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  この本はタチヨミ版です。
















 太陽 春の一番の波
「はぁ。気持ち良かったぁ」と、笠子太陽は快感に浸っていた。
 海水温は二十度を下回っていたが、春の日差しを浴びる太陽の身体は熱っていた。最高の波を捕まえ心が満たされていた。ウェットスーツの背中のジッパーを下げ、「はぁ。気持ち良かったぁ」と快感を噛み締めていた。この数日、春一番が吹き荒れた。風速十メートルを超える、春を呼ぶ強風が浜辺の砂を乱暴に吹き飛ばし、海は白浪をたて激しく波打った。浜辺へと続く湘南の海底もかなり抉られた。荒れ狂った春一番は、砂礫地帯の砂嵐のように海底を揺るがし荒々しい起伏を作った。惰眠を貪っていた魚たちは驚いたことだろう。海水がようやく温まり目覚めたところだったから。寝ぼけ眼で、身を縮めたに違いない。
 昨夜、十二時をまわったころ、数日吹き荒れた春一番がピタリと止んだ。砂を巻き上げ、江ノ電の電線をゴーゴーと揺らしていたのに、湘南のこの町に静寂が突然訪れた。古いハードボイルドの短編集を片手に深く眠っていた太陽だったが、突然の静寂を感じとっていた。熟睡していても気圧の変化や季節の変化を人は感じとるものなのかもしれない。湘南の海辺で生まれ育った太陽もまたこの町の季節の変化を自然に学びとり、春一番が止んだのを全感覚でとらえていた。

 太陽がサーフィンを始めたのは十歳になった春だった。ある日、父の源太が古いサーフボードを片手に家を出ようとしていると、太陽は何故だかその後ろをついて行った。何故だかそうすべきだと思った。源太が息子の太陽をサーフィンに誘ったことは一度もなかった。太陽も友だちと遊ぶことにしか興味がなかったから、サーフィンは大人たちが遊びでやるもの、「あれは、大人がやるスポーツだ」となんとなく思っていた。楽しそうだけれど近くて遠い存在だった。もちろん、潮で錆びた自転車のキャリアにサーフボードを積み、通りを走るサーファーの姿を一年中見慣れていたから、サーフィンは日常風景の一つにはなっていた。
 その日、源太が波に乗り疲れるまで、浜辺でその姿をぼんやり眺めていた。
 筋肉質の源太だが、サーフボードに身を横たえると、まるで海洋生物に変身したかのように海に溶けこんだ。「自分の」波を見つけ、ノーズ(サーフボードの先端)をクルリと回しパドリングを始め、波がサーフボードを押すや両手のひらで上半身を起こしテイクオフにスッと入る。そして、パワーゾーン(波の一番力がある部分)を全身で感じながら波と一緒になりサーフボードを滑らせる。十歳の太陽でも、そしてサーフィンをしたことのない太陽でも、源太の快感が伝わってきた。海のウネリの一部になった源太がそこにいた。サーフボードは源太の足裏にピタリとくっつき、源太の身体の一部になっていた。
 一時間ほどサーフィンを楽しんだ源太が満足げな笑顔で浜辺に上がってくると「やるか?」と太陽にサーフボードを手渡した。海パンにTシャツ姿の太陽は、「うん」とうなずいた。不安だったけれど、太陽はサーフボードを両手で抱え、海へ入って行った。打ちつける波が太陽を誘っていた。身長百三十センチの太陽には、六フィート(約一八〇センチ)のサーフボードは大きくて、砂に足を取られながら海辺へと運んでいった。波打ちぎわに足を踏み入れると、何かが晴れた。海が急に違って見えた。源太の本棚にある古い写真集で見た世界がそこにサッと広がった。モノクロのサーファーたちの写真…。幼いころからページをめくり魅せられた、あのモノクロの世界に足を踏み入れた。
 それが初めてのサーフィンだった。太陽は波と戯れるモノクロのサーファーたちの一人になっていた。見よう見真似のパドリングをして沖へと出たが、波が来るたびにバランスを崩しサーフボードから落ちた。なんとかサーフボードに跨って波を待ったが、どの波に乗れば良いのか見当もつかなかった。「ま、なんでも良いか」と岸に向かってパドリングをしても波をとらえられなかった。偶然サーフボードが波に押され滑り出しても、その上に立つことさえできず、沈(ちん)しては泣きながらサーフボードによじ上り、再び沖へとパドリングを繰り返した。テイクオフなどまだまだ遠い話だった。
 その日、泣きべそをいっぱいかいて家に帰ると、父の源太は中庭の倉庫に入り古いサーフボードを持ち出し、「太陽。これ、使え」と手渡してくれた。それは飴色に変色した八フィートの古いサーフボードだった。それから数カ月。夏休みが終わるまで、太陽は毎朝、毎夕、海の上にいた。まわりは大人たちばかりだったが、太陽は気にすることなく、我流だったけれど波に乗ろうと練習を繰り返した。父の源太からは、ひと言だけ、「まわりをよく見て、まわりの人の迷惑にならないように」と教えられただけだった。数カ月すると、顔見知りのおじさんやおばさんが増え、ちょっとしたアドバイスをくれた。それは説教臭いものではなく、本当にちょっとしたアドバイスだったけれど、その一つ一つのアドバイスを感覚で理解しようと頑張った。茅ヶ崎に住むトシさんというおじさんは、「点で乗るんだよ」と笑顔で教えてくれたがパドリングさえ覚束ない太陽には、それが何のことだかちんぷんかんぷんだった。プロのサーファーだったタカさんは、サーフボードを「前へ押し出すように乗るんだよ」と教えてくれた。〈前に押し出す〉感覚がどんなものなのか、太陽は頭を捻った。
 そして二学期の始業式が終わった夕暮れ。太陽は良い波を初めて捕まえた。偶然だったかもしれないけれど、身体の中にでき上がった〈点〉のようなものでスッと波を捕まえテイクオフすると、浜辺までロングライドを決めた。それは初めて味わう快感だった。興奮はしなかった。心拍数も静かだった。とっても気持ちが良かった。くるぶしぐらいの浅瀬で波が崩れ、サーフボードから降りた太陽が沖を振り返ると、知り合いのサーファーのおじさんやおばさんたちが満面の笑みを湛え、太陽に向かって手を振ったり、親指を突き出したりしてくれた。そこにトシさんやタカさんもいた。太陽の初ライドを、みんなが讃えてくれていた。
 中学生になった太陽は、サーフィンに没頭する毎日を送っていた。朝と夕方のサーフィンタイム以外に時間を潰す場所が中学校だった。朝、サーフィンを終えて帰宅し、ウェットスーツを脱ぎシャワーを浴びると学生服に着替え、バナナ片手に自転車でダッシュし登校する毎日だった。髪の毛は濡れたまま。気づけばビーサンで教室に入り同級生から笑われることもあった。日の出前に起き浜辺に行く。春も夏も秋も冬も。海水温が低くなると、太陽は父・源太の知り合いからもらった中古のセミドライ(裏起毛)のスーツを身につけ、海に入った。二時間海にいて数本だけ良い波に乗れれば良いことを教えてくれたのはソウさんというおじさんだった。コウタ君やリョウタ君(といってもまだ三十歳ぐらいだったけれど)は、いつも満面の笑顔でサーフィンを楽しんでいて、太陽が良い波を捕まえると「よし、良いぞ!」と声をかけてくれた。チコちゃんとマイちゃん(といっても彼女たちも十歳ほど歳上だった)は、浜辺まで気持ち良くロングライドした太陽を、笑顔で褒め称えてくれた。金曜日の夕方。荒れた波のせいもあり一本も波に乗れずに悔しがる太陽に、「ホオマナワヌイだな」と声をかけてくれたのは、白髪で長髪のおじいさんだった。よく同じポイントで波を待っている顔見知りのおじいさんで、会釈を交わしたことはあったけれど、こうして話をするのは始めてだった。
「ホオマナワヌイ?」
「そう、確か、ホオマナワヌイっていうんだ。急がなくても良い。慌てちゃいけない。クヨクヨするなよ、っていうハワイの言葉さ」と、そのおじいさんは、赤く染まる水平線を見つめながら太陽に教えてくれた。
 
 そして、その中学一年生になる春。
 太陽はマヒナに出会った。
 それは春一番が吹いた翌日の、夕暮れの浜辺だった。


 ジョナサン・クラーク少佐
「父さんは、それが好きだねぇ」
「ああ。これが一番さ。爺さんも好きだったからな」
「啓太じいじ、が?」
「そうだよ。啓太じいじから教わったんだ」
 太陽の父、笠子源太は、一パイントのグラスを両手に、左手のドラフト・ビールを三口ほど飲むと、右手のグラスの黒ビールを、実験室の若い研究者がフラスコを傾けるように慎重に注いだ。ハーフ&ハーフを源太は作っていた。これが一番美味いんだと、源太は二種類のビールが混じり合うのを睨んでいた。源太によると、季節ごとにその配分を変えるという。暑い日ならドラフト・ビールを多め、寒くなってくると黒ビールを多めにする。季節ごとに配分を楽しんでいるようだった。
 九月になると真夏の喧騒が消え浜辺は静かになる。海水浴客で賑わっていたビーチ・ハウスの解体が始まり、夏の終わりを容赦なく告げる。源太のハーフ&ハーフの黒ビールの比率は高くなり、酔いが濃くなる季節になる。雨ざらしのプラスチックの椅子がお気に入りの源太は喉越しを確かめながら、九月の海を見つめ目尻の皺を緩ませる。この夏も日焼けし皺が深くなった源太だったが、酔いに身を委ね、良い波の季節がやって来るのを心待ちにしているようだった。

「本当に父さんは、それが好きだね」
「ああ。これが一番だ。特に、この季節は、な」

 湘南の浜辺を一望するこのブルーズ・カフェを始めたのは源太の父、笠子啓太だった。太陽のお爺ちゃんだ。
 一九四五年の秋。戦争から復員した啓太は、鉄砲玉でやられた脚を引きずりながら仕事を探していた。戦前働いていた旋盤工場は戦時中に軍に接収されたのち敗戦とともに放棄された。経営者一家は疎開した広島で原爆にあったというが、風のたよりに耳にしただけで、生きているやら死んでいるやら見当がつかなかった。中国本土からの復員船に揺られていると、日本は全部焼け野原になったとか、進駐軍がやって来て、もう日本はないという噂が飛び交っていた。啓太もまた疑心暗鬼を抱えた復員兵だった。やがて、復員船から下船し、最初に降り立った東京駅で、啓太の疑心暗鬼は確信に変わった。東京は空襲に合って壊滅したと聴いていたが、みごとに焼け野原だった。賑わいを少しは見せていたが、啓太の想像を遥かに超えた東京の無惨な姿があった。微かに香る人が焼けた匂いと糞尿の匂いを嗅ぎながら愕然とした啓太だった。この国がどうなって、これからどうなるのか、まったく見当などつかない。ただただ生きる本能がセンチメンタルに優っていた。そうしないと、ダメになりそうな啓太だった。
 戦後しばらくするとそんなセンチメンタルな戦争体験だのを語る奴らがかなりたくさん現れたし、「私は戦争に反対だった!」と良い子面する奴らが雨後の筍のように現れた。「お前ら、戦時中は戦争に賛成だっただろ!」と叫びたかったが、啓太はそっぽを向くことにした。人間なんて汚いものだと戦場で嫌と言うほど学んだ啓太だった。
 戦地で無数の死に囲まれ、なんとか生き残り復員したものの、無職となった啓太に手を差し伸べる者などいなかった。誰もが明日を生きることに精一杯だったから、啓太も復員兵気質にいつまでも浸っているわけにはいかなかった。馬鹿な戯言にいちいち噛みつく暇などこれっぽっちもなかった。陸軍と海軍は、第一復員省と第二復員省となり復員庁から厚生省と内閣の傘下に入っていき、復員者と名指しされた啓太はその目まぐるしい国の変化から取り残されていた。新聞で読む戦後の陸軍大臣となった下村定の言葉も、進駐軍の占領が本格化するにつれ、軍人口調から復員兵を宥める優しい口調へと見事に変わっていった。
 ある夜、啓太は小さな居酒屋を立て直した友人の辰巳克也と日本酒を酌み交わしていた。どこからどうやって、こんなに美味い日本酒を集めて来るのか、昔から小回りの効く克也は復員するや小さな居酒屋を国鉄の線路脇に開店した。昔から商才のある克也だった。酔いがほど良く回った啓太が「仕事が…」と愚痴をこぼすと、克也の目がキラリと光った。
「啓太。お前、英語ができるんだったよな」
「…ああ。ジャズが好きだったからな」
 かなりすれ違ったやり取りだったが、克也の頭には、ジャズが好きな人間は「英語ができる」という不思議な方程式が成り立っていた。戦前、ジャズ喫茶を経営していた父親のおかげで、ジャズのレコードをよく聴いていた啓太のことを克也は覚えていた。そして、たまに英語の唄を口ずさむ啓太なら英語ができるに違いないと思い込んでいた。「英語ができる…?」と克也に問われ、「そんなことはない」と返せば良かったが、酔いが回った啓太は面倒だと「ああ。できるが」と返した。
「啓太。じゃあ。紹介するよ」と紹介されたのが進駐軍の仕事だった。
 話はあっさりと決まった。仕事といっても、ジョナサン・クラークというアメリカ軍の将校の個人的な雑用係のようなものだった。何をすれば良いのか…とにかく飯を食うために啓太は必死になって働いた。仕事を見つけて喜ぶ啓太に、弟の泰介は「にいちゃん、汚ねぇなぁ。アメ公にケツ振るのかよ」と難癖をつけてきた。ぶん殴ろうかと思ったが、確かに、泰介がそう言うのももっともだった。物心ついたときから〈少国民〉として軍国教育を受け軍国少年として育てられた泰介は、どっぷり軍国主義の罠にはまったまま、戦後を迎えていた。そんな〈少国民〉たちがまだわんさかいる時代だった。啓太と泰介の父は軍事工場で働いていたがアメリカ軍の爆撃で亡くなった。その悔しい思いが泰介にあり、〈少国民〉意識が深まったのかもしれない。母が生きていれば少しは変わっていただろうが、泰介が三歳の時に病で亡くなっていた。難癖つける泰介の歪んだ顔を見つめながら、「戦争とは酷いもんだ」と啓太は黙って話を聞いていた。
「お前よ。泰介。生意気言うな。戦場を知らない奴がガタガタ言うな」と啓太は怒鳴りそうになったが所詮戦争に負けた身だ、偉そうに何かを語るのは馬鹿げたことだと、心の中の怒鳴り声に勢いはなく、語尾は短くなったロウソクの火のように弱々しく消えていった。そんな自分が情けない啓太だった。ゴリゴリの〈少国民〉のまま戦後に放り出されたこの泰介だが、数年後、京都旅行で目覚めたという。泰介が信じていた日本の伝統は、明治維新政府が作り上げたもので、京都には一千年以上もの昔からの伝統が息づいていた。「兄さん。目から鱗だった」とハガキを受け取った啓太は、万年筆の滲んだ文字を読み返すと、ふむふむとうなずきながら文机の引き出しにそっとしまった。その数年後、泰介は湘南の市議会議員となり腕まくりをしながら汗を流し働いたが、一九五九年の春、この世を去った。赤痢がまだ人を殺す悲しい時代だった。
 とにかく飯を食べねばならない。先は見えない。日々の暮らしを安定させることだけを啓太は考えていた。そして、少しでも金を稼ぎたかった。アメリカは昨日までの敵だとしても、食べることが先決だった。威勢の良かった戦前の政治家たちは、急にアメリカ軍に尻尾を振っていた。人間とはそんなものだ。「あいつらも食べていくのに必死なんだろう」と啓太は彼らを見切り、ジョナサン・クラークの雑用係として黙々と働いた。
「英語ができる」と言っても片言の英語しかできなかったから、雑用ならなんでも引き受けた。車の修理から買い物から、なんでもだ。必死になり雑用をこなす啓太の素早くて丁寧な仕事ぶりに好感を持ったのか、それとも銃創で足を引きずる啓太に申し訳なく思ったのか、ジョナサンは啓太を可愛いがってくれた。カリフォルニア出身のジョナサンが大のサーフィン好きだというのもあった。休みになれば三メートルはある長いサーフボードを車に積み、ジョナサンは湘南の海にやって来た。ドライバーは啓太だった。湘南生まれの啓太から波の話を聴いては、サーフポイントをいくつか訪ねた。カリフォルニアの波と比べると良い波ではないようだったが、それでもジョナサンはサーフィンを楽しみ、何本か波に乗ると浜辺に腰を下ろし、水平線を静かに眺めていた。「太平洋の遥か彼方の故郷を偲ぶようだった」と啓太が息子の源太に語ったことがある。それは、戦争に駆り出され、故郷を離れた兵隊なら誰しも抱く寂しさだった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


湘南ブルーズデイズ

2025年4月5日 発行 初版

著  者:中嶋雷太
発  行:Papa's Story Factory

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Papa's Story Factory

時代に振り回され、喜怒哀楽を重ねながらも、日々力強く生きる大人たちに、少しでも安らぎを感じてもらえれば幸いです。 2020年を超えて、日本および世界に向けて、「大人の為の物語」を拡げていきたいと考えています。見たい映画や演劇、そしてテレビ・ドラマを、物語という形で描き出し、織り紡ぎ出してゆければと願うばかりです。(代表:中嶋雷太) Established for weaving stories for adult people. For them, who are always struggling daily lives, we hope they enjoy the stories. Welcoming Mr. Ray Bun as a main writer (story teller), we would like to expand our stories over the world as well as in Japan, over 2020. Also, we would like to weave the stories for future theatrical films, theatrical play or TV dramas. (Rep: Raita Nakashima)

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