つけました。
このような移動は、弥生時代末期から古墳時代にかけて起こったと思われますが、それは、考古学的証拠からも、骨や遺伝子の分析からも証明されます。渡来人の数自体は、それほど多くはなく、おそらく土着の縄文人の数十分の一、ないし数百分の一程度であったと思われます。
しかし、人数は少ないとはいえ、渡来人は相当に高度な文化を日本列島にもたらしました。とくに古墳時代にやって来た人たちは、金属文化の移入と共に、日本の武器や戦闘技術をも一新しました。江上波夫先生の騎馬民族説がそのままあてはまるかどうかはわかりませんが、少なくとも北方騎馬民族の文化的要素は、この時日本列島に入ったといえるでしょう。
それがやがて、大和朝廷の成立につながり、縄文時代の土着民は、次第に周辺に追いやられて行きます。たとえば、自然人類学の証拠と一致しているのが、出雲地方に追われた縄文時代の土着民です。梅原猛先生によれば、近畿地方に住んでいた縄文人の子孫である大国主命は、征服王朝に追われて出雲まで来た一群の象徴であるということですが、この歴史学的解釈と、自然人類学のデータとが一致するのです。
大和朝廷の勢力は、こうして強大になってきましたが、東国の蝦夷、南国の熊襲・隼人などに代表される土着民は、ねばり強く抵抗しました。その征伐に派遣された武人の物語は、坂上田村麻呂や大和武尊の伝説ですでにご存じの通りです。
そして重要なことは、これらの伝説の中にある土着民についての記述が、実はわれわれの知りたい縄文人の容貌を私どもに伝えてくれるのではないかということです。
==========
★ この植原氏の記述は、私の個人的なライフワーク的テーマである『縄文文化』と『まつろわぬ民』、双方への関心の深度を深めてくれるのである。約1万年にわたり続いたといわれる縄文時代。その『持続可能性社会』の要因を探ることは、近未来の生物多様性など環境問題を考える上で大きな示唆を与えてくれるはずであろう。
人の欲にとって『必要最小限度の境界線』をどの辺りに引けばいいのかも見えてくるかもしれない。また、稲作経済を土台とし社会が組織化されるなかで発生した、『見えない権威や、マジョリティへの自主的隷属』という『泥濘の社会病理』を打破するヒントは、蝦夷や熊襲、土蜘蛛や国栖など朝廷への抵抗勢力や、遊芸・漂泊・修験道、流浪の民など『まつろわぬ民』の行動原理や精神構造を紐解くことで浮彫りになってくるかもしれない。
今後予定しているプログラムにおいて、このコンセプトに沿う実施決定しているプランは下記の通りである。
◇ 今週末
『磐井の乱と阿蘇周縁の古代遺跡』
◇ 来週末
『戸隠修験道と諏訪・縄文遺跡群』
◇ 来月中旬
『東北蝦夷と宮沢賢治の世界』
◇ 再来月中旬
『白山修験道・平泉寺』
そして、来年度においてプランニングしてみたいのは、下記のようなテーマや場所である。
◇ 北海道アイヌのカムイモリシ(あの世感)
◇ 鹿児島の縄文遺跡・上野原遺跡
◇ 秋田・マタギの里での体験プログラム
◇ 大峰修験道・峰入り体験
◇ 沖縄・石垣島での御獄(うたき)
◇ インド・ヨギ行者や遊芸民との同行旅
◇ ハンガリーにてのジプシーとの接触
◇ オーストラリア・アボリジニの世界観
◇ チベット・五体投地巡礼との同行旅
◇ 台湾の少数民族アミの世界観
◇ 韓国・古代任那の遺構群
このように都合三回も調査旅行に出かけていることからも、ナウマンのこの地形への強い関心がうかがえます。一八八五年、ドイツに帰国したナウマンは、日本の地質についての論文を出版しました。その中でこの地形を、ドイツ語で「大きな低地帯」という意味の「grosser Graben」と名づけました。
西南日本から続いてきた古い地質が、この地形との境界のところで急に低くなるので、この地帯を低地または凹地と考えたのです。しかし、Graben (グラーベン)は地質学では、「断層で両側が切られた地溝」のことをいいます。ナウマンはそのような地溝であるとは考えていなかったので、1886年にラテン語の「Fossa Magna」に変更しました。
「Fossa」は「大きな」、「Magna」は「地溝」です。これが、この地形の命名の語源になったのです。「フォッサマグナ」は、その後、一四〇年にもわたって、日本列島を考えるための「鍵」と考えられています。しかし、現在に至ってもなお、その成り立ちをはじめ、多くが謎に包まれたままなのです。
=========
★ 東北での『縄文人の命の循環から考える、古代人の養生観を探るプログラム』や、先日の『奥日光の水と森を巡る養生プログラム』においても、西日本に住む者として『東日本の風土』への強い憧憬とともに、微妙な違和感なども体感していた。
その違和感とは、『関東平野には山が無い』であったり、『平野の端にニョキっと顔を出す富士山』、『関東平野で湧く広大無辺の雲』という地形・景観に対してのみならず、『関東以北には、根付きにくかった弥生文化』、その逆に、『関東甲信越より東に多数点在する、縄文遺跡』といった古代における居住空間ゾーン、その色合い差のボーダーラインにまで関心を呼び覚ませてくれている。
大学探検部時代には、『日本列島縦断計画』と称して、新潟県糸魚川市から、静岡県掛川市まで『日本列島縦断(日本アルプス縦走+天竜川ボート下航)』と計画実践したことがある。
その時から、フォッサマグナという言葉は、記憶の中にしっかりと刻まれてはいた。しかし、その時には日本の東西文化や風土の境界ラインという視座では見ていなかった。
改めて、このフォッサマグナから、日本列島の成り立ち、そしてその列島に居住してきた人間の歴史・文化・思想を振り返っていく作業を続けていきたいものである。来月の北信越にての養生プログラムにては、糸魚川にある「フォッサマグナ・ミュージアム」を訪れる予定である。
ここでも土器でつくられた「壺」そのものが、新しい生命を生み出すマトリックス (子宮)として思考されていたことになる。その表面には、水棲生物である蛙の姿が造形されている。蛙は死の要素をはらんだ両義的な存在であり、月と同じように死と生の要素を渾然一体としながら、おびただしい数の生命の増殖をおこなうのである。
つまり、蛙に抱きつかれた壺の内部には、死と生とがひとつになって、まっ暗になった空に新月がまた輝きだすようにして、新しい生命をこの世に送りだそうとしていることになる。不思議の童子は、この壺の中から、蛙の背中を割って、外に顔を出そうとしている。そして、その童子を抱き取っているのが、母である月なのである。
このような壺を祭壇に置いてなにかの観念の行為がおこなわれていたとすると、縄文的な野生の思考にとっていちばん重要なのは、土器で出来た壺の内部に封じ込められた空間の性質であったことが、考えられる。
生と死がひとつになってやわらかな運動をくりかえしながら、リズミカルな呼吸を続けている空間。この空間は、「クラインの壺」のようなトポロジーをなしている。内部と外部の区別がなく、生はいつしか死の中に溶け込み、死の中からふたたび新たな生が生まれ出るのである。
物質自身の持っている魅力への飢餓感は、日本だけではなく全世界的な傾向だと考えています。ヨーロッパやアメリカで日本のインテリアがブームになっているのも、素材の質感、素材感への関心からでしょう。西洋の近代建築は、人工物であり、自然の質感を殺した建築です。日本の建築は、最終的な仕上がりに自然の質感を残していて、そこが西洋と日本との違いなんだと思う。そして、日本の伝統的な建築手法を用いることによって、新しい建築空間を築くこともできると思っています。
西洋の伝統的な建築では、壁と窓などの開口によるフレーミングが支配的になります。そうすると、外部と内部は壁によって仕切られ、風景とか自然は額縁によってフレーミングされたひとつの絵画、つまり静止した画像へと収束してしまう。
これに対して、日本の伝統建築ではフロアや床など、水平面によるフレーミングが支配的です。この手法ですと、壁のようなフレームによって切断されることなく、連続した時間と空間が生まれます。つまり空間が、絵画のように静止したものではなく、動画的になって、空間と時間が入り混じるようになる。 隈研吾(建築家)★2020年東京オリンピックのメインスタジアム設計者
=======
★写真は、明治時代に東北を旅したイザベラ・バードも宿泊し、その内部趣向を「日本奥地紀行」にて絶賛した、日光のサムライ館。この宿屋には、ウェストン、パークス、チェンバレンなど錚々たる人物らも滞在している。イザベラ・バードや、ヘボン式ローマ字発案者のヘボン博士も宿泊している。
「インド密教」には右道と左道とがあり、左道が、男女愛欲の面に堕落したため自滅したという人がある。右道と左道があったのはインドのタントリズムである。それは大宇宙の自然の中に自己(アートマン)があり、修行(ヨーガ)すれば宇宙(その神格化がバラモン教・ヒンドゥー教のブラフマン)と自己とが一つになって梵我一体となり、悟りをひらくことができるというのが右道だ。
男女愛欲を自然の行為として積極的に是認し、性的な行法を通じ愉悦の境地に至って証悟を得るというのが左道である。右道も左道も、もともとヒンドウー教文献にある用語だ。インド密教」の左道がこれにより堕落して自壊したのではない。あるのはタントリズムである。
インドの性器崇拝は紀元前二千年ごろからあり、インダス川流域のモヘンジョ=ダロではその偶像が発掘されている。現在ヒンドゥー教の寺院では例外なくソンガやヨニを奥の院に燦然と祀って尊崇している。これがインド民間宗教の特質である。
======
★松本清張氏は、インド密教の一つの大きな流れである『左道』においての、男女愛欲タントリズムのルーツを、インドの原始宗教(アニミズム)における性器崇拝にあると記載している。このことは、縄文遺跡にみられる、『直立する石』や『石棒』などの性器崇拝と、後世の日本における神秘宗教や耽美主義との関連性にも示唆を与えるものである。
平板にみえるこの帰属性のなかにも、実は縄文というもうひとつのアイデンティティがあり、非定住モードの人びとは、その得体の知れないもうひとつの出自に強く引き寄せられるのではないでしょうか。
安定的な社会、自由な競合、富の蓄積―そこに生きる意味と価値をみいだした定住モードの人びとは、農耕モノカルチャーの極相である資本主義モノカルチャーに同化し、物質性豊かな現代社会を築いてきました。
私たちはその恩恵に浴しています。しかし、資本を王とする新たな奴隷制であるこの社会のなかには、あふれかえる富の意味が理解できず、競合という他者への「攻撃」を心底厭わしくおもい、離群を夢みる非定住モードの人びとがおり、なぜこれほどまで,に生きにくいのか、やりきれない日々を送っているのではないでしょうか。
かれらもまた、容易に同化できないでいる「異民族」のようにみえます。これ以上持たなくてよい。競う必要などない。いつでも離脱してゆけばよい―。
その縄文の声にしたがうことは、戦列を退いて敗者となることではなく、自身を相対化し、私たちは変わってゆける存在だと信じることです。
そもそも勝者になろうが敗者になろうが、それは生の成熟とは本来かかわりのないことであり、どのような人間であれ、みじめで屈辱的なおもいを抱え、身を小さくして生きていかなければならない理由などひとつもありません。
本書が、これまで知られていなかった生々しいリアルな縄文をとおして、この生きづらさとは対極の生をおもい描いてみる、ひとつのきっかけになれば幸いです。
瀬川拓郎(アイヌ民俗学・考古学学者)
古墳時代になると、不易なる存在への憧憬は著しくなる。それは神仙思想の普及による不老不死への憧れ、すなわち永遠の命・永遠の世界=常世に転生することへの願望から生まれた、さまざまな葬送に関わる器物を石に写すという行為に端的にあらわれる。
(中略)
そこには腐朽し、また崩れ去るはかない存在を石に写しとることで、永遠の存在にしようとする意図が読み取れる。常世に生きるためには、その人を象徴する器物もまた、イワなる存在と化さねばならなかったのである。
具体的には、出雲の「国引き神話」縄文神話で、日本海の西半分を舞台にした壮大な神話である。
ついで「国生み神話」というのは弥生時代。筑紫、われわれがいう「つくし」、現地音「ちくし」、 つまり福岡県を中心とした重要な神話である。さらに「天孫降臨」。これこそは戦前の教科書の第一ページを飾り、戦後はまったく姿を消した最たるものですが、これは実に重要な歴史上の事件を語っているものである。これを見逃したら、その後の日本列島の歴史は正確には理解できない。
それは南九州ではなく、北九州、福岡県の高祖(たかす)山連峰を中心とした話であること。そして弥生時代の前期末、中期初頭という紀元前100年ぐらいに考古学者はあてているようですが、その時点で出土物が一変している。有名な板付の縄文水田、弥生初期の水田というものも、この弥生前期末で消滅している。
それまでにあんなに水田跡が出てきたのに、これは何事か起こらなきゃ、こんな重大異変が起こるはずがない。それが実は天孫降臨と呼ばれている「侵略」といいますか、壱岐、対馬も日本列島の一部だということから考えると、まぁ外部からの侵略というより内部からの『クーデター』といってもいいかもしれませんが、要するに侵略行為によって、板付の縄文以来、弥生のはじめにいたる国家は覆滅させられてしまったということでございます。実は、その板付の人達が東北地方に行ったんだという話が、東北の伝承にあるんですが、これは時間の関係でまたにさせていただきます。
伝えるところでは、空海は、放浪時代に役小角ゆかりの河内の香貴寺を復興したといわれている。
その事実の当否は別にしても、彼の行動パターンが、役の行者の系譜をひく民衆的修行者の流れに属することは明らかである。
日本仏教の土着過程について考える場合、この事実は十分注意しておくベき点であろう。古代神道と仏教の交流という点からみても、空海は最澄よりいっそう積極的な態度をとっている。
空海が中央の文化から遠い地方出身者であり、また民衆修行者としての青年時代を送ったことから考えれば、彼の基本的発想が、大陸からの渡来僧やエリート出身の僧たちを中心にした都の仏教とちがって、底辺の庶民の古い呪術的習俗に親近感を示したのも当然である。
たとえば彼は、平安京の南端・羅城門の東側に東寺(教王護国寺)を建立したときには、洛南の稲荷山の神を地主神として祀っているし、高野山(金剛峯寺)の建設にあたっても、寺を建てる前にまず土地の山神である丹生明神を寺域内に勧請している。
これは、その土地に住む精霊である神々から許可を得て新しい寺社の地域を定めるという、古代的信仰にもとづいた考え方からきたものであろう。この種の信仰は、世界の未開民族の間には共通して見出されるものである。
『火山の大地は、光に満ちた広い草原や森をつくる』
火山の分布をみれば一目瞭然のことですが、縄文文化が優勢である東日本と九州南部は活火山の多いエリアです。弥生文化以降、長いあいだ日本列島の中心であった近畿地方およびその周辺は活火山がひとつもありません。
弥生文化は火山と相性が合わないようにみえます。そのいちばんの理.由は、火山灰の土壌が水田稲作に向いていないことです。それとは対照的に、縄文時代の人たちは好んで、火山の周辺を居住地にしています。なぜでしょうか。
冒頭でも触れましたが、ひとつの理由は黒曜石。鉄や銅が使われるようになるまで、刃物や武器の素材として、最も珍重されたのがこの黒く光る石でした。黒曜石は火山で形成されるガラス状の石で、八ケ岳をはじめとする火山で盛んに採掘されていました。装飾用の「玉」の素材となる美しい石をつくりだすのも火山です。
もうひとつの理由は水や食糧。火山がつくった大地は、湧き水が豊富で、それは味覚のうえでもすぐれたものです。阿蘇や八ヶ岳を思い起こしていただければわかりやすいので すが、火山の大地は光に満ちた広い草原や森をつくります。
そこには多くの動物が集まりますから、狩猟採集の暮らしをしていた縄文、旧石器時代の人たちに、木の実や果実に加えてタンパク質の食糧をもたらしていました。縄文文化と火山が結びついていたのは、明らかです。縄文時代の代表的遺跡である、鹿児島の上野原遺跡は霧島火山群のそばにあります。
『縄文のビーナス』が発見された長野県茅野市の遺跡は、縄文時代まで激しい火山活動をつづけていた八が岳の山麓、三内丸山遺跡のある青森県をはじめとする東北地方も火山と温泉と縄文遺跡の密集地です。
日本再発見こそ私の課題である。それはあたらしい芸術への切札でもある。滞欧十年の後、いよいよそれを痛感して目本に帰ってきた。戦争直前であった。私は、むさぼるように、久しく離れていた「日本」にぶつかった。だが、気負った私は、どこでも肩すかしを食わされた。
こちらがぶつかっていくと、奇妙に小味でかわされてしまう。あらゆるものが、なるほど優美でデリケートだ。その洗練された味わいは結構だが、しかし予感のとおり、そんなものに私白身は少しも魅力を感じないばかりでなく、その弱々しさ、もの足りなさに焦らだち、憤りさえ感じる。
それらは民族のあたらしいエネルギーを押し出すどころか、逆にひきもどす要素になりかねない。少なくともこれからの日本のバイタリティーにこたえてくれることはできないのである。そんなのがかえって深刻なように、もったいぶって扱われていたりする。糞くらえ。
こんにち、もっとも日本的なものと考えられている“わび”、“さび“ とか、繊細な好み、風情など、たしかに日本のある一面をあらわしているかもしれない。だがそれはあまりにひ弱な、うす皮みたいなものだ。私のいい方は激しすぎるだろうか。
しかし私たち日本人は、いわゆる伝統への期待とあこがれ、だが同時に何ともいえない絶望感、空虚感をだれでもが、大なり小なり心の奥深くに秘めているはずである。なるほど私たちは過去に豊かな文化、伝統をになっている。また現在は世界文化の一つの大きな要素、可能性として、役割を自覚し、そう期待されてもいる。
しかし正直にいって、過去と現在の充実、そのふき上がりから未来に向かってはじき出るエネルギーには何か欠けている。花は鮮やかにひらいている。だが、根のほう、泥のついたほうは、何となくほそぼそとして空しい感じなのである。
縄文式土器には、日本の土の匂い、そのうめきがある。あの太々しい執拗さ、いつでも爆発しようとするエネルギーを、ぐっと抑えて緊していている。怖しい美観。腹の奥底からじわじわつきあげ、、鳴り響いてくる異様な生命のリズムの共振を感じる。
現代は空間に依拠し、時間に甘えている。鼻持ちならないサイエンスのオプティミズム。そしてまた歴史主義的な価値規定。だが、どうしてこの一見相似たマンダラが、二枚、対でなければならないのか、という疑問がのこる。一面ですでに絶対であるのに。これはきっと、存在における、内なる世界と外なる世界を、わけあらわしたものだろう。見ていると、金剛界はいかにも不動の姿で、冷えびえとひろがっている。天上にあおぐ群星のきらめきのように、それは厳然と固定し、結晶された外なる宇宙である。
ならば人間の内部も、当然無限だ。外が明らけく冷たいのに、内は暗い中にあらゆるものがうごめいている。渾沌である。胎蔵界マンダラはまさしくそのような渾沌の相だ。悪鬼、餓鬼がチョウリョウし、人間の共食いのような惨憺たる魔性が描きこめられている。
そのままひっくるめて、肯定的にのりこえようという、すさまじいものだ。そしてこのような昇華されたものと、渾沌と、この内と外がなければ、宇宙はまったきをえないだろう。すべてモ眉のままに扶序づけられている。その神秘的なバランスを象徴するように、画面の中央には、ともども大目如来が燦然と輝いている。大きな転換、弁証法の決定的なモメントとして。その呪術のポイント、やさしい言葉でいえば、カナメである。
ところで払が胎蔵界を内部の世界と感じたのは、画面のイメージをとおしてばかりではなく、「胎蔵」という名前に暗示されたのかもしれない。その意味は、赤児が母親の胎内にあるような状態、ということだ。それは未熟なままの人間、生命の迷路を意味してはいないか。
さまざまな仏の姿態、線の動き、色あい、それは自由だ。その任意性の中に、魂の高揚があり、精神というよりもむしろ、ほどのよさを大切にしようとする遊びがからんでくる。いや遊ぶこと自体が目的でさえある。だがマンダラでは、みじんもそれは許されない。
すべては厳密に規定された儀軌のとおりでなければならない,でなければ、それは堕落である。神秘に徹した精神は逆に任意な感動を拒否している。マンダラの世界は、従ってオール・オア・ナッシングなのだ。うまかろうが、まずかろうが、そんなことはどうでも構わない。規定されたとおりであること、それが絶対である。戦慄的に高貴ではないか。
アミダ系統の変相図は絵画的になり、人間的になっているために、かえって俗になり、弱くなっている、と私は思う。美術品になると、とたんにつまらなくなるのは、いったいどういうわけだろう。ところで、この紺地に金泥で描かれた、ベタ一面のひろがりを眺めていると、やがて一切が真空状態になり、何も見えなくなってくる。
空間が脱落し、時間は霧消してしまうのである。そして、もうもうと、白茶けた、密度の濃い、煙のようなものに全身がまかれる思いだ。私の心は砂を噛んで索漠とする。私の直面した実体、いや虚体、つまりこのマンダラは、絶対肯定でありながら、絶対否完ではないか。
私は戦慄する。マンダラがこのように空間を否定し、歴史を否定し去るということは正しい。それこそ絶対感である
発狂者。あるいは犯罪者――必ずしも人を殺すとか、盗みをいうのではない。共同体のモラルに従わなかったもの、また何らかの意味でその社会に絶望した個人、それは社会の発展に応じて、条件としてあらわれる。
では己れの安住していた世界を離れて、彼らはどこへ行くのだろう。他のとざされた集団が受け入れるはずもない。共同体の生活、その保護と制約からとび出して、未知の、危険と神秘に身をさらして行くほかない。荒野であり、山嶽であるかもしれない。それは必ずしも自然という意味ではなく、人間関係を断った非情な場所として。たとえ部落内にいても、彼らは運命的な除外者である。共同体のルールに従わないまま、その周辺、または内部に出入りする。
比較的われわれに近い時代の典型をあげれば、乞食、遊芸人、ヤクザなど、多種多彩だ。もちろん修験者もその仲間である。それぞれ別個の掟、その秩序のもとに生活している。もっとも、近世封建社会において、彼らはアウトローのコンプレックスに歪み、ただの寄生的、下司な存在に落ちぶれているが。
除外者は社会に適応しないゆえに無視され、危険視される。と同時に、畏怖されもするのだ。ノーマルなものにとって、悪は犯される危険、おそれを抱かせる。それが強烈な場合、不吉な神秘感をよびおこし、それゆえに一種の神聖となるのである。災をもたらす不吉なる神聖――未開社会から現代にいたるまで、凶なる神聖は吉なる神聖とともに、人間精神の二つの極として対立し、つねに妖しい力として激しく働きつづけている。外にはじき出されたからといって、社会との関係を失うと考えるのは素朴だ。外から内部を規制する神秘。
一定の社会には、未開・文明を問わず、固定された基準と、それを犯す強度なエネルギーの、革命的であり、弁証法的な運動がなければ、社会の惰性は救われない。結果としてデカダンスである。反社会性と社会性とは、いつでも陰にひそみ、陽に動く、対立的交互関係にある。アノルマルな、凶は、正なる社会のヴァイタルな条件でさえあるのだ。
★書籍のあとがきから抜粋(中沢新一によるあとがき)
イタコやオシラさまだけではない、ここでは女性という女性たちが、目や口や耳をつぶされたようにして、じっと現実の重さと過酷さに耐えて生きている、ということにも、岡太郎の優しい女性的な魂は、鋭く感応している。
川倉の地蔵講や恐山の盆の聖霊会や弘前・久渡寺のオシラ祭りは、その女性たちが自分の魂とよく似た構造をしたあの『神秘の空間』に遊ばせることで、この世の構造からいっときの解放を実現している。
飲み食いし酔っ払って、卑猥な冗談を楽しみ、着物の前をはだけて、彼女たちが歌い踊る姿を見て、岡本太郎は、ああ、ここに「神秘な日本」が生きている、という圧倒的な感動に打たれている。不純物はどこにも混入していない。
これに比べたら、羽黒山であろうが高野山であろうが、そこでおこなわれている知識化された高級な修行には、不純物が混じっている。
それらは神秘めかしてはいるが、真実の神秘ではない。そう断定できるのは、揺るぎない趣味を持った人だけである。
密教が性の領域の問題を、大胆にかかえこむことになったのには、もう一つの大きな理由がある。
それは、密教が、ヨーガ(瞑想)による神秘的「合一」にたどりつこうとしていたからだ。もともと仏教思想では、この世界を主体と客体にわける意識の働きが、その他もろもろの幻想をつくりだす、いちばんのおおもとである、と考えていた。
つまり仏教は潜在的に、主/客の構造をこえたところの意識の原初の状態にたどりつこうとする、神秘思想を秘めもっていたのだけれど、それをヨーガの技法をつかって、体系的になしとげてみようというのが、密教の大胆な発想だったのだ。
主/客の分離がいまだにおこらない意識の原初に踏み込んでいくということは、いっさいの分離をのりこえて、この世界との大いなる神秘的な「合一」をなしとげるということに、ほかならない。
そして、ヨーガとはもともと「合一する」という意味をもっていたのだから、密教の精神のベースには、いつも「合一」テーマが潜んでいたのである。
合理的に考える近代的な人は、超自然的な神や仏の「意志」や、目に見えないところで働く「因果応報」などという考え方はとらないから、このような「運」も「不運」も「偶然」にほかならないと考えるであろう。
むしろ自分にとって好都合な偶然が「幸運」であり、不都合な偶然が「不幸」であって、それが自分の身に起こったことには、特に理由はないと思うであろう。そして「偶然」とは、必ず起こるとも起こらないとも言えないものであり、その起こりやすさの程度には差があり、それを表現したものが「確率」であるということを学んだことがあるかもしれない。
そこで好都合なことが起こる確率がなるべく大きくなるように、不都合なことが起こる確率がなるべく小さくなるように行動することが「合理的」であると教えられたかもしれない。最近の数学的理論の中では「偶然」は「不確実性」ということばで置き換えられ、それにともなう損失は「リスク」と呼ばれる。
そうして確率論を中心とする数学理論によってそれを処理する「リスク·マネジメント」の方法が考えられている。それによって人は「運」、「不運」というようなわけのわからないものに左右されることなく、「偶然」に合理的に対処することができると教えられたかもしれない。
しかし、それで話は終わりだろうか。つまり、「偶然」の問題はそれで解決ずみなのだろうか。すべてを「確率」と「期待値」で割り切ればよいのだろうか。
空海は紀の川辺で宿泊したが、そこに一人の山民が現われ、今度はその人に高野山へ導いてもらった。実はこの山民は、山の王(山の神)の丹生明神であった。
この時、空海は同社でも一泊し、神主に託宣してもらったが、同神は、自分の神領を喜んで献ずると約束してくれた。空海は、六月中旬に朝廷にこの山を頂くことを願い出て許されると、早速一棟の草庵を建てた、とある。
(中略)
これにはまず、日本の山岳霊場の発生の問題から考えていかなければならない。日本の山岳霊場には、ひとつには祖霊が山中に籠り集まるという山中他界の信仰があり、次に水源信仰があるといわれている。
例えば、榛名山(群馬県)には祖霊峯(御祖魂嶽とも書く)という祖霊の集まる峯があり、また、山神岳という山精、山鬼、つまり山の神の集まる岳もある(『榛名山志』)。
筑波山(茨城県)には亡者の集まる無間谷があり、その者たちが水を呑みに来る水呑堂もある(『筑波山流記』)。各霊山の地獄谷も、無間谷と同一である。
また、お盆になると、恐山(青森県)にはいたこが集まり、そこに集まって来る死者の魂と物語る、口寄せを行う。大山(鳥取県)の賽の河原には、周辺の人々が、初盆の供養に石積みに登ってくる。その入口に門のような大石が立っているが、これは「金門」という。
修験道では死ぬことを「金になる」という。つまり、死の世界の門なのである。このように日本人は、霊山は死者の魂の集まる所と信じ、そして山頂になるほど浄まった魂、または神が住すると信じている。
宇宙の底には、目に見えない、見ても何だか大きすぎてわからない、龍や蛇のようなものがうごめいています。その状態は混沌なので、人間が生きるためには、これを何かの形で停止させ、そこから物質の世界を噴き出させなければいけない。
そこで、古事記のスサノオの神話のようなものが語られるようになりました。つまり巨大な蛇がいて、ヤマタですから八つも首がある。八つあるというのは要するに、頭が無数ということです。それが大地の底にいる。これをスサノオが殺すと、ヤマタノオロチの尻尾から刀が取り出される。これは王権を象徴しています。
この神話は、王権の発生を語っています。人間の王が出現する前は、この世界は混沌とした龍、自然力が支配しています。そこにスサノオが剣を下ろし、龍を殺す、即ち、流動していた流れの中に剣を刺して位置を固定します。
そしてそこから噴き出したものが王権の剣として、人間の世界に秩序を作り出す王様の印になる。この王様の印はもともと、ヤマタノオロチのものでした。つまりこの世界の秩序も力も、実のところ目に見えないヤマタノオロチのものでしたが、それを我々の世界に噴き出させる必要があったのです。
そのために目に見えないものに戦いを挑み、あるいは交渉して、踏み込んでいく乱暴な人間がいました。彼の行為によって事態は変わり、今まで見えなかった力が外へ噴き出して剣などの物質になる。神話はこういう思考方法を取っています。
古代都市の中心には神殿がある。これは世界の古代史を見渡した私の知識から出た発想です。死んだ友人の泉靖-東大教授の古代アンデス文明の系統的な研究などが有力な根拠ですが、アンデスでは最も古い地層からは神殿が出てくる。住居は出ない。まず神殿ありきだった。
人びとは神殿のまわりに小屋街けして、そこに泊まった。神殿が一種のホテルやね。メキシコや中東の古代都市も同じような事情で、神殿から始まっている。
ッカのカーバ神殿がいい例だ。物資を交易するマーケットからは古代都市は生まれていない。まず、超自然的な神様があって、神と交信する神官がいる。
神託が下される場として神殿がつくられ、人びとは神託を聞きに集まり、そこでワイワイ情報の交換が行なわれている。三内丸山遺跡も、そういう場所だったんやないか。
梅棹忠夫
月に向かってロケットを発射するときは、近代科学は有効だが、十五夜の秋の名月を家族とともに見るとき、お互いの心と月とをつなぐ心の内面を語るのには、月で兎が餅つきをしているお話の方が、ピッタリくるのだ。
しかし、科学技術の発展した今日に、今さら月の兎でもあるまいとつながりを否定してしまったために、現代人の多くは「関係喪失」の病に苦しみ、孤独に喘いでいるのではないだろうか。科学の知のみに頼って世界を見るとき、人間は孤独に陥るが、関係回復の道を示すのが「神話の知」であると、
哲学者の中村雄二郎が指摘している(哲学の現在」岩波新書、一九七七年)。
彼は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを、宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求で」あると言う。そして、神話の知は「ことばにより、既存の限られた具象的イメージをさまざまに組合わすことで隠喩的に宇宙秩序をとらえ、表現したものである。
そしてこのようなものとしての古代神話が永い歴史のへだたりをこえて現代の私たちに訴えかける力があるのも、私たち人間には現実の生活のなかでは見えにくく感じにくくなったものへの、宇宙秩序への郷愁があるからであろう」と述べている。
短い説明であるが、これで現代の心理療法家が神話に関心をもつ意味がわかって下さったと思う。われわれは常に現代人の「関係回復」の仕事を助けねばならず、そのためには「神話の知」が必要なのである。
日本はこの面影をたいへん重視した。『伊勢物語」には、これはけっこう有名な箇所ですが、「人はいさ 思ひやすらむ玉かづら 面影にのみ いとど見えつつ」とあります。その人の顔や姿が思い出されたときの、そのイメージのこと、そのプロフィールのことが面影です。
「万葉集」には、「夕されば 物思ひまさる見し人の 言問ふすがた おもかげにして」とある。思い出そうとして思い出せないのが面影です。でも、あのへんにある。
そこにあること、あのあたりに何かが佇んでいることはわかっている。でも正体がちょっとゆらぐ。それが面影でしょう。
(中略)
日本では写真を撮ることを「撮影」という。「真影」という言葉もある。天皇の写真は御真影です。日本の神祇神道では神さまを感じるときは「影向(ようごう)」という言葉を使います。
インフルエンスを「影響」なんて訳していますが、この言葉も凄いですね。とてもニュアンスっぽいもので、影が響くというんだからなんとも摑みにくい感じになっている。
さっきの関東という話なんですけれども、私はどうしても親鸞とか他力道とかいうものを一つのテコにして民俗を見たがるくせがありますが、あれがわかる体質と、それを受け入れられない自力的な、もっと呪術的なもののほうがよくわかる体質と、二つ文化の類型があると思うんです。
親鸞という人は、法然といっしょの時期に流しものにあって、そのあと、あの人だけは関東の稲田という所に長いことおって布教しておりますけれども、彼が去るともう草が生えて 山伏がやってきておどろおどろしい加持祈祷の世界にもどしてしまう。
どうしても関東には、他力道ー私は他力道に弥生人の思想、美意識をつい置いちゃうものですから、そういう見方をするんですが、弥生的なものが定着しにくくて、浄土真宗が広まっていくのは、人間の関係、蓮如とかそういう関係もありますけれど、北陸、畿内、瀬戸内海岸だけであって、そこで定着する。本願寺はいまその地帯の遺産があって食っているわけです。
沖浦和光氏と五木寛之氏の対談から。
====
五木/ マレビトがやってきたほうがいいわけですね。そういうように考えていくと、らいほうしん・古代からの来訪神をマレビトと定義した折口信夫の着眼は鋭い。
沖浦/ 同感です。マレビトはもともと外からやってくる客人のことなんですが、それを来訪神と見立てた。そしてその実 、村境の外からやってくる遊行者であり遊芸民だった。
五木 / <ほかいびと> <うかれびと>と呼ばれていた古代の遊行者=マレビトの祖型とみたんですね。
沖浦/ ずっと遡っていくと、古代の遊行神人は、先住民系の海人・山人の系譜である、そのように考えたんです。太古の時代から神事として行なわれた芸能の源流は、アニミズムとシャーマニズムにあったんですが、折口信夫はそこに着目した。神話時代の記憶を色濃く残しているアニミズムやシャーマニズムは、古代、中世に入ってもなお根強く残っていました。特に先住民系が多い海人や山人の世界では、縄文時代以来のアニミズム文化の影響が残っていました。今でもまだ、海村や山村の小祠に見られる<山の神><海の神>信仰は、その名残りですね。
文明の優越については揺がぬ自信の持ち主だった、彼ら(江戸末期から明治初期に来日した欧米人)の文明が達成した諸価値はことごとく、人間に史上最高の幸福をもたらすはずのものであり、その意味でそれはヒューマニティのための文明だった。ところがそのような近代的ヒューマニティを保証する要件を根本的に欠く社会(明治の日本)において、住民の顔は幸福感に輝いているのである。較べて見れば明白であった。彼らが故国の都会でしばしば見出したよぅな、憔悴と絶望と苦悩の表情は、江戸でも長崎でも目にすることはできなかったのだ。
彼らの近代西洋文明への自信が揺らいだというのではない。だが彼らは、それとはまったく枠組を異にする文明が、住民に幸福を保証しうるという事実を承認せざるをえなかった。したがって彼らは、しばし立ち停まって沈思したのである。自分たちの到来がこの国にもたらそうとしている変革は、もともと無用なのではないか、この国は今のままで十分幸せなのではないかと。
つまり彼らは、おのれが西洋近代文明の一員であることに改めて優越をおぼえながらも、この国の住民にとって《近代》は必要ないのではあるまいかと、しんそこから感じたのである。私が今度の著書で言いたかったのは、まずこのことである。私はこの本を『日本近代素描』と題する長い連作の第一巻として書いた。
★著者である渡辺氏が、別の冊子に記述したものである。渡辺氏によると、当初この本のタイトルには、『われら失ないし世界』としたかったようである。
歴史のオモテ側でその表層をなぞるだけの論者は、彼ら漂泊民の歴史は、国家の正史に登場することもない『余聞』にすぎないと言うだろう。一所不在の漂泊民として蔑みの目でみられていたが、遊行者・遊芸者をはじめ彼ら漂泊民は、地域社会では民衆の実生活と深く結びついていた。
陽の当たらぬウラ街道を歩きながら、ある意味では民衆の日常の中になくてはならぬ存在として入り込んで生きてきたのである。
(中略)
今日では、漂泊民の歴史は「余聞」として語られることもなくなってきた。だが、海の「家船(エブネ)」にせよ、この「山家(サンカ)」にせよ、列島の民俗誌としてその記録を残さねばならぬ日本の文化史の地下伏流の一コマであった。
そこには、私達が生きてきたこの「浮き世」の深層に関わる何ものかがあった。もちろん、「浮き世」は「憂き世」でもあった。おしなべて漂泊民の一生は、苦労の多い旅から旅への生活で、報われることの少ない生涯だった。そして彼らは自らの人生を語ることもなく、人知れず歴史の間の中に消えていった。
この本は日本の民衆の下支えとなって生きてきた彼ら漂泊民への、私なりのオマージュ(賛歌)である。それはまた、もはやその姿を見ることはできぬ漂泊民への、私なりのレクイエム(鎮魂歌)でもある。
それで問題は「土蜘蛛」と「蝦夷」との関連である。蝦夷と土蜘蛛とは同族なのかどうか、「佐伯」はどの系統に入るのか―その問題については後述するが、 一九一〇年代に激しい論争が行われていたのである。
だが、戦後では、民族学でも歴史学でもその問題は話題になっていない。もちろん、この広い列島に散在していた縄文人には、かなりの地域的な偏差があったと思われる。縄文時代の後・晩期の人骨の分析結果から考えても、日本列島の縄文人がすべて同系の均質な集団であったわけではない。地域的特殊性も考慮せねばならない。
すなわち、自然環境要因をはじめ、狩猟・漁務などの自然採取を中心とした遊動生活から、しだいに定住化に向かった縄文人の生活形態や労働条件の変化など―そのような社会的要因も考慮しなければならない。
それでは、土蜘蛛という名称は、誰が付けたのだろうか。土中に潜むクモという下等の動物を想起させるネーミングは、やはりどうみても人を卑しめる賤称である。自分たちの集団名として、自ら名乗ったとは考えられない。『記』『紀』の神武東征伝のくだりを編纂した者が、古くから在地に伝わる説話伝承に着目して、反抗する先住の人びとに対して、この呼称を採用したのであろう。
沖浦和光著作集・第六巻・『天皇制と被差別民』より
======
★ 『土蜘蛛』は、中世の『能』の演題にもなっているが、日本書紀(特に神武天皇東征伝)においても登場している。河内の国にての戦に神武天皇側が敗れる、その相手の長が『長髄彦(ながすねひこ)』である。脛の長い彦(男達)という種族への俗称であろう。
また、奈良県と大阪の境にある葛城・金剛山系には、『土蜘蛛塚』などの遺構が点在するのである。葛城山系といえば、山岳修験道の開祖であり、時の権力に歯向かった役行者の故郷でもある。居を定めず、山中異界を闊歩する『山人=山伏』。その開祖・役行者は縄文系の末裔であったと推定するのも、あながちハズレとはいいがたい。
ここで、数日来の『読書の森から』で取り上げたキーワード群、縄文=東北蝦夷=宮沢賢治の宇宙=遠野の異界人=土蜘蛛=役行者=修験道、に通底するラインが朧気ながら浮彫りとなってくる。さらに、沖浦氏の記述にある「佐伯(さへき)」という種族も縄文系に連なるとされている。真言密教(東密)の開祖である、弘法大師・空海は、讃岐国の佐伯族が出自である。
弘法大師は唐にわたる前、数年間にわたり畿内や四国の山中を彷徨していたとされている。一説には、『丹=水銀』の鉱脈を探していたともされている。昨日の『読書の森から』では、縄文系=産鉄民=鉱山師ということも述べた。空海が山中にて、当時『不老長寿(遺体腐敗を防ぐ)のクスリ』と珍重された、『丹=水銀』鉱脈を探索していたという説も説得力が増すのである。
これにより、縄文人=狩猟採集=山中彷徨=鉱山師=修験道=密教、という大きな流れが見えてくるのではないだろうか。日本の山岳世界は、スポーツ登山だけで終始するには、あまりにももったいないくらい、奥行きの深さと広がりがある世界なのである。
もう一つのコメは、コムギとほぼ同じ時代に長江やインダス流域で栽培化され、周辺地に拡散したという意味ではコムギとよく似ている。しかし、湿った環境を好む植物であるために生産の場は氾濫原に集中するので、牧畜と複合することは少なかった。そうすると、この段階の農耕社会では、人と森の関係は、それほど直接的ではなかったと考えてよいだろう。森にとって問題が生じたのは、農業が西ヨーロッパや日本を含む東アジアの温帯林にはいってからである。
これらの地域には、すでに森と、その周辺に住む人たちがおり、本の実と動物を主食にしていた。ところが、その効率は穀類と比べて格段に悪く、人口が増えた(あるいは増やそうとした)ために穀類を栽培する道を選んだ結果、森がひらかれる。人間と森との激しい相克はここから始まったのである。 この両地域は梅樟忠夫のいう文明の第Ⅰ地帯とほぼ一致する。封建制の確立、都市化をへたあと近代産業の発展によって確立した相似形の近代文明で、古代オリエントや地中海と比べ年代的にはずっと新しい。
この地域の農耕は、開拓に効率のよい道具と労働力がかかるほかに、それまでは、あまり必要でなかった肥料の問題があった。もともと、この地域では森を生活材の調達の場としていたが、それに新しい品目が加わったのである。
さらに人口圧が強まって、森を消滅の危機に追い込むことになった。それにもかかわらず、森との共存ができたのは、森を守り、再生させる思想と技術が発達したからである。それは、森を愛し畏敬するこころに支えられていた。
古代日本には、縄文期このかた山河の隅々に棲み分けられてきた土着イメージの係累と、アジアやポリネシアから到来した人物や文物による外来とが、ふたつながら習合しつつ横溢していた。その代表例がヤマという観念にあらわれる。
日本のヤマは一方では神奈備の神体山であり、つとに死者が常世に旅立つ山中他界のロケーションとして語られてきたが、他方ではインド発祥の宇宙山としての須弥山や、中国発祥の五岳、崑崙、,蓬莱などの、多分に神仙の気韻をはらんだ山としても語られてきた。
日本のイメージは、当初からアジア的混淆性の裡に発酵してきたのであった。これらはまず山川草木のそこかしこに芽生え、やがて聖山と聖水の観念を整えつつ、これをとりまく結界の時空性を発揮した。
ついで結界にはシメナワやヨリシロをはじめとする各種の標識が出現し、それがのちのヤシロやマツリの構造の基体となった。
興味深いことは、たとえば鳥居の祖型がインドのサンチーやタイ.・アカ族のロッコーンに出自しているにもかかわらず、その形態や色彩がまったく独自の展開をみせたことである。「祖型の日本化」のプロセスには、おおむね"原郷の喪失"が伴っていたのである。
まつろわぬ民=蝦夷(エミシ)は、漂泊する産鉄民でもある。蹈鞴(タタラ)工法を介した奥出雲との紐帯。朝廷(奈良・京都)にとって、東北地方は鬼門とされる『東北方角』と対となって、異界とみなされたという説から下記の文章へと記述されていくのである。
=========
そもそも、蝦夷とは小中華思想に凝り固まった朝廷側の蔑称であり、陸奥国の住民は、未開の蛮族ではなかった。その証拠の一つとして、 日本刀の原型となった古代の蕨手刀(わらびてとう)が、主に東北地方から発見されていることがあげられる。柄(つか)や鍔(つば)が、反りのある刀身と一体になっている共鉄造(ともがねづくり)の蕨手刀は、その改良型である後世の太刀と同じく、騎馬による斬撃を想定して作られた武器であり、朝廷側の剣とは形も使い方も全く異なつていたのである。
この蕨手刀をかかげた蝦夷の騎馬軍団が、歩兵を主体とする朝廷軍の前に立ちふさがつている情景を想像していただきたい。圧倒的に数で勝る朝廷軍が、三十年間も苦戦していた理由が理解できるのである。蕨手刀は、東北地方に多い鉄山での鉄鉱石の採掘や、砂鉄と餅鉄(もちてつ=川底の磁鉄鉱)の採取、踏輔(たたら)製鉄や鍛造に関する技術と知識の結晶である。鬼門(都から東北方角・東北異界)の先にいる鬼(エミシ)たちは、朝廷の支配に抗う鍛冶・鉱山師だったのである。
古代の製鉄は西高東低で、東北地方での本格的な製鉄は平安時代から始まるというような説については、疑間を禁じ得ないのである。
私は古代蝦夷の宗教は、形を変えつつもある程度まで後世の東北や越後の民間信仰や習俗に痕跡を残していると考えている。その一つは狩猟神としての山の神の信仰と習俗である。これはことに職業的な狩人であるマタギのところに見られる。
もちろん、マタギの習俗や信仰のなかには、後世つけ加わった部分も大きいが、それでも基層はおそらく蝦夷の時代にさかのぼる狩猟民的な信仰や習俗だったと思われる。狩り言葉、狩猟の後での山の神への感謝の捧げ物などは、おそらくこのような基層にさかのぼるものであろう。
そして、蝦夷の宗教には家神の崇拝も含まれていたと思われる。私はオンゴンと総称されるシベリアの偶像が、縄文時代の土偶や、近代北奥のオシラサマと系統的に関係があると思っている。村の旧家に伝えられる一対の木製の神体で表わされるオシラサマは、家の神の古い姿を示すものと考えられている。このオシラサマ的な家の神の前身は、すでに蝦夷の時代に存在したのではないだろうか?
なお、現在のオシラサマは農耕や養蚕と結びつくことが多いが、蝦夷の当時からそうだったと考える必要はないだろう。むしろシベリアのオンゴンのように、生業活動としては狩猟と主にかかわっていた可能性を考えるべきであろう。
大林太良
高橋克彦氏の『火怨』を読み進めている。この本で取り上げられている、朝廷(大和朝廷)と東北蝦夷の30年戦争の舞台を、時系列に沿ってグーグルマップに落とし込んでみた。次回の東北・蝦夷の足跡を辿る養生プログラムのコース取りがうっすらと見えてきたように思う。
このように、縄文系末裔である東北蝦夷の活動足跡を地図上にて俯瞰していくと、盲点だった事にも気が付かされる。それは、『宮沢賢治の宇宙』や『遠野物語の異界』との時空を超えて通底する世界観についてである。
地図上で確認できるのは、宮沢賢治の『花巻』や、『遠野』は、アテルイをはじめ、東北蝦夷族の拠点であった地域とオーバーラップしていることである。宮沢賢治の『宇宙や動物群』、『自然認知と共感覚』そして遠野物語の『異界の物の怪』などの世界観は、縄文の自然観を始原とし、蝦夷の中央権力への反骨という歴史の糧を加えたものなのではないか。
定住型生産様式を軸とする権力側の意向にて、次第に統一されていく価値観(人生のつくり方)や倫理観(善悪の判断基準)、宗教観(信仰の在り方)や自然観(生命の捉え方)。そして、生き物が共通に有する『センサーとしての五感』までもが科学的に区分され統一されてゆく。
その統一へのプロセスに、息苦しさや身の置き場の無さを感じる『まつろわぬ民』。東北蝦夷や宮沢賢治、遠野物語の素材群らは、自らの意志にて『まつろわぬ民』へと身を投じた人物群であり群像ではなかったのだろうか。
★北海道のクマと東北のイノシシ
アイヌにとっては、熊はカムイ、神であった。熊は本来、天上において人間の姿をして、人間と同じような社会をこしらえて生活している。ところが、その神である熊が仮装して、すなわち熊の皮をつけ、熊の肉をもって人間の世界にあらわれるというのである。なんのためか。
それは人間に、ミアンゲ(みやげ)を贈るためである。つまり、熊はその肉をみやげとして、人間のところに仮装をつけてあらわれる客人なのである。それゆえ人間は、その客人の意思を尊重して、その客人を丁重にもてなし、そのミアンゲである肉をありがたくいただき、その魂を天に帰さなくてはならない。
決められた儀礼に従って、熊を天に帰す。すなわち丁重に殺してたくさんのミアンゲー酒や魚や穀類をみやげとして、熊の魂を天に送らねばならない。それがアイヌのイヨマンテ(イーそれを、オマンテー送る)という祭なのである。この日本の本土においても行なわれていたのではないかと思われる。
そして日本本土では、熊のかわりに猪が神として送られたのではないかと考えられる。考古学者の森浩一氏は、銅鐸にある猪を殺している絵は、狩猟の絵ではなくてそのシシ送りの絵ではないかという。
日本のあちこちから、ちょうど北海道で放射状にならべた熊の頭蓋骨が出るように、放射状にならべた猪の頭蓋骨が出る。
(中略)
獅子踊りが盛んなところは、東北や新潟など縄文文化、蝦夷文化が栄えたところである。私はやはり、それは、アイヌの熊祭り(イヨマンテ)に比すべき獅子祭りの名残ではないかと思う。
日本文化は両極端のあいだを揺れ動く、驚くべき適応性をもっていることがわかります。日本の織物師が、幾何学模様と自然を写した絵柄とを好んで取り合わせるように、日本文化は反対のものを隣り合わせにすることさえ好むのです。
この点で、日本文化は西洋の文化とは異なっています。西洋の文化も、その歴史の過程で、さまざまな立場を取ってきました。けれども西洋では一つのものを別のものと取りかえるのであり、後戻りするという発想はありません。
日本では神話と歴史の領域は相容れない関係にあると考えられていませんし、独自の創作と借用についても同様です。もしくは ー美的側面の話題で議論をしめくくるならー漆芸や陶芸に見られる洗練を極めた技と、自然のままの素材や民芸風の製品ー、一言で言えば、柳宗悦が「不完全の芸術」と呼んだものー に対する嗜好とのあいだにも対立は感じられないのです。
さらに驚かされるのは、科学と技術の前衛に位置するこの革新的な国が、梅原猛氏がいみじくも強調したように、古びた過去に根を下ろしたアニミズム的思考に、畏敬を抱き続けていることです。神道の信仰や儀礼が、あらゆる排他的発想を拒む世界像を有していることを知れば、これも驚くにあたらないでしょう。
宇宙のあらゆる存在に霊性を認める神道の世界像は、自然と超自然、人間の世界と動物や植物の世界、さらには物質と生命とを結び合わせるのです。
修験や巡礼におもむく人々は、険しい道を一歩一歩登りつつ、その苦しい息遣いの中にこそ、自分の有限生命が無限生命の中に呑み込まれてゆくことを体感していたのではないだろうか。
生と死をもつ小さな生命を数珠つなぎに繋ぎ止める大きな生命、それが山だ。
山こそ、すべての生命のふるさと・・・、日本人は太古の昔から、そのように感じ取ってきたのである。
(中略)
葬式仏教と揶揄される現代の日本仏教が、魂の原郷である山岳に帰還し、人間中心主義に冒されない、ホリスティックな精神性を獲得すれば、とかく方向性を見失いがちの現代文明人にも、大きな救いとなるはずである。
仏教には、まだまだ地球文明に貢献しうる精神遺産が包含されていると確信しているが、そのためにも、(いのち)の山奥深くに帰還し、今ひとたびの脱皮を遂げるべきだろう。
依代(よりしろ)とは。r依る」は「そこへ依って来る」という意味で、「代」はエージェント代わりという意味です。日本ではつねにこの「代」が大事で、何の代わりかというと、ここでは神様の代
わりということなんですね。日本の神というのは、実体をもっていません。ごくまれに神像をつくることもありますがそれは仏教の影響であとから作られたものであってめったにつくらない。神の実体というのはわかったようでわからないものですよね。ミアレするものです。おとづれるものです。
そのかわりエージェント、代わりをするものはいっぱいある。その代表的なものが木ですが、岩や山も依代になるし、何もなければ柱やポールのようなものを立てて、それを依代にします。これが各地のお祭りに立つ梵天とか左義長です。依代が決まると、そこに界を結び、御幣を飾り、注連縄を張る。そして結界を印すための四囲四方の目印の木を決める。結界の境目に立てる木なので、これを境木といいます。いまは、「榊」と書きますが、じつはこの漢字は中国にはないもので、日本の国字です。
日本はこういう漢字をもっと作ったほうがいいですね。たとえば「峠」とか「裃」という字も国字です。とてもわかりやすい、編集的でおもしろい字です。このように境木が結ばれると、この結界の全体もまた「代」になります。そこで、ここに屋根をかけると「屋代」になる。これがのちに社になり神社になるわけです。あるいは、車輪を付けて依代全体を台として持ち上げると、祭りの山車や鉾になる。それを人間が担ぐようにすれば、神輿になります。
笑いの底にある死者との交流。縄文人が住んでいた海進期の日本は、現在の地形と全く異なり、大都市の多くは海の下にあった。そんな時期に育まれた「野生の日本」の痕跡を歩き回れば、その呪縛がどれほど強く現在の都市社会の成り立ちに作用しているかが分かる。
この「アースダイバー」手法をもって探訪される大阪は、南方や大陸から来る海が押し寄せる文明の孤島だった。その大秘境へ歴史ダイビングを敢行する本書は、大阪こそ日本に成立した「ホンマモンの都市」だったと、スリリングに謳(うた)いあげる。
たとえば、あの自治都市、堺。そこには、濠(ほり)や壁を巡らせた城塞(じょうさい)都市を母形とする、自由を死守する市(シティ)と市民が生まれた。一方、海の中から現れた砂州だった大阪市内では、農地から発生する権力だの地縁だのに属さない、無縁で自由な海民が、壁をめぐらす代わりに物と金銭を機軸とする「市(マーケット)」を築いた。
その異質な無縁社会を律する新たな規範、「信用」を武器にして、船場の商人は都市をつくる。しかし、本書のダイブはさらに深海へと進む。たとえば、大阪のお笑い興行と「差別」の根っこにまでも。いまミナミと呼ばれる界隈(かいわい)は、笑いや官能や快楽の一大歓楽街だが、かつて広大な墓地や火葬場、刑場にあてられた場所だった。
芸能は死者を葬る儀礼から生まれる。通夜の席や死者の口寄せに付き物だった謎かけや「掛け合い萬歳(まんざい)」から、ボケと突っ込みをセットとする大阪漫才が発展する。また上町台地でも、墓地に隣接し巫女(みこ)が神懸かりする場所だった生玉(いくたま)(生國魂〈いくくにたま〉)神社に最初の落語「彦八ばなし」が掛かった。
大阪のお笑いの古層には、神々や死者との交流・交渉を担った「聖地の思考」があるのだ。吉本のお笑い芸や大阪のおばちゃんの性格を通して論証していく語り口が、すでに「芸」の域に達している。
まず、神話によると、弥生時代にきずきあげられた水稲農耕による先住の共同体を、正面から強引に乗っとろうとした人々がいる。高天原の神々ということになっているが、それも、遠からず該当者はわかることだろう。
先住者のうちには、帰順したものと、抵抗した者とがいた。そのレジスタンスの英雄は、グリラになって戦いながら、信濃国州羽の海にたてこもったと伝えている。名はタケミナカタといい、オオクニヌシの第二子、出雲族の代表者で、諏訪大社に祭られている。
彼らの流亡の道はどこだったか。ところが、この出雲族の大移動については、肝心のよるべき文献『古事記』の記述が、出雲から一足とびに信濃にとんでいるので、古くから常識的に可能な、いくつかの道が考えられてきた。
幸いなことに、大正年代、諏訪教育会の『諏訪史』編集の仕事の一端として、官地直一さんが中心に蒐集した、これに関するあらゆる説話が残されている。要するに、信濃から流出する三つの川筋、姫川・信濃川・天竜川の交通である。その中でも姫川説ーこれがもっとも有力であった。
出雲に、その代名詞となったオオクニヌシや、コトシロヌシのゆかりの神社説話が多く、東へ移動して、能登の気多神社など、諏訪とよく似た祭事伝承を残すものは、当然のこととして、内陸諏訪への入口、越後には、諏訪神社数じつに一五二二社、その実数・分布密度ともに、日本一という諏訪信仰を残している。とくに、姫川筋を拾えば、まず、糸魚川町には、タケミナカタの母神・沼河比売と考えられている奴奈川神社がある。
古代人の『宇宙観』とは、このような背景を源にしていたのではなかろうか。このようにして人格的身体は自己存在そのものであると同時に、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの交わりにおいて成立しておるのでありますから、宇宙共同体の結接点、結び目であるということができます。
すなわち、自己存在そのもの、言い換えれば私性の極限であると同時に、宇宙共同体の結接点、言い換えれば公性の極限であります。私性と公性との同時的極限であります。しかも、全人格的思惟すなわち冥想の中で、意識も無意識も身体も一つになっていますから、最高度にリアルなものであり、けれどもその根底は底知れぬ深いものであります。
したがってこの人格的身体を仮にXと名づけておきましょう。この最高度にリアルな人格的身体にこそ、形なきいのちの中の命、いわば純粋生命があらわになってくるのであります。それが、ブッダのダンマ(業)であり、インド思想のブラフマンであり、キリスト、パウロにおけるハギオン・プネウマ、聖なる神の息吹、見えざる神の生命であります。
ハギオン・プネウマを邦訳では聖霊といい、英語ではホーリー・スピリットと訳しております。霊とか、スピリットといえば、そうした観念に引きずりまわされて、 ハギオン・プネウマの本当の意味が伝わってきません。そうではなく、『フーッという神の息吹き』であり、見えざる生々とした神の生命であります。そのようなダンマであり、プラフマンであり、 ハギオン・プネウマであり、ソフィアである、『いのちの中の命』が、自己自身にあらわになる時、初めて自己が根源的に転換する。
すなわち、閉じられた自己から、開かれた自己へ、閉じられたいのちから開かれたいのちへと転換し、かつ宇宙全体が根本の一つの生命によって、つながりあっているという事実が知られてくるのであります。
玉城康四郎(東京大学名誉教授)
========
★ 前述最後から4行目からの『閉じられた自己から、開かれた自己へ・・・』という下りからは、環状ストーンサークル(地への横軸空間=石=閉鎖系)や、木柱状建築物(天への縦軸空間=木=開放系)、といった古代の巨大モニュメントへの意識が喚起されていくのである。
われわれの世界には、文明社会もあれば未開社会もある。先進国もあれば開発途上国もある。大民族とならんで少数民族がいる。人間だけでなく自然の万物がある。山河大地、草木虫魚がある。天上の他界があり、地上の現世がある。
それらがモザイク状に入り交じって、万華鏡のなかの風景に似た趣を呈している。そこで分裂と葛藤が繰りかえされているように思われる。今、われわれの見ている世界は<コスモス>ではなくて<カオス>である。修羅の巷である。
それにもかかわらず、われわれは何としても<コスモス>を見たい。<コスモス>を見なければならない。われわれは、一体どのような場所にいったら、この世界をあるがままに<コスモス>として受け入れ、<コスモス>として展望することができるのであろうか。
フンボルトは当時知られていた世界の最高峰チンポラゾの山頂に立って、新旧両大陸の全容を視界におさめようとした。しかしここでは、人間精神の最深部にくだって、その場に映る世界の風光を眺めてみたい。
文化の多様性に着眼するよりも、その背後に横たわる共通性に注目する。文化の土台としての眼にみえる自然だけでなく、眼にみえない<隠れた自然>の意味をさぐる。言語による理解だけではなくて、言語以前のコミュニケーションの場を尋ねあてる。
手によって表現するところ、跳び、廻り、坐るといった身体運動をともにすることによってあらわれてくる世界、そういう行為の尖端において共有される世界のなかに歩みいってみたい。そこは万法帰一、万物同根のところで、また、自分と世界、自分と<コスモス>が同時に誕生するところでもある。
私は思うのであるが、必然と偶然のあいだに、限りなく自由で広大無辺な世界がある。<コスモス>はこの世界の自己表現にほかならないのだ、と。ただし、われわれは未だそこに至り着いていないために、<コスモス>の姿は象徴として見えているだけである。
あらためて、弥生時代とは何か。「中の文化」の西側では、弥生の訪れとともに、稲作農耕社会が急速に広がり、金属器の製作や使用が行なわれるようになる。階級が分化し、権力を握る者が現われ、やがて群小のクニが並び立って争う時代がはじまる。
その国生みの時代を経て、瑞穂の国を統べる王である「天皇」が登場し、ついに「日本」という国号をいただく古代律令国家が生成を遂げる。西日本を舞台とした歴史であり、それが長いあいだ、「正史」として語られてきた。
しかし、思えばそれは、列島のまったくかぎられた地域の辿った歴史にすぎない。たんなる地方史のひと駒でしかない。それでは、中の「ボカシの地帯」をはさんで、東日本にはいかなる社会や文化が展開されていたのか。
稲作農耕はすでに早く、最北端の青森まで到達しているが、それは東北が稲作農耕社会となったことを意味するわけではない。採集・狩猟や雑穀農耕を複合的に組み合わせた生業のうえに、あらたな農耕の技術として稲作を取り入れたのである。
気候変動につれて、稲作前線は南へ後退し、定着ははるか後代に遅れる。東日本の多くの地域では、依然として、台地での畑作を中心とした、縄文的な伝統の強い農耕文化が営まれていたのである。これも、もうひとつの弥生文化であった。
騎馬民族の特徴・江上波夫氏の思考始原とは
農耕民族からみれば、牧畜・騎馬民族には文化がない、彼らは野蛮人だというのですが、文化の型が違うのです。牧畜民は個人主義で、自由で、民主的です。文化は農耕民族の創出したものを摂取すればよい、と考えている。
実際にいろいろな文明を融合して普遍性のある世界的な文明をつくってきたのは農耕民族じゃなく、牧畜民なんです。ヨーロッパでは、地中海世界ではなくてゲルマンが牧民なのです。そういう意味で、世界史における牧民の役割を明らかにするのが私のテーマになっちゃったんです。
インド五千年の智慧の特徴としては“輪廻転生"の智慧であろう。この智慧は、『今生はやり直しが利く』とも理解される智慧でもあるが、実際には『こんな苦しい人生は三度と体験したくない。転生などまっぴらご免!』、という智慧につながる生き方である。
そう言われてみると、あの苦しい受験戦争は二度と体験したくないとか、やり直しが利くとしてもこの俗世は一回こっきりで卒業したい、というのがヒマラヤのヨーガ行者たちに偽らざる本音である。
しかし現実は厳しく、沢山の執着/こだわりに心は乱され、再度の俗世を生きる修行をさせられるのもまた現実と言われている。二千年以上前にパタンジャリ大師によってまとめられたヨーガの聖典「ヨーガ・スートラ」にも、苦楽等の識別の智慧(ヴィヴェカ・キャティ)を得た者にとっては、この世は苦労の連続と認知されると記されてある。
苦楽、損得、快不快等々の二極対立感情に常に左右される無智さの意識状態では、生きる苦しみの中にこの人生を終えざるを得ず、場合によつてはこれから数万回生まれ変わってもこの俗世の二極対立感情からは抜けられないとも言われている。だからこそヨーガ行者たちは古来自制心を以て、諸感覚器官の暴走を制御しようとして日々を生きているのである。地域・医療に活用したい精神的ケア/ヨーガ療法の実際 ~「潔く優雅に生ききる肉体・精神性・霊性の養生法」~
木村 慧心(日本ヨーガ療法学会・理事長)
古代の死霊の恐ろしい呼びかけを意識的に遮断したあとに、日本人はどのようにして「あの世」との通路を、ふたたび開くことができたのか。「死者の書」で折口信夫が取り組もうとしたのは、こういう難問だった。
仏教思想のように、「あの世」のことを、西方や東方の彼方にあるという「浄土」に観念化してしまうことも可能かも知れないが、そういう観念を「古代」以来の列島に土着の思想に接ぎ木して、その二つをうまくつなぎ合わすことができなければ、「浄土」の考えなどはただの輸入思想にすぎないだろう。
奥深い生死の問題を、輸入思想にゆだねて満足していられるなどというのは、いつの世の中にもいる軽薄な「モダニスト」にすぎない。わたしたちの先祖たちが、長い時間をかけて考えぬいてきた列島土着の思想と、時代に飛躍をもたらす新しい観念とを、まるでひとつながりの展開のように描き出すことができなければ、仏教がもたらした思想の飛躍などは、民族の伝統にとってはひとつの災いにすぎないのではないか。
こう考えていた折口信夫は、「古代人」の得意とする野生の思考と仏教のもたらした観念思考とを、なだらかにつながっていく丘の起伏のように描き出してみようとこころみたのである。
「ごろつき」や「無頼漢」と称せられる人々は、古来から精霊の息吹に直に触れているからこそ、「ごろつき」のような生き方、「無頼漢」としての生き方をすることになったのだ。職人や芸人たちも、それと同じ精神性を内面に抱えていた。
そのために舞を舞ってもエキセントリックなところのある「曲舞」に惹かれ、そこから幸若舞が生まれ、幸若舞から歌舞伎の原型が誕生し, ついには江戸の大衆芸能の華となって開花した。
まるで「ごろを巻く」ように傾き加減の強い身ごなしや台詞回しで「かぶいた」からこそ、この芸能は歌舞伎と呼ばれたのだ。歌舞伎の荒事がそのことをよくあらわしている。「暫く、暫く、暫く」と大声でのたまって、時間の順調な流れを中断させようと出現する歌舞伎役者は、赤子のような隈取りで顔を覆っている。
おそらくこの人物は、たったいま異界から通路を抜けて「この世」にあらわれてきた新生児なのである。新生児は人間の世界の「外」の力に直に触れたときの感触を、まだ生々しく全身にみなぎらせている。この人物が登場すると、舞台を流れていた時間は凍りついたように停止する。
それはまるで,「古代人」の時間の流れを停止して、異界からの「まれびと」の来訪を迎え入れようとしていたのと同じだ。
室町時代に金春禅竹は、能という形式の固まりはじめていた芸能を、「古代の思考」の息吹にさらすことによって、能が「この世」と「あの世」の境界面でおこなわれる、不穏な芸能であることを一門の者に思いおこさせようとした。
二十世紀の前半にあって、折口信夫もまた、古典芸能として安定を得るのと引き替えに、境界面に吹き付けてくる、「あの世」の感触を失いはじめていた芸能に、荒々しくまたみずみずしい「古代人」の息吹を注ぎ込もうとした。
下記の文章は、レイチェル・カーソン 著、「センス・オブ・ワンダー」の中からの抜粋である。
==========
人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことは、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子供時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通じる小道を見つけ出すことができると信じます。
地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘が隠されています。
自然が繰り返すリフレイン=「夜の次に朝が来て、冬が去れば春になるという確かさ」の中には、かぎりなくわたしたちを癒してくれるなにかがあるのです。
2024年7月2日 発行 初版
bb_B_00179259
bcck: http://bccks.jp/bcck/00179259/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。