第1作目のTomohiko Okazaki's Essayは、僕から、全てのパンクたちに捧げた処女作だった。そして、今回の2作目、Tomohiko Okazaki's EssayⅡはこれから生まれてくる、僕の子供達、そして、未来にいるはずの、僕の子供達に捧げている。当たり前のようで、あれれ、と思ってしまう事、普通に生活していて、盲点になっていること。僕のくだらない、日記のような随筆だが、ここには僕の人生の足跡を残している。僕が灰になっても、パンク魂は無くならない。永遠なる思いに終わりはないと信じて。
二作目の今回の作品は、一作目と同様の気持ちで書いた。そして、少しだけ言いたいことがあるとすれば、これは僕の挑戦で、そして、僕の人生の記録のような気がしている。
何もせずに、このまま終わる人生なのか、何か僕という人間をこの世に刻印したいのか。
何を、ある日、思ったのだろうか、エッセイという文章を書き出した僕がいた。
誰かに言われたわけでもない、天のお告げなんて決してない。だけど、よくわからない衝動に駆られ、書き始めて、二冊目を出そうとしている。
全く売れない、値段なんてつけなくても良いのかもしれないと思ったりしている。どうしようかは、これから考えようと思っている。
書いた以上、多くの人に読んでもらいたいという思いが込み上げてくる。批評や、意見は様々だろう。しかし、僕は書くことを続けていくだろう。
そして、ここに足跡を残すだろう。残った足跡は、消えないことを願いながら。
2025/06/09 Tomohiko Okazaki
たまに、人に嫉妬をする。そりゃ僕は人間だから、基本的に感情がある生き物だと思う。たまに、怒るし、あまり涙しないが、非常に悲しい時もある。それは全部ではないが、他人に対するものが多い。
そこで僕は考えてみた。誰に腹が立ったり、誰に対して、感情が湧くのか。それは、やはり僕に色々なことを言ったり、したりする人が時折いて、それが不快に感じた時だったり、自分が他人の事を羨ましく思える時、人に対して、嫉妬を覚えたりする。
では、誰が、そういうふうに、思っているのか。それは、何を隠そう、その感情を辿っていくと絶対的に、自分にたどり着くのだ。そうではなかろうか。怒り、喜び、悲しみ、楽しみ、つまり、喜怒哀楽の源は自分だろうと。冷静に皆さんも数秒、いや数分考えてみてほしい。誰かといざこざを起こしたり、誰かと喜びを共有した時、そのほかにもこういった感情を他人も持っているのだが、人にそう思っているのは自分だ。
どうして、こういったことを考え始めたかというと、僕は写真や音楽を制作している。それは、この文章も確かに趣味だとはいえ、僕が書いている。他の人もそういった制作を沢山している。すると、素晴らしい作品を見て、嫉妬をしてしまったり、悔しいという感情が湧き起こり、自分もこういったものを作ってみたい、今の状態では制作できないといった、感情が沸き起こることがある。時折それは複雑な感情を呼び起こす。そして、僕は悔しくて、眠れない日々が続いた時期もあった。だけれど、そう思って、何もしなかったら、それは自分が、その感情を持ち続けるだけだと、ある日思った。では、どうして、僕は他人の素晴らしい作品に感動をしているのと同時に、嫉妬したり、凄いと思いながら、打ちのめされる感情を覚えるのか。時には腹立たしく興奮する時もあった。それを自分で分析すると、そういった作品を自分も作ってみたいだけなのだ。そういった感動する作品を。逆にいえば、そういった作品をその時点で制作できない自分に腹が立っていて、自分自身が怒っているのだ。僕はさらに自分を分析していく。その怒りや、感動による嫉妬を唯一、回避できる方法は、自分が制作を今の時点で、できなくても、できるまで制作に向かうことだ。それは時間がいくらかかっても。焦らず、じっくりとだ。何週間、何年かかってもいいだろうと思いながら。それが、きっと、そういった嫉妬を回避できる、しなくなる唯一の僕の方法なのだ。
他の事でもこれは言えるのではないだろうか。僕はあまりそういう事は無いが、可愛い彼女を連れている友人。自慢されることはあるかもしれない。そりゃ、友人が好きで付き合ってる自慢の彼女だ。嫉妬する人は、彼等の中むづましさをみて嫉妬するかもしれない。じゃあ、それで、何かヤケになっても、本当にしょうがないことじゃないだろうかと言い聞かせ、誰が彼らに嫉妬しているか。と先程のように問いかける。それは、彼等が彼等に嫉妬しているわけではなく、自分自身が彼等に嫉妬している。では、どうすれば嫉妬しないかと言う、問いかけをして、それを繰り返す。人によって解答は、彼女と友人が会おうといったら、自分には彼女が今はいないから当分会わない。となるだろうし、色々あるだろう。僕の答えは、あまり嫉妬をそういう色恋沙汰ではしないが、僕の答えは、自分も何らかの形で今の生活が幸せだったら、嫉妬しないと思う。それは、彼女がいなくても、彼等の仲むづまじい姿を見ても、喜ばしく思えてくるような気がする。
こうやって、自分が喜怒哀楽をはじめ、そういった感情を覚えたら、一度立ち止まって、なぜ、そう思う、自分がいるのだろうか。と問いかけ、それを繰り返すと、きっと、自分がどういったことに、感情が動き、沸き起こって、どうすれば、特にマイナス面、、怒り、嫉妬、妬み、悲しみなどが回避できるかに到達するのではないかと思っている。あくまで、それは何度も言うが、そう思っている自分がいるからだ。喜怒哀楽を始め、感情は自分から沸き起こる。絶対だ。他人や自分に対して、自分がそういった感情を持っているのだ。だから、自分を分析して、自分で回避できるようになると、すごく、生きやすくなる。僕はそう思っている。そうやって、生きると、常に、自分がそう思っている、そして、その感情の根源がわかると、あとは自分次第ということになってくるのだ。それは、言わなくてもわかると思うけれど、あまりにも、相手が無茶苦茶だったり、悪かったりすると、それは話し合わないと解決は大抵できない。ただ、相手が悪くなくて、色々な嫉妬や、感情を覚えたら、なぜと自分に問い、自分の感情の根源を辿れば、本当に答えは自分自身が持っているのだと思う。そして、本当に自分自身の解答を見つければいいのではないかと思う。喜怒哀楽の源は自分にあり。まさに、僕はこれをたまに使うのである。自分流儀なのか、意外に歳をとって、僕は気づいたことなんだけれど、皆さんもよければ、自分の感情の旅に出てみてはいかがだろうか。きっと、ポジティブシンキングになるはずだと思う。そして、人生が少し幸せになるかもしれないと思う。僕がそうだから。最後にもう一度言おう、喜怒哀楽の源は自分にあり。そして、素直になってみようと思う自分がいる。
四月の桜咲き乱れる入学の時期、僕は岡山県育英会東京寮という男子学生寮に入寮した。大学に入学する前に。東京は、羽田空港に到着し、みた事もない華やかな人々に目と体を晒し、そして、羽田空港駅から、京浜急行という「くるり」というバンドが歌っていた赤い電車に飛び乗って、品川駅まで行き、改札は見事に沢山あり、連絡口と出口の区別がつかず、最終的にJRの改札口で、駅員さんに出口がわからないと告げ、高輪口に出たいと言ったら、改札口が違ったけれどJR駅の改札から出してくれた。そして、東京は都会だが良いところだとその時から勝手に思い出した。なぜなら、都会の人は、冷たいと聞いていたからだ。噂では、道を聞いても教えてくれないと。。。しかし、真逆だった。道を聞き、地図を見ながら、先程言った、岡山県育英会東京寮にたどり着いた。今も、高輪プリンスホテルの、裏くらいに位置する高輪三丁目にある岡山県人の学生寮だ。まさに、品川駅付近は桜が真っ盛り、僕はそんな時期、野郎に囲まれて新学期が始まった。
そんな、男子寮に入寮し、僕等の時代は先輩と二人部屋で、男子寮を先輩から教えてもらうというシステムだった。入寮し、挨拶を先輩にし、それぞれの部屋へ挨拶回りがあり、そして、大学の入学式を迎え、そして、本当に大学の新学期が始まった。その男子寮で、右往左往しながら、暮らしている時、とある先輩に怒られ、ものは言いようだろうと教わった。同じことを言うのでも、ものは言いようだと。考えてみなさいと。言いかた、一つで、人生を左右する事もあるかもしれないと。そして、それから僕の人生は少しずつ変わっていった。今もそう言った先輩から色々指摘を受けたことを、心に秘めている。
そして、バイトをしながら、学生生活を送り、大学を編入し、数年経って、大学を中退して、社会に出た。そして、学生生活と合わせて、約5、6年で東京生活にピリオドを打って帰郷した。その間、色々なことがあった。その度に、この先輩のものは言いようというのを思い出した。同じ事を言ってるようで、同じではないと。例えば、職場でも度々、「どうして、こういうことになった」とか「そういう事はやめなさい」とか言われることが若い頃は多々あった。こういう言葉を、僕はものは言いようという言葉で、自分なりに解釈してきた。僕がものは言いようということを考えて人にいう事もあれば、言われたことに応用できるのだと重宝した。そういう事をしたからダメだと言われれば、そうしなければダメではないという風に僕は考え、それでもわからなければ、質問をして、納得いくまで、どうしてかを教えてもらう。そうやって僕は社会でもよく怒られてきたが、学んできた。そして、四十一歳になった。
そんな僕も子供に、人に悪いことをしたらダメだと怒る時がある。子供はどうして、自分がしたことが悪いのか納得がいかないという顔をして、僕が彼等を怒っていても、テレビのヒーローが戦うようにやってみたかったし、面白かったと言い出したりする。特に小さい子は、色々な事をいう。じゃあどうして悪いか。ということを、言い方を考えて、子供達に話してみる。時に怒鳴ったり、怒ったりした事もあるが、わからないものに大きな声でダメだと言いっても理解してもらえないと、途中で、自分の説明の力量不足を痛感したことを今でも思い出す。最近は、褒めることも大切だと思い褒めてみている。そして、怒る時も、人を殴ったらダメだという言い方を、人に殴られたら嫌じゃないか、痛くないか。そしたら、人を殴ったらダメじゃないか。人も痛いんじゃないか。と言うと、だいぶ理解を示すようになった。自分が何もしてない人に暴力を振るったことや、気分を害して腹を立てて、暴力を振るう事が悪いと感じるらしいのだ。これはあくまで、子供の例なのだが。非常に、大人より、子供に言う言い方は難しいのではないかと思う。
では、ものは言いよう、どう言う事なのだろうか。僕はこう解釈している。嘘ではない、そして、人を怒らせたり、嫌味のようなことを言わない、言い方次第でそれは可能であるのではなかろうかと。それがものはいいようではなかろうかと思っている。ここで例をあげて説明しようと思ったが、自分でもその時々の対応や言い方には気を配り、気分や感情があるものなので、まずは、丁寧に人の話を聞き、傷つけないように人には言おうと心がけている。そして、きつい言い方をされたり、激しく罵られたりした時、僕は逆にその言葉の裏側があると言いたい。人に、「だからお前は馬鹿なんだよ」と言われた時、そういう事をしなければ、そうでなければ馬鹿じゃないと受け止め、そう言われないように努力をしているつもりだ。大概、人が馬鹿だと真剣に言う時は、自分がその人に対して馬鹿げたことをしているわけで、友人でも知人でも大切にしようと思ったら、それは自分のしたことを改なおし、反省をして、謝り、きっちりと付き合っていくのが人を大切にしていることではなかろうかと思うのである。そう言った事でも、ものは言いようだと思うのだ。喧嘩や、揉め事を起こさない、嘘でもない、それはまさに、難しいかもしれないが、素敵なことだと思い、ここに書いた。自分が言う言い方も、受け止め方も、ものは言いよう、考えようとはこういう事かと、心に秘め、ポジティブシンキングに生きていこうと思う。人は間違い、そして、反省し、良くなっていくものだと僕は自分を含めて思うから。歳をとるにつれ、素敵になっていきたい、そうい生き方に憧れ、梅雨が始まった季節のじめじめ感を感じながら綴っている。
困った時、何か悩んだ時、考える時、人は選択肢を色々持っている。本を読んで調べる、人に相談して聞いてみる、自分で今までの経験を元に考えてみる。その他にも探してみれば色々な方法があるだろう。
過去に、僕は、相談というものが非常に好きだった。何かあると、世間話や、相談というものを電話やメールを送り、話したい人と会い、そして、お茶をしながら、だらだらと、ゆるゆると話す。それが、趣味みたいなものだった。人と話すと、自分にあるものも、ないものも、自分と似ていると言われる人でも、違う視点、違う考えがあるのだなと思わずにはいられなくて、人に会って、話したり、遊んだり、酒を飲める年齢になると居酒屋で談義とは言わなくても、会話を交わす事が好きでしょうがなかった。違うから嫌になる時もあるかもしれないが、他人と自分が違う考えを持っているから面白いと僕は思っている。
さて、相談をすることは、いいのか、悪いのかは別にして、自分の事は、歳をとるにつれて相談を、しなくなった。理由としては、自分の心だったり、自分の頭の中にある事、自分の考えも含め、自ら責任を持って決めるのがいいと思い出したからだ。もし、一人で情報や、参考例があまりなかったら、本屋やネットで書籍を選び、読んで、一冊本を読むことで自分自身の事がよく理解できなかったら、二冊、三冊と読んでいき、時間をかける時は時間をかけて考え、決めることにしている。何事も迅速に決めたかった若い頃、人生に焦っていたのだなと改め直した次第である。まさに、時間をかけて反省をした次第である。反省も、丁寧に、なぜ自分がそういった事をしたかと時間をかけて考えることで、また、再び失敗しそうな時があったときに、これまで、前例があって、自分は反省をきっちりとしたことは後々生きてくると思うのである。もし、自分に困難が降りかかってきた時、対応として、失敗しないように対応をするようになるのである。自分の失敗を二度と繰り返さないように、省み考えることが反省ではないかと痛感したのである。反省を疎かにすると、後でまた失敗を繰り返してしまう可能性が高くなるのは僕も経験済みなのである。そういった、経験も含め、自分の事は自分で決める。なぜなら、自分の事や、答えは自分の中にあるからだと先ほども言った次第である。僕はこういうことに気づくまで、三年くらいかかった。今まで相談していた人に、電話や会って相談してもしっくりとこない。どうすればいいか、考え抜いて、やはり自分が納得いく事は、自分で時間がかかっても決めるようにして、相談はほとんどしなくなった。また、もう一つ、相談をしなくなった理由がある。それは、学生時代、自由になる時間は多かったが、仕事を始めて、時間を割いて会ってもらうことが少し大人になって、悪い気がしたからだ。相手に忙しい時間を縫って貰って会う。結婚して家族ができれば、それは、更に家族に使う時間が休日などは多くなるだろう。そう言った、それぞれの生活を考えると、あまり、相談や雑談も含めたものは、本当に困った時や、時間を割いて貰って話すことはやめようと思ったからだ。そして、先程言った、自分の事は、相談などを持ちかけず、自分で考え、自分で調べ、自分でその時々の解答を出すという事になっていくのだけれども。
さて、結局の所、繰り返しになるが、相談という事について書いてはいるが、相談はなぜするかという話になって、自分は相談についてどう考えるか、思っているかという事を綴りたい訳で。そういう事なので、相談というものは、自分の事ではないことで僕は極力したほうがいいと思っている。それは、色々意見や考えはあるかもしれないが、自分の事、自分の人生は自分で責任を持てるのが一番いいと思っているからだ。それは、大人として。そうではなかろうか。自分の事を、逆に人に聞いても、自分の事は自分が一番わかっているのではないだろうか。寧ろ、自分の事を自分が一番わかっていなければいけないのではなかろうかと僕は思うのである。それが、自分の事と相談についての僕の見解である。そのことがわかった上で、自分に素直になることが大切なのではないかと自負している。これは僕のとっておきの考えだ。色々考えはあるかもしれないが。そして、相談をするとしても、考え抜くだけ考えて、相談を持ち掛けないと、相手が本気で相談に乗ってくれてると、失礼ではないかという考えも僕にはある。それが、個人的な相談、自分の事における相談の僕のマナーみたいなものだと思っている。
最後に、逆に会社の事や、組織の事は、一人よりも、二人、三人と協力して、相談して力を合わせて、考えること。これは、新たなものを生み出したり、1+1=2以上の結果がもたらされるものになるのではないかと僕は思うのである。他分野、同分野問わず、相談して、力を合わせ、あの手この手でものを作ったり、考えを捻り出す。これは非常に有効だと思う。相談、それは、本当に素晴らしいものだと思うと同時に、自分をきっちりと把握し、理解して、するものだと思うのである。それが、新たなものを生み出すことを知っているからである。
読書が嫌いな少年時代を過ごした。小学校とか中学校とか教科書もあまり興味がない時があった。それは、興味がない物をあまり読まない、自分の経験と知識と興味で理解できること、理解したいこと以外はどうでもいい少年だった。字も勉強して、文章も学校で勉強していた。読もうと思ったら、読んで、書こうと思ったら、学校で習っていて、書けた。漫画は、今でいう、表紙の絵に興味があり、ビジュアル面に魅かれた。内容は、その漫画を買っても読まない始末。物語とかそういうもの自体に興味がなく、滅法絵に興味があった。そんな少年時代だった。
それから、中学、高校と、興味があるものに魅かれていった。小学校の時に事故に遭い、剣道をしていたお医者さんが僕を助けてくれたことをきっかけに、外科医を目指した小学生時代、そして、釣りや魚を近所の川や用水路で追いかけ回し、魚に興味を持ったこと。それが、中学時代に、現れ出した。いまだに思い出す、本。それは、「ゴンベッサよ永遠に」という古代魚である、シーラカンスをアフリカで発見したという本と、そして、「死体は語る」という法医学の本だった。そして、中学後半、高校に入学し、何か難しい、自分が手の届かないけれど、その頃は興味に魅かれて、購入した本がある。全部読めなかったが、「文藝春秋」という雑誌と、「相対性理論」の本だった。全くではないが、中学の基礎的なものを踏まえ、立ち読みして買ったが、理解できる所と、できない所があり、途中挫折した。高校時代、漫画は、しこたま、昼食代を削って集め、夢中で読んだ。やっと、自分が漫画のストーリーを理解して読める年になっていたのだろう。逆に、ストーリーが少年時代には理解できなかっただろうと今振り返って、情けないがそう思うのだ。高校生になってから漫画だったり、本だったり、以前より全然面白くなったこと、夢中になったことを思いだす。
さて、ここまで来て、僕の本に対する知識ではなく、今現在の、本自体に対する、感想だったり、考えをシンプルにここに綴ろうと思う。まず、本って何だ。ということに対して、出版物である。出版物ってのは、多くの人に書き手が読んで欲しいとか、出版社の人が読んで欲しいという思いだったり、この本は売れると思って行ってる活動だろう。出版の歴史云々はここでの説明は省こう。では、本って色々な事が知れるものだと思う。物語も、新書的なものも。つまり、物語だったり、そういった、知識的な事を知ってる人や、作る人が何かを伝えたくて文字で書いて、伝えているものだと。そういった、物を、中古でも、新品でも僕等は購入できる社会にいる。それは、感動に匹敵することではないかと思ったりするのだけれど。すごく、勉強した教授だとか、先生とか言われる作家が、これだと思うものを本に書く。それが、遠くに離れていても、読めたり、読むことができて、知ったり、それをもとに考えたり、勉強できたりする。やっぱり、僕は感動する。幼少の頃はそういったことを考えなかったけれど、本も雑誌も、漫画もそういった物だと思ったら、感動する。素敵だなと思う。
さて、ここまで書いて、僕はどういった感じで、今、本を読むかという、ちょっとした僕の読書の仕方みたいなのをここにあげようと思う。読書術とかそういう物ではないことは確かだ。僕の、本の選び方は、前までは本屋に行って、表紙をザーッとみる、今はネットで、タイトルとちょっとした説明を画像で見る。そして、本屋を巡るように、ネットを巡り続ける。そして、心が動くタイトルのものを中古で安かったらチェックを入れて、購入予定か購入していく。買った本は気分で読んでいくと言う贅沢な読書をしている。これが僕の本の購入の仕方だ。以前は図書館を使用していたが、扱いが自分のものではないという事で神経質になったり、自由に読みたいときに読めるということ、そして、返却しなくていいと言う理由で、図書館は最近滅法、利用していない。心が動いた本を、気分で、自分の購入した本の中から、この本を読むというタイミングで読んでいく。例えば、「肉食文化の歴史」と言う本があって、これは読んだら、色々肉食文化がわかると思ったら、それを購入する。そして、寝かすこともあれば、数年読まず、その時にすぐに読みたかったら、読み始める。いくら、難しい本だったりしても、読み始めたら、基本的には一回は最後まで読むのが、最近の自分流儀だ。もちろん、本の隅から隅まで読む。はじめにも、目次も、おわりに、そして、気分が乗ったら、本の紹介なども読む。やはり、そうやって、本を読むのがいいと思う。昔は、はじめに、おわりにとか読まなかったが、読まないとわからない本もあることを発見して、読むことにしている。そうやって、人が大切に書いた本を、大切に基本的には理解しようとして読む。そして、学校で習ってきた事なのだが、本を読みながら、僕はその作家と会話する。その文章によって、自問自答する。ここは、僕は理解できる感情だ、ここは理解できない文章だ、どうして、こういう考えなのだろう。などと。それが、僕の一人の本を読む楽しみだ。つまり、物語も、そういった、新書的な知識を得る本も、全部、僕は自問自答している。その本の言葉や、キーワードの意味や歴史の流れなどがわからないから、今度は違う本、入門書を買ってみようと。本が先生だと言う人がいたが、それは確かだと思う。先生が書いている本ということもあるけれど。
ざっと、本と読書と言うことについて書いたが、まとめると、本ってのは先生が書いた出版物で、そして、そこに価値がついて売っていて、その先生たちは、きっと人生の先輩だったり、色々な経験をしている青年だったり、何らかのことで人の感情が動くことをしている人で、それを本という形で世の中に出して、出されていて、僕等読者は購入して、遠くにいても、ネットがある今、基本的にどこにいても読めるというのは凄い事と思うのだ。わかりやすく一つの例でいうと、日本の誰でも入れない大学に入って、猛勉強して、海外へ留学して、研究してる研究者の先生の本が、千円で買えて、読めるってことが、凄いことだと僕は思っている。僕にはできないことだと思う。だけど、その先生の考えだったり、知識がその本で読める。本当に勉強になると思う。物語で言うと、その作家の先生が紡ぎ出した物語が読めるのだ。本当に、凄い事だと思ってしまう。
最後に、退職間近の高校の先生が「若い時にもっと本を読んでおけばと思いました」と、授業で言った言葉を、僕は本を読み出して、何度も思い出す。こういうことだったのかと。そして、死ぬまで、読書をライフワークにしていきたいと思ったのである。少年時代とは裏腹に。
僕は、人よりもバカだとよく人から言われていた。面白いことが好きという事と、バカという事を重ねられているのか、心底バカだと思われていたのかは今になって恐ろしい事だが、解らない。そりゃ、知的に面白いと言われず、ひょうきんにして人から笑いを取るということをしていたら、勘違いはされるかもしれない。まあ、個人毎だからそれは、それとしたい所なのだが。
そんな僕も、ある日、大人になってしまって、あまりにもバカだと言われることに、嫌気が差す小さな芽生えが出て来始めた。そして、勉強をしてないと、人から言われ、怒られ、いい加減にしろとまで言われ始め、その芽は伸びていった。そこで、教育ってのは何なんだろうと、学ぶということはどういう事なんだろうか。という事を学び出した。二十代半ばを過ぎた辺りの事だったと思う。
それから、まず、自分が学んできた幼稚園、小学校、中学校、高校、大学とどういうことで、どういうものなのかを考え始めた。たとえば、とある子供と話していて、割り算の÷というこの記号と、そして、計算。たとえば、4÷2=2というのはなぜかという質問をされた。僕は、最初、当たり前にそうなると思い込んでいた。
「4を二つに割ったら2でしょ」と、その子に言った。その子は、なぜと言う顔をして、 「4を二つに割ったら、2と2もあるけれど、3と1にもなると」と言った。僕は、少し時間をかけて考え、応えた、
「そうだね、それはそうだ。均等に、同じように分ける、割るという記号が÷なんだね」と。僕はこの子供に学ばされた。その質問がなければ、きっと、こういう事は考えなかっただろう。気づきもしなかっただろう。学ぶという事、それは、教えられている側から学ばされることも多々あると言う事だろう。高校の時に先生がいい質問ですねと言ってた事を思い出し、先生も生徒から学び、先生からも生徒は学ぶと言う、学問の姿勢みたいな事に僕は気づかずに若い頃は生きて来ていたのだ。だからこそ、大人になってこういうことを思い出して、やっとわかってきたのだ。 次に、偏差値をはじめ、受験戦争なんて言われた時代の僕等の教育を勝手に振り返ってみた。テストで模擬試験で出る偏差値、そして、そのテストというそのもの自体を。テストの点数によって、いじめまで起こるという社会にいた僕等の世代。テストというものは何なんだと。人によっては、競争のツールだという人もいる。しかし、冷静に僕は考えてみた。「できなかったところは、後で復習してきっちりできるようにしときなさい」と、言う先生。それまでの、テスト勉強も毎日の予習、復習をきっちりとしていれば、テスト期間は、ゆっくり体調を整えて寝ていればいいと言われ、日頃の勉強をしてないから、テスト期間中に焦って一夜漬けをしなくてはいけない。と、面白く先生は言っていた。そして、そこで本題に入ろう。テストとは、一体、何なのかを。僕は考えてみて、先生が言ってるように、勉強に対する理解をしているかという自己確認のツールだという答えを出した。それだけなのではないかと思うのだ。自分が、どれだけ、科目別に理解していて、質問に対して、回答できるかという事以外にないと思うのだ。だから、間違ったら復習して、できるようにすればいいと先生は言うのだ。言われても、その時、僕は復習もしなかったし、先生の言っていた事に対して考えもしなかった高校生で、勉強熱心な学生ではなかった。しかし、テストを競争のツールと言われるのも受験などで解らない訳ではないが、きっちりと考えると、やはり、自分がテストを受けて、答えるわけで、これはやはり自己理解確認のツールであると言う僕の見解に至ったのだ。こう言う風に考えると、イジメだったり、競争によっておこる問題というものは回避できるのではなかろうかと思ったのだ。それは僕が先生の言ってることをきっちり理解してなかっただけかもしれないけれど。受験戦争とか言う言葉は今や死後になっているのかもしれない。他人と戦ってるようで、自分がきっちりできればいいのではないかと言う考えになると、そんな言葉は無くなるのである。これは、スポーツや芸術の自分との戦いに少し近いところもある。そうではなかろうかと。
さて、そのほかにも色々とあるのだが、教育というものは人を育てることである。良い行い、悪い行い、そう言ったものは社会に出る子供達に非常に多くの生きていく事を、教えているのだろう。科目もそう言った一部だと僕は捉えている。じっくり、ダイナミックではなく、ミニマルに自分においての勉強、学校というものを大人になって今一度立ち止まって、考えてみる僕がいたのだ。学んだこと、先生、友人、先輩、後輩、それにまつわる親達。そして、それをミニマルに捉え、考え、結局、テストのように、全て、自分に跳ね返ってくる世界ではなかろうかと。そう思うのである。きっちり学び、考えること、そして、生きていく事、その教育。非常に難しい事だと思うのである。学びは学びを作り上げていき、そして、社会を形成する土台となり、そして、それが国家になり、世界になり、そして、その元は個である。個がきっちりと学び、そして、考え、豊かになっていくことこそ、国が豊かになると。そして、教育はその根幹であると痛切に感じてきている四十一歳の田植え真っ只中の初夏の午後なのである。
自分で初めたことは、なんでもいいから続けて見なさい。よく、聞く言葉ではないだろうか。どうして、親や、先生、人はこう言ったことを僕等にいってきたのだろうか。そして、どうして、僕もここにこうやって書こうとしているのか。
僕達が、してきている日々の生活、それは続いていっているものではなかろうか。続けるとそれは日常の生活になり、朝起きて、ご飯をたべて、歯を磨き、顔を洗い、お風呂に入って、夜寝る、ざっと、色々な生活のスタイルがあれど、こういった感じになるのではないだろうか。その間の時間は、仕事をしたり、学校に行ったり、勉強をしたり、趣味をしたり、遊んだり、ぼーっとしてたりするのではなかろうか。僕達の日常というものはそう言ったもので、それは当たり前という行動をとって、成り立っているのではないだろうか。では、当たり前にしている行動とはどう言ったものだろうか。先程言った、日常の当たり前という生活はどうやってできるようになっていくのだろうか。それは、大人ならわかるだろう。毎日、毎日、同じようで同じではないことを繰り返し、それが日常の生活の当たり前になっていくのではないだろうか。そういう事をしたくてしている、したくなくてもしているという感覚もなく。
さて、ここで、勉強にしても、スポーツにしても、芸術だったり、趣味にしても、継続をするということは、何か日常の当たり前の生活とは違うことのような気がするが、花を育て、毎日水をやる習慣一つにとっても、それは当てはまるのではないかと思うのである。趣味にしても、それを続けていくことで、例えば、読書を1ヶ月、一年、十年と続けていくことで、人は変わっていくのではないかと思うのである。それは、できればいい方向に変わっていけばいいということで、若しくは極力悪い方に行かなければと願うのだが。基本的に趣味で悪い方向に生きていっているという事を周囲では、あまり聞いた事がない。三日坊主という話があるが、三日、三日も経たないうちにやめてしまうという事だが、それはそれで、やってはいけないことではないと思うのである。ただ、何か興味を持って、やり初めたことは、趣味でも、仕事でも継続をすると違うことはこの歳になってわかってきたのである。もっぱら、僕は趣味を続けてきた上での話だが。仕事は、全然続かない若き頃を送った。職業を転々として、右往左往しながら、今の年齢に達している。しかし、趣味は継続できるだけしてきて、やはり、十年前よりは今の方が全然、作品も、やっていることもまともになってきていることは確かだと思っている。やってみて、継続は力なりと言える事をやっと最近知った。音楽は幼少の頃から、物心つく前からピアノを中学の卒業まで習い、音楽は日常で好きで聴き続け、そして、今も音楽を聴きき続けている。作詞作曲は書き始めて、来年で十年が来ようとしている。その間、作詞作曲した曲は、120曲余り。写真も子供の頃からカメラが家にあり、パシャパシャやっていたが、一七歳になった高校生の時、趣味として好きになり、今、四十一歳なので、二十四年目になる。写真の専門学校は卒業したし、それにまつわる文献や写真集を見るのが趣味で、そして、撮影も昔よりは遥かに上手くなったり、伝えたいことを伝えれるようになった。それは、やはり、継続をして、長い年月、写真について、知りたい、考えたい、技術的に上手くなりたいという思いと、行動で、今の僕と写真との関係があるのだと思う。その他にも、スポーツでは剣道を十年以上してきて、大学生の時に右足首の靭帯を切って、完治しないということで、引退した。はっきり言って、嫌いではなく、体を壊さなかったら、辞める気はなかった。そのほかにも多趣味な僕は色々続けているもの、続けていきたいものが年齢と共に増えてきているのだけれど。この辺で趣味の話はやめておこう。
さて、ここまで書いてきて、本題の「継続は力なり」という事がいいことではないかという事を言いたいのである。若かりし頃は、まだ、継続をしてなくて、継続は力なりという事も実感できなかった僕がいた。しかし、継続をしていくことで、そのことが全く悪いことではないことがはっきりしてきて、好きこそものの上手なれと合わせると非常に相性が良いのではないかと思っている。肩の力を抜き、趣味をする時は趣味以外の事を極力考えず、ただ、ひたむきに、自分の理想や、憧れの作品や、模範とするものにまずは向かっていく。そして、段々と、継続することにより、その形ははっきりとしてきて、そして、自分の形というものを表していけるのではないかと思うのである。継続は力なり、ローマは一日にして成らず。継続して見えるものはあると思い始めたのが三十歳前後。やはり、三年が一つの目安で、十年が一区切りと言われて、今、二十年以上が経とうとしている趣味が何個もある。こればかりは、年月を続けるという事は、年齢も関係してくるわけで。やっと、四十一歳になって、継続は力なり、好きこそものの上手なりがわかってきた次第である。まさに、好きな事を、自分が続ける幸せを続けていく幸せを味わえ始めた今日この頃である。
リーマンショックから、精神病が増えたという時代があった。本当にリーマンショックである。ショックが強過ぎたことがあって、僕もその時代、幻聴、幻覚が聞こえたり、見えたりしてきた。最初は、何なのか解らない。電話をしていたり、部屋に一人いるときも、何か笑い声や、「おいおい」と、ツッコミが入るような声が聞こえてくる。誰かに見られているような違和感が起こってくる。そして、違和感は自分の不快感につながり、ストレスになってくる。何なんだろうと思っていると、また、さらに幻聴と言われる、聞こえてくるものは激しくなっていき、自分に対する会話のようになってくる。幻覚と言われるものは現実に見えるようになり、人が自分を攻撃したり、透明で見える人間のようなものが、自分を刺したり、拳銃で打ったりするような感覚を覚え、痛みが少し出始める。これが僕の統合失調症の始まりの話である。
病気とわからず、東京で生活をしていた。どんどん、テレビやラジオまでもが、自分に何かメッセージを発しているように聞こえてきだす。いや、むしろ、自分にだけの放送のような気がしてくる。映画を見ても、何か、自分の事のように思えてきて、映画の俳優や女優が言ってることが、自分に降りかかるようにセリフが心に突き刺さり、全身に響くようにガツンと伝わり、自分に向かってだけ、言ってるような感覚を覚える。どこにいても、自分は監視されてるような気がして、そして、本当に幻聴と言われるものが、自分を常に見ているように、自分しか知らないことも、一人で行った場所も、何もかもお見通しだと言ってくる。そのうち、それは、自分が思った事も、手にとるようにわかっているとばかりに言われるような幻聴に襲われる。そして、何かあれば、黒い影のような人や、見たこともない人、見たことある人が、透明で服の色が付くくらいの感じで、僕に話しかけたり、ひどい時は攻撃し、それが、段々と人間ではなくなってくる。動物の時もあれば、全く見た事もない怪獣の世界もある。時に、それは優しく、ファンタジックであり、SFの近未来、未来的な世界を構築してるが如く、自分が過去に取り残された人間のように感じる世界で生きていく時もある。狂うような、聞いたことも、見た事もない世界、世界観というものを体感する。より現実、もしくは現実に近い形でそれは起こる。こういう、ことが起こるのが、先程言った、私の統合失調症のさらに進んだ状態なのである。
帰郷した私は、進んだ状態の真っ只中にいた。とある日に、先輩と遊んで、不思議にそのことを先輩と会話した僕は、先輩に統合失調症という病気なのではないかと、告げられ、帰宅して、親にこういう事を先輩に言われたと言うと、親の顔は暗くなり、
「様子がおかしいから、あなたの代わりにお医者さんをずっと回っていたの。それで、あなたは病気らしく、先輩が言っている統合失調症なの。黙って、そっとしとこうと思ったけれど、時期が来たらメンタルクリニックの先生のところに貴方もいきましょう。」と言い始めた。統合失調症をそれから先生と話したり、本を読んだり、ネットで調べたところ、昔の分裂病という病気らしく、精神病で、結構難病だということがわかった。昔は、解明ができなく、精神病棟、もしくは牢屋に入れられた病気だとういうこともわかり始めた。通院していたメンタルクリニックの医師にも「僕の発病とこの統合失調症という病気が一生治らないこと、そして、社会復帰は無理だと思ってください」と、告げられ、最初は、まさかと軽く思っていた僕なのだが。どうも、変わった病気だという事を周囲はわかるみたいで、僕は、数年経ってから、自分の精神病としての、統合失調症にかかっていることが、自分が健康状態に治らないことが悔しくて、自分でこの病気を分析し始めた。情報をネットや本で収集し、医師とも話、同じ病気の患者さんとも、ネットワークがある、ウェブなどで連絡をとり、色々な情報を手に入れた。
まず、統合失調症という病気は、精神病であると、自分で再認識した。精神の病である。つまり、精神というものがどうなれば自分は良くなり、そして、状態が時に悪くなるのか。その治し方は、二通りある事も、精神病の本で確認した。一つは、アメリカ合衆国で考えられた、方式で、精神病のパターン、行動だったり、色々と起こる作用を形式化して、それに対する、薬の投与を考える方法。もう一つは、有名な、フロイトが考えた精神分析という、精神科医が患者と話をして、精神状態を分析し、そして、精神がどうなれば、病ではなくなっていくかを考える精神分析という方法である。前は、形式的に当てはめ、薬で治すという方法。一方、精神分析はお家柄と書いてあり、医師によって判断が全く違うものになると書かれてあった。私は個人的に後者の精神分析を自分でも行ってみたのである。自分は自分の事を一番わかっている人間であり、そして、自分がどうなったらどうなっていくかという精神を分析してみたのである。僕に関して言えば、当たり前のことなのだが、明るく生きれば、精神は前向きになり、苦しいことや、暗いことばかり、考え続けると、やはり、精神も病んでいくのである。これは、やはり、ショックとでもいうべきことが大きいと多大に影響することがある。それは、医師も、そういう事を言っていた。じゃあ、どうすれば治るか。精神力を鍛え、自分を分析する事だと僕は思うのである。当たり前のようだが、ショックになったり、暗くなること、不安になることを自分で回避していく行動を取ること、これがまず一つではないかと思うのだ。また、自分がポジティブになること。そういった事を増やしていくこと、趣味でもなんでもいいと僕は思っている。こういったものは、心、精神の動きが大きくなることではないかと僕は思っている。精神のキャパシティーを超えることをやっていくと精神病は起きるのではないかと僕は思うのだ。また、それに対する、人間としての慣れていかなくてはいけないこと、ナイーブな人がかかりやすいと言われるが、精神的に慣れることは慣れていくようにする事がポイントではないかと思う。そして、肉体と精神はつながっていると僕は思う。医師もよくいうのだが、健全な早寝、早起きや、自分の家や部屋を掃除することを薦められる。これは最初、僕も何がどうして、掃除だったりをしなくてはいけないのかと思ったが、心の整理みたいなもので、綺麗に部屋をすることで、普通の人は気持ちよくなり、整理整頓をすると、本当に気持ちが変わってくることがわかった。医師の言ってることを甘くみてはいけないと痛感した。また、早寝、早起きのような自分の健康管理なのだが、これは、私的に、自分の好きな時間帯で、好きなようにやりながら、徐々に慣らすことが僕はおすすめだ。自由にする事を徐々に生活習慣に溶け込ませ、綺麗に混ぜていって、整えていく。美味しい料理を作るように。無理をせず。ちょっと味が違うと思ったら、調味料を少し加えたり、減らしたりのように、生活をちょっとづつ変えていくことがおすすめだ。僕は若い頃は睡眠時間は平均一日に3、4時間取れば大丈夫だった人で基本、朝は弱く、夜型だったが、今や、朝は4、5時に起きて、夜は適度な時間帯に寝るようにしている。そういった努力をする気持ちは必要だと思う。だが、自由にやることがここでは本当にキーワードだ。あとは、医師やそう言ったアドバイス的な本を調べ、自分の状態が良くなる方法をいかに、意識して、少しでもやってみようと前向きになれるかだと思う。ここがもう一つのポイントだと僕は思う。
僕もかれこれ、統合失調症と付き合って、二十年くらいになる。色々感じたり、考えることはあれど、最後にもう一つ思っていることをここに挙げて、終わろうと思う。統合失調という病気はもっと認知されればいいのではないかと思うこと。例えば、風邪だったり、昔は、インフルエンザとかも死に至病だと言われていた時代があったわけで、時代と共に認知され、軽い感じになってくれば、僕も含めた精神病の人などは非常に生きやすい世の中になるのではないかと思うのである。今まで、難病だとか言われてきたものが、時代と共に医療の進化と研究で治る病気になっていったように。精神科医の色々なセミナーだったり、講演が最近多くなってきているというのも聞いている昨今。僕も少しは役にたったりしないかと、自分を棚に上げず、統合失調症というものが治らないかと思いながら、一人の人間として、意見をここに書かせてもらったのである。肉体も精神も健康なのがやはり一番と思いながら、少し四十一歳という年齢のせいにしたりして、早朝に書いてみた今日のことである。
少なからず、僕はものづくりの端くれもしくはその端くれくらいにいるつもりの人間だ。「ものづくり」という事をしていて、僕は今どう思い、人にものを作るという事を、勧めようとしているかというと、それは、周囲をまず見回して、見てほしい。僕の部屋を見て例えると、机にはパソコンがあり、CDやハードディスク、それに、デスクライトがあって、コップでコーヒーを飲みながら、雑誌でも読もうかなんて思っている。これは、全部人が作ったものだ。缶コーヒーの缶もその周囲をラベルでデザインされていて、コーヒー缶を開ける栓も全て人が制作したものではなかろうか。
僕は、個人的に、写真をしたり、ギターを奏でて音楽をしたり、そこに詩を書いて、歌ってみたり、今、パソコンの前に座って文章を綴って見たりしている。それが、本になる事もあれば、音楽がネットを通して配信される事もある。作ったものを誰かがどこかで聞いたり、読んだり、見たりしてるかは解らない。けれど、何かを伝えたかったり、表現しようとしてものを作っている。それは限りなく趣味に僕は近い。プロで机やパソコンや雑誌などを作っている人がいる。だから、僕等はそれに価値を払ってお金を払い買っている。誰もが、すぐにそういったものを制作して、売ることはできないし、すぐに買ってくれるものを作ることはできないから、だからこそ、そこに価値があり、お金を払っているのだろうと僕は思っている。
では、ものづくりをなぜススメたいか。それは、作っている人の気持ちを考えると、ものを大切にできるのではないかと思うからだ。基本的に、小学校の工作でものを作って見たことがある人がいるだろう。絵を描いたり、粘土で置物を作ったり、それを誰かが故意に壊したり、偶然見ていて落としたりしたら、悲しかったり、がっかりしたり、怒りを覚えたことはないだろうか。これぞ、ものを作り、ものを大切にする芽生えのようなものだと僕は思っている。意外に、気づいているようで気づいていない事は沢山ある。色々な人が立ち読みしたり、購入したりする雑誌も、書店やコンビニに置いてる完成しているものをみて当たり前だと思っているかもしれないが、ビルやマンションが建設されるように、本もどういった紙を選び、どう言った大きさで、コンテンツはどういうものにしてと、人が作っている。こういう事を考えると、感動を覚えないだろうか。全く何もない状態から、誰かが、考え、形にしていくという行為。これがものづくりだと。そういった事を仕事にしている人は非常に多いのではないかとも思うのである。そして、ものづくりを覚えると、作ろうとする。自分の手元になければ、作れるなら作ってみるという行為をしだす。これは、本当に、考えるだけという事と違うというか、頭で考え、体を動かして作ってみる。ちょっと体の使い方は違うが、僕はスポーツに似ていると勝手に思っている。どうやって、動くか、考え、そして、考えと体が連動して、一致し出す。こういったものに、ものづくりは似ている。何もないところから、白紙のページさえもないところから、頭の中にあるものを体の外にアウトプットして、形作ることだ。これは、生きることにも、勉強にも、生活にも役に立つのではないかと僕は考えている。それは、クリエーティブな作業で、学んだことをどう発想するかにも繋がるし、考えをアレンジし表現すること、文章もそうだろう、仕事で企画書を書くのもそういうことではないかと思う。実生活に非常に役に立っていると思っている。僕も子供の頃、何も考えずに、絵を描いたり、工作をしたりしてきたが、延長線上にこのような事があると思って、ここにものづくりを勧めてみたのだが。どうだろうか。僕の気づいてない事も多々ありそうだが。
最後に、ものづくりをススメてみて、ものづくりというものをみなさんもやってみてはいかがだろうか。と、誘ってみたい。家に必要な机を買うのではなく、作ってみる。DIYをやって見る。家族の写真を撮影して、デジタルで、写真を紙に印刷してみる。近くの公民館に行って、講座で、陶芸教室で轆轤を回して焼物を作って見る。絵を描いてみたり、茶道や華道をやってもいいし、料理教室もいいだろう。貴方の作りたいものを作って見ると、何か大切な気持ちのようなものが生まれて、人生が少しづつ変わるかもしれない。見るものが愛おしくなるかもしれない。見る視点が変わってくるかもしれない。なんとなく、僕はまだまだ気づいていないかもしれないが、そう思うのだ。人生を宝探しのようなものだと例えたことがあったが、どこにもないかもしれないが、自分が宝物だと思ったものが宝物に見える、見るものが全部宝物のように見えるかもしれないという、探そうと思って探していくと、自分の周囲には宝物が沢山あるかもしれないと。そして、なければ、宝を作ってみればいいのではないかと自分でも思うのである。発想と発見、思考と行動、そして、思想と精神と肉体の間に僕等はいるような気がしている。
最近、ヒットソングを聞かない私がいる事に気づいた。それは、私自身が、世の中から遠ざかっているのかもしれないし、もしかすると、自分というシンガーソングライターというものに閉じこもってしまいたく思っているのかもしれない。考え直すと、あくまで、バランスの良い状態にしたいのは、自分自身でも思っているのだが。
数年前もしくは、十数年前から、アイドルはAKB然り、乃木坂なんていう多人数のグループが流行っている。多種多様性のある、世の中になってきた象徴とでもいうべきなのか、もしくはどういうことなのか、私も遠目で見ながら、右往左往と考えてみてはいる。
さて、シンガーソングライターを始めて、今年で、約10年目を迎えた。作った曲数は130を超え作曲作詞全盛期とは違い、今は気分が乗った時だけ曲を制作して、歌っている。10年目を迎えて、デジタル配信の代理店を通じて、自作で録音して、ギター一本で一年前から世の中に曲を出し始めた。勿論、私が作詞作曲したもので、シンガーソングライトというやつだ。代理店の配信のページをネットで見て、発売日や、アルバム名、シングル名を決め、配信手続きを踏んでいく。そして、世の中に、曲が配信される。手続きや、諸々のお金を納めて配信されるのだが、私が契約している会社は、シングルが1380円、ミニアルバムが2580円ほど、アルバムは4000円程の値段で配信がされる。アルバムは登録曲数が無制限になっており、ミニアルバムが5曲以内ということになっている。初めてシングルを出して、世の中に配信をされたのを、i tuneで深夜の0時に日付が変わった瞬間見た時は感動すら覚えたものだ。
私自身のシンガーソングライターの事を綴ってみてはいるが、何が言いたいか本題に入ろうと思っている。私も、制作してきた曲を自分のレコーディング機器で録音して、世の中にミニアルバムとシングル合計9 枚出したが、全くと言って良いほど、売れない。ヒットチャートによく出ている、ミュージシャンの曲は、100万枚だとか、ミリオンセラーなんて言われる。世の中の人は、そのチャートを見ながら、また、あのミュージシャンがチャートに入っているとか、あのミュージシャンはどこに消えたのだろう、一発屋だなんて言葉も飛び交う。私が言いたいのは、確かに、それは、観客、ファンとしての立場から見たもので、私もシンガーソングライターをやってみるまで、そうだった。何が言いたいのかというと、そんな簡単に売れるものではないということを実感したのだ。そりゃ、野武士のような、どこの門下でもない私がこういう事を言うのもどうかと思っているが、やってみると、簡単ではないと言うことが多々実感できるという事を言ってみたかったのだ。回りくどくなって申し訳ないのだが。自分がプレイヤーとして、やってみることと、オーディエンスやファン、聴衆として、応援席にいるのでは、全然実感が違うと思うのである。
皆さんも、自分のやっている趣味や、仕事、スポーツ活動、芸術活動。どんなものでも自分が、実際にプレイしているもので考えてみるとわかると思う。ゴルフを真っ直ぐ打てるようになるのに、どれだけ時間がかかったか、レッスンに行く人もいるだろう。草野球を趣味でチームを組んで大人になるまでどれだけの野球をしてきたか。キャッチボールができない草野球やプロ野球の選手はいないだろう。きっとそういうものなのだと私は思っている。意外に、自然にやってきたこと、人生で淡々とやってきたことというのは、意外に、同じようで、みんな同じではない。だからこそ、社会で生きていて、面白いこともあれば、つまらないこともある。私もそうだ。だからこそ、自由ということもあれば、時折不自由を感じることもあるのだ。
シンガーソングライターをしてみて、写真も20年続けてきて、その他も趣味やプロとして、継続してきたことは少なからずあり、社会人として、職を転々としている私ではあるが、給料をもらって、事務の仕事もしたことがあったり、配送業を時をり汗だくでしていた頃もあった。プレイヤーであるということ、そして、それは何を持って、一流とう言われるのかは未だ私自身にはわからない。ただ、ヒットチャートで例えて、ミリオンセラーを出した、一発屋のミュージシャンがいて、一発当たるだけ、物凄いことだとやってみてわかる。こういう事を何個かもしくは、一つでも経験して、一流とは何かを考え生きていく。それは、一流になれなくても、一流に自分が近づくと思っている。確かに、応援をする人も楽しみは多々あるだろう。しかし、プレイヤーとして、プレイをし、自分でチャレンジし続けること、これは私の人生を肯定しているとも思われるかもしれないが、しかし、チャレンジして続けていくこと、このことにより、自分自身が何かわかるような気がしている昨今である。まさに、プレイヤーの勧めとまでは言わないが、趣味でも、プロの仕事でも、継続をすることによって、過去の自分とは違った自分を発見できることは多々あるような気がする、そんな夢物語という現実に生きている私の戯言なのである。
空も薄く、透き通るように、僕の心とはまさに正反対のスカッと抜けた秋晴れの今日。「旅は道連れ世は情け」とは言うものの、中々、世知辛い世の中なのです。どちらかというと、冬の北風の空っ風の如く、ピューと吹かれて、旅ではなく、いや旅として、どこかに行ってしまいたい、まさに逃避行な気分なのです。
旅にも種類はあるらしく、どこを回っていくかというツアーというものもあれば、行き先も決めぬ、旅、トラベル。そして、荷物という語源が元のパッセージ。哀愁漂うジャーニー的な旅もあるでしょう。僕はといえば、行き先を決めるか決めぬかという旅(トラベル)が好きなのですが、皆さんはどういった旅が好きでしょうか。僕は切符をサラッと適当に駅で買って、東に行くか、南に行くか、東西南北どちらに行くかも決めず、その時の気分で、駅のホームに降り、そして、こっちの方に行こうという旅に憧れを馳せています。その時の自由な気分と選択、そして、直感に任せ、日頃の縛られているような何かから逃れ解放された気分になることがあることが病みつきになっています。車で行く旅は道がある分の自由さはありますが、列車で行く旅はレールや駅はあるが、何か行き先も決めずにどこかに辿り着いた感を楽しむというものもあると思って、電車の旅が多い気がしています。特に、ローカルにおいての駅弁は楽しみなのですが、これも一つの風情かと思い、また、お金に余裕がる時は駅弁に目が入ってしまいます。旅行好きの父が、昔、旅行に家族で行く度に駅弁を楽しそうに購入した事も思い出されます。
僕は変わり者ではないと自負しておりますが、旅には哀愁がつきものだという作家の旅の本も読んだりして思う事なのですが、確かに旅の自由さの中に、目的地、到着してしまった場所、この辺でいいかと降りた駅、それはまるで、一つのゴールと旅の再出発地。しかし、哀愁的なものがある時もあるかもしれないけれども、何か虚しさのようなものもあるかもしれないが、また違ったワクワク感が僕は普通にあったりするのです。人生を旅に例える人がいるけれども、僕はどちらかというと、人生を新たな土地を目指して、放浪しながら土着を繰り返すような人生を本当はしてみたかった。何か飽き性という自分の性格もあるけれど、一つは旅という、その土地に土着しない、旅行者としての自分。そして、気分が乗ったら、土着をして、また、新たな地へ向かう、旅人としての自分。そういった理想を掲げていたものです。なぜそう入った理想だったか。それは、行ってみないとわからない。まさに、「百聞は一見に如かず」ではないけれど、行ってみればわかる、そして、何日かそこに停泊してみる。そして、よければ、または、まだそこに素直に居たいと思えば住んでみる。その街や、その村、その土地を堪能するごとく、ゆっくり味わうごとく、定住する。そして、また気分が乗ったら、次の土地へと世界中、その調子で旅をする。彷徨っているだけではないかと心配されるかもしれないけれども、何かこの地球という星に生まれてきた以上、本来は好きに生きて、動いて、みたいのは人間、いや僕の本能ではないかと思うのです。
以前、知人が、住んでみないとわからない。行ってみないと始まらない。というような事を僕に言ったのですが、それは誠のような気がして。そう言った、旅と引越しの間みたいな旅をいつかしながら生きていけたらと思っているのです。旅行には、北海道と沖縄以外は大体、フラフラと日本は行ってみたのですが、気が済んでいません。気が済むまで気になる街にいたい。そう言った旅にしてみたいものです。まあ、そこで働くという事をすればいいのかもしれないけれど、あくまで、旅人としての理想をここに書いているわけで。まあ、本当にこれは理想中の自分の理想だけれど、こういった感じで旅行ができればと思っています。
さて、旅について、持論的な事を書こうかと思ったりしてたのですが、投げやり的な一方通行の理想論になってしまったような気がしてます。しかし、なぜ、人は僕は、旅に出るのだろうか。と、シンプルに思うこうとがあります。僕の場合は、よくテレビドラマなどに出てくる、規範社会からの逃避的行為が多いのではと悲しい反面、その時の思い出や記憶を辿って、色々と懐かしむようにしております。自分が住んでる街に、他人は旅としてくる事もあり、また、その旅人が住んでいる街に僕が旅行者として、行く事もあるだろうと。旅についてと書いて、旅が何かを求めず、そして、旅で何が得られるか、得られたかわからず、考えることよりも、感じることかと問いかけ、普通の生活を見直す自分がいる。結局、旅とはという問いかけで、僕の旅は今の所、続くような気がしているのです。
二十代の初め、高校の友人が下宿先に京都から上京してきて、訪ねてきた。僕はその頃、大学三年生。芸術関係の大学に身を置き、一人暮らしをしていた。彼は京都の芸術関係の短期大学を卒業して、就職も含め、自由な感じで京都から出てきていた。とある日の夕方に、電話がかかってきて、今からお前の下宿先に行くという一報があった。了解して、ビールや、つまみ、酒を買い、下宿先で待っていると、夕方を過ぎて、彼は我が家に現れた。僕は写真を学んでいる最中で、彼は、ビジュアルデザインを短大で勉強して、上京してきていた。その時、彼はバイトで、修理工か何かをしていたと記憶している。ダラダラと酒を飲みながら彼は、写真で頭の一杯の僕にポロリポロリと言った。
「いろいろな人がおってな。それで、働きながら、インテリアとか作ってる人が働き先にいるんだわ。お前も、俺も、写真とか芸術が何だかんだと言ってるけれど、その人、家族がおって、父親なんよな。そういう、働きながら好きなことやって、そういうのってすげーって思わんか」
僕は、彼の言っていることが、その時、わかるようでわからなかった。仕事をしているわけではない、学校には行っている、家族として、父親として、そう言ったインテリアを好きに作っているアーティストとして、その話を聞くだけでは、実感が全く湧かなかった。
普通の生活をしながら、活動をしていくということも淡々と語られた。色々、見識を広めたいようなことも彼は言っていた。
それから数年経って、僕は精神病になり、岡山に帰郷した。それからまた、数年。大好きだった写真も一度はカメラを数年置き、療養生活をしていた。その時、何度となく、彼が言っていたことを思い出した。
「親父ってのは偉いんだ。子供や家族のために働いている」
そんな事などを。普通に彼から紡ぎ出される、言葉に対して、聞き耳をこれでもかとたて、聞いた二十代前半。そして、自分の人生。普通の生活の重要さ、豊かさ、自己認識。同じ歳だった彼は数年後、横浜トリエンナーレで出展していた。僕は地元岡山で、病気と闘いながら、自問自答、そして、彼の言っていた、普通の生活、そして、そこにいる家族について考え、そして、帰郷して、再び一緒に暮らし始めていた。親不孝をした事もあった。どちらかというと、不幸ものかもしれなかった。しかし、彼の言葉は普通だったかもしれないが、その時、ずっしりと心に響くものがあったような気がしている。普通の生活。
人それぞれ、普通の生活とはいろいろなものがあるのかもしれない。しかし、何を持って普通だということかはぼんやりとしか僕は見えていないのかもしれない。それは今でもそうかもしれない。しかし、家族は、病気の僕のことを考えてくれ、そして、どうやって、生活するかを僕は考え、そして、普通の生活がそこには存在する。しかし、考えても、普通の生活が続いてはいるが、普通の状態ではない僕がいる。普通の生活。何度も頭の中や、体に突き刺さる、平凡そうで、幸せな日々。
僕はそこに答えや、心が行った。それから、何を彼が言おうとしたことがわかったような気がした。
「家族を持って、一生懸命働いてる親父は普通のようで偉えと思う。」
なんか、以前よりは解るような気がした。そして、現在は、社会復帰をしようと、僕は企んでいる。以前は、写真家を目指し続けていた僕、写真集を生涯に一冊は出版したいと目論んでいた僕、そして、それを自分の人生の集大成にしようとしていた。しかし、今は違う。写真集も出せたら出そうと思っている。自分の人生が幸せに生きれるように努力しようと思っている。普通という生活、そして、それからの幸せな、自分が理想と思っている、そして、それに向かって努力して行こうとしている自分や家族の幸せ計画。そう言ったものに、写真集や写真は道の途中であれば良いと思ったりして、大切なものが他にも人生、生きると増えている自分がいて、それに伴い消えていっている儚き夢があるような気もしている。自分の人生。それを考えて、最後に死んだ時に、自分の人生はこれで良かったと、後悔をできるだけしない生き方を普通の生活というものをテーマに考え生きていこうと思う。もっと言えば、時間や、事、などを大切に生きていけたらと思ったりしているのだが、どうなることやらと思っている。人生の途中、それは旅の途中のようなものだろう。いけばわかると言っていた人がいる。一歩一歩、前へ、前へと進もうとしている。過去はもう過ぎ去っているのだから。
僕の部屋にはプレーステーション3、プレイステーションポータブル、そして、任天堂DSLLが一台ポンと置いてある。何気ない、日常の部屋。僕ら小学生の小さい頃にファミリーコンピューターというテレビゲームが登場して、はや40年くらいがたった。サブカルチャーと言われていたゲームも、芸術の領域に達していると言われ始めた昨今。僕も現代のゲームはどんなものかと切磋琢磨に時間があればやってみている。ゲームと言えば、今の時代はテレビゲームを思い浮かべるが、人生ゲームのようなボードゲーム、鬼ごっこなんていうゲーム、遊び、そして、カードゲームなどなど然り。ゲームは巷に溢れかえっている。僕の知らないゲームもそりゃたくさんあるだろう。昔からあるゲームだと、カルタ、トランプ、将棋にチェスなんかもそうだろう。人はゲームに魅了されているのかもしれないと思わざるおえない。
そんなゲームに溢れかえっている世界で僕らは暮らしているのに、ゲームは体に悪いとか、悪影響があるとかいう大人がいたりする。僕も、ものによるとは思うが、ゲームはやり方次第では、非常に面白いし、悪いものではないと思っている大人の一人である。子供が大好きなポケットモンスターというゲームを僕もプレイしてみた。色々な種類があったが、僕はブラックという種類を選択してやってみた。博士みたいな人が出てきて、ポケットモンスターを全て集めて、そして、旅をしていき、そして、ゲームの最終ステージに辿り着き、クリアしていくという粗筋のゲームだ。子供用に作られたゲーム。人気のあると聞いていたゲーム。大人がこのロールプレイングゲームというものをやってみたけれど、非常に子供がこれをするという事が自分の子供時代に比べて、非常に頭を使うと思っってしまったのだが、どうだろうか。会話をして、情報を収集して、モンスターを回収して、そして、旅をしていく。まずは、会話の文字が読めないと駄目だろうし、会話の意味がわからないと全く面白くないだろう。そこからモンスターを把握して、ある程度、攻撃を加え弱らせてから、モンスターを回収する。打撃を加えすぎると、モンスターが死んでしまう。色々考えながらクエストは続く。このポケットモンスターというゲーム一つとっても、子供がこういったゲームをするということ自体、非常に考えないとできないことではなかろうかと思っている。また、大人もだ。その他のゲームもいっぱいあるだろう。トランプもシンプルかつ、多彩なゲームができるカードゲームだろう。知らないルールの知らないゲームがトランプというジョーカーを二枚合わせた、五十四枚のカードから繰り出されるのだ。いつも思うけれど、こう言ったゲームを作る人も凄いなと思う。また、面白さがわかって、海外などからゲームを輸入している事も面白いし、凄いと思う自分がいたりする。人生ゲームも元々はアメリカ合衆国のゲームでタカラが今は扱っているが、輸入ゲームであるらしい。誰かが、ボードで人生をゲームにしたのだろう。芸術とかデザイン関係に友人がいて、学生の時にゲームを作る授業があるときいて、面白い授業があるものだと勝手に感心したことがあるが、ゲームを確かに作る人がいて、自分達がプレイしていると思うと、ワクワク、ドキドキ今以上にしてしまう。
僕も、一つここでカルタゲームのアレンジバージョンを考え企画したので、ここに書いてみておこう。ゲーム対象は3歳くらいから小学生の数字を覚えるくらいの年齢までで、カルタに数字を書く。これは1、2、3という数字だ。そこに、漢字で一、二、三とか、英語でone,two,threeという風に、フランス語でも良いが、言葉を添えていく。子供はこのカルタ遊びをすると、カルタを読む人が、いちと言えば、1をとり、twoといえば2を取るというゲームになる。言葉を覚える事と、数字を覚えていくという遊びながらの勉強ゲームになる。遊びの中でいかに学んでいくかという事をテーマに考えた僕のゲームなのだが。いかほどだろうか。まあ、一つのアレンジ的なゲームなのだが、本当に世の中には多くのゲームが存在することは確かだろう。ゲームと聞いて耳を塞ぐ人もいるかもしれないが、一つここは遊びと思って楽しんで参加してみたはいかがだろうか。より古典で、より新たなものまで楽しみは多くあったほうがいいのではないかと僕は思っているのだけれど。
さてはて、ゲームを作る、やってみる、この行為はなんなのか、楽しいだけでもバッチしだし、ゲームを色々な角度から見てみるのも、そういった意味でふんだんに楽しむということ。ゲームを追求できればいいが、ゲームというものをふとプレイしながら人というものを考えた秋のとある日の事だった。
数年前、岡山県から岡山近郊の都市の料理写真を撮影する機会を頂いた。フォトエージェントという所と契約を結び、写真撮影の案件がプロジェクトというものでカメラマン本人に来るという仕事なのだが。岡山県を中心に、テイクアウトの会社のメニューとウェブに掲載するバナーを中心に撮影をした。かれこれ、1年以上撮影して、仕事も減ったので、今はその撮影や仕事はしていない。それ以前も、とある、クーポン券付きの食事フリーペーパーの撮影で、店舗と料理の撮影をしていたことがある。店に出向き、どちらの撮影もそこで簡易スタジオ的なものをその場で作り、ライトやフラッシュを使用して撮影するのだが。勿論僕にとっては、それほど簡単なものではなく、毎日、右往左往したのを憶えている。
とあるフランス映画を見た時に、最初の文言に、
「料理は最古の芸術である。」
と、語られて始まる映画があった。ふむっ、とその時は思ったものだった。確かに、人類が生きていくために、生活をするために、料理は最高の芸術だったのだろう。芸術とは、artであり、artはラテン語のars、ギリシア語のtechneに由来しており、これらの言葉が学問と技術の二つの意味を内包していることは、漢語の藝術との顕著な近似性であるらしい。
また、佐々木健一氏によると、
「芸術を芸術とたらしめているものとして、三つの契機を上げることができ、「わざ」と知と作品であり、これはテクネー、アルス、アートの主要語義に対応している。力点の置き方は様々であっても、この三者の総合が芸術である。そして、できる限り充実した体験を可能にするということが、芸術作品の使命である。したがって、それを生み出す「わざ」もまた、ある一定の目的を満足すればいいようなものではなく、可能な限りの高みを目指す冒険の精神に支えられたものである。そして、芸術における知も、学問的な知のように概念的言語によって説明される種類のものではなく、あるいは実際の創作によって体得される「かん」や「こつ」のようなものであり、あるいはその作品の鑑賞によってしか見えてこない境地のようなものである。」
と、言っている。料理は紛れもなく、最古の芸術作品だった、もしくは芸術作品であろう。人が、食べるという行為を身に付けてから、最初はどうかわからないが、その料理方法を知識として身に付けていき、材料の選択もそうだろう、そして、今現在に至る、料理の様々な知識、知、それに伴う、技術そして、食べれる作品という名の色々な食事。誰が見ても宝石のような料理から、巷にもある既視感が常に漂ってしまうような料理たち。しかし、皿に添えられ、出てくると本当に芸術作品としてしか、その時から思えない食べ物達。料理は芸術であると僕は思っている。
さて、そんな芸術作品の料理達には色々な文化が滲み出てくるもの達がある。世界三大料理とはよく聞く、中華料理、イタリア料理、フランス料理しかり、韓国料理、朝鮮料理、アメリカ料理、南米料理、言えばきりがないだろう。ちょっとしたトピックスに、日本料理が、2013年にユネスコの無形文化遺産に登録されたらしい。これは意外に知ってる人が多そうでどうなのだろうか。「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」。日本は「和食」を「いただきます」や「もったいない」といった食事という空間に付随することがらも含めた「自然の尊重という日本人の精神を体現した食に関する社会的慣習」として提案、年末年始における餅つきや御節料理、食育教育を中心にプレゼンテーションを行った結果のものらしい。(wikipedia参照)日本食、和食がユネスコの無形文化遺産になったこと自体が、本当に日本の誇れる食であり、文化であり、芸術作品ではなかろうかと思うのである。また、これも私もつい最近まで知らなかったことだが、中華料理は、中国料理という説もあれば、日本風に中国料理をアレンジしたものという説もあるのだ。果たしてどっちがどうなのかはわからないが、ラーメンとか、天津飯、焼餃子などは日本発祥ということらしい。本当かどうかはいかほどかなのだが。僕も中華料理は大好きだが、調べては見ているが、非常にどちらかわからなくなってきている。色々な説がある料理もミステリアスではないがボーダレスな感じで魅力は更に増せばいいのではないかと思ったりはしている。山崎まさよしというミュージシャンの中華料理という曲も好きでよく聞くが。まあ、そんなこんなで、料理にまつわる話をざっくりしたのだが、料理は最古の芸術であり、芸術ではなかろうかという話だった。私も、大きく同感したいところである。僕も初め、人は理想や夢、想像、そして創造し生きていき、そして、そこに知と技術という歴史を積み重ねて生きていっていると思う。だからこそ、未来は進化を、良い意味でしていってほしいと願い、今日も美味しい食事を食べるのである。
つい最近といっても、かなり数年経ったかもしれないが、記憶は定かではないが、武将占いというものがネットにあったので、自分も暇な時間をもて遊ぶごとく、ゴソゴソとやってみた。占いの項目にチェックを入れていくと、最終的に貴方はこの武将で、こういう性格だったり、こういう人が貴方に適応しているという事が出る占いだ。ダラダラと、遊び感覚でやってみたところ、東北の武将の名前はわからないが戦国時代に自分の領地を守り抜いて、全く戦わずに平和に収めていた武将の名前が掲載された。僕は、この占いは本当に当たれば良いと勝手に思ったし、この武将の性格や、特徴の方が武将の名前よりも、記憶に残っているのでここに書いてみている。
なにわともあれ、どうしてこんな事をここに書こうと思ったかというと、僕という人間がそのまんまに近いくらいこの占いで、当たっていると思ったからだ。攻撃よりも守り。こちらでいく人間ではなかろうかと自負しているくらいだ。スポーツで僕は剣道をしていたが、見るのも野球、バスケット、サッカーなども見るが、守りありきの功だと僕は勝手に思っている。自分が続けていた剣道というスポーツでも、守れれば、いつか相手に隙ができるのではという考えなのである。攻撃をし続けて、ババーンと決めてくるタイプではないのであった。相手を観察し、焦らず研究をその試合の数分で、できるところまで分析する。守りぬく、個人戦だったら勝負どころで、その相手の打てそうな瞬間こちらが打ち込める瞬間にかける。こういった試合展開なのだ。団体戦になると、チーム5人戦だったが、自分が勝てそうにない相手は無理をせず、次に繋いでいく、そして、自分の相手は死守するというやり方だった。ポジションは、剣道の五人団体戦は、1番手が先鋒、次が次鋒、三番目が中堅、そして、副大将、大将となる五人戦だ。僕は、その中では中堅という3番手のポジションが専門だった。前の二人がどういう試合展開をするか、後に繋げばいいのか、もしくはここでポイント的に勝っておかなければいけないのか、無理をするべきかしないべきか。丁度、真ん中のポジションだったのだ。中堅の剣道というのは色々言われているが、三番目、真ん中のポジションという、色々と試合が左右したり、考えなくてはいけないポジションだと言われているポジションらしい。僕は、本当に今思い出しても、そのポジションの剣士だったらしい。中堅という真ん中のポジションが自分でも気に入っていたし、好きだったし、人もなるほどとそういうことを知らない時から言われることもあった。そんな僕の座右の銘は、「守りありきの功」守り抜いて、延長でも、なんでも、剣道は三本勝負で数分で区切られる。引き分けも団体戦はある。一本勝ちという、時間内に、一本先取して、時間制限で勝ち切りというのも個人戦でも、団体戦でもあるのだ。よって、特に団体戦では守り抜くことに徹し、いけそうなら自分にゴーサインを出して、パンとポイントを取っていくというような剣道だったと思う。相手を決して、舐めずどうなるかわからないのがスポーツだと僕は思うからだ。
まあ、そんなスポーツの話はちょっと置いておいて、人生にもそんな守りありきの攻めというものが僕の性格的なところにも出てきているかもしれないと思うのだ。守るということ、これは、僕個人で話しても非常にわかりづらいかもしれないので、戦争と平和という例えで話そう。武将占いではないが、自国の領土、領地、全て人や文化財、物など、大切だったら、これは守り抜くしかない、もちろん平和をだ。平和という状態を守り抜くこと、これが、守だと思っている。もっと言えば、戦国の荒くれている世の中で、自分の領地や民を守り抜けるという事をしているのだ。戦争を起こさず、領土の平和を維持し続けること、これが僕は守り続けていけれること、それを望んでいるということだ。スポーツの剣道の話とは違うようなところもあるかもしれないが、守るということ、は決して弱いとか強いとかという問題ではないと思うのだ。何か大切なものや人がいると、守るという言葉が浮かぶだろう。自分の恋人、子供などもまだ、幼かったり、わからなかったりすることがあれば守っていかなくてはと思うだろう。守りが強くなればなるほど、安全にはならないだろうか。どうだろう。僕は攻撃を色々な事にしかけていくよりも、平和な状態を守っていく方が、色々な事を大切にできるのではないかと思う人間である。攻撃をし続けることも一つの方法かもしれないが、相手を調査して、的確にお互いの平和な状態が守れること、もっと言えばリスペクト、敬意を払うことができれば良い関係が保たれるのではないかと思うのである。武将占いをふと思い出した時に、戦国の世で、平和を維持し続けた武将に自分がコンピューターに分析をかけられて、適応したというところに何か、ふと記憶がいって綴ったのだが。守りありきの功、まさに僕の人生はそんな人生になっていて、平和のまま淡々と日常が過ぎることを少し、刻々とちょっとだけ味わっているのである。一本のタバコを吸いながら、平和と大地の恵と、自然の恩恵を感じて。
広告屋は厳ついだとか、悪いという噂を聞いたことがあるのだが。いかほどか。私が個人的に思う広告、聞く広告というものはいいものではないかと思うのだが。例えば、テレビ広告、新聞広告、雑誌広告、ネット広告、そのほかにも色々あるだろうが、広告で知ったことは沢山あるのではないだろうか。そして、その表現だったり、書いてることが嘘ではないと僕は思う人間なのだが。広告は嘘を言ってはいけないとか、広告は偽物などを広告してはいけないなどのルールがあると聞いたことがある。広告というと、テレビコマーシャルなどを一番に思い浮かべる人がいると思うが、イメージを始め、絶対に広告商品を壊していないと思う。という事を思うと、広告はいいものではないかと思うのだが。皆さんはどう思うだろう。
例えば、街にも駅にも沢山のポスターが貼ってあったりする。それを見て、色々な情報や商品を知ることが多々あるとおもったりする。情報誌などでも、半分が広告的作用をしているものもあったりすると僕は思うのだけれど。広告が僕等に与えてきたものは、もしくは僕個人に与えてきたものは大きかったりする。時をさかのぼり、僕が小学校の時に、今の石川播磨重工というIHIという会社があった。今も現存するこの会社の広告が非常に僕は好きだった。アニメーションのようなロボットが、地球から宇宙にガタガタガタと登っていくテレビコマーシャルで、科学空想会社IHIというナレーションが入っていた。この頃、何の会社かもわからず、このテレビコマーシャルが非常に気になって、好きになった。それから色々なコマーシャルを見て育った。テレビの間に流れるコマーシャルは子供の頃はさほど気にならなかったり、テレビ番組がいい所で止められて、コマーシャルに入って、「あー」とため息をついて、テレビ番組が早く始まらないかと思ったことも多々あった。しかし、年齢が大きくなるにつれて、コマーシャル、広告というものが非常に表現されているものとして、非常に興味深くなっていった。
広告といえば、テレビコマーシャルみたいなイメージがあったりするだろうが、文字の通り広くつげるというものらしい。広告の歴史はあまりはっきりわからないが、人の口から口につながっていく今で言うクチコミというものから始まったと聞いたことがある。この情報は確かなものかどうかわからないが。確かに、子供の頃から、今まで生きてきて、大概の店や他の情報などはクチコミが一番多いような気がする。それは僕の住んでいる地区や、地域がそのような場所だったかもしれないが。
「あそこの店美味しかったから、今度行こうよ」
と言われて、友人、知人などに誘われて行ったら美味しかった。ということは多々ないだろうか。そして、それが、新聞広告などに掲載されてると、ここ美味しい店だったよとなる順番が多い気がする。まあ、一般的にどういう順番がベタな順番かは分からないが。ただ、そういったクチコミも含めて、広告という物には基本的に嘘はあってはいけないものだから、僕等はその情報を見て、フラフラと誘われて、店に行ったり、イベントに行ったり、商品を購入したりする。そして、広告で表現されているものと、色々な事が一致するとやっぱり美味しいとか、購入してよかったと満足する。もし、世の中に、クチコミも含めて広く告げる広告というものがなかったら、非常に情報にしても、生活にしても寂しいのかもしれないと思ったりするのだが。皆さんはどうだろう。そして、クリエイターの端くれを自称する僕だが、広告業のクリエイターは一つのクリエイターの花形と言われる。カメラマンにしても、コピーライターにしても、プランナー、ディレクターにしても、色々な技術や、知識を総動員してあの十数秒に集積させて、世の中に広告という形で出ているのだ。映像にしても、写真にしても、文章にしても、その職人達の中で、広告にかける情熱を持つ人間の集積と呼ばれている。そして、僕達はそれを見て、企業や、商品を知る事は多々あるだろう。雑誌を作っている人も、テレビやラジオ番組を制作している人も、職人、クリエイターとして一流の仕事をしている。そして、広告もそうだと言いたいだのだ。僕も、写真を制作する一人だが、写真家などでも、コマーシャルフォト出身の写真家は多いと思う。技術や知識なども豊富で、写真を制作する一つの花形の仕事なのだから、多いのは当然と言えるかどうかは分からないが。素晴らしき広告と題名を打ったが、広告というものを一度立ち止まって考えて見ると、そして、もし興味が湧いて、広告というものを考えたり、調べたりしてみると、広告というものがどういうものか、楽しくなってくるのではないかと思ってここに綴っている。テレビ番組の間のコマーシャルというイメージ。しかし、色々な興味を持って、商品をどう表現しているか。色々な角度から広告を見てみると素晴らしいものではないかと僕は思うのである。まあ、色々な角度から物事を見るということは非常に難しく、そして、出来だすと素敵な事だとは思うのだが。今回は広告という観点でここにそう言った事を書いてみた。よければ、そう言った雑誌なども巷で売られているので興味があれば購入してみてはと広告的なことを言って終わろうと思う。
僕は生きている。そして、生きてきた。生きていると言うことは、色々な事があると言う事では無いだろうか。そして、過去を振り返れば、色々な事があった、とでも言うべきだろう。思えば、僕の人生の大半はなんだったのだろうと、ふと立ち返ってみた。もちろん、赤ちゃんとして生まれた時の記憶はない。
そして、幼少の頃の記憶が思い出され、ざっくり言えば、今に至る。そういった記憶で、僕の子供の頃からの夢を辿ってみた。まずは、家を増築する機会が三歳前後であり、幼稚園に入る前だったと思う、大工さんに憧れて、家を建てたいと思ったのが、夢というものへの芽生えだった。その後、幼稚園へ。その頃、世界でエイズという病気があることを子供ながらに知った。誰も治せない、治らないと言われた病気で子供ながらに、驚き、そして怖かったのを覚えている。幼稚園の卒業には、夢はエイズを治す人と書いていた。そして、小学校に入学。やんちゃ坊主的な僕は、小学校四年生前後で、車に軽く跳ねられて救急車に乗って病院へ運ばれた。骨にヒビが入って筋肉が捩れて曲がっていると言われ、切断はなかったものの、ギブスをはめて治してもらった。その頃、剣道を始めて数年経っていた頃で、この事故も母親が車で隣町の学校の体育館に練習に連れて行くときに、たまたま車がパンクして、そこから歩ける距離に練習場があったので歩いてい行っていて、跳ねられた。そして、その事故で治してくれた医者が剣道をしている人で、凄く印象に残って、小学校を卒業する頃の文集には、医者になりたいと書いていた。それから、中学に入り、「死体は語る」という本に出会う。医者になりたかった中学生の頃、法医学の権威がこの本を書いていて、衝撃的だった。生きている人にも人権がある、そして、死体にも人権がある。そういう、法と照らし合わせて、生きている人間ではなく、死んだ人間と向き合う医学を知った。高校に入るまでは、法医学の方向で行こうと決めていた。それは、この本に多大ならぬ影響を受けたからだ。その後、高校に入学し、勉強に面白さをあまり得られなかった僕は、違う方向に行った。勉強もしながら考えればよかったのだが、なぜか勉強があまり好きになれず、医者の道から遠ざかっていった。その代わり、軽音楽部が盛んだった高校で、僕は剣道部に入部して続けていたのだが、よく、軽音楽部のライブを見にいったり、つるんだりしていた。そして、美術や音楽が好きな連中と映画や、音楽にのめり込む感じで好きになっていった。これが、簡単にいうと僕の学生時代の夢と夢に関連するものである。
その後、四十三歳まで生きてきた。違うところにも書いたけれど、精神病にもなった。どうすればいいかわからず、右往左往家族でした頃もある。そして、仕事や、生き方、考え方まで、大きく病気になる前と、なった後では違ってきたものもある。人生は色々ある。若い頃は、どうにかなる、きっと上手くいくと思っていた事が、二十代前半で思いもよらず一回全て壊れ、そして、崩れた。ただ、その頃、高校時代から写真を好きで続けていた。これが、今へつながる、そして、好きで続けてきた事、そして、これからも未来に続いて行くことと思っている僕の趣味であり、私事だけれど、心の支えになっているものだと思っている。
意外に、僕も含めた人間は弱いと思う。悪いことや、何か良からぬことが自分に降りかかってきたり、続いて大きな事件や病気、怪我などに巻き込まれると、良い思い出が消えるくらい、ショックがある。そして、それは、目まぐるしくぐるぐると人生にまとわりつく。人生は良からぬ方向に行ってしまう。そんなとき、僕のいう写真のような支え、明日に向かって、何か生きる活力があると段々と、悪い出来事の記憶は消えぬども、生きる活力が勝りだす。これが、人生の谷を乗り越える方法だと僕は気づいた。そして、継続は力なりと色々な意味で思う。きっと、続けていることで、お金だ、夢だというものではなく、何か自信がつくことがあるのではないかと思うからだ。生きる喜びとでも言おうか。そういうものが僕にとっては写真だった。そして、アートや音楽であった。こういうものが、僕の生きる活力になっている。それは、決して過言ではない。他の人は違うことが生きる活力になっているだろう。何か、生きることが辛い時、嫌になった時、一度、立ち止まって考えてみればいいと思う。それは瞬時でも、数年かかっても。一般的に時間の許す限り。そして、何が自分の活力で、生きていてよかったと思える事か、死ぬ前に自分は生きてきて、生まれてきてよかったと思える。そう思える人生はどう生きるのがいいのか。きっとそう考えることが、無駄な事ではないと僕は信じている。
フランス人の仏教徒に帰依した人がこの前とある映画でこう言っていた。
「命というものを大切に使うということ。」
こういう言葉は、色々日々考えていないと、僕は口から出てこないと思っている。そして、僕も、自分の命、他人の命、命というものを大切に考えて生きていってみようと思っている。
よく母校愛なんて言葉を聞く。若い頃は、そう言ったものが無い訳では無かったが、あまり、きちっと認識できていなかった。ただ、なんとなく、高校生活、思いっきり青春しました、みたいな人で、母校愛ありますみたいな人間では無かった。それが、現在、四十四歳を迎えて、色々と今の自分というものに向き合わざる終えなくなった。こうなると、今の自分がどうして、どうやって、存在するかになるのが僕の思うところだった。まず、父親と母親が出会い、そして、セックスをして、僕が生まれた。その後、兄弟が生まれ、僕は幼稚園、小学校、中学、高校、大学、専門学校と進学していった。小さな頃の記憶を思い当たるだけ辿ってみようと辿ってみた。どうして、今の僕という人間がいるのか。そうすると、祖父母や色々な人に囲まれ育ってきたのが、認識できる。記憶に無いところだったような部分も蘇ってくる。親にも言ってないことや、親戚、友人にも告げてないことが、自分だけの秘め事だった訳でも無いけれど、誰にも言っていない事も僕は沢山ある。
大きな節目だったのは、母校の高校に進学した事だったのではないかと後で振り返って思ったりしている。これは、あくまで後で振り返った僕がここに居て、そして、三十代くらいに色々と自分というものを振り返った機会があった時に気づいた事だ。中学は公立の学区の学校に進学して、そして、受験で岡山市街地の三大名園の後楽園という日本を代表する庭の、すぐ近くの進学校に入学した。中学から進学したのは全校二百人くらいの公立中学校から、僕一人だった。振り返ってみて、誰かが行くから、一緒に行こうと言って進学するものではないというのだけは、その頃から変わらない自分が今もいる。自分が行きたいから、受験して、自分が行くという、そう言った中学生だった。
進学して、高校時代は、岡山の市街地にある学校という事だったのもあったのだろう、非常に、楽しく、はちゃめちゃな日々もあったけれど、先に書いたように、青春真っ只中と卒業して、思うほど、思いっきり、遊んだことは間違いなかった。勉強よりも、できた友人と遊んでいる時間が長かったと思う。ここでは語らない多くのこと、それが、自分というのもを形成したような気がしたのだ。しかし、この高校に行ったのは、どうしてかということの根幹みたいなものが、三十代前後になるまで揺らいだり、朦朧としている状態でいたことが、僕の人生をあやふやなものにしたことがあったのでは無いかと気づいたのだ。母校、学校には、掲げている校訓とか学校方針というものがどこの学校にもある。それは、学校に入る前にきっちりと考え、そして、学校の方針が自分は好きだとか、ここじゃなきゃダメだと思って行くものだと、先輩から言われた事で自分というものを考え始めた。
この事は、言わせてもらうと、僕は、本当にダメだった部分だと反省した。それから、学校というもの、学問というものをもう一度振り返り始めたのがこの時期だった。今、思うと本当にこの時に言われた先輩の言葉、そして、気づかせてくれた周囲の方々に感謝する気持ちでいっぱいである。そして、それから、母校の「松柏の精神」「和して流れず」という100年以上の伝統の学校方針を頭に入れながら、まず、自分がなぜこの学校を受験したかったか、どうしてか、それは決して進学校だからという一言では無いものがそこにあるからでは無いかということに気づいた。過ぎた事だったから、あまり考えていなかった事だったが、先輩達は、この学校ではないと行く気がしないという人達が殆どだと言われた。どうしてもこの学校では無いと嫌だという気持ちがあったと。僕はなあなあだった。そして、周囲からも劣等生的な扱いで、そして、母校愛というものが無さすぎるとまで言われていた。そして、調べることにより、気づいた。また、人生を三十年ほど生きて、そこで初めて考え、調べようと動き出した。他の人は高校の十代の時にきっと気づき、考え、調べ、そして、この僕の母校に来ていたと思うと、何となく、自分の行動、今の現状そして、先輩方々から、浴びせられた言葉が身に沁みた。それから高校までの日々を振り返り反省の日々が続いた。母校が掲げている、「松柏の精神」これは、松と柏という植物、木が常緑樹で、冬や寒い時も、青々としている。人生色々あるが、腐らず青々としていって欲しいという言葉らしい。そして、「和して流れず」という言葉は、人の和を乱さず、そして、自分というものをキッチリ持って流されないように。ということだった。
こういった事は、調べていくと、中国の「中庸」という書籍から来ている言葉であるそうだ。私も調べたが、まだ早いような気がして、ウィキペディアなどでざっくりと意味や、どの歴史書物に記されているかだけを調べた。人生、四十四年生きてきて、この言葉が好きだったし、改め直して自分という物を考え、そして、この言葉を振り返った時、僕自身の人生は高校の青春と、そして、振り返ったこの言葉に尽きる人生だと分かった。三十歳前後にこの言葉と高校の頃の自分と今の自分、そして、先輩方の言葉が無かったら、僕は、さらに腐り切った人生になっていたかもしれない。多くを割愛するが、何が言いたいかというと、自分は学、そして、学ばさせていただき、そして、仕事もし、させていただき、今の自分があり、そして、誰しにも母校がある。母校愛がある人間ができた人間かと、言いたい訳じゃないが、四十代を過ぎて、僕が思ったことは、行きたい学校に行って、そして、卒業して、全然若き頃考えなかった事に気づかさせていただき、自分が、この学校を卒業してよかったと思ったことと、学校とはそういう物なんだと遅かれ気づいたこと、そして、自分というものが何もない環境では形成されなかった事に更に気づけたこと。こう言った事に気づかせてくれた周囲の人に感謝したいと思う。そして、気づくという事で、すごく時間はかかってしまった僕だが、劣等生であったと言われる高校生時代に今更ピリオドを打つべく、今を生き直していると言える人生を送り、送ろうと思っている。
最近、ホームカミングデイとか大学や高校で母校に立ち帰り、もう一度考えるというイベントをやっている学校もあるみたいだが、皆さんも、母校愛というものがあろうが無かろうが、今の自分、そして、これからの自分を考えてみたらいいのでは思った次第なのである。僕は過去を振り返るのが凄く嫌いな人間だった。前を向いて、前向きにと言えば前向きに、壁は乗り越えていけばいいと思っていた人間だった。しかし、一人で生きている訳ではない人間という生き物、そして、自分、社会、世界。僕にとっては、たった人生で三年だったはずの高校生活というものが、「松柏の精神」「和して流れず」という言葉の元に、永遠とまで言い切れる、一生物の生き方になった。そう言っても過言ではない後で振り返ってみての三年だったと思うからだ。人生、見えてそうで、見えてこない、見えない。それは、未来を見て、過去を見て、そして、現実に生きる。思いは永遠であり、そして、現実は日々続くのだと。意識すると、違ってくることがある、見えないものが見えてくる。そう思いながら今日という日を、その反省した頃から見つめています。僕の心の中にはいつも「松柏の精神」が無ければいけないと思い。そして、貴方たちにも大切なものが思えば、沢山あるでしょう。誰しも母校があり、祖国があり、故郷がある。大切なものは、存在だけでは無いと確信して。
よく子供達が悪いことや、よく無いことをすると、僕は叱る。それは、愛情を込めて叱っているつもりだ。ただ、大きな声で怒鳴るだけとかは止めようと思ったりしている。
そんな中、悪い事、良い事、もっと言えば、日常に習慣化される歯磨き、掃除、学ぶという事、趣味も、ちょっとづつ、そして、分かりだすと、ゆっくり、きっちりしてみなさいという話をする。これは僕もやってみてるのだが、いつもしないこと、やらないこと、自分において習慣化されてないことを、日常の一部でしようとすると、いきなり、がっつりしようとすると、なかなか嫌な事や、あまり毎日したく無いことは、僕は、結局しなくなる。こう言った事は、できることからちょっとづつ、ゆっくり始めれば続けれる確率は上がると思っている。
習慣化して、毎日継続できるという本を、Amazonのベストセラーで見つけ、読んでみた。読んでみて、共感できるものと、取り入れたいものが沢山あった。ここ四十四年生きてきて、その本を書いていた人はデザイナーだったが、全く違う仕事をして、ここまで共感できる人はいないかった。僕も、この人同様、ちょっとづつ、少しづつ、色々な事を習慣化づけるようにしようと思った次第である。
例えば、この本を読んで、これはスケジュールに入れなくて良いという物を、スケジュールに挟む事によって、リズム感みたいなものを出して、その合間に、ついで作業をするという具合に、違った事をする、という事を提案していて、これはいいなと思って、その本を読んだ日からこの方法を取り入れている。
僕の取り入れたものは、まず、朝起きて、音楽を毎日かける。朝起きて、オーディオのスイッチを入れて、再生ボタンを押すところから、毎日が始まる。早、2週間近く続けている。そして、音楽を再生して、次は、部屋の窓を、家の窓を天気が悪く無かったら全部開ける。これも、部屋の窓を開けることは、それから毎日続いている。その間に、掃除を少しづつしてみる。ほんの少しの場所を毎日ポイントだけは定めていって綺麗にして行ってみる。ずばっとすると、大きく変わるが、少しづつすると少しづつ変わり、そして、全体的に、ずばっと数日、数週間経つと変わっている。もちろん、以前より、綺麗になっていることは言うまでも無いだろう。そうして、今度は、一緒に暮らしている動物がいるのだが、熱帯魚、メダカ、そして、クランウェルツノガエルという感じなのだが。この動物に、ご飯をあげる。また、暮らしている動物の空間を掃除して、メンテナンスをする。こう言った事を、色々な作業のついで的な感じですると、意外にがっつり、これをやると決めてやるより習慣化される確率が上がると、そのベストセラーの本にも書いてあったが、本当にやる気ガンガンよりも、ついでに、これもあれもしてみようとしてするのが、意外に継続もできて、すでに僕に於いては、早朝の習慣になってきている。
朝起きるのが苦手だった僕は、以前、この本を読む前に、ちょっとづつ、朝起れるようにしてみた。いきなり起きたかったが、絶対的に二度寝して悪影響が出過ぎた。これも、ちょっとづつ、朝、段々と早く起きれるように、起床の時間を早く早くしていく。こう言った作業を繰り返すと、非常に、習慣化されて、自然と早起きもできたり、習慣化されにくいものができるようになる。やはり、ちょっとづつ、少しづつ、そして、最後は理解しだしたり、出来だしたりすると、きっちりと理解をしながら、考えながら実行していく。この積み重ねが、自分の大袈裟ではないが人生を形成していく根幹になると気づいた。
話を戻して、子供達は、大人に比べて、知らないこと、出来ない事、初めてのことが多い。自分もそうったことを、全然忘れてしまって、やってきた側の大人の視点からどうして出来ないか?と怒ったり、悩んでいた自分が過去に数日いた。気づくと、子供の立場に立ってみると、それは、真新しい毎日なのだから、ちょっとづつ、少しづつ、そして、きっちりとやっていくことがいいのではないかと教えている。いきなり、多くをやってみようとする子がいて、そう言ったことが出来る子と、出来ない子がいるが、それでも少しづつ、ゆっくり、きっちりと僕はしてほしいと思う。
自分も実行しみて、これは本当に良いことだと思う。毎日できなくても継続を長いスパンでしていくという事も自分なりにしてみている。今日できなければ、明日すればいいという気楽なものについては、そういう風に実行している。パリのとある小学校が、一日に、十五分、毎日、読書の時間を子供達に学校で提案していて、子供の頃から読書の習慣がつくようにしていたりするらしい。これも、僕は自分も子供達にも取り入れている事柄だ。一日、十五分、短いと思っても毎日読書すると、一週間、一ヶ月、一年、時には絶対的に読めないと思った、分厚い本も、最後まで読めるようになる。こう言った、コツコツと毎日、作業をし、積み重ねていくことを、子供の頃から教えておきたいと、僕は思っている。僕は、こう言った事を教わっていたのだろうが、全く、言葉だけ聞いて、実行できなかった子供だった。反省の意味も込めて、子供達にはそうなってほしいと思っている。
塵も積もれば山となり、ローマは一日にしてならずと人は言ったが、本当にそうだろう。最後に、僕の好きな言葉で今回は終わろうと思う。
「言わずして 何も起こらず
動かずして 先は見えず
尽くさずして 愛はめばえず
心もたずして 道は開けず」
この言葉と共に、自分にも子供達にも、全ての人に、ちょっとづつ、気楽にやっていけばいいのではないかと思ったりする今日この頃なのである。継続は力なりであり、決して、力があるから継続できるばかりとは限らないと思いながら。
テレビや、映画、また、人の話を聞いてこう言った事を経験した人は多くないだろうか。こういう事なら、自分はできそうだとか、できると思う、ということが。しかし、現実に見たり、考えたり他人がしていることを、やってみると、中々上手くいかない。勿論、そう言った経験は僕にもある。そういった経験を沢山して、僕は、人の趣味や、職業を全然舐めなくなった。つまり、他人のしている事を簡単だと思わなくなった。カタカタとパソコンで文字を入力している人、野球のキャッチボール、ガードマンで道を誘導している仕事の人。様々な職業や、人の行動というものがある。もっと言えば、今、当たり前になっている、つまり既成概念というもの、文化、こう言ったものも、最初は誰かが考え、初めて始まっているのだ。お金の発明もそうだし、今ある、当たり前と思われている世界も過去から試行錯誤を繰り返し、誰かが、考え、実行してきたものが既成概念としてあるのだ。きっとそうだろうではなく、確実にそういう事なのだ。
例えば、今ある、日本の経済システム、これは海外に行った人がいればわかると思うが、他国と違う。それぞれの国によって、政治があり、経済があり、法律も違う。これは、誰かが考えているのだ。そういった世の中に生きていることが当たり前と思っているかもしれないが、世界は、人によって、誰かによって、クリエイトされ続けているのだ。と、なると、僕等はどう言ったクリエイション、クリエイティブな作業というものができるのか今一度考えてみると面白いかもしれないと思う。
さて、話が逸れたが、僕の経験から、見ていてこれは僕はできると思ったが、全然できなかった経験を沢山ある中から一つここに上げようと思う。よく、道路工事をしているとガードマンが交通整備的な事をしている。僕は、若い頃、写真展のお金を貯めるべく、賃金が良くて、できそうなことを探し、ガードマンならできると思い、仕事受けて、合格し、そして、警備会社にアルバイトで行くことになった。その後、きっちり入社して、ガードマンの研修的なことをして、現場配属になったのだが、これが、見ているのと、するのでは天と地の差どころではないくらい、非常に見ていた僕の側から違ったのだ。まず、大体、工事に出くわすときは、道路に規制を張られた時に出くわす。つまり、工事をしている所を通れないように封鎖して、片側通行などにしている事を道路工事の規制をはるという風にガードマン業界では言うのだが、つまり、工事が始まる前に、ガードマンが、車を片側に止めている状態で規制を張っていくのだ。そして、ガードマンが、無線で連絡をとり、道路の片側を止めて、そして、反対車線を通行させるという仕事をしていく。この状態を殆どの人が見ている。人によると、ガードマンは旗を持って、車を止めたり行かせたりする、立って、旗振ってる、おじさんやおばさんと思っている。僕もそう思った時期が少なからずあって、その仕事にチャレンジしてみた。しかし、実際は違う。自分の身が道路に晒され、車から見ている、ガードマンと、ガードマンから見る車の視覚は違い、ガードマンから見る、車や道路は恐怖そのもので、ガードマンをしてみて、車を止めるのに道路に出ていくその瞬間は非常に緊張と恐れを覚えた。意外に大きく見える車、トラックなんてめちゃくちゃデカく見える、そして、その前に旗を振りながら出ていく、これもタイミングなどが合わないと、車は無視して、走っていく。事故でも起きたら大事と言われる。まさに、旗を持って立っているだけでは全くない、大変な仕事なのだ。度胸もいるだろうし、簡単ではない。常々、見ている側としてみて感じることは全然違うと黙り込んでしまったことがある。
こう言った例から、先程、言ったこと、全く、見ていて、前までこれならできる、誰でもできるとか言う人までいたのが、全く正反対の考えに僕はなったのだ。誰でもできない、簡単ではない。プロの世界を甘く見ていた若き自分だったのっである。今だに、心の中に戒めている一つの事なのである。さて、そんな例を挙げてみたが、何が言いたいかというと、最初に戻るみたいだが、考えたことを、自分でも、やってみると全然違うと言うことを沢山わかってみることが一つの勉強だったり経験だと思うのである。アメリカ合衆国の人はよく言うらしいが、シンキング、アンド、アクション。これに尽きると思う。考えた事を、考えたままで、実行を自分でしてみるのと、してみないのでは全然違うと言うことが言いたかったのだ。こう言った中で、僕も色々と考え、実行してみている。中々、考えても、実行出来ないことがあったりするのだが。まさに、考えて、やってみる。もっと言えば、やれそうなことや、やってみたいことは何度でも、できるまでやってみればいいのではないかと思うのだ。できると言うことが、全部いいことかどうか、出来ないことが悪いとかダメとかではなく、やってみないと、始まらない事が多いのではないかと思うのである。短距離走も、長距離走も、スタートしなければ始まらないのと同じで、スタート地点に立って、そして、ゴールできるかどうかは別として、出発することから始めるしかないと思うのである。スタート地点に立って、毎日、0ではなく、1から始めようと思っている、曇り空の気候のいい、初夏の自分の部屋の中で僕はそう呟いている。
僕も含めて、大概の人は生き方が満足できているだろうか?果たして、今まで長く生きれば生きてくる過程で、全く後悔をしなくてよいパーフェクトな人生を生きてきている人がどれ程いるだろうか。少なからず、多くの人は後悔を少なからずしているはずだ。それが人生だとは思わないが、そう思っている人も多々いるのではないかと言うのは過言ではないと思う。
さて、そんな所で、後悔をいい方向に導く方法は、反省ではなかろうかとズバリ言ってしまおう。後ろを振り返るのは格好悪いと思ってしまうこともあるだろう。失敗や、後悔した事を、くよくよ悩んでもしょうがないと思うことも多々ある。しかし、あの時、こうしておけば良かった、過去に、こう言った失敗をして、またしてしまった、少々のことなら仕方ないと思う人も多いだろう。しかし、そうい事が無ければ、大きな失敗や、人生がもっと良くなっているかもしれないと思ったら、その日から、後悔を反省にかえ、そして、どうやったら、自分の人生が、生き方が後悔しない、お面返上の人生になるかを考えてみてはどうだろうか。
僕の経験上、まずは、大学を中退したことに遡る。あの時、大学を出ることも含めて、きっちりと勉強をして、学を納め、大学を卒業を諦めなければと言う後悔がある。そのほかにも、あの時、夢を追いかけて、心のままに仕事を変えていく事を、もっと、職業や会社を調べたり、じっくり腰を据えて働いていれば人生は違ったのではないかと言う後悔がある。この後悔を僕は若き頃に、大分、時間をかけて反省して、穴埋めをすることによって、やっと四十四歳にして、人生が回復してきたと思っている。元々、写真家というものになりたくて、二十歳くらいから、今にかけて、写真の作品を制作してきているが、写真家になるというより、色々な反省に於いて、写真が好きで続けているという方向性を僕は途中でとった。まあ、これは負け犬の遠吠えに聞こえる人はいるだろうが、写真制作を続けていて、作品が無い限り、出版社などに持ち込みもできなければ、ギャラリーにも作品を持っていけないわけで、続けていればいいというものでも無いという感じなのだけれど。活動は細々と続いていて、国際コンペティションの入賞的なものにも、四十歳を超えて、やっと、選ばれだし、淡々とそういった賞や、出版が全てではないが、世間に作品を認められ始めてきているという状態が続いている。これも、後悔をしないように、やるだけやっている自分がいること、こう言った行動を活動を続ける方に後悔がないように、自分の事は自分で責任を持てる範囲でやってきた自身の選択で、コンペティションなどで作品が認められなくても、後悔はしなかったと思っている。反省も、色々としてみた。勉強をしとけば良かったと思った時に、その数年後に通信制の写真学校と、ウェブデザインの専門学校を基金訓練という形で卒業した。この時も後悔をするなら、できる限りの方法で、リサーチして、学校を探し、何を勉強したいかという事を絞り込み、反省した事で、この二つの選択肢があったので、学校に行き、今回は毎日通い、卒業をした。感想としては、勉強をして、卒業する達成感と、後悔していた勉強しとけば良かったという思いの、しこりみたいなものが少し溶けた。しかし、大学への進学が強くなり、自分で独学でできることはしようと今も続けているが、これも、勉強していれば良かったと思うなら、遅くなっても、後悔するくらいなら、思ったその日から勉強でも、趣味でも始めればいいという考えにシンプルになった。後悔するくらいなら、できる範囲でやってみればいい。やらず後悔する人生なら、やって失敗しても四苦八苦しながら、やっていってみればいい。それは、仕事でも趣味でも同じマインドでやってみている。最初から、できる人はいないと僕は思っている。学校は教えてもらえて、卒業した後も、色々先輩や先生方に色々聞けることが多かったり相談できること、それもまたいい所だと思ったりしている。卒業してから後が、また面白くなってくる所ではないだろうかと専門学校を卒業して思った。これは、後悔の逆で、やってみて、達成を一つ一つしていくことでわかる事ではないだろうかと卒業してみてわかってきたことだ。あのまま、中退のままだったら、わからない感覚だったと思う。
さて、ここまできて、僕の例もあげながら、後悔をしない人はいないのではないかという点に絞ると、良い後悔にしようという考えが出てきたのである。良い後悔とは、後悔する事を反省して、やり直してみる、または、後悔しない人生になるように、考えた事を実行して、こういうことをしなければ後悔しなかったという点に帰り、後悔にお面返上すればいいのではないかと思うのである。これは、本当に、時間がかかるもの、時間をかけて考えなくては変えれない自分がいるが、長く、じわじわと実行していくと、良い方向に人生が行く事が多いと思う。反省して、心の片隅に忘れずに入れておくと、きっと、どこかで、悪いこと、後悔しそうなことにはブレーキが良い意味でかかると思う。そして、前を向いていけば良いのではないかと思うのである。これが、良い後悔の仕方と僕は名付けたのである。人生に後悔あれど、後悔を後悔したらしめない、良い後悔と思えば、苦いものも甘くなるかもしれないと思うのである。
当たり前のような事をここにだらだら記したが、僕の経験上、意外に後悔も多ければ反省することも多くて、やってみて、そして、リベンジならざるものをしてみて、人生がやっと穴埋めになったような感じになってきている。人によって、色々な人生があるが、過去の僕より、今の自分が僕は好きだ。それは、何か後悔だったり、悪いと思う事が、反省によって、もう、後悔を繰り返さないようになってきて、後ろめたさみたいなものがなくなってきているからだ。コッテリよりもあっさりな感じが自分は好きなので、それで良いと思っている。良い人生がどういったものかはわからないのだが、自己満足できる人生を送りたいと思い、ここに後悔というものを良い後悔にできる方法を書いてみたのである。まさに、死ぬ間際に、少しでも、生まれてきて良かったと思い、死にたいものである。田植え間近の故郷の夜に。
思いついた事を、気づいたことを好き放題書いた僕のエッセイに付き合ってくれてありがとうございました。
僕も含め、人は多くの事を、少なからず、毎日感じているような気がするのです。
それは、生きているという事のような気がしています。
生きていると、感じることは沢山ある、また、日々、感じることは増えていくと勝手に我ながら思っています。
鈍感になればどれだけ、楽に生きていけるのだろうと思っていたりします。
敏感な訳でも、繊細な訳でもないような気がするのですが、人なりに、普通に感じるものや、感じることはどうもあるみたいです。
劣等感を胸に、ここまで生きてきた私ですが、最近、本文にも書いたように、人生の先輩方々にお叱りを受け、母校愛ならぬものが芽生えました。
学校は好きだけれど、勉強はあまり好きでは無かった僕ですが、どうも、最近、風向きが変わりまして、勉強のような遊びという感じで、知るということ、考えるということを楽しんでおります。
そういった中で、気づいたこと、生きてきた感想や我が思想とでも言っても良いと思われるもの。
それを、多角的視点から綴ったつもりであります。
本当に、僕にとっては、大切な時間を文字に変えてチャレンジしております。
文章は下手かもしれませんが、魂の叫びと思って読むという感じでも、音楽を聴く感じでもさらりと触れてください。
本当に、ここまでお付き合いありがとうございました。
小さな声で、遠くに響いて欲しいと思いながら。
2025/06/09 Tomohiko Okazaki
2025年6月9日 発行 初版
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趣味は空想 カメラは愛人 心はいつも根無し草 1981年、岡山県岡山市生まれ。 The Photograph Institute卒業。 2001年、夏、東京、高輪のギャラリー、啓裕堂ギャラリーで初個展「無題」を開催。 2002年、表参道FABのイベントで、個展「キャラメルシリーズ」を展示。同年、阿美智篤氏に師事。川澄建築写真事務所、アドグラフィックのアシスタントバイトを経る。 その後、色々な職を転々とする。 2012年、Studio baysick設立。同年、「アートの今、岡山2012」グループ展に選考され、岡山天神山文化プラザ、高梁市歴史美術館、奈義町現代美術館の巡回展に参加。 岡山の郊外で、ヒッピー的生活を送りつつ、写真撮影、研究をしている。最近の代表的な仕事に、フランスのHip Hopミュージシャン「The Qiwu Selftet」のCDジャケットの仕事がある。マイブームはスロウライフ。