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詩集 あかり

小園 弥生

kozonoya文庫



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    目 次

あかり 四
くにたち・くにたち 五
ヨコスカ 九
タワー十三階の座席表 一二  けずる   一三
農 婦    一四      百日紅   一五
空き地    一六      大岡川   一八
風になりたい 二一
娘たちと母  二二      母と手ぶくろ  二三
ちりん、四歳から五歳 二六  ちりん、ちんちん 二八
けやきは見ていた 三〇    ひらかれる空間 三五
父を拾う 三七
倒木更新 四三
車力道 四五

【散 文】映画『海女のリャンさん』と詩集『海女たち』 四八
ソジュンギの海女たち 五〇
白浜の海女たち 五六

【散文】ソウル路地裏一九九一 アイゴー、セーサンエ…… 六〇

【歌芝居のうた】
ストリート婆のうた 六七
からまりうた 六九
いっぱい金魚 七一
勲章     七三


【初期詩片】

波乗りハイウェイ 七七
高野豆腐     七八
あこがれ     八〇
母のじゅずだま  八二
神 仙 堂     八五
見えない鋏    八九


■あとがき 九二

  あ か り


灯台のあかりのように
あなたを
おもってきました

くらいうみに
きえてはともる
わかれのことば










  くにたち・くにたち

♪くにーたちっ、くーにたちーー
 くーにたちだいにっ、しょーがっこー ♪

五〇年たっても歌える校歌のサビだ
一面の青々した芝生
レンギョウの黄色も白く
母と写ったお入学の白黒写真
夏の朝
庭の池に浮かびパカっとひらく
すいれんの花をみるのが好きだった
一九六七年、六歳のわたし

となりに住む大家さんの
川中さんのおばさんは
マァちゃんをひとりで育てていた
平屋の洋館も貸していて
そこには元華族さまという
気取った家族が住んでいた
おふろのなかにふたのついたお便所!
これが気味悪くって

うちにおふろはなかった
大家のおばさんちにも
母とわたしとおばさんとマァちゃんで
ある日「松の湯」に行った
妊婦の母がさらしの白い腹帯を
ぐるぐる脱いだ
大柄のおばさんは
大声で東北弁を話した

おばさんのうちには
夜になるとベージュの制服制帽の
米兵が通ってくる
ひそひそと「オンリーさん」
それはなんだろう? 
アメリカーでは、こんな強くて
ガタイのいい女の人が人気かぁと
わたしはパチクリした

年下のマァちゃんは
アメリカーじゃなかった
ウルトラマンがだいすきな
元気のよすぎる男の子
後年
交通事故に遭ったときいた
気づいたら大家のおばさんと
マァちゃんは消えていた

まわりのどの家よりも広々とした
ガーデンのあった土地に
二〇二五年には数軒が建て込む
北多摩郡国立町大字国立字中区
あの土地はだれのものだったのか
調べても
川中さんも
アメリカーの名も出てこない

小学校では「文教都市」を習った
そこいらじゅうで
音大生のピアノと歌声がきこえ
わたしもちゃぶ台をたたく
世紀のピアニスト
道をあるきながら
いつも歌をつくっていた
空想がとまらない

校舎の窓は防音の二重窓
その真上を低く
ベトナムへ行く米軍機が飛んでいた
「川中さんのおばさん」と
みんなに呼ばれていた
大家のおばさんとマァちゃんは
あの日のまま
わたしの脳内で のしのしあるく

わたしの
くにたち・くにたち
まちは一九六〇年代


  ヨ コ ス カ

通りを歩くと
無数の足跡が見える
ぺたぺたとした

一九八一年
ドブ板通りで廃墟寸前だった
キャバレー ニューセカンド・ヨコスカでの
石内都写真展に釘づけになる
数日後、山本ビル二階にあった
ヨコスカ市民グループ事務所で
石内都写真集『絶唱、横須賀ストーリー』を買った
当時三五〇〇円はほぼ一日の労働の対価で

一九八〇年代をヨコスカで過ごした
出産、きず、ひとびとの波
ひりひりが追いかけてくる

弱さをさらけあうことが
強さだと知った
ありのままあることの
どろくささは心地よく
ときに痛かった
あのまちがわたしを育てた

二〇二四年の今日
ドブ板通りのはずれ
老朽ビルの一階でおしゃれな古着屋を
若者が営んでいる
「ここは一九七〇年頃、
米兵が集まっていたビルなんだよ
ベトナムの前線に行く運命から逃げて」
と言ったら、ふーんという顔をした

並びの食堂“一福”は
半世紀変わらずにある
いぶされたメニュー表

店の前で女の髪をといていた老女
肖像画家のデッキーさんの背中
夕方になると
おねえさんたちが浸かっていた
裏通りの大黒湯の跡には
一〇〇年前の房州石垣と
赤い鳥居の
お稲荷さんが残る

通りを歩くのが好きだ
ひとびとの足跡の
しんしんとふり積もる
なかにわたしの足跡もある
あのときも
いまも




  タワー十三階の座席表

ワープロに一文字のイラスト機能があった
あるとき座席表をアルバイターに頼んだら
名前の横にそれぞれの人物をあらわす
イラストを入れて「できました」

なるほどねぇ、とみんなうなった
わたしは鳥だった
犬も、猫も、虫の人もいた
理事長だけが人だった

横浜ランドマークタワー十三階の
職場には笑い声があふれていた
まだインターネットはなくて
時間はどんぶらこ流れていた

開かない窓の外
夕方を染める橙色のなか
静かに落ちていった
一九九三年の夕日




  け ず る

かつぶしをけずる だしをとるために
えんぴつをけずる ものをかくために
ほねみをけずる やくにたつために
しのぎをけずる たべていくために

けずったぶんだけ いのちはだしがでる
いのちをあじわって
きょうもいちにちがすぎていったよ
みずいろのかぜのように




  農 婦

仕事場を替わるたび
わたしは農婦になった
種をまくにはふかふかの土がなくちゃあ
耕すのは骨折れて
帰宅して一〇時には眠りに落ちた

ところがあるとき
土がなかった
クモが糸を繰り出すように
砂でも金でも
惜しまず出してくだしゃんせ

おーい、なかま
ひとりで畑はできません
春夏秋冬
へたっぴな農婦は
眠れないので酔っ払い

こんにちは、新しい経験
「一ミリの可能性があれば
そこを広げていくんです」と
先達は言いました
そのように掘ってみるんだ



  百日紅(さるすべり)

施設の裏庭に百日紅の大木があった
夏になると毎年 紅い花がこぼれる
幹はさるもすべるすべすべ

二〇〇〇年代
わたしは毎日 しごとにおぼれていた
施設のブログに
「百日紅の老木からこぼれる花が」と書いたら
上司が「老木はちょっと」と言った
この花をみるたびクスッと思い出す

一九八〇年代
すでに大人の大木だった
百日紅のあなたが植えられたのでしょう

さるすべり、べりべりグー
べろべろ、ばあ
わたしもばあばになりました




  空 き 地

子どものとき
武蔵野の雑木林で
靴かくしをして遊んだ
私が隠したズックがついに見つからず
べそをかいたキヨシくん
ごめんね

大人になって
海辺をよくあるいた
ある日しゃれた家が建ち
海岸へつづく小道は「私有地につき」
えっ、小道と海岸はお宅のものですか?
ほんとうに?

空き地は生き物に必要だ
野の花が咲いたり
ミミズがのたくったり
鳥が鳴いたり
木の葉が落ちたり
また芽ぶいたりする

椅子やシートを持ってきて
木陰で休めるっていい
草のにおいをかいで
電源を切ってさ
私はいません
さがさないでください

わたしの探しているのは
都市に消えていく余白だ
共有地だ
空き地党コモンはドラえもん
「街に取り戻そう
みんなの空き地を」




  大 岡 川

春の大岡川は気もそぞろ
一番に咲くのは白い花びらの私です
弘明寺へ続く観音橋にてゆるり
先輩方は今日もソロで乾杯を

一九七〇年代まで川沿いには
横濱スカーフの町工場が並び
赤青黄色の染色液が川を流れた
スカーフの縁かがりは
女たちのしごとだった
上流の笹下川では
そのむかし川に人が入って
染めた布をさらしていたという

川沿いにぐんぐん上って
水源の氷取沢まで歩いたことがある
そこをひと山超えると
もう鎌倉だった

大岡川に桜を植えた人々は
先見の明がありました
テキ屋の出店で大にぎわい
屋形船もまいります

二〇一〇年代 屋形船に乗ったとき
中年の兄妹が隣り合わせた
「わたしたち この川に浮かぶ船で育ってね
毎年きょうだいで乗りにくるんです」

一九二三年九月
追われる朝鮮人が川に身を投げた
一九四五年五月
横浜大空襲で焼かれる人々が飛び込んだ
そう伝えてくれたのは
在日コリアン一世の李ヨンジンさん
黄金町の京急高架下で
印刷機を回していた

一番美しいのは
流れていく私です
一面にうごめく桜色をのせて
今年も流れていく
花筏はないかだ




  風になりたい

闇夜の晩も 月夜の晩も
わたしは
あなたに流れる
風になりたい
この身を焦がすことから
自由になりたい

  娘たちと母

娘Aは
「どうしたらおなかがすかないだろう」と
戦争中の子どもだった
母のようなことを言う

娘Bは
いつもキッチンに居て料理をしている
アジのなめろうがね、出てきたりして
母が「あなた、ここで働いてるの?」って

どちらのくふうも
生きのびるにはだいじです
くふうして生きてきたひとりの女
一九三四年生まれ、九〇歳
AからBになり
中年を働く女・Cになり
老年を夫に困る妻・Dになり
いまEになって
AやBをゆらゆら見ている

「ふ女子四代」祖母・母・わたし・娘A 2009年
銀座 奥野画廊での「やっかいな夜会」に出展


  母と手ぶくろ

指のない手袋を両手にされた母
点滴の針を抜いてしまわないように
見舞に行くたび
「帰るから。これ外してよ」と
大きな声で何度も叫ぶ

「外れないね」と言うと
母は怖い顔をする
見たことのない
あらわな感情を見るのは
鮮烈で苦しい

父より先に認知症になって
感情にふたをしたのか
父が亡くなった時はもうわからなくって
めきめき元気になったのは
あなたの意志ですか

二〇歳からの七〇年間は
満足でしたか
「こんなのはじめて」と手袋をにらむけど
見えない手袋を
ずっとはめてこなかった?

時代の中であなたは選んできた
のかもしれない
そしていまも
選ぼうとしている
のかもしれない

最期になって
外してと言う
あなたの声がくっきりと
病室にひびく
窓の外に桜が舞っている




  ちりん、四歳から五歳

「好きな食べ物は?」
「やちとりだよー」
「動物園にいる、首の長いのは?」
「ちりんでしょっ」

海岸でほら貝を拾って
じっと耳に当てている
「聞いてごらん、海が鳴いてる」

青空に悠々と飛ぶトンビを
「いいねえ」と私が言ったらば
「ばあば、むかし鳥だったの?」

初めて一人でお泊まりにきて
「やった! ママから自由だ」
と言った

夜中に寝ぼけて泣いた
朝になると
「ママがいるから自由なんだ」
と言った

「ばあばはチューするからいやなんだ」
とママに言うそうだ
わたしには言わない

ちいさな胸は忙しい
ちりんはもうすぐ一年生

  ちりん、ちんちん

「ちんちん、さわるんじゃないっ」
こわいかおしてママが言う

四歳のちりんは不満いっぱい
「ぼくの、ちんちんなんだよっ」

ママはぐぅのね
ちりん山の勝ちー

わたしのからだは
わたしのもの

My Body is Mine.
The Personal is Political.

京急のまちマガジン「なぎさ」(October 2023) に掲載

  けやきは見ていた
          ~高良興生院跡地にて

二〇二四年秋の新宿
明るい川辺に
けやきの大木が立つ土地がある
水はきらきら
空気はほかほか
「心の健康講座」に数十人が集う
主催は「高良興生院・森田療法関連資料保存会」
家庭的入院療法の入院体験者を院生と言う
人生の大学院のような

院生「死んでしまいます」
医者「死は運命です」
院生「心臓が止まりそう」
医者「かんたんに止まりませんよ。あの坂を駆け上って下りてきて」
院生「止まったらどうするんです?」
医者「私が助けます」
(院生は言われた通り上って下りてきた)
医者「どうですか?」
院生「止まってません!」

医者は院生を散歩に誘い
坂の下でじっと待っていたのだ
時短やコスパはここにない
なにかあったら君を助ける
そういわれたら、自分もやってみるだろう
ひとりではけっしてできないこと
かつてともに暮らした院生らは体験を語る
「五〇年前の入院日記はわたしの宝物です
先生のコメントも書かれていて」
一日一日を内観する日記
自分の「あるがまま」をじっと見つめた日々は
後生のかがやきにつながる原石だった

高良興生院は一九四〇年
森田正馬の教えを受けた精神科医・高良武久が
新宿区中落合、妙正寺川のふちに開いた
木々の中に武家屋敷のある四〇〇坪を購入し
入院森田療法を実践する場として開いた
川べりを幼い娘と散歩中に
「ここにしよう。ここに決めた」と言って
犬の頭のついたステッキで石畳を突いた[i]

〈一九四五年四月一二日
深夜、米軍空襲に遭う。高良興生院の病室一棟焼失。いつも演習に来ていた消防車が駆けつけて妙正寺川の水を吸い上げ延焼を食い止めたが、対岸から新宿のデパート街まで全くの焼土と化す。
数日後、焼け跡で薪のように積み上げられた棒状の焼死体を見る。
興生院の数本のケヤキの大木の芽吹いたばかりの若芽は、すべて火事の熱風で落葉したが、夏前には新芽をつけた。その後、興生院の院生の同窓会が「けやき会」と名づけられる〉[ii]

敷地にはけやきの大木が数本あった
桜の木もあった
うっそうとした木々の中に菜園や動物小屋
卓球台、ミニゴルフのコースは人気だった
薪をもらいに行き、喜んで割り、風呂を炊いた
そうじ・台所・園芸・犬の散歩など色々な当番があり
「なすべきことをなす」のが奨励された

高良興生院は一九九五年に幕を閉じ
翌年高良武久が亡くなると遺志により
土地の一部が社会福祉法人かがやき会に寄贈され
外口玉子と仲間たちの手で
「就労センター 街(まち)」が建設された
一階には障がいといわれる人々が働く
スワンベーカリーのカフェがある
二階には資料保存会の記念室がある
森田療法で助かる人はいまも世界にいる

〈一つの街のなかに
まだない一つの街があって
その広場がいま
かれらの行く手で揺れている〉[iii]

一本になった大きなけやき
「わたしはこの土地の力、人間の力を見てきた
薄みどりの花が咲き、葉が茂る季節
秋には紅くなり、落葉する季節を
一〇〇年繰り返してきた
わたしは記憶している
繊細な人々がゆきかった広場を」

生きることがままならない二〇二四年
時間も人も削られつづける
ばらばら
びりびり
ぶるぶる
ひとはひとりでは生きられない
からみあい発酵する生き物です
広場を求めてやまないひとりです


             [i] 小説『百年の跫音』高良留美子
             [ii]『高良真木画集』年譜より
             [iii] 詩「木」高良留美子(部分)





  ひらかれる空間
         ~高良留美子資料室にて

とびらをひらくと
友人がいて
先達が壁の向こうで白く微笑んでいる
リトグラフの青い絵がかかっている

わたしたちはゆっくりと
お茶を飲みながら
五〇年前に高良留美子さんが
書いた生原稿を声に出して読む

「道とエロティシズム」※
  道は人々が行き交い、物と物が入れ交わるところ。道と道の交わるところには神が住み、市が開かれた。
  道を作るのは人間だけでなく、けものたちも、虫も、風すらも道を作る。
  道のなかで自然と人間が交流し、人と人が交わる。ここにエロティシズムの本質があるのではないだろうか。
  道とは、新しいものを生み出すところでもある。胎児は産道を通って母胎の闇の中から生み出される。
  道とは、AからBへの直線的な移動の手段ではなく、行きつ戻りつし、伸び縮み、回帰する文化そのものだったと
  さえ言える。 


道は地層となって重なり
つづいている
空間は時空をこえてひらかれ
わたしたちを肥沃にする

   ※一九七七年 都美術館でのシンポジウム「女とエロス」発表原稿より抜粋


  ■高良留美子資料室
   東京都目黒区。東急 自由が丘駅よりバス。詳細はホームページにて。
   https://korarumiko.wordpress.com/



  父を拾う

     1

白い骨になって出てきたのを見て
ひ孫・四歳は言った
「あしがないと てんごくにいけないよ」

黄色くなったあなたに一時間よりそい
孫娘・三四歳は泣いた
「おじいちゃんはわたしの安全基地でした」

蒼い遺影と向き合い
娘・六一歳は思った
あなたをあきらめてきた くりかえし

かつての教え子・七六歳が話した
「ぼくの結婚式で、先生は言いました
“結婚とは生物学的な結びつきである”と」

べつの教え子・七七歳が語った
「高校一年で六〇年安保闘争に出会ったぼくらを
いちばんあたたかく見守ってくれました」

     2

一九七一年からの二四年間
あなたが精魂込めた闘争
そのなかまの不在を
わたしは思っていた

人は闘いを始めたり、休んだりする
時間は詰まったり、ゆっくり流れたり
からだは倒れたり、回復したり
そして骨になる

若い日は正義のかたまりだった
正義は人や自分を追い詰めることもある
からだも強くなかったから
苦しい日々だったでしょう

あなたが戦列を離れてまもなく
経営悪化した会社が折れた
闘い続けたなかまのおかげで原職復帰し
天下の回りものを手にした

     3

若い日のまさ子さんが
「結婚を前提に」と
せまったのですってね

中年のまさ子さんは、
出版ブームのころ校正者となり
あなたと子らを支えました

老いた日のまさ子さんは
あなたの暴言で
感情を一時閉ざされてしまいました

でもあなたが入院し離れてから元気になり
いままたおふとんを二つ敷いています
二人で暮らす世界のなかで

もうすぐ
あなたが二人分購入した
市営墓地にまいりますよ
まさ子さんはまだ当分
こちらでしょうが

     4

一九八〇年、家を出る一九の娘に
「何が不足で」と赤鬼になったね
(あなたが重たすぎて)

その後娘の心配はせず
息子の心配ばかり
孫娘らを愛して、あなたは去った

死亡保険金額は語る
あんまり あんぐり
黒い笑いがふつふつとこみあげる
人間が生きるとは滑稽な

葉隠れの佐賀のオールドボーイめ!
死んでなお、あきらめるんかい

     5

この数年は認知症の自覚なく
修羅場の数々をともにした

医者が大嫌いだった
民間救急車で医療保護入院
断られた末の老人ホーム入所
看護師に添われて最期の入院 

到着するのを待っていたのか
明け方のあなたはまだあたたかく
わたしは白い部屋で
鈍色の空を見上げた

九一年間おつかれさまでした

むかし哲学青年だった
もう軽くなった
父を拾う

旅の始まりだった

         (二〇二三年三月)

  倒木更新(トウボクコウシン)


「杉は、完成した深い森では日が差しこまないので発芽できない。大木が倒れるとそこに隙間ができ、日が差しこんでくる。湿気の多い屋久島では倒れた木の上に苔がはえ有機物が溜まり、格好のベッドができる。そこに落ちた種は光も、水分や栄養も得られ、発芽できる。このように倒木上で次の世代が生まれ育っていくことを「倒木更新」という。こうして次の世代へと交代していくのだ。」
                      (中野民夫『みんなの楽しい修行』)


屋久島の森で
実物を前にこの話を聞いたとき
倒れた木と生まれた芽が
交信しているのかと思った

次の種が芽をだすには
森に空間があくのが必要なんだ
仲間と顔を見合わせた
ほう、光さしこむ空間がね

ベッドとなった古木は
養分を放出すると朽ちて穴があき
地面から浮き上がった根が残る
骨のように

いのちのコウシンされた
かたちはダンス
ひともコウシンを祈って踊り
岸をわたる


  車 力 道

「石切り場からふもとまで続く車力道しゃりきみちには二〇〇キログラム以上の石を、ねこ車で運んだわだちが残っており、驚くことにそれは女性たちの仕事の痕跡である。
海路を使い房州石は江戸や浦賀に向け大量に出荷され、時代が江戸から明治、大正を経て昭和へと近代化する中、なくてはならない資材として多くの場所で使われていった。
そんな房州石の切り出しも、昭和六〇年一二月をもって終焉した。」
                     (千葉県富津市金谷にある鋸山資料館展示より)

鋸山ではかつて
ツルハシで切り出された八〇キロの石を
二輪のねこ車に三本乗せ
女たちがブレーキをかけながら
曳いて山から下ろした
それを三往復するのが
一日の仕事だった
彼女はシャリキと呼ばれた

正岡子規は憂いた
全部切られてこの山はなくなるのでは?
明治のそのころ
石切り場を背負った日本寺には
幾百人のシャリキの笑い声が響いた
いま車力道を下って
女たちの労働のきびしさを
思わない者はない

鋸山には
無数の車力道が眠る
暮らしを立てる道
人が歩くことで道はでき
出会い、風が通り
石も心も
重心をはかり交わった
新しい時代を生み出した

石切りが終わって四〇年
訪れる人がいま歩くその道は
二一世紀になるころ
仲間たちで掘り出したという
埋もれていた一〇〇年前の道に
敬意をもって案内する
今日も笑い声が響く
石の精に見守られて









【散文】 映画『海女のリャンさん』と詩集『海女たち』

 映画『海女のリャンさん』(二〇〇四年、九〇分、二〇〇四年度キネマ旬報ベストテン第一位)をどうしても見たくてDVDを購入した。それ以来、何度見ても心揺さぶられる。
 一九一六年生まれのリャンさんは一九四一年、済州島から海女の募集に応じ、出稼ぎにやってくる。戦争があり、一九四八年の済州四・三事件があり、往き来もままならず大阪で生活を立てる。朝鮮学校で働く夫と七人の子らを食べさせるため、夏は日本中で海女の出稼ぎ、冬は小商いをしてきた。読み書きできない苦労の旅は、対馬へ、三重へ、千葉房総へ。挿入されている一九六〇年代後半、リャンさん五〇歳のモノクロ映像がまたすばらしい。モノクロを撮った金性鶴さんが母の生きざまを描いた映画『HARUKO』(二〇〇四年)にも、リャンさんは出てくる。合わせて観ると味わい深い。
 息子三人はかつての帰国事業で北朝鮮に渡り、暮らす。娘の一人は韓国に残り、長男長女が日本で母を助ける。子や孫に会いに毎年、北朝鮮には山のように土産をもって通う。息子たちを苦しめるから韓国籍にはしない、とつぶやく。息子たちは「母の死に目には会いたいが」。二〇〇二年に済州島への墓参りがやっと叶い、娘に会うと「子どもたちを離ればなれにしてしまった」と涙する。老いたリャンさんは大阪・生野区で一人暮す。


 映画から十数年たち、出版された訳詩集『海女たち』(二〇二〇年、新泉社、ホ・ヨンソン著、姜信子・趙倫子訳)にリャンさんは「海女 ヤン・ウィホン」として登場している。ヤンは朝鮮半島の南での発音だ。大阪で二〇一五年に亡くなったという。
 詩集には一九三一年の海女抗日闘争も記録されている。以下に、詩を抜粋する。

  海女のヤンさん、大阪のひっそりとした病棟に横たわって
  今日も どうか お願い
  どうか あたしをもう一度立ち上がらせて
  生涯を流れた
  あの海
  今もからだに流れている
  海に潜って八〇年 あの真っ青な海の声
  
 済州島海女の出稼ぎは、一九三二年に五〇七八人に上り、これは同地の海女漁業組合員数の五七%だったという。植民地宗主国であった日本には一六〇〇人が来ており、日本人海女は約一三〇〇〇人だったというから少なくない割合だ。

  ソジュンギの海女たち
          ~済州島から千葉・房州へ


女が素潜り漁をするのは
世界で韓国と日本だけという

ソジュンギは済州島の女の仕事着
つなぎの短パンは動きやすくスマート
習ってこしらえた日本人海女も少なからず
日本人はこの仕事着をチョーセンと呼んだ

千葉房州の海女たちの親分は朴基満
済州島翰京面板浦里から
一九一八年に十五歳で渡日した朴氏
日本が一九一〇年に朝鮮を植民地にした後の
一九二〇年代 三〇年代
朴氏は毎年房州であちこちの浦を落札し
ふるさとの海女を募集した
漁解禁の四月には北済州の村々から
年若い海女数十名を引率した
済州島と大阪を結ぶ君ケ代丸(クンデファン)に乗り
汽車を乗り継ぎ やって来た女たちは
技術により 各浦に振り分けられた

金谷、保田、勝山、船形、坂田、洲崎、伊戸、
和田浦、勝浦、天津、鴨川、太海、江見、千倉
内房外房の浦々で
ソジュンギの海女が採っていた
アワビ、サザエ、ウニ、トコブシ、テングサ
海女小屋をこしらえ、寝起きし
潜り、食べ、火にあたった
ひときわ波荒い外房の和田浦では
海女歌が生まれた

  ♪かわいそうで悲しいチャムスの暮らし
  だれが教えたか 恨めしい
  風吹き、雨降りそそぐ浜辺で
  荒々しく砕け散る波間で
  水の中を行ったり来たり
  息も苦しく、心も切ない♪

十メートルより深く潜って
ひと呼吸は一分
水の冷たい季節には
男より女の方が長く潜れたそうな
海中で命落とす仲間もいれば
鼓膜破れ 潜水病にもなる
海で子を産み落としそうにもなった


一九四五年に朝鮮は独立したが
まもなく済州島四・三事件※、
朝鮮戦争があり 人々は逃げまどい
帰国できなかった海女たちが
日本の津々浦々に残った
仕事もなく 潜り続けた
七〇歳までも 
ヒューィッと磯笛を吹き
息を継いだ 生きるために
 
来たときは日本国民だった
戦争中はカジメ※切りの徴用で頼られ
戦後は外国人として放られた
房州の海女たちは
漁業組合からもはじかれた


一九七一年に和田浦で亡くなった朴基満氏と
この地で生を全うした済州島の人々は
鴨川市江見の長興院に眠る
太平洋を見晴らす一角に
黒く光る十数基
それぞれの墓碑に刻まれた
生没年、出身地、先祖と来し方
そして碑文には
「海に潜り、子どもらを愛して暮らした」
子孫らはいまも外房の海辺に暮らす

ソジュンギは
一九六〇年代にはウェットスーツに代わり
いま館山市立博物館に展示されている


光る身体
赤銅色のエロス
誇り高い女たち

海は女を生かしてきた
女のなかにあふれていた海
潜れない私のなかにも
海はうねる


※一九四八年四月三日、米軍政下の済州島で起きた島民虐殺事件。
 村々の大部分が焼き払われ、島民の十分の一、赤ん坊から老人まで三万人が亡くなったという。
※内房特産の海藻だが、火薬の原料=軍需品として重用された。
 海底でこれを大量に切るのは海女たちの重労働だった。

【参考】『海を渡った朝鮮人海女』金栄・梁澄子 著、新宿書房、一九八八年

  白浜の海女たち

           ~林芙美子の『房州白浜海岸』を読む

白浜海岸の岩目館で
生き海老踊る昼食の後
〈今日はおこもりの日〉と芙美子は聞いた
漁船が二はい、沖で沈没してしまった
難破した人たちの霊を、四十年近く弔ってきた日
かつて若かった海女数人が広間に集った

「海女の働き盛りは、十七、八くらいですか」
「なんね、そんなもの、海の底、なんもわからねえ」
~海底の地理がすっかりわかり、
仕事に馴れてくるのは、四〇前後という

「海の底は怖いでしょう?」
「なんね、飛行機に乗ってるようなものさ、陸よりは賑やかだ」
「そうかねえ、わしは、とっても淋しい時があるよ」
~谷あり山あり、海底は少しも陸地と変わらないそうである

「よその土地の若え海女は、
乳を巻いたり、じばん着たりよ、
ひらひらカラダに布くっつけて海へ潜るそうだが、
わしたちゃア、素っ裸が一番仕事しいいべ」

あるおばあさんは言った
「子どもを産むそン日まで水潜って
腹が岩につっけえて、みすみすでっけえテングサ
採れねンだ、口惜しかったもンだ」

海女だったおばあさんたちは
一人ひとり安房節あわぶしを唄う
房州の土地ことばで唄う
芙美子にはまるでわからない
飄々とした唄声が薄暗い広間に響く

芙美子は前夜、北条館山の木村屋旅館で
芸者時丸さんの安房節を聴いたばかりだ
〈ちんちげねよ、そんそこだよ、
烏の鳥がおろろん、ろんかなえ
合いの手の文句が気に入った
安房節の曲や文句には勇ましい明るさがあって
私は好きであった〉

予定外の一泊を岩目館に泊まった翌朝、
バスで白浜から千倉へ出、汽車に乗る
汽車は外房の真っ青な海沿いを走る
太平洋の水平線に目をこらし、芙美子は記す
〈千倉、和田浦、江見、鴨川までは、
日本のニースであろうか
明るくて、海の色に変化があって、
植物の色が鮮やかだ〉

一九五〇年に四六歳の林芙美子は白浜海岸を書いた
働き過ぎて死ぬ前年だった
戦前戦中のフランス、満州、南洋行き
一生涯の流浪のはてに
味わった白浜海岸の荒々しさと明るさは
おのれの身体と地続きのようではなかったか

二〇二〇年も変わらず
外房の光は強い力で
人間を包み込む

毎年夏の〈白浜海女まつり〉で
松明を手に夜の海へ入る海女団の中には
最後の海女たちも混じっていたが
いまは老人ホームにいると聞く
今日もつぶやいているだろうか
「夏おいで~な、
美味いあわび食わしちゃる」

【散文】ソウル路地裏一九九一
    「アイゴー、セーサンエ……」
(ああ、世の中にこんなことって) 

 (韓国女性作家短篇集『ガラスの番人』(一九九三年、共訳、凱風社)巻末に収載 
   自筆エッセイより抜粋)


●月に近い町「タルトンネ」の人々
 晩秋のある日。ぐうたらと寝坊してしまった。朝一〇時頃、ナツミの手を引き引き昌信洞(チャンシンドン)の坂道を保育園へ上っていく。八百屋の店先には白菜が山と積まれ、雑貨屋の軒先にはピンクや水色のももひきがぶら下がっている。路地裏という路地裏では、分厚いゴム手袋をしたおばさんたちが塩漬けした何十株もの白菜の葉のあいだにヤンニョムを挟み込んでいる。馴染みの駄菓子屋や果物屋のハルモニたちにあいさつするナツミ。
「アンニョンハセヨ」「アンニョン。今朝もおそいねぇ」
 町内でヤクルトを配達して回っている同じ保育園のお母さんに会いませんように、と私は祈る。寸暇を惜しんで働くお母さんたちの前ではなんといっても肩身が狭い。ところが、保育園へ上るくねくねとした階段状の路地の上り口に来たとき、ナツミが立ち止まり、そばの仕事場でミシンを踏む、仲良しの女の子の両親に向かって、ぺこりとあいさつした。「今日は風邪をひいて遅くなりまして…」と言い訳する私。その夫婦は毎晩八時に保育園から子を引き取った後も、遅くまでミシンを踏んでいた。

 ここはソウルの中心部・鍾路区昌信洞(チャンシンドン)。数あるスラム街のうちの一つだ。東大門の脇から上っていく。韓国のスラムの多くは山の上にあり、タルトンネ(月に近い町)と呼ばれている。坂道を上れば、明らかに自前で急ごしらえしたと見られるバラックや、不定形の部屋、窓のない家などが見える。住人は、地方の農村出身者や、親が朝鮮戦争(一九五〇-五三年)のとき北から避難してきたという人が少なくない。そして巨大な衣料市場がある東大門の上に位置するため、そこらじゅうに下請けの縫製作業場がある。
一〇代の娘さんが脇の小部屋で死んだように眠っているかと思えば、シューシューと湯気吐くアイロンのそばに赤ん坊がころんと寝かされていたりする。朝夕にはがっしりした荷積み用自転車に仕立て上がりの湯気立つ真っ白なワイシャツの山を積み込んで少年が往き来する。道ばたのゴミ箱に投げ込まれた色とりどりの端切れのあざやかなこと。

「子連れで留学するのに保育園も調べずに来週から行くんだって? なんて無謀な!」と心配してくれた知人の紹介で、三歳の娘はスラム街の人々を助ける運動団体が運営する、安くて長時間保育の保育園に入ることになった。その近くに住まなくてはならない。「あんた。荷物が鞄一つしかないんだから、ここで十分」と不動産屋のおじさんにすすめられるまま、ちっぽけな部屋がごちゃごちゃとたくさんあるビルの中二階にある、二畳くらいの天井の低い部屋に私たちは住むことになった。しかし、異国で庶民の暮らしをするということがどんなにたいへんなことなのか、そのときの私にはわからなかったのだ。

 その晩、雑居ビルじゅうのおばさんたちが、外国人の母子を一目見ようと押しかけてきた。「ちょっと。ほんとに日本人かねぇ、最近ここいらに増えてきた中国人じゃないかねぇ」などと言っている。その中に親切な楚々とした美人の母親が居て、「わたしは看護婦だから、子どものことは何でも相談してね」と言う。そして、今夜はうちの布団を使いなさいよ、と運んできてくれ、キムチとごはんまで分けてくれる。異国で受ける親切ほど身にしみるものはない。
 ところがどっこい、彼女はただの美人看護婦ではなかった。医者にかかる余裕のないスラムの住人たちを相手に、自分の赤ん坊をひょいと負ぶって往診に出かけ、疲労回復の注射を一本、二本と打ってやってはしっかりと稼いでいる。
 保育園が夏休みのある日、すでに韓国の童謡を口ずさむようになっていたナツミを彼女に預けて私は学校に出かけた。彼女の部屋は四畳半ほどの広さ。タンス、冷蔵庫、机、ステレオなどのすきまに三人家族がやっと斜めに寝られる。この界隈でまっすぐに寝られるのは金持ちだ、というのが私の結論だった。もっとも初めから三角形や台形の部屋もあるから、その場合はまっすぐが何かもさだかではない。

 夜更けにギターをつまびく青年が上の階にいた。いつも終わりは南北統一を願う歌「その日が来れば」で締めくくられる(注:一九八七年に独裁政権が倒れ、やっと大声で歌えるようになった頃)。階段をネズミが走るビルで聞くこの歌は胸にしみ、どんな青年だろうと思う。と、翌朝共同便所からパンツ一丁のその青年がでてくるのだ。ロマンは一瞬にして……。
 トイレのトラブルはいちばんこたえた。電気がこわれていて点かない。暗いので戸をあけて子どもと入っていると、すぐそばの部屋のオバサンに怒鳴られる。「臭うってこともわかんないのかい!」 上の階にあるトイレにたどり着くまでに子どもが漏らしてしまうことだってある。いらいらする自分に私は泣きたくなった。気持ちを圧迫される天井の低さ。暑くなるほどに強烈になる道ばたのゴミの臭い。この町には木が生えていない。その道ばたで色々なものを拾ってくるナツミに「汚いからやめなさい!」と目くじらを立てる。
 疲労困ぱいし、夜の散歩に出ては、よろず屋さんの縁台に腰掛け、缶のOBビールを一杯。(注:ペッットボトルのマッコリ一リットルが六百ウォン。缶ビール350は八百ウォンと高かった。ふだんはマッコリ一リットルを飲んで、ほろ酔っていた。)

           * * *

抜粋はここまで。
 このあとまもなく韓国人の友人が見に来て「あなた。こんな生活していたらからだこわすよ。ひっこしなさい」と忠告。私は坂の下のほうのシャワーとキッチンのある清潔な部屋を借りるのに、日本から百万円(当時五百万ウォン)を送金してもらわねばならなかった。チョンセというシステムだから、お金は退去するときに返金されたが。広い部屋に引っ越したら保育園の先生が見に来て「まあ。ナツミオンマ。ここなら下宿人を三人は置けるわ」と言う。お願いだからほっといて、と私は祈った。
 昌信洞チャンシンドン市場にある食堂のスンドューブ(豆腐)チゲが大好きで、確かスンドューブ定食は千五百ウォン(当時のレートで300円くらい)だった。が、ときどき納豆や梅干しがむしょうに食べたくなった。

 二〇一一年にこの町を再訪したとき、あのきれいだったアパートはなくなっていた。たった二〇年で。坂の中腹には「外国人移民センター」と書かれた立派な建物が建ち、町は清潔になっていた。だから韓国ドラマ「マイ・ディア・ミスター~私のおじさん」を二〇二三年に三度もくりかえし見たとき、幻を見たような気がした。月に近い町はまだあったのか? 町々は猛スピードで再開発が進んだ。
 ノーベル文学賞も受けて勢いある韓国文学の中で、再開発をめぐるモダニズム小説『小人が打ち上げた小さなボール』(チョ・セヒ、斎藤真理子訳 河出書房新社)は韓国で独裁政権の時代から半世紀も読み継がれている名作だ。訳もすばらしい。歴史の傷あとを記録し社会と接続すると同時に、物語の森を深化させ続ける韓国の詩人や作家たち、そして翻訳者たちをリスペクトする。

 二〇二五年春に職場を退職して、三〇年ぶりに取り組んでいることがいくつかある。この詩集をまとめること、クルマの運転、そして。美しい韓国語を学び直して、また言葉にかかわることをしようかな。人に伝えると実現するから、書いておきます。







    【歌芝居 の うた】

子どものころから、道を歩きながら歌を作るのが好きでした。好きなことは、楽しい時も悲しい時もわたしを支えてくれました。歌を作っているとご飯を食べるのを忘れ、気がつくと赤ん坊がわんわん泣いていることもありました。ハラヘッタ、と。

芝居のために書いたというわけではなく、四〇代のとき仲間と表現の小さな場をあれこれ作るなかで、歌うのに稽古していたら師匠が「あなたの歌芝居ですね」とおっしゃったので。

初めの三篇は詞とメロディが同時に口から出てきたものでした。「勲章」は一九四五年に戦争で亡くなった詩人・竹内浩三さんの随筆を読み、ソングにと構成したものです。


  ストリート婆のうた


もしも生まれかわったなら
なんになっているでしょう
あたしはストリートオルガンのおばあさん
手回しでうたを鳴らして歩くよ

オルガンはときどき屋台に早変わり
ビールはいかが、なんて言ってさ
つまみはないけど 話のメニューを
ごらんください 夜のとびら開けましょう
 
     ♪

人にこがれることも 恨むことも
いいかげん卒業できるかしら
あたしはストリートオルガンのおばあさん
それでもおじいさんをさがしてるかも

おばあさんは愛した人たちを思い出し
数々の罪をざんげする
お願い あたしを地獄に落とさないで
生まれ変わったら償いはさせとくれ

こがれ つながった人々の海の中
ただようの 夕日の赤を浴びて
あたしはストリートオルガンのおばあさん
道で会ったらおはよう、って言ってよ
日が落ちてもおはよう、って言うから

こがれ つながった人々の海の中
ただようの 夕日の赤を浴びて
※あたしはストリートオルガンのおばあさん
手回しでうたを鳴らして歩くよ
(リフレイン)              (二〇〇二年)


  からまりうた

からだは からから からまって
こころは からから かわいてる
あなたに からから からまりたくて
ころげるからだを おさえてる
あたしは まりだ

こんな日にもしもあなたに遭ったら
あたしはほねまでたべたくなる
だからあなたは身をかくしているのかしら
あなたの身も耳も ほねまでたべる
むしゃむしゃむしゃむしゃ
ああおいしい
逃げないように
戸だなのなかに しまっておこう

 あんたがたどこさ ひごさ
  ひごどこさ くまもとさ
  くまもとどこさ せんばさ
  せんばやまには たぬきがおってさ
  それをりょうしがてっぽうで撃ってさ
  煮てさ 焼いてさ 喰ってさ


あたしのまりが
からから ころころ ころがっていく
うたがながれる
まちがながれる
あいなんてなくても人は生きる
でもあいがほしいよ
からまりうた
         (二〇〇七年)


  いっぱい金魚

ねぇ、雨の日は金魚のにおいがするって
なっちゃんが言いました
ほら今日は大雨 町じゅうが水びたし
水たまりで金魚がぴちぴち 踊っています

あたしの金魚はおなかいっぱいで
日に日におなかがふくれます
もうパンクしそうなのにもっともっとと
えさが降る 雨が降る
もうなんにもいらない

いっぱいいっぱいの
金魚は旅に出ます
雨の晩にひらひら尾ひれを光らせて

大雨がやむ前に出かけます
パソコンもケイタイも濡れてしまった
だれも金魚をさがせない
もうやっかいなことは追いかけてこない

安心しきって泳いだら
おなかがすきました
おなかがすくってきもちがいいのね

思いがけず 旅のとちゅうで
古い友だちに会いました
おやおや あなたは亡くなったはず
いえいえ もう一度出てきたよ
青春十八切符があったから
途中までいっしょに行きましょう

友だちがなんだか増えてきました
楽しくて金魚は眠れない

金魚が一匹 金魚が二匹 金魚が三匹……
すばらしい金魚のみなさん
本日はやっかいな夜会へようこそ
               (二〇〇八年)


  勲 章

勲章を初めてもらった彼は すぐさま恋人に見せに行った
彼女は大きな目をくりくりさせて「まあきれい」そう言った
手柄話をたずねもせずに彼女はひとこと「くださらない?」と言った
「あなたのほしいものならなんでもあげたい。けれどこれだけは」

彼は困った顔して“ほまれ”に火をつけ 絵描きの男に見せに行った
男も「ほう、なかなかきれいなものだね」としばらく眺めていた
そしてお義理で言うように「どんな手柄でもらったの」ときいた
彼は手柄話をしながら あじけない気がした

     ♪
かの恋人はほかの男と結婚し 彼は生きる気をなくし死ぬることを考えた
それで戦場ではいつも危険なしごとをやった けれど死ななかった
勲章を増やした彼は 勲章を大切にする女と結婚した
だが妻は彼が無事で帰ることを喜び 勲章には喜ぶふりをした

彼はいつからか勲章をぶら下げて人前に出るのを好まなくなった
だが勲章を並べて一人眺めるのは まだ楽しみなことであった
彼は六一歳で退役し孫は五人 釣りや弓をして暮らした
自分を幸せ者だと思って 大いに満足して暮らした

ある日くだんの絵描きの男に たくさんの勲章を見せた
いまだにぶらぶらしている絵描きは 一つ一つ眺めると言った
「君はまるで勲章をもらうために生きてきたようだ、りっぱだね」
彼は絵描きが帰ってから 急にふさぎ込んでしまった

「おれのしてきたことは たったこれだけのことだったのか」
彼は苦しくなり 病気になってしまった
「くださらない?」と言った昔の恋人の眼が浮かんでは消えた
「やってしまおうか」と考え考え 彼女に会いに出かけた

     ♪
おじいさんとおばあさんになった二人は茶をすすりながら静かにすわった
孫のことなど伝え話し あのときの勲章をおもむろに出した
彼女は手に取ってしばし眺めたが 突然それをぽいっと口に入れた
勲章をなめながら彼女は 大きな目をくりくりさせて笑った

 ■竹内浩三
 一九二一(大正一〇)年-一九四五(昭和二〇)年。詩人。三重県伊勢の生まれ。日本大学専門部映画科に入学、同郷の友人らと同人誌『伊勢文学』を創刊。一九四二年繰上げ卒業、入営。フィリピン・ルソン島で戦死。『竹内浩三全集』(新評論、一九八四年)は「骨のうたう」と「筑波日記」の全二巻からなる。刊行書籍多数。随筆「勲章」は『戦死やあわれ』(岩波現代文庫、二〇〇三年)を参照。











    【初 期 詩 編】














  波乗りハイウェイ

九十九里浜に架かる波乗りハイウェイは
飛ぶことを知った智恵子も遠慮するだろう
あぶなげな橋

ドライバーの目を楽しませるためにか
海に浮かぶ一本のレールを敷くのに
犠牲者は出なかったろうか

今宵 一九八五年如月の
夜を突き刺す雨は
わたしのこころまで滲みてくる

ふたりでいることが
ひとりでいるよりも寂しい
夜のハイウェイ
            (『幻視者』vol.37 に掲載 一九八五年秋)

  高 野 豆 腐

吐息も白い冬の日
ストーブの上で高野豆腐を炊く
ほんのりと椎茸の香る湯気の中に
浮かぶのは遠い国東くにさき半島の寺

私の心が恐れを知らなかったころ
初めてひとり 旅をした
見知らぬ娘に仮の宿を供してくれた
寺で頂いた高野豆腐には
ひとのこころが芯までしみていた

和尚さんと若奥さんとは
比叡山で馴れ初めたという
旅する人に熱い握り飯を出すので
近在の寺からは疎まれた

ごつごつとした岩山に
刻まれた摩崖仏
その土地では
田んぼにも井戸にも便所にも
昔ながらの神様が住んでござった

               (『幻視者』vol.38 に掲載 一九八五年冬)











  あ こ が れ

うす明かりのなかで裂かれていた
女であることとひとになることの
二律背反に

統一された人になれると知ったのは
ずっと後のこと
暗がりのわたしはずるくおろかしく
ときどき女になったり
ときどき人になったりして
すっかり出遅れたのは自分のせい

若い女であることは
皿にのったさしみのように
食われやすく 腐りやすく
自分の肉のにおいに耐え難い日々もあり
女の 自分探しの旅は長い

だがこの長いトンネルを抜けたなら
きっときっと
干潟にそよぐあしのように
青々とつよひとになるのだから

胸よ胸よ
早鐘のように鳴らないで

      (『想像』vol.50に次の「母のじゅずだま」と合せて掲載 一九九〇年一〇月)









  母のじゅずだま

おふろ屋のかえり道
それはいつも
じゅずだまのようなひとときだった

母はそのころ毛沢東の中国にぞっこんで
「中国ではねぇ、みんな家がもらえるのよ」
それはもんくなしにゆめのくに、と
小さな娘は思った
またあるときはひとりごとのように
「全共闘の学生たちのやってること、
あたしは間違ってないと思うんだけどね」

木の葉と追いかけっこし
母と背中の息子と小さな娘は
嬉々として喫茶店サンに入るのだ
娘はいつもスパゲティ・ミートソース
残業とガリ切りに忙しい父をいいことに

若い日の母はいつも学ぶことに飢えていた
学生たちの出入り多い家の台所でたくわえた
焦燥が母の中で煮詰まり沸騰していた
長く専業主婦だったその人が
はじめて厳然と「わたし」を主張するのを見た
四〇過ぎて反撃開始

国交回復前の中国旅行
それから女性史の会に入り
どうして女たちが戦争に協力していったのか
糸車のような作業はつづく
かつて皇国の優等生だった少女の
三〇年をへた悔恨は深く
教科書に墨を塗った日の衝撃を
忘れずにゆっくりと考え、考え直ししながら
高校生になった娘に伝えんと書いた文の数々
それはじゅずだまの一つ一つに糸を通し
くびかざりをつくるような営み

私だけが育ったのではなくてよかった
私だけが育ったのではなくて

この朝もマラソンに太極拳に汗しているだろう
あなたはまこと、持久戦の得意な人
いまでも父を
あまりに愛し
あまりに信じている
それだけがちょっと弱みですけれど

  神仙堂

                    (『想像』六一号に掲載、一九九三年七月)
朝鮮の田舎を旅してごらんよ
だれが植えたのか、村の真ん中に
きまって大きな大きな木がある
この木を人々は神仙堂シンソンダンと呼ぶ

木の下には野良仕事を終えた村人が集う
男たちはマッコリ呑みながら将棋をさし
女たちは笑いさざめきながら花札に興じている
その輪をついと抜け、駆けてくる人がいる

  日本イルボンから来たの? 父さんの話を聞きに?
  ご苦労なことだよ、今さら……

  あたしの父さんはね
  日本に引っぱられたまま行方が知れず
  いまだに祭祀チェサ※をあげることもできないんだよ
  息子を産まなかった母さんは家を出され
  朝鮮戦争で孤児になったあたしは
  顔も知らない父さんと恋しい母さんを思って
  孤児院の隅で泣いて育ったんだ
  あたしのような遺腹子ユボクチャ
  朝鮮にどれほどいることやら

幼かったいばらの日々を映して
銅色にしわんだ顔はくしゃくしゃに歪む
沈黙のしじまに流れる青い言葉が
私の胸に満ちて川となる

その昔、人生の一大事のたびに
人々は神仙堂に向かって祈ったという
相集う、憩いの木の下から
着のみ着のまま連行されもしたという
人々の祈りや叫び、笑いのこだまする

朝鮮の田舎を旅してごらんよ
だれが植えたのか、村の真ん中に
きまって大きな大きな木がある
大陸につづくまぶしい青の
空を千の手で抱きとめるようにして

     ※祭祀(チェサ)……韓国で父母の命日に厳粛に行う法事。正式には四代前の祖先まで、
        命日のたびに行う。



 八月の終わり、韓国の農村では家々の庭という庭に真っ赤な唐辛子が干され、その上には抜けるように青い大陸の空が広がっている。日本ではちょっと見られない青さ。唐辛子の赤との対比は韓国の国旗、太極旗を思わせる。人よりも牛の数のほうが多い村々を回ったのは昨年(一九九二年)夏のことだった。
 神奈川県渉外部国際交流課のしごとで、植民地時代に神奈川県内に住んで働き、集住していた人々を県内の市町村に残る「寄留簿」などの資料からたどっていき、日本で韓国で、生存者や遺族を訪ねて聞き取りをする旅だった。
 どの人も植民地下の、戦争中の苦労、渡日して言葉もわからず金なく友なき異国での苦労を語ったが、予測できなかったのは戦後の暮らしだった。とりわけ強制連行され、軍属として横須賀海軍基地での労働をへて南洋にまで送られた人々の場合には、米軍による艦砲射撃や八・一五以後の飢餓を生き抜いて奇跡的に(日本ではなく朝鮮半島に)帰国しても、からだはボロボロで働けず、病気療養のためにわずかな田畑も手放し、貧困にあえぎつつ今日まで生きてきていた。極限の緊張を強いられたからであろう、少なからぬ人々が精神障害に苦しみ、発作・奇癖などで家族からも疎んじられ、変死した人もあった。
 そうした夫を抱えた女たちの苦労はまた筆舌に尽くしがたい。自分が行商をして夫と子どもたちを食べさせてきたある女性は、私の手をつかむと「頭をさわってみなよ」と言った。長い年月、重い荷物や食べ物をのせて運んできたからだろう、彼女の頭は小さな岩のようにデコボコだった。

  見えない鋏(はさみ)


                    (『詩と思想』vol.38 掲載 一九八七年八月)
見えない鋏を 研ぎつづける女たちがいる
前世紀から ひそやかに
ドイツ製 フランス製 アメリカ製 日本製
といろいろあるけれど
今日は韓国製の鋏のお話を

一九八六年六月に捕われた 
二一歳のクォン・インスクさん
もと名門の女子大生 それから女工になった
東洋の一国にいまや続々現われる
あまたのシモーヌ・ヴェイユのひとり

偽装就業といって捕われ 連夜の取り調べ
取り調べという名の 強姦は文字通り
おお 七〇年のむかし
三・一独立運動に列した女学生らの誇りに
日本官憲のなした報復よ その拷問の伝統よ

インスクさんは獄中から事実を訴えた
父母は泣く 娘は気が狂ったと
父よ母よ ちがうのです
インスクさんの赤く染められた鋏は
無数の女たちの鋏に反射して
いま静謐の闇を破り 響こうとしている

たちきるという行為のあとには
糸の切り口がせつなく滲みる
けれど世界中のあちこちで
ぱちぱちと ぱちぱちと
見えない鋏を使う音がする

今宵ソウルの刑務所で
ぱちぱちと ぱちぱちと
インスクさんの髪にはじける
白い鳳仙花

  あ と が き


 一九八〇年代の終わるころ、赤ん坊を抱えて「家出のしたく」などという詩もどきを書いていました。最小限の荷物は何をもって出るか、など。三浦半島の片隅で、悶々として書いたものを詩人の高良留美子さんに送ると、返信のお手紙をくださいました。メールがなかったころです。「書く言葉の高さと人間の高さとは、等身大に合っていなければなりません。表現は、ひとつ乗り越えたところでなされるとよいかと」。恥ずかしかったです。二〇代は一日一日をやり過ごすのがしごとでした。でも、そうやって自分に付き合ってくれ、声をかけてくれた先達がいらしたことは忘れられません。
 生活に追われて三〇余年たち、高良さんがこの世の方ではなくなった春。ご縁あって故人の蔵書整理に立ち会い、戦後の七〇年間に及ぶ膨大なおしごとに触れました。それからご長女・竹内美穂子さんの開かれた「高良留美子資料室」のお手伝いをする中で、言葉について再考し、この一冊を編みたくなりました。「言葉は長い歴史の中で、書かない人々も含めみんなで作ってきたものなのに、よくない目的で利用されることもある。言葉を人々のもとに取り戻さなければ」という高良さんの声が聞こえてきます。ドキドキします。

 若い日、初めに励ましをいただいたのは詩誌『幻視者』を主宰されていた詩人の武田隆子さん(一九〇九-二〇〇八)でした。一九八〇年代後半には雑誌『詩と思想』の編集長でいらした高良留美子さん(一九三二-二〇二一)を頼りました。一九九〇年代には『想像』をご夫妻で発行されていた羽生槙子さん(一九三〇~)に大変お世話になりました。当時の掲載誌には「あなたの〈神仙堂〉への皆さんの感想です」と丁寧にしたためられた羽生さんからのお手紙もはさまれていました。
 どの方も、時間とこころを費やしてお付き合いくださいました。ありがとうございました。不義理を故人におわびするとともに、自分もしていただいたように在りたく思います。
 お読みくださいました皆様に、謹んで感謝を申し上げます。

                         二〇二五年初夏
                                小園 弥生

■小園 弥生(こぞの・やよい)

一九六一年三月 東京・葛飾柴又生れ
一九六七年 国立市立国立第二小学校入学
一九七三年 横浜市立宮谷小学校卒業
一九七九年 横浜市立大学入学。朝鮮近現代史を学ぶ。
      翌年より横須賀市に住み、市民運動の中で歌を作る。
一九九一年 韓国ソウル高麗大学校に3歳の長女・夏海を連れて留学
一九九三年 横浜市の公益法人に就職
一九九五年 次女・秋帆 生まれる。横浜市に住む。
二〇〇一年~二〇〇九年 詩人・竹内浩三の詩を歌う「歌を届ける旅」を行う
二〇〇四年~二〇〇九年 仲間と「やっかいな夜会」を企画・開催
二〇二五年 退職。『しごとのあしあと1993-2022』をBCCKSにて発刊
      数年通い続けた千葉県安房郡鋸南町に住み始める。

詩集 あかり

2025年5月31日 発行 二版

著  者:小園弥生
発  行:kozonoya文庫

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小園弥生

少しは役に立つかもしれない、でも立たないかもしれない。場づくりは長いこと、そして伝えることはおそるおそる…。低山歩き、歴史と房州石と海に沈む夕日、餃子とビールが好き。

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