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中国 明・清代 怪談 奇談 論談
 閲微草堂筆記6
 卷十五~十八 姑妄聴之

紀暁嵐著  渡邉義一郎訳

CAアーカイブ出版



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  この本はタチヨミ版です。

 閲微草堂筆記 姑妄聴之  目 次


閲微草堂筆記 卷十五 姑妄聴之1
  はじめに/ 一、うわごとをいう下男/ 二、足るを知る/ 三、道教の法術/ 四、占い師は何が見える?/ 五、深山の精霊か?/ 六、金色の水晶/ 七、失った貴宝を探し八年/ 八、地獄は誰のためにある?/ 九、運河の幽霊/ 一〇、死んでも名声がほしい/ 一一、この世の涙/ 一二、むなしさと幻/ 一三、騙しの手口/ 一四、アリの卵の塩辛/ 一五、八つの珍味/ 一六、ランの香りの酢/ 一七、メロン栽培の秘訣/ 一八、大臣の若きころ/ 一九、幽明境を異にする/ 二〇、小人の女神/ 二一、これは何の妖怪?/ 二二、天地の道徳/ 二三、木こりとトラ/ 二四、孤石老人/ 二五、都で最古の樹木/ 二六、深みのある言葉/ 二七、憑りつく所がない/ 二八、人を恨まない/ 二九、運命、定められた日/ 三〇、悪には悪の報い/ 三一、精霊は何を現すか?/ 三二、誘惑された修行僧/ 三三、勝負師の心境/ 三四、同類同士だから怖い/ 三五、転がり込んだ妻/ 三六、科挙挑戦者の末路/ 三七、下女の体を借りて生き返る/ 三八、忘れやすいこと/ 三九、冥界の真実/ 四〇、判決以上の報復/ 四一、娘と強盗/ 四二、李白の言いたかったこと/ 四三、長寿への道/ 四四、山の妖怪/ 四五、馬を追う神/ 四六、河の氾濫を知る魚/ 四七、盗み癖のある下男/ 四八、キツネのマージャン/ 四九、紅教ラマの魔術/ 五〇、宝玉埋葬の戒め/ 五一、側女へ神の計らい/ 五二、愚かな男の賢さ/ 五三、カニを食べない賢人/ 五四、他人の夢/ 五五、民意が解らない官吏/ 五六、お婆さんの伝える薬/ 五七、オオカミの結末/


閲微草堂筆記卷十六 姑妄聴之2
  五八、少女の花嫁/ 五九、夢の種類/ 六〇、オス鶏のタマゴ/ 六一、悪さへの報復は必ずくる/ 六二、父の遺骨探しの旅/ 六三、冥界の刑罰で女性になった男/ 六四、善良故に難を逃れる/ 六五、てんもうかいかい/ 六六、墓誌に書けないこと/ 六七、神や幽霊の怒りに触れ/ 六八、語れないことありや? 六九、思いもせぬ偶然/ 七〇、キツネの見た道学者/ 七一、良く知ること少なし/ 七二、恐怖の仕返し/ 七三、手掛かりになる話/ 七四、ウソを言わず人をだまさず/ 七五、女七人が同時に未亡人になる/ 七六、キツネ娘の親孝行/ 七七、キツネに魅入られて/ 七八、欲望を断ち切る/ 七九、作詩者不明/ 八〇、ケンカの仲裁は必要か?/ 八一、妻を殺したのは?/ 八二、これこそ賢者/ 八三、叱られた幽霊/ 八四、死ぬか生きるかの判断/ 八五、考えを改め神罰を逃れる/ 八六、女形にからかわれた/ 八七、自業自得/ 八八、甲さんと乙さんの入れ替わり/ 八九、幽霊を見てしまった!/ 九〇、化けキツネの対処/ 九一、キツネの恩返し成らず/ 九二、あの威厳ある先生が…/ 九三、精気は永遠である/ 九四、仙人の住む山/ 九五、前から決まっていること/ 九六、一つの経験だけを信じない/ 九七、良き死を迎えるために/ 九八、男が女になったその前世は?/ 九九、自業自得の罰当たり/ 一〇〇、親孝行の方が良い/ 一〇一、こんな親孝行者がいる/ 一〇二、学のある幽霊/ 一〇三、欲望の危険性/ 一〇四、心の中を移す鏡/ 一〇五、節婦の詩/ 一〇六、仙人の筆跡/ 一〇七、キツネに騙された秀才/ 一〇八、二人で一人の側室/ 一〇九、姉妹を娶る/ 一一〇、虎のヒゲを引く/ 一一一、キツネにこき使われる/


閲微草堂筆記卷十七 姑妄聴之3
  一一二、人に尽くす修行したキツネ/ 一一三、個人の運命は神も変えられない/ 一一四、冥界の裁判員/ 一一五、失敗のない計画は無い/ 一一六、すでにあった詩や曲/ 一一七、詩を語る幽霊/ 一一八、人食いトラの智慧/ 一一九、仙人への道/ 一二〇、闘わずに勝つ/ 一二一、キツネの気持ち/ 一二二、占いは無数にあり/ 一二三、礼節はキツネ社会に残る/ 一二四、年配の下女を嫁がせる/ 一二五、幽霊の生まれ変わり/ 一二六、サンゴの絶品/ 一二七、玉石は荒野に落つ/ 一二八、綺麗すぎる髪飾り/ 一二九、宝玉より現金/ 一三〇、自らの不遇を考えよ!/ 一三一、キツネと愛と仁徳/ 一三二、死して恩を返す/ 一三三、誰が復讐するか/ 一三四、神か幽霊の創った器物/ 一三五、一日死んで生き返る/ 一三六、骨董に浮き出た絵模様/ 一三七、北宋の名画/ 一三八、親友とは?/ 一三九、善し悪しの判断/ 一四〇、世の中を乱すのは人間/ 一四一、ニワトリの直感/ 一四二、キツネの上手な仕返し/ 一四三、細かいことはどうでも良い/ 一四四、愚か者ゆえの良運/ 一四五、許嫁の悲哀/ 一四六、仏陀を信じて僧を信じず/ 一四七、幽霊になれない/ 一四八、詩と詞の違い
/ 一四九、宇宙の知識/ 一五〇、戦争の中で/ 一五一、儒学者批判/ 一五二、一応文学的な/ 一五三、客観的な見方/ 一五四、キツツキの呪文/ 一五五、何も知らずに/ 一五六、武将の詩/ 一五七、神や幽霊は見ている/ 一五八、知恵のある下女/ 一五九、幽霊と悪霊祓い/ 一六〇、なぜ妻の霊に祈る/ 一六一、夫婦は一体だが/ 一六二、上手い話に乗ってはいけない/ 一六三、信頼できるのか?/ 一六四、自らを顧みて/ 一六五、如何にいさめるか/


閲微草堂筆記第十八巻 姑妄聴之四
  一六六、敵をよく知る/ 一六七、悪役に頼むな/ 一六八、山の精霊/ 一六九、勝負は気力/ 一七〇、主人公は芸妓/ 一七一、賄賂で行う呪文/ 一七二、魂が見たあの世/ 一七三、愛情に応えた幽霊/ 一七四、役人の福得、狡猾/ 一七五、幽霊に喰われた/ 一七六、恩返しのこと/ 一七七、幽霊の真偽議論の果て/ 一七八、才能のある幽霊/ 一七九、田舎の迷宮入り事件/ 一八〇、魂を捕らえる技/ 一八一、キツネに学ぶ/ 一八二、死んでも仇を討つ/ 一八三、批評する声/ 一八四、キツネは見ていた/ 一八五、才能ある降霊者/ 一八六、儒教対仏教/ 一八七、殺人と人助け/ 一八八、役人「四つの救済」/ 一八九、疫病に石膏/ 一九〇、人徳のあった人々/ 一九一、明から清へ/ 一九二、被告と原告/ 一九三、ヘビ、毒虫を喰う/ 一九四、キツネの仕返し/ 一九五、知性は愚かさ/ 一九六、ある高官/ 一九七、運命を変えるもの/ 一九八、特異な性格と経験/ 一九九、山の神と虹の話/ 二〇〇、三大神珠/ 二〇一、孝行の願いは天に届く/ 二〇二、火災と棺/ 二〇三、小さな坂で転ぶ/ 二〇四、強盗にされる/ 二〇五、庶民にして良心あり/ 二〇六、井戸に落ちそうなのに/ 二〇七、先見の明/ 二〇八、暗闇でも見聞きされている/ 二〇九、ご先祖様は嘆く/ 二一〇、明月が真珠を産む/ 二一一、至極の誠意/ 二一二、あとがき 三人の男子誕生/
  紀昀先生のこと

閲微草堂筆記
卷十五 姑妄聴之1


はじめに

 私の性格は孤独を苦にしないが、怠けることが出来ないのである。いつも 本、筆、墨などを側に置き、学校へ行くようになってからは、十日以上それらから離れたことはない。三十歳を前に、私は学問と知識の研究に集中していたが、いつも座っている場所には、さまざまな古典が獭祭(だっさい。カワウソが捕まえた魚を並べておくのが、先祖へのお供えもののように見えること)のように私の周りにあった。三十歳を過ぎてからは、自分の書いたものが世間に広まるようになり、言葉の修飾に気を使い、徹夜で考えることも多くなった。
 五十歳を過ぎて秘籍の編集・整理を担当し、再び文献研究に専念した。歳をとった今では、以前ほどの興味はなくなり、時折暇つぶしに紙と筆を持って古い話を書き留めるだけである。そこで『灤陽消夏録』(灤陽県・らんよう-けん、は河北省にあつた県)を含む三冊の本を執筆した後、この四番目の作品集を書きまとめた。王仲任や應仲遠などの古代の作家を偲べば、彼らの作品は広範に経書や古典を引用して、学識は広く雄弁である。陶淵明、劉敬叔、劉義慶の作品は簡潔で自然で興味深い文体である。傲慢にも賢人たちと自分を比較するつもりはないが、この書の主旨は風俗教化に違反しないことである。魏泰、陳善のように、復讐したり善悪を混同したりすることは、私にはできない。たまたま盛子松雲がこの本を出版したいと言っているので、巻頭に何行かを書いた。この本の内容のほとんどは噂に基づいているため、『荘子』の言葉を引用して『姑妄聴之』(姑妄聴之〈こもうちょうし〉信じようと信じまいと気軽に聞いてくださいの意味)と名付けた。
  乾隆帝の治世五八年(一七九三年)七月二五日、観奕道人が記す。

*王仲任:王充。後漢の唯物主義哲学者。
*應仲遠:後漢の泰山太守應劭(字仲遠)。『風俗通義』の編著。
*陶淵明:東晋末~宋初の詩人、文学者。県令。
*劉敬叔:宋代の役人。志怪小説集『異苑』
*劉義慶:,南宋の文学者。
*魏泰:北宋の文学者。
*陳善:南宋の学者。詩人。








一、うわごとをいう下男

 御史(監察官)・馮静山の家の下男は突然気が狂い、毎日自分の顔を平手打ちし、うわごとを言い、「わしは貧乏で一人で寂しく、死にそうだが、頭ははっきりしているし、まだ威厳がある。あなたは何者ですか? わしに道を譲らないでよくも傲慢なことができるね? これから、あなたを懲らしめて思い知らせてやろう!」
 馮静山はその下男の所へ行き、こう言った。「お前は昼間、姿を現すのか?(幽霊なのか?)冥界と地上には違いがある。残念ながら、お前がこのようなことをするのはふさわしくない。お前は透明なのか?(姿も見えず、隠れているのか?) お前にはこの下男を見ることができるが、この下男はお前を見ることができないのだから、どうしてお前から逃げることができようか?」彼の下男は眠っていたようだったが、すぐに目覚め、立ち上がって正常に戻った(下男に憑りついていた幽霊は、どこかへ去って行ったようだ)。

二、足るを知る

 私の門人の耿守愚は桐城(今は安徽省桐城市)の出身で、礼儀正しく、厳格で、礼節について人と議論するのを好んだ。私はかつてこの問題について彼と話し、こう言った。「儒学を信ずる者は往々にして横暴で、他人が自分を尊敬することを望み、それが自尊心だと考えています。彼らは他人が自分を尊敬しているかどうかを知りません。道徳的に賢者にふさわしい人は、たとえ王侯貴族に囲まれていても名誉を与えられることはなく、たとえ謙虚で贅沢をしていなくても屈辱を受けることはありません。最も価値のあるものは自分の中にあり、外面的なものだけでは自分の栄光を高めるのに十分ではないと考えています。他人の態度に基づいて自分自身の重要性を測らなければならない場合、名誉を感じるためには他人の尊敬に頼らなければなりません。他人が自分を尊重しなければ、自分は屈辱を感じるのでしょう。このようにして、奴隷と使用人が自分の名誉を操ることになって、これは自分を人間としてみなしていないということです。」
 耿守愚は言った。「あなたは裕福な家庭に育ったので、そのような考えを持つのです。貧しい学者が貧困のせいで誇りを失うと、自尊心や気高さを発揮できなくなり、見下されることになります。」と。私は、「これは田子方(孔子の門人・子貢の弟子)が言っていることだ。朱子はすでにこれに反論しています。これは虚偽で誇張しているので、これ以上議論する必要はありません。この発言に関する限り、この言葉自体は、道徳を最も大切にし、貧しさを理由に自分を卑下してはならないという意味であり、徳が全くなくてもよいということではなく、傲慢になってもよいということでもない。貧乏だからといって他人の前で。君の言う通りにしたら、物乞いは君より貧しいし、下男下女は君より下ということになります。彼らは皆、君に傲慢でも、自分自身の人格を築いていると言えますか? 私の亡き師、陳白崖先生はかつて自分の書斎に次の対句を書いて掲げていました。 『事能知足心常惬(事よく足るを知れば心は常にかない、)、人到無求品自高(人求むるなきに到れば品自ずから高し)。』これはまさに根本を突き詰めた議論であり、この言葉は本当に時代を超えて語り継がれていくものです。」

三、道教の法術

 龔集生は言った。乾隆の己未の年、彼がまだ若かった頃、都の霊佑宮(今の北京、永安路にあった道観)に住んでいて、一人の道士と出会い、よく一緒に酒を飲んだと語った。ある日、龔集生は友人と芝居見物に行くので道士を誘ったところ、彼は喜んでついてきた。皆が戻って来るとき、夕暮れで、道士は両手を上げて皆に言った。「今日はご親切にあなた方から演劇を観に招待されました。私はあなた方にお礼をすることができません。それで今夜、人形劇を見てもらえませんか?」夜、道士の部屋へ行くと、部屋には大きな飯台(テーブル)しかなかった。その横には少しの水、酒と果物が置かれ、将棋盤が置かれていた。道士は手伝いの少年に、外の戸を閉めさせ、客たちにテーブルの周りに座るように勧めた。酒をつぎまわり、道士が界尺(定規板)をたたくと、「パン」という音とともに、身長八~九寸の小人たちが将棋盤の上に落ち、一斉に歌い、劇を演じた。声は四、五歳児のようで、男女の衣装や歌、小道具などはすべて劇場と同じものであった。
 劇が終ると、【伝奇劇の一幕を“齣・チュー”といい、この文字は古代には存在せず、呉仁臣の『字匯補注』に初めてこの文字は“尺・チー”と読むと書かれていた。 長年使われてきたものなので廃止することはできない。現在では世俗的な文字として書かれている。】その小さな人々は突然姿を消した。その直後、さらに数人が将棋盤に落ちてきて、別の“齣・チュー”を演じた。皆驚き喜んでそれを観ていた。真夜中まで酒を飲んだ後、道士が少年にタマゴ数百個と白酒(強い酒、焼酎)の瓶数本を部屋の外のテーブルに置くように命じると、突然音楽が止まり、部屋の外からは飲食の音だけが聞こえてきた。皆は道士にこれは何の術かと尋ねた。
 道士は、「五雷法(道教の法術の一部。宋代に流行した。)を習得した者なら誰でも、キツネを動かして何かをさせることができます。キツネは大きくも小さくもなれるので、私は夜の娯楽としてキツネに芝居を演じさせたのです。しかし、キツネを使ってこのようなことをさせるだけならば何のことも無いのですが、物を盗んだり、他人に危害を加えたり、快楽のためにキツネの娘を罠にかけたりすれば、神はすぐにそれをさせた者を罰するでしょう。」 誰もがこれまで見たことのないものを見て、また明日の晩もこれを観させてほしいと懇願した。道士は同意した。次の夜、皆は再び道士の家に行ったが、道士はその朝、すでに手伝いの少年を連れてそこを去っていた。

四、占い師は何が見える?

 占い師の董西が言った。「あるとき二人が将棋をしているのを見たことがある。その一人は、あらかじめ黒九三、白六五などの棋譜を描いて、それを竹籠の中に入れていた」と。 終ってから、籠を開いて棋譜を見ると、いま終わった盤上の展開とまったく同じであった。結局、どんな法術を使ったのかは分からない。
 『前定録』の記録では、開元時代、宣平坊の王と言う者が李揆の将来を占った。 王は李に数十枚の紙が入った封筒を渡し、「拾遺(監察部長にあたる)に任命された日に、開けて読んでください。」と言った。
その後、李揆は李珍から推薦された後、皇帝が大臣に李揆に試験をするよう命じた。最初の問題は「紫絲盛露囊賦」、次は「吐蕃(チベット)に応える書」三番目は「南越(ベトナム)に代りて白孔雀を献ずる表」であった。李揆は午前一一時から午後七時まで執筆し、計八単語を修正し、その横に二つの追記を加えて三つの試験問題を書き終えた。
 翌日、李揆は左拾遺に任命された。 十数日後、王から渡された封筒を開けると、中には自分が書いた論文と同じ三つの論文が入っており、訂正や注釈も全く同じだった。この種の法術は古代に存在し、将棋指しはこの種の法術を他人から学んでいただけであることが判る。名案を得て書いたり、棋盤の上に紙を広げたりしても、当事者ですら結果を予測通りに対局できないことがよくあるが、占い師なら事前にそれを知ることができるという。 他人を利用し、一日中陰謀に忙しい人々は、(占いや予言に頼ることを)諦めることができないのであろうか?

五、深山の精霊か?

 ウルムチに追放された囚人・剛朝栄の話で、「二人の商人がラバに乗ってチベットへ商売に行ったが、山中で道に迷い、東、西、南、北の区別がつかなくなった。すると突然、十数人が崖から跳び降りてきたので、商人は『夾壩・ジャバ』に遭遇したのかと思った。西部人は強盗をジャバと言い、蒙古系のオイラト族は強盗のことを『マハチン』と呼ぶ。近づいてみると、この者たちはみな身長が高く七~八尺で、黄色や緑の髪で身体は毛深く、顔は人とは言えず、複雑な音節で話しており、何者なのか理解するのが困難であった。」と言う。    
二人は、これは怪物であり、死ぬ運命かと思い、地面に震えながら横たわった。しかし、十数人は彼らに微笑みかけ、まるで捕まえて引き裂いて食べる気などなかったかのように、ただ二人を脇の下に抱えてラバに乗って走り去った。峠に到着すると、彼らは男を地面に置き、一頭のラバを穴に押し込み、ナイフを抜いてもう一頭のラバを殺し、それから火を焚いて調理し、座ってそれを食べた。
 十数人は商人二人をともに座らせ、それぞれの前に肉を置いた。商人らは、この見知らぬ者たちは悪意を持っていないようだと思い、非常に腹が空いていたので、肉を食べた。食後、これら十数人は腹をさすり、顔を上げて馬のいななきような声で咆哮した。そして四人の蕃人は二人で、商人を一人づつ挟んで、猿や鳥のように機敏に、険しい山を三つ四つ越えて、道路の側へ降ろし、それぞれに石を与え、瞬く間に姿を消した。その石は瓜ほどの大きさで、すべて緑松石(トルコ石)で青色であった。
 二人は帰宅してきて緑松石を売り、失った金の二倍を得ることができた。この事件は乾隆帝の乙酉、丙戌年の間に起こった。剛朝栄はかつてその商人の一人に会って、詳しく話を聞いた。山の精霊なのか樹木の精霊なのかは分からないが、行動から判断するとその十数人の者たちは、怪物ではないようである。太古の昔から外界との接触がなかった深山幽谷にもそのような野蛮人がいるのかもしれない。

六、金色の水晶

 漳州(今の福建省漳州市)で産出される水晶は様々な色があると言われているが、赤色のものは見たことがなく、紫色のものが最も貴重とされている。また、金晶という種類もあり、黄晶とは全く異なり、最も入手困難で、たまに手に入るとしてもササゲや瓜の種ほどの小さな物しかない。海澄公の家には三本足のカエルのような形の物があり、扇の根付としても使え、まるで熔解してできた純金のようで、透明度が高く、貴重な宝物である。楊景素・巡撫(地方の軍政および民政を主管)は福建省汀漳龍道・道員(地方長官)だった頃、私にこのことを話してくれたことがあるが、それはただの噂であり、自分の目で見たことではなかった。この事を広く知っていただくために、ここに記録しておく。

七、失った貴宝を探し八年

  北魏石雕方硯 山西博物館

 陳来章先生は私の義父である。彼はかつて、雲の中に鳳凰の模様が刻まれた古代の硯を手に入れた。宰相・梁瑶峰はこの硯に次のような銘文を刻んだ。「その鳴くこと歌とともに雲に乗って舞い飛ぶ。有媯の姓の幸運により、彼らの歌は繁栄を取り戻すだろう。雲は四方八方に流れ、徳をもって輝く」それは乾隆帝の癸巳年閏三月のことだった。古代の習慣により、銘文には「閏月」とのみ署名された。
 乾隆の庚子年間、この方硯が盗まれた。乾隆の丁未年になって、陳氏の次男陳聞之さんは方硯の在り処を知り、あらゆる方法で方硯を買い戻そうと試みた。乾隆の癸丑年六月、陳家が再び私のところに来て銘文を求めた。私が書いた銘文は、「失くしたものと見つかったものは、貴重な玉の大きな弓のようなもの。どうしてそんなことが起こるのか。古いものは偶然に出会う。雄大な鳳凰の飛ぶ雲のように、遠い空に消え、戻ってくる時には、やはり梧桐の樹に止まります。」と。
 裕福な家の子孫の中には、先祖が残した家宝を捨てたり、散乱させたりしている人がたくさんいる。私はかつて、ある紳士が買い手を探していると言って、玉の首飾り(玉佩)を数個持った仲介の婆さんに会ったことがある。それを包んでいたボロボロの紙は、なんと北宋刻本の『公羊傳』四頁で、えらく嘆いたことであった。陳聞之さんは八年後、先祖が失くしたものを買い戻し、長く受け継がれることを願い、銘文を書いてもらい伝えようとした。 人の想いは千差万別である。

八、地獄は誰のためにある?

 董家荘(今の河北省石家庄市霊寿県内)の小作人、丁錦に子供が生まれ二牛(アルニウ)という名を付けた。丁錦の娘は曹寧という婿をもらい、仕事を手伝い、家族は仲良く暮らしていた。二牛の息子は名を三宝と言った。娘は女の子を生み実家で暮らし、続いて生まれたので名を四宝と付けた。二人が生まれたのは同年同月で、何日か違うだけだった。義理の姉妹が子守をし、互いに乳を飲ませあい、互いの子を分け隔てなく育てた。二人はおむつの取れない赤ん坊を許嫁に決めていた。三宝、四宝もまた仲良く遊んで、いつも一緒であった。少し大きくなってからも二人は一時も離れなかった。貧しいこの家族は、疑いを避けることを知らず、口さがない近所の人たちは二人の子供が一緒に遊んでいるのを見ると、よく指を指して、「これはあんたの夫、これはお前の妻だ。」と言った。二人の子供はそれが何を意味するのか理解できなかったが、それを聞くことに慣れていた。七、八歳になり、少し分別がついた後も、二人の子供たちは二牛の母親と一緒に寝起きしていた。康熙帝の辛丑年から雍正帝の癸卯年は毎年不作となり、丁錦夫婦は相次いで亡くなった。娘婿の曹寧は初め流れ流れて都に来たが、貧しすぎて自活できなかったため、四宝を陳郎中の家に質入れした。
 陳郎中のことは知らなかったが、ただ江南出身であることだけは知っていた。二牛は後を追って都に行き、子供の下男を必要としていた陳氏に追いつき、三宝を陳家に質入れし、二牛は三宝に自分と四宝がすでに結婚していることを言わないように話した。陳郎中は厳しく、よく四宝をムチ打っていた。これを見て三宝は密かに泣き、三宝がムチ打たれると四宝も同じように泣いた。 陳氏は不審に思い、四宝を鄭家に売ったが、一部の人はそれが“貂皮鄭” 家(テンの毛皮は高級な毛皮として知られる。良家の意味か?)であると言った。 また三宝をも追い払った。三宝は陳家を紹介してくれた老婆を探しに行き、その老婆からある家へ下男として紹介された。しばらくして四宝の居処を知り、様々な縁で鄭家へ向かった。数日後、彼は四宝に会い、当時一三歳か一四歳だった二人は抱き合って泣いた。二人は兄弟だと嘘をついていた。鄭氏は違和感を覚え、彼らの名前がほぼ同じ順位にあるのを見て、鄭氏は疑いを持たなかった。しかし、家の中と外は隔離されており、二人は出入りする際にちらっと見つめ合うことしかできなかった。
 その後、二牛、曹寧が元気になり、子供たちを戻すために都へ行き、鄭家を探した。そのとき初めて、鄭氏は二人の子供たちがもともと夫婦になる運命にあったことを知り、彼らに同情して婚礼の準備を手伝いたいと考え、二人を鄭家に引き留めて仕えさせた。鄭家の教師である厳某は道学家だが、現代と昔の世情が違うことを理解しておらず、「父系の血筋の濃い者同士は婚姻の礼儀に反しており、禁止されている」とためらうことなく叱責した。「これは法律で定められている。この規則に違反した場合、神も罰するだろう。鄭様の考えは良いと思いますが、私たち学士は他人に悪いことをするように勧めることになります。これは君子の行いではありません」と辞任した。鄭氏はもともと善良で優しい性格だったが、二牛と曹寧はどちらも愚かな田舎者で、罪が重くなると聞いて恐ろしくなり、結婚を諦めた。その後、四宝は側室として役人候補に売られ、数カ月して病死した。三宝は何が起こったのかよく判らず、気が狂って飛び出し、どこで最後を向かえたか不明である。
 ある人は「四宝さんは脅迫されたように去り、化粧は崩れて泣き続けたし、実際に補欠役人と寝たわけではない。残念ながら詳細は分からない。」と語ったが、これが本当なら、この二人は天と地で必ず会うことが出来たと想うのである。そして決して永遠に別れを言うことはないであろう。ただ、厳某がそのような犯罪を犯したというだけで、彼の動機が何だったのか、そして彼の最終的な結末がどうなったのかは判らない。しかし、彼に良い報いが得られないことは明らかである。「厳某は古人の規範に固執しているわけでもなく、名声を求めているわけでもないが、四宝に対して理不尽な思いを抱いており、彼女を側室にしたいと思っていた。」という人もいた。まさに地獄はそんな者のために用意されているのである。

九、運河の幽霊

 乾隆三年、大運河の水深が浅くなり穀物輸送船が次々と座礁し航行不能になった。そこで神を崇拝する劇が上演され、穀物輸送の役人も出席した。『荆釵記』(南方劇。忠義な夫と貞淑な妻、そして生と死を通じた夫婦間の不滅の愛を称賛している。荆釵は荆・イバラの枝で作った髪止め・ヘアピン)で川に身を投げるシーンの演技中、妻の銭玉蓮 演じた女優は突然舞台にひざまずき、泣き出し叫んで、福建省の方言でナンナン…(ぶつぶつ言う)と言い続けた。それは何を言っているのか判らず、せりふを言えず、人々は彼女が幽霊に取り憑かれたことに気づき、どうしたのかと尋ねたが、幽霊は言葉が理解できなかった。誰かが筆と紙を投げると、字が読めないかのように首を振ったが、ただ空を指さして地面に絵を描き、首をひねって泣いた。誰もが女優を岸の上まで引き上げるしかなかった。それでも依然として泣き叫び、もがき、跳びはね続け、人々が解散するまで止まらなかった。
 しばらくすると徐々に意識が戻り、「突然両手で頭を抱えた女性が水の中から出てきた」と言った。それで恐怖のあまり体から魂が抜け出し、酔ったように意識が朦朧とし、その後何が起こったのかは覚えていないと言う。これは水中に取り残された幽霊に違いない。ここに集まっている役人を見て怨み言を言いに出て来たのだろう。しかし、そこにいた者たちには女の姿は見えず、女優の言葉も理解できなかった。泳ぎが得意な者たちを川に入れて遺体を探させたが、見つからなかった。水運の役人の中にも家族の女性が行方不明の者は無く、真相は判らなかった。当局者らは共同で嘆願書を書き、街神の神殿に送って焼却する以外に選択肢はなかった。四、五日後、船員が明確な理由もなく自殺した。おそらく彼はこの女性を殺害した犯人であり、最終的には神によって罰せられたのであろう!?

一〇、死んでも名声がほしい

 太守の鄭慎人は、「かつて何人かの友人が福建の人々が書いた詩について論議し、明代の詩人・林鴻の詩に非常に不満を述べていた」と語った。 夜中に寝た後、筆と硯のカタカタという音が聞こえたが、誰もがそれをネズミだと思っていた。 翌日、机の上を見ると二行の文字が書かれていた。「唐の時代の詩人・銭起や郎士元らは、『雨が降ると古池は暗く、星空の殿堂は開いている』のように、私の詩はすべて唐の詩の模倣だと言えますか?」 その時ともに寝ていた人々の筆跡は、机の上の文字と異なっていた。この人々を除いて、他の誰がこの文字を書くことができたのだろうか? それは文人が名声を競うのが当然で、死んでも止まらないことだと私は理解している。伝説によると、後漢時代の鄭玄は死後、名声を得るために幽霊になったと言うが、もしかしたら本当かも知れない。

一一、この世の涙

 黄小華が言った。「西城のある家で扶乩(フーチ―。神降ろし占い)を行い、乩仙(巫女)が神を降臨させ、その詩に言うには、「葉は西風に舞い、悲痛な花は色褪せ、雁が来るは稀なり。夕暮れ時、呉娘(呉地方の美女。古代の歌妓呉二娘のこと)の部屋は寒いのに、まだ綺麗な美白い苧麻の服を着ていた。」と。誰もが詩の意味が判らず当惑した、乩仙はさらにこう書いた。「私がある家の前を通りかかると、新しい側女が空き部屋に閉じ込められているのを見た。この娘の流転の人生は、当然のことながら彼女の運命である。しかし今、彼女は冷えて飢えている。本当に可哀想で、人を悲しくさせる。だから、私はこの詩で悲しみを詠みました。皆さんに言いたいのですが、嫉妬深い妻をなだめ、妻と側女の仲を円満にする能力がないのなら、側女を持ちたいなどと思わないでください。それは陰の徳を積むことだと考えられていることです。」 誰もが乩仙の名前を尋ねたが、書かれていた文字は「無塵」とあった。他のことについて尋ねても、答えは無かった。
 調べてみると、李無塵は明代後期の有名な歌姫で、河南の祥府出身。清軍が開封を占領した際、彼女は入水して死んだ。彼女には代々受け継がれてきた詩集があり、その作品に込められた言葉遣いは上品で清廉なものである。『哭王烈女・王烈女を哭す』という詩には、「涙を流すのは嫌いだ。この世には誰もいないとあえて言う!」という一節があり、この言葉遣いは適切であり、特に文人たちから賞賛されている。



  タチヨミ版はここまでとなります。


中国 明・清代 怪談 奇談 論談 閲微草堂筆記6

2024年8月23日 発行 初版

著  者:紀暁嵐著  渡邉義一郎訳
発  行:CAアーカイブ出版

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フリーの編集ジイさん。遺しておきたいコンテンツがあるので、電子出版したい。

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