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この本はタチヨミ版です。
本書『大我』は、昭和三十年十月、矢野豁大人(祖父)十年祭記念に発刊された『あだなみ』の後半に矢野徹郎(叔父)の手記並びに歌集「湖岸の兵舎」・「大我」にあわせ、矢野豁が我児の出兵を想う日記・和歌「徹郎の記」を後半部分に抜粋掲載し、更に昭和六十年七月矢野豁四十年祭に追加発刊された『仇並残照』のなかより特に徹郎を想う歌集を抜粋掲載したものです。
叔父矢野徹郎戦死から今年で六十一年の歳月を経過、今日本は、戦後六十年の節目で、戦前の回顧が話題となり、命の大切さが叫ばれる今日、戦争中のことは、詳細に解き明かされることとなりつつあります。当時日本は、資源は乏しく、外国の国々がらは、資源補給の退路を経たれ、最後手段は、神風に頼る道しかなく、特別攻撃隊も別名は「神風特攻隊」と呼ばれ、戦闘機に、爆弾を抱え敵航空母艦や、巡洋艦に体当たりしての攻撃は、“最小の犠牲で最大の効果をあげる”経済的アルカイダ発想自爆テロと何らかわらぬ思考力のない、参謀の作戦といえます。その直後日本は、火力、通信、機動力を有する米国軍隊によって、日本全土の縦弾爆撃と原爆投下で焦土化し、無条件降伏となった。
昭和十九年十月十二日~十六日、台湾方面に来襲した米機動部隊を迎え討った日本海軍が、台湾沖に米機動部隊を捕捉して、これに痛打を与えたとする戦闘が台湾沖航空戦と呼ばれるものです。十月十九日午後六時、大本営は十二日以降の戦果を総合して、次のような発表を行いました。
大本営発表
『我が部隊は十月十二日以降、連日、台湾及びルソン東方海面の新機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを遁走せしめたり』
一、我が方の収めたる戦果綜合次の如し
轟撃沈 航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻
撃破 航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻、艦種不詳
十三隻 撃墜 一一二機(基地における撃墜を含めず)
二、我が方の損害
飛行機未帰還三一二機
事実は米軍のレイテ上陸作戦に先立って、日本軍の航空兵力の撃滅を謀った、ハルゼー大将隷下の第三八任務部隊の空母搭載機群の来襲でした。日本側大本営発表が事実とすれば、米艦隊は文字通り撃滅され、日本海軍としては日本海海戦にも勝る大戦果といえるものですが、もちろん、これは完全な宣伝を主とするプロパガンダで、実際の戦果は空母一隻小破、重巡キャンベラと軽巡ヒューストンを大破させたに過ぎなかったのです。
併し、米軍の戦力は圧倒的でも、神風攻撃による精神不安は、ノイローゼ患者として毎日二十名以上の米軍兵士を戦場から離脱させていました。
米軍では、このとき、数学者・物理学者・天文学者・生物学者・軍当局者・観測者で「ブラケット・サーカス」と云う奇妙なグループをが構成され、神風特攻機に対するOR(オペレーション。リサーチ)研究で、特攻機の損害を最小限に食止める為の問題を提議し、特攻機が来襲したときの艦の行動として、大型艦、小型艦に分け、退避行動か、対空砲火を行うかで状況の報告を求め、命中率を計算し、更に、特攻機が急降下でくるか、水平飛行でくるか、艦隊に対する方向はどうかを調査、分析されました。その結果勧告として、退避運動と対空砲火の連携によって、従来は特攻機の命中率が四十七%であったのが二十九%に低下できたとあります。(コンピュータ・ベイスト・マネジメントより)
日本軍の大本営発表によって日本国民は最後の瞬間まで戦果を信用、原爆の投下により一瞬にして呪縛の夢から現実を見ることとなりました。その後敗戦の苦難をへて、現在において、対戦国のアメリカに次ぐ世界第二の経済大国の位置を築き得ました。
『あだなみ』に於いては、ややもして徹郎の父豁の歌集の附載部分を、海軍兵学校出身指導者の陰でうもれた、海軍予備学生出身者が特攻に至る迄の二年間のなまの記録で、現在殆んど目にする海軍予備学生十一期生の記述はなく、十九年十月二十一日にフイリッピン・セブ基地より大和隊指揮官久能中尉が同期で日本初の特攻による戦死者です。(開戦記念特別企画海軍航空特攻の全て)徹郎は、一ヶ月半後の十二月七日に同じセブ基地から第五桜井隊長として部下四人と共に敵戦艦に突入したもので、その後、家族へ死亡通知が届けられたのは半年も経過した昭和二十年五月十七日でした。
そのとき父豁は既に癌の病床にあり、特攻戦死を知されたがどうかについての記述はありません。亦同時に、父豁も終戦を待たずして二十年七月七日に他界し、のこされた遺稿は、戦前の情勢をそのままの記述です。更に、当時軍事検閲下のこと、父と子の手紙のやり取りはきわめてすくなく、親は子の、子は親の日記、歌を互いに閲読することはなかったと思われます。その理由としては、掲載の遺文原稿は徹郎の兄旭香の手許に保管され、戦後しばらくして、京都の母のもとに届けられたものです。併しこれ等の手記には訓練時の空腹や、訓練器材の乏しさ、戦況の厳しさなど当時の状況を徹郎は、
“たゞ一機飛んでゐる空の静けさよ。一機で誘導コースを廻ってゐるのだ。他の搭乗員は枯草の上にねころんでゐる。唯一機だけが心ゆく迄、晴れた空に心地よい爆音を発してゐる。飛行機がないのだ。枯草の上でふと考へて淋しくなった。しかしこの一機、少ない搭乗割で最大の効果をあげるのだ。”
と綴り、また、父豁の歌は、
物量もものいはでやは早やもはやも敵撃つべき武器造れ
叩きても叩きてもまた起き上る鬼のしぶとさこころして居らむ
叔父徹郎の学生時代に、我父旭香は伊勢神宮神官で、私はよく叔父に、倉田山の皇學館の近くに あった寮に、つれて行かれたこともあり、また最後の別れにも、我が家に立寄り(その時は軍服姿に軍刀を帯刀)宇治山田駅まで見送った記憶があります。
叔父は父と同じ干支(申)の兄弟で、祖父・父も皇學館を卒業、歌に、
兄無口 吾無口 二人向ひ合ひ、父のことども 語りあひけり
兄にむかひ話すことなし、黙し居る、その時の間も たのしきろかも
また、父旭香も昭和六三年三月に永眠し(享年八一歳)、平成十三年には父の歌集『あさか』を自主出版限定で発行しました。この本はオンデマンド形式で、一冊毎に印刷可能な方法で制作しました。
今回は、終戦後六十年の節目でもあり、ややもすれば忘れ去られる戦前の記憶を想いおこす意味でも、原文を旧仮名使いのまま忠実に再現、叔父の手記『大我』とし出販、更にこのあとは祖父豁の『あだなみ』を再編集し出版する予定(平成十八年七月七日)です。
また、『大我』はすべてデジタルデータとして保存、我が矢野家の歴史の一端として、この機会に戦時中の事実を、戦争と歴史の知らない子供達に伝え、何故靖国神社に参拝するかを教えて、過去の清算を果たしたいと考えます。
尚、原本の『あだなみ』は非売品、且つ絶版でわが手許にも一冊のみのため再販は不可能と考え、また別の視点から編集を試みました。以前発行、編集にご努力されました方々にお礼を申し上げます。
祖父「矢野豁大人命」、叔父「矢野徹郎命」には、父「矢野旭香」作文「矢野家神祭」の祝詞(のりと)を添えて、ご冥福をお祈りいたします。
平成十七年十二月七日
矢野徹郎六十一年祭当日
徹郎の兄旭香 長男 矢 野 和 彦 記
此れの幸草乃埼玉県狭山広瀬の里矢野直道が寓居に矢野家の祖神として常に斉き奉れる矢野豁命に副へて徹郎命・服命乃御前に旭香畏み畏みも白さく。
汝命乃神去りましし日は昭和二十年七月七日にしてそれより先十九年十二月七日真名子徹郎皇国乃運命をかけて比律賓沖海戦に天駆けてより幾ばくもなく幽世に神去り給ひ逐には長き戦も終局を迎へぬ。
遺しおかれし遺訓沢山にはあれど、しき世情に遺子らそれぞれの生業の道求めて様々な苦難に耐えたるもさしたる不幸に遭はず母刀自先づは健かに今に至るまで三十四年を経たりここにこの近くに住める子孫ら打集めて御祭仕奉らむとすれば汝命ら恐み喜び嬉しみ給ひ甘らに享け給へよかし且言へば真子奥村弘去年の秋汝命迎へませば共々家の守神として吉等行末守幸へ給へかし。我も汝命の逝かれ給ひし齢に五年加へぬれば御言葉の端々行跡の一々思い起こして今更の如くなれど尚少しく身健けく心直く命長らふべく恩頼蒙らしめ給へ汝命生前の好物供奉り皆々拝奉る状を諾へ給へと畏み畏みも白す
昭和五十四年七月七日
徳島航空隊時代の人物評
比島方面作戦 二〇一航空隊特攻戦死者名抜粋
矢野豁歌集『あだなみ』より
徹郎への想い 矢野 豁
『仇波残照』より
矢野豁 歌集『あだなみ』再販にあたって
『仇並残照』あとがき
矢野 豁年譜
靖國の祭祀は永代祭祀である (真弓常忠)
矢野徹郎さんとの想い出 原田 敏丸

日記
大低は、一日を反省する力のない程、つかれている。
文章も、何を書いたか分からぬ日も多い。
平々凡々の人間にすぎぬ。
大いなる時世に遭ひ、大いなるみ軍に生れあひて、
み民われ生ける験を、しみじみと感ず。
倉丘を降りて、直ちに海軍に入る。
思出ふかき倉丘の生活も、今は昔の夢である。
われの生活は、百八十度の轉換をした。
既に、一年になんなんとする生活をかえりみ、
思出深きは、また、土浦の生活であった。
★昭和十七年九月三十日
みすぼらしい學生服、きたない帽子。何処からみても田舎學生である。一人ぼつねんと、ひとり空の一點をにらんでゐた。誰もはなしかけもしないし、亦俺からも話する程、話題の持合せはなかった。大抵は、付添がついてゐた。・・・・あたりを見ても、一度もみたことのない顔ばかりが、其處此處の散らばってゐる。俺は試合にやって来た様な闘志を感じた。殆んど、試合には負けたことのない俺は、やはり腹の底に、ひそかな自身がむづむづしてゐるのを、感ぜないわけには行かなかった。
親しき友、よき境遇とはなれて、あこがれの土地へ来た。しかしなんだか、一抹のさびしさが感ぜられた。
幾日か、夢の如くすぎた。毎夜毎夜、起床動作で、きたえられた。
鉄拳の一つ一つが、吾々を学生から、きりはなして行った。
鉄拳の一つ一つは、大きな息吹となって、吾々の魂の中に打ち込まれた。
★昭和十七年十月四日
日本學界―學生時代同士の集ひ―同士の殆んどが入隊。彼等は、俺以上に苦しんでゐるに違ひない。神宮皇學館競技部首将として、後輩を指導して来た。彼等に敢闘を説き、真摯を説き、驀進して来た、俺である。指揮官の努力に報いん。不肖、動作機敏なるべし。
★昭和十七年十月七日
俺の競技観と教官の操縦上の訓示、根本に一致するを愉快に感ず。皇學館での授業 ―
あんまり聞いたこともなく眠ってゐた方が多い―が、一つ一つ、この生活と一致して行く。
★昭和十七年十月八日
父が面会に来たと云ふことを、高橋少尉よりきいた。
“おい矢野、お父さんが来られたが、課業中なので、すぐ帰られたぞ”
少尉の顔はおだやかだった。
はるばると、父は来ませど、
会えざりし、吾の心の、
意気づくものあり
父の子われの、あやまちなきを
聞きたまひ、心安らぎ、
かえりしならん
まなうちに、老父の姿、
浮び出で、はげます如し
吾は、櫂漕ぐ
短艇訓練は相当苦しかった。苦しいときは、いつも驛傅競爭のことが浮かんでくる。
大庭に ニュースを見つゝ、
たゆまらに、飛機(ひき)の信号(あか)燈(り)の
流れ来にけり
かわいゝ練習生と共にニュースをもる。父母の恋しいころ。
★昭和十七年十月十五日
暫しの間、友の煙草の一服を
ゆるりと吹ひて、作業にうつる
一服をゆるりと吸う煙草のうまさ。二服を吸う暇は、吾々にあたへられていない。
傷未だ 癒えざるが故、今日もまた
陸戦教練 つくねんと、見つ
八日の靴擦れ、未だ癒えない。靴をかへた奴がしゃくにさわる。(この靴擦の傷は、土浦教程三ヶ月の約三分の二をくらいものにしたのである)
この風、驛傳に吾を苦しめし
風に似たりし、湖岸の風邪よ
肌寒き風は、伊勢路を吹きあれし
風とおもへり、驛傳の友
行けど行けど、敵走者見えず、
幾度か 死境を越えて、
我心はあらず
あの倉丘のホールの一室から駅伝の伝統はきづかれた。そうして俺が卒業すると共に、消えて行った。
★昭和十七年十月十七日
神嘗祭の日。母、面会にくる。
夢の如、母の真顔と会ひにけり
暫くは凝視ぬ、母の真顔を
父母は一日一日と年老ひて行く。會ふ度毎に、小さくなってゆくように思へた。僅かの時間が與えられた。
雨の中 かえりたまへり、はるばると
老母の帰路、平かなれよ
神無月の雨の中を、母はしづかに帰って行った。俺は母の後姿もみずに、居住區へ去った。
苦しさはかたらず、たのしきことのみを
母に語れば、微笑てあり
たのしきを語れば、母の面くずれ
なきませる如、微笑み給ふ
はるばると 會ひにきませり、老母と暫し
語りあひけり、楽しきろかも
日々の愉快さを語ると、母の額のしわが、妙にしゃちこばって動いているのをみた。
★昭和十七年十月十八日
父の誕生日である。幾度目かの外出が許されて、戦友は皆出て行った。脚の傷は、未だ癒えない。ぼつねんと一人、兵舎に居る。
練兵場、兵群がれるが三つ四つ
別れわかれて、歩みゆきけり
ひたひたと 夜寒身に沁む、
秋の夜に 映畫見る兵ら、
小さく見ゆる
畫面一杯、乙女の微笑、共に笑い
なごやかにふける、この夕べかな
大庭で映畫があった。“母子草”学生時代見た覚えがある。母の恵みの深きを知り、子等すこやかに伸びて行く。何故か、センチな秋の夜だ。皆がみな、同じ様な気持ちでゐる夜。一四五の練習生は郷愁に胸を痛めてゐることだろう。畫面一杯に笑う乙女らの微笑む顔はわれわれ男の世界をなごやかにする。
★昭和十七年十月十九日
速かに洗面を終わって湖岸に出る。秋の朝はつめたい。はるか沖合を帆船が流れて行く。其處此處に水魚がおどる。渡鳥の一群が帰路を急いでゐる。昨日もみた、今朝も
みた。同じように亂れ、同じように舞ひ、何處となく去って行く。
若き魂の息吹は湖岸の冷気をふるはし、朝はまったく明ける。格納庫の扉のひゞき、かくて整備兵の汗と油の活動が始まる。やがて吾々は、すはれる如く兵舎に去る。其處には一日の糧が待ってゐるのだ。
隊幾千の 飯炊く煙のくろぐろと
空のまほらに 消えにけるかも
放水場に 朝の用意の兵なるか、
声のこだます、大気の中に
水くづの 流れ舞ふ如、渡鳥
北へ北へと、今日も 飛びゆく
渡鳥、新治の野、そして湖面の静けさ
★昭和十七年十月二十日
母面会に来る。宍戸のをばさん同伴。毎日の訓練で腹のへりやう、たゞ事ではない。壽司、菓子、食べたかった。寝てから口惜しい。
★昭和十七年十月二十二日
皇學館の友に会いたい。帝國軍人としてあまりにも言語動作が軽率ではないか。自分の考えが手前みそなのか。本日十五圓賜る。有難いことだ。
★昭和十七年十月二十三日
母の誕生日。靖国神社例大祭。皆んな外出した。俺は兵舎に一人居る。
★昭和十七年十月二十四日
龍谷太郎眼やみて陸軍病院に入院。駅伝の友、精華寮同室の友よ、兄の今迄がんばって居た苦闘が目に見える。俺と兄とは、あのグランドが結んだ。あの御幸道が結んだ。夜も晝も走った。試験の日も、雨の日も、風の日も、走った。駅傳に走って體を害しなかったものは少ない。それ程に苦しい駅傅。すでに入隊當時より兄の眼はみえなかった。
眼のいたみ、耐えたえゐつゝ
大御業たすけまいらす、君が心はも
いたづきの 身に耐へゐつゝ
兵と征きし、君が心の悲壮に 泣かゆ
また、矢津屋の友村山正雄を想う。
北境のはたてにゆきし、友のいそしみ
偲びし、日々の力するどし
南に北に い征きし友よ、会はまくも
これぞ別れと、わかれ来にける
蒼穹の 天の真中に、淡雲の
浮ぶを見つゝ、煙草吸ひ入る
東條、白尾、清水、永田、小野、大宮、皇學館時代の友は多かった。
★昭和十七年十月二十五日
親しき友、龍谷、東條、心から俺を知ってくれた友よ。ダブッタと云ふことは俺の一大轉換であった。更に俺と云ふものが、進歩的後退をした。進歩のための屈曲にすぎない。ダブッタ奴等は大抵軽蔑されるのが普通であるらしい。しかし人のいゝ奴程、不思議にだぶったり、成績の後の方に居るものである。龍谷、東條、親しき友よ。
夕まけて、兵舎のはり戸 越してみし
丘の彼方の 日影は、黒し
夕まけて、一人又一人 帰りくる、
兵舎のいぶき やゝに、よみがえる
向つ丘の日かげの 黒のつめたさの、
たゆたひ来る、この夕べかも
湖邊を行く、軍靴の響き かつがつと、天にひゞきて、朝 明けそむる
湖畔行く、軍靴の 音の爽快に、
天にひゞけば、朝 明けたり
小林晃先輩結婚、遂に幾年の夢は結ばれた。小名幸子嬢のうつしゑが彼の机の上に置いてあった。黒紋付をなびかせて新道を来たりし君なれど、遂には彼も人間に終わりたり。(これは失礼、許せ)
須賀進君の御母堂より便りあり。進氏は小學校の友、塚山の丘の俺の下宿の裏の家、あの丘なつかし、小丘なつかし。こんな歌を思い出した。
丘の上の燈ともしさ、
坂の神森につきて、ほっと 息つく
二俣町の上野さんのお宅に下宿してゐて俺は相變らず夜遊びをした。同宿の長田氏は真面目一方、大抵は俺一人が毎日坂を下って行った。
須賀進兄御母堂槙女史へ
一人の子を 戦にやりて、たゆみなく
日々に生き行く、力 尊し
夫と別れ、一人の男の子育てつゝ
歩みし、過去の気力 たふとき
★昭和十七年十月二十九日
湖岸の風、コスモスの花のゆらめき、病室の小さな花園。旗の波、プラットホームの夜灯が消えた、汽車はトンネルの中。星のまたゝき、恋しい夜だ。脚の傷未だ癒えない。づきんづきんと音がする。“塚山の丘の乙女、無邪気な様で、すごい娘子。”
この現実、不思議でならない。九月二十六日、勇んで家を出た。
★昭和十七年十月三十日
石川深一郎のことを思ふ。彼は影がうすかった。俺の部屋へ新入生として入ってきた。俺は大した歓迎もしなかった。誰もが二年になってうれしそうに後輩を迎へるのだが、俺は当然三年になるところを二年で居たので、皆はしゃいでゐるのが不愉快であった。何時か日一日と俺から去った後輩であったが、彼の死は、やはり俺の最初に知った後輩として、時に冥福を祈ってやった。
共にいねし、寮の燈 恋しみつゝ
君を偲ばむ、悲しきろかも
★昭和十七年十一月二日
十一月一日、脚の傷のいたみを押して行軍に参加す。宮城をおろがむ。み民吾の感激。靖国神社に参拝。
吾も亦、この静宮に祭らる日も
あらんかと、
宮の造りをしみじみと、拝す
明治神宮の玉砂利を踏む。森閑として跫音(あしおと)はひびく。
天がける 雛にはあれど、一糸亂れぬ、
四肢の動きの たのもしきかな
左折れ、右に折れ行く、列兵の脚に、
幼きおもかげの あり
先年、三重県代表として、この土地を踏んだ。今は、つわもの。
★昭和十七年十一月三日
入隊当時を回顧す。天翔ける空のつわものとなりし日の今日の嬉しさ、大声挙げたし。故郷の山の清さ、山の紅葉、御幸の道。今年は紅葉をみなかった。御幸道にに畏くも龍顔を拝せる感激に泣く。
【付記】確かこの頃、再び陛下行幸給ひしならん。俺の日記には何も書いてない。
★昭和十七年十一月六日
四時、肩が寒い。起床迄、二時間もある。何時か眠りについたらしい。総員起し五分前をきいた。必ず五分前には眼がさめる。
★昭和十七年十一月九日
八日、父、歳子面会に来る。土浦舘にて晝食を共にす。俺の今日あるは、父のおかげ、母のみかげ。
気強く大きく伸び伸びと、笑へ、ほがらかに笑へ。大人物は大人物を知る、伯楽の世になきか。
雪竹先生の様な大人物が俺を拾ってくれた。
十一月三日の龍顔を拝すの記は、隊内の二千六百年記念映畫のことなりき。
畏くも 龍顔拝す、一億の民の
歓喜の 天に とよもす
老父の えまひの顔のしわの数、
思へばみ年 六十を越ぎたまふ
久方に、飯くふ顔を眺めつゝ、
父のたこ料理迄、喰ひにけるかも
妹の 乙女の今なる後姿も
久かたみれば、愛らしきかも
妹と 喧嘩せし折、なぐりける、
頬のゆたけさ、そのふくよかさ
嫁ぐ日も近き 妹の眼の光、
稚きまゝに、かゞやきあるも
皇學の 學びの友の 西ゆ東ゆ
兵となり、天津み軍 たすけまいらす
★昭和十七年十一月十三日
急性腸炎にて休業。一人べっどにねる。このときはいろいろ回顧したらしい。この記事は残っていない。
ベッドの上に ほゝけてゐたりし、
たまゆらに、吾のいのちの
さやぐものあり
四〇首
★昭和十七年十一月二十二日
皆、鹿島に行った。一人さびしく兵舎に居る。家の方へは鹿島の絵葉書を送って参拝したことにしたが、遂に土浦時代には行けなかった。
【付記】 鹿島香取は大空より参拝す。(霞空時代にて)
鹿島に 戦友は行軍(ゆ)けり、吾一人、
湖岸に立ちて、天に うそぶく
友ら友ら あやまちなきか、吾もまた、
日々をはげみて、たがふことなし
酒を愛し をみなを愛し 歌よめる、
影山正治は、まこと 益良夫
脚やめど、益良夫の意気 盛んなり、
転びて行かん、腹ばひてゆかん
脚の傷はどうしても癒えない。どんなに脚がいたくても。
まが神の なせるわざにか、吾が脚は、
癒ゆる時なし、我胸いたし
八百萬 神きこしめせ、吾が祈り、
明日より癒えて 打走らせたまへ
友はみな 打走り居る、吾のみは、
兵舎のかたに 一人 佇む(たゝづむ)
友はみな外出するも われひとり、
脚の傷みつ、うらめしきかな
脚のきづ 今宵はいたし、あしのきづ
小さきなれど、この脚のきづ
脚の傷いまだいえざり、友ら ともら
歩並高らに、大地 ふみ行く
毎夜、一日の作業から開放されて、べっどにのぼるとき、うらめしく脚の傷を看
る。ほんとうにうらめしいこの脚の傷よ。思えば、なつかしき想い出となった。苦
しいときの人間の弱さ。
何かほかのものに、たよらうとする。たのしい想出を味はひながら、ロマンな空想
に耽る。
丘の乙女(塚山の丘の乙女)
ひな乙女、丘の小道をのぼり行く、
髪の亂れの 愛らしきかな
俺が宮川に居た頃、近くの可愛いゝ娘子が居た。毎日、電車で一緒になるので、つい話の一つも交わしたくなる。どちらから話すともなく、親しくなって行った。近所では、あまり評判のよくない娘。夜の九時十時、俺が街から帰るころ、よく一緒になった。その頃の俺の評判 ―大抵、吾々如き男でも近所のうるさいお神さんの話に上がるらしい― なかなかひょうばんがよかったので、あまり話も出来ずに終わってしまったが、山田(現伊勢市宇治山田)では見かけないほどの乙女子。鼻の低いところが魅力的。どうしてゐるだろう。
【付記】上野のおばさんに聞けば、あの娘さんかと言ふ位、有名な娘です。仲々のチャーミング田舎ではみられぬ娘。大体愛想がいい。特に男の人にはそうらしいです。
★昭和十七年十一月二十七日
津江兄に送る。競技で結ばれ 競技で別れる。
何事も 何事も、たゞ国のため、
益良武雄の行くべき、道は
をみな恋ふ 暇はあらず、ひたむきに
国に死すべき、道をふみ行く
【付記】小生堤燈持は得意の業にて候。津江兄の堤燈持致せしことあり。小生のことも亦、格別知り尽くせる友にて候。大坂今宮神社の御曹司にて候。
★昭和十七年十一月二十九日
近頃、親友を思ふ日多し。皇學館の友。前田孝哉を想ふ。前田男爵の御曹司、俺とはくされ縁。入学したときから同じ博愛寮、ともに勉強し、共にダブル。なつかしき思い出、若き日の想出!共に海軍をうけ、ともにパス。海軍を受けたものは七人。皆、俺とエーヤン(前田のアダ名)より成績優秀な奴ばかり。不思議に二人のくされ縁はつゞく、何処までつゞくことやら。
南(みんなみ)の国のはたてに 居るといふ、
友の音づれ またるゝ日かな
貴様と俺、不思議なる因縁につながれて
海のつはものと、なりにけるかな
ともになやみ、共にくるしみし、
山寮の試験のことゞも 偲べばかなし
山寮の三階恋し、三階の窓ゆ
ゆまりの こゝろよきかな
一年の三学期はもう殆んど絶望に近かった。二人で一心不亂に英語をやった。
にくつきは、町公の面、植村の面、三階で消灯後、二時間も勉強したが追付かなかった。階下の炊事から米をもらって来て、ゆきひらで炊いて喰ったこともある。何かしらんが、お菜をたいたり、今思えば随分変わったこともやった。
残飯を かき集め来て喰ひし頃、
貴様と俺は、多額納税者
俺と貴様、海軍士官になりし日よ、
死すべき時も ともどもにせん
エーヤン 哲、俺と貴様になりし日よ
共にみいくさ たすけまつらん
(エーヤンと呼び、哲坊と呼んでゐた。)
ともに遊び、共に學びし、俺と貴様、
きさまはとほく 行きにけるかな
あの道、あの街の燈、遊びつかれて
帰りし、道よ
とほはう(遠方)の椰子の木蔭の 貴様の顔を、
思ひいでつゝ、われは微笑む
男子かも、無念なれども言挙げせじ、
ひたんに進まん 益良夫のみち
何か憤りありしも、今は忘れてゐる。たいしたことではなかったらしい。
ひしひしと せまる語気のするどさに、
耐へ耐へゐるも 言挙げは せじ
★昭和十七年十一月二十九日
入隊後、二ヶ月になった。脚を負傷したことは残念でたまらぬ。入隊前の決心を顧みる。
後輩のだらしなさにあきれる。駅轉の轉統継ぐものなく、俺が轉統汚し、そを雪ぐものなきを悲しむ。苦しさを耐へて走らんとするものなし。次々と病得て倒る後輩に代りて走るものなきが哀れ。あゝ皇學館三百、苦闘に耐え得るものなきか。御幸道に
もだえ走った幾多の先輩に申しわけなし。やはり俺達で皇學館は亡んだのだ!
これすべて町田。植村を難ずるなり。俺が指導した後輩の気持は分らぬこともなけれど――
あゝ なつかしのグランド 恋し
かの黄金山よ かなし
今は 消えゆく、スパイクの跡も
ともにほろびし
駅轉走らずときゝて
苦しさを耐へて走らん、者なきと
云ひこしきけば、さびしきろかも
病得て、走者倒るとも、そのものに
代りて走る、者なきぞ あわれ
全學の栄誉もあらず、後輩に
賜りしものは、たゞ 不参加か
誰か駅轉不参加せよと言ひしか走
大八の如き奴ばら、倉田山に
巣喰ひて、今は 正義倒るゝ
(注 大八とは植村大八車を云うぅ)
倉田山、猿にかも似る奴輩の
住處となりし、校舎よ、あはれ
(右の歌は、町田何とか教授に送る。)
なつかしのグランド消え行くといふを、きゝて
なつかしの校舎よ、あはれグランドよ、
壊れ行くといふ、さびしさに耐ふ
夕暮の大地かなしみ、槍投げし
グランド 今は、くずれ行くかな
グランドの土一握りを にぎりしめ、
誓ひしことの はかなかりしか
グランドの命と共に、消え行くか、
驛傳、遂に走るものなし
なつかしのグランドほろぶと、もろ共に
傳統つひに かへりみるなし
グランドぐらんど、くずれゆくグランド
土一握の なつかしきかな
血と涙の 傳統までも打ちくずせし、
仕打の憎し、切り捨てんかも
驛傳、俺の境地は・・・・想出、驛傳につながる数々の思い出!苦しきおもい出、うれしき思いで。後輩よ、再び起て。この気持を忘れるな。
タチヨミ版はここまでとなります。
2024年12月7日 発行 第2版
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大正9年(1920年)5月3日 鎌倉市二階堂
矢野豁次男として生まれる
昭和13年 京都府立第三中学校卒
神宮皇學館本科(52期)第2部入学。
昭和15年 第4回全国大学駅伝(全日本大学駅伝対校選手権大会競走) 神宮皇學館大學優勝。
昭和16年 第5回全国大学駅伝:神宮皇學館大學2位いずれも最終走者。
昭和17年 9月 神宮皇學館本科第二部 卒業
10月 第11期海軍航空予備学生として入隊
昭和18年 7月 海軍少尉となる。
昭和19年11月 神風特別攻撃隊金剛隊長となる。
昭和19年12月7日 神風特別攻撃隊第五櫻井隊長として“アルベラ”西方の艦隊を攻撃し、“われ空母に突入す”と打電したまゝ、遂に消息を絶つ。
時に満24歳
戦死後、海軍少佐 (海軍中尉より二階級特進)