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2024年度 現代文特講 小説集

現代文特講受講者+宇野 明信

法政二高現代文特講出版



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Cover illustration by Miiguma

Designed by Tomoka Ohira

 目 次

「アンサンブル」入口 一

「オトの声」空西 どれみ

「かぶりもの」蛭音 逸茂

「だいがわり」白銀 鵺宵

「トリアージ」守屋 泉

「ライオン」都村 葛根湯

「廻る水槽」夢遊病者

「軍人と農家」インド洋

「私の心に咲いた花」鮎

「生命の循環」木原 実優

「蓄積」小田 一葉

「点と蝶の断面」砂田 一平

「病毒」大嶋 美輝

「未満」西村 美海

「夢の中」加藤 嘉乃

「ガダルカナルの夢」宇野 明信

付録:句集

あとがき

「アンサンブル」入口 一

 東京駅の空気は嫌いだ。へんな広告だらけで、どこにいても乾いた風が吹いている。目が乾いてしまいそうである。早くここから抜け出したい。違う駅に行きたい。上京したての頃は、それまでイメージしていた煌びやかな東京駅とはずいぶん違うことにがっかりしていたものだ。
 午後六時。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だ。通りすがる人たちは皆同じように疲れた顔をして歩いている。
 僕はたまに駅のこの空気感に耐えられなくなって、駅の中にある和食屋に入る。京浜東北線のホームに向けていたはずの体の方向を変え、角を曲がって八重洲口から二階にあがった。和食屋「はなれ 櫂」。しっかりとした味わいと、風情のある雰囲気が気に入っている。
「いらっしゃい! いつもの席空いてますよ」
 若いバイトの男性が気弾んだ声で僕を迎え入れる。富山県から上京してきて、東京駅を日常的に使うようになった二年前から、週に一回は利用している僕はさすがにもう顔を覚えられているようで、常連というやつだ。
 清潔で、木材を基調にした落ち着いた店内。乾いた風の吹く東京駅の中とは、とても思えないこの安心感。唯一気に食わないのは、店の前にずらりと並んだ信楽焼の狸の置物たちだけだ。狸たちは和食屋の看板娘的ポジションらしい。僕には奴らがでかい図体でふんぞり返っている邪魔者にしか見えないし、狸でお出迎えされるなら賑やかな猿たちにでもお出迎えされるほうがまだましだ、といつも思う。
 定食を食べ終えてからいつも通りに京浜東北線の電車に乗り込むと、重たい音と同時に目の前で扉が閉まった。発車すると同時に、僕の体と、抱えているギターケースが同じ方向に傾く。ぼんやりと考える。僕とギターは今、傾き三〇度くらいなんだろうな。背負っているギターが重く感じられた。
 上中里駅に着いてドアが開いた瞬間、やっと僕の体は九十度になって地上に降り立った。
 改札のそばまでエスカレーターを降りる。その瞬間、視界の端に制服のスカートが目に入った。同時に背中に重みを感じる。進んでいた足が、その方向に傾いた。
「ギ、、、ターー」
 制服を着た少女が僕の背負っていたギターをつかんでそう呟いていた。背が小さくてスカートはふくらはぎまでの長さ。無造作に結ばれた髪に、何かを覗き込むように少し傾いている体。
 危険を感じてパッと後ろに下がると、その少女と目があった。
「ア、、、ゴメン、ナ、ア、、サイ」
 少女の目を見た。
 焦点の定まっていないような、不安定な目だった。しかし瞳の中心は、ジュクジュクと音を立てて弾けるまで焦がれているような、大切なものをすべて取り込んで沸騰しているような、力強い色をしていた。
「え?」
「ア、、ア、ア!! ギター」
 ポップコーンが機械の中で一つ、また一つ、高く弾けていくみたいに、瞬きをするたびに軽快な音が鳴り、力強い色を纏うその目に僕の体は固まった。少女は左右に揺れ動く。瞳の焦点は定まっていない。
 動き回る少女から二歩、退いた。少女がなんらかの障害を持った子で、きっとどこかの支援学校に通っている生徒であることを理解する。
「バンド、、ア、ギタア」
「えっと」
「ギター! ギターギターギター! かっこいいね、ギター!」
「そうか。かっこいいよね。そうだよね」
 少女はそれからまたカッコいい、カッコいい、と呟いた。
 体のどこかからドクンという音が鳴った。奇妙に動きながらギターケースを触る少女に警戒心を持ちつつ、この一瞬で少女の瞳に取り込まれていた。その瞳にはなにか不思議な力がある。
「ギター、好き?」
「ア! ギター好き、ギター!!」
 少女の言葉は僕の心にすとんと落ちてきた。
 少女はキラリと名乗った。瞳が綺麗な、キラリちゃん。名前を聞かれて、雄介、と答えるとキラリちゃんは「ユウさん」と読んだ。そのまま呼ぶのはハードルが高いのかもしれない。「呼びやすい名前になったね」と言うと、キラリちゃんは瞳を閉じて、ア、ア、、と笑ってくれた。
「バンドでギターを弾いてるんだよ。ちょうどこの前、メジャーデビューしたんだ」
「すごい! デビュー! ギター、ききたいききたい」
「うん。まだ無名だけど、調べてみて」
 僕の言葉はちゃんと伝わっているのだろうか。バンド名を書いた紙を渡して、ケースのチャックを下げて少しだけギターのボディを触らせてもそれはよくわからなかったけれど、キラリちゃんはとても喜んでいた。パチパチと音を立てて何回もまばたきをして喜んでいた。
 本当にいい瞳であった。あの色を忘れたくなくて、僕はギターを抱きかかえていた。
 それから何度か駅でバッタリ会うと、僕たちは十分ほど改札の手前で話をするようになった。キラリちゃんはやはり、上中里からバスで十分ほどの支援学校に通う生徒であった。何度目かに会ったとき、キラリちゃんの横にいたヘルパーさんが教えてくれた。
 最初は戸惑ったものの、キラリちゃんの純粋な言葉と瞳の色は僕を心地良くさせた。やはりいい街にはいい人がいる。上中里に引っ越して来てよかった。三〇度に傾いたまま、僕は嬉しくなった。

 東京に寄生した。僕とギターは、東京という都市の中をうごめくダニであった。
 ギターケースを抱えながらエスカレーターや電車のレールに乗って、ダニとして東京のどこかに輸送される。自分はこの街に無秩序に輸送されている。そんなとき、僕はこの上中里駅にたどりついた。
 初めて上中里駅に降り立った時、この駅が東京駅から十五分で着いた場所とは到底信じられなかった。京浜東北線で東京駅から五駅。電車を降りた瞬間に広がる視界は木々で埋め尽くされていて、改札を出ても寂しい風が吹いているだけだった。寂しい街だったが、東京駅での乾いた風に吹かれて力を失っていた僕の体はそこで確かに息を吹き返した。
 上中里の空気は、ギターと自分の音楽だけを信じて離れた、僕の地元の富山県の空気と同じだ。そのことに気がついたとき、地元の富山の記憶と共にあらゆる感情が押し寄せた。
 その日、その足で近くの不動産店に行き、すぐにでも入れる部屋を探してもらった。間もなく上中里で始めた一人暮らしは、東京駅から輸送された僕の体とギターが行き着く最終地点としてふさわしかった。一日一日を着実に刻んで僕の新たな部屋が完成していった。それまでは環状八号線沿いの、一日中エンジン音の響く部屋に住んでいたから、ようやくちゃんとした一人暮らしが始まったという感じであった。
 ちょうど引っ越した直後、僕らのバンドはメジャーデビューした。僕らのバンドを見ていた音楽事務所の方が声をかけてくれたのである。環境は途端に変わった。少なくはあるがファンがつき、公式SNSがつくられ、毎日ギターケースをかついで東京駅を利用する生活が始まった。
 ドリームであった。バンドの仕事は楽しかった。
 でも、二十三歳になった僕はその生活の中で傾いていっている自分に気づいた。無名の僕らはやりたい音楽だけをできるわけではなく、誰かに従った音楽であったり、何かを我慢した音楽を強要される。我慢し続けていた。我慢し続けているのである。東京駅でエスカレーターに乗っている自分がふと、上空からのカメラに映って目の前に映し出される。僕はどこか夢心地でそれを見る。同じように輸送されている人と人の間でただ流れていく。ダニのまま、上中里に輸送されていく。
 上中里の空気は澄んでいても、上中里にある僕の基地はダニがいつの間にか食い荒らしてしまったらしく、嫌な空気になっていた。完成したはずの部屋の中に、徐々に空洞が目立つようになる。ダニがうごめいている。一日の終わりに部屋のドアを開けると東京駅のような乾いた風が吹いた。部屋には無数の小さな穴が空き、その空洞が日に日に大きくなって風を吹かしていた。僕はその部屋で眠り、その部屋を出て、その部屋に帰る。そんな生活だった。

 その日も小さなハコでライブをした帰り、僕はやけに薄汚い街に迷い込んだ。二十時頃だ。疲れ切っていた僕はいつの間にか逆方向の電車に乗っていた。騒がしさに眠りから醒めて慌てて降りた駅はギリギリ神奈川県に位置している場所のようで、同じ京浜東北線でもここまで違うのかと驚くほど悪い雰囲気を醸し出していた。
 路上に若者が座り込む、嫌な街であった。看板のネオンやパチンコ屋の騒音がこの街の若者たちにとってのエネルギーのようだった。これは、僕にとってはじめての「東京」だと直感する。ドキドキしながら道を歩いた。
 ハンバーガーショップの窓際の席に座って、その若者たちを眺めることにした。若者たちが騒ぐ道路は雪が降ったように白くて、ふっと息を吹きかけると雪が舞ってしまいそうな危なさがある。雪の上で踊り騒ぐ若者を僕は時間を忘れて見ていた。
 いつの間にか店を出ていた僕は、ゆらりゆらりとその若者の方へ歩いていった。彼らは今の僕となんら変わらないように思えた。騒いでいるのか、弾いているのか。ただそれだけの違いだ。
「僕はギターが弾けます。」
「は? 何、お兄さん」
「もう、いっそのこと、自分はここに輸送される方がいいのでしょうか」
 若者の顔が不自然に歪み、彼らの頭上で危険信号が点滅しているのがはっきりと見えた。
 僕は仲間には入れてもらえないようだった。今の僕はまた、三〇度傾いている感覚があった。そのせいかもしれない。いや、僕には雪が足りないようだった。風が顔に当たる。注射を打たれたような痛みを感じた。こんな風を運んでくる雪なら御免だと思い直した。
 京浜東北線で車両の隅の席に座って、僕は上中里に帰るしかなかった。
 上中里でドアが開く。このまま終点まで輸送されてしまおうかと考えがよぎって、座席のソファに渋み込みかけた体は、視界の端に人影を捉えて飛び起きた。ドアの閉まるギリギリに体を滑らせてホームに立つ。
 制服姿のキラリちゃんが階段の一番下に腰掛けていた。
「キラリちゃん!」
「、ア、ユウさん」
「どうしたの、もう二十二時だよ。親は?」
「いない、マッテ、る」
 瞳が不安げに揺れていた。乗っていた電車が発車する。ホームには僕たちだけになった。
「寒くない? いつから待ってるの? 危ないから僕もいるよ」
 キラリちゃんは頷いてスペースを開けるように微かに横に動いた。それからキラリちゃんはポケットを探り始めた。取り出したのはコルクだった。
「あげる。これ、プレ、ゼント」
「お、ありがとう」
 一瞬面食らったが、コルクにはマッキーペンで何かが書かれていた。

♪ ♪

 八分音符が二つ。
 にこにこと笑うキラリちゃんを見て、これが彼女にとっての音楽なのだと理解した。僕がギターで奏でる音を、キラリちゃんは家にあったコルクを使って奏でたらしい。
 僕からは特に何を話すわけでもなく、僕はキラリちゃんの話を聞いた。つたない言葉でも意外と何を言っているかはわかるものだ。それに、キラリちゃんの瞳を覗くとなにかを思い出せそうな気がするのだった。いや、それは勘違いでも、確かにその瞳には僕を元気づける力があって、僕の中の大切な感情と共鳴した。
 キラリちゃんの瞳は故郷の川を思い出させる。澄んだ空気を映し出して、太陽の光を反射する川。生まれたときから上京するまで僕の前にはいつも川があった。全ての感情を吐き出してもソロソロという優しい音で流してくれる。僕にとって、川を離れるというのは人生でいちばん大きな決断だった。
 キラリちゃんと二人で話していると、前を通りかかる人達に好奇の目を向けられる。キラリちゃんの見た目は、はたからみれば不気味だ。仕方のないことだと理解している。それでもキラリちゃんと仲良くなってわかった。知らない人からその目を向けられるのは、ずいぶん怖い。
 しばらくしてキラリちゃんのお母さんがやってきた。緊急事態で仕事場に拘束されていたようだった。
「もしかして、ギターを弾いている方ですか? キラリやヘルパーさんからお話を聞いたことがあります。ごめんなさい、こんな時間に」
「いえ。たまたま電車を降りたらキラリちゃんがいたので。よかったです」
「ありがとうございます。助かりました。いつも首から携帯電話を下げさせているんですけれど、どこに置いてしまったのかしら。よく置き忘れたり、投げたりしてしまうんです。心配でたまりませんでした。ありがとうございます。本当に」
「ユウさん! ありがとう。ん、ありが!!! ありがとう!」
 キラリちゃんのお母さんはずいぶん疲れているように見えた。
「あの」
 キラリちゃんを先に改札の外に出させ、キラリちゃんのお母さんは僕に向き直った。
「キラリと話すようになったのはなぜですか?」
 その言葉には明らかな敵意が含まれていた。ギョロッとした瞳がこちらに向いている。
「なぜキラリと話そうと思ったんでしょうか。偽善ですか?」
「え?」としか返せない。キラリちゃんのお母さんは一気に捲し立てた。
「キラリは障がい者ですが、自分の強さを知っている子です。誰かの気休めに使われる筋合いはないんです。それに」
 改札をでたところでこちらに向かって騒いでいるキラリちゃんの声が聞こえた。
「それに、キラリがもしあなたに何か危害を加えたら、どうすればいいかわかりません。おねがいします。できれば関わらないでください」
「いやいや、大丈夫ですよ。ずいぶん仲良くなりましたし、ギターが好きだと言ってくれています。あ、よかったらお母さまも一緒に今度ライブを見に来てください」
「ライブにはいけません!」
 僕は驚いた。いらついているようだった。
「キラリはじっとしていることができません。ライブなんて無理です」
「あ、そうですよね。すみません」
 キラリちゃんのお母さんは顔を歪めてから、綺麗な四五度になった。大人がする綺麗なお辞儀だった。真剣だ。ああ、僕は突き放されたのだ。
 「バイバイ! バイバイきらりちゃん」
 なぜなのかはわかるようで全くわからなかったけれど、お母さんに連れて行かれるキラリちゃんに慌てて声をかけた。振り向いてはくれなかった。
 二人の姿が見えなくなるまで僕は手を振り続けた。キラリちゃんはお母さんに手を引かれながら、あいかわらず奇妙な動きで歩いていった。
 その日、キラリちゃんからもらったコルクは大切にポケットにしまって家に持ち帰った。玄関の花瓶の横に置くと、最初からそこにあったみたいに僕の部屋にきれいにはまった。空洞ばかりのこの部屋で、小さなコルクは存在感を放つのだった。

 それ以来、なぜかキラリちゃんの姿を一切見かけなくなった。キラリちゃんのお母さんもヘルパーさんもすっかり見なくなった。どこにいってしまったのか、何があったのか、聞く相手がいない。
 東京の人はせっかちなんだ。部屋の中のコルクだけが、変わらずそこに残ってくれていた。
 たった一週間程度の仲だったけれど、キラリちゃんと話さなくなって、部屋の空洞は大きくなっていく。コルクだけでは足りない。このまま自分が無色になるのは耐えられなかった。
 一度富山へ帰ることにした。僕が所属しているのは無名のバンドだから、突然思い立って帰省してもなんの問題もないのだった。

 富山に帰省する。その日、新幹線に乗るために部屋を出たとき、僕は久しぶりにダニでなくなった。いつの間にかすっかりダニになることに慣れてしまっていた僕の体は、上中里の空気を身体中の穴から吸い込んで喜んでいた。
 いつか僕を東京駅まで運んだように、新幹線かがやきは、東京駅から富山駅まで僕を運んだ。数年ぶりに富山のホームに降り立った瞬間、鼻をついたのは地下鉄の乾いた匂いでも顔を顰めるほどの煙草の匂いでもなく、雪と優しい木漏れ日の匂いだった。
 五年という歳月はこんなにもこの景色を寂しく感じさせるのだ。なんだか今ずいぶん嬉しい。
 コートのボタンをしっかりと閉め、マフラーと手袋をつける。ゆっくりとホームを歩いた。
 改札を出ると、「雄介」と声がして顔を上げる。ところどころ髪を白くし、遠目から見ても年老いた母親が、しかし、変わらない笑顔でそこに立っていた。
「おかえり。心配しとったっちゃ」
「久しぶり。母さん。迎えありがとう」
「なんなんなん。父さんも向こうに車停めて待ってくれとるよ。いや、こんな元気そうで、あの人も嬉しがるなあ」
「父さんも? そんなが、いや、どうもね」
「早よせんなん、父さん怒っとるかもしれんわ」
 早足で歩く母さんの後ろをついて歩く。しばらくすると父さんらしい姿が見えてきた。
 父さんは車に寄りかかって待ってくれていた。スーツケースの音に父さんが振り返り、目が合って近づいていくまでの数秒間、僕はただどぎまぎしていた。父は優しい微笑みを湛えていた。
「ただいま」
「おう。乗れ、家に帰るっちゃ」
 実家までは車で十五分。木々の中、広い道路を父さんの運転する車は進んでいく。後部座席で窓にもたれながら僕の体はしっかり九〇度を保っていた。高層ビルで遮られていない空を見るのはやはり心地よくて、帰ってきたという実感があった。
「そういえばこれお土産。母さんが好きだったどら焼き、駅にあったから買ってきたっちゃ」
「あらー、きのどくな。覚えとってくれたんね」
「まあね。あれ。あそこの津田さんの畑、なくなっとる」
「津田さん、去年からずっと、おぞいがやちゃいうとった。春頃倒れて、息子さんが帰ってきとったわ。もうできんいうて、それから無くしたんだったかな」
「いきそったな、あれは。津田さんももう諦めとったわ」
 いつの間にか車は僕が生まれ育った町に入っていた。木漏れ日が差すように、木々の隙間から川面の光が反射してきらりと光っているのが見えた。
 川に行きたい。そう思わずにはいられなかった。実家に着いて車を降りるとすぐ、両親に川へ行ってくると言った。
「だちかんよ。寒いんだから、明日のお昼遊びに行ったらいいっちゃ」
「今行きたいんだ。二人は休んでいていいよ」
「だらこかれんときな、父さんも言ってやって。せっかく帰ってきたのに」
「なん、つけん。行ってこい」
「ありがとう。父さん」
 母さんは不満そうだ。
 川は上京する前と変わらず、何も変わらず、ソロソロと心地よい音と共に僕を迎え入れてくれた。透き通る水色。自分の姿が映し出される。自分の瞳の色までは見えない。見えないけれど、この川のようにどんな色も混ざることのない強さを持つ透明な、そんな色をしている気がする。
「うん、いいね」
 僕の体は今ちょうど九〇度。
 体の芯から指先まで、川の水がゆっくりとつたっていった。
 ああ、やっぱり僕にはこれだ。この色だ。
 強い直感が体の芯を走り抜けた。忘れていた感覚が、僕の中の強い鼓動が目覚めた。今この手でギターが弾きたかった。僕の瞳の色と、東京で知った、決して忘れないキラリちゃんの瞳の色。どんな色とも混ざり合わない二つの力強い色を、今、ギターで弾きたくて仕方がなかった。
 伸ばした手の先に冷たい川の水が当たる。僕はゆっくりと立ち上がった。川に自分が映り込んでいた。
 今度はしっかり、こぼれないように東京へこの色を持ち帰ろう。ダニだった自分に戻ることはもうない。僕にしか表現できないアンサンブルを奏でるために、もう一度東京へ帰るんだ。

20240421@Kosugi Gotencho

「オトの声」空西 どれみ

 国立競技場内のオトが競技場外まで鳴り響いている。ある有名アーティストのライブのようだ。いつかこの場に立てたらなと悠長なことを思いながら、薄暗い小さな箱へと帰っていく。
 
 バンドマンを結成したのは七年前のこと、私が大学に入りどのサークルに入るか悩んでいたところ、「一緒にバンド組まないか?」と声をかけられた。彼は山崎と名乗り、昔からバンドマンになることが夢であったそうだ。私は小学生の頃から今までずっとピアノを習っており、音のハーモニーを感じることには自信があったため、まぁいいかと軽い気持ちでバンドサークルに入った。
 サークルに入った後、山崎が他にも二人誘っており、音楽教師になる夢を諦めた川口と大人しく無口な板原がいた。この二人も、もともとは音楽経験があった。ということでピアノ、キーボードの私、ギター、ボーカルの山崎、ベースの川口、ドラムの板原の四人で四年間バンドを組むことになった。
 サークルの活動では、学校の音楽室で練習し、学祭にて発表の場があり、休日には四人で旅行へ行ったり、彼らと生活している時の音がとても心地よかった。
 私たちはどんな時でも一緒にいたので仲は良く、社会人になってもバンドを組み続けると誓った。しかし、このことを親に相談したところ猛反対された。私も内心将来のことが不安であったが、今更やめるとメンバーには言えなかった。そのため私は就活をせず、バンドの道一本と決めてしまった。私はそれを機にオトには敏感になるようになっていた。
 
 バンドマンというのは売れない者が大半であり、一握りの才能ある者のみがバンドで生活をすることを許されている。私たちは前者であった。
 社会人になった私たちはスーパーでバイトをしながらバイト後や休日に集まって練習をしていた。
 
 そして今、社会人でいうと三年目、このバンドメンバーで活動して七年という年月が経とうとしている。しかしそう簡単には売れることは出来ず、山崎が半年に一回地下で行われる売れないバンドマンの集まりに応募をして、同業者に演奏を聴かせるだけだ。この演奏会ももう七回目になろうとしており、顔馴染みも増えてきた。
 毎回周りの演奏を聴いていると、オトとオトがこの箱の中で喧嘩をしており、これが売れない原因なのだと感じた。それに対して私たちの演奏はオトとオトが共鳴して良いハーモニーが箱中に鳴り響いていたと思う。ここまでしても売れることは出来ないのかと、売れる道は厳しいものだと痛感した。
 
 冷たい風が吹き始めてきた頃、いつも通り小さな箱の中で練習をしていた所、突然
「もうそろそろ終わりにしたいんだ」
 と川口が言った。その瞬間、小さな箱の中に響いていたオトが消え、窓の外に吹く風の音のみが聞こえた。川口が続けて
「このベースの第四弦が切れちゃったんだよね。もう売れる未来も見えないしこれを機会にそろそろやめる時かなって」
 というとすかさず山崎が
「ただ第四弦が切れただけだろ、直せば良いだけじゃないか。しかもこのメンバーを結成して七年しか経っていない、俺らはまだ売れる未来があるからもう少し頑張ろうぜ」
「もう七年も経っているんだ。なのにあんな真っ暗で薄汚い所でしか演奏できないのはもうこりごりなんだ。いい加減、安定した職につくべきなんだよ」
 と二人の言い合うオトがまるで不協和音のようにこの箱の中に鳴り響いた。
 私は川口と演奏をしたいと思っていたが声に出すことは出来なかった。その後、川口は「ごめん」と言い、第四弦の切れたベースを置いてこの小さな箱から旅立った。

 川口が旅立って七週間が経とうとしていた。川口は何をしているのか、と思いながらも私たちはその話を口に出さないようにして日々練習をしていた。
 山崎は川口が置いていったベースを直し、川口のパートも山崎が補っていた。また作曲も今までは山崎と川口で行っていたため、抜けてからは山崎が一人で作曲をしていた。このように多忙であった山崎は「ねみぃな」と頻繁に声を漏らしていた。それと同時に私たちのオトの響きも薄れていった。
 本格的に冷たい風が吹いてきた頃
「遂に屋外のステージで演奏できる機会を手に入れたぞ!」
 と突然山崎が駆けつけて言ってきた。
「俺の友達の知り合いからぜひ出てほしいって連絡があったんだ」
 と山崎の心臓のオトが私に聞こえてくるのがわかる。
 ある大きな公園にて音楽フェスティバルを行うそうだが、そのフェスティバルに招待されたようだ。参加者の中には名前を聞いたことあるバンドがちらほらいる。まだ名前もない私たちからしたらこのフェスティバルは貴重な機会である。
「今までやってきた甲斐があったね!」
 と板原が言ったので、私もそれに合わせて「良かった」と言った。もう七年も経っているのに…。
 月日が経ち、フェスティバル当日になった。私たちは七番目に演奏をする。今回演奏する曲は二曲であり、一曲はカバー曲、もう一曲はオリジナル曲だ。もうすぐ私たちの出番が来る。みんなの心臓のオトが聞こえてくる。山崎は速く、板原はゆっくりで、私は小さなオトである。
「次は、結成七年目の初のステージ!三人のバンドマンです!!」
 というアナウンスと共に私たちはステージへと上がった。周りからはとても大きく、圧力のあるオトが聞こえてきた。今まで薄暗い箱で響いていたオトとは全く違って、箱の上辺に穴が空いているようにオトがどんどんと逃げていく。また、あの箱は狭かったため、私たちの間隔も狭く、連携が取りやすかったが、このステージでは間隔も広く、連携も取りづらくなっていた。私たちの演奏は大丈夫だろうかと考えていたが、圧力のあるオトが遠のいていくのがわかり、私は全てを理解した。

 演奏が終わり、私たちは打ち上げをするため、近所の居酒屋へと行った。その場所は地下ライブの時と同じようなオトの響きであった。
「今日はお疲れ様!乾杯〜」
 と山崎が乾杯の音頭を取る。
「なんだよ、ノリ悪いな、もう一回いくぞ乾杯〜」
 ともう一度言うと、板原が「乾杯」というので私もそれに続いた。
 酒が回り、私たちの気分も高まってきた頃、
「今日のライブはほんとに最高だったな」
 と山崎が板原の肩に手を回しながらいう。すると板原が
「今日全然観客湧いてなかったよな」
 と口を滑らせたかのように言う。
「いやそんなことはなかっただろ」
 と山崎がすかさず言う。
 前に川口がやめた時と同じ雰囲気が流れていると感じた私は「あ。」と声を漏らす。すると山崎は
「お前は今日のライブ失敗していたと思うのか」
 と私に聞いてきた。私はその質問に答えることができなかった。
「もう答えなくていいよ、板原と同じことを思っていたんだろ」
 と山崎に言われてしまい、私は反論しようにも声が出なかった。そして私のオトを置き去りにして二人はオトとオトの殴り合いをしていた。

 夕日に雲がかかってきた頃、打ち上げは終わった。二軒目に行く雰囲気もなく、私たちは各々の家へと帰っていった。
 私は何を答えるべきだったのかと考えながら、家でグランドピアノを弾いた。グランドピアノのオトはとても美しい。なぜなら、喜怒哀楽を曲や弾き方によって表現することができるからだ。私にはいつだってこのピアノがある。どんな時でも私の想いを表現してくれたピアノ。私は穏やかな曲を強い弾き方で弾いた。いつからあのような雰囲気になっていたのか、私は何をするべきだったのかと弾きながら考えていると急に「ドゴン」とおおきなオトがなった。私がすぐさま弾くのを辞め様子を見ると「ファ」のオトの弦が切れていた。
 窓の外の風のオトのみが響き、私は切れた弦をじっと見つめた。周りの弦はイキイキとしているのに、切れた「ファ」の弦は黒ずんでいて、弱々しい。切れた弦はなにか言いたそうにしていたがオトを発しないため何もわからない。そんな弦を隠すかのようにそっとピアノを閉じて、窓の外を見た。際ほどまで夕方だった窓の外はいつの間にか辺りが暗くなっていた。長時間ピアノを弾いていたのだろうか、それとも長時間切れた弦を見ていたからだろうか。そう考えながら窓をじっと見つめる。窓の外では何かを訴えるような風のオトが聞こえてきた。まるで山崎のような風だななどと色々と考えているうちに意識が遠のいていった。

 私は気が付くと風になっていた。暖かい日差しが射す中、草原をゆったりと揺らしている風。私は決められたルートをゆかなければならない。その中で様々なものを見た。三度目の正直で、会社員になるために就職活動をしている川口の姿、二日酔いで頭を抱えながら歩いている板原の姿、そして一人でアーティストになるため、路上ライブをしている山崎の姿があった。それぞれが違う道を進んでいたが彼らはイキイキしていた。彼らには私の存在に気付いてもらいたかったが誰もこの風のオトに気づく気配がない。そして風である私はどんどん次の場所へと行かなければならない。あぁ、と私が気づいた時には遅かった。私は今までの行動を悔やんだ。せめて最後に私の音を聴かせたかったなどと思っていると意識が遠のいていき、私は目覚めた。

 眩しい日差しが私を照らす。私は夢を見ていたようだ。起きてからすぐさまピアノの蓋を開け、ならないはずの切れた「ファ」の音を私は弾いた。

20240108@Azabudai Hills

「かぶりもの」蛭音 逸茂

「就活なんてクソ喰らえ。」
 帰りの労働者たちに押しつぶされながら、俺はそう呟いた。
 ああ、就活というものは本当にバカバカしい。我々は、「仮面」の完成度を問われる。そして事前に作ったマニュアルの記憶に従い、作法を守って、一つ一つの問いに完璧に答えなくてはならない。嘘のガクチカに、偽りの自己分析、そして虚偽の将来設計。不自然だ。これじゃあ、もはや何かの儀式じゃないか。
 どうせ彼らは、我々の外面しか見ていない。性格とか能力とか、肝心の中身に一切目を通さない。どうせ、「勝利の通知」が来た根性なしどもは、遅かれ早かれ退職代行で辞めていくことになるのだろう。ほんと阿呆らしい。
 
 ああ、気持ちが悪い。タバコとコーヒーの混じった形容し難い悪臭が鼻腔をいっぱいにする。
 なんだか、電車を埋める労働者たちが、働きアリのように見える。皆、服装に個性がなく、同じ見た目だ。こいつらは皆意思もなく、ただただ、「会社」のために本能のままに働いているのだろう。こいつらもアリのように、会社という巣のために生まれ、死んでいくのだろうか。 
 働き方改革とは、一体何だったのだろう。反吐が出る。
 ああ、疲れた。俺は「今日」という一日をまたもや浪費してしまった。

 俺は、獲物に群がるアリのような集団に紛れて、駅を出た。空は、すっかり藍色に染まっている。駅前のパチンコ店は、耳障りな音楽と強烈なたばこのにおいを吐き出している。ああ、どうやら今日は新台入荷キャンペーンのようだ。
 店前には珍しくマスコットキャラクターが立っている。緑色を基調としたパンダの着ぐるみである。手や足、からだ回りはまるまるとしていて愛らしい。安っぽい外見をしているが、その目は妙に生々しく見える。黒々とした瞳孔を見ていると、その深淵の中に吸い込まれそうになる。
 着ぐるみの仕草は、愛嬌があってとても自然に見える。なんというか、店前にすっかり馴染んでいるような気がする。とても中に人間が入っているように感じさせない。まさに「マスコット」という一匹の「生き物」という感じである。
 どうか、愛嬌のない酒臭い中年が入っていませんように、と俺は願った。

 無機質な十字路を左に曲がった。街灯の朧げな光を浴びながら、俺は糸で引っ張られるように住処へ向かう。ああ、どうやら、先程の「駅前」とはまったく違った世界に来たようである。一軒家とアパートが並んでいる。それなのに、なぜか人の気配というものがまるでしない。
 アスファルトを、革靴が弾く音が聞こえる。しかし、その音は、反響することなく、すぐにコンクリートに吸収されていってしまう。
 いくら進んでも、景色はほとんど変わらない。家屋の電灯は点いているが、中には誰も住んでいないような、なぜかそんな気がする。さんまの香ばしさと金木犀の甘さの混ざったような不思議な香りが、この一本道をより奇妙に感じさせる。
 奥の方は、黒い霧がかかったようになっている。この長い道に終わりはないのかもしれない。俺はここで力尽きてしまうのだろうか。
 少し不安だ。でも、なぜだろう。どこか心地いい。ああ、可能ならこのまま溶けて、この無機質な空間の一部になってしまいたい。不思議とそう思えてしまった。
 その糸は、「しっかりしろ!」とでもいうように、俺を再び強く引いた。

 俺は足を止めた。目の前には今にもガラガラと崩れてしまいそうなボロアパートがあった。
 慎重に階段を上った。一段一段、踏み込むたびに「キュッ、ギキッー」といかにも不穏な音がする。黒板を引っ掻く時のあの音みたいだ。
 手触りの悪いドアノブの鍵穴にかぎをねじこんだ。錆を触らないようにして、部屋に入ると嗅ぎなれた湿った畳のにおいがした。
 今日は大学の友人Yと飲みに行くことになっていた。俺はアラームをセットして、畳の上に横になる。瞳を軽く閉じると、瞼の裏が白く光って見えた。
 一日で溜め込んだ毒を吐き出すように、俺は深くため息をついた。うっすらと、昼間に飲んだカフェオレの匂いがした。
 
 ──────いつからだろう、人の顔の区別ができなくなった。彼らには顔の代わりに、無機質で黄色い絵文字がついている。初めはもちろん奇妙だった。でも、次第にどうでも良くなった。だって、彼らは皆「同じ」だ! 区別する価値もない!
 ああ、俺だけが知らないだけで、自己主張ってやつは大きな罪なのかもしれない。彼らは仲間を求め、孤立することを避ける。皆排斥されないために、仮面を被る。皆、本当の自分を隠し、消している。周りに合わせた発言をし、周りに合わせた趣味を持つ。だから皆、大して変わらないんだ!
 
 ああ、そして、彼らは怠惰だ! 誰一人、「俺」を正しく理解しようとしないのだ。勤勉だとか、真面目だとか、誠実だとか。皆、俺にそういう仮面を貼りつけて、剥がれないように固定する。そうやって本当の俺に気付かない。こんなにも怠惰であるのに。こんなにも不真面目であるのに。俺はこの中にいるのに! ああ、彼らは愚かだ!
 
 そのとき、耳障りなアラーム音がこだました。 

 重い瞼を上げると、暗い闇の中に二つの白くひかる穴があった。なんだか、とても嫌な予感がした。俺は起き上がり、その小さな穴をのぞく。そこには見慣れた風景があった。どうやら閉じ込められているようである。
 俺は反射的に窓へ向かった。なんということだろう。パチンコ屋の前で見たあのパンダがいるではないか。なんだか近くで見ると、とても不気味だ。生命感をまるで感じない。  
 首元に手を伸ばした。(やはり残念なことに)どうやら、頭部はファスナーで固定されているようである。

 暑い。サウナの中のように着ぐるみの中は蒸している。ああ、なんということだろう。なんだか、だんだんと全身の血の気が引いていく気がする。手が冷たい。「キーン」と耳鳴りがする。視界がぐわんぐわんと揺れては、だんだんと色を失っていく。頭が重い。くらくらする。表情筋が弛んでいくのがわかる。ああ、俺はこのまま、この中で力尽きてしまうのだろうか。
 俺は呼吸を整えようと、再び畳に横になった。
 
 少し落ち着いた。どうやら、友人Yとの待ち合わせにはまだ早いようである。
 やはり、携帯電話は触れても反応しない。俺はアパートからでて助けを求めることにした。この姿を見れば、皆おかしいとすぐに気づいてくれるだろう。
 視界は少し狭いが、そこまで違和感はない。しかしこの着ぐるみには、送風機といったあるべき機能がついていないようだ。どうやら限界は近いのかもしれない。俺は急いでアパートをでた。
 
 やはり、このみちには人がいない。どうやら全員本当に消されてしまったらしい。
 今度は少し様子が違うようだ。先ほどまで気配のなかった風が、おれの邪魔をする。バタバタと走っても聞こえるのは、ゴォーッという轟音のみである。街灯が朧げに照らす暗闇が、今度はなんだかおぞましい。大きな化け物がどすんと現れて、取って食われてしまいそうである。
 ああ、どうか悪夢であってくれ。おれは強く願った。
 
 例のパチンコ店はとても繁盛していた。どうやら、パンダはいないようである。おれは店内へかけこんだ。
「た、たすけてくれっ。閉じ込められたんだ!」そう叫んだ。しかし、おれの声は無惨にも、楽観的なジャグラーの音楽にもみ消されてしまった。誰一人このおれにはきづいてくれない。おれはここにいるのに。

 なぜだろうか。道行くだれも、おれに視線を向けない。きぐるみを着た、頭のおかしいやつが走っているのに。
 
 駅へ着いた。おれはそのまま改札をつっきった。駅のホームへの階段を降りようとしたその時、おれの視界は大きくゆれた。どうやらころんだようである。階段の段差に合わせて全身が回転していく。なんだか、地動説を発見した学者になったみたいだ。おれは、とても規則的に、ゆっくりと回り、落ちていった。
 ドスンという衝撃とともに回転がとまった。ふしぎなことに、いたみは全くない。
 
「だ、大丈夫ですか!駅員呼びましょう!」
 青ざめた絵文字をした女性が声をかけてきた。五十代くらいだろうか。体は肥えていて、少し腹がでている。しかし髪はしっかりと染められていて、清潔感がある。身なりや服装には、まさにマダムと呼んでいいほどの気品があるようにみえる。
「閉じ込められているんです! まず、頭のかぶりものを取ってくれませんか!」
 おれはこえを絞り出すようにして叫ぶ。女性の絵文字がこまった表情に変わった。
「何のことです?」
 ああ、どうやら、おれは「人間」にみえているようだった。
 おれはいそいで準急の電車にかけこみ、Yとのまちあわせのばしょへ向かった。彼ならきっと気付いてくれるだろう。そうしんじるしかなかった。
 Yは、予定よりもだいぶはやくまちあわせ場所へ姿をあらわした。小柄で細身なYであるが、きょうはスーパーヒーローのように大きく、たくましくみえる。Yは横断歩道をわたり、こちらへ小走りで向かってくる。
「あっ、いたいたぁ!焼き鳥屋、あと五組待ちだって。そこのゲーセンで時間潰そうぜぇ!」
 Yは無邪気なえがおのえもじで言う。
 ああ、Yすらもおれのいへんには気づかないようだ。おれはこの中にいるのに。こんなに助けをもとめているのに。

 体があつい。とけてなくなってしまいそうだ。おれ自身がきぐるみであったような、なんだかそんな感覚になる。
 おれは逃げるように走り出し、ちいさなこうえんにかけ込んだ。なんだか死に場をえらぶ猫の気持ちがわかったきがする。
 こうえんにはだれもいなかった。おれのあさい呼吸のみがきこえる。おれは鳥のふんがこびりついたベンチにゆっくりとこしをおろし、しんこきゅうをした。

 どうやら、おれはもうげんかいみたいだ。もうなにもかんがえられない。身体がきぐるみのなかにきえていくみたいだ。でもなんだか、すごく気分がいい。すごくらくだ。ああ、あったかい。ずっとここにいたい。ああ。もう、いいや。



 ああ、ぼーっとしていたみたい。そらはすこしくもってる。だけどそよ風があたたかくてすごくきもちいい。みせのまえは、たのしいおんがくがきこえる。それで、すこしたばこのにおいもする。このおしごとは、つまんない。みんなわたしをみてくれないんだもん。でも、やっぱなんかここはきもちいい。ここが、わたしのばしょって感じだ。あれ、そういや「わたし」ってなんだったんだろう。

 あ、だれかがこっちをみてる。ああ、あのひともきてくれますように。

20240225@YOKOSUKA MUSEUM OF ART

「だいがわり」白銀 鵺宵

 鏡の中の自分と入れ替わった。
「あなたの痛みも苦しみも、人生も、全部代わりに背負ってあげる」
 そう言って笑う、自分そっくりの顔をした彼女の言葉が、明子には、ひどく魅力的に思えて。毎日変わらない、この退屈な日々抜け出したくて。
 明子は、鏡の中へと一歩を踏み出した。

 鏡の中は、大きな家だった。お屋敷といってもいいほど長い長い廊下に、たくさんの部屋。その壁の全てに、鏡が掛けられていた。鏡以外のものは何もない。あるのは扉と壁と、鏡だけ。鏡は隙間なく並んでいるわけではなく、棚や花瓶、窓があったらこのあたりだろうという場所に掛けられていた。部屋の中に入っても何もなく、机やクローゼットがあるべき場所に、やはり鏡が掛かっている。
 まるで、全ての家具が、鏡に成り代わられたようだと、明子は思った。鏡が意志を持って、他の家具を排除したように。
 どこを向いても自分の顔がある不気味さに表情を固くする明子に、彼女は語った。
「普段鏡に映っているのは、その世界とは別の場所。現実とそっくりで、何もかもが現実と同じように動くの。」
「それなら、あなたは…」
 ニコッと、いつも鏡で見る笑顔で、彼女は笑った。
「たまに、世界と世界のはざまに繋がることがある。そこは、何者でもない人間の住む場所。中途半端な世界。私は、そこの住人よ。」
 段々と塗り替えられていく常識に、胸がとくんと鳴る。ここなら、きっと、飽きることもないかもしれない。
「あきちゃーん、ごはんよー?」
 お母さんが、“明子”を呼んでいる。彼女は「はーい」と軽快に返事をすると、最後にこちらを振り向いた。
「時折、光る鏡があるから、のぞいてご覧。きっと楽しいわ」
 明子とは似ても似つかない、毒を含んだ清々しい笑顔で彼女は去って行った。

 もう、どれくらいの時間をこの世界で過ごしただろうか。
 鏡の中は、考えていたよりもずっと退屈で、時間がとても長く感じられた。周りには、自分の顔を映す鏡ばかり。何にもないのだ。それどころか、食べなくてもお腹は空かないし、眠らなくても眠くならない。何もしなくたって、生きていけるのだ。夢のような世界だった。しかしそれは、明子には何の彩りもなく感じられ、早くも、この鏡の中から帰りたいと思っていた。
 誰かと喋りたい。会話がしたい。つまらなくて、もう息が詰まりそう。
 そんな明子の想いが通じたのか、世界に変化が生じた。廊下の壁に掛かった鏡の一枚が、明るく光り出したのだ。彼女の言葉を思い出し、慌てて近づくと、次第に光は弱まり、そこには、見慣れた友人の姿があった。
「ゆき!」
 嬉しくて、思わず声をかける。明子の大きな声に驚いた様子のゆきは口をハクハクと動かした後、信じられない物を見たかのような顔をした。明子は、もっと近づこうと鏡に手を触れて、ふと、気がついた。鏡に触る右手の指の爪には、りんごの可愛らしいネイル。私、こんなもの、してたっけ。そう思ってもう片方の手も見ようとすると、隣の、普通の鏡に映る自分の姿が見えてしまった。
 そこには、友人のゆきの姿が映っていた。明子が手を挙げれば手を挙げ、近づけば彼方も近付いてくる。明子は、友人の姿そっくりに変わってしまっていた。
 ゆきに繋がる鏡を見た。ゆきは、未だ驚いて口をきけずにいた。
 明子はゆっくりと、その鏡から離れる。ゆきは、鏡の中に明子がいることに驚いていたのではない。鏡の中の自分が、勝手に動き出したことに驚いていたのだ。
 なんだか胸が、ドキドキしていた。

 よく見れば、こんなにもたくさんの鏡があるのに、同じものは一つもない。
 この一つ一つが、それぞれ違う外の世界に繋がっているのだと思うと、胸が躍った。外をのぞけば、明子は違う人の姿に変身できる。こんな非日常的なこと、ワクワクしないなんて無理だ。
 明子は、鏡が光る度にのぞいては、色々な人に変身して向こうの人を驚かせて反応を楽しんだ。誰かに自分を見てもらえる。それだけで嬉しかった。

 おそらく、一週間が経った。
 明子は、数日前とは正反対に、元の自分に戻るために、最初の鏡を探していた。
 変身して遊ぶのは楽しかった。しかし段々と、明子は自分の姿がわからなくなっていった。私は明子。そう言い聞かせなければ、自分が誰だったか忘れてしまいそうになる。
 こんなの嫌だ。
 彼女だ。彼女に元に戻ってもらおう。ここよりも外の世界の方がずっといい。
 必死に記憶を探って見つけ出した明子の部屋に通じる鏡は、運良く、光り輝いていた。
 鏡に近寄る。自分が、自分に戻っていくのを感じた。
 明子は、目の前に立つ、自分そっくりの彼女に言った。
「もうこの世界にはいたくない。私と、もう一度入れ替わってちょうだい。元に戻りましょう」
 彼女は、目を大きく開いて、キョトンとした後、何かとても面白いことを思い出したのか、天井を見上げて笑い出した。困惑する明子に、しばらく大笑いした彼女は、
「いやだ」
 ただ、そう言い放った。
 楽しそうな笑顔で彼女は言う。
「私だって、そんな場所、二度と戻りたくないもの。自分の意見が全て聞き入れられると思わないでね? 最初に選んだのは、あなたなんだし」
 思考が追いつかなかった。生まれてから、頼みを断られたことなんて、なかったのに。
「案外楽しい人生じゃない。両親に甘やかされて、有名進学校に通って、何不自由ない生活を送ることができるなんて」
 堰を切ったように話し出す彼女。彼女は、明子よりも、“明子”らしく見えた。
「外の世界は定員オーバーなの。だってほら、どの鏡をのぞいても、あなたと同じ顔の人はもういるでしょう? 出たかったら、誰かと入れ替わらなくちゃ。私以外の誰かと。」
「そんな。明子は、私なのに」
 本物は自分だ。それなのに、もう明子には戻れないなんて。
「私も、その前も、そのまた前も、みんなそうやって外に出たのよ」
 彼女は、“明子”は言う。
「せいぜい頑張って代わりを見つけてね」
 本物の明子は、明子よりも明子らしい笑顔で、スキップをしながら出て行った。
 振り返ることはしなかった。

 “誰か”はしばらくうずくまっていた。
 涙は出ない。ただただ、うずくまって頭を抱えるくらいしかできなかった。
 何日か、そうした後、とうとう立ち上がって、長い長い鏡の廊下を歩き始めた。
 新しい誰かを、見つけなければ。

「つまらない人生が嫌なら、私が代わりに背負ってあげる」

20240421@Nanasawa Forest Park

「トリアージ」守屋 泉

 窓の外から悲鳴が聞こえる。

 人なのか、蝉なのか、判然としない。

 他の誰かにとって、きっとそれは単なる、鬱陶しくて、平凡な、ただの声だろう。

 ただ、俺にとってその声は、どうしようもない程に、悲鳴であった。
 

 夏の酷暑もついに身を潜めはじめ、鼻孔を抜ける空気が鋭さを帯び始めた近頃、妻に代わって俺を目覚めさせるのは奴ら、蝉たちの鳴き声だ。
 窓の外に充満している叫びは要領を得ず、奴らが未だにその盛りを過ぎても、求愛行動のために凝りもせず鳴き声を出し続けているのか、もう残り少ないその生を?みしめているのか、はたまた何か最後に伝えたいことでもあるのか、俺にとっては分かりっこない。
 ただ、それが悲鳴なのは断言できる。
 いや、そう信じたいだけなのかもしれない。奴らの、瞬き一つの間の一生の中で一体何を選択し、何を切り捨てることが出来るのだろうか。
 
 俺はそんなぼんやりと白けた思考の中で土曜の朝を迎えた。
 
 
 妻が入院してから数週間、少し幅の大きくなった2LDKはその節々にかつての生活感を佇ませながらも、連日の残業と見舞いでろくに掃除の出来ていないシンクには洗い物が散乱し、L字のソファの隅には溜まった洗濯物が、片っぽだけの靴下を山頂にして小高い山を築き上げていた。
 病室に行くにはまだ時間が早すぎるから、溜まった家事を消化しようと取り掛かるが、全く手につかない。
 それもそうだ。
 俺の胸には今、どうしようもない程の期待感と不安が混ざり合って、あふれているのだから。
 
 妻の出産予定日から、もう一週間弱経過している。医者は特段心配する必要はないと言っていたが、妻にしても俺にしてもこれが初めての懐胎であるのだから、当然不安は募るばかりで、いつその日が来るかわからない緊張感のためか、最近は胃の調子が悪く感じる。
 ただ、もうすぐで待望のわが子と出会えると思うと、自然とその不安感は、どこか頭の片隅へ押しやられ、幸せの香りで俺の心は満たされていく。
 
 洗い物だけ手早く済ませ、顔をぬるま湯で洗い歯を磨く。
 もうずいぶん目がクリアになった。
 朝のニュースを見てひと段落しようとテレビをつけたが、すぐに消した。
 今こうしている間にも子供は生まれてくるかもしれないし、何より妻はいつ生まれるかわからない緊張感の中で懸命にその時を待っているのだ。夫である俺もその誠意に応えなければならない。
 一人の人間として、一人の父親として。
 
 部屋から出ると外の世界はすでに土曜の息遣いをしていて、平日に比べて少ない交通量のためか、いつもよりも澄み切った空気が、俺の肺を隅々まで満たした。蝉たちの悲鳴は早朝よりも激しさを増していて、俺の期待感と焦燥感を助長させる。俺は逸る気持ちを胸に妻の待つ病室へと向かうため、車に乗り込んだ。
 
 家から妻の入院する病院まではそれなりに時間がかかる。
 車でざっと一時間弱の距離だ。
 産婦人科の評判がとても良いことから、妻たっての希望でこの病院を選んだが、家からの距離が長いことは毎日見舞いに通う俺にとっては少し億劫であった。しかし、結果として、入院生活が長引いた妻にとって、この病院の雰囲気は適していたと思う。
 
 妻のベッドは四人部屋の窓際の一角であり、日当たりのよい位置にある。現在この部屋を利用しているのは妻一人なので、実質個室状態だ。
 半開きになっているカーテンから顔を覗かせると一瞬驚いた表情を見せた妻であったが、すぐに目尻に少し皺の寄った、屈託のない、いつもの笑みを浮かべた。
 この笑顔が俺の焦心を溶かしてくれる。
「身体の調子はどう?」
 近くにあった木製の椅子に腰を落としながら妻に問いかけた。
「全然大丈夫、別にどっか痛いわけでもないし。今日か明日には生まれると思うから旦那さん呼んでおいてって、先生に言われたよ。私ももうすぐこの子が生まれてくるっていう確信があるの。だからあなたもそんな心配そうな顔してないで、もっと笑顔で行きましょうよ」
 そんなに顔に出ていたか?
 口元を触り自分の顔面を触覚で確認する。
 ああ、確かに硬いな。
 凝り固まった口元の表情筋を、くいっと引き上げて、渾身の笑顔を妻に披露して見せたが、どうやら完全に引きつっていたらしく、その不格好さに妻は苦笑を呈した。

「ねえ、いつものあれ買ってきてよ」
 一瞬何のことか戸惑ったが、すぐにあれの正体を思い出した。
「ああ、あれね。桃のゼリーね」
 妻のここ最近の好物は、ゴロっと切り分けられた白桃が二、三個入っている二百八十円の桃のゼリーだ。 
「わかった、下の売店で買ってくるよ。俺も朝飯食ってないし、ついでに何か買ってくるから一緒に食べよう」
 起きてから既に四時間は経過していたので、さすがに腹が減った。
 椅子から腰を上げ、病室を出ようとすると、妻が後ろから再度注文の念押しをしてきた。俺は妻の方は見ず、手だけ振り、病室を後にした。
 
 妻を見て、俺はいよいよだと確信した。あの膨れた腹の中には、俺と妻が作り出した新しい純然な生命が蠢いていて、あと数日の内にこの世界に這い出て、俺と同じ空気を肺に満たし、太陽のまばゆさを眼球に照らし出すのだ。そして俺も父親として新たにこの世に生れ落ちる。これ以上の歓びは他にないだろう。
 俺の心は、これから訪れるであろう未来に対する期待感と充足感に満ち溢れ始めていた。しかし、そんな幸せに暗雲が迫るように、携帯電話が不穏な振動を繰り返していることに俺はとっくに気づいていた。

『今夜が峠です。最後くらいお父さんにあなたの顔を見せてあげて下さい。待っています。』
 最悪だ。
 俺の感じていた不穏な気配がその実態を帯びて、俺の眼前にまざまざと接近してきた。携帯の画面に映し出された、たった四十文字が俺の心をひどく殴打する。
 桃のゼリーと、おにぎり三つが入ったビニール袋が、岩石のような重量感を急激に帯び始め、数分間の間、俺をその場に固定した。
 
 父の危篤はすでに母から聞かされていた。愛煙家であった父は、長年における肺の酷使から慢性的な肺炎を患っていた。ここにきてそれが悪化したらしく、かなり芳しくない状態であるとの旨は月初めに母から聞いていたが、まさか今日がその日になってしまうとは。
 
 俺と父の仲は良好という訳ではないが、すこぶる悪いという訳でもなかった。それというのも俺の今までの人生の中で、そもそも父と過ごした時間というのは、数えられる程に少ないのだ。仕事の都合で遠方への出張が絶えなかった父は、家に居るということは滅多になく、たまに帰ってきても終日寝ているばかりで、俺には全くかまってくれなかった。運動会も学芸会も観客席に見えるのは母の姿ばかりで、俺が大学に受かった時も、「そうか」の一言だけであった。最後に父と会ったのは結婚式の日であるから、もう一年も前になる。その時も父はいつもの不愛想な顔で「おめでとう」とただ一言、俺と妻に告げるだけであった。
 でも何故だろう。何よりも鮮明に俺の心を彩っているのが、俺と長い時間を過ごし、あんなに優しく育ててくれた母との記憶よりも、数少ない父との記憶ばかりなのは。
 一回だけ一緒にやってくれたキャッチボール、祭りでごった返す人の波を肩車で進んだ目線の高さ、まだ小さな手で一生懸命洗った大きな父の背。
 全てが鮮明に思い出せる。
 
 今ならまだ間に合う。
 
 実家までの距離は、遠すぎるという訳ではない。車でも新幹線でも、今すぐ向かえば少なくとも夕方までには間に合う距離だ。
 俺はポケットに手を突っ込み、車のキーを取り出そうとした。しかし、その動作はすぐさま停止した。
 
 だが、こどもはどうなる?
 勿論、俺の立ち合いなんてなくても、無事に出産はできるだろう。そもそも今日生まれてくるなんて確定したことではない。
 
 ただ、俺は立ち合いたい。
 いや、立ち合わなければならない。
 新しく、純粋な小さな生命がこの世に誕生する。そんな、ささやかな命の戴冠式に俺は絶対に参列しなくてはならない。それは俺の願望でもあるが、第一に、生まれてくるわが子のためなのだ。
 
 人は、どうしようもなく辛い現実に直面したとき、肉親、家族との記憶を糧にそれを乗り越えようとする。少なくとも、俺はそうであった。辛いときには、母の顔を思い出し、その記憶のぬくもりを、活力に変えていた。今では、妻もその一人だ。
 俺のこどもにも、いつかはそんな日が訪れる。その時、縋る思い出の中に、父親の姿が少ないというのは、言いようのない程に寂しいものだ。
 それは俺自身が一番よく理解している。だからこそ、未来に、わが子を支える思い出の先駆けとして、この出産の立ち合いに俺は必ず立ち合いたい。父と同じ轍は踏みたくない。
 
 ようやく重さの解けた始めた両の足で、俺は妻の待つ病室へと向かい始めた。
 
 どうすればいい。
 
 俺の頭の中で、二つの選択肢が、それぞれが異なる輪郭を描いては、お互いを塗り潰す。俺の思考はどんどん濁っていく。
 
 妻ならどうするだろうか。
 
 いや、だめだ。
 ただでさえ、今は自分のことで精一杯のはずなのに、余計な心配はかけられない。それにこの選択は俺自身の問題だ。
 
 父を看取るか、わが子の誕生に立ち会うか。
 この選択は俺のもので、俺の責任だ。他の誰のものでもない。
 
 病室に戻ると、妻は窓の外をどこか真剣そうな面持ちで眺めていた。
「外、意外と暑いでしょ。蝉たちも可哀想ね、こんな暑い中、鳴き続けなけきゃいけないなんて」
 妻は窓から俺に視線を移し、そう言った。
 蝉たちの悲鳴は、朝よりもさらに激しさを増しているように聞こえた。
「うわ、またそんな顔してる。何度も言うけど心配ないよ。無事に産んで見せるから、ちょっとは信用してよね!」
 明るく微笑みかけてくる妻に、つい目元が緩みそうになった。
「あ! ねぇほら見て、ここすごい動いてる! あなたも触ってみてよ」
 妻に促されるまま、大きく張った腹に、慎重に手を当てる。

 ああ、動いた。

 土曜の昼下がり、完全に成熟しきった太陽が新たな光を産みだす。刺々しく、それでいてどこか丸みを帯びた日光が、俺と妻を、病室全体を、黄色い温もりで優しく包み込んでいた。
 その後すぐに、妻の陣痛が始まった。

 
 時計の針は既に二十二時を回っていた。
 もう間に合わない。そう思いながら、先刻の母とのメール画面を開いたまま、意味もなく、携帯電話を開いたり閉じたりしていた。あわよくば母から電話が掛かってきて、父と話せるかもしれない。そんな淡い幻想を抱きながら、病室よりも冷房がよく効いている一階の大広間で、俺は一人、座り込んでいた。
 父ならきっと大丈夫だろう。あと一か月くらい平気で生き延びてくれるはずだ。
 何の根拠もない希望が俺の胸を満たす。
 そうだ、きっと大丈夫。俺の選択は正しかったはずだ。 
 きっと、こっちを選択する方が大切なんだ。
 そんなことを考えていた時、急に奥の方から慌てた顔をした医者が近づいてくるのが見えた。
「ああ! 旦那さんここにいらしたんですね。奥さん、そろそろですよ。今から分娩室までまいりますので、ついてきてください」
 息切れした医者の言葉に、俺は今さっきまで考えていたことなんてとうに忘れて、すぐさま医者の後を追いかけ、妻の元へと急いだ。
 
 
 産声が響く。
 分娩室に鳴り響いていた、妻の怒号と見紛うかのような悲鳴は、一瞬にして赤子の産声へと変貌した。
 助産師に取り上げられたわが子は、つい先ほどまで羊水の海の中にいたため、その小さな体躯を赤黒く濡らし、分娩室全体の機械的な光を、その身に乱反射していた。
 その光は、生まれたばかりの小さな、それでていて他の何よりも確固な生命の脈動を、俺の眼球にありありと、焼き付けた。 
 妻の横に寝かされたわが子は、先刻までの騒ぎようが嘘のように、静かに呼吸をしていた。
「ほら、あなたも触ってみて」
 妻に促されるままに、俺は小さな指に手を伸ばす。
 まるで、異星人と交信するかのように、慎重に右手の人差し指で、わが子の手のひらに触れる。さほど長くもない俺の人差し指を、手のひら全体で優しく握っている。
 ちいさい、やわらかい、あったかい。
 ああ、俺は父親になったんだ。
 俺の選択は間違っていなかった。
 時計の針は、日付が変わるあと少しのところまで迫っていた。
 まだ何の穢れもない、純粋な瞳が俺を見つめる。俺は確かに、その瞳の中にこちらを見つめる父の面影を見た。



 父の葬儀は身内だけで執り行われた。母から訃報を受け、妻とこどもはまだ病院で安静にしてもらい、俺だけ実家に帰った。
 父は、妻が出産した数時間後にこの世を去ったらしい。
 実家に着くと、母は何も言わずに俺のことを抱きしめてきた。いつの間にか小さくなった、俺を抱く母の体は、小刻みに震えていた。
 集まっている親族に軽く挨拶を済ませ、父の眠る棺へと向かう。 
 
 棺の中の父は俺の知る父とは、まるで別人であった。
 肥満体形であった父の身体は、すっかりとやせ細り、頬はこけ、髪も白髪だらけになっている。こんな風になっているだなんて、俺は知らなかった。
 父の死に顔は、一見穏やかだが、その深く刻まれた皺の層に、俺はどこか、諦めに近い何かを感じた。
「お父さん、最期はとても静かだったのよ」
 呆然と立ち尽くす俺に、後ろから母が語り掛けた。
「ほら、お父さんってとても寡黙な人だったでしょ、だからきっと口には出さなくても、ずっとあなたに会いたいと思っていたのよ」
「うん」
 母の言葉が胸に突き刺さる。



 四十九日に、今度は妻とこどもを連れて実家に訪れた。
 はじめは、知らない親戚に囲まれ泣きわめいていた我が子であったが、少しすると慣れたのか、親戚たちが繰り出す変顔の数々に笑顔を見せていた。特に、母には良く懐いている様子で、それがうれしいのか母も、ずっと一緒に戯れていた。
 一通りことが済み、辺りもすっかり暗くなったので、名残惜しそうな母に別れを告げ、俺は、妻とこどもを車に乗せ、実家を出た。
  
 次、いつここに戻ってくるか分からない。そう思った俺は、少し遠回りをして、思い出の場所の近くを通って帰ることにした。後部座席の二人は、今日はよっぽど疲れたのか、すでに夢の中のようだ。
 小学校や中学校、よく遊んだ畦道沿いの用水路や、年季の入ったバッティングセンター。そのどれもが、あの頃と変わらない姿で存在し続けている。

 ちょうど大きな交差点に出たところで、赤信号に捕まった。
 ここの信号、変わるの遅いんだよなぁ。
 そんなことを考えながら、ふと反対車線の奥の方にある公園に目を向ける。
 それは、俺と父が最初で最後の、キャッチボールをした、あの公園であった。公園の中には、父とその息子であろう一組が、もうこんなに暗いというのに楽しそうに、走り回っている。
 途端、俺の胸は、まるで何か、得体のしれないものに鷲掴みにされているかのような痛みに襲われた。腹の底から嗚咽が漏れ出して止まらない。
 信号機、前の車のテールランプ、道沿いの街灯、周辺の全ての光が、俺の目に溢れた雫に注がれ、放射線状に交わりながら、視界の隅々までに乱反射した。
 
 「 父さん 」
  
 父との記憶があふれ出す。
 
 そうだ、本当は全部わかっていたんだ。
 一年中、休まずに俺と母さんのために働き続けていてくれたこと、俺が大学に受かったとき、こぶしを固く握りしめてくれていたこと、結婚式の最中一人片隅で涙を流していたこと。
 父が俺のことを何よりも大切に思ってくれていたこと。
 俺は全部、わかっていた。
 わかっていたのに、見て見ぬふりをした。父のことを都合のいいように決めつけていた。
 子の誕生に立ち会うのか、父を看取るのか。どちらもその価値は等しくて、優先順位なんてない、命の選択だったんだ。
 でも、決して両方選ぶことはできない。
 
 信号はいつの間にか青に変わっていた。後ろからはクラクションが聞こえる。
 俺はバックミラー越しに妻と子を眺める。
 そうだ、俺は父親なんだ。
 俺はこの命を、この後悔を選んだのだ。
 
 俺は父親として、一人の人間としての決意を胸にアクセルを踏み、車を加速させる。外気は既に冬の様相を呈し始め、辺りは極彩色の暗闇と、澄んだ静寂で満たされていた。
 
 窓の外の悲鳴は、もう聞こえてこない。

20240616@Under Kanasugi Bridge

「ライオン」都村 葛根湯

 ライオンは、日の上り始めた頃、一所に固まって睡眠をとり始めた群れの中を抜け出し、手ごろな小動物を狩りに出た。 
 彼は向上心の強いライオンだった。二歳ほどになって二頭の弟たちとこの群れを出たら、リーダーになって、他の何処よりも多くの雌を侍らせ、他の何処よりも大きい群れを作ってやる、と考えていた。そのために、この残された一年間を使ってできるだけ多くの肉を食べ、大きな体を手にしようと画策していたのだ。
 草や低木ばかりが茂るサバンナでは、彼が普段標的にしている鼠のような小型の動物は目に入りづらい。故に、彼は極めて僅かな草木の動きも見逃さないように注視していた。
 しばらくの間獲物を探し歩いていると、少し遠くのほうで草がなびくのが見えた。
 今日はすぐに見つかったな。
 喉を鳴らし、その獲物のいるであろう茂みに向けて彼はその未成熟な身体を走らせた。
 そのときだった。
 彼の背後で何かがばさっ、と飛び立つ音が聞こえた。
 それは一羽の鳥だった。
 今しがた走り過ぎたアカシアの木から飛び立ったのであろうその鳥は、真っ青な腹と赤、黄の絢爛な翼をもつ、このサバンナでは一際目を引く存在であった。
 頭上を通り過ぎていくその美しい鳥に、彼は魅了された。
 もはや彼には、獲物を追いかけることをやめ、ただそこに立ち尽くしてその鳥を目で追うことしかできなかった。

 それから彼はもう一度、今度はしっかりと、その姿をこの目に収めたいという思いから、群れを抜け出すようになった。

 そして数週間の後、彼は再びその鳥を見つけた。
 今群れの仲間たちが寝ている場所からそう遠くない地点にぽつんと立つアカシアの木の枝に、その鳥は止まっていたのだ。その美しいくっきりと分かれた配色は、まぎれもなくその鳥であると、彼は悟ったのである。
 彼はしばらくの間、立ち止まって、その鳥を眺めていた。外観は以前一目見た時と変わらず、原色で構成される美しい姿である。しかし、何かが決定的に違う。初めて見た時の衝撃は、彼には感じられなかった。
 彼はがっかりした。魔性のように俺を虜にしたあの魅力は、何処へ行ったのだ。今までの努力は、只の浪費だったというのか。
 が、そう嘆くうちに、彼の中には、もしかしたら、この鳥が飛べば、決定的に違うと思った要因も見つかるのではないかという考えが湧いて出てきた。
 そこで彼は、鳥の近くに寄って、力いっぱい吠えて、鳥を脅かして飛ばせてみようと試みた。
 しかし、それは失敗に終わった。
 彼の咆哮によってはじめてその存在に気付いた鳥は、すぐさま飛んで逃げていくと思われた。反面、鳥はその瞬間、翼を広げ羽ばたこうとするも、よろめき、肉体の制御を手放し、彼の目の前に落ちてきたのだ。
 彼は、あまりのことに、何が起きたのか理解できなかった。
 
 数瞬の自失の後、彼は近づいて、鳥をよく見てみることにした。意識は失っているようだったが、まぎれもなく彼の鳥であった。だが、やはり依然として、あの時とは違う「何か」の正体は分からなかった。
 再び落胆すると同時に、彼はどうしても、あの衝撃をもう一度味わうことを諦められなかった。そこで、群れに鳥を持ち帰ろうと思い立った。
 ただ、問題は鳥を殺して食べず、生かしておくことに群れの他のライオンたちが反対するであろうことだった。
 一体どうしたものか悩んだ末、結局彼は、群れから辛うじて目に入る草原の中に、その鳥を隠すことにした。仲間たちはまだ眠っている時間帯だった。
 
 無事に鳥を草の中に隠すことに成功し、近くに伏せて様子を見ていると、数刻ののちに、鳥は目を覚ました。目の前に伏せてこちらを見る獰猛な肉食獣にひどく怯えているようだ。
 その様子を見て、彼は緩慢な動作で立ち上がり、叢の中で横たわりながらも警戒する鳥を見下ろして成長途上ながらも低くなりつつある声で話しかけた。
「なぜその翼で飛んで逃げようとしないのだ。」
「どうやら、木から落ちた時に翼を痛めてしまったようだ。逃げたくても逃げられない。」
「そうか。ではお前が飛べるようになるまで、俺が他の動物から守ってやろう。」
「お前のほうこそ、どうして私を食べないのか。私は空も飛べない絶好の獲物だぞ。」
「それは、お前の翼が美しいからだ。今食ってしまうのはもったいない。」
「??分かった。信じよう。」
 それだけ聞くと、彼は鳥を一瞥してのそのそと群れへと戻り、鳥のいるであろう藪のほうを向いて体を丸め、目を瞑って寝息を立て始めた。
 
 以降、彼は鳥に餌となる虫や爬虫類の死骸を与え、他の動物に食べられないよう定期的に様子を見るようにした。その生活は、二週間以上続いた。
「お前は、いつ頃飛べるようになるのだ。」
「分からない。存外、怪我が大きかったようで、まだ翼が痺れているのだ。できることなら、今すぐにでもこんな場所からは逃げ去ってしまいたいのだがな。」
 「なるほどつまり、お前は俺が恐いというのだな。」
 「当然だ。」
 「そうかそうか。では、精々早く翼を治して、飛んで逃げていくがいい。」
 そう言い、未成熟ながらも、鋭く、小動物を狩るには十分すぎるほどに堅強に爪の生え揃った前足で、鳥の麻痺し、折り畳まれた翼を小突いた。
 彼は、鳥と共に過ごす数週間の中で、鳥に対して友情を感じるようになっていた。

 彼が鳥を連れ帰ってから三週間程経った頃、朝方、群れの全員が寝静まったことを確認した彼は、鳥の様子を確認するため、静かに起き上がった。ここ数週間、それが日課となっていた。そしてこの時も、普段と変わりはないはずだった。が、一歩足を踏み出そうとしたとき、総勢十二頭に及ぶ群れから聞こえてくるばらばらな寝息の中から、突如一つだけ地鳴りのように低い声が聞こえた。
 「お前は、いつもこんな時間に、何処で何をしているのだ。」
 群れのリーダーだった。
 「いつも、とは何のことだ、親父。」
 「お前が、ここ暫く、毎日のように群れを抜け出していることには気付いているのだ。それで、何をしている。」
 「小動物を狩っていた。」
 「そうか、それは殊勝なことだ。――だが、群れの秩序から外れた勝手な行動は認められん。」
 「それはなぜだ。我々を襲う敵などいないだろう。」
 「喩え我々に敵という敵がいなかろうとも、だ。それに、食い物は雌達が捕ってきているだろう。兎に角、これからは群れから外れての単独行動はするな。」
 「――承知した。」
 群れがこの世界で生存するために必要である以上、そのリーダーの道理に背いて行動することは、まだ子供である彼にはできようもないことであった。勿論、事情を正直に話したところで、件の鳥が今晩の成果物の中に並べられるだけだろう。こうなってしまった以上、これからは単独での狩りは素より、鳥の様子を見に行くことすらもできない。そう絶望しながらも、鳥を思い馳せることしかできない、彼はどうしようもなく無力であった。
 
 一年が経ち、成体と成った彼とその弟たちは、群れを離れることになった。遂に群れの支配から解放されたのである。彼は何処よりも巨大な群れを作るという野望を決して忘れてはいなかったが、それ以上に気掛りであったのは、やはり彼の鳥である。嘗て鳥を匿っていた草野には、美しい翼を失い、無残にも骨格だけとなった鳥がいるのだろうか。或いは、もう其処にはいないのだろうか。それを確認しないことには、彼は心置きなく、野望に向けて進むことはできないのだ。
 彼は群れを出発し、真っ直ぐにその野草地へと向かった。
 しかし、そこに、鳥はいなかった。
 肉食獣に連れ帰られ、食われてしまったのか、翼の麻痺から復活を遂げ、どこかへ飛んで行ったのかは分からない。が、もし食われてしまったのだとしたら、それは紛れもなく自分が約束を反故にした結果、さらに言えば興味本位から脅して飛ばせてみようと行動した嘗ての自分の愚かさが招いた結果であり、とても申し訳なく思われた。
 彼は、暫くその場をじっと眺めた後、嘗て鳥がいたその場所に向けて頭を下げ、くるりと背を向けて歩き始めた。これから大きな群れを形成するまでは、弟たちと協力して獲物を狩りながら生活しなければならないのだ。

 彼らは、その日一晩狩りを続け、やっとのことで、逃げ遅れた子供のシマウマを一頭捕らえ、その中型犬ほどの大きさしかない獲物を分け合って食べた。満足のいく量ではなかったが、達成感からか解放感からか、群れで食べていたものよりも美味しく感じられた。
 今までやったことのなかった兄弟での狩りに疲弊した弟達は、小さな獲物を食べ終わると、直ぐに眠ってしまった。勿論彼もそうしようとした。しかしその時、彼の頭の中には、どうしようもなく恐ろしい考えが浮かび上がってきたのだ。
 先ほどは、もし鳥が食われてしまったのであればどう、ということしか考えていなかったが、もし鳥が今も生きているのであれば、もし鳥が俺のことを恨んでいるとしたら、もし鳥が俺の過ちを広めて回っていたとしたら、俺は何処よりも巨大な群れを作るなんて野望は達成できないのではないか。
 そう考えると、美しい翼で彼を魅了した鳥が、友情さえ感じていた鳥が、酷く恐ろしい、醜悪な恐怖の象徴のように思えた。
 「何か」などという、あるかどうかすら分からないものを確かめようと…もう一度初めて見た時の衝撃を味わいたいとさえ思わなければ――――
 彼の中に芽生えた恐怖は、彼の心を支配していった。
 
 それからの彼は、狩りを弟達に任せ、様々な動物に鳥について聞いて回ることに注力するようになった。しかしその間にも、恐怖は形を変えながら彼の心を着実に侵食していく。
 鳥は必ず生きていて、今も俺に対する憎悪に心を焼かれているだろう。一刻も早く鳥の行方を突き止めなくては。
 その思いとは裏腹に、一向に成果が得られないまま、一月、二月と、時は過ぎていった。彼は弟達の元に帰らず、肉を食らう事さえ忘れてサバンナ中を走り回って鳥を探すようになっていた。
 当然、そんな生活を長く続けることなどできない。限界は二週間と経たずに訪れた。
 鳥の所在を求めて彷徨う中、不意に、体に力が入らなくなったのだ。彼は、照り付ける日差しの中、丁度鳥を匿っていたのと同じような荒野に倒れこんだ。
「群れからはぐれて、食いっぱぐれてんのかい。獰猛な肉食獣のくせして、情けないねぇ。」
 どれ程時間が経ったか、何者かが彼に話しかけてきたようだった。彼は乾ききった瞼を開き、重たい首をもたげた。
「キリンか。こんな死にかけのライオンに一体何の用だ。まさかお前が俺の餌になってくれるわけではあるまい。」
「茶化しに来ただけ。それで、何でそんな所で飢えて死にかけてんのさ。」
「鳥を探している。奴は、俺を憎んでいるのだ。今もきっと、俺の悪評を広げて回っている。だから俺は一刻も早く奴を見つけ出して、この爪で喉元を?き切って、息の根を止めてやらなければならない。もしやお前は何か知っていやしないか。」
「――ああ、そうかい、君が。勿論知っているよ。あの鳥なら、死んださ。」
 やけに明るい声だった。
「そうであったか。なら、無用な心配であったな。」
 それだけ言うと、彼は全身の力をだらんと抜き、ぴくりとも動かなくなった。

20241018@Tochinoki Family Land

「廻る水槽」夢遊病者

序章 背反
 意識が微睡まどろみ揺蕩たゆたっていく。記憶は深い水底に澱となり、自我は水面を漂い次第に馴染んでゆく。動いているのか止まっているのか、生きているのか死んでいるのか。晴朗としているのか靉靆あいたいしているのかわからない世界で〝それ〟は胎動していた。それはその内に外界への憧憬と恐怖の相対する感情の渦を孕んでいた。それは卵であった。この世界にまだ何も成していない、何も与えられず与えてもいない存在だった。流れの存在しないこの空間では質量すらも与えられているか知りえなかった。その卵の胎動と成長という変化のみが世界に流れを生み出していた。未だ透き通ったままの種は解放という時間の檻の入り口で静かにその扉を叩いていた。扉が開けば種は胚となり這入るように新世界へと飲み込まれていった。それは水面の下で何かが蠢動を始めたようだった。
 
第一部 匍匐ほふく
 一つの透明なばねが巻かれては解けてを繰り返して進んでいる。それは私だった。
 夢の泥沼から這い出てみれば私は色の透き通った一匹の芋虫になっていた。ぶよぶよとして脆弱そうで矮小な、一匹で立てそうにもないひ弱な存在だった。生まれた時からだったのかいつからか変身したのか、夢を見ているだけなのか全くもって見当がつかない。ここが何処かも分からない。全ての音が私を遠ざけて鼓膜は耳の中に引き篭もっている。周りを見てみるとそこは水または透明な液体で満たされたただ静謐せいひつな世界があるだけだった。透き通っているのに奥行きすら見えそうにない程広く見える虚空の水中世界。私はその水底に這いつくばっていた。薄氷の張ったような足元の支えがどこまでも続いていた。空色の揺れる天井が酷く高く感じた。ゆらゆらと光を揺らめかせて虹色の片鱗を覗かせる水面はこの透明世界の片隅の隙間に色彩を閉じ込めているようだった。時々空を覆う天井から色が降ってくる。幾つかの色が降っては世界に馴染んで消えていく。それを見て私の身体は時々薄く色を帯びる。反射かもしれないし元からその色を持っていたのかも知れない。何れにしろ私はそれを呼吸するのと同じように受け入れていた。また、私は芋虫なのに水中で呼吸が出来ていることも同様に不自然と感じなかった。そもそも自分が本当に芋虫かどうか分からないこともどうでも良かった。ともかく私は自我が水に溶けてしまっていることが今は心地良かった。また、頭上の透明天井では小さな渦が廻っていた。見つめていると少し眩暈がして天地が捉えられなくなる。不安定になってしまうのだ。
 他に何か無いかと好奇の視線を周囲に泳がせると、ふとあることに気がついた。純粋な無色の高い天空が広がっている奥にガラス球のような球体の集まりが見える。その球体は世界を丸々閉じ込めた小宇宙のようだった。そしてその反対側の方角の地盤の遠く向こうにも同じような球体の集まりが見える。上の方の集まりは風に舞ってこの世界に招待されてきたようでそこの一点を起点に放射状に散開している。それに対して下の方の集まりはその光を宿す風船をただ無情にごくごくと呑み込んでいるようだった。同時にその地点付近では急な流れが生じているとわかった。どうやらここの水或いは透明な液体は定期的に〝入れ替え〟られているらしかった。同じ水なのに常にその中身は移り変わり続けている。なんだか不思議で可哀相だなという気持ちになった。自らの掌に収まりきらない未知、瞳の中に入りきらない広さの世界、頭の中では抑えきれない好奇心の洪水。何も無いように見える世界でも私にとっては些細なもの全てが新鮮であった。相反して、己の身体は愚鈍で未熟な茎塊けいかいの体で少しも動き回れないのだった。与えられたものは体をうねってずりずりとわずかな進行をする許しだけだった。そんな拘束に無力感を腹に蓄えるしかできなかった。世界に対する自己の存在の取るに足らなさを肥満した柔い肌で感じていた。そこにはただ匍匐する虫が惨めに憧れを腹と地の間ですり潰していた姿があった。それは外の世界を恐れる子供のようだった。
 
第二部 篭籠
 私は鳥籠の中に囚われていた。否、私が自ら引き篭ったのだ。私は青い衣に身を包みその硬い表面を殻のように固めて一つのさなぎとなっていた。この庵の外側の世界など知らないし知りたくも無い。今はただこの安息の巣に留まっていたいのだ。意識を全て衣に預けるとぐらぐらと不安定に、ふわふわと浮遊しているようでそれがなんとも走馬灯が脳を抱擁しているようで心地がいい。嗚呼私は今故郷にいるのだ。小さな揺籠に揺られているのだ。その内側は鯨の胎内のような籠でこれから生を与えられる卵の中なのか永遠の眠りにつくための死の棺桶の中なのか分からない背反の子宮なのだ。その籠の中はどろどろとした液体で満たされ体の部位がばらばらで判別が出来ないほどにぐちゃぐちゃに絡まり合い散らばっていた。それは様々な形と色をした子供用の玩具が乱雑に押し込まれたおもちゃ箱みたいで何故だか少し息苦しかった。腹は空くことは無かったが無性に喉だけは潤いを求めていた。その野生的で原始的な私の奥深くに眠っていた何かは主張するように私の中から籠の外へと自由か快楽かを求めて膨張を始めた。次第に故郷という楽園は檻となり自らの体積の成長を抑えつける枷となった。壁と皮膚の間で火が起こりそうなほどの摩擦を生み出してとうとう青い籠は決壊した。外は硬いが内壁は脆いらしく蛹はすぐに形を崩して私を解放した。その際糸が複数絡まって私を縛ろうとしていた。誰かが糸を引っ張っているようで違和感を覚える。蛹の外側はいつだって私一人の空間なのに透明な誰かがいるように感じる。そんな邪念から逃げるように私は傾いた両翅を広げて再び世界と邂逅かいこうする。そこから見えた世界は同じはずなのに何かが違って見えた。天空では前よりも大きな渦が廻っていた。水は絶えず入れ替わり続けている。

第三部 蜃気楼
 一匹の蝶が水中で無秩序に迷子のワルツを踊り、空を泳いでいる。私は一つの四角い水の檻籠の中を自由に泳ぎ翔けていた。水宙に舞う浮遊感で私は夢見心地だった。そこで私は白い胡蝶となっていた。表皮には鱗が生え、薄く光る金色の鱗粉を撒き散らしながら左右で大きさの異なるバランスの悪い翅で水を漕ぎ、六つの足をばたつかせていた。そしてその翅には鉄色と深川色が混じった灰色のグラデーションの模様がかかっている。瞳の内側の世界は世界が幾重にも重なって見え、特定の色以外は色を判別することが難しかった。ふらふら進んでいるとすぐに透明な壁に衝突する。方向を変えようと体勢を整えると自らの現在地と方向感覚がぼやけ魚眼から見える網膜の向こう側の景色のように曖昧になる。そして昔は広すぎて未知で満ちていたこの槽内は今や地に足のつかない生活と窮屈で狭い息苦しさから仮初の箱庭に成り下がったことを悟った。
 この水槽世界に舞い堕ちて来たと同時にこの世界には光陰が姿を現した。四角い空から眩い一本の光の針がこの方形体に固まった空間を貫く。その指のような針は少しずつ一定のリズムで傾いていく。それは円を描くように右回りに穏やかに、それでいて無感情に心拍のような律動で廻る。どこまでも真っ直ぐで永遠のように続くその光の道はいつしか見にくくなってしまった暗黒の泥沼のような水底の深淵を鋭く照り刺していた。この小さな海の底はもう何も見えない程に昏迷とした虚無であった。底がなくなってしまったのか別の冥闇の領域との出入り口になってしまったのかよく分からない。今は頭上からの光の白銀と水の透光性ある無色、眼下の漆黒の三原色がこの立体の透明なキャンパスを彩る色彩なのだ。私は昆虫の本能に盲従してその光を追い求める。離れないように必死にその輝く一軸の背中に食らいつき続ける。真っ直ぐに飛べず、常に浮遊していることから足跡もなく増しては光る鱗粉さえ底の幽暗に溶けるものだからこの世界でどう動き進めばいいのかを知らない私は自在に羽搏いていいはずの世界の中でただ光に縛られていた。それは私の意志だったのか本能なのか境目が混ざり合っていた。ふらふら羽ばたきに揺られているとまたしても壁に当たる。その時壁を見てみるとそこには逆さまの鉛筆が数本背比べをするように地の底に向かって突き出ていた。眼球をぐるりと回転させて水槽の壁を見回す。そこには秩序を持った文具達が整然と氷柱のように吊り下がっていた。色は識別できないが多彩な背の高さの違う鉛筆達が底の闇に向かって聳え立ち、所々に長方形の消しゴムが仁王立ちをし、コンパスが空に突き刺さり逆三角形をつくる。定規が眼下に高く伸び、筆箱が全てを見下ろすように佇む。全ての文具達の整列した文明の舞台は天地がひっくり返っていた。それは水槽の壁面に映った壁画のような、スクリーンの映像のような虚像だった。私の双方の水晶体にはそれが外の世界の全てのように映った。同時に外側からは潮騒が聞こえていた。私は光る軸から離れて四面の境界の壁に映る文明世界をよく見ようと四方を彷徨うろつく。その躍動は次第に空間内に流動をつくり増大させていく。それに加え今まで入れ替わり続けていた水分子達が一斉に勢いをつけたからか、気づけば私は大きな流れに身体を流されるままにされていた。最早抵抗はできない程の嵐のような奔流に私は呑み込まれた。耳中には残響する濤声とうせいがうずまいていた。
 再び目を覚ますと嵐は止んでいた。しかし天井で廻輪をなぞる渦は以前よりも大きくなっていた。水槽の内と外の境界に姿を写す蜃気楼の文明は未だ健在だった。半透明の壁に近づいて目を凝らしてみる。その像の奥には無数の穴が見えた。それは二つで一つの組を持ってまばらにおびただしいほど散在していた。その穴に吸い込まれそうな微かな悪寒を覚えつつも私は外界への願望を一層強めるのであった。
 
第四部 追放
 この水槽は水で満ちている。しかし、それは透明で無味無臭のものである。つまりはこの空間は満杯のように思えて空っぽなのだ。ただ此処には虚しさだけが充満しているのだ。私は己の生への皮肉を抱き、この世界への憎悪が冷たいガラスの刃となって尖る。目に映るもの、頭で浮かぶもの万物に対する感情が黒い渦となってうねり乱れる。そんな私の心海の荒波に呼応するように水槽の底から黒い闇が這い上がってくる。その暗黒はみるみると水槽を蝕んでいって透明世界を深黒の虚無へと変容させる。元から虚だったこの四角い世界は今の方が浸っていて心地が良かった。それは渇きを満たし瘴気が溢れた浴槽に裸で浸かっている気分だった。私という白はあらゆる腐敗した穢れと忌憚きたんな邪悪の黒を吸い取って汚れ染まっていく。私は泥中の蓮だった。そしてその泥と汚れで重くなった体は沈むように底に向かって堕ちてゆく。次第に呼吸ができなくなってくる。この息苦しい黒が満たす部屋で溺死するならそれは私らしいなと思った。しかしその時、何処かで押し殺した叫びが漏れたような鋭い音がした。それは遠くの天井からのように感じられた。すると同時にこの真っ黒な闇夜の空に光の柱が建てられる。徐々にその鋭い声は伝染していくように増殖し光の柱は線となりカーテンのようにたなびきながら長さと領域を広げる。その様は夜がこわれてゆくようだった。無数のひびが入ったことでこの空間内の光の屈折率が高まりこの図形体は一時的に多面体となる。幾つもの面を持ち、あらゆる光を捻じ曲げるその水槽は最早原型が崩れる過程にあった。私は解放を希って天に向かう。しかし、脚下の闇が冷酷な抱擁で心臓を掴む。まだ翅と鱗は背反しているのか。私はその枷を引きちぎって高く飛翔する。天井に辿り着くとその水面下は鏡界であった。初めて姿を見る自己は思いの外体が肥えていた。そのことに一瞬震撼するも私は私と睨み合って境界線で融解し、空の境界を越える。そして私はこの伽藍堂を抜け出した。こうして私は枯れない苦い果実を齧ってかつての楽園を追放されたのだった。

終章 円環
 翅虫は囚われていた己の水槽から脱した。しかし、それは翅を持つにも関わらず飛び方を知らなかった。何もできない無力感に塗れながらそれは長い尾羽おびれを靡かせて落ちてゆくだけだった。
 一人の人間がそんな様子を上から眺めていた。彼はそれを嘲笑わらっていた。

 私は目を覚ますと大きな水槽の中にいた。頭上で渦が廻っている。円環のように。

20240915@Yokohama War Memorial Tower

「軍人と農家」インド洋

 またあいつが来ていると思った。
 基地への入口、そこから先はもう米軍基地への入口だという所の目の前にいつもの男がいた。
 飄々とした背丈と笑顔、作業服に麦わら帽子。俺はため息を吐くしかない。
 俺はゆっくりと相手に歩み寄った。相手は俺に気付くとその顔をこちらにゆっくりと向け、言った。
「こんにちは、軍人さん。今日も持ってきましたよ、獲れたての夏野菜」
 頭を抱えた。

 俺は在日米軍に所属する軍人だ。昔から軍人になりたいという明確な夢があって軍人になったわけではない。だが、まあ色々あって軍人になったというだけだ。俺はそんな奴でしかない。軍に入ってから早数十年が経とうとしているが、未だにしがない一等兵でしかないという、軍人としての才能の無さを常々実感させられている今日この頃である。
 元々俺はアメリカ国内の軍に配属されたのだが、配属されて二、三年経ったある日のこと。日本に異動し、そこの米軍基地に入るように言われた。特に断る理由も俺には見つからなかったため、二つ返事でそれを了承。俺はそれから数十年間の間、この日本という国で米軍軍人をやっている。
 俺のいる基地は日本の中でもかなり田舎の牧歌的なところにある。なんといっても、駐屯地から出て少し歩くと畑や田んぼが乱立しているような所だ。住んでいる人もかなり高齢の人が多い。コンビニなんてものはなく、歩いて行けば川と田んぼしかない。そんな辺境の自然豊かな日本の基地に俺は配置された。
 その宣告は突然だった。
 基地についた日。俺は基地にいる上官に挨拶に行くことになっていた。しっかりと服装を整え、上官と相対する。その上官は少しひげがある三十代ぐらいのふくよかな体型の男だった。
「本日からこの基地に配属されます、一等兵の―」
「ああ。知っているよ」
 名前を言う前に遮られた。
 上官は少し面倒くさそうに煙草をふかし始めると、おもむろに書類の入ったファイルを取り出した。
「これがここでの仕事だ。こんな田舎にある基地だ。小さい上に、軍事設備もほとんどない。その辺の大規模な基地へ物資を供給するぐらいが主な仕事になるだろうよ」
 俺はファイルを受け取り、中を軽く見た。なるほど、確かに本国で渡された資料の量の三分の一以下だ。基地の規模も小さい。
「まあ、とりあえず物資供給は慣れてきてからでも全然問題ない」
 そう言うと上官はもう話すことは無くなったとばかりに遠くの景色を見つめ始めた。
「了解しました」
 俺はそう言ってファイルを持ち、部屋を離れようと背を向けた。
「ああ、悪い。言いそびれていたことが一つある」
 急に上官が言った。先ほどとはまた少し毛色の違う面倒臭さを顔に漂わせていた。
「お前も明日から会うことになるかも知れないからな。文句を言われる前に先に言っておく」
 上官は煙草の煙を口から出した。
「妙な、というか変な男がいるんだ。そいつと会ったら、悪いことは言わない、話をすることなく追い払え」
「妙な男ですか」
「ああ、そうだ。この基地の近くに住んでいる農家でな、ほぼ毎日自分の育てた野菜をここに持ってくるんだ。しかも出来損ないの不良品野菜をだ」
「はあ」
「厄介なことにその男、用がなくてもここにきて、俺たちと話そうとするんだ」
「それは大変迷惑な話ですね」
 部屋が煙草臭くなってきた。
「迷惑極まりない話だろう。大体十分ほど立ち話をしてやるか、野菜を受け取るかしないと帰らん。あいつの相手をするだけ時間の無駄なんだが、相手をしないと帰ってくれない」
 上官はちらりと俺を見やった。
「普段はなんとか追い払って事なきを得ている。お前も、会ったら追い出せ。それだけだ」
「了解です」
 その日はそれだけだった。
 案外、その日はすぐに訪れた。
 俺は入口にいる警備員と話をしていた。始めてきたばかりで建物の配置が覚えられない。何より、俺は致命的に地図を読むのが下手糞だった。
「すみません」
 急に声がした。どこからかと思えば、それは基地の外である。
 農家姿の男が野菜の入った籠を抱えて立っていた。
 直感でこいつだと俺は思った。
「ああ、また来たか。あいつ、何度追い払っても来やがる」
 警官が悪態をつく。俺はその農家を見た。
 どこにでもいる普通の農家だ。青色の農業服に軍手をしている。異質なのは頭に被った大きな麦わら帽子と足に履いてる下駄だ。なぜ農家なのに下駄をはいているんだ。
「あれ? 見ない顔ですねあなた。新入りですか」
「余計なことを言うな。次来るようなら本当にお前を警察に突き出すぞ」
 警備員が農家の男に言った。
「あなたに話しかけたんじゃありませんよ。私はそこの軍人さんに話したんです」
 ああ、俺だと思った。何でこう、俺はこういう面倒くさくてやばい奴に絡まれるんだ。
「そこの軍人さん、あなたは新入りですか」
 頭を抱えながら俺は答えた。
「そうだよ。一昨日来たばっかりだ」
 何で答えたんだよ俺。上官の言葉を思い出せ俺。追い払え俺。
「ああなるほど。どうりで見たことない顔だと思いました」
 俺は警備員に軽く耳打ちをする。
「ここは俺が適当にあしらっとくんで」
「は、はあ」
 もう覚悟を決めるしかない。俺は基地の外、門の向こう側に出た。

 よほど気に入られたのだろう俺は。迷惑なことにあれ以降毎日基地に来るようになった。野菜を持たない日の方が持っている日の割合よりも多い。今日は持っている日だった。
「どうですか? このトマトとか。割と自信作なんですよ」
「いや、色はいいが形が不格好すぎるだろ」
「ええ、ですから不良品野菜です」
「なんでそんなもん俺に渡そうとするんだ」
「日頃のお礼です」
 いつもこの調子である。
 話してみると分かるのだが、この男、いつも笑顔を絶やさない。口調も少し笑いが混じっているせいか、ここまでくるともはや奇妙を超えて恐怖である。あいにく俺は恐怖というより奇妙だなという気持ちの方が勝っている。
「トマトだけじゃない、キュウリもナスも全部不格好だ。お前は普段どんな状況で野菜を栽培しているんだ」
「よく日光に当ててます。それから肥料を与えて水を与えて―」
「もういい、俺が悪かった」
「え、いいんですか。まだありますよ」
「それはどの農家でもしている当たり前のことだろ」
 話していると呆れのほうが勝つ。疲労感がすごい。こいつの相手をするようになってから、俺は入眠までの時間が五分にも満たなくなった。
「こんなに僕が精魂込めて作り上げた野菜を酷評するということは、軍人さん、野菜が嫌いですか?」
「違う違う。野菜は好きだ。ただ見た目がよくない」
「見た目ですか」
「そうだ。お前が普段食べている野菜はこんなに不格好なのか?」
「ええ、なにせ自分で自分の作った不良品野菜を食べるので」
「もういい、聞いた俺がバカだった」
 俺は本当に頭を抱えた。なぜ俺がこいつの相手をしなくちゃいけないのだ。そう思いながらかれこれ数十年が経ってしまった。俺はこの農家を追い払うことが未だに出来ない。
「あのな、見た目が悪いとそもそも食指が伸びないだろう。普通の人ならな」
「まあ、分からんでもありませんね。この野菜を食べる人の気心がしれませんよ僕は」
 ここに鏡があったら、鏡をこいつに向けていたところだろう。
「それに、一応おれはここで働いているんだ。何度も言うが職務妨害だぞ、お前のこの行為は」
「まあまあ、僕みたいな奴と話すのも仕事のうちですよ。軍人さん、ほとんど僕と話す以外仕事ないでしょ」
「そんなことはない。こうしている間にも俺の貴重な仕事の時間はお前に吸われていくんだ」
「いやあ、嘘はよくないですよ嘘は。あるけどそんな大した仕事は無いんでしょう? こんな田舎にある基地にそんな仕事があったら大変だ」
「人手を欲するところはいくらでもあるさ」
 俺は汗を軽く拭った。日差しが明るい。
「とにかく、もう来るなよ。警察呼ばれても俺はしらないからな」
 そう言って俺は基地の中に門を潜って入っていった。
「ええ、ではまた明日お会いしましょう軍人さん」
「だから来るなよ」
 大きなため息を吐く。このやり取りを、何千回と繰り返している。

 昼食は基地内にある食堂でとるのが普通だ。最も、この基地内以外に食事を獲れる場所はない。
 その辺の空いている席に座るとコーヒーを一口飲んだ。少し苦い。
「あれ、今から昼かい」
 顔をあげると同期がいた。確か数年前に念願叶って軍曹にまで上り詰めたやつである。早ければ今年中に大き目の基地に移動するという話が上がっていたはずだ。
「お前か。まだ移動してなかったのか」
「まあな。少しやることが残っているんだ」
 そいつは俺の目の前に座るとパンを食べ始めた。
「そういや、お前今朝もあの変人の相手してただろ」
「あ、ああ。あの農家のことか」
「いつもご苦労なことだ」
 俺があの農家に気に入られて以来、あの農家が来たら俺を呼ぼうだとか、あの農家の相手は俺だとかいう考えが広がり、「農家の相手=俺」という方程式が完成してしまった。小さい基地だ、配置されている人の数も少ない。そのため、噂が広まるのも異様に早い。方程式が完成した当初はやめるように皆に言っていたが、いつ頃だったからか、訂正していくのをやめた。
 軍曹は口に残りのパンを詰め込み、コーヒーを飲むと俺に言った。
「気をつけろよ。やばい奴だろうあれ。相手するときは武器を携帯しておくことだな」
「持ってるさ、それくらいな」
 俺は自分の腰につけられている一丁の拳銃を軽く見た。未だに発砲したことのない、使い古している形跡のない新品同然の拳銃だ。
「そうか。それならまあいいんじゃないか」
 軍曹は飯を口にかきこんだ。気づけば、そいつの昼ご飯はもうなくなっている。
「お前も色々と大変だな。まあ、頑張れよ。俺はちょっと仕事行ってくるわ」
 軍曹は言った。俺は小さくため息をつくと、コーヒーを一口飲んだ。ぬるくなっていた。

 一日だけの休暇を申請したのは二週間ぶりだ。
 一人が一日だけいなくても問題はないだろう。そう思った俺は、配属されて一月後に休暇を申請してみた。案外すんなりと了承の返事が返ってきたのを未だによく覚えている。ここ最近は書面での申請にしているが、その日の間には返事が返ってきている。ありがたいことにはありがたいのだが、少し不安にもなる。
 基地入口の門にいる警備員に軽く挨拶をして、俺は車を走らせ始めた。行先は、少し走った山の方にある行きつけのゴルフ場だ。
 俺は幼いころからゴルフをやっていた。趣味程度にしか嗜んでおらず、そんなに上手な方でもないがストレスが溜まったり、悩み事があったりする時には必ずゴルフをしていた。激しい動きもなく、個人プレーときた。誰にも邪魔されずに一人気ままにゴルフをする。休暇の時は大体こうしている。
 ふと、窓の外に目を向けた。俺の家の周りでは見ない風景。だがこの田舎の空気というものは、心が穏やかになる。そう思って、近くにある畑を少し見つめていると、俺はその畑の中に違和感を見つけた。
 車を路肩に止めて、畑に近づいてみる。違和感はすぐに見つかった。
 畑のそばでカエルが息絶えていた。
 俺はあまりカエルには詳しくないが、ほとんどの場合、畑にとってカエルが有益であることは知っている。何をしているんだここの農家はと俺は心の中で毒づいた。畑の隅の方に俺はカエルを埋めた。

 行きつけのゴルフ場は人の集まりがそこまで多くない。こんな田舎にあるゴルフ場だ。集客率はたかが知れている。
 受付を通り、必要な荷物を持ってゴルフ場に行くと一人だけ先客がいた。そのサンバイザーには見覚えがある。たまに見かけるゴルファーだ。
「どうも」
「…ああ、どうも」
 俺はその人に軽く挨拶をした。返事は素っ気ないが、返してくれるだけましだろう。何より、そのベタベタとしない雰囲気が良い。
 そのゴルファーは、俺がこのゴルフ場に通い始めた時にはすでにここの常連客となっていた男だった。全身黒の服装にサンバイザーをいつもつけている。夏場になるとサングラスをかける、四十代後半くらいの中年の男だ。
「…最近よく来ますね」
 ゴルファーが言った。俺は打つ準備をしながら、ゴルファーの方を一瞥するとすぐに作業に戻った。
「ええまあ。最近少し疲れることが多くてですね。休暇申請の回数が増えたんです」
「そうですか」
「まあ、そういうこともあります」
「ええ、本当に。上手くいかないことだらけです」
 俺は一発打った。
 ホールインワン。
「さすがですね」
 後ろから賞賛が送られてきた。俺は小さく会釈する。次はゴルファーの番だ。俺たちはゆっくりとボールのところまで歩いて行った。平日だからだろうか、いるのは俺とゴルファーの二人だけだった。
「…私も上手くいかないことだらけですよ」
 ゴルファーは小さく言った。柔らかな日差しが俺たちを照らしている。ボールはまだ見えない。
「仕事でもそうです。今の仕事についてから今まで、ずっと疲れるだけで」
「分かります」
 ゴルファーのボールが見えてきた。
「仕事は何ですか」
「私のですか」
「ええそうです」
「一応軍人です」
「ああ、どうりで」
 ゴルファーが打つ準備を始める。こちらを向くことなく、ゴルファーは淡々と俺と話した。
「軍人さんだったんですね。こんな平日にこんな場所にいて大丈夫なんですか」
「大丈夫みたいですよ」
 ふと、ゴルファーが打とうとする姿勢をやめて、俺の方をゆっくりと見た。
「軍人でも悩むんですね」
「軍人だからこそ悩むんですよ。階級が上がらないだとか、僻地に飛ばされたとか、戦場に行かなきゃいけなくなったとか」
「戦場に行きたくないんですか」
「まあ。誰でもそうでしょう」
 ゴルファーはこちらから目を背けた。再びボールを見つめる。
「軍人さんも大変ですね」
「え?」
 ゴルファーが打った。見事にカップの中にゴルフボールが入る。俺はそれを見つめた。
「なんでもありません。次はあそこから打ちましょう」
 ゴルファーはそう言ってゴルフボールを拾い上げた。
 俺はゴルファーの後に続いた。

 基地に戻ってきたときには夕方だった。ここまで熱中してゴルフが出来たのは一体いつぶりだろう。
 夕ご飯を食って自室で伸びていた。眠いわけでもないが、他にやることがない。休暇の時はいつもこんな感じだ。人間働いていないと不安になるというのは本当らしい。
 夜になっても眠れる気がせず、俺は起き上がり外に出た。散歩にでも出よう。
 警備員に軽く会釈する。俺が来た時の警備員は定年で数年前にやめた。新しい警備員は前の警備員以上に大雑把で適当だった。
「まあ、適当な時間に帰ってきて下さい」
 新聞をコーヒー片手に飲みながら返事が返ってくる。俺はまた小さく会釈をして基地の周辺を散歩した。
 基地の近くには小さな川があった。川辺にはベンチがある。
 今日は満月だった。俺はベンチに座って月を見上げる。
「酒が欲しいな…」
 俺は呟いた。大きなため息が口から出る。
「あー、疲れたな。軍人やめてぇな」
 大きな声で叫んだ。
「あれ、軍人さん?」
 ぎょっとして俺は道路の方を見た。いつもの農作業服ではないが、見慣れた顔がいる。
「ああ、お前かよ…」
 農家だった。いつもの下駄は忘れていないのが憎たらしい。
「こんな時間に何してるんだよ」
「ちょっと人に御呼ばれしましてね、その帰りです」
「飲み会かよ」
「そんなもんです」
 農家は言った。思い出したかのように、俺に何かを手渡す。ビールだった。
「私は日本酒派でして」
「ああ、そうかいどうも」
 ちょうど飲みたかったとは口が裂けても言えなかった。
 心地のいい音を立ててビールを開ける。ぐいっと流し込んだ。冷たくておいしい。
「やめるんですか、軍人さん」
 しまった聞かれてたのか。だが、すぐに俺は平常心に戻った。
「やめねぇよ。せっかく軍人なんかになれたんだ。今更やめるわけにはいかない」
 同僚の顔が思い浮かんだ。それもビールと一緒に飲み込まれていく。農家の方は一度も向かなかった。視界に入ってくるのは、大きな満月と小さな川だけだった。
 農家が隣のベンチに座る。何も話すことはなかった。
「大変ですねぇ軍人さんも」
「何だ。お前も農家辞めたいのか」
「いやぁ」
 こいつに言ったのが間違いだった。どうやら、俺は少し酔っているらしい。
「ああ、そういえば聞いてくださいよ。誰かが僕の畑に今日カエルの死骸を埋めたんですよ。嫌がらせとしては悪辣すぎませんかね」
 こいつはどうしてたまに自分のことを棚に上げて人のことを話すのだろう。
 俺は酒を少し飲んで言った。
「もしかするとそれは俺かもしれん」
「軍人さんでしたか。酷いですねぇ、軍人ともあろうお方が一般人に嫌がらせですか」
「どの面が言うんだよ…」
 もはやどう返答して良いのか分からなくなってきた。
「そもそもなお前、死んだカエルを放置するなよ。ダメな農家だって思われるだろう」
 酔いが回ってきたのか、普段よりも自分が饒舌になっていた。農家の方は相変わらずの笑顔でこちらを見ている。それがまた何となく癪に障る。
「昔からカエルっていうのは畑仕事においては益虫って言うだろ。カエルは虫じゃないけど」
 気付けばビール缶は空になっていた。もう少し味わうべきだったかもしれない。そう思って、俺が缶の底を見つめていると農家は言った。
「いや、カエルなんて世の中に一体何匹いると思っているんですか。たかが一匹死んでいたぐらいで埋めるなんて」
「たかが一匹っておい」
「だってそうでしょう。多分最近僕の畑に出入りしていたカエルでしょうけど、そいつが死んでも代わりがまた来ますよ。だから埋めるほどのことじゃないですよ」
「…」
 何だかモヤモヤする。
 ビールの効果だろうか、眠くなってきた。あくびが出てくる。俺は空になった缶を抱えたまま立ち上がった。
「帰るんですか。じゃあまた明日」
 振り返るとベンチに座ってこちらに手を振っている農家が見えた。どうしてそんなに親しい仲だと思っているのだろうか、不思議でならない。
 俺は基地に帰った。酒の効果だろう、すぐに寝れた。

「帰国ですか」
 あれから数日、俺は上官に呼び出された。この基地を離れて本国に帰れと言う帰還命令だった。俺みたいなただの一等兵が帰還命令の対象になると言うことは、もしかすると解雇宣告かもしれない。
 俺がここにきた時の上官はさらに大きな基地の方へ移動していった。もう何年も前の話だ。今、俺の目の前にいる上官は俺よりも若かった。
 上官はこちらを見ない。新聞を広げながらタバコをふかしている。部屋の中は、俺が来た時からずっとタバコの匂いで満ちていた。
「早ければ今日にでも帰国してもらいたいそうだ」
「そうですか」
「異論はないな」
「はい」
 俺は敬礼をすると、部屋を退出した。

 警備員に挨拶をすると、俺は荷物を持った。荷物の量はそれほど多くないと踏んでいたのだが、思っていた以上に多い。あの小さな部屋に一体どうやって俺はこの量の荷物を入れたのだろう。
「軍人さん、どうも」
 声のした方を向く。いつもと変わらない服装で農家が立っていた。
「あれ、その荷物は」
「ああ、帰るんだよ、国へな」
「そうですか。でしたら、これをどうぞ」
 そいつは何かを俺に差し出してきた。
 夏野菜だった。それも普段のものと違い、とても綺麗な形をしている野菜だった。
「お別れになるんだったら丁度良いですね。綺麗な野菜ですよ」
「じゃあ、ありがたく貰っていくよ」
 俺は野菜を受け取る事にした。なぜかは自分でもよく分からない。
「じゃあな」
 俺は基地の外に出て、振り返る事なく農家に言った。
「では、またいつか」
 農家の声が聞こえた。構わず俺は歩き続けた。

 空港へ向かうためのバスを待つ。初夏。日差しが照りつけてくる。俺以外にバスを待つものは誰一人としていない。
 手に持った野菜をみる。綺麗な形をした夏野菜だ。俺はキュウリを手に持った。重みがある。一口齧ってみた。水気は多いが、味はほとんどない。味が抜けている。
 まさにあの農家らしいなと俺は思った。

20241110@Under the Kanagawa Route 3 Kariba Line

「私の心に咲いた花」鮎

私は笑わない。いや、正確にいえば笑うことができない。
 目に見えぬ死神が私の喜怒哀楽、そしてその他全ての面様おもようを奪い去っていった。泣くことも、怒ることも、喜ぶことも、すべてが遠い過去のものとなり、心の奥底に封じ込められている。
 人はそんな私を「取るに足らない人」と呼ぶ。哀れみの目を向け、時には蔑む。しかし、私がこうなったのにも理由がある。それを思い返すのは、あの年の夏の出来事からであった。

 太陽がじりじりと世界を照らし始めた頃、私は突然、絶望の谷底へと突き落とされた。
 その日、大学から疲れ果てた身体を引きずるようにして家に戻ると、部屋は乱れるように荒らされ、リビングにはただ泣き崩れる母がいた。玄関に目をやると、父が母より若く美しい女性と共に家を去る瞬間が視界に飛び込んできた。私は呆然と二人の背中を見つめていた。何が起こったのか、全く分からなかった。
 今になってようやく思う。父には母よりも大切な人ができたのだろうと。しかし、その時の私は気が動転し、現実の意味を理解することすらままならなかった。
 その後、愛する夫を失った母は、現実の衝撃に耐えきれず、狂気の谷底へと沈み、そのまま私一人を残してふらふらと暗闇の中へ姿を消した。
 一瞬にして、私の中で愛を信じていた両親が崩れ去った。育ててくれた彼らへの感謝の念も湧かぬまま、家族は瓦解した。
 当時、大学一年生だった私は、三年付き合っていた彼氏の家に身を寄せるしかなかった。けれど、数日後、優しかった彼は私を冷たく見つめ、「別れよう。」と単調に告げ、私を家から追い出した。
 久々に彼の家の前を通り過ぎると、そこには見知らぬ新しい女がいた。その女もまた、父のときのように若く美しかった。
 今でも鮮明に覚えている。そのときの私は再び孤独の中へ放り出された感覚だった。

 あの絶望感を思い出す度に心の奥底に沈んだ感情が微かに揺れる。だが、そんな感情もまた、死神の手によって封じ込められている。
 何をしても、何を言われても、私の表情は動かない。日々が繰り返される中で、私は生きることだけが宿命となっていた。
 そんなある日の午後、何の変哲もなく、凡庸な日だったのにも関わらず、予期せぬ希望の光と出会うことになる。
 それは暗闇の中で一筋の光が差し込むように私の心を照らし続け、いつしか運命を変える存在となったのだった。

日常は同じページを繰り返し読むかのように単調である。毎日、大学に通い、空いた時間には静かに自習を重ねる。その間に人と言葉を交わすことはない。無論、私自身も教室では誰とも関わらない窓際の一番後ろの席を選ぶ。
 今日もまた、そんな代わり映えのない日が続くはずだった。いつものように空いた時間を自習に費やし、次の講義へと向かう。特等席に腰を下ろし、教授の到着を待っていると、今日は不意に騒がしい男が私の隣に座ってきた。
「お隣さん! よろしくね。今日何やるんだろうね」
 彼はまるで子犬のように興奮して足を動かし、ボールペンを鳴らしていた。教授が教壇に立ったときも、彼は変わらず眩しく笑っていた。
「聞いて聞いて。あの人絶対語尾に”ね”って付けるんだよ、前なんか五分に七十八回だぜ。面白くね?」
 おそらく私に向けて話しているのだろう。私の様子を伺いながら、返答を待っている。今日、初めて他者と言葉を交わすという状況に、私はひたすら彼を見つめることしかできなかった。
「あっ、ごっめん、忘れてた。名前なに? 俺、ひいらぎ紫苑しおんって言うんだけど」
「…あ、えっと。あんず…です」
 咄嗟に詰め寄ってくる彼にかすれる声が出る。彼は一瞬も躊躇せず、再び太陽のような輝く笑顔を浮かべて親指を突き出し、元気よく言った。
「杏な、よろしく」
 初対面の彼の印象はとても最悪だった。

 それから彼はまるで磁石のように講義の度に私の隣に座ってくる。彼の絶え間ない話しかけに対する短い返答も、次第に私の日常の一部となっていた。私の役目は彼が満足する程度の簡潔な言葉を返すことだけ。
「杏、レポート提出した? 俺忘れたわあ、絶対単位落としたー」
「紫苑くんはいつもそうだね」
 私は目を合わせずに淡々と応じる。それでも彼は満足した様子で話を続けていた。講義が終わり、部屋を出る際も、彼が後ろからついてくる光景は代り映えがなかった。
 歩いている間、彼は真剣な表情で私を見つめている。何か言いたげなその眼差しに、口を開くまで私は静かに待っていた。
「杏、ずっと気になってたけどどうして杏は笑ったり、困ったりしないの?」
 その問いは、私の心に氷の刃を突き立てた。瞬間、足元がすくんだ。あの頃の思い出が蘇り、再び暗闇が絶望の谷底から私を飲み込もうと手を伸ばす。
 私はその場に立ち尽くし、言葉を失ってしまった。けれど彼は何事もなかったかのように笑い、「よしっ」と声を上げると、私の腕を掴み全速力で走り出した。
 戸惑いながらも凍りついた足は、いつの間にか彼の温もりに導かれるように動き始めていた。
 その時思った。彼と一緒なら、私は絶望の谷底から救い出されるのではないか、と。

 数ヶ月後、澄み切った空は青く透き通り、通り過ぎる人々は暖かい上着に身を包んでいた。講義を終えた私は、彼を食堂に呼び出した。彼は光り輝く笑顔で私の言葉を待っている。深呼吸をし、絶望の谷底へと顔を突っ込む。そして、彼に笑われるほどの勢いで全てを話した。一年前の夏に起きた出来事、それ以来感情が表に出なくなり苦しんでいること、最後に、絶望の谷底から抜け出したいという切なる願いを。
 彼は最初、私の急な告白に驚いた様子だったが、話が進むにつれ、涙を流しながら真剣に耳を傾けてくれた。言葉が尽きるころには彼の目からは大粒の涙が溢れ出ていた。
 感情を全て表に出す彼を見て、少し羨ましさを感じる。
 しばらくして、彼は頬を伝う涙を拭いながら言った。
「話してくれてありがとう」
 私が頷くと彼は言葉を続けた。腫れた赤い目を細め、いたずらな笑みを浮かべながら。
「杏、俺が君を笑わせるよ。」

 それ以来、私に対する絡みを急激に増やしていった。時の流れと共に、彼との日常が当たり前のものとなり、心の奥に潜む孤独に怯えていた私も、次第に彼の存在によって温められていることに気づく。彼の存在は、冬の名残を消し去る春に咲く桜のように、私の心を優しく包み込んでくれた。おそらく、この時点ではもう手遅れだったのかもしれない。

 彼と話すうちに、彼の嗜好が明らかになっていく。彼は花を愛していた。花を見つけると、香りを楽しむために近寄り、私が知らない花についてはその花の花言葉まで教えてくれた。
「この花は草木瓜くさぼけといって春に咲く花なんだ。果実は秋に実るんだけどね。酸っぱくてそのまま食べるのは向いてないから、お酒に漬けたらおいしいのかもねー。あ、確か、花言葉は『一目惚れ』だったと思うよ。」
 きっと話している本人は気づいていない。彼の最後の言葉が私の心臓を弾ませていることを。
「ねえ、知ってた? 全ての花には花言葉がついてるんだよ」
 そう言いながら、愛おしそうに草木瓜を見つめる目には無限の愛が宿っていた。私がいつまでも見ていたいと切実な思いを抱いた瞬間だった。

 明日は長崎にいる私の祖母の八十歳の誕生日。両親が姿を消して以来、祖母は私の元にしばしば訪れるようになったが、年齢を重ねるごとに東京に来ることが厳しくなり、元の家で生活を続けていた。いつも私を思いやり、電話をかけてくれるその声は、何よりも優しさに満ちていた。
 祖母への贈り物は花にしようと決めている。感謝の思いを伝えたくて、彼にお願いし、手を引かれながら大きなショッピングモールの中にある花屋へと向かった。
 そこには想像以上の花々が色とりどりに並び、それぞれが独自の香りと花言葉を宿して、生命の輝きを放っていた。
 花たちは、私たちの目を引こうと背筋を伸ばし、無邪気な笑顔を振りまいている。
 私は『感謝』という花言葉を持つピンクのバラとカーネーションを選んだ。その一輪一輪に祖母への思いが深くこもっている。

 店を出た私たちは花の香りに包まれながら近くのカフェに足を運んだ。穏やかな雰囲気の中、流れるピアノの音色が心地よく響く。コーヒーとオレンジジュースを片手に、他愛のない話題に花を咲かせた。彼についてもっと知りたい、彼ともっと話したいという気持ちが、いつしか私の心の中で膨らんでいく。
 話題は尽きることなく、大学のこと、花のこと、そしてお互いの過去まで語り合った。
 時間が経つのを忘れるほど会話が続き、楽しい時間が続いたが、気がつくと一時間以上が過ぎていた。突然、外が騒がしくなり、店内のスタッフも慌ただしく動き回る姿が目に入った。
 なぜだかわからない。でもあの父が女と出ていった日のような胸騒ぎがした。足早に席を立ち、外に出ようとお会計を済ませようとしたときだった。
 大きな警報音がショッピングモール全体に響き渡り、私の頭の中が真っ白になった。従業員の大声が混乱の中で飛び交い、逃げ惑う人々を誘導しようとしている。
 彼も私の手を掴み、外へ向かって全速力で駆け出した。彼の力は私を必ず守るという強い意志に満ち、心を溶かしてくれたあの日の優しさとは異なり、まるで命をかけるかのようだった。
 外に出たとき、私の腕は彼の手から開放された。ふと腕を見れば、彼が守ってくれた痕跡がまだ赤く残っている。
「隊長。まだ中に子どもが二名、大人が二名取り残されています。」
「場所はどこだ。」
「三階ということしか、まだ。」
 隣にいた消防士がそんな会話を繰り広げていた。私と彼の心には同じ光景が浮かんでいた。三階。あのカフェで私たちの隣に座っていた家族だ。
 来週の旅行について微笑ましく話していた、その印象が忘れ難かった。
彼は私を見つめる。
「ん? なに?」
 その瞬間彼は私を抱きしめた。何がしたいかはもう言葉を超えて、伝わってきている。
「だめだよ。行かないで。紫苑が危ないよ。」
 彼は今までにないくらいの力で私を抱きしめた後、火の中へと向かっていった。
 彼の背中が遠ざかっていく。彼を見たのはその日が最後となった。

 彼の部屋は、静けさだけを残していた。彼がもうこの世にいないという事実が、ふとした瞬間に私を包み込み、その冷たさを無情に感じさせる。
 私は彼と出会ったことで、必ず何かしらの感情が湧き上がると信じていた。しかし、現実はそんな安易な予想を裏切り、何も感じることのできない自分がいた。
 彼のお葬式にも足を運んだが、涙は一滴も落ちなかった。痛みや喪失感で胸がいっぱいなはずなのに、私はただ空虚な思いに沈むばかりだった。
 遺品整理を手伝うことになったのは、彼の両親からの頼みであった。理由はよくわからなかったが、彼の母親が「どうしても杏ちゃんにお願いしたい」と言うので受け入れた。私が何をすべきか、何の意味があるのかもわからなかったけれど、ただただ、その声に従った。
彼の部屋は、彼そのものを表していた。古びた写真、黄色く変色した手紙、部活で手に入れたトロフィー、日々使っていたゲーム機や教科書。どれもが、彼が生きていた証のように部屋の隅々に置かれていた。
 彼の二十年以上の思い出や時間が、この場所に閉じ込められているかのように感じられた。
 それらに触れるたびに胸が苦しくなる。もし、あの時、私が彼を止めていたら。そう考え続けた日々が、今も心の中で途切れることなく続いている。もう何度考えたか、その数を数えることはできなかった。
 最後に、押入れの奥を整理していると、一際目を引く箱がひっそりと置かれていた。箱の上には「杏へ」とだけ、かすれた文字で書かれている。手を伸ばすと、心臓が鼓動を速め、手が震えるのを感じた。
 ゆっくりと箱を開けると、中には二つの種が入った袋が並んでいた。“ガーベラ”と“オハイアリイ”と書かれたそれらの袋。
 私はその袋を手に取ると、中から微かな音が聞こえるような気がした。種が、わずかに震えている。
 その瞬間、私は彼の声を聞いたような気がした。心の奥底から、彼が私に語りかけてくるのだ。
「ねえ、知ってた? 全ての花には花言葉がついてるんだよ」
 それが、ふわりと宙に浮かび上がる。まるでどこか遠くから、あるいは夢の中から届くかのように、確かに私の心の中に響いていた。
 彼の声が、あの時と変わらぬ温かさを持って、今もなお私に語りかけてくるようだった。
 私はふと、手にしていたスマートフォンを取り出し、検索をかけた。
 “ガーベラ”と打ち込むと、画面に『希望』、『常に前進』といった言葉が並んでいる。それは、彼が私に向けて伝えようとしている言葉そのものであった。
 鼓動は一気に高鳴り、息が詰まるような感覚に襲われる。
 さらに続けて“オハイアリイ”を検索したとき、私の頬に一粒の雫が零れた。優しい言葉でありながら、どこか力強い響きを持つ、『自分らしく』という言葉を目にした瞬間、私の胸に渦巻く感情が溢れ出した。
 涙が静かに頬を伝い落ちる。その涙は、今まで押し殺してきたすべての思いが形を取ったかのように止めどなく流れた。
 私はひとり、涙を流すことしかできなかった。悲しみも、後悔も、虚しさも、すべてが涙という形をとって。
 それは、彼からの最後のメッセージを受け取るための涙のようで、彼の存在が私の中にしっかり生きていることを教えてくれているようだった。

 涙が止まったのは、それからしばらく経ってからのことだった。私の目元を濡らすものが落ちる度、隣に座る彼の母が、静かに手を伸ばし、背中を優しく撫でてくれる。
 今ならようやくわかる。彼を心の底から愛していたのだ、と。彼と共に過ごした日々の中で私は少しずつ変わっていった。それが零れ落ちる涙によって、何も言わずとも証明されていた。
 涙はただの水滴ではなく、あの時々の気持ちの積み重ねであり、彼と紡いだ全ての瞬間の記憶そのものであった。
「杏ちゃん、ありがとね。きっと、紫苑も嬉しかったはずよ」
 彼の母は涙を拭いながら静かに言った。その声はどこか遠い記憶を思い出すような、儚さと哀しみが混じった響きだった。
「紫苑が杏ちゃんに話しかけたのは、きっとあなたも花の名前をしていたからなのね」
「え?」
 私は首を傾げて、彼の母を見つめた。
「私、昔から花が大好きでね、『柊 紫苑』っていう名前も全て花の名前になるようにつけたの。花にはひとつひとつに花言葉がついててね。杏の花言葉は『臆病な愛』。紫苑は杏ちゃんを救おうとしたのかな。紫苑の花言葉は今のあなたへのメッセージでもあるかもしれないわね」
 彼の母がスマートフォンを差し出すと、その画面に映し出された花の写真とともに、花言葉が大きく私の目に飛び込んできた。私の目から、また一粒、また一粒と涙がこぼれ落ちた。それはもう、止めようと思っても止まらなかった。
 彼は私の冷え切った心を、無力で色を失った心を温めてくれていた。彼の微笑みや言葉の数々を少しずつ思い出す。笑うことも、泣くことも忘れていた私が、今こうして涙を流していることも、全て彼のおかげだった。それが、何よりも不思議で、何よりも愛おしかった。
私はもう一度、彼の部屋に向かった。扉を開けると、静かな空間の中にあの時の微笑みが、抱きしめてくれた大きい身体が、染み込んでいるような気がした。私は深く息を吸い込み、心の底から、彼に向けて笑顔を作った。それが、私のすべての感謝を込めた答えであった。

 次の冬が訪れた。あの日、彼がいなくなってから、もう一年が過ぎていた。
 冷えた空気に包まれながら、私はひとしきり、彼の言葉を思い返す。彼が残した、ただ一つのメッセージ。「自分らしく、前に進むこと。」その言葉が、今も私を支えている。
 私はもう怖くない。たとえ心が凍え、死神が手を伸ばそうとも、私は自分で温め、守り抜くことができると知ったから。彼が私に教えてくれたその力を、胸に秘めて歩き出す。
 空を見上げて深く息を吸うと、冷たい風が喉を通り過ぎ、心に新たな決意が芽生えた。笑顔がこぼれる。
 紫苑、ありがとう。私もあなたを忘れないよ。
 心の中でそう呟き、私はまた前を向いて歩き出す。もう後ろは振り返らない。
 きっと大丈夫。なぜなら私の人生の主人公は、これからも私だけだから。

20240501@Zushi Library

「生命の循環」木原 実優

 人間とはまるで水流のように、時に飲み込まれ、何かを運び、そして周囲と一体化して埋もれてしまうそんなものだ。そして、その水がこの世界を循環させる。ただ僕が生きたことはこの世界という物語の一文章にもなれないくせに。たとえうまくいっても、どこかのページに刻まれた一文字ほどにしかなれないのだろう。そんなことはこの僕が一番理解している。

 今日も朝から不機嫌に鳴り響くアラームの音が僕の耳を叩きつける。あぁ、そうだ、また今日も面接の日だったのか。昨日の夜、翌朝寝過ごすことがないように五分刻みに設定しておいたんだ。なんていったって、僕はこの上なく朝に弱い。眠りにつく時はこの世の中の最も幸福な瞬間なのではないかと思うぐらいに心地良いくせに、朝になるとまた一日が始まってしまうという失望感にやられてしまって、一回目のアラームで起きられたことなんかこの片手で数えられるほどにしかない。仕方なく、体に巻き付いていた暖かな抜け殻を無理やり脱いで、岩のように凝り固まった体をぬくぬくと起こさせる。果たして今日は上手くいくのだろうか。とてもじゃないけれど、上手くいくとは思えなかった。初回も同じような心構えであったが、十社連続で落とされた後で迎える今日に、その可能性は僕の心のどこを探しても見当たらなかった。
 僕にとって面接というのは最大の難点を抱えた至難の業に過ぎない。前回も、どうせまたダメなのだという絶望感と、今度はいけるだろうという僅かながらの期待を体内で戦わせながら、何とか会場には辿り着いたものの、いざ彼らを目の前にして話そうとすると、またダメになってしまった。彼らは何者にもなれない僕を卑下して、静けさというガラスを鋭く突き破ってくるような目つきで僕を見つめてくる。そうすると、喉をよじ登ってくるはずの僕の魂はどこかに消滅してしまって、生まれたての赤ん坊のような幼稚な姿へと変身してしまう。その日の夜、僕のスマホを鳴らした通知音の正体はやはり「不採用」の三文字だった。はぁ、と僕は深いため息をつく。もうすぐ僕はこの社会から締め出されるのかもしれないな。それでも、仕方がないのだ。そして、何の進展もなく面接を終えた次の日も僕の日常は続いていく。
 今日は大学の授業がある日だ。まぁ、一限がなくて三限から始まる日だから、そこまで苦痛に感じるわけではないのだが。学校に向かって足を動かしていると、僕と同じような格好をした人間たちの足が、同じ場所に同じように吸い込まれていく。
 そして、今日も教壇の上に立って講義をしている、棒人間かと思う程に華奢な体をしたおじいさんの話を、聞いているか聞いていないのかよく分からないまま耳に届かせて、僕はただその人の顔のある方へ視線をやる。そうしているうちに、いつの間にか終業を知らせる鐘の音がその辺りを駆け巡り、周囲にいた人間たちがざわざわと立ち上がる。その人間たちの楽しそうな笑顔だけはマンガの絵のように明瞭に僕の瞳に反射している。
 いつもと変わらない帰り道、僕はどこを見ても単調な景色の広がる周囲を背にしながら、ぼんやりと項垂れた顔つきでよちよちと歩く。昔は確かに鮮やかだったはずの街がこのような姿になってしまったことに対する後悔と、もうどうすることもできないという諦めと、その光景をまだ目にできている者に対する嫉妬と憎悪が、僕の透明だったはずの魂を黒く塗りつぶしていく。学校の最寄り駅に着いた時、そういえばと思っておもむろにポケットの中からスマホを取り出す。やっぱりな、そこには十七日の表示が映し出されていた。毎月十七日は妹の見舞いに行く日だと決まっている。おもわず家の方向に向かってしまいそうだった足取りを真逆の方向に捻じ曲げて、反対方面の電車のホームへと降り立つ。なぜだか分からないが、駅から病院までの道のりは家と学校の往復路よりかは少しだけ鮮やかに見える。
「あっ、兄ちゃん、久しぶり。」
 まるで宇宙という暗闇中を照らす太陽かと思う程、煌めいた顔を歪ませる彼女は僕に向かって手を振ってくる。そんな僕と七歳差の彼女だけは、いつまでも僕のことを兄という人間として認識してくれているのだと心の底から安堵する。
「何か変わったことはあったかい?」
 さすがに見舞いまで来ておいて、会話をしないというのは如何なものかと思うので、途中で買ってきた花を、枯れかけて色褪せてしまったであろう花々と交換しながら、僕は何気なく彼女に尋ねてみる。
「うん、相変わらず元気だよ。でも、今日は兄ちゃんが来てくれたからいつも以上に元気かもしれない!」
「そうか、それなら良かった。」と口にしながら今できる最大限の引きつった笑顔で彼女に視線を返す。それから一時間ほど僕は彼女と他愛のない話をして過ごした。その日の夜はなんだかいつも以上に居心地の良さを覚えながら、深い眠りに就くことができた。
 翌朝、いつもより目覚めの良い朝を迎え、今日はついに一回アラーム止めの記録を更新して反対の手で数えるまでになった。そして、適当にクローゼットの中からTシャツとジーンズを引っ張り出してそれらを勢いよく身にまとう。学校について、生徒証をかざそうとして見上げた時計はまだ始業三十分前を指していた。いつも駆け込みセーフで講堂に入場する僕にとって、何とも画期的なことであった。そして、いつもと代わり映えのしない授業風景と百分間のにらめっこをした後、帰宅してさっさと風呂を済ませた。なんだか今日はやけに気持ちが良いから、一杯飲むか。そう思って、冷蔵庫から昨日作り置きしておいた惣菜を取り出して、適当にテーブルの上に並べる。飲み終えた後、酔いやすい僕は急激な眠気に襲われ、そのままベッドの上に向かってしまった。
 
 次の日の朝、僕の部屋ではいつもは鳴らないはずの鈍い音がそこら中に何度も響いていた。僕は、重くて開くことを拒絶している瞼と格闘しながら、スマホの画面をスライドさせた。
「もしもしあなた、咲凪が大変よ。今すぐ病院に来なさい。」
 そう電話越しに話したのは僕の母だった。僕は正直、この母が好きではない。妹が幼少期から体が弱かったため、母は妹に付きっきりになってしまい、僕のことは全て後回しにされていたからだ。まぁ、年齢も離れているし、今考えればそうなるのもやむを得ないことだったのかもしれないと思うが。それでも、母にとって僕は優先順位の低い人間であることには変わりない。しかし、今は僕の妹に起きた緊急事態であり、そんなことを悠長に考えている場合ではない。僕は、床に脱ぎっぱなしになっていたジャージを薄いパジャマの上から急いで羽織って、眼鏡を掛けながらサンダルに足を絡ませて家を飛び出した。走っていると、いくつかの白い眼がこちらを睨んできたが、そんなことはどうでも良かった。電車までの道を全力ダッシュし、電車から病院までの道のりを駆け抜け、病院内の階段を息もできないままありったけの力で駆け上がった。病室の取っ手に手を掛け、カーテンを開く。そこには母と父の背中があった。そして、ベッドを覗き込むと、そこは真っ白で一面が覆われていた。
「う、嘘だ…。」
 そんなはずがないだろ、一昨日まで晴れやかで透き通った瞳でこちらを見つめていたのだ。僕は、悲鳴のような絶望的な声を上げながら一晩中泣き叫んだ。
 
 それから、三か月後、僕はいつもと変わらない朝を迎え、八回目のアラームで体を強制的に起こし上げる。また、朝が来たのだと僕の体は拒絶反応を起こしながら、ゆっくりと家の中を徘徊して回る。山積みになっている洗濯物の中から、黒いジャージを引っ張り出し、無理やりパジャマとの交換を行う。そして、トースト一枚を何も映っていないテレビの方をぼうっと見ながら口の中に押し込んでいく。そして、適当にロングコートを羽織ってサンダルを履いて、また、あの場所に吸い込まれに行く。僕の視界の片隅で、いつも以上に饒舌に喋り続けていた男に僕のセンサーはどこかで嫌気を感じながら、また今日もその場所から吐き出された。鉛色のこの世界を僕は永遠に彷徨う。そして家に着く。毎日がその繰り返しだった。

 酷く冷え込んだ日の朝のことだった。僕は、今日も幻滅しかけた魂を軸とする体に鞭を打ちながら、そぞろ歩きをして駅に向かい、僕をあの場所に連れていってくれる電車を待つ。急に僕はふと何かを思った。もうそろそろいいんじゃないか。もともとそういう宿命だったのだと思ってしまえば。僕は片足をこの世界の岬に引っ掛けた、そしてもう片方の足もこの世界の崖に引っ掛ける。すると、僕の目には向こう岸から渡ってくる黒い汽車の姿が見えた。

 僕は気が付くと海に来ていた。もう僕はどうなってもいいのだ。この思想が僕の体中を駆け巡り、足元を水中に浸し、胴体を沈ませていく、遂に顔面までも。透明な冷たい液体に体が包まれていく。でも、そこは少し暖かみのある場所だった。まるで、赤ちゃんが守られている羊水のように。ふわふわとしたこの感覚は、海だとは思えないほど僕を暖かく迎え入れてくれた。

 次に目を覚ました時、僕は古く錆びたアンティークな雰囲気を帯びた部屋に置かれたロッキングチェアの上に横たわっていた。ここはどこだと、部屋の隅々まで目を追いやってみる。まるで古本屋と中世ヨーロッパの一室が絶妙に混じり合ったような部屋の作りに、同じようなヴィンテージの家具が敷き詰められて、どこか懐かしい匂いが僕の嗅覚を刺激した。しばらく、僕は頭上でどうしてここにいるのだと考えを巡らせてみる。しかし、この場所に思い当たる節はなかった。すると、奥の扉がミシミシと音を立てながらゆっくりと開いた。中から姿を現したのは厳かな顔つきをしたどこか怪しさを感じさせるおじいさんであった。
「ようやく来てくれたのか。わしは便利屋として、君を幸せにするためにここにいるのだ。だから、暫しこの場所でそなたを待っておった。これから少し話を伺わせてもらうかね。」
 そう言いながら彼が突き出してきたのは、契約書と書かれた用紙であった。
「ここには、規約が書かれている。よく読んだ上でこの空欄にサインを下してくれたまえ。」
指示に従って、その用紙に目を通してみると
・便利屋の主人の指示に従い、便利屋を信じること。
・ここであったことは決して口外しないこと。
・次はあなたが便利屋の役目を担うこと。
といった三つの条件が記されていた。
 僕はこの曖昧に書かれている文章がいまいちよく分からなかったが、一度自分を失った過去を持っているので、特にこれといって斥ける必要性を感じなかった。だから、便利屋の言う通りにしてサインを記入し終えると、便利屋は待っていたと言わんばかりに僕を奥の部屋へと案内した。すると、彼はポケットから穴の開いたコインに紐が通ったものを取り出した。そして、便利屋はこう言った、
「あなたは便利屋の私を信じますか。」
 僕が小さくコクンと頷くと、彼は僕の目の前でそれを左右に行き来させ始めた。

 僕は、思いっきり地面をずりばいして一息ついた後、はいはいをしながら、一直線に小動物の眠るゆりかごの下に駆け寄る。できる限りの背伸びをしてその中を覗き込むと、そこには温かい得体のしれない生き物が眠っているではないか。そして、その生き物も僕の後を追いながら駆け寄ってくる。
「にに、にに。にぃに、にぃに。兄ちゃん、兄ちゃん。」
 そいつは僕に満面の笑みを浮かべていつもこちらへと歩み寄る。僕はよく熱に浮かされていた、それが発する不快なほどの温もりをこの腹部に押し当てる。僕らを反射させる窓から見えるその夜景は、白やオレンジ、赤などの暖色のドット絵によってムード化され、この世界の偉大さを象徴するとともに、その素晴らしさを僕に訴えていた。そして、一生の営みを問い掛け、隣に立っていた淋しさに喘ぎ苦しむ街灯は横目で僕を見ていた。しばらくして、彼女はまた戻ってくるからと言い放ちながら、そのまま僕を追いやった。

 そして無機質な世界に追いやられた僕は足元を確認し、そこに一本の図太いレールが存在していることに気が付いた。周りを見渡すと皆一つの方向に向かって荷物を運んでいる。
「おい、そこのやつ。ぼんやりしていると、このレールから落下させられるぞ。早く進むんだ。」
 僕は慌てて足を速める。そして、恐る恐るレールの端から下を見ると、薄暗い空間の下にもう一つのレールが敷かれていて、そこにもまた同じ人間というやつが単一方向に向かって、のろのろと歩いているではないか。その足で上を見上げると、またレールがあって僕たちよりも早足で走っている。さらに上層の方のレールはレッドカーペットのように豪壮な造りになっていて、そこを進む人間たちは、我々のような下層レールで過ごす者たちからの関心を集めながら、少ない荷物を優雅に運んでいる。なんて観察していると、目の前に突如現れた岩に引っ掛かりそうになって、危うくさらに下のレールに落ちるところであった。次々に現れるこの妨害を目にすると、僕は障害物競争のレースをしているのかと錯覚してしまいそうになる。そして、跳び箱十段ほどの高さがあったであろう小山を跳び越えた時、僕は一つ上の階級レールへと移された。そうか、なるほどな。乗り越える試練によって成功すれば昇級し、失敗やミスを犯すと降級する仕組みらしい。
「いや、まじでやばいよ。僕はこの一年で三段階も転がってきてしまったよ。あぁ、このまま下降し続けたら、俺は暗闇に吸い込まれてそのまま水蒸気にされてしまうよ…。」
 隣を歩く二人組の会話が聞こえてくる。この世界の仕組みを理解した僕は、現状だけは維持できるように前を向いて、ただひたすらに歩き続けた。ある時、急に目の前が光線によって封鎖され、僕の体はたらい回しに検品を受けさせられた。そして、僕に検品済みのシールを貼ってきた集団が僕を横一列に並べられた扉のうちの一つの中に案内した。
「お前の割り振りはここだ。さあ、早く準備して務めを果たすんだ。タイムロスはたまったもんじゃない。」
 彼はそう吐き捨てると、僕にギアを回すためのラチェットレンチを手渡した。その日から僕は担当のギアボックスの中で歯車の調律師として、ギアとしての歯車なのか僕自身が歯車になったのか見極めがつかなくなってしまう程に、骨身を惜しまずに働き続けた。その間、不祥事を起こしたり、怠惰癖がついたりして水蒸気に昇華されることがないように、毎日小さな箱の中で馬車馬のように歯車を回し続けた。気が付くと出口が目の前に出現し、歯車に別れを告げて外に出た。
 そこは、以前競歩をし続けたあの場所に似たレールであったが、下を見ても上を見ても他のレールはどこにも見当たらなかった。そこで、僕はゆっくりとした足取りで歩き続けたが、ある時一度躓いて転倒してしまった。そしてその日から、徐々に歩くことに躊躇いが出てくるようになってしまった。片足を上げて前に突き出し、着地、反対もそれの繰り返し。それでも僕の両足は硬直してしまう時間が一日の大半を占めるようになっていった。気が付くと僕は昇華し始めていて、もうどこにも行けない体になってしまっていた。
「あぁ、遂に僕も水蒸気の仲間入りなのか。」
 僕はそう考えながら、足から胴体、顔面に向かって昇華し続ける。僕が最後に見たのは、レールの最終地点に置かれていた物語の文章に、水という一文字の漢字として僕自身が刻まれた姿であった。

 目を覚ますと、僕はまた便利屋の作業部屋の中に戻っていた。しかし、そこには便利屋の姿はなかった。代わりに、目の前には便利屋日誌と書かれた一冊の分厚い本が置かれている。その本をめくっていくと、便利屋に依頼した多くの人物名やその依頼内容の詳細が記されていた。なんとなく目を通していると、とある人物の名前が目に留まった。
「依頼者名…川瀬咲凪様。依頼内容…」
 僕はその名前に唖然としながら、隠しきれない動揺を胸に押さえつけて、まさかという気持ちで目線を右に動かす。
「依頼内容…私のいない未来でも、兄が幸せで居られるようにしてほしい。」
 衝撃のあまり思わずその本を持ち上げると、一枚の手紙が抜け落ちた。僕はそれを拾い上げて精読する。
「兄ちゃんへ。今ここに居るということは、多分私は兄ちゃんの人生を助けてあげられなかったんだね。最善は尽くしたつもりなのだけど、ごめん。実は、兄ちゃんの気持ちに少しは気づいてたんだ。だから、私はここに来て依頼していたんだけど、水蒸気になった私は、もうとっくに向こう岸への橋を渡り切っていたんだよね。これからは、兄ちゃんが彷徨う人を助けてあげて欲しい。それが私の最後の願いです。」そう書かれていた。
 
 僕は手前の部屋に繋がる扉を開ける。そこには既にお客の姿がある。要件を伺うと、母子共に交通事故に遭ってしまい、危篤状態の続く息子を助けてほしいというものだった。そこで、僕は彼女に術を掛けた後、その場を離れて、ギアボックスの中に潜り込んで調律を始める。彼女の寿命の短縮と引き換えに、息子を助けることに成功した僕には、またあの扉が見えてきて、徐々に足元に違和感を覚え始めた。

 それから三年の月日を経て、僕は大都会にそびえ立つ東京タワーと背比べをしている無機質なビルの中で、ギアの調律をし続けている。だが、未だに自分が何者であって、何のために生を全うしているのかは分からない。でも、今窓から見えるような夜景の中の一つの光として僕はここに存在している。それだけは、誰に何と言われようとも変わらない事実なのであり、僕はその事実に生きながらえている。今日も雑多な足音が行き交うこの世界で、僕はスマホをポケットから出して日付を確認する。そして、務めを果たして帰宅した翌日、僕はまたあの場所に向かう。もちろん、途中で芳香の小節と花々を手にすることを忘れずに。そして、妹の証の碑に僕は清水を流した後、その上から無色透明の清澄の水を流す。
「ねぇ、」
 その声に反応して振り向くと、見覚えのある小さい子供がそこに立って笑っていた。

20240310@Jimbocho

「蓄積」小田 一葉

 十月初旬の放課後の科学室。少しずつ、高校卒業が近づいているのかと、教室の窓を眺めながら実感が湧いてきた頃。僕が所属する科学部の部員は六人だ。三年の僕と大西、二年の長谷川と二岡、一年の初田と塩見の六人は、月、火、水、金曜にここへ集まり、気ままに実験を開始する。このメンバーでの実験もあと何回できるのだろうか。ひとつひとつに集中して、最後まで頑張りたいななどと思いながら、今日も部活が始まった。
「今年の文化祭さ、椎村はクラスでやりたいことあんの?」
 実験に集中している僕に、大西が話しかけてきた。今年もこの季節がやってきたのか、僕はそう思った。この学校はクラス替えがないから、大西とは一年でクラスが一緒になって以来、三年間ずっとクラスメイトだ。それに部活まで同じ。一年の時から毎日一緒にいるから、なんでも話せるし、僕にとって唯一の親友と呼べるような奴だ。高校最後の文化祭があと一か月に迫ってきたこの頃、毎日のように大西は僕に文化祭の話題を振ってくる。一年、二年と文化祭で僕たちのクラスは企画賞を取った。大西の文化祭シーズンになると火を吹くような熱量である。毎年、彼の熱が連鎖反応を起こし、周りのクラスメイトの文化祭への気持ちも昇温する。今年もそんな時期がやってきた。

 次の日は、木曜で部活がオフだった。僕は、久々にまっすぐ家に帰って、見れずにたまったドラマを見たり、アプデが入って新武器が投入された趣味であるサバゲーをしようと考えていた。できるだけ早く帰宅したいものだ。
 六限目が終わり、僕がリュックをもった途端、大西が僕のもとへ駆け寄ってきた。
「椎村! いつものとこ行くぞ!」
「え?」
「カラオケだよ! カラオケ!」
「今日はドラマ見たり、ゲームしようと思ってるんだけど。歌う気分じゃないし。」
「『今日』じゃないとダメなんだよ! 歌うためだけに行くんじゃないんだ! いくよ!」
 大西の誘いはいつも唐突だ。予測不可能なタイミングで発生する現象は、実験では興味深い出来事であるが、生きている日常の中では面倒なこともあるのだなあ。「いつものとこ」というのは、学校の最寄り駅付近にあるカラオケのことで、部活のオフ日である木曜は学割がきくから、カラオケに行くことが多い。今日は、乗り気ではなかったけれど、大西は僕の腕を掴んだまま、カラオケまで足取りを止めなかった。

 カラオケに入ると、僕はいつもデンモクを手に取り、「スイヘイリーベ」を打ち込む。元素記号の歌だ。僕たちのカラオケはいつもこの歌から開始する。不思議に思われるかもしれないが、科学部の僕たちにとっては気付けば、当たり前のルーティンとなっている。いつも通りこの曲を打ち込もうとした時だった。
「椎村! まだ歌わんでええ。今日は勝負やねん。」
 エセ関西弁で喋るときの大西は、面倒くさい。またこのモードに入ってしまったのか、と思いながら、大西との付き合いで培った「受け入れる部分と無視する部分を巧みに分ける能力」を活かしながら、話を聞いた。
「明日のホームルームでな、文化祭のクラスの企画決めをするらしい。俺はそこで最高の企画案を出したいんや。出来れば、サイエンティフィックがええな。企画賞をとりたいんや。今日はそれを考えるためにカラオケに来たんや!」
 大西のバックで流れているカラオケ広告のロックバンドの新曲が、BGMのように大西の気迫とマッチしていた。
 僕は大西に文化祭のクラス企画の案を出してみた。正直、大西は創造的発想の生成における柔軟性に欠けるから、僕が案を考えるのだ。彼もそれを自覚しているから、発想系の作業は僕に委ねることが多いのだ。
「劇はどうかな? 女子たちがやりたいって言ってたし。学園系のやつとかディズニー系は無難にいいかもね。」
「ただ劇やるだけじゃあ面白みがないなあ。企画賞は取られへんやろし。」
「じゃあ食品系とか? じゃがバターとか大西好きだしいいじゃん。」
「食品系は、廃棄が出てしまうからな。微妙やな。」
 僕がいくつか案を出してみるが、大西の腑には中々落ちない。話し合いが始まってから、三十分が経っていた。
「んーと。じゃあお化け屋敷! 他クラと被らないように、着なくなった服をリメイクして、教室内の装飾にしたり、衣装にするのとかも良さそう。お化け屋敷ってなると、段ボール使いがちだけど、なるべく段ボールのごみを出したくないもんね。」
「おー!それめっちゃいいやんか!3Rも活用できとるな! 既存要素のリフレーミングやな!」
 ようやく納得いったようで安心した。いつも使わない言葉まで、得意気に言い出して、気分が上がっているようだった。
 その後は、結局、いつも通りカラオケを楽しんだ。気づけば大西はエセ関西弁から標準語に戻っていた。

 翌日、企画決めをするホームルームの時間がやってきた。
「なにか案ある人いますか?」
 委員長の七田が声をかける。大西は、僕を見て頷き、一番に手を挙げた。
「じゃあ大西、どうぞ。」
「お化け屋敷がいいと思います。普通にやったら企画賞は難しいと思うので、みんながいらなくなった洋服を持ってきて、それを装飾や衣装にリメイクしたら、他のクラスとも差別化ができると思います。」
 僕たちの考えたものを大西がクラスのみんなの前で無事に発表できたと思い、安心した。
 しかし、大西が案を出した途端、三ノ宮が手を挙げた。三ノ宮はクラスの中で男を仕切っている存在で、意志が硬く、強気な性格なので、僕たちは少し苦手である。
 想定外の出来事に、僕たちの昨日の話し合いが水の泡になるのではないかとヒヤヒヤした。
「えっとー、僕もお化け屋敷いいなって思うんすけど、わざわざいらなくなった洋服を持ってきて、完成させるのは手間だし、難しいと思うから、ダンボール使ってめっちゃクオリティ高いお化け屋敷にしたらいいんじゃないすかね。」
 三ノ宮が意見を出したあと、クラスの数人が大西の方へ顔を向けた。僕はあの文化祭に燃えている大宮が、なにか三ノ宮に対してなにか言葉を発するかと思ったが、段ボールを使うという普通の文化祭のお化け屋敷では個性が出ないという僕たちの意見をなにも聞いていなかったような三ノ宮の意見に、大西は黙り込み、顔を俯けてしまった。僕たちは例年大量に発生する段ボールゴミを減らすという観点からもこの企画を考えたが、そのことも言えなかった。
 その後、誰も案を出さず、クラスが三ノ宮の意見に固まりそうな雰囲気が出てきた。
 最後に、大西の案と三ノ宮の案で多数決を最終的に取ることになった。結果はクラスの3分の2以上が三ノ宮の意見に賛成を示した。僕たちの意見は、水に溶けたように黒板から消えてなくなってしまった。

 文化祭まであと一週間を切った時だった。学校の時程も文化祭準備の為に四十分授業となり、六限目終了後はクラスで準備に集中できる時間がとれるようになった。
 ここまでは放課後に時間がある人が残り、作業を進めるというはずだったのだが、お化け屋敷の完成イメージが誰も想像できないままで、提案者の三ノ宮も部活や体調の事情で学校を休みがちになり、クラスの準備はほぼなにも始まっていない危機的な状況だ。この一週間のクラスの団結力が文化祭成功へのカギとなる。
 学級委員がクラスメイトの役割を割り振り、準備がスタートした。
 僕と三ノ宮は外装を任された。元気の良い女子二人も僕たちと同じ外装の担当になった。廊下での四人作業のはず。だが、女子二人はすぐ教室内の友達のもとへ行ってしまったり、「買い出し手伝ってくる!」と言って外に出て、作業をあまりしてくれない。そんな彼女たちの行動の傾向を見て、二日目以降は、僕たち二人でなんとかしようと、ペースアップし手を進めた。その結果、三日間でなんとか外装を完成までもっていくことができた。
 ずっと廊下での作業だったため、教室内の進行具合は把握できていなかった。だが、廊下で作業をしているとき、教室内の騒がしさが気になってはいた。
 外装を完成させ、何か手伝えることがあればと思い、僕たちが教室へ入ると、教室内の準備は想像以上に進んでいなかった。大量の段ボールがそのままごみのように積まれており、準備を始めたころとさほど変化はない。教室内担当のみんなは、おしゃべりに夢中になっている。中には、横たわって寝ている人もいる。このままでは本番までに完成させることは非常に厳しい。
 僕と大西は、クラスのみんなに一生懸命声をかけ、準備を進めるよう促すのだが、みんなの危機感は薄いままで、作業に赴くものはいない。
 このままだとどんな未来が待っているか想像せず、役割を放棄し、口だけが動いているクラスのみんなに腹が立った。そのせいで、僕たちは本来の役割以外の仕事も進めなければいけなくなるし、負担が大きくなる。

 いつもそうだ。誰かが目の前のものから目を背けるから、他の誰かへ蓄積していく。でも、蓄積されたとしても、僕たちのような者は、未来のためにはやるしかない。

20240801@Shime Mining Office Shaft Tower

「点と蝶の断面」砂田 一平

 玄関に扉が一つしかない家に住むことになった。この辺りの区画にはまだ建物と建物の間に3mほどの隙間(境界溝)があって、その間を人々は移動経路として活用していた。だから扉は一つあれば充分で、いくつ取り付けても意味がなかった。当然、この都市構造では移動に多くの時間を費やすことになる。利便性や安全性なども現代基準で考えれば問題があった。どこかのコメンテーターが安全面に関して、「ハズレの宝くじをわざわざ買うよりは、あの区画に移住する方が賢明だろう、そうすれば当たらないことを喜べる」と、皮肉を言っていたのが印象に残っている。事実そのぐらい、事故が起きている。少なくとも一年に三件、人数比で考えると宝くじの方が当たりにくい。
 それでもこの構造が残っているのは、一つにこの区画内総意識によるwtd(while true discussion )の結論が反モダニズムかクラシシズムに傾倒したまま横ばい状態であったこと。(最終的な決定は、人がおこなっているのだが地方であるためこの影響は大きい。)もう一つに、この区画の人口が旧構造でも対応できる程度の量だったことが挙げられる。だから、人口が爆発的に増加し、wtdの出す結論が旧構造を肯定するものではなくなり、渋滞などの諸問題が浮き彫りにされた現在、構造は生まれ変わろうとしていた。突然の人口流入は、作為的なものだったが、その恩恵を享受した者に非難する資格はなかった。
 事故に巻き込まれたのは一人暮らしに惰性が芽生え始めた頃の事だった。移動中、急停車の後、警報とともに機体のハッチが開いた。眠気を凝らして周囲を見ると、四方を白色の緊急バリケード壁に囲まれ、前方との二機が無機質な暖色に照らされていた。相手機に取りつけられた広告は大破し、機体全体が三日月型に歪曲していたから、衝突事故だということはすぐに理解できた。ただ、危険への興奮といったものがあって、そいつのために冷静ではいられなかった。スーツを着用したまま機体から出て、相手の方に駆け寄った。鼻腔の奥底で感じとった、病的な甘みを振り切ってまで駆け寄った。知っての通り、事故が起きたとき余計なことはしないほうがいい。何も見ずとも、何もせずとも事の結果は決まっているのだから。
 そこで見た光景は、どこか親の部屋のように感じた。逃げてきた場所であり、もっと踏み込めた場所と、同じ空気が存在していたのだ。病名は分からないが、親は精神的に不安定な人間だった。よく癇癪を起こしては、家の物を壁にぶつけ、飛び散った破片を自室の四隅に無造作に積み上げていた。そしてそれが天井まで積み上がると、今度はそれを使って自室の中央に何か作り始める。この時、親は仏像のように、部屋は無響室のように、静かになる。声をかけると正しく答えてくれるが、話し手の奥にいる誰かと会話しているような、無人の部屋に鳴る音響機器と表現すればいいのか、どこか静穏を纏わりつけている。作るものは、生物や分子の立体模型らしき物の集合であったり、生まれたての子羊の動きを際限なく反復するものだったりと、理解できないものである。それは本人も同じなのか、作業が終わるとそれを観て発狂し、結局それら全てを壊してしまう。そして全てを家の排気用物流口に押し込んで捨ててしまう。この捨てる動作を行ってから数週間程度は、社交的で恣意的でない親になる。が、それは指先に止まった蝶であって、徐々に癇癪を起こし、結局この無益な流れに帰着する。そのため親は怖かったし哀れだった。部屋には極力近づかなかったし、その場の瘴気とも呼べる空気は悍ましいものとして深く覚えている。脳が体に先行して運動し、空間識失調状態になり、意識と肉体とを結ぶ細い線は悲鳴をあげるほど伸び、引きちぎれる。そんな経験をさせる、猛毒にも等しい空気であった。
 無機質な音が朦朧な耳に響いた。よく聞いた終わりを告げるチャイムだった。目が慣れてきたのか、少しばかり明るくなった。目の前には、スコアと8^10の情報が表示されていた。立ち眩みが起きた。それが収まった後でようやく自分の状況を理解し始めた。私は今、学習機関にいて、予定通り勉強していたようだった。時間は家を出てから四時間ほど経過していた。念の為に自分の口座を確認すると、相当な保険金が振り込まれていた。ここに来るまでに事故にあった。でも、別に自分が負傷したわけではないのだ。何も変わっていないはずである。私はもう一度席に着き、学習プログラムを稼働させた。
 画面上に六つの単語が表示され、美しい有機物の形をなした。そして、それぞれの頂点と頂点を結ぶ矢印にある数字があてがわれた。この課題の目的はその数字にはどのような要素が内包されているかを分析、解明することにある。定石としては、ある矢印の始点を別の単語に置きかえ、その時得られる終点の単語を羅列して分析する。普段ならそうするのだが、今日はより直感的に数字の意味をとらえることができた。いくつかの矢印に与えられた数値を比較するだけでおおよその意味を推察できたのだ。矢印にあてがわれた数字とその配列が意味を描いている、そんな気がした。それは平面だけでなく、より高次元において出題された問題でも同様だった。むしろ、情報が増える分より明確に導けたとも言える。また、数値のみを比較していたから、単語が音や画像など別の情報に変わっても変化なく解き進められた。速度的な限界を迎えた時点で、終わりを告げるチャイムが鳴った。今日分析した量は、直近一月で自分が積み上げた量に相当した。ただ、自分は、喜べなかった。それは単に、いままでの自分の無能さを自覚したからとか、現実味を帯びていなかったからとか、そんな理由ではなかった。もっと深刻な問題によるところだった。
 確認のため、いくつかのプログラムを起動させ「オレンジ」と打ち込んだ。手のひらに柔らかいものが乗っかった。少し力を加えれば潰れてしまうほど柔く、肌を滑るような皮に包まれた果実が、大人しく私の手に掌握された。舐めてみた。敏感な舌は表面の僅かな凹凸に吸い付き、ヘタの方へゆったりと、進軍していった。そしてその舌が丁度、硬く角張ったヘタ先へ伸びたとき、私の鼻と舌は苦味ではなく、柑橘類が放つ少し棘のある、けど格別優しい甘さにくすぐられた。その信号を受け、私の皮の厚い指先は、果肉を覆う鮮やかな衣を剥がしにかかった。一瞬の出来事であった。私のなすがままに、実と皮は引き離され、白く透き通った維管束が露わになった。甘い香りが、どっぷりと濃くなった。全てを剥ぐなんて無粋な真似はしなかった。私は目前の、ふっくらとした一房を、手前に引き寄せた。後は味わうだけである。ヴェールにくるまった半月は私の舌で踊ろうとしていた。かぶりついた。果肉が口の中でプツンと音を出して弾け、果汁が溢れ満ちた。
 私は、静かにプログラムを終了させた。自分の予想が正しかった事を理解出来れば充分だった。悲しいことに自分は、オレンジを食べても感動しなかったのである。美味であるとは思った。ただ、それだけであって心が震えたり、体が理性を超えて動いたりしなかった。情報量や刺激される器官の違いかと考えたがそうではなかった。先程無数に表示された単語、音、画像など情報と同様、自分はただ、感動しなかったのである。その中には当然、過去に自分を鼓舞したものや、畏怖させたもの、時間を忘れさせたもの、新鮮なものがあった。感動足りうる可能性を秘めた物があった。これは、無感情や無感覚というわけではないのだ。数多の経験や推測からなる反応とも少し異なっている。人間としての、生物としての機能を残したまま、自分の内にあった、自分を自分たらしめる質量なき血液が失われた、そうとしかとしか言えなかった。
 私は、不幸なことに、これは突発的な症状であったり、やがて治る類の病でないことをよく知っていた。自分の体と心は依然として健康な状態であることは、つい先ほどの検査で明らかとされたところでもあった。やけに冷静になった。自分は自分に何も変わって無いのだと、せめてもの励ましを言い聞かせるために、wtd用のアンケートを開いた。数十分の後に構築された私の思考モデルは、数ヶ月前のものと、全く変わらなかった。私は、家に帰ることにした。学習機関の「全ての扉は行き先に通ず」と書かれた扉から、区画外周の「道は結果のために非ず」と落書きされた扉へ、そこからは機体に乗る必要があったけど、帰ることにした。
 目を覚ました。目に映る物が味気なく思え、私はそれで夢から覚めたことを認めた。症状は日に日に悪化しているといえた。最初に音が浸食された。今では雑音と楽器の音色が同列であるように、その違いはただ単に、それを評価する言葉の種類と量の違いであるようにしか思えてならなかった。色だって、味だって、すべては刺激の向きと量の違いでしかないかのように思えてきていた。すべては感動から遠ざかっていくばかりであった。自分の砦は残すところ、夢の中、それだけになりつつあった。もしこれが、感覚そのものを奪うものであったら危険へ飛び込むことなどやりようはあった。だがそうではなく、苦痛は苦痛として、恐怖は恐怖として存在している。だから、自分は夢に求める事しかできなかったし、それに心酔する他なかった。夢は良かった。今先ほど見ていたものすら思い出せないが、その性質こそが素晴らしい要因であるからだ。向き合えない内容こそが私を安心させてくれるのであった。生きている以上、夢に浸り続けられないのが難点であったが仕方がない。私は、朝食をとるために寝室の戸を開け、リビングへ向かった。そして、そのとき、かつて嗅いだ芳香族に近しい匂いを感じとった。
 私の目に黒い模様が、線が映った。部屋のほぼ全体が黒く染められていたのだ。椅子が、テーブルが、黒い沼の上に浮かんでいるように見えた。それも水面とスレスレのところに浮いていて、いや、けれど、両者の間には決して交わらない溝がある、そんなふうに見えた。疑念すら抱かず、この不可思議な光景に見入ってしまった。たぶん相当な時間のめり込んだのであろう、私の手には握りしめた戸の跡がくっきりと残っていた。私は、机を中心として反時計回りに回転し、これはいったい何であるのかを探り始めた。まず分かったこととして、これは見る場所によってその様態を大きく変化させる。先ほどは部屋を飲み込む沼に見えたが、そこから90度回転するとただの影に見える。自分の立ち位置を光源として、ただ部屋の物体に影が生じ、それが極端に長く伸びているように見える。もう90度回転して寝室がある方を見ると、朦朧体で表現された焚火とそれに照らされる木々とが見えた。ただ、影の落ち方と光の広がり方が現実的ではなかった。後の一面は、ひたすらに曲線と直線と点だった、だがこれは他とは違って、どこか異質だった。筆の、無駄であろう線の数が無数に存在し、そのためだろうか、感情の蠢めきが、得も言われぬ躍動感があって、長時間見ていられなかった。これら全ては私にとって、まさに夢のようなものだった、いや、夢以上のものかもしれなかった。興が乗るのは当然として、これは確実な暗闇なき光であったからだ。その証拠に、私は自身の口角は意図せず上がったことを認識していた。
 この黒塗りを行った人間は私以外の何者でもないことは、ほぼ確実といってよかった。親が自分の家に来て、例の発作的な症状を起こして帰っていたことも考えられるが、その線は薄かった。まず、家の防犯機能などに不具合は見られなかったし、他人の家を訪問したのに家主に合わずして帰る人とも思えない。それに、あの発作には相当な時間を費やしていたし、目の前の光景にはあれら以上の狂気の他に、確かな知性と技術が内包されていた。芸術至上主義者だろうが資本主義者だろうが、こちらを金庫に納め、祝杯を求めるに違いなかった。ただ、断言できないのは言うまでもなく、これを作り出した記憶がないのだ。自分の所有物であれど、自分に属さないような気もあった。一応、自己の連続性について懐疑的に思考せざるを得なかったことも起因している。自分の推測によると、これに対し自分が過剰に反応できた所以は、この光景が、自分の内在している要素から発展した物であるにも関わらず、それが自分にとって受諾できる、未知の領域に存在していることにある。たぶん、これよりも美しいと称される物や、技術的に優れたものを私は知っているし、これから出会えるのだろう。だが、それらからは決して自己に内在する未知を見出すことはない。私の価値観は他者の歴史によって作り出されたにすぎないかもしれないが、やはりこれ以外の物は自分の外側の未知でしかないのだ。その理由は結局のところ同語反復に行き着くのかもしれないが、少なくともそう信仰させる力がこれにはあった。
 久々に明るい朝食をとった。寝室で、襖越しにリビングを観ながらだ。万が一にもアレに損害を与えたくなかった。それは許容される問題だと理解していても、変えたくなかった。崩れてしまう気がしたのだ。頭の中で、これから先は存在するのだろうか、そういった議論を繰り返し行った。しかし、私は答えてくれない。沈黙が訪れるだけである。私が行えるのは、ただ待つだけ、小さき心の持ち主であった私は、静寂を楽しもうとするほかない。実力がないのだから仕方のない問題かもしれないと思った。今の自分には、アレほど創造性がないと感じた。そう感じた時点で駄目とも、そういった不純な思考に逃げてしまうのはアレと根本がズレているとも考えた。おかしな話であった。一方でアレは自分に内在すると確信しておきながら、もう一方でアレは自分であっても自分でないと考えていた。いやもしかすると、自己矛盾という強固な殻に閉じこもる事自体が目的なのかもしれない。そうすることで、少なくとも変化する恐れはないのだからだ。逡巡のうち、とりあえずそう結論付けて私は朝食の片付けに入った。そしてそれが終わった後で、布団にくるまった。もう一度、再来を期待して。
 起きたとき、私は寝室の机に突っ伏していた。その事実を確認しただけで、口元が緩んだ。戸を開けた。目の前の光景は、確かに変化していた。机があった場所に、構造物が現れていた。闘技場というべきか、ストーンヘンジというべきか、その造物理由は計りかねるが、とにかく半径2メートル程の円形の構造物が出現していた。物流口の配達履歴から、これが部分的には岩石で、金属で、プラスチックで、ガラスであることが分かった。壁面に描かれたものと比べると、こちらは理性や知性の色が濃かった。というのも、黒模様の、自身を光源とみなせる位置に、小型の光源を置くと背後の、曲線と直線と点だけ絵と似たような模様が浮かび上がってくる。ガラスの部分からは色鮮やかな、他の材質からは黒い影が伸びて、壁面でそれらが幾重にも重なり模様を描いた。再び背後の壁と向き合って気がついたのだが、これはある種の設計図でもあったのだ。この構造物は、この指示にそって生み出されていた。だからそれは、この構造物はまだ途中であることを意味した。私は、カメラを設置しこの構造物が完成するまでを撮れることを願った。そして、もう一度布団にくるまった。
 私が起きたとき、枕元にカメラがあった。取り外されることは危惧していたために、そこまで衝撃はなかった。ただ、確認すると新しい映像が一つあったのでそれを確認することにした。
 画面一面に、白色のキャンパスが映っていた。そこに映った私を物差しにすると、縦3メートル、横7メートル弱の大きさであることが分かった。青白い照明に、人工的な芝、何も映さない大理石風の壁、人けの無さ、これらから場所は公園であることが分かった。この区画にはまだそういった場所が残っている。私は、画面の下手からやってくると、画面手前に楕円の弧を描くように絵の具の入った皿とバケツを並べた。右手には三尺強の筆が握られていた。中央に構え、数秒間の完全なる静止の後、私はゆったりと左腕を体を這うように動かした。その間全身は小刻みに上下し、ほんの少しずつその勢いを高めていった。右腕が、握られた筆が、力強く掲げられた。すると、私の脚が開放されたように自由な軌道を芝生に残した。右腕の筆は、地面の皿から色をすくい、流線的な筆でキャンパスに色を刺していった。私の視線は絵ではなく、その動きの方に使われていた。全体的に色が乗り始めたとき、私は音の流れを掴み息を呑んだ。芝を踏む音、筆がキャンパス、皿、バケツをかすむ音、筆に乗った絵の具がぶつかる音。呼吸。心音。それら全てが、規則的に発話し、一つの本流となっていた。そしてそれは、とある一節を繰り返し唱え、その圧を増幅させていた。段々と、段々と、絵と動きと音は調和し共鳴し始めた。描かれているのは、革命で散ったある王妃の最期だった。音が、動きが、激しさを増長させる。地面が、心が、震え弾ける。時が、高鳴りが、最後を悟り限界に達し始める。筆が、高く高く掲げられた。止まる。筆先が青白い光を反射する。一つの呼吸の後、腕は地面を殴った。最も太く、流線的な軌道がその場に残った。
 動画はここで終っていた。しばらくの放心のうち、私は二つのことを決めた。一つは、観客は置かないということ。どうやらコレにとって、見られているか、見られていないかは、大きな変化の要因であるらしいからだ。もう一つは、私は幾らでも、少なくても終わりまでは寝てしまおうということだ。絵画の行くヘは気になったが私は、カメラの電源を切り寝床についた。それから、起きて必要であれば排泄と食事を行う、という生活に行き着いた。例の構造物は高くなっていった。
 夢を見た。それが夢だということは分かっていた。私は、草原にいた。肥沃な大地だった。草の匂いが、葉が擦れる音が、風を受ける感触があった。空気は冷たくて澄んでいた。湿った地面に倒れた。空は背の高い草で見えなくなってしまった。久々に空が消えたのだと思った。もう寝よう、そう考えた。ただ、まぶたを閉じることは叶わなかった。私は四肢を畳み、呼吸を深めた。痙攣で体がはねたあと、意識はぷっつりと途絶えた。
 目を覚ますと廊下にいた。恐る恐るリビングを見ると、構造物があった。ただ、前見た時から全く変化していなかった。私の手には何かの材料が握られていた。今まで、たった一度でもこのようなことはなかった。起きる場所は必ず寝室だった。構造物は必ず変化していた。そこにあるのは作品だけで、材料などは残っていなかった。夢など見なかった。完成はしていなかった。
 私は、ゆっくりと構造物に近づいた。もう自分の背丈など超えていた。手に持っている物を近づける。ただ、何をしていいのか分からなかった。この構造物は、これで終りなのだ。完成していないが、これから先などなかった。瞼を閉じて手を、高く掲げた。拳は、硬く震えていた。心音が高まっていく。息が止まる。叫んだ。耳をつんざく声が部屋に響く。一瞬のうち、声は、次第に小さく、細く、すすり泣きになった。拳は中空にあった。私は、壊す事が出来なかった。ただ、壊せなかった。私は、膝から床に崩れ落ちた。低い天井を見上げた。唇を噛んだ。そして、笑った。笑うことしか出来なかった。
 この区画の構造は古かった。まだ建物と建物の間に境界溝という道が設けられていたのだ。ただ、もうそれは過去の話であった。家の玄関には、新しく一枚の扉が増設された。意味のないものではなかった。これら二つの扉は行きたい場所に繋がっている。「全ての扉は、行き先に通ず」といったわけだ。構造はようやく生まれ変わったのだ。

20240509@Alleys of Shiba-daimon

「病毒」大嶋 美輝

「また寝坊? いい加減にしなさいよ?」
 毎朝ヒステリックな母の声に、あたしは飛び起きる。心臓が早鐘のように打ち、目が覚めてすぐに恐怖が体を包み込む。人は不安を感じさせる音を聞くと心理的に危険を察知して起きるという性質があるがまさにそれだ。あたしの体に染み付いた「危険音」。それを聞くたび、「ああ、また怒られる」と思ってしまう自分がいる。
 あたしは布団から這い出し、そろそろと台所へ向かう。朝ごはんの準備をしている母の背中が見えた途端、心の中に嫌な予感が渦巻く。母はあたしの足音に気づくや否や、振り返って声を荒げる。
「この歳になってもなんで一人で起きられないわけ? 朝ごはん、あんたの分はないからね。」
「…今日ね、熱があるみたい。」
 あたしは震える声で訴えてみたけど、返ってくるのは相変わらず冷たい一言。
「は? 風邪とかありえないから。なんでいつもあんたは風邪を引くの?」
 どうして母は「大丈夫?」の一言もくれないんだろう。そんな優しい言葉なんて期待しちゃいけないのかもしれない。あたしは思わず俯きながら言い訳するように言った。
「ごめんなさい。でも…わざとじゃないよ。あたしだって引きたくて引いたわけじゃないのに。」
「予防してれば風邪なんか罹らないの!」と一喝される。
「また仕事休まないといけないでしょ。あんたは本当にこの家の疫病神だよ。」
 「疫病神」。その言葉が胸に刺さり、心の奥で冷たい毒がじわじわと広がっていくのを感じる。
 ごく普通の家庭で周りの友達と同じごく普通の日常を過ごしてきた。母だっていつもは料理を作ってくれるし、洗濯や掃除もしてくれる。でも、あたしには母に気軽に話しかけられないという暗黙のルールがある。バラエティ番組の話や友達のことを話しても、必ず途中で説教が始まる。下手をすると友達のことまで侮辱されるからだ。だからあたしは母とは事務連絡以外の会話を避けるようになった。間違えて怒りのスイッチを踏んでしまわないように静かに過ごす。あたしの家、普通に見えるかもしれないけどもしかしたら歪んでいるのかもしれない。少なくとも仲良くみんなが中和しているとは言えない。
 いつものように学校に向かうと、教室の空気がいつもと違っていた。みんながひそひそ話をしながら、一人の男子の席にちらちらと視線を送っている。
「おはようー何があったの?」と、あたしは近くにいた友人に尋ねてみた。すると彼女は腫れ物を扱うように気まずそうにこう答えた。
「…あの子のお父さん、不倫が原因で離婚したらしいよ。」
 その瞬間、あたしは心の中で「よかった」と呟いてしまった。こんなに心の底から「普通」であることに安堵を感じるなんて、少しおかしいかもしれない。でも、友達の家庭が波乱に満ちていることを知ると、あたしの家は少なくとも「フツー」なんだと思えるのだ。
 その日の夜、あたしは母の怒りを再び買ってしまった。塾の帰り道、友達と恋話に夢中になってしまい、門限の20時を少し過ぎてしまったのだ。こっそり自分の部屋に戻ろうとしたが、母に見つかってしまった。
「なにやってんの! この時間まで!」
 母の声は怒鳴り声を超え、刺々しいほど冷たい。言い訳しようとしても反論されるだけ。そんなやりとりの中、母はお玉をあたしに向けて投げつけてきた。その瞬間、あたしの意識は一瞬空白に包まれた。あまりの速さに反応する暇もなかった。気がつくと、背後の壁に大きな穴が空いているのが見えた。もしあたしの方に少しでも逸れていたら、きっと顔面に当たっていたはずだ。恐怖と衝撃で体が震えた。母の怒鳴り声が遠くに聞こえ、心の奥から冷たい毒がじわじわと流れ込むように感じる。この家で何度も経験してきたこの恐怖に、あたしは深い絶望感と寒気を感じた。
「ああ、また風邪がぶり返したかも…」
 あたしはこっそりと薬箱を開け、風邪薬を五、六粒一気に口に放り込んで水で流し込んだ。こんなことしても本当に治るわけじゃないのは分かっている。でも、少しでも痛みや辛さを紛らわせたいのだ。
 小さな頃、母に叩かれたこともあった。あの頃は「躾」のためだと思っていたし、どの家庭でも同じように叱られているのだと信じていた。でも、いつからか母が手を上げる仕草をするだけで、あたしの体はビクッと反応するようになっていた。自分がまるでドラマでよくある虐待を受けている子供みたいだと感じたけど、そんな大げさなものではないと自分に言い聞かせた。それでも学校で配られる「子供相談窓口」のダイヤルが書かれたプリントを手にした時、本当に掛けたらどうなるんだろうと、周りの男子が紙飛行機にして飛ばしあっている中で真剣に考えたことがある。だがあたしはあの男の子のように親が離婚したわけでも、DVされるわけでもなく、はたまた育児放棄されていることもない。あたしより辛い環境で過ごさなくちゃならないような子が助けを求める場所なんだ。そう思うとあたしはどこに頼ればいいんだろう。あの電話番号の向こうに、あたしの気持ちをわかってくれる人がいるのだろうかとふと思った。
 そんな時丁度父が廊下を歩いているのを見かけた。一瞬、父に助けを求めようかと考えた。でも、すぐにその考えを振り払った。どうせ父に頼んだって、すぐに忘れてしまうに決まっているから。あたしのこの毒に蝕まれた心なんか知るはずもない。父は片手に焼酎瓶を持ちながら、千鳥足で「まだ酒はねえのか?」とぼやいてまた居間に戻っていった。あたしにとって、父もまた病原菌の一つでしかないのだ。
 深夜あたしはベッドに横たわっていたが、なかなか寝付けなかった。母の部屋からはうめき声や奇妙な声が聞こえてくる。まるで母自身も心まで毒に侵され、治ることのない病に取り憑かれているかのようだった。そんな母の姿を想像しながら、あたしはいつの間にか眠りに落ちていった。最近よく夢の中で、あたしの体が溶けていく姿を見る。そして最終的にあたしは一滴も残らずに消滅してしまうのだ。その瞬間に母の怒鳴り声が耳に飛び込んできて目が覚める。毎日それの繰り返しだ。
 ある日の夜またもや母の機嫌を損ね、罵倒を浴びせられた。ただ少しだけ部屋の片付けが終わってなかっただけなのにだ。
「あんたはなんでそんなにも私を怒らせるわけ? 片付けもできないとか障害なんじゃないの?」
 その言葉を聞いた瞬間、涙も出なかった。いくら何でも娘に対する発言ではない。壊れて穴が空いた心を埋めようととあたしは急いで薬箱を漁って、瓶の中にある錠剤一粒残らず飲み込んだ。ああ、感覚が麻痺していくこの感じがたまらない。しかし酔いしれていたのも束の間、いきなり母があたしの手から無理やり瓶を全て奪い取り、床に投げつけたのだ。唯一あたしがあたしを保つことができる大事なモノは、大きな音をたてながら、粉々に割れてしまった。その瞬間、あまりのショックにすべてが耐えられなくなったあたしは無意識に家を飛び出したていた。少し横目に涙を流す母を見たような気がしたが、怒りに駆られて気にも留めなかった。そして街頭一つない暗闇を無我夢中で走っているうちに、あたしの中の黒ずんだ液体のような感情がバケツをひっくり返したように一気に溢れ出していった。頭もガンガンと響き、体は張り裂けそうなぐらい痛かった。あたし、このまま誰にも知られることなく形を失って消えていくのかも知れない。でもその方があの汚染された息苦しい家に戻るよりよっぽど楽になれる。こんな痛みからも解放される。そう思い、溶けていくままに身を任せ、目を瞑った時だった。
 急に人影が近づいてきて、あたしの前で立ち止まったと思ったら、急にしゃがみ込んで液体状になったあたしを片手鍋の中に掬い上げていったのだ。どのくらい時間が経ったのだろう。あたしはその後すぐ意識を失っていたらしく、いつの間にか鍋の中に全て「治っていた」。その人物は溶け出したあたしを一晩中かけて集めてくれたようだ。
「どうかね、大丈夫か?」としわがれた、でも温かみのある声にあたしは消えかけていた心を取り戻した。誰からも抱える病気にさえ気づかれず、毒の闇に飲まれて消えるしかないと思っていたあたしにとって、その声はぐっと強く現実に引き留めてくれる気がした。そしてドロドロになった体も再び人間の形を成そうと固まり始めたのだ。まだ少し視界がぐらついていて、力の入らない足を何とか立たせてあたりを見渡してみた。すると思っていた以上に遠くにきてしまっていたらしく、ここは家の反対側にある河川敷だと気づいた。発作のような、あの苦しい衝動も治ってきて、ようやく目の前の人物に目を向ける。
 あたしを救ってくれたのは、性別もわからないボロボロの服を纏った老人だった。老人はこの辺の草むらで寝泊まりしているらしく、あたしが突然溶け出していたところを目撃して、様子を見に来たのだと言う。老人は何事もなかったかのように
「今から朝食にするんじゃが、食べるか?」と聞いてきたが、結局返答を求めていたわけではないのか、あたしの返事を待たずにそそくさと準備し始めた。あたしがさっきまで入っていた片手鍋に味噌とドクダミやらなんやら雑草を入れ、持ち運び用の錆びたコンロに火をかけた。その後もごそこぞ紙袋の中を整理したり、川に水を汲みに行ったり忙しそうにしていた。そしてひと段落したのか、鍋が温まるまでの間老人はまたあたしに話しかけてきた。「あんたのその病気、辛いじゃろうな…」と老人が言った瞬間、心の奥にあった硬い氷が少しずつ溶けていくような気がした。ずっと誰にも理解されなかったあたしの痛みを、見ず知らずのこの老人が見抜いてくれたことが、不思議なほど温かく感じられた。またそれから急に「あのな、毒というのはね時に特効薬にもなるのじゃよ。お前さんのためを思っての苦さであって、いつか助けになるやも知れない。そのことは頭に入れておきなさい。」と意味のわからないことを喋り出した老人に、あたしは戸惑った。そして続けざま 「そしてな、心に燻っている思いは全て吐き出しなさい。互いの主張の調和が良薬を作る鍵になのだよ」と諭すように老人が言い終わった。あたしは何て返事をすればいいか悩んでいた丁度その時、タイミングよく鍋が沸騰し始めたため、そこで会話は終わった。
 朝日が昇る中、あたしは老人が作った味気のない、薄いお湯を飲みながらお母さんのお味噌汁の味を思い出した。そして老人の言葉が何度も頭の中で繰り返され、不思議と心に染みこんでいった。すぐに答えが出るわけじゃないけど、この心に詰まった苦しみや、閉じ込めてきた思いを、少しずつ外に出してもいいのかもしれないと思った。あたしの中で、わずかだけど、重く冷たい「毒」が暖かい光に少しずつ溶かされていくような感覚があった。その後老人とともに静かなひと時を過ごして、あたしは老人と別れを告げ、決着をつけに家に戻ることにした。

 台所へ向かうといつものように母が鍋をかき混ぜていた。もしかしたら、母もまた調和する準備をしているのかもしれない。あたしは震えながらも、声を絞り出した。
「あたし、お母さんの気持ち、理解したいと思う。だから、あたしの気持ちも聞いてほしいんだ」
 母は少し驚いたような顔をしたが、何も言わずに鍋をかき混ぜ続けた。その一瞬に、あたしは微かに、母の奥に潜む寂しさと、わずかばかりの愛情が感じられた気がした。
 調和するのに時間はかかる。毒は毒だ。あたしの心の中の毒はすぐには消えないけれど、ここから少しずつ癒えていけるかもしれない。医者でも治せない拗れた病が、ゆっくりと回復の兆しを見せた。

20240714@Zushi 7th Street

「未満」西村 美海

 知人が死体を持ってきた。
 知人は、友達ではない。ただ同じ大学の同じ学部で同じ授業を受けているだけだ。授業中は世間話や趣味の話もするが、空きコマや休日に会うような間柄ではない。だから決して友達ではない。
 そんな彼は深夜に突然、私の家を訪ねてきた。
「うちに泊まる気なのか」
 後ろに寝袋を背負っていたのでそうだと思ったのだが、友達ではないから有り得ないだろう。すると彼は私の想像より遥かに有り得ないことを口にしたのだ。
「死体だよ」
 私は思わず自分の耳の存在を確かめた。この耳が正しく体に付随していなければ、今のは幻聴ということになる。だが耳はいつも通りに自分の顔の側面についていた。どうやら幻聴ではないらしい。
「とりあえず上げてくれ」
 彼があまりにもいつも通りだから、そのまま家に迎えてしまった。

 彼はなぜか濡れていたので、とりあえずお風呂に押し込んだ。うちのシャワーは冷たい水と熱い水しか出ないが、それは彼の家も同じだからおそらくは大丈夫だろう。準備中にいくつか質問をしようと思ったが、脱衣所から「ごめん」と聞こえたので、今はやめとこうと思った。

 リビングの中心には青い寝袋。そしてそれを挟むようにして座る。
「お風呂ありがとな」
「いや、別にそれはいいんだけど。説明はしてくれるよな?」
「説明っていっても、これ以上言うことはないんだけどな」
「いやあるだろ」
「例えば」
 そう聞かれるとかなり困る。疑問が溢れすぎて、なにから聞いたら良いかわからない。とりあえず可能性が高いものから消すことにした。
「これはドッキリなのか」
「いや、どんなドッキリだよ」
「深夜に知り合いが死体を持ってくるドッキリ」
「面白いこと思いつくな。だけど違う」
 彼はきっぱりと否定した。
「違うのか」
「お前の俺のイメージどうなってるんだよ」
「うーん。陽キャ?」
 彼が所属する軽音サークルはかなりの大所帯で、いわゆる飲みサーというやつだった。彼の周りにはいつも多くの人がいてにぎわっている。だからそいつらに言われてドッキリをしに来たのかと思ったが、違うようだ。
「他には何かないの、質問」
 こうなったら、片っ端から単刀直入に聞いていくしかない。
「まず、この死体は誰だ」
 一番大事な部分だろう。この死体が俺の知り合いだったら迷わず警察に通報するし、いや、知り合いでなくても通報しなくてはならないのだが、気持ちが異なる。
「見てみるか」
「いや、見ないし触らない」
「えーじゃあ教えない。ていうかお前の知らないものだと思うし」
 彼は手を伸ばし、閉められたチャックを開けようとした。人に死体を触らせて来ようとするのはなかなか異常だと思ったが、こんな状況になっているなら異常もクソもないなと冷静になった。
「えっと。じゃあ、これはお前が殺したのか」
 これも大事だろう。この死体がその辺に転がってたのなら、詳しくは知らないが死体遺棄罪だけで済むのだ。そしてどうしても彼が人殺しとは思えない。
「うん」
 否定の言葉を待っていたが、またもや予想は的中しなかった。
「そうか」
「うん。幻滅した?」
 幻滅とはちょっと違うかもしれない。確かに予想外だし、あり得ないと思う。だけどなぜか、嫌悪感は湧かなかった。
「別に」
 彼は少し驚いた顔をして、そのあと笑った。
 彼の姿を観察していても、本当にいつも通りだった。いつもと同じく、くだらないことを言い合って笑う彼のままだ。
「じゃあ三つ目、なんで私のところに来た」
 個人的に一番気になるのはこれだ。ただの知人の家に、自分が殺した死体と一緒に来たのは理解不能だ。
 ――沈黙。先ほどまではあんなに軽く答えていたのに。これは彼にとってなにか大切なものを秘めているのだろう。
「…俺は今まで人を信じてきたんだ」
 彼は目線をそらし、叱られた子供のような声で語り始めた。
「でも違ったんだ。人を信じちゃいけなかったんだよ。人は結局自分のためにしか生きられない」
 彼はいつも優しい。落単しそうな友達のために教授にかけあったり、学祭で率先してライブを進めたり、人と関わることが好きなのだろう。私は一人の方が好きで、他人と関わることは面倒くさいタイプだから、素直に感動した覚えがある。そんな彼が、人を信じないというのだ。よっぽどのことがあったに違いない。よっぽどのことがなかったら殺しなんてしない。
 でも、だからこそ、私は彼を否定しなければならなかった。
「それは違う。人は人を信じなくちゃいけない。一人では生きていけない。お前はそういう人間だろう。今までの自分を否定して何が楽しい」
 初めて会話を交わした日を思い出す。あれは私がレポートを書き忘れたときに、彼が「お互い様だ」と言って見せてくれたのだ。他人を慮れる人間なんてそう多くない。それなのに、彼は私に初めて屈託のない笑みを見せてくれたのだ。
 きつい言い方しかできなかった。そうさ、私はあの頃の彼しか見れなかった。別に友達じゃない。ただの知人。なぜ私はただの知り合いにこんな感情を抱いているのか、不思議に思いつつも、なにかが腑に落ちた気がする。
 彼の目線は下を向いたままだった。罪悪感が肩に乗っかっていて、ひどく重そうだ。その重さを分けてくれたら、彼がそれを善しとしてくれたら、どんなに良かったことか。
「違くない、だって、君こそそういう人間だろう? 他人を信じれなくて、だから一人が好きで、将来自分だけで生きていけるように努力している、そういう人だ」
「私はそうだ。だがお前は違う」
 彼の縋るような目線を感じ、今度はこちらが逸らしてしまった。
「今までお前が歩いてきた道は私とは全く別の道だ。それをなかったことにはできない。人を信頼するべき、それがお前の信念だろ」
 ここに来た理由を問いていたはずなのに、なんだか違う道に迷い込んでしまった。
 やっと目を合わせることができた。いつもの瞳はそこになく、仄暗い沼が広がっていた。
「そうか、君はそういうやつだったか」
 とある小説を思い出した。小学校の頃に習った、蝶にまつわる話だ。私もその話の主人公と等しく罪人になってしまった。急に自分の良心が恐ろしくなった、なぜこんなに追い詰められないと働かないのかと。自分は失態を犯したのだ、彼は肯定されるためにここに来たのではないか。人を信じないと決めて、同じ意思を持った私の所へ来たのだ。完全に対応を間違えた。やらかした。
 しかしこうも思った。私がしたことは正しい。だって彼はこの道に来るべき人間じゃない。光の中で、それに負けないぐらいのまぶしさで笑う、そんな姿であるべきだ。そうか、私は彼に憧れていたのだ。だから友達になりたくない、だから間違ってほしくない。じゃあこれはエゴだな。彼の気持ちを全て無視した結果だ。もともと人の感情を考えるのは苦手だ。ならせめて。

 ピンポン。
 覚悟を決めた途端、空気が震えた。インターホンだ。玄関に誰かがいる。
「警察か?」
 いや、だって彼が死体を持ってきていることなんて、私しか知らないはずだ。その心配はない。じゃあ誰だ。
「出てくるから、お前はそこにいろ」
「あ、あぁ」
 かろうじて返事は聞こえたが、俯いていて表情はわからなかった。
 とりあえず帰ってもらおうと玄関の戸を開く。
「こんばんは」
「こんばんは。何の御用ですか」
 そこにいたのはこのアパートの大家さんだった。
「先月の家賃、多くもらいすぎちゃったみたいだから返そうと思って。迷惑だったかしら?」
「起きていたので迷惑じゃないですが、非常識とは思いますね」
「あら、ごめんなさい。思い出したときに行動しないと。最近物忘れが激しくて」
 一万円札を受け取ると、大家さんはにこやかに去っていった。どうやら彼のことを追ってきたわけではないらしい。
 安心してドアを閉め、リビングへつながるドアを開ける。

 が、そこに彼はいなかった。
 忽然と姿を消したのだ、真ん中に異質に佇んでいた死体とともに。
 びゅう、と風が吹いて窓が開いていることに気が付いた。あぁ、彼は飛び立ったのだと。肯定されに来たわけでも、もうこれ以上飛べないと嘆きに来たわけでもなかったのだと。
 まったく意味が分からなかった。彼が何のために、何を殺して、消えたのか、何一つ。それを知るまで彼を追わなければいけない。たったそれだけの執念で体は動いていた。冷たい風を吸い込んで噎せても、彼がいない事実だけは変わらなかった。
 彼を友と呼んでいれば、憧れに気づいていれば、もっと前に出会っていれば、共犯になっていれば。私が信じた道が間違いなのか、彼に進ませようとした道が正しいのか、もう、なにもわからなかった。正解も不正解も条理も不条理もわからないまま、彼は未満になった。
 裸足でアスファルトを蹴る感覚は久しぶりだった。小学校の頃に母に叱られ、家を飛び出した時以来だ。結局自分から家に帰ってしまうのは、やはり子どもならではの習性だろうか。
 ふと上を見上げる。果てしない透き通った紫黒。いつの日か彼と見た星空を思い出す。あれはゼミで行ったキャンプの日だった。新月で残念だと思っていたのだが、彼が「新月の方が星が見やすいんだ」と教えてくれたのだった。
 だけど今は、満月が孤独に輝いていた。

20240714@Kanazawa-Hakkei Station

「夢の中」加藤 嘉乃

 私にはだれが見ても仲がいいと言い切れる人が一人だけいる。私がどこにいようと関係ない。だって仲がいいのだから。でも、ずっと会ってない。
 最後にあったのはいつだっけ?
 あの頃の記憶は特に曖昧なところが多いかもしれない。私はずっとという訳じゃないけど、まどろみの中にいた。母が病院に連れて行って、病院に行ったから多分薬をもらったのだろう。そうしたらあの子が会いに来てくれた。起き上がれないからずっと喋っていた。母は何も言わなかった。いや、私が話さなかった。ずっと前から家族と会話がかみ合わない。そんな人と誰だって話したくないでしょう? 後、あの子が来てから夢も変わった。ずっと何かが怖くておびえていて、ろくに眠れない私にあの子は「寝ても会えるよ〜」と言ってくれた。疑心暗鬼だったけど本当に会えたんだ。
 あの子は私の夢の世界を広げてくれた。私の夢は空が暗くて、雨が降っているから現実で何か月も当たっていない雨にずっと当たっていた。それで、寒くて、苦しくて、辛くて。ずっと一人だったけど、あの子が傘を持って私のところに来てくれた。二人で雨の中を歩いて、まだ楽しかったころを思い出した。そうして明かりが見えたころ私の夢は途切れてしまった。
 目が覚めたのだろう。昨日はいつから寝たのか覚えていないが、カーテンから明かりが漏れて部屋の時計の短針が12を指しているから多分ご飯を食べる時だ。リビングに行けば、案の定お弁当が置いてあって、メモもあって。でも読めなかった。また何かきっと分かり合えないことが書いてありそうだから。お弁当も食べきれなかった。量が多い。夜に食べようと思い、冷蔵庫に入れてまた眠りについた。
 あの子は雨の中ずっと待っていた。さっきは「土砂降りだったけど、少し弱くなった。かも?」そう言ってまた私を傘に入れてくれた。あいつらとは違う。それと明かりの正体は川辺を飛ぶ蛍だった。凄くきれいで儚くて、そしてここには雨が降っていない。うっすらと雨の匂いがするけれども、それもまた風情があってよかった。蛍を眺めて、鈴虫の音を聞いてあの子とずっと喋っていた。こんなに完璧に話が合う子はいない。楽しくて会話がひと段落ついたころ、また目が覚めてしまった。
 今日はいつだろう? 時計が見当たらない。赤いから夕焼けだろうか。久しぶりに見たからか、すごく綺麗だった。だから暗くなるまで眺めていた。
 あの子に次に会った時、今度は教室だった。雨は相変わらず。教室は―無理だった。息が詰まって、忘れようとしていた記憶がよみがえる。何だろう、何か音がする。ここはだめだ、ここにいちゃいけない。教室から離れて、でも行く当てもないから、フラフラと彷徨って。そしたらあの子が見つけて案内してくれた。「教室はむり」「え〜楽しいのにぃ。分かった。じゃあ星を見に行こう」そう言って満天の星がきれいな、草原に連れて行ってくれた。星がきれいで、寝転びながらただただ星を眺める。ここにあいつらと来ていたらきっと意味のない感想文を書かされたに違いない。ただ穏やかに時が流れる。それで思い出した。「今日はね、目が覚めたら空が赤かった。あるはずの時計もなかったんだ。何でだろう」「怖かった?」「綺麗だった。久しぶりに見るものは綺麗だね。」「そう」「今度写真を撮ってくるね。見せてあげる。」「ここでも見られるよ?ここにいればいい。だってきれいでしょ?落ち着くでしょう?」なぜか怖くなった。何だろう。よく考えたらあの子が誰か知らないことに気が付いた。そして吸い込まれそうな眼をしている。ダメだ。思考を読み取られる。あいつらと同じ目だ。あの恐怖を思い出しながら目を覚ました。
 目が覚めると不思議とあの感覚が消えた。念の為、ドアノブと壁に耳を澄ませていたが何も聞こえない。おおよそ幻覚かもしれないと考えとりあえずリビングに行くと、母がいた。日時の感覚が既に欠落している私にとっては良くわからなかったがなんでも休日らしい。母は、機嫌がよく、何が食べたいか聞いてきたが、正直なんでもいい。どれも大差ない。傷つけないように「ママが好きなものを食べたい」とだけいった。適当にテレビでも見ていたら、空が青かった。あれは何だったのだろう。とにもかくにも頭が回らないので、ゆっくり考えていたら母がパスタを持ってきた。湯気が上がっているし多分美味しいのは間違いないから美味しそうとだけ言って食べ、また眠りについた。
 あの子が不満そうな顔をして待っていた。「遅くない?」と言っているが私にとってはいつもと変わらない時間のため、「いや。普通だよ」といったがますます不満そうな顔をする。
 ついでに「今日はよく動けるから遊園地に行きたい」といった。いやな顔をされたが歩き出したからついていったら本当に連れて行ってくれた。そして雨は相変わらずだが少なくとも土砂降りではなかった。雨の遊園地には行ったことがない。ありとあらゆる乗り物に乗ってから、フードコートに行けば「何が食べたい? 私が選ぼうか」と言われたが、「パスタがいい」と言えばまた渋い顔をする。何がいけない? やっと自分で決められるようになったのに。どうせなら、ほめてほしいものだ。パスタを食べながら、どうして機嫌が悪そうなのか聞けば、何でもないとだけ言う。何でもないとかいうやつは、大体何かしらの不満を持っているが、あえて聞かないことにした。だってなんでもないんでしょう? 食べ終わればいよいよ遊ぶ時間! あらゆる乗り物に乗って遊びつくした。でも、遊んでいる途中あの子から不思議と距離を感じた。こう、嫌な距離感。自分だけ取り残されて、会話についていけないあの感覚、取り残され、会話を続けようとすれば、切り上げられるような。もう潮時なのかもしれない。人間関係は確かに大事だが、今の人間関係がずっと続いていくかといえばそういうわけじゃない。どうせ、都合のいいことしか覚えていないのだから。終わり際に、そう考えながら、手を振って目を覚ました。
 目が覚めて時計を見れば、10時ぐらいだった。今日は不思議と元気があるから、動けそうだと思い外に出ることにした。適当に着替えて外に出れば、少し肌寒く、でも暖かかった。今日は、そうだ、あのきれいな川に行こう。ぽかぽかと心地よく、ゆっくりと歩きながら、外に出たのはいつ振りかと考えながら歩いていたらついた。川は予想通りきれいで、夢で見た川も現実ならこんな感じだろうかと思いながら、水に触れてみた。思いのほか冷たくて、でも心地よくていつ振りかの外を楽しんだ。ずっと触れていたかったけど、嫌な音が近づいてくる。見つかる前にそっと離れた。
 家に帰れば12時半ぐらいだった。ちょうどいいしお昼ご飯を食べた。外に出た効果か、薬が効いているのか、それとも元気だからか、珍しく完食することができた。何だろう、まだ眠くない、もっと何かできる。そうして私は、久しぶりに昼間にずっと起きていた。おきて、テレビ見て、ゲームして、こんなに元気なのはいつ振りだろうか? そうして明るい時間を楽しんでいると、母が帰ってきた。母は珍しく起きている私を喜び、そして、今日はお刺身が食べられるらしい。母と二人でご飯を食べながら、今日のことを色々と聞かれたが、当たり障りのないことを言っておいた。余計なことを言えば勝手に期待され、勝手に裏切られたと言って切れてくる。私は、お前がしたことを忘れちゃいない、そこまで馬鹿じゃない。そう心の内を隠して二人でご飯を食べた。そして珍しく、私にしてはとても健康的な時間に眠りについた。
 気付けば雨は止んでいて、月が見えないから多分曇っているのだろう。ポツンと木があって、あの子が座り込んで今度は悲しそうな顔をしている。めんどくさいなと思いながらそばに行くと、遅いとだけ言われた。ゴメンとしか言えず、あの子を見ると、何か言いたげで長く話しそうな雰囲気を醸し出していたから、めんどくさいなと思いながら、耳を傾けた。「私はここにしかいられない。私はここでしか生きられない。私だけ、ずっととらわれる。どうして、現実を直視するの? 苦しいことばかりでしょう? ここにいればいい。あなたのためだ。」なんてだるいことを言う。「私は、最近落ち着いているの。ずっとここにはいられない。起きていられる時間もふえてきた。でも、会えなくなるわけじゃない。ここにはずっと来るよ?」「気を使わなくていい。使わせたくない。私は、あなただから。」「私たちはもう終わりだ。わかっていたけど、早かった。君は軽かったんだ。でも、一つだけ言わせてね。これ以上話す気はないから。」「何?」「逃げたいって思ったら、逃げるんだよ。私みたいに、ここでしか生きられなくなる」「さようなら。もう会わないことを願っている」追いかけては、いけない。私は、理性的で、物分かりがいいから追いかけなかった。
 夢の中を一人で、探索するのは、寂しい。けれども、あの子に会えるかもしれないし、新しい場所が見つかるかもしれないから、歩き続けた。雲が晴れて頭上には星が輝いていた。最初に見つけた遊園地は廃墟だった。寂れて、活気がない。遊具もさびていて、本当に私はこの前ここで楽しんだのだろうかと疑問に思うレベルだった。足早にここを去り、しかし、道に迷ってしまったので、何故か川についた。川も、恐ろしく汚くて、あの子と楽しんだ川は、その近辺を歩き回っても存在しなかった。仕方ないから歩き続けた。記憶をたどって、歩き回って、どうにか学校についた。ここには入りたくないが、もうそんなことも言ってられないだろう。
 足を踏み入れたその場所は、恐ろしく静かで、不思議と恐怖心を感じなかった。歩いて、記憶をたどって、教室の扉を開けると、そこはただの教室でしかなかった。きれいな、無機質な教室。一つ席を選んで座ってみても特に変化はなかった。あの頃の嫌悪感は何だったのだろう。座っていても何も起きず、あの子もいない。あの子が言った通りもう会えないのだろう。諦めなければ。私だけの悲しみを抱えて目を覚ました。
 あの後からさらに状態は落ち着いて、学校生活はともかく、日常生活には何の問題もなく過ごせるようになった。相変わらず味方はいないが。孤独とも取れるこの状況を味わっていると母が帰ってきた。ご飯を一緒に食べていると、母は転校を提案してきた。私は正直どちらでもいい。どうせ私の意見は通らないだろうし。でも聞く限り転校をさせたそうだった。だから、すると言って早々に切り上げ、部屋に戻ろうとすると母が今日は綺麗な満月が見れると教えてくれた。それならばと外に出てみると確かに綺麗だった。母も出てきて私と見ていると、月が影ってしまった。母は残念と言って戻ったが、私は目が離せなかった。母にとってこの月は価値がないから部屋に戻った。陰った月には価値がない、だから、いずれ忘れていく。忘れるのは価値がないから? そうだった。人は、声から忘れていくらしい。私はもうあの子の声がうっすらとしか思い出せない。あの子が変わっていく。私が覚えていなければあの子が消えてしまう。有象無象の一つになってしまう。とりあえず覚えていることを描いて残さねば。記録として、描けばあの子はずっと生きている。ここでしか生きられない、そう言ったあの子を、私は覚えていたい、忘れたくない。そう決意していたら、月が雲から顔を出した。私は安心して、あの頃の、全てを描くことにした。

20240923@Hamasakibashi Junction

「ガダルカナルの夢」宇野 明信

 俺はもう生きる気力を失っていた。
 もう、かれこれ十二時間、YouTubeのショート動画を見続けている。既に、俺には昼夜の感覚もなくなっていた。両親が食事を用意してくれている間は、それでもまだ日付の感覚、時間感覚があったが、二日前から両親がサイパンへ海外旅行に出かけているため、ろくなものを口にしていない。食べるものがないわけではない。どころか、三十にもなろうという無職の俺のために、食事代すら置いて行ってくれている。街に出て、適当に食事もできるし、冷蔵庫の中にはふんだんに食糧もある。二十代の頃に、短いながらも真っ当に働いて自立していた頃は、自炊すらしていたのだ。簡単な食事くらいなら作ることもできる。
 でも、今は食欲が全くわかないのだ。なぜならば、俺は今、ただただ老いた母親の作る飯を喰らい、排泄物を垂れるだけの存在にすぎず、そんな存在が生き続けることの意味が分からなくなっていたからだった。確かに、ただ生存し続けることはできる。俺の家自体は、代々続く地主の家だから不労所得が黙っていても入ってくる。だから、両親も隠居後この円安の時であっても海外旅行に行くような経済的余裕はある。ただ、生存するためだけならば、働く理由などないのだ。それは幸福なことなのか、不幸なことなのか正直分からない。
 そのようなわけで、謂わば生の倦怠感を誤魔化すために、確か夜の十時頃から、俺はただただスマートフォンでYouTubeのショート動画を、実家の自室のベッドの上で眺め続けていたのである。
 本当に我ながら無駄な十二時間である。無職で殆ど引きこもりですらある俺は、何か就職の役に立つ資格でもとれるような勉強でもするべきなのだろうが、実際にやっていることは、ただただ何の役にも立たないショート動画を見続けていただけである。結局、そんな生活をかれこれ五年も過ごしている。大学卒業後に何となく就職した工務店の事務職で、二十五歳の時に、同期の友人だと思っていた男に裏切られ、その男の失敗をすべて俺のせいに押し付けられてから、鬱病を発症して休職、そのまま退職し、今に至っている。今でも、その時のことがフラッシュバックして嘔吐感にさいなまれることがある。ショート動画を見ていれば少しは気がまぎれるような感覚もあるが、所詮それはその時だけのことで、それを見るのを止めた途端に、生の倦怠感に再び襲われる。
 Google先生も大したもので、俺が普段検索欄に入れるような言葉を分析して、絶妙に興味のありそうなショート動画を無限に提供してくださる。コーギー犬がただひたすらキュウリを咀嚼しているだけの動画や、プリウスが高速道路を逆走してくる動画や、異常な新興宗教施設をGoogleマップで上空から紹介する動画や、超絶技巧のベースプレイ動画に紛れて、たまにウクライナの戦地の様子、具体的にはロシアの空爆によって破壊された病院の様子や、パレスチナのイスラエルによる残虐行為、虐殺とも言えるような空爆の様子が挟み込まれていた。確かに、俺にはミリタリー趣向のようなものがあり、引きこもりながらも唯一続けている趣味のプラモデル作りもミリタリー好きから高じたものだ。だから、無意識に検索していた「戦争」やそれに類するキーワードを、GoogleのAIが読み取り、俺にショート動画を見せたのだろう。もちろん、いい気分はしない。その一方で、八十年近く戦争とは表面上にしろ無縁な経済的には恵まれた国にあって、ベッドで寝そべってそれを高みから見ているだけの自分に自己嫌悪が起きなかったとは言えない。とりわけ心が、というよりは魂が揺さぶられるような気分にさせられたのが、やはり日本の太平洋戦争関連のショート動画だった。とりわけ「ガダルカナル」という地名を聞くと、全身の血の気が抜けるような感覚に陥った。今、インパール作戦のショート動画の後に、ガダルカナル島のかつての戦地を紹介する動画が始まりかけたところで、なぜか唐突に急激な喉の渇きに襲われた。食欲はなくとも、喉の渇きだけは誤魔化すことができない。
 俺は、半日ぶりに自室を出て、下階のリビングに向かおうと階段に向かったところで、食事をしていなかったせいだろうか、急に眩暈に襲われ、力が抜け、階段を転げ落ちた。そのまま、踊り場で尻もちをついたが、後頭部を強く打ち付けたらしい。一瞬何が起きたのかわからなかったが、しばらくして、驚きが去って、また情けなさに襲われた。そのまま当たり所が悪くて、死んでしまっても良かったのではないかとすら自虐的に思った。三日後に両親が海外旅行から帰ってきたところで、階段で死んでいる息子に対面させるのも悪くないようにすら思った。
 そんな情けなさに満たされながらも、ジンジンし始めた頭をさすりつつも、頭を冷やそうと思うのと、喉の渇きにもやはり襲われ続け、とにかく這いつくばりながら冷蔵庫に向かった。しかし、台所に達する手前のリビングまで到達したところで、俺の意識は薄れ飛んで行った。
 さっきとは比較にならない空腹感にさいなまれて、目を覚ます。何か様子がおかしい。明らかに、さっき倒れた自宅ではない。そもそも、室内ですらなく屋外だ。蒸し暑い。見える空を縁取るのは、日本ではなくジャングルの植生だ。遠くから、銃声が聞こえる。また、手榴弾や艦砲射撃の破裂音も聞こえてくる。時間帯は朝のようだ。
 そうだ。俺は夢を見ていたらしい。遥か遠い未来だった気がする。今はまぐれもなく昭和十七年で、ここはガ島だ。
 俺の部隊は、昨晩の夜襲突撃で壊滅した。壊滅することは、部隊長含め全員が分かっていた。もはや補給線も絶たれ食糧も弾薬もなく、待っていても飢え死にするか、マラリアに罹って苦しみ死ぬかの二択しかなかった。ならば、いっそのこと米軍に突撃し、玉砕すべしとなったのだ。確かに、この苦しみから逃れられるならば、機関銃で安楽死させてもらった方が楽だったかもしれない。
 「天皇陛下万歳」と叫び三八式歩兵銃の銃剣を突き出しながら突撃する先鋒。俺はそれに続く部隊の中盤にあって、次々と先鋒が機関銃で倒れていくのを見つつ、次は俺の番だというところで、怖じ気付いたのだ。敵の機関銃は十字に撃ち込んで確実にこちらを仕留めて来るなか、俺は左ももを撃ち抜かれた。俺は左によろけるのに合わせてそのまま仲間の群れから九十度転回し、ジャングルの草むらに飛び込んで、逃げだしたのだ。
 だが到底、助かったなどとは言えない。仲間を裏切って逃げた俺は生き延びたのではなく、ただ死期を一日か半日伸ばしたのに過ぎない。昨日逃げるときに撃たれた左腿の傷に早くも蛆虫がわいている。止血する包帯や布すらない。もう死ぬしかないだろう。
 死ぬ直前に見ると言われる走馬灯のようなものが俺の前にも見えている。郷里の妻の芳美の顔が浮かんでいる。生まれたばかりで、直ぐに生き別れた義夫の顔も浮かんでいる。生きたい。まだまだ生きたい。俺は妻の実家の寺の境内を借りて、こじんまりとだが書道教室の講師をやっていたのだ。書の道で食べられるだけの才能もあったのだ。戦時下で、書道の価値も戦争に直接役立たないものと軽んじられたのか、遂に俺も徴兵されてすべてが途絶えた。
 ふと、這ってでも敵の陣地に攻めこみ、手榴弾の一つでも投げてやろうかという思いもよぎったが、もはやアメリカ人も殺したくない、殺させたくもない。きっと、こんな地獄のような島に送られたアメリカ人達も俺たちと大して変わらない。
 このまま飢え死にしよう。俺は目を閉じる。
「ぐわっは」
 強烈な喉の乾きと、強烈な悪夢から目覚めて、俺は気を失って倒れていたリビングの床から飛び起きた。すぐさま立ち上がり、よろけつつも冷蔵庫までたどり着き、扉を開け、未開封の牛乳を開けて直接口を付けて一気に飲み干した。
 生き返るとはこの事だと思った。冷静になって、辺りを見回すと五、六時間は気を失っていたらしい。西日が差し込んで、部屋を赤く染めていた。
 続いて、水道水をひねり、コップに満たされた水を一気飲みした。五臓六腑に染み渡った。こんなにも、水道水、ただの水がうまいと感じたことは今までなかった。
 俺は一息ついたところでコップを置き、シンクに両手をついて、先ほど見た悪夢を反芻してみた。夢にしてはあまりにもリアルだった。まるで、実際にそこに生きていたような現実感があった。左腿は階段を転げ落ちたときにぶつけたのかもしれないが、確かにそこに深い傷跡があったような感覚すら僅かに残っている。
 俺は、そこで数日ぶりの強烈な食欲に襲われた。俺はすぐさま戸棚から「サトウのご飯」を三パック取り出し、レンジに入れて温め、冷蔵庫から二つの卵を取り出し器に入れ、冷蔵庫にあったパックのシラスも山盛り加えて、醤油を滴し、かき混ぜ、レンジを終えたご飯をどんぶりに入れ換えて、先ほどの卵とじを入れ、口の中にかきこんだ。

 俺は、涙を流していた。あまりの美味しさに、驚嘆した。
 卵ご飯を食べ終えた俺は、リビングのソファに呆然と座り、沈みつつある夕日に照らされながら、やはりさっき見た悪夢のことを反芻しはじめた。あれは一体何だったのだろうか、そう言えば、一度も会ったこともない俺の母方の曽祖父がガダルカナル島で戦死したという話だけは聞いたことがあった。

 どれくらい、呆然としていただろうか。しかし、もう既に俺は数時間前の、あの悪夢を見る前の自分とは異なる自分に変わっていた。こうした環境に生きていること、生かせてもらえていることに、心から感謝せねばならないということが心に刻み込まれていた。
 俺は、とっさにスマホを取り出して、街のハローワークの営業時間を調べた。まだ時間がある。
 数日ぶりに髭を剃り、身だしなみを整えて、俺は玄関を飛び出していった。

20240924@Under Akebono Bridge

付録:句集

窓の縁勿忘草わすれなぐさに想い文            実優





紫陽花やこの世を知らず蛙たち        実優





平安京湯呑みに沈む名月か          亮太





よいすぎて紅葉こうよう隠す父の影           亮太





ラムネ飲み届かぬ恋は瓶の中         琉偉胡





夏盛り底がすり減りスニーカー        琉偉胡





冬の夜に空を見上げる我一人         嘉乃





夢ならば願う全ては陽炎かげろうか          嘉乃





夕焼けや電線辿たどる君の声           美海





鬼ころし笑い声聞く春の宵          美海





桜咲く青も忘れる恋なれば          美祐





芝桜うめつくせどもかなわない        美祐





汗みずく駆けるみぎわに散る火花         笙太郎





墓洗ふ頬撫づる風祖母の手か         笙太郎





桜湯や二段飛ばしの会社員          佳那





檸檬飴れもんあめ遠く横顔見るわたし          佳那





踏み切りや実らぬ恋に虎が雨         美輝





枯紫陽花負傷の引退幕閉じる         美輝





ヒヤシンス手に握られた第二ボタン      あゆり





向日葵や彼女の隣亜熱帯           あゆり





風吹きて揺さぶる恋ぞハンモック       幸輝





恋しけりさば雲かかるビルの窓        幸輝





冬夕焼道には私唯一人            珠希





炎天や手にいっぱいの水彩画         珠希





梅雨曇り時計の針とにらめっこ        健斗





清秋や埃被った野球帽            健斗





磨りガラスかすかに染まる秋の色       晴和





肩掴む冷たき風や夏祭り           晴和





炎昼えんちゅうや画角はみ出るバトンリレー       敬





走り梅雨ご機嫌斜めか東横線         敬





春雨や虚空を見つめるパンダカー       明信





入梅やかすか聴こゆるバイオリン        明信

20230822@Nokendai
20241124@安部公房展 21世紀文学の基軸 ー 神奈川近代文学館

あとがき

 私の担当している現代文特講は丸7年となった。選択授業を赤ん坊に例えれば、もう小学2年生である。そんな、我が子のアルバムのような現代文特講の小説集も7冊目だ。

 あとがきのネタも7年目ともなると、尽きてきた感があるが(今年小説を受け取る諸君には関係がないが)、そんなに長く選択授業をやっていて飽きないのか、と問われれば、勿論「全く飽きない、どころか年を重ねるごとに面白みが増す」が回答である。それは、やはり現代文特講を選択する生徒が毎年異なり、一期一会の出会いの中で、一緒に作り上げていく授業であり小説だからである。なので、この短編小説集も、毎回バラエティ豊かな小説集となって、飽きることなど決してない。
 従って、第2回目から書き続けている私の拙い短編小説も6編目となるわけなので(自費出版で短編小説集にしようかしら)それなりの回数を重ねてきた。生徒たちと切磋琢磨しながら小説修行をしているおかげか、自画自賛の自己評価だが、今年の小説は一日半で書き上げたにしては会心の出来であった。一方で、自分が描きがちな傾向や偏りも自覚把握できていて、もう少し幅のある小説を書けるようにならなければならないとも自省している。
 最後に、宣伝も兼ねて…今年、9年前に書いた長編小説(連作短編・Kindleだけで出していた)を自費出版して書籍化した。『ドリーム・ランド』というタイトルでAmazonのみでの購入が可能なのだが(是非、買ってね)、やはり紙になると、嬉しさのレベルが格段に違う。これは、一生の趣味を得たなという充実感がある。

 今後も、長編も含めて継続して創作活動を続けて精進していきたい。

20240823現代文特講フィールドワーク@駒場・日本近代文学館
20240823現代文特講フィールドワーク@早稲田・漱石山房記念館

2024年度 現代文特講 小説集

2024年12月1日 発行 初版

著  者:現代文特講受講者+宇野 明信
発  行:法政二高現代文特講出版

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宇野 明信

1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校国語科教諭。

著書
『令和元年度現代文特講小説集』(2019.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2020年度現代文特講小説集』(2020.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2021年度現代文特講小説集』(2021.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2022年度現代文特講小説集』(2022.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
電子書籍『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
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