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Maestro

澤 俊之

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  この本はタチヨミ版です。

Maestro(マエストロ)

「あ」
 天地が二回逆転した。青くて高い空と萌黄色もえぎいろの芝生が交互に二度視界に入った。最後に目に映ったのは芝生の上に立つママの赤いパンプス。「ディルク!」ぼくの名を呼ぶママの声を聴いたのちに目の前が真っ暗になる。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。首と左肩の痛みで目が覚める。上半身を起き上げると、ぼくの部屋のベッドの上だった。首と左肩には湿布が貼られていた。ああ、またやられてしまったか。乗馬練習の最中に愛馬から放り出されてしまったのだ。これで三回目。基礎学校グルンドシューレへの入学祝いでパパに買ってもらった仔馬は、一年経った今でも、ぼくの言うことをまるで聞いてくれない。
「ノア」と名付けた栗毛の美しい仔馬。バイエルンの厩舎に預かってもらっていて、そこは自宅からは少し離れた場所にあるけれど、ぼくは毎日通って世話を欠かさなかった。でも、どうしてもぼくの言うことを聞いてくれない。またしてもその背中から思い切り放り出されてしまったようだ。頭をさすってみるがヘルメットをしていたおかげで痛みはなかった。
 ドアノックが鳴り、ママが部屋に入ってくる。
「ディルク、お医者さんに診ていただいたけれど、打ち身だけで大事はないそうよ」そう言って、グラスに入ったアプフェルショーレをぼくに手渡してくれる。のどが渇いていたのでぐいぐいと飲む。リンゴの酸味と細やかな炭酸が染みわたる。人心地ついた。「ノアはキレイな仔だけれど、あなたとは相性が悪いのかもしれないわね……。もう飼い始めて一年でしょう? 手放して他の仔馬を飼ってもいいのよ」
 この台詞を聞いたのは初めてではなかった。
「……うん、でもぼくはノアが大好きなんだ。ぼくがもっと乗馬をうまくできるようになればいいでしょ」
「……また、怪我したでしょう。バイオリンの練習にも支障が出るのだから、少し考えてちょうだい」
 ママは落ち着いた声でそう言ったけれど、表情は暗かった。
 ノア以外の仔馬なら、ぼくの同級生たちよりも上手に乗りこなせるのに……。
 それから一週間後、チェリストのパパがコンサートツアーを終えてオーストリアから帰国した。演奏が成功したことで大層ご機嫌だった。ウィーンの工房で手に入れたというバイオリンをお土産にくれた。家には何十本も弦楽器があるというのに。
「ディルク、しっかり励みなさい」
 パパはぼくの頭を優しくなでながらそう言った。
 さっそくバイオリンの調音をして音を試してみる。軽くショスタコーヴィチの楽曲を弾いてみると、パパが穏やかな笑みを浮かべる。
「うん、ずいぶんと深みがある音が出せるようになったな」
 様子をうかがっていたママが「お話があります」と、パパに声をかけ、ふたりは二階へと上がっていった。
 その翌日の夕食後、ぼくはパパの書斎に呼び出される。ノックして入ると、パパは普段ほとんど観ないテレビの画面を眺めていた。振り向いてぼくの顔を見る。咳払いをしたのち言う。
「ディルク、ノアのことが好きなのはわかる。世話をするのは赦す。ただ、今後いっさい乗るのは禁止だ。理由はわかるだろう?」
 ぼくは言い返そうとしたけれど、パパの目が真剣だったので何も言えなかった。ママから落馬のことを伝えられたのだろう。ぼくは音楽家の両親のもとに生まれ、将来は一流のバイオリニストになることを望まれている。裕福な家庭だけれども、望みがなんでも叶うわけではないのだ。
 ぼくがノアのことを好きな理由。それは見た目の美しさももちろんあるけれど、もっとも大きな理由は「思い通りにならないこと」なのかもしれない。家庭環境のおかげでなんでも与えられるし、バイオリンも抜きんでて優秀だと言われている。乗馬もノア以外の仔馬ならば誰よりもうまく乗りこなせる。与えられたなにかではなく、ぼく自身の力でいつかノアを思い通りに乗りこなせるようになったら、どんな気持ちになるのだろう? そんなことも考えていた。
 パパの書斎のテレビから大きな歓声が聞こえる。ニュースキャスターが「ベルリンの壁崩壊」を声高に伝えている。1989年11月。まだ七才だったぼくには何のことなのかよくわからなかった。

 1992年11月。基礎学校グルンドシューレに入学してから四年が経った。十才になったぼくは、音楽系のギムナジウムへの入学を目前にしていた。この間もずっとノアの世話を毎日欠かさなかったけれども、ノアの騎乗はパパから禁止されたままだった。ぼくの身長は20センチほど伸びた。いっぽうノアはすっかり大人の馬になっていた。その栗毛はさらに美しさを増し、隆々たる肢体に魅了された多くの人から「ぜひ譲ってほしい」と要望されていた。騎乗を許さないパパ、ノアを欲しがる多くのひと、乗ることはできないけれど毎日世話を続けるぼくの三つどもえ。
 バイオリンの修練も欠かさなかったし、どのコンクールに出ても入賞できていたけれど、パパは(ママも)頑なにノアへの騎乗を赦すことはなかった。ぼくもノアを手放さずに毎日世話をするので、もはや意地の張り合いの日々だった。でも、ノアの美しさを目の当たりにするたびに、ずっと世話を続けてよかったと感じていた。いや、その美しさゆえに世話を続けられたのかもしれない。
 パパやママの目を盗んでノアに乗ろうとしたことが、まったくなかったとは言えない。でもそれをしてしまったら、確実にノアとの別れが待っていると知っていた。
 世話を続けて、ノアと心を交し合えればいつかうまく乗れるかもしれないという淡い想いと、それをきびしく禁じられるという状況が、皮肉にもぼくの演奏力を研ぎ澄ましてくれていたとうことかもしれない。ママもパパもこれを見越していたのだろうか? いや、そんなことはないと思う。単にぼくが怪我をしてバイオリンを弾けなくなることを心配していただけだろう。
 いわゆるエリートコースと言われているギムナジウムの入学も、学科試験の成績関係なく合格できてしまうくらいだった。ありがちな、周囲からの「親の七光りだろう」といったやっかみがまったく聞こえなかったことからも、ぼくのバイオリン演奏は周囲への説得力を持つことができていたと思う。

 なんでぼくはバイオリンを弾いているんだっけ。バイオリンはすでに体の一部だったし、演奏することは呼吸とすることとなんら変わりない。楽しいかどうかで言うと……、楽しいってなんだっけ? そんなことを考えているうちにギムナジウムのカリキュラムがはじまる。

 奇しくもパパもママも演奏の仕事で多忙になっていた時期だったので、ギムナジウムからの下校後、外部のバイオリン講師からレッスンを受けることになっていた。

 ギムナジウムの授業が正午過ぎに終わると、送迎の車でバイエルン郊外の自宅に帰宅する。料理人が作ってくれた昼食を摂り、バイオリン講師の指導で二時間強のレッスンを受ける。
 幼少時から何千回も弾いてきたパッヘルベルのカノンなどをていねいに弾いて調子を整えてからサラサーテやパガニーニの定番曲、そして都度課題曲の部分練習を行うのが習慣だった。地味な繰りかえしがほとんどだったけれど、バイオリンを弾くのは呼吸をするのと同じくらいのものだったのでなにも苦痛はなかった。
 音楽家庭教師はとくに模範演奏をするわけでもなかった。手放しでぼくの演奏を褒めてくれるのだけれど、特に指導らしい指導というものがあったわけではない。パパやママから受けたレッスンと比べるとどうしても物足りない印象がぬぐえない。こうやってパパやママ以外からバイオリンを習ってみると、あらためてその価値がわかった。パパやママは懇切丁寧に教えてくれる。とても厳しいときもあったが、うまくできれば心の底から喜んでくれた。それはバイオリンを通じた対話だったので真実味を帯びており、実りが多かった。それは喜びでもあり、楽しくもあった。
 ギムナジウムの卒業まであと八年間、上達の実感が得られないこの日々が続くのはまっぴらごめんだな、という気持ちが日々強まっていった。
 毎朝登校前にするノアの世話だけが唯一の憩いだった。でも、そのノアの背には乗ることができない。パパの友人でもある馬の調教師だけが、ノアに騎乗することができていた。かつてのぼくのように背中から振り落とされるような気配すらない。幼少時に彼から何度もコツを聞いたけれどもまるでダメだった。なにが違ったんだろう? 彼はサキソフォニストだったらしいが、サックスが吹けるようになったら、ノアをうまく乗りこなせるのだろうか、などと真剣に考えたこともあった。
 彼にその話をしてみると「関係ないよ」と苦笑された。それはそうだ。ぼくは厩舎の馬の背を借り、調教師を乗せたノアと並走して乗馬の腕も磨いた。

 数か月に一度くらいの頻度でパパとママは帰宅するけれど、数日後には別の公演に向かうという繰り返しだった。最近まではヨーロッパ中心の演奏ツアーだったのだけれど、パパが言うには、ソビエト連邦最高会議? というものが解散してからはリトアニアをはじめ、欧州から東側へ行く機会がとても増えたとのことだった。
 ギムナジウムの座学ではクラッシック音楽の歴史も学んでいた。バッハが亡くなるまでの1750年までがバロック音楽時代とされ、その後古典派や印象派などの時代が続いたものの、二十世紀に入ってからは、そのような大きなまとまりができることがなくなった。
 パパからノアの騎乗をきつく禁じられたあの日、ベルリンの壁が崩壊してからさらに音楽の形は細分化されていった。東西ドイツの統一、大国であるソビエト連邦の崩壊から民主主義化が急速に進んで、枠が次々を外れていく中で、さまざまな文化の交流が自然と行われた。いわゆるクラッシック音楽を継承している「現代音楽」といわれるものもさまざまな変化を見せていた。
 ぼくは幼いころからずっとクラッシックばかり聴いて、また弾いて育ってきたので、現代音楽やほかのジャンルの存在にピンとこなかったし興味もなかった。同級生の中にはロック音楽を好むものもいたので聴かせてもらったけれど、どうにもぼくには合わないようだ。
 今日もバイオリンで古式ゆかしいクラッシック音楽を奏でる。

 1995年。ギムナジウムに入学して三年、ぼくは十三才になっていた。入学以来変わらない日々を過ごしていたけれど、このころから少しずつ状況が変わり始める。入学時には演奏が拙かった同級生たちも少しずつ腕をあげてきて、ぼくとの合奏をしたがるようになった。
 パパとママが帰国したときに相談してみると、いろんなひととの合奏も勉強になるので、やってみるといい、と許可をもらった。例の音楽家庭教師のレッスン(?)の頻度を減らし、週に二度だけ同級生たちといっしょに学内ガーデン片隅のテラス席で合奏をすることになった。
 そういえばパパのチェロとママのバイオリン以外との合奏はほとんどしたことがなかった。三年みっちりと練習を重ねたとはいえ同級生たちの演奏はやっぱり拙かったけれども、懸命に音楽を楽しもうとする姿勢は尊いものだな、と感じた。要するに楽しかった。
 もともと無口だったぼくは同級生と話す機会があまりなかったけれど、音楽を通じて会話ができることが少し嬉しかった。テンポがズレたらぼくが少し音量を強めてリードしてみたり、逆に同級生がよい感じのフレーズを奏でている際には自分の音でフォローをする。その仕草をおたがいに理解しながら持ち寄った音で楽曲を紡いでいく。
 ぼくはバイオリン独奏を主としていたので新鮮な体験だった。ずっと弾き続けていたいけれど、ドイツには休息時間ルーエツァイトという法律があるので放課後午後一時までしか演奏はできない。このギムナジウムは特に厳格で屋外だけではなく、ルーエツァイトの時間帯は、気密性の高い防音室でも演奏が禁止されていた。厳密には昼は午後一時から午後三時までが対象時間なので三時以降は問題ないのだけれど、とっくに下校時刻はすぎている時間だし、同級生たちも他の習い事があったのでそれはできなかった。

 同級生との合奏をやり始めたタイミングで、ぼくには自由時間が増えた。合奏の日は音楽家庭教師のレッスン(?)がないので、送迎車には夕方迎えに来てもらうようにしていた。
 いままでバイオリン漬けだったぼくは、自分ひとりの時間の過ごし方がわからなかったけれど、日が経つにつれだんだんと余暇を楽しめるようになった。

 ミュンヘン市街地までトラムに乗って移動をして街並みを楽しんだり、カフェに立ち寄って昼食を摂ったりした。新市庁舎(新、と言っても建てられたのは二十世紀初頭だけれども)の向かいにあるカフェが特にお気に入りで、セージとローズマリーで芳しく仕上げられたチキングリルがとてもおいしかった。新市庁舎を眺めながらの食事は格別だった。
 食後は腹ごなしに散策をしてみる。マキシミリアン通りの美しいパステル調な市街地を眺めながら東へと進むと、やがてイーザル川に差し掛かる。その橋を渡った対岸にはプリンツレーゲンテン劇場がある。ワーグナーの作品を上演するために建立された美しい建築物。ぼくもいつの日か、あのステージに立つ日がくるのだろうか。
 橋の近くでバイオリン演奏をする男性の姿が見えた。通りすがる人々はだれも足を止めず、怪訝そうな目で彼を見ながら通り過ぎていく。それはそうだ。なぜなら時間はまだ午後三時前、法で定められた休息時間、ルーエツァイトの最中。それでも彼は気にすることなく演奏を続けている。ぼくがなんとなく興味をもって近づいていくと、だんだんとバイオリンの音を聴きとれるようになる。
 それはパガニーニのカプリース第二十四番だった。でもぼくが聴いたことあるようなカプリースではない。分散和音部分のスタッカートが音程だけではなくリズムも微妙に跳躍しているように聴こえる。ときおり原曲の譜面にはない半音階も入る。ぼくはいつの間にか、ぼくの中にはない不思議な音楽にすっかり目と耳を奪われる。
 ぼくと目が合った彼は満面の笑顔を見せる。演奏を続けるけれど、ぼくの背後に目線を向けたとたん表情が固まる。彼は演奏をやめてそそくさとバイオリンとケースを抱えてプリンツレーゲンテン劇場の方へ向かって橋の上を走っていった。
 振り向くとそこには制服姿の警官の姿があった。ルーエツァイト違反は罰金刑。どうやら彼は、それからを逃れるために走り去ったようだ。

「きみの知り合いかい?」
 警官がぼくのバイオリンケースを見ながら尋ねてきた。
いいえナイン
 ぼくはそう答えた。

 彼のバイオリン演奏を聴いてから、自由時間にバイエルン市街地で彼の姿を追い求めるようになる。でも、何カ月経っても彼と出会うことはなかった。あの日のルーエツァイト違反に懲りて、どこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。
 両親は相変わらず欧州よりも東への演奏ツアーで多忙を極めていて、数か月に一度しか邸宅に帰ってこない。ぼくはその間にもバイオリンの修練を重ねて、コンクールに参加して受賞を続けていた。
 ぼくにとってバイオリン演奏は呼吸をするのとおなじで、その延長線上にあるコンクール参加からの受賞も日常で、なんの感慨もなかった。
 そんな日々を過ごし、ちょうど一年が経った。
 1993年の11月、一年前と同じように彼はイーザル川の橋の前でストリート演奏をしていた。ぼくは思わず駆け寄ってしまう。
 彼はぼくのことを覚えていたのか、ぼくを目にすると笑みを浮かべながらカプリースの第二十四番を奏でる。一年前よりも不思議なリズムと音階を加えており、摩訶不思議な響きはさらに蠱惑的な響きを増していた。演奏を終えるとぼくに話しかけてきた。
「よ、坊や、ひさしぶりだな。元気だった?」飄々とした仕草に少し気圧される。「オマエもバイオリン、弾くんだろう?」
 彼はぼくのバイオリンケースを指さしながらそう言った。
「……はい、ずっとバイオリンは弾いています」
「……ふーん、どいつもこいつもオレの演奏を無視してるけど、なんでオマエは足を止めて聴いてくれたんだ?」
「え、と。ぼくの聴いたことのない演奏だったので、つい」
「オマエ、クラッシック音楽専門だろう?」
「……ええ、そうです。でも、あなたもクラッシック弾いていますよね? ちょっと不思議な感じですけれど」
「……はっは! クラッシック? 曲はそうだけどな。オレのはジャズ。ブルース、かな?」
「どういうことですか?」
「曲はクラッシックだけど解釈が違うってことかな? 知らんけど」
 
 会話を続ける。彼の名はヨハン。東ドイツ出身で、バイオリンを携えて方々で演奏をしているらしい。
「ルーエツァイトって知っていますよね?」
「ああ、休息時間のことか? 神は休息日を日曜に定めてるんだから、それ以外は自由だろう?」
 日曜や祝日は確かにルーエツァイトのルールは平日よりも厳しいけれど、そもそも自分たちが属する国の法律なんだし、それに従うべきだろう。法律は自分自身のためにも守るのが健やかな契約(やくそく)のはずだ。
「……オマエ、ちょっと、いや、だいぶ硬いな」
「ぼくのことですか?」
「そう、他にいないだろう? ちょっとソレ弾いてみな」
 ヨハンはぼくのバイオリンケースを指さす。どういうことだろう? しぶしぶとバイオリンを取り出して構える。
「なにを弾きましょうか?」
 突然の要望に動揺していたけれど、虚勢をはって彼に言う。あれ? なにかを忘れているような……。
「んー、そうだな。じゃあオレの弾いてたカプリースで」



  タチヨミ版はここまでとなります。


Maestro

2024年12月14日 発行 第三版

著  者:澤 俊之
デザイン:石川龍之介
発  行:Goriath_publish

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澤 俊之

NovelJam2024:藤井太洋賞受賞
NovelJam2019':グランプリ&内藤みか賞ダブル受賞
NovelJam2018秋:鈴木みそ賞受賞
NovelJam2017:優秀賞受賞
もっぱら音楽小説を書くようです

本作と対となるNovelJam2024藤井太洋賞作品「Meister(マイスター)」はこちら
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【ブログ】
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