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珈琲と優しい
絵たちと

たいいちろう

ANUENUEBOOKS



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 雨が降る。
 春を予感させる、そんな爽やかな雨が朝から降っている。
 さりげなく風に吹かれた雨粒たちが、窓にコツンコツンと「おはよう」と挨拶をするみたいに、軽やかな音色を僕に届けてくれている。
 とても心地がよくて、なにかとてもよいことが起こりそうな、そんなことを告げてくれているかのような雨の音だ。
 空とこの地上とを繋げるこの雨は、同じ空の下にいる、同じ世界のどこかにいる、大切な人との繋がりを感じさせてくれるもの。
 僕は窓を開ける。
 雨に濡れた樹々の香りが、どこからともなく風で流されてきた雨粒の透明の雫と一緒に僕の部屋に入ってくると、その香りは雨の香りとともに楽しそうに混ざりあっていく。
 気持ちを穏やかにしてくれる香りだ。
 いつもと変わらない朝が、いつもと違う素敵な朝に変わったあの日。
 なにも飾り気のなかった部屋。
 その部屋に素敵な春の訪れの知らせのように、幸せを運んで僕と出逢ってくれた、あの日の一枚の女の子の絵。
 可愛いらしい桜の花弁たちが舞う、そんな雨降る春の世界のなかを傘を差して、佇み、歩く女の子。
 その女の子は今もずっと変わらずに、僕の傍にいてくれる。
 少女のような、大人のような、天使のような、妖精のような、そんな存在感のままだ。
 とても心のよい子なのだろうということが、この絵から伝わってくることも変わらない。
 重なり合う優しい色たち。
 絵筆の線の流れの一つ一つから溢れてくる、心を潤してくれるもの。
 その絵の隣に、また新しい絵が増えた。
 その絵と新しい絵の隣に、また僕の部屋には素敵な絵が増えて、その絵たちを見るたびに、僕のことをとても優しい気持ちにさせてくれるのだ。
 その絵たちは僕のことを応援してくれていて、励ましてもくれていて、時には慰めてもくれている。
 その絵たちは今も窓の外から耳に流れてくる雨の音色と一緒に、僕の心のなかへと生きることの豊かさのような、そんな贈り物を運んでくれるんだ。
 僕の心は朝から跳躍していく。
 その跳躍は朝焼けの美しい紫の色でこの身を染めながら、心に瑞々しく弾けていく雨粒たちの存在を確かめ、空の大気圏をも突き抜けて、僕の心を制限のない自由な宇宙の世界まで連れていってくれる。
 美しい紫の光を纏いながら。
 僕は朝から珈琲を淹れると、お気に入りのクマの絵が描かれたコップを用意して、アロマのようなその香りを楽しむ。
 ささやかだが、とても贅沢な時間。
 家のなかが、ほんの少しだけ喫茶店になる時間。
 窓からの濡れた樹々の香りと雨の香りがより深く混ざりあって、僕の部屋に流れ込んでくると、その香りは窓を開けた時にさりげなく風に吹かれた雨粒たちが、窓にコツンコツンと「おはよう」と挨拶をしてくれていたものと同じように、「おはよう」と挨拶をしてくれているみたいで、なんだか上機嫌になってしまう。
 幸せ。
 日常でいろんなことがあったとしても、朝に飲むこの珈琲と、このとっても優しい絵たちと、流れてくるこの香りたちに包まれていると、本当の幸せというものはどういったものなのかを教えてくれる。
 心が大切なもので満たされて溢れてくる。
 僕はあったかい珈琲を飲みながら、優しい絵たちを眺める。
 心が落ち着いて、心が静かになっていくことを感じる。
 ずっと昔に住んでいた家の二階の窓から西日が差し込んで、その光に包まれては心が落ち着いた、小さな頃に感じたあの懐かしい光の温かさ。
 とても好きで、今も大好きなあの優しい光の温かさ。
 そんな僕が大好きな温かさを、この時間と部屋に最初に飾った女の子の絵と同様に、ほかの絵たちからも同じように感じるのだ。
 心地がよくて、いつまでも包まれていたかった、あの頃の夕日がくれた太陽の香り、匂い。
 そんな大きくて、優しい、とても安心感のある温かさを思い出していく。
 そして、僕のことをいつも癒してくれる絵たち。
 不安に揺れてしまう心や気持ちだって、そんな負の感情を吹き飛ばしてくれたり、落ち着かせてもくれる。
 芸術、アートとはなんと素晴らしいものなのだろう。
 そこには奥行きがあって、誰かに光を与えて、心を救う力もある。
 絵は見た瞬間に、感覚的に、心に語り掛けてくれるものでもある。
 だから、絵を見てなにかを感じて、涙を流す人たちだっているのだ。
 そして、描いた人が見えなくともその人を感じられる。人と人は自身の心で感じることのほうが、その素敵なものがよく見えることがある。
 この絵たちは沢山のことを僕に伝え、教えてもくれているんだ。
 絵たちに心を寄り添うと、口笛を思わず吹きたくなるような調子のよさと、幸せな気分と一緒に、僕に大切なものも与えてくれる。
 優しい雨粒たちの音にまた耳を傾ける。
 幸せなひと時と一緒に、僕は丁寧に淹れた珈琲をゆっくりと口にする。
 一口、また一口と。
 眺めている素敵な絵たちの優しさがさらに部屋の空間に広がっていき、口にした珈琲とともに心のなかの胸の辺りが熱くなっていく。
 最初にこの部屋に飾った絵の女の子が、僕に今日もなにかを語り掛けてくれているみたいだ。
 今朝はどんな言葉だろう?
 耳を澄ましてみよう。
「今日もええ日やで。楽しくいこかぁ」
 彼女は関西弁なのだ。
 僕はうんうんと笑顔で頷く。
 そんな穏やかな時間に身を置くと、飾られた絵たちから溢れる優しさでこの身を包まれる。
 出掛ける準備をして、着慣れた服を着る。
 履き古した靴を履き、傘をしっかりと手に握り締めた。
 僕は扉を大きく開ける。
 開けた扉の先にある外の世界には、新しい一日を迎えてくれるそんな優しい朝の雨が降る。
 男前やろ? と言わんばかりの渋いグレーの色をした空。
 その空が大きな手を広げて僕を出迎えてくれた。
 空が僕の心をとても爽やかにもしてくれて、思わず僕も、男前やろ? と言わんばかりのキリッとした渋い顔を空に見せてみる。
 そして、僕は空に向けて今朝も同じ挨拶をするのだ。
「おはよう。いってきます」

珈琲と優しい絵たちと

2025年3月14日 発行 初版

著  者:たいいちろう
発  行:ANUENUEBOOKS

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たいいちろう

巡り会えたあなたに、
幸せが訪れますように…。

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