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私の登山や海外渡航歴は16~18歳から始まる。現在、プロの山岳ガイドと鍼灸師である私は、単なる登山やトレッキングの目的地として、ヒマラヤなど世界の山岳辺境地域と付き合ってきた訳ではない。「場としてのヒマラヤ」は、その地を訪れるあらゆるタイプの人を、深遠さと温かさ、そして豊穣さをもって抱擁してくれるのだ。また、中国を発祥とする鍼灸の基礎には、移り行く自然の変化とわが心のありかを、皮膚感覚で対峙させる中で生まれた独特の自然観や宇宙観を構築している。古代中国の人は、人間の体を小宇宙とみなし、「気」という肉眼では見えないエネルギーが出入りする磁場を「ツボ」と呼んだのだ。
私たちの住む星・地球にも、人間の体と同様に磁場としてのツボが存在すると私は思っている。こちらは、人間への癒しと明日ヘの活力を発するエネルギーを流入してくれる土地といっていいだろう。多くは辺境の地にあり、悠久でかつ厳しい自然環境下にある。文明の恩恵をあまり受けておらず、人々の生活はシンプルで余分な欲を膨らませなくてもすむ場所である。そこでは、環境に応じた人々の知恵の結晶である伝統医療が息づいている場所でもあるのだ。
呪文を唱えながら治療を施す呪術師のいるボルネオ島の熱帯雨林。薬草と熱した金の針などが治療に使われるヒマラヤ山麓の国・ブータン。祈祷師が崇拝されているアフリカのサバンナ。インディオの薬草知識を伝えるアマゾン奥地の密林地帯など……。それらの土地では、自然の中で心と体のハーモニーを奏でている人たちが住んでいることを我が目で確認してきた。別の表現をすれば、『幸せの在り処』をしっかり見据えている人たちだとも言えるだろう。
私は、これら伝統医療が息づく辺境の土地は、地球のエコロジカルな調和状態を知る定点観測地ではないかと思い、その『場のエネルギー』を感じる養生の旅を続けてきたのである。「心身の養生場」としてヒマラヤや世界の秘境・辺境地域を捉え直してからは、多くの方をその場へと案内してきた。コンピューターでは管理できない「匂い」や「触感」「味わい」を大切にしながらの、『地球のツボ・世界の秘境・辺境』への旅は、今という時代を生きることの意味を探す旅でもあると思っている。
私が総合コーディネートする、「ヒマラヤ養生塾プログラム」では、曙光に淡く輝くヒマラヤを前にしたメディテーション(坐臥や歩き瞑想など)、チベット医学のアムチ(伝統医療従事者)やアーユルベーダの術師からの講習、マンダラ制作現場の見学、そしてパーマカルチャー的ライフを実践するヒマラヤ山村での滞在などのエッセンスを組み込んでいる。同行者の多くは、30歳代~70歳代くらいの女性や定年退職前後の中高年層が主体である。彼女・彼らの行動もなかなかユニークなものである。
朝陽に輝くヒマラヤと気の還流をするのだと、緩やかに太極拳を始める人。乾燥した水牛の糞が点在する牧草地で、ビニールシートを広げていきなりの瞑想タイムに入る人。着ぐるみ状態でブルブル震えながら満天の星空を見上げ、流れ星の数をいつまでもカウントする人。また、現地の子供達に話しかけ、即席でのネパール・日本友好「歌と踊りの交流会」がはじまったりもする。至るところで笑顔が輝き、笑い声が弾けている。ヒマラヤ養生塾では、時間を厳密に区切ったスケジュールは特には設定していない。予測不可能で絶えず移ろう「自然環境」の中で、参加者の「心の環境(その時の気分)」をどう調和させてゆくかがコーディネーター役としての私の腕の見せ所でもあると思っている。
なにも、「心身の養生」や「デトックス(心身の解毒)」を目的とする環境設定は、ヒマラヤなどの圧倒的で壮大な自然環境下だけではないと思っている。古来日本の各地においては、山、森、巨木、岩、泉、滝、島、岬などには「タマ=霊」や「カミ=守」が宿るとされ、自然崇拝の対象ともなってきた。里地や里山、里海とは、人間の俗なる生活の場であると同時に、「浄めの場」や「癒しの場」といった、聖なる非日常空間との境界線上における接触点でもあったのだろう。
虚心になり森羅万象の恵みの中で歩いていると、体中から娑婆気が抜け山野の香気に全身が洗われる気がする時がある。自然界のささやかではあるが、営々と続いている大いなる命のハーモニー風景に出逢うことにより、身体の隅々にある微細な細胞群が喜びに溢れているのを体得する瞬間があるのだ。その命のハーモニー風景との出逢いとは、ちょっとした刹那で起きる偶発的瞬間なのかもしれない。突然降り注ぐ森の木漏れ日に全身が包まれた時や、ふと顔をあげた瞬間に鳥のさえずり音で身体の動きが止まった時などなど。
このように自然界からの恵みを受けながら歩くことは、「見る」「聞く」「匂う」「味わう」「感じる」という五感を新たに研磨できるだけでなく、「何ものかに包まれる」とか「何ものかとつながる」、といった六番目以降の感覚に気づく機会を与えてくれるのかもしれない。里地・里山・里海・里森といった「里」という文字の付く土地は、大切な何かについての気づきの場ではないだろうか。秒針が刻むリズムで管理される都市に住んでいると、予測不可能な自然から得られる「手応えのある至福感」といったものは、なかなか感じにくくなってきている。
自らの五感や直観で感じる「至福感」は、人間の心身や魂に本来内在されている「自然治癒力」をあるべき姿へと導いてくれる源泉ではないかと私は思っている。ヒマラヤなど世界の山岳辺境地域から、身近な里地里山での「心身養生の場」の設定・プログラム実践の主目的はここにあるのだ。これまで、山岳・秘境・辺境世界と東洋医学の世界に身を浸してきた者として、『ホリスティック・ツーリズム』の普及活動が、豊かで成熟した社会の構築への一助となればと願っている。

この原稿を、下関から韓国の釜山へむかうフェリーの中で書いている。その昔、学生であった私は友人と2人で同じ航路で、人生初の海外への渡航旅をはじめている。不安と期待が錯綜する若い二人を、玄海灘は荒れる波で歓迎してくれた。釜山港の沖合に停泊する船の上から、朝霞の中に浮かぶ釜山の街を見ながら、友人と理由もなく涙を流したことを思い出す。高校時代からの「大陸」という言葉の響きへの異常なほどの憧れ。今、その大陸の末端である釜山の街を見ている。今回の玄海灘は非常に穏やかである。甲板には私一人。静かに、過去の歳月を回想している。
海外への憧れは、若人にありがちな「他人とは違う生き方がしたい、波乱万丈の人生がおくりたい」といった想いからの発芽であった。19世紀から20世紀初頭の冒険家、探検家達のノンフィクションを読みあさり、4畳半一間の下宿で一人血湧き肉躍っていた。チベットの精神的指導者である、ダライ・ラマ14世と出会ったのも、ちょうどそんな頃のことだった。京都のホテルの一室で一時間半ほど話をする機会を得たが、師との出会いはその後の私の人生進路に大きな影響力を与えたのだった。インドにあるチベット難民の町・ダラムサーラに私は6カ月滞在した。短期滞在の外国人である私を、チベット難民の彼らは家族同然のように扱ってくれた。この後訪れたヒマラヤ山麓の寒村でも同じような出会いがあった。今まで隠されていた若者特有のトゲトゲしい心の角が、旅を続ける中で融けはじめていった。異国の人の温かい心の温度がそうさせてくれたのだった。アジアの伝統医学や、仏教などへの興味もこの頃から芽生えはじめた。
「旅」という行為は、外国の事物や事象に触れることである。学校の教科書に書いてある内容を確認するだけが旅の本質ではない。旅をすることとは、自己再発見の「気づき」なのだろう。大自然の中を旅する醍醐味をもつ魅力を、多くの人へ伝えたいという思いが次第に強くなっていった。大学卒業と同時に、世界の秘境・辺境・山岳地域をフィールドとするエージェンシーに就職し、各地にてのフィールドワークをおこなってきた。地球のテッペン・北極点、灼熱のシルクロード、緑の魔境・ニューギニア、世界の屋根ヒマラヤなどなど。当時、地球上に残された大自然や、そのなかでドラマチックに生きる秘境の人々に数多く出会うことができた。
海外渡航回数がいくら増えても、はじめて訪れる土地に到着する時は、ワクワク、ドキドキする。未知の物との出会いに心躍るのである。空港に到着する時は、自分の五感を研ぎ澄ます。事前の情報や理屈で事物を把握するのではなく、あくまで自分の肉体の感性でもって感じ取るためだ。自分の価値観や固定観念が揺さぶられるような出会いや瞬間を期待しているのだ。こうした心の未知なる世界への扉は、何歳になっても開けておきたいと思う。すなわち、今までの自分を『スクラップ(崩壊)』させ、新たに『ビルド(再構築)』させるのである。
旅することは、「タマネギの皮むき』に似ている。知らず知らずの間に我が心に覆いかぶさっている、固定観念・先入観といったタマネギの皮という名の鎧。そして旅の途上で、未知なる物との出会いにより、その皮が徐々にむかれてゆく。玉ねぎの皮むきには涙がつきもの。それは自身の心の涙でもある。そして皮をむききった時、裸の心が見えはじめる。幼い頃、無心になって野山で遊んでいた自分の姿がオーバーラップしてくる。それはため息が深呼吸に変わる瞬間である。地球上には、そんなため息を深呼吸に変えてくれる磁場を持つ土地が、まだまだ残されている。
過酷な自然環境下ではあるが、着実にカカトを地面につけ、堂々と生きている人達。誇りをもって伝統的な生活を送る人達。文明化の波間で揺れ動きながらも、未来ヘの鋭い選択眼をもつ人達。その姿は頼もしく、逞しい。そして彼らの背後には、悠久で壮大なスケールを持つ大自然がある。私たちの住む、この地球はまだまだ捨てたモノじゃない。そして未知なる世界への、人間の可能性についても同じことがいえよう。
先にも述べたが「五感を研ぎ澄ますこと」、言い換えれば「自分の体性感覚の復活」が、特に人工知能などが席巻している現代のネット社会では問われているのである。旅で直面する事物を己の肉体の感性でもって感じ取るということであろう。人間の肉体が持つ感性の可能性に興味を持った私は組織人を辞め、30代半ばから東洋医学の学校に入った。鍼灸の技術はもとより、東洋に生まれた宇宙観、自然観、人間観をさらに深く学びたいと思ったのである。人間の体を小宇宙とみなした古代の感性の結集が『ツポ』である。「気」という肉眼では見えない感性のエネルギーを流出入するこのツポから、鍼灸師は身体の情報をキャッチする。いわばツポは、体性感覚の調和状態をはかるパロメーター点である。
この丸い地球にも、人間の身体と同様に磁場としてのツボ (場所) が存在する。『人間への癒し』と『再生能力』を賦活させるエネルギーを有する土地だ。これらの土地は、地球のエコロジカルな調和状態を測る観測点でもあり、同時にその土地を訪れる者たちへ「深呼吸することの意味」を気づかせてもくれる。そして固まりかけている、心のタマネギの皮をむいてもくれる場所でもある。



地球の鼓動を感じたい
それは小学生の頃。兄と一緒にねぼけ顔を必死にこらえて、テレビの画面に向けていた。画面ではアポロ11号による人類最初の月面着陸のシーンが映しだされていた。旧ソ連の字宙飛行士ガガーリンによる「地球は青かった」という言葉とともに、宇宙から見た地球の美しい姿に幼い心をときめかせてもいた。自分達の住んでいるこの地球を、宇宙空間から眺められたらどれだけ幸せだろうか。それが無理であるなら、地球という星の鼓動を自らの五感で感じてみたい、そう夢想する少年時代を過ごしていたように思う。
夢が現実に近づいたのは30代のころ。地球のテッペン・北極点へのリサーチ旅をコーディネートする機会を得た。日本出発から帰国までの総日数は僅か11日間。しかし参加費用は300万円。小型飛行機による北極点到達、そして帰路グリーンランドヘも立ち寄るスケジュールだ。日本出発前に現地手配エージェンシーより、足のサイズを知らせるよう連絡が入った。極地用に開発された特別製の靴を手配する為だ。私は現地手配先にわかりやすいようにと、コピー用紙の上に自分の足型をトレースして描いた。描きながら少々感傷的になっていた。
「ああ、この足が地球のテッペンに着地するのか・・」
そう思うと、アポロ11号の飛行士の気持ちに少しばかり接近することができたのだった。少年時代に戻った私の心と身体を乗せた飛行機は成田空港を飛び立ち、一路カナダのモントリオールヘ。ここでアメリカからの同行者達と合流する。現地側のスタッフはなんと妙齢の女性。スタッフも同行者達も絶えず笑顔を振りまくナイスな人達ばかりだった。
針路は北、いざ北極点ヘ
モントリオールから国内線を乗り継ぎ、北極点探検の基地でもあり、極地観測所があるレゾリュートヘ。ここは冒険家・植村直己さんをはじめ多くの極地冒険・探検家達が最終準備をした場所である。ここからさらに北へ飛び、粗末なロッジと簡素な滑走路のみがあるユーリカという土地へと移動する。北極点へのフライトはこの土地から出発するのだ。我々は使用する小型飛行機の整備調整の確認も兼ね、北極点フライトの前に北磁極を訪れた。
「磁石(方位計)がクルクルとまわる」というのがこの北磁極のキャッチフレーズ。
まさに地球の磁力を全方位に発散・集約している場所。外気温度マイナス35度、着膨れした防寒着のポケットから磁石をとりだした。困惑したかのように磁石の針は揺らめきながらガラスケースの中を回転していた。小型飛行機は機動性を重視する為、トイレの設備がない。北極点へ向かう日の朝、巨漢のカナダ人パイロットが参加者へ問う。『膀胱の中はカラッポかい?』片道5時間のフライト中に尿意をもよおしても、北極海上に公衆トイレなんてものはもちろんない。
わがジュニアが悲鳴をあげるほど出発前に絞り上げる。片や簡易トイレの重量分にも相当するくらいの巨漢パイロットの腹の脂肪をうらめしく思いながら、いざテイク・オフ! ユーリカを飛び立ちしばらくは大地の上。エルズミーア島の突端岸壁を右手前方に望む頃、北極海が眼前に現れる。機窓から海上の氷原帯が間近に観察できる。氷原帯が裂け、どす黒い海表面が顔を出す。氷原帯同士がぶつかり合い、接触面に白い牙のごとく氷塊が一列に並ぶ。遠方の空は鉛を溶かしたような不気味な色。プリザードでも吹いているのか、白濁する海表面。途上、給油の為に着氷した。北極海を浮遊する氷原の上に、ドラム缶が数個置かれているだけであった。ドラム缶にセットされた発信機からの電波だけが頼りにアプローチする、極北の無人ガソリンスタンドである。
地球最北・驚異のドラマ
飛行機の計測機が限りなく北緯90度に迫る頃、機体は何度も旋回を繰り返しながら高度を下げてゆく。ランディング・ポイントの探索である。上空からは白一色に見え、平坦にも思える氷原面は、接近してみるとかなりの凹凸がある。この着氷ポイントを誤ると確実に天国への片道フライトとなる。
『ガガガ、ゴワゴワ、ガガガー!!』
絶対的な静寂世界に人工の音響がこだまする。地球最北地点への到着だ。小型飛行機のドアが開き、パイロットが簡易ステップを設置した。月面に降り立った宇宙飛行士と同じように、そのステップをゆっくりと下っていき、まるでスローモーションの動きの如く我が最初の一歩を北極点に降ろしたのである。その瞬間、音の全く無い、色は白のみという世界が視野の全部を占めていた。痛いほどの寒気が防寒着の細かい繊維の隙間から容赦なく肌を刺すように攻撃してきた。自分がたてる『カリカリ』という無機質な足音だけが鼓膜を震わす。圧倒的な「無」の世界に己の身体までが透明感を有しているかの如く錯覚し、人間の存在が薄く危うくもなっていく。我々は約1時間程、地球最北地点に滞在した。機体のプロベラが回り始めた時、パイロットがコックピツトから我々の方を振り返リニヤリとした
。
『着氷地点から4キロ移動してるぜ』
飛行機の計測機による換算では、我々はなんと、成人が1時間に歩くスピードで動いていた。地球最北の厚さ30mもある巨大な氷原帯は、音を一切たてず時速4キロのスピードで動いていたのだ。『地球の鼓動』というのは、人間の想像力を遥かに超えた世界で日々繰り返されている。地底深くにてはマグマが絶えず流動を繰り返し、ヒマラヤなどの極寒世界では1日に数ミリ単位で巨大な氷河が微動している。やはり私達人間は地球という星の上で、『生きている』というより、『生かされている』のであろう。

「いつかは実現できるだろう・・」、地球をまるごとサンドイッチ! 地球のテッペン・北極点で私は新たな夢を抱いていた。ま~るい地球にも軸足がある。それが北極と南極。この2つの極地の軸を訪れ、自分の足で『地球をサンドイッチしたい』、というものだった。 マイナス27度の北極点で、私の胸だけは沸々と熱気が上昇していた。(それから15年、ほんまに実現できるんかいな)と薄々諦めかけていた。が、チャンスはやはり到来したのである。
とある年の1月。私は南極へと向かう小型飛行機の機内にいた。荒天で名を馳せる、南米最南端・ドレーク海峡の上空で、硬くて狭い座席にサンドイッチされながら、身動きできない私は一抹の不安を抱いていた。前日は南極上空の天候が好転せず、行程半ばにして泣く泣く引き返していたのだ。残されたチャンスはこの日のみ・・。 日本から北極点までは片道5日だった。奇しくも今回同じ日数をかけて南極へと到達しようとしていた。太平洋上空にて日付け変更線をひとっ飛びし、座席に根が生える直前にチリのサンチャゴ着。翌日の朝、時差ボケの頭にスペイン語のモーニングコールが陽気に響いていた。サンチャゴから南米大陸南端の街・プンタアレーナスまで国内線で4時間半。座席では尻から新しい根が育とうとしていた。
マゼラン海峡からの心地いい風で、強張った尻の筋肉がようやく解れようとした矢先だった。「 セニョール! ×△※○×□※、Sorry ! 」 、「えっ、今何ゆうたん? ソーリーって、お宅何でアヤマっとるん?」。 振り返りもせず、南極行きのパイロットは頬に笑みを浮かべながらその場を立ち去って行った。南極フライトの同乗者であった、スペインのワイン城のオーナーが訳してくれた。「また、天気悪いんやて。気長にいきまひょ、やて」「しばらく待っておくんなはれ」やて・・。えっ!「オー、マイガットならぬ、オー、マイヒップ!」、と思わず臀部に手が伸びた。それから延々と出発ゲート内や中継地空港の掘っ立て小屋の中では、キョロキョロとしてはヨタヨタと歩き、座ってはウ~ンと唸ってモゾモゾと身をよじる妙な一団の姿があった。少々お尻を突き出しヨロヨロと数歩歩いては、相性の合いそうなベンチを空ろな目で探す。私達は南極に到達する前に、自らが少々くたびれた新種のペンギンと化してしまった。
度重なるスケジュール変更や長時間の移動距離に対する忍耐力と少々の経済力さえあれば、南極到達へのリサーチ旅は一般人にも門戸が開かれている。南極の中でも比較的温暖な気象条件下にある、キングジョージ島までは片道3時間のフライトだった。タラップを運んで来るチリ国南極観測基地のスタッフは、日本の冬山程度の装備だった。扉が開く瞬間、冷気の進入に身構えたが、なんと外気温はプラスの2度。大陸全体が厚い雪氷に覆われ、ブリザードが一瞬にして視野を白濁させる、そんな南極に対しての固定観念が多くの人にはある。しかし、南半球の1月は夏真っ盛り。さらにキングジョージ島は南極の中でも比較的温暖な気候に属している。ゴムボートに乗って向かったペンギン営巣地では、ペンギン達が快適に海水浴しているような光景にも出会った。アザラシ達は柔らかい砂地の海岸でお昼寝の真っ最中だった。室温調整中とはいえ、ロシア基地内のコックやチリ基地内の土産物ショップのオネーさん達は、額に汗を浮かべながら半袖で忙しく動き回っていた。
南極から日本に帰国した数日後のこと。北海道がマイナス20度前後というニュースを聞いた。片道5日の南極より、空路1時間前後の北の大地がよりシバレていたなんて。地球をサンドイッチして味わった食後感―それは、意外にもシンプルなものだった。「やっぱり自分の目で見てこなイカンな~」ということ。 探検家チェリー・ガラードは「探検とは知的情熱の肉体的表現」と述べている。与えられた画一的な情報ではなく、自らの五感で感じ取る肉体的情報が新たな知的情熱を育むのではないだろうか。
すでに10回くらいになるだろうか。地球の裏側・マチュピチュへの探査回数である。日本人が訪れたい世界遺産、というランキングで必ずトップとなる、マチュピチュ遺跡。ここは、確かに『魂が揺さぶられる土地』のひとつであろう。行かれた方はお分かりだろうが、その地形景観が大きな要因でもある。その地形景観の中でも、際立って特異なものが、「ワイナピチュ」と呼ばれる、砲弾形の岩峰であろう。このワイナピチュは、現地の言葉で「若い峰」である。それに比してマチュピチュとは「年老いた峰」という意味である。屹立する岩峰は、やはり『若い』のである。そして、平らな地形のマチュピチュは「辛酸を舐めてきて年老いた」場所なのだろう。
そんな若いワイナピチュ岩峰の突端部近くに、祈祷台となっている岩の窪みがある。ちょうど、人ひとり分が座れるスペースが岩に刻まれている。そして、その下は、千尋の谷底なのである。ここに立つと、身体全身から冷や汗が噴き出てき、足のみならず全身が震え上がるのである。すこしでも、風に吹かれると、一気にインカの藻屑となってしまう。眼下には、マチュピチュ遺跡群がまるで、コンドルが羽根を広げたように位置しているのがわかる。まさに「コンドルは飛んでいく」の世界が、アマゾン河の源流奥深い場所に存在しているのが、実感できるのである。
アンデス山脈の深い渓谷の下では、アマゾン河に注ぐ濁流が渦を巻いていた。山肌につけられた、つづら折の道をバスが喘ぎながら上ってゆくと、マチュピチュ遺跡は山の頂に忽然と姿を現すのである。この遺跡を最初に訪れたとき、遺跡が残る山全体は流れる雲に霞んでいた。峡谷からは絶えず風が吹き上げ、流れる雲の間から石積みの住居跡などが垣間見えた。まさに空中都市遺跡の名がふさわしい景観だった。遺跡の中を歩きながら、私の頭は謎で一杯だった。
「神と交信するために、山の頂に生活空間を求めたのだろうか?」
「生活のための水はどうしたのだろうか?」
次から次へと疑問が湧いてきた。おそらく、疑問への答えはすでに分析され、解説書に記述されているだろう。でも、私はあえて自分だけの空想の世界に、しばし心を遊ばせていたのだ。私は、旅のときでも日常生活でも、この空想の時間を大切にしたいと思っている。例えば、幼い子供などから池に泳ぐ亀をみながら、次のような質問を投げかけられたら、貴方などのように応答するだろう。
「どうして足を互い違いに動かすの?」、「カメのしっぽは、なんで短いの?」、「じっとして、何を考えているのかな?」、「動きが少ないから、長生きするの?」
私であれば、その素朴な疑問に即座にいい返事が見つからず、ウーンとしばらくうなってしまうことだろう。あわててネットで検索し、そこに書いてある答えを、棒読みすることもできるかもしれない。しかし、私は質問者の子供と一緒に空想の世界へ旅立つ言葉を探していたいのである。現代の生活は、日常の隅々まで情報が溢れている。子供の素朴な疑問にも、パソコンでキー操作すると、短時間で科学的な答えを引き出すことができる。
しかし豊富な情報がある生活は楽で便利だが、自ら考えることなく、解答を性急に求めてしまいがちになる。空想は、自分勝手な想像の世界であり、正解を求めるためのものではない。だからこそ、日常の生活の中に自らの力でファンタジーの世界を作り出せるのだ。子供にとっては、毎日が謎や不思議に満ちた時間なのだろう。そんな彼らは、自分だけの小さな発見に驚きの表情を隠さない。どんなに年を重ねて行っても、休日の昼下りくらいは空想の世界へと旅立ちたいものだ。
体の危険度センサー
タイといえば、昔は通貨危機を招き経済が破綻しかけたこともあったが、現在はアジアの優等生に入る経済先進国である。その昔、貧乏旅行をしている時、パンチパーマに白のエナメルの靴を履いた異様な日本人グループと、バンコック行の機内にてよく乗り合わせたことがある。彼等は、今は懐かしの売春ツアーの団体さんであった。日頃はおとなしいオトーサン達は、なぜかタイに旅行する時には、かのファッションをした時代もあった。昔のタイは、出かける方もアブナい人が多かったのであるが、現在のタイ旅行の主流は、OLさん達や、中高年のオバさん達となっている。また、バンコックの主要観光地などは、中国からの団体さんが席巻している。出かける方も受け入れるタイの方も、健康的でかしましいぐらいの、賑わいを見せている。
昔から私は、なぜかアブナい匂いのする場所に足が向いてしまう習性があった。危険というのは、 一度経験すると体がその危険度に順応していくのである。私はスピード狂ではないが、気持ちはわからないでもない。さらに危険度の高い場所や空間を、脳と体が求めはじめるのだろう。自分でもヤッカイな性分だが、それが若さを維持する原動力とあきらめている。健康的になったタイに滞在中、非常に刺激的な村を訪れたことがある。正確な場所を明かす訳にはいかないが、そこは湿地帯にあり、盗人や犯罪者の住む村であった。タイの友人から、この村に住むネズミ先生を紹介してあげると聞いた時、久し振りに危険度を感知する体のセンサーが高らかに鳴ったのである。
タイのアブナイ村
首都に注ぐチャオプラヤ河の中流にあるこの村は、土地が低く、雨期の期間はほとんど水に浸かるらしい。乾期に訪れたが、地面はジトジトとしており、蒸し返すような熱気が蜃気楼のように漂っていた。村の裏手には広場があり、ネズミ先生の館はその一角にあった。簡素なつくりの家の入口は、脱ぎ散らかした多数の靴で一杯だった。ミシミシと鳴る木の階段をあがる。2階にあがった私は、 一瞬たじろぎ、足がわずかに震えた。10畳ほどの広さの2階には、30名ほどの上半身裸の男達が入り口に背中をむけて座っていた。私の眼の中では、彼等の背中に彫られたイレズミが舞っていた。私は、盗人や犯罪者の土地ならではの、『ネズミ先生』という命名だと妙に感心していた。
そのネズミ先生は、白い装束にて男達の前に鎮座していた。年齢を聞くと、ニヤリと笑いながら『40歳は越えているはず』との答え。現地で聞いた話では、タイにての入れ墨の歴史は非常に古いらしい。その昔、現在のカンボジアの中部にあるコムという王国にて戦争があった。文字を読めない戦士達が、戦場にて恐怖に打ち克つときの守護神として、体に墨を入れたのが起源らしい。体に入れる墨は、仏教の守護神や、お守りの呪文などがデザインされたと聞いた。呪文は古代インドの文字であるパーリ語である。ネズミ先生のいれる墨は、その起源の考えに従い彫られる。日本の刺青のように、デザインも色彩もカラフルではなく、色も一色のみである。しかし、モノクロの写真の方が、意外にも説得力を持つ場合があるように、私は単色の人れ墨の持つパワーに圧倒されていた。彼はこの村に住み、盗人や犯罪者の背中やふともも、はては頭部にまでも入れ墨をしている。たまには舌部にも彫ることがあるともいう。
タイの有名な映画俳優に彫った時の写真や、シンガポールに招かれた時の写真、地元や海外の新聞に紹介された記事なども見せてもらった。彼が入れ墨を彫るその手さばきは、まるで芸術家のようでもあった。彼が、長さ60センチの針を両手でかまえ持ち、微妙に右手を動かすと、たちまち若者の背中に見事な守護神が描かれてゆくのである。
ネズミ先生・5つの誓い
彼は、タイの若者に入れ墨を施す前に、5つの誓いを約束させている。
『麻薬と酒には手をだすな』・『動物の殺生はならぬ。しかし食べるのはOK』・『父母への悪口を絶対言ってはならない』・『人の恋人や妻を盗ってはならない』、そして『ウソを言ってはならない』 この5つである。
この誓いを破った者は、背中の守護神が逆に本人を攻めはじめるという。しかし、この誓いの内容からも、また休憩の時にはミネラルウオーターを飲み、タバコを吸うネズミ先生からは庶民的な雰囲気が滲み出ている。世界には、貧困で心の持って行き場のない若者は多くいる。ネズミ先生のように市井に住み、不思議な魔力と独自の導き方を持った導者は、まだまだ必要とされている。彼等は、その時代の大衆にとって、行き場のない心の癒しの術者として、ある種ガス抜きの役割を担っているのだろう。館に上半身裸で彫り物を入れるのを待っていた、タイの若い僧侶のまなざしが心の術者の必要度を物語っていた。
民間計画による月着陸などの話題が飛びかっている時代である。宇宙空間から撮影された、非常に鮮明な地球の画像なども出回っている。このような画像は、自然災害のメカニズムが解析できるなど、人類にとって有益なことに使用されてもいる。鮮明な画像はそのうち、道端にて立ち小便している男のトボケ顔まで、宇宙から眺めることを可能にするかもしれない。急速に進歩してゆく科学技術のスピードは、長年各所を神秘のベールなどにて覆ってきた、恥ずかしがり屋の地球を丸裸にしてゆく。21世紀中には、地理学上における、「未知」とか「神秘」という言葉は死語になっているのだろう。
緑の魔境へのアプローチ
私が初めて訪れた年、その空港は現代に残されたロストワールドヘの玄関口のようにも感じられた。グリーンランドに次ぐ世界第2位の大きさを持つニューギニア島。緑の魔境という呼び名にふさわしく、この島のほとんどは熱帯雨林のジャングルに覆われている。島の中央部に国境線が引かれ、東はパプア・ニューギニア、西はインドネシア領ニューギニア・俗にイリアンジャヤと呼ばれる。ロストワールドヘの玄関口であるヮメナ空港は、イリアンジャヤの中央高地にある。多島国家であるインドネシアの中でも、最も辺境部にあるこの地域へ行くには、日本から3日もかかる。一旦、日本から空路ジャカルタかバリ島へ。そして国内線にてイリアンジャヤの中心地・ジャヤプラヘ。ここから小型飛行機にて約1時間。この一時間のフライト中、眼下には鬱蒼としたジャングル地帯と、蛇行する泥色の河川が見えるのみ。視界には延々と緑色が続く。果てしない樹海からは、酸素がフツフツと沸き上がってくるような気もする。私は、機内で深く深呼吸をし、新鮮なエアーを肺に注入した。
ロストワールドでの出迎え
ワメナ空港に到着した小型飛行機の窓から見た光景は、未だに忘れる事が出来ない。簡素な空港の脇に、数人の黒い男の人影が遠望できる。目をこらすと、人影の手には長い槍、中には弓矢を持った人もいる。さらに目をこすると、その人影は全身裸なのである。イヤ、一カ所のみ隠された部分があった。男の局所にのみ『ゴサカ』と呼ばれる、ペニスケースがついている。このペニスケースはヒョウタンから出来ている。出迎えがこのような風景である空港は、世界ひろしといえど、ここワメナ空港を含め、ニューギニア高地にしかないであろう。
プロペラの轟音の中、誇り高く屹立している槍とペニスケース。タラップを降りながら、インディージョーンズの映画の世界に入った気持ちでワクワク、ドキドキしていた。私は、ワメナがあるニューギニア高地のバリエム谷に数日間滞在した。このパリエム谷にはダニ族と呼ばれるニューギニア高地人が居住している。空港で出迎えてくれたのもダニ族の男達である。彼等は、文明化の波の影響を少しずつ受けながらも、石器時代さながらの生活をいまでも送っている。
ワメナ郊外の村々を歩いて巡ると、その様子がよくわかる。ジャングルの中を簡素な舟で川を横断したり、いまにも倒れそうな一本橋や吊橋を渡ったりしていると、とんがりキノコの形の家々があるダニ族の集落が現われる。家の中は非常に暗く、ただでさえ黒褐色の肌をしたダニ族の人々であるので、ほとんど見分けがつかない状態である。集落では、焼け石を使ったストーンポイル (石蒸し) のイモ料理や、ご馳走であるプタも目の前で解体された。
地球上に残したい美しきもの
外国人がたまに訪れると、集落中のほとんどの人が集まってくれる。集落の長らしき男のペニスケースは見事な長さと太さを有している。長いのは切っ先が首くらいまである。子供達のペニスケースは、微笑ましいサイズである。現地ガイドによると、ダニ族の少年達は、立派なペニスケースを身につけるべく、河原で自分のイチモツをペッタン、ペッタンと石でたたいて膨張化に努力しているらしい。一人前の男になるには、痛く厳しい修練が待っているのである。かたや女性は親族が死亡すると、自分の手指の関節部を切り落とす習慣がある。身内の死の悼みを我が身の痛みでもって共有するという。
ある集落では、家々から持ってきた品物で店開きをしてくれた。並んだものは、ペニスケースや弓矢、石オノ、動物の骨や牙でつくったアクセサリーの類いなどである。強引な客引きなどはなく、地べたに品物を並べ、静かに煙草をくゆらせているだけである。彼等は物静かで、かつ恥じらいの心を持っていた。子供達も我々の手をとり、いつまでも一緒に歩いてくれた。その彼らの手の温もりは忘れ難いものとなった。『緑の魔境・ニューギニア』というプレーズを、スペースシャトルからの鮮明画像などが葬り去ってゆくのは遠い将来のことではない。しかし、身をまとう物が少ない分、ピュアな生き方をしているダニ族の人達の心は、遠い将来も地球上から葬り去りたくないものだ。ロストワールドとは、我々が置き忘れてきた世界・・・、それは美しい心をもつ世界のことだったのかもしれない。
極楽トンボとは、良く言ったものだ。「極楽鳥」の本場で、私は半人前の「トンボ」くらいには精霊化できていたのだろうか。半世紀も前から、私は今と変わらず浮浪雲のような日々を送っていたような気がしている。若かりし頃の話である。パプアニューギニアの伝統舞踏・シンシンダンスに飛び入り参加したことがある。このシンシンダンスは、頭部に極楽鳥の羽を付けて、地面を飛び跳ねる、野太く運動量豊富な踊りでもあった。
おそらくや、肉体の内外に、鳥の精霊を呼び覚ます意味を含めているのであろう。浮浪雲人にはピッタリだったかもしれない。しかし、密林の住民達は、飛び入りの「色白なお調子者の若者」を、大歓迎してくれた。簡素な造りの「精霊の小屋」の中での、衣装替え、顔や皮膚へのペインティング、頭部への羽飾り、など集落の長老が直々に整えてくれた。
踊りの輪にジャンプインした後も、最前列にての位置取りを優先的に用意してくれた。そして、何よりの「優遇」は、私の一挙手一投足に、笑いの渦が巻き起こっていたことである。その笑いは、ゲテモノを蔑む笑いや、異質なものに距離を置く為の笑いでもなかった。長老から幼子まで、老若男女問わず全ての人が、まるで鳥の賑やかな囀りのような笑い方であった。
それは、南洋の森を包み込む、穏やかさに溢れた温かい風のようにも感じられたのだ。「 肌の白い、遠来から来た極楽トンボよ。ここまでよく来たな〜。今日からは、オマエも囀りの仲間に入れ〜」と、そんな感じだった。私もカラダの何処で「スイッチ」が入ったまま、およそ半時間ほど密林を咆哮しながら、半裸とハダシでジャンピングしていたように記憶している。踊りの輪にて、ダンシング・ヒーローになった私は、終わった後も引っ張りだことなっていた。広場の真ん中に座らされ、両サイドをうら若き女子に挟まれ、両側の脚を、其々別の女子脚に絡め取られていた。「ああ、このまま密林の王になる儀式が始まるのかなぁ。もう21世紀の世界には戻れないのかなぁ〜」んて、朧げながら脳裏に浮かぶ母親の顔に別れを告げようとしたら、「はい、これで記念撮影を終わります」と案内通訳の声が聞こえ、マボロシの森から無事(?)に帰還できたのである。パプアニューギニアの密林にて私が学んだことは、『人生はアドリブである』ということだった。
人生いくつになっても、「緊張」と「弛緩」が適度に入り混じることが必要なのだと思う。「ウツツの森からの離脱旅をする」ということは、それがどんなに小さな旅であったとしても、その緊張と弛緩の発生源になり得る。ただ、そこでは、自律的ではなく他律的とでも言おうか、『場の流れ』に逆らわず身を任せるということが、結果として自分の殻を打ち破ることに繋がるのだと思う。一番重要なことは、『どこが、自分にフィットする流れの場なのか』を、直観で捉えきれるかどうか、ということだろうと思うのだが・・。
"最後の秘境"と呼ばれ、500以上の民族が暮らすパプアニューギニアには、様々な伝統文化や風習が各地に残されている。ニューブリテン島のトーライ族は、世界最古の貝貨とされる「シェルマネー」と呼ばれる貝殻を加工して作った伝統通貨を、特殊な儀式や冠婚葬祭の行事のときだけでなく日常生活でも使用している。また、パプアニューギニアには、様々な伝統儀式が各地に残されている。中でも「シンシン」と呼ばれる伝統的な踊りは、古くから各民族がそれぞれの村で、戦闘の前に士気を高めるために行っていた儀式。
「シンシン」の最大の特徴は、全身を飾り立てた男たちの扮装。頭には大きな極楽鳥の羽飾りやかつら、顔には色彩豊かな化粧、腰には木の枝や葉で作られたミノ、そして、胸元には大きなアクセサリー、というように飾られている。美しく着飾った男たちが弓や槍などの武器を持ち、リズミカルな打楽器の音に合わせて、飛び跳ねるように踊りながら歌う。"山奥の人"と呼ばれるバイニン族に伝わるのは、夜明けまで続けられる"ファイヤーダンス"という伝統的な火渡りの踊りもある。
それは、9・11発生日のことである。私は、この日北米のカナダに滞在中であった。ロッキー山中にてのフィールドワークが終了し、バンフの町へと降りてきたら、どうも、町の様子が変なのである。あまりにも、人や車が見当たらないのである。そして、建物上には、カナダ国旗の半旗が。 う~ん、だれか著名なカナダ人でも亡くなったのかな?なんて悠長に思いながらホテルの部屋へと戻ったのである。そして、何気なくテレビをつけてみたら・・。高層ビルが崩落する映像が次から次へと流れて来るではないか。なんなんだ、これは映画か?大変なことがアメリカで起こっているな~。しかし、ここはカナダだから問題ないかな~。なんて思っていると、そのうちに、カナダとアメリカの国境が閉鎖される、だとか、カナダの出入国も一旦クローズになる、とか怪しげな雰囲気が濃厚になってきたのである。
そして、決定打が下された。カナダやアメリカの国内線全てが運航取りやめ、再開のめどなし、ということになった。4日後には、バンフ→(陸路)→カルガリー→(空路)→シアトル→日本というルートで帰国する予定であった。まず、カナダとアメリカの陸路国境が閉鎖という情報、そして、カナダ・アメリカの空の便がすべて運航中止。
どうすりゃ、よかんべ~。打つ手がない! という事態が迫ってきた。
さてさて、こんな時、むやみに焦っても埒が明かないのは、これまでの危機突破経験からも体得できている。しかし、これだけの未曾有の出来事は、私にも経験のないことであった。正直頭を抱え込んでいた。予定帰国便までのリミットも迫ってきていた。まあ、その帰国便そのものが運航されるのかどうかも不明の状態であったが。 しかし、幸運の女神は現れるものである。日本の留守本部との連携により、急遽バスを仕立たててシアトルまでの陸路爆走突撃とあいなったのである。陸路爆走突撃って言ったって、国境が閉鎖では?との問いに、留守本部からは 『とりあえず、国境まで行ってみましょう!』 なんて前向きなお返事。
よっしゃ、そんなら突撃したるわい!
しかし、その時には、カナダ・ロッキー山中からシアトルまでの、陸路移動距離や時間などは全く頭になかったのである。グーグルアースにてコンピューターがはじいた最短距離は、なんと900キロ!時間にして10時間!である。900キロっちゃ、日本で言や、東京・福岡間(直線にして)くらいでっせ。それも、南北に伸びるロッキー山脈を何度も越えなくてはならない。さらに、その時間帯(シアトルの予定便に間に合うためには)は、午後から出発し、深夜のノンストップに近い走行になったのである。
私は、カナダ人ドライバーが居眠りをしないかどうかが、心配のあまり、運転席横の助手席に座り、絶えずドライバーとの会話に努めた。日本の歌まで高らかに歌ってあげた。しかし、あまりにも疲れ果て国境近くにては、後方の座席にて眠りこけていた。突然、躰をゆすられ、起こされた。それは深夜3時頃のことだったろうか・・。いかつい顔をした(しかし東洋系の顔だったので先住民かな?)制服姿で腰の拳銃に右手を添えた国境警備官だった。
『Show! your passport !』
え? 国境まで来たん?パスポート見せろ、ちゅうんのんは、『国境開いたん?』と喜んだのもつかの間だった。私のパスポートには、カナダ渡航の直前に渡航していた、パキスタンの査証スタンプが押されていたのである。さあ、警備官さん、そのスタンプと私の顔を交互にジロジロと眺め始め、私とパスポート君は別室に連れていかれたのである。ああ、なんでパキスタンなんかに行ってたんかな~、タイミング悪いな~、なんて思っていると、先住民の警備官さんが言ってくれたのである。
『アンさん、そんなに悪そうな顔やないな、俺と同じDNAを感じる』
だったと記憶(寝ぼけ眼状態なので鮮明ではない)しているのだが・。事なきを得、漆黒の闇の中アメリカ本土に入国した。しかし、飛行機予定時間まで残り僅か・・。目が真っ赤のドライバーちゃんを、励ましながら疾風怒濤の如く、シアトルエアポートへと走らせたのである。そして、夜がしらじらと明ける頃、シアトルの高層ビル群が目に入ってきた。
よし、これで何とか間に合うかも???
と甘い期待をもって、シアトル空港に到着したら、『なんなのこれ~?』。シアトル空港は、9・11から数日間閉鎖状態であり、この日に始めて一部の路線を再開しはじめたのである。なので、チェックインカウンターからは、まるで『ヤマタノオロチ』のような長蛇の列、列、列・。この長蛇の列に並びながら、『はあ~、最後に高いハードルが待っていた・・』とショゲていたら、なんとそこにも女神が顕現したのである。
『今日のフライト予約している人を優先します。その方はいますか?』
なんて、大声で叫んでいる空港職員の女性がいたのである。今でも思い返すと、その女性職員さんの顔は、アメリカの自由の女神、はたまた、阿弥陀如来、そしてヒンズー教のターラ神になって私の脳裏に浮かんでくるのである。結論から言えば、私はなんと予定されていた到着時間より30分程度も早く、成田空港に到着したのである。 まさに! アンビリーバボー!!
中国の西端・新疆ウイグル自治区と中央アジアとの境目あたりに、『天山(てんしゃん)山脈』がある。一度、この天山山脈の奥深くに入域したことがある。とある県の山岳連盟遠征隊のコーディネーター役としてである。それも、中央アジア側のカザフスタンからである。首都のアルマトイまで空路韓国の航空機でのアプローチ。その後は、延々と草原地帯を東へ東へと向かった。そして、天山山脈の名峰・ハンテングリ峰エリアへと入域した。そこは、標高4000m近くであり、大氷河が見事な景観を形成していた。こんな山脈周囲を遊牧民は移動しているのである。おそらくや、古代の渡来系氏族・秦氏の祖先も、このような景観を眼にしながら、シルクロードの旅を続けていたはずである。また明治時代には、この周囲の辺境地ルートを浄土真宗本願寺の大谷探検隊が通過して行ったのである。そんな僻地にある山岳エリアへの遠征の際にアクシデントが発生したのである。遠征隊の登頂班メンバーが悪天候により、標高5000m付近にて降雪により閉じ込められてしまったのである。
幸い、アクシデント発生時には、彼らの持参したトランシーバーは、バッテリーの予備時間と感度においてまだ余裕があった。しかし、山の上での天候はなかなか回復せず、通信状況からも、刻一刻最悪の緊急事態が近づいていることが、その切迫した音声からも十分に伺えてくるようになっていた。ベースキャンプ地では、当時ロシア側の山岳チームと救出作戦について、あらゆる事態発生を想定した上での対策がいくつものパターンで検討されていた。しかし、遭難発生3日目くらいからは、最悪の事態を想定した対処も検討されてきた。それは、救援物資をヘリコプターにて上空から投下する、というものである。しかし、標高5000mを超える場所は、絶えず乱気流の危険性があり、また、上空まで飛べたとしても、閉じ込められている箇所への正確な物資の投下の可否は未知数である。飛んだヘリそのものが、乱気流に巻き込まれて墜落・遭難してしまう可能性が高く、ヘリのパイロットは非常に難色を示していた。しかし、すでにそれ以外の選択肢がないくらい、閉じ込められた上部からのトランシーバーを通した声が、刻一刻、弱弱しくなっていったのである。すでに重度の凍傷(実際に事態は深刻であった)の兆候を示す内容の通信もあった。
そこで、最終判断が下され、危険を承知でヘリを飛ばすことになった。詳しい経過は述べないが、私もそのヘリに搭乗することが決定された。そしてテイクオフ。ベースキャンプ地から30分も飛行すれば、遭難現場の上空に到達した。閉じ込められた場所の上空にてホバリングをしながら、ヘリの扉を開けた瞬間、とんでもない冷気を含んだ突風が内部に入り込み、ヘリが大きく揺れたことは覚えている。そして、下方で手を振る人影が確認できた。その瞬間に物資を投下したのである。結果として、その救援物資にて命を繋ぐことが出来、ベースキャンプ地からの救援隊により無事に生還されたのである。
これまで、幾度かにわたり「危機一髪!」という場面に遭遇したが、このアクシデントもそのひとつである。そして、『高度5000mで体感した揺れ』を、いまだに身体が記憶している。もう一つの記憶の一コマは、ベースキャンプ地にての鍼灸治療の風景である。標高4000mでの『にわか往診風景』である。この時ほど、すがすがしい気持ちにて患者さんの背中に対峙したことはなかっただろうと思う。それは、やはり空気が薄い高地では、余計な雑念が入り込まないせいなのかもしれない。
第3の極地・世界最高峰
世界最高峰である8848mの山は、3つの呼び名を持っている。1つ目は工ベレスト、これは、19世紀にインドの測量局長であった英国人ジョージ・エヴェレスト卿の名前を1865年につけたもの。2つ目は、山の南側にある国・ネパールの言葉でサガルマータ。サガルは、大空・世界を意味し、マータは、頭を意味する。3つ目の呼び名は、チョモランマ。山の北側にあるチベットの言葉で『世界の母神』を意味している。こうして3つの呼び名を比較してみると、工ベレストという名称のみが特定された人名からの由来である。
皮肉にも、我々が古くから親しんでいる名前が一番俗っぼいのである。古来人間は、山に対して畏敬の念をもって接してきた。日本においても山登りのオリジンは、信仰登山であった。山には神が住んでおり禁断の領域のひとつでもあった。ヒマラヤは、7000m級や8000m級の高峰群が、眩いばかりにそそり立つ山脈である。20歳の秋、小型飛行機の中から初めてヒマラヤ山脈を見た私は、おもわず涙をこぼしそうになった。
「地球上にこのような美しい世界があるとは…」「ここは、神々が住む領域だ…」
あえて言えば、このような言葉の表現が思い付く。しかし、40年ほど前の機上の自分を回想すれば、ただただその美しさに圧倒され、言葉を失い、唖然とするばかりだったような気がする。ヒマラヤ山麓に住む人々が、世界最高峰の山をチョモランマー世界の母神、サガルマーター世界の頭と命名したのは、ごく自然のことであり深く共感を覚えもする。
天空・禁断の山への道
世界最高峰 (チョモランマ) の山頂を極めることはプロの登山家でも至難のワザである。1953年5月29日に、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが人類初めてこの山の頂に立った以降、この山のテッベンにはわずか2000人前後程度の足跡のみが残されている。しかし、世界最高峰への道は、一部の限られた人のみに許されたものでもない。現代では、一般の人でも『世界の母神』の懐深くまで近づくことが可能になっている。それもアプローチは、文明の利器『車』によってである。禁断の領城への旅の起点は、チベットの中心地・『太陽の都」と呼ばれているラサ。
まず、ラサから平均標高4000m台のチベット高原地帯を疾風怒濤の如く、西南方向へ突っ走る。年間降雨量が非常に少ないチベットの乾燥した大地からは、モウモウと砂埃が立ち上がる。5000mを越す峠では、風が足下から舞い上がる。チベット第2の町・シガツェやシガールといった集落で宿泊をとる。途上、人家の全く無い道程が3~4時間続くことがザラにある。出会うのは、ほんの一握りの巡礼者と遊牧民のみ。目的地への最終日には、とんでもない悪路が待っている。
この道は、中国が国の威信をかけて派遣した、チョモランマ遠征隊の為に岩石を切り崩し、人海戦術にて築いたものである。四輪駆動車のタイヤが悲鳴をあげると同時に、我々の内臓の位置がずれまくる。雪解けで増水した河川の渡河では、タイヤがほとんど水没し、なかには立ち往生してしまう車もでる。ラサを出発してから約3~4日で、ようやくチョモランマのチベット側べースキャンプに到着できる。このベースキャンプ地の標高はすでに5000mを越えている。山から流れ出る氷河の舌端にキャンプ地はある。ここから仰ぎ見る世界最高峰は、あまりにも巨大すぎる。見る者の視野のほとんどが、その姿で占められる。まさに天空の巨大スペクタルな劇場空間だ。
天空世界からの帰還
天空世界への旅は、片道切符のみの購入ではいけない。中には酸素が少ないこの地にて、残念にもそのまま昇天してしまう人がいることも事実である。事前の周到な準備と心構えが厳しく問われる旅でもある。天空世界への招待状は、気軽に受け取る訳にはいかないのである。俗世界への帰還の道もまた、難行苦行が待ち受けている。ベースキャンプ地より車で約2~3日あれば、ネパールの首都カトマンズの日本料理屋にて祝杯のビールを痛飲することができる。しかし、このビールにありつくまでのハードルはかなり高い。世界の屋根ヒマラヤのどてっばらを縦断突破する悪路がビールの前に立ちはだかる。
平均標高4000m台のチベット高原から一気に約2000mほどを下るのである。目も眩むような断崖絶壁にとりつけられたガードレールのない道。どう見ても一車線幅しかないのに、荷物満載のトラックが前方から遠慮なく近づいてくる。ひとかかえもある岩石が道の中央にドカッと横たわり、さらに土砂崩壊にて各所が寸断されている。おまけに驟雨到来にて、泣きっ面にハチ、そのハチも女王蜂クラス・・。カトマンズに無事到着し、俗世界にて祝杯をあげる時、いつも「二度と行くまい」と心に誓う。しかし、天空世界の誘惑の魔力に勝てず、招待状を十数回も受けてしまった。そろそろ、次の招待状が舞い込んでくる時期でもある。心の奥底にある「冒険心」という名の郵便ポストをソット覗いてみようかな・・。
ポタラ宮殿の謎
この地球上には、人智を超えた不思議と呼ばれる事象や現象がまだ少なからず残っている。人体の世界においても、脳やDNAの解析が進んでいるとはいえ、まだまだ未知で不思議な領域は存在している。世の中の森羅万象すべてが、科学的に分析されてしまうと、創造や夢やロマンの入り込む余地がなくなり、いわゆるオモロイ世界が消失してしまうのも事実である。「世界7大不思議」というキャッチフレーズが、古くより興奮の媚薬として人々を魅了してきた。7つの不思議の選択に関しては諸説がある。しかし、禁断の高地チベットにあるボタラ宮殿の謎を、7大不思議の1つから外すことはできないだろう。世界の宮殿の中でも、もっとも謎に満ちた宮殿といわれるのが、標高3700m弱の高地に厳然と聳え立つポタラ宮殿である。
このポタラ宮殿に関する謎は、アメリカ映画『インディ・ジョーンズ』のヒントにもなっているくらいだ。それは、チベットのどこかには秘密の聖典が隠されており、この秘密の聖典を手に入れた者は、世界制覇も不可能ではないというものだ。第二次世界大戦前には、ヒトラーのナチス・ドイツやアメリカの諜報機関、さらには日本の秘密機関らがこの聖典を求めてチベットにやってきた、という説もあるくらいだ。そして、その聖典がこの宮殿に隠されているとも噂された。その真偽はともかくも、このような不思議な謎を多く伝えるポタラ宮殿は、高さ200m弱、横幅400mもの巨大な建造物である。この宮殿は、チベットの中心地・ラサの小高い丘にあるので、数キロ離れたラサ郊外からも、その威容を眺めることができる。まさにチベットを象徴する建物である。宮殿の頂きの部分には、歴代ダライ・ラマの居住していた部屋がある。その部屋の屋根は金色であり、紺碧の空の下、燦然と輝くその姿からは、人智を超えた聖地の威厳さが充分に感じられる。
宮殿の内部を巡る
この宮殿の不思議さは、内部に入ってさらに体感することになる。宮殿の内部には、部屋が1000、いや2000もあるといわれている。この多くの部屋が複雑に入り組んでおり、そこはさながら迷路のようでもある。加えてポタラ宮殿の内部は、外部の光がほとんど入ってこない構造になっている。明かりといえば、昔ながらの灯明があるくらいで、内部は実に薄暗い。この薄暗さが迷路の印象をさらに強め、人を圧倒する。また、灯明の燃料となっているのは、動物性の油脂で、その油脂の匂いが宮殿中に充満している。油脂は部屋の壁や柱、階段にもべとつくように染み付いている。
現在でも、宮殿内では、外国人旅行者やチベット各地から訪れた巡礼者の姿を多く見掛ける。巡礼者達は、小声でチベット仏教の経文を唱え、手に掛けた数珠を一球ずつ指で繰りながら、各部屋を巡拝する。彼等の多くは、チベット高原の各地から長旅の末、ラサに到着する。もちろん現代での移動手段は車の場合もあるが、あえて徒歩を手段として選択する巡礼者もいる。我家から何ケ月もかけ、チベットの乾燥高原を横断してくるのである。ホコリにまみれた民族服や日焼けした彼等の顔が、その厳しい道程を物語ってもいる。
巡礼への旅路
ポタラ宮殿の他にも、巡礼者が訪れる聖地が、ラサ市内に幾所かある。その中でとりわけ日本人になじみ深いのが、ラサ郊外にあるセラ寺である。ここは大阪・堺出身の日本人僧・河口慧海ゆかりの寺。慧海は20世紀初頭にたった一人で、苦難のヒマラヤ越えの末チベットヘ潜入した。仏典の原書を求めて、当時鎖国状態にあったチベットヘ2回入域している。 1回目の滞在は約1年程度、その多くの日々をセラ寺にて過ごしている。当時のセラ寺は、若き僧侶が仏教を学ぶ大学的存在であり、慧海はここで経典類の収集と勉学に専念された。慧海が滞在している頃に比べると、数は減ったとはいえ、現在も境内では若い僧侶達が修行している。
ラサ市の中心部に建つ、チョカン寺にも巡礼者の姿が多い。彼等は寺の正面入り口の前で、 一心不乱に「五体投地」と呼ばれるチベット独特の礼拝動作を繰り返す。「五体投地」とはまさに、全身関節の屈曲・伸展を繰り返しながら、我が身を地面に投げ出す。それは運動量の多い、激しい礼拝スタイルである。自宅からラサまでの巡礼旅を、このスタイルにて進む人もいる。その姿は、まるで尺取り虫の動きとスピードでもある。彼等の膝、肘、足先はボロボロになっており、分厚い服もつぎはぎだらけである。
このチョカン寺の広大な境内の外周は、土産物屋などの商店が軒を連ねている。巡礼者はこの外周道を、時計の針と同じく右回りで巡回する。片手にマニ車と呼ばれる仏具、そして数珠をもう一方の手に持ち、口では経文を小さく唱えながら巡礼する。外周の一角に佇み、彼等巡礼者の姿を見ながら、信仰の厚み・深さについて考えている外国人もいる。最近、西国八十八ケ所巡りが盛んである。信仰なき時代を生きる日本人も、心の安らぎを求めて旅立とうとしているのだろうか。
昨今のラサ市内には、中国人観光客の姿や、中国語で書かれた店屋の看板などが目立つようになっている。町中を歩いていても、少々横柄な態度で闊歩する漢人が目立つ。しかし、そんな中でも、敬虔な姿で五体投地を繰り返す巡礼者には、チベット人気質というものが溢れており、かえって純粋無垢さが浮き彫りとなってくるのである。
空気の波動が生み出す気配とは
とある夜にNHK・BSにて「春日大社式年遷座祭」を見ていた。20年に1度の秘儀である。 平安時代に出現したという御子神・若宮が、 仮の御殿を出て式年造替 (しきねんぞうたい) を終えた本殿へと還(かえ)る遷座祭。春日大社の背後にある山・春日山には原始林が残されている。その原始林の内懐深くに響く「ヲォー」という声の響きと雅楽の音色・・。
闇夜の中、1000年前と変わらぬ空気の波動が原始林に木霊している。そして若宮の神霊が出御(しゅつぎょ) するのである。この、 「ヲオー」という声の波動は、警蹕(けいひつ)と呼ばれている。若宮の神霊を包み込み、先払いの声ともなる。(ミサキオイ)とも言う。声の波動は、「不可視」のものの「気配」を、空気の振動という「波形」でもって体触知させていくのだろう。その気配を感じながら、数年前のチベット僧院で触知した我が体感が蘇ってきていた。それは、早朝4時、チベット僧院の勤行に参加した時のことである。
海外の町に滞在しているとき、いつも早起きして町の散策に出掛けるのを習慣としている。それは、その町の表情の1つを自分の身体で体感する為でもある。1日の始まる時間帯というのは、そこに住む人々の目ざめの時間でもあり、何かが始まる気配が漂う時間でもあるのだ。カトマンズに滞在している際にも、よく早朝の散歩をしていた。とある日、チベットの巡礼者の姿を見ようと、ボードナード寺院へと向かった。燈明が並ぶ礼拝台に数人の巡礼者が集っていた。
その背後には、小さなチベット仏教寺院があり、その内部からなにか声明のような声が流れてきていた。その声に導かれるように、私は寺院の中へと入っていき、声の発生源となっている建物の扉をそっと開いたのであった。その内部では少年僧を含む数十人のチベット僧侶らが、読経修行の最中であった。チベット仏教での読経には、ドラやラッパの響きがつきものなのである。僧侶の読経の合間合間に、とんでもない音量でのラッパ音などが響き渡るのである。
そして、その音響が静まると、とたんに僧侶らの読経声も静かに細々となっていったのである。その瞬間の出来事であった。導師となった高僧の、喉から絞り出すような低音のマントラ(真言)が、ゆっくりと尾を引きながら私の背中に滑り込んできたのである。それは文字としてのマントラが、波形となって自分の脊髄を溶解させながら全身に染みわたっていく感覚であった。同時に別の高僧が、香煙がたなびく容器を静かに回転させながら、修行僧の間を歩いていくのであった。
低音のマントラ声と漂う香煙が、私の視野と聴野の全てを支配していったのである。それはまるで異次元空間に自分の身が漂い始めた瞬間でもあった。「あ~、もしかすると、この感覚が解脱へのゲートウェイなのか?」などと不遜なことを想いながら、マントラの呪縛に我が身を晒し続けたのであった。
論理脳を停止させる「マントラの読呪」
現代の医学では脳の右半球については、ごくわずかしか解明されていないそうである。その右脳に「直感的・総合的・非言語的認識の中枢」がある。それに対し、左脳では、「論理脳・分析的・言語的認識」中心の思考をしている。そして、人間生活における、煩悩や葛藤の多くは、左脳において『言語的認識の下』にて意識されているとも言われる。神秘学・ヨーガ・チベット密教・真言密教などでは、古来マントラ(聖句)など、幾多の『読呪の行法』が実践されてきた。マントラの長時間の読呪は、日常言語としてのコトバを思考する左脳・言語野の働きを封じる働きがあるとも言われている。チベット密教の、『倍音』を伴う長時間のマントラ読呪は、最終的には、体幹を虚空(アカシック・レコード)へ送り出し、自我が粉砕され、宇宙へと噴霧されてしまうのだろうか。
私は結果的に、午前4時頃から約2時間前後、そのチベット僧院内に滞在をしていた。時間の経過というの感覚からも離脱していた気分であった。そして異邦人の突然の訪問にも、一切動じない修行僧らの厳粛な姿勢にも改めて感動しながらその場を辞去したのであった。
モンゴルに魅せられて
モンゴルという地域に憧れを持つ人は多い。草の海と称せられる、限り無く続く草原地帯、砂埃をあげながら疾走する馬の群れ、そして地平線に沈んでゆく真っ赤な夕陽…。その昔、ヨーロッパまで席巻したモンゴル族の騎馬軍団。チンギス汗やフビライ汗などの群雄達の物語は、歴史のページに確実に刻み込まれている。少年時代の私は、大陸の遊牧民や馬賊の生活にも憧れたものだ。馬の背をねぐらとし、草の海を漂うような生活は、島国に生まれた少年の心を捉えるのだろうか。チャレンジ精神や冒険魂を強く喚起させる響きが、モンゴルやユーラシア大陸という言葉には秘められているように思う。
現在のモンゴルは正確には、1つの国と1つの地域に別れている。国としてはモンゴル人民共和国。地域は中国の北部の内モンゴル自治区である。最近の我が国での大相撲にて人気を博しているのは、モンゴル人民共和国よりの力士たちである。かの国でも相撲は国技であり、チャンピオンは国民的ヒーローである。チンギス汗の末裔である草原の男達は、裸の馬を自在に乗りこなし、草原の彼方へ弓矢を飛ばし、力くらべに相撲をとる。なんともシンプルだが、ストレートに骨太魂を表現できる、草の香りがする紳士達なのだろうか。
緑の海に白い島・パオ
内モンゴル自治区のパインホソという集落を訪れた時の話である。1980年代に中国政府の指導にて、定住化を始めた遊牧民の集落である。といっても、区都であるフフホトから延々と草の海の中を四時間のドライプ。草の海の中では、白い羊の群れが、まるで波間に漂う小さな海鳥のようでもあった。突然、ヒョッコリと移動式家屋であるパオの白い列が現れた。そこがパインホソの集落だった。集落自体も海に浮かぶ白い島のようだった。モンゴルの遊牧民は、家畜の餌を求めて草原を移動する。移動に適した家屋・パオは、組み立て式になっている。お椀をかぶせたような内部は、木製のフレームが扇状に広がる。そのフレームにフェルトの布を被せれば出来上がりである。移動の時、家族で布とフレームを折り畳むのに、ものの20分もあれば終了である。内部の家具も少なく、非常にシンプルな生活である。土地に執着しない遊牧生活のキーワードは「シンプルさ」にある。それは緑の草原を疾駆する裸馬の群れに、風の美しさや清涼感を感じる心を呼び覚ませてくれるのだ。
草枕で見た酔夢
パインホソ到着の日、村長主催の歓迎会があった、村長は伝統的な民族衣装を身にまとい、日焼けした顔の面積は私の1,5倍ほどもある恰幅のいいオジサンだった。彼の全身から草の香りが漂っていた。歓迎会のテープルには、草原の味覚がズラリと並んでいた。串焼きされた羊肉は本数を数えきれないほどの量が並ぶ。生温かいピールとともに馬乳酒と呼ばれる地酒も提供された。モンゴルの草原では、遠来の客人に対して丁重なもてなしをする習慣がある。草原や砂漠での遊牧生活を送る民族の多くに残る習慣でもある。家族や一族のみの移動生活では、旅人や遠来の客人は貴重な情報源であり、時には家族の危機を救う女神にもなり得るからであろう。移動生活からあみだされた知恵のひとつである。
村長のもてなしが始まった。村長と私が椅子から立ち上がる。まず、村長が草原に伝わる民謡を朗々と歌いはじめる。イカツイ顔に似合わず、彼の声は清涼感に富み、ここでも風の美しさを感じてしまう。歌い終わると、アルコール度数60度を超える地酒の杯を、主人と客人は飲み干さなければならない。飲み干した後一滴も残っていないことを示す為に、両者はその杯を頭の上で逆さにする。次は客人の番である。私は黒田節を下腹に力を込め歌い、そして2杯目を飲み干した。この繰り返しが延々と続くのである。私は4杯目ほどから意識が朦朧とし、体は馬上で揺られているごとくユラユラとし始めた。
記憶がないので定かではないが、いつのまにか私は草原の中へと出ていたらしい。同行者に起こされるまでの数時間、私は野外のトイレの側で眠りこけていたのだ。モンゴル式のもてなしは、これまた骨太くシンプルであり、私に草枕での酔夢まで与えてくれたのだ。野外トイレから漂うクサイ匂いを嗅ぎながらも、おそらく心のスクリーンでは、夕陽に向かって裸馬を疾走させている私がいたにちがいない。これまでの人生で、幾度か意識と記憶が飛んでしまうほどの酪酎状態はある。しかし、このモンゴルの草原での草枕での酔夢ほど体と心が酔いしれたことはない。月夜の晩まで頭は割れる様にガンガンしていたが、心の中では草の清涼感あふれる香りのする風が吹いていた。
数年前は、年間で数回海外でのフィールドワークを実践した年であった。まず、1月にはイスラエルにて3大宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の聖地であるエルサレムを訪れた。同じ年の7月には、欧州アルプスの秀峰・マッターホルン登頂のコーディネーターとしてスイスへ。8月には、モロッコ最高峰ツブカル山登頂とマラケシュやフェスの迷路文化調査をした。そしてモロッコから関西国際空港に帰国したその日、直行にてとある人物との打ち合わせに出掛けた。それは9月の海外探査プログラムへの最終打ち合わせであった。
そのフィールドワークとは、モンゴル人民共和国最西端にあるアルタイ山脈周縁にての、『岩絵とシャーマニズム』の探査と、カザフ族の鷹匠文化探査である。その調査フィールドは、かなり人跡未踏な地域を含み、4WDを駆使しての草原・高原踏査となりそうであったので周到な準備が必須であった。この探査は、その翌年以降からシリーズで始めようとしていた「中央ユーラシア大陸・風と草の道を行く」シリーズの予備調査を兼ねていた。(※残念ながラその翌年のパンデミック禍によって延期しているが)。岩絵というのは、古くは紀元前1000年以上前に、岩に描かれた線刻画(ペトログリフ)のことである。その図象は牛や馬、などの動物や、それを狩猟する人物、さらには、太陽頭と呼ばれる太陽神などである。
広く中央アジア一帯に岩絵は存在する。この存在そのもの自体が世間に広く知られるようになってから、まだ半世紀ほどのことである。今後も新たな新発見などがある可能性は高い。岩に絵を描くこと自体は世界的に存在する。ラスコーの壁画やオーストラリアのアボリジニの壁画、アメリカ先住民の壁画、などなど。日本にても、福岡県の古墳にも岩絵と言える図柄が施されていている。『岩絵に込められたメッセージ』を紐解くのが、これからの考古学や文化人類学、歴史民俗学などの分野の大きなテーマなのである。中央アジア一帯に岩絵地域は展開している。これを見ても、確実に遊牧の民がこの岩絵文化を攪拌したことに間違いはないだろう。
司馬遼太郎さんによると、世界の遊牧文化はまずクリミア半島北部(スキタイ)から始まるという。そして、次第に東西へと攪拌していく。司馬氏は続けて言う。遊牧に最適な風土は、モンゴル高原であったので、遊牧文化はモンゴル高原にてその最盛期を迎えることとなる。その遊牧文化は、さらに満州(中国東北部)を経て、北朝鮮、韓国、そして日本(日本海沿岸部)へと伝播してきているらしい。もしかすると、越(福井県あたり)の国からやってきた、継体天皇などは、その血筋をひく末裔なのかもしれない。いずれにしても、『遊牧=移動=無定住=まつろわぬ』という浮遊文化の源泉の地・モンゴル高原でのフィールドワークの詳細をレポートしたい。
東西交流史に思いはせる
モンゴルと聞けば、大草原を駆ける遊牧民の姿が浮かぶことだろう。確かに国土の大半は広大な草地や半砂漠だ。しかし、国の最西端部、ロシアやカザフスタン、中国との国境エリアには標高3000~4000m級の山脈がそびえ立つ。この地域の遊牧民が「金の山」と呼ぶアルタイ山脈である。チンギスハンを始祖とするモンゴル帝国の騎馬隊も、この山脈を越え、中央アジアから、さらに旧東欧圏にまで、その足跡をしるしたのである。このアルタイ山脈で最高峰であるフィティン山(4374m)の山麓を中心に残されている岩絵や石を彫って人の姿をかたどった「人石」、シカなどの文様が彫り込まれた「鹿石」を2週間にわたって踏査した。
2011年に世界遺産
モンゴルの首都ウランバートルから国内線で3時間半飛び、最西端の県、バヤンウルギーの空港に到着した。私はカザフ族の家に民泊しながら踏査の準備を整えた。アルタイ山脈は毎年6月には色とりどりの高山植物の宝庫となるが、短い夏が終わり、9月ともなると朝晩は肌を刺すような冷気が降りてくる。踏査の間はテント泊なので寒さへの対策が必須となる。踏査した岩絵群の一部は2011年に「モンゴル・アルタイ山脈の岩絵群」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された地域の中にある。世界遺産とはいうものの、そのエリアの面積は2100ヘクタール、東京ドームの450個分にも及ぶ広大なもので、その中に約5千カ所もの小さな岩絵群が点在しているのだ。
踏査は初日から難渋した。30分も走れば舗装道は姿を消し、それ以降は単なるわだちが草地や石ころだらけの大地に刻まれているだけ。つまり、どこを走っても構わないのである。ドライバーは、いつ廃車になってもおかしくないような旧ソ連製の四輪駆動車を疾走させながら、「これがモンゴリアン・ハイウエーだ」と言い放った。車体の中で自分の体が絶えず乱高下し、車だけでなく、こちらの体からもきしみ音が聞こえてくるようだった。ただ、フロントガラス越しに時折見える、カザフ族の人々の乗馬姿や、羊、ヤギ、牛、ラクダなどが大群で移動する様子には、目も心もすっかり奪われてしまっていた。
際立つシカ文様
標高2500m余り、フィティン山から流れ出る氷河の末端部にあるツァガーン・サラーの岩絵群に到着したのは日暮れ時だった。周囲は岩の山と石ころが転がる大地が広がり、黒と茶と灰色だけの世界だ。その岩山の中に紀元前1万1千年前後から紀元後9世紀ごろまで、約1万2千年もの長い期間にわたって岩に刻まれ描かれた絵が点在していた。特に、紀元前1200年前後、この地域の青銅器時代に描かれたと推測される絵には、動物の文様や狩猟する人の姿、二輪の馬車のような車両などが刻み込まれている。シカの文様はほかの動物と比べても際立っている。
特に角の描き方にそれは表れていた。数多くのシカが描かれる中でとりわけ大きく描かれたシカの角の形は、カフカス山脈西北部で発掘された古代スキタイ時代(紀元前8世紀前後)の金製の盾に刻まれた装飾のシカととてもよく似ている。スキタイは黒海北岸エリアに起源を持ち、世界でも最も古い騎馬遊牧民といわれる。彼らは西方のギリシャ文明とも交流を持ちながら、東方へ騎馬遊牧の文化を広げた。岩絵や騎馬遊牧の文化が広がっていくさまはユーラシア大陸の1万年を超える東西交流史の多彩さを物語っているのではないだろうか。その夜、私は寝袋の中で、縦横無尽にユーラシアを遊動する人々の夢を見ていたに違いない。
日本は、四方を海に囲まれているので、陸路の国境は存在しない。地政学的には、この条件がアジアの中でも日本の特殊性を際立たせてもいる。また、四方を海に囲まれていることは、歴史的、文化的にも、独特の風土を育んできた要因ともなる。世界でも四方を海に囲まれた国は、イギリスやミクロネシアの諸国などあるが、意外にも少ないのではないだろうか。とすれば、大陸にある国のほとんどは、陸路他国との国境が存在するのである。ヨーロッパを国際特急列車で旅をしていると、 1日のうちに、2~3カ国を通過することもザラである。夜が明けると次の国に入っていた、なんてこともあるが、日本では、トンネルを抜けたら雪国になるくらいであろう。日本や一部の国を除いた、アジアのほとんどの国は、大陸に位置しており、隣国と陸路にて国境を接している。陸路国境といっても、広大な土地に一本のラインが引いてあるわけでもない。東南アジアの場合、その国境の多くは鬱蒼とした密林のジャングルであることが多い。
密林のジャングルというのは、人間の視界が非常に狭められる。起伏のある地形に、樹木が生い茂っているのである。まるで、緑の海の中をさまよいながら、泳いでいるかの如くである。視界がきかない場所には、魃魅糧魅とした闇の世界が存在しがちである。ベトナム戦争の折に、明るいだけがとりえのアメリカの若い兵隊は、このアジアの密林のもつ、暗くて不気味な底力にかなり手こずったのだろう。東南アジアの中心に位置するタイは、国のまわりのほとんどが、陸路での国境線となる。タイ政府観光局などは、自国のPR文句として『微笑みの国・タイランド』というフレーズを使う。しかし、その微笑みの裏には、長い陸路の国境線を持つが故の悩みが隠されてもいる。東は、今でも多少とも政情不安定なカンボジアと国境を接する。北は我々には一番馴染みの薄い、ラオスがある。西は絶えず緊迫する状況下にあるミャンマーと接している。南はマレーシアだが、国境付近には共産グリラが時折り出没する。特に、北部の国境周辺には世界でも有名な麻薬の産地があり、ゴールデン・トライアングルとも呼ばれる。
麻薬の原料であるケシの栽培に適した気温と雨量を有するこの地域は、タイとミャンマーとラオスに接しており、その背後には大国中国が控えている。冷戦下の時代には、CIAや各国の謀報機関員たちが活躍する冒険小説の舞台のひとつであった。現在でも、少数民族武装集団や、国民党残党一派などゲリラ的な組織が覇権を争い、小さな武力衝突が絶えない地域である。北部の武装集団の鎮圧や、隣国からの多数の難民の流入、政治亡命者や犯罪者の摘発などには、普通の警察や軍隊の力が及ばない事もある。そんな時活躍するのが、タイ版・グリーンベレー部隊(特殊任務部隊)である。数年前にその基地を取材で訪れたことがある。首都バンコックから車にて北東方向へ約二時間、サラプリという町にそのベースはある。いくつかある基地の中でも、このサラブリにある基地はタイの王室の人達も一定期間訓練を受ける由緒正しき場所である。博物館もあり、入り口には兵士と鎌首をもたげた大蛇のレリーフがある。タイの諺の中に、『ヘビの背中を叩くと、必ず痛いシッペ返しにあう』というのがあるらしい。グリーンベレー部隊はヘビのような執念をもって対戦するぞ、ということか…。また、部隊のシンボルには、エラワンと呼ばれる3つの頭を持つ象がつかわれる。象はタイでは神聖な動物として扱われてきた。力持ちで思慮深く、勇敢であることの象徴として、3つの象の頭が使われている。そもそもエラワンの言葉の語源は、『空飛ぶ神』という意味を持つ。
国境地帯にて、一触即発状態の危険が迫ると、この基地からヘリコプターがスクランブル発進し、空からエラワンの紋章をつけた、精鋭部隊がパラシュート降下するのであろう。実際、この基地にはアジアで唯一の気球による降下訓練設備がある。訓練内容は、それ以外にも、樹木や植物や、有毒動植物への対処方法などの知識を習得するサバイパル訓練、また各種武器の実弾訓練や短時間での解体・組み立て訓練などなど多岐にわたる。訓練にはテキストブックがないという。悪用されるのを恐れてのことだと聞いた。ストイックなまでの訓練生活を強いられ、また戦闘への緊急出動など精神的に多大なストレスがかかるこの部隊は、タイに住む少年達の憧れの職業でもあるのだ。
工ベレストはいわずと知れた、世界最高峰の山である。標高は、8848m。人間の定住可能最高標高は約4500m。この山の上部4300mのエリアは、人間の匂いを一切感じさせないエリアとなる。実際に、この山を登った著名な登山家も、8000mにあるサウス・コルと呼ばれ、頂上への途上にある場所を、「ここは、死の匂いがする」と述べているほどだ。1953年に人類が最初にこの山の山頂に立った時より、現在まで約2000人前後の人がこの山頂にたっている。もちろん、登山途上にて残念ながら命を落とした人も数多い。スッパリと亀裂が入り、底が見えないクレバスや突如発生する雪崩や氷解。そして時には風速50mを超えるすさまじいジェット気流や、想像を絶する寒さとの戦いの世界である。
極め付けは、息をするのに十分な酸素の絶対量が、山頂に近づくほど少なくなる。過酷な自然環境が、人間の挑戦の前に大きな壁となって、立ちはだかる。一般の人なら、その厳しい自然条件を聞いただけで卒倒するほどの世界最高峰に、なんと生涯で21回も登頂した男がいる。『アパ・シェルバ』、その男の名である。工ベレスト山麓のターメという寒村に生まれた彼は、小さい頃から外国からの遠征隊のサポートをする仕事に就いていた。
ヒマラヤ山麓には、シェルパ族といわれる民族が住んでいる。標高2000m以上の高地に住む彼らの存在なくして、ヒマラヤの高峰登山の成功はない。ヒマラヤ高峰登山は、準備期間から登山期間を通じて、非常に長い日数と高額の費用が必要である。現地事情の情報収集、登山の戦略的分析、物資の調達と輸送、そして遠征費用の工面・・・。成功するか失敗するかは時の運もある。しかし、その運を自ら呼び寄せる為に、自国を出発するまでの準備を各隊とも、慎重に、緻密に、計画的におこなうのである。何かに似てはいないだろうか?そうである。企業においての新規事業計画と同じなのである。
時間をかけマーケットを調査分析する。同時に他社の動向をリサーチする。調査部や開発部などの部署など、企業の総力をあげて新規開発商品の展開を図る。プロジェクト推進と同時に、多額の投資資金が必要とされるのである。ヒマラヤの高峰登山においては、強靭な肉体以上に、このプロジェクトを推進する時の感覚が必要とされると思う。ヒマラヤ登山においては、プロジェクトを成功に導く際、現地側スタッフのサポートが欠かせないのである。アパ・シェルパは、現在六十歳代である。現在(2024年)すでに21回も登項に成功している彼は、ラッキー・マンと称賛されてもいる。数多く登ったことで付いたラッキーさではない。プロジェクトの成功を導く『運』を彼が持っている、という意味である。
シェルパ族として生まれた男の子は、ほとんどが登山隊のサポートの仕事に憧れを持つ。しかし、経験のない若者には修行の期間が待っている。まず、キッチン・ボーイと呼ばれる仕事から始まる。キャンプ生活で、食事の準備や後片付けの雑用係である。雑用をしながら、調理の仕方や味付けなどを学ぶのである。また、初めて外国人と接触する機会でもある。雑用係の次は、アシスタント・シェルバと呼ばれる仕事。この仕事では、外国人との会話も必須となってくる。英語圏からの遠征隊だけではない。フランス語、イタリア語、スペイン語、日本語、韓国語など各国の言葉と文化に直接触れるのである。さらに、各種の役割と技術研鑽を経て、ようやくシェルパ頭となれるのである。経験と才覚がなければ、どこかの段階にてストップしてしまう。
外国からの遠征隊は、いわゆる命をかけたレジャーとしてヒマラヤヘ来る。しかし、シェルパの人達は、命をかけた『仕事』をする。登頂に成功すれば、多額の報償金も出る。しかし、一歩踏み誤れば、自宅への帰りの切符を失うことになる。工ベレスト山麓には、その切符を失った幾人ものシェルパ族のメモリアル碑がある。そんな、綱渡りのような仕事をヒマラヤの高峰でおこなうシェルパ達の誇り―それは、頂上一歩手前の一瞬に現れる。どんなに、自分が先行し頂上に手が届く位置まで達していても、外国からの隊員に先に頂上を踏ませるべく、極悪な条件下でも、頂上一歩手前で立ち止まり、道をあけるのである。請け負った仕事とはいえ、この瞬間こそ、彼らは一番誇りとしているにちがいない。事業プロジェクトを推進する際に、アパシェルパのようなヒマラヤで活動するシェルパ達に代表されるような人材に恵まれたいものだ。
世界最高峰21回登頂した男の来日談
アパシェルパを一度広島に招聘したことがある。広島で開催される山岳レースへの参加招待であった。世界最高峰に幾度も登頂した男が日本の山岳風景の中を、どのような走りを見せてくれるのかワクワクしながら観戦していた。ペルーからの選手や国内参加の強力選手が次々とゴールするなか、なかなかアパシェルパの姿は現れなかった。そして、先頭がゴールしてから数10分経過した頃、彼は口元から白い歯を見せ、観客に笑顔を振りまきながら、歩くようなスピードでゴールでと接近してきたのである。そして、世界最高峰21回も登頂している男は、ゴール手前から両サイドで迎えている観客やスタッフに向かって、両手を合わせ感謝の意を表しながらゴールしていったのである。
ヒマラヤの山岳ガイドシェルパ達にとっては、山でタイムを競うスポーツには、ほとんど関心はなかったのだ。それ以上に招聘されたことに対しての感謝の気持ちを表現したかったのであろう。ということは、彼にとっては21回という世界最高峰への登頂回数も、そこまで重きをおいていないのかもしれない。資本主義的社会観では、他人との比較や数字の大小によっての評価基準に重きをおくが、敬虔なチベット仏教徒でもあるヒマラヤの山岳民族にとっては、そんなことより、いかに人とのご縁を大切にするかということに価値をおいているのだろう。
ドラゴンは架空の動物である。時には嵐を呼び起こす魔神ともなるが、多くは人間が崇める存在である。過去に大ヒットした、スタジオ・ジプリの映画『千と千尋の神隠し』にも、白龍が登場する。この龍 (ドラゴン) が国旗の中に登場する国がある。それが、ヒマラヤの小国ブータンである。おそらくや、ドラゴンが国旗の中にまで描かれた、世界唯一の国であろう。国旗の中で勇壮な姿で舞うドラゴンの純白の色は、国民の忠誠心を表現し、牙をむき出す目は守護神のエネルギーを示す。そして、足で握られる玉石は、国土の豊かさと国の平安への願いが込められている。
ドラゴン伝説は、広く東アジアには残っている。インドなど南アジア諸国になると、ナーダと呼ばれる大蛇がドラゴンと同じような役割を果たしている。私が思うに、東アジアと南アジアの境にあるブータンは、ドラゴン伝説の残る一番西の国ではなかろうか。知られざるヒマラヤの王国ブータンという名前を聞いて、すぐに頭の中で地図上の位置関係が描ける人は、かなりの辺境通といってもいいだろう。この国は、ヒマラヤ山脈の南に位置し、大国インドの北端にある。簡単な世界地図では、その表記された名前が地図上のブータン国土全部を占めるくらいの小国である。
こういえば思い出す人もいるかもしれない。昭和天皇崩御の際、この国の先代の国王が、日本のドテラに似た民族衣装で葬列に参列していた。この前国王(現国王の父親)の名は、ジグミ・シンギ・ウォンチュック。 1972年に即位している。この前国王は、知恵者であり国民からも『龍の国の尊い支配者』の称号を与えられていた。ドラゴン伝説や、ドテラに似た民族衣装は日本との類似性を示してもいる。実際、この国の人々の顔は、我々日本人にそっくりである。学者の中にも、この国が日本人のルーツではないかと説をたてる人もいるほどである。田園風景などは、ちょっと昔の日本の田舎とそっくりでもある。でも、食に関しては少々違いがある。
何度目かの訪問時、現地の知人から松茸の話を聞かされた。ブータン産の松茸を日本で輸入しないかと誘われた。ブータンでは、松茸が多く自生するという。しかし、現地ではほとんど食べる習慣がないらしい。時期になると、自生している山麓は、松茸の匂いで充満していると知人は言っていた。日本人にとっては、なんとも贅沢な宝の持ち腐れと感じてしまう。ブータンの人々の生活は、深い仏教への信仰が背景にある。民家には必ず仏間があり、朝夕の祈りは欠かさない。また、町の中心にはゾンと呼ばれる城壁に囲まれた僧院兼政務所がある。昔は、必ず一家から1人の男の子を僧侶にする習慣もあったらしい。僧侶は、民衆から尊敬されており、高僧の中には、国会に議席をもち政治にも発言権を有する人もいる。それだけ日常生活の中での仏教信仰は根付いているのだろう。10回前後この国を訪れているが、いさかいの場面に遭遇したことがなく、いつも穏やかな人々が出迎えてくれた。それだけに、仏教にまつわる伝説や儀式を人々は非常に重んじている。
例えば、「トラの巣」という意味のあるタクツァン憎院。この僧院は、900mを超える断崖絶壁に建てられている。絶えず谷から吹き上げる風に晒されてきた僧院である。この僧院には、聖者の伝説が残っている。聖者の名前は、パドマ・サンババ。インド北東部に生まれたこの聖者は、ナーランダの仏教大学で修行をした後にブータンヘやってきた。8世紀の中頃ブータンを訪れたこの聖者は、なんと空飛ぶ虎の背中に乗って、この僧院へと舞い降りてきたらしい。また、ブータンにはチェチュと呼ばれるお祭りがある。この祭りの主役は仮面舞踏である。ラッパやシンバル、太鼓にドラと賑やかしい音楽が流れる中、シカの面などの仮面をつけた踊り手が、昔の伝説や生活上の戒めなどを、仮面劇で表現するのである。伝統を重んずるこの国の公務員達は、就業時間内に全員民族衣装の着用が義務づけられている。学校の制服も民族衣装である。自国の文化と伝統をどのように継承していくかを絶えず考えているのである。
外国からの訪問客には、一定額以上の旅行費用を設定している。その費用は他のアジアの国を旅する時と比べ少々高額であるがゆえに、目的意識をもたない旅人はほとんど訪れることはない。資源を持たない内陸国ゆえ、外国の文化を冷静に観察しながら、自国の文化の継承と国の将来を見極めようとする姿勢が見受けられる。21世紀になっても、このような国が世界には存在しているのである。伝統的生活をいかに継承するかは、 一人一人の国民の知恵の結晶であることを教えられる国である。
バブル時代にバブルなお中元
今はすでに遠い過去の話となったバブル時代。多くが虚飾と誤った贅沢の泡にまみれていたが、少なからずユニークな発想も生まれていた。
『北極海の氷・アラスカ湾の氷をお中元にどうぞ』
というキャッチフレーズのチラシを見たのは、奇しくもアラスカから帰国した翌日のことであったろうか。原材料費がタダ。唯一の経費は現地からの輸送費のみ、というその品物は1袋約2000
円程度だった。
『こころの涼をお届けします』
という直筆の文書とともに、アラスカ湾の氷を幾人かのアルコール愛好家へ発送した。期待通りすべての人から『こころニクイ着想と太古の大気に感謝』などの返信をいただいた。世界中には、野生の自然と太古からの時の移ろいを肌で実感できる場所は、まだまだ多く残されている。そんな中でも、アラスカは筆頭クラスの雄大な自然景観を我々に提供してくれる。その昔、領土拡大に執念を燃やすロシア人が、どうしようにも開発できないというので、当時の価格にしてとんでもない安価にて、アメリカヘ売却した土地である。
アメリカに領土権が移った後、砂金や石油などが発掘され、ゴールドラッシュの時代を迎えたのを、ロシア人は歯ぎしりしながら見ていたともいう。そんなアラスカの大自然は、デナリ (旧名・マッキンリー) という北米大陸最高峰の山塊、そして観光対象として世界最大の氷河・コロンビア氷河に代表される。私がアラスカ湾の氷をお中元として着想したのは、このコロンビア氷河を船にてクルーズした時の経験から思い付いたのである。
太古の空気の弾ける音
その瞬間、私を含め船の同乗者全員は身をデッキに乗り出し、両耳に神経を集中させていた。
『パチパチパチ…、プチプチプチ、パチパチプチプチ…』
ぬけるような紺碧の空には、雲ひとつなく、風もほとんど吹いていない。海面に漂う氷塊の上にアザラシやラッコもグーグーと昼寝をしている。船上では、だれ一人咳ひとつしていない。「パチパチ、プチプチ』の音の発生源は、浮遊する氷であった。世界最大級の氷河・コロンビア氷河から流れ出る氷塊が、砕けて海面を漂っている。大きいのや小さいのや、形のいびつなもの、まさにオンザ・ロックの氷状態で浮かんでいるもの、などなど視界に入る青い海面の半分以上は、白い色で占められていた。燦々と降り注ぐ太陽の光線が、氷に乱反射し、目と額が痛い程である。氷河からの氷塊は、海水の温度に少しずつ溶けはじめる。氷河は何万年の歴史を経て形成され、絶えず流動を繰り返す。
最も贅沢なオンザ・ロック
太古の時代に、固まりかけた氷はまだ密度は希薄であり、細かい粒子の間には、気泡が含まれている。悠久の歴史と上部にできた新たな氷の重みにて、次々と水の内部の密度は圧縮され始める。粒子の間にあった、小さな空気の気泡は、小さく身を潜めながら再生の時を待っていたのである。1年間に数ミリという、気の遠くなりそうな氷河の歩みのなかで、太古の気泡はまろやかに熟成するのであろう。氷河の末端から押し出され、生物の母である海の温かさに触れた瞬間、そのまろやかさを、やさしげな音の囁きとして私達の鼓膜に届けてくれたのである。
『パチパチパチ、プチプチプチ』
この太古からの空気の静かなシンフォニーは、まるで母の子宮の中での、細胞の息吹のような印象を私に与えてくれた。アラスカン (アラスカ人) のクリューが、タイミングよくウイスキーのグラスを運んできた。海面から引き上げた氷塊の一部を砕き、それぞれのグラスヘと落とす。グラスという世界(小さなシンフォニーホール)にて、気泡達の奏でる太古の音律が流れ始める。グラスを自分の耳元に近付ける。グラスを軽く揺らすと音の旋律が変わり始める。何万年の年月を経て固まった氷は、製氷室で短時間に作った氷など比べられないほど、ほんとうにゆるやかに、まろやかに溶けていく。こんな氷にオンザ・ロックされたウイスキーは、こころなしか嬉しそうな表情を醸し出しているようにも思える。
「ああ…、みんながハーモニーを奏ではじめたんだ…」
そう思い始めると、不思議なものである。氷塊の上で昼寝をしているアザラシやラッコまで交響楽団の一員のようにも見えてきた。氷河の氷から弾け出る、太古の気泡の音は、私に自然のうち懐に抱かれる心地よさを与えてくれた。防寒服を着るくらいの寒さであったが、私の心は清々しい気持ちでいっぱいであった。この清々しい気持ち(心の涼)を持つ事は、現代社会ではなかなか困難なことである。それだけに、お中元をお送りした人達にも、是非気泡の奏でるシンフォニーを聞いてほしかったのである。
ユーラシアのエアーポケット
アメリカにおいての同時多発テロ事件以来、日本のお茶の間では、連日大量の内陸アジア情勢に関する情報が流れていた時期がある。アフガニスタン・パキスタン・ウズベキスタン・タジキスタンなど。旧ソビエトのアフガニスタン侵攻の時に比べても、これらの地域へのメディアやお茶の間の関心の高さは異常なほどであった。ウクライナ問題など、新たな世界情勢諸問題が発生する前には、イスラム原理主義のことが各メディア報道の主軸であった時期もある。頭にターバンを巻き、見事な髭と彫りの深い顔立ちの男達が、灰色と薄茶ぐらいしかない、乏しい色彩の乾燥地帯で動き回る映像は、日本人にとっては別の世界の出来事に思えていたことであろう。
多くの日本人にとって、これら内陸アジア諸国に関する事前情報は、世界史の授業で習った『文明の十字路』であった地域ということぐらいだろう。確かにこれらの地域へは、西からアレキサンダー大王が遠征で訪れ、東からは玄奘三蔵法師が聖地への巡礼途上に立ち寄っている。タリバン勢力に破壊されたといわれるバーミアンの石仏は、この地域が仏教伝搬途上の土地であった証しでもある。我々は、歴史の史実の上でのみ内陸アジア諸国の事を知っているが、現在その土地に息づく人々の日々の暮らしについては、関心の度合いは小さい。パキスタンからトルコに至る、中央アジアや西アジアのイスラム諸国は、日本人の海外理解度や親近感において、スッポリ開いたエアーポケットのようなものである。
桃源郷への道
そんなエアーポケットのエリアの一角に、桃源郷の里と呼ばれる土地があることは意外に知られていない。パキスタンの北部のはずれで、中国の西端とアフガニスタンのワハン回廊に接する場所にその里はある。標高7000mを越えるカラコルム山脈の山々に囲まれた、すり鉢状の谷あいの里は『フンザ』と呼ばれている。この里の周りを『天使の首飾り』と呼ばれるラカポシ峰や、日本の作家が『白きたおやかな峰』と呼んだウルタル峰など、万年雪を抱いた秀麗な山々が取り囲んでいる。春になると、桃の花やアンズの花が谷あいに点在し、紺碧の空の青、氷河の白といった広大な自然のカンパスを豊かな色で染めはじめる。それは、まさに桃源郷の風景となるのである。
このフンザの里への主なアクセスは、パキスタンの首都・イスラマバードから車で約2日がかり。それも、断崖絶壁につけられたガードレールもない道をゆく。この道は、「カラコルム・ハイウェイ」と呼ばれている。確かに信号はひとつもない。信号がないかわりに、何か所にもわたる道路崩壊現場が車の停車時間となる。運転手は睡眠不足の目を赤く腫らしながら、ところ構わずアクセルを深く踏み込む。カープではツルンツルンのタイヤが老婆が叫ぶ悲鳴のような音をあげる。そのタイヤの悲鳴が聞こえると同時に、運転手は『インシャーラ』という言葉を発する。「アッラーの神の思いのままに」という意味のあるこの言葉が聞こえると、私の体は硬直し強く目を閉じてしまうのだ。時速100キロ近くで、ガードレールもない断崖絶壁の、それも前方が確認できないカープの手前で『インシャーラ』なのだから・・。こんなテンションのかかるエキサイティングな2日間の旅を終えると、桃源郷の里へと辿り着くのである。
不老長寿の物語
この桃源郷・フンザの里は別名「不老長寿の里」とも呼ばれる。確かにこの里では、歳を重ねた人達を多く見掛ける。春の穏やかな日だまりの中で、畑仕事をしたり、家の白壁の横でタバコを吸っているシワだらけの老人に出会う。この里に生まれ、日本の女性と結婚した友人がいる。彼は、妻の父親に痴呆の症状が出た時、はじめてアルツハイマーという単語を知ったという。不老長寿の里では痴呆になった長生き老人はいないという。清澄な空気や乳製品の多い食生活が長寿の要素であると何かの本で読んだ事がある。確かにフンザの里は、この要素をそなえた生活環境であるが、私はもうひとつ重要な事がある様に感じる。フンザの里では、人々が土と絶えず接しながら人生を完結させている。言い換えれば、自然の変化に自分達の生活のリズムを調和させているともいえる。たとえ、ストレスを感じたとしても、大自然という大きな濾過器がそれをこしてくれている。生きてゆく上で何が最低限必要なのかを、自然の摂理の中で選択している。
この里を訪れる度に、長寿国と呼ばれる日本の裏事情に憂いを覚える。介護老人を抱える家庭の悩み、生きがいを模索し続ける中高年、自己中心的にエネルギーを暴走させるだけの中身薄い一部の若者達。構造改革がほんとうに必要なのは、政治や経済のシステムではなく、崩壊しつつある日本人の心の骨組みなのではないだろうか。
その瞬間、私は軽い目眩を覚えた。ヒマラヤの奥深い山村に、前夜初めて冠雪があった11月の朝。私の脳裏に、澄みきった空の「青」、地表と山肌に積もる雪の「白」、そして生暖かい動物の血の色「赤」・・、その3色の筋が閃光の如く走ったのだ。秘境ムスタン地区にある、標高3612mの寒村・ジャルコツトでの出来事である。その日は快晴無風。家畜囲いの庭で越冬の為の準備が始まろうとしていた。そのドラマが行われる庭には子供を含め女の姿はない。積雪の中、男達だけの準備の手作業。精悍さと陰りを同居させる男達の横顔にも、高地の強い陽射しが降り注ぐ。
美しい光景である。そして、ドラマの幕が上がる。数人の屈強な男達がつくる、人の輪がジリジリとその半径を狭めていく。人の輪の中には、家族が越冬するに必要なタンパク源を体にちりばめた家畜のヤクがいる。ヤクとはヒマラヤの高地のみに生息するウシ科の大型動物。普段は、黙々と荷役や開墾作業を担う静かな動物である。狭まる輪の中にいて、彼は逆らえない運命の順番を確実に感じている。しかし、後ろ足が大地を蹴り、砂埃があがっている。ヤクの丸い目が鋭角となり、眼球に血筋が走る。呼吸が乱れ、口角から粘液状の糸が垂れる。肌を刺す寒気の中で、運命への抵抗の唸り声、男達の吐く白い息、輪を狭めようとする摺り足の音だけが、秒針の如く空気と時を切る。
縄で編んだ4つの小さな捕縛輪っかに、ヤクの足が入った瞬間、「ドォゥオット」と地面が震える。捕縛されたヤクの足を、多人数でひっくり返したのである。白い腹を太陽に晒すヤク。強烈に長い角と4つ足を断末魔の如く振り回す。石垣から顔だけ覗かせていた村の男の子たちは、恐怖のあまり思わず背中を丸めて顔を隠していた。
共生への格闘
一瞬のことだった。1人の若者が右手にナイフを握り締め、断末魔と化しているヤクの懐に飛び込んだのだ。運命の道ずれを得たかのように、仰向けの状態でもヤクはその若者に力の限り挑みかかっていた。男の子達の憧憬のまなざしが、その勇敢な若者へと降り注ぐ。輪の男達は両手を広げ、勇者を鼓舞している。古老の口からは紫煙が洩れていた。切られていた空気と時が、急激に濃度と温度を上昇させていく。私の手掌がジットリと発汗し、拳を握り締めたその時。若者は手の中のナイフをヤクの心臓に突き立てたのだ。取り巻く男達の奇声、子供達の喚声・・、そして古老が立ち上がる。断末魔となったヤクの喉笛がヒューッと鳴っていた。振り回す四つ足と長い角がやがてスローに空を切り始める。若者はヤクの腹に身を預けたまま、右手の力をさらに込め小刻みに回転させる。角と4つ足が震え始め、ヤクの口端から僅かに泡が出ていた。役割を終えた若者は起き上がり、その代わりに古老が水を片手にヤクへと歩み寄ったのである。
そして時がまた止まる
水を浸した綿を持つ古老の右手が、ゆっくりとヤクの口へと動いていった。家族以上に時を共有したであろう家畜へ、仏教徒としての最後の供養・死に水を与えたのだ。それから、私の視野の中では、男たちが無駄のない動きでヤクを解体し、男の子たちがその作業を手伝う光景が展開していったのである。それはナイフのみの作業であった。まだ喉の奥の渇きが消えない私の網膜に映る眼下の動きは、あまりにも早いものだった。ヤクの腹が開かれ、内臓に光が差し込んでいた。チャンといわれる地酒が振る舞われ、その中に、生の最後の証であるヤクの生血が注がれ、湯気が立ち昇っていた。男達は私にもグラスを渡し、儀式への参加を促した。そして、グラスを真っ青な空に掲げ、一気に飲み干すよう促されたのである。飲み干すと同時に、真っ赤に染まった男達の歯が見えたその瞬間、頭の奥の視界に、「青」「白」「赤」、3色の閃光が走り、私は軽い目眩を覚えたのだ。
勇者のナイフ
尻尾付近の皮膚の内側に付着する、一番美味で栄養価のある脂肪の塊は、ナイフの若者に与えられた。地酒と生血、そして御相伴に預かった脂肪分が、私の消化管だけでなく魂まで揺さぶっていた。酒精と血精にてようやく喉の渇きが癒された私は、ヤクに向かい供養の手を合わせた後、解体作業に加わった。長い腸を取り出し、川の水で中身をきれいに取り除き、その腸へ細切れに砕いた内臓の肉片と生血を詰め込んでゆくのである。胆のうと思われる臓器が古老の手で慎重に切り取られた。この部分は、珍重される秘薬となるのだろう。
内臓をすべて取り除き、次はあばら骨へと移る。あばら骨は2つに割って取り出された。そして竈の上に吊し、冬の間、煙に燻されながら、子供のオヤツになるのである。子供は腹が減ったらナイフで、その硬くなってゆく肉片を切り取り、口に含みしゃぶるのだ。断末魔と化したヤクの最後の慟哭が聞こえてから約5~6時間後。ヒマラヤに西から淡い落日の光が差し込んでいた。生を育むための、死のドラマがおこなわれた庭には、4つのヒズメ部分と固まった血痕だけが取り残され、洗われたナイフに落日の光が落ちていた。
21世紀の現代社会における諸問題は混迷の度合いを深めるばかりである。若者は夢やロマンを自ら見出すことを諦め、エネルギーを持て余す。一方加速度的な社会の流れに翻弄され、自己への自信を喪失する中高年達。物質的な豊かさの背後にある心の内戦であろうか。無言の慟哭や溜息が学校、家庭、職場から流れ出ている。そのような現代社会にて、本当に研磨しなければならないのは『勇気』という名の心のナイフではないのだろうか。私やあなたもちょっと前まで、ヤクの最期のドラマを石垣から眺めていた子供と同じだった。心の渇きを癒す水の源泉は、自分史との謙虚な対話の中にあるのではないだろうか。
GNH(Gross National Happiness) = 国民総幸福量という、GDPなどの経済指標とは異なる目標を設定し、国民の幸せ向上を目的とする施策をとる、ヒマラヤの国ブータン。ここには、GNH施策調査などを含め、1980年代より10回以上の渡航をしている。私にとって、地球の定点観測地点のひとつである。2016年の訪問時には、イギリスのウイリアム王子がブータン滞在中であったり、また、帰路の飛行機(ブータン・インド間)にて、まさに墜落一歩手前というスリルを味わったりもした。ウイリアム王子がブータンを出国するのをパロ空港で見送り、その2時間後くらいのテイクオフであった。結果的には、このイギリス王子一家のチャーターフライト出発の為に、遅れて出発したのも影響したのである。
ブータンを飛び立ち、「次の来訪はいつにするかな」なんて気持ちになっていた頃である。飛行機は、経由地のインド・アッサム州の州都ゴハティの空港へと着陸態勢に入らんとしていた。ゴハティは、学生時代に延々10数時間もバスに揺られてやってきた懐かしい町。機窓から遥か眼下に見えるアッサム州の山並みを見下ろしていたら、突然、窓の外が暗雲に変化していくのである。あれよあれよという間に、機体が大きく揺れ始めた。インドなどでよくある限定的な雷雲の中に入っていったのである。問題は、ここからである。機体が大きく揺れ始め座席にしっかりと掴まろうと思ったとき、鈍く激しく、そして打ちのめされるかのような音響が機内を包んでいくのである。
「バリバリバリ!!」「バババババ!」
経験はないが、それはまるで機銃掃射をまともに受けているかのような音響と、体感なのである。当然、機内は大パニックに陥り、女性の悲鳴が機内をこだまする。今でも悔しいのは、その機内の様子や、音響を録画録音できなかったことである。機体は大きく揺れながらも、高度をどんどん下げていく。その下げ方は通常のものではなく、「落下」というイメージを想起させるに近いものであった。
「ああ、ここがそうだったのか。学生時代にバスに揺られてやって来たゴハティの街、それは、私の墓標を事前に造る為だったのか・・・」
などと思いながらも、まだまだ続く機銃掃射の音響に、ただただ全身をこわばらせているのみだった。やがて窓から空港らしき風景が接近してきた。「ああ、空港に激突か?」と思いきや、機体はバウンドしながらも、滑走路に着陸したのである。そして、しばらく機内に留められた後、アナウンスで、「すんませんが、全員降りとくんなはれ~」全員がぞろぞろとタラップを降り、迎えのバスに乗り込んだ。そして、そのバスが乗ってきた飛行機の前で、停車したその瞬間、
「オーマイゴッド!」「オムマニパメホン!(チベット仏教の祈り)」「合掌!」
機体の前面に大きな穴がいくつも見えたのである。コックピットの窓ガラスには、大きなヒビが亀裂として入っている。そう、機銃掃射は「天の雷集団からの、豹?ヒョウ、雹の襲撃」だったのである。おそらくや、人間の頭か拳大くらいの、雹の弾丸が我がブータン航空を来襲したのである。
しかし、そこは、雷龍の国・ブータンの航空機。ブータンのナショナルフラッグにはドラゴンも描かれている。! 雷には雷で、豹?雹には、ドラゴンで対抗してくれたのである。ドラゴンに護られた私達は、ゴハティの空港にて、代替飛行機の来訪を数時間以上にわたり待ったのち、バンコック空港へ。そして、奇跡的に当初の乗り換え便に間に合って、日本に戻ったのである。やはり、幸せの国・ブータンは、来訪者にも必ず「生存の幸せ実感」をお土産としてお持ち帰りさせてくれる国だと、同行者と帰路便の中で妙に納得していたのであった。
一般の人が、『カナダの印象は?』 と聞かれた時にまず思い浮かべるのは、その広大で無垢の自然ではないだろうか。同じ北米大陸にあるアメリカについて思い浮かべる印象とは、どこか異なるものがあるようだ。ラスベガスやニューヨークのプロードウェイなど大衆娯楽や都市犯罪など多くの人間臭さを、私達はアメリカという国から情報受信している。それに比べ、カナダという国からはその人間臭さ、生活情報はあまり多く受信されていないようだ。しかしカナダはモザイク国家とも呼ばれる。国の歴史が浅いのは、アメリカと同じであり、先住民と各地からの移民で構成される多民族国家というのも同じである。広大な国土の東にはフランス語を自国語だとするケベック州がある。また、南米からの労働者も東部には多い。北部や山岳地帯には、先住民であるイヌイットの人達や俗称インディアンと呼ばれる人達が住んでいる。西海岸部では、日本や韓国、ベトナム、香港などのアジア方面からの移民の人達が多く住む。
多くの民族を抱える点では、隣国アメリカと同じであるが、カナダからはそのキナ臭さは漂ってこない。それは、広大で清廉な美しさを誇るカナダの自然環境が、そのキナ臭さを浄化するひとつの濾過器になっているのではないだろうか。その自然環境の中心が、カナディアンロッキー山脈である。北米大陸の西に背骨のように峰を連ねるロッキー山脈には、魅力的なスポットが点在している。そんな大自然の中を自らの足でトレッキングする旅をご紹介しよう。
針葉樹の森と湖の世界ヘ
冬季オリンピックが開催された街として有名なカルガリーから車で約3時間ほどドライプすると、レイクルイーズという小さな町に到着する。この町は、英国の王女ルイーズの名前を冠とする麗しい湖がある。湖畔にはシャトー・レイクルイーズと呼ばれる世界的に有名なホテルもある。湖の真正面には、マウント・ビクトリアがその勇姿を誇っている。湖畔で散策を楽しんでいる世界各国からの観光客を横目にしながら、針葉樹の森へとトレイル(道)を歩み始める。ものの数分もすると、湖畔のざわめきが薄れ始め、耳を澄ますと野鳥のさえずりや小さな生き物達のかすかに動く音が聞こえ始める。カナダの国立公園では、出来る限り人の手が介在しない森の復元を目指しているので、トレイルの側には倒木などもある。そんな倒本を観察していると、生き物達の音のない声が聞こえてくる、と現地のトレッキング・ガイドが教えてくれた。
「これは、今日の朝、リスが餌を求めて留った跡ですよ。」
「倒本に寄生するこの小さな苔は、すでに50年ほど生きていますよ」
生き物達の営みに小さな感動を得ながら山腹を進むと、目の前にアグネス・レイクと可愛い名前を付けられた透明感あふれる湖が現れる。湖畔の道を歩いていると、人なつっこいリス達が岩影からヒョコッと顔を覗かせている姿に出会う。まるで自分が童話の森を歩いている主人公のような気になり、なぜかしらウキウキと足取りも軽やかになっている。深呼吸のひとつもしたくなる。クライマックスは、ピックビーハイブ (大きな蜂の巣) と呼ばれる小さなピークの上からの展望である。上方には、氷河を抱いたロッキー山脈の峰々が太陽の光を浴び、燦々と輝いている。眼下の下方には、レイクルイーズの湖面と湖畔に建つ、白亜のシャトーレイクルイーズ・ホテルが見下ろせる。
森と共生する為のルール
このレイクルイーズから車で30分ほど離れた所にあるもうひとつの湖、モレーンレイクも見逃せないスポットである。湖畔のロッジにたむろする団体観光客を尻目に、ジグザグの登り道に入るとそこは別世界。ふたたび、童話の森へと踏み込んでゆくのである。とはいってもカナダの森のトレッキングは、コース標識や案内板などしっかりと整備されており、非常に快適な空間と時間を楽しむことができる。初心者でも、気軽に童話の森へと旅立てる様に工夫がなされている。それだけに、森への旅人が守らないといけないルールも厳守されている。ゴミを持ち帰るといったことは当然のこと。植物の採集などはもってのほか。道を外れて歩く事も気をつけなければならない。何一つ森の物を人為的に動かしてはならないのだろう。
カナダの森は、我々人間以外の生き物の為に守られている世界なのだ。この森を訪れる我々人間は、あくまで訪間者であり通過者である、という意識が徹底されていると感じる。「環境にやさしい」とか「地球にやさしい」といったフレーズが巷に溢れ、自然と人間との共生を模索している現代社会。アスファルトジャングルの中に身を浸しながら模索していても、音のない森の声は聞こえてこない。カナダの森のルールのように、もっと私達は謙虚に、この地球という星の通過者としての姿勢を見つめ直したいと願う。
チベットは近年ますます様変わりしていっている。この変化のスピードを加速させたのは、ラサまでの「高原鉄道」の開通である。中国の青海省からチベット自治区への「青蔵鉄道」である。一度この鉄道に乗車しながら、私自身とチベットとの関係史を振り返っていたことがある。 それは、京都にある都ホテルでの出来事からはじまる。その年に来日されていたダライ・ラマ十四世とスイートルームで個人的に会談をもつという僥倖に恵まれた。20歳の大学生の時のことである。
高校時代から山登りを始めていた私にとって、ヒマラヤやチベットの高峰群は垂涎の地であった。大学に入り山岳部や探検部に所属し、それらの地への文献を読み漁る時期を迎えた。そんな中でチベットの精神的指導者であった、ダライ・ラマ14世の名前は書籍の中に数多く登場していた。「生のダライ・ラマに逢えるかも」というチャンス到来は、来日されたという新聞のべ夕記事を偶然目にしたときだった。それが結果として、人生のターニング・ポイントとなるとは露ほども解らなかった。
生(ナマ)のダライ・ラマ14世は、重厚で、深遠で、超然とした雰囲気を、体全体に漂わせながらも、どこかお茶目な視線も感じたのである。京都の冬は特に冷え込みが厳しいのであるが、当時20歳の私は、どこか温かい掌に包まれる感じがしていた。俗にいう「マイッタ!」のである。それからの私は、チベットやヒマラヤを「より高み」への目線である望遠レンズだけではなく、よりワイドに、よりヒューマンに、よりスピリチュアルに」という広角レンズも併せもつようになったのである。それから幾度となくチベットやヒマラヤヘは出かけてきた。
一度は日本山岳会創設100周年記念事業として、念願だった「河口慧海師の足跡調査学術隊」へも隊員として参加したこともある。ダライ・ラマ14世やチベットやヒマラヤという場所は、私にとって人生のターニング・ポイントの人やエリアであり、さらには世界へ向けた私の広角レンズの定点観測地点でもある。かつて「太陽の都」と呼ばれたラサは急速に近代化が進み、数年前に街角に立った時、一瞬どこの街かと戸惑った記憶もある。それは青蔵鉄道というインフラによって、東の方角から人や物、そしてルーツの異なる文化が毎日車両を連ねてラサヘ、そしてシガツェヘ、さらにはチャンタン高原やカイラス山麓へと流れていってるのである。
「近代化と伝統文化の軋轢」「創造と破壊」「変化と喪失」といったことは、すべての民族や社会にとって、歴史の通過点ではある。しかし、消化吸収の道筋を今までの数倍のスピードで通過する食物には、人体のどこかに歪みがくるように、変化への順応度に温度差が出ないかと不安でもある。また、個人的には定点観測のリズムも高速化しなければついてゆけないのでは…、とため息まじりに思うのである。
刺すような朝の寒気に、身体より先に脳の芯が目覚める。早朝の柔らかい陽射しに薄ピンク色の朝化粧を始めるヒマラヤの山肌。朝霞の中、どこからともなく聞こえてくる鶏鳴と人馬の声。広い谷を挟んだ対岸の山腹には未だ、ランプがほのかな光線をくゆらしている。朝露に濡れるキャンプサイトに、人の影がやさしく伸びるヒマラヤの朝。日本から来た熟年の夫婦が、身を寄せながら頬に涙の露を浮かべている。その涙の露には、山肌の薄ピンク色が滲み込んでいる。人為的な演出の入る余地のまったくない早朝のドラマ。このドラマは、太陽光線が地表におちるまで、ほんの10分程度で幕を閉じる。
ヒマラヤ・トレッキング (山麓歩きの旅) のコーディネートをしていると、このような早朝のドラマに幾度も出会う。どんなに仲の悪い夫婦でも、このドラマの舞台に対峙すると、同じ想いの涙を流すのかもしれない。ヒマラヤ・トレッキングーそれは、心にも涙腺があることをしっかりと再確認させてくれるドラマの舞台ではないだろうか。その代表的な場所・ネパールヘは、日本からの直行便だと片道約10時間の空の旅。アルピニスト達のみの栄光と悲劇の舞台であった頃のネパール・ヒマラヤは、すでにすぎ去りし過去の話である。現在は日本をはじめ諸外国から、トレッキングという行為を楽しみに老若男女が集う。トレッキングとは山の頂のみを求めて格闘する行為ではない。山麓の風情と山岳展望を楽しみながら歩くのがトレッキングのスタイルである。
トレッキングー人生の道を歩く
ネパールは標高80mの亜熱帯地域から標高8848m・世界最高峰エベレストまでを南北約300キロの幅の中に凝縮させた地形を持つ。人々は切り立った山肌にまで耕作地を作る。標高4000m付近まで開墾の風景がとぎれることなく連続して展開する。ネパールでのトレッキングとは、日本アルプスやヨーロッパ・アルプスでの山歩きとは異なり、人々の生活圏の中の道を歩く。江戸時代の街道である中山道などを歩くイメージである。生活道であるので、峠には茶屋がある。茶屋では隣村からの帰りに一息つくおじいさんがいる。牛囲いの石垣が道の両サイドに続く。腰が曲がるくらいの大荷物を背負った担ぎ屋達が、その石垣のかたわらで煙草を吸う。学校帰りの小学生達が声を掛けてくる。茶屋のかみさんが乳飲み子を抱きながら竈に薪をくべる。そんな茶屋の前を、首に鈴をつけたロバのキャラバンが通りすぎる。鈴の音を耳にしながら仰ぎ見れば、ヒマラヤの勇姿が父のように堂々と、そして母の如く優しく峠の茶屋を泡み込んでいる。ネパールの人々のあたりまえの人生、その一瞬のひとコマが目の前に展開し、そして流れてゆく。同時に心の中で、今まで歩んできた人生の道をフラッシュバックしている自分がいる。時速4キロのスピードで、ヒマラヤの山麓筋をそよ風に吹かれながら歩いていく。額や首筋を伝う汗は、浄化されつつある心の涙。なんともいえない爽快さが末端の一つ一つの細胞までも再活性化させている。身体の細胞の雄叫びが鼓膜の内側から聴こえてくる。鼓膜の外側をそよ風がやさしくさすり、鼓膜をはさんで至福の時が流れてゆく。
心に歌垣を結ぶ――仲間たち
1日の行程は徒歩・平均4~5時間。ネパールヒマラヤ・トレツキングのもう一つ大きな魅力は、現地同行スタッフ達との出会いである。シェルパと呼ばれる山岳案内人。荷担ぎのポーター達。ヒマラヤに生を育んでいる、彼ら山の紳士達は総じてはにかみ屋さんである。モンゴリアン系の顔立ち、そして仏教を基盤とする倫理感が、我々日本人の心の琴線を強く弾く。黙々と働くが、絶えず白い歯を見せる。そんな彼らの姿に古き良き時代の日本の若者像をダプらせる熟年層。穴のほころびたシャツの袖から赤銅色の腕。細いがカモシカのように無駄のない2本の足。ためらいながら、恥じらいながら語る…『この仕事を終えたら、久し振りに故郷へ帰り彼女に会うんだ』。我々の為に、タ飼の支度をしながらも、彼らの心はしっかりと故郷を見ている。彼らの見せる白い歯にヒマラヤを背景とする故郷の風景を、そして、彼らの恥じらいの語り口に、伝統文化への強い誇りを私は感じるのである。日中、黙々と働いた彼らは、夕食後エンタティナ-に変身する。カラオケなどのセットは彼らには必要ない。
簡素な作りの笛と太鼓が彼らを変身させる。とぎれることなく誰彼が次々と唄を口ずさみ、月夜のキャンプサイトに踊りの輪が花開く。日本からの参加者も、炭坑節や童謡・唱歌で互いの心に歌垣をつくる。月の光に照らされ、闇夜にほのかに白く浮かび上がるヒマラヤの懐深くへ、歌垣の音色が染み渡ってゆく。月が姿を消し、闇夜に星たちが光の競演をはじめる頃、キャンプサイトに静寂が訪れる。それから約6~7時間後、新たな1日の始まりとともに、早朝のドラマが幕を開けるのである。『歩く』という、あたりまえの動作を繰り返すのがトレッキングである。ただしかし、心の沈殿物を浄化する汗をともない、末端細胞を再活性化する深呼吸を繰り返し、そして、そよ風が心に虹色の歌垣を結んでくれるのである。
まるで、インディージョーンズの映画の世界であった。インドのヴァラナシ。しかし1970年代から1980年代にインドを放浪していた者としては、やはり『ベナレス』と呼びたい。学生時代には、この街に約2週間ほど滞在し、実質的に沈没していた。その後も幾度か、調査などにて訪れている。その度毎に、この街の持つ威力(異力)に人生の座標軸が揺すぶられる。とある日、夕暮れ時まで『ぼ~』っとガンジス河畔にて死体を荼毘にする様子などを見ていた。そうすると、周囲がザワザワとしはじめ、何やら舞台のセッティングなどがはじまったのである。あれよあれよという間に、ガンジスの川面も漆黒に融けていき、かがり火などが点灯し始めたのである。さらに、なにやら怪しげな(この街自体が怪しげであるが)な一団がす~と登場してきたのである。
手には、お香を焚き、煙もうもうのお鉢のようなものを持っている。隣のおばさんは、手に持った鈴を鳴らし始める。そこへ、ぬ~っと、悪魔のような輩が顔を出す。もう、幻覚でもみているかのような2時間程度の時空間であった。ドラッグなんか、ひとつもヤッていないのに、飛びまくりのガンジス河畔でのひととき・・。いや、私はヤッていないが、舞台上や聴衆はその限りではなかったろうなあ~。いずれにせよ、ベナレスは、ぶっ飛んだ街というのは現代でも変化なさそうである。そんなバラナシの光景が脳裏をフラッシュバックしていた。
混在する生と死
大阪に住むバングラデッシュ出身の友人から、インドのコルカタ(カルカッタ)へ飛ぶと聞いた。おじさんが亡くなったという。彼は30年ほど前、単身日本へわたり皿洗いから始め、今では貿易商社を営むまでになっている。スケジュールをやりくりし、葬式のために海を越えるという。彼によると、インドなどのヒンズー教徒は、身内の死後約半月から1ヶ月後にお葬式をする。その期間、家族は白装束となり、男性は髪の毛を剃るという。話を聞きながら、私はインドにある聖地・バラナシ(ベナレス)を思っていた。ガンジス河畔にあるガートと呼ばれる所では、昼夜を問わず遺体を荼毘に付す炎と煙が絶えない。初めてその光景を目の当たりにしたとき、気を失うくらい圧倒された。焼き場の人が長いさおを持ち、死者の内臓をひっかきまわしたり、頭蓋骨を叩き割ったりしている。
火の通りをよくするためだ。煙っている灰と薪は、さおでガンジス河に流し落とす。次から次へと遺体が運ばれ、淡々と同じ作業が昼夜を問わず繰り返されている。夜は川面に、死者を供養するための花と灯明を載せた小さな葉が流される。ところが、朝日が昇る前から、死者の灰を流した下流で、身を清める沐浴が始まる。すぐそばでは、洗濯屋が心地よいリズムでシーツを洗濯石に叩きつけている。子供たちは喚声をあげて、河に飛び込んでいる。多くの人生の終末が、日常の風景と背中あわせに混在している。まるで、生と死のスクランブル交差点。私の頭の中は、こんがらがった。人の一生って何なんだろうか。生きる、死ぬってどういう意味。なぜ、人は生きようとするのか…。酷暑の中、泣きたい気持ちで物思いに耽ってしまっていた。
ガンジス河の水は、インド洋へ注ぎ、水蒸気となり、雲になってヒマラヤ上空へと戻る。そして雨となり再びガンジスヘと帰ってくる。亡き人のことを、喪に服しながらゆっくりと心に納めてゆくヒンズー教徒の死生観の背景には、大きな自然のサイクルがある。その大きな循環と比べれば、人の一生なんて、なんとはかなく短いものなのだろうか…。だからこそ、永遠に続くと思いがちな大切な人たちとの時間を、私たちは心の中でもっと大事に輝かせたいとおもうのである。
シリコンバレーが退社時間を迎えると、アメリカ人技術者のする仕事は、インドへの引き継ぎのメールを送ることらしい。インドの技術者たちが朝出勤後すぐにとりかかるのは、アメリカからのメールを開くことらしい。時差を活用した24時間体制でのプログラム開発が現在の最先端技術を生む素地となっている。インドの経済成長の大きな柱には、このITテクノロジーの高さと言葉(英語)におけるハンディのなさ、そして24時間フル稼働できるために都合のいい、アメリカとの時差がある。その一端を、技術的には改善の余地を残してはいるが、世界最安値での乗用車(ナノ)の開発に見ることもできる。世界における注目度は、今や中国を抜いてインドにシフトしつつあるようだ。かたやインドからは、別次元での、驚くようなニュースも流れてくる。70年間飲食をせずに生きてきた83歳のヨギ(インドの聖者)をインドの軍医チームが病院に聖者を缶詰にして観察している、といった内容の記事が数年前に流れた。医学的な検証の結果とその信憑性は定かではないが、21世紀にこのようなニュースが出現する素地がまだまだインドにはあるのだ。
無機質なコンピューターの技術開発において無限大の可能性を秘めている国から、非科学的で一般常識では把握しきれないような事象が出現してくるのである。70年間も飲食せず、そして排泄もしない生命体が果たして存在できるのか…、ということはサイエンス的実証の世界ではなく、フィロソフィー的思索の世界で受け止めないと単なる酒場での話題提供のひとつで終わってしまうだろう。システム開発のエンジニアをしていたインド人の知人は、このヨギのニュースに深く感銘を覚えていた。おそらくやインド人の多くは、このヨギをリスペクトしていることだろう。現世での森羅万象をフィロソフィー的思索でアプローチしようとするのか、それともまず、サイエンス的実証で分析しようとするにかによって大きく人間のタイプは分かれるように思う。インド人の多くは前者のような気がする。
その背景には、「自然の大きな循環に寄り添う人間の一生」という考え方がある。ヒマラヤに降った雨や解け出た雪は、インドの大地を滔々とガンジスの大河となって流れてゆきインド洋へとたどり着く。灼熱の太陽に熱せられ、水蒸気となって天空へと昇り雲となる。地球の自転によって発生する風に運ばれ、その雲はヒマラヤに戻ってき、冷えた大気に晒され雨や雪に変化しながら再び源流へと回帰するのである。そのおおいなる循環の中流域に聖地・バラナシがある。インド人にとって至福の終末の迎え方は、そのバラナシにて荼毘に付され、遺灰をガンジスに流してもらうことだと聞く。遺灰は、大いなる自然の循環によって、ヒマラヤからインド洋の旅を繰り返すことになるのだろう。
このような「誕生」「流転」「昇天」「再生」「回帰」の循環を自然のサイクルとシンクロさせるフィロソフィーがインドの大地には21世紀でも、太い根となって張り巡らされていると感じる。遥か昔の出来事ではあるが、インドにおける「ゼロ」の概念の発見も、そのフィロソフィーが背景となっているのではないだろうか。このフィロソフィー的思索は、21世紀の欧米諸国や日本、そして21世紀の中国の経済発展では疎かにされてきた。今を生きる私達は、各分野においてその猛省を強いられ始めている。自然という言葉さえ、安直に使用されすぎてもいる。
インドという国が歩んでいく未来図が、もしかすると人類にとって明るい光明のひとつになるのではないだろうかと感じるのである。それだけに、70年間飲食・排泄をせずに生存しているといわれるヨギ(聖者)の存在が気になっていたしかたないのである。
盲目の老女が奏でるハーモニカの音色。ビデオから流れるそのメロディーは、老女の苦難の人生が刻み込まれており、聞く者の心に重く響き渡る。老女の名前は、山崎繁栄さん。 1910年佐賀県生まれ。彼女は、生まれてまもなく失明する。大正3年に父親の仕事の関係で朝鮮半島へと渡り、その後現地の韓国人男性と結婚。半島を大きく揺るがした第二次世界大戦、そして朝鮮戦争と続く動乱の時代に彼女は夫と一人娘を亡くし、彼女自身も行き場を失ってしまう。それからの彼女は、近くの子供の子守などをしながら、山に掘った穴の中で4年間も暮らしたという。
1994年に亡くなられるまでの84年間。彼女の人生を追想することは、想像の域を遥かに超えることであり私には困難である。が、ハーモニカに込められた彼女の心の音色に私は強い衝撃を受けた。そのハーモニカの音色は、韓国の慶州のとある施設の中で静かに流れていた。慶州ナザレ園。山崎さんは人生の静かな終末をこの地で過ごされた。おだやかな風景がひろがる慶州は、古来韓国の古都として栄えてきた。近郊には歴史上の古蹟が点在している。ナザレ園は慶州の町はずれ、長閑な田園風景の中にある。
1972年に開設されたこの園は、在韓日本人妻達を救援する活動をおこなってきた。在韓日本人妻は、第2次世界大戦前後に、夫である韓国人男性とともに日本から韓国に来た日本人女性達。第2次世界大戦終結直後の韓国には、約2万人弱の日本人妻の人達がいたともいわれている。朝鮮戦争の動乱期に一家離散となったり、戸籍を消失、紛失した人など、韓国と日本との国交が回復した後にも、日本に帰る事ができなくなった女性達。生活にも困窮していた彼女達に救いの手を差し伸べたのは、父を日本軍に思想犯として処刑された金龍成(キム・ヨン・ソン)氏であった。朝鮮戦争後の荒廃した人びとの生活と心を復興する為に、金氏は孤児院や福祉施設を建設した。ナザレ園もその一つである。ナザレ園に関しては、作家・上坂冬子さんの著作にてすでにご存じの方も多いことと思う。
終の家での穏やかな日々
私がナザレ園を訪れた時には、当時72歳から94歳までの24名の日本人妻婦人が暮らしていた。ほとんどの方が高齢者であり、中には寝たきりの人、痴呆がでている人もいた。彼女らの1日は、午後3時に賛美歌を歌い、食事や風呂の時間こそ決まっているものの、その他は自由にすごされている。日中は連れ立って近くの田園地帯を散歩されたりもしている。彼女達の楽しみを聞いてみた。とりわけ人気なのが日本の相撲中継やのど自慢、NHK朝の連続ドラマである。特に『おしん』が放映された時は、ドラマの時代背景と自分史とを重ね、食い入るように見られていたそうだが、最近の朝の連続ドラマにはあまり興味がないらしい。かえって韓国の家庭ドラマのほうが、心情的に共感を感じられるらしい。ナザレ園では、日本の童謡や唱歌がよく歌われる。忘れかけていた日本語が懐かしいわらべ唄のメロディーとともに蘇ってくるともいう。国交が回復した後、日本へ帰国していった人も少なからずいる。が、すでに高齢となっている彼女達は、日本へ帰ることをそこまで望んではいない。わらべ唄の歌詞とメロディーの中に、故郷・日本ヘの望郷の思いだけを託しているのだ。
魂は海峡を越えて戻る
彼女達は生きている間は、このナザレ園で過ごすことを強く望んでいるが、自分の死後、魂だけは日本に帰らせたいと願う。韓国にはこのナザレ園に住む以外にも、日本人妻と呼ばれる婦人がおよそ800人ほどいると言われている。ナザレ園の収容能力にも限界があり、それ以外のところにも住んでいる人達がいる。中には、韓国で幸せに暮らしている日本人妻がいるのも一方の事実であると聞く。しかし、身寄りも少なく心細い生活をする婦人が多く、ナザレ園では収容できない人に対しては送金援助をしたり、在宅サービスを行ったりもしている。だが、このナザレ園が果たす歴史はそう長くはないとすでにいわれていた。当時の園長である韓国人女性・宗美虎さんは、あと15年くらいでナザレ園の仕事は終了すると言われていた。高齢者の多い日本人妻達は幾人かが毎年亡くなられていたのである。
現在の慶州は、玄海灘に接する大都市・釜山から高速道路にて約1時間。玄海灘は高速船にて3時間で越えられる。距離的には、ナザレ園からものの半日もあれば、故郷日本の山河に触れる事が出来る時代である。しかし、彼女達にとっての日本は、未だに近くて遠い故郷である。玄海灘を望む丘の上に、彼女達の墓地は建てられる。半世紀前にそれぞれの新天地を求めて越えた海峡を見下ろす丘である。彼女達の魂は、わらべ唄のメロディーに乗り海峡を越えて故郷へと向かう。
『夕空はれて、秋風ふく~』、山崎さんが吹いていたハーモニカのメロディーも風に吹かれて、東へ東へと流れているはずだろう。
標高4000mでは、平地の酸素濃度に比すると約60%~70%ぐらいにはなるだろうか。現代医療の世界では、『アブナイ領域』になる。そんなアブナイ領域、標高4000m付近で私は、チベット医師(アムチ)による巡回診療に立ち会ったことがある。そこは、単色の色彩世界である。赤茶けた色が視野のほとんどを占める。群青の空が、どこまでも突き抜けるかのような深みで頭上を覆う。ネパールの秘境中の秘境、西北地域のドルポと呼ばれるエリアである。
私自身、このエリアに入域したその日には、酸欠と冷気の急激な吸い込みにて、躰全体に麻痺様の症状が出た。下半身から上半身へと、次第に躰の自由が失われていく恐怖は、言葉では表現できない。思わず馬上から這うように地面にずり落ちたのである。そんな、空気の薄い高地での脈診。 どんな脈を打つのか、このアムチに頼んで、写真の女性の脈をとらせてもらった。なんと、ドックンドックン、と見事に『実』の脈打つ音であった。生まれながらにしての環境順応といえばそれまでだが、あまりの鼓動にのけぞったものである。もうひとつ、注視してもらいたいものがある。脈診の女性、そして、薪木を運ぶ女性たちの手首である。そう、貝殻のアクセサリーなのである。標高4000mのこのエリアから海までは、相当の距離がある。日本各地の縄文遺跡や弥生遺跡からも、貝殻アクセサリーが出土している。
その多くは、鹿児島県や沖縄近くの海でしか取得できない貝の種類だったりすると聞く。古代の日本では、海のネットワーク網を使いながら、女性たちの装飾心や慰撫心を満たすグッズが運ばれていたのである。かたや、ヒマラヤの奥地のドルポでも、女性だけが手首に貝を装飾するのである。 今から2億5千年ほど前、現在のヒマラヤ山脈のある広域ゾーンは、『海』だったのである。北のユーラシア大陸と、南のインド亜大陸が、プレートテクトニクス(大陸間移動)により接近、衝突、そして隆起したのが、ヒマラヤ山脈である。現在も活動継続中である。
事実、ヒマラヤ山脈中から、アンモナイト(巻貝)の化石も多く出土している。私自身も、小さな鍋蓋サイズのアンモナイトを現地で拾ったことがある。それは、家宝となってもいる。 太古の昔に海だった名残りを示す『貝』。その貝の装飾品を一生、手首部分にハメている秘境ドルポの女性・・・。おそらく、ドックンドックン、という明瞭で力強い脈音は、地球の鼓動音と共鳴しているサウンドなのだろう。
霧雨の奈良・正倉院
奈良という街は、何故か雨が似合う。それも霧雨…。何故だろうかと思案に耽った。雨の法隆寺、薬師寺、東大寺…。なかでも霧のような驟雨の中、正倉院に佇む時間は、私にとって堪らない魅力である。ジワリと湿り気を含んでくる木の柱と自分の肌。雨露がスーッと伝わる屋根と傘。そんな時私は、光がほとんど差さない倉の中にある宝物群に想いを馳せる。正倉院の宝物群の中には、遥か西方の国からラクダの背や船に揺られながら旅をしてきたものがある。
その旅路は、決して安らかなるものではなかったはずだ。幾多の人の手を渡り、戦乱の火を逃れ、熱砂の砂塵に耐えながら東へ東ヘと運ばれてきたのだろう。そして奈良の正倉院にて旅路が終息し、安息の時を迎えている。雨の中、宝物に想いを馳せながら、私の頭の中では走馬灯のように、灼熱のシルクロードの風景がクルクルと回っていた。中国国内の西域地方を通るシルクロードには、大別すると3つのルートがある。
天山山脈の北側の草原を通過する天山北路、
天山山脈の南麓のオアシス群を繋ぐ天山南路、
そしてタクラマカン砂漠の南縁沿いで、崑崙(コンロン)山脈の北縁沿いの道でもある西域南道。
この3つのルートの中で、旅人達の足跡の歴史が最も古いのが西域南道である。
タクラマカン砂漠の脅威
1980年代後半、私はこの西域南道を通過した旅人達の仲間入りをした。ラクダに乗ってユ~ラユ~ラ…、といきたかったが、時の中国政府の許可はおりず、四輪駆動車にての旅。総日数は21日間。全走行距離は2300キロを越えた。シルクロードが交差する街・カシュガルを出発、西域南道を走破し、最終日的地は敦煌であった。ラクダにてキャラバンを組み、このルートを通過した昔日の旅人達の苦労には及びもつかないが、車両にての走破にも過酷な自然環境が障壁となって幾度も行く手を阻んだ。崑崙山脈からタクラマカン砂漠へと流れ込む雪解け水が、毎年流れを変えて道路を直撃する。
タクラマカン砂漠を吹き荒れる風により運ばれた砂が、路面を覆い道路を消失させてゆく。消失するのは道路だけではなかった。大気中に常時舞っている砂塵に光が乱反射するのか、空と地面との境界線―すなわち地平線までもが視界から消えた。「タクラマカン」という言葉の意訳は、 一度足を踏み入れたら二度と出てこれない――ということ。昔の旅人の記録には「空に飛ぶ鳥なく、地に走獣なし」と、この砂漠をことを表現しているくらいである。
日中の気温は摂氏40度を超えることもあり、冬は飲料水代わりとして氷が運搬されるぐらい、冷え込みが厳しい。人間や動物の屍が、道標でもあったとも記述されているくらい、古来この交易路は命も取引の代償であった。現代の旅にても、ルート上に点在するオアシスでの食料、燃料、水などの補給の問題、車両のメンテナンスなどなどハードルは高い。しかし、決して大自然の脅威に怯えるばかりではなかったのも事実である。あえて、この過酷な道を通過する旅人にだけ与えられる特典が数多くある。
砂塵舞う旅路の果てに…
「シルクロード」の重要度に多大な影響を及ぼした玉石を産する街・和田(ホータン)では、日曜日毎に市が開かれる。赤や黄色などカラフルなデザインの服装の女性が埃っぱい乾燥地帯のパザールを歩いている。その姿はまるで砂漠に咲く花のようでもある。オアシスの生命線である、カレーズと呼ばれる地下水路で冷やされたハミ瓜。甘くたおやかな水分を含むこの瓜の味は、砂漠の旅人達の脳細胞にある味覚野に確実に刻み込まれる。その他にも、砂塵の彼方に揺れる蜃気楼、西遊記の舞台のような崑崙山脈やアルティン山脈の偉容、乾燥高原帯を疾走する野生の獣達…。
遠く昔日より、ほとんど変わらない風景と光景がこの西域南道には残っている。そして旅人達のロマンや冒険心を喚起し続けている交易路なのだ。オアシスの街中に、延々と続いているボプラ並木の下を歩きながら、私は考えていた。ユーラシア大陸のど真ん中・中央アジア、また遠くは地中海沿岸部や中近東などから、美術品や工芸品が運ばれてきた。砂漠の舟と呼ばれるラクダの背に揺られながら美的感性が東へ運ばれたのである。冒険心溢れるシルクロードの旅人達の手をへながら、中国という大きな濾過器の渦の中に入り、美的感性はさらなる研磨を受けたのだろう。
地中海性気候や乾燥砂漠で育まれた美的感性の結晶は、ユーラシア大陸を横断し、そして海を越えた。砂塵の旅路の果ては、湿潤な奈良盆地。宝物群は正倉院の暗い倉の中で、雨音を聞きながら、故郷の地よりの旅路を回想しているのだろうか。流砂の交易路・西域南道は、私達現代の旅人へ栄枯盛衰の歴史と同時に、光り輝く人間の営みの素晴らしさをも教えてくれる道である
中国領内のシルクロードは大別すると3つのルートがあることは記述した。天山北路は天山山脈の北側の草原を通過する。天山山脈南麓のオアシス群を結ぶのは天山南路と呼ばれる。そして3つのルートの中で一番過酷な条件下にあるのが、タクラマカン砂漠の南縁を結ぶ西域南道である。「タクラマカン」という言葉の意訳は、1度足を踏み入れたら2度と出て来れない、ということ。この砂漠のことを「空に飛ぶ鳥なく、地に走獣なし」と昔の旅人は記した。西や南を崑崙山脈やアルティン山脈、北は天山山脈などに囲まれるこの砂漠は、日本の山岳・探検分野の人にとって昔から垂誕の地であった。特に砂漠の東方には、スウェイン・ヘディンの探検で有名な楼蘭やロプ・ノール湖がある。
登山や探検行動の源泉であるパイオニア精神を鼓舞された学生時代、「タクラマカン」という言葉は、しっかりと私の心にも楔となって剌さっていた。近年になり、幾度目かのタクラマカン再訪の旅に出掛けてきた。その砂を手にとりながら、初めて砂漠に対峙した1980年代後半のことを思い出していた。その頃の中国西域地方は、現在の経済成長がウソのような時代だった。複雑な許可取得手続きに悩まされた後、カシュガルの町を四輪駆動車で出発した。3週間強で西域南道を走りぬけ、総走行距離2300キロを超す敦煌までの旅だった。ラクダによるキャラバン隊の苦労には及びもつかないが、想像を絶する強烈な自然環境が幾度となく私達の行く手を阻んだ。
しかし同時にその荘厳な大自然は、あえてこの過酷な道を通過する旅人への僥倖を数多く用意してくれていたのだ。アルティン山脈を横断中の夕暮れ時。道標としていた轍がいつの間にか消失した。その時、茫然自失の私達の眼前を、野生鹿の集団が疾風怒濤の如く走り抜けていったのだ。砂埃と地鳴りが収まった頃、まるで魔物の住処のような奇岩群が夕闇に浮かび上がってきた。それはまるで冒険映画のクライマックスのようなシーンだった。
また満月に近い夜のこと。米蘭(ミーラン)の遺跡に疲れ果てて辿り着いた。月明かりの下で、野晒し状態の遺跡群が淡く仄かに浮かび上がっていた。月の光と遺跡の影は見事なまでのハーモニーを奏でており、栄枯盛衰の歴史に想いを馳せながらの野営を満喫することができた。そしてなんといっても烈風に舞う砂塵に巻き込まれた時の記憶は忘れられない。その日の午前中は快晴無風だったが、午後急速に空模様が変化した。烈風が砂の粒子を巻き上げ、灰色のベールとなって進行方向を覆い始めた。
砂漠から流れてくる砂は路面にも積もり始め、路肩がしだいに霞みはじめた。それは砂地と道との境が無くなり、道路という言葉が消えてゆく瞬間だった。消えていったのは道路だけではなかった。大気中に溢れ出た砂塵は、空と地面との境界線-すなわち地平線を視界から消失させていった。それからの数分間、我々の車は一切の「枠」というものが見えない空間を移動したのだ。耳にするのは、風の音と車のエンジン音。
体が感じるのは、小刻みに揺れる車体の振動のみ。確実に動いているのだが、距離感や速度感、さらには重量感といった「実感」が無くなり、心地いい浮遊感を砂の大海原にて体感できた。このように自然が展開する非日常の諸現象は、旅人たちの心象風景に強烈なインパクトを与え、その旅にも彩りを添えてゆく。「1度足を踏み入れたら、2度と出て来れない」と称せられるタクラマカン砂漠。もしかすると、自然現象の奥深い魅力に取り付かれた人が命名した言葉なのかもしれない。
悠久の大自然・ヒマラヤで世紀を跨ぐ
20世紀終末と21世紀初頭をヒマラヤ、それも世界最高峰エベレストを眺望しつつ味わう、という企画をたてたことがある。あたりまえのことであるが、自然の造形物であるヒマラヤは世紀が移ろうとも、その姿には変化は感じられない。何万年前から1年に数センチほどの動きしかない氷河。エベレストの山項からジェット気流に吹き飛ばされる、雪煙の風景も何等変わらない。土地の人々も、彼等独自の暦による生活を静かに送っている。日本では、新世紀の幕開けをマスメディアが大々的に報道し、何か新しい時代がスタートするかのような雰囲気づくりが始まることは予想できていた。私にとってヒマラヤは第二の故郷だと自認している。だが、幕開けにヒマラヤを選んだのは、それだけの理由ではなかった。それ以上に、太古の昔よりほとんど姿を変えてこなかった大自然の中に、我が身を浸しながら、じっくりと新世紀という時代の幕開けを噛み締めたかったのだ。
工ベレストはその期待を裏切らなかった。20世紀最後の12月末、徒歩にてヒマラヤ山中を数日歩いていた。ヒマラヤは冬場でも、晴天であれば日中は気温が上昇し、非常に暑くなってくる。標高は、4000m近くまで上がっていたので、同行者の中には酸素が不足しておきる高山病の初期症状を示す人もでていた。とある、峠の曲がり角に達した時、世界最高峰は、その勇姿を我々の眼前に堂々と現わした。おもわず、固唾を飲んで呆然と佇むばかりの時間が続いた。同行者も言葉を失っていた。世界最高峰・工ベレストのみならずヒマラヤの大自然に対峙すると、人々は驚き、感動し、そして自然を畏怖する気持ちにもなる。
しかし、世界最高峰はその中でも特別の存在だと、このたび再認識させられた。確かに他の峰々を圧倒している。なんの前知識もなく、初めてこの山を見た人の気持ちを考えた。その山のスケールは、その人の過去における想像力を遥かに凌駕していたであろう。事前知識のある我々でさえ、何度見ても言葉を失っている。ヒマラヤの美しさに涙を流す人さえいるのである。このような、美しい自然景観を提供してくれる星に住んでいる幸せを体感する瞬間でもある。タンボチェという4000m近い標高の村には、ゴンパ (僧院) がある。50人前後の僧侶が、ヒマラヤの大パノラマに抱かれながら、毎日仏教の修行をしている。彼等僧侶達は、多少俗っぽい部分もあるが、最高のロケーションにて修行の時間を持てている。皮肉っぽい言い方をすれば、異邦人には感動し涙を流すまでの光景でも、日常の風景となれば感じ方が違うのかもしれない。それでもタンボチェの僧院からの眺望は、悟りへの道筋上にある光景ではないだろうか、と強く感じた。
ヒマラヤからの電話
ナムチェバザールという集落にて、我々は新世紀の幕開けを迎えた。この集落は、ヒマラヤの山岳案内人として世界にその名を響かせている、シェルパ族の村である。命の代償として、各国からの大きな遠征隊よりの、多額のガイド料収入がこの村の経済を潤している。この20年ほどで、村人達の生活はガラリと変わってきた。今では瀟洒な山小屋風のロッジが立ち並び、村人の多くは流暢な英語を話す。急峻な山肌に馬蹄形状に形成されたこの村は、 山岳地に建設された小型飛行機しか離発着できない飛行場の村から徒歩2日もかかる場所にある。しかし、村の至るところには、衛星アンテナが立っている。 山小屋風のロッジの中では、カラーテレビとビデオデッキが大事そうに木箱の中に入っている。そして、ロッジの電話で世界中へ、ダイヤルインにて国際電話をすることが可能なのである。シェルパ族の人々は彼等の暦をもっているので、 世紀の変わり目を特別祝福することはなく、静かに日付が変わってゆくだけの日。世界最高峰を眼前にし、大自然の偉大さに我が心を洗い流した、と思っていた私は、電話の前で逡巡していた。人間のあさはかな自我というものを、瞬間でも払拭する為にやってきたヒマラヤ。 そして期待を裏切らなかった世界最高峰。静かに、時の移ろいだけを星空の下で味わおうとしてやってきたヒマラヤ山麓歩きの旅。でも、私は自我に勝てずロッジの受話器を上げ、日本の我が家の電話番号を押さえていた。
「ツルルル・ツルルル・・・ ハイ、もしもし、清水ですが・・・」
聞き慣れた家族の声とその向こうに、テレビで流れる除夜の鐘が聞こえていた。
人間半世紀以上近く生きてくると、「偶然と思える出来事も、必然の結果なのでは…」と感じる場面に多く遭遇する。とある年に関野吉晴さん(医師・探検家)の講演を聴いた。壮大な人類の移動の歴史を、関野さんはまるで絵巻物を紐解くように、言葉を噛み締めながら語ってくれた。その朴訥な語りは、ほどよく抑制された高質度のドラマのナレーションを聞いているかのようだった。
関野さんの著書「グレートジャーニー全記録(移動編)・我々は何処から来たのか」の本編冒頭は、ブンタアレーナスという町の描写から始まる。2007年1月9日昼前、その町の空港に私は降り立っていたた。降り立った目的は2つ。南極での探査、そしてパタゴニア地方での最新山岳事情調査である。 関野さんの話を聞いてから1ケ月後に、グレートジャーニーの出発点であるパタゴニア地方を訪れるという幸運…。そして2007年は日本による南極観測開始50周年にあたる年。 宇宙飛行士の毛利衛さんや作家の故・立松和平さん達が昭和基地を訪れ、いつになく南極の露出度が高まっていたその年に、私自身も南極に足跡を残すことができた幸運も加算されたのである。 もうこうなると、偶然の出来事であっても、なにか大きな力によって、地球の裏側まで導かれたのではないか、と思うのである。
“なにか、大きな力”、そうなのである。旅の道中、いつもこの言葉は私の心を揺さぶっていたのである。不思議なことに、パタゴニアの大地を移動していると、私の脳裏には幾つかの光景が浮かんでは消えるのである。 それは、アラスカの原野にボツンと置き去りにされていた廃屋であったり、チベットのチャンタン高原を砂埃をあげて疾走するガゼルの群れや、タクラマカン砂漠のオアシスで接した節度と誇りある村人たちの表情であったりした。
「なぜなのだろう?」
昨今のパタゴニア地方も、ご他聞に洩れずインターネット社会がすでに到来している。プンタアレーナスの町中にあるインターネット・カフェでは、日本語でヤフー検索画面が表示される。隣の席にインターネットでテレビ会話を楽しんでいる若い娘がいるくらいだ。長距離バスの運転手がスマホ電話で諸連絡を取り合い、国立公園内のロッジでは流暢な英語を話す女性がフロントに座っている。 チリの良好な経済状態を反映しているのか、社会的インフラの整備は急速に進んできたように感じる。しかし、なにかが確実に失われていないのである。もちろんパタゴニアの大地を吹き荒ぶ風や浮かんでは流れ消えてゆく雲、延々と続く無辺の大地やそこに生息する生き物達、など大自然が醸し出す幾多の表情も失われていなかった。しかし、私はそれ以上にもっと大切なものが失われていない気がしていた。
それは、白髪のウェイターの目線の配り方や送迎車の運転手の口調、ホテルの女性スタッフの何気ない物腰などから感じるものなのだ。「フロンティアの空気感」とでも言っていいだろう。私にとっては非常に居心地が良く、心地いい感触-その触感がパタゴニアでは失われていなかったのだ。 背伸びすることなく、しっかりと大地に踵をつけながら、自然の恵みに感謝し、人肌の温かさを裏切らない日々の暮らしを大切にする…。
そのフロンティア特有の空気感は、アラスカの原野やチャンタン高原、タクラマカン砂漠、そして世界の秘境・辺境地に暮らす人々に共通している日々の営みの風景でもある。私をパタゴニアに導いてくれた”なにか、大きな力”、それは関野さんをはじめ、「フロンティアの空気感」に居心地のよさを覚える人達の「ご縁」ではなかっただろうか。
北の大地に馳せる心
友人を訪ねて北海道の道東・釧路へ旅をしたことがある。友人の車に乗り釧路から摩周湖、屈斜路湖方面をドライプした。冬の道東は夕刻四時ともなると山の端へ夕陽が傾き始める。穏やかなスロープを描く山並みと、針葉樹の木立ち・・。その白き雪化粧の姿にほのかな淡い紅色が混じり合う時、窓外に流れる寂蓼感漂う北の大地を見ながら、私はある風景と時間を思い出していた。旧ソビエト時代のゴルバチョフ政権の末期の年。厳寒期の2月に私は極東ロシアの沿海州を訪れていた。
沿海州は、その名が示す通り、日本海に接するロシア東端のエリアに位置する。ロシア帝国・旧ソビエト時代より、地下資源や不凍港を求めて開発が進められた地域でもある。ユーラシア大陸の東端に位置する、この地域の中心地であるハバロフスクが、新潟空港から空路3時間の近距離にあることや、ロシア極東軍事戦略上重要な拠点であるウラジオストック軍港がこの沿海州にあることなどは、意外に知られていない。
まだまだ『近くて遠い国』のひとつである極東ロシア。沿海州もかつては脚光を浴びた時代があった。すでに後期高齢者となっている団塊世代が、青春を調歌していた1960~70年代頃。若人の貧乏旅行の出発地は、この沿海州の港町・ナホトカであった。新潟港から日本海を船で越えナホトカヘ。さらにシベリアの荒野を鉄道にて約1週間、ようやくヨーロッパの土を踏んだものだ。時間はかかるが、当時一番金のかからないヨーロッパヘの渡航ルートであった。希望で膨らんだ背中のザックを最初に下ろすユーラシアの大地―それがこの沿海州であったのだ。
ロシア風・男のもてなし方
シベリアという広大無辺な荒野が隣接するこの沿海州には、まだまだ手つかずの自然がふんだんに残されている。想像を絶する長い冬の寒さが、「手つかず」という言葉の背景となっている。そして短い夏―奥深い森には熊やシベリア虎などの大型野生動物が徘徊し、流れる川では、イチメートル強ものイトウ (幻の淡水魚ともいわれている)が飛び跳ねると聞く。「狼の遠吠えが子守歌だった」と、ウォッカ片手のロシア人達はうそぶく。そんなモスクワから一番遠い距離にある沿海州での滞在中に、私はロシア人の心の故郷を感じる体験をした。ハバロフスクとウラジオストックとのほぼ中間点に位置する町・アルセニエフ。極東ロシア空軍の精鋭部隊の駐屯地でもある。この町から車にて郊外へ約2時間。タイガ(針葉樹林帯)の中に、イズパタと呼ばれる古いロシア式の民家がポツポツと点在している場所がある。近くにはシベリア抑留日本兵士が森林伐採した跡地もある。厳寒の2月―これらの民家のまわりは凍てつく氷と雪だけの世界。雪の上には、狼の足跡が残っていた。
男達だけの宴
すでに廃屋となっている民家を利用し、ロシア人の友人が私に伝統的な家庭風のもてなしを提供してくれた。まずペチカ(暖炉)に勢いよく薪をくべる。そしてボルシチにウォッカで体の芯を温める。男達の素朴で質素な手料理である、グリヴェと呼ばれるキノコ料理を食べる頃には、家の中も体の中もポカポカだ。二重窓の外はマイナス20度の世界だが、家の中では汗ばんだ上着を脱ぎ、ペチカの傍らで男達全員が上半身裸となる。ここからロシア男の心ずくしのもてなしは佳境にはいってゆく。1人の男がギターを持ち出した。ロシアの民謡を歌う男達の野太い声が凍てついた闇夜に響きわたる。
ウォッカと雪中沈身
ウォッカと歌で盛り上がった厳寒のロシアの夜に欠かせないのが、サウナである。民家の屋外にはパーニャと呼ばれるロシア式の簡素なサウナ室が作られている。立て付けが悪く、すきま風がピューピューとはいってくる庶民のサウナ。サウナの中はかなりの高温で熱せられているが、容赦ない外の冷気が混ざり適温の状態。汗が吹き出してくると、男達同士が火照った体を互いに白樺の葉で叩き合う。この後の仕上げがチョット凄い。ロシアの男達は、奇声を発しながらスッポンポンの状態でマイナス20度の外へと飛び出すのである。
何をするのかと思えば、満天の星空の下、雪の中に体をジャンピングさせていくのだ。こうして火照った体を冷やし、体が寒さに悲鳴を上げる寸前に、またサウナヘ飛び入るのである。「汗を出す―白樺の葉で相手を叩く―奇声を発する―雪中沈身」を幾度も繰り返す―これがロシア流伝統的な裸のつきあいなのだ。そして部屋に戻り、またウォッカのグラスをかかげ、男達は狼のように闇夜へ咆哮する。このような、ロシアの昔ながらの田舎風情を求め、都会に住む人が週末を利用しカントリーライフを懐かしんでいるらしい。
『厳寒の世界は人を哲学者にし、厳寒の中、暖炉のぬくもりは人を文学者にもする』、
19世紀から20世紀にかけて、ロシアではドフトエフスキーやトルストイなどの文豪やレーニンなどの政治家を多く輩出した。彼等の多くもウォッカと雪中沈身の洗礼を受けているはず。思想の是非はともかくも、骨太の男達であったことはまちがいないようだ。
近未来へ向けたホリスティックライフの実験場
私が初めてこの国を訪れたのは、1980年代後半であった。それ以来、地球の俯瞰的定点観測地の一つとして設定し、これまで10数回の渡航訪問をしている。ブータンはヒマラヤ南斜面に位置しており、北にチベット(中国)、東西及び南でインドと国境を接する陸封国である。日本のように国境が海に接することなく、北は『世界の屋根・ヒマラヤ山脈』、南は『亜熱帯のジャングル』という自然の障壁に加護されている。国土は九州くらいの面積で、人口も日本の約200分の一程度の小さな王国だ。30年弱にわたりこの国の変化を見続けてきた者として言えることは、ブータンは、『近未来へ向けたホリスティックライフ構築の壮大稀有な実験場』ではないだろうか、ということである。
「日本人はミラクルである」、この国から来日したチベット仏教の僧侶が私に言った言葉である。広島に来た彼は、原爆投下直後の写真と、現在の街の景観を見比べながら頭を悩ませていた。悠久の自然景観・ヒマラヤを背後に生活するブータンの人にとっては50年や60年くらいで、街の景観や物事の価値観は変わらないのだろう。当時のブータンの首都ティンプー近郊でも、庶民の家にはテレビなどなく、バザールでの会話や祭りの時などが貴重な情報交換の場でもあった。現在でも、物質文化が徐々に浸透しているが、学生や公務員は日本の着物に良く似た民族衣装を着て、学校生活や執務時間内の仕事をしている。寺子屋のような教室では、伝統的な文化や価値観がゆっくりとしたリズムの中で、次世代に受け継がれている光景を目にするのである。
先代の王・ジグメ・ワァンチュック前国王が掲げた、国民総幸福(GNH)という、近代化への速度を抑えた開発施策理念は、第9次5か年計画(2002~07年)を経た上にて、2008年に発布された成文憲法下でその方針が明文化されている。その柱は4つ(①経済発展、②文化的遺産の保全と振興、③環境の保全と適切な活用、④よい統治)。この4つの柱の中でも、最も大切な基軸とされているのが、②と③なのである。簡潔に言えば、『山川草木・森羅万象を含む“風土”との共生の上に、先人らが築いてきた伝統的価値観』の基底を忘れることなく、それぞれの時代に対応させていく為に、政治・経済という外的システムを整備していく。ということではないかと思っている。その成文化された憲法を縦軸とし、輪廻転生というチベット仏教の時空を横軸とする、世界で唯一無二の『幸せの座標軸』を設定している実験国家、それがブータンではないかと思うのだ。
ブータンでは様々なものが『回旋』している。お祈りの際に廻すマニ車、お祭り時に鹿の面などを被る仮面舞踏、仏塔や聖地巡礼での左廻り歩き、そして善悪所業の輪廻という概念・・。何事も直線的・二元的な動きでなく、螺旋型のリズムが精神の深層部分にあると言えるかもしれないだろう。また、ブータンでの伝統的着物は、見事なまでの染色デザインが施されている。その手織りの現場に立ち会うと、ブータンの人たちの、死生観や宇宙観、幸福観といった目には見えないものが、魂の文様として織物の中に紡ぎ込まれていくかのようである。伝統的価値観というものは、口頭や文書で伝わる一方、生活のなにげない営み風景の中に螺旋のリズムで織り込まれていくようにも思えるのだ。
近年日本を巡回したブータン展では、ブータンの映像も多種会場内にて流されていた。その中で一つの映像に心が留まったのである。それは、ブータン語(ゾンカ語)で『セムガェ=(心が晴れ晴れとする)』ということについての場面であった。映像の中でブータンの庶民の人たちに、『どんな時にセムガェを感じますか?』との質問に、『織物をしている時』『娘の顔を見ている時』『親の手伝いをしている時』『バザールで客と話す時』『久しぶりに友と会う時』、そして『全ての生き物の安寧を祈る時』などの答えが返ってきていた。
即ち、「関係性の中で、生きている手応えを感じる時」に、セムガェを覚えているのだと私は感じたのである。誰一人として、個人の所有欲の為に、何かをしている時ではないのだ。物欲などの我欲の達成時ではなく、関係性の“場”の中にこそ幸福感の源泉があることをブータンの庶民は知っているのだろう。そして、その関係性の”場“とは、なにも現世上の人間関係だけではないのだろう。輪廻転生という回旋する時空により結ばれる、過去・現在・未来という生命連鎖の”場“も含まれているのではないだろうか。さらに、その”場“は、人間という世界に終始することなく、生き物を含め森羅万象との関係性とも繋がっているのだと思えるのだ。そのことは、成文化された憲法の中に、『国土の60%以上を森林で保全せねばならない』とう一節が存在することで証明されているように思える。その自然との共生に基軸をおいた伝統的価値観は、長寿を描いたチベット仏画(タンカ)にシンボライズされてもいる。この長寿絵は、WWFとブータン王立自然保護協会(RSNP)が発行した環境教育のテキスト冊子の表紙にもなっている。
これらの長寿絵には、生命が長く続くことを祈願し、鳥、鹿、木、岩、水、老人の6つの必須アイテムが描かれている。自由を祝福し不死である鳥はヒマラヤを渡るオグロヅル、鹿は平和と調和を現し、木は成長と繁栄、岩は不動の象徴である。老人を長寿のシンボルとし、水が生物界の生命の源であることを示し、その循環に関わる人のあり方を教えている。森羅万象との共生の中で、『手ごたえのある至福感』を体得しながら安寧の長寿人生を送る・・。この壮大稀有な『ホリスティックライフ構築』への実験を取り組んでいる、ブータンの開発理念と理想像は、すでに中世に描かれた長寿絵の中に塗り込まれていたのである。
ドイツ人気質と日本的自然観
ドイツは昔からゲーテやベートーベンなど芸術家や哲学、文学者を多く輩出してきた国。その伝統は医学分野でも顕著である。現在、予防医学やリハビリ分野において、自然環境を活用した「気候性地形療法」という分野にスポットライトがあたりはじめている。その事情視察に現地視察に出掛けたことがある。昨今、日本においても里山環境や登山という行為を活用した、自然治癒力向上や生活習慣病予防対策などの研究が進んできている。ドイツはその先進国であり、原子力発電政策や環境保全政策においても世界をリードしている。そこには、ドイツ人気質といってもいい文化的背景があるように感じる。
明治時代、医師でもあった森鴎外が、ドイツ語の「ナツール」という言葉を「自然(じねん)」と翻訳したことから、日本語の「自然(しぜん)」概念が誕生する。ドイツ人的気質では、自然を論理的に解釈していこうとする。ワンダーフォーゲルの語源はドイツ語で「若者に、野山を彷徨しながら哲学することを薦める運動であった」と聞く。自然と対峙しながら自らの内面構築を図るのであろう。それに比して、日本人の自然に対する姿勢は、「自然(じねん)=自然と融け合い、一体化しながら共生する」という自然哲学がその背景にあるように思う。
気候性地形療法とは
ドイツアルプスは、ミュンヘンの南・オーストリアとの国境に展開する。その山麓にガルミッシュ・パルテンキルフェンという町がある。晩秋の暖かい日差しの中、気候療法士が同行指導するプログラムに参加した。指導者は、24歳の美形スポーツマンタイプ。気候療法士の資格を得るには、医療系もしくは運動系の国家資格を有しながら、特別講座の受講が義務づけられている。ドイツ最高峰の山麓にあるアイブゼーという湖を一周するプログラムは、意外にも速歩に近い運動療法的コースであった。参加者の中には、医師の処方指導を受けてプログラムに参加した年配者夫婦やスイスの山岳ガイド協会の重鎮、そしてドイツのリハビリが専門の医者などがいた。
ドイツでは気候性地形療法を受診する人への保険の適応が考慮されている。ドイツではその他、クナイプ療法、温泉療法、音楽療法などなどの代替療法にも一部保険が適応になっているとも聞く。ドイツではこのように、自然環境を活用しながらの予防医学やリハビリへの展開が新たな取り組みとして注目されているのである。ドイツのみならず欧州の多くの国が、独自の自然環境を活用しながら、医療・教育・地域再生などのプログラム推進に取り組んでいる。それは、人間の身体感覚を超越した、科学技術文明のさまざまな災禍からの再生や創生への模索の現れといっても過言ではない。
日本の里地・里山の今後について
歴史的に見ても、我が国では温泉湯治などの転地療法が盛んであった。温泉湯治場の多くは、奥山深い場所にあったが、アクセスの改善により現代では「里地・里山ゾーン」に含まれてきている。日本の「里地・里山ゾーン」は自然からの恵みを享受しながら生活を営む場であり、心身の機能や状態の養生の場でもあった。それは、日本人の自然観や死生観、人生観の大きな背景にもなってきたのである。名古屋で開催されたCOP10(生物多様性国際会議)以降は、日本語の「里山=SATOYAMA」が、その概念とともに国際語として普及するよう環境省が力を注いでいる。自然環境下での活動(登山のみならず里山保全活動や地域再生)に関与する者の戒めの言葉としては、「ひと時の流行に左右されることなく、世紀を跨ぐ理念をもつ」ことではないだろうか。スカートをはいた女性の山姿に一喜一憂するのではなく、自然界からの「おおいなる声」というものに真摯に耳を傾けるべきではないだろうか。
私の活動拠点の1つでもある中国山地は、永年の長きにわたり、「踏鞴(タタラ)製鉄」の文化が蓄積されてきた。一見、自然と対峙するかのようにも思えるこの製鉄技法からは、「人間と自然」との共生の在り方へのヒントを学ぶこともできる。意外にも処方箋は足元に点在しているのかもしれない。
50歳代半ばだったろうか。思い立ってイタリアへ2週間ほどリサーチ独り旅に出掛けた。ローマ、ベネチア、フィレンツェ、ミラノ、それぞれの下町を中心に巡った。私にとってのイタリアは、欧州各地にある定点観測地点の一つであり、大きな観測ゾーンである。イタリアへのデビューは意外にも遅いのである。40歳代に入ってから初めてかの地に足を運んでいる。今から振り返ると、その年齢でデビューして良かったと思っている。イタリアは、なかなか手強いのである。20歳代や30歳代の私であれば、到底太刀打ちできていなかっただろうとも思う。
地中海に、大きな盲腸のように、また、女性のブーツのように伸びるイタリアの国土。海に囲まれ、火山帯も有しているので、日本人にも親近感が湧きやすい。もちろん、歴史的遺産も多い。なぜイタリアを定点観測ゾーンとしているかは、少々複雑な理由からでもある。それは、キリスト教的価値観の欧州(アメリカも含め)と、他の価値観(東洋諸国、イスラム諸国、北アフリカ圏、ロシアを含めた旧東欧圏)との接着剤は、このイタリアとギリシャの古代史を読み解くことにあるのでは、と感じるからである。
ギリシャに端を発する現在の欧州文化のルーツは、ローマ時代にその繁栄を極める。しかし、その古典的価値観は、意外にもイスラム圏からの回顧運動によって再発掘されているのである。北アフリカを含み、地中海においてその覇権をほしいままにした、古代のイタリア海洋国家群。中世の混乱や、ナポレオンの時代などを経て、イタリアが統一国家になるのは1861年と、欧州の中では意外なことに遅いのである。1861年,この7年後の1868年、日本では『明治維新』がはじまるのである。
近代日本の統一国家の始まりと同じ時期に、イタリアも統一国家となるのである。そして、第1次大戦では局部的中立を維持し、第2次世界大戦では、日本と同じくドイツと組むのである。戦後の経済的発展は、日本のスピードには追い付かないが、敗戦国にも関わらずG7のメンバーには入っているのである。すなわち、東洋の端っこの日本とは、同じような時代背景を過ごしながら、ローマをはじめ、諸都市が独自の文化を維持し、さらには、バチカンという大きな『勾玉』をも内蔵しているのである。
初めてイタリアを訪れた際には、その奥底の見えない深さにたじろいたものである。何を見、どう感じ、そして、身体のどこにそれを収めたらいいのか・・。戸惑いながら、フィレンチェやベネチアの町を流離っていた。四十歳代でもこれだから、20歳代、30歳代ではキャパオーバーだったろう。ガイドブック通り歩くしかなかったかもしれない。数度のイタリア通いくらいでは、なかなかこの『手強い対手』には太刀打ちできはしない。まだ未踏地帯である、イタリア南部や島嶼部、この辺りを近年中に、エスノグラフィックなフィールドワークで攻めてみたいと思っている。
遥か垂涎の地・モンゴルへ。還暦前年・59歳の秋に踏査訪問した。還暦前年のこの踏査は、まさに精神の『暦還り』となり、わが青春の原点回帰ができたのである。モンゴルと聞けば、大草原を駆ける遊牧民の姿が浮かぶことだろう。確かに国土の大半は広大な草地や半砂漠だ。しかし、国の最西端部、ロシアやカザフスタン、中国との国境エリアには標高3000~4000m級の山脈がそびえ立つ。この地域の遊牧民が「金の山」と呼ぶアルタイ山脈である。チンギスハンを始祖とするモンゴル帝国の騎馬隊も、この山脈を越え、中央アジアから、さらに旧東欧圏にまで、その足跡をしるしたのである。
私はこの年9月、このアルタイ山脈で最高峰であるフィティン山(4374m)の山麓を中心に残されている岩絵や石を彫って人の姿をかたどった「人石」、シカなどの文様が彫り込まれた「鹿石」をニ週間にわたって踏査した。モンゴルの首都ウランバートルから国内線で3時間半飛び、最西端の県、バヤンウルギーの空港に到着した。私はカザフ族の家に民泊しながら踏査の準備を整えた。アルタイ山脈は毎年6月には色とりどりの高山植物の宝庫となるが、短い夏が終わり、9月ともなると朝晩は肌を刺すような冷気が降りてくる。踏査の間はテント泊なので寒さへの対策が必須となる。
踏査した岩絵群の一部は2011年に「モンゴル・アルタイ山脈の岩絵群」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された地域の中にある。世界遺産とはいうものの、そのエリアの面積は2100ヘクタール、東京ドームの450個分にも及ぶ広大なもので、その中に約5千カ所もの小さな岩絵群が点在しているのだ。踏査は初日から難渋した。30分も走れば舗装道は姿を消し、それ以降は単なるわだちが草地や石ころだらけの大地に刻まれているだけ。つまり、どこを走っても構わないのである。ドライバーは、いつ廃車になってもおかしくないような旧ソ連製の四輪駆動車を疾走させながら、「これがモンゴリアン・ハイウエーだ」と言い放った。
車体の中で自分の体が絶えず乱高下し、車だけでなく、こちらの体からもきしみ音が聞こえてくるようだった。ただ、フロントガラス越しに時折見える、カザフ族の人々の乗馬姿や、羊、ヤギ、牛、ラクダなどが大群で移動する様子には、目も心もすっかり奪われてしまっていた。標高2500m余り、フィティン山から流れ出る氷河の末端部にあるツァガーン・サラーの岩絵群に到着したのは日暮れ時だった。周囲は岩の山と石ころが転がる大地が広がり、黒と茶と灰色だけの世界だ。その岩山の中に紀元前11000年前後から紀元後9世紀ごろまで、約12000年もの長い期間にわたって岩に刻まれ描かれた絵が点在していた。特に、紀元前1200年前後、この地域の青銅器時代に描かれたと推測される絵には、動物の文様や狩猟する人の姿、二輪の馬車のような車両などが刻み込まれている。シカの文様はほかの動物と比べても際立っている。特に角の描き方にそれは表れていた。数多くのシカが描かれる中でとりわけ大きく描かれたシカの角の形は、カフカス山脈西北部で発掘された古代スキタイ時代(紀元前8世紀前後)の金製の盾に刻まれた装飾のシカととてもよく似ている。
スキタイは黒海北岸エリアに起源を持ち、世界でも最も古い騎馬遊牧民といわれる。彼らは西方のギリシャ文明とも交流を持ちながら、東方へ騎馬遊牧の文化を広げた。岩絵や騎馬遊牧の文化が広がっていくさまはユーラシア大陸の一万年を超える東西交流史の多彩さを物語っているのではないだろうか。その夜、私は寝袋の中で、縦横無尽にユーラシアを遊動する人々の夢を見ていたに違いない。
ロシアという国へは、すでに1990年代初頭に沿海州(ウラジオストックやハバロフスク)に足を踏み入れていた。もちろん、ソ連時代崩壊すぐのことである。ので、現地では、元KGB幹部だった人間がカウンターパートナーだった。さすがにKGB出身だったので、フィールドワークなどにも長けていたことを思い出す。極北の熱き男たちの宴にも参加したことが記憶に鮮明に残っている。中国もそうであるが、ロシアにおいても、この20年間における変化スピードは、尋常(これまでの歴史的にみても)ではなかったと思う。22世紀の人々が、今回のパンデミックのみならず、1990年代から2020年代における世界主要国の内情や国際情勢の変化などを振り返った際、必ずや『歴史の大きな転換点』だったと記述するだろう。
さて、ロシアの大地である。ロシアの文学や芸術には、昔から関心があった。特にトルストイにはなぜか惹かれるものを感じていた。それは、彼の文学作品の中に散りばめられた、珠玉の言葉群であった。
『悔恨がないのは、前進がないからである。』
『慈善は、それが犠牲である場合のみ、慈善である。』
『逆境が人格を作る。』
『もし善が原因をもっていたとしたら、それはもう善ではない。もしそれが結果を持てば、やはり善とは言えない。だから、善は因果の連鎖の枠外にあるのだ。』
などなど、トルストイの生い立ちや人生経験から紡いできた言葉の数々である。当時の各国の著名人が、彼の自宅を訪れている、日本からは徳富蘇峰(明治時代の先鋭的な文筆家)などの知識人らである。そんな世界的に名の知れた文豪は、なんと80歳にて、妻との長年の不和を理由に家出(トルストイは大金持ちであった)するのである。そして、小さな鉄道駅舎内にて、肺炎をおこし、亡くなってしまうのである。
後世の人を唸らせる名言の数々を創作しながらも、自らの足元の『ぐらつき』を修正することはできなかった。なんとも『ロシア人』らしくて、大好きなのである。誰もが聖人君子に憧れるだろう。悩み多き時代であればこそ、『大きな善』や『清廉な導き』に期待をかけるだろう。しかし悲しいかな、得てしてそれは『弧を恐れるばかりの、もたれあい』に留まってしまうことが多くみられる。トルストイは、なぜ80歳にもなってから『家出』をしたのであろうか・・。それが、私の彼に対しての最大の疑問であった。その疑問に対する答えを、やはりトルストイは用意してくれていた。それは、彼の墓にあった。森の中に、ひっそりと墓標もなにもなく、ただ緑の苔むした『盛り土』があるのみ。そうか、彼は東洋的な『虚空の境地』に達しようとしていたのではないだろか。
トルストイの墓から考える
大文豪の墓にしては、なんと質素なことだろう。広大な森の中に、ポツンと佇む苔生した長石。目立つ案内板も無く、早足だと思わず見落としてしまいかねない。この、簡素を極めた墓地は、文豪の晩年に抱いていた思想に大きく影響されている。トルストイ運動ー富豪の家系に生まれたトルストイのユートピア構想でもある。トルストイ運動家たちは、自らをキリスト教徒であるとする。しかし一般的に制度上の教会には所属しない。また彼らはキリストの奇蹟や神性よりもその教えを重視する。
物質よりも精神に重きを置き、その原則は、「非暴力」「赦し、普遍的な愛、道徳的、アイデンティティ」、霊性、自己啓発的人格、シンプルライフ、隣人愛などが根底にある。具体的にはイエスの反省、山上の垂訓、あるいはシンクレティズムとの関連が見られる。これらの原則が実行されれば社会が道徳的に変化し、ユートピアの現出も可能であると考える。彼らはそれを、既存の社会と国家を農民による自由で平等なコミュニティに取って換えることで達成しようとした。
「グッド・モーニング・サープ (旦那様) 。モーニングテイー・プリーズ」。
イギリス流に訓練された、 1日のはじまり言葉とともに温かいミルクティーが運ばれる。ヒマラヤ・トレッキングでの朝の光景。前夜のキャンプサイトでの宴の余韻が残る身体に、薄いテントの生地を通して、朝の光線がやさしくふりそそぐ。テントのジッパーを下げると、朝露に濡れた草地と薄ピンク色に染まるヒマラヤの山肌が朝の挨拶をしてくる。さあ、深呼吸して胸をふくらませ、今日もいい汗をかこう。刻一刻化粧を変えてゆくヒマラヤを望みながら、テーブルでの朝食は珠玉の食事。テーブルや椅子、テント、炊事用具など共同で使用するものは、すべてポーター達が運搬してくれる。朝食がすむ頃には、キャンプサイトはほとんどの撤収が終わり、出発の準備がととのっている。さすが山に暮らす民族、手際がスピーデイでさわやかである。
午前8時前には、「ホナ、ぼちぼち、いきましょか」の声がかかる。ヒマラヤ・トレッキングは一日平均4~5時間程を歩く。ヒマラヤを歩くといっても、現地の生活道や街道筋を歩くので、厳しい山岳登攀などは一切ない。標高4000mぐらいまでは、ネパールの人々の生活圏である。さらに、シェルパと呼ばれる人々が、道案内やキャンプサイトの整備をおこない、コックが料理をつくる。そしてポーターが荷物を担いでくれる。日中は、自分の個人装備や貴重品など約5キロ程度の荷物を背にのんびりと歩くことができる。言ってみれば、ヒマラヤ山麓にて殿様気分を味わうことができる。
ヒマラヤの街道筋・西東
スイス・アルプスのハイキング・コースは、昔から整備されてきたのでトータルすると約5万キロ、地球一周強分。それに比べ、ヒマラヤではまだまだ人跡未踏の地域もあり、トレッキングできるコースは幾つかに絞られる。世界最高峰エベレストが眺望できるカラパタールの丘までのコースは、ダイナミックなヒマラヤの山並みが手をのばせば触れるぐらいの醍醐味がある。しかし標高5000mを超える場所まで到達するので、酸素が薄くなり身体に相応の負荷がかかる。事前の充分な対策や的確な状況判断にもとずくセルフコントロールが必須となる。いわゆる危機管理能力が乏しい幾人かの人が、毎年命を落とすコースでもある。初めてヒマラヤにてトレッキングを希望される方へすすめるのは、アンナプルナ連峰山麓コースである。穏やかな山並みが続くこのコースでは、ヒマラヤの山々が屏風をひらけたように展開する。8000mを超す巨大な山塊、秀麗なヒマラヤひだを有する7000m級の鋭鋒群などなど。
このコースでは、なんといっても街道筋に暮らす人々の生活風景の変化が興味深い。急峻な山肌に、空まで届くかの如く棚田が連続する。敷き詰められた石畳からキャラバン隊の馬のヒズメの音が響く。標高の変化と呼応するように、沿道の民族が変化し、家のつくりや人々の服装が異なってくる。ある著名な登山家が「世界で最も美しい谷」と形容した、ランタン谷のトレッキングコースではシーズンオフである夏でも、めずらしくまた美しい高山植物の群落に出会うことができる。白銀に輝く麗峰・ランタンリルンが遠望できる場所には、ひっそりとチベット仏教の僧院があり、心を浄化するにはもってこいのコースである。
ヒマラヤへは最近、多くの中高年の方々がトレツキングに出かける。なぜだろうか、と数年来考えてきた。自分も中年と呼ばれる年齢にすでに到達している。ヒマラヤなど辺境の自然は、確かに悠久の時を感じさせるが、同時に過酷で厳しい。そのような環境下では、人間は長いスパーンでものを考え、同時に余分なものをそぎ落としたシンプルな生活をせざるを得ない。日常において「欲」がそれほど膨らまず、純粋になれる時間と空間が、辺境という土地にはあるように思う。
そのような土地を自らの足で、汗をかきながら歩いていると、異邦人である旅人は自らの生き方に自然と、そして素直に向き合うことができるのだろう。そして豊かさの意味を自問するのだろうか。ヒマラヤをはじめ世界の辺境・秘境・山岳地帯を旅する中で、価値観を揺さぶられた中高年の人達を多く見てきた。言葉には出されないが、自分の生きがい探し、生きていく上での座標軸を雲上にて刻む為に、ヒマラヤトレッキングを旅の目的とする人は多い。何日も風呂に入れない山での日々が続き、いわゆる物質的な贅沢さは一切ないヒマラヤ。
しかし……、
汗ばんだ肌を氷河からの融水で冷やす時、満天の星空をテントのジッパーを少し開き見上げる時、そして早朝、寝袋の中で「グッド・モーニング・サーブ」の声を耳にする時、私達は最高の心の贅沢を感じずにはいられない。「生きている」という実感とともに、「生かされている」という感激が素直に心と身体を震わせてくれる。読者の方々へも、ヒマラヤにて心の汗を流す旅―ヒマラヤ・トレッキングに出かけることをおすすめする。
スイスを訪れる日本人観光客は年間約100万人前後にも上るといわれる。この数字は、スイスが日本人にとって非常に親しみやすい国の1つであることを証明している。何故そんなに多くの日本人がスイスを訪れるのだろう。スイスといえば、国連本部など各国際機関の存在する永世中立国、時計をはじめとする精密機械産業、チーズやバターの酪農国、おいしい生チョコレート、アルプスの山々や高原の湖などなど、国自体にクリーンなイメージがまず浮かんでくる。さらに、息子の頭に乗せたリンゴを弓で射たウイリアム・テルの伝説、アニメの『アルプスの少女・ハイジ』などを通じて、スイスの持つ歴史や自然の魅力はひろく日本にも浸透している。欧州アルプスに拡大すれば、女優ジュリー・アンドリュースが子供たちと一緒にエーデルワイスやドレミの歌を歌っていた、名画『サウンド・オブ・ミュージック』の中のシーンを懐かしむ年配の方も多いことであろう。
彼女が歌うその背景には、欧州アルプスの素晴らしい山岳風景がひろがっていた。スイスのアルプス地方はマッターホルンやユングフラウ、アイガーなどの白銀に輝く4000m級の山々やその山麓高原に点在する美しい湖、牧歌的な緑の草原などが特徴であろう。そして世界的にも名高い山岳リゾート地、ツェルマットやグリンデルワルドなどの町並み、それらが織り成す山岳風景がまるで絵画のように展開するのである。
地球一周より長い散歩道
夏ともなれば、世界中からその山岳風景のキャンバスのなかを、自分の足で思い出色を描きに訪れるハイキング客で賑やかになる。スイスはその国土の7割が山岳地で占められる。山岳地を中心に、スイス国土には総距離5万キロにも及ぶハイキングコースが整備されている。地球一周の距離が四万キロ。九州よりやや小さいスイスの国土のなかに網の目の如く散歩道があるのである。これらの散歩道をヨーロッパはもちろん世界各国からのグループや個人のハイキング客が歩いている。シルバー世代の夫婦連れ、子供を肩車した家族、明るい学生達…。歩いていると、「ハーィ」「ボンジュール」「コンニチワ」など世界各国のあいさつが笑顔とともに飛び交う。
高原の牧草地からはカウベル (放牧牛の首につけられた大きな鈴 )の音色が心地好い風に乗りハイカーを迎えてくれる。ハイキング中継地の小屋付近からは、アルペンホルンやヨーデルの音色も聞こえる事もある。その音色は白銀のアルプスの山々から緑の深い谷までこだまのように流れてゆく。7、8月にはハイキング道の両サイドに色とりどりの高山植物が咲き乱れる。アルプスの名花と呼ばれる、エーデルワイス、エンチアン、アルペンローゼなどもそよ風に揺れている。ハイキング途上の牧草地に寝そべり、花や草の香りや匂いに身をまかせてみるのも極上の時間の費やし方である。是非、読者の方にもスイスでのアルプス・ハイキングを紙上にて楽しんでほしい。初心者の方でも安心して楽しめるハイキング術をご紹介しよう。
雲上のパラダイスヘ
日本からスイスヘゆくには、北回り・南回りともに空路移動が可能である。直行便などでは、日本を出発したその日(時差の関係上)のうちに、スイスの表玄関口であるチューリッヒヘ到着できる。スイス国内は鉄道路線が充実しており、時刻表さえあれば自由に目的地までの路線を選択できる。日本出発前に「スイス・パス」という周遊券を購入しておけば、好きな所での途中下車などが可能となる。スイスの鉄道利用での移動では、ゆっくりと変化する窓外からの美しい田園風景や山岳風景、そして途中駅の風情や車中の人々の表情など、旅情豊かな時間を提供してくれる。この旅情は、大型観光グループが専用バスなどで移動すると絶対に味わうことができないものである。スイスの山岳地帯は古くから山岳交通機関が整備されてきた。急峻な山肌を縫うように登山鉄道の路線が続く。おもちゃのようなSL機関車が高原をのんびりと走る。牙のように屹立する岩峰ヘロープウェーのケープルが伸びる。チェアーリフトからは眼下に緑の草原と街の教会が遠望できる。
スイスのハイキングでは、このような山岳交通機関を利用することで、労せずして標高の高い展望地まで移動できる。標高4000m近い展望地からは360度に近いアルプスの大パノラマや、長く伸びる氷河や深い峡谷、そしてこれから歩こうとするハイキング道が、延々と山麓の村々を抜けて街まで下ってゆく光景が展開する。ハイキングといっても、標高の高い展望地からの下り道か、もしくは水平道を歩くといった、登りはほとんどないコースも選択できる。また、途中には山岳交通機関のステーションなども点在しており、安心して歩きだすことができる。ホテルを起点とした、さまざまなプログラムにての日帰リハイキングが楽しめるのである。山麓の瀟洒なロッジにて、アルプスを眺めながら、バルコニーでリッチな気分で昼食をとることもできるのである。地球上にての最も贅沢な散歩道を歩く―それがスイスでのアルプス・ハイキングである。
ハイキング術指南
スイス・アルプスハイキングの続編である。ハイキングはホテルを起点とし、日帰りのハイキングである。アルプスの夏は、日本の信州の気候くらいと考えて良い。日本のように湿気は多くなく、日中暑くとも日陰にはいると爽快な気分になれる。ただし、標高の高い展望地では、気温は下がり風が吹くと意外に冷えるので、防寒には充分注意したい。また、散歩道とはいえ山道を歩くのであるから、靴選びは充分配慮したい。スニーカーではなくトレッキング・シューズとよばれる、足首部分が長く、裏底に厚いビブラムと呼ばれるゴムが取り付けてある靴が望ましい。山歩きではアキレス腱などの足首部分、そして膝関節部分を痛めやすく、また靴の裏底が薄いと下肢に疲労が蓄積されやすい。背中には、水筒や雨具、貴重品くらいが入るデイ・パックの大きさのザック。まさに日本で近郊の山を日帰リハイキングするスタイルで充分なのである。スイス・アルプスだからといって特別気負って追加準備することもない。さあ、ハイキングヘ出掛けよう。
雲の上へ出発・ツェルマット編
ツェルマットの街はガソリン車が走れない規制がある。牛乳を配達する電気自動車の静かな動力音を聞きながらホテルで朝食をとる。食堂の窓からマッターホルンの勇姿もチラチラ見える。早朝の街中を駅までのんびりと歩く。マッターホルンを望む絶好の展望地・ゴルナーグラートヘ向かってみよう。といっても登りは登山電車での移動。急勾配の山腹をのんびりと進むこの登山電車は、絶えずマッターホルンの姿を我々に提供してくれるパノラマ路線である。ゴルナグラートからは、モンテローザやプライトホルン、リスカムといったアルプスの名峰群が屏風のように展開する。眼下には白い大河のような表情を持つ、ゴルナー氷河が見下ろせる。ハイキングはここから、逆さマッターホルンを映す山の上のかわいい湖・リッフェルゼーを経てリッフェルベルクまでの約四時間コース。登りはほとんどなく、水平道か下り道ばかりをのんびりと歩く。スケッチプックに山のデッサンをしたり咲き乱れる高山植物の写真を撮影したりしているハイカー達とも出会う。
次のコースでは、ロープウェー駅ではヨーロッパ最高所である、クライネ・マッターホルン (標高3883m)へ。ロープウェーは一気に2000mも高度を上げ、白銀の世界へと我々を運んでくれる。夏でも雪が残るこの展望地からのマッターホルンは絶景である。また、蛇行する大氷河などの大パノラマが満喫できる。一旦途中の駅まで下り、山の上の湖・シュワルツゼーヘ向かう。ここまでくるとさすがにハイカーの数もそんなに多くない。湖畔には小さな礼拝堂がひっそりと建っている。ここからは、マッターホルンの岩壁直下を巡るハイキングが始まる。アルプスの名峰が見上げるほどのスケールで眼前に迫ってくる。展望の良い場所の道端には、ベンチがそれとなく設置されており、心憎いまでの配慮に感心すると同時にひと休みしたくもなる。コースは次第に高度を下げていき、スイス山岳地方特有の山村風景であるツムット村に到着する。山小屋風のレストランのパルコニーで軽食をとりながらゆっくりと休息した後、ツェルマットまで下る約四時間のハイキング。
花の道へ出発・(グリンデルワルド編)
ツェルマットから緑の谷の呼称で知られる第二の山岳リゾート地・グリンデルワルドヘ鉄道とフェリーで移動する。ツーン湖を横断するフェリーは、これまたのんびりと湖畔の村々を結ぶ各駅停車の船旅。湖上を飛来するカモメが旅の同伴者である。グリンデルワルドの街は居ながらにして、アイガーやユングフラウ、メンヒなどの秀峰群の大パノラマが楽しめる。ここでの代表的な展望ハイキングは、まず鉄道駅としてはヨーロッパ最高所にあるユングフラウ・ヨッホ駅へ向かう。この登山鉄道はアイガーの大山塊の中をくりぬいたトンネルの中を上ってゆく世界でも珍しい路線である。途中駅からはじまる、下りのハイキング道は、すぐにお花畑の山腹の中に入る。色とりどりの高山植物の花々が、そよ風に揺れてハイカーの気持ちを和ませる。花の時期は六月中旬から七月中旬がベスト。キャンパス地としての山の斜面が高山植物の花々の色(黄、赤、青、紫色等)で染められているかの如くである。
クライネシャイデックという途中駅のレストランにて極上の昼食タイムを取った後、山腹を巻く様にとりつけられた水平道をメンリッヘンまで歩く。この水平道の両サイドの斜面は、まるで花々が縫い込まれた絨毯の如く色彩豊かである。チョットひと休みをし目を転ずれば、可憐な花々で埋め尽くされた斜面と、白いアルプスの名峰群、そして山麓の緑の草原が見事な色彩コントラストを演出している。メンリッヘンからはゴンドラにて一気に下る約五時間、のんびりハイキングコースである。その他にも初心者にとっても魅力的なハイキングコースが数多くスイスには設定されている。地球上で最も贅沢な散歩道―スイス・アルプスを歩くと知らず知らずのうちに溜め息が深呼吸に変わってゆくのである。
そもそも神秘思想学とはいったい何なのか?という疑問を持たれている人もいるだろう。かくいう私自身も、20年前くらいに深層心理学者のユングを調べている際に、ユングと同じくスイスに拠点を持っていたルドルフ・シュタイナーという人物に関心を持ったのである。このルドルフ・シュタイナーは『人智学協会』を立ち上げ、神秘思想の推進者である。ただ、彼の思想を継承したシュタイナー教育などでも知られている。このシュタイナーの人智学(アントロポゾフィー)と称する精神運動は、そもそも神智学協会の神智学運動から派生したものである。シュタイナー自身、神智学(人智学と紛らわしいが)協会のドイツ支部事務局長も務めているほどである。シュタイナーも一時期心酔した神智学。その代表的な創始者が、次の二人である。女性は、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。男性は、ヘンリー・スティール・オルコット(彼については既述済み)である。ブラヴァツキーが1831年、オルコットが1832年(江戸時代後期)の生誕である。オルコットはアメリカ南北戦争に軍人として参戦している。ブラヴァツキーは、謎多い女性であり、世界各地を放浪している時期もある。チベットの覚醒者(マハトマ)と往信する術を持った霊媒師的存在でもあった。
諸説はあるが、彼らは欧米におけるキリスト教的精神世界と東洋の仏教的精神世界の融合を図ろうとしたといわれている。当初協会本部はニューヨークにおかれたが、後にインドのチェンナイ(旧マドラス)南部、アディアールに移されている。インドに移ってからの神智学協会は、特にスリランカの仏教復興運動に多大な影響を与えていく。さらに、明治20年代~30年代に日本でおこった近代仏教革新運動における、南アジアへの留学僧などとも深い関係を持っていく。このような神秘学思想は、世界各地でも継承されている。例えば、イスラムの神秘主義・スーフィズムである。イスラム神秘主義と言われているスーフィズムは、イスラム各国さまざまなグループを形成してきた。それぞれのグループに共通しているのは、『自我の意識を脱却して神と一体となることを説く』ことにある。自我の意識を脱却するメソッドとして、トランス音楽や回旋舞踏、コーランの連続読誦などなどかある。
東洋のメディテーションのように、『空気の無振動次元』にての身心の変容・脱落を目指すのではなく、有振動(視覚・聴覚・触覚)下において意識を吹き飛ばすのである。この、有振動下での『意識吹き飛ばし』は、よりプリミティブな身心の変容・脱落法と言えるだろう。世界には数多く具体例は存在する。ニューギニア島でのシンシンダンス、アフリカ・マサイ族のジャンピング、アメリカ先住民のファンシーダンス、そしてモロッコ・ベルベル族のチェーンダンスなどなど。イスラム神秘主義は、イスラーム教の拡張とともに8世紀の中頃にはじまり、9~10世紀に流行したと言われている。スーフィズムは、修行者が贖罪と懺悔の証として羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとって、禁欲と苦行の中に生きていたスーフィー(神秘主義聖者)から来た言葉であると考えられている。その思想は、より感覚的で分かりやすく、その教えは知識層のみならず、都市の職人層や農民と言った庶民層にも広く受け容れられていったのである。日本の信仰歴史で言えば、一遍の『踊り念仏』が近似値であろうか、、。
アフリカ北部のイスラム圏・モロッコでは毎年グナワ音楽祭が開催される。この正式名称は「Gnaoua World Music Festival」。音楽祭という名前からもわかるとおり、この祭りのトピックは、音楽である。そのジャンルは、サハラ地域に起源をもつアフリカの音楽。グナワの音楽を愛する人の多くは、「これを聞いていると、脳がここちよくトランス状態になる」と言う。覚醒や催眠といった効果とも深い関わりのあるグナワの音楽を壮大に感じられる「Gnaoua World Music Festival」。モロッコのみならず、世界中の人から高い人気を誇っている。この祭りは、モロッコの中でも南の方に位置する街・エッサウィッラで毎年開催されている。エッサウィラは普段は静かで、ゆっくりと時が流れるきれいな街だが、グナワの時期には町全体がトランス状態ともなる。
このように、現在においても世界各地にて継承されている神秘思想。スイスにもその大きな拠点地がある。それが、バーゼルにあるゲーテアヌムである。神秘思想家・ルドルフ・シュタイナーが創始したと言ってもいい「神智学」は、神秘学にとどまらず、その思想は哲学、教育、建築、芸術、音楽など幅広い分野に多大な影響を及ぼしている。その神智学の総本山が、ゲーテアヌムである。バーゼルから電車とバス、徒歩にて約一時間弱の距離にある。瀟洒な一戸建てが並ぶ小高い丘の上に、その斬新なデザインの建造物は建っている。この内部がさらに目を瞠るようなアート空間となっている。
この建築物の中に入ること自体が、深層心理空間に身を浸すことに通じていくともいわれている。第一ゲーテアヌム(消失して現在の建物は第二)は、20世紀初頭に建てられている。バーゼル大学で学んでいた心理学者のユングも、必ずこの建築物には触れていることだろう。そのユングに関係する研究所・ISAP国際分析心理研究所((Internationl School of Analytical sychology Zurich)がチューリッヒ中央駅から公園内を10分程度歩いた場所にある。スタッフに、朝イチにて特別案内をしてもらった。心理カウンセリングルーム、ミーティングホール、学習部屋、講義室などなど。特に図書ルームにある、RED BOOKにはやはり感銘を受ける。本の中には、ユング自身の作による曼荼羅模様のイラストが満載なのである。普遍的無意識という新しい概念を構築していく過程において、ユングはアニミズムやシャーマニズ、インドのヨーガ、チベット密教などへの思索を深めていく。このレッドブックに描かれた無数の曼荼羅宇宙絵は、ユング自身の普遍的無意識=大宇宙へと融合していくベクトル図なのであろう。『REDBOOK=赤の書』は、ラテン語で『新しい書』とも呼ばれる。第一次世界大戦を前にして精神状態が不安定になったユングは黒い表紙のノートに自分がみた夢やヴィジョンを書き記した。これを『黒の書』と呼ぶ。
その後、注釈とイラストが追加され、ユング自身の手で赤い表紙の大きな革装のノートに書き写された。『赤の書』ではイラストは豊かな色彩でもって描かれ、文章・文字も中世の写本を髣髴とさせる装飾的なカリグラフィーで綴られている。『赤の書』が記されたのは、1914年から1930年にかけての期間であるが、他のユングの著作と違い刊行されなかった。『赤の書』は黒いトランクに収められ、スイスの銀行の金庫で保管されていた。一般公開されたのはごく一部に限られていた。遺族との交渉の末、2009年から各国語で刊行される運びとなったのである。
季節の異なる国
南半球の国の特徴といえば、季節が正反対であることだろう。日本が夏の時は冬、冬の時は夏、といった具合である。簡単に例えてしまうが、結構ユニークなことも生じる。南半球の国でのクリスマスは、真夏の季節の行事となる。暑さでフーフーいいながら、子供にプレゼントを配るサンタクロースなどなかなか想像できない。しかし、季節が異なるということがプラスにはたらく場合もある。例えば、日本では冬の木枯しが吹き始める頃、ニュージーランドでは春から初夏への植物達の花盛りとなる。
現在、ニュージーランドまでは直行使などで約十時間の行程。コートの襟を立てながらチェックインし、機内食を食べ仮眠をとっていると、春の香りが漂う南国の飛行場に到着するのである。北半球在住のスキー選手などは、真夏の練習場所として南半球のスキー場を選んだりもする。同じ南半球のオーストラリアは、平均標高が330mにすぎない平坦な大陸であるが、ニュージーランドは日本の地形によく似ているといわれる。ニュージーランドには、サザンアルプスと呼ばれる、標高3000m級の山脈があり、アウトドアに適したフィールドが展開する。
ここ20年ほど前からニュージーランドヘの渡航者は増加傾向にある。そのほとんどが、ニュージーランドの自然景観に憧れている人達である。緑の牧草地帯に点々と白い羊の群れが延々と続いてゆく。国民1人あたり羊の数が10頭を超えるというくらいの多さである。やがて雪を抱いたアルプスが遠望できる頃、氷河にせき止められたコバルトブルーの湖が顔を出してくる。偏西風の影響で、降水量が多く温帯では珍しい多数の氷河が形成されているからである。
たなびく白い雲の誘い
特にニュージーランドの南島には、氷河地形を有する山脈が多く存在する。その山脈をここちよくトレッキングする旅が最近注目されている。いかにもイギリス植民地時代の名前である、クライストチャーチという国際線の空港のある町から車にて約六時間で、ニュージーランドの最高峰マウント・クック峰の山麓に到着できる。途中、羊が草をついばむ牧草地の上空には、白い雲が長く幾重にも流れている。先住民であるマオリの人々は、この国のことを『アオテアロア(長く白い雲のたなびく国)』と呼んでいた。そのとおりの風景が広がっているのだ。山岳風景が近づき始めると、緑の牧草地は姿を消し始める。そして、平坦で乾燥した土地の中から唐突にコバルトブルーの湖が現れるのである。プカキ湖だ。
この湖にはマウン卜・クック山麓の氷河から流れ出る水が注ぎこむ。マオリの人達が、「アオランギ(雲を突き抜ける山)」と称えたマウント・クック峰を含む山々からの水は、この湖の色を限り無く青々とさせている。湖畔にある無人のテーブルで羽根を休める鳥は、まるで雲の一片が舞い降りたようにも感じる。白くたなびく雲に誘われて、さらにハイウェイを約一時間弱走ると、トレッキングの基地である、マウント・クック・ビレッジにようやく到着する。六時間の行程ではあるが、車の窓外に流れる風景すべてが、まるで動く絵葉書を見ているかのようでもある。
マウント・クック・ビレッジを起点とするトレッキングには、2つの代表的なコースがある。どちらも山歩きの初心者でも安心して歩く事ができる。コース標識や案内板などもしっかりと整備されている。1つ目は、限り無くマウン・クック峰へとアプローチする道。釣り橋や桟敷状の道など変化に富んだフッカー谷をゆくコースである。最終目的地となる氷河湖までゆくと、ブルーアイスが湖に浮かび、その背後に秀麗な峰々が展開し、息を飲む程の美しい空間に身を浸すことができる。
2つ目は、少々の勾配を登り、セアリー・ターンズという山腹の小さな湖までのコースである。晴れた日には、サザンアルプスの山々がこの湖に映り、逆さアルプスとなってトレッカーの心と体に素晴らしい休息の時間を与えてくれるのだ。より一層絵はがきの中へ浸りたい方は、時期の選択が必要となる。南半球のニュージーランドでは、高山植物などが満開となる季節が、日本とは異なることに注意が必要である。白く可憐に咲く、マントクック・リリーやピンクや紫の花弁をつけるルーピンなどは12月から1、2月の期間内に満開となるのである。12月の花の満開時期にあわせてこのエリアを歩くと、『白銀の峰々』『白くたなびく雲』『山腹の小さな氷河湖』『可憐な花々』と、まるでおとぎの国に迷い込んだ気分にさせてくれ、命の洗濯にはもってこいの場所であることがわかる。
ここ数年来、とみに思うのは、「物語ーものがたり」ということである。人生にも、対人関係にも、なんにでも「物語」が存在している。人間である限り、自分で考え、悩み、そして、自分のオリジナルの言葉で自分を表現したりしていると、必ずそこには「考える過程-プロセス」の蓄積がおこなわれているはず。 その「物事を考えたプロセスの蓄積」が、自分自身にとってのオリジナルな「ドラマ」を生むのではないだろうか。もっと、簡単にいうと、「自分の身体や思考」を通した「生の体験」の蓄積が「自分自身のオリジナルの人生物語」である、ということだ。
現代の私たちの周りを見ていると、「自らの体験や思考」を放棄できる環境がいくらでも存在している。インターネット上では、バーチャルな世界がすぐに目の前に展開する。五十年くらい前までは、「家業」という言葉があったが、現在では、「誰でもできる仕事」があまりにも多くなりすぎている。コンビニエンスな社会とは、体験や思考までコンビニエンスやファーストフード化してはいないかと疑問に感じている。 自分自身の生の体験から紡いできた「言葉」や「表現」は、他者に対して、重く深く響くだろう。それは、紡ぐ過程において、悩み、苦しみ、右往左往して自分自身を絶えずシャッフルしているからなのだろう。
この「シャッフル作業」をせずに、「他人の言葉や表現」を借りて、その場しのぎだけのコミュニケーション手段として利用する人に、いとも簡単に騙される人があまりにも多いのはなぜなのだろうか? その場しのぎの、いわば、風見鶏的な、いつも人真似だけの人生は、あまりにも寂しいものがある。というのも、その人の人生には、オリジナルな「物語」が感じられないからなのだ。 「物語」を持たない人からの、上澄み液のような薄い内容のない言葉に、いとも簡単に騙されてしまうのは、やはり現代社会に「実をもった物語」があまりにも少なくなっているからだろう。
また、その真実性を見極める眼力が社会から失われていることにも原因があるのではないだろうか。いかがわしい宗教性をもった勧誘などもそのひとつであろう。手仕事が多かった時代、世界のどこの国でも、その生の体験から生み出された「物語」があった。その代表格が、伝説になったり、昔物語になって継承されたりしたのだろう。「百姓」という言葉は、「百の仕事をする人」という解釈もできる。百姓とは、自分の身の回りのことは、なんでも自分で考え、自分で解決してきた人のことなのだろう。
私たちは、もっと日常生活の中に、「自分自身の物語」を「復活」させる必要があるのではないかと思う。人工物の中に囲まれた生活環境では、その物語の復活は困難さを伴ってしまう。なぜかというと、そこには、「計算された合理性」は存在するが、「予測されない、ハプニング」は存在しないからなのである。 予測されないハプニングに対して、どれだけ自分自身のこれまでのシャッフル体験で、そのハプニングにアドリブで対応できるか・・。
それが、「物語」の奥深さではないだろうか、と考えると、予測不可能な自然環境の中に身を浸す行為というのは、自分自身の物語再構築への序章なのかもしれない。世界の秘境・辺境の地とは、そんな人間にとって『不可知』な自然現象に寄り添いながら毎日を送っている。その地に住む子供たちにとって、『不可知』なものへの畏怖と同時に、寄り添う術を『智慧』として育んでいくのだろう。
(中国最奥地・パミール高原にて)
世界の秘境や辺境と呼ばれる場所で必ず出会う目がある。それは、はにかむ頬の上で光り輝く子どもたちの目である。テレビやコンピュータ―のない辺境の土地に住む子どもたちにとって、異国人との出会いほど刺激的なものはないだろう。「ナンダ、コイツ?」から始まり、「どこから来たのかな?」、「ケッタイな服着とるな?」などなど。彼らにとって、異国人は不思議の館からの来訪者なのである。中国奥地のパミール高原を訪れた時のこと。遊牧民の移動式テントの生活ぶりが珍しくてビデオ撮影に熱中していた。その時の私を写した友人の写真を見て驚いた。撮影者である私は、隣にいる遊牧民の子どもたちにしっかりと観察されていた。戸惑いとはにかみを示す距離を保ちながら、好奇心の光線を私の全身に浴びせている。
その光はまるで絵本をみている時に宿る、幼児の目の輝きに似ている。そういえば、撮ったばかりの映像を彼らに見せた時も、同じ目だった。先ほどまでの自分達が、小さな画面の中で動き、目の前の生活の品々が収まっている。異次元の世界をただじっと、食い入るようにみつめていた。秘境や辺境の地は、大自然の奥深い場所にある。私たちが当たり前と思っている便利さはほとんどない。得られる日々の情報は、自ら感じたことや見聞したこと、父母や近隣の人から教えられたものくらいである。それでも彼らの目に出会うたび、人間にとって大切なことは獲得する知識の量ではなく、好奇心という『心の目』を育てることではないかと思う。
知人の写真家が、アマゾン河の源流奥地にある密林を訪れた。電気やガスなど文明の恩恵を一切受けないジャングルの中、狩猟生活をする人たちの村で住み込み取材をした。帰国後、彼はこんな話しをしてくれた。彼の滞在中、親が子供を叱る声を聞いたことがなかったという。緑深い森の中からは、絶えず鳥や生き物の声が聞こえてきた。しかし、村の中はいつも穏やかな時間が流れていた。誰かの怒鳴り声やヒステリーな声は一切聞こえてこなかったという。
確かに、世界の辺境や秘境の地で、親が子供をむやみに叱り飛ばす風景に出合うことは少ない。ましてや親が子供に肉体的暴力を加える話しはまず聞かない。現在の日本にはあって、辺境の地には絶対ないものがある。それは、親による子供への虐待死である。自分の命と連続性を持つ、子供の命の光を消す行為は、自らの未来を虐待死させることに等しい。辺境の土地の多くは、平均寿命が日本より30歳ほども低い。学校や病院など社会的環境も満足ではない。それでも、人々は自分たちの未来を穏やかな時間の中で大切に育んでゆく。
かたや、物質的に豊かになった日本の家庭では、ますます家族が共有する心安らぐ時間が減ってゆくのは何故なのだろうか?私は思う。辺境の土地ではぬくもりの記憶が途切れることなく親から子へと伝わっている。ベビーカーなどなく、母親は絶えず乳飲み子を背中に背負うか、腰や胸に抱いている。母親の体温や家族の声は、きっとぬくもりの記憶となって乳飲み子に伝わってゆく。子供の時に記憶したぬくもりのひと時を、自分が親になった時にわが子と共有しようとする。こんな当たり前のことが、どうして日本の社会で困難となってきたのだろうか。幸せの原風景とは、身近な家族の体温を感じることなのかも知れない。
私が子供だった頃、いつも何かを待っていたように思う。それは授業終了のチャイムであったり、友達からの遊びの誘いや外出した母親の帰りなどであった。待つことは退屈であったり、時にはウキウキしたりする、何とも不思議な時間だった。そして待つことの記憶が1番多いのは、ご飯ができるまでの時間ではなかっただろうか。これまでに訪れた世界の辺境の土地でも、いろんな待ち時間に巡りあった。一番素敵な待ち時間との出会い、それはニューギニアのジャングルの中だった。飛行機を幾度も乗り継ぎ、ようやく3日目にダニ族が住む谷あいの空港に到着。緑の魔境とも呼ばれる熱帯雨林のジャングルを歩いて彼らの集落を訪問した。
男性はひょうたんで作ったぺニスケース、女性は腰ミノと頭からぶらさげた袋が彼らの衣裳である。夜になればその格好のまま、灯りのないキノコ様の家の土間にゴロンである。限りなくシンプルな彼らの生活には、ダイナミックに生きる力が溢れてもいた。我々異邦人の訪問を歓迎し、芋の石蒸し料理を用意してくれた。料理を作るとなると、大人から子どもまで一族全員が手伝うのである。しかし料理はいたってシンプル。
まず、集落の広場に穴を掘る。次にジャングルに繁る木の葉を集めその穴に敷き詰める。畑で取れた芋をその上に入れ、再度木の葉を敷く。その上に芋、そして木の葉と繰り返し置いてゆく。最後には焚き火で熱した石を重しのように入れ、全体を木の葉で包み込み完了。しばらくすると、木の葉の間からモクモクと湯気が立ち始めた。そして、その湯気に誘われるように幾人かの村人がその周りに腰を下ろし始めた。芋が蒸し上がるまでの時間、村人たちは穏やかに、そしてにこやかに隣の人と話しをしてた。久し振りのごちそうに嬉しさを隠し切れず、子どもたちは広場を歩き回っていた。そこには静かな、そして温かいひとときの待ち時間が流れていた。
少年たちの背中には40キロから50キロくらいの荷物があった。年恰好は、連れて行った息子とおなじ12・3歳くらいだろうか。小学校最後の春休みに、父親と二人でヒマラヤを歩いている我が息子は、彼らを見て何を思ったのだろうか。世界の屋根・ヒマラヤ山脈のポーターたちは、質素な竹で編まれた籠を一杯にして荷を運ぶ。その重さは女性1人分の体重に相当する。なかには電柱サイズの長さと太さの丸太をバランスよく運ぶ人がいたり、家の扉や窓ガラスをそのまま背中に背負って運ぶ人もいる。まだまだ母親に甘えたい年頃の子どもが、大の男と一緒になって額から労働の汗を流している。1日5~6時間程の荷運びで彼らが得られる現金収入は、日本円で約500円ほど。生活物価の違いはあるが、その金額はあまりにも安い。
ここは、標高3000メートルを越す雲上の街道筋。冬は朝晩の気温が零度を下回る日が多く、夏は深い雨雲が1日中空を覆う。この街道筋の集落のほとんどは、いまでもマキをかまどにくべて食事をつくり、そして暖もとる。水汲みと家畜の世話、これが学校に行く前の子どもたちの日課である。そして身体が大きくなった少年たちは、街道筋の荷運び人となる。正直に告白すると、息子と日本を旅発つ前、私は少々気負っていた。2週間という旅の間におこなう息子との男だけの会話。父親として息子に言うべき言葉を私は探していた。しかし、途中でその作業を諦めた。息子と私の前で繰り広げられる、驚くほど慎ましい人々の日常。その日常の光景のひとつひとつが、息子に対する無言のメッセージのような気がしていた。
街道筋にはコンビニ店や自動販売機などもちろんないが、峠の茶屋には世話好きで話し好きのオバサンが旅人を待ちかまえている。荷運びの少年たちも、大人の話しに耳を傾けながら社会への目を磨いてゆく。少年たちの背中の荷物の中には、一人前の男としての自負心と責任感が入っているように思えた。息子にとって、ヒマラヤに生きる同世代の少年たちの姿は、教科書や父親の言葉を遥かに超える生の教材だったように思う。
ギッタンバッタン、ギッタンバッタン、この織り機が奏でる音から日本の子どもが思い浮かべられるのは、昔話の物語くらいかもしれない。しかし、アジアの僻地を旅していると、今でもこの音は日常生活には欠かせない音として残っている。アジアの伝統織物の担い手は、一般の家庭の主婦たちである。各地に残る伝統的な技法で織られる布には、独特の色彩と図柄が施されている。その色彩感や神秘的な文様には、土俗の信仰心や宇宙観などが反映されていると聞く。驚かされるのは、彼女たちが描かれたデザインなどを見ずに織ってゆくことである。豊かな配色や複雑な図柄を、彼女たちはどのように伝承してきたのだろうか。
バングラデッシュ東部のある大家族の農家を訪れた時のことである。朝ごはんのかたづけがひと段落した主婦たちは、簡素な織り機の前へと移動した。織り機は、風通しの良い軒下と、庭の木陰の下に置かれていた。洗濯物が風に揺らぎ、庭先では犬が昼寝を始めた。そんなまことに長閑かな風景の中を、織り機の音はゆっくりと流れはじめた。しばらくすると、近くで遊んでいた女の子たちが織り機の傍らに座り、じっと母親たちの手元を眺めはじめた。母親たちは、絶えず糸を紡ぎなからも明るく朗らかに娘たちに語りかけている。娘たちは、母親の指先と顔を交互に見ながら、話しに聞き入っている。はっと気がついた。いままさに母から娘へ何かが伝わろうとする瞬間なのだ。
母親たちの指先からは伝統の技法が、言葉からは民族の精神的な拠り所が、そして笑顔からはそのやさしいまなざしが、娘たちへと伝えられようとしているのではないだろうか。そして娘時代の母親たちにも、このような長閑かな時間があったのだろう。アジアの僻地に残る織物には、伝統の工芸技法とともに母から娘へと伝えられた、庭先での長閑かなひと時が織り込まれているに違いない。
日本人と結婚し、大阪に住んでいるチベット人女性から聞いた話である。彼女はチベット高原を遊牧しながら生活する家族の一員として育った。大家族で、いつもうるさいくらい家の中は賑やかだったらしい。子どもにもしっかりと労働の役割分担があった。燃料とする乾燥した家畜のフン拾いや水くみなどである。夕食時間には、家族全員が食卓を囲み、1日の出来事を話し合うのが習慣だった。そんな団欒の時間から、彼女は父親の力強さと、母親のやさしさを学びとったという。そんな彼女が日本に来て一番驚いたのは、家族が食事のときにテレビを見ながら、ほとんど会話を交わすことなく食べることだった。家族が一緒にいながら、そこには共有する時間が流れていないことに彼女は戸惑った。
彼女の故郷・チベットは、標高4000m前後の乾燥した高原地帯である。物質文化が徐々に浸透しているとはいえ、厳しい自然条件と仏教への強い信仰心が、大半の人々の生活からシンプルさを失わせていない。チベットの中心地・ラサの都には、セラ寺やチョカン寺など有名な寺院も多くある。街中では地方から巡礼に来た人たちの姿も多く見かける。遥か遠く離れた土地からの巡礼に、数ケ月から1年前後の月日をかける人もいる。家族や一族を単位とする巡礼団がほとんどであり、その多くは徒歩を移動手段としている。
粗末なテントで野宿し、僅かなおかずを分け合いながらの家族の旅は、遊牧をする家族の生活と似ている。その旅で共有する時間の濃密度が、家族同士の心の絆をより一層強固なものにしている。日本でも家族とともに旅行する人も多いことだろう。あまり積極的に家族サービスをしていない者の言い訳かもしれないが、家族旅行の価値とは、どれだけ費用をかけ、どこまで遠くの観光地へ出かけたかではない。どんな近場の日帰り旅行であっても、どれだけ家族の心に深く関わったかが大事なのではないだろうか。家族旅行は、家族の絆を確認するとともにその絆をより太くするチャンスなのだから。
海外に出た時、時間があれば、早朝の散歩を楽しむようにしている。さわやかな空気とともに、意外な出合いのひと時を味わうこともある。ネパールの南西部に、お釈迦さんが生まれたといわれるルンビニという町がある。町外れにある知り合いの農家で迎えた朝は、けたたましい鶏の鳴き声からはじまった。顔を洗っていると、牛がのそっと庭先へ入ってきた。嬉しいことに、この日の朝は牛車に乗って散歩に出掛けることになった。しばらく荷台に寝転びながら、まことにのどかな田園風景を眺めていた。
そのうち、「ガタ」「ゴト」「ガタ」「ゴト」と木製の車輪が回る音にまじって、幼い子どもたちの元気な声が聞こえてきた。いつのまにか牛車は、樹木が繁る林のそばまで来ていた。林の奥を見てみると、そこには30人くらいの子どもたちが座っていた。なんと、そこは『木陰の下にある教室』だった。一つの木の下に10人ほどが輪になっている。木陰ごとにクラスが分かれているのだろう。一番小さい子どもたちのクラスでは、黒板に書かれた数字のような文字を元気一杯復唱している。大きい子どもたちのクラスでは、先生の話しを静かに聞いている。ルンビニは亜熱帯性の気候なので、日中は40度近くまで温度が上がる。しかし、朝7時前の木陰の下は、幾つかの小さな風が心地よさを子どもたちに運んでいた。おもわず私も木陰の下に座り込み、しばしの間生徒の仲間入りをさせてもらった。
突然の珍入者の出現にもかかわらず、木陰の教室は先生のおおらかな笑顔と、子どもたちのはにかんだ笑顔で包まれていた。お釈迦さんの時代も、子どもたちの教室は、おそらく木陰の下だったのだろう。そこでは穏やかな時間が小さな風とともに静かに流れていたように思う。そんなことを思っていると、和やかな笑みが私の顔にも自然に浮んできた。その瞬間あることに気がついた。小さな林の木陰の下は、笑顔をつくりだす教室でもあったのだ。そして、小さな子どもたちと一緒になってネパールの数字を読んでいるうちに、私の心はしだいにホカホカと温かくなったのである。
「ヒューイ!ヒューイ!」雪煙が舞う氷原上を男たちの声が飛び交っていた。と同時に、長いムチが鋭い音で空気を切り裂く。「ビシッ!」「ビシッ!」ムチの先端は、容赦なく前方を駆ける犬の横腹を赤く染めてゆく。10頭もの犬が引っ張るソリは、時速30キロくらいで滑るように氷上を走っていた。ただでさえ外気温はマイナス20度を下回る厳しい寒さ。犬が後ろ足で舞い上げる細かい雪煙で、極地用の防寒着が見る見る間に白く、そして凍りついてゆく。
極北の島グリーンランドの西岸、500人くらいのイヌイット(エスキモー)の人たちが住むカーナーク村に滞在し、犬ぞりで氷山を周遊する小旅行に出掛けた。見渡す限り、白・白・白のみの単一な色彩世界である。陸地と氷原との境目も判別できない。氷原上には、5階建てのビルくらいの巨大な氷山が不気味な姿で乱立していた。私が乗るソリの御者台には、40代の父親と10歳くらいの息子が乗っていた。父親の野太い声に混じって、少年の「ヒューイ!」という声が飛ぶ。
寒さで父親のまつ毛や髭が白く凍りつき、少年の頬は真っ赤である。荷台から薄目を開けて見ていると、少年の右腕が絶えず回転しながら空を切っていた。そして少年はチラチラと右横の父親の動作を盗み見ている。彼は父親のムチさばきを真似ていたのである。カーナーク村は、1年のほとんどが雪と氷に閉ざされる。極北の厳しい自然環境下では、狩りや移動の手段として犬ぞりの役割は重要である。
命令を聞かない犬へは厳しい体罰も加えられる。逆に犬に舐められるようなムチの扱いは、それこそ極北に生きる男にとって死活問題である。そのムチさばきの感覚を、イヌイットの少年は自らの五感で体得しようとしていたのである。厳しい自然と対峙している土地では、ほんとうに必要な『生きる力』はこのようにして伝承される。
レイチェル・カーソンは、子供にとって「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でない、と語る。子どもたちが五感で体感する感覚には、私たちが忘れている大切なものが含まれているような気がしてならない。
人それぞれの人生というアルバムには、忘れられない風景が刻まれている。時としてそれは、予定外のハプニングから生まれることがある。その浜辺も立ち寄る予定ではなかった。インドネシア・ヌサテンガラ諸島を旅をしている途中、夕陽を眺める為に海辺の漁村で休憩した。浜に出てみると、大きな太陽の下端がちょうど水平線に接しようとしていた。淡く柔らかな夕暮れ時の光線は、穏やかな海面と浜にいる人々を、薄紅色に包み込んでいた。浜には小船に乗って漁から帰ってきた男たち、それを出迎える女たち、そして裸で波と戯れる子ども達がいた。
女たちの頭には、魚を入れる為なのか、洗面器のようなタライがのっていた。やがて男たちは小船から降り、取ってきた魚を女たちに預けた。そしてみんな総出で、大きな網を取り込み始めた。女たちはというと、浜にしゃがみこみ、賑やかに喋りながら魚のウロコをタライの中で取りはじめた。お喋りの輪の端には、学校帰りの少女の姿がある。浜で遊んでいた男の子たちも、父親たちの傍で作業を眺め始めていた。
夕暮れ時のその浜には、小さな漁村のほとんどの人がいたのではないだろうか。大人も子どもも、みんな日焼けした顔の中で白い歯がこぼれていた。それはまるで一幅の絵を見ているような時間だった。沈みゆく太陽を見ながら、私は嬉しくてそしてなぜか物悲しい複雑な気持ちになっていた。
思い出してみると、私の子ども時代の日本の田舎には、インドネシアの浜辺のような夕暮れ時が残っていた。子ども達は、明日の事など関係なく晩ご飯のおかずのことだけを考えていた。大人たちは粛々と1日の作業を終えていた。寂寥感と同時に一日の充足感も感じられる風景。夕焼け空の下では、家族の小さな幸せが色鮮やかに浮かび上がっていた。
私たちは、いつから心安まる夕暮れ時の風景を忘れはじめたのだろうか。物質的に豊かになると、小さな幸せに満足できなくなる。多くの場所で、ため息が生まれる現代の夕暮時はあまりにも悲しすぎる。次世代を担う子ども達へは、微笑みが一番夕暮時に似合う風景だと伝えたい。
見るたびに、その少年のまなざしは、私の心を揺さぶる。シルクロードのオアシスで何気なく撮ったバザールでのひとコマ。撮影時、目的の被写体は手前にいる生活具の細工職人であり、少年の存在は私の眼中にはなかった。思い返してみると、大人の職人に混じって見習い中の少年たちが作業をしていた。そのなかのひとりなのだろう。鳥打帽をはすかいにかぶり、ちょっと得意げに腕を組んだポーズをとる。かすかに微笑みながら、カメラの向こうにいる私を見ている。
心の底まで見透かされるようなそのまなざしに、いつも私はタジタジとしてしまうのである。辺境の地でのバザールでは、このような子どものまなざしに遭遇することが多い。路地裏で鼻歌まじりに笑いながらミシンを踏んでいた少年。生地屋の店先で、黙々と経典を読んでいた少年。軒先に吊られた絨毯の陰には、妹をあやす店番の少女。
注意深くバザールを歩いて見ると、多くのまなざしに出合うことができる。このまなざしに出合うたびに私はいつも考え込まされる。辺境の土地では、まだまだ子どもたちも貴重な労働力である。彼らは働きながら、バザールの中で学校や親以外の人間と接触する。多くの人々の喜怒哀楽の表情を見ながら、自分も社会とつながっているという実感を日々獲得してゆく。
彼らにとってバザールは、大人への階段の場所であり、人生の学習場所でもある。彼らの顔には、子どもと大人の表情が同居している。だからこそ、ふと見せる彼らのまなざしには、明日を夢見る希望と今の自分への小さな誇りが同時に感じられるのだろう。残念ながら、今の日本でこのまなざしに出合う機会は非常に稀なことである。いつの間にか子どもから大人になってしまう現代の日本の社会。
自分の強さ、弱さを自覚しないまま大人の世界に入ってしまう現代社会。自分の弱さに真摯に向き合う時間が、他者の痛みを共有できるココロの栄養素となるのだが、カラダは栄養過多なのに、ココロは栄養不足のまま大人になってゆく。果たして大人への階段のない社会を、ほんとうに豊かな社会と呼べるのだろうか?
アフガニスタンの東隣にある国・パキスタン。その北部の山岳地帯に『不老長寿の里』と呼ばれる谷がある。断崖絶壁につけられた道を車に揺られること丸2日、ようやくこの里に到着できる。フンザと呼ばれるこの里からは、「天使の首飾り」と呼ばれるラカポシ峰をはじめ、万年雪を抱いた秀麗な山々を望むことができる。春になると、桃の花やアンズの花が谷あいに点在し、紺碧の空の青、巨大な氷河の白といった広大な自然のカンバスを豊かな色で染める。夏の到来は、氷河からの流水が増したことでわかる。そして短い秋の後、足早に冬が訪れ、山々と里が白一色に染まる期間が長く続く。
この里に生まれ、日本人女性と結婚した友人がいる。彼は、妻の父親に痴呆の症状が出た時、はじめて痴呆症という言葉を知ったという。不老長寿の里には、痴呆になった長生き老人はいないらしい。確かにこの里では、歳を重ねた人たちを多く見かけた。穏やかな昼下がり、陽だまりの中で畑仕事をしたり、家の白壁にもたれながらタバコを吸っているシワだらけの老人たちである。
季節が変化していくスピードと同じ速度で、日々の生活が営まれる。大自然が日頃のストレスの濾過器となり、山あいの小さな谷で、常に土と接しながら人生が完結してゆく。フンザの老人たちは、生きてゆく上で何が最小限必要なのかを選択し終わっているのだろう。フンザでは、三世代や四世代同居などはあたりまえである。ボケない長寿の老人の存在は、子ども達にとってそれこそ生きた教科書ではないだろうか。
朝な夕な、その教科書は常に生きる意味について無言のメッセージを発している。子ども達は、命の連続性を実感しながら生きる意味を模索してゆくのだろう。片や日本では、生きた教科書の多くは遠く離れた田舎か郊外の老人ホームにいる。彼らからの無言のメッセージは、核家族の個室や子供部屋までは届かない。平均寿命が世界でトップレベルの国では、命の連続性がより不鮮明になってゆく気がしてならない。
『日本人はミラクルだ!』ヒマラヤの山中にブータンという小さな王国がある。数年前、この国から来日した僧侶が私に言った言葉である。広島に来た彼は、原爆投下直後の写真と、現在の街の景観を見比べながら、頭を悩ませていた。悠久の自然景観・ヒマラヤを背後に生活するブータンの人にとっては50年や60年くらいで、街の景観や物事の価値観は変わらないのであろう。
インドと中国という2つの大国に挟まれたこの国の住民の多くは、リアルな海を見ることなく人生を終える。山間部にはテレビなどなく、バザールでの会話や祭りの時などが貴重な情報交換の場でもある。少し前まで外国人の入国を制限していたので、禁断の国とも呼ばれていた。物質文化が徐々に浸透しているが、現在でも学生や公務員は、日本の着物に良く似た民族衣装を着て学校生活や仕事をしている。
寺子屋のような教室では、伝統的な文化や価値観がゆっくりとしたリズムの中で、次世代に受け継がれてゆく。子供達の輝く瞳が、そのことを確実に物語っていた。これまでの辺境の旅で出合ってきた子供達に共通して言える事は、この輝く瞳を持っていることだ。
世界の辺境の子供達から私が学んだことがある。人間にとって生きる幸せとは、他人との比較の上で感じるものではなく、自らの瞳の中に明日への夢や希望を宿すことではないだろうか。コンピューターがどんどん身の回りの世界をスピーディに変化させてゆく現代。常に後ろから何かに追い立てられている気分がつきまとう。
先の見えない焦りと苛立ちが、ゆとりという言葉から意味を失わせる。街の外観をスピーディに変化させたミラクルさは、しあわせのリズムも急激に変化させた。私達親の世代こそ、自らの心の外観に日々の小さな感動や感謝の風景を取り戻す作業を始めなければなるまい。家族のしあわせのリズム感は、その作業の中から生まれるのではないだろうか。
高校時代は、ワンダーフォーゲル部であった。当時(1970年代半ば)の我が高校では、県外での合宿が禁じられていた。 そこで、我々の学年(リーダーの関君が中心となり)が顧問の先生の協力のもと、学校側と交渉し始めて、2年次の夏合宿の県外計画が初めて認められたのである。 北アルプス連峰のいずれかの山などを仲間内で希望はしていたが、最終的に姫路市からの距離、ならびに難易度から鑑み、『白山』に決まったのである。当時、どのルートから登ったのかも思い出せないし、なにより白山の歴史的意味や意義などまったく関心外であった。
高校時代のワンゲル同期生は、『卒業後は、アルプスやヒマラヤで再会しようぜ』なんて言葉を残しながら、日本各地の大学へと散っていった。大学入学後、山岳関係の活動を継続したのは、前述のS君と私の二人だったと思う。その後、大学時代から『ヒマラヤでのエスノグラフィdays 』が始まる。ネパールの東から西、南、そしてヒマラヤの北側チベットと足跡を残してきた。 ふと、思い返すことがある。『なぜ、こんなにまでしてヒマラヤやネパールとのご縁が深いのだろうか』と。ヒマラヤには、登山やトレッキングでも訪れてきたが、スポーツ登山にはほとんど関心を深めることはなかった。
四畳半の下宿部屋の読書棚にも、「西川一三・秘境西域」とか「河口慧海・チベット旅行記」、「キングドンウォード・植物巡礼―プラント・ハンターの回想」「ダライラマ自伝・この悲劇の国、わがチベット」などなどが並んでいた。 いってみれば、「ヒマラヤ」を(登山の場)としての対象地としてではなく、(精神世界の探求の場)として捉えてきたように思う。もちろん、20歳代の頃には、そんな言葉では表現していなかったと思うが。つい先日、梅原猛氏・対談集を読んでいたら、次のような文章に目が止まった。話し手は、中沢新一氏である。
『日本で修験道を始めたのは、役行者だと言われている。しかし理論的に仏教と結びつけたのは泰澄である。泰澄の白山信仰が神仏習合の初めである。また、木彫仏を創った最初も泰澄であり、その流れは行基・空海・円空にも繋がる』 そして、梅原猛、中沢新一氏ともに、“泰澄の思想の深層部分と、ヒンドゥーイズムにおける『シヴァ神』、ギリシャ神話における『ディオニッソス神』の深層部分とには、共振する世界がある”とも述べている。組織化する大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教など)が歴史上に登場してくる前に、世界各地にて信仰されていた、「大地母神」「産土神」などの、精霊の働きのようなものだろうか。
世界最高峰エベレストにも幾度も出掛けたことがある。エベレストとはもちろん、英国人がつけた後世のネーミングである。古来からエベレストのことを、チョモランマ・Çhomolungma、(中国表記で珠穆朗瑪峰)と呼んできた。それは、〈大地の女神〉〈世界の母神〉の意である。ネパール人は、〈サガルマーターSagarmāthā〉と呼ぶ。それは、サンスクリット語に由来する語で、〈 大空の頭〉〈世界の頂上〉の意である。
そして、「ヒマラヤ」の語源は、「ヒマ・アラーヤ」であり、hima(ヒマ「雪」)+ ālaya(ア-ラヤ「すみか、蔵」)となり「白い雪(神々)のすみか」という意味となる。ちなみに、大乗仏教の根本思想に、阿頼耶識(アラヤしき)がある。このアラヤ(ālaya)も前述の、(アラーヤ)と同じく、サンスクリット語で「住居・場所」という意味であり、仏教(大乗仏教)において人間存在の根本にある「蔵」であると考えられている。
白い雪(神々)の住むヒマラヤ。そして、泰澄が開山した「白山=しらやま」。私が第二の故郷と考えるヒマラヤの国であり、お釈迦さま生誕の国・ネパールへの憧憬は、すでに高校生時代の白山登山から繋がっていたのだろうか?
39年間振りの『悔恨の念』を晴らす。
私が所属していた大学探検部では、「大学3年次」に部長となり後輩の指導と、国内でのプロジェクトを推進する。といった決まりがあった。大学時代、私は山岳部と探検部の恩恵を受けていた。山岳部所属の際に、過去の先輩方の偉業「アンデス・アマゾン計画」に大きく触発されたのである。それは、「未踏の領域にての、登山とラフティング」を同時に連続しておこなう画期的な遠征計画であった。アンデスの未踏峰に登山し、その後アマゾン河をボムボートにて航下する、といったスケールと発想のワイドなプロジェクトであった。
当時の山岳辺境分野においても、このように、発想自体が壮大な計画は類をみないものであった。すでに部室には、その際の報告書もあった。探検部所属時代に、その「アンデス・アマゾン計画」のミニチュア版のようなプロジェクトをリーダーとなり企画実践した。それは、「日本海の水を太平洋へ運ぶ」~北アルプス縦走+天竜川航下~というプロジェクト名である。
概要は、まず新潟県の親不知港にて、日本海の水を掬う。そして、そこから北アルプスに入山し、ほぼ全山に近い山脈を南下縦走する。北アルプス縦走の下山口は上高地となり、そこから松本へでる。あらかじめ、高校時代ワンゲルの仲間(信州大学山岳部に所属していた関君)の下宿に、ゴムボートを宅配していた。 松本へ出、関君の狭い狭い下宿に、髭もじゃもじゃの、2週間以上風呂に入ってなかった仲間四人が雑魚寝した。そして、1泊ののち、諏訪湖湖畔へとゴムボートとともに移動した。諏訪湖の釜口水門から航下スタートであったが、この水門があまりにも重層的な建造構造であったので、鉄道駅でニつ分くらい下に移動し、その河原でボートを膨らませた。そして、その後は、水まかせである。特に飯田市の山間部あたりは、天気も良く、極楽のような世界だった。
その先では、「佐久間ダム」が待ち構えており、ゴムボートを一旦岸にあげ、重量20キロを超えるゴムボートを、その他の荷物とともに、ローカルバスで少し南へと移動。そして、再度天竜川にゴムボートを浮かべたが、このあたりから、下流域となり流れがどんどん緩やかになる。この年の夏は、異常に暑く、流れが「瀞状態」の箇所では、まるで奴隷船のように、全員が半裸で汗だくになりながら、オールを漕ぎまくった記憶がある。
そして、今でも後悔の念で苛まれている出来事が起きる。あまりにも、奴隷船のような状態が3日くらい連続していたので、私の頭に悪魔の囁きがしてきたのである。それは、「このまま浜松近くの海へ出ると、人家のない浜辺となり、そこから交通機関のある場所まで、この重量を担ぎながら戻るなんて、あ~いやだ~!」日本海の親不知からスタートして、20日以上も漂泊の日々を送っていた私の心の「弱虫」を、その悪魔の囁きは日増しに刺戟していったのである。
そんな私の視野に、前方にバスが走る「橋」が入ってしまったのである。そして、おもわず・・。「ここで、ええんとちゃう~?海に出たのと一緒やん?」 と言ってしまった。他のメンバー3人が、それぞれ「そうかもな~」とか「いや、そりゃちがう」とか、「う~う~」とか三者三様の反応であった。しかし、このプロジェクトのリーダーは私であったのだ。最終的に3人は「リーダーの判断に従うしかないの」ということになった。
そして、私達は、バスが通る道路端の河原を最終到着地とし、ゴムボートを撤収した後、近くのバス停(といっても、数キロほど離れていたが)まで移動、そして京都へと戻った。そう、疲れ果てていたのである。が、しかし、計画貫徹まであともうちょっと、という距離での終了決断・・。京都に帰ると、アフリカのサハラ砂漠をラクダにて200日以上かけて横断していた、飯田先輩から大目玉をくらったのである。「あほ!清水!その(もうちょっと)が、何かを変えるんやないけ~!その時の判断にて、今回の計画全てがおじゃんでんがな!」
大目玉をくらった私は、それから相当期間、落ち込んだのである。 なにせ、北アルプス全山縦走は、30キロ近い荷物を背負って(途中針ノ木峠にて食料補給のサポートは受けたが)2週間以上のテント泊山行。諏訪湖近くからの天竜川航下期間も含めると、総日数約1月弱が、「おじゃん」になったことが、ボディブローのように当時の私を嬲っていくのである。 今でも、あの「判断を下した瞬間」を思い返すと、胸がキリキリと締め付けられる。一緒だった3人のメンバーにも、申し訳ない気持ちでいっぱいとなる。それ以来、いつかいつか、その時に残した天竜川河口部分を、徒歩でもいい、カヌーでもいい、泳いでもいいから、我が身を移動させなければ、と思いながら早や39年の歳月が過ぎていた。
死ぬまでには、必ず、この残り部分をなんとかしないと、それこそ、「三途の川」を渡ることができないのでは、と思っていた頃に、その復活劇が訪れたのである。東海地方に住む知人と、新潟県の日本海沿岸を探査した際、ふと復活への想いがムクムクと持ち上がり、海岸で日本海の水をペットボトルに汲んだのである。そして、岐阜で知人を別れた後、単独にて浜松へと移動し、レンタカーを借りて天竜川河口まで移動。最後のやり残していた距離の一部を徒歩にて歩き、太平洋にペットボトルの水を流すことができたのである。もちろん、その際には、学生時代のボートに同乗していたメンバーの名前を、詫びながら連呼していた。
人生はよく旅にたとえられる。成人とは「人に成る」、こと。どのような人になるのかが問題である。日本にも昔から一人前になる儀式があった。しかし今日のように一斉に20歳で成人式を迎えることはなかった。一人前になることは、人によって違っていたからだろう。では、何が1人前になる上で違うのか?世界にも、いろんな成人の儀式がある。それも、一斉におこなうのではなく、1人1人が1人前になる心の準備ができた時おこなう。
南太平洋の島では、簡素なやぐらから足首だけにロープを縛った状態で地面めがけてバンジージャンプをする勇気を問う成人男性への儀式。 ヒマラヤでは、越冬の為に家畜のヤクという大型ウシ科の動物を解体する。そのときにあばれまくるヤクの内懐に飛び込み、最初に心臓にナイフを突き刺す勇気が試される。 エスキモーの男の子が一人前に認められることは、犬ぞり用の長いムチを自由自在に操り、大型エスキモー犬を何頭も操る事が出来る能力ができること。 アフリカのサバンナでは、ある一定の年齢になった男の子を一人旅に出させる。狩猟も自分でおこなう。自活する術と他の社会を見聞する期間が一人前になる儀式。 インドネシアの島では、一定期間女の子が隔離され、そこで女として生きてゆく上での生活技術を伝授される。その間は外界との接触を一切さけさせる。
昔は一人前になることとは、自分で家族や地域社会を支える為の自活手段や掟や伝統という生活技術を身につけることとイコールであった。現代日本では、農業や漁業、林業などの一次産業が盛んな時代ではなく、成人の8割以上がサラリーマンやサラリーウーマンという時代。昔のように、一人前になるということが、見えにくい時代である。それだけに、心が成人してゆくということが重要になっている。心が成人するとは、どのようなことなのだろうか。私は、旅、それも一人旅という行為が、心の成人の道への栄養素になると考えている。私にとっても、旅が私の心の成人に大きく関与してきたと思っている。
私は関西の鉄鋼の町に生まれ、巨大なアパート群の中で育った。小さい頃から、なぜか自分の知らない世界へ行きたいという願望が強くあった。兄弟が多かったので、自分のアイデンティティを探していたのかもしれない。大学に入ると山岳部や探検部に入部した。そのときのクラブのモットーに「自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じる」というフレーズがあった。このフレーズに従い、自分の五感を研ぎ澄ますこと、他人の目や流行に囚われない、集団で群れたり集団に埋もれてしまわない。といった、自分磨きの作業を開始していったように思う。その延長線上で、1年間大学を休学してインド、ネパールへ出かけたのである。その前にはダライ・ラマ14世とも出会った。若いことの特権というのは、怖いもののほんとうの怖さを知らないことである。それは、石橋を渡る前に、叩いて叩いて叩きまくってその石橋を壊すことなく、また、石橋の下になにが隠されていても渡る無鉄砲さでもあった。私は、その無鉄砲さを武器にしつつも、多くの失敗や反省を伴いながら自分の内面を真摯に見つめ直す為の旅を繰り返してきた。
その後、旅で噛みしめてきた果実の味を、多くの人と共有したいという思いがあり、秘境・辺境を専門とするエージェンシーに勤務し、世界各国へのフィールドワークを手掛けた。しかし、何年かすると、このままの自分でいいのだろうか、と思い始めた。自分自身がワクワク・ドキドキすることが少なくなってきたのである。安定してはいるけれど、安定は「退屈」という病気を育むのである。それを打破すべく、新たな転機を自らがつくり始めたのである。35歳の時に脱サラをする。そして東洋医学の針灸の専門学校に入った。東洋医学の世界では、養生という言葉がある。心と身体の養生が、人間にとって最高の幸せであり、その道を追求してみたかったのである。 そうして、旅の世界を軸としながらも、旅養生やトラベルセラピーの世界へと視座が拡大してゆく。ふと気が付くと、日本の旅の原点は、お伊勢参りや西国お遍路旅、富士山への講による参拝など心身の養生が目的であったことにも気がつくのである。旅することの原点は、人生の養生にあり、その原点に立ち返ることから始めようと考えたのである。
現代の旅に必要なのは、「癒し」とともに「再生活力」である。「生命力」と言い換えてもいいだろう。旅をするなら、失われつつあった生命力、活力を取り戻すきっかけをつかめるかもしれないのだ。もし、日々が不安であり、何かに怯えているのなら、なおさらだ。たとえば、会社でリストラにさらされているサラリーマン諸君らだ。毎日が針の筵に座っているようなもので、生きた心地がしない。このままジッとしていてやり過ごすことができれば、それでOKなのだろうが、その保障はどこにもない。こうやって、ジッと耐えているうちに、生命力を失っていくことになる。耐えることは、ある意味で美しいことだが、リストラ怖さに耐えるのはべつのような気がする。リストラの圧力に耐えたところで、精神的にはあまり得るものがない。外面から見ても、あまり恰好いいものではない。お金のためとはいえ、犠牲を払うのに限度というものがあるだろう。そのリストラに怯え、鬱々とした毎日を過ごすのなら、いっそのこと旅にでも出掛けたほうがいいのである。
旅をすれば、貝のようにはなってはいられない。積極的な働きかけが必要になる。そこから、生命力が再生復活してくるのだ。こんなことをいうと、「他人事だから呑気なことを言えるのだ。いざせっぱ詰まると、旅なんて馬鹿げたことはできるわけがない」という人もいるだろう。べつに会社に辞表を叩きつけろ、と言っているわけではない。休日に、ちょっとした旅に出掛けるだけでもいいのだ。旅に出れば、いまの自分を多少なりとも相対化できる。いまの会社でいじめられている自分の姿も、もう少し冷静に見られるようになるだろう。それが、いいのである。さらにいえば、旅に出るだけの力があったのなら、まだ大丈夫である。まだ、精神にも肉体にもパワーが残されている。多少の無理ならまだ効くだろうし、無理をしていも意味がないという判断もつく。その判断力や活力があるのなら、会社生活を何とかしていけるし、見切ることだってできるのだ。その意味では、旅に出られるかどうかは、自分への一つの試金石なのである。旅に出掛けるのも虚しい、面倒くさい、だるいと思ったのでは、このさきはちょっとしんどいのではないか。
★通過儀礼としての旅
下記は、とある僧侶と鍼灸師との間で交わされた往復書簡である。
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(僧侶より)
散髪屋のおっさんと世間話をしていました。神戸の地震の時、散髪屋のおっさんは地震で店が壊れて避難所暮らしでした。弁当の配給が一段落すると自炊資財が配られたそうですが、公民館の台所でジャガイモの皮をこうとして包丁がガタガタなのに気づき、刃物研ぎをしたそうです。すると皆から喜ばれ、そのうち、やる気が出てきて店を再建したとのことでした。
やはり、特技は持たなくっちゃなりません。そういえば僕が出石の水害でボランティアをした時は、大きな声で「休憩にしましょう」といって、お茶にして、皆(ボランティアの人たち)から喜ばれました。自分の特技が「休憩!」という号令かけかどうかはさておき、技能のある人は立ち直りも早く、「一芸を持つ」ことは生き抜く術を持つことでもあります。
現在、募金集めに奮闘していますが、これはなかなか難しいです。それでもお寺というブランドのおかげで、軽四の新車が買える程度には集まってきました。僕の特技はしばらくの間おあずけにして、頑張ってみます。
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(鍼灸師より)
その通りですな。修羅場に強い、というのも、特技のひとつです。その修羅場に強い、という特技は、現代のエリート教育では養うことがなかなか難しい。江戸時代や明治時代では可能だったかもしれない。しかし、戦後の民主教育下では、困難である。ましてや、運動会の徒競争で、みんな一緒にゴールさせる教育下ではさらに困難である。では、どうすれば・・・?
国家の命運を担うエリートは、イギリスの特権階級の子息たちのように、寄宿舎に入れて、エリート教育をするべきである。しかし、そこで教え込むのは、グローカルな教育と同時に、ノブレス・オブリージュ(仏: Noblesse Oblige、 ノブレッソブリージュ)は、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」)ではなかろうか。英国の王室の息子たちは、必ず軍隊勤務が義務ずけられる。
そして、侯爵、子爵などサーを持つ階級人は、かならず社会奉仕活動を義務づけられる。かたや、労働者階級は、サッカーのフーリガンにもなるけんど、職人的生活をおくる。ドイツのマイスター制度などは、その典型ではなかろうか。エリートは、国難の時に最前線にでる義務があり、普段は国家大系を考える。一般民衆は、それぞれの分野の「匠の技」を磨き、その技の熟練度で尊敬を集める。散髪屋は刃物研ぎで、農家はよき食材を見分ける技、鍼灸師は体を癒す技、僧侶は心を癒す技・・・・。
では、サラリーマンと呼ばれる人種は、なんの「技」をもっているのであろうか?特に、サービス産業に所属しているサラリーマンの技とは・・?漫然と人にサービスを提供しているのでは、なかなか、サービスの技は養えない。サービス産業の本来の「技」は、人々を笑顔にすることであり、そのパフォーマンスの技であるべき。そんな「スマイル・メイキング」の技は、平時の社会では、なかなか養えない。それこそ、難民キャンプでの子供たちの「無垢のスマイル」や、疲れ切った前線の兵士たちの「沈黙のスマイル」、未開発と呼ばれている秘境の民族の「他意のないスマイル」、などなどを、わが目で見る体験が、そのオリジナルのスマイル・メイキング術を育成するのではないだろうか?やはり、「一人旅」は、現代に残された、「品性を持った大人への通過儀礼」ではなかろうか?
★旅の効能とは『囚われ』からの離脱である
旅とは、あらゆる『囚われ』からの離脱行為ではないだろうか。
○ 自分に厳しすぎる囚われ
旅先では、自分を素直に褒める事も出来るものだ。自分自身の弱さを素直に認め、その逆に『気が付かなかった強さ』が、偶然にも目の前に展開してくれることもある。
○ 他人の目や評価に対する囚われ
旅先では、あなたが観察者である。特に外国での一人旅は、貴方から日常の肩書のすべてを剥奪してくれる機会ともなる。貴方は外部から過度の視線を浴びることはない。そして貴方自身も過敏な反応に怯えることはなくなるのである。その適度な開放感を旅は与えてくれる。
○ 『すべき』という囚われ
特に一人旅では自分自身がコンダクターになれる。その意味は、自分の足の向け方や、時間の進め方などに決定権を取り戻すことでもある。ただ、忘れてはならないのは、決定権とともに不随するのは、決定に対する自主的な自己責任義務があるということだろう。
○ 平凡であることへの恐怖という囚われ
毎日がエキサイティングな世の中は、意外と疲れるものである。旅に出ると毎日が刺激的なので、疲れると不安になる人もいる。しかし、そこは目線を変えてみよう。旅先で見る風景のほとんどは、その土地での営まれる普通の日常であることに気付いた瞬間、貴方の目線はとたんに柔和になることだろう。
○ 自力本願という囚われ
旅先でココロに染み入る、他人の情けを知ろう。他人からの救いもたまには必要であろう。
○ 予知・予測可能な安全という囚われ
いつまでも予知・予測できる範囲の人生にしがみつくのは辞めよう。
○ 正義という囚われ
所変われば・・・。各国の正義を見てみよう。
○ 自信喪失という囚われ
せまい価値観の中だけで、自分を攻め立てる無意味さを旅は教えてくれる。
○ 疎外感という囚われ
人は生まれる時、死ぬ時は一人であることを独り旅は教えてくれる。
○ 劣等感という囚われ
パックツアーでも、名前と住所だけの一期一会な関係。肩書きは旅では何の価値もない。
○ 幸福感という囚われ
不平不満のある、今の現実が一番幸せだったと旅は教えてくれることもある。
○ 将来への不安感という囚われ
旅さきでは、今という時間の生活達人に出会うことがある。
○ 無趣味という囚われ
趣味は『群れない事』というぐらいの勇気を旅は与えてくれるかもしれない。
○ 我慢という囚われ
何事にもガマン主義ではなく、一点集中・やせ我慢主義が大事と旅は教えてくれる。
兄からの無言のメッセージ
私が自然への旅や海外の僻地への旅に興味を抱いたのは、今は亡き長兄の影響である。3人兄弟の末っ子だった私は、いつも兄達の行動を意識しながら育った。長兄は中学校で郷土研究会を立ちあげ、故郷の古墳を巡り始めた。高校時代にはワンダーフォーゲル部に所属し、自然をフィールドとした。大学時代には探検部に入り、活動の幅を海外にまで広げていった。長兄の行動は、私にとっていつも眩しいくらい輝いたものに見えていた。私も高校時代からは、長兄と全く同じ足跡を辿る事になった。少年時代の私にとって、長兄は道標的な存在だった。残念ながら、その長兄は悪性リンパ腫瘍という病と闘った後、若干33歳でこの世を去ってしまっている。彼の人生が最後を迎えたその日、私はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)にいた。その日の明け方、彼は私の夢の中に現れた。無言の別れのメッセージが、日本の病院のベッドから南シナ海を越えて、サイゴンにまで運れてきたのだ。死の間際には立ち会えなかったが、何物にも代えがたい兄との新たな絆が、私の心の中に刻まれたと思っている。
人と人を結ぶ心の絆は、目で見たり手で触れたりすることはできない。それだけに移ろいやすく、はかないものかも知れない。しかし同時に、見えない心の絆は、一人では決して生きることのできない人間へ、安息の時と明日への活力を与えてもくれるものだと思う。肉親との絆だけでなく私は数多くの旅の途上、さまざまな人との心の絆を結んできたように思う。
旅の出会いと心の絆
これまで多くの土地を訪ねてきた。極寒の北極圏、灼熱のシルクロード、緑の魔境ニューギニア、世界の屋根ヒマラヤ、野生の王国アフリカ、地球の裏側パタゴニア、南極大陸などなど。息をのむような大自然が、まだまだこの地球上に残されていることをわが目で確認してきた。そしてそこに住む多くの人たちと出会ってきた。ダライ・ラマ14世、バンコックの売春婦たち、不老長寿の里フンザの老人、ヒマラヤの密貿易人、オアシスの踊子達、キリマンジャロの担ぎ屋たち、インドの世捨て人、チベットの巡礼僧、パリの広場の芸人、カナダのナチュラリスト、ボルネオの呪術師、ハバロフスクの旧KGB職員…。
記憶に残る人々は、生きることの意味を咀嚼する時間を与えてくれた。旅の途上にて遭遇した大自然の営みと人々との出会いの縁は、青年期の私の心の糧となった。その心の糧は、私だけのものであり、生きる上での座標軸を形成してくれた。所詮、一生の間で出会える人の数は知れている。同時代に地球上で生を育む数10億の人のうち、奇跡にも近い偶然で人との出会いと縁が発生する。限られた出会い人とどれだけ濃密な心の絆を結ぶことができるかが、人生の彩りを左右する。
旅は不安時代の処方箋
21世紀になっても、相変わらず世の中には暗いニュースが流れている。エリート達の堕落や一流企業の汚職や倒産、家庭内での虐待や青少年の凶悪な犯罪。海外に目を向けても、絶えずどこかで流血の事件が発生し、国家間での戦争も絶えない。これまで信じていた価値観が揺さぶられ、人々は過度の不安に怯える日々を過ごしている。情報化時代に入り、昨日までの経験が明日には役に立たないくらい、社会の変化スピードを加速させている。
現在日本の中高年たちは、戸惑いながら生きがいという人生の軟着陸場所を探し求めている。そして若者たちは、夢やロマンを自ら見出すことができず、生きる情熱を失い始めている。一方、この地球上には、しっかりと大地にカカトを踏みしめながら生きている人達がいる。母なる大地からの恩恵を謙虚に享受し、心の誇りと節度を自然の摂理の中に求めている人達である。地理的に辺境と呼ばれる土地に住む彼らの生活は、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさに満ちている。
子供は明日のことなど関係なく、一瞬一瞬のときめきを大事にしている。質素な食事であっても温かい団らんの中で、彼らは父親の力強さと母親のやさしさを学んでいく。大人達も背筋を伸ばしながら、粛々と一日を終える。そして人と人との絆を大切にしながら人生を完結してゆくのである。辺境の地での夕暮れ時は、家族の小さな幸せが、夕飯の煙に混じって夕焼け空に漂っている。郷愁を誘うその風景は、誰にとっても安らぎをもたらす、心の原風景ではないだろうか。そこには、ストレスをろ過してくれる時空がある。
生きている物同士が、年齢に関係なく思いやりと優しさ、そして厳しさをもった生活風景からは、穏やかな心の安寧感が感じられるのだ。私は、辺境の地への旅を、不安の時代における『心の処方箋』としてとらえている。それは、不安という見えない病魔におかされた人を癒す転地療法であり、同時に不安に対する自己治療力を高める可能性を秘めているからである。
自然環境の中での、歩行を中心とした旅プログラムが内包する、健康回復や健康増進に寄与する可能性について私はこれまで、山岳秘境専門エージェントでの12年間の在職期間、それ以降取得した鍼灸師と国際山岳ガイド資格での、30年以上の活動期間を、一貫して「身体・心・魂を含めたホリスティック的健康づくりのための旅プログラム」を企画・実践してきた。 そのプログラム実践の場の多くは、国内外の山岳・森林・峡谷などの自然環境の中であった。国内においては、四季を通じた里山でのトレッキングや歴史・文化探訪プログラムなどである。海外においては、ヒマラヤや欧州アルプスなどでの、歩行を中心とした滞在型野外活動プログラムを推進してきた。
「自然環境の中での、歩行を中心とする旅プログラム」は、歩行それ自体が運動療法にもなり、旅自体が、転地療法でもあると考えた上でプログラムを実践してきたのである。 その現場経験の中で、「自然環境の中での、歩行を中心とする旅プログラム」が内包する、健康回復や健康増進に寄与する可能性の大きさに絶えず注目してきた。 私が実践してきた中での具体的な事例では、自閉傾向の20歳代男性が、ヒマラヤでのプログラムより帰国後、外部環境への順応度を自発的に高め、すでに四年の就労体験を経て現在も継続中であるケースがある。また、鬱症状の治療を受けていた20歳代女性が、幾度かの里山でのトレッキング・プログラムやヒマラヤで旅プログラムに参加後、昨年春からネパールにてピアノ教師の職に就いている具体例もある。
これらの事例は、ヒマラヤや里山といった場所での非日常的体験が、個人の精神的健康回復への転換点になったものではないかと推測される。 プログラムが内包する可能性は、なにも個人の肉体的、精神的な分野に限定されるものではない。「自然の中での活動」は、環境問題への意識変革の可能性を秘めている。里山は、過去その土地に在住していた人々が、社会的な営みと自然環境との狭間で、どのような折り合いをつけて来たのかを知る最良のフィールドである。
自然と共生しながら人間が生活をしてきた時代の痕跡が、里山には点在しているのである。ヒマラヤにおいては、現在もなお、自然環境と折り合いをつけながら霊性を大切にする生活が継続している。そこには、絶えず移ろい変化し、予測することが困難な自然環境に接した際に育まれてきた、人間の知恵やストレス回避術を学ぶ場面や機会がある。そして多くの有機質な物質にて構成される里山や海外の自然環境は、現代社会における過度のストレスを緩和もしくは予防するフィールドとしても有効なのではないだろうか。
旅プログラムの内包する健康回復への寄与は、社会環境への還元効果にもみられるのではないだろうか。日本での旅の歴史を振り返ると、団体による旅の期限は、江戸時代から始まる「伊勢参り」だったといわれている。「伊勢参り」は、地域の住人有志が集って、農閑期におこなう歩行巡礼であった。幾日もかけた旅の道中で遭遇する「非日常体験」を共有する中で、収穫までの労働に対する互いのねぎらいと同時に、共同体への所属意識を再確認したりしたのである。
さらには、旅先にて見聞きした新しい習俗、技能、情報などを所属する共同体へ還元していったと推測される。同時に、日本の各地方からの巡礼者を迎える住人の側にとっても、経済的還元効果のみならず、異なる価値観を有する人々との接触が果たす社会的還元効果もあったはずである。このように、本来個人の精神的安寧を求める目的であった巡礼の旅が持つ、所属社会への還元効果や文化交流促進効果などの副次的社会作用は、団体旅行の起原時より存在していたと考えられる。
個別的な旅行為の効果が個人段階で完結することなく、所属社会へ及ぼす還元効果を科学的に解明することができれば、地域社会や職場社会における諸環境の健全化へも、効果の高いプログラムを構築する道筋がつけられるのではないだろうか。国内外での、「自然の中で歩行を中心とした旅プログラム」は、一般社会へのヘルスプロモーション活動として還元していけるのではないかと考えている。 また、国内の里山でのプログラムは、職域、地域での福利厚生分野での活動事例としてや、地域自治体おける健康関連や町おこしなどの公益事業などにも活用できると考えている。 個人の健康回復・増進、病気の予防や生活習慣病対策のレベルにとどまらず、地域社会の総合的な健全化にも役立つのではないだろうか。
特に、ヒマラヤにおける「養生プログラム」においては、次のような背景と効果が考察される。まずは、ヒマラヤの「場」としての力についてである。約2億年前、ヒマラヤは海だった。ユーラシア大陸とインド大陸の大陸間プレートの移動・衝突隆起によってヒマラヤの地形は形成されている。そして、現在も微細な動きの活動を継続しているのである。地球上で最も高い山脈であると同時に、そこには、人知を超えた、「おおいなるもの」の存在感 や、地球の営みの「場」のエネルギーが集約しているともいえるだろう。
また、「時空の流れ方」としての力も感じられる。そこには、予測不能な自然の営みに、人間がそっと寄り添うような暮らしぶりが見られる。そして、まだまだ神話や伝説が息づく土地でもある。自然の循環に身を寄せた生活をする人々の背景には、秒針の刻む「時間」というリズムは存在していない。そして、その営みを支えているのは、人間同士の「絆」、という見えないセイフティーネットである。「場としてのエネルギー」や「時空の流れ方としてのリズム感」のある生活とは、言葉を換えると、「手ごたえのある幸福感を感じ取る生活 」ではないだろうか。そのようなヒマラヤでの養生プログラムからは3つの大きな効果が期待できる。
① 「歩く」ことによる運動療法→身体性養生
② シンプルでスローな生活風景→精神性養生
③ おおいなるものとの出会い→霊性的養生
すでに、これまで個人的に、数度の養生塾をヒマラヤの地にて実施してきた。その主なプログラムは、下記のようなものであった。
① 1日3時間程度の軽いハイキング (標高2000mの集落周辺にて)
② ヒマラヤ山麓にての滞在(集落内の簡易ロッジにて)。集落内の現地の方と交流
③ ヒマラヤ山麓にての瞑想、呼吸法体験、早朝の湖上での舟上での瞑想体験
④ チベット仏教美術の最高峰・両界曼荼羅の制作過程を見学。宇宙観の説明を受ける。
⑤ アーユルベーダ医学の実践講座。体験的ハーブオイル・マッサージを受ける。
これらのプログラムは、地元の大学健康開発学教室での大学院にても机上研究も並行しながらおこなってきた。ヒマラヤでの養生塾への取り組みは、次のようなコンセプトのもとに現在でも実践研究を重ねている。
ヒマラヤや里山の自然の中での歩行を中心とする養生プログラム
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日常性からの離脱・非日常性との接触
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心身・魂レベルでの安息感、癒し感、心地よい緊張感の獲得。
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自分自身への新たな発見や気づきの時間と空間
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人生観、死生観、健康感、宇宙観、世界観を新たに構築する“場”
現在、このような「場所的、心的空間としての養生の場」を、ヒマラヤ以外の諸国や日本各地の里山の自然環境の中に求めてゆく活動を継続している。また、その成果を中山間地域の自治体などへニューツーリズムとして提案・実践などのアドバイザー活動を展開している。
好きなことで、生きていく
「好き」を仕事にすることは、現代の理想の働き方のひとつなのではないだろうか。でも、どうすれば「好き」を仕事にできるのか?「好き」とは好奇心のその先にある感情である。「働くこととは好奇心を広げていってその中で自分が何に納得しているのかを探す行為だ」と清水さんは語る。清水さんは、1960年に兵庫県に生まれ、学生時代より国内外の秘境・辺境を訪れる。大学卒業後は、フィールドワーク・エージェンシーに勤務。35歳で退職し、フリーランスのトラベルセラピストとして働き始める。その後、36歳の時に山岳ガイドの資格を取得し、38歳の時に鍼灸師の資格を取得する。その他にも紀行作家や広島修道大学の非常勤講師などの顔も持つ。常に新しいことに挑戦し、納得のいくものを探し続けている清水さんの働き方、そして、彼の人生という旅を紐解いていきたいと思う。
ー現在、清水さんの職業はなんですか。
私は職業という形でこれだっていう風なことを固めたくないなっていうような想いがずっと前からあって、色んなことをやっています。中でも今は何をやってるかというと、トラベルセラピーっていうことをやっています。それから山歩きなんかの自然ガイドみたいなものをやったり、鍼灸師をやったり、多様なことをやりながら生活をしているっていう感じなんです。
“ひとつの職業にこだわりたくはないんですね——”
—トラベルセラピーとは、何ですか。
最近は、国内外問わず、メンタル面で様々な問題を抱えている人がたくさんいらっしゃいます。その人々を国内外のいろいろな場所にお連れして、そこに滞在していただく。要は、人間の人智を超える大自然や聖地のようなところですね。そこを旅することで心を癒す。それがトラベルセラピーです。そして、そのお手伝いをするのがトラベルセラピストという職業です。
—トラベルセラピストになられたきっかけは何ですか。
大学生の頃、外国に行きたいという思いがあって、一年間休学し、一人で外国を旅行して、色々な人と出会ったんですね。そこで、日本とは異なる文化に触れ、カルチャーショックを受けたんですね。それがきっかけで、私達が住んでいる地球に存在する、多種多様な価値観に関心を持つようになったんですよ。そうして、もっとこの世界を見るために、様々な国に行ってみたいと思うようになりました。その後、専門性を高めるためにエージェンシーで12年間働いた後、フリーランスになったんですね。
—大学生の頃から、たくさん海外に行かれていたそうですが、海外に行ってみたいと思われたきっかけは何ですか。
当時、考古学を専門にしてた兄の韓国でのフィールド調査の話を聞いたりしてたんですよ。その話を聞きながら、(私は)現在において人類は価値観や言語や宗教とかが違ってはいるけれど、(この地球の人類のおおもとのルーツは一緒なのだから)共通する部分はどこかにあるだろうということを思ったわけです。そしたら、やっぱり若いうちから海外を見てみたいって思ったんですね。
—プロフィールに20歳のときダライ・ラマ十四世に個人的に出会ったことが人生の転換点となると書かれていたのですが、どのような変化があったのですか。
1980年にダライ・ラマさんが訪日された際、私は彼の講演に参加したんですが、人が多くて後ろのほうからでは全然見えなかったんですよ。なので、彼に何とか会えないかと交渉をして、一時間半ほどお話したんです。その時の彼のオーラみたいなものに非常に衝撃を受けたというか(笑)。どういう衝撃かというと、彼の故郷が他国の勢力から弾圧されていて、いつ帰れるのかわからない状況にあるにもかかわらず、なぜこんなに穏やかな雰囲気を持たれているのかなっていう。その背景には、おそらくチベット仏教というのがあるんだろうということに自分の関心が向いていく、そういう意味合いでの転換点だったんです。
—今度は山岳ガイドのお仕事についてお聞きします。清水さんがお持ちのガイドの資格というのは具体的にどのようなものですか。
これは、国の環境省の認定団体である日本山岳ガイド協会が認定する資格で、「登山ガイド」と言うんですね。私が持っているのは「登山ガイドステージⅡ」という資格です。今から30年弱前に取りました。
—そうなんですね。その資格を取られたきっかけは何だったのですか。
私は高校時代から山歩きが好きで、高校でワンダーフォーゲル部、そして、大学では山岳部に所属していて、日本国内の色々なアルプスを歩いたりしていたわけなんですね。また、私が働いていたエージェンシーは、世界の秘境とか辺境ばかりではなく、山岳辺境地帯というのも(旅行先に)入ってたんです。やっぱり、登山とかトレッキングにはずっと関係していたんですね。
—紀行作家としての顔もお持ちだそうですね。ご自身で作家になろうと思われたのですか。
元々、大学時代は文学部新聞学専攻で、その頃になりたかったのは新聞記者だったんです。ですから、文章を書くということに少し憧れがあったんですね。それで大学時代から旅行会社に勤めていた頃にかけて、外国に行った際に色々な自分の想いみたいなものを記録をしたり。また、フリーランスになってからは地元の新聞社に頼まれて、紀行エッセイを新聞に書いていたりとかしていました。
—鍼灸師の資格をお持ちだそうですが、なぜ取ろうと思われたのですか。
世界の秘境・辺境に行くと、いわゆる現代医療みたいなものは、ほとんどないわけなんですよね。すると、現地の伝来の医学が未だに残ってるわけですね。私自身がそういうものに触れていく中で、伝統医療みたいなものに非常に関心が湧いてきたんですよ。それで、(知識として)知ってるのだけではなく、やっぱり実際に自分で資格を取って、ひとつの技として身につけたいなって——「針灸」というのは考え方の基底に東洋思想があり、宇宙観みたいなものが非常に奥が深いので、それに惹きつけられて資格を取ったわけです。
—鍼灸師の資格を取って得た知識は、清水さんのその他の仕事に役立っていますか。
そうですね。針灸なんかの東洋医学っていうのは、自分の身体が小宇宙で、そのどこかを循環するものが崩れたりとかしたら病気になるんだという考え方なわけですね。トラベルセラピーの話に戻りますが、人は昔から聖地という所によく行って、日常生活の中での色々な悩みとかを浄化してまた日常に帰ってくる——要するに、トラベルセラピーは自分で針を持って(鍼灸の治療をするように)その聖地に入っているようなものなんですよね。ですから、「人を治療する針灸で人体の宇宙のゆがみを治していくという行為」と「人を聖地やヒマラヤのような自然に連れていって日頃のメンタルの悩みとかを治していく(行為)」は同じような気がしてならないんですね。
—フリーランスというのは今でこそポピュラーな働き方になってますが、清水さんがフリーになられた当時はあまり一般的ではなかったと思います。フリーランスに対して不安な気持ちはありませんでしたか。
時代的に私が組織人を辞めたあたりは、フリーランスに対して肯定的ではなくて否定的に取られたりしていました。そういう意味では、不安になろうと思えばいくらでもなれる。でも、その考え方は自分の考え一つでいかようにも変わるわけですよね——安定した収入がないというところに注目してしまえば不安ばっかりです。逆に、自分の関心のあるようなことがあったらずっとその仕事をしてもいいわけですよね。
—お仕事をしていて「やりがい」を感じるときはどんなときですか。
ヒマラヤに日本から人をトラベルセラピーのような形でお連れする時に、朝、その方々と一緒に山の中のロッジの屋上に上がって、太陽に赤く染められたようなヒマラヤ山脈を無言で観るんですよ。大自然の一期一会のドラマですから。中には涙を流している方もいらした。後にお連れした方々が私の方を振り返ってきて「よかった。」と一言おっしゃいますし、「人生観が変わった」とおっしゃる方も。その言葉が発せられた瞬間に、非常にやりがいを感じますね(笑)。
パズルの話
(人生は)パズルのピースを一枚ずつ積み上げていってるような感じだと思うんですよね。でも、そのパズルを積み上げていった先にはどういう風な模様があるのかは、最初わからないわけですね。これは人生ですから、そのパズルのひとつひとつのパーツ—色々な価値観みたいなもの—が、人生の経験を踏む上で積み上がってくると思うんですよ。すると、だいたい40歳とか50歳ぐらいには、何となく模様みたいなものが見えてくるような感じがしてしまうんだと思うんですよ。それがその人の持っている人生観じゃないのかなと思うんですね。そういう積み上げてきたようなパズルが、ヒマラヤの朝日の一回こっきりのドラマを見たら、パラパラと崩れ去るみたいな。(積み上げてきたパズルを)いっぺん、スクラップするっていうことがこのトラベルセラピーの僕の目的ではあるんですね。
—お仕事をする上で一番大切にされていることはなんですか。
やっぱりスクラップ・アンド・ビルドじゃないですかね。(仕事を)やっていく中で、色々な考え方みたいなものがどこかで凝り固まらないかっていう心配があるわけですね。——それこそパズルの話をしましたけども、そのパズルの一番最後のワンピースを絶対にはめたくないっていう思いがあるわけですよね。自分の死後の世界もどこかで空白のピースがあるってことは、そこの最後のワンピースをどこかに求めようとするわけですよね。
“最後のワンピースの部分はいくつになっても探し求めたい—”
—探究心というか、好奇心というか、常に求める姿勢がとても格好いいですね。
(常に求める姿勢は)まさに、好奇心だと思うんですよ。青春時代なんて言葉がありますけど、好奇心を維持できている間は青春時代じゃないのかなと思ったりもします。いくら十六歳であろうが好奇心がない16歳は青春してないという風に思ったりもするくらいです。
—清水さんにとって、「働く」とはどんなことですか。
自分を納得させていくことじゃないのかなと思うのです。働くってことは「金銭を得る」ということよりかは「自分とは何なのか」みたいな。先ほどパズルの話をしましたが、パズルを組み上げていく行為っていうのは自分が納得できるような組み方を探していることだと思うんですよ。ですから、パズルを組んでいて、これは違うんじゃないかと思ったらスクラップ・アンド・ビルドですね。新しいことに挑戦してみるとか、新しい働き方に挑戦してみるとか。そのパズル自体を組み立てていくという行為が、要は自分がどういう風に自分の人生に納得できるかという作業そのものが「働く」ってことじゃないのかなと思います。
ヘディ・ワン(留学生)
インタビューを通して、清水さんの様々な経験を聞いて、たくさんのことが勉強になり、どうしてこの方が一つの仕事に縛られず、自分が好きなことを生かした仕事に就けられるのか分かりました。なぜかというと、清水さんはいつも好奇心を持ち、色々なことに挑戦する方なので、人生に納得できます。清水さんから教えていただいた話の中で、最も心に残っているのは、自分の考え方や価値観が人生を変えられることです。それは、年齢にもかかわらず、いつでも新しいことに挑戦したら、納得のいく生き方を見つけられる。そのため、これから、私も、清水さんがフリーランスで働き始めたように、社会の常識に自分をあてはめていけず、自分で自分自身の人生を探していきたいと思います。
辺見彩佳
「働く」とはどういうことか。清水さんは、「それは、自分がどういう風に自分の人生に納得できるのかを探す作業だ」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。最近、YouTubeで「好きなことで生きていく」という広告をよく見ますが、そんな風に「好きなこと」を仕事にできる人は、ほんの一握りなのだろうなとインタビュー前は考えていました。しかし、清水さんにおはなしを伺っていくなかで、好奇心を持ち、常に自分が納得いくものを探す作業を諦めなければ、誰だって自分の好きなことで生きていけるのではないのかと気づくことができました。自分の納得できる人生を送るため、好きなことで生きていくため、好奇心を持ち続け、失敗を恐れずに挑戦し続けたいと思います。
ななり(愛称)
今回お話を伺った清水さんの「働き方」は、まさに私が理想とする「型にはまらず、自分の好きなことを生かして働く」というものでした。二時間にも及ぶインタビューの中で清水さんはたくさんのことをお話し下さいましたが、その中でも自分の人生観をパズルに例えたお話は特に印象に残っています。『最後のワンピースの部分はいくつになっても探し求めたい』とおっしゃっていたように、清水さんの好奇心を忘れずに常に何かを求め続ける姿勢は、これから社会に出ていく私たちが見習うべき姿だと思いました。私も清水さんの様に幾つになっても人生の青い春を過ごせるように、常に様々なことに興味を持ち続け、自分で納得のいくまでパズルをスクラップ&ビルドしていきたいと思います。
私は、20歳代からガイドや総合コーディネートの仕事をしてきた。30歳代からは、医療系の資格(鍼灸師)の資格を併用しながら、自然の中での心身の養生プログラムへのガイディングも試行錯誤しながら実践してきた。そんな中で「ガイディング」とはなんなのか?ということにいつも思索を繰り返してきた。確かに、現在の山岳ガイドと称せられる人の多くは、山岳登攀の技術指南などの分野で活動される人が多いのは事実だろう。自然の中で「登攀技術」というツールを使いながらの「自然との会話術」も指南されている。片や、自然ガイドと称せられる分野の方々は「自然観察」や「山野草ウォッチング」などのツールを使ってのナビゲートをしているだろう。どちらも、現代人が忘れかけている「自然から学ぶ姿勢」といったものを気づかせてくれるガイディングとなっているはずである。そこで私が思うのは、自然界と人間界とを仲介する役としての「ガイド」には、かならず「人生哲学」が必要ではないかということだ。
表現を変えると、そのガイド者が同行者へ、「人と自然の物語がどのように語れるか」ということだと思うのだ。「物語」とはなんだろうか?人が人生を送る上で必要なスパイス・・、それが「物語」だと私は思う。衣食住、人間の生活に関わる事象が、現代社会では「コンパクト」に「コンビエンス」に、そしてその状態が「コンスタント」に繰り返されている。百円ショップはほんとうに便利である。なんでもが、「エコノミー」に「エンターテイメント」された商品群を「エンジョィ・ショッピング」できるのである。しかし、そこには「物語」が抜け落ちているのに気が付かない。作り手の顔が見えてこなかったり、作り場の風景が見えてこないのである。ひとつひとつの商品に物語性を感じることはないのである。
100円ショップで買い物したものは、50年後に「平成の民具類」などとして後世の人に展示され、再びアンティークな味わいを醸し出すことはないでだろう。それは、作り手や作り場において「作り手側の思い」が漂っていないからかもしれない。「作り手側の思い」があるからこそ、50年後にアンティークとして展示されたものを鑑賞する側に、その「思い」が伝わってくるのではないかと私は思っている。ガイディングも同じではないだろうか。私達、山岳・自然系ガイドは何を生産しているのだろうか?固形物としての商品化できるモノは何もない。私達ガイドが生産できるもの・・、それは、同行者の感動される顔であったり、豊かな表情であったり、明日への活力の源を創造することではないだろうか。
その創造生産の現場には必ず作り手の「思い」がないといけないと強く思うのである。ガイドの「自然」に対する、「自然と人間との共生のあり方」に対する、そして「人間の社会の健全なあり方」に対する、「思い」がないといけないとも思っている。その「作り手側の思い」が、作品である「ガイディング」に「物語性」を付与していくと信じている。そう、ガイディングは、ガイドする側の人生が問われると言っても過言ではないだろう。だからといって、若年層の人がガイディングできないかと言っている訳ではない。
年齢ではなく、そのガイドが「日頃から何を思索しているのか」ということが大切ではないかと思うのだ。その上で自然をフィールドとした「ガイディング」は、同行者の気がつかなかった「感動への導火線」や、見えなかった「不安や不安定さからの解放」や、言葉にできなかった「なにものかに対する感謝の心」などを、ガイドも一緒に、導き出すことができるのではないかと強く感じている。プロの山岳・自然系ガイディングとは、単なるテクニカルな技能所有者に留まることなく、自然という養生所をフィールドとするセラピストとしての可能性と期待感を、私は膨らませているのある。
40歳代前半の頃、中央アジア・天山山脈にコーディネーターとして出かけた際に撮影した写真が手元にある。今から約20年ほど前である。その頃は、中央アジア諸国が旧ソ連邦から独立しはじめた黎明期でもあった。中国・新疆ウイグル自治区側(東側)からの天山山脈は、それまで幾度も探査や調査に出かけていた。隣接するタクラマカン砂漠やパミール高原にも足跡を残してきた。 一方、その当時は殆ど手付かずであった、西側からの天山山脈へのアプローチには少々興奮気味であった。現地を訪れたら、期待通りの時空間が展開していた。特に天山山脈を背にし、雪解け水が流れる小川沿いを、数頭を連ね疾駆する馬上人らの姿が目蓋に焼き付けられた。以降、心の中には絶えず「内陸アジアを移動する人々」というテーマへの、憧憬の眼差しが消える事はなかった。
自分自身の海外渡航(調査やコーディネートなど)や、国内での関心フィールドの遍歴において、このテーマが、過去・現在・未来のフィールド各地との結節点となり、一本の糸として繋がりはじめる予感がしている。
日本の古代(縄文系まつろわぬ民) ⇄ 渡来系文化 ⇄ 朝鮮半島 ⇄ 中国領シルクロード ⇄ ステップルート ⇄ モンゴル文化(遊動文化) ⇄ チベット文化(即身成仏文化) ⇄ 仏教伝来ルート ⇄ (道教との融合=修験道誕生) ⇄ 中央アジア=東西交流十字路 ⇄ スキタイ文化(鉄の伝搬) ⇄ カスピ海 ⇄ トルキスタン ⇄ イスラム文化・ユダヤ文化(神秘主義)⇄ 旧東欧諸国(ジプシー文化) ⇄ 欧州の精神文化(巡礼文化)・(集合的無意識)⇄ イベリア半島(大航海時代スピリット)
と言った具合の『好奇心という名で紡ぐ内陸アジアのつづら糸』。この「つづら糸」においては、さまざまな分野にて歴史上闊歩した人物群も見逃せない。特に、日本から求道や探検、そして学術調査などにて内陸アジアの奥深い辺境地へと足跡を残した人たちである。大谷探検隊、河口慧海、能海寛、山田虎次郎、中村春吉、岡倉天心、高楠順次郎、今西錦司、梅棹忠夫、などなど・・。これからも、主軸のテーマを『内陸アジアを移動する人々』に設定しながら、各分野・各地域でのエスノグラフィー活動を継続していくつもりである。
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これまでのフィールド遍歴を整理してみた。
18歳 ・
初めての海外。関釜フェリーにて釜山へ。朝焼けの釜山港を船上から眺めながら、頭の中ではユーラシア大陸最西端・ポルトガルのロカ岬に想いを馳せていた。
20歳代
特に、チベット(吐蕃)文化圏諸国と海のシルクロード(香料諸島など)諸地を活動フィールドにしてきた。国内ではまだまだ登攀活動もしていた時期である。
30歳代
伝統医療(東洋医学やシャーマニズムなど)の世界や、日本の古代史、山岳修験の世界への関心を深めていく。また、中国領シルクロード探査を集中させた時期でもある。鍼灸師の資格を取得したのは38歳の時であった。
40歳代
旧東欧諸国やトルコ、そしてカザフスタン、キルギスからの天山山脈などを巡る。また国内にては、たたら製鉄と渡来系諸氏に関心を深めていく。また、エベレスト遠征隊や日本山岳会100周年記念・学術遠征隊(河口慧海足跡探査)に参加する。
50歳代
西日本では、古事記や日本書記などに記載されている神話や伝承の土地を巡り、東日本では縄文文化の痕跡を辿りはじめる。海外にては、欧州にての巡礼文化圏や、ユダヤ・イスラム文化圏に比重を置いて探査し、モンゴル西部の岩絵や鷹匠、そしてモンゴル仏教も探査した。また、大学院にて健康とツーリズムについて学び直す機会を得た。
60歳代
釈迦生誕地・ルンビニにての(仏教の過去・現在・未来を俯瞰)する為の、多角的なフィールドワークを展開した。また、大谷探検隊を含め、幕末から昭和初期までの、日本における仏教の刷新・復興活動などについてもリサーチをしている。仏教関係では、仏教西漸のエリアであるロシアのカルムイク共和国へのリサーチも準備中である。また、コーカサス地方のジョージアやアゼルバイジャンにての長寿食や神秘主義などへのフィールドワークも予定している。さらに、ユーラシア大陸を結ぶ、現代のシルクロード(ローマ~奈良)を我流にて踏査し続けていくつもりである。
勿論、これで全ては網羅できないが、ザックリとしたフィールド遍歴である。自身の足跡を改めて俯瞰して気がついた事がある。それは、ユーラシア大陸の東西南北、そして大陸と日本を接続する『結び目』を探してきた歴史でもある。その『結び目』の核心部が、モンゴル西部から中央アジア諸国、トルコまでのトルコ系諸部族ゾーンである。 このゾーンは、遊牧生活圏とも、シルクロードのステップルートともシンクロしている。人と物が移動し交流し、反発しながらも融解していく。既成価値に埋没せず、絶えず刺激の海に身を泳がせる。土地に縛られることの少ない遊牧世界は、まさに『漂えど沈まず』であり、『去る者は残さず』である。私は、そこにこそ『躍動する美』を見出したい。
2024年11月1日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。
コンタクト先:marugotokenko@gmail.com (健康ツーリズム研究所)