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SNS中毒の土建屋社長

ミヤベ ナオ



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SNS中毒の土建屋社長

〜#パスタ #談合 #ハッシュタグ〜

目次
0.おことわりのようで、実は序章〜どこにでもいるが、近くにはいてほしくない〜
1.ボンボンに生まれてしまった悲劇〜二代目という呪い〜
2.マツゴロー土建の血統〜創業者は誰でもない土地の名〜
3.土建屋の本能〜談合という名の習性〜
4.和風パスタしか作れない男〜味付けは"無教養"〜
5.SNS映えする社長業〜ハッシュタグに命を賭けて〜
6.顔出し地鎮祭〜顧客のプライバシーは無関心〜
7.嬢ちゃんを呼び戻せ〜娘と会社と紙カップ〜
8.建築業という背伸び〜実際に現場を回しているのはアイツ〜
9.火曜は「料亭だんごう坂」〜店名に“さん”をつける気持ち悪さ〜
10.Facebook依存症〜ログインしなきゃ死ぬ病〜
11.「いいね!」の鬼〜あなたの投稿に秒で反応〜
12.誕生日ポエム職人〜例え死んでも「佳き日に」〜
13.地域災害、我が社に春〜ウハウハが止まらない堤防工事〜
14.大阪の味を知ってる風〜数ヶ月の研修で語る通ぶり〜
15.消したい学歴、語れない過去〜Fラン土木科という黒歴史〜
16.「醤油が正解」の持論〜アジフライと文化論争〜
17.SNS恋愛狂騒曲〜人妻布井さんとの“健全な”交流〜
18.投稿の流れに美女あり〜風俗嬢写真と即「いいね!」〜
19.フリーター彼氏を婿養子に〜娘の恋愛にも土建魂〜
20.顧客を「ご縁」に変える魔法〜リフォームより新築が好き〜
21.Facebook互助会〜同じ顔ぶれ、同じコメント〜
22.あなたのタイムラインに必ず現れる男〜奴化現象〜
23.ハッシュタグ地獄〜コピペで拡がるダサさの連鎖〜
24.情報過多で無知〜SNSだけで世界を語る男〜
25.勉強会と称して飲み会〜「Facebook〇〇会」商法〜
26.誰かが作った弁当を、誰かの愛と呼ぶ〜“お弁当”という演出〜
27.娘のインスタ気取りに冷えた笑い〜おじさんの限界芸〜
28.Facebookから姿を消した女〜布井さんの行方〜
29.無教養がもたらす人災〜常識がないって、罪だよ〜
30.社長って呼ばれたいだけの人〜肩書きにしがみつく老後〜
参考文献

0.おことわりのようで、実は序章〜どこにでもいるが、近くにはいてほしくない〜


0.おことわりのようで、実は序章〜どこにでもいるが、近くにはいてほしくない〜

本書に登場する人物・団体・SNSアカウント等はすべてフィクションであり、現実のものとはいっさい関係がありません。

……と言いたいところですが、もしかすると「これ、絶対あのオッサンのことやん!」とページをめくる手が震える読者もいるかもしれません。

ですが安心してください。似ているだけです。
なにせこの物語の主人公は、〈どこの町にも一人はいる〉という統計があったら信じたくなるレベルの〈SNS依存型・中年土建屋社長〉です。
特定の誰かではなく、全国の“あるある”が凝縮された存在なのです。

ただし、もしも本書を読んで「笑えない」「心がえぐられた」「明日からSNSが開けない」という気分になったなら、それはもはや……あなたの隣にいるということかもしれません。いや、ご本人かも?

また、本書に登場するような人種は、こちらが丁寧に接しても《ヨイショと勘違いする》傾向がありますので、くれぐれもご注意を。
彼らは友人にはなれませんが、稀に小銭を持っているため、ランチ代ぐらいは出してくれるかもしれません。
私は絶対にご一緒しませんけどね。無教養なパスタに付き合う趣味はありませんので。

さあ、ページをめくる準備はよろしいでしょうか。
土建業界とSNS文化が出会ったとき、悲劇ではなく《風刺》が生まれたのです。

1.ボンボンに生まれてしまった悲劇〜二代目という呪い〜


1.ボンボンに生まれてしまった悲劇〜二代目という呪い〜

地元の片田舎に、昭和の公共事業で財を成したひとつの土建屋がある。創業者はマツゴローという名ではないが、なぜか社名はマツゴロー土建工業株式会社。由来は一族の暮らす地域名だそうで、創業者が誰であろうとどうでもいいと語るようなネーミングセンスである。

その創業者、つまり祖父は、泥まみれになりながら現場で鍬を握り、地元行政に深々と頭を下げて仕事を請け負い、じわじわと信用を積み重ねてきた。名を売り、汗をかき、職人たちとメシを分け合いながら、真っ当に会社を興した人物だった。

ところが、跡を継ぐはずだった息子――つまりこの物語の主役の“親”である人物は、その道を嫌った。大学で学び、東京に出て、土建業とは別の業界へ進んだ。都内の企業で定年まで勤め上げたのか、それともどこかで脱落したのか、それすら定かではないが、少なくとも土建屋の「どうしようもない泥臭さ」は肌に合わなかったようだ。

さて、問題はその次である。親がその道を継がない以上、残された後継者候補は誰か――そうなると、自動的に浮かび上がるのが孫、つまりこの“二代目社長”である。

当時まだ若かった彼に、会社の将来を託すという選択がなされた背景には、後継者不足というこの業界ならではの切実な事情があったのだろう。しかし、よりによってこの男とは。誰もがそう思ったに違いない。なぜなら、彼には《何もない》からである。

頭脳、実務経験、人望、志、すべてにおいてゼロスタート。いや、スタートラインにすら立っていなかった。それでも彼は“孫”というただ一点のステータスで社長の椅子に据えられた。本人は「俺が選ばれた」と誇らしげだが、正確にいえば「他に誰もいなかった」だけの話である。

その自覚は、当然、ない。

彼の歩みは「社長」としてのそれではなかった。せいぜい「社長ごっこ」である。会議では意味のない言葉を並べ、現場にはスーツで現れ、社員には「俺も若い頃は苦労した」などと平然と嘘をつく。苦労?スーツを汗で濡らした経験すらない男が?

そして極めつけは、社長としての“仕事”がSNSへの投稿という点である。地鎮祭に出れば、Facebookに写真。仕出し弁当を食べれば、Facebookに感想。「今日も感謝」「ご縁に感謝」「地域に貢献」など、どこかのセミナーで聞いたような薄っぺらい言葉を並べては、いいねの数を数える日々。まるで承認欲求だけが燃料の人間発電機である。

誤解なきように申し上げておくと、SNSが悪いのではない。SNSを“自己表現”として使う人もいれば、“広報”として有効活用する者もいる。しかし彼の場合、それは《自分が社長である証拠》を日々アピールするための道具にすぎない。自らの実績は語れないが、現場の写真は載せられる。自分の言葉では語れないが、他人のテンプレートを借りて投稿できる。

料理もまた、彼の虚飾のひとつだ。週末には必ず「男の手料理」と称して、和風パスタを作っている。これがまた、茹でたスパゲティに、冷蔵庫の野菜とベーコンを炒め、麺つゆで味付けしただけの代物。料理初心者でも挑戦できるレベルだが、彼はそれを「自分の特製レシピ」としてFacebookに投稿する。「料理男子も板についてきたかな」などと書き添えれば、取り巻きたちが「社長、すごい」「カフェ出したら?」と歯の浮くようなコメントを残す。まさに“社長”という記号を賞賛するだけの世界。中身は問わない、問われない、だから成長しない。

では、学歴はどうか。これまた悲劇的である。彼の出身校は、地方のFラン大学の土木科。あまりにも影が薄く、大学名を一部消せば旧帝大のように錯覚する者もいるかもしれない、というほどの紛らわしさ。もちろん本人はそれを口にしない。過去を語らないのは、自信のなさの裏返しでもある。代わりに語るのは「大阪時代、よく食べましたよ」の一点張り。実際には、学生時代に数ヶ月ほど大阪で研修があっただけらしい。それをまるで5年も10年も住んでいたかのように語るのが、彼流の“経験値”である。

社員たちは知っている。現場を守っているのは、実はたった一人の有能な部下だということを。社長が表に出てくるのは、地鎮祭とSNS投稿だけ。そのくせ「うちのチームは結束が違う」と口にするあたり、聞いている者の胃がもたれるのも無理はない。

そして彼は、今日もスマホ片手に“社長”を演じている。寝ている時間以外、ほとんどFacebookを開いており、「いいね!」の嵐を起こしているらしい。誕生日通知が来れば、自動的に「お誕生日おめでとうございます。佳き日に。ご縁に感謝。」と書き込む。すでに数年ログインしていない人のページにも、同じ定型文を貼りつける律儀さ。感謝という言葉も、使いすぎれば安っぽくなるということに、まだ気づいていない。

このような人物が、なぜ“社長”でいられるのか。その答えは明快である。《ただ生まれただけ》だからだ。努力ではない。能力でもない。人格でも、志でもない。単なる「孫」という立場。それだけで与えられた地位に、何の責任感も覚えず、何の疑問も抱かず、ただ浮かれている。

本来、代を継ぐというのは“重さ”である。家業を守るとは、単に椅子に座ることではなく、先代の苦労を継承し、それを超える覚悟を持つということだ。しかし彼の中にあるのは、《選ばれた者の特権意識》のみである。

こうして今日も、マツゴロー土建工業株式会社の二代目社長は、パスタを炒め、弁当を撮り、「いいね!」を押し続ける。自らを育てるでもなく、誰かを導くでもなく、ただ《社長という名の空洞》を保温し続けている。

こんな人物に、若者は何を学べというのか。老害は、年を取ったからなるのではない。《自分を省みない者》が、老いてなお地位にしがみついたとき、初めてその本性をあらわすのである。

2.マツゴロー土建の血統〜創業者は誰でもない土地の名〜


2.マツゴロー土建の血統〜創業者は誰でもない土地の名〜

まず断っておくが、「マツゴロー」という人物は実在しない。ではなぜ「マツゴロー土建工業株式会社」なる社名が生まれたのか。それは、彼ら一族が住む地域の地名が「松五郎地区」だったからである。ただそれだけの理由で、「なんとなく親しみやすいから」という実にぼんやりした動機で会社名に採用された。創業者の名前でもなければ、特別な由来があるわけでもない。つまり、この時点ですでに看板に魂は宿っていなかったと言える。

しかしながら、創業者である祖父は、そんな軽々しい社名とは裏腹に、地元ではそれなりに名の通った男であった。昭和の高度成長期、地域のインフラ整備が進む中、役所との根回しを怠らず、地元の酒席にも顔を出し、時には現場で汗をかき、職人たちに頭を下げて仕事を取っていた。時代に合わせ、時に不正すれすれの綱渡りをしながらも、地域に貢献しているという体裁を崩さずにやってきた。その結果、「マツゴロー土建」は「地元の顔役」としての地位を築いたのである。

ところが、である。この「地元の信用」という目に見えない財産を、三代目ではなく、二代目が食いつぶそうとしているという現実がある。なぜなら、二代目社長は創業者の息子ではないからだ。息子はこの業界に嫌気が差し、東京で別の人生を歩んでいた。つまり、土建業を継ごうという意志など微塵もなかった。その代わりに白羽の矢が立ったのが、彼の息子、すなわち創業者の孫である。

この孫がまた、「社長とは呼ばれたいが、汗はかきたくない」タイプの男だった。家柄と地元の知名度に乗っかり、実務も現場も知らぬまま、会社の代表に据えられてしまった。もちろん、彼にとってはこの上ない名誉であり、まるで自分が何かを成し遂げたかのような錯覚に陥った。

だが、それは周囲の人間にとって、まったくの悪夢でしかなかった。特に現場の人々にとっては。工事の段取りもわからず、材料の見積もりも読めず、雨天中止の判断すら社員任せ。そんな人物が「マツゴロー土建」の顔として取引先に出てくるのだから、あらゆる場面で信用が揺らぎかねない。しかも、彼は「社長業とは人と人とのつながりである」と都合よく解釈し、昼夜問わずFacebookで“つながり”を築くことに励んでいた。

彼のSNSアカウントには、地元の名前が踊る。どこそこの神社、どこそこの料亭、どこそこのスーパー。それらに“さん”付けして投稿するのが彼のマナーだそうだ。地元愛を装うことが、あたかも地域貢献になると信じて疑わない。だが実際には、それらはすべて自己満足のアピールにすぎず、誰の役にも立っていない。顧客の新築祝いの写真を無許可でアップし、個人情報丸出しの投稿をすることすらある。だが彼は、「#ご縁に感謝」の一言で、それがすべて許されると思っている。恐るべき思考回路である。

「マツゴロー土建」という名前を支えてきたのは、名もなき職人たちの汗と、創業者の地元への誠意だった。それは、SNSの「いいね!」では積み上がらないものである。にもかかわらず、二代目はそれを理解せぬまま、SNSでの自己演出と、自分語りで“経営”をしているつもりになっている。

名前とは、積み重ねた信頼の象徴である。だがそれを理解しない者にとっては、ただの看板でしかない。「マツゴロー土建」は今日も看板だけを立派に見せながら、中身の空洞化が着実に進んでいる。そして皮肉なことに、その看板の名前「マツゴロー」には、もともと何の意味もなかったのである。

この血統は、血の中ではなく、土地と時代が育んだものだった。それを忘れた時、人は平気で先人の築いたものを消費し、浪費し、最後には《名前だけが残る》という末路を辿るのかもしれない。

3.土建屋の本能〜談合という名の習性〜


3.土建屋の本能〜談合という名の習性〜

公共事業の世界において、「談合」という言葉は、もはや化石のように存在していると思われがちだ。だが実態としては、まだしぶとく息をしている。ましてや地方の土建屋にとって、それはもはや文化であり、風習であり、ある種の本能である。生き残るために必要な呼吸であり、空気のような存在なのだ。

そもそも談合とは、複数の業者が裏で話し合い、あらかじめ入札価格を調整する行為である。表向きには「競争入札」と言いながら、実際には「順番決めの話し合い」でしかない。もちろん、これはれっきとした違法行為である。だが地方では、それが“暗黙の了解”という名の慣例として残っている場合がある。

そして、例の二代目社長もまた、この習性を体内に取り込んでいる。正確に言えば、彼自身は談合の仕組みも、リスクも、本質も理解していない。ただ、「昔からそうしてきた」と、祖父から伝え聞いたようなことを鵜呑みにしているだけである。現代の法律やコンプライアンスの概念には目もくれず、「今回は〇〇建設さんに顔を立てて…」などと平気で口にする。どこの戦国時代だ。

談合の席は、たいてい「業界の集まり」とか「親睦会」などと婉曲に呼ばれている。場所は地元の老舗料亭か、もしくは妙に隠れ家的な割烹。料理が目的ではなく、席次と空気が重要なのだ。あからさまなやりとりは交わされないが、「まあ、今回はウチじゃないと思うんですよね」と誰かが言えば、「じゃあ、次はお願いしますよ」と他の誰かが返す。これで成立する。人間関係だけで進行する、ルールなき交渉術。論理よりも空気。文書よりもまなざし。要するに、書いて残すと困ることばかりなので、すべて口約束で済ませる。

二代目社長は、こうした場に出ると、やたらと和やかに振る舞い、手土産の渡し方だけは妙に慣れている。先代が使っていた酒屋からの日本酒を持参し、「いやいや、今回はうちが遠慮しときますんで」と、まるで奥ゆかしいふりをする。だが、その心は見え透いている。次の美味しい案件にはきっちり名前を入れてくるつもりである。

これが、彼の言う「地元との繋がり」だというのだから、笑えない。いや、むしろ乾いた笑いしか出てこない。

彼にとって、仕事とは“順番に回ってくるもの”であり、“取るか取られるかの競争”ではない。努力して獲得するのではなく、顔を売って、席に着いて、にこにこしていれば舞い込んでくるものだと思っている。だから彼の口から出る言葉は決まってこうだ。「うちは、地元を大切にしてますからね」「顔を立て合ってこそ、業界ってものですよ」。業界とはなんぞや。倫理とかルールという概念が、彼の語彙には存在していない。

談合の何が問題なのか、彼は真剣に考えたことがない。そもそも「公正な競争」などという言葉には何の魅力も感じていない。競争して負けたら困るからである。なぜなら、実力で勝つ自信がない。だからこそ“順番”というぬるま湯の中でしか泳げない。競争の土俵に立つ気がない者ほど、談合という制度を“知恵”として美化する。まるで義理と人情が支配する人間関係の美談のように語るが、実際はただの怠惰と恐怖である。

さらに彼は、談合によって得た案件についても、堂々とSNSで報告する。「地域の発展に微力ながら貢献できること、嬉しく思います」といった投稿が並ぶ。微力どころか、無力であることに気づいていない。そもそも、それは競争を経た公正な発注だったのか。入札に勝ったのではなく、順番が回ってきただけではないのか。そんな自問は、彼の中には一切存在しない。

このようにして、談合という文化は、世代を越えて引き継がれていく。だが、かつてのような「持ちつ持たれつ」ではなく、現代では“通報されるリスク”という爆弾を抱えたままの危うい綱渡りだ。コンプライアンスの波は確実に押し寄せており、かつてのやり方が通用しなくなる日は近い。にもかかわらず、彼らはまだ“談合の空気”を吸って生きている。もはやそれがなければ生きられないという、本能のレベルにまで染みついているのだ。

マツゴロー土建の二代目社長は、今日も「地元のため」と称しながら、料亭で顔をつなぎ、次の順番に備えている。仕事の中身よりも席次、能力よりも付き合い、ルールよりも空気。まさに、土建屋の“進化しない本能”がここにある。

そして彼は、これを「人情」と呼んでいるらしい。恐ろしいことである。

4.和風パスタしか作れない男〜味付けは"無教養"〜


4.和風パスタしか作れない男〜味付けは"無教養"〜

「今日のランチは、特製和風パスタ。冷蔵庫の余り野菜とベーコンで、ヘルシーに仕上げました。#男の料理 #ご縁に感謝」

このような投稿が、彼のFacebookには定期的に現れる。写真には、テーブルに置かれた白い皿と、そこに盛られたパスタが写っている。スパゲッティの上に申し訳程度の小松菜としめじ、そしてベーコン。味付けは、麺つゆ。それだけである。しかも、具材の切り方には包丁への敬意も感じられず、まるで朝のゴミ出しのような雑さで並んでいる。美的センスはどこへ行ったのかと問いたくなる仕上がりだが、彼はそれを「男の手料理」として誇らしげにアップしている。

彼の中で、「和風パスタ」とは万能の象徴であるらしい。何を入れても“和風”と言っておけばごまかせる、という驚くべき柔軟性を持つ概念である。しかしそれは《柔軟性》ではなく、《思考放棄》に他ならない。醤油を入れれば和風、麺つゆなら本格、ベーコンがあれば贅沢。彼の中には、出汁や調和といった繊細な味覚の世界は存在しない。ただ“それっぽい”という雰囲気で、料理という行為をしたつもりになっている。

そもそも、彼は「パスタ=スパゲティ」と思い込んでいる節がある。ペンネ?リングイネ?フジッリ?なにそれ。聞いたことない。彼にとって、パスタとはママーの1.6mmストレート麺だけを指すものであり、アルデンテなどという概念は「外国の映画の中の話」である。もちろんオリーブオイルも、エクストラバージンとピュアの違いなど理解していない。ただなんとなく、油っぽいよりは「和風の方がヘルシーそう」という理由で選ばれているだけだ。

そんな料理をFacebookに投稿すれば、当然のように“取り巻き”が群がる。「さすが社長」「お店開けますよ!」「奥さま幸せですね」などの、褒め殺しコメントが並ぶ。もはや味ではなく肩書きに「いいね!」が集まっている構図は、料理という行為の本質からは、はるか彼方である。

だが、問題はそこではない。この「和風パスタの男」は、自らの《無教養》を自覚していないという点にある。知識がないことに恥じらいがなく、むしろそれを「親しみやすさ」や「自然体」とすら捉えている節がある。食文化や調理技法に対する興味は皆無であり、調味料の使い方も、ただ「味が濃くなればいい」という次元にとどまっている。昆布の旨味?鰹の風味?それらは、彼にとって“難しい話”で済まされる。

彼が特に得意げに語るのは「素材の味を活かすには、やっぱり醤油なんだよね」という持論である。アジフライにも、焼きそばにも、果てはトマトソースのパスタにまで「醤油が合うんだよ」と呟く姿には、周囲もそっとスマホを伏せたくなる。

だが、その「素材の味を活かす」などという言葉は、実際には素材に塩胡椒をして、油で揚げた時点で破綻している。そもそも、フライにした時点で素材の味というより、“調理された味”である。そこにさらに“調味”を施すのだから、論理的にも破綻している。だが、彼にとってはそんなことは関係ない。「醤油で食べる俺=素材を大切にしている俺」なのだ。

このように、料理においても、彼の行動原理は《自己満足》と《演出》で成り立っている。そこにあるのは、知識や技術ではなく、「なんとなくそれっぽい」ものをSNSに載せることで得られる小さな承認の快感である。料理というのは、味覚を通じて世界を知る学びであり、文化への敬意がにじむ営みでもあるはずだが、彼のキッチンにはそうしたものは一切存在しない。

和風パスタ。それは彼の人生そのものである。外見はそれっぽいが、内実は雑で、味も浅く、そして何よりも〈教養という出汁〉がまったく感じられない。醤油をかけて、ハッシュタグをつけて、今日もまた“料理した気になっている”だけの、寂しい食卓がそこにある。

5.SNS映えする社長業〜ハッシュタグに命を賭けて〜


5.SNS映えする社長業〜ハッシュタグに命を賭けて〜

彼の一日は、Facebookの通知音で始まる。そして、Facebookの投稿を眺めながら終わる。もはや人生の主戦場が現場ではなく、SNSであることを隠そうともしない。自称・地元密着の土建屋二代目社長。実態は、スマホと共に暮らす“情報発信型中年”である。

かつて、社長といえば重厚な人物像だった。経験と威厳を併せ持ち、無口で、必要な時にだけ言葉を発し、背中で語るような存在。しかし、彼は違う。黙っていればただの中年太りの男であり、背中に語らせたところで、せいぜい背脂が語るだけである。だからこそ、彼は言葉を武器にする。いや、正確には言葉の《体裁》を武器にする。

彼のSNS投稿の特徴は、なんといってもハッシュタグの乱舞である。料理の写真には「#男の料理」「#和風パスタ」「#社長の休日」「#ご縁に感謝」が付き、地鎮祭には「#地域密着」「#感謝」「#晴れ男」「#一期一会」が並ぶ。現場の職人たちとの写真には「#絆」「#仲間」「#職人魂」「#安全第一」などのテンプレートが投入される。どれも似たり寄ったりで、違いは被写体だけだ。

投稿文も例外ではない。どの文章も、「○○に感謝」「○○と繋がれることのありがたさ」「地域のために微力ながら」など、耳に優しい言葉がならぶ。だが、それらはすべて《内容を伴わない演出》である。現場での出来事や、従業員の努力、その日あった小さな発見などを語ることは一切ない。あるのは“それっぽい写真”と“感謝という言葉”だけだ。

この“感謝”がまた、実に安売りされている。「ご縁に感謝」「出会いに感謝」「地域に感謝」「天気に感謝」「ごはんに感謝」――何にでも感謝する。しまいには、「#おにぎりに感謝」「#米農家さんに感謝」などという、どこかのCMのパロディのようなものまで登場する始末。まるで“感謝さえすれば批判されない”という免罪符のつもりでいるのだろう。

しかし、そうやってハッシュタグの羅列とともに積み上げられるのは、実績でも信用でもなく、《中身のない社長像》である。むしろ、SNSにおける“いいね!”の数が、彼にとっての実績になってしまっている。「こんなに多くの人が自分を見てくれている」「こんなに共感してくれる仲間がいる」――その幻想の中に、自らを埋没させていく。

もちろん、SNSが悪いわけではない。正しく使えば、会社の情報発信、地域との連携、採用活動など、あらゆる面で効果を発揮する現代のツールである。だが、彼の使い方はそうではない。自己愛の延長線上にある、まるで“日記帳に鍵をかけずに放置している”ような危うさがある。何も考えず、何も掘り下げず、ただ“今日も投稿した”という既成事実を積み重ねているだけだ。

一日に押す「いいね!」の数は推定1000。ほとんどの地元民の投稿には即反応し、時には投稿内容をよく読みもせず、ひたすら「いいね!」を押し続ける。中には数年もFacebookを更新していない人にまで誕生日メッセージを送り続け、「生存確認」という別の機能を発揮している。誰も頼んでいないのに、彼は毎日誰かのタイムラインに現れる。もはや彼がいるのが日常。いないと逆に不安になる、という新たなジャンルの“常駐おじさん”である。

このような彼のSNS活動は、当然、社内では触れられない暗黙の話題となっている。「見ましたよ、昨日のパスタ」などと声をかければ、たちまち“いいね!の鬼”が発動し、以後、自分の投稿にも律儀に反応してくるからである。社員たちはそれを避けるために、自分のアカウントから距離を置き、ある者はこっそり別アカウントを使い分けている。社長とのSNS接触を避けるために、隠れて生活するとは、まるで社内に一匹の“情報吸血鬼”がいるような状況である。

にもかかわらず、彼は自信満々である。「うちの会社は風通しがいい」「社員の声を大切にしている」「デジタルの力で地元と繋がる」などと語るが、風通しがいいのは社員が風上から静かに彼を眺めているからであり、声が大切にされているのは“表向きだけ”の話である。デジタルで繋がっているのは、地元ではなく彼の承認欲求である。

結局のところ、彼にとって社長業とは、日々の投稿とハッシュタグに自分の存在を刻み込むことなのだ。会議での発言や事業計画ではなく、パスタの写真と「#ご縁に感謝」の文字列こそが、彼の経営手腕であるという認識なのであろう。

SNSとは、自己表現であると同時に、他者との関係性を映し出す鏡でもある。その鏡に映るのが、和風パスタと無許可の顧客写真と、心のない「ありがとう」だとしたら――もはや何も映っていないに等しい。ハッシュタグに命を賭けるその姿は、社長という肩書きの中身が空洞であることの証明に他ならない。

6.顔出し地鎮祭〜顧客のプライバシーは無関心〜


6.顔出し地鎮祭〜顧客のプライバシーは無関心〜

地鎮祭とは、本来、土地の神様に対して工事の無事を祈願する神聖な儀式である。建築主、施工者、神主が揃い、厳かな空気の中で行われるのが本来の姿だ。ところが、この神聖な儀式を、彼はまるで“社交イベント”のように扱っている。いや、正確には、“SNSのネタ素材”として乱用していると言ったほうが正確であろう。

現場に現れる彼は、いつものようにネクタイを少し緩め、手にはスマホ。神主の祝詞が響く中でも、彼の視線は神ではなく、カメラのアングルに向いている。参加者全員が深く頭を垂れる場面でも、彼だけはしれっと周囲の様子を撮影。「あ、ちょっと写真撮りますね!」と、儀式の途中で平気で立ち上がる。だれも止められない。なぜなら彼は“社長”だからである。

しかも問題は、撮影するだけにとどまらない。その日のうちに、Facebookにその写真を投稿するのである。タイトルは「〇〇市〇〇町、地鎮祭無事執り行われました。#感謝 #ご縁に感謝 #晴れ男」など、いつものハッシュタグ芸。ところが写っているのは、顧客の住所が推測できる風景と、顧客本人の顔、そして場合によってはご家族の姿まで。中には小さな子どもの笑顔もある。

だが彼はそれに微塵も疑問を抱かない。「地元で建てさせてもらえることが嬉しいんです」「うちの施工事例は全部リアルで、加工してません」などと、あたかも“誠実さ”の証のように語る。加工していない、ということがなぜここで誇りになるのかは理解に苦しむが、本人はそれを“嘘のない姿勢”と信じている。

もちろん、顧客から明確な「顔出しOK」の同意を得ているわけではない。むしろ、彼の中では「撮ったから出す」のがデフォルトであり、「出されたくなければ最初に言ってね」という、逆転した論理構造が常識になっている。だが現代において、個人情報の扱いはきわめて慎重であるべきだということは、小学生でも知っている。

彼はよく、「人と人とのつながりが大切」と言うが、そのつながりが一方的であることには気づかない。彼にとっての“つながり”とは、「自分が相手の情報を自由に使える状態」に他ならない。それは信頼でも尊重でもなく、ただの《情報の私物化》である。

また、投稿の中で顧客を紹介する際にも、どこか上から目線がにじむ。「素敵なご家族さまとのご縁に感謝」「地元に根差すご家庭のお手伝いができて光栄です」など、まるで自分が“人助け”をしているかのような語り口。だが、実態は契約を取り付け、工事を請け負っているだけである。それを“恩を売る”かのように言い換えるあたり、プライバシー感覚以前に、人間関係の基本的なバランスが崩壊している。

一方、投稿を見た側の顧客はどうか。「あ、私たちの写真、勝手に載ってる…」と内心ドン引きしながらも、「まあ、いいか…」と我慢してしまうケースが多い。なぜなら相手は“社長”だから。今後の工事が円滑に進むよう、空気を壊したくないという心理が働く。こうして、誰も声を上げないまま、彼のSNSには顔出し写真が積み重ねられていく。

さらに、投稿された写真はタグ付きで拡散され、地域名や会社名と紐づいて検索に引っかかるようになる。つまり、顔、家族構成、居住地域、建築予定地といった《個人の生活の核心部分》が、検索ひとつで第三者の目に触れるリスクを孕んでいるのだ。本人は「見てもらった方が宣伝になる」と本気で思っているが、家の外観を晒されて喜ぶ施主がどれだけいるというのだろうか。

中には、「SNSで紹介されて嬉しかったです」と言ってくれる顧客もいる。だが、それは《彼に気を遣っている》か、《SNS慣れしていて気にしないタイプ》のどちらかであり、大多数の人間は、自分の生活空間を勝手に公開されることに抵抗を感じるはずである。だが彼は、そうした沈黙を“承諾”と勘違いする。

「お客様あっての我々です」と語る彼の目線は、常にスマホのカメラの先にある。顧客の目を見ることよりも、スマホ越しに“見せたい自分”を演出することの方が大切なのだ。彼にとって地鎮祭は、神事でも契約の節目でもなく、《撮影イベント》に成り下がっている。

このように、顔出し地鎮祭は、彼にとっては「地域密着の証」であり、「現場主義の象徴」であるかもしれない。だが実態は、顧客のプライバシーと尊厳をないがしろにした、非常に《自己都合な演出》である。

建築とは、誰かの人生に深く関わる仕事だ。そのスタート地点である地鎮祭に、敬意も慎みもなく、自己満足の投稿だけが優先されるのだとしたら――それはもう、信頼される土建屋ではない。ただの「目立ちたがりの人間広告塔」にすぎない。

7.嬢ちゃんを呼び戻せ〜娘と会社と紙カップ〜


7.嬢ちゃんを呼び戻せ〜娘と会社と紙カップ〜

地元に暮らすボンボン社長には、一人娘がいる。彼女はごく一般的な感性を持ち、かつては「こんな田舎、二度と帰ってこない」と言い残して都市部へと旅立った。学歴もそこそこ、身なりも小綺麗で、接客業をしながら日々の暮らしを自分なりに楽しんでいた。都会に暮らす女の子らしい、カフェと美容院とコスメとSNSのある日常。そこに「マツゴロー土建」の影は、まったく存在しなかった。

ところがである。ある日突然、彼女は地元へと戻ってくることになる。きっかけは“社長”のご決断。理由は単純明快、「おまえも、そろそろうちの会社のこと、考えてみたらどうだ?」である。口ぶりこそ柔らかいが、その実、強制力は絶大だった。というのも、彼女には特に帰郷の必要性もなければ、本人が「土建屋で働きたい」と思ったことも一度もないからだ。

要するに、《跡継ぎが欲しい》のである。娘でもいい。できれば、娘が連れてきた彼氏にも興味がある。うまくいけば、地元で所帯を持たせて、マツゴロー土建の看板を守らせよう。そんな打算が透けて見える家族経営の構図。父親の「地元愛」という名の“支配欲”が、娘のライフスタイルを侵食していく。

娘は娘で、空気を読んだ。「今さら帰ってこいって、何のつもり?」と思いつつも、「地元の親が高齢だから」とか「まあ、いつかは…」などと自分に言い訳をしながら、ズルズルと戻ってきてしまった。だが、やりたいことは地元にはない。夢を持って帰郷したわけでもなければ、熱意があったわけでもない。ただの消去法の帰省。それでも、親からすれば「うちの子が戻ってきた」と誇らしげに話す。

そんな娘の現在はというと、会社の経理補助をしながら、某大手コーヒーチェーンでアルバイトをしている。都会時代と比べて待遇も仕事の幅も狭まったが、彼女なりに折り合いをつけて生きている。しかし、そのコーヒーチェーン店の紙カップが、まさかこんな形で父親のSNSに登場するとは、本人も予想していなかっただろう。

ある日、彼はこう投稿する。「今日も娘が頑張ってました。#家族に感謝 #娘の笑顔 #地域で育てる」。添えられた写真には、紙カップとカウンター、そして後ろ姿の女性店員らしき影。あきらかに“親バカ全開”の投稿だが、それが悪目立ちするのは、社長という肩書きが加わっているからである。

娘としては、そっとしておいてほしい。ましてや、バイト先で写真を撮るなどもってのほか。周囲の人間も、誰が彼女の父親なのか、すぐに察してしまう。その結果、上司も同僚も「娘さん、頑張ってますね〜」などと妙な空気になる。本人が望んでいない形での“紹介”が行われ、しかもそれがSNSに永久保存されてしまう。これほど無神経な愛情表現があるだろうか。

だが、社長は満足げだ。「うちの子も、地元で頑張ってる」と“地元密着アピール”のひとつとして活用しているのだから始末が悪い。もはや娘の人生も《会社広報素材》の一部として扱っているのだ。

さらに話は続く。娘が連れてきた彼氏にも「うちの仕事、手伝ってもらえんかな?」と声をかけ始める。口調は穏やかだが、内容はほとんど“婿に取り込む作戦”である。会社に入れさえすれば、あとはどうとでもなる。跡継ぎを作るためなら、個人の適性も希望も知ったことではない。家族を“会社を守るための部品”と捉えていることが、ここではっきりと露呈する。

彼にとって、娘とは「守るべき存在」ではなく、「使うべき資源」なのだ。娘の人生、彼氏の人生、そのすべてを《マツゴロー土建の永続》という名のもとに吸い寄せていく。土建屋の血筋に生まれたからには、自由など許されない。選択肢は「家を継ぐ」か、「親不孝者として扱われる」かの二択である。

だが、娘はそんな父の目をよく知っている。そして、うっすらと絶望している。だからこそ、紙カップ片手に無言でカフェの裏口に立つその表情には、かすかな疲れが滲む。父親が見せる“地元愛”と“家族愛”の裏にある独善を、誰よりも早く察してしまったのは、皮肉にも当の娘だった。

結局、嬢ちゃんを呼び戻したところで、それは“帰還”ではなく“回収”である。娘は地元に戻ったが、自由意思ではない。紙カップに映る笑顔の裏には、《マツゴローの呪縛》という重たい影が、確かに存在している。

8.建築業という背伸び〜実際に現場を回しているのはアイツ〜


8.建築業という背伸び〜実際に現場を回しているのはアイツ〜

本業は土木。堤防だ、側溝だ、道路だと、地味ではあるが社会インフラを支える重要な仕事に長年携わってきた。それが「マツゴロー土建工業株式会社」の看板であり、創業者の祖父が地元で積み上げてきた信用の根拠だった。

ところが、ある日、二代目ボンボン社長の気まぐれが炸裂する。

「うちも、そろそろ建築やった方がいいんじゃない?」

その一言である。理由は単純。「そっちの方が儲かりそう」だから。流行りのデザイン住宅だの、補助金つきのリフォームだの、聞きかじりの知識を武器に、建築分野への進出を決めたのだった。

もちろん、建築と土木ではまったく別のスキルと知識が求められる。法律も違えば、安全基準も、現場の段取りも異なる。だが、彼の中では「似たようなもんでしょ」という、恐るべき素人感覚がすべてを支配している。

結果として、「建築部門」が立ち上がったものの、実際に現場を取り仕切っているのは、たった一人のベテラン社員である。仮にその男を仮名で“アイツ”と呼ぼう。

この“アイツ”は、建築現場のことを一通り把握しており、設計士との調整、職人の手配、現場監督、施主との打ち合わせ、すべてを一人でこなしている。いや、こなさざるを得ない。なぜなら、社長はと言えば、引き渡しの日に現場で写真を撮るためだけにやって来るのだから。

そのうえ、SNSにはこう書く。

「〇〇様邸、無事完成しました。地元に根差した住まいづくり、これからも真心込めて。#新築 #ご縁に感謝 #マツゴロークオリティ」

施主と一緒に並んだ写真には、満面の笑顔でピースサイン。もちろん“アイツ”の姿は写っていない。社長が仕上げたような体裁だが、実際には社長は現場を一度も見ていないことすらある。「いや、アイツが報告くれてたからさ」と堂々と言ってのけるあたり、情報共有の受け身具合も筋金入りである。

それだけではない。会社のホームページには「建築部門強化中!」などという派手なバナーが貼られ、過去の施工例がずらりと並んでいる。だが、その多くは“アイツ”が血を吐く思いで乗り越えた現場ばかりだ。社長の関与は、よくて地鎮祭の乾杯、悪くて「Facebookに載せとくから写真ちょうだい」のLINEメッセージだけである。

このようにして、“アイツ”は今日も忙しい。人手不足の業界において、彼のようにマルチに動ける人材は貴重だ。だが、評価も、報酬も、それほど増えない。なぜなら、“手柄”はすべて社長のものとして処理されていくからである。

社長はと言えば、「うちは建築も土木もいける」と得意げに語る。地域の商工会議所の会合では、「今は住宅の方が忙しくてね」と鼻を膨らませて語るが、現場の苦労には一切触れない。職人のミスには敏感なくせに、自分が出した仕様ミスにはとぼける。現場で汗をかいた者より、Facebookで「ご縁に感謝」と書いた者の方が評価される世界。それが、マツゴローの建築業なのである。

こうして今日も、“アイツ”が現場を回している。天候の変化、資材の遅延、施主の要望変更。すべてに頭を下げ、時には怒鳴られ、それでも現場は動く。なぜなら、「会社がやっている仕事」ではなく、「アイツが引き受けた責任」だからだ。

にもかかわらず、施主の目に映るのは、Facebookでニコニコとピースをする社長の姿である。施工中の苦労も、夜遅くまでの調整も、図面に赤ペンで細かく指示を入れた努力も、すべては“見えないもの”として無視される。SNSに載らなかったものは、この会社では“存在しなかった”と同義である。

建築業とは、背伸びして始めるような簡単な仕事ではない。だが彼は、靴ひもすら結ばずにいきなり二階へ飛び乗った気でいる。その足元を支えているのが“アイツ”だということに、いつか気づく日は来るのだろうか。

いや、来ない。なぜなら彼は今日も、和風パスタを食べながら「建築、けっこう軌道に乗ってきたかも」とSNSに投稿しているのだから。

9.火曜は「料亭だんごう坂」〜店名に“さん”をつける気持ち悪さ〜


9.火曜は「料亭だんごう坂」〜店名に“さん”をつける気持ち悪さ〜

彼の昼食事情は、ほぼ毎日Facebookで実況中継される。月曜は愛妻弁当、水曜はスーパーののり弁、金曜は同業者との仕出し弁当。そして、火曜日だけは特別だ。なぜなら、火曜日は「料亭だんごう坂さんの日」だからである。

……いや、何が“だから”なのかは誰にも分からない。が、彼の中ではこの“火曜のだんごう坂さん”が、何かのルーティンのように神格化されているのである。投稿には、さも馴染みの店かのように「今週もだんごう坂さんにて一服。季節のおかずが沁みます」と書き添えられ、写真にはピントの甘い幕の内弁当がドンと写っている。

問題は、そこではない。問題は、「料亭だんごう坂さん」という“店名にさん付け”の異様さにある。

世の中には、相手に敬意を表して“さん”を付ける習慣があるのは言うまでもない。しかし、相手が「料亭」や「チェーンスーパー」のような“店名”になった途端、それは妙な空気を生み出す。たとえば「イオンさん」「マクドナルドさん」「ガストさん」と言われると、なんとも言えない気持ち悪さが残る。距離感がバグっているというか、店と友達になってるのか、という違和感。

彼の投稿にはそれが顕著である。「スーパーヒガシトモさんののり弁」「ベーカリーもみじさんのあんぱん」「お弁当はいつものオリジンさん」といった調子で、“すべての店にさん付け”が徹底されている。まるで《社会全体が彼に優しくしている》という世界観の中で暮らしているかのような異様な親しみ方だ。

この“さん付け”には、二つの問題がある。ひとつは、《実在の人物と架空の法人を同列に扱う》ことへの無自覚。もうひとつは、《距離感のなさ》である。社会的な距離の取り方ができない人間は、どこかで他人の領域に土足で踏み込む。それが店名であれ、人名であれ、踏み込み方に違和感があれば、見ている側の不快感は積み上がる。

しかし、彼にとってこの“さん付け”は《礼儀》なのだという。「お世話になってるから」「毎週行ってるし」「料理へのリスペクトです」と、もっともらしい理由を並べるが、実際には《自分が優しく見られたい》という演出のための便利ツールでしかない。

つまり、“さん”をつけることで、「自分は謙虚です」「感謝の気持ちを忘れません」「地域とのつながりを大切にしています」というイメージをSNS上で作り上げているのだ。だが、そうした投稿の直後に、工事現場では下請けの職人に無愛想な指示を飛ばし、謝罪のひとつもせずに去っていく彼の姿がある。投稿と現実との乖離は、日増しに広がっている。

特に「料亭だんごう坂さん」は、その象徴である。店にとっては、毎週来る迷惑な中年男でしかないかもしれないのに、彼の中では“友情”すら芽生えている。SNSの投稿には、「今週も女将さんの煮物が沁みました」「仲居さんの笑顔に癒されて」といった文言が添えられるが、それが本当に店の同意を得たものなのかは怪しい。むしろ、勝手に“関係性”を演出しているだけである可能性が高い。

“さん”をつけることで、まるでその店が彼の友人か親戚のように錯覚される。そしてそれを見たフォロワーたちが、「社長って本当に人を大切にする方ですね」「お店に行ってみたいです」とお決まりのコメントを残す。ここでも“肩書きバブル”が爆発するのだ。

実際には、彼がしているのは“自分の昼飯報告”に過ぎない。それを、“地域との深いつながり”や“食文化への理解”に仕立て上げているから痛々しい。和風パスタの次は、弁当屋の煮物である。味覚ではなく、演出。栄養ではなく、SNS映え。

火曜日に料亭へ行き、写真を撮り、「さん」をつけてアップする。その一連の流れの中で、彼が得ているのは“いいね!”と“虚構の親しみ”だけである。だが、彼はそれを本気で“信頼関係”だと思っている。

「うちの投稿見て、だんごう坂さん、喜んでくれてますよ」

本当にそうだろうか。本当に“さん”付けされて、喜んでいるのか。あるいは店側は、「うち、また勝手に写ってる…」と毎週ため息をついているのではないか。

どちらが真実かは分からない。ただひとつ言えるのは、“さん”をつけた時点で親しみが生まれるのではなく、距離の感覚が消えていくということだ。そしてその距離感の喪失が、いつしか《独りよがりな善意》を生み出していく。

店名に“さん”をつけるという行為。それは、小さな言葉づかいに見えて、じつは“無自覚な押しつけ”の始まりなのかもしれない。火曜日の昼食が、ここまで不気味になるとは、誰が想像しただろう。

10.Facebook依存症〜ログインしなきゃ死ぬ病〜


10.Facebook依存症〜ログインしなきゃ死ぬ病〜

彼にとって、Facebookとは“日記”ではない。“仕事道具”でもない。“ライフライン”である。朝、目覚ましよりも早く目が覚めたとしても、まず開くのはFacebook。トイレに行くよりも先に、Facebook。昼食を食べる前に「投稿」し、食べた後に「いいね!」を押し、夜は「一日のご報告」で締めくくる。それが、マツゴロー土建二代目社長の「生き方」なのである。

言っておくが、彼はSNSが好きなだけの人ではない。ここまで来ると、もはや“Facebook依存症”と呼ぶしかない。スマホの充電が切れたら生きていけない。パスワードを忘れたら病院に運ばれるレベル。投稿せずに一日を終えるなど、もはや「呼吸を忘れる」に等しい。

その症状は多岐にわたる。まずは【1日最低3投稿】。朝の挨拶(もちろん「ご縁に感謝」付き)、昼のランチ報告(和風パスタ or のり弁)、そして夜の「一日にありがとう」投稿。何に感謝しているのかは誰も知らないが、本人はとても満ち足りた表情でそれを書き込む。

次に【秒単位のいいね返し】。誰かが投稿すれば、秒速で「いいね!」を押す。その速さ、まるで彼がタイムラインに常駐しているかのよう。投稿した側は「うわ、また来た…」と心の中でつぶやくが、言えるわけもない。なぜなら彼は“社長”だからである。フォロワーからすれば、投稿のたびに“社長からいいね!”が届く。ある意味、SNS版の“宅配付き監視社会”である。

第三に【誕生日ポエムの自動投下】。Facebookには誕生日を知らせてくれる機能がある。これに彼は全力で反応する。「お誕生日おめでとうございます。佳き一年になりますように。#感謝 #ご縁に感謝」――これを毎日10人分、コピペで投稿する執念たるや、もはや恐怖に近い。しかも相手が3年前にFacebookをやめていようが、亡くなっていようが関係ない。タイムラインに刻まれたその文章は、「彼は今日も変わらずそこにいる」という証になる。

「SNSで繋がる社会」というのは、もちろん素晴らしい面もある。しかし、彼のように“現実の関係”よりも“Facebook上の関係”を優先するとなれば、それはもう【仮想人格】の中で生きているようなものである。現場のミスより、投稿の写真映えが気になる。社員の悩みより、投稿の「いいね!」数の方が重要。社内で何か問題が起きても、「Facebookで謝っときゃ大丈夫でしょ?」と言い出しかねない。実際、過去にはクレーム対応も「本日の反省として…」という形で投稿し、コメント欄で“神対応”と自演拍手をしていた過去がある。

Facebookに依存する人間の特徴として、「実際に会った時に話が薄っぺらくなる」という現象がある。彼も例に漏れずその一人。「先日のお料理、また美味しそうでしたね」「新築のお宅、素敵でした!」という当たり障りのない話しかできない。なぜなら、それ以外の情報がないからである。彼の情報源は、彼自身のタイムラインで完結しており、外の世界を見ていない。言うなれば“デジタル井戸端会議”にどっぷりと浸かったまま、実社会の言葉を失っているのである。

彼がスマホを手放す瞬間は、唯一寝ている間だけだろう。そして翌朝、またベッドの中で「昨日の投稿の反応チェック」から一日が始まる。反応が少なければ沈み、コメントが多ければ高揚し、それを動力にまた次の投稿へと突き進む。

最も厄介なのは、彼がそれを“仕事”だと思っている点にある。「地元との繋がりを大切にする経営者である自分を発信することが、会社のPRになる」と本気で信じている。だが、その“繋がり”とは、どれほどの実効性を持つのか?投稿を見て仕事を頼んできた顧客はどれくらいいるのか?冷静に分析することなく、ただ“つながっている”という安心感だけにしがみついている。これはもう、《承認欲求という名の麻薬》に耽溺している状態である。

Facebook依存の末路とは何か。それは、現実の信頼を失っていることに気づかぬまま、“バーチャルな好感度”を命綱に生きることだ。つまり、「現場での信用は空洞化し、ネットの中でだけ“いい人”を演じ続ける」という、非常に危うい存在になる。

ログインしていないと死ぬ病。
それは心の病であると同時に、現代社会が生み出した新しい老害のかたちなのかもしれない。本人は“つながっている”つもりでも、まわりはとっくに距離を取っていることに――彼は、まだ気づかない。

11.「いいね!」の鬼〜あなたの投稿に秒で反応〜


11.「いいね!」の鬼〜あなたの投稿に秒で反応〜

あなたが何気なく投稿した日常の一コマ。仕事終わりの空、ペットの寝顔、コンビニで買った期間限定スイーツ。そんな些細な投稿に、驚くほどのスピードで「いいね!」がつく。誰よりも早く、通知欄の一番上に現れるその名――そう、マツゴロー土建の二代目社長である。

彼は、“いいね!”を武器にしている。そして同時に、それが《彼の最大の防具》でもある。誰かと深く関わるでもなく、ましてや意見を交わすでもなく、ただ、ひたすらに「いいね!」。とにかく「いいね!」。まるで条件反射のように押しているその指先には、もはや感情の機微など存在しない。すでに“儀式”と化している。

その速さたるや尋常ではない。投稿して3秒、コメントする間もなく「〇〇さんが『いいね!』しました」。もはや時空を超えている。あなたが“今”投稿したのではなく、“これから投稿するつもりだった”ものにも、彼なら「いいね!」を押してきそうな勢いである。

では、彼はなぜそこまで「いいね!」に執着するのか。理由は単純だ。
それこそが、彼にとっての《社交》だからである。

一般の人が使う「いいね!」には意味がある。「共感した」「面白かった」「頑張ってね」など、ひとつひとつにちょっとした気持ちがこもっている。だが彼の「いいね!」には、感情はない。ただ、“押した”という《履歴》を残すことが目的なのだ。つまり、“俺はここにいるぞ”という痕跡である。まるで野良猫のマーキングのように、誰彼かまわず「いいね!」を撒き散らす。

この行動には、地元のFacebook界隈でも定評がある。誰の投稿にも必ず彼の名前が並び、「あー、また例の人が来た」と話題に上るほどである。もはやタイムラインの守護神。ネット上に存在する“社長の残像”である。

そして、押された側もまた複雑だ。「あの人、また来てる…」「もうちょっと踏み込んだ内容、投稿しづらいな…」という声が絶えない。なぜなら、彼の「いいね!」は、共感ではなく《監視》に近いからである。

ある女性は、恋人とのデート写真を投稿した。5秒後、「マツゴロー社長が『いいね!』しました」。ある若者が転職報告を投稿した。3秒後、「マツゴロー社長が『いいね!』しました」。ある主婦が料理を投稿した。1秒後、「マツゴロー社長が『いいね!』しました」。ここまで来ると、むしろ“見られている”ことにプレッシャーを感じる人も少なくない。

もちろん、彼に悪気はない。むしろ「見守ってるよ」「気にかけてるよ」という純粋なつもりでいる。だが、その純粋さが厄介なのだ。誰もが「社長からのいいね」を無下にできず、少しずつ《投稿内容を調整する》ようになる。つまり、社長の目を意識した“投稿の自主規制”が始まるのである。

さらに、彼の「いいね!」にはパターンがある。
・女性の自撮り:即座に反応(特に露出が多ければより早い)
・子どもや動物の写真:そこそこ早い
・政治的・社会的発言:やや遅れる、あるいは反応しない
・不幸話:コメントで「お大事に」と一言添える(ただし定型文)

まるでAIのアルゴリズムのような「反応の仕方」に、周囲は慣れきってしまっている。
ああ、また来たな。ああ、やっぱり押したな。そんな感情が、日常化している。

そしてこの「いいね!」の乱発により、彼自身の投稿もまた、空虚になっていく。「今日は〇〇さんの投稿にほっこり」「地域の皆さまから元気をもらってます」など、もはや誰に向けているのかも分からないメッセージが並ぶ。それをまた、フォロワーたちが“義務として”いいね!していくという、地獄の循環が生まれている。

こうして、「いいね!」が挨拶となり、言葉となり、やがて《思考停止のしるし》となっていく。「考えなくても、いいね!」「感じなくても、いいね!」――彼にとっての交流は、まるでスタンプカードのような軽さになってしまった。

だがその背景には、彼の《孤独》が透けて見える。「いいね!」を押すことで誰かと繋がっていたい。「見てるよ」と伝えることで自分の存在を確かめたい。誰も求めていなくても、とにかく“関わっていたい”。
その結果、誰からも“見えない壁”を作られていることに、彼は気づかない。

「いいね!」の鬼――それは、現代のSNS社会に潜む、見えない恐怖の象徴である。
その指先に、無数の人間関係の「疲労感」がぶら下がっていることに、彼が気づく日は、来るだろうか。
いや、気づいてしまったら、もう「いいね!」は押せない。だから今日もまた、彼は誰かの投稿に、秒速で反応する。無言のまま、そこにいる。

12.誕生日ポエム職人〜例え死んでも「佳き日に」〜


12.誕生日ポエム職人〜例え死んでも「佳き日に」〜

Facebookには、ありがた迷惑な機能がある。「今日は〇〇さんの誕生日です」――この通知が出るたびに、彼の中で何かがスイッチオンになる。そして始まる、毎日のルーティン作業。そう、誕生日ポエム職人としての“執筆活動”である。

「お誕生日おめでとうございます。
 ますますのご活躍とご健康をお祈りしております。
 佳き一年をお迎えください。
 ご縁に感謝。」

この文章を、彼は1日に10回、コピペで投稿する。改行の位置も、句読点も、語順も変えない。例えるなら、千社札を貼りまくる参拝者のようなもの。どこかの寺社に貼られるならまだありがたみもあるが、SNSのタイムラインに無差別に貼られていくのだから、受け取る側の反応はさまざまである。

問題は、その“温度差”にまったく気づいていないことである。

一部の人間は、それを「気遣い」と受け取るだろう。だが多くの場合は、「あー、また来たよ」「この人、本当に俺のこと知ってるのか?」という冷ややかな空気になる。実際、彼が祝っている相手のうち、半数以上は“年に一度だけやってくる自動お祝い相手”であり、過去に一度も会話したことすらない“名ばかり友達”である。

しかも、最悪の場合、その相手がもうFacebookを使っていない、あるいは亡くなっているというケースもある。にもかかわらず、彼は律儀にお祝いを送る。「お誕生日おめでとうございます。佳き一年を」――この投稿が、何年も更新されていないアカウントのタイムラインに刻まれた時の違和感たるや、寒気を覚えるほどだ。

彼は言う。「誰かの誕生日に気づくこと、それ自体がご縁であり、奇跡だ」と。詩人である。いや、ポエム職人である。だが、その詩には“魂”がない。ただのテンプレ、ただの自動運転。感情のない言葉ほど、ぞっとするものはない。なぜならそれは、相手を見ていない証拠だからだ。

そして最も滑稽なのは、そのポエムがすべて“自分の承認欲求”のためであるという点である。

彼は「相手のために書いている」と信じている。だが実際は、「自分が“いい人”でありたい」という願望の表れにすぎない。「人の誕生日を祝う余裕のある自分」「つながりを大切にする人格者な自分」を、Facebookの世界で演出したいのだ。だからこそ、“今日が誰の誕生日か”を見つけることに、異様なほどの熱意を注ぐ。

また、彼の誕生日ポエムには、ある種の“押しつけ”がある。「佳き一年をお迎えください」という一言には、〈あなたの人生、良い方向に進むべきでしょ?〉という無言の圧力が込められている。それがもし、失業したばかりの人、離婚したばかりの人、身内を亡くしたばかりの人だったらどうなるのか。まさに「おまえ、今の状況知らないで言ってるだろ」案件である。

だが彼にとっては関係ない。通知が来れば、書く。ただそれだけ。言葉の背景や相手の感情など、一切考慮しない。
彼にとって「誕生日ポエム」は、挨拶ではない。儀式である。
対象の人間がそこに存在しているかどうかさえ、もはや問題ではない。

このような人物が、会社の顔であり、地元の“つながり”を自負する人間であるという現実が、ただただ虚しい。Facebookの中では温かい言葉が並ぶが、現実には冷たい無関心が漂っている。それは、関心がないからではなく、《関心を持つ努力をしていない》からである。

そして、そんな言葉の空虚さに、誰も声を上げられない。「社長、今日も律儀ですね」「優しいですね」と、お決まりのコメントを返す者たち。その誰もが、内心では「そっとしておいてくれ」と願っている。

誕生日という、誰にとっても特別な日。その“特別”を、まるで量販品のように扱い、無造作に投げつける。ポエムのような言葉で包んで、装飾された自己満足を振りまく。

「今日が誰かの誕生日である限り、俺の存在もまた肯定される」
――それが、彼の本当の願いなのかもしれない。
だから彼は、例え相手がもうこの世にいなくても、変わらずこう書き込む。

「お誕生日おめでとうございます。佳き一年を。ご縁に感謝。」

その言葉が、誰にも読まれなくなったとしても。

13.地域災害、我が社に春〜ウハウハが止まらない堤防工事〜


13.地域災害、我が社に春〜ウハウハが止まらない堤防工事〜

令和のある年、未曾有の大雨がこの地方を襲った。川はあっけなく氾濫し、堤防は決壊。田畑は水没し、家々は床上まで濡れた。ニュースでは「100年に一度の災害」と報じられ、行政は大慌て。被災者たちは唇を噛みながら後片付けに追われ、SNS上では「頑張れ地元!」の投稿が溢れ返った。

そんな中、ひときわ輝いていたのが、マツゴロー土建工業株式会社である。

「微力ながら、地域の復興に尽力させていただきます」
「今日も泥まみれになって頑張ってます」
「#ご縁に感謝 #地域再生 #マツゴロースピリット」

投稿には、作業着すら着ていない社長が、腕を組んで現場を見つめるポーズ写真。後ろでは、社員たちが実際に泥をかき分けて作業している。言うまでもなく、彼は“被災地の英雄”を演じているのだ。

現場に一歩も入らずとも、SNSの中では“働いている男”。被災者の悲しみが冷めやらぬうちに、「うちの若手も頑張ってます!」と投稿される集合写真の顔ぶれは、皆ぐったりしているのに、社長だけが爽やかに笑っている。もはや何が災害なのか分からない。

だが、彼にとっては、これは千載一遇のビジネスチャンスである。

堤防の補修には、予算がつく。国や県からの発注が連なり、何千万円、時には億単位の工事が舞い込んでくる。被災すればするほど、土建屋のスケジュールは真っ黒に埋まっていく。それはすなわち、《ウハウハ》である。

彼は言わない。いや、口には出さないが、表情がすべてを物語っている。「地元のため」と言いながら、どこか顔がほころぶ。SNSの投稿も妙に生き生きしている。災害報道のニュース記事に、勝手に「#復旧作業中」などとタグをつけてシェアする。そして自社の重機が現場に到着する動画をBGM付きでアップロード。「頼られるって嬉しいですね!」というコメントがつくが、それは誰からも頼まれていない、自演のカメラアングルである。

現場では、“アイツ”と呼ばれる例の敏腕社員が、寸分違わず設計図とにらめっこし、工程の遅れを取り戻すために汗を流している。社長はその隣で、「うんうん、大変だねぇ」と言いつつ、スマホで現場風景を撮影。そして「本日の奮闘!」とFacebookに投稿。もちろん、社員の名前などは出てこない。「うちのチーム」または「マツゴロースピリット」で一括処理である。

市役所との打ち合わせでは、「地域貢献の一環として」と恩着せがましく話し、議員の前では「うちの連中、本当にようやってくれてますわ」と、あたかも自分の指導の賜物かのように振る舞う。その背後では、被災者が今なお仮設住宅で暮らしているのに、彼は高級料亭で「現場打ち上げ」と称して昼から日本酒を傾けている。

なにより許しがたいのは、被災そのものを“天の恵み”のように感じている節があることである。

「やっぱり、災害って、行政も動きやすいからね」
「ある意味、仕事の追い風になってるよね」
「やっぱ、堤防って大事なんだって、みんな気づいてくれたし」

などと、災害の恩恵に感謝すら述べかねない勢いである。まさに《災害の福男》。この男にとって、洪水は試練ではなく、恵みの雨。人の不幸に、静かに手をこすり合わせているような不気味さが、そこにはある。

だが彼は、心からそれを「地域のため」と信じている。少なくとも、Facebook上では。
「マツゴローがいてくれてよかった」
「さすが、地元のヒーロー」
「マツゴロースピリットに感謝!」

そんなコメントが続けば、彼の心はますます膨らんでいく。現実がどうあれ、SNSの中では“救世主”なのである。
だが、現場を回すのは“アイツ”。泥にまみれるのも“アイツ”。堤防を支えているのは、重機でもコンクリでもない、“無名の技術者の忍耐”である。

災害を“春”と捉えるその感性こそが、マツゴロー土建二代目社長の本質である。
被災地の涙の上に、自分の笑顔を積み上げていく。
それが、今日も彼がスマホ片手に投稿する「感謝の気持ち」なのである。

14.大阪の味を知ってる風〜数ヶ月の研修で語る通ぶり〜


14.大阪の味を知ってる風〜数ヶ月の研修で語る通ぶり〜

「いやぁ、大阪って、ほんま食文化の宝庫ですよね。粉モンのレベルがちゃうんですわ」
これは、ボンボン社長が地方の飲み会でよく披露する“知った風な口調”のひとコマである。

彼が大阪にいたのは、今から二十数年前のこと。しかも滞在期間はたったの三ヶ月。某民間の研修制度で建設業のいろはを学ぶという名目で、親のツテをたどって送り込まれた“勉強ごっこ”である。期間限定の短期研修、実態は半分観光気分、半分地元企業との名刺交換ツアー。もちろん、大阪府民票すら取っていない“短期居候”だった。

だが、それから今日に至るまで、彼の語る大阪の記憶は、時と共に美化され、誇張され、膨張していく。

「天満の立ち飲み屋でな、串カツ頼んだら、ソースの二度漬け禁止ってマジで怒られてさあ」
「ほんま、あの出汁の香りは、東京じゃ絶対味わえへんって思いましたわ」
「新世界で食べたどて焼き、あれは人生変わる味やったね」

本人は、関西弁すら一滴も喋れないのに、語尾だけ“~やね”と突然変異的に変わる。聞いているこっちが恥ずかしい。

問題なのは、この“通ぶり”が、完全なる作り話ではないことだ。三ヶ月だけ滞在していた事実は一応ある。しかしその間に訪れた飲食店の数は、せいぜい10軒ほど。しかも、上司に連れられて行ったチェーン居酒屋や、ホテルの朝食バイキングがほとんど。自分の足でディープな名店を開拓したわけでもなければ、店主と会話を交わした経験もない。

それなのに、「大阪といえばここ」「俺の知ってる本場」などと語り始めると止まらない。しまいには「うちの和風パスタも、大阪の味に近づけてるんですよ」とまで言い出す始末。誰も頼んでいないし、誰も共感していないのに、彼の頭の中では“関西グルメ評論家”としての自己像が完成しているのである。

そのくせ、「551の豚まん?あぁ、あれは関空でしか食べたことないかな」と平然と抜かす。
串カツの名店に関しても「えーっと、あそこや、黄色い看板のとこ」と、記憶がカスカス。
「うどんは出汁が命やで」とか言いながら、麺つゆをドバドバ注いだ自家製和風パスタをFacebookにアップしている。
まるで“味覚の自傷行為”である。

しかも、この大阪“経験”は、あらゆる文脈で差し込まれる。

社員が現場でたこ焼きを話題に出せば、「やっぱり本場のは違うで」と割り込んでくる。
スーパーで「関西風」と書かれた商品を見つければ、「これは本物とちゃう」とコメント付きでシェアする。
新入社員が大阪出身と知れば、突然饒舌になり、「あそこ、ええとこやろ?俺も昔おったんや」と謎の先輩風を吹かせる。
その出身者が京都だったとしても、お構いなしだ。

この手の“数ヶ月だけ都会にかじりついた話”を、あたかも“第二の故郷”かのように語りたがるのは、地方の昭和型ボンボンに特有の症状である。彼にとっては、あの研修の3ヶ月が“自分史上、最も洗練されていた時間”なのである。つまり、それ以外に語るべき経験が何もない。

だから、30代、40代、50代と歳を重ねても、いつまでも「大阪で学んだことは今でも活きてます」と語り続ける。活きていない。どこにも活きていない。
せいぜい、Facebookにアップする和風パスタのキャプションが、「出汁を効かせた、関西仕込みの味」となる程度である。

それでも彼は、今日も語る。「やっぱ、食い倒れの街はちゃいますわ」と。
「だし巻き卵に砂糖を入れるんは、大阪独特やから」と。
誰も聞いていない。誰も興味がない。だが、それでも彼は“大阪の味を知っている風”をやめない。なぜなら、それが彼にとっての唯一の“都会との接点”だからだ。

数ヶ月の研修で“通ぶる”。その記憶にしがみつく様子は、まるで冷めたたこ焼きにソースを塗り直して「本場の味や」と言い張るような、哀しき演出である。
誰も突っ込まないのは、優しさではなく――単なる諦めである。

15.消したい学歴、語れない過去〜Fラン土木科という黒歴史〜


15.消したい学歴、語れない過去〜Fラン土木科という黒歴史〜

どれだけSNSで華やかな投稿を繰り返しても、学歴というのは不思議なもので、じわりとその人の品性や教養を滲ませてしまうものである。ましてや、ことあるごとに過去を語りたがる人物が、ある一点だけを徹底的に口を閉ざしているとしたら、それはもはや“無言の暴露”でしかない。

彼が絶対に話さないこと、それは自らの「学歴」である。

「大阪時代はね」と語り出すときの彼の饒舌ぶりを見たことがある読者ならば、この“沈黙の領域”の異様さにすぐ気づくであろう。幼少期の記憶ですら再現ドラマ風に喋るのに、大学の四年間だけは、あたかも“時空の亀裂”でも起きたかのように、まるっと存在を消しにかかっている。

だが、真実はシンプルである。
彼が通っていたのは、今にも廃校になりそうな、地方のど田舎にある私立大学の土木工学科。いわゆる“Fランク”である。偏差値は、カタカナが書ければ受かるレベル。全国模試に掲載すらされないので、進学指導の先生にも「ああ、あそこは……うん」と言葉を濁される、教育界のブラックボックス的存在である。

そんな学校名を、本人は絶対に口にしない。周囲には「地方の工科大」とだけボカして説明する。中には旧帝大の名前に文字がよく似た大学もあるため、適当に“あの辺の土木系”と言えば、無知な相手は勝手に妄想を広げてくれる。黙っていれば、“それなりの大学出”と思われる。それを狙っている。

しかし、学歴というものは、言わずともどこかに“にじむ”。
例えば語彙の少なさ。
例えば接続詞の雑さ。
例えばSNSでの句読点の使い方の不自然さ。
そして何より、語れるはずの“専門知識”がゼロ。

地元で「地質改良」や「橋梁構造」などの話題が出ても、彼が口を開くのは「いやぁ、最近のコンクリって、進化してますねぇ」といった、スカスカな感想レベル。
「設計図って、やっぱCADじゃないとねぇ」と、いまだに“CAD”という単語に最新感を抱いているのもポイントだ。AutoCADが一般化してから、すでに20年以上が経過しているというのに。

学歴コンプレックスを持っている人間は、大きく分けて二種類いる。
ひとつは、努力で中身を補うタイプ。もうひとつは、肩書きで上塗りしようとするタイプ。
彼は、間違いなく後者である。

自分の過去を消すには、現在の輝きが必要だ。
だから、Facebookでは自撮りを重ね、ランチを華やかに盛りつけ、地鎮祭では「#ご縁に感謝」と投稿する。
あたかも、「今の自分は、学歴なんかなくてもここまで来た」と言わんばかりに。

だが、現実には、会社の実務はほぼ社員任せ。SNSの投稿内容すら、時には娘に監修されているという噂もある。

大学時代の友人関係は、Facebookには一切登場しない。
同級生らしき人物からのコメントや「いいね!」も皆無。
一体、あの四年間はどこで、誰と、何をしていたのか?

「たまたまSNSにいないだけ」と彼は言い張るが、その“たまたま”が四年間まるまる続く確率は、雷に二度打たれて宝くじが同時に当たるくらいのものである。

かつて在籍していたそのFラン大学は、今では学部ごと消滅しているという説もある。
まさに“黒歴史”の墓場と化しているわけだ。

だが、それでも人生の公式プロフィールから削除はできない。
〈学歴は消しても、教養は消えない〉
〈学歴は隠しても、無知は隠せない〉

彼の毎日の投稿、彼の人との接し方、彼の娘のコーヒー店に通う頻度――
そのすべてが、過去を消すための“塗り壁工事”である。

けれども、どんなに塗り重ねても、時間とともにヒビは入る。
そして、そのヒビから覗くのは、紛れもないFランの記憶。
彼自身が最も消したい、そして最もにじみ出てしまう“語れない過去”なのである。

16.「醤油が正解」の持論〜アジフライと文化論争〜


16.「醤油が正解」の持論〜アジフライと文化論争〜

アジフライをめぐる論争は、インターネットという荒野の中でも、比較的穏やかな水域に属する。しかし、それが彼の手にかかると、なぜか息苦しいまでの“正解の提示”へと化けるから不思議である。

「アジフライには何をかけるか」

この問いに対して、多くの人はソース派、醤油派、タルタル派と自分の好みを述べる。それが文化であり、多様性というものである。ところが、我らがボンボン社長は、例によってSNSのコメント欄に颯爽と現れるや否や、こう断言するのだ。

「醤油でしょ。ソースは味が濁るし。」

潔い。いや、潔すぎて笑えてくる。

まるで文化人類学の論文でも書くかのように、ソース派やタルタル派の立場をばっさり切り捨て、己の“しょうゆ原理主義”を布教して回る。あたかも、自分だけが食の真理を悟った聖者であるかのように。

いや、アジフライはもともと油で揚げているわけである。
素材の味がどうこうと言うなら、フライという調理法そのものが〈味を足す〉行為であり、〈素朴な味わい〉を破壊しているのではなかろうか。
その点を問うと、「いや、衣のカリッと感と、アジの風味を活かすのがフライの美学なんだよ」と返ってくる。

こういうときの彼は、非常に饒舌だ。

彼の理論を要約すると、こうなる。

・アジフライは素材の味が重要
・ソースは味を覆い隠すから邪道
・醤油は引き立てるだけなので上品
・ついでに言うと、ポン酢は酸味が強すぎて本質を損なうらしい

なるほど、なかなか理屈っぽくて面白い。

だが、ちょっと待ってほしい。
彼がこのアジフライ論争に首を突っ込む時、それは必ず「SNS上で話題になっているとき」限定なのである。
普段からグルメ評論家のような発信をしているわけでもなければ、料理に関する学びを深めているわけでもない。
和風パスタしか作れないくせに、アジフライになると突然“味の専門家”に変身するのである。
その変身ぶりは、もはや戦隊ヒーローの域である。

しかも、「醤油が正解」と声高に言っているわりに、その根拠が“俺の舌”と“昔からそうしてる”の二本立てという貧弱さ。
経験と主観だけで武装し、まるでそれが〈地域文化〉や〈伝統的食文化〉の代弁であるかのように語る。
このあたり、非常に“田舎マウンティング”の香りが漂ってくる。

また、コメント欄では自分と同じ醤油派の意見にしか反応しない。
「ですよねー!」「やっぱ醤油なんですよ」といった短文で連投し、異論には華麗にスルーを決め込む。

これを見たフォロワーの一部は、《あぁ、また始まったよ》とため息をつく。
しかし情弱仲間たちは、「社長、やっぱわかってらっしゃる!」と持ち上げる。
すると彼は、「ご縁に感謝」とハッシュタグを添えて、さらにドヤ顔のアジフライ写真を投稿する。
写真の構図はもちろん、例の定番アングル。正面からやや斜め45度、ピントはカリッと衣に。
シャッターの切り方だけは妙に本格的なので余計に腹が立つ。

そして数時間後には、同じ写真がInstagramにも流れてくる。
コメント欄には「これ、食べたくなるやつ」「ご飯が進むやつですね」といったテンプレ反応。
だが誰も、「醤油かけたらしょっぱすぎません?」とは言わない。
みんな、彼の小さな正義を崩したくないのだ。

本人は満足げである。
SNSで自分の〈正しさ〉を主張し、それに「いいね!」がつく。
それが、彼にとっては〈社会との接続〉なのだ。

このように、アジフライ一枚でここまで語る彼。
その執念、その偏り、その無自覚な権威性の演出。
すべてが、“肩書きだけの土建屋”らしい仕上がりである。

味覚という繊細な世界において、他人の嗜好を押し潰すほどの自己主張は、
けっして《食のこだわり》などではない。
それは《教養のなさが染み出た声の大きさ》でしかないのである。

17.SNS恋愛狂騒曲〜人妻布井さんとの“健全な”交流〜


17.SNS恋愛狂騒曲〜人妻布井さんとの“健全な”交流〜

SNSとは、もともと人と人を「ゆるやかにつなぐ」ことを目的とした文明の産物である。ところが使い方を間違えれば、それは地雷原と化し、己の欲望と虚栄が剥き出しになる。そう、この物語の主人公、肩書きだけのボンボン土建屋社長がまさにその生きた教材である。

舞台はFacebook。ある日彼の投稿に頻繁に登場するのが、「布井えりさん」という女性であった。ご婦人である。人妻である。だが、その投稿写真に映る彼女は、なぜかいつも彼の隣に座っている。忘年会、勉強会、講演会、どんな集まりでも彼女は彼のすぐそばにいるのだ。まるで二人セットの置き物か何かのように。

もちろん、投稿にはこんな文言が添えられる。「#Facebookでご縁に感謝」「#健全な大人の学び場」「#家族ぐるみのお付き合い」。なるほど、そうですか、健全ですか。ならばなぜ毎回、彼女との距離がミリ単位なのか。なぜ彼女の笑顔が「他の誰でもなく、この人といる私」という強い自認に満ちているのか。そしてなぜ、彼の目があきらかに緩んでいるのか。

そう、誰が見ても《やってる》。
それなのに、彼の中では《やってない》設定で通している。
なぜなら彼は、Facebookという名の劇場の中で「理想の社長」「地域の顔役」「女性に紳士な男」という役を演じているのだから。

だが、そんな舞台も、観客が黙って見続けるとは限らない。
いつからか、彼と布井さんのあまりに近すぎる距離が、フォロワーたちの間で囁かれ始めた。
「社長、最近いつも布井さんと一緒じゃない?」「あの写真、さすがに奥さんが見たら怒るよね?」
それらの声が拡散される前に、布井さんのFacebookアカウントが突如、沈黙する。

まったく更新がない。タグ付けもされない。
まるで存在ごと、SNSから蒸発したかのように。
そして社長は、その日を境に奥様の作ったお弁当を頻繁に投稿し始める。
「今日もありがとう」「健康に気遣ってくれる優しさに感謝」
まるで、世界一素敵な夫であるかのように。
いや、言っておくが、見ている方は全員が察しているのである。「あ、火消しだな」と。

彼のFacebookには、もはや恋の痕跡などない。
彼女の痕跡は抹消され、代わりに“家族思いの社長”が前面に押し出されている。
だが、“空白の時期”に撮影されたであろう、意味深に距離の近い写真たちはそのままだ。
過去を消しきれないのがSNSの恐ろしさである。

それでも彼は今日も、「ご縁に感謝」とハッシュタグを添えて誰かの投稿に「いいね!」を押し続ける。
かつて布井さんに注がれていたあの眼差しは、今や風俗嬢専門カメラマンの投稿写真に向けられている。
「顔は写っていませんが、きっといい人なんでしょう」
そう思いながら、彼はいいねを連打する。

人との“ご縁”とは何か。
それを考えさせられる彼のSNSライフは、今日も平常運転である。
何食わぬ顔で投稿されるランチ写真と、お弁当の写真と、「佳き日に」コメント。
すべてが“健全”の仮面をかぶっている。

だが、仮面は時に、素顔よりも多くを語るのである。

18.投稿の流れに美女あり〜風俗嬢写真と即「いいね!」〜


18.投稿の流れに美女あり〜風俗嬢写真と即「いいね!」〜

Facebookのタイムラインとは、その人の人格を映す鏡である。朝の投稿、昼の投稿、夜の投稿――どのタイミングで何を「いいね!」したか。それだけで、あなたがどんな人間か、おおよそ見えてくる。そして本章の主人公たる二代目社長の人格とは、そう、極めて明確である。

美女が映っていれば、とりあえず「いいね!」。
内容なんて関係ない。文章なんて読んでいない。ただ視覚に訴えかける曲線美と艶やかな肌、そして“匂い立つ雰囲気”があれば、彼の親指は自動的に上を向く。

特に彼が熱心にフォローしているのが、「某風俗嬢専門カメラマン」である。業界ではちょっとした有名人で、彼の撮る写真は、まるで映画のワンシーンのような色気と哀愁を併せ持つ。もちろん、被写体はすべてプロの女性たちである。

「これは芸術です」
「表現の自由の範囲です」
「アートとして見ているだけです」

彼は、そう言い張る。ええ、見ていますとも、熱心に。いや、見すぎです。

なにしろ、このカメラマンが投稿するたび、投稿時間から十秒も経たぬうちに「いいね!」がつく。その名前は、我らがボンボン社長のものだ。

一日に複数投稿されようとも、そのすべてに反応する。まるでアラームでも設定しているかのように。きっと通知オンにしているのだろう。通知が鳴るたび、わくわくしながら指を伸ばすその姿を想像すると、もはや微笑ましさを超えて、哀れみに近い感情が湧く。

これが昼間の投稿ならまだよい。だが深夜。家族が寝静まった頃。
背後にうっすらと映る蛍光灯の明かり。メガネのレンズに反射する画面。
「いいね!」が一つ、二つ、三つ……。

風俗嬢の顔はぼかされている。だが、カメラのレンズを通して彼には見えているのだろう。若さと艶、そして、自分にない世界への憧れと所有欲が入り混じったような何かが。

その一方で、昼間には「愛妻弁当」を投稿するのが習慣だ。
煮卵が一個、ウインナーが斜めに切られて、唐揚げが三つ。どれも冷凍食品にしか見えないが、それでも「健康に気遣ってくれる妻に感謝」と、例のハッシュタグを添える。「#今日もありがとう」「#家族の愛」。そしてそれと全く同じタイミングで、別タブでは風俗嬢の脚線美に「いいね!」。

これを《表裏一体》と呼ぶのか、《二重生活》と呼ぶのかは読者にお任せしたい。

ただ一つ言えることは、SNSにおける彼の振る舞いは、すでに「行動」ではなく「習性」であるということだ。

見れば押す。映れば反応する。
まるで原始時代の脊髄反射のごとく、美女に対する彼の親指は、思考をすっ飛ばして反応する。

かつてFacebookは「実名登録」によって健全な交流の場とされた。
だがこの男は、実名のまま、顔写真もバッチリのまま、家族の弁当と風俗嬢の写真に同時に愛を注ぐ。

ここに、現代SNSの悲劇がある。
人間の欲望は、名前を隠さなくても暴走するのだ。

そして今日も、彼の「いいね!」は誰かのタイムラインに、しれっと刻まれている。
風俗嬢専門カメラマンの投稿に、他ならぬ地域密着型の土建屋社長の名が光っている。

それでも彼は胸を張るだろう。「あれはアートですから」と。
そもそも、そうやってアートかどうかを語れる知性があれば、Fラン土木科など通っていないはずなのだが。

だって、彼は無教養だから。

19.フリーター彼氏を婿養子に〜娘の恋愛にも土建魂〜


19.フリーター彼氏を婿養子に〜娘の恋愛にも土建魂〜

この男、何にでも自分の影を落としたがる。娘の人生もその例外ではない。愛娘には、自分がつくり上げた(と、本人は信じている)会社を継いでほしいと願っている。そして、その娘の隣に立つ男もまた、土建屋の看板を背負うにふさわしい存在であるべきだと勝手に思い込んでいる。

問題は、その彼氏がフリーターだということだ。いや、そもそも“問題”という視点自体が時代錯誤なのだが、我らがボンボン社長には通じない。彼にとって「正社員であること」「家業を継ぐ意思があること」「娘を“もらってくれる”こと」が条件なのだ。要するに昭和脳である。

土建屋魂を未来につなぐには、自分の血筋を絶やしてはならぬ。しかも、それが“娘”という不確実な存在しか残されていない以上、手っ取り早く「婿養子にすればいい」という、なんとも短絡的な発想に行き着く。

娘は東京で自由に暮らしていた。カフェのバイトをしながら、自分のリズムで生活していた。ところが、ある日を境に強引に地元へ呼び戻される。理由は一つ。父親のFacebookに〈#娘が帰ってきました〉〈#やっぱり家族が一番〉と投稿したいがためである。いや、違った。建前上は「そろそろ人生設計をしなきゃいけない歳だろ?」という“親心”である。だが、本音は「会社を継がせたい」という自分都合に尽きる。

そして娘が連れてきた彼氏。おとなしそうな好青年。学歴も仕事もパッとしない。だが、料理が得意で、娘の好きなラテアートも描ける。そんな彼を見た社長は思った。「こいつをうちの番頭にすればいい」。そう、男に生まれたらすぐに土建魂を吹き込もうとするのが、昭和土建の発想である。

「ウチの会社、ちょっと見てみないか?」
「体験でいいんだ。現場の空気を知っておくのは悪くないぞ」
「いずれはお前の名前でやってもらうつもりだしな」

気付けば、彼氏は現場に出ていた。安全靴を履かされ、挨拶の声がでかければ褒められ、黙っていれば「根性がある」と言われる。どんな行動も、無理やり土建評価の枠組みで解釈される不思議な世界である。

Facebookにはもちろん、〈#未来の若社長〉〈#婿養子歓迎〉〈#ご縁に感謝〉とタグ付きで投稿されていた。どこまでも勝手である。

だが娘は、そんな投稿を見るたびに冷めていく。「私の彼を広告に使わないで」と言いたい気持ちを押し殺しながら、今日も父親の“日常”を演出する役者の一人にさせられていく。紙カップのコーヒーを手に、自撮りのアングルを試行錯誤しながら、「#家族の時間」を共有させられるのだ。

SNSは、本来つながりを広げるための道具だった。だが、この男にかかれば、自分の欲望を正当化するための装置に変わる。Facebookの友達の数と、自分の人生の充実度が比例していると思い込んでいるからこそ、娘とその彼氏の関係すら〈家業を継がせる物語〉にねじ込んでくるのだ。

娘の恋愛も、SNSの素材であり、会社の人材育成の一環である。
そんな男が「家族を大切にしてます」などと口にするたび、あまりの滑稽さにコンクリートの打設面ですらひび割れるのではないかと思う。

だって、彼は無教養だから。

20.顧客を「ご縁」に変える魔法〜リフォームより新築が好き〜


20.顧客を「ご縁」に変える魔法〜リフォームより新築が好き〜

「#ご縁に感謝」。この一文が、彼の投稿には必ず添えられている。
実に便利な言葉である。「ご縁」と言ってしまえば、何もかもが神秘的に、ありがたいものに見えてくる。ビジネスも、交友関係も、トラブルすらも、すべては“ご縁”によって引き寄せられたのだと。まるで自分の営業力や段取り能力ではなく、宇宙の導きで仕事が舞い込んできたかのような錯覚を与えてくれる。

だが実際には、商談の最中に顧客の家庭事情を聞き出し、それを勝手にSNSに載せて「感謝」を添えているだけである。プライバシーへの配慮など一切ない。
地鎮祭で撮った家族写真に「#新たな門出」「#笑顔が素敵なご家族」などとハッシュタグをつけるその裏には、「いいね!」を集める燃料として顧客の人生を焚べているだけの、極めて個人的な欲求がある。

もちろん、リフォームの現場ではそんな芸当はできない。
なぜなら、生活感が出すぎているからだ。
古びたカーテン、積まれた新聞、貼りっぱなしの冷蔵庫のメモ……それらは「映え」の敵である。SNSで見せびらかすには不向きな素材だ。

だから彼は新築が好きだ。
ピカピカのフローリング、整然と並ぶ建材、式典でのスーツ姿。すべてが「見せるための舞台装置」として完璧なのだ。彼のSNSには、「地鎮祭」「上棟式」「引き渡し式」が三点セットで登場する。中にはまだ施主の家具が入っていない状態の写真もある。要するに、顧客よりも先に“完成品”を自分のSNSにアップしているのだ。

一方で、リフォーム事業の投稿は極端に少ない。
社名の一部に「新築クリソツさま」というリフォーム部門名を入れているにも関わらず、実際にその名前で検索しても、出てくるのは地鎮祭の写真ばかりである。

顧客からすれば、リフォームであろうが新築であろうが、自分たちの暮らしが豊かになればそれでいい。ところが、この男にとっては「見た目」こそが命なのだ。SNSに載せられるかどうか。それが仕事のモチベーションに直結している。

彼にとっての「ご縁」は、現場で交わす挨拶でも、引き渡し後の感謝でもない。
それはただの演出用語であり、Facebookの投稿に“いい話風”な雰囲気を加えるためのスパイスにすぎない。
つまり、顧客は〈人間〉ではなく〈素材〉として見られている。SNS映えする笑顔、感動的なコメント、映える式典写真。これらが揃えば、顧客は「いいご縁」認定され、彼の中では「満足な取引」になるのだ。

感謝する相手が違うのではないか、と誰もが思っている。
実際に感謝すべきは、その「ご縁」の裏で段取りをしている現場監督であり、図面通りに施工をこなす職人たちであるはずだ。しかし、彼の感謝の矛先は常に「フォロワー各位」へ向かっている。

この構図、どこかで見たことがないだろうか。
そう、アイドルのようにファンに手を振るが、裏方のスタッフには目もくれないあの光景だ。自分の商売をショー化し、客も家も人生もパッケージ化してSNSに並べる。

だって彼は、無教養だから。
感謝とは何かを知らずに、「ご縁」という単語だけを便利に使っているのである。

21.Facebook互助会〜同じ顔ぶれ、同じコメント〜


21.Facebook互助会〜同じ顔ぶれ、同じコメント〜

Facebookには、妙にぬるま湯のような空間がある。誰が何を書いても、だいたい同じような人たちが「いいね!」を押し、同じようなテンプレコメントが並ぶ。それが、俗に言うFacebook互助会というものである。

この二代目ボンボン社長も、その互助会の上位会員だ。むしろ、幹事クラスかもしれない。誰かが食べたランチの投稿に「美味しそうですね」「今度ご一緒したいです」などと、ひとつも心のこもっていない常套句を必ず残す。すると相手も律儀に、お返しの「いいね!」と「ありがとうございます!またぜひ!」が返ってくる。まるで砂を噛むような味気ない交流が、今日も変わらず繰り返されている。

投稿もまた、既視感のオンパレードである。
「○○のパスタ、美味しかったです!」「◯◯カフェの雰囲気、癒されました」
たいていは料理か店の写真と、そこに重ねるハッシュタグ「#ご縁に感謝」「#地域に感謝」「#仲間に感謝」。もはや何に感謝しているのかわからないほどの大安売りである。

そんな投稿には、当然いつもの顔ぶれが集まる。
パスタ投稿にはパスタ仲間、カフェ投稿にはカフェ巡り仲間。とはいえ、よく見ると、みんな同じ人だ。つまり顔ぶれが固定されすぎていて、新鮮味も驚きも一切ない。
仲良しごっこの永久ループ。まるで学芸会を本気でやっている大人たちのようだ。

そしてこの男は、そうした空間に依存している。
なぜなら、そこでは誰も彼を否定しないからである。
料理がどれだけ不味そうでも、「社長、センス抜群ですね!」と持ち上げられる。
顔がどれだけむくんでいようと、「ますます若々しいですね!」と褒めてもらえる。
何をしても肯定されるのだから、やめられるはずがない。

SNSでやりとりしているのは、おおむね50代〜60代の男女である。
そのうちの一部は、人生のどこかで〈承認されること〉を諦めていたような人々。
SNSという幻の舞台で拍手をもらい、承認され、価値ある存在として扱われることに酔っている。
そこに「社長」という肩書きを持つこの男が参入するものだから、舞台は一気にゴージャスになる。まさに疑似スターである。

だが、そんな彼が放つ言葉や行動の端々には、毎度毎度《無教養》がにじみ出ている。
語彙は貧しく、使いまわしのフレーズばかり。
読点の位置もおかしく、句読点のリズムも悪い。
文章に論理性がなく、どこかが必ずずれている。
にもかかわらず、互助会の住人たちは、それを指摘しない。
なぜなら、彼らも同類だからだ。

似た者同士の中にいれば、自分の無教養には気づかなくて済む。
だからこそ、彼は今日も互助会の中で安心している。
パスタを載せ、弁当を載せ、地鎮祭を載せては、「今日も素敵な一日でした!」と綴る。
その裏にどれだけの労働者の汗があったか、自分がどれだけ現場に無関心か、そんなことはどうでもいいのだ。

大事なのは、「いいね!」の数と、テンプレコメントの安心感。
自己満足を重ねて、自分の存在を証明した気になっている。
その姿はまるで、神輿に乗ったピエロのようである。

だって彼は、無教養だから。
誰かと繋がっているようで、何ひとつ学ばないまま年を重ねているのである。

22.あなたのタイムラインに必ず現れる男〜奴化現象〜


22.あなたのタイムラインに必ず現れる男〜奴化現象〜

Facebookを開けば、そこにいる。
誰かのランチ投稿にも、ペットの動画にも、風景写真にも、子どもの成長報告にも、必ずいるのだ。
彼の「いいね!」が。
「〇〇さんがいいね!しました」の下に、だいたい彼の名前が先頭に表示されている。
その現象があまりに日常的すぎて、誰かがつぶやいた——「あの人、タイムラインの守護神じゃん」。

まるで霊のように現れるその「彼」こそ、我らがボンボン二代目社長である。
もはや「彼」ではなく、「奴」と呼ぶのが自然なほど、その存在感は濃い。
誰かの投稿の閲覧中、ふとスクロールを止めた視線の先に、奴の「いいね!」がある。
そしてまた別の投稿にも、奴の「いいね!」。
どこを向いても、誰の投稿を読んでも、そこに奴がいる。

その現象に気づいた頃には、すでにタイムラインが奴に支配されている。
友人10人の投稿の中に、9人の投稿へ「いいね!」している奴。
残り1人?ブロックされているか、まだ投稿が流れてきていないだけだろう。
そのスピードたるや、投稿して3秒後には「いいね!」がつく。
「奴、スマホを皮膚に埋め込んでる説」まで真剣に語られる始末である。

そもそも、「いいね!」を押すこと自体は、何ら悪ではない。
むしろSNSの礼儀作法、挨拶みたいなものだ。
しかしそれが《常に》《無差別に》《秒速で》となると、話は別である。
そこに感情も関心もなく、ただ義務的に押し続けているだけ。
もはや彼にとっての「いいね!」は、他者への共感ではなく、《存在確認》である。

「今日も俺はSNSにいるぞ」
「見てるぞ」「お前の投稿、見逃してないぞ」
その無言の圧。誰が頼んだのか。誰が見てほしいと願ったのか。
見守り隊のようで、むしろストーキング。
その存在はまるで《通知のストーカー》。
まったく関係のない投稿にまで現れるそのしつこさに、そっと通知をオフにする人が続出しているという。

しかも奴の「いいね!」は単なる「いいね!」ではない。
〈自分はここにいる〉というスタンプであり、〈お前も俺を見ろ〉という裏メッセージでもある。
まるでタイムラインにマーキングする犬のように、情報空間を自分色に染めていく。
それが奴の習性であり、存在証明の唯一の手段なのだ。

「誰の投稿にも現れる」「どこにでも現れる」
このあまりに常態化した《奴の現象》は、ついに名前を持った。
そう、〈奴化現象〉である。
もはや流行語にしていい。
「最近、俺のタイムライン、奴化がひどくてさ」
「もう耐えられない、奴化回避の方法ある?」
という相談が飛び交うほど、被害は拡大している。

なぜ奴はそこまでしてFacebookに依存するのか。
なぜそこまでして「いいね!」を押さずにいられないのか。
答えは簡単。
そこにしか居場所がないからだ。
リアルな人間関係は、肩書きで保たれている。
現場には顔を出さず、学もなく、教養もなく、人望もない。
SNSだけが、自分が〈誰か〉でいられる唯一の舞台。
だからこそ、手を休めることはできない。

だって彼は、無教養だから。
賢さで尊敬される術を知らず、存在を誇示する唯一の手段が、「いいね!」なのだ。
哀れであり、滑稽であり、そして少し、怖い。

23.ハッシュタグ地獄〜コピペで拡がるダサさの連鎖〜


23.ハッシュタグ地獄〜コピペで拡がるダサさの連鎖〜

SNSというのは、発信するたびに自己紹介を繰り返すようなものだ。
どんな言葉を選ぶか、どんな写真を載せるか、それでその人の〈人となり〉が透けて見える。
…にもかかわらず、彼の投稿はいつもこうだ。

「今日も美味しくいただきました」
「#ご縁に感謝 #美味しいごはん #感謝しかない #ありがとうの連鎖 #地域密着型社長飯」

これが、昨日の投稿。
では、一昨日の投稿を見てみよう。
「今日も美味しくいただきました」
「#ご縁に感謝 #美味しいごはん #感謝しかない #ありがとうの連鎖 #地域密着型社長飯」

え、まさか、同じ?
いいや、微妙に違うのだ。
今日は「チキン南蛮」、昨日は「天丼」
それ以外は、見事なまでにコピー&ペースト。
ここまで来ると、投稿というより「社長業務日報」である。
しかも誰も頼んでいない。

しかも驚くことに、そのハッシュタグの中には、何にでも応用可能な〈万能型〉がある。
「#ご縁に感謝」なんて、今日のランチに対して使うか?
焼きサバ定食に感謝した結果、〈ご縁〉が生まれたというのか。
それとも、サバと俺を繋いでくれた漁師との縁か。
「#ありがとうの連鎖」って、それ、どこまで遡ればいい?
タルタルを作ってくれた工場まで行くのか?
どこまでいっても、〈うすら寒い感謝芸〉が止まらない。

そして何より恐ろしいのは、こうしたハッシュタグが“オリジナル”ではないことだ。
投稿の本文とともに、前日のものをコピペし、日付とメニュー名だけを変えている。
ハッシュタグすらも、昨日とまったく同じ。
投稿者の頭の中では「今日は違うごはんだから別の投稿」と思っているのかもしれないが、読み手には毎日同じ《自動生成感》しか伝わってこない。
そこに込められた情熱も工夫も、まったくのゼロである。

かつて、SNSには「自分の言葉で綴る」という文化があった。
ハッシュタグも、本来はその人ならではのセンスや皮肉、愛嬌が反映されたものであった。
だが彼は違う。
「#地域密着型社長飯」などという、謎のワードを編み出し、それを崇高な肩書きであるかのように繰り返す。
まるで「今日の社長が食べた飯」というジャンルのニュース番組でも始まるかのようだ。

他人の投稿を見て、「あ、このハッシュタグいいな」と思ったら即パクる。
その結果、タイムラインは似たような投稿と同じようなタグで埋め尽くされていく。
まるでSNS上のミームウイルス。
コピペによる無個性の拡散、すなわち《ダサさの連鎖》が発生する。
それを本人だけが「俺って情報発信力あるよね?」と勘違いしているのが、もう痛々しい。

ここまでくると、「SNS映え」というより「SNS病み」である。
本来、投稿は〈誰かに届けたい気持ち〉の表現であるべきなのに、
彼にとっての投稿は〈自己満足の自動再生〉でしかない。
そして投稿を終えた瞬間、また別の誰かの投稿に「いいね!」しに出かけるのだ。
飽きもせず、今日もまた。

なぜそんなことを繰り返すのか?
理由は明白だ。
だって彼は、無教養だから。
言葉の選び方も、表現のバリエーションも、読み手の気持ちも考えない。
ただ機械的に、自分を肯定してくれそうな形式をなぞるだけ。
それが「SNS活動」だと思っているからである。

ハッシュタグは、現代の履歴書とも言える。
その人がどんな価値観を持ち、どんな世界に生きているのかが一目でわかる。
彼のそれは、まさに《知性なき承認欲求》の見本市である。
ハッシュタグの羅列を見るたびに、こちらの思考力が3%ずつ削られていくような気分になる。
そして気がつけば、我々のタイムラインがその《ハッシュタグ地獄》に呑み込まれているのだ。

24.情報過多で無知〜SNSだけで世界を語る男〜


24.情報過多で無知〜SNSだけで世界を語る男〜

「いやぁ、最近はほんと、物価高いですよね」
そう言いながら、彼は唐突に投稿する。
「#経済 #円安 #インフレ #でも頑張ろう #ご縁に感謝」
…内容は、スーパーで買ったサンマが昨年より20円高かったという話だけである。

ニュース番組を見ているのではない。
新聞を読んでいるわけでもない。
彼の情報源は、タイムラインに流れてきた"それっぽい誰かの投稿"、ただそれだけ。
だが本人は、それを「世間の声」と信じて疑わない。

本当に勘弁してほしい。

【情報を食べて、思考が死ぬ】

彼はいわゆる「情弱」ではない。
スマホも持っているし、SNSにも精通しているし、時に流行語をいち早く使ってくる。
だが問題は、《情報が多すぎて、理解が追いついていない》ということだ。
見出ししか読まずに「知ったつもり」になり、
断片的な投稿をつなぎ合わせて「全体を見渡した気」になり、
その薄っぺらな情報だけで社会や世界を語り出す。
これが、まさに《情報過多の無知》という現象である。

たとえば地震のニュース。
地震が発生すると、「日本はもう終わりですかね」と投稿。
でもそれ以上の知識はない。
どこの断層で、どういう構造で、何が起きたかは知らない。
せいぜい「南海トラフがやばいらしい」程度の言い回しで止まる。
"らしい"という言葉で逃げる癖がついている。

SDGsについても語る。
「やっぱり持続可能な社会が大切ですよね」
その投稿の写真は、プラスチック容器に盛られたコンビニのパスタである。
「#SDGs #地球に優しく #お弁当ありがとう」
もう、どこから突っ込んでよいのやら。

【ニュースはタイムラインがすべて】

彼にとって、世界は《Facebookの中だけ》で動いている。
選挙の話題も、芸能人のゴシップも、グルメ情報も、ぜんぶFacebookの知人の投稿から仕入れる。
だが、その知人もまた同じ穴のムジナ。
結果、彼の世界は驚くほど小さく、狭く、薄っぺらく構成されていく。
「みんな言ってますよ?」の"みんな"は、たいてい数十人の似たような投稿主たちに過ぎない。

テレビを観ることを「時代遅れ」と言い、新聞を読むことを「紙の無駄」と言う。
代わりに信じるのは、情報発信者が誰だかわからないコピペの投稿だったり、
文字数制限の中で加工された誰かの発言だったりする。

それで「勉強してるんですよ、俺なりに」と言うのだから、たまったもんじゃない。

【無教養はフィルターを持たない】

何を信じ、何を疑うか。
それは教育でもあり、経験でもあり、教養でもある。
しかし彼にはそれがない。
SNSという洪水の中で、バケツではなくザルを持って立ち尽くしている。
何もかも受け入れ、何もかも鵜呑みにする。
そのくせ、持論だけは強く、正しいと信じて疑わない。

ある意味、最も厄介な《自称・情報強者》だ。
なにしろ、「スマホを操作できる=頭が良い」と思っている節すらある。
操作はできても、読解はできない。
共有はできても、咀嚼はできない。
そこに残るのは、薄っぺらな情報を薄っぺらな理解で語るという、ただただ哀しい姿である。

なぜそんな状態に陥るのか?
それはもちろん、彼が《無教養》だからである。
情報の洪水の中で、泳ぎ方を学ばずに浮かれているだけ。
そしてその波紋を、周囲のタイムラインに延々と撒き散らす。

今日もまた、「世界がヤバい」と言いながら、
スマホ越しの世界だけを信じて、彼はまたハッシュタグを打ち続けている。

25.勉強会と称して飲み会〜「Facebook〇〇会」商法〜


25.勉強会と称して飲み会〜「Facebook〇〇会」商法〜

世の中には、勉強会という名を借りて開催される、ただの飲み会が存在する。いや、むしろそれは“飲み会以下”かもしれない。ただFacebook上で繋がっているという、それだけの薄っぺらい縁に依存し、互いに褒め称え合うだけの集まり。まさに《社交辞令フェスティバル》である。

我らが二代目ボンボン社長は、こういった集いの常連中の常連である。「〇〇勉強会」「〇〇交流会」などと大仰な名前をつけ、たいがい居酒屋の個室を貸し切る。その様子はFacebookに事細かに投稿され、「#学び #ご縁に感謝 #みんなにありがとう #繋がりに感謝」とハッシュタグが並ぶ。いや、誰も何も学んでいないのだが。

【乾杯が始まり、講義は終わる】

形式としては、「第一部:勉強会」「第二部:懇親会」となっている。だが、実際のスケジュールはこうである。

18:00 全員集合。名刺交換という名の自己紹介タイム
18:15 「いやぁ~最近のSNSの影響力ってすごいですよね!」と誰かが言い出す
18:17 すぐに乾杯
18:20 焼き鳥の串を片手に「これからの地域づくりについて考えたいですね!」という理想論
18:45 自慢話タイム。みな口々に「俺は昔、こんな仕事した」とマウントの取り合い
19:30 「勉強になりましたねぇ~!」とまだ言ってないことを言い出す
20:00 「いやぁ、ご縁って本当に大事」と言いながら、ビールを3杯目

これのどこが勉強会であろうか。

【Facebook投稿のための会合】

最初から目的は「勉強」ではない。「SNSに載せる素材を得ること」それがすべてである。
ボンボン社長も、投稿に使える写真を撮ることに余念がない。料理、乾杯、集合写真、そして〆のラーメン。どれも「#Facebook勉強会」というタグとともに投稿される。

投稿文の冒頭には、こうある。

「本日もまた素晴らしいご縁に恵まれました。皆様のおかげで素晴らしい学びの時間となりました。これからも地域の未来のために精進します」

おい。地域の未来の話、一言も出てなかったぞ。

【講師役の素人たち】

たまに講師らしき人物が呼ばれるが、だいたいが「SNS活用術」とか「地域密着ビジネス」とかいう胡散臭いテーマである。そして話す中身は、「Facebookでは共感が大事」とか「いいねの数が信用に繋がる」といった、薄っぺらい内容ばかり。

参加者もまた、それをノートに書き写しながら「これはいい話だ」と頷く。どうやら《無教養同士の共鳴現象》が起こっているらしい。

【商売に繋がらない“つながり”】

こうした会合が繰り返されても、ビジネスの実になった例を見たことがない。ただ「Facebookの投稿がにぎやかになった」という、虚構のにぎわいが残るだけである。

「ご縁を大切に」
「つながりを育てよう」
耳障りの良い言葉は並ぶが、実際のところは、《承認欲求の温め合い》に過ぎない。

【無教養が生む幻想の学び】

そもそも学びとは、自己を省みて、知らないことに出会い、理解を深める営みである。だが、彼らにとっての学びとは、「知ってるつもり」を仲間と共有し合い、「うんうん、それな」と共鳴し合うことに過ぎない。つまりそれは、《学びごっこ》である。

勉強会をやってる自分たちは立派だ、と思い込む姿は、まるで料理教室に通っているだけでシェフになった気分の人と同じである。

無教養な人間が、無教養な人間を集め、無教養な内容を持ち帰る。
そして「素晴らしい学びだった」と投稿する。

そこにあるのは、勉強でも交流でもなく、《無教養の循環》という地獄のループである。
だが彼に言わせれば、「今日も良き一日でした。皆さんに感謝です」。

…いや、感謝するなら、せめて何か一つは学んで帰ってくれ。

26.誰かが作った弁当を、誰かの愛と呼ぶ〜“お弁当”という演出〜


26.誰かが作った弁当を、誰かの愛と呼ぶ〜“お弁当”という演出〜

彼のSNSには、定期的に登場する投稿がある。それは、いわゆる〈愛妻弁当〉である。ピントの合っていない写真、光の加減を無視した構図、そして何よりも中身に漂う《いかにも》感。卵焼き、ウインナー、冷凍食品らしき副菜が並ぶその弁当は、彼いわく「妻の愛情のこもった手作り」なのだそうだ。

そう語りながら、写真の下には「#ありがとう」「#感謝」「#妻に感謝」「#お弁当は愛」などのハッシュタグがずらりと並ぶ。愛とは、電子レンジでチンしたコロッケのことなのかと、思わずツッコミたくなる構成である。

【冷凍食品の愛情論】

冷凍食品が悪いのではない。問題は、それを〈手作り〉だと信じ込む、あるいは〈愛情〉だと過剰に演出してしまう、彼の《無教養さ》にある。妻が手間をかけたか否かを超越し、「お弁当=無条件に愛」という等式を信じて疑わないところに、彼の情報処理能力の限界が垣間見える。

弁当とは、たしかに一つの家庭文化であり、手作り弁当にはその人の生活がにじむ。だが、無意識に人前へ晒すという行為には、どこか〈演出〉の香りが漂う。それがFacebookという舞台で繰り返されるのだから、もはや家庭の風景ではなく、《公開型家庭劇場》である。

【「今日も感謝」テンプレの無機質】

彼の弁当投稿は、どれもこれも文面が同じだ。

「今日もありがとう。こうして働けるのも、支えてくれる家族のおかげ。ご縁に感謝。」

言葉に酔っている。それも、自分で作った言葉ではない。誰かがどこかで言っていたようなフレーズを、語尾だけ変えてコピペしている。それを〈自分の言葉〉だと信じて疑わない。《愛の再生産》とは、こういう形で成されるのかと、逆に感心してしまうほどである。

ちなみに、この投稿は多くの「いいね!」を獲得する。特に、同じように弁当をアップしている「妻側」「夫側」双方からの共感が集まる。無教養は無教養を呼ぶ。

【見えない愛を見える化する試み】

なぜ彼は、こんなにも愛妻弁当をアピールするのか。それは、たぶん《自分が誰かから愛されている》という事実を、周囲に認識してもらいたいからだろう。弁当の存在によって、愛情を証明しようとしている。

だが、本当の愛とは、写真で撮られるようなものだろうか。見せびらかす必要のある愛など、所詮、虚飾に過ぎない。《誰かが作ったものを、誰かの愛と信じたい男》の切実な自尊心の表れとも言える。

【弁当が家庭のすべてを語るわけではない】

彼は、弁当を通じて家庭の幸福を語ろうとする。だが、弁当の中身だけを見て、そこにどれほどのリアルな関係性が詰まっているというのか。おそらく、夫婦仲について本気で聞いたら、口を濁すに違いない。家庭の温度を弁当の温度で測ってはいけない。

愛妻弁当は、美談にしやすい素材である。しかし、それを投稿のたびに称賛する人々のコメントを見ていると、どこか虚しさが漂う。「いいなぁ」「素敵なご夫婦ですね」そのどれもが、セリフとして用意されたような空虚な言葉である。

【弁当という名の仮面】

彼は、弁当によって〈愛される自分〉を演出し、〈幸福な男〉を装っている。だがそれは、いわばコンビニの棚に並んだ弁当のように、作られた状態で置かれているだけのものだ。本当に温かいのか、本当に手間がかけられているのか、その真偽は知る由もない。

そして何より問題なのは、彼自身がその仮面を〈本物〉だと信じ込んでいることだ。SNSに投稿された写真と、そこにつけられる「ごちそうさまでした」の一言で、彼は今日もまた〈愛されている男〉を演じ続ける。

愛とは、もっと静かで、もっと深く、そしてもっと目に見えないものではなかったか。

だが、彼には見えない。なぜなら、彼は無教養だから。

27.娘のインスタ気取りに冷えた笑い〜おじさんの限界芸〜


27.娘のインスタ気取りに冷えた笑い〜おじさんの限界芸〜

コーヒーショップの紙カップ。白とグリーンのあの定番ロゴが正面に来るよう、斜め45度からの構図でパシャリ。背景にはわざとらしくぼかされた観葉植物と、読みかけのビジネス書の表紙。まるで意識高い系の女子大生が「#午後の癒しタイム」などと添えて投稿しそうなその画像。しかし、投稿者は——還暦間近の土建屋の社長である。

このコントのような違和感に、気づかぬふりをしていいね!を押すのが、彼のFacebook互助会のたしなみ。だが、その光景を冷めた目で見る第三者にとっては、〈おじさん、やめておけ〉の一言に尽きる。

【インスタ女子になりたかったのか】

どうやら、娘がかつて投稿していた写真の構図や雰囲気を参考にしているらしい。つまり、〈娘のマネ〉である。何とも微笑ましい親心……ではなく、あまりに不器用な模倣である。若さとは、加工ではなく空気感で成り立つことを知らぬ男の末路だ。

実際、投稿の文面もどこか娘のSNS口調を真似ており、「午後のホッと一息」「今日はゆっくり」など、まるで誰かのコピーでしかない。《文体にまで教養が表れる》ということを、彼は理解していない。いや、理解できないのだ。なぜなら、彼は無教養だから。

【世代ギャップという名の断絶】

SNSとは、使い方一つで年齢やセンスが丸裸になる。彼の場合、すべてが〈追いつこうとしてズレている〉。例えば、ハッシュタグ。「#癒しの時間」「#カフェタイム」など、テンプレート化されたものばかり。娘世代のインスタグラマーたちがすでに捨てた表現を、彼は今なお宝物のように使っている。

問題は、こうした投稿が〈誰かに響いている〉と本気で思っている点だ。共感を得るために必要なのは、年齢に応じた等身大の表現力である。無理に若作りしても、隠しきれないものがにじみ出る。年齢を重ねた大人の言葉が、若者の真似に負けるはずがないのに、それができない。なぜなら、彼は無教養だから。

【冷えた笑いと、ぬるい共感】

実際のところ、彼の投稿には毎回似たような「素敵です!」「癒されます!」というコメントがつく。だがそれは、SNS互助会における社交辞令に過ぎない。誰も彼を本気で称賛してなどいない。むしろ陰で「またやってるよ…」と、冷えた笑いが起きていることに気づいていないだけである。

冷笑とは、熱量を失った嘲笑である。それを浴びながらも、本人が気づかずに悦に浸っているというのは、もはや一種の悲劇であろう。そしてその悲劇が延々と繰り返されるSNSのタイムラインは、ある意味で現代の滑稽譚である。

【家族という舞台の利用法】

娘がどこかでカップを手にしたとき、その構図や雰囲気に〈何か〉を感じ取ったのかもしれない。だが、それをそのまま真似るという発想がすでにズレている。家庭を舞台にして自らの感性を上塗りしようとする行為に、愛という名のスパイスは感じられない。

むしろそこには《演出》しかない。娘の感性を借りて、自分の投稿に「若々しさ」や「家庭的な一面」を足す。が、その計算が透けて見えるからこそ、余計に寒々しいのだ。

【限界芸としてのSNS模倣】

おじさんが無理に若者文化に馴染もうとするさまは、時に哀れみを超えて、芸として昇華されることがある。しかし、芸には技術が必要である。つまり、模倣にもセンスと観察眼が求められる。そのどちらも持ち合わせていない彼は、模倣の模倣を繰り返し、結果として〈限界芸〉と化している。

それでも本人は、良い父親を演じているつもりなのだろう。無邪気な投稿の裏には、「俺だってセンスあるだろ?」という自負が透ける。だが、残念ながら、センスとは教養とともに育つものなのだ。

そして、彼にはその教養がない。なぜなら、彼は無教養だから。

28.Facebookから姿を消した女〜布井さんの行方〜


28.Facebookから姿を消した女〜布井さんの行方〜

あの人は、いつもそこにいた。
いつも、彼の隣に。
いつも、彼の投稿に。

それが布井さんである。あの少し色気のあるご婦人。彼女の名前は、地元のFacebook界隈ではちょっとしたブランドだった。派手すぎず、かといって地味でもない。絶妙なところで魅せる、あの《人妻感》。おまけに、どうやら人の会社の社長との距離感が異常に近い。

彼女の存在は、ある時期、彼のFacebookにおいて〈毎回登場する定番の小道具〉のようになっていた。カフェでのツーショット、忘年会でのツーショット、なぜか車の助手席でのツーショット。「ご縁に感謝」のハッシュタグを添えて、写真が上がるたびに、見る者は黙って眉をひそめるしかない。

【“Facebookの顔”だった女】

布井さんは、いわばこの界隈の「Facebookアイドル」であった。投稿には必ずリアクションがつき、彼女がタグ付けされれば、その投稿の注目度も跳ね上がる。まるでネット広告のバナー要員のように、彼女は《SNS映え》に利用されていたのだ。

だが、ある日を境に、布井さんの投稿はピタリと止まった。それは本当に突然で、あっけないほど自然に、彼女のタイムラインは沈黙した。まるで、潮が引くように。

【「事件」の香りがした瞬間】

その頃から、地元のFacebookユーザーの間では、ある種の《ざわめき》が走った。

「ねぇ、布井さん、最近見ないね」
「写真もタグもないって、何かあったんじゃ……」
「奥さんにバレたのかも」

そう、彼には妻がいる。彼女にも夫がいる。だが、そんな事実など、彼のハッシュタグには存在しなかった。「#大切なひと」「#感謝のきもち」といった投稿は、もはや【疑似恋愛の公開日記】である。

いくらFacebookが自己表現の場だとはいえ、道徳的な一線というものがある。だが、それを理解できるには、最低限の倫理観と常識が必要だ。そして何より、教養が。

つまり、彼はその一線を知らなかった。なぜなら、彼は無教養だから。

【布井さん、どこへ行ったのか】

彼女がFacebookから消えて以来、彼の投稿の雰囲気は少しだけ変わった。いや、変えようとしていた。突然、奥様のお弁当写真を投稿するようになり、娘の写真を交えて家庭的な一面をアピールし始めた。

だが、それはまるで《火消し》である。火事を起こした犯人が、焦って水を撒くような、そんな滑稽さ。おそらく、何かがバレたのだろう。家族、あるいは布井さんのご主人に。詳細はわからないが、いずれにせよ、布井さんの退場は唐突だった。

そして、彼は気づいていない。彼女が消えたのは、ただFacebookからだけではない。地元の人々の信頼からも、ひっそりと退場していったのだ。

【なぜ「消える」という選択をしたのか】

布井さんがFacebookから姿を消した背景には、《羞恥》《圧力》《自己保身》など、さまざまな感情が渦巻いていたと想像できる。かつては「いいね!」の数に一喜一憂し、彼の隣で「幸せそうに」していた彼女が、なぜあれほどまでに突然消えたのか。

それは、おそらくFacebookという舞台装置の中で、自分がどんな役を演じさせられていたかに気づいたからだ。彼の“社交”は、《誰かの人生を背景にした見せ物》だったのである。

そう、彼にはわからなかった。どこまでが現実で、どこからが演出なのか。なぜなら、彼は無教養だから。

【教訓としての「布井さん事件」】

SNSという世界では、関係性の境界線が曖昧になる。そこに責任や節度が伴わなければ、簡単に誰かを傷つけ、信頼を失う。布井さんの退場は、それを象徴する出来事であった。

そして、彼のように《無教養ゆえに気づかない加害者》は、少なからず存在する。自分の投稿が誰を喜ばせ、誰を苦しめているのか。気づかぬまま「感謝」のハッシュタグを乱用し続ける彼の姿は、まさに老害の縮図である。

SNSとは、教養のない者にとっては、剣よりも鋭い凶器となる。布井さんがいなくなっても、彼は今日もスマホを握りしめる。まるで何もなかったかのように。そして、また新たな〈犠牲者〉が、誰かのタイムラインに浮かび上がることだろう。

29.無教養がもたらす人災〜常識がないって、罪だよ〜


29.無教養がもたらす人災〜常識がないって、罪だよ〜

教養とは何か。それは、知識の量を競うことでも、学歴をひけらかすことでもない。
もっと根本的なもの、人としての土台である。言い換えれば、教養とは〈周囲に迷惑をかけずに生きるための最低限の装備〉なのだ。

さて、この本の主人公たるボンボン社長は、その装備を持ち合わせていない。完全な無防備。つまり、彼の存在そのものが《人災》なのである。

【常識なき人の“破壊力”】

常識がないということは、社会における暗黙のルールが読めないということだ。
たとえば、顧客の家の地鎮祭で家族全員が写った写真を勝手にFacebookに投稿する。
それもタグ付きで、住所が特定できそうな文言を添えて。「#ご縁に感謝」と書き加えれば、許されるとでも思っているのだろうか。

そんなわけがない。
それは個人情報の垂れ流しであり、善意という名の押しつけ、感謝の皮をかぶった自己顕示である。
だが彼はわからない。なぜなら、彼は無教養だから。

【教養の欠如は、他人の人生を軽んじる】

SNSで知り合った人妻との写真を何度も投稿し、あたかも親密さを世界に誇示する。
その人妻には夫がいるが、そんな配慮など微塵もない。
だって、彼は「悪いことをしている」とすら思っていない。

無教養とは、《他人の痛みに気づけない感性の鈍さ》である。
さらに言えば、その痛みを「自分の表現の自由」という大義名分で塗りつぶす、暴力的なまでの自己中心性の表れでもある。

【“空気を読めない”を超えたテロ行為】

彼は、自分が「社長」であることを無邪気に武器にする。
あちこちの飲食店に出没し、店名にいちいち「さん」をつけてSNSに上げる。
「今日はだんごう坂さんで料亭ランチ」
「スーパーヒガシトモさんののり弁、安定の味です」

なぜ気持ち悪いのか。
それは、彼が心から店への敬意を払っているわけではなく、《投稿に品格を添える道具》として「さん」を利用しているからだ。
「さん」をつければ謙虚になった気でいる。中身が伴っていないから、逆にダサい。

教養とは、言葉づかいの奥にある本質だ。
敬語を使えば偉いのではなく、敬意の気持ちを持つことが重要なのだ。
その違いがわからない人間が、「ご縁に感謝」を口癖のように唱えても、薄っぺらい広告文句にしか見えない。

【人災が地域に落とす影】

彼がFacebookで「ご縁」だの「感謝」だのと連呼しているうちに、顧客は写真を勝手に使われ、地元の人々は「またあいつか」とうんざりし、娘は半強制的に会社に連れ戻される。
もうこれは、家族・地域・顧客・インターネットを巻き込んだ《一大災害》である。

しかも、本人はまったくその自覚がない。
「何が悪いの? 仲良くしてるだけじゃん」
「SNSは自己表現の場だし」

このような言い訳が、どれだけ多くの人間の心を傷つけているか。
それがわからない時点で、無教養という名の罪は確定だ。

【知識はなくとも、配慮は持てる】

誤解してはならないのは、教養とは必ずしも高い学歴や難解な知識ではないということ。
むしろ、《他人の気持ちを慮る能力》があるかどうか。
「これは他人を不快にさせるかもしれない」と立ち止まって考えることができるかどうか。

たったそれだけのことができない者に、Facebookは凶器であり、SNSは自爆装置だ。

【無教養は、意図せずして加害者になる】

教養のない者ほど、自分を「善人」だと思い込む傾向がある。
自分は誰よりも感謝している、自分は誰よりも人に優しくしている、自分は誰よりも人との“ご縁”を大切にしている——

だが、行動が伴わなければ、すべては空虚な自己満足であり、周囲には迷惑なだけだ。
彼のような人間が地域のSNSを席巻し、無意識に他人の人生を消費し続ける限り、こうした“人災”は終わらない。

常識がないというのは、罪だ。
そして、無教養というのは、〈無意識のうちに人を傷つけ続ける暴力〉に他ならない。

今日もまた、誰かのタイムラインが汚される。
「#ご縁に感謝」のハッシュタグとともに。

30.社長って呼ばれたいだけの人〜肩書きにしがみつく老後〜


30.社長って呼ばれたいだけの人〜肩書きにしがみつく老後〜

世の中には、役職に就くことで自己評価を維持する人がいる。
その最たる例が、いわゆる「肩書きおじさん」である。

本書の主役もまた、正真正銘の肩書きおじさん。いや、〈肩書き依存症末期〉の二代目土建屋社長である。

【社長という仮面を脱げない男】

一見すれば「社長職」というのは実務も責任も重いものだと思われがちだが、彼の場合、その実態は「名ばかり」。
印鑑を押す。地鎮祭に出席する。Facebookに現場の写真を投稿する。
たったそれだけで、〈社長業〉は完了である。

しかし彼にとって、それはただの仕事ではない。
《社長》と呼ばれることが、自己肯定感を保つための命綱なのだ。
「〇〇社長、すごいですね」
「さすが社長、行動力が違う」
「社長のお弁当、今日も素敵です」
こういったコメントがあるだけで、彼は呼吸ができる。

まるで、社長という肩書きがないと窒息する病にでもかかっているかのように。

【もう働いていないのに“社長”】

ここで重要なのは、彼が会社を「率いている」わけではないという点だ。
現場を回すのは社員の某氏。
段取りも、顧客対応も、書類作成も、ほとんど部下がやっている。
本人はというと、スマホを片手にランチとカメラとSNSに勤しむ日々。

もはや彼の“社長活動”の大半は《Facebookでの投稿》である。
それでも彼はどこへ行っても「社長」と呼ばれたい。
名刺交換の場では自ら「代表取締役です」と繰り返す。
どれほどくだらない会合であっても、「社長」と肩書きを添えて参加する。

それはまるで、職業ではなく《役名》で生きているようなものだ。

【肩書きは、人格を保証しない】

だが、肩書きは中身を保証してくれない。
「社長だから偉い」と思っているのは、本人と取り巻きだけであり、実際の信頼は業務能力と人間性によって築かれるものだ。
にもかかわらず、彼は「社長です」という一言で、すべてを上から目線で語ろうとする。

教養のない者が権威を振りかざす時、その滑稽さは倍増する。
なぜなら、肩書きだけで尊敬を勝ち取れると勘違いしているからである。
だが、〈中身がない肩書き〉ほど、痛々しいものはない。

【「社長」という名の防具】

なぜ彼はそれほどまでに肩書きに執着するのか。
それは、《老いの恐怖》を覆い隠すための防具だからである。
彼のような無教養の人間にとって、「社長」というラベルは、自分がまだ社会的に価値ある存在だと信じ込むための拠り所なのだ。

同年代の人々が引退や次の世代へのバトンタッチを考え始めるなか、彼はひたすら「まだ現役感」を演出する。
Facebookに投稿された「現場チェック中」の写真、タグには「#社長の目」などと入っている。
実際にはただ現場を眺めているだけなのに。

その目は、社会を見ているのではなく、《自分がどう見られているか》だけを見ている。

【真に尊敬される“社長”とは】

本当の意味で尊敬される社長とは、肩書きではなく、行動で人を魅了する人である。
言葉に重みがあり、立ち居振る舞いに品格があり、何より《周囲への敬意と責任感》がある。

彼のように、「社長」と呼ばれたいがために何もしていないのに居座る人間が多ければ、その組織の未来は暗い。
若手が伸びず、社員が疲弊し、会社全体が老害の墓場と化す。

【老後に必要なのは肩書きではなく“品格”】

肩書きにしがみつく人ほど、実は《自分の価値に自信がない》のである。
だからこそ、周囲に「社長」と呼ばれ続けることで、空虚な自己肯定感を維持しようとする。
だが、見苦しいのはその姿勢だ。

年齢を重ねたからこそ、〈肩書きがなくとも敬意を持たれる人間〉になるべきなのに。
その逆を行く者が、今日もまた、無教養の証として「社長」と呼ばれたがっている。

Facebookのタイムラインには、今日も「#社長ランチ」
「#現場の声を聞く」
「#ご縁に感謝」

ああ、痛い。あまりに痛い。

だが彼は気づかない。
だって、彼は無教養だから。

【著者プロフィール】


【著者プロフィール】

ミヤベ ナオ(MIYABE Nao)

心霊研究家、恐怖体験ツアー主催者。
30代後半。東京都出身。

幼少期から、目に見えないもの、不思議なものに強く惹かれる性格だった。
図書館で民間伝承や怪談集を読みふける日々を送り、
10代にして「科学で説明できないものにこそ、人間の本質がある」という考えに至る。

大学では文化人類学を専攻。
卒業後、一度は一般企業に就職するも、
「もっと世界の『見えない側面』に向き合いたい」と思い立ち、会社を退職。
その後、本格的に心霊現象のフィールドワークを始める。

全国各地の伝承地、廃墟、奇習の残る集落などを訪ね、
現地の空気を肌で感じながら、地元の人々から静かに話を聞き取る独自のスタイルを確立。
単なる恐怖や興味本位ではない、
「土地と人に寄り添う調査」をモットーに活動を続けている。

また、「恐怖」を一過性のエンタメとして消費するのではなく、
体験を通じて人間の無意識と向き合うツールとして活かしたいという思いから、
少人数制の恐怖体験ツアーを企画・主催。
場所はあえて明かさないスタイルをとり、
参加者たちと共に、名前すら残っていない小さな神社や、
地図にない道を探しに行くなど、ユニークな試みを重ねている。

著作では、表層的な怖さだけでなく、
その奥にある孤独、祈り、記憶といったテーマに静かに光を当て、
読む者に「恐怖とは何か」を問いかける作風が特徴。
過剰な演出を避け、淡々とした語り口の中に、じわじわと沁みる余韻を残す。

現在、特定の居住地を持たず、必要に応じて日本各地を移動しながら活動中。
あえて拠点を定めない生き方を選び、
その時々で「呼ばれた」と感じた土地に滞在している。

SNSでは、調査記録や小さな怪談、日々感じた不思議な瞬間を
ひっそりと発信しているが、本人は「誰にも知られなくてもいい」と笑う。

好きなものは、忘れ去られた道、名もなき祠、草に埋もれた標石。
嫌いなものは、意味なく賑やかなだけの人混み。
趣味は「誰もいない場所でひとりで風を感じること」。

ペンネームではなく本名で活動しているが、
あくまでも表に出ることは控えめにし、
読者と作品との静かな出会いを大切にしている。

好きな言葉は「誰にも知られず、誰にも頼られず、それでも咲く花のように」。

──今日もまた、誰にも知られない小さな奇跡を、そっと拾い集めながら生きている。


参考文献


参考文献
『SNSで老いるということ』松永正俊/虚栄出版
『ハッシュタグと墓場のあいだ』遠山結花/浮かれ書房
『パスタでしか自己表現できない男たち』井上航一/麺つゆ舎
『俺が地鎮したった物語』藤村勝也/祭祀プロダクション
『無教養は罪なのか?はい、罪です』山本達哉/見栄張社
『Facebookで出世する方法(ただし昭和)』佐伯隆/既読出版
『娘の恋愛に口出す前に読む本』中川敏夫/過干渉書館
『リフォーム現場が怖い!〜生活感恐怖症候群〜』吉原智弘/潔癖文庫
『Fランから這い上がれなかった話』福田剛志/無念堂
『いいね!が呼吸と連動してる件について』中西修平/常時接続社

SNS中毒の土建屋社長

2025年6月28日 発行 初版

著  者:ミヤベナオ
発  行:国語発酵所

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