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この本はタチヨミ版です。
末裔たちの梦
菊地 夏林人
主な登場人物
(創作中の人物)
多紀楽葉…… 命林寺住職。元・精神科医。
笹川窓香…… 楽葉の弟子。元・風俗嬢。
里中純平…… 民間伝承学調査員。
大原友太…… 行人村の若きリーダー。
青羅坊…… いわくら部落・山伏師範。
木伏ヤヨイ…… いわくら部落の中心人物。
今来サツキ…… 歴史を透視する巫術師。ヤヨイの姉。
古道伝三…… 古医学・絵枕療法の伝承者。
守田草次郎…… 古道伝三の弟子。医師。
天野康孝…… 行方不明者。里中純平の上司。
青津山湖…… 古代会津豪族の長。アオツヤマノウミ。
王霊愈…… 中国・梁の医師。絵枕療法師。
古道林愈…… 平安時代の絵枕療法師。
青磐…… 平安時代の浄土教僧侶。青巌の末裔。
ジュライ…… インドの学僧。渡来して日本仏教を研究。
(歴史上の人物)
華佗…… 中国・後漢末期の医師。曹操の典医。
青巌…… 中国・梁の仏教僧。渡来して会津に定住。
厩戸皇子…… 欽明天皇の孫。隋との交流、大和仏教を興隆。
徳一…… 南都法相宗の学僧。会津に仏都を開く。
目 次
Ⅰ 山滴る
Ⅱ 山粧う
Ⅲ 山眠る
Ⅳ 山笑う
Ⅰ 山滴る
①樹木葬
ヤマボウシの花はすでに散っていた。その後を継いで、今はナツツバキとアジサイが咲き誇っている。苔むした石段を登っていくと、湿った土の香りがした。
寺の裏山は神代から続く原生林で、その一部が墓地として切り拓かれている。一般の墓地とは異なり、明瞭な区画など無く、墓石の代わりに樹木が植えてある光景は真の冥界を想起させた。
里中純平(さとなかじゅんぺい)は三年前に他界した母を偲び、命日や彼岸に捉われず思い立ったときにこの地を訪れていた。菩提樹として選んだナツツバキは調子よく根付き、清楚な白花を咲かせている。純平は合掌し、心の中で最近の出来事を母に伝えた。そして、無心になった。
樹木葬においては、線香の使用は厳禁である。わずかな燠火が枯草に燃え移れば、供養云々の話ではなくなり山火事騒ぎとなってしまう。ゆえに火を用いず、ただ合掌するのみである。
枯葉や雑草類を摘み集め、墓の清掃を終えたとき、純平は何か奇異な音の響きを感じた。横に視線を振ると、そこにひとりの女がすすり泣く姿があった。堪えきれずに吐き出した嗚咽だった。墓参りには不向きな桃色の衣装をまとい、アジサイの前で弱弱しく蹲っている。長い黒髪が顔に垂れさがり、ほとんど表情が読み取れない。
おそらく親族の菩提樹であろうアジサイは、一見して優良な品種とわかるガクアジサイだった。鮮やかな瑠璃色の花が王冠のごとく象られ、高貴な印象が漂う。
一瞬、女は他人の気配に気づき、慌てて身構えると涙をぬぐった。若向きの恰好が彼女の年齢を幼く見せていたが、実際はすでに多感な青春期を過ぎたそれ相応の人物に思われた。
「見事に咲いていますね、ガクアジサイ」里中純平はさりげなく声をかけてみた。これと言って他意はなく、ただ軽い挨拶として声をかけたに過ぎなかったが、女の反応は予期せぬほど過剰なものだった。その声音には濾過できぬ毒気が潜んでいた。
「わたしは悪い娘でした。親不孝者です。お父さんは今でも許していないでしょうね。最低の不良娘を呪っているはずですから」
「お父様はアジサイが好きだったのですね」自虐的に心を乱している女に対して、純平はあえて優しく話題を整えた。
「お父さんがよく言っていました。球状の園芸品種はほんとうのアジサイではない、と。ほんとうの野生種は王冠のように美しいガクアジサイだって。それが日本古来の自生種だよって」
女が再び泣き始めた。何かを思い出したに違いなかった。その泣き声は己の頭蓋骨の内壁に幽閉された囚人の慟哭にも似て、ひどく物悲しい響きを呈した。どこの誰とも知れぬ女ではあったが、純平は彼女の心の中に燻る後悔や懺悔の念を理解できた。なぜなら自分自身が親不孝者であったからである。
小雨が降りはじめた。新緑の候を過ぎて、森には大きな葉を茂らせた朴ノ木もあった。木陰で雨止みを待とうと純平が女に呼びかけようとした時、藪をかきわけて誰かが墓地へ登って来た。
他ならぬこの寺の住職、多紀楽葉(たきがくよう)であった。
「親孝行したいときには親は無し。お二人さん、もし良かったら一服、お茶でもいかがですか。京都から新茶が届いていますので」
楽葉に話しかけられたとたん、墓地の空気が一変した。それまで漂っていた重苦しい悲愴感が消え、嘘のように空気が澄み、気楽な世界へと誘われた。女も肩の力が抜けたらしく、急に泣き止んで、寺の方へ歩き出した。
先頭は剃髪した作務衣姿の僧侶、続いて長い髪を振り乱した桃色服の女、最後尾を里中純平が追った。
庫裏の客間へ通された。促されるままに囲炉裏を囲んで坐ると、純平は女の容姿を間近に捉えた。先程の取り乱した印象とはだいぶ異なり、落ち着いて座った彼女は麗しい人に見えた。世の中に美人と形容される人は少なからず存在するけれども、彼女の美貌は特に群を抜いていた。それゆえに墓地での慟哭は気がかりだった。純平は焦らず、彼女の自発的な言葉を待った。
自在鉤に吊るされた鉄瓶の湯は沸いている。住職・多紀楽葉は淡々と茶を淹れる。茶壺に収められた新茶を急須にとり、そこへ軽く湯冷ました湯を注ぐ。茶葉の広がりとともに鮮烈な香りが漂う。
三つ湯呑が揃った。
「この季節はとにかく茶が旨い。さあ、どうぞ御遠慮なく」
楽葉、桃色女、純平、三人同時に宇治の煎茶を堪能した。とろりと甘い新茶が喉を潤すとき、葉の香りが鼻腔を抜ける。しかし、この銘茶をもってしても女の心を癒すことは出来なかった。
「お父さんにはもっと長生きしてほしかった。この美味しいお茶を飲んでほしかった。私のような悪人が代わりに死ねばよかったんです。私は父のような功労者ではありません」
桃色女の心の中で、再び何か得体の知れぬ情念が蠢きだした。
「ひとつお訊きしたい。何故あなたが悪人なのか、窓香さん」
「それは前回お話した通りですよ、楽葉さん。父は有名医科大学の教授、社会的評価が高く、著書も多数。その娘は妖しげな夜の接客業。親戚に会うたびに命が縮むと、父本人がたびたび吐露していました。そのストレスが病魔の元凶です」
女の名は窓香(まどか)。住職・楽葉と初対面ではない。いや、それどころころか、この二人は過去に何度も対話している。純平は直感的にそれを察知した。ここは敢えて沈黙し、耳を傾ける。
「窓香さん、たしかにお父様は名医の中の名医でした。素晴らしい人格者だった。それは私も承知しています。しかし、世の中はもっと複雑で医者の中にも悪党はいる。そして、夜の客商売にも菩薩のような善人がいる。あなた自身が悪人とは限らないでしょう」
「高校を中退して風俗嬢になった家出娘が善人ですか?」
「まあ、あまり御自身を責めないでください。ところで、中道、お判りですかな?仏教においては、自虐と貪婪の両極を避けます。極端な禁欲主義は健康を害し、また極端な快楽主義は理性を麻痺させてしまうからです。ちょうど良い真ん中の道を歩む、それが釈尊の教えなのですよ」
「それができれば良かった、でも私にはできなかった」
窓香は俯いて、深く溜息を洩らした。その様子を慈悲深い眼差しで楽葉が見守る。まるで泣きじゃくる幼児の頭を撫でるように。この二人は血縁者ではない、しかし、他人でもない。何か目に見えぬ縁起で結ばれている。その結び目を純平は探っていた。
「いや、里中さん、失礼しました。不可解に思われたことでしょう」
楽葉は純平の顔を正視して、非礼を詫びた。たしかに事情の判らぬ者にとっては修羅場に引きずり込まれた感覚を禁じ得ない。純平への礼儀として、楽葉はおおよその経緯を説明しはじめた。
要約すれば次のようなことになる。
この寺、すなわち命林寺の住職・多紀楽葉は神奈川県出身の精神科医だった。神奈川の医大を卒業して、そのまま母校の医局に残った。そのとき医局の同僚として共に医道を究めたのが、笹川英彦、他ならぬ窓香の父親だった。楽葉とは出身地も年齢も同じで仲が良かった。楽葉自身は思うところあり、四〇歳で医師を辞め、仏道に入ったが、笹川英彦は医局に残り、准教授から教授へと出世街道を邁進した。その姿は親友楽葉の無念を晴らす勢いが漲り、他の追随を許さない鬼の気迫が漂った。
教授職を全うした後も県の要職に就き、学会の重鎮として活躍していた。そして或る日、笹川英彦は突然の心筋梗塞により、惜しまれながら急逝したのである。福島県にある命林寺にて樹木葬…、という故人の遺言通り、遺骨が埋葬され、ガクアジサイが植えられた。
家出娘の窓香も相応に歳を重ね、ついに新宿歌舞伎町を去ることになり、すさんだ過去を清算すべく二本松市に移住して来た。窓香の告白によれば、彼女が高校三年の頃に、母親が急性白血病で他界したという。病魔を恐れ、それを治せない医者を憎んだ。自暴自棄の挙句に、夜の繁華街へ身を投げ出したという経緯だった。
病気や死への禍々しい思いを断ち切るために、あえて生々しい性の坩堝へ飛び込んだのかも知れないと窓香は語る。
「朧気ながら僕にも御事情を察することができました。そもそも僕が同席して良かったのかどうか判りませんが、貴重な体験談を聞くことができて光栄です」里中純平は一礼した。
「貴重でも何でもありませんよ。ただの過去です。今となっては修正の効かない歪んだ過去です」窓香の自虐は続いた。
「穢土一日、深山千日という言葉もありますよ」新茶を淹れ直しつつ、楽葉はゆったりと諭すように語りかけた。
「穢土一日、深山千日。俗世間の穢れた世界で一日過ごすことは、人里離れた山奥で千日修業することに等しい、と。要するに人間の業を根本的に知る機会になるわけですから」
「ということは、新宿で私は修行していたということ?」
「御本人に自覚がないとしても、知らず知らず人生修行を積んできたと思いませんか?無自覚のまま、多くの悩める男たちを救済して来た。非僧非俗。よく一念喜愛の心を発すれば煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。親鸞聖人の言葉です」楽葉の包み込むような優しい口調が、窓香の心の患部を徐々に治癒していく。その効果が純平にもはっきりと共感できた。
「ぼくも同感です。窓香さんは今まで多くの男性を救ってきたと思いますよ。仕事も上手くいかず、恋愛運にも恵まれない男がひとり淋しく繁華街を放浪する。そのとき偶然入った店で、一筋の光が見えることもあったのでは?」純平は自分でもよく判らなかったが、何とかして彼女を擁護したいと願った。
「わたし、今年で四〇歳になります」窓香が放心して呟いた。
「僕は今年で四二歳になりますけど、何か?」
「私は今年で七五歳、それがどうかしましたか」
三人は同時に破顔し、くすくすと低い笑いを洩らした。
②行人村
銘茶の御礼を申し上げると、里中純平は寺を後にした。境内の駐車場付近でジーンズ姿の若夫婦とすれ違い、さりげなく会釈を交わす。すでに何度か見かけた顔で、この村の地権者だった。以前、墓参りに訪れた際に、楽葉からの紹介で村の中心人物とは挨拶を交わしていた。
若夫婦は純平より少し歳が若く、三人の子宝に恵まれている。夫・大原友太(おおはらゆうた)はこの村の旧家出身。家系図を遡れば山伏の血筋に辿りつくとのことだったが、近代に限って言えば、友太の曾祖父の代に養蚕業が栄え成功者となり、続いて祖父・大原正太郎が畜産業で財を成した。そして、いつしか大原家は村の主軸となった。古くから山伏の聖地として暗黙の禁忌を守り抜いてきた行人村に、革新的な新風が吹き込まれ、細々と営まれていた湯治場も「隠れ里の秘湯」を求める好事家らしき層に好評を博した。
タチヨミ版はここまでとなります。
2024年8月20日 発行 初版
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菊地夏林人(きくちかりんじん)。一九六五年、福島市出身。著述家。農学研究・医学研究の経験を母体に、独創的な著述活動を続ける。農回帰、起源論、芸術論、哲学論、ネオテニー論、夢幻小説、医学小説、仏教小説、輪廻奇譚など、多角的なモチーフに挑み続けている。思想哲学『森羅万象ノート』東洋出版、幻想小説『村の樹に棲む魚』太陽書房、医僧奇譚『作務衣猿 山太郎』BCCKS、西行幻譚『音庭に咲く蝉々』BCCKS、他。趣味は音楽と仏教研究。