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湖賊 ―アルソウムの双剣 三ー

加藤晃生

TRICKS




  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第一章 ウアラプエ

第二章 南へ

第三章 湖上の民

第四章 来襲

第五章 潜入

第六章 帰還

エピローグ

冬至

登場人物

スピルキ・ファイス 傭兵見習い。
イェビ=ジェミ・ガイリオル アルソウム連合王国最高の傭兵とされる人物。ファイスの師匠。特任大使付き武官としてウアラプエ国際会議に派遣される。
ウィルナ卿 アルソウム連合王国の大貴族。特任大使としてウアラプエ国際会議へと赴く。
イニシュア 謎の少女。

───────────────────────

第一章 ウアラプエ






 霧が湖の上をゆっくりと流れている。

 船は北からの風を受け、大ヤムスクロ湖の水面を静かに進んでいる。

 時おり聞こえる水音は船の後ろに生まれては消える渦か、それとも魚が跳ねでもしたか。

 後檣の前に吊るされた号鐘からは、カーン、カーンという音がひっきりなしに聞こえる。船首の左右には手空きの船員が総出で並び、船の周囲に目を凝らしていた。他の船との出合い頭の衝突を避けるためらしい。

 ファイスは船尾にある貴賓室の前に立ち、しかし特にやることもないので、窓の外を眺めていた。

 首都ゼルワを出発したのは三日前だ。連合王国の南西部の国境地帯に広がる大ヤムスクロ湖に出没する湖族の対策を話し合うための国際会議が開かれることになり、ファイスの師匠であるグアダムル一等騎士イェビ=ジェミ・ガイリオル卿は、湖賊問題特任全権大使バヤンティーグ=カインティ・ウィルナ卿の随従武官に選ばれたのである。

 ファイスはイェビ=ジェミの従者として、この公用旅行に付き従っている。傭兵見習いとなって初めての長期出張だ。だから興奮を押さえきれない。必要も無いのにしきりと腰の剣を確認してしまう。

 今回、特任大使に任命されたウィルナ卿という人物は、ファイスが詩学を習っているチェプサリという宮廷詩人によると、ここ数年間で一気に頭角を表してきた若手の官僚なのだそうだ。タンボラ親王家というちょっと変わった呼び名の家の跡取り息子で、五年前の大逆未遂事件で中央部が崩落したゼルワ大橋の再建工事を取り仕切り、鮮やかな手腕でこれを完成させたのだという。

 そのウィルナ卿から、わざわざのご指名で師匠のイェビ=ジェミのところに随従武官の仕事の依頼が届いた時の、曰く言い難い雰囲気をファイスは思い出した。

 師匠の妻であるブレイが経営する居酒屋「銀陽亭」に傭兵組合からの斡旋状が届くと、常連客たちは一斉に押し黙ってしまったのである。ただ一人、ブレイだけが、いつも通りの口調で呟いた。

「へえ、ウィルナ。懐かしい。元気にやってるんだね」

 客たちは無言でお互いの顔を見た。

 その時のことを、近所に住んでいる幼なじみのオトに話したところ、オトは呆れたような顔と声で言った。オトラルという旅の女神の名前を持つ少女なのだが、レオン通りや青物市場の人々はみな、昔からオトと呼んでいる。

「ちょっと、あんた知らないの? タンボラ親王家の若様が昔ブレイさんに言い寄ってたって、有名な話だよ」
「いや、全然知らなかった。むしろ何でオトがそれ知ってるのかが知りたいくらい」
「市場に出入りしてたらそんなの嫌でも耳に入って来るって」

 そう言ってオトは明るく笑った。

 ファイスとオトが知り合ったのは六年前、ファイスが八歳でオトが一〇歳の時である。オトのちょっとした捜し物をブレイとファイスで手伝ったのがきっかけだ。それ以来、オトはブレイに懐いてしまい、しょっちゅう銀陽亭に遊びに来るようになった。オトにとってブレイはちょっと年の離れたお姉さんのような存在なのだろう。ファイスにとっても、八歳違いのイェビ=ジェミの妻は、母親代わりということにはなっていたものの、どちらかと言えば年の離れた姉のような感覚だった。

 三年前からオトは母親と同じ計算職人の見習いになり、青物市場に出入りする商人や農民たちの帳簿付けをして働いている。銀陽亭の帳簿も最近はオトが付けているらしい。
 
「当時はブレイさんもまんざらでも無いみたいだったって言うんだけどね」
「本当かなあ?」
「さあ? ま、今となっちゃあ、ねえ」

 オトはけらけらと笑っている。初めて会った時には、こんなに笑う娘だとは思わなかった。どうも銀陽亭の常連たちの影響なのではないかという気がするが、笑わないよりは笑った方が良いのだろう。自分はどうにも上手く笑えないから、オトが少し羨ましい。

 小さい頃に父親と死に別れたという点では、二人は似た境遇である。

 自分は八歳の時に傭兵イェビ=ジェミとその妻ブレイに引き取られて、ゼルワで育てられた。二人と一緒に行こうと思った理由は、今となっては憶えていない。ただ、イェビ=ジェミはファイスにとっては常に英雄だった。イェビ=ジェミが華々しい活躍をして呼び売りに取り上げられるたびに、ファイスは誇らしい気分になった。そしてイェビ=ジェミはゼルワに来て一年後には大きな勲章を国王陛下から直々にもらい、一代限りではあるが貴族として扱われるグアダムル騎士団員に抜てきされ、「ガイリオル卿」と呼ばれるようになった。

 その後もイェビ=ジェミは毎年のように国務院や陸軍庁の大きな仕事をこなし、その名声は確固たるものとなっている。

 同じ家に住んでいる少年ブレイが、そんなイェビ=ジェミに憧れずにいるというのは、無理な話だった。近所の礼拝所が開いている読み書きの学校を一三歳で卒業すると、すぐにイェビ=ジェミへの弟子入りを直訴した。

 だが、イェビ=ジェミはいい顔をしなかった。

 というよりは、ファイスが傭兵になることに大反対した。

 ファイスの父、ルムディンはアルソウム陸軍チェレク連隊第八中隊の歩兵で、中隊長イェビ=ジェミの部下だった。父はイェビ=ジェミと一緒に北大陸のグディニャ君主国に遠征し、トゥーバの戦いと呼ばれる会戦で不運にも戦死した。イェビ=ジェミはそれをきっかけにチェレク連隊を辞めた。

 父親を死なせてしまった責任を感じて連隊を辞めたのに、その息子が兵士になる手助けをするというのでは、筋が通らない。

 本音では、一四歳と一五歳の二年間はファイスを予備校に通わせて、一六歳になったらどこかの大学に入れたかったようだ。

 ただし、イェビ=ジェミ自身はファイスと同じように一三歳までしか学校に通っていない。ブレイなどイェビ=ジェミと結婚だか婚約だかしてから初めて文字というものを見たという。

 一方、そのブレイが去年譲り受けた居酒屋「銀陽亭」は首都ゼルワでも有名な文士酒場で、常連の中には大学卒が珍しくなかった。そういう人々が近くにいるから、せめてファイスは大学へ、と考えたのだろうか。

 だが、ファイスは死んだ部下の息子であって、イェビ=ジェミの息子ではないのだ。予備校に行くにも金はかかるし、大学に行くならなおさら、金は必要である。

 ただの里子である自分にそこまでする必要は無いはずだ、というのがファイスの言い分だった。

 イェビ=ジェミは、それがどうしたというような顔でファイスに答えた。

「金ならある。お前の親父さんの遺産も預かってるし、俺も使い切れないくらいもらってる」

 こう言われてはお手上げだった。だがファイスは諦めない。

「お父さんの跡を継ぎたいんです」

 これならどうだという顔のファイスをちらりと見て、イェビ=ジェミは首を振った。

「お前のお母さんのリラさんと約束した。無事に一五歳まで育てて親父さんの遺産を渡す。傭兵は危ない。だからダメ」

 またしても引き下がることになった。

 ファイスとイェビ=ジェミの話し合いは毎晩のように続いた。

 居酒屋をブレイに譲って引退した先代の女将フラビアは、そんな二人を苦笑いしながら見ていたが、何も言わなかった。

 二人の論戦の仲裁役を買って出たのは、なんとブレイである。

 ある晩、いつものようにファイスが弟子入りを志願してイェビ=ジェミがのらりくらりと交わす様子を見ていたブレイは、夫に向かって言った。

「これだけ強情なんだから、禁止するんじゃなくて、一番良いやり方で教えるべきだと思うよ」

 普段あまり自分から話す方ではないブレイの言葉に、ファイスもイェビ=ジェミもフラビアも大いに驚いた。

 ブレイが言葉を続けた。

「自分はこれになりたいってものがはっきりしている人って、ほとんどいないと思う。私もフラビアになれって言われたから、この店の人になっただけ。最初はね。この店を継ごうって思うまで一年かかった。ガイも他になれるものがなかったから傭兵になったんだよね?」
「ああ、確かにそうだね」
「だから、なりたいものがはっきりしているだけで、宝物? 宝物みたいなものを持っているんだと思う。宝物というより、宝箱かな。宝箱を開けてみたら、思っていたのと違うものが出てきてがっかりするかもしれないけど」

 面白い喩えだなと、そのときファイスは思った。

 今のブレイは文字を読むことには不自由していない。だが、文字を書くのは苦手なようで、だからオトに帳簿付けを頼んでいるのだ。しかしその一方で、山に関するブレイの知識は尋常なものではない。イェビ=ジェミにちらりと聞いたところによると、本当に全ての山道を憶えているのだという。それ以上のことは教えてもらえなかったが、ともかくブレイがとても賢い女性であることは確かなのだ。

 ブレイは難しい言葉は使わない。

 誰でも使うような単純で素朴な言葉を、他の人たちとは違うやり方で使う。

 そうやって、他の人たちが言葉に出来なかったものを言葉に出来る人なのではないかとファイスは最近思っている。

 だから、首都の文人たちが毎晩集うこの店を託されたのだろうし、常連たちもブレイの言葉には一目置いているのだ。

「フラビアは前の人から教わったことを、フラビアが一番良いと思うやり方で私に教えてくれた。畑の見方とか、魚のさばき方とかね。だからガイも、一番良いと思うやり方で教えてみたら? このままだったらファイスは他のところに行って傭兵見習いになると思う」

 これで一気に形勢がひっくり返った。

 傭兵イェビ=ジェミは奥さんに甘い。傭兵イェビ=ジェミが唯一勝てないのが奥さんだ。そういう噂は首都の誰もが知っている。だが、ファイスの見てきたところでは、事情はもう少し複雑だ。

 この夫婦は、お互いに相手の方が自分より賢いと思っているのではないか。

 だから、ブレイが何かを言い始めたらイェビ=ジェミはそれを真剣に聞く。

 そして、大抵の場合はブレイの言うとおりにする。

 この時もそうだった。

 イェビ=ジェミは頭をかきながら店の天井を見上げ、やがて諦めたように言った。

「じゃあ、まあ、修行は取り敢えずして良いことにするよ。ただし……」

 イェビ=ジェミの緑色の瞳がファイスを睨んだ。

「勉強も続けること。ハルディン先生に古典を習う。これが条件だ」

 ハルディン先生は銀陽亭の常連で、古典文学の家庭教師をしている人だ。常連の中では珍しく、いつも穏やかに話す。実はそこそこ有名な人で、あちこちの大学からうちで教えてみないかという話が来ているらしいけれど、全部断ってゼルワでのんびりと暮らしている。噂では恋人の男性がゼルワを離れたがらないのだとか。

 ちなみにハルディン先生も男である。

 ファイスは無言でうなずいた。交換条件としては悪くなかった。

 ところが、このやり取りを聞いていたチェプサリが割って入った。

「おいおい、隊長。なんでハルディンだけなんだ? 私はどうなる?」
「どうなる、の意味がよくわかりませんが」
「ファイスを教えるなら私だろう、常識的に考えても」
「どういう常識ですか」
「私の常識だ」
「先生、それは常識とは言わないのでは」
「君、詩というものはこうやって生まれてゆくのだよ」
「先生、話がずれております」
「ともかくだ。私がファイスに詩学を教えてやろう。それで良いな?」

 イェビ=ジェミとチェプサリとブレイが一斉にファイスを見た。チェプサリ先生は一度言い出したら絶対にそうしてしまう人だ。素直に従っておくしかない。

 こうして、ファイスは傭兵イェビ=ジェミに加えてハルディンとチェプサリという二人の碩学の教えも受けるようになったのである。

 傭兵見習いの修行は翌日から始まった。

 最初は剣技の型からであったが、毎日そればかりをやるということは無く、銃の分解清掃や調整を教わる日もあれば、刃の研ぎ方を教わる日もあった。

 何を教えるのでもイェビ=ジェミのやり方は同じだ。

 最初に何故この知識や技術が必要なのかを說明する。

 剣技も型や動きや足さばきの一つ一つについても、これは打ち込みの威力を増すためだとか、これは疲れないようにするためだとか、これはこういう状況で攻撃を避けるためだといったように、必ず理由があった。

 イェビ=ジェミは、まずいやり方と上手いやり方を何度も交互にやって見せた。

「これが楽な振り方。こっちは疲れる振り方。違いは肘の位置と、手首の動き。肘はここまでは脇腹で支えておく。脇腹で支えておくと、肩に力を入れて肘を固定しないでも済む。ということは、何が違う?」
「肩に力を入れなくても同じ威力と速さで打ち込めるなら、疲れない、ということですか?」
「もう一つある。正面から俺の肘の位置を見てろ。これは肩で支える振り方」

 そう言ってイェビ=ジェミは数回、剣を振った。

「これは脇腹を使う振り方」

 さらに数回。

「違いは?」
「肩を使うと、毎回、肘の位置が違いました」
「ということは?」
「剣の狙いが定まらない、ということですか?」
「そうだ。脇腹で肘の位置を決めてしまえば、そこから先の剣の通り道は肘と手首の二ヶ所で決まる。肩で肘の位置を決めると、肩、肘、手首の三ヶ所だ。一度に三枚の皿を持つのと二枚の皿を持つのとでは、二枚の方が間違えないだろう?」
「たしかに……」
「だから、この型では脇腹を使う方が、楽に、正確に、剣先を狙った場所に送り込める。やってみろ」

 ファイスが何度か型をなぞる。イェビ=ジェミはその様子を静かに眺めてから、スッと手を伸ばしてファイスの姿勢を直す。そしてまた型を確かめる。それでも上手く型が出来ないときは、どこかの筋肉を鍛えてからとなる。

「難しいことはしなくて良いんだ」

 これがイェビ=ジェミの口癖になった。

「いくら決まった時にはかっこよくても、一〇回やって三回失敗するような技は使い途が無い。もしも実戦でその失敗の回が来れば、大怪我をするか、死ぬかだ。そんなものに自分の人生を預けるのは愚か者だ。剣技は基本だけを徹底的に練習しろ。実戦で使うのは基本が九割だ。難しい技を使うのは、失敗しても負けないくらい実力差がある相手だけにしろ」
「難しい技を使えないと倒せない敵が現れたらどうするんですか?」
「簡単だ。逃げる。一旦逃げて銃を取ってくるか、敵の一〇倍の仲間を集めてもう一度倒しに行くか。どちらも難しければ、闇討ちや不意打ちで倒せ。毒殺でも良い」
「毒殺ってどうやるんですか?」
「剣に毒を塗っておくんだ。これなら相手をちょこっと傷つけただけで倒せる」

 ファイスは驚いてイェビ=ジェミの顔を見たが、イェビ=ジェミの目は真剣そのものだった。

「どうかしたか?」
「想像していたのと、かなり違いますね」
「俺たちの仕事は依頼人を守ること、あるいは軍隊として勝つことだ。戦うことはその手段の一つだ。最後の手段だ。戦わなくても勝てるなら戦うべきではないし、戦わなくても守れるならその方が良い。視野を広く持て。こんなものは……」

 と言いながら、イェビ=ジェミは右手に持っていた練習用の剣を振った。

「ただの道具の一つだ。俺たちは道具を使うために仕事をするんじゃない。道具は雑に扱ってはだめだが、宝物でもない。必要なら捨てたって壊したって構わない。もっと大事なのは」

 そこでイェビ=ジェミは言葉を切った。

「何だかわかるか?」

「仕事を成功させることですか?」
「それは二番目だ。一番大事なのは、自分が生き残ること。そして治らないような大怪我をしないこと。仕事の成功はその次。一番どうでも良いのが……」
「道具ですね」
「そうだ」

 傭兵としての基本的な技術や知識を一通り教わったところで、ファイスはイェビ=ジェミの従者として仕事に同行させてもらうようになった。入門してからは半年ほど経っていた。

 といっても、一日やせいぜい二日で終わるような、ゼルワ市内や近郊での護衛の仕事である。天下に勇名の轟いた傭兵イェビ=ジェミにわざわざ手を出して危ない橋を渡ろうという盗賊などいるわけもなく、至って平穏な仕事ばかりであった。

 しかし、そんな仕事でもイェビ=ジェミは手抜きというものを一切許さなかった。

 一つでも事前に指示された手順を守っていないと、その場でやり直しだ。

 何故そこまで細かいところにこだわるのかも、イェビ=ジェミはファイスに説明した。

「全ては怪我しないため、生き残るためだ。一つ手を抜けば死ぬのが一年早くなると思っておけ」
「そんなに違いますか?」
「違う。自分一人でやっているとわからないだろう?」
「はい、よくわからないです」
「他の連中がいっぱいいるところに行くと、驚くぞ。みんな、びっくりするくらい適当で雑で基本をおろそかにする。そういうところでは、手抜きをするしないで生き残れるかどうかが全く違う」

 そんなものだろうかとファイスは思った。なにしろそういう場に出ていったことが無いから、イェビ=ジェミの言うことが頭ではわかっても実感は出来ない。

 もやもやとした気分でチェプサリの家に詩学の勉強に行ったファイスに、宮廷詩人は真顔で語りかけた。

「なあ、ファイス、隊長はチェレク連隊で史上最年少で中隊長になったそうだ。で、それを一年で辞めてゼルワに来た。そんでもってゼルワに来て一年後にはディオラII世橋建設事業の警備を仕切って、なんとなんとグアダムル一等勲爵士だ。准貴族さまだ。マンガルメの田舎の異民族の漁師の次男が、だぞ」
「すごいですよね」
「一度だけなら運が良かっただけかもしれんよ。だが場所を変えてもう一度試してみて、また大成功したなら、そいつは本物だよ。私はチェレク大学で教えていたときに、あそこの連隊長のバジェ卿の晩餐会に呼ばれたことがあってな」

 チェプサリは黒い液体をすすった。北大陸から最近輸入されるようになったという、何かの種を炒って入れた茶のようなものだ。

「イェビ=ジェミというのはどんな兵隊だったか尋ねたら、とにかく教えるのが上手い奴だったと。その一番弟子だ。お前は運が良い」

 チェプサリの言うことには、なるほどと思わされた。この時から、ファイスはイェビ=ジェミの言う通り、決められた手順を厳守するようになった。

 こうして入門から一年が過ぎ、小さな仕事に数十回も同行したところで、イェビ=ジェミはようやく、「大きな仕事」への同行を許可したのである。それが今回の、国際会議に出席する特任大使の護衛という仕事であった。

 号鐘の音はいつ終わるとも知れない。

 さすがにあの音にも飽きてきたのだが、ここは船の上だ。逃げようが無い。

 ファイスの向かいの壁に背中をもたせかけていた傭兵が、短剣をもてあそびながら呟いた。

「さすがにあれ、うるさいよな」

 返事をする者はいない。

 この傭兵はウェスカという。イェビ=ジェミと同じくゼルワの傭兵組合に所属する傭兵だ。イェビ=ジェミとは五年前のディオラII世橋開通記念式典の警備の仕事で知りあったのだとか。

 今回、イェビ=ジェミはファイスの他に旧知の傭兵を二人、連れてきていた。一人はウェスカ、もう一人はグリアットという肌の黒い男だ。北大陸の出身だそうで、チェレク連隊のグディニャ遠征に参加した後、南大陸に渡ってきて傭兵として開業したと聞いた。

 グリアットは夜中の護衛の仕事を終え、今は船のどこかで寝ているはずである。

 特任大使ウィルナ卿の使節団に加わっているのは、この他に書記官が三人と料理人が一人、ウィルナ卿の召使いが一人。ファイスやイェビ=ジェミを合わせると一〇人にもなる。なかなかの大所帯であったが、イェビ=ジェミの話では「この手の使節団としてはびっくりするくらい少ない」のだそうだ。

「大使閣下はごちゃごちゃしたのが嫌いな人だからね、昔から」

 それを聞いたファイスは、おやっと思った。

 オトが言っているように、ウィルナ卿が以前にイェビ=ジェミの妻に言い寄っていたのであれば、イェビ=ジェミ本人にはあまり近づかなかったのではないかと想像していたのだ。だが、イェビ=ジェミの口調はいかにも、昔からよく知っている相手という響きである。

 大人の世界は複雑なんだな。

 そう思っておくしかないか。

 使節団は八月二四日の六祖大祭の翌日にゼルワ港を出てカルシ川を下り、八月二六日には大ヤムスクロ湖の北端にある自治都市コトバイに入った。翌二七日に王室が所有する武装帆船に乗り込んでコトバイ港を出港。

 予定では今日、二八日の昼前には国際会議が開かれるウアラプエの港に入る予定であったが、夜明けとともに湖上に濃い霧が発生したため、船は大幅に速度を落として航行している。

 使節団が乗り込んでいるのは、コトバイ港を母港とするアルソウム陸軍コトバイ水上連隊の軍艦だった。この連隊の歴史は古く、連合王国建国直後、連隊という制度が出来た時に最初に設立された連隊の一つだという。海軍の創設より五〇年以上も前だ。海軍が陸軍から分かれて独立した時には、大ヤムスクロ湖に展開する水上部隊も海軍に移管してはという声もあったそうだが、歴史ある水上連隊が新設の海軍になど行けるかという反発が大きく、立ち消えとなった。

 今では海軍は巨大な戦艦や巡洋艦を大量に保有し、中央海で並ぶもののない戦力と存在感を誇っている。

 それに比べると、コトバイ水上連隊の軍艦は少々見劣りするらしい。

 イェビ=ジェミによると、チェレク連隊がラファル島から北大陸のイグリム港に渡った時に護衛についていた戦艦は、この船の三倍くらいの大きさがあるのだとか。ファイスはその姿を想像してみようとしたが、無理だった。

 霧は九時頃にはすっかり消え、ファイスとウェスカを悩ませていた号鐘も鳴り止んだ。舷側に並んで見張りをしていた水夫たちも、下の甲板へと消えていった。せめてもう一眠り、ということか湖上には夏の太陽が光の環を幾つも作っている。

 見張りの水夫たちに代わって現れたのは、特任大使閣下だった。

 船尾楼の中に用意された貴賓室から出てきたウィルナ卿は、すたすたと上甲板を通り抜けて船首楼へと上って行った。イェビ=ジェミが後に続く。イェビ=ジェミの従者という立場のファイスも、慌てて二人の後を追った。

 ウィルナ卿は左舷の一番前まで行って立ち止り、舷側に掴まって大ヤムスクロ湖の風景を眺めていた。一歩下ったところにイェビ=ジェミが立っている。船は若干左に傾いているが、イェビ=ジェミは特に気にした様子もなく、何にも掴まらずに真っ直ぐ立っている。ファイスも真似をしてみたが、船が揺れるとどうしてもふらついてしまうのだ。

 やはり、師匠はただ者ではない。

 大ヤムスクロ湖の湖上には、巨大な三角の一枚帆を上げた船が数え切れないほど浮かんでいた。東にはなだらかな緑色の丘が、遥か彼方に見える壮麗な山々の頂きまで、どこまでもどこまでも連なって見えている。ファイスは西に目をやった。見えるのは水と空だけだ。

 ウィルナ卿の声が聞こえた。

「どう思う? ガイリオル卿。それともイェビ=ジェミ隊長と呼んだ方が良いかな?」
「どちらでもお好きな方で」
「じゃあ有名な方でイェビ=ジェミ隊長と呼ばせてもらいます。で、どうですかね、隊長の見た感じ。コトバイ水上連隊は」

 イェビ=ジェミはしばらく考えてから答えた。

「思っていたよりもずっと普通でした」
「普通とは、どういうこと?」
「私はチェレク連隊やダナエ連隊はよく知っていますし、海軍もキュシェル艦隊やラファル艦隊は何度も乗せてもらったので、何となく雰囲気はわかります」
「たしかトゥーバの戦いではキュシェル艦隊の海兵隊も出てたよね」
「よくご存じですね。海兵隊が艦隊の大砲を持ってトゥーバまで来ていました。ですから、一緒に陸戦をやったこともあります。その感じで言うと、海軍とか海兵隊と陸軍では雰囲気が全然違います。一言で言うと、海軍の方が理屈っぽい」

 ウィルナが笑った。

「理屈っぽい! それはどういうこと?」
「連中は海の上が仕事場なので、きちんと考えてやらないとすぐに人が死にますし、大砲の弾を当てるのも、敵の船より有利な位置を取るのも、全部、理屈なんでしょうね。だからかなり細かいところまで考えて仕事をしているなと思いました。陸軍は大雑把ですね。大砲も敵がいっぱいいる方向に向かって水平撃ちすれば当たりますしね」
「じゃあ、水上連隊は?」
「どちらかと言えば陸軍っぽいですね。のんびりしているように感じます。おおらかというか。それが悪いというわけではないと思いますが」
「でも、あんまりのんびりしててもらっても困るんだけどな。湖賊の被害がちっとも減らないじゃないかって、問題視されててね。国務院だけじゃなく、国会でも」

 イェビ=ジェミは無言だ。政治の話は自分には無関係ということなのかなとファイスは考えた。

 ウィルナ卿は気にした風も無く、話を続けた。

「でまあ、国会の皆さんを納得させられるだけの対策を考えて来いというのが、僕の仕事の一つなんですよ。今回」

 そこまで言ったところでウィルナ卿が振り向く。

「随従武官に隊長さん、ガイリオル卿をお呼びしたのも、首都にいる軍人の中で一番、戦場に詳しそうだったからなんです。どうでしょう? このままコトバイ水上連隊に任せておいて大丈夫なんですかね? 軍艦を増やすとか、兵士を増やすとかという話になると、まずは予算を組んで通してということになるし、予算審議の時に色々と説明しなきゃいけないから」
「そうですね……湖賊という連中がどうやって商売をしているのか、それを見てみないことには何ともいえないのですが……一つ言えるとすれば、こういう軍艦はもしかしたら向いていないのかもしれないなと」
「向いてないの?」
「もしかしたら、ですけれども。この船は海軍が使っている四〇門級の標準型巡洋艦に似た造りですが、これは基本的には砲戦のための船です。でも、今まで見たところでは、この湖でこんな大きな船はいないですね。湖賊が使うのもあんな船だとしたら」

 イェビ=ジェミは湖上を無数に走っている小さな帆船を指さした。

「……大砲を当てるのも難しいでしょう。的が小さすぎるし、小回りが利くし、足も速い」
「でも、海軍はもっと大きな戦艦を使ってますよね? 八〇門級の」
「ああいう小さい船では中央海を超えられないんですよ。波が凄いですからね、海は。ああいう船はあまり陸から離れられない。だから岸の近くをウロウロしていない限りは、ああいうのは気にする必要がありません。昔のヤファイ海賊はあれくらいの船で中央海を越えてアバルサやマンガルメを襲っていたそうですが、今は海賊の船もそれなりに大きいですから、砲戦で勝てるんです」
「ああ、なるほど!」
「この船は、どこかの港町を攻め落とすには良いと思いますが……それに、中央海では商船も船団を組んでいくので、守りやすいですね。船団の一番前と一番後ろに巡洋艦が付きます。でも、こちらの商船はそういう対策をしているようにも見えません。単独行動なら湖賊も襲いやすいでしょう」
「隊長さんだったらどうします?」
「私だったら、とはどういう意味ですか?」
「隊長さんがコトバイ水上連隊の連隊長だったら、という意味ですよ」

 ファイスからイェビ=ジェミの表情は見えなかったが、きっと困っているのだろうなと思った。一方のウィルナ卿は妙に楽しそうだ。

「私は中隊長までしかやったことがありませんから、連隊長だったらという仮定では考えたことも無いですよ」
「それは嘘でしょう」

 ウィルナ卿は笑顔で首を振った。

「チェレク連隊の連隊長からもいずれ連隊を譲ると言われている。そう聞いてますよ。大丈夫です。仮に表に出すにしても私の意見ということにしますから。ここだけの話ということで」

 さすがは若手貴族の中でも切れ者とされる人物だ。あっという間にイェビ=ジェミの外堀から内堀へと埋めてゆく。イェビ=ジェミが頭を掻いている。困ったときによくやる仕草だ。

 それからイェビ=ジェミは空を見上げ、最後に諦めたように背中で両手を組んだ。
「すぐにやれそうなのは、商船を船団にして運行計画を出してもらうこと、それに合わせて護衛の船を付けること。あとは小回りの利く手漕ぎの船を増やすことですかね。普段は空にしてこの船で引っ張っておくので良いから、湖賊が現れたら兵士たちをすぐに手漕ぎ舟に乗せて展開させる。湖賊だってわざわざ巡洋艦には乗り込んで来ないでしょうから」
「なるほどなるほど」
「ただ、一番大事なのは、湖賊についてもっと人とお金を使って調べることです。チェレク連隊にはヴァンカレム殿という参謀将校がおりましたが、あの人は敵のことを徹底的に調べ上げていました。湖賊は普段どこにいるのか、どんな連中が湖賊を始めたのか、そういったことを徹底的に調べる。それからでしょう」
「湖賊を始めたとはどういう意味ですか?」
「湖賊の被害が増え始めたのは四年前でしたね」
「そう、四年前から激増した。報告が上がっているだけでも前の年の五倍以上」
「では、五年前以前から湖賊をやっていた連中だけで、五倍もの襲撃をやれるのかと考えると、たぶん、四年前以降に湖賊に参加した連中が沢山いるはずです。そいつらは五年前には何をやっていたのか。これが気になるんです」
「ああ、たしかに言われてみれば!」
「ただですね、こういうことを上からやれと言っても、上手くいきません」

 イェビ=ジェミの口調が少し変わった。遠回しにではあるが、年下の若い高級官僚をたしなめるような響きがある。

「連隊は会社のようなもので、参謀も中隊長も兵士も連隊長に雇われています。連隊ごとに意地や誇りもあります。伝統もあります。ですから、仮に陸軍庁や陸軍大臣閣下から、こうしろという形で命令を出したとして、連隊長はわかりましたと言うでしょうけれども、参謀や中隊長はやるとしても形だけ、もしかしたら反発して今までのやり方に拘り続けるかもしれません。現場のことを何も知らないくせに、と」
「うーん、難しいものですね」

 ウィルナ卿の表情が曇った。

「かと言って、水上連隊は水上連隊で特殊な部隊ですから、近所にいる別の連隊と配置替えをしてしまうわけにもいかない。あり得るとすれば、新しく湖賊対策を専門にする水上連隊を新設してしまう、というやり方くらいでしょう。それでもコトバイ水上連隊から見ると顔を潰されるわけですから、面白くは無いでしょうけどね」
「なるほど。ちなみにガイリオル卿殿はその新設連隊の連隊長になる気は……」
「無いです! ありませんよ!」

 イェビ=ジェミは大慌てで否定した。

「妻に怒られます。いつも働き過ぎだと言われていて……今回の出張も、なるべく早く帰るからって言ってどうにか許してもらったんですよ!」
「ああ、ブレイさん。あれ以来お会いしていませんが、お元気ですか?」

 あれ以来とは、いつのことなのだろうか?

 心なしか、ウィルナ卿の表情が寂しそうに見えた。

 イェビ=ジェミはそれに気付いているのだろうか? ファイスの居る場所から師匠の表情はわからない。

「はい。娘がまだ小さいので手がかかりますけれども、先代の女将さんや近所の子が手伝ってくれているので、お店の方もなんとか」
「お酒はたまに届けてもらってるんですけどね」
「最近は色々なお客さんが来ますよ。多いのは、山の兄弟だったって人たちですね」
「そうですよね、パルセノイの娘殿だから」

 パルセノイの娘とは、「山の兄弟」を名乗る人々の中の、巫女のようなものらしい。山の兄弟はその名前の通り、アルソウム各地の低山の中に住んでいる人々だ。ハルディン先生によると、大昔に今のクンビア大公国のどこかにあった小国の王族とその家来たちの末裔なのだそうだ。

 ということは、ブレイは世が世なら姫君ということなのだろうか? ファイスは詳しいことを教えてもらっていない。しかし、店にやってくる「山の兄弟」たちの振る舞いから察するに、当たらずとも遠からずというところのように思える。

「そういう場所を作りたかったらしいですよ。妻は。山の兄弟についてもっとゼルワの人たちに知ってもらいたいし、山の兄弟だった人たちが集まれる場所が必要だと思うと言って。ゼルワ大橋の大逆事件の後くらいから、俄然やる気になって。山の兄弟風の料理を出したり、山の話をする日を作ったり、歌を歌う日を作ったり……してますね」
「それは素晴らしい!」

 ウィルナ卿は嬉しそうに笑った。

「我がタンボラ親王家としても、協力させていただかなければいけないですね」
「ゼルワに戻りましたら、是非、店の方にいらしてください」
「そうします。是非。父も連れて伺いますよ」

 その時、上甲板の方から掌帆長の大声が響いた。

「縮帆用~意」

 水夫たちが一斉に三本の帆柱に上り始める。主檣(メインマスト)の前の絞車(キャプスタン)の周囲にも水夫たちが集まっている。飛び交う水夫たちの掛け声で、船上は俄に祭りのような騒ぎになった。イェビ=ジェミとウィルナ卿は会話を止め、少しまぶしそうに帆柱を見上げている。

 不思議な二人だ。

 オトの話が本当ならば、いや、多分本当なのだろうが、この二人はかつて一人の女性を取り合った仲のはずである。だが、ウィルナ卿は自分のこれからの出世がかかっているであろう大仕事の相棒に、わざわざイェビ=ジェミを指名した。そしてイェビ=ジェミの意見をじっくりと聞き、取り入れようとしているように見える。軍人としてのイェビ=ジェミを高く評価していることは間違いない。

 一方のイェビ=ジェミもわざわざ愛妻を説得してまで、この仕事に付き合っている。もとより出世には何の興味も持っていないイェビ=ジェミだから、大貴族に取り入ってどうこうということは考えていないだろう。それに、仕事はいくらでも選べる立場だ。ファイスが知る限りでは、この相手ならと見定めた仕事しかイェビ=ジェミは請けない。

 ということは、イェビ=ジェミもウィルナ卿のことを認めているのか。

 ファイスの全身を、痺れるような感覚が貫いた。

 ファイスはまだ一四歳だ。そして傭兵見習いになって一年。将来の自分の姿など想像も出来ない。

 だが、おぼつかないながら自負のようなものもある。

 いつかはイェビ=ジェミのような名声轟く軍人として連隊長や将軍の椅子に座りたい。

 あるいはチェプサリやウィルナ卿のように、アルソウム宮廷にこの人ありと知られる有名人となりたい。

 マンガルメ王国の田舎も田舎、峠を超えれば向こうは隣国というような山の中の小作人の息子である自分だが、同じような境遇から出発したイェビ=ジェミは今や准貴族なのだ。ならば、そのイェビ=ジェミの一番弟子である自分が同じ場所までたどり着けない理由は無い。

 この旅は、その野望への第一歩だ。

 目に入る全てのものを見逃さず、耳に入る全てのものを聞き逃さず。

 ファイスは左右の拳を握りしめた。


 ウアラプエは大ヤムスクロ湖の東岸にある幾つかの港湾都市の中でも、飛び抜けて大きな町だ。湖の北端から三分の一、南端からは三分の二ほどのところ、ちょうどエマオ王国とヤムスクロ王国の国境に位置している。南から来た船はここで貨物を下ろし、南行きの貨物を積んで帰ってゆく。北から来た船も、ほとんどはここで引き返す。ウアラプエより南から来た貨物は一旦はウアラプエの倉庫に入り、北行きの船に再度積み込まれることになる。

 更に、この町の真ん中を東側の南方山地から流れ下るウアラプエ川が通っており、しかも港を出て真っ直ぐ西に向かえば一日で大ヤムスクロ湖の対岸に着く。

 つまり、この町は大ヤムスクロ湖の水上交通の中心地なのだ。

 現在、この町はエマオ王国の支配下にある。

 エマオ王国はアルソウム連合王国の南西部で国境を接する国で、面積はアルソウム連合王国より少し大きい。人口は一二〇〇万人をやや越えるほどではないかと言われている。王宮は大ヤムスクロ湖の南端からカルセイ川を五〇里ほど下ったところにあるウェトラという町に置かれている。

 大ヤムスクロ湖南部からウェトラにかけてのカルセイ川沿いの地域は、およそ二〇〇〇年前に南大陸の中央部に強固な交易網を作り上げて栄えた「帝国」と呼ばれる人々の故地である。古代から先進的な文明が栄えただけあって、この地域は土壌が豊かで作物が豊富に実り、かつては鉄や銅や錫も豊富に産出していた。

 言葉はアルソウム語と似ている部分も多い。だが、似ていない部分も多い。

 ファイスがハルディンに聞いたところによると、一二〇〇年前にアルソウム族が東からやって来る以前には、現在のアルソウム地方にもエマオ族が多く住み着いていたのだという。

 だから、現在のアルソウム語は大昔のアルソウム族の言葉とエマオ族の言葉が混じり合っているのだ。

 また、「帝国」の人々が公用語として使っていたのもエマオ語だったから、今でもアルソウムの学者や法律家はエマオ語を学ばざるをえないし、もとより似ている言葉なのだから、大した苦労もなくエマオ語を読み書きしたり話したり出来るようになるのだとか。

 エマオ王国とヤムスクロ王国の間では、かつて熾烈なウアラプエの争奪戦が繰り広げられた。ヤムスクロ王国は三度、エマオ王国からウアラプエ市を奪い、三度、エマオ王国に奪い返された。その度にウアラプエの町は戦場となり、多くの富と人命が失われた。

 そこまでして両国がこの町を求めたのは、この町を支配することで得られる莫大な税収が魅力的過ぎたためである。

 だから帝国暦一四一八年にクルサ・カルム一世がアバルサ王国とクンビア大公国の冠選挙に勝って「アルソウムの六冠の主」となると、エマオ王国は顔面蒼白となった。今やヤムスクロ王国は背後を気にすることなく、ウアラプエ攻略のために大軍を南に差し向けることが可能となったからである。しかもエマオ王国軍は二〇年前、この男が率いたヤムスクロ王国軍に手酷い敗北を喫している。

 実際、今度こそ永久的にウアラプエをアルソウム族の町にせよという声も、連合王国の中では小さくなかった。今から一三八年前のことである。

 だが、連合王国建国を成し遂げた大王クルサ・カルムもその寵臣ベティエ公伯爵も、ただでさえ多忙を極める中、南の大国との戦争を始めるほどの気力は持ち合わせていなかった。もともと、あまり戦争をしたがらないというクルサ家の家風も影響したかもしれない。

 ただちに、ありとあらゆる伝手を使っての外交交渉が両国間で行われた。

 両国とも長年の経験から、ウアラプエは取っても必ず取り返される町だということは痛感している。川が湖に流れ込む場所にいつの間にか出来ていた町だから、守るということをあまり考えずに町の形が決まっているのだ。

 もちろん、莫大な戦力を常に張り付けておけば守れないわけではない。だが、軍隊はとかく金がかかるから、せっかくの税収が溶けて流れて消えてしまう。軍隊の維持費がしんどくなってきて、数を減らしたり給料の遅配や未配が起こった頃に相手国の懐具合が良くなって、取り返される。

 ウアラプエ市の歴史を見ると、この繰り返しである。

 それでは本末転倒だ。

 二年間に渡る交渉の結果出来上がった合意は、そのまま町の名前を取って「ウアラプエ条約」と呼ばれている。ただし文書で書くときは「一四二〇年のウアラプエ条約」とするのだ、ということもハルディン先生に習った。他にも幾つか「ウアラプエ条約」があるからなんだとか。別の町でやれよ、とその時のファイスは思った。

 さて、この合意の結果、アルソウム族はウアラプエ市内に租界と呼ばれる自治区を持つこと、租界の中から出さない限りはウアラプエでの貨物の積替えや通過には関税がかからないこととなった。その代わり、アルソウム租界はエマオ王国に対して借地料や港湾使用料を払う。

 もちろん、租界の外に出せば関税はかかるから、アルソウム連合王国からエマオ王国に何かを持ち込んで売れば、その時は関税を払わなければならない。

 エマオ王国からアルソウム租界を経由してアルソウム本国に商品を持ち込んだ時も同様だ。アルソウム連合王国に対して定められた関税を支払うことになる。

 では、この租界は何の役に立つのか。

 バツェ王国とアルソウム連合王国との間の貿易への関税がかからなくなったのである。

 それまではバツェ王国から貨物を積み出した場合、ウアラプエで一旦はエマオ王国に入り、そこから改めてアルソウム連合王国へと運ばれていた。つまり関税が二重にかかっていたのだ。逆も然りで、アルソウムからバツェに何かを輸出する際にも、エマオとバツェで二回の通関があった。

 ウアラプエ港を経由せずにアルソウム連合王国から直接バツェ王国に輸出することも理屈では出来なくも無かったが、アルソウム側の積出港であるコトバイからバツェ王国の主要港であるパラートまで一気に行くのは、それまで大ヤムスクロ湖で使われていた商船では難しい。商品を一切積まなければ無寄港で行けるのだが、それでは何をしに行くのかわからない。

 かと言ってコトバイとパラートを直結出来るような大型商船は作るにも動かすにも費用がかかる上、当時の大ヤムスクロ湖周辺の造船技術や航海術では対応出来ないものであった。アルソウム連合王国が海軍を創設したのは一四五〇年のことであり、その実力が中央海最強とされるようになったのは一五〇〇年を過ぎてからである。一四二〇年というのは、手漕ぎの小さな帆船で中央海を越えてくるヤファイ海賊にアルソウム族の軍隊が海上では手も足も出なかった時代なのだ。

 ウアラプエでの関税と通関費用の解消は、ヤムスクロ王国の商人たちにとっては悲願だった。




 使節団の乗った軍艦はゆっくりとウアラプエの町に近づいている。

 アルソウム租界はウアラプエ川の左岸にあった。言い換えると、ウアラプエの町の南側である。つまり、アルソウム租界がなし崩しにアルソウム連合王国の領土と繋がってしまわないように、わざわざアルソウム連合王国の領土から一番遠い場所に作られているのだ。

 軍艦の主檣には三頭金竜のアルソウム王室旗、六槍征旗と呼ばれるアルソウム陸軍旗、そして特任大使バヤンティーグ=カインティ・ウィルナ卿の家紋である梅花・谷の盾紋が掲げられている。梅花はアルソウム族の六祖筆頭である族長アバルサを、谷はバヤンティーグ=カインティ家の領地であるタンボラ地方を表すのだという。

 河口の先端にある砦から、砲声が鳴り響いた。立て続けに一〇回。

 ファイスはびくりとした。周囲を見回す。だが、驚いているのはファイスだけのようだ。グリアットもウェスカもイェビ=ジェミも、笑いながら砦に向かって拍手をしている。

 その直後、ファイスの立っている上甲板の真下の砲列甲板から轟音が鳴り響いた。こちらも一〇発だ。それを聞いたグリアットとウェスカが囃し立てる。

「うーん、いまいちだなあ」
「あっちのが上手いじゃねえか」
「修行が足らん、修行が」

 それが聞こえたのか、砲列甲板からも「おい上! うるせーぞ」「向こうに気をつかってやってんだよ」「雅ってもんがわからねえのかよ田舎もんが」などと言い返すダミ声が上がる。

 ファイスはそっとイェビ=ジェミに近寄って尋ねた。

「あの、何をやってるんですか、これは?」
「礼砲だよ。上を見ろ」

 イェビ=ジェミはウィルナ卿の家紋の入った旗を指差した。

「特任大使閣下の旗があるだろう。あれを見てエマオの守備隊が空砲を撃ってみせたんだ」
「空砲、なんですか?」
「弾が入ってたら水柱が上がるはずだろう?」
「ああ、本当だ」
「あれは、空砲を撃つことで、しばらく大砲は撃てませんから安心して入港してくださいって言ってるのさ。大砲は一回撃ったら次に撃てるようになるまで時間がかかるからな」
「それでこの船もお返しに空砲を撃ったわけですね」
「そういうことだ。ま、向こうの方が空砲の間隔が揃ってたけどな」

 イェビ=ジェミはそう言って小さく笑った。

 その間にも掌帆長からの号令は休みなく飛び続け、帆桁に取り付いた水夫たちが少しずつ帆を畳んでいる。

 港の真ん中辺りまで来たところで「投錨!」という大声が上がり、船首から大きな錨が海中に投げ込まれた。三つほど数えたところで船が何かに引っかかるような衝撃が走り、船体が船首を中心にしてゆっくりと左に旋回を始める。バーンという音が頭上から聞こえた。見ると、最後まで張られていた帆が裏返しになっている。

 船は、港の出口に船首を向けて停止した。

「操船は結構上手いな」

 イェビ=ジェミが小声で呟くのが聞こえた。

 使節団が投宿したのは、租界の中にある大手商社の社屋の別館であった。キュレム商会というのが会社の名前らしい。ここは普段から迎賓館として使われているそうで、最上階の貴賓室からは港が一望出来る。室内も特任大使に相応しい贅沢な作りで、家具類もファイスが見たこともないような美しいものばかりであった。チェプサリの家にあるものも相当に豪華なはずだが、ここは更にその上だ。

 ウィルナ卿が巨大な書き物机の天板を撫でながら苦笑いを浮かべた。

「これは凄いね。うちにだってこんなものは無いよ」

 特任大使は誰に言うでもなく続ける。

「うちもまあまあ大きな家だと思うけどね。こんな見事な木目の欅に、この仕上げ。宝石みたいだな。象嵌もこれ……うわあ、正気か? こんな小さいのに人の顔がわかる」

 大使は、やはり絢爛豪華としか言いようのない毛織物で張られた長椅子にどすんと座り、天を仰いだ。

「やっぱりこれからは商売だよなあ稼ぐなら。役人とか貴族なんてやってる場合じゃないなあ」


 その晩は、アルソウム租界の顔役たちによる特任大使の歓迎の晩餐会だった。

 会場は宿舎となっているキュレム商会別館の二階の大食堂である。主催はウアラプエ租界参事会長という人で、銀行を経営しているのだとか。招待されているのはウィルナ卿と随従武官のイェビ=ジェミの二人だけだったので、ファイスはこの旅に出てから初めて、自由な時間らしきものを手に入れることが出来た。

 とはいうものの、ウェスカやグリアットのように、町の酒場やら娼館やらに繰り出すほどの金も持っていないし、そもそもそういうものにはまだあまり興味が無い。興味がまったく無いわけではないのだが、気後れするといった感じだ。

 いそいそと夜の街に消えてゆく傭兵たちを見送り、ファイスは特にあてがあるわけでもなく、歩きだした。実は、夜の街を一人でうろつくのも、これが初めてである。

 八歳まではマンガルメ王国とブレニ王国の境にある山村で暮らしていたから、街などというものが無かった。うかつに夜に外をうろつくと、狼や野犬に襲われかねない土地だった。

 九歳からはゼルワの下町で育った。夜はブレイと一緒に銀陽亭を手伝うのがファイスの日課だった。やれと言われていたわけではないが、店の隅に座って空いた皿を下げたり、料理を運んだりしていれば、常連客たちがおすそ分けだと言って食べ物を一口、あるいはそれ以上分けてくれたし、店に集まるのは学問や文学に一家言ある人々ばかりだったから、話しているだけでも勉強になった。

 一〇歳の時、イェビ=ジェミとブレイの間に長女のカプドレが生まれてからは、なかなかブレイが店に立つことが難しくなったから、銀陽亭の手伝いは更に忙しくなった。ブレイもオトやイェビ=ジェミに子守りを任せて店に顔を出したりはしていたのだが、カプドレが泣き出すとブレイが授乳に行かなくては収まらないということも多々あった。

 そう考えてみると、今夜は記念すべき夜なのかもしれない。

 ファイスは迎賓館の前の道をぶらぶらと、ウェスカやグリアットとは逆の方向に歩いていった。この辺りは銀行や商社の建物が立ち並んでおり、夜はあまり明るくない。だがマンガルメの山奥で育ったファイスにとっては十分な明るさだった。

 時おり、紙の中にロウソクを灯したものを持った人とすれ違う。ゼルワでは見かけない照明だったが、ウアラプエでは珍しくないようだ。

 二つ目の十字路に差し掛かったところでファイスは左右を見た。右はすぐに港だ。黒々とした湖水の上に陸軍の軍艦がうずくまるようにして浮いているのが見える。船上には幾つかの明かりも灯っていた。船に残っている兵士たちもいるのだろう。

 つぎにファイスは左を見た。

 一つ、二つ、三つ。三つ先の十字路の辺りが明るい。あの辺に食堂や居酒屋が集まっているのだろう。ファイスはそちらに足を向けた。港町を吹き抜けてきた夜風が顔をくすぐる。それだけでも何かわくわくしてくるのが不思議だ。大人というのはいつもこんな気分のものなのだろうか。

 ファイスの懐には銀貨が五枚あった。

 銀陽亭を出る時にブレイが餞別として持たせてくれたのが銀貨二枚。先代の店主のフラビアから一枚。そしてイェビ=ジェミが先程くれた小遣いが二枚。

 実は、結構な大金である。

 ゼルワの庶民の一週間分の稼ぎと同じくらいか。

 普通、傭兵見習いはこんな金は持っていない。傭兵見習に限らず、職人の見習いは給料をもらえない。その代わり、修行期間中の衣食住は全て親方が責任を持つ。たまに銅貨数枚の小遣いをもらえるかどうか。そんなものだ。銀貨など修行期間中はまずもって拝めるものではない。たまに画家や音楽家で神才と呼ばれるような人物が現れて、修行期間中から作品が高い値段で売れることがあるらしいが、ファイスは傭兵見習いだから売るような作品も無い。

 自分は恵まれ過ぎているという不安は、正直、ある。

 父が戦死したのは不運だったけれども、小さいうちに親を亡くした者は珍しくない。オトもそうだ。詳しくは語らないがフラビアもそうらしい。

 それが不思議な縁でイェビ=ジェミとブレイの夫婦に引き取られ、何不自由なく育てられた。食事だって朝昼晩と三食必ず腹いっぱい食べさせてもらえた。学校にも通わせてもらったし、今では金持ちの子でもなかなか頼めないような先生に古典や詩学を習わせてもらっている。

 ちょっとした大店の息子くらいのお金のかけかたなのだ。

 一方、周囲を見回せば、両親がいても一〇歳くらいでどこかの店の下働きに出される子供はいくらでもいる。ファイスと同い年の近所の子供でも、事故や病気で既にこの世にいない者も三人や四人ではない。

 以前ブレイに尋ねたことがあった。何故、自分にこんなにお金をかけるのかと。

 ブレイは首を傾げて少しだけ考えていた。

「ガイはそういう人だから、かな?」

 というのがブレイの答えだった。結局、よくわからないのだ。

 よくわからないから、ファイスも何をどう返して良いかわからない。

 それが自分の漠然とした不安につながっているのかもしれない。

 ファイスは手近な食堂に入った。

 看板には「湖賊亭」と書かれていた。その隣には、なんとも人の良さそうな男たちが酒盛りをしている絵があった。あの男たちが湖賊ということだったのだろうか。

 店の間口は三スムートほど。銀陽亭が六スムートあるから、その半分だ。ただし奥行きは銀陽亭より少し深かった。細長い店だ。厨房は中庭にあるらしい。何を焼いているのか、かまどから真っ白な煙が立ち上っている。

 客はそこそこの入りだ。見たところ、船乗りが半分、商人が半分といったところか。天井からは油燈が幾つも吊るされ、橙色の光を放っている。一番奥の細長い台には麺餅やら焼いた干し魚やらが並べられていた。中庭から流れ込んでくる煙が香ばしい香りを運び、ファイスの食欲を刺激する。この匂いは魚か。

 ファイスは手近な椅子に腰を下ろし、店員に声をかけた。まだ若い、少女といって良いくらいの年の女性だ。黒髪を頭の後ろで束ねている。服も真っ黒な貫頭衣。なんと腰の帯まで黒だ。少し大きめの銀色の耳飾り。オトが一六歳だが、それよりは少しだけ歳上に見える。

「あの、良いかな? ここは何が食べられるの?」

 少女はファイスの顔をじっと見た。何か変なことを言っただろうか?
 
「奥にある卓の上から好きなものを取って来たら良いよ。三皿で銅貨一枚。君、ずいぶん若いみたいだけど、お金持ってるの?」

 はっきりとものを言う少女である。ファイスは何故か頭に血が上ってくるのを感じた。だが、自分ではどうすることも出来ない。思わずむきになって答える。

「アルソウム銀貨なら何枚かあるよ。むしろお釣りは大丈夫なのか知りたいね」

 銀貨一枚が銅貨三〇枚である。銀貨一枚というのは結構な大金なのだ。

 少女はにこり、というよりは、にやりと言った方が良さそうな笑いを浮かべた。

「それは安心して。うちはまあまあ流行ってるからね」

 ファイスはそれ以上は言い返さなかった。黙って席を立ち、料理を六皿取って銀貨を渡した。少女は感心したような顔をして奥に引っ込み、すぐにアルソウム銅貨を二八枚持ってきてファイスの前に積んだ。一〇枚の山が二つ。そして八枚の山。

 少女はもう一度、にやりと笑った。

「君、本当に持ってたんだね、銀貨」
「嘘をつく理由が無いからね」
「たまにいるけどね、金を払わずに食い逃げするやつ」
「そんなこそ泥に見えるかい?」
「たしかに、ずいぶんといいもの着てるじゃない」

 指先でファイスの服の肩のところをつまみながら少女が言った。

「別に、こんなもの安物だよ。仕事着さ」

 粋がってみせるファイスだったが、本当はこの仕事に同行することが決まった時、ブレイがわざわざ新しい布を買ってきて縫ってくれた服なのだ。パノク広場の近所にある市場で買ってきた古着しか着たことがなかったファイスにとっては、安物の仕事着どころか、一番良い、特別な一枚だった。

 だから、ほんの少しブレイに申し訳ない気持ちがあった。

 少女はそんなファイスの内心をわかってかわからずか、軽く鼻で笑って離れていった。

 だが、この夜はそれで終わりではなかった。

 ファイスが皿の上の料理をあらかた片付けたところを見計らって、先程の少女は再びファイスのところに近づいてきた。手にはガラスの酒器がある。中には赤い液体。それが何なのか、ファイスにはひと目でわかった。

 赤ぶどう酒だ。

 銀陽亭でいつも自分が運んでいるものだ。

 ファイスと少女の目があった。少女は、少しだけ流し目でファイスを見ながら笑顔を浮かべた。

「飲んでみる?」

 ファイスの前に酒器が置かれた。

 ファイスは水で薄めていないぶどう酒を飲んだことがない。絶対に飲むなと言われているわけでもない。相応に高価なものだから、飲む機会が無かっただけである。

 気がつくと少女はファイスの右隣に座っている。

「うちで一番おすすめの酒。飲みやすいよ」

 そう言って少女は一口すすってみせた。

 大きな耳飾りが揺れた。

 焼き魚の臭いが漂う店内でも、これくらい近づくと、それ以外の香りもわかるらしい。

 甘い、良い匂いがする。服に何かの香料を焚き染めてあるのだろうか。それとも彼女の体からなのだろうか。そもそもファイスは若い女性にこれほど近づいたことがない。イェビ=ジェミとブレイの長女のカプドレの世話なら散々してきたが、カプドレはまだ五歳だ。喧嘩友達のオトも、もう少し離れた場所から手や足が飛んでくるだけだ。
 
「お酒は頼んでないと思うけど」
「おごりだよ。君、この街のもんじゃないでしょ? どっから来たの?」
「……ゼルワさ」
「へえ、ゼルワ」

 少女はおおげさに驚いてみせた。

 また、甘い香り。

「ここはゼルワの人間なんて珍しくないだろ?」
「いや、珍しいよ。君みたいな若い子はね」

 そう言いながら少女はファイスの頬を指先でつついた。

「おじさんならいっぱい来るんだけどね。おじさんの相手なんか面白くない。みんなスケベだしね。……何赤くなってるの?」

 少女が笑う。

 少女の言葉には耳慣れない訛りがある。

「おじさんだったらさ、私が隣に座ったら、十数える前にはもう肩を触ってるよ。こんな感じで」

 いきなりファイスの左肩に少女の手が伸びた。次の瞬間、ファイスは少女の方に引き寄せられた。体格で言えば大人の男に近いファイスであったが、完全に虚を突かれて、抵抗する暇もなかった。上半身の右側に少女の体温が伝わってくる。

「ああ~、やっぱり赤くなってるね。これはお酒なんか要らなかったかなぁ?」

 ファイスはかっとなって、少女から体を離そうとした。少女は笑ってファイスの肩から手を放した。

「ごめんごめん、冗談だよ。冗談。ほら、飲んでよ。毒なんか入ってないって」

 そう言いながら少女は立ち上がると、最後にファイスの耳元に唇を近づけて囁いた。

「また明日も来てよ。ゼルワの話が聞きたいからさ」

 少女の唇がファイスの耳に一瞬、触れたのはわざとだっただろうか?

 ファイスは急いで酒を飲み干すと、店を出た。アタマがぐらぐらする。酒のせいなのか、「湖賊亭」の少女のせいなのか。あるいは両方か。

 どうせウェスカもグリアットも今夜は遅くまで帰らないだろうし、イェビ=ジェミは晩餐会が長引くだろう。迎賓館の宿舎に戻っても自分一人か、あるいはよく知らない書記官たちしかいない。

 そう考えると、何となく寄り道をして帰りたくなる。

 ファイスは先程の四つ角まで戻ると、右には曲がらず港の方に向かった。

 租界と港の間は大人の背丈ほどの石垣で分けられている。昼間にこれを見たウェスカとグリアットが、「イグリム港の商館地区とは全然違うなあ」「あっちは本物の城壁があったからなあ」などと感心していたものだ。

 イグリム港のあるグディニャ君主国は支配者であるグディニャ大君が元はアルソウム族の貴族のランカラヤ家であるし、連合王国とグディニャ君主国はかなり仲が良い。だが、それでもアルソウム商人が住む地区の周囲には城壁を築かなければならない程度には、緊張感があるのだろう。

 それに比べれば、湖賊が跋扈しているとはいえ、ウアラプエ港のアルソウム租界のこののどかさは、妙に面白い。

 頭上には満月が白く輝いている。東の丘陵地帯から吹き下ろしていた夕風は既に止み、湖の上にはほとんど風らしき風は無い。だが、石積みの岸壁の下には、ぱしゃり、ぱしゃりと波が当たる音が絶えなかった。

 港の北側にある塔の上ではかがり火が焚かれている。ウアラプエ川の北側の市街地の灯りも見えている。船着き場にはファイスの他に人影は無い。ファイスは石畳の上に腰を下ろし、空を見上げた。満月の明かりが少し邪魔だったが、それでも見慣れた星座を幾つも見つけることが出来た。きつつき座、つくえ座、さくら座。ただ、それらの星座は全て、ファイスが知っている場所よりも北にある。

 それだけ、南に来たということか。

 ファイスは寝転がった。背中に小石が当たって痛い。起き上がって小石をどけ、もう一度頭を両手の上に乗せて港の石畳の上に寝転がる。腰の剣が少し邪魔ではあったが、もう一度起き上がるのも面倒くさい。

 石畳にはまだ昼間の温かさがちょっとだけ残っていた。

 遠くで犬が吠えている。

 狂犬病に罹った狼の群れの襲撃で壊滅した故郷の村はどうなっただろうか。またあそこに帰る日が来るのだろうか。懐かしさはあるが、今はもっともっと先に進みたいという気持ちが強い。もっと南へ。南極星が天高く輝く場所まで。

 どれくらいそうしていただろうか。

「ねえ、生きてる?」

 いきなり頭上で若い女の声がした。

 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。

 目を開くと、「湖賊亭」の少女の顔が上下逆さまに見えた。あわてて体を右に回転させながら起き上がる。

「お、生きてた」
「そりゃ生きてるよ」
「たまに死体が転がってるからさ、ここ」
「え、本当?」
「うそだよ。うそに決まってるでしょ」

 少女は小さく笑った。

「でも、酔っぱらいはたまに寝てる。もしかしたら水に落ちて死んだ人もいるかもね」

 ファイスは傍らに立つ少女を見上げた。先程とは何か感じが違うと思ったら、髪の毛をほどいているのだ。一瞬、湖から吹いてきた風が少女の髪の毛を揺らした。

「お店はもう終わったの?」
「私はね。店はまだやってるよ。君はこんなところで何をしてたの?」
「空を見てた」
「空?」

 少女が頭上を見上げる。月は先程見たところよりもかなり西に動いていた。

「何か面白いもの見えた?」
「星座」
「星座?」
「僕の知っているところよりもあっちの方に見えるなと思ってね」

 ファイスは北を指差した。

「君、そんなに遠くから来たんだ」
「マンガルメの山奥さ」
「マンガルメ? それどこ?」

 驚いたファイスは少女の顔をまじまじと見つめた。少女は気にする風でもなく、湖水を見つめている。マンガルメ王国といえばアルソウムの六領邦の一つではないか。それを知らないとは……?

「もしかして、アルソウム人じゃない?」
「わたし? 私は違うよ。ここには出稼ぎに来てるだけ」
「どこから来たの?」
「あっち。もっと南」
「エマオ?」

 少女は首を振った。

「バツェ?」
「違う」
「もっと遠くから?」

 少女はしゃがみ込んで、ファイスの顔を覗き込んだ。いきなり目の前に少女の瞳が迫ってきたので、ファイスはどきりとした。

「秘密。今は教えないよ。それよりも君の話が聞きたいんだ。さっきはゼルワから来たって言ってたよね。マンガルメってのはゼルワの近所?」
「いや。ゼルワからはずっと北さ。半月くらいかかるかな」
「君も出稼ぎ?」
「いや。生まれた村は無くなっちゃったんだ。山の中にあったんだけど、いきなり狼の群れが襲ってきてね。みんな死んだ。生き残った人たちは村を捨てた」
「狼ってそんな怖いんだ?」
「頭がおかしくなる病気にかかってたのさ。普段は村ごと襲うなんて無いよ」
「それでゼルワに移ったんだね。ここへは何しに来たの?」
「師匠のお供」
「師匠って、何の? 旅芸人とかじゃないよね」
「傭兵だよ。僕の師匠はゼルワで一番の傭兵なのさ」

 ファイスは少しだけ胸を反らして言った。

 少女が楽しそうに笑う。

「へええ、じゃあ君は何番目?」
「僕はまだ弟子入りしたばかりだから。傭兵見習い」
「順位はついてないんだ?」
「そのうちつくさ」
「お、自信満々」
「師匠に鍛えられてるからね」
「その君の師匠の偉い傭兵さんは、ウアラプエまで何しに来たのかな?」
「大使閣下の護衛さ」
「大使って何?」
「国の代表。アルソウムの代表として国際会議に出席する人」

  少女はまだ要領を得ないといった表情で首を傾げている。

「湖賊っているだろ」
「うちの店の名前?」
「違うよ。本物の湖賊。湖で船を襲って人を殺したり荷物を奪ったりする連中」
「人は殺さないって聞くけどね。その湖賊がどうしたの?」
「どうやって湖賊を退治するかを話し合うんだ。アルソウムと、エマオと、バツェの代表が集まってね」
「ウアラプエで?」
「そう。もう近々始まる。僕もその護衛で来た」
「へええ。君、そんな仕事してたんだ。だから銀貨なんて持ってるんだね」

 銀貨はこの仕事とはあまり関係が無かったが、わざわざそれを言うことも無いかなとファイスは思った。

「さてと」

 そう言って少女は再び立ち上がった。ファイスもつられて立ち上がる。並んで立ってみると、少女の頭はファイスの肩のところまでしかなかった。

「そろそろ帰らないと。君はまだここにいるの?」
「いや、僕もそろそろ戻ろうかな」
「じゃあ、明日も来てね」

 少女はファイスの肩を軽く叩いた。

「送って行こうか? 危ないだろ」
「ここで寝てる方がよっぽど危ないよ」

 少女が笑う。

「それに、私の家はすぐそこだから。もう見えてる」

 ファイスは少女の視線の先を追った。湖水の上に立つさざなみが月光を反射してゆらゆらと揺れている。

「家? 水の中にあるの?」
「そんなわけないでしょ!」

 少女はファイスの頬を軽く叩いた。

「船だよ。家船。うちは船に住んでるの」

 既に少女は歩きだしている。

「じゃあね。君、名前は?」
「ファイス。スピルキ・ファイス」
「私は……やっぱり教えない」
「なんだよそれ!」
「明日ね。明日教えるよ」

 ファイスは少女の後ろ姿を見つめていた。少女は港の隅に繋がれている小さな屋根付きの船のうちの一艘に飛び乗ると、船の中へと消えた。最後にちらりとファイスの方を見たような気がした。

 迎賓館に戻ると、ちょうど晩餐会が終わったところであった。

 大食堂やその向いの談話室からはウィルナ卿とイェビ=ジェミを先頭に、租界の有力者たちと思しき男たちが次々に現れ、玄関は大混雑である。だが、ウィルナ卿もイェビ=ジェミもどことなく疲れているようであった。ファイスは人混みを避けるようにして、建物の端の裏階段から貴賓室のある五階へと向かった。

 まだ「湖賊亭」で飲んだ酒の酔いは残っていたが、なんとか平気なふりをして貴賓室の前で立っていると、すぐに中央階段をウィルナ卿とイェビ=ジェミが上ってきて、ファイスの前を通り過ぎた。一瞬、イェビ=ジェミとファイスの目が合う。何か言われるかなと思ったが、イェビ=ジェミは無言のまま貴賓室へと入っていった。どうやら今夜はもうやることは無いらしい。

 ファイスは自室に戻ると、部屋の隅にあったたらいの水で全身を拭き、歯を磨いて寝台へと倒れ込んだ。

 開け放した窓からは気持ちの良い夜風が吹き込んでくる。

 部屋の隅に置かれた油燈の黄色い光が時折揺れる。

 案の定、他の二人はまだ帰ってきていない。

 外からは酔っ払いの騒ぐ声が聞こえている。晩餐会に来ていた連中がまだ通りにたむろしているのかもしれない。だが、街は静かだ。ゼルワの下町の夜の喧騒とは比べ物にならない。

 ファイスの頭の中を占めているのは、湖賊亭の少女のことだ。

 何故、彼女はこんなにもあからさまに自分に近づいてくるのか。

 銀貨を持っていたからか?

 いや、たしかに自分の歳で銀貨を持っているのは珍しいかもしれないが、ここはエマオ、バツェ、アルソウムの三国間の貿易で潤っている街だ。金持ちなどいくらでもいるだろう。それこそ金貨を溜め込んでいるような。

 自分が若いからか? 若い男だっていくらでもいるはずだ。ウィルナ卿のように金持ちの家に生まれて洗練された趣味と話術を身に着けた若様もいるだろう。

 では、カネでも若さでもないところで自分に興味を持ったのか?

 それは何故?


 国際会議は、なかなか始まらなかった。

 当初の予定では九月の一日よりということになっていたらしいのだが、バツェ王国からの大使が一向に現れないのである。

 ウィルナ卿の使節がウアラプエに到着して五日が過ぎた。つまり九月三日である。今日も国際会議は始まらない。バツェ王国からの使節団は今どこにいるのかすらわからないままだ。

 しかしながら、ウィルナ卿は毎日、忙しそうであった。国際会議は始まらないが、アルソウム租界の内外からの面会の希望者が引きも切らないのである。迎賓館の中央階段には、面会待ちの人々が文字通り列をなしていた。貴賓室の前にはウェスカとグリアットが物々しい出で立ちで立って来訪者を威嚇し、貴賓室の中ではイェビ=ジェミとファイスがウィルナ卿の背後に立って警備に当たった。

 面会は午前に三時間、午後に三時間と決められていて、一人あたり四分の一時間ということになっていたが、時間通りに終わることは滅多にない。だが、ファイスはそれなりにこの時間を楽しんでいた。訪ねてくる人々は商人が多かったが、船運業者もいたし銀行家もいた。アルソウム人だけでなく、エマオ人も珍しくなかった。
 皆、なんとかしてこの若い大貴族に取り入ろうと必死である。

 なんだかんだでウィルナ卿の噂は届いているのだ。ゼルワ大橋再建工事で名を挙げて大使に抜てきされた切れ者、という噂が。

 ウィルナ卿も来訪者たちのそうした思惑は十分に理解しているようだったが、毎日毎日、精力的に面会を続けている。

「なるほど、会社の売り上げが五割も落ちたとなると、さぞかし苦しいでしょうね」
「はい。去年まではパラートに送る便が集中的に狙われていたんで、湖の西側に行く便は使わないようにして、南のウェトラとの直接取引を増やしてなんとかしのごうとしてたんですけれども、今年に入ってからはそっちも狙われるようになりまして」
「ちなみにパラートとウェトラは、それぞれどれくらい取引があったんですか?」
「湖賊が暴れだす前は、パラート経由でバツェ王国に行くのが三割、エマオ王国に売るのが七割でした。それが湖賊のせいでパラート向けは全滅で」
「全滅ですか」
「はい。もう商売にならないからあっち向けは止めちゃってるとこが多いですよ」

 ウィルナ卿は大げさに首を振ってみせた。

「それは痛いですね。ウェトラ向けの輸出はどうなんですか?」
「そちらはほとんどやられてなかったんです。ですが、みんながパラートとの商売を止めちゃったんで、獲物が居なくなったんですかね。最近は湖のこっち側にもどんどん現れるようになりましたよ」
「それで全体としては売り上げの半分が消えたと」
「そうですそうです。もうしょうがないからウアラプエで売るしかなくなりつつあります」
「ええと、以前は別の町で売っていたものをウアラプエで?」
「そうですねえ。言ってみれば輸送のときの危険を他の業者に押し付けるわけですね。ウアラプエでうちの品物を買った業者も全部をここで小売り出来るわけじゃないですから、南や西に運んでるみたいですよ。ただ、買い叩かれますね、やはり」

 そう言って商人はため息を吐き出した。

 午前中の面会を終えたウィルナ卿は、窓の外に広がる大ヤムスクロ湖を眺めながら、誰に言うでもなく呟いた。

「うーん、やっぱり何か変だなあ」

 何が変なのだろうか?

 イェビ=ジェミは無言のままだ。


 面会用の豪華な長机の上に置かれた茶器を片付けながら、ファイスはウィルナ卿の次の言葉を聞き逃さないように耳をすませた。

「今の人、何の会社だっけ?」
「織物です。綿織物だそうです」

 答えたのは書記官の一人である。

「綿織物……の売り上げが半分になった?」
「そのようですね」
「コトバイ港から積み出される輸出品の資料は頼んでおいたよね?」
「はい」
「綿織物、この五年間で積み出された品物の量はどれだけ減ってるの? 金額じゃなくて量ね。重さとか長さとかの」
「お待ちください」

 書記官が部屋の隅にある長持から紙の束を取りだして机の上に広げている。

「金額はすぐに出ますね。一五五一年が金貨六〇二一枚分です。量は……一四五万三二八七平方スムート」
「ふうん、案外少ないね。金貨一万枚も出てないのか」
「これはコトバイで積み出した時の金額なので、売るときにはもっと高いのではないかと思います」
「ああそうか、仕入れ値ってことだね。じゃあパラート港まで持っていって売った時には、もっと高いか」
「はい」
「今年の数字はわかる?」
「六月までの数字でしたら」
「教えて」
「金貨……三二〇二枚です。七八万二二五六平方スムート」



  タチヨミ版はここまでとなります。


湖賊 ―アルソウムの双剣 三ー

2024年12月21日 発行 第二版

著  者:加藤晃生
発  行:TRICKS

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