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    目  次


0 すっとこどっこい、よーいどん 4

1 自助グループとの出会い 12

2 セミナーを準備する、記録する 21

3 「たましいのかぞく」 28

4 朗読舞台「ひまわり~DVをのりこえて」 33

5 無謀なしごとと言われても 39

6 ファシリテーターの居かた~講座ルトラヴァイエ 45

7 「ガールズ編しごと準備講座」を立ち上げたころ 52

8 働く体験のできる「めぐカフェ」をつくる 57

9 はたらくをめぐる ぐるぐる 65

10 非正規職シングル女性の社会的支援に向けたニーズ調査 68

11 施設管理人というおしごと 74

12『横浜連合婦人会館史~100年のバトンを受けとる』を編む 79

【ついしん】倒木更新 84

0 すっとこどっこい、よーいどん



2022年春にいったん退職し、何か月か休んでから、The Letterという配信システムで「しごとのあしあと」をぼちぼち書き始めました。もう少し伝えられたことがあったのではないか、という心残りから、心に刻まれていたしごとについて、えんぴつなめなめ。。。
20余話となるうちに話が詩のこと、亡父のこと、南太田の土地の歴史のことなどに広がってしまいました。それで、この小冊子は「しごと」にしぼってまとめることにしました。元の文はもっと長くてぐちゃぐちゃしています(これもですが)。興味のある方は「しごとのあしあと」で検索いただくと、このシステムがある限りは読めると思います。
ここでは年代順になっていますが、どこからでもお読みください。ではでは。

                ☆彡

子どもを食べさせるために、10年はここで働こう。そう思って、気づいたら30年近くたっていた。なかまや皆様に支えられて。子どもを預かってくれた女ともだちをはじめ、足を向けて寝られない方角が多すぎて、グルグル目が回る。ここというのは今では男女共同参画センターという名前になった横浜市の施設で、1993年当時は女性センターと言った。開館して5年。カオスのエネルギーがあった。ツワモノの先輩がたくさんいた。大陸から親の背中のリュックに背負われて引き揚げてきたという方。リブの流れをくむ方もいた。いろいろなことが未分化だった。まだ、「男女共同参画」や「女性の活躍」が国家施策になる前のことだ。

インターネットはなく、もちろんSNSはなく、「シングルマザー」という言葉さえ新鮮だった。私(1961年生まれ)の世代は女の人が主婦になれた最後の世代かも知れない。女が働くのには何か理由が必要とされるような空気があった。貧乏であるとか、夫が病気であるとか、はたまたジコジツゲンとか。いまや働くのは当然になり、家庭も子どももと荷物は重すぎる。生きづらさの重力は増すばかり。世代間ギャップ。けれど、変わらないものがあるはずだ。

悩んで働いてきた30年に、「しごとのあしあと」と表紙に手書きしたファイルが残った。悩みは恵み。そのときどきに書いてきたテキスト、入魂のチラシ(コピーを書くのが特に好き)、パンフレット、掲載記事などを突っ込んできた。振り返って、いま悩んでいる人、これからの人に役立つことはないだろうかと、恐る恐る……。

書き始めたとき、副題を「“ぬちぐすい”になる場づくりを」としてみた。自分は本当に場づくりが好きだと思う。でも初めからそうだったわけではなく、そんな仕事をする場があったから、やっているうちにこんな自分に気づいたわけで。「ぬちぐすい」は沖縄出身の同僚から聞いた言葉で、「命の薬」という意味だそう。ぬちぐすいが本当に必要な時代。これを書いて、私も次の場づくりをできたらと思っている。

1993年。私(32歳)の初給料は(ありがたくとってある給与明細によれば)、残業なしの手取り24万円。天にも上る? 厚生年金も健康保険も税金も引かれた後である。基本給22万4千円。これは前歴加算がアルバイトでも主婦でも、きちんとつくように制度設計されていたことが大きい。それに子どもの扶養手当、大都市での調整手当がつき、今はない住宅手当9000円や特勤手当(遅番300円、土曜450円、日曜800円)がついていた。アパート代と子どもの保育その他にそれぞれ7万円以上かかっていたが赤字とは、やりくりという概念がなかったのだろう。スミマセン。

石の上にも3年目の1995年。まだ仕事もろくにできないのに、私は産休・育休をとることになる。「ええっ、シングルマザーだったんじゃ?」。ざわざわざわ~。職場で最初の育休取得だったので、私もまわりも暗中模索、たいへんだった。当時、育児休業給付金は月給の25%(2022年現在は67%)で、月に数万円。それでも、アルバイトで稼ぐ大変さが身にしみていたから、ありがたかった。数か月して4月に復職したら、もっと全体のために隙間を働こう。

1996年、なかまと組合を作った。職場の10周年を前に、仕事が増えに増えていた時期だった。自分たちが健康で、よい市民サービスをしたい、と。「役に立つこともあるじゃん。呼びかけ文がわかりやすい」と初めて職場で人に言われた。8割が加入してくれるまでには、休日に誰かの家に集まって組合規約を作ったり、どういう順番でだれがだれにいつ話をするかなど綿密に話し合い、水面下で実行していった。立場上入れないだろう同僚への誠意をこめた事前説明も計画的で、なかまの緻密さに目をパチクリした。私にはできない芸当で、「オルグ」ってああいうことです。たぶん。

続けていくのは(しごとも組合も)大変だったが、その後も組合活動で様々な人とかかわれたのは財産だった。「なかまは力」と機関紙“げんこつ山”に書いた。異動していろんな仕事をするたびに、味のある同僚とチームを組むことができた。いっしょにこの仕事をやろうよ、と根回しもよくした。組織外の人にも助けを求めた。何もないところから作っていく仕事はときに苦しく、おおむね楽しかった。

初めての担当は、よこはまランドマークタワー13階の「フォーラムよこはま」交流ラウンジという市民活動スペースの管理人。まず困ったのは、破るのが得意だった規則を作らなくてはならないことだった。まだNPOという言葉はなく、「市民活動」さえ新しかった。
市民活動応援講座というものをやることになり、これにも困った。情報発信や人材育てや金策のマネジメント講座で、今なら当たり前のことだが当時は手本がなく、私にはさっぱり意味がわからなかった。ハテナ?の振られ仕事、合わない仕事というものもときにあると思う。けれど、やっているうちに参加者や関係者に助けられて、だんだん意味がわかってくることもある。
職場内でも本流ではない新しい仕事だったので、「キャリア〇〇」のプログラム(私とは縁遠いと思われた)を遂行している同僚にも理解してもらおうと、1講座終わるごとに内容やアンケートをまとめたファイルをていねいに作って回覧の旅に出した。
(かつての企画は3~5回の連続講座やワークショップが普通だった。人と人は少しずつ、ゆっくりじっくり知り会っていた。いつから単発の企画ばかりになったんだろう。。。)

まだ開発途中のみなとみらいの海を見晴らすラウンジにはさまざまな人が、1日に100名はやってきた。国際エイズ会議(1995年)の時などは大忙し。ベビーキルトを縫うグループ。寿町の外国人労働者や、中国残留孤児で帰国した人たちに日本語を教えるグループなど。耳全開でいろんな人の話を聞いた。でも、当然のごとく自分とは相容れない価値観をもつ人たちも大勢やってくる。土日のたびにいろんな団体がイベントをする。週替わりで展覧会もある。その世話係がしごとだった。土日はなかなか休めず、休んでいても備品に不足はないか、現場のアルバイトスタッフに電話して気が休まらない。
人いきれに疲れてしまって、その頃久里浜に住んでいた私は、休日によくフェリーに乗って房総半島に出かけた。人がいない場所を求めて。金谷の黒湯の温泉であたたまった。
このころのこと。

    13階の座席表

 ワープロに1文字のイラスト機能があった
 あるとき座席表をアルバイターに頼んだら
 名前の横にそれぞれの人物をあらわす
 イラストを入れて「できました」

 なるほどねぇ、とみんなうなった
 わたしは鳥だった
 犬も、猫も、虫の人もいた
 理事長だけが人のアイコンで

 横浜ランドマークタワー13階の職場には
 いつも笑いがあった
 まだインターネットはなくて
 時間はどんぶらこ流れていた

 開かない窓の外
 夕方を染める橙色のなか
 静かに落ちていった
 1993年の夕日

               ☆彡


2020年代になって悩んだこと。自分が安心・安全に働くこと、安全にわかちあえる場を人々に提供することをめざしてグループワークなどの場づくりに没頭してきたが、あとからやってきた後輩にそれは伝えられていたのだろうか。いま若ものたちは、働くことは被害をこうむることと思っている? できるだけコミットメントしないでおくのが処世術? それでも、小さな窓を開けたらなにか希望が生まれるのでは。ちょっとでも話す仲間がいれば。おしゃべりや対話をすることで、ちょっとずつ地面を耕せないか。農婦のように。

土がカチカチに固くてはタネを播くこともできない。そう思って、農婦活動。異動するたび、農婦の私はくたくたになったが、農婦なかまを増やしつつやってきたつもりだった。放置すれば土はなくなり、沼になり、岩盤に届くには機械で深くボーリングしなくてはならなくなる。

仕事の方法、組み方、もちこたえ方はいろいろあると思う。逆境のときは力を抜いて、ほかの楽しみやなかまを見つけることに精を出していたこともあった。どうしようもない自分の性質に自家中毒になったこともあった。
いつも一人ではサバイバルできない。世界も人も捨てたもんじゃない。あーじゃない、こーじゃない、という旅は楽しいと私は思います。あなたはどうですか。

1 自助グループとの出会い



5年たち、やっとスタート地点に立つ。利用者や先輩・同僚に助けられて、しごとの土壌を耕し始めたころ。
すっとこどっこい。しごとのできない30代新人の失敗は数知れず。講座を企画して、一人も申込みがなかったこともあった。流行りに乗ろうとしてコンセプトがあいまいな企画。そこに来ても何が得られるのかわからない企画。やる側がぼやけていて、客が来るわけがない。そのときは依頼した講師が病気になり、助かった。またあるときは、お客さんが定刻に集まっているのに講師が来なかった。メールのない1990年代前半。電話で前日に打ち合わせていたが、日時と謝金を書いた依頼状をきちんと郵送してなかったため、相手は来週と思っていた。事務を侮るな。このときはテレフォンカードを配って施設長の上司がひらに謝り、延期。
これらは書ける程度のことであって。

しかし、人は現場で学んでいくものだ。たとえば。大きなイベントの司会が抜群にうまい先輩がいて、すぐ横で聞きながら、なるほど、こう言えばよいのかと次に口上を真似してみたらうまくいった。職人がお手本を見て真似るのはだいじなこと。小さな成功体験になる。石垣を積むように体験を積む。
ここで重要なのは自分が無力で困っている、ということの自覚である。自覚がないと手がつけられない。何にどう困っているのかひもとくことで手が打てる。困りごとを考えるにも時間とタイミングは要る。でもね、人生の課題は自分のペースで自由にやればよいが、しごととなるとそうもいかない。

身を削っていたと思っていたが、とんでもない。じつは私でなく周りの人々を削っていたのかも。。。この頃に書いたものです。

   けずる

 かつぶしをけずる だしをとるために 
 えんぴつをけずる ものをかくために 
 ほねみをけずる やくにたつために 
 しのぎをけずる たべていくために

 けずったぶんだけ いのちはだしがでる 
 いのちをあじわって 
 きょうもいちにちがすぎていったよ 
 みずいろのかぜのように

                  ☆彡

かぜのように5年がたち、空気の薄い(しかし人々は濃ゆい)ランドマークタワー13階の職場「フォーラムよこはま」から、前庭に広い芝生のある「横浜女性フォーラム」に異動した。この建物はもともと横浜市が1980年代に数本の市民ニーズ調査を行い、事業コンセプトを作ってからそれを展開するスペースが設計・建設され、バブルの1988年に開館した贅沢なハコだ。広い空間を見通せるようにライブラリの書架は低くなっており、これは死角にならない安全面もある。大理石の階段の勾配は人間工学に基づき人体にやさしく設計され、上りやすい。施設の周囲ぐるりは一本一本ちがう植木や花、実のなるびわの木に囲まれている。当時の植栽地図をみると、前庭の一部には「実験菜園」と書かれている。
ただし、土地は元沼地の低い土地だった。台風がくると柏尾川があふれるのに備えて? スタッフ総出でカッパを着て土嚢を積むのだが、案外これが楽しかった。なにしろ警備員からヒラ社員、えらい人までが平等に「施設を守るプロジェクトX」の一員になってしまうのだ。

NPO法ができた1998年。私は市民活動支援事業担当で、「自助グループ」という文化と人々に出会った。砂漠のなかに掘られた泉を地下水脈でつなげていくようなしごとだった。ここから、泉の水をくむ恩恵にあずかると同時に、自分の砂漠を探険することになる。
NABA(摂食障害の自助グループ)の鶴田ももえさんとは、初めて自助グループセミナーを企画してお話してもらった1998年からの長い付き合いになった。出会ったころ、電話して「元気ですか?」とあいさつすると「元気なはずないでしょっ」と返された。元気と健康が強要される社会の回し者と思われたのかも。あいさつは今では相手が誰でも「体調はどうですか?」に変化した。社会が人を病気にすることが前提になったのかもしれない。社会じたいが不調?

自助グループは相談室の先輩たちが「市民によるもう一つの相談室」と名付け、10年かけて大事に伴走してきていた。1988年の開館時から毎年、「アディクションセミナーin yokohama」というだれでも来られる全館イベントを、依存症の自助グループが集まった市民実行委員会と共催していた。日本で依存症のグループが始まったのは1970年代というから、かなり早かったと思う。大の男が舞台でオープンスピーカーとして自分の弱さやくせ、病気について淡々と語るのを聞いた。薬物依存の黒づくめなお兄さんたちは迫力があったし、アルコール依存のおじさんが「メロンパンです!」などとアノニマス(匿名)ネームを名乗るのはラブリーだった。実行委員の一人でソーシャルワーカーの村田由夫さんは『よくしようとするのはやめたほうがよい』の中で「依存症は生きるのに必要」と書いており、その意味は界隈にまだ少なかった女性たちが体現していた。症状があるからグループに集い、人々に出会える。症状が出なくなってからが根っこの問題にぶち当たってもっと大変だ、という語りも聞いた。

地下水脈からあふれる泉の水を浴びるうちに、自助グループは人が生きるために必要な社会資源だと腑に落ちた。もっと知ってもらおうとグループ一覧のリーフレットを作って手刷りしたり、グループの人々が語る連続の公開セミナーや海外のセルフヘルプ研究者を呼んだ講演会などを毎年行い、必ず記録冊子を作った。編集が好きでたびたび冊子を作っていたので、先輩や同僚から何か書くしごとのときは「これ読んでみて、どーお?」「手伝って」と頼られるようになった。英語は達者なのに日本語が不得意な人もいる。英語が必要な時は助けてもらった。全国のセルフヘルプ情報センターの集まりにも出かけたし、イスラエルでのセルフヘルプ専門家国際会議(1999年)に出張するT先輩を見送ったことも。相談室のTさんはいつも私が悩んでいたときにいつのまにかそばにいて、話を聞いてくれた。

2000年頃、神奈川県社会福祉協議会でセルフヘルプ相談室をつくる計画がもちあがり、検討委員になった会議で研究者の久保紘章先生(故人)にもお会いし、担当者の佐藤さん(故人)、奥田祥子さん(再会したい!)に出会った。久保先生の『セルフヘルプ・グループ~当事者へのまなざし』(相川書房、2004年)には、日本では戦後にグループの実質的な活動が始まり、「日本患者同盟(結核、1948年)と全国ハンセン氏病患者協議会(1951年)が患者自身による自主的な組織として設立された初期のグループである。患者の置かれた劣悪な状況に対して医療・生活保障などの要求運動、社会的なスティグマを負った人たちへの偏見の除去などのソーシャル・アクションが中心課題だった」とある。

このしごとには5年間入れ込んだが、一人で独占したら広がらないと考え、次の人にバトンを渡した。そのころ、まとめて書いたものが以下である。

                 //////////////////

『女性施設ジャーナル7』(学陽書房、2002年)より抜粋

  「生きる力をなかまの中で取り戻す 自助グループ支援事業」

 あなたはひとりではない あなたはあなたのままでいい あなたには力がある 

 自助(セルフヘルプ)グループとは何か。社会の中で生きづらさを抱える人々が共通する困難を軸として自発的意識的に出会い、体験や気持ち、情報をわかちあうグループのことだ。アメリカでは「人の悩みの数ほどグループがある」というが、日本でもグループは増え、急速に関心が高まっている。
 自助グループの基本であるわかちあいミーティング以外に、たとえば情報提供、当事者による相談活動、広報活動、調査研究、提言活動など、活動を広げていくグループもある。広く社会に発信することを使命として法人格を取得するグループと、あくまでも集まったメンバーの無名性・匿名性(アノニマス)を重んじるグループを両極と考えると、その中間には多数のグループが存在する。
 アノニマスのグループは、1935年にアメリカで発祥したAA(アルコール依存からの回復をめざすグループ)に端を発している。ミーティングでは参加者は呼んでほしい名前=アノニマスネームを自分で決める。どこに住んで何の仕事でといったことは尋ねない。基本はその場限り。「言いっぱなし、聞きっぱなし」などのルールを確認し(語らなくても、聞いているだけでもよい)、わかちあいを行い、場が終われば聞いたことはその場に置いて別れていく。依存症をテーマとするグループにはこのスタイルを受け継いでいるものが多い。
 匿名を重んじる理由は、①参加する個人のプライバシーと安全が守れる、②社会的な役割や属性から解放された個人として参加する、③運営上、特定の人が権力や利益を得ることを防ぐ、④グループが新たなパワーゲーム(競争)の場となることを防ぐ、など。これには、依存症が社会によって個人に課せられた役割期待に過剰に応えようとして陥ってしまうものだという認識がある。メンバーは対等で、活動のための会計や場所取りなどの役割も交代できるようにされている。
 1988年の横浜女性フォーラム開館当初からここでは自助グループを生きる力をなかまの中で取り戻していく社会資源と考え、さまざまなグループにミーティングの場を提供してきた。身体やこころをテーマとする講座事業の後には、グループが立ち上がるのを職員がサポートしてきた。10余年のあいだに多くのグループがここで生まれ、根を張り、あるいは休んだり消えたりしながらも、全体として豊かな枝葉をもつ大木のようなグループ群としていま存在している。グループのテーマをあげてみたい。

子育てのストレス/母乳育児/密室育児/一人っ子/シングルマザー/離婚/国際結婚の女性/ひきこもりの子をもつ親/摂食障害/摂食障害の子をもつ親/アルコール依存症/子ども時代の家庭機能不全(AC)/AC本人で子育てする女性/夫・恋人からの暴力/子ども時代の性的虐待/乳がん/子宮筋腫/子宮内膜症/不妊/女性ゆえの生きづらさ/など

 あるグループのメンバーは語る。
「横浜女性フォーラムでは、女性たちが困ったとき悩んだとき、参加できるグループがこんなにある。そしてこれからも小さなグループがたくさん生まれて、みんなの力になっていくのかも……。それが希望のように感じられます。」
 支援事業を展開するにあたり事業実施要領を整え、毎年行う公募・選考のシステムを確立。広報や啓発セミナーも行い、態勢を強化してきた。支援内容は、定期的な場の提供(無料)、情報と学びあいの場の提供、広報、保育等である。毎年の支援グループ数は約20、ミーティングへの年間参加者数はのべ2000人。メンバーは対等で、固定的でなく、新しい参加者をいつでも受け入れるものとしている。

 女性センターで活動することの利点をグループの参加者は次のようにあげている。

安心して来られる、開かれた施設(社会的信用)/快適で安全なスペースで、保育もついている/問題解決に必要な情報がライブラリにそろっている/参加者に個人相談が必要な時は相談室を利用できる/

 情報、相談、保育といった女性センターの総合機能が活用されているといえる。
 支援の仕組みづくりの次に重要なことは、支援内容や方法をニーズに合わせてどんどん発展させていくことだ。現在私たちが力を入れているのは次の3点である。

①グループの公益性を伝え、活動を支えていく必要と方法を考える啓発活動
「自助グループ応援セミナー」「セルフヘルプ理解セミナー」や交流ひろば、アメリカの情報支援センターの経験に学ぶセミナー(通訳付き)、など。記録冊子の作成。講座事業は職員にとって学びの機会であり、役割や考えが整理され、次の課題が見えてくる。

②グループ同士の学びあい(相互支援)の促進

コアメンバー同士が励ましあい、お互いのグループのよさや知恵、安全な場を作るためのルールを学びあう「水やりの会」を定期的に開いている。日頃の自助ミーティングには入れない職員も、ここには事務局役割として参加する。暴力被害のグループへのニーズも高まる中で、何かあればいつでも相談してもらえる信頼関係が不可欠だ。

③グループを作りたいと思っている人への立ち上げ支援

作りたい本人にどんなグループなのか文字化してもらい、ラウンジに掲示したり、関連の講座で配布したり。虐待などテーマによって本人が連絡先を引き受けられないときには仮の連絡先、仲介役を引き受ける。
                ////////////////////

引用ここまで。この原稿の続きには、予算もかからないし、あちこちのセンターで自助グループ支援事業は大きな社会資源の開発になるのでおすすめ、と書いた。その後あちこちからヒアリングにやってきたのは、みな非常勤の単年度雇用の熱心な方だった。が、実際にやり始めたという話は聞かなかった。このしごとに限らず、人にじっくりかかわり熟成されていく場づくりのしごとができにくくなっているのは、構造的に雇用の細切れが進んだ労働問題の面も大きいと思う。お金はかからなくても、これらは対人支援のソーシャルワークであり、コミュニティを耕すことであり、それには安定した雇用と長いスパンの時間が要るのだ。

2002年当時、1館で支援グループ数は20、参加者が1年にのべ約2000人であったのが、コロナ禍直前の2019年に横浜市男女共同参画センターでは3館で45グループ、のべ約6000人が利用していた。テーマも、かつては主催講座で女性の身体やこころ、暴力に関連するものを連続で開催しており、事後にはグループができることを側面支援していたこともあって、先に見るように女性特有の悩みを軸としているものが多かった。現在は男女二項では語れず、テーマは多岐にわたり、男性の参加者も増えている。が、女性やマイノリティが安全に集まれる場はまだまだ足りない。

「大木のようなグループ群」と書いていたが、セルフヘルプ・コミュニティが醸成されていくのはみんなの資源になる。公共施設ならもちろん、そうでなくても小さなスペースでも、理解者がいれば場を提供することはできる。グループが使える場が広がってほしい。
私自身がこの後、自助グループにいろんな意味で助けられていく。


2 セミナーを準備する、記録する


『フォーラムブック14』2000年 在庫あり。\500 電話045-862-5141



前回を書いている途中で、2000年に作った冊子 フォーラムブック14「わかちあいから生まれるセルフヘルプ理解セミナーの記録」を読んでいたら、古い友人に出会ったような気持ちになった。しごとにとりつかれた女? 50ページに盛り込みすぎ冊子。でも中味は古くなっていない。

この頃、上智大学の研究者・岡知史さんから企画が持ち込まれることが多かった。計画になかった事業を臨機応変に行うことが歓迎される空気もあった。私は30代だったし。このとき、米国のトマシーナ・ボークマン女史が来日したのは初めて。短期間の告知でランドマークタワー13階の一番大きな100人会議室は当事者・家族・援助職・研究者・学生らで満員になり、お断りするほどだった。講演録から。

「自分たちが自分たちの問題を人からつけられた言葉でなく、自分たちがどのように名付け、考えるかをやっていく。ということは、自分と自分の抱える問題の関係について新しい見方、考え方をもつことになる。それは“解き放ち”、つまり人間解放を意味する視点をもつことなのです」


「わかちあいの輪のなかで、体験的知識は生まれてきます。それはひとりの体験ではなく、さまざまなたくさんの人々がいっしょになって、それらの人々の体験をつむぎあって生まれてくるものです。体験を確認しあって、積み上げられてきたものなのです。専門家の知識と同等の価値をもつ。左右の車輪のように」

続いて「グループの発展段階モデル」と「個人の発展段階モデル」の3段階の図式がひもとかれていく。第3段階で成熟してくると「新たに学ぶ姿勢があるグループ」と「教条主義的な姿勢になるグループ」に分かれていく説。「閉鎖的なグループはリーダーが教条主義的で自分のやり方を押し付けるもの」という。ドキッ。「とても窮屈なグループです」。たしかに。
個人の場合は被害者であるところから第2段階でサバイバーになり、第3段階でやはり柔軟に学び成長していく成熟した人と教条主義的な人とに分かれていく、と語る。ギクッ。老害か。かさばらないようにしないと。

さらに「だいじなことは、自分たちのグループが今どういう段階かということを正確に自覚する必要があるということです。自分たちがどの地点にいて何をしたいのか、十分に意識する必要があります」。
これは個人についても言える。私はつらつら考える。あまりにいろいろやり散らかしてきてしまった。少しでも統合したいし、糧にして定着させたい、後から来る人に(ご迷惑でも)渡したい、不足なことは聴く耳と学びをもちたいとねがって、今ぐるぐるとこの連載を書いている。

講演録の最後は「セルフヘルプ・グループの有用性(公益性)」について。
「まず個人にとっては情報が得られ、サポートが得られること。保健医療サービスや福祉サービスの賢い利用者になる、グループに参加することで現状のサービスの不足に対して意識が高まり、異議申し立てをしていくのも自然のなりゆきです。気持ちを支えてくれるし、ロールモデルに出会う場にもなる」。「次に社会に対しては、グループが体験的知識を積み上げることで専門家の実践に適切な批判をしたり、権利主張したり、保健医療を向上させる原動力になる。専門家の良きパートナーになれる。それは専門家の仕事を減らすこともでき、あるいは(社会の変革に向けて)仕事を増やす、増やさせることもできる。そのようにして人間解放をめざす視点は社会に貢献する」と。

この講演会を通訳が入って質疑応答も含め夜の2時間で行うには、周到な準備が必要だった。通訳の朴和美(パク・ファミ)さんは前もって講演者の原書を読んでくれた。訳語をめぐっても、岡知史さんと検討を重ねた。伝える日本語は重要だ。
記録冊子の講演録は案外短くて、次章「講演をどう受けとめるか」のほうにページを割いている。後日別途、自助グループの女性リーダーを集めてクローズドの座談会まで企画し、この講演をどう聴いたかを語ってもらい、収載した。当事者たちの語りも圧巻で、そこに「マイナスがプラスに変わる」という題をつけた。さらに企画者の岡さんと通訳者の朴さんがまた、依頼したわけではないのに原稿を寄せてくれた。

朴和美さんは自らが当事者として悩み、考えてきたことを書かれている。
「在日コリアン女性の“解放への戦略”はたぶんこの“サバイバー”から“スライバー(成熟した人)”への道筋にあるのではないかと私は考えます。たまたま“在日”として生まれたことに責任はないが、日本社会の中でこれからどう生きていくのかについては責任がある。その過程で“学び”に対して自らを開き続ける限り、人間的に大きく成長していけるのだと思います。とくに二重の意味で差別されている在日コリアン女性にとって“解放への戦略”の方向性をつかむことは、決定的にだいじなことです」
「もう一つ大事なことは、こうした段階的変容は直線的なものではなく、スパイラル(らせん状)なものだということを知っていることです。一直線に一つのステージから次のステージに飛び移るのではなく、その間を行きつ戻りつしながら変容していくのだと思います」 
「また、ある問題においては“被害者”の位置にいるが、べつの問題では“スライバー”であることもありえるわけです。つまり、この発展段階モデルは固定化されたものではない。固定化していないということは、私たちが創り変えることができることを意味しています。ここに希望の光を見ることができます。ボークマンさんの通訳をしながら、私は希望の光を見たようです。カムサハムニダ!」
アイゴー。こちらこそです。希望の光。

イベントは準備が7割で、やるだけの当日は1割。終わってアンケートを読んだり、余韻を楽しんだり、関係者と成果を分かち合ったり、まとめて記録・報告、それをまた発信したり、次にやることへのイメージを育てたりすることが2割。変化を起こすには点を線に、線は面にしていかなければおもしろくない。点ばかり打つようなイベントは消費されて終わる。自分も消費される。仕事にはスポンサーに対応しなければならないことも多いけど、商売だって売り続けるためには顧客のコミュニティをつくってリピートを増やす、つまり点を面にしてなんぼでしょう?

場を準備する過程で目標を共有するチームをつくっていくのは楽しい。足りないところは内外の人に助けてもらう。持つべきは友。キャッチコピーは伝わるか。心に響くか。チラシは家族や友人など内容をよく知らない人に見てもらうと不出来がよくわかる。
私は当日のシナリオや司会原稿を書くのも好きだ。司会はしゃべりすぎてはNG。あまり力んだり、エモーショナルになるのも聞き苦しい。主役の声がフラットに入ってこないからだ。
心が弱っていたあるとき、くどくどとしゃべりすぎてアンケートに「あの司会はなんだ!」と書かれたことがあった。指摘してくれるのはありがたかった。本当に。
反省して以来、必要なことをヌケなくわかりやすく伝えられるように読み原稿を書くことにしている。これは作りたい場のシミュレーションにもなる。書く際のポイントは、漢字熟語はなるべく使わず、ひらがなを多くして、耳から聞いただけでスッとわかるような言葉づかいにすること。

「いくらよい内容でも情報が届かなければ、人が来てくれなければ、やってないのと同じ」と上司によく言われた。来てほしい人に、どうしたら情報が届くのか。その人たちはどこで情報をとるのか。広めてくれる人はだれか。90年代は何人かにファクスを送った。次はメール。ミクシィの時代、そしてSNS。
ツールがなんであれ、企画がちゃんと立っていて、伝わる広報文になっていて、なにより拡散してくれる人との信頼関係が築かれていれば情報は伝わっていく。人とかかわってこそ、しごとは広がる。またいっしょにあの人としごとがしたい。そういうなかまを増やすこと。なかまの一員になること。そうなると日頃から声をかけてもらえるし、情報が増える。なにより不足の多い人間どうし、苦手を補ってくれて余りが出る。この余りで次のことが起きていく。あたたまる。

プレスリリース(取材依頼の通信文)もよく書いた。まだ出会っていない多くの人に伝えるには、メディアの記者に理解者を増やすことも重要だった。ただの告知ではなく、内容を理解して書いてもらう。取材にも来てもらう。
署名記事でこれはよいと思ったものは切り抜いて記者名をメモしておく。必要な時に取り出して「あなたの書かれたあの記事がよかったので、ぜひこの件の取材をお願いしたい」と連絡する。

朝日の横浜支局にいた29歳の上野はじめ記者に出会ったのはこのころだ。自助グループについてどうしてこんなに深い記事を書いてくれるのかと思っていたら、連絡がとれなくなり、入院されていた。病床からの連載『がんと向き合って』が始まった(朝日文庫でロングセラーになっている)。そうだったのか。その後回復され、メールのやりとりをするようになった。入院していた横浜市大医学部のイベントに呼ばれ、患者パジャマで登場、講演した人だ。

神奈川新聞のゆんきすぎさんにも、くりかえしお世話になった。過不足なく意味を伝える、ペンの力を教えてくれた。デスクになっても現場に足を運んで書いてくれた。
困っている当事者が勇気をだして語ってくれた生の声をどう紙面に書くかは、とてもセンシティブなことである。書かれようによっては本人が追い詰められたり、新たなトラブルになることもある。でもメディアは独立したものであり、原稿をあらかじめ見せてもらうことはできない。間に立つものとして心配は尽きない。その部分を、電話口でさらっと読んでくれることもあった。「OKと思います」。ありがとう、シスターフッド。

3 「たましいのかぞく」

2008年、港区コミュニティカフェでの記録。キッチンパフォーマンスのような。NPO法人ヒューマンサービスセンター運営のスペースで、深沢純子さんらに本当にお世話になりました。



わたしたちは 手をつないで
はるか遠く離れて 家を思う
父をあきらめる 母をあきらめる
兄や姉とは 話がつづかなくて
妹や弟は 出ていってしまった

わたしたちは 昨日出会い 明日にはもう別れる
それでもわたしたちは たましいのかぞく
ソウル・ファミリー・システム それがなまえ

わたしたちは 手をつないで
全速力で走り つんのめり つまづいては転ぶ
膝小僧から流れる血をなめてみたら 塩からくて
私という生き物の なつかしい味がした

言葉はのどにつまり 思考はからまわり
不安なことがあるなら おなかに聞いてみよう
Everythings gonna be, woo, it,s all right.
うまくいくってさ うー えいえいおー

昨日 古い教会で出会い
手を振って別れたあの人
わたしの母かもしれない
今度出会ったなら 気づくだろう

わたしたちは 昨日出会い 明日にはもう別れる
それでもわたしたちは たましいのかぞく
ソウル・ファミリー・システム それがなまえ

 (葛切あきこ 2001年)

摂食障害の自助グループNABAのニューズレターに載っていたこの詩に出会ったのは、40歳のときだった。私はある依存がきっかけで、自分の育ちや親など目をつぶってきた問題に向き合わざるをえなくなっていた。NABAの発信する言葉たちや書籍が、怒涛の海水のようにしみてきた。自分は無力であること。どうしようもないこと。底ついたら浮上するしかないこと。生きのびること。仲間の中で。

同世代のあきこさんは、実家を出て一人暮らしする30代の終わりにこれを書いていた。ソウル・ファミリー・システムとは、自助グループのしくみのこと。それはスピリットのような情緒的なものではなくて、みんなで手をかけて作り続けるシステムだと言う。そのことに私は打たれた。

子どものころから歌を作ることが好きだったので、「たましいのかぞく」に曲をつけてみた。歌姫がNABA事務所からやってきて、狭い我が家で録音するとうちのインコがいっしょに歌った。それから、しごとではなくてプライベートで「やっかいな夜会」を3回企画。あきこさんもコアな企画仲間だった。ダンスや詩、パフォーマンス表現、自助グループの仲間との語りなどをやりとりして数年過ごした。

2013年、「たましいのかぞく」をCDにする相談のために連絡したが返信はなく、あきこさんが先に逝ったことを私たちは知った。彼女が50歳を迎える直前だったと思う。
語りのようなコンテンポラリーダンスを踊り、するどい文章を書く人だった。

「今の自分(40歳)にはたべものや体重のこだわりはほとんどない。これからが本題である。実は私が最も恐れ、長く先送りにしていた問題というのは“愛情”である。“女性として愛される存在”であるかどうか試されるのもこわくて、私は自分が女性の一員であることを自分に認められなかった。もう現実の問題に手をつけるしかない。私は妻でも母でもないが、そういう“さら地”に“大人の女性”として生きていきたい。」
(『現代のエスプリ アディクション特集』2003年9月、「アディクションのセルフヘルプグループ」より)

その後も彼女は『ふぇみん』でエッセイを連載していた。2005年8月の最終回から。
「なくすと思っていなかった人やものごとを失う、ということが年末から続いている。(中略) “失う”ということは、“失うということを得る”のではないかしら。ずっと得たまま、なくさないでいるなんてできない。失うということができないと、わたしというシステムは死んでしまう。失って、そして新しいものを迎えるというプロセス。満月を見ながら静かに思う」

満月の夜には手放したいことを願い、新月の晩にはほしいことを願うとよいと聞く。満ちてきたら手放す。なくなったらそこから始まるのかもしれない。でも、身近な人、大切な人を失ったときに、「失うということを得る」のはむつかしい。

「やっかいな夜会」は「食べる(食べない)」がテーマだった。食べるという行為は性行動と似たところがある。20代のとき、私は苦しかった。夢の中で銀のナイフをもって、自分の肉を切りとっていた。でもそれをしているのは自分なのか、だれなのか。。。

 若い女であることは 
 皿にのったさしみのように
 食われやすく 腐りやすく
 自分の肉のにおいに耐えがたい日々もあり
 ときどき人になったり
 ときどき女になったりした
 暗闇の私は ずるく愚かしく
 すっかり出遅れたのは自分のせい   
                (拙作「あこがれ」 部分)

自分のかぶっている皮膚がどんどん腐っていく気がして、耐えられなかった。と夜会の準備会合で言うと、「わかります。いっそくん製になったら」と言われた。でも若くしてくん製にもなれず、子どもを産んだりして、あきこさんの言う“さら地”から逃げたのかもしれない。腐っていく感覚は、若い女が外から浴びせられる視線ゆえで、自分の内面にもそれを取り込んでいたからだと今はわかる。
わかっても、この社会は変わってないどころか、いま若い女性たちは家庭人と労働者とさらにたくさんの役割を期待され、“さら地”も空地も見つけにくい。ただ生きていることもたいへんになる一方だ。そんななかで体験を聴き合う、いやなにも話さなくても聴いているだけでいい安全な場がどんなに必要なことだろう。安全島はあちこちに皆で作っていくしかない。

自助グループの文化と地下水脈に集う仲間たちとの出会いは、自分が生きる源泉となり、地中の肥やしとなっていった。その土の上にしごとの種や芽を育てていけたのは恵みだったというほかはない。

4 朗読舞台「ひまわり~DVをのりこえて」
  ~無名の、尊厳ある女性たちの声を届ける

原作を載せたフォーラムブック16を二度作り、2000部を売り切った。2006年の新版には巡業を通した広がりを、2004年の旧版は制作過程について書いた。



1995年、北京での世界女性会議で「女性への暴力」が国際課題となる。2001年、DV防止法成立。2004年に朗読「ひまわり」という舞台をたくさんの人と制作し、旅公演はじまる。思い入れのある発表原稿のほこりを払ってみました、の巻。

2005年1月15日/アートとソーシャルインクルージョン国際フォーラム
(財団法人たんぽぽの家 主催) 事例報告原稿より


「本日は発表の機会をいただき、ありがとうございます。
この報告の副題に「表現活動を通して女性が抱える問題を解決する」と付けてくださいましたが、少し違和感がありました。問題解決をするのはやはり政治や社会運動であろうと思います。2001年にDV防止法ができた時にも女性たちのたいへんなロビー活動がありました。新しく顕在化するニーズに見合った社会のシステムを作っていくことは重要です。しかし、同時に今を生きる人間が心から何かを感じ、自分に内在する力を信じ、人々とつながり、生きていく光を日々生み出すことができなければ、どんなに正義が叫ばれても、新たなシステムがつくられても、社会は殺伐としてしまうのではないでしょうか。アートはそうした希望や可能性をこれまでにないかたちで発信していけるものだと思います。私たちが朗読「ひまわり」を通じて行っていることも、そのようなことだと考えています。

(朗読舞台の記録VTR上映 5分)

まず、ドメスティック・バイオレンスという問題の背景についてですが。現在、日本全国の女性センターの現場では、相談室のしごとが目に見えて大きくなっています。私たち横浜のセンターでも2003年度、年間約6,000件の相談のうち、2,200件が暴力被害の相談でした。それも夫婦・パートナー間の暴力がほとんどです。家庭というものは憩いの場と長い間信じられてきましたが、暴力の温床でもあるという面が浮き彫りになっています。
DV解決は1995年北京の世界女性会議で採択され、国際社会の認識が進みました。女性たちは「悩んでいるのは自分だけではない。これは個人の問題ではなく、社会の問題なのだ」と考えるようになり、相談に訪れたり、女性シェルターを作ったり、利用したりするようになりました。
私たち横浜のセンターでも、シェルターを出た女性たちが1999年に自助グループを作りました。毎月集まって励まし合いながら、仕事に就き、子育てをする彼女たちに安全な場を提供し、見守るのが私たちの役割です。はじめは無表情だった女性たちが年月をへてその人本来の輝きを取り戻していくのをつぶさに見てきました。この朗読作品は自助グループのメンバーの語りから生まれたものです。そのことは大きなポイントでした。その語りは「わたし」個人の物語ではなく、グループでくりかえし語られるうちに「わたしたち」の物語となっています。その言葉を私たちは声にし、舞台に乗せ、べつの女性たちが伝えていく。そこに声の力が立ち上がっていったのだと思います。

次に、制作プロセスを説明します。
昨年2月、「DVをのりこえて」という題で、DV被害の自助グループメンバーの語りを公開の場で聴くということを初めて行いました。参加者は女性のみとしましたが、これまでは安全の面から、誰が来ているかわからない場で当事者が語るなどできないことだったのです。でも、「語りたい、思いを社会に伝えたい」という声を受けて、初めて場をつくることができた。その場でずしんと聴きとった70人くらいではもったいない。もっと大勢の人に届けられないか。それがこの作品の制作をはじめた発端です。ちょうどある企業から社会貢献したいと200万円の寄付をいただいたこともはずみになりました。
「声は力!  無名の、尊厳ある女性たちの声を届ける」をキャッチコピーにし、目的にしました。語りの録音を起こした原稿~小さな子を連れて女性シェルターを出、自助グループをつくってなかまとともに自立していく物語~を第一話とし、第二話は交際中の恋人からの暴力(のちにNPO法人レジリエンスをつくる中島幸子氏)、第三話は精神的暴力、モラハラの体験が語られる実話を関係者からいただいて、それぞれ15分くらいに編集しました。「ひまわり」という作品名は第3話の終わりの詩のイメージから付けたものです。
構成・演出を、劇団青い鳥の演出家で役者である芹川藍さんにお願いしました。
次に「朗読&舞台づくりワークショップ~DVをのりこえて」(参加費1万円)というチラシをつくり、公募すると、女性40名の応募がありました。猛暑の7月から11月の間には、25名に減りましたが。公演活動を11月から始めると、全国の女性センターからお呼びがかかり、約半年間で12公演を巡業している最中です。

最後に、物語の当事者ではなく、公募で参加した市民が語り手となるということの意味について述べたいと思います。
被害を生き延びた本人がいつもいつもそれを社会に向けて語るのは不可能なことです。彼女たちは運動家ではなく、生活者ですから。生きてこられただけで十分に尊敬されるべき存在だと思います。この問題が特別な女性に起こるものでない以上、たくさんの別の女性たちによって語りなおされることで社会により広がり、深まっていくのではないか。そう考え、既存の劇団にお願いするのではなく、市民公募にしました。それが結果的にいま、作品の広がりと大きな意味を生み出していると思います。
志望動機では「表現活動をしたい」「社会的な活動をしたい」「暴力を受けていた母の追悼や自分や友人のために」という3つがクロスしていました。演劇や朗読、ダンスなどの経験者が半数。30代から60代までの方たちの共通項は「自分と向き合い、現状をのりこえ、自分を肯定してやりたい」ということだったように思います。何年も闘病して来られた女性が、だんだん大きな声が出るようになって元気になられたり、ご自身がDVを受けていた女性の参加もありました。離婚裁判で弁護士がこの公演のチラシを提出して「このような社会活動も行っている」と夫に反証する場面もありました。一人ひとりがこの表現活動を通して変わっていくのはたいへんなプロセスでした。舞台を届けるのが目的ですが、つくっていく中でいかに人間が解放されていくか、変わっていくかに圧倒され、それこそが醍醐味でした。

参加者のある女性は書いています。
「表現が大好きな私に、稽古は楽しくて新鮮でした。ところが、DVの実態を知るにつれて苦しくなりました。自分の中の傷口が痛み出したのです。こんなにつらい思いをしなくても、やめれば、とも思いました。でも私は自分の意志で続けたのです。傷をぺろぺろなめる日々でした。そのうちに自分らしい味がしてきたようでした。自分をはじめていとおしいと思った瞬間だった」

生きていくことは祈りのようなものではないかと思います。表現することは楽しみと同時に自分に向き合う苦しい作業です。しかし、それでもやっていくなかで自分の課題が明確になり、のりこえようともがく。また別の女性のDV を追体験し、共有していく。さらに体験はひとりずつちがっても、人はつながって生きていけるとイメージする。それらをこの活動を通じて体験している女性たちが演じる舞台を、見た人々がまたそれぞれに追体験し、感じ取っていく。たんぽぽの綿毛が飛ぶように、希望と葛藤が伝播していっているようです。

くりかえしになりますが、自助グループというすぐれたシステムの中で語り継がれた「わたしたち」の物語を、またべつの女性が語りなおすことで、社会正義の宣伝ではない、等身大の共感が広がっていくということ。それが社会の土壌をあたたかい黒土にしていく。そこに私は希望の光を感じています。ご清聴ありがとうございました。

                   ☆彡
発表原稿はここまで。
1995年以前、DVという言葉は聞かなかった。このしごとについては、残したものだけで段ボール1箱。職場の3階倉庫に。それくらい、長い旅だった。中に16ページの通信「オンリーワン日記」が残っていた。朗読チームと職場内と巡業先の関係者だけに配布、50部限定とある。この読み原稿はその中にあった。実際に朗読舞台に参加していた人がこの文をいま読んでいたら、こんなきれいにまとめないで~、と言うにちがいない。このしごとがどうして可能だったか、長いプロセスの中のカオスのなか考えたことは次回に。あ、でもその前に台本の中で私がとくに好きだった部分を記録しておこうかな。

第2話の女性(中島幸子氏)がカウンセラーに言われます。
「“人生が本棚に並べてある本だとしたら、20歳から24歳までの本はあなたにとってつらいことしか書かれていません。でも、それもあなたの人生だし、変えることはできないんです。ほかの本は取り出してみていて、つらい本は見ないようにしていては、人生を否定していることになる。少しでもいいから、つらい本も取り出して読んでみて、こういう時期もあったんだよね、ってなれるように。ただ、そこでのポイントは、つらい本を開いたままにしないことです。なんで私の人生ってこんなにむだばかり!とか考えてしまうから。そうじゃなくて、気づいたら本を頭の中でバタンと閉じて、ちゃんと本棚に元通り戻してくださいね”」
本を閉じて戻す、をくりかえしていく。
「人生にいろんな色のついたイメージを持てるようになりました。けれども、自分が生きていくうえで落ち込みやすい部分というのは常に抱えていて、それは大雨が降った後は必ずチェックして修理や補強が必要なら自分でしなくちゃならない、一生続く作業だなと思います」
彼女は自分を一軒の家に見立てている。
「自分を好きになるということはたいへんな難題でした。10年くらいかかったと思います。私という人間が一軒家だとしたら、はたから見たらちょっとゆがんでいて、変な家に見えるかもしれないけど、それが自分なんだなって思って、そのままである程度生きていけると思えた時に、私は自分がちょっと好きになれました。それは自分の中で長い年月作業してきて、やっと持てた感覚でした」

わたしたちの、DIYの人生はつづく!


5 無謀なしごとと言われても

まる一年かけたしごと。「ひまわり」のタイトルは、舞台発表間際に決まった。朗読の中味もわからないのに、よく40人もが10回1万円のワークショップに集まってくれたと思う。



前回の朗読舞台「ひまわり~DVをのりこえて」制作のお話の続きです。共同作業は楽し苦し、たのくるしい。なぜこのときこれが成り立ったのか、他人のことを調べるようにマジで考えてみた、の巻。

 大好きな花はひまわり
 太陽に向かって あざやかに黄色に咲いている
 自分で咲くことがうれしいのだ
 だれかのために咲くのではなく
 咲くこと、それ自体がうれしいのだ

 昨日までは夫のために生きてきた
 けれども今日からは 自分のために 
 自分の足で人生を歩き出そう
 突然の雷雨に打たれても
 日がのぼればまた顔を上げて堂々と咲く
 冷たい秋風に枯れ果てても 季節がめぐり
 夏が来ればまた ぐんぐんと伸び 大輪の花を咲かせる
 そんなひまわりのように 私は生きたい

           (朗読「ひまわり」 第3話エンディング)

「ひまわり」第3話は資産ある夫のモラハラから、主人公が子どもたちとともに逃れる実話だった。サイパンやハワイで泳いでいた生活から離れた夏、母子はビーチパラソルを抱えて三浦海岸に行く。帰りしな雷雨となり、道で雨よけにビーチパラソルをさして笑う。そのとき子どもがつぶやくのだ。「ママはやっとママになれたんだね。奴隷じゃなくて」。

この話の演出には随所に波の音が流されていた。20年近くたった今でも私は、波の音をきくとこのシーンに返る。条件反射のように。

朗読舞台をつくる市民ワークショップは途中から1回2時間が4時間になり、毎回ビシバシ! 演出家から叱咤激励が飛んだ。「表現することは伝えること。けっして“私は素敵”と酔うことじゃない。人に見に来ていただくってことはたいへんなことです。みんなの気持ちをひとつにして、今回はDVのこの問題を世の中に伝える。原作者の気持ちによりそう。この人はどういう気持ちで言っているのか考えて」。

4か月たち、2004年11月。25人のチームによる初演が360人の横浜女性フォーラムホールで幕を開けた。実話を提供してくれた女性たちが招待席にすわっている。メディア各社も。だいじょうぶか?  舞台袖で祈る。
演出した芹川藍さん(劇団青い鳥)の初演舞台あいさつでは「本当にたいへんな道のりで、無謀でした」。まあ。そういわれても。

「横浜市女性協会では、年間6000件ある相談のうち、およそ3割がDVに関するものだという。朗読舞台は、女性3人の被害体験をオムニバスで構成。家を出てシェルターに逃げ込んだ後、自助グループを立ち上げた女性、アメリカ人の恋人から暴力を受けたが回復後は被害者の支援をしている女性、夫の精神的暴力から逃れ、離婚し、2人の子どもと平穏な生活を送る女性。「ひとりぼっちではない。自分らしく生きていい」というメッセージを観客に運んだ」
(『週刊女性』2004.12.14)

月並みだが、「機が熟す」と「逃さずつかむ」は大事だと思う。やりたいしごとがあっても、理解者も資金もないときは待つ。人的ネットワークを広げたり、好きなことに没頭したり、心許せる人と話したりして力をためる。なんといっても時間は均等に流れない。「いまだ!!」となったときに走れるよう、力は無駄に浪費せず、ためておきましょう。(いや、無駄から生まれることもありますけど。)

この年は本当にそうだった。一年後、職場は指定管理者になり、組織名も施設名もキョウドウサンカクに変わり、まるで違う会社のようになった。私は本部所属となり、市への計画や報告の様式づくりに追われた。やってもやっても事務が終わらない。その一年前だったから、このしごとはできた。あとは、こんなことをやりたいんですと言ったときに上司が反対しない、できれば後押しするのは大事。

しかし、それにしても。
「長く無謀なしごと」が可能になったのはなぜか。まるで他人のことを調査するように、考えてみた。振り返ると大きな困難が二つあった。

一つ目は、原作を編集作業する中での葛藤。6月にワークショップ参加者を公募するに先立ち、3,4か月かかっていた。とくに、公開の場で語られた第1話は原稿がなく、同僚がテープ起こししてくれたものをもとに、本人と何度も何度もやりとりを重ねた。耳で聞いてわかりにくいところ、もっと率直にあるいは詳しく聞きたいところ、などなど。そのうちに相手を追い詰めているのではないかという不安に駆られ、相談員の先輩に相談した。「いくら目的があるとはいえ、思い出したくないことを思い出させたりして、その人の具合を悪くさせてしまうのではやらないほうがいいかと」。「率直に聞いてみましょう。なお協力していただけるかどうか」ということになった。すると返ってきたのは「私の意志で、これは協力しているんです」というお返事。彼女が自助グループを立ち上げてから5年、家を出てからは7,8年たっていたことも奏功しただろう。ありがたかった。

~いま急に、精神科医・宮地尚子さんの「環状島」が浮かんできた(岩波ブックレット815『震災トラウマと復興ストレス』2011年)。大災害の被災者にもよく例えられるが、深い傷を負った人は体験を語ることもできず、人に理解されず、ドーナツの内海に落ちておぼれがちだ。それを共通の体験として価値あるものにするのが、土手に立っておぼれる人を引っ張り上げようとする人々。いやもっと複雑なんだが。
このときはセミナーで当事者女性の語りをきいてわがことのように涙した人々や、ワークショップに集まってきた人々がわらわらと土手に集合していたのかもしれない。


二つ目の困難は、グループ(生き物!)の中の葛藤。朗読ワークショップに集まった女性たちがつくるグループのすき間の、そして力を発揮してくれた専門家とのすき間の調整であった。それまで数年のしごとの経験からグループの力を信頼していたとはいえ、いやはや。けいこの途中で「人は愛され、愛するために生まれてきた」という原作にないセリフが挟まれてきたときには驚き、上司や相談員と相談して「それはやめましょう」となった。「愛がなければ。愛するために人は生きていく」と言われたら、愛のないときはどうするの? まったく違う物語になってしまう。提案された方の切実な気持ちもわかった。でも主催者がどんなつもりで行うか、「これはする」「これはしない」は、決めていかなければならない。

このことに象徴されるように、作品作りの中で参加者一人ひとりに葛藤が起きていた。DVをこえていく物語が自分の声を通して体内に入っていくにつれ、育った家族の、人生のいろいろな場面がめくれてくる。調整不能なそれらはときに不協和音となったが、招いてくれ、聴いてくれる人々に励まされて不協の山をこえたように思う。協同作業は苦しく、あたたかかった。

困難の山々をみなでのりこえられたのは、立場も経験も異なる人々が同じ女性として人として対等であるという感覚を持ち、互いをリスペクトし、そして光さす方角をいっしょに見たいと願い続けたからではないかと思う。人々の中で、自分の1人分をまっとうしよう、として。私のしごとはそれぞれの立場をつなぐ1人分だった。同僚や先輩に相談できる関係もなくてはならなかった。

そのころに比べると、なぜか今は支援する人とされる人、サービスする人とされる人、仕事人とお客様、という図式に押し込まれているようにも思う。いつからどうしてそうなったの? 確かに時代は変わってみんな忙しくなった。長丁場の企画に集まってもらうのはむつかしい。けれど、あれからまだ20年もたっていないのだ。1人ずつに巨大な力が横たわっているのを活かさなくてはモッタイナイ。ちいさなキルト、変形してても、つぎはぎしていけたらいいよね。

「ひまわり」は全国巡業となり、みんなで走った。旅行に強い当時20代の後輩Yさんはツーリストを自称し、新幹線のチケットや宿の手配を担当していた。新幹線に乗ると朗読チームの女性たちは盛大なお菓子・おしゃべりまつりを繰り広げた。ぎょぎょっ。日常を離れることがみんな楽しかったのだろう。
市民劇団オンリーワンと名乗り(その頃SMAPが全盛だった)2年目には独立し、その後メンバーは変化した。何百回だろう、公演は20年近くたった今も細々と続いているという。 

追記:『フォーラムブック16 ドメスティック・バイオレンスをのりこえて ~朗読作品「ひまわり」を読む』(絶版)は横浜市男女共同参画センターライブラリまたは横浜市図書館で借りられます。

6 ファシリテーターの居かた~講座ルトラヴァイエ

2000年代に初日のフォトランゲージで使っていた写真(撮影:落合由利子)。100枚の写真からいまの自分と未来の自分を二枚選び、なぜそれを選んだのかを語る。



2002年のことである。すっとこどっこい、私の10年目。横浜女性フォーラムのブランド事業であった「女性のための再就職準備講座ルトラヴァイエ」(11日間のグループワーク、そのあとにパソコン講習数日間)を担当することになった。これは1988年の開館と同時に始まった講座で、私はたしか6代目の担当だった。代替わりするときには全日程、前任の先輩について見習いをするという徒弟制。時間割と内容、つまり何をするかはあらかじめ決まっているが、どんなふうにそれをするか、どう居るのかが難問である。24人の個性あふれる女性がエネルギーを飛ばす場で、ファシリテーターは空気のように居ながら、よい気が流れるように調整していかなければならない。あわわわわ。

若いとき、私は就職試験にめっぽう弱かった。とーぜんだ。いくら80年代がゆるくても、出版社の応募履歴書に大口開けたスナップ写真を貼る人って(ワタシ)。そんな私がここから20年間もヒトサマの就労支援に携わるとは、おへそに茶が。。。

「ル・トラヴァイエ」はフランス語。直訳すると「再就職」である。1973年にパリの薄暗い地下教室で、民間団体 ルトラヴァイエ協会のエブリーヌ・シュルロさんが始めた。ちなみにシュルロさんは4人の母で、人工中絶が厳禁だったカトリックの国フランスで闇中絶に苦しむ女性に共感し、非合法情報活動をする「フランス家族計画協会」(1956年~)の事務局長を10年も務めた。(中絶問題も出てくるアニエス・ヴァルダのフランス映画「歌う女、歌わない女」(1977年)に高校生の私はしびれた)。
家族計画協会の仕事をするなかでシュルロさんは女性たちの困難に目覚め、大学に行って社会学者になり、1967年にヨーロッパで初の女性学講座をもつ。女性の職業教育にまい進する。主婦らを指導員として養成しはじめ、協会の財政基盤を強化し、地方に22支部をつくる。農婦でない職業が増えてきた1970年代に、失業者向けの講習、若者向け講習、OA・営業・公園管理等の資格取得講習、企業での男女格差解消のためのコンサルティング、さらにはがん患者や出獄女性、生活保護世帯向けの講習までやっていたという。
(『未来の女性―彼女は母性を放棄するか』 1966年、エヴリーヌ・シュルロ, 根本 長兵衛 訳)

その後ルトラヴァイエ協会はどうなったのか、仏語に堪能な方がいらしたら教えてほしい♡

こうしてフランスで生まれ、ギリシア、スイス、イタリア、カナダにまで広がった講座ルトラヴァィエが海を渡って日本にやってきたのは1980年代。横浜市が日本での権利を買い、翻訳し、日本版にアレンジして始めたといういわく、いや由緒あるプログラムだった。フランスでの対象者は当時普通だった低学歴の女性たちで職業経験が少なく、負のレッテルをまず自らが払しょくするために自分を掘りさげていき、自分の価値を発見することを基軸に構成されていた。

「この講習の目指すものは、“してもらう”のではなく問題を“自力”で解決するための手順、方法論の習得であり、今後すべてがゼロという状況に陥ったとしても、再出発のための方法論は習得済みだから心配いらない、ということが繰り返し述べられる」
「そのため、自分の問題に答を見つけてもらうことや進路を示してもらうことを期待してやってきた者はその甘えや依頼心を突き放され、自分自身を直視するというつらい作業を課される」と横浜市からフランスに派遣され、受講し、プログラムを研究した寺田怨子ひろこさんは書いている。
(「フランスにおける女性のための再就職教育の調査と研究」1987年)

さらに、「グループダイナミクスが日々発動する中でお互いの人格を尊重しつつ、受講生間の精神的な絆がはぐくまれ、その後も連帯感は続いて人生を肯定的なものにしていくという副産物も生まれる」と寺田さん。
これは本当に私が11日間×5コースを担当した2002年~2004年当時も、その通りであった。長いブランクを経て、再び仕事につくという目標のために、学歴も背景もまったくちがう異文化を持つ女性たちが集まっていた。受講料1万円なり(ひとり親等は無料)。支払うというのは意味のある行為だ。

いまでもよく覚えているが、「自分を知る⇒社会を知る⇒自分で決める」というのが募集時に明記したセオリーだった。ほとんどがグループワークで、定員は24人。11日間のうち半分は講師がいない。ファシリテーターが一人で進行しなければならないという重労働に、眠れなくなる担当者も(わたしも)。このしごとにはいやでも鍛えられた。

受講者には当時、有能な主婦も多かった。「そうじをしなくてほかのことを優先してもべつに生活はできますよ~」と私が言ったらば、翌週「3日間掃除をしないでみました。本当でした!」と言われて驚愕した。かと思えば、両親のいない環境で育ってきた女性もいた。

どんなプログラムでどんな人々がどうなっていったのか、関心のある方は『国立女性教育会館研究紀要』第9号に書いたレポート「再就職準備講座ルトラヴァイエの実践~困難な状況にある女性の自己決定を支える」(2005年8月)がネット上で読めるのでぜひ。
ここでは、レポートから「ファシリテーターの役割」として書いた部分を抜粋します。

                   ☆彡
「担当者として毎日進行役を行うファシリテーターの役割について述べてみたい。というのは、5コース(2年半)を通じて一番このことを考えさせられたからだ。どのように存在しているべきなのか。答えが出ているわけではないが、一つだけ言うとしたら、なによりも講座が安全な場として機能し続けることを支える役回り、だ。それでなくとも自分の職業観や人生観が出てしまう。自分自身が悩みの渦中にあったり、健康を損ねている状態では身がもたない。「しごとは第一に体力」と受講者に言うとき、自分自身が健康で体力のある状態を保たなければならない。自分の価値観や状態、くせなどについての自己理解も不可欠である。最近は様々なトラウマを抱えた受講者が多く、その背景理解も必要である」(注:2000年代の初めは、DV被害にあった主婦や離婚準備中のひと、シングル女性が増えてきた頃だった)

「ファシリテーターは場を見守る役目であるが、安全な場になにか阻害要因が生じそうなときには察知し、生じたときには体をはって介入しなければならない。初日にグランドルールを提示することもだいじなこと。そして自分の価値観に固執せず、無になって人の経験を聴くことが必要だが、そのために自分の枠組みがこわれたり揺らいだりする。そういう役回りなのだ。それでも、私の個性と合わない受講者もいるだろうといつも不安だった」

「一人ひとりの語りを聴くとき、その方のいいところを一つでも多く発見し、言葉にして皆で確認する。いい“気”が循環していくとき、グループの力が最大限に発揮されていくように思う。なかまのなかで自分が本来持っている力に気づき、自信を回復していく」
                   ☆彡

一人ではなしえない、グループの力がある。最終日は「職業計画発表」という題で全員が語る。人前で話しておくと実現するよ~、というわけで「私はこれからこういうことをやっていきます」と宣言する。
受講者のKさんから「最終日のようすを書いてみました」と書いた図面を贈られたことがある。題は「これからが新しいはじまり」となっていた。
最終日の宝物のようなひととき。ほかほかしたみんなの黒土の上に、いろんな木が立っている。やせっぽちなの、太ってるの、のっぽなの、ちいさいの。それが私のイメージだった。私のヨレヨレの木も一本、輪の中にいるけれど、大したことはできない。無力で不十分な。参加者の一人ひとりに教わったことが大きかった。その中でじっくりグツグツ、育てていただいたと思う。いまでもいろんな方の顔が、エネルギーが浮かんでくる。

卒業生はこの時点で1000人を超えており、地域のいろいろな場で働いて根を下ろしていた。介護士、ライター、秘書、講師業、起業家、ソーシャルワーカー。。。修了者の会もメーリングリストも長らく運営され、なんと解散時には私たちの協会に寄付までしてくれた。

しかし。
11日間という長丁場の講座には人が集まらなくなり、徐々に日数を短縮し、2009年で講座ルトラヴァイエは終了した。いまはみんな、忙しくなってしまった。うまくいかないのは自己責任、じゃないのにね。「自分で決める」ことは子ども時代から経験も少なく、むつかしくなってきているように思う。自分に向き合う時間も場もなかなかない。もはや場づくりは抵抗文化?! でも、だからこそ自分で決める「場をつくる」ことは、誰にでも開かれた公共の場で行うしごとなのでは?

ファシリテーションはもちろん学ぶべきことではあるが、単にスキルの一つにならずに、対等な人として人にどう対するか、どうその場に居るのか在るのかということを探求したい。たとえば居心地のいいカフェの店主のように、居るか居ないかわからないような空気のような居かたが上等なのでは。
私自身はこの経験をへて、2009年の「ガールズ編しごと準備講座」のプログラム作り、立ち上げに至ったと思う。

新聞記事は2004年2月10日 神奈川新聞。10年分の修了者にアンケート調査をした。主婦的状況がわかる記事を書いてくれたのは、柏尾安希子記者。

7 「ガールズ編 しごと準備講座」を立ち上げたころ

2015年に勁草書房から出たこの地味な本は版を重ねている。ここにガールズ講座のことを1章書けたのはうれしかった。




仕事人には2つのタイプがあるという。登山型とハイキング型と。前者は目標に向かって計画を立て、登っていく。後者はとりあえず目の前のことに注力していたらここまで来たっぺ、みたいな。あなたはどちらですか? 私はどうみてもハイキング。いやキョロキョロさんぽしてたらこの森に、です。
予定されたことをやるのは不得意。海とも山ともわからない、正解のないことをやるのが好き。目標はなく、いきあたりばったり。でも、やってるうちに成果を見せるというか、こんな意味があるよ、あなたも私もこれがあったら楽になるでしょ~と喧伝したくなる。ただの欲張り? ワーカーホリック?

40代は実にワーカホリックで、同じ日に企画した二つのイベントがブッキングすることもあった。それも気づかない。「ちょっとー。これ同じ日ですけど、どうするんですか?」といつも冷静な後輩のSさんに頭が上がらない。「ご、ごめんなさい。ひとつやってー」
そして一つのしごとを3年くらいやると、異動したり、違うことをやったり。飽きっぽい。そんな私が唯一、長~く続いたのが“ガールズ”支援のしごとです。2008年に仕込んでいたころ、娘Bが「東京ガールズ・コレクション」というファッションイベントに行っており、この名前にしたような。

2010年代、私はずっとこのしごとをしていた。この10年間に社会は激しく変わったと思う。今では行政に「ひきこもり支援課」ができるほど社会化した「ひきこもり」という言葉。ガールズ講座を始めた2009年にはあまり聞かなかった。その後、当事者団体である「ひきこもりUX会議」の調査や発信、「ひきこもり女子会」の活動は目覚ましい。障害福祉制度が国際水準に向けて整った10年でもあった。生涯未婚率(50歳で一度も婚姻してない人の割合)は10年間で男性20%から32%に、女性10%から23%に(2022年国勢調査)。非正規雇用が3人に1人となった。
貧富の格差。しかし、今の貧困は目に見えない。違う階層や文化の人と出会うことも少なくなった。「自己責任」をひたひたと内面化させられ、社会に向かって怒る人も目につかないソフトな階級社会。だれもが包摂される社会が目指されているのに、だれもが排除されやすい社会。こんな社会で、働くことはだれにとってもしんどい。娘たちの時代にはもう少し女の人が生きやすい世の中だったら、と思って働いてきたけど。。。

2008年、ニーズを知るために「若年無業女性の自立支援に向けた生活状況調査」をした(ネット上で読めます)。困っている単身女性がどこにいるのかわからず、あちこちに用紙を置いてもらったり、ネットカフェに配りに行ったりした。約50件しか集まらなかったが、重層的なさまざまな困難を抱えつつ「働きたい」と考えている若い女性がたくさんいることがわかって、2009年に「ガールズ編しごと準備講座」を立ち上げた。
対象は15歳から39歳までの無業シングルの女性である。サブコピーは「働きづらさに悩むあなたに」。前回書いた講座ルトラヴァイエより少なめの、定員20人。準備期間が少なく、だいたいのプログラムを決めたが、人が集まるか? 知らせること伝えることが第一関門だった。当時、Mixiのコミュニティでの投稿を見て来てくれた人もいた。
なんとか集まって、ほっとしたのもつかの間。やりながら明日のレジュメを作っていた。見学や取材の申込みにも追われた。毎日、想定外の色々なことが起きた。ある受講生が部屋を出ていったと思ったら、トイレにこもって泣いている。講座の中では「婚活と就活はどっちが先? 30歳は崖っぷち」「履歴書に書くことが1行もない」「水商売の期間はどう書く?」などの質問。そもそも「世の中に自分を助けてくれるところはない」「人がこわい」「相談などしたことがない」という。最初はしーんと静まり返って始まった講座の場が、それでもだんだん活気を帯びてきて、最終日にはあふれる思いを繰り出して笑ったり泣いたりしていた。グループ・ダイナミクスがここでも成り立ったことに、私はほっとした。

再就職準備講座のように「自分を語る」ことからではなく、からだをケアしたり、声を出したり、と身体的なところから入るプログラムにした。そもそも何に困っているのか、言葉で語れたら苦労はない。「相談する」という行為は人や社会に期待があるからできるのであって。子どものころから期待のひとかけらも持っていない若者たち。(でもまだ、このときは就職氷河期の人で30歳くらい。怒りのエネルギーにあふれている人もいた)

「“これまで社会には私を助けてくれるところなんてない、とあきらめていました。でも、この講座に通ってきて、少しはあるかもしれないと思えた”、“ここではだれからも(自分が)だめと言われず、居やすかった”、“みんながやさしかった……(涙)。悩んでいるのは私だけじゃなかった”」(『下層化する女性たち~労働と家庭からの排除と貧困』勁草書房、2015年、第8章 「横浜市男女共同参画センターの“ガールズ”支援~生きづらさ、そして希望をわかちあう場づくり」小園)

 「女の人のしんどさって、どこにあると思いますか?」とある座談会で講座の卒業生に聞いたことがあった(「フォーラム通信」2012年秋号)。
Aさん: うーん。働いて、結婚して、子どもも産まなきゃいけない、介護もしなきゃ…それに比べて男は仕事だけ頑張れ、みたいな。
BさんCさん:そうそう! そんな感じ。いろんなことができなきゃいけない。求められているものが多すぎるよね。
Aさん:仕事も結婚もしていないっていうと、半人前以下に見られちゃう。私はうつで休職して、早く戻らなきゃと焦っていたのに、父の介護をしていたんです。兄と分担できたらと思ったけど、「あなたはヒマでしょう。娘だから当然」と言われて。

女性ならではのしんどさが話される。職場にも家庭にも居場所がない。しかし、このあと、「講座はきっかけ。それを生かして動き出すのは自分自身」だと語られる。そうして動き出して苦労して彼女たちは10年後、一人はヨガ講師を務め、一人は障害年金を受けながら働いて一人暮らしを果たし、ネット上でミーティングをひらくコミュニティを主宰している。

障害福祉のサービスは結構使えると思う。しかし、親のケアと情報がなければ若くして障害認定は得られない。障害年金を取るのも膨大な手続きを伴う大仕事である。いじめ、あるいは暴力被害などがきっかけで、二次障がいとして心の病気になる人が少なくない。私もあなたも、そうなりうる。

このしごとを通じて、いろんな人に出会った。ITがすごく得意な人、手先が器用でアクセサリーを作る人、イラストがうまくて独特な世界を持っている人、スポーツと人間が好きで友だちが多い人、考え深くて他人思いな人。。。
彼女たちは同時に、あるときはオーバードーズをしたり、あるときは性産業でお金を貯めたり、親に守ってもらえずに頼れるパートナーを見つけたと思うと別れて住むところに困ったり、親の「そんな仕事」という一言でアルバイトにも就けなかったり、していた。夜中に親が暴れている人もいた。親からお金がもらえなくて、交通費がなく通ってこれなくなった人もいた。
「小学校は戦場のようでした」と言った。多くが精神的に病んだ経験をもち、また、不登校の経験を持っていた。それはもはや社会がつくっている病であって、彼女たちの心身は社会を反映して動かなくなり、レジスタンスをたたかっているように、私には見えた。昔と違って、外に石を投げるのでなく、内を傷つける。。。

「働けていない」「行くところがない」ということがまた、彼女たちを追い詰めていた。この長丁場のグループワークである講座の運営もかなりの力仕事ではあったが、講座だけやっていては出口がない。なにしろ、修了してハローワークに行く人はいないのである。スタートラインはゼロ地点ではなく地下深い。それは彼女たちが不十分だからではなくて、人を排除する社会に起因する、と私は思う。幸い、講座はUさんにバトンタッチすることができたので、次に就労体験の場として「めぐカフェ」を、南区の下町にある施設で開くことになった。環境をぐいぐい作ってくれた横浜市主管課のS係長の熱いパワーにも助けられた。時間は同じ速度で流れない。このときも走ったなあ。

2010年の暑い夏。講座は3期まで終わっていて、卒業生は約70人。その人たちに「いっしょにカフェをつくろうよ」と呼びかけた。25人が「参加します!」と言ってくれた。未踏の森がまた出現。



このロゴを作ってくれたのはさえりさん。切り絵を作ってくれたのは、あゆみさん。直径7センチくらいだったと思う。敬意をこめて。

8 働く体験のできる「めぐカフェ」をつくる

めぐカフェは2010年11月オープン。名前もガールズ講座修了生の発案、投票で決めた。いろんな人にコトにめぐり会う、めぐりがよくなるの意味を込めた。




2010年の暑い熱い夏。みんなでカフェをつくることになった。主催者も素人。恐ろしやー。原価率ってなに? みたいな。
キャッチコピーは「ここに来れば だれかに会える」。実際、開店からまもなく東日本大震災が起きて、不安な時期にいろんな人が集まる場にもなっていた。大岡川沿い、レンガ造り3階のこじんまりした公共施設はふらっと入りやすい。フラットで。お客さんである下町の人々もあったかい。この土地には社会事業上120年をこえる歴史がある。(この土地の話は、ネット上の連載「しごとのあしあと」#21 #22に)

利用者といっしょにゼロからカフェをつくる。当時は、次はこれ! と当然のように思ってやっていたけど、ふつうなら主催者が人を雇って、さあどうぞ支援します、と受け入れるのが常かもしれない。かなり自由にやらせてもらった。11月の開店まで、何か月かかけて研修をやっていた(ほかの仕事もたくさん抱えてはいたが)。接客、広報写真撮影、チラシづくり、チラシ配布、コーヒーをいれる、などなど。この頃の手探りは、初期のめぐカフェ準備ブログにくわしい。
体調が悪くて電車に乗れなかった人が、消しゴムハンコを彫って送ってくれた。そのデザインが今もカフェのロゴになっている。のちにめぐちゃん人形までできたやつである。絵を描くのが上手な人がとにかく多かったから、カフェの壁にみんなで展示をしたこともあった。開店祝いの席で、黒いエプロンをつけて現場に立った人々の顔、顔、顔。誇らしげな顔は忘れられない。

以下は、2年たった時に横浜市の研究誌に1ページ書いたものですが、自分でも愛着があるのです。スルーっとお読みくだされば。


若い女性の就労体験「めぐカフェ」~横浜市男女共同参画センターの試み
男女共同参画センター横浜南  小園弥生
(『調査季報』横浜市 No. 171 2013年2月)


「めぐカフェ」が男女共同参画センター横浜南(横浜市南区)にオープンして、2012年11月でまる2年を経た。カフェは、就労に困難をかかえる若い女性に「就労体験」の場を提供することを目的として、センターの女性就労支援事業の一環として開設した。支援対象者は15歳から39歳までのシングル女性(マザーを除く)である。
 センターを運営する(公財)横浜市男女共同参画推進協会では、設立当初から女性の就労支援に取り組んできた。再就職支援から出発し、母子家庭の母親や DV 被害女性など困難な状況にある女性の就業支援に対象を広げてきた。若い女性への支援事業を開始したのは2009年。近年、若者への就労支援が始まる中で、女性たちの状況は必ずしも明らかになっていなかった。そこで、2008年に当事者ニーズを知るための調査を実施した。その結果、生活や健康面での困難をいくつもかかえ、孤立している若い女性の実情を把握することができた。同時に、2006年に開所した、よこはま若者サポートステーションの利用者のうち女性は3割であることがわかった(2007年当時)。シングル女性は「家事手伝い」と見なされ、労働力調査の「無業者」からも除外されている。そこで、2009年に日本マイクロソフト(株)の助成を得て「ガールズ編パソコン+しごと準備講座」を始めた。以来、講座は改編しつつ、年に2コース、継続して実施している。
 その後、講座を修了しても直線的に就労できるケースは少ないことがわかり、助走期間として就労体験できる場があればと考え、「めぐカフェ」を立ち上げた。
 就労体験は、いわゆる中間的就労として段階的にステップ1(無給で10日間)およびステップ2(手当付きで20日間)を設定した。1人に1回3時間、週2回程度の体験の場を提供している。その主な目的は接客や調理などの職能訓練ではなく、社会に参加するために必要なソーシャルスキル訓練である。「体調を管理する」「時間を守る」「あいさつをする」「声を出してやりとりする」などから始め、「人といっしょに、安心して働く」ことができるよう構成している。

 2010年の立ち上げ準備期から数えて、これまでに39名が就労体験を修了した。そのうち、高校あるいは大学の中退経験者は13名を数える。通信制の高校や大学に在籍した人が同程度おり、不登校経験者はさらに多い。就労経験をみると、短期間であっても正社員を経験した人は39名中7名、短期間のアルバイトのみの経験者が16名、まったく就労経験のない人が10名となっている。最近では、就労経験のない20代の人が増えてきた。
 就労体験修了後、なんらかの就労をした人は15名である。長い年月 孤立して人と関わらずに家で過ごしていた人が増える中、中間的就労と一般の就労との距離は開くいっぽうだ。障害者福祉制度にのっとって支援を受けるのでない場合、経済不況の中で一般の就労は困難をきわめる。就労以前に、食事作りや片づけなどの生活経験や人と関わる経験も不足している。そうした場合には就労より先に、人の中にいる経験が必要である。

 「めぐカフェ」は地域の中のさまざまな活動と人材にも支えられている。地場野菜の流通の場としてセンターで実施している「地モノやさい市」を実習の一部に取り入れたところ、たいへん効果があった。大岡川アートプロジェクトによる公園イベントで行うスープ売りも、日ごろはできない楽しい経験になっている。地域にすでにある魅力的な市民活動や商店などの力を借りて、体験の場やメニューをもっと増やせないか。行政の施策は「雇用・労働」「文化芸術」「市民活動」「福祉」と縦割りになっているが、若者支援のためにそれらをつなぎ、地域の人々の力を束ねていくことができれば、若者もその親たちも、ひいては行政も将来的に助かっていくだろう。そのために、中間的就労を試みる現場とそれらをつなぐ仕事が自治体に認知された上で、そこに力を注ぐ必要がある。

 人が暮らしていくのに必要なのは経済力だけではない。たとえ収入が少なくても、気にかけてくれる人の輪が増えれば暮らしていける可能性がある。それは貨幣でははかれないセーフティネットであり、このきびしい時代に合った地域力を創り出していくことである。そのために、男女共同参画センターは女性支援の蓄積を活かして、地域拠点の一つになれればと願っている」

                 ☆彡

なんでも新しいことを始めるのは楽しい。でも、続けるのがたいへんなこと。この場合もそうだった。ときに事件も起きた。緊張しててんぱっているあまり、500円のお釣りを10円玉×50枚の棒で渡してしまったという実習生もいた(と、後に知った。ひえー。その日に言ってくれー)。お客さんは目が点になっただろうが、何も言わなかったそう。なんて人間ができているのでしょうか。。。

元ホテルのシェフがホテルで飾り切りしたあとのエコ野菜を毎週運んでくれ、あるときはIさんがカブのマフィンを作ってくれて美味しかったこと。三好豊さんの運ぶ神奈川野菜のマルシェでは実習の1コマで売り子ボランティアをやるのだが、三好さんも若い人の役に立てるのが楽しみ、彼女たちも「野菜のことしか言わない、野菜のおじさんが安心で楽しい」とか。。。
実習生は特別な人じゃない。たとえば、動物が好きだからとペットショップに勤めて、売れないからと殺処分されることに心身が立ち直れないという人が複数いた。それは当然なことじゃない? 

私たちのしごとはコミュニティをつくり支えることだった。自分たちだけではできず、地域の人々の力をどう借り、どう返すことができるのか。たとえば、こういうカフェがあるから、施設があるから、この街に住みたいという人が増えたらすてきだな。それには、働いている人が楽しくないとね。地域通貨の1めぐ、2めぐがあったら、と妄想したり。人助けをするとコーヒー一杯飲める、とか。

人気のカフェになっていくことに実習生も喜んで、最初は笑顔のなかった人が笑うようになった。それを見るのが職員の楽しみでもあった。「ねぇ、今日〇〇さんが笑ったの、見たぁ? かわいかったねー」って。オジサンか?  
ゆっくり進む、彼女たちの存在によって、職場全体がやさしい空気になるご利益があった。困難だったのは、カフェ現場を担うスタッフが調理と支援役割とを兼ねており、バーンアウトしがちだったこと。それは本当に申し訳ないことで、のちに複数で交代できるようにした。それはまた、T先輩の出してくれた知恵だった。


2019年の調査報告書。画家のメリノさんに「この土地は吉田新田を埋め立てる前ここまでが海だった。そこから若い人たちが大海に漕ぎ出していく」と話すと、表紙絵を描いてくれた。

時は流れ、2019年に「めぐカフェ」就労体験修了者調査報告書を出した。(ウェブで読めます)
支援修了者へのインタビューの中で、ある女性は語っている。「体調に左右されてずっときたけれど今の自分のイメージは、海におぼれて遭難していたけれど、いろいろな人の助けで船が少し進んでいっている」。これは報告書の表紙イメージにもなった。

報告書のまとめ部分をどう書くか、ウンウンうなってやりとりしていたとき、担当職員のODさんは言った。
「私たちのセンターはいくつかある“船着き場”の一つになれればいい。そこではいつでも人がふらりと来て休んだり、給水したり、仲間とお茶したり、情報を得て針路を探したり、なじみのスタッフとちょっと話したりできる。そんなふうに外の大海に通じる川沿いの“船着き場”にいつ立ち寄られてもいいように、環境や情報を整えていたい」
名言ねぇ。船着き場は台風でぶっ壊れたりもするので、維持するのはたいへんだ。けれど、船着き場の記憶が人々にあれば、もしこの場がなくなったとしても各自がまた別の場でそのような場を作っていくこともできるかもしれない。

「かかわる人それぞれ完ぺきではない者どうし、フォローしあって、しんどい荷物を降ろしながら、やっていけたらと思っています」と報告書のコラムに書いたが、このフレーズの原作者は後輩のNBさんだ。このフレーズが私は好きだ。

完ぺきだと対等性も減り、人が参加して共に編む余地が少なくなる。自由な隙があったほうがよくて、それが双方向のコミュニケーションや共に編むことを呼び寄せる、というのは最近参加している鋸山ガイド研修の場で聞いて、おー、そうだと思ったことでした。
「私はこう思うけど、あなたはどうですか。教えてください」という声かけは年をとればとるほど必要で。若者のほうが知っていることだってよくある。そうそう、だから年寄りは~と思うあなたも、平等に年をとっていきますよー。



9 はたらくをめぐる ぐるぐる

江戸時代から石切り産業で栄えた鋸山の、切り崩された岩壁。右上の尖っているのは名勝「地獄のぞき」。人間は点のようです。歴史の中の点でもあり。鋸山は日本遺産候補。ガイドの私も絶賛応援!! 



2015年くらいから、名ばかり管理職の時代は悩んだ。働きづらさに悩む“ガールズ”支援のバトンを後輩に渡しつつ。前回書いた「船着き場」で出会う人々と、どんな時代をつくっていけるのか。一億総活躍が喧伝され、女性が障がい者が高齢者が「働く」ことが国策になったなかで。働ける体調でないときにも「働いていないことはよくない」と人が思わせられるなかで。

最も悩んだのは、若い世代のメンタリティを理解していっしょに働くことのむつかしさ、だったように思う。私といっしょに働く若者たちも支援対象のひとたちと同じ時代に育ってきて、傷を負って今なんとかここに生き残って居るのだろう。しかし、いっしょにチームをつくって、やりくりしていくことについて自分は非力だった。もう少しなんとかやれなかったのだろうかという無念が、今わたしにこれを書かせている。自分は人に期待している。

「私の世代か、もうちょっと後くらいまでは“案ずるより産むがやすし”のおまじないが効いた時代だと思う。でも今、それは効果がなくなっている。世界の寛容さがどんどん切り崩されている」と同世代の友人が書いていた。そう、おまじないに励まされて、場を与えられて、やってみたらやれたこともあって。いま、あらかじめ切り崩された岩壁を若い人たちは生きている。で、私なんか「なんて能天気な」と思われているだろう。これを「分断」という。

2012年頃、高山直子カウンセラーの「相談員トレーニング」(はたらく女性の全国センター主催)に通ったことは自分をとても楽にしてくれた。この世の中は、自分のなかにも、なんてたくさんのジャッジメントがあふれていることだろう。自分自身をもジャッジして。〇〇ができない、自分のせいだ、とか。 逆にほめることもジャッジだと知った。「あなたの出身校は、出身地はすばらしい」とかね。ほめも否定もせず、「そうなんだねー」とただ聴いてくれ、他言しない友人はとてもありがたい。いちいちジャッジしなくていい。したくなる自分の価値観を、疑え。

2014年に はたらく女性の全国センターの運営委員となり、何人かで「働く、女。そしていのちへ」という100年ビジョンの冊子も作った。それには、こんなフレーズがあった。

  はたらくとは、命を支えることだ。
  賃金が支払われる労働だけではなく
  家事・育児・介護・社会活動・趣味など
  自分を支え、人を支え、命を支えるあらゆる営みである。


「はたらく」にはあらかじめ自分や人を「ケアする」ことが組み込まれていなくてはならない。この集団知を受け取ったのは財産だった。また、その頃「週3日労働で生きさせろ!」というテーマを掲げて活動もしていた。こんなにテクノロジーが進化したのに人は楽にならず、しんどくなり、労働時間も短くならない。
「人と問題を分ける」という考え方も役に立った。あの人はこれだから問題だ、とレッテルを貼りがちだ。でも、それでは問題は解決しない。問題・課題はなにか。そこを考えていけたらいいよね。

数年間、氷河期世代やそれより若い女性たちと、毎月の運営会議や作業やなにかで話しこんだ。若い人は「野菜が高くて、買えない」と言った。安定している?立場の私は居心地が悪かった。職場でも、なんで私が係長で、この人が部下なの? それも額面20万円の契約社員で。逆なんじゃ? とよく思った。だけど、正社員はもっと働くべきと思うと、それもまた人を追い詰める。この難題は構造的な問題ゆえ、とても一人ではほどけない。
人や自分へのケアを含めた「はたらく」をつぎはぎして、つづきを歩く。


10 非正規職シングル女性の社会的支援にむけたニーズ調査
  ~The personal is political

これもウェブ上で読めます。全体版と概要版があります。概要版にキュッとまとめるのにとても苦労しました。



2015年に種まき、育て、収穫した「非正規職シングル女性の社会的支援に向けたニーズ調査」は膨大な家内制手工業だった。ウェブ調査とグループインタビュー。私の30年の中でも忘れがたい、中距離走りぬいたしごとを振り返って。

40代終盤から老眼が進んだ。遠くは見えるが、文字がかすむ。ずっと視力は1.5だったのでストレス。これがまたぐぐっと進行したのはこの調査のしごとをした年だった。労災職業病?
毎朝出勤してアンケートフォームにパスワードを入れて開くと、何件かの回答が入っていた。ありがたやー。しかし。こまかーく書き込まれた自由記述に、目と心がやられる。
「将来は生活保護しかないと思う。孤独死か。安楽死施設を開設してほしい」「病気になっても休職できない。家族と自分のどっちが倒れても共倒れ」「母の年金収入がなくなったらアウト」「独身、子なしだと非国民と思われる」「救急搬送されたとき、付き添いがないので受け入れを断る病院が多かった」「引っ越すにも賃貸の保証人や収入審査がきびしい」
うううっ。

「いま振り返っても、すごい熱量のしごとだった」と発案者の植野ルナさんいわく。この調査の目的は、まだ名前のついてない女性の困難を可視化し、1980年代から横浜市で私たちの協会(現在は男女共同参画センター3館)が行ってきた女性の就業支援事業の対象層を広げることだった。かつては子育てが一段落した年代の主婦層、2000年代からはひとり親やDV被害女性、2010年代には若年無業女性を対象層としてきた。「女性の見えない貧困」が2008年ごろにいわれ、数年たった頃。氷河期世代から上の単身女性が増え続けているのに、なんの支援もなく放置されているのでは? そこに焦点を当てるべきと考えたのだ。
それには、その人たちが不十分で努力不足だからではない、社会構造からくる、みんなの問題なんだということを立証しなければならない。社会変革は社会調査から始まる。(貧困を社会構造からなる問題として発見した19世紀末の社会調査から社会福祉は始まった)
さて、この調査はどうやって成り立ったのか。これからしごとをしようとする人々にむけて、1つの事例として記録しておきたい。箇条書きで失礼します。

・就職氷河期世代(1975年生まれ。当時40歳)の植野さんが自分ごとから出発して、公的支援が届いていない、届けるべき層を再定義しようと考えた。ところに少し(だいぶ?)お姉さんの私と白藤香織さんが加わってチームを形成した。

・企画書を書くと、決定権のある上司は「このことを明らかにしても、私たちにできることはそうないのでは?」と言った。これはある意味、当たってもいた。とくに、ゆがんだ社会構造を変えていくことは、一介の市民利用施設だけではできない。しかし、賛成しなくても「どうぞやったら」といって反対しなかったのは上司のえらいところだったと私は思う。

・そして私たちは乏しい予算(30万円余)でスタートすることになった。調査会社に依頼せず(データと報告文の整理は一部依頼したが)、設問もすべて自前で考え、レンタルのウェブアンケートシステムに若手職員が入力してくれた。

・まず、調査名に頭を悩ませた。調査に限らず、だれもやってないことに取り組むとき、名前は最も重要だ。なにが目的なのか。どう付けたら対象者に届くのか。この場合、ただ「非正規」と言ってしまっては、まるで正式の人間じゃないみたいでは? と話し合って「非正規職」と言うことにした。人ではなく、職のこと、となる。「人ではなく問題に焦点を」が重要で。

・日本じゅうの問題を可視化するのに横浜だけでは弱いと考え、大阪の団体と福岡の大学の先生にも協働を呼び掛けた。この調整にはひと手間もふた手間もかけた結果、広がりができた。

・問題は対象者、回答者にどうアンケートを知ってもらうのか。これが最大の難関だった。調査会社だったら、対象者を何らかの方法で抽出し、予算により回答者にギフトなど用意してアンケートを送るだろう。そうはいかない。ちまちまと伝えるのはえらいことで。いっそこの広報活動じたいをこの問題があるよという社会へのキャンペーンと位置付けることにした。ツイッターとフェイスブックFBのアカウントを新たに開設。

・もちろん、マスメディアにも依頼した。回答最終日に朝日の家庭欄に載った小さな告知記事の威力は大きかった。しかし、新聞をとっている人は限られる。それに、なんといってもウェブアンケートなのだ。ウェブで拡散されないと。そのため、SNSで毎日毎日毎日毎日、いただいた回答など生の声をほんの少し加工して紹介し、「あなたの声もぜひ」と発信し続けた。このときは字数制限がないFBが役に立った。

.遊びごころでロゴ「研究の虫」も作った。

・FBは支援者やメディアに知らせるには有効だった。でも、回答数を増やすのに最後に威力を発揮したのは、鈴木晶子検討委員が記事を書いて配信してくれた「サイゾーウーマン」というサイトだった。天の恵み。記事には私が「スタッフ日記」ブログにアンケート結果の中間まとめを載せた記事も引用された。パスがつながっていく。
鈴木さんは社会派の「ハフポスト」にも投稿してくれたが、「当事者が見るサイトが強いから」とサイゾーに。これがツイッターで拡散され、最終日ひと晩でぐっと数が増えた。
261件の声を集めるのは本当にたいへんだった。世の中にまだ名前がついていない問題だったから。調査会社を使っても集まらなかったかもしれない。

さらに数の少なさを補う意味でも、グループインタビューを各地で行い、ナマの困難を深掘りすることにした。ここからがまた骨が折れたけど、実際の声を聴くことは楽しかった。当時ほかのルーティンの仕事が山ほどあるなかで、どうやっていたのだろう。3月までという年度のタイムリミットに追われて報告書を書くのがまた難問だったが、夢中でやっていたのでもう思い出せない。

報告書に実態としてまとめた要点は「6割の人が不本意に非正規職」で、「とくに当時30代前半の人では初職が非正規だった人が7割超え」「回答者の3割が年収150万未満で、年齢が上がるほど低収入」「派遣の場合1-3か月が契約期間で、親の介護や自分の通院で少し休んだら雇止めにあうことが多い」「家族の介護等ケアに女だからとまず当てられ、結婚しないの?という視線にさらされる」等。

当事者も支援者・研究者も入り混じった報告会の熱気。その準備にあちこち走って依頼をし、調整し、奔走したこと。

この調査の結果と意味についてはメディア各紙にも連日大きな記事で掲載されたし、さまざまな研究者やライターが紹介してくれた。社会的イシューにすることには成功したのではないだろうか。2017年には、『シングル女性の貧困』(明石書店)の一冊にまとまった。私はこの中のインタビュー3本を担当した。

インタビューやセミナーで出会った人たちによる自助グループも複数できた。十分ではないにせよ、支援セミナーや国の補助金による伴走支援も始まった。報告にも書いた当事者の望むことのうち「具体的なサポートプログラム」と「同じ立場の人とのつながり」は少しずつ進んだ。「社会の風潮や制度の改革」、これはどんな場合も時間がかかるものだ。


「分断をこえていく」のは今日、至難のわざだ。会社でも活動でも、いろんな分断や小競り合い?がある。分断の細分化も進行中。津波も時折やってくる。だけど、何のために生きてはたらくの? まだない社会を見る、変えていく、みんなで幸せになるためじゃなくて、なんのため? しごとって指令に従うことじゃない。そんなつまらないことじゃない。

まだないことを創り出していくには、信頼できるなかまが必要だ。組織の中にも。外にも。そうやって、自分が不十分でもなんとかやってきた一人として。信頼もなかまもつくっていくもの。はじめからあるものじゃない。ためるもの。次につながっていくもの。じわーっと醸す、醸されるもの。
この調査のしごともそうだったなあ、と思うのです。



11 施設管理人というおしごと

ひさしを塗ったり、外国語の看板を付けたり、トイレの便座を温かくしたり、、、結果が出て、人が喜んでくれるしごとはなかなか楽しかった。



たまたま与えられた施設管理人というしごとは奥が深かった。そして30年間の最初(フォーラムよこはま交流ラウンジ)と最後がこれだったのは偶然ではないのかもしれない(実はそのあとに名前のない仕事、すきまを埋めてつなぐ役回りも降ってきたのでした)。
じつは連載中この記事が人気で、何人かの方から声をかけていただいた。感謝です。


居心地のいいカフェや居酒屋はなぜ居心地がいいのか。考えてみたことはあるだろうか。そうした店の何軒かが私をつかんで離さない。いきつけになる。管理人が場や利用者を「仕切る」のではなく、だれでも入れる空気をつくるのはそこに集まる人々なのだ。しかし、そこには管理人の目に見えない采配がきいている。
困ったことが起きそうなとき、きちんと「介入」すること。店なら早い話、「出禁(できん)」。公共スペースではそうもいかないところがとてもむつかしい。自分の荷物を置いていく人が現れたり、営利目的で無料の場がこっそり使われたり。放置すると場は荒れる。介入はへたくそで、修業は続いた。

                 ☆彡

時は流れ。
最後の4年間は施設(男女共同参画センター横浜南)の責任者がよくもまあ務まったものだ。いや、堅実な職員のみなさまがきちんきちんと働いてくれていたからにほかならない。これには事業だけでなく、管理人しごとがもれなくついてきた。すぐに結果が出ることは案外楽しかった。
年季の入った会議室の真っ黒な床をたった数万円で剥離清掃した時には部屋が明るくなった。「トイレの便座をあたたかくして」といった要望をきいてそれが叶ったら喜ばれるし。小さなことごと。カフェの椅子やテーブルを張り替えて色調を合わせる、とか。空間構成はだいじだ。手入れがされている感じは利用者に伝わる。
(戸塚の施設で昔フォーラムまつりを担当していたので、地下から屋上まで私は熟知していた。地下にフリッツハンセンの椅子が積まれていたので、もらってきてカフェに置いた。吉野町の職人の店 Bファニチャーにも大変お世話になった。南区の職人仕事の質は高い)

場の空気感と空間はそこに集う人々と時間の積み重ねによって作られる。南太田の交流ラウンジの窓辺が夏の午後はスクリーンになって、光の模様が揺れるのをみるのが私は好きだった。「婦人会館」だったその古い施設には40年以上の時間が積もっていた。今は亡くなったり、かつて若かった人たちの声がゆらゆらして。

暑い日、寒い日。行き場のない人がやってくることもあった。救急車を呼んだときのおじいさんは上品な人で、何がきっかけで家を失ったのかなと思った。破れた服のおじさんがやってきたときには設備員が「え、どこの現場で働いてたの?」といい感じで対応してくれた。少し休んだらその人は出て行った。そういう場合も入りやすいのは、私はいい公共施設だと思う(管理人は試されるけど)。
でも来るのは男性ばかりなんですよね。ホームレスは他人事と思いがちだけど、コロナ下で職を失ってバス停にいた夜に殺された女性は私と同世代だった。平成生まれのガールズ講座卒業生には「親が亡くなったらホームレスになる」と不安を繰り返す人もいた。頼れる親がいても。

南区の施設は男女共同参画センター3館の中で施設も小規模(3000平米)だが、最少人数のフルタイム7人(アルバイトや設備・警備・清掃はもちろん多数)の職場。それで日々施設貸出・管理と事業のしごとが回っていたのは利用者に孤立している人が少なく、長年にわたりグループのなかまで利用されており、全体が下町の地域コミュニティに支えられているからだと思う。
その地域コミュニティに私たちは本当に助けられた。たとえば、地域の公園のおまつりに就労体験中の若者がスープを売りに出かけたり。受け入れてくれる世話人がいるからできることだ。支援する・される関係ではない、開かれた場で人に喜ばれたり親身にかかわってくれる人がいるという体験は彼女たちの血肉になっていった。時にはアルバイトを世話されるスペシャルも。今でも足を向けて寝られない何人かの方々の顔が目に浮かぶ。合掌。。。


南区はもともと横浜開港の中心部を支えた自由労働者の住む地域で、中区の一部から戦争末期1943年に分区した。その時最初に区役所だった土地が現在の「フォーラム南太田」の土地。関東大震災後1927年に建った第一隣保館を庁舎にした。そのさらに前には「お三の宮労働合宿所」という貧困者のワークハウスが建っていた土地。横浜の社会福祉はこの地域のいくつかの谷間から始まったといっても過言ではない。
この歴史ある土地のことをウェブも書いたが、別の豆本にしたいと思っている。



2015年くらいから毎月「おしゃべりハンドメイドの会」をラウンジでやっていた。地域のシニア女性が世話人になってくださった。

12 『横濱連合婦人会館史~100年のバトンを受けとる』を編む

A5判248ページ。2022年3月刊行。横浜市図書館でも読めます。新聞記事は2022年4月8日付朝日。1923年秋、横浜連合婦人会の活動がはじまった焼け跡テント前の写真がいい。


1923年の関東大震災をきっかけに、横濱の婦人団体が連帯し、人々を助けた。それを可能にしたものはなんだったのかな。それから100年。着物も作法もツールもちがうけど、必要なものはつくる、組んで動く、記録することは横浜の女性たちが昔も今もしてきた。その重みを受け取って。

入職した1993年と最後の2022年。偶然ですが、江刺昭子さん(女性史研究家、作家)と故・嶋田昌子さん(横浜シティガイド協会功労者、横浜の町と女性の歴史かたりべ)のお二人に、たいへんお世話になりました。そのむかしランドマークタワー13階にあったフォーラムよこはま開館の年に行った「横浜の女性たち」の歴史写真展。嶋田さんにお供して旧・生糸検査所やいろいろなところを歩いたのはぜいたくな時間でした。そして最後は、ごいっしょに読んだり編んだりした『横浜連合婦人会館史~100年のバトンを受けとる』を刊行。いつも江刺さんはピリリと効いた青唐辛子のような監修者で、嶋田さんは人をじわっと包み込み引っぱるタイプ。お二人にリードしてもらった「いま受け取ること」座談会の記録も本には収録しています。歴史大好き「歴女」として、これらは幸せなしごとでした。


原稿用紙にインクで書かれたお宝を、二代目の横浜市婦人会館として1978年に出発した館の奥深いキャビネットの風呂敷の中から見つけたのは2019年春だった。目パチクリして読む。すごいものに、よばれてしまった。組織内で静かに共有する。が、その年も翌年も手をつけられず、寝かしておいた。コロナ禍。大修繕で休館し、少し手が空いた2021年にやっと編集作業をすることができたのは当時の職員チームのおかげです。

余談ですが、2022年4月にお祝いしましょと言われ、横浜市庁舎のツバキ食堂で3人でお会いし、お二人に花束を渡しました。それが嶋田さんと会った最期になってしまいました。

「大正12年9月1日の関東大震災によれる当横浜市の惨状は真に語るに言葉なく罹災民の窮状は、我等かよわき婦人をしてついにこれが救済事業のために団結して立たしむるに至れるなり。即ち同年11月25日、市内20有余の婦人団体が新たに横浜連合婦人会なるものを組織して婦人の立場より救護及び復興事業に当たらんことを期す。(中略)しかるに本会使命のあるところは唯々復興事業に止まらず、家庭改善の問題より、婦人の知的精神的向上、さらに進んでは社会福祉の増進、婦人に関する産業奨励など益々重大なるを感じ、ここにこれが具体的基礎事業として、婦人会館の設立を計画して、各方面に醵金を募り、大正15(1926)年11月起工し、昭和2(1927)年5月5日をもって竣成を告ぐるに至れり。」

横浜の婦人たちの社会活動は、開港以来あちこちから集まってきた商人の成功者の妻たちが担っていた。ビジネスセンスに長け、経理と組織作りが得意だった。1923年の関東大震災直後に「団結して立たしむる」って。団結ですよ! 仮設テントで横濱連合婦人会を結成し、力が集結した。その後に続く活動拠点の会館を自前で建てようと10銭募金を街頭で展開し、借金もして紅葉坂に「連合婦人会館」を建設。全国で初の快挙だった。

加盟団体を列記してみる。活動する女性たちの所属はこんな感じだったのか。。。

仏教婦人会/基督教婦人矯風会支部/横浜基督教女子青年会(YWCA)/櫻楓会支部/横浜市女教員会/神奈川高等女学校/横浜高等女学校/フェリス和英女学校/真澄会/神奈川県看護婦連合組合/横浜市産婆会/仏教婦人救護会支部/捜真女学校/共立女学校/共立女子神学校/横浜英和女学校/若草会/海岸教会婦人会/横浜組合教会婦人会/第一美普教会婦人会/指路教会婦人会/神奈川バプテスト教会婦人会/横浜メソジスト教会婦人会

温厚で考え深く、前に出ずとも人がついてくるリーダーであった渡辺たま(1858-1938)横浜連合婦人会会長は横浜孤児院長を長く務め、夜学の女子商業学校も創設した社会事業家。自らは書いたり語ったりしない。黒船に石炭を供出した海産物石炭商に始まり渡辺銀行をつくった夫から多額の寄付を出させ、大正期に女たちのソーシャルビジネスで巨額をつくり、横浜になかった図書館の設備にポンと寄付をしたり。連合婦人会館をみんなで建てて借金を返し終わったら、戦時体制となるころ、惜しげもなく横浜市に土地もろとも寄付してしまう。

たま亡き後、横浜市に会館移管手続きをしつつ、大日本連合婦人会にのみ込まれていく時代、残務処理の苦労を一身に背負ったのが、この原稿を執筆し、残した理事の野村ミチ氏(1875-1960)だ。昭和18年と記された手書き原稿に、明治からそこまでの横浜の婦人活動史を書くとともに、昭和10年代に 渡辺たま氏を慕って書かれていた会員たちの原稿もまとめて残した。野村ミチは1916年の横浜YWCA創立以来、戦後までの功労者。(夫は美術骨董商から大震災後に港横浜の復興の象徴として建設されたホテル・ニューグランド社長となった人物。骨董の「サムライ商会」時代からミチが帳場を切り盛りしていたという。)記録を残すことへの信念が感じられる。
昨秋、ウィキペディアを書くワークショップに参加したときに、未載であった野村ミチさんの項目を書かせていただいた。

ところで、どうしてこの原稿束は100年近くもお蔵入りとなっていたのか? 横浜大空襲でも焼けなかったのは、銀行の金庫の中にでも保管されていたのか? 原稿用紙は分厚い本冊と薄い別冊に分かれ、金文字を入れて製本されていた。戦争中に、書いた人たちが製本するとは考えられない。会館は戦後になって、旅館組合の運営する旅館「紅葉坂ホテル」になっていたのを横浜市が返還させ、改修して「横浜市婦人会館」を再興した(戦後の昭和20年代の手書き横浜市決裁書類や議会記録も紐でとじられていてワクワクした。廃棄期限を数十年こえて、お宝として取り置かれていたのだろう)。

1978年、二代目の婦人会館開館を祝う広報紙に掲載された座談会からは、当時の市職員がこの原稿束を熟読していたとわかる。戦後、職員が製本したのだろうか。しかし、この記録の存在については広報紙にも、2008年に出た評伝『渡辺多満の生涯』にも、内容は載っているのに出典が一言も書かれていない。横浜の女性史を広めた嶋田昌子さんも、この記録は知らなかったと嘆息された。というわけで、お宝は100年たって日の目を見ました。ミチさん、たまさん、みなさん、記録を残してくださってありがとうございます。

婦人参政権のような政治的運動よりは、社会(福祉)事業にまい進した横浜の婦人たち。子細な年表。よくぞ書いて残してくれました。当時の横濱貿易新報(今の神奈川新聞)を図書館でコピーしたり、足りない分を嶋田昌子さんがとりに行ってくださったり。支え合って横浜復興に奔走した100年前の女たち。先達の息づかい。

ぜひお読みください。ウェブ上でも読めます。紙では3館の横浜市男女共同参画センター、横浜市立図書館、南図書館などで。残部ももしかしたら南太田の男女共同参画センター横浜南に。やっぱり紙の本が好きです。

(終わり)

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。ご感想、質問などありましたらお寄せくださいませ。
kozonoyayoi@gmail.com 小園 弥生

【追伸】
倒木更新(トウボクコウシン)

2024年、屋久島の森で


あとがきに代えて



「杉は、完成した深い森では日が差しこまないので発芽できない。大木が倒れるとそこに隙間ができ、日が差しこんでくる。湿気の多い屋久島では倒れた木の上に苔がはえ有機物が溜まり、格好のベッドができる。そこに落ちた種は光も、水分や栄養も得られ、発芽できる。このように倒木上で次の世代が生まれ育っていくことを「倒木更新」という。こうして次の世代へと交代していくのだ。」
(中野民夫『みんなの楽しい修行』)


屋久島の森で
実物を前にこの話を聞いたとき
倒れた木と生まれた芽が
交信しているのかと思った

次の種が芽をだすには
森に空間があくのが必要なんだ
仲間と顔を見合わせた
ほう、光さしこむ空間がね

ベッドとなった古木は
養分を放出すると朽ちて穴があき
地面から浮き上がった根が残る
骨のように

いのちのコウシンされた
かたちはダンス
ひともコウシンを祈って踊り
岸をわたる


しごとのあしあと1993-2022

2025年3月31日 発行 第2版

著  者:小園 弥生
発  行:kozonoya文庫

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小園弥生

場づくりと書くこと、歴史、低山歩き、房州石と海に沈む夕日、餃子とビールが好き。
この冊子は横浜市の市民利用施設で「場づくり」のしごとをしてきた約30年で心に刻んだこと、伝えそびれたことなどを書いています。

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