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坂の上から見た街並み

吉田挽空

空相出版



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     序



 二〇一九年、春。
 ここ日本では、もうすぐ平成という一つの時代が終わろうとしていた。翌年の二〇二〇年には東京でスポーツの饗宴オリンピックが、世界中から多くの人と注目を集め華々しく行われることになっている。
 新しい元号と共に訪れるであろう新しい時代、それはすぐそこまで迫っていることだけはどうやら確かであったが、東京近郊のとある町で暮らす、この四月に小学六年生になったばかりの日野家の双子の姉弟、真理亜まりあ大我たいがには、そのことの意味などまだ知る由もなかった…。

     一



「ねぇ真理亜、どこに向かってるの?」
「知らない!」
 突然家を飛び出した真理亜の後を追うようにして、大我も家を飛び出していた。
 エレベーターを待ちきれずにマンションの階段を五階から一階まで一気に駆け降りた真理亜は、目の前の坂道を下る方へと走っていた。
 日野家の暮らすマンションは丘の中腹にあった。二人の通う小学校はこの道の逆方向、丘の上の方にある。一方の坂の下へ出る時は、この辺りで一番大きな公園へ行く時か、坂下の大通りから駅やその周辺の繁華街へと向かう時だった。
 坂道を数十メートルほど走ると、やがて真理亜は速度を落として、後を追う大我の方へと顔を向けた。一度大我と合わせられた真理亜の視線は、その後でわずかに上へと向けられた。
 大我はその真理亜の視線をなぞる様に、慌てて後ろを振り向いた。母が追いかけてきたのかと思ったのだ。
 しかし、そこには誰もいなかった。
 大我は一旦立ち止まり、マンションの辺りにまで目を凝らしたが、やはり母が外へ出てきた様子はなかった。
 前を向き直し坂の下に目をやると、真理亜の歩く後ろ姿が見えた。大我は上がった息を整えながら、同じように歩いて坂道を下った。
 坂下の大通りの交差点まで出ると、真理亜はそこで待っていた。大我の顔を見た真理亜は、ハァとため息をついた後でゆっくり先を歩いた。その足はどうやら駅の方へと向かっていた。
 それから二人は、大通りをしばらく黙って歩いた。暮れかけた春の陽が、街路樹の影を長く伸ばし始めていた。
「ママ本当、ひどい」
 歩道と車道の間に設置された白いガードレールの支柱を一本一本蹴りつけながら、真理亜が言った。
「うん」
「黙ってタックン先生を辞めさせちゃうなんて、ありえない」
「うん」
 真理亜は不意に立ち止まると、どうやら目に溜め込んでいたらしい涙を手で拭った。
 泣きたい気持ちは大我も同じだった。
「タックン先生と、もう会えないのかな?」
 大我のそんな言葉を聞くと、真理亜は驚いたように目を丸くしてこちらを見つめた。その後で、今度は急激に怒りの表情へと切り替えると、語気を強めて言った。
「そんなの絶対イヤ!」

 この日二人が学校から帰ると、母の美紗子みさこは、真理亜がこれまで何度ねだっても買うことのなかった一切れ千円近くするケーキを二人の前に差し出した。そして、そのケーキを食べるためのフォークを二人に手渡すその前に、小学校に入学した当時からずっと二人の家庭教師だったタックン先生こと宮下拓馬みやしたたくまを、二人に断ることなくクビにしたことを一方的に告げた。
 真理亜にとってそんな母の行為は、二重の意味で決してあってはならない行為だった。
 まず、タックン先生との関係を一方的に切ったこと。そしてその代償として、真理亜の憧れだったあのケーキを用意したことだ。
 要するに母は、自分のした悪事に対して謝罪すらせぬまま、金で買ったあのケーキで全てを済まそうとしたのだ。二人をまだ子供だと思い、ケーキでも買い与えておけば何とかなると、そう考えたということだろう。
 金品で人を黙らせ、自分の思うままに従わせようなどと考えるのは、汚い大人のすること、賄賂わいろそのものだと真理亜は思った。
 それに、二人が心の底からしたっているタックン先生を突然クビにするなどもってのほかだが、食べる時は喜びで満たされるべきあの憧れのケーキを、こんなタイミングで出されたのでは、ケーキそのもののイメージすら悲しみの色で塗りたくられて、もう二度とあのケーキを食べたいとすら思えなくなってしまう。つまり母は、あのケーキに込められていた真理亜の幸せのイメージすらも破壊したのだ。
 そんなことを考えていると、真理亜の心には、悲しみと同時に母に対する止めどない憎しみが湧いてくるのだった。
「あぁマジで、考えれば考えるほどムカついてくるんだけど! 本当何なんだよ、あのクソババア!」
「ちょっと! さすがにそれは言い過ぎでしょ」
 大我の忠告も耳に入らぬ様子で、真理亜は続けて言った。
「ねぇ私、ママのことぶっ殺したい!」
「もう何言ってんの! ダメ! そんなの」
「じゃあ大我は、タックン先生ともう会えなくてもいいの?」
「ん…」
 大我はタックン先生の顔を思い出してから言った。
「それは、よくない」
「じゃあ、ぶっ殺したっていいじゃん!」
「だから、なんでそうなるの! 確かにムカつくけど、ママはママだよ。殺すなんて言葉、ふざけてでも言っちゃダメだよ」
 怒りが収まりきらない様子で真理亜が言った。
「とにかく! あんなママなら、いない方がマシ!」
 真理亜は、今度は急にスタスタと歩き始めた。
 慌てて真理亜を追いかけながら、大我は釘をさすように言った。
「ねぇ、今みたいなこと、堀田さんの前とかでは言わないほうがいいよ」
 大我の言葉に、真理亜は再び足を止めた。
 真理亜の友達である堀田ほった乃莉果のりかには、父親がいなかった。

 確かに大我にとってもタックン先生という存在を失うことは、あってはならないことだった。どんな質問にも答えてくれるタックン先生は、ある意味において学校の先生や、父や母よりも信頼のおける唯一の大人だったからだ。
 なぜ急にクビになどしたのか。なんの前触れもなく、なぜ急に。
 母が出してきたケーキをぼんやりと眺めながら、大我は純粋にそんな疑問を抱いた。
 感情的になって文句だけをぶちまけた真理亜に対し、大我は二人にも納得できるだけの説明を母に求めた。
 しかし母は、大我のそんな問いに対し、ただこう言った。
「あの人はダメ! ダメなものはダメなの!」
 それはもはや説明ではない。ただ単に、力関係を示しただけだ。
 金でやとわれているタックン先生と、講義を受ける身である大我と真理亜、そして雇い主としての両親。その三者の力関係からして、金を払う両親に決定権があるのは分かりきったことだ。
 はぐらかされたことくらい小学六年にもなれば分かる。いや、もっと小さくたって、言葉で言い返せなくたって、大人にはぐらかされたということは感覚的に分かるものだ。
 母が行ったそんなはぐらかしこそ、タックン先生が決してやらない行為だった。
 タックン先生は、決して二人を子供扱いしなかった。たとえその説明が二人にはまだ難しい内容であったとしても、理解まではできなかったとしても、まともに正面から答えてくれていること、そのことだけは伝わってくる。小学生には早すぎる際どい内容であるならば、中学生になったら教えてあげるよ、それは高校生になったらかな、などと言われれば、気にはなるものの理由が二人がまだ若すぎるからなのだということは伝わる。
 しかし…。
「ダメなものはダメ」
 その言葉から伝わってくるものといえば、親には逆らうなというメッセージ以外に何もない。

「ママ、寂しいんじゃないの?」
 いつしか先を歩き始めていた大我が言った。
「僕らがタックン先生と仲良くなりすぎて、ヤキモチ焼いてるんだと思う」
「あっそ。だから大我はママを許すのね」
「違うよ! そうじゃないけど…」
 二人は駅前のデパート裏の赤信号で立ち止まった。
 デパートの建物で日差しを遮られた薄暗い交差点を、冬に引き戻そうとするような冷たい風がぴゅうと吹き抜けてゆく。
 足元に目をやると、駅前通りの桜並木から風が運んできたと思われる桜の花びらが、歩道と車道の段差の隙間にピンク色の吹き溜まりを作っていた。
 真理亜はガードレールに手をかけて車道に半分身をのり出すと、その薄汚れた花びらの山をり散らした。
 しかし真理亜が力一杯、何度蹴散らそうとしても、そのピンク色の山は僅かにその場を舞うばかりで、決して遠くまで飛んでいこうとはしなかった。

 デパートに入った二人は、エスカレーター脇に置かれたベージュ色のゴワゴワとした合成皮革のソファーに座り込んだ。
 目の前には、二人もたまに面白いものがないか探して回る雑貨店がある。
 この春に入学したばかりの様子の、真新しいバッグを肩からかけた女子高校生が、ひな壇状に綺麗に並べられた棚からペンを一つ一つ手にとっては、試し書きをしていた。
 真理亜は店の中を見て回りたい気持ちを覚えながらも、黙って店の中の様子を眺めていた。今は呑気にショッピングを楽しんでいる場合ではないのだ。
 紺色の制服を着た太った警備員が、二人に冷酷な視線を投げかけながら、前をゆっくりと通り過ぎていった。その様子に不快なものを感じた真理亜は、サッと立ち上がって言った。
「別なとこ行こ」
 二人はそれからデパートの中を、あてもなくぐるぐると回った。
「ねぇ、僕トイレ行きたい」
 やがてそんな大我の要求に応える形で、二人は四階にある紳士服売り場の奥にあるトイレへと向かった。

 トイレの前にある大きな窓ガラスからは、夕焼けに染まる街が見下ろせた。
 先にトイレから出てきた大我は、その大きな窓から一人、外を眺めた。二人の住むマンションは、手前に立ち並ぶ団地に隠れて、ここからは見ることができない。
 やがて外を見るのにも飽きて、ガラス窓の前に置かれた椅子に腰掛けていると、濡れた手を無造作に振り、しずくをあたりに撒き散らしながら真理亜がやってきた。
 大我はポケットからハンカチを取り出して、真理亜に手渡した。
「ハンカチ持ってないの?」
「だってあの、風が出るやつ、壊れてんだもん」
 真理亜はサッと手を拭いて大我にハンカチを返すと、隣に座った。
「これからどうする?」
 大我のそんな問いに真理亜は答えることなく、しばらく窓の外をぼんやりと見つめていた。やがて大きなため息をついてうつむくと、左右の足を振り子のようにして前後に振った。しばらくしてそれにも飽きると、今度は前髪をいじり始めた。
「帰る?」
「それは嫌だ」
「でも…」
「私、ママのしたこと、許さない」
「それはわかるけど」
「私、絶対に私立の中学なんか行かない。大我も行かないでしょ?」
「…うん」
「だって、タックン先生が言ってたじゃん、人間関係が一番大事だって。何をするんでも、どんな人とでも仲良くできるようになるのが一番大事だって。そのためにはせめて、中学までは公立の方がいいって」
「一人で全部できるなんて思わない方がいい。助け合うのが人間で、その為に社会がある」
「わっ、今のタックン先生っぽい!」
 気を良くした大我は言葉を続けた。
「いいか? 人は一人じゃ、幸せにはなれないんだよ」
 真理亜は、タックン先生の真似をする大我を見て笑い、自分も真似を試みた。
「いいか? 幸せは…。あれ? なんだっけ?」
「人は一人じゃ、幸せにはなれないんだよ」
 大我の手本をなぞるように真理亜が続けた。
「人は一人じゃ、幸せにはなれないんだよ」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 しかし、今自分たちが置かれている状況を思い出したその瞬間に、二人を包み込んでいたわずかな幸せは、あっという間に消え失せた。
「私、あんな人には習いたくないな」
「確かに」
 二人が学校から帰ると、大学生かと思われる見知らぬ男性がちょうど家から出てきたところだった。
 家に入ると母はまず初めにケーキを出した。そして一通りの話をする中で、その人物が二人の新しい家庭教師だと告げた。
 母が選んだその新しい家庭教師とやらは、タックン先生と比べてだいぶ地味な印象の男だった。いや、地味というよりも、大我にはどこか陰気な影を宿しているように見えた。
 そもそも玄関先で、これから幾度となく顔を合わせることになるはずの当の二人に出くわしながら、挨拶らしい挨拶すらしなかったのだ。そればかりか大我と目が合った後で、男はとっさに視線すららしていた。
「あんな目をしたヤツ、絶対無理」
 真理亜は、黒猫の顔が形取られたタオル地の財布をポケットから取り出すと、中を開いた。
「あんたいくら持ってる?」
「財布なんか持ってきてないよ」
「何で持ってこないのよ。使えないヤツ」
「あのさ真理亜、前にも言ったけど人を使えるとか使えないとか言うの、やめた方がいいよ。言われた側は…」
「あーはいはい。わかってるよ、そんな事」
「わかってないから言ってんじゃん」
「あぁもう、うるさいなぁ。今そういう話をしてる場合じゃないでしょ?」
「でも大事なことだから」
「はいはい、わかりましたぁ。すみませんでしたぁ」
 真理亜は大きく肩を落として、大げさに落胆してみせた。
「じゃあさ、あんた家に帰ってお金持ってきてよ」
「家に帰っても、僕あんまりお金ないよ」
「ママの財布から、ちょっと抜いてきてよ」
「嫌だよ、そんなの。人ばっか使おうとするんだから」
「あっ! 今、大我も使うとか言った!」
「真理亜が実際に僕のこと、いいように使おうとしてるからじゃんか!」
「使おうとなんてしてません!」
「してるよ! じゃあ何で自分で行かないの? 自分で勝手にママの財布からお金抜いてくればいいじゃん。意味わかんないよ」
「私はただ、家に帰りたくないだけ!」
「そんなの自己中だよ」
 真理亜は急激に顔をゆがませてグスグスとぐずりかけた。しかし周りに誰も人がいないとはいえ、公共の場で大きな声を出すことに抵抗を感じたのか、それとも何より怒りをぶつけるべき相手である母がこの場にいなかったせいか、いつものように声をあげて泣き始めるようなことはしなかった。
「じゃあ、あんたは一人で帰ればいいじゃない。帰ってあの家庭教師と仲良くやんなさいよ。私は今日限りあんたとも絶交だから」
 大我は黙った。真理亜の気持ちはわかるが、家出をしようにも小学六年生にできる家出など、たかが知れている。
「でも、どうすんの? これから。小学生に家出は無理だよ、どう考えても。どっか行く当てあるの?」
 真理亜は少し考えてから、ひらめいたように声を上げた。
「そうだ! おじいちゃんは?」
 二人の母方の祖父の家は、電車で十分ほどの距離にあった。祖母が二年ほど前に亡くなってから、祖父はそこで一人で暮らしている。確かにそこなら、二人だけでも行けない距離ではない。
「でも、おじいちゃん家行っても、速攻でママに連絡されるのがオチじゃない?」
 あの家に祖母がいる頃ならまだしも、一人では何もできないといつも母がこぼしている祖父のこと。家をこっそり出て来た二人に親身になって、母への抵抗に共闘の意思を示してくれるとは到底思えなかった。
 大我の言葉を聞いて、どうやら真理亜も祖父の家に行くことはあっさりあきらめたようだった。
「あぁあ、帰りたくないな」
「そうだね」
 結局、夜には母の待つ我が家に帰るしかない。そう考えればなおさら、お腹もすいてくる。大我の脳裏には、先ほど目の前に置かれたケーキが思い浮かんだ。
「早く大人になりたいな」
「ほんとだね」
 大我は、とにかく悔しく思った。
 一方的に権力を振りかざし、こちらには何も選択権を与えない母の強引なやり方は、とても民主的とはいえない。あんなやり方をするからこそ、反発したくもなるのだ。
 真理亜は、タックン先生にもう二度と会えないかもしれないと思うと、自然と涙が出てくるのだった。
 通っているダンス教室のナオコ先生とタックン先生だけが、真理亜が心から信じることのできる大人だった。そんな気持ちを知ってか知らずか、真理亜が本当に大事にしていたタックン先生との絆、その糸を突然横からハサミでプツリと切るように切断した母。真理亜はそんな母が、とにかく憎かった。

 二人はそれから、タックン先生がこの場にいるかのような真剣さで議論した。とにかくデパートが閉まるまでには、現実的な方針を導き出さなければならない。
 真理亜は言った。向こうが少しもこっちの意見を聞こうとしないなら、こっちだってママの意見を無視する権利はあるはずだ、と。
 それを受けて、大我は言った。抵抗をしなければ、向こうはいつまで経っても同じようなことを繰り返す。だから二人は団結して言うべきことは言わなければならない。抵抗するべきことは抵抗しなければならない。
 そうして二人は、スローガンのような一つの言葉をなんとか導き出した。
『権利のために力を合わせて闘う』
 真理亜と大我はそのスローガンのもと、一つの具体的な行動指針として、『ママと一言も口をきかない条約』を交わした。そしてその期間は、最低でも一週間と定められた。

 いわゆるストライキ宣言のようなその条約を、この日二人は確かに守り抜いた。
 しかし、もともと真理亜から提案されたその抵抗の条約は、翌日には真理亜自らの手によってあっけなく破棄された。というのも、真理亜が母に、来週のお小遣いの前借りをお願いしたのである。


     二



 ある日の放課後のこと。
 学校の図書室は、まだ鍵が閉まっていた。
 大我が扉の前で一人、その部屋の鍵が開けられるのを待っていると、同学年の見覚えのある男子生徒が廊下を歩いてきた。彼の名前を思い出そうとしたが、名前までは浮かんでこなかった。
「まだ開いてないのか」
 男子生徒は独り言のようにそう言うと、大我を見つめた。
「君、日野さんと双子の、大我君だよね?」
「うん」
「僕、長谷部はせべ。大我君、塾で同じクラスだよね? 最近入ったでしょ」
 大我はこの時まだ、一度しか塾に行っていなかった。
 タックン先生に再度来てもらうことは、母の様子からしてどうしても叶いそうになかった。とはいえ、母が勝手に決めたあの新しい家庭教師を受け入れるわけにはいかず、二人がそれに対して断固とした抵抗の意思を示すと、母はそれならと塾に通うことを提案した。そして結局二人は、その案をやむなく了承りょうしょうしたのである。
 塾で大我は、真理亜とは別のクラスに割り振られていた。これは学校のクラス分けでもそうだが、双子はどうやら別のクラスになるようにあらかじめ決められているらしく、二人がこれまで同じクラスになったことは一度もない。
 最も大我としても、真理亜と同じクラスになるのだけは避けたかった。あのやたらと活動的な女子と、双子というだけで事あるごとに比べられたのではたまったものではない。それに真理亜がクラスの中で起こした問題に対して、身内として逐一ちくいちその責任を取らされるのも困る。そもそも二人はたまたま同時に生まれたというだけで、それぞれ別の人格を持つ、別の人間なのだ。
 塾では、学校で同じクラスの吉永君がいたので軽く挨拶はしたが、彼はすでに大我の見知らぬ友人たちに囲まれて楽しそうにしており、大我は後ろの端の方の席に一人で座った。長谷部が塾で同じ教室にいたことには、その時は全く気が付かなかった。
「友達になろうよ」
 長谷部は少し緊張した面持ちで、しかし率直にそう言った。
「僕、塾では一番前に座るんだ。大我君も一番前に座りなよ」
「うん」
 長谷部は、照れを隠すように笑顔で体をクネクネとさせると、「あぁ、まだかなぁ」と子供じみた声で呟いた。
 階段を上がってくる女子生徒の話し声と共に、ジャラジャラという金属が擦れる音が近付いてくる。やがて二人の前に現れた二人の女子生徒は、図書室前で待つ男二人を見てとると、それまで楽しげに話していた口を途端に閉じて黙った。
 鍵を手にした背の高い女子生徒が、扉にくっつくようにして立っていた長谷部に冷たく「邪魔」と言って退かせ、いかにもかったるそうに部屋の鍵を開けた。
 女子生徒の後に続いて図書室に入ると、二人はそれぞれに自分の目当ての本を探した。

 大我は以前、タックン先生から内容を聞きかじった『方丈記ほうじょうき』という本を探していた。
 勉強用のノートとは別に、タックン先生の話をメモするためだけに用意された専用のノート、それを昨日読み返していた時に、タックン先生の字でその名が書かれていたのを改めて見つけたのだ。
 その時聞いた話の内容は忘れてしまったが、その本の話を聞いた時に面白そうだと思ったことだけは記憶していた。
 棚を探してゆくと、『むかしのおはなし』というコーナーにその本はあった。パラパラとめくってみると、漢字には読み仮名がふってあり、読めないことはなさそうだ。
 大我はその本を持って先ほどの女子生徒の座るカウンターに持って行った。
 貸出しの手続きを終えると、ちょうど長谷部が大きな本を持ってカウンターにやってきた。大我は彼の持っているその本が少しばかり気になった。カウンターに置かれたその本を覗き込むと、表紙には『水墨画の世界』と書かれてある。
 長谷部は貸し出しの手続きを終えたそばから、自らその本をパラパラとめくってみせた。
「家にもこういう絵があるんだ」
「家に?」
「うん」
 大我はひとまず『方丈記』を脇に置くと、『水墨画の世界』を自らの手で開いた。
「ねぇ、あっち行ってくんない? そこ邪魔なんだけど」
 カウンター内の女子生徒が冷たい視線を投げかけながら、大きなテーブルのある方を指し示して言った。
 二人は黙って顔を見合わせると、テーブルへと移動した。
 大我はテーブルの上で改めて『水墨画の世界』を開いた。
 大きな岩山や竹林、可愛い顔をした虎。手がやけに長い丸顔の猿や、踊っているような姿の鶏などが、どれも習字の時に使う墨だけで描かれている。
 大我はふと、パラパラとページをめくっていた手を止めた。そこに描かれていたのは、ほうきを持った魔女のような、おかっぱ頭のおばさんだった。
『いや、それともこれは、おじさんか…?』
 ともかく、そのおかっぱ頭がさらしている節操せっそうのない笑顔に、なぜか大我の心は引き込まれ、目が離せなかった。
「おじいちゃんがこういう絵をいくつも持ってて、いつも畳の部屋に飾ってるんだ。よかったら今度、見に来なよ」
 こんな絵をいくつも持っている家となると、相当に金持ちな家なのだろうと大我は思った。
「大我君は美術館とか行く?」
 大我はおかっぱ頭のその顔に未だ心かれながらも、勢いよくパタンと本を閉じた。そしてそれを長谷部に手渡しながら言った。
「行かない」
 大我は自分が借りた本を長谷部の前でわざとめくって見せた。しかし長谷部は、大我が借りた本にはこれっぽっちの興味も示さなかった。

 家に帰ると、大我は早速『方丈記』を読み始めた。
 まず初めのページを開くと、赤い欄干らんかんの橋の下を大きく渦を巻きながら荒々しく流れる川の絵が目に飛び込んできた。文章は上段に原文が示され、その下に現代文の訳が添えられている。
 大我はまずその原文を、意味もよくわからぬまま、まるで呪文でも読むかのようにブツブツと小さく声に出して音読した。
 
『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし…』

 続けて大我は、現代語の訳を同じように音読した。現代語訳も少しばかり文章が難しくはあるが、少し難しいくらいの方が文章の読解に熱中する。現代語の文章を読み終えると、大我は改めて鎌倉時代に鴨長明かものちょうめいという人が書いたとされる原文を読み直した。
 こうして読むと、初めはただの呪文のようだった原文が、八百年の時を超えて今を生きる自分と繋がってくるように感じられて、大我は何か心おどるような心地がした。
 次のページを開くと、そこには家が建て替えられ街が変わってゆく様子、また次のページをめくると、生まれては死んでゆく人の一生の様子が挿絵として添えられていた。
『変わらぬようでいて、本当は変わりつつある…』
 大我はこの時ふと、二年前に突然他界した、ばぁば﹅﹅﹅こと母方の祖母、和子かずこのことを思った。死ぬ数日前に会った時にはあれほど元気そうだったのに、本当に川の水面みなもの泡がはじけるかのようにこの世から消えてしまったばぁば。
『人は消える。この世から本当に消えてしまうんだ…』
 当時、そのことを目の当たりにした大我は、見てはいけない地獄の淵を覗き込んでしまったような、そんな思いがしたのを記憶していた。
 そこに確かにある漆黒の死の世界、どうやら自分もいずれはそこに落ちてゆくことは避けられず、やがては自分の時間も止まり、この体も消えてなくなってしまう…。
 真理亜は、ばぁばの死を悲しみつつも、葬式の合間にすら所かまわずダンスを踊っていたが、大我はばぁばの死から自分自身の死を想像して、溢れ出てくる涙を堪えるのに必死だった。
 父や母は、祖母の死を純粋に悲しむ大我のそんな様子に感心していたが、大我の心の向きはそれとは少しばかり異なっていて、祖母の死以上に、やがて確実に訪れるはずの自分自身の死﹅﹅﹅﹅﹅﹅に対してこそ恐れおののき、涙していたのである。
 死という、そんな絶対的な真実は、確かな恐れを伴ってその時大我の心にしっかりと刻み込まれたはずだった。
 しかし…。
 この世に生まれてからまだ十年ほどしか経過していない大我の体は、これからの時をこそ生きようとしていた。内側から無尽蔵むじんぞうに溢れてくる生命力は、死とは真逆のベクトルをもって、さらなる生の横溢おういつを求める方へと向けられていたのである。
 それは大我だけに限ったことではなかった。同い年の真理亜はもちろんのこと、父や母だって、生命力のベクトルこそすでに上向きではなかったとしても、病気という病気もなければ、まだ死を匂わせる生命力の低下など感じさせるようなこともない。そこには充実し、安定した生の循環があった。
 そんな四人が生活している日野家では、お別れの儀式が終われば、これまで通りの日常の時間がまるで何事もなかったかのように流れ始める。父は仕事に行き、母は家事。大我と真理亜は学校に行って、友達と遊んではタックン先生と笑いながら勉強する。そんな死とは無縁とも思える日々に、あっという間に舞い戻ってしまったのである。
 一旦そんな日常に引き戻されてしまえば、命の時間が止まってしまったばぁばのこと、あの時大我が覗き込んだはずの死の淵、やがては自分のこの体が消えることなど、考える暇すらなくなってしまう。
 確かに死について考え続けるのはつらいことだ。忘れて過ごせるならば、その方が楽しいに決まっている。しかしすでに死という動かしようのない絶対的な存在を知ってしまった大我には、それはそれで、どこか後ろめたいものを感じさせた。死んだばぁばのことを思い出す度に、くだらないことで笑いながら日常を楽しんでいる自分は、どこか不誠実でダメな人間に思われて、時の止まってしまった死者に対して何となく申し訳ないような気持ちになるのだった。
『忘れたわけではない』
 そうは思うものの、死という概念を常に心に置き続けることができるほど、大我の心はまだ成熟してはいなかった。

 大我は本を開いたまま目をつぶると、心の中でばぁばに対して祈りを捧げた。そしていつまで経っても答えの出ない問題にふたをするかのようにそのページを閉じると、新たなページに目を移した。
 次に目に入ったのは、大火事と竜巻の挿絵だった。さらにページをめくって、そこに描かれてある挿絵ばかりを先に覗き見ると、そこには鎌倉時代の地震の様子が生々しく描かれてあった。
「あぁ、これだ」
 大地震の絵を見ながら、大我はようやくタックン先生がなぜこの本の名をあげたのかを思い出したのだった。それは東日本大震災の話になった時のこと。
「当たり前のことだけど、大昔から日本では地震が多かった。方丈記っていう鎌倉時代に書かれた本にも大地震の様子が書かれてあるんだけど、あぁ、八百年経っても自然と人間の関係は大して変わらないんだなぁって、それ読んで思ったな。結構読みやすい本だから、興味あったら読んでみるといい」

 二〇一一年三月十一日、午後二時四十六分。
 八年前の、あの日あの時。大我は家で真理亜と遊んでいた。あれはまだ幼稚園に通う前、当時はまだ三歳だったが、それでもあの時の揺れと食器が割れる音、母が発した悲鳴は、はっきりと大我の記憶に焼き付いていた。
 しかし大我には、地震そのものとは別に、東日本大震災と聞くと必ず思い出す一つの出来事があった。それは、その年の春から二人が通い始めた幼稚園に、門馬もんま君という男の子が期の途中から入園してきたことから始まる。

 福島から引っ越してきたというその門馬君は、話し言葉がとかくなまっていた。
 初めのうちこそ、その話し方を茶化すような人もいたが、しかし門馬君は瞬く間に園の人気者になった。それは彼が、誰もが認めざるを得ないほど数多あまたの才能に溢れていたからだ。走るのは速く、絵も上手い。歌を歌えば綺麗きれいで伸びやかな、とても真似できぬような声が出る。そして何より彼には愛嬌あいきょうがあった。いつもニコニコとして、皆に笑顔を分け隔てなく振りまくのである。
 幼稚園から帰っても、近くの公園で門馬君と顔を合わせていた大我と真理亜らグループ数人は、やがて誘われるままに門馬君の家へも遊びに行くようになった。
 門馬君の家族は公営の団地に住んでいた。六畳二間に小さなダイニングキッチンという狭い造りに、小学生の姉と父母、祖母を加えた五人暮らし。今から思えばいくら避難してきた身とはいえ、さすがに不憫ふびんに思われるが、まだ幼稚園児である大我にはそんなことまでは思い至らなかった。大我はただ、その小さな空間に詰め込まれた一家から、これまでに出会ったことがないような魅惑みわくに満ちた、言うなれば異国の雰囲気を感じたのである。
 福島では魚を取っていたという父親の、その顔つき身体つき、何よりゴツゴツとして分厚いその大きな手。見たことも食べたこともないような料理を大きなお皿に山盛りに出してくれる、いつもニコニコと笑顔を絶やすことのない門馬君似の母親。日野家に比べてだいぶ老けて見えるそんな両親だけをみても、この辺りでは到底見かけることのない特殊な雰囲気を放っていた。
 しかし、そんな家族の中でも皆が一番興味を示したのは、誰より門馬君がばっぱ﹅﹅﹅と呼ぶ祖母の存在だった。ばっぱの話す言葉は、大我たちにはまず理解することができない程に訛っていた。
 皆はお互いを突っつきながら、恐る恐るばっぱに話しかけた。そしてその皺くちゃの口から発せられる言葉を聞き取ろうとした。しかし結局のところ、誰にも、たった一言も、その言葉を聞き取ることはできなかった。
「門馬君は、ばっぱの言うことわかるの?」
 そう聞いた真理亜に、門馬君はただ笑顔で頷いた。
 やがてそんなばっぱには、園児たちによってあだ名がつけられた。
『宇宙人』
 誰が言い始めたのか、その記憶はない。しかしそのあだ名が明らかな侮蔑ぶべつの意味合いを含み始めるのに、そう時間はかからなかった。
 加えて門馬君自身には、また別なあだ名が付けられた。そのあだ名の名付け親は、大我にもはっきりと記憶されていた。それはその頃大我が幼稚園で一番仲良くしていた、泰斗たいと君だったからだ。
 泰斗君はどうやら、門馬君のことを初めから好きではなかったようだった。しかし皆が門馬君をあまりに持てはやすために、口にできずにいたらしい。
 ばっぱに宇宙人というあだ名が付けられると、泰斗君はこのタイミングを逃すまいと思ったのか、ことあるごとに門馬君に向かっても、見下すような口調で「宇宙人」と言い始めた。そしてある日、泰斗君はこれまで以上に門馬君に対する態度を荒らげ、勝ち誇ったような大きな声でこう言ったのである。
「近寄るなよ、放射能!」
 皆は「ほうしゃのう、ってなに?」と笑いながら泰斗君に聞いた。
「放射能ってのは、やばいやばいやばい、やばーい病気だよ!」
 それを聞いた皆はキャッキャとはしゃぎながらも、訳もわからず慌てて門馬君からサッと離れた。
 泰斗君は、門馬君に冷たい視線を投げかけながら大我の元までやってきて、耳元でこうささやいた。
「放射能がうつるから、あいつと遊ぶんじゃねぇぞ!」
 そして更に続けてこう言った。
「放射能って言えば病気はうつらないから、大我君も言ったほうがいいよ」
 大我は門馬君を見つめた。
 門馬君は、少し悲しげな表情を浮かべながらもいつも通りに微笑んでいた。そしてじっと見つめている大我の方へ、ゆっくり歩み寄ってきた。
 その瞬間だった。大我はなぜか急に身の毛がよだつ思いがして、咄嗟とっさにその場から飛び退いた。そして気づいた時には大我も大声で叫んでいた。
「放射能! 放射能! 近寄るな放射能!」
 飛び退いた先で、門馬君に背を向けたまま身を固まらせていると、やがて辺りの様子が急に静まり返ったのを感じて大我は振り返った。
 門馬君は先ほどと同じ場所に、同じように立っていた。ただその顔からは、いつもの笑いが消えていた。いや、笑いが消えただけではなかった。
 その時目にした門馬君の、その目。
 大我に向けて鋭く開かれたその目こそが、言葉以上に彼の心の全てを物語っていた。怒りや悲しみ、寂しさといった負の感情がドロドロに溶かされて混じり合い、唯一吐き出し口として開かれていたその目から、まるでビームを放つごとく一直線に大我めがけて飛ばされていたのだ。
 大我はまるで金縛りにあったかのようにその視線に縛られ、身動きが取れなかった。
 間もなくして「ウワーン」という泣き声があたりに響き渡った。
 泣き出した門馬君を、大我はしばし呆然と眺めていた。
 門馬君が泣いたのを見たのは、それが最初で最後だった。
 その日以降、門馬君はあまり笑わなくなった。そして大我と真理亜が門馬君と遊ぶことも無くなった。
 やがて門馬君はその年のうちに、またどこかへ引っ越していった。大我はそれ以降、彼に会っていない。

 小学校に上がり、やがてタックン先生が家に来るようになってから、真理亜と三人での雑談の最中に門馬君の話になったことがあった。その時タックン先生は、父も母も一度もしてくれなかった放射能についてのまともな説明を、二人にもわかるようにしてくれた。
 大我はその時ようやく、門馬君に対して自分がしたことの意味を知り、心の底から後悔した。
 その時以来、門馬君のことを思い出すたびに、大我はとかく自分のことが心の底から嫌になるのだった。世界中で自分以上に軽蔑けいべつするべき対象はいないとすら思った。人としての尊厳そんげんを踏みにじられた時の門馬君の悲しげな表情は、今でも大我の目に焼き付いていて決して消えてくれそうになかった。
 大我は、できることならばもう一度門馬君に会って、しっかりと謝りたいと思った。そうでもしなければ、あの時の最悪な自分がいつまで経っても心の中に居座り続け、それこそ除染しきれぬ放射性物質のように、心の奥底に溜め込まれたまま消えてはいかないように思われたのだ。
 そんなことをタックン先生に言うと、タックン先生は大我の意に反して顔をしかめた。
「うーん、謝りたいって思う気持ちはとても大切だけど…。でもさ。謝ってスッキリするのは大我君の方だけかもしれないよ」
 タックン先生はそう言った後で、突然大我のノートを手に取ると、白紙のページを無造作にビリビリと破り取り、それをグシャグシャと丸めた。それから「あ、破っちゃった。ごめんなさい」と言って、破った紙を元あったところに広げ、テープで貼り直した。
「はい、これで元通り直ったね。あーよかったよかった」
 タックン先生はニコニコと微笑みながら改めて「ごめんね」と言い、大我にそのノートを返した。
 大我は戻されたノートを、黙って見つめた。
「今、どういう気持ち?」
 タックン先生にそう聞かれたが、言葉は出てこなかった。そのかわりに自然と浮かんできた涙が、音もたてずにポロポロと頬を流れ落ちた。
「いやだよね? 悲しいよね? これで元通りなんて言えないよね?」
 大我は泣きながら頷いた。
「でもこれはただのノート。一度でもグシャグシャにされた心の傷は、もっと痛いよ。ノートなら新しく買い替えることもできる。捨てちゃうこともできるけど、心は買い替えることはできないから」
 大我は泣きながら聞いた。
「じゃあどうしたらいいんですか? 僕はどうしたら許してもらえるんですか?」
 タックン先生はしばらく黙った後で、静かに言った。
「許してはもらえないかもしれない。でも、できることがあるとしたら…。何より大切なのは、自分自身で心の底から反省すること。そして同じようなことは二度としないようにすること。自分がされたら嫌なことは、人にもしない。たとえ自分がされたとしても、必要以上にはやり返さない」
「……」
「でも大我君、この話聞かせてくれてありがとう。今日の話はとっても大切な勉強になったんじゃない?」
 大河と真理亜は黙って頷いた。
 そしてタックン先生は最後に、付け加えるように言った。
「学校の勉強なんか、今日の話に比べたらどうでもいいことばっかりだよ」
 取り返しのつかない過ちの、その過酷な重さを、大我はこの時初めて心の底から感じた。やがて小学生になり自分自身がいじめられるようにもなって、大我は心を踏みにじられる側の痛みの深さを身をもって知ることとなった。しかしそれも、大我が門馬君の心に負わせた傷と比べていいものなのかどうかは、大我には分からなかった。

     三



「ラスト弾けて、もっとだ、もっと! はい、最高の笑顔!」
 最後のポーズを決めると、真理亜はナオコ先生の求めるレベルの、少しばかり大袈裟おおげさすぎると思われる笑顔を作った。
 曲が終わると、皆は声を上げながら飛び跳ねて喜んだ。
「みんなすごいよくなった! 本当に弾けてた! この調子で頑張って。じゃあ今日のレッスンはここまで。お疲れ様でした!」
「ありがとうございました!」
 子供達の揃った声が、鏡が張り巡らされたスタジオ内に大きく響いた。
 低学年の子供達は、スタジオの外にいる親の元へと走り寄ってゆく。真理亜は、自分自身で納得できなかったパートの体の動きを、その場で何度か繰り返した。
 以前はレッスンの終わったこの時間を使ってナオコ先生に質問し、わずかな個人レッスンを受けることにしていた真理亜だったが、同じ手を使う者が多くなってからは、レッスン終了後の体を動かしながらの質問はスクール側に禁止されてしまっていた。
 小学生というくくりでまとめられた教室内は、様々な年齢の子供たちが集まってはいたが、真理亜と同学年の子は次第に辞めてゆき、六年生になった今でも通い続けているのは、真理亜と隣の小学校に通う佐伯結衣さえきゆいだけだった。

「真理亜ちゃんは結局、どこの中学受けるの?」
 着替えをしながら結衣が聞いた。
「私、受験やめたの」
「えっ、本当に!?」
「うん。私、公立に行くから」
「そう…。いいなぁ」
「そんなに嫌なら、結衣ちゃんも公立にしちゃいなよ! そしたら一緒の学校じゃん」
「ダメ。うちはママが許さないよ」
「うちもそうだよ。今でもギャーギャー言ってる。本当は今月から塾に行くことになってるんだけど、行きたくないからまだ一回しか行ってないの」
「あのね…、私、ダンス辞めるかも」
「えっ、なんで? やだ! 結衣ちゃんまで辞めたら、もう同い年の子いなくなっちゃうじゃん!」
 結衣は困惑の表情を浮かべた。
「私だって辞めたくないけど…。ママがね、中学受かったらまたやればいいじゃないって言うの」
「ひどいよ、そんなの。せっかく大会に向けて頑張ってきたのに。ねぇ、せめて大会までは辞めないで! ね!?」
 結衣は諦め顔で首を横に振った。
「この前の春期講習のテストがあんまり良くなかったから、ママがもうダメだって。それに、塾とダンスじゃお金がかかりすぎるって。五月の分まではもうダンスのお金払っちゃったから行ってもいいけどって…」
 結衣とは一年半ほど一緒に踊った仲間だった。普段は大人しいが、一度踊り始めると妙に存在感を出し、人の目を惹きつけるものが結衣のダンスにはあった。
「じゃあ、公園で踊るのは?」
「公園?」
「私、たまに学校の同じクラスの子に、公園でダンスを教えてあげてるの。その子も本当はスクール通いたいって思ってるんだけど、家の事情で通えないから私が教えてあげてるんだけど。ねぇ、結衣ちゃんもそこに来なよ!」
 結衣は考えていた。
「…少しだけなら大丈夫かも。今度ママに相談してみる」
「ママになんか相談しなくてもいいのに」
「私、隠れてやるの嫌だから。それに誰かに見られてママに知られたら、それこそ大変だから。とりあえず聞いてみる」
 笑い顔の戻った結衣を見て、真理亜は少しばかりホッとした。

「あーあ」
 夕食のパスタをフォークに巻き付けながら、真理亜はため息を吐いた。
「なに。美味しくない?」
「いや、そうじゃなくて。あのね、結衣ちゃんがね…」
 真理亜は口に出かかった言葉を咄嗟に飲み込んだ。
「結衣ちゃんってあの、ダンスの同級生の子?」
「うん。あ、だけど、やっぱいいや」
「何よそれ。気になるじゃない」
 真理亜はパスタを口に入れると、話を逸らすためにわざと言った。
「ねぇ、今日のパスタ、いつもより美味しくない?」
「あら、そう?」
 瓶詰めのトマトソースに炒めたベーコンときのこを混ぜ合わせただけの、いつも通りのパスタの味がそう変わるものではないことを知りながら、真理亜は、思わずしかけてしまった結衣の話から話題をうまく逸らすことができたことに、ひとまず安堵あんどした。
 考えてみれば、結衣がダンスを辞めてしまうことを母に言うわけにはいかなかった。そんなことを言ってしまえば、真理亜も辞めるという方向に話が向いてしまうことは容易に想像ができる。加えてこの場で塾という言葉を発しようものなら、真理亜が塾をサボっていることまでも知られてしまうかもしれない。もしそんな事にでもなれば、母が怒り出さないはずがない。
 口を開けば何かしらボロが出そうな気がして何も言えなくなってしまった真理亜は、ふと大我がチラチラこちらを見ている事に気が付いた。
「何見てんのよ」
「いや、なんか言いたそうだから」
「はぁ? 別に何にも言いたくありませんけどー」
 このとき真理亜の頭に、一抹の不安がよぎった。大我は真理亜が塾に行っていないことを知っているのだ。
「お前、余計なこと言うなよ!」
 今この場で大我にそう言って、改めて口止めしておきたい気持ちに駆られたが、さすがに母が目の前にいるこの場では、それすら言うわけにもいかない。
 真理亜はこの場に留まり続けていることに苦痛を感じた。とにかくこの場は早く切り上げて子供部屋に戻ろう、そう思った真理亜は、皿に残ったサラダとパスタを慌てて口に放り込むと、「ごちそうさまでした」と言って立ち上がり、子ども部屋へと向かって駆け出した。
「ちょっと! お皿シンクまで持っていきなさいって、いっつも言ってるでしょ!」
 母の怒鳴り声を聞いて慌ててテーブルまで戻ると、真理亜はガチャガチャと音を立てて皿を重ね、キッチンまで持っていった。そして魔物からでも逃げるように廊下を走り、部屋に入るやいなやバタンと音をたててドアを閉めた。
 部屋に入ると、今度は急激に訪れたひとりっきりの静寂が真理亜を不安にさせた。
「何よ、あんなに慌てて。なんかあったの?」
 そんな母の声が、ドア越しに聞こえた。
 それに対して大我が何か答えているようだった。しかし肝心の大我の声は、聞き取れるほどの大きさを持っていなかった。
 真理亜はしばらくその場で耳を澄ました。所々聞こえてくる単語を拾うかぎり、母と大我は真理亜のことを話し続けている、そのことだけは分かった。
『まさか…』
 真理亜は、落ち着きを求めて入ったはずのこの部屋を今すぐ飛び出して、ダイニングへと駆け戻りたい気持ちを抱いた。しかし、それをしたところで状況は何も変わらないことくらいは想像できる。結局は、大我が余計なことをバラさないことを信じるしかないのだ。

 やがて部屋に入ってきた大我に、真理亜は早速、先ほど母と何を話していたのかと問いただした。
「別に、大したこと話してないよ」
「私の悪口とか言ってないよね?」
「そんなの言うわけないじゃん、めんどくさい」
 大我はただそう言って椅子に座ると、いつものごとく耳栓をし始めた。それはこれから勉強をする、もしくは本を読むという合図だった。要するに邪魔するな、ということだ。
「ねぇ、ちょっといい?」
「なに? これから本読むんだけど」
「あのね…」
 真理亜は塾に行っていないことの口止めはひとまず脇に置き、結衣がダンススクールを辞めることを、その悲劇性が伝わるように必死に話した。
 真理亜が一通り話し終えると、大我は、キィキィと音を立てながら左右に回していたキャスター付きの椅子の動きを止めて言った。
「もう六年生だし、それはしょうがないんじゃない?」
 真理亜はそのぶっきらぼうな大我の言い方にいら立った。
「はぁ? しょうがない? しょうがなくなんかないよ。だってこれまで大会に向けて一生懸命にやってきたんだよ!? それなのに突然辞めさせるなんて…」
「それはわかるけど!」
 大我は語気を強めて言った。
「だって、小学生なんてまだ子どもじゃん。自分でお金稼げるわけじゃないんだし、自分の自由になんかなるわけないじゃん。親には逆らえないし、勉強が優先なのは仕方のないことでしょ?」
「だからさぁ…」
 真理亜は大我にこの話をしたことを後悔した。
 背を向けて机に向かい、改めて耳栓を手にした大我に、真理亜は皮肉をこめるように言った。
「要するにあんたは、親や先生には逆らわない良い子でいたいわけでしょ? 上に逆らっても無駄、はいはいあんたが正しいよ。でも私、そんなの嫌だから。前にもこんな話したけど、自己主張しなくちゃ、向こうはいつまで経ってもこっちの気持ちなんか考えないよ? 言われることに従ってるだけなんて、そんなのただのペットじゃん。タックン先生だって、そんなようなこと言ってたじゃん」
 大我はゆっくりとこっちに体を向け直した。
「でもさ、真理亜はダンススクールを辞めろとまでは言われてないわけでしょ?」
「…そりゃそうだけど」
「それは幸せなことだと思うよ」
「幸せ?」
「好きなことは続けさせてくれてるんだから、うちはまだ幸せな方なんだよ」
『幸せな方…』
 周りを見回して目につく不幸を引き合いに出せば、確かに自分は幸せな境遇にあるのかもしれない。しかし現状を、仕方ない、これでも十分に幸せなこと、として受け入れてしまうのは、何かが違う気がした。上に立つ者との力関係からして、下にいる者が現状を受け入れる、そんな態度を示した途端、上に立つ者はこれまで以上の締め付けを求めてくるものだからだ。
『ここまで出来たんだからもっとできるだろう。もっと我慢しろ、もっと言うことを聞け!』
 そうやって要求は次第にエスカレートしてくる。こういった関係におちいった場合、わがままなのはこちらではなく、権力を笠に着た向こうの側ではないのか。そもそも力関係からして強いのは絶対的に向こうである以上、わがままが思いのままに通せるのは向こうの方なのだ。向こうよりこちらが文句が多くなるのは、こちらが弱い立場である以上、必然的なのだ…。
 そんなことを漠然と考えた真理亜だったが、自分の持ち合わせている語彙力ごいりょくでこれ以上大我と議論を戦わせることができるとも思えず、真理亜は黙っていた。
『幸せ…』
 幸せってなんだろうと、真理亜は思った。

     四



 ゴールデンウィークのある晴れた日、大我は長谷部の家に遊びに行った。
 この街には、三つの階層が街自体に組み込まれていた。駅の周辺には昭和期に建てられた昔ながらの団地が並び、その周辺部にごく一般的なマンションや一戸建て、そしてさらに駅から離れた人通りも少なく木々に囲まれた閑静かんせいな一帯に高級住宅街がある。長谷部の家はその、高級住宅街にあった。
 その日、長谷部は黄色い自転車に乗って、わざわざ大我の家まで迎えに来た。まだ買ったばかりと思われるその自転車は、陽に照らされるとやけにキラキラと光を反射し、輝いた。
 自慢したいという長谷部の気持ちが手に取るように分かった大我は、自分からはその自転車については何も触れまいと心に誓った。しかし、目の前をちらつくそのキラキラとした黄色い乱反射は、自転車が向きを変えるごとにあざとくこちらの視線を誘い込んだ。まんまと相手の術中にはまった大我の視線は、気持ちとは裏腹に、チラチラと何度もその自転車へと向けられた。
「いいだろ、これ」
 長谷部にそう問われた大我は、あえて「何が?」と聞いた。
「この前の誕生日に買ってもらったんだ」
「でも、坂道は大変じゃないの?」
「そうでもないよ」
 とかく坂が多いこの街では、下りはいいとしても、長い坂道を自転車で登り切るのは至難しなんの技だ。見たところ電気によるアシスト機能が付いているようにも見えない。
 案の定、軽い上り坂に差し掛かると、長谷部はバランスを崩した様子で自転車から降りた。そして言い訳がましく「ゆっくり走るんじゃ無理だな。もっとスピード出してないと」と言って、自転車を押しながら大我と共に歩いて坂道を登った。
 やがて坂の上にまで上り詰めると、長谷部はまた自転車にまたがった。そして大我の周りをグルグルと回っては、まるで獲物を取り巻くけもののように威嚇いかくのダンスを踊った。
 やがて家の門前に着くと、長谷部は、自動車用の大きな門の脇にある通用門につけられた電子キーにパスコードを入力し、鍵を開けた。門を抜けると、目の前にはゆったりとしたカーブを描く登り坂が現れた。上り坂の左右は鬱蒼うっそうとした木々に囲まれていて、ここからは建物一つ見えない。
 大我がぼんやりと辺りを見回していると、長谷部は一足先に自転車を押しながらその坂道を駆け上っていった。その後を追って大我も駆け出すと、長谷部は前を向いたまま「門、閉めて!」と叫んだ。
 慌てて戻り、開けっ放しになっていた鉄製の通用門を閉めると、門はガッチャンという音を立てた。そしてその後で、今度はウィーンという電子的な音がした。どうやらその音と共に、通用門には自動で鍵が掛けられたようだった。
 坂の上を見上げると、長谷部の姿はすでにそこにはなかった。大我は一人、真四角に刈り上げられた生垣に沿って、坂の歩道をゆっくりと登った。
 坂道を登りつめると、ようやく目の前に家屋が姿を現した。それは大層立派な平屋だった。玄関から何から、とかく間口が横に広い。そのために天井がやけに低く見えるが、実際に天井が低いわけではないのだろう。
 大我はそのバランス感覚を見失いそうな外観を見て、上から力をかけてギュッと押しつぶしたような家だと思った。
 開かれていた観音かんのん開きのドアから玄関の中を覗くと、広い玄関の壁際に先ほどの黄色い自転車が停められてある。
 長谷部は靴を脱いで、壁一面に取り付けられた靴箱に自分の靴をしまっているところだった。大我が玄関の中に入ると、長谷部はサンダルを足に引っ掛けて下におり、入り口のドアを閉めて鍵をかけた。
 玄関を上がった目の前には、ガラスで囲まれた中庭があった。その中庭の周りを回廊かいろうのようにして廊下が取り囲んでいるが、中庭には木々が生い茂り、向こう側の廊下の様子までは木に隠れて見ることができない。光沢のあるフローリングの廊下は、そんな中庭の新緑の葉を通した陽の光によって、鮮やかな緑色に光り輝いていた。
 大我が揃え置かれたスリッパを履くと、長谷部は大我の靴をさっと手に取り、靴箱にしまった。
 木の香りだろうか、自分の家では嗅いだことのない、なんとも言えないかんばしく贅沢ぜいたくな香りが家中に満ちている。
「こっち」
 長谷部は廊下を左の方へとスタスタ歩いて行った。その後をついて、大我は緑の回廊をゆっくりと辺りを眺めながら歩いた。廊下から改めて中庭を見ると、中庭には池があり、錦鯉にしきごいが優雅に泳いでいる。
 長谷部は一つのドアを開けると、「ここが僕の部屋」と言って中に入った。
 部屋の中は日野家のリビングくらいの広さがあった。片方の壁一面に備えつけられた棚には様々なおもちゃが綺麗に並べられ、それと対面する壁の棚には数多の本が、これまた綺麗に並べられている。おもちゃの棚の脇には大きなテレビがあり、その前にはいくつものゲーム機があった。
「ここは一人で使ってるの?」
「うん。だって一人っ子だもん」
 長谷部はそう答えると、勢いよくドアを開き部屋を出て行った。部屋の外から「おじいちゃん!」という長谷部の声が聞こえた。
 大我はまずおもちゃの棚を一通り眺め、その中から仮面ライダーの大きなフィギュアを手に取って腕や首が動くのを確認した。
 続いて本棚の方に回ると、そこに置かれている本を眺めた。しかしそこにあるのは教科書や参考書の他は、圧倒されるほどの数の漫画本や絵本、また逆に大人が眺めるような美術書ばかりで、大我の気に留まるような本は一つとして見当たらなかった。
 廊下を走ってくる音がして突然ドアが開くと、長谷部は微笑みながら黙って大我を手招きした。
 廊下をさらに先へと進むと、長谷部は奥まったところにある引き戸の部屋へと大我を導いた。和室となっているその部屋では、細長い木の箱を手にした長谷部のおじいさんと思われる人が大我を迎え入れた。
「こんにちは。いらっしゃい」
 眼鏡をかけた白髪混じりのおじいさんは、大我を見てそう挨拶をした。
「こんにちは。お邪魔します」
「おじいちゃんにお願いしたら、見せてくれるって。雪舟せっしゅうっていう、すごい人の絵なんだ。教科書なんかにも載ってるんだよ」
「えっ!? 教科書に載ってるの?」
 驚く大我に、おじいさんは笑いながら言葉を補足ほそくした。
「ちゃんと鑑定してもらったわけじゃないから、本当に雪舟っていう人が書いているかは、わからないんだよ。一応雪舟のハンコは押してあるけど、雪舟の描いた絵に感動した誰かが真似て描いたのかもしれない。でも私はこの絵が好きだから、本物かどうかなんて、正直どうでもいいんだ」
 大我は、慣れぬ畳の空間で長谷部に習って腰を下ろすと、膝を両手で抱えて、その絵のお目見えを待った。
「やはり壁に掛けたほうがいいな」
 おじいさんはそう言うと、とこの間にかけられていた花の絵の掛軸を下からクルクルクルと巻き上げて取り外し、新たに箱から取り出した軸のひもを、丁寧に壁のフックに引っ掛けた。
 待ちきれぬ様子で立ち上がった長谷部につられて大我も立ち上がると、おじいさんの大きな手に支えられながらゆっくり下へと広がってゆくその絵を、まじまじと見つめた。
 徐々に姿を現したその縦長の絵は、確かにこの前、図書室で長谷部が借りていた本に載っていたような、水墨画だった。
 何が描かれているのかは、よくわからなかった。ただその絵には、漠然と見ただけでも何かを訴えかけてくるような迫力があった。
 真ん中に大きな木が描かれてある。その木の下には、公園にあるような小さな東屋あずまやがあり、そしてその東屋の中にさらに小さく、人が一人描かれていた。
「奥に滝があるの、わかるかな?」
 おじいさんは、絵の右上の方を指差した。そこには何も描かれていない縦長の白い空間があった。その周りにはゴツゴツとした岩があるが、そう言われてみるとその空間はただの空白ではなく、滝に見えた。
「この大きな岩の裏に滝壺があるんだろうな。そしてほら」
 おじいさんは、今度は絵の左下を指差した。そこには東屋の向こう側から荒々しく流れてくる川の様子が、いくつもの墨の線で描かれている。
「すごいだろ?」
 長谷部が言った。
「うん」
 よく見ると初めに見えた大きな木は、右側にある垂直に切り立った大きな岩の間に根を生やして立っていた。画面の右下から、岩と川の間を縫うようにして、小道が東屋へと続いている。
「離れてみると、また違って見えるぞ」
 おじいさんの言葉に三人は数歩下がり、改めて絵を見つめた。
 なるほどこうして見ると、大きな滝、勢いよく流れる川、大きな岩の間から生えた一本の木、そしてそれらの間を抜けてゆく細い小道と小さな東屋、東屋の中にたった一人たたずむ小さな人間という、ダイナミックな構図が見渡せた。
 滝の落ちる音、川の流れる音が、岩の間に響きながらも、どこかしん﹅﹅とした静けさを保ったその空間に、大我は入り込むような感覚を覚えた。そしてあの東屋にたった一人佇む人の気持ちを想像した。

 家に帰った大我は、子供部屋のカーペットの床に寝転がりながら、もう一度今日観た絵の中の世界に入ってゆくことを妄想した。絵の中の世界は、先月読んだ『方丈記』に近い感覚を呼び起こした。
 大きな岩の間の小道を走って、あの東屋へ行ってみたい。そして大きな滝がまっすぐ落ちる様子を間近で見ながら、学校などとは関係のない世界でたった一人きり、好きなだけ時間を過ごせたらどれだけいいだろうか…。

     五



「こっちが同じクラスの堀田乃莉果ちゃん」
「初めまして、佐伯結衣です」
「ダンスの教室ではみんな結衣ちゃんて呼んでる。だから乃莉果ちゃんもそう呼んであげて!」
「…うん」
「どうしたの、乃莉果ちゃん。今日はあんまり元気ないじゃん」
 乃莉果はなぜかずっと下を向いていて、結衣と目を合わせようとすらしなかった。
「初めて会うから緊張するんだよ。私もちょっと人見知りするし」
「そうなの?」
 真理亜がそう尋ねると、乃莉果は黙ったまま頷いたが、その様子は少し怒っているようにも見えた。
「緊張なんかしなくていいのに。結衣ちゃんはね、とってもいい人だし、ダンスも超超超超、超上手いの!」
「そんなこと、ないない」
「なんかパワーがあるっていうかぁ」
「真理亜ちゃんの方が、すっごい激しいじゃん」
「すっごい激しいって、ちょっとそれバカにしてる?」
「そんなことないよぉ!」
 二人のやり取りを、乃莉果は真面目な眼差しでじっと見つめた。
「乃莉果ちゃんは、もう結構ダンスやってるの?」
 結衣の問いに、乃莉果は黙って真理亜を見つめた。
「まだ三回目くらいかな?」
「うん」
「でももうアップとダウンと、後、ランニングマンも覚えたんだよね?」
「でも、忘れちゃった」
「大丈夫だよ。やれば思い出すよ」
 ゴールデンウィークの最終日、三人は団地の中の公園に集まっていた。
 乃莉果は、シングルマザーの母親の仕事が毎日のようにあるため、いつも二つ年下の妹と家にいることが多かった。連休中はその妹が風邪をひいて寝込んでいたらしく、当初真理亜と二人で会うことにしていた日は、あいにくキャンセルとなった。しかしその後、妹の熱は下がり、もう看病も必要なくなったと乃莉果の方から連絡が入り、真理亜はそれならと、この日に乃莉果と会うことにした。
 結衣は、ゴールデンウィークの間はどこにも出かけず、家でずっと勉強をしていたようだった。そして連休最終日のこの日の午後だけ友達と遊ぶことを親から許され、真理亜に昨夜突然、連絡をしてきたのだった。
 真理亜は、延期の末に乃莉果と会うことになったこの日に、たまたま結衣も予定が空いたことを、まるで奇跡が起きたかのように喜んだ。

「ワン、トゥー、スリー、フォー」
 真理亜が口でリズムをとりながら初歩的なステップのお手本を見せると、結衣もその動きに合わせた。
「ほら、乃莉果ちゃんもやって!」
 乃莉果は真理亜に促されて、ようやく体を軽く動かした。
「そうそう、それで合ってるよ」
 何度か同じ動きを繰り返すうちに、乃莉果も少しずつ調子が出てきたのを見て、真理亜は安堵した。
「ねぇ、音楽かけようよ」
 結衣はポケットからスマートフォンを取り出すと、ダンスのレッスンで使っている音楽と同じものをかけて、脇のベンチに置いた。
「イェー!」
 音楽を聴くとその瞬間、結衣が一気に音楽に乗った。そしてスクールで習った大会向けの振り付けを踊り始めた。
「真理亜ちゃんも踊ろうよ!」
 真理亜は「うん」と答えて思わず体を動かしかけたものの、ふと乃莉果の様子が気になってそちらに目をやった。
 乃莉果は口元を微笑ませてはいた。しかし、その目は笑うどころか、むしろ睨みつけていると言った方がふさわしいほどに硬く、その様子は心を閉ざし始めているように見えた。
 乃莉果のそんな様子を目の当たりにした真理亜は、踊り出したい気持ちをグッと堪えて、乃莉果に並ぶようにして結衣のダンスを共に眺めた。
「どう? 結衣ちゃん上手いでしょ?」
「うん、うまーい」
 乃莉果は力の入らぬ冷めた声でそう言った。
 それから三人は、基本的なステップを音楽に合わせて繰り返した。
 乃莉果もただひたすらに体を動かしていた。その力の入り過ぎた動きはダンスと呼ぶには程遠い気もしたが、真理亜は、ナオコ先生ならこんな時になんて言うだろうかと想像した。
「乃莉果ちゃん、いい感じだよ! さぁ、もう少し力抜いてみよう! まずはリラックス! そしてもっと大きく弾けて!」
 真理亜はナオコ先生がよくやるように、乃莉果の正面で共に踊りながら、笑顔で挑発した。
「よし良いよ! じゃあ今度は、手の動きも入れてみよう!」
 真理亜と結衣が、パンチをするように前と横に交互に手を勢いよく伸ばすと、乃莉果もその動きに合わせて手を動かした。だが乃莉果は、手の動きに気を取られて今度は足が止まってしまった。
「あー足はそのままだよ。いい? 見てて」
 真理亜と結衣はお手本を示しながら、お互いに顔を見合わせて微笑んだ。
「ごめん、やっぱり私帰る」
 乃莉果は突然動きを止めると、顔をこわばらせて言った。
「えっ…。なんで?」
 乃莉果はまるで教師に怒れているかのように、俯いて黙った。
「ごめん、難しすぎたかな?」
「違うの。私、これから仕事があるから」
「仕事ってあの、チラシ入れるやつ?」
 乃莉果は以前から、母親が引き受けているチラシを家庭のポストに配る仕事を、母の代わりにしていた。
「いいよ、だったらこの前みたいに私、手伝ってあげるから。あとで一緒にやろ?」
「それがダメなの。一人でやらないとGPSで会社にわかっちゃうんだって。それに…」
 乃莉果は突然口ごもると、体の向きを横に逸らし、地面を見つめながら口調を強張らせて言った。
「真理亜ちゃんに手伝ってもらっちゃったことママに言ったら、すっごい怒られた。うちのママ、警察に捕まっちゃうかもしれないって…」
「え、ちょっと待って。警察!? …え、なんで? どうして?」
 乃莉果の体全体から、怒りのような感情が外へと発せられているような、そんな気がした。
「私のせい?」
「違うの、真理亜ちゃんは悪くない。でも…」
 乃莉果は言い淀んだ後で、声を小さくして言った。
「多分、私が悪いんだと思う」
 真理亜には意味がわからなかった。
 乃莉果の家の生活が苦しいことは、言われずともわかっている。父親がいない状況で娘二人を育てなければならないのだから、母親の苦労は相当なものだろう。まだ小学生であるとはいえ、乃莉果がそんな母親の仕事の手伝いをするのは親孝行でしかない。しかし、そんな親孝行な行いを、単なる友達とはいえ真理亜が助けると、なぜ乃莉果の母親が警察に捕まることになるのか…。
「え、なんで? どうして警察に捕まるの?」
 納得がいかず、真理亜はもう一度聞いた。
「そんなの私にもわかんないよ。でもママが…」
 そう言った乃莉果の声は、もはや涙ぐんでいた。
 背後で流れ続ける軽快なダンスミュージックが、真理亜の思考をなお一層混乱させていた。
「結衣ちゃんごめん、ちょっと一回音楽止めてくれる?」
「あぁ、うん」
 結衣はスマートフォンを手に取ると、音楽を止めてベンチに腰掛けた。
 乃莉果はやがて下に向けていた目をゆっくりと上げ、真理亜のことをちらりと見た。
 真理亜はその、乃莉果の目に衝撃を受けた。
 眉間にグッと力を込めてしわを寄せ、上目遣いで真理亜を見つめた、その眼差し…。
 恨みだろうか、それとも妬みなのか…。
 真理亜には、はっきりとしたことは分からなかった。しかし乃莉果の向けたその目の奥には、分厚い悲しみの雲で覆い尽くされた暗くて深い谷があり、その険しい谷の中を、いつ氾濫はんらんしてもおかしくないほどの涙の濁流だくりゅうが勢いよく流れているようだった。
 真理亜が渡ろうにも、決して渡ることなどできそうもないほどの濁流。乃莉果はその悲しみの濁流に流されぬように、どうやら一人っきりでそれを受け止め、踏ん張っている。
『助けてあげたい』
 そうは思うものの、その濁流を前に真理亜にできることなど何一つないように思われた。下手に踏み込めば真理亜が流されるばかりでなく、せっかく自力で踏ん張っている乃莉果まで、その足元が揺らぎ流されてしまいそうな、そんな気さえした。
「乃莉果ちゃん…」
 それ以上の言葉は出てこなかった。
「ごめん。やっぱ帰る」
 乃莉果は下を向いたままくるりときびすを返すと、運動会の徒競走の時のような全速力で、その場から走りさった。
 真理亜は呆然と、乃莉果の後ろ姿を見つめていた。
「ねぇ、あの子、大丈夫?」
 結衣のどこか冷たい響きを持ったその言葉で、真理亜は我に返った。
「え? …うん」
「ねぇ、逆に真理亜ちゃんが警察に連絡した方がいいんじゃない?」
「えっ!? なんで?」
 またもや警察という言葉を聞かされた真理亜は、驚きの眼差しをもって結衣を見つめた。
 結衣はだいぶ白けた目をしていた。
「だってあれ、絶対虐待ぎゃくたいだよ」
「虐待? まさか…」
「いや、そうだって。あれは絶対そう」
「それはないよ。だって乃莉果ちゃんのお母さんはとっても優しい人だし」
「いや、私わかるの。あの子は絶対に虐待されてる。だって私、前にテレビで見たことあるもん。ねぇそういう親のこと、なんていうか知ってる?」
「…知らないけど」
「毒親。マジでムカついたもん、私テレビ見てて。ああいう親は一度警察に捕まった方がいいんだって」
「でも、乃莉果ちゃんのところはそういうんじゃないと思うけど…」
「いや、絶対そう。真理亜ちゃんがしないなら私がしようか?」
「いや待ってって。そういうんじゃないんだってば」
 結衣はスマートフォンを取り出すと、画面と真理亜を交互に見つめながら言った。
「え、あの子なんていうんだっけ? 名前。乃莉果ちゃんだっけ? 名字は?」
「いや…」

 真理亜は乃莉果とだけでなく、結衣との間にも、けっして通いあえない、橋のかからぬ深い川が流れていることを思い知らされる思いがした。そしてそのどちらの川も、自分一人の力だけではとても渡れそうにないと真理亜は思った。

     六



 相手側のゴールキーパーが大きく蹴ったボールが、ちょうど大我の方へと向かって飛んできていた。辺りを見回したが大我の周りに敵は誰一人おらず、またその光栄なポジションを譲ってあげられる同じチームの人間もいなかった。
 大我は仕方なく自分でそのボールを抑え込もうと身構えた。今の位置から右足を少し前に出せば、そこでうまく抑えられる、そう思った大我は、ボールの落ちてきそうなあたりに右足を突き出した。しかし、ボールはその少し手前の地面でバウンドし、勢い良く跳ね返った。
 バシッという音と共に、大我は目が回るほどの痛みを顔面に感じた。
「イテッ!」
 大我は尻餅をつくと、とっさに手で顔をおさえた。右側の頬から目の辺りに、ジンジンとした鋭い痛みが響いていた。
「おい何やってんだよ、くそっ!」
 そんな誰かの罵声が聞こえたが、大我は目を開けることすらできなかった。
「イェーイ! よっしゃー!」
「あぁもう! 入っちゃったじゃねぇかよ!」
 歓声と嘆息が入り混じる中で、ピーッという審判の鋭い笛の音が、大我の心に突き刺さるような鋭さで鳴った。
 大我は、涙の浮かぶ目をなんとか開いてようやく立ち上がると、後ろを振り返った。大我が取り損ねたボールは、すでに背後のゴールネットを揺らした後だった。
 ぼんやりと立つ大我の元に、ボールを抱えた同じチームの小笠原おがさわら君が近寄って来た。通りすがりに小笠原君は、大我にだけ聞こえる声で言った。
「お前、いない方がマシ。マジ死ねよ。ていうか死んで、お願い」
 大我は尻についた砂を払いながら、一秒でも早くこの試合が終わることを願った。
 試合中もう一度、大我の前にボールが飛んできたことがあった。今度こそはと身構えた大我だったが、遠くから全速力で走ってきた味方のはずの小笠原君によって、ボールは難なく奪われた。

 更衣室で着替え終えた大我は、誰とも話すことなく一人教室へと向かった。廊下の窓から外の木々の緑を眺めながら、早くプールの季節がくればいいのにと思った。走ったり泳いだりすることには、それほどの苦手意識はなかった。しかし球技という球技はすべて、どう頑張ってもうまくいかない。
「日野君、ちょっと大丈夫?」
 教室に入ると、女子は皆すでに席に着いていた。その中で隣の席に座る西田智花にしだともかが、大我の顔を見るなり言った。
 呆然としている大我に、智花は自身の頬を指差した。
「え?」
 そう言われて、大我は改めて自分の顔を触った。先ほどボールが当たった右目の下、頬骨のあたりを手で触れると、わずかな痛みと共に、熱を帯びて腫れぼったいようにも感じる。
「腫れてる?」
「そこまでじゃないけど、なんか赤いよ。保健室行かなくて大丈夫?」
 大我は体育の授業のことなど、今すぐ忘れてしまいたかった。
「いいよ。そんな痛いわけじゃないから」
「でもそれ、少し冷やした方がいいと思う。ちょっと待ってて」
 智花はそう言い残すと、大我が引き止める間もなく小走りに教室を出て行ってしまった。
 大我と智花のそんなやり取りを、小笠原君らの男子のグループが遠巻きに見ているのがわかった。大我はあえてそちらは見ないようにして席に着くと、次の時限の算数の教科書とノートを取り出し、手元に視線を落とした。
「はい」
 戻ってきた智花は、そう言って濡らしたハンカチを大我に差し出した。
「え、いいよ。そんなの」
 大我が俯きながら小声でそう言うと、智花は「逆に気になっちゃうから」と言って、大我の顔にハンカチを押し付けるようにして当てた。大我が身をよじらせてそれを避けようとしても、智花の方も一歩も譲らない。
 このやり取りが逆に、周りからは二人がいちゃついているように見られそうに思われて、大我は仕方なくハンカチを受け取ると、それを自分の手で右の頬に当てた。そして小さく「ありがとう」と言った。

 智花は女子の間では、ともたん﹅﹅﹅﹅と呼ばれていた。ともたんは少し太り気味の体型で、特別に人から可愛いと言われる容姿は持ち合わせていなかったが、いつもニコニコとしていて愛嬌があった。大我はそんなともたんが持つ、少しぼうっとした柔らかい雰囲気がどことなく好きだった。少しおせっかいすぎる時もあるが、こうして気がきくのも、ともたんの良さである。
 そんなともたんは、クラスの他の男子たちにも、ある意味において人気があった。それはともたんの胸の膨らみが、ここ最近やけに目につくようになり始めていたからだ。
 以前は「デカケツ」などと呼んでからかっていた男子たちも、クラスでいち早く大人になり始めているともたんに対する目つきは、明らかに一年前とは変わっていた。
 しかし大我には、そんな子供じみたこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅には大して興味もなかった。ともたんの魅力は何よりその優しい心にこそある、大我はそう思っていた。

     七



「夕方には帰ると思うけど、もしお腹すいちゃったらいつものようにパン買ってあるから、それ食べて待っててね」
 母の美紗子は、玄関先で靴を履く二人に向かってそう言った。
「今日も銀座行くの?」
 玄関のドアを開いたまま真理亜がそう聞くと、母は頷きもせず、ただ笑顔で手を振って二人が学校に行くのを見送った。
 ちょうどこの季節に道端で鮮やかさを増す紫陽花あじさいのように、ここ最近、母は日に日にその雰囲気を華やかに色付かせていた。着る服はもちろんのこと、髪の色から身につける装身具アクセサリーまで、何もかもが派手になってゆく。
 真理亜と大我は、そんな母の変化を、理科の授業で習った観察する目でもって見ていた。
 母が以前よりも怒りっぽくなくなったことは、二人にとってもいいことではあった。しかし、その服装や髪型の急激な変化は、どう見ても自然なこととは思えなかった。もはや日常の域を出たその派手さは、母がどこか別の世界に行き始めてしまっているようにすら二人には思えた。
 この春まで毎日のように家にいた母は、今では毎週一度は必ず何処かへ出かけている。しかもどうやらそのほとんどは、電車で一時間以上はかかる銀座にまで行っているらしいことは、買ってきた物の包装紙などから察しがついた。ただそれも、一人で行っているのか、誰かと会っているのかまでは分からない。習い事などを始めたわけではどうやらなかった。とにかく都心まで出かけて行って、服や何やらを買ってくるのだ。
 母はそんな不自然なお出かけをするようになって、自分だけ服を買うのでは子供達に悪いという気持ちが働くのか、それとも誰かに渡されるのか、はたまた父に対する口止め料のつもりなのか、毎回のように二人に何かしらの物を買ってきた。そしてそれには必ずプレゼント用の包装がされていた。
 二人は初めのうちこそ、そんな非日常を喜んでいた。しかし時として週に二度ともなるとさすがに気味が悪く、真理亜はある時、母に「何があったの?」と、しつこく問い質した。
 その時、母は「二人が勉強頑張ってるから」と答えたのだったが、全く勉強を頑張っている自覚のない真理亜にとって、その返答には違和感しかなく、またその時の母の様子は明らかに動揺していた。
 そしてその日以降、お出かけの度の二人へのプレゼントはなくなった。それを喜んでいいのか、それとも残念がるべきなのか、二人にはそれすら分からなかった。

 五階のエレベーター前に着くと、長い傘の柄で下向きのボタンを押しながら真理亜が言った。
「お金とか大丈夫なのかな?」
「確かに。昨日着てた服とか、あれは絶対高い」
「真理亜、街であんな服着てる人、今まで見たことないよ」
「いくらぐらいするんだろ、ああいう服」
「あんたいくらだと思う?」
「うーん。一万円じゃ買えないよね?」
「まさか、絶対無理!」
「じゃあ、五万?」
 真理亜は少し考えてから言った。
「少なくても十万くらいはするんじゃないの?」
 真理亜のもっともらしく聞こえる見積もりに言葉を失った二人は、まるで隠れて悪戯いたずらを働いているらしい子供の行いに勘付いてしまった両親のような心境でお互いの視線を交わし、ため息をついた。
 やがてドアが開き、空のエレベーターに乗り込むと、一階のボタンを押しながら大我が言った。
「やっぱり絶対不倫だよ。うちのパパの稼ぎだけじゃ、あんな服買えるはずないもん」
「えーじゃあ、離婚すんのかな?」
「まだそこまでにはならないでしょ。だって、パパは気付いてないっぽいじゃん」
「本当うちのパパはさ…」
 四階でドアが開くと、ヨレたスーツ姿の太った中年男性が、いかにもかったるそうな顔をしてエレベーターに乗り込んできた。
「おはようございます!」
 特に意識するでもなく二人が声を揃えるようにそう挨拶をすると、男は死んだような目で二人をちらりと見下ろし、低い声で小さく「ざす」とだけ言った。
「バカだからどうしようもないよ」
 真理亜が大我との話の続きとして言ったはずのその言葉は、たった三人だけの小さな密室で、二人に背を向けて立っていた男には、自分に対して向けられた言葉だと思われたらしかった。
 男はゆっくりと後ろを振り返ると、その死んだような目に、今度は明らかに怒りの感情を含ませて二人を睨んだ。
 大我は慌てて真理亜を見つめた。
 しかし真理亜は俯いていて、男の視線には気付いていなかった。
「うちのパパ、バカだからね」
 いたたまれなくなった大我が慌てて言い添えたそんな言葉はしかし、ちょうど一階に着いたエレベーターのドアが開く音と重なって、男の耳にまでちゃんと届いたかどうかは分からなかった。

     八



 塾の前で長谷部と別れた大我は、真理亜が待つ坂下の大きな公園へと向かって一人歩いた。夏が近付くにつれ日は長くなり、六月に入ったこの頃は、塾終わりの時間でもまだ、辺りは日の名残を留めてわずかに明るさを保っていた。
 大我が塾に行っている間、真理亜はいつも公園で一人、ダンスの練習をしていた。まだ梅雨入りはしていなかったが、雨の日でも困らないようにと真理亜が二人の待ち合わせ場所として指定したのは、公園の中の、ちょうどあの長谷部の家で観た水墨画の中に描かれていたような小さな東屋だった。
 公園は広く、東屋は入り口から少しばかり奥まったところにある。いくら日が長いとはいえ、大我が公園に着く頃には辺りはすでに夜の闇に包まれていた。所々に立つ街灯の明かりを頼りに、大我は真理亜の待つ東屋へと向かって歩いた。
 さすがにこの時間になると、公園内には子供はおろか、大人の姿もあまり見かけなくなる。大我は真理亜にこの場所を待ち合わせ場所として指定された当初、難色を示した。それは言うまでもなく危険だと思われたからだ。
 しかしそんな大我の心配に対し、真理亜はこう言った。
「何あんた、男のくせに怖いの?」
 小さい頃から遊び慣れた公園ではあるが、夜になれば雰囲気はガラリと変わる。それに何より、そこで待たなければならないのは大我ではなく真理亜の方だ。
「小学生の女の子が、一人で夜の公園にいるってまずくない?」
 大我はそう言って、代わりに駅前のデパートを提案した。
「ほら、前に行った四階のトイレの前、あそこの椅子は?」
「えー。あそこまで行くのめんどくさい。私どうせ公園にいるんだし、こっちの方が家に近くていいじゃん」
 真理亜はなんの危機感も持ち合わせていない様子だった。そして未だ納得していない様子の大我に念を押すように「あんた、私がまだ子どもで、しかも女だからってバカにしてんでしょ。大丈夫だよ、何も起きないから」と、まるで大我の心配を嘲笑あざわらうかのように言った。
 大我もそんな真理亜に流されるままに、毎週月曜日と木曜日の塾の日は、二人はここで待ち合わせてから一緒に家に帰ることとなった。

 遠目に東屋が見えるところにまで来ると、大我は東屋の中に、一人の中年男性の姿を認めた。一抹の不安をおぼえながら真理亜の姿を探すと、真理亜は男と向かい合う形でベンチに腰掛けている。
 二人はどうやら、何か話をしていた。
 大我は歩く速度を速めながら、男の姿に目を凝らした。誰か知っている人物かと思ったのだ。しかしその風貌からして、またその表情からしても、男は知り合いのようには見えなかった。
 やがていたたまれない気持ちで小走りに駆け出して、いよいよ東屋へ近付くと、大我の気配を察した真理亜がこちらに顔を向けて立ち上がった。
 男は大我の姿を見てとると、さっと身をひるがえし、こちらに背を向けてその場を立ち去った。
「誰、あの人」
 東屋から出てきた真理亜に大我が聞いた。
「知らない」
 真理亜は大我のことを一瞥いちべつすると、顔を下に向けて「行こ」と小さく言って歩き出した。
「何? なんだって?」
 大我のそんな問いかけに、真理亜はしばらく答えなかった。しかし、じっと見つめ続ける大我の視線に耐えきれなくなったのか、やがて真理亜は笑いと怒りを入り交えた口調でこう言った。
「なんでこんなとこにいるんだってしつこくって、やんなっちゃった。弟待ってるって言ってんのに、家まで連れてってやろうかとか、お父さんとお母さんはいないのかとか、お腹空いてないかとか…。走って逃げようかと思ったけど、マジで追いかけてきたらめっちゃ怖いから逆に走れなかった!」
 大我はまじまじと真理亜を見つめて言った。
「それ絶対ヤバいやつでしょ」
「うーん、どうかな。でも意外と本当に心配してくれてたのかも」
 真理亜は平静をよそおっていた。しかしその声と目には、明らかに怯えの色がにじんでいた。
「やっぱやめようよ、あそこ。何かあってからじゃヤバいって」
「うん、そっか。分かった」
 真理亜は小さくそう答えてから大我の顔を見て微笑むと、突然全速力で走り出しながら、今度は大声で言った。
「あんたがそう言うなら、そうする!」
「ちょっと、待ってよ!」
 あっという間に遠ざかってゆく真理亜を追って、大我も慌てて走った。
 真理亜を必死に追いかけながら、大我はふと背後から何者かが迫ってきているような恐怖を抱いて振り返った。
 そこには誰もいなかった。しかしその誰もいない空間に広がる暗闇は、大我を体ごとパクリと一口に飲み込んでしまいそうな、何とも言えない不気味さをかもし出していた。
 慌てて前を向き直すと、大我はとにかく先をゆく真理亜の姿だけを追って、そこだけに焦点を合わせて精一杯に走った。

     九



 家に帰ると、怒った様子の母が玄関先で二人のことを出迎えた。
「あんた今日どこ行ってたの?」
 そう言った母の視線は、ただ真理亜にばかり向けられていた。
 大我は靴を脱ぐと、母にスリッパを差し出されてそれを履いた。
「どこって、塾だよ」
 真理亜は何事もなかったようにそう言うと、大我と同じように靴を脱いで家に上がろうとした。しかし母はそれを阻止するように、体で真理亜の前を塞いだ。
「え、何?」
「だから、こんな時間までどこにいたのって聞いてんの!」
「だから塾だって言ってんじゃん」
「嘘言いなさい!」
「え? 嘘言いなさい? 嘘を言った方がいいの?」
「あんたね、親をからかうのもいい加減にしろって言ってるのよ! 今日塾から電話があったの!」
「あっそ」
 真理亜は体をくねらせると、強引に母の関所の突破を試みた。しかし母は、この日ばかりは本気で怒っている様子で、真理亜を決して通そうとはしなかった。
「塾に行かないなら、ダンスなんか行かせないわよ!」
 真理亜はため息を吐くと、母の背後からこちらを黙って見ている大我に目をやった。
『強い者には逆らわない』
 こちらを見つめる様子から、大我のそんな性根を勝手に読み取った真理亜は、この時ばかりは母だけでなく、大我に対しても苛立ちを覚えた。
『結局あいつは、親にとっての良い子。悪い役目はぜんぶ私』
 そんなことを思いながら真理亜は、壁に寄りかかって腕を組み、スリッパのつま先を片方立てている母の姿を、改めてまじまじと見つめた。
 脱色した茶色い髪と、厚く塗られた化粧。そんな母の様子は、もはや鬼そのものだと真理亜は思った。
『頭のいい鬼なんて聞いたことないしな。鬼なんて結局はおまわりさんみたいなもんか。ただ上から降りてきた指令に従って社会を支配するだけの存在。まぁママの場合は、上からの指令というより、世間に流されてるだけだけど。みんなが右を向けば右を向き、左を向けば左になびく。ただ流されるまま何も考えず生きてきて、歳だけ取った、自分を持ち合わせていない哀れな大人…』
 そんなことを考えていると、真理亜はだんだんと抵抗することさえバカらしくなった。
「わかった。次は行く」
「次は、って。これからずっと行くって約束しなさい。受験も必ず受けるって。それじゃなきゃダンスはダメ!」
「受ければいいんでしょ? 受ければ。落ちるかもしれないけど受けますよ」
 そう言うと、母は少しばかり気を緩ませたようだった。真理亜はこのタイミングを待っていたとばかりにサッとスリッパを履くと、母の関所をすり抜けた。
 その時だった。
 母がトドメとして放った言葉が、真理亜の心を逆に刺激した。
「塾だって、安くはないんだからね!」
 すでに関所を通り抜けたはずの真理亜は、その言葉を聞くと体を固まらせた。そして今度は逆に、自ら母と対峙するように振り返ると、キッと母を睨みつけた。
「ねぇ、それってちょっとおかしくない?」
「何よ。何がおかしいのよ」
「じゃあ、あのママの、あの変な服は何?」
「…変な服って、何よ真理ちゃん。変な服って、そういう言い方はちょっと酷いんじゃない?」
「いいから真面目に答えてよ!」
「真面目に答えてるわよ」
「じゃあ、何?!」
「何って、服は服じゃない。ママがおしゃれしちゃダメなの?」
「だからわかんないの? あんな服を買う、そのお金はどうしてるのって聞いてるの!」
「だから、あんな服って、そういう言い方はないでしょ?」
「だから! あの服は一体いくらなの? ていうかママは毎月服にいくら使ってるの? その髪とその化粧にも、一体いくら使ってるの?」
「いくらって…、そんなのパッとは分からないわよ」
「分からないほど使ってるってこと!?」
「そんなこと言ってないでしょ!? ねぇ、話逸らさないでくれる? 今はあなたの塾の話をしてるのよ!? ママ本当に心配してるの、あなたの将来を。このままでいいと本気で思ってんの? ママの事とやかく言う前に、自分自身の将来の心配しなさいよ!」
 真理亜は呆れ顔で大きなため息を吐いた。そしてまともに受け答えをしない母のことを、軽蔑の眼差しで見つめた。
 しかし母にはどうやら、それすら通じていないようだった。
「もういいよ」
 真理亜は部屋の前にいた大我を部屋に押し込んで、自分も中に入ると、バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。
「ママにはまともな言葉が通じないから、何言っても無駄」
 真理亜は独り言のようにそう呟いた。そしてその後で、大我の顔を見つめた。
 大我はただ茫然と、真理亜のことを見ていた。
 その表情からは、大我がどちらの側についているのかまでは読み取ることができなかった。真理亜はこの時、もしかすると大我ともこの先、言葉が通じなくなるのではないかという漠然とした不安を抱いた。

 この日の晩ご飯は、デパートで買ってきたお惣菜がただ並べられていた。売られていた容器のまま食卓に並んだサラダを見ながら、真理亜はそのサラダを母の顔に投げつけてやりたい衝動に駆られた。

「結局、ママは自分勝手なんだよ」
 電気を消した部屋の二段ベッドの上段から、下の段で寝ている大我に向かって真理亜は言った。
「うん」
「自分は好き勝手してるくせに、こっちにはああしろこうしろって、いちいち文句つけてきて。ただ黙って言うこと聞くの、バカらしくない?」
 真理亜のそんな言葉に対する、大我の返答はもうなかった。
 真理亜は心の中のわだかまりが徐々に大きく、また消し難いものに育ちつつあるのを感じた。

     十



 毎週火曜日はダンスのレッスンのある日だった。
 真理亜たち小学生の集まるクラスは夕方の五時からで、駅前通りにあるダンススタジオも歩いて十分とかからない距離にある。学校からのんびり帰っても時間に余裕はあったが、真理亜は火曜日となると決まって学校から走って家に帰り、レッスンまでの小一時間を、先週の復習とウォーミングアップをかねて家や公園などで体を動かすのに充てるのが常だった。
 この日も学校から走って帰って来た真理亜は、何気なしに玄関のチャイムを押しかけて、ふと思いとどまった。そしてランドセルを肩から下ろし、その中から家の鍵を取り出すと、できる限り音を立てぬようにゆっくり鍵を回してドアを開け、家の中の様子を伺った。
 中からは誰の気配も感じられなかった。
「いない。よっしゃあ!」
 母がいないことに安堵した真理亜は、母の帰る前にレッスンに行く支度を済ませて家を出てしまおうと、靴を脱ぎ捨てて家に入った。
 祖母が亡くなって以来、母は毎週火曜日は祖父の家に行くことになっていた。とはいえ真理亜が学校から帰る頃には家に戻ってきていることも多いが、この日はまだ帰ってきていないところをみると、またきっとどこかに寄って買い物でもしているのだろう。
 何はともあれ、昨夜言い争いになった母と顔を合わせたくなかった真理亜には、それは何より好都合だった。
 子供部屋へと入りランドセルを机の上に置くと、真理亜はクローゼットからダンスのレッスン用のウェアとシューズが入ったバッグを取り出して部屋を出た。
 キッチンに行き、冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを取り出してそのまま口に流し込み、それが済むと今度はリビングのカーペットの上で、大会用の振り付けの中で真理亜が一番苦手とする箇所の振り付けを何度か繰り返した。
「あ、やばい」
 こんなことをしていると母が帰ってきてしまう、そう思った真理亜は慌てて玄関へと走った。
 脱ぎ捨ててあった靴を手に取って足に引っ掛けながら、真理亜は鍵を持っていないことに気付き、部屋へと戻った。そうして鍵を手にして再び廊下に出ると、今度はトイレに行きたくなった。
 便座に腰掛けて、ふぅと息を吐くと、これまでノンストップで慌ただしく流れていた時間が、ここで急に速度を落としてゆくように感じられた。
 ぼんやりとレッスンのことを考えていると、真理亜はこの日のレッスンから結衣は来ないのだということに思い至った。
『結衣ちゃん、何でやめちゃうんだろ…』
 真理亜には正直なところ、ダンスを辞められる結衣の気持ちが分からなかった。
 真理亜にとっては、ダンスこそが人生で一番の楽しみであり、生き甲斐だった。他の楽しみは制限されたとしても、これだけはどうしても奪われるわけにはいかない。最終的にダンスを職業にするかどうかまでは今のところ分からないが、真理亜にとってダンスはもはや単なる趣味という領域を超えたもの、それだけは確かだった。
 そんな真理亜からしてみれば、それこそ結衣のようにダンスを辞めて、その分時間ができたところで、勉強など手につくはずもない。むしろ逆に、頭の中はダンスをしたいという気持ちで埋め尽くされて、今まで少しはできていた勉強すらできなくなるに違いなかった。
『でも結衣ちゃんは…』
 真理亜は結衣の気持ちを改めて考えた。
 いくら母が許さないからといって、結衣はダンスをやめて、それで空いた時間に勉強ができるのだ。
『結衣ちゃんにとってダンスは結局、その程度なんだ…』
 そう思うと、真理亜の心には急に寂しさが込み上げてくるのだった。全く同じ志を持ち、同じ未来を夢見ている、そう信じていたものが、これほどまでにあっさりと別れ別れになってしまうとは思ってもみないことだった。
『それに…』
 真理亜はゴールデンウィークに公園で起きた出来事について思いを巡らせた。
 あの時、結衣が乃莉果に対して見せた態度を思い返すと、たとえ彼女が中学に上がりダンスを再開したとしても、今後さらに親交を深め、親友と呼び合えるような間柄になれるとはどうしても思えなかった。
 真理亜は急激に孤独を感じた。そうしてふと、前にタックン先生に言われた言葉を思い出した。
「どんな人も、みんな孤独だよ」
 タックン先生の声とともにその言葉を思い出すと、真理亜はそれ以上何も考えられなくなった。
 我に返るようにトイレットペーパーを手に巻き付けると、真理亜は視線を落とした。目の前には、左右の足の間にハンモックのようにして渡された白い下着があった。そこに僅かながら茶色っぽいシミがあることに、真理亜はこの時気がついた。
「わっ、何これ…」
 思わず声に出して呟いた真理亜は、なぜこんなところにこんなシミがあるのかについて思いを巡らせた。しかし一向に思い当たる節はない。
『とにかく着替えなきゃ』
 真理亜は慌ててトイレを出ると、部屋に戻り新しい下着に履き替えた。そして洗面所へと走った。
 洗面所で汚れた下着にハンドソープを染み込ませると、シミが目立たなくなるまで力を込めてゴシゴシと洗った。そしてそれをタオルでぐるぐる巻きにして、洗濯機の一番底に埋めるようにして入れた。
『こんなものをママに見られたら、たまったもんじゃない』
 そうしてようやく真理亜は、玄関へと舞い戻った。
 家の鍵を閉めながら、ひとまず母と顔を合わせずに済んだことに真理亜は安堵した。

 大会の地区予選を翌々週の日曜日に控え、ダンスのレッスンは本番に向けた最後の調整に入っていた。大会ではチーム分けがされ、真理亜はAチームの最年長として、リーダーを任されている。
「気持ちを一つにして、集中ね! 思いっきり弾けよう! 行くよ!」
 チームリーダーとして本番さながらに皆に気合いを入れた真理亜は、「お願いします!」と、音楽の再生ボタンに指をおいていたナオコ先生に向かって声を上げた。
 二分間、ダンス以外のすべてを忘れ、気持ちを集中する。真理亜はこの無心の時にこそ、至福の時を感じるようになっていた。自分の限界に挑戦し、その厳しい挑戦をこそ楽しむ。
「ほら、笑顔が消えてるよ!」
 ナオコ先生の声がスタジオ内に響き渡ると、突然皆の顔が輝きだす。
 音楽の転調する後半に入ると、ここからが真理亜の見せ場だった。真理亜はテンションのギアをさらに限界にまで上げた。
「イェー!」
 真理亜が一人、皆の真ん中で大きくジャンプを力一杯に決めた、その瞬間ときだった。股の間に、体の内側から何かが漏れ出てきたのがわかった。
「あっ…」
 とっさに床に膝をついた真理亜を見て、ナオコ先生は「どうした真理亜! あとちょっとだ、踏ん張れ!」と声を上げた。
 幸い、下はロングのスウェットパンツを履いている。
『…大丈夫』
 そう自分に言い聞かせるようにして、真理亜は必死に体を動かした。しかし、いつもと同じように体を動かそうとしても、下腹部が気になって思うようには動けない。
 もはやそれはダンスと呼べる代物ではなかった。少なくとも真理亜自身が目指しているダンスとは、かなりかけ離れた動きだった。踊ることだけに気を集中させていた至福の時は、あの力いっぱいに決めたジャンプを境にして、一気に混乱の谷へと堕とされていた。
「どうした?」
 曲が終わると、ナオコ先生が真理亜の元にやってきて言った。
「すみません、…急にお腹が痛くなって」
 真理亜は呟くようにそう言うと、一人トイレへと向かった。
 個室に入りスウェットパンツを下ろすと、先ほど着替えたばかりの下着に、外からでもわかるほどの大きな赤茶色の染みができていた。それは明らかに、血だった。血はスウェットパンツの内側にもうっすらと染みていた。
 スタジオのドアを開けると、Bチームが踊っていた。ドアのすぐ近くに立っていたナオコ先生が、真理亜の脇まで来て言った。
「どう? まだ痛む?」
「…はい」
「どういう痛み?」
 真理亜はナオコ先生の顔をちらりと見た。
 ナオコ先生はこちらは見ずに、Bチームのダンスに目を光らせていた。
「ほら、くっつき過ぎないで! 本番の舞台はもっと広いよ!」
「レッスン前に水飲み過ぎたみたいで」
「そう、わかった」
 ナオコ先生はただそう言った。
 真理亜は「すみません」と力の入らぬ声で答え、頭を下げた。
 曲が終わりBチームへの一通りのダメ出しが終わると、ナオコ先生は改めて真理亜の顔を見て言った。
「あんたは練習はある程度できてるから、今必要なのはリーダーとしての自覚。体調管理も実力のうちだぞ。わかったか?」
「はい」
「じゃあ、今日はもういいから、チームの動きを見てなさい。自分たちで直せるところは直す。それも勉強だからね」
 それからAチームは、真理亜抜きでもう一度踊った。
 Bチームに混ざり床に腰を下ろした真理亜は、ただ黙って自分不在のまま踊る仲間たちの姿を見つめた。いつもはつたなさばかりが感じられる年下の子たちのダンスも、こうして離れて見ると、思った以上に様になっていたのが逆に悲しかった。
『自分がいなくても、何とかなるんだ…』
 音楽が止まり、Aチームの皆が真理亜の周りに駆け寄ってきても、真理亜はしばらくの間立ち上がることができずにいた。ただ胸の中で虚しさばかりが自分勝手にフワフワと立ち上がり、地に足のつかぬダンスを踊り始めたような居心地の悪さを感じた。

 レッスンが終わりスタジオを出た真理亜は、一人暮れかかった道をぼんやりと歩いた。冬には真っ暗になる帰り道も、この日はまだ辺りが明るい。
 下着の中に詰め込まれたトイレットペーパーのゴワゴワとした違和感を感じながら、真理亜はいつも通る帰り道を避け、行くあてもなく街の中を歩いた。とにかく今はまだ、家には帰りたくなかった。
 自分の身に起きたことがどういうことなのかは理解していた。学校でも、女子生徒だけが体育館に集められ、これから起こる体の変化についての講義のようなものも受けてはいた。それにクラスメイトの中にはすでに初潮をむかえた人も確かにいて、そんな話も少しは耳にしている。
 しかし話として聞かされるのと、自分の体で実際にことが起こるのを経験するのとでは、全く違う。こうして実際に自分の身に起きてみて初めて、真理亜はようやくそれがどういうものなのかを知ったのである。
 いや実際にはまだ、知ったとまでは言えなかった。この日はただ始まりのサインが示されたに過ぎないからだ。これから自分の体がどう変化し、それに対してどうするべきなのか、真理亜にはその何もかもが、まだよく分かっていなかった。
 そもそも世の中の大人の女性たちは、どのようにこれに対処し、日常を生きているというのか。
 真理亜はさらに考えを巡らせた。
『ダンスは? ダンスはどうするんだろう…』
 その想像は、真理亜を身震いさせた。
『もし大会当日に、こんなことになってしまったら…』
 大会の日だからといって体の方が待ってくれるとは思えない。となるとこれから真理亜は、生理に振り回されながらダンスを踊らなければならないというのか。
 本当はナオコ先生に直接相談するべきだったのかもしれない。何より先生は同じ女で、しかもダンスをする人間だ。それこそ的確に、こういう時の対処の方法を示してくれるはずではある。
 しかし…。
 今日の今日、あの動揺の最中にナオコ先生に直接相談することなど、そもそもが無理な話だった。何より真理亜はまず、自分自身でこの体の変化と向き合い、それをある程度頭で理解した上で、これを受け止めなければならなかった。
『相談をするべきなのは、やっぱりママが先か…』
 しかし塾の一件で揉めている母と、こんな時に、こんな事について、素直に話せる自信もない。
 様々な感情がモヤモヤと立ち上がっては、何一つ片付く様子もないままに胸の中をぐるぐると駆け巡っていた。そんな混乱する思考のまま、真理亜はふと辺りの様子に目をやった。
 私立の中学の制服を着た女性が、母親と思われる女性と楽しげに話をしながらすれ違った。大きなカバンを手にしたパンツスーツ姿の女性に、買い物帰りのスカートを履いた主婦。そんな大人の女性たちを見てみても、皆が皆、これまでと何ら変わることのない平然とした様子で道を歩いている。
 真理亜には、そんな当たり前の光景すら、とても不思議なことに思えた。
 道の先に目をやると、ようやく暮れ始めた街の中で、蛍光灯の真っ白な明かりを煌々と光らせているドラッグストアが目に留まった。
 真理亜はドラッグストアの前まで行くと、そこでしばし立ち止まった。そして何気なく辺りを見回しながら店の中に入り、誰にも悟られぬように生理用品のおかれているコーナーを探した。
 コーナー自体は難なく見つけられた。しかし真理亜は、その場で立ち止まることができなかった。ただ目を泳がせてそこに置かれているもの、そこに書かれている値段に目をやりながら、ただゆっくりとその場を通り過ぎた。そして中年男性の店員が立つレジを横目に見ながら、そのまま店を出た。

 誰もいない小さな公園で、真理亜はベンチに腰を下ろした。そこでただ暗闇が訪れるのを一人待った。せめて暗闇に紛れることで、今直面している問題の輪郭をぼんやりとしたものに変えたかった。
 ふいに腕にかゆみを覚えて何気なく指で引っかくと、一匹の蚊が飛んでいる姿が目に入った。真理亜が痒みに誘われるままに蚊に刺されたと思われる辺りを掻いていると、再び目の前を飛ぶ蚊の姿が目についた。蚊は目で追うそばから、再び真理亜の腕に止まった。真理亜はすかさず手のひらで蚊の止まる腕をバシッと叩いた。
 叩いた手を退けると、そこには潰れた蚊の死体と共に、たった今吸われたばかりの真理亜の血が広がっていた。
 真理亜はその、やけに真っ赤な鮮血の色にハッとした。
 バッグからティッシュを一枚取り出して、小さな殺人現場のようなその痕を丁寧に拭き取りながら、真理亜は思った。
『大人になることは避けられない』
 それは至極当然のことだ。真理亜の体はすでにその時をむかえ、いよいよ大人になろうとしている。これは誰もが通る道なのだ。
 しかし…。
 こんなのは、嫌だった。こんな形で流されるままに大人になってしまうのは、絶対に嫌だった。自分には何の相談もなく、こんなタイミングで勝手に大人になり始めるなんて、あまりにヒドすぎると真理亜は思った。
 これまで、早く大人になりたい、一人前の人間として早く認められるようになりたいと、確かにそう思ってはいた。しかし、体がその階段を実際に上り始めたということを事後報告として後から聞かされたら、そんな話は聞いてないと文句の一つも言いたくなる。
 こちらの都合も聞かず勝手に大人になり始めた体、真理亜はそんな体が憎たらしかった。そして大人というものは、いつだって勝手だ、と改めて思った。真理亜の意見などまともに聞こうともしない大人たち、不純で汚らわしい、そんな大人の世界から一方的に突然突きつけられた子供の卒業証書。勝手に発行されたそんな卒業証書など、大人の世界に叩き返してやりたいと思った。
『ママには言いたくない』
 それがせめてもの、大人たちに対する抵抗だ…。

 どこからか視線を感じた気がして、真理亜は辺りを見回した。近くにこちらを見ているような人影は見当たらなかったが、気付けばいつの間にか辺りは真っ暗になっている。
 真理亜はこの時ふと、昨夜のことを思い出した。公園の東屋で大我を待っていた、あの時。どこからともなく現れて話しかけてきた、あの中年の男。
 その顔と表情、あの声と話し方。加えてその時言われた言葉がまざまざと思い出されてくると、真理亜は急に寒気のようなものを感じてベンチから腰を上げた。
『帰るべき場所は、一つしかない』
 歩き始めたものの、そう思うと足取りは重かった。
 再び思い浮かんだ孤独という言葉から、真理亜の頭にはタックン先生の顔が思い浮かんだ。しかしこの時ばかりは、せっかく思い浮かんだタックン先生の顔を、真理亜は自らかき消した。
 タックン先生は紛れもなく男の体を持ち、男の世界で生きている人間だったからだ。
『あっちにもこっちにも、壁がある…』
 これまで地続きだと思われていた世界、大人と子供の間の分断を除けば境界線などどこにもないと信じられていた世界には、実際にはいたるところに簡単には乗り越えられない壁があった。一度それらの壁の存在を認識すると、以前のような壁など見えなかった頃の自分には、もう戻れそうになかった。
 大人/子ども。
 男/女。
 さらには、確実に同じ世界に生きていると思われていた、同姓であり同級生の、乃莉果と結衣。彼女たちとの間にすら乗り越えられない壁があるとするならば、一体この世のどこに壁など感じずにいられる人がいるというのか。
 いや、そもそも一番近しいはずの両親や双子である大我との間にも、はっきりとした壁の存在を感じるというのに、同性で同い年というだけで壁がない関係を築けると思っていた自分は、どれほど能天気な目でこの世を見ていたのだろうか…。
『もしかすると世界中の誰とも、本当の意味では通じ合えないのかもしれない』
 そんなことまで考えると、真理亜にはこの皮膚すらも、世界と自分を隔てる壁のように思われてくるのだった。
 自分はこの皮膚という壁から、死ぬまで脱出することはできない。この壁はもはや監獄の壁、独居房の壁と同じではないのか。
 気付けば真理亜の目からは、涙がこぼれ落ちていた。
 とめどなく溢れてくる涙を拭うために道端で足を止めた真理亜は、明かりを灯しながらちょうどその場へやってきた自転車の光に、自分の心の内側までも全てをあらいざらい照らし出されてしまいそうな気がして、体の向きを横に逸らした。
 横を向いた真理亜の目の前には、今日はすでに店じまいをした花屋があった。花屋のガラス窓の向こう側を覗くと、仄暗い照明の中で、地面から切り取られ、花瓶に活けられた花たちが、何やら薄気味悪い笑みを浮かべていた。
 ふと顔をあげると、そこにはガラスに映る、涙に目を腫らした自分がいた。孤独でしおれ、血の気の引いた子供の顔。そんな惨めな顔が、薄気味悪い花たちに囲まれていた。
 その様子はどことなく、祖母の葬式で見た、花に囲まれるばぁばの姿を真理亜に思い起こさせた。

     十一



 受験対策に余念のない塾での講義は、大我にとっては逆に新鮮なものであった。そこには学校での授業とも、タックン先生と過ごした時間とも、全く異なる面白さがある。
 今から思い返せばタックン先生の教え方は、明らかに受験のための内容ではなかった。
『もちろん、それはそれでいい』
 タックン先生と出会えたことは大我にとっても、とても重要なことではある。しかし大我はこの、受験勉強という名のゲーム﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅も、実際にやってみると、これにはこれなりの面白さがあると思った。
『そう、これはゲームなんだ』
 自分の知能がどの程度のものなのか、それをどこまで駆使して、どこまで可能性を広げることができるのか。それらを一定の基準内で競わせるゲーム、それが受験というもの。
 それにいろんなことを知っている大人になるには、もっともっと勉強をしなければならない。知らなかったことは、どこかのタイミングで知らなければ、いつまでも知らないままなのだ。
 きっと真理亜は、知らなくてもいいことを知ってどうすんの、などと言ってそんな大我の意見はあっさり否定するに違いない。けれどもタックン先生のような、知的で優しい大人になるためには、実際にはこういった勉強も必要なはずだと大我は考えた。
 そんな塾での勉強に重きを置くようになるにつれて、大我と長谷部の親交も徐々に深まりつつあった。塾の講義がない日でも、塾の自習室で共に勉強をしたり、また長谷部の家に行くことも増えた。一度などは、誘われるまま長谷部家で高級レストランのような贅沢な夕食をご馳走になり、後で母に叱られたこともある。
 塾で行われる学力テストの成績は、まずもって長谷部の方が良かったが、月一回の塾内のテストにおける大我の成績は右肩上がりに上がっており、その急激な成長ぶりは長谷部をも驚かせた。

「明日、学校終わったらうちへ来ないか?」
 ある夜、塾で大我と顔を合わせるなり、長谷部がそう言った。
「ちょっとすごいものを手に入れたんだ」
「なんだよ、今教えてよ」
「それが、ここじゃまずいんだよ」
 長谷部はそう言って、顔を下品にニヤつかせた。
 翌日学校から帰った大我は、一応塾のカバンを手に雨の降る中を長谷部の家へと向かった。
「ねぇ、何?」
 部屋に入るなり、一日お預けにされていた大我には知りようもない答えを長谷部に求めた。
「まぁ、そう焦るなよ。今お母さんがお菓子もって来るから。それまで勉強しようぜ」
 長谷部は、いつも二人並んで勉強するときに使う折りたたみのテーブルを出すと、その上に塾の教科書を広げて勉強を始めた。
 大我も教科書を出してパラパラとめくったが、これから聞く話が気になって何も頭に入らない。
 やがて待ちに待ったオレンジジュースとカステラが運ばれてきて、いよいよ部屋のドアが閉められると、長谷部は昨日と同じように下品にニヤついてみせた。
「だからなんだよ、早く言えって!」
「これだよ」
 長谷部が取り出したのはスマートフォンだった。
 その画面に映し出されていたのは、一枚の写真。写真といってもそれは、絵を撮った写真のようだ。
「何それ」
 大我にスマートフォンを手渡すと、長谷部は「クククッ」と妙な笑い方をした。大我はさっそくその画像を眺めた。
「…え?」
 それは今までに目にしたことのない、危険な魅惑に満ちた絵だった。見てはいけない、少なくともそう言われている類の絵であるということは一瞬にしてわかった。
 大我は胸の中心部から、これまで感じたことのないゾワゾワとした騒めきが、しだいに増幅されてくるのを感じながら、衝動のまままに指でその一番気になる部分を拡大した。
「わっ…」
 驚いて顔を上げた大我のそんな様子を見て、長谷部は改めて「クククッ」と笑った。そして、大我の手からスマートフォンを奪い返すと、目を見開いてその画面を見つめなおした。
 時代劇でみるような格好をした男女が、着物の裾をまくり上げ、今まさに体を一つに繋げようとしていた。男女共にむき出しにされた肉体の秘部、それをもてあそぶかのような姿態が、漫画的ではあるがやけに生々しく描写されてある。
 大我は絵の様子をもう一度、じっくりと確かめたくなった。
「ねぇ、もう一回見せて」
 長谷部からスマートフォンを受け取ると、大我は騒ぎ出す心をぐっと押さえ込むようにして画面を凝視し、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 見てはいけないはずのその絵から、大我はどうしても目が離せなかった。その視線を通じて、心ごと絵の中へと吸い込まれてゆくような感覚すら抱いた。
 あまりにも大きな男の陰茎、そのグロテスクながら魅惑に満ちた形象。そしてその隣で大きく開らかれた女の恥部。普段は見ることのない淫靡いんびな表情を湛えた女の顔。
 それら全てが、大我の身体中の血という血を沸き立たせながら、頭の中だけを空白にさせてゆく…。
「家にあったんだ。おじいちゃんが誰にも言うなよって言いながら、こっそり内緒で見せてくれたんだ。それをおじいちゃんにバレないように、カシャって」
 大我が写真に見入っている横で、長谷部はその写真のいわれを説明し、またしても「クククッ」と笑った。
 大我は四年生の頃、同級生の家のインターネットに接続されたパソコンで、男女が裸で絡み合う生々しい動画を見させられたことがあった。その時は正直、見てはいけない感覚が先に立ち、自分から目を背けた記憶がある。
 そんな話をこの場ですると、長谷部は寝転がっていた体を急に起こして言った。
「えっ! そうなの? いいなぁ」
 その反応は大我には意外だった。子供用のスマートフォンでそういったサイトを見ることができないように設定されているのはわかるが、何より長谷部の机にはパソコンが置かれていたからだ。
「パソコンならあるじゃん」
「あれはダメ。しっかり制限されちゃってる。うちのお父さんIT系の会社の社長だから、そういうのは家では絶対に無理」
 そう説明した長谷部は、もう一度身を乗り出して大我に聞いた。
「ねぇ、その友達の家に、僕も行けないかな?」
「もうクラスも違うし、それにその後になってその子、親にバレてものすごい怒られたって言ってたよ」
「そっかぁ」
 長谷部はしみじみとそう呟いた。
 そこで思い出されるのは、小笠原君たちが教室でしていた話だった。彼らはまさにそういった写真や動画を見ることのできる環境をどこかで確保し、情報を共有しているらしかった。そして彼らは、そんな視点でもって、まさにあのともたんを見ていたのだ。
 そんなことを考えていると、大我自身もあのともたんに対するまなざしが、今日を境にこれまでとは違う、何か卑猥ひわいなものへと変化してしまいそうな漠然とした不安を抱いた。
 それは決して超えてはならない一線のように思われた。その一線は、一度超えたが最後、もう二度と今いる側へは戻って来られないような危険すら感じさせた。
『ダメ! そんなの絶対ダメ!』
 大我はその一線を超えたがっている自分自身を諭すように、心の中でそう叫んだ。
 その時だった。
「ねぇ、おちんちん見せてよ」
 長谷部が唐突に言った。
 突拍子もないそんな言葉に、大我はただただ呆気にとられていた。そうしている間にも、長谷部はこちらに身を擦り寄せてきていた。
「えっ…?」
 これまで正常に回っていた世界が、何かおかしな方向へと乱れ狂い始めている。そう思った大我は、今すぐ元の世界に戻さなければと焦った。
「やだよ、そんなの」
「いいじゃん」
 長谷部はニヤニヤとした下品な笑みを浮かべながら身を低く構えると、まるで蛇が獲物を狙うような素早さと力強さで、瞬間的に大我の股の間に腕を伸ばした。
「やめろって!」
 そう叫んだ次の瞬間、大我は股の間に、本当に蛇に噛みつかれたかのような刺激を感じた。
「あ、おっきくなってる」
 大我は長谷部のそんな言葉を聞きながら、心の中で悲鳴をあげ、身悶みもだえた。今まさに体を貫通する、これまでに感じたことのない類の違和感。その、不快でありながらどこか心をくすぐられるような異様な感覚から、大我は一刻も早く逃れたかった。
 大我は確かに「やめろ!」と叫び続けていた。しかし大我のその悲鳴は、どうやら声としては外に出ていなかった。とにかく大我は、長谷部の腕を掴んで引き剥がそうと必死だった。
 しかしそうして身悶えている間にも、長谷部の腕の蛇は、大我の股の間から生気を吸いとり続けていた…。
 力で外そうとしても、それは放れそうになかった。長谷部の華奢きゃしゃな腕からこれほどの力が出ていることが、大我には俄かに信じられなかった。しかし改めて見てみても、そこに噛み付いているのは確かに長谷部の腕なのだ。
 大我は一旦逃げるのをやめ、こちらを見つめ続ける長谷部の顔を見つめた。長谷部のニヤニヤとしたその笑い顔は、これまでとは全く違う、大我の知らない人物の顔に見えた。いやそれはもはや、人の顔というより、長谷部の仮面をかぶった蛇の化け物が正体を現しつつある、そんな様子にすら見えた。
『化け物なら、言葉が通じるはずもない』
 股間を掴み続ける蛇のような化け物、その目を改めて見つめると、大我はなぜか不意に笑った。うまく説明はできないが、それは動物的な本能がそうさせたような気がした。笑うしかこの危機的状況から逃れる術はない、そう判断したのかもしれない。
 大我の笑い顔を見ると、長谷部は腕に込めた力をわずかにゆるめた。その瞬間を逃さず、大我は長谷部の腕をなんとか引き剥がした。
「じゃあ、見せ合いっこしようよ」
 身を引き、怯えている大我に向かって、長谷部はこの状況を未だに楽しむ様子でそう言った。しかもどうやらこのネジの狂った状況を、さらに狂った方へと回そうとしていた。
「やだよ、しないよ!」
「なぁ、オナニーって知ってるか?」
 長谷部は座ったまま、自身のズボンとパンツをサッと脱ぎ捨てると、硬くなった、しかし先ほどの絵とは似ても似つかぬほど貧弱な陰茎を、大我の目の前に晒した。つるんつるんのその様子は、一足先に大人になりかけて周りに毛を生やし始めていた大我からみて、すこぶる子どもに見えた。
「こうすると、すごいんだ」
 長谷部はそう言うと突然、大我の見ている目の前で、自分の陰茎をむやみやたらといじくりだした。その何かに取り憑かれたような姿態、人としての何かを失ってしまったようなその様子は、あまりに異様であり、凄まじく無様ぶざまだった。
 大我には、もはや長谷部というその人物が、自分が思い描いていた人とは全くもってかけ離れた人間にしか見えなくなっていた。蛇の化身のようなこんな男とは、もう友達でいることもできない。そう思うと共に、そんな長谷部の本性をこれまで見抜くことができなかった、自分自身に対する失望すら大我は抱いた。
「僕、帰る」
 テーブルに置きっぱなしになっていた塾の教科書を手にとって一気にカバンに詰め込むと、大我は部屋のドアを開けて廊下へと飛び出した。
「おい! ちょっと待てって!」
 長谷部はすぐには追ってこなかった。いや、追ってこられなかったのだ。
 玄関で慌てて靴を履いていると、後ろから「おい!」という声と共に、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。
 大我は後ろを振り返ることなく、一目散に外へと走り出た。玄関を出た瞬間に傘を忘れたことに気づいたが、もはや戻ることはできなかった。
 そぼふる梅雨の雨に濡れながら、大我は体育の授業の時以上に力をふりしぼり、全速力でただひたすらに走った。
 門を出た後も、大我はしばらく全力で走り続けた。走りながら幾度となく大我は振り返った。長谷部があの黄色い自転車で追いかけて来るのではないか、そんな想像が呼び起こす恐怖は、大我の心身を何度も何度も縮み上がらせた。
 普段は通ることのない脇の小道へ身を隠すように入ると、大我はようやくそこで立ち止まった。そして、膝に手をついてハァハァと肩で息をしながら、上がりきった息を整えた。
 息が少しばかり落ち着いてくると、大我はポケットからハンカチを取り出して、雨と汗で濡れた顔や腕を拭った。そして改めて後ろを振り返り、背後の安全を確認した後で、家のある方へ向かってゆっくりと歩いた。
 長谷部とはもう、元の関係に戻れるようには思えない。
『次、塾で会った時にどんな顔をすればいいのか…』
 実際に塾であの男の隣に座ることを考えた大我は、ただその想像だけで身がすくみ、股の間がやけにむず痒く感じられた。

 その晩大我は、風呂場で一通り体を洗い終えると、長谷部のやっていたことを思い出した。
『思い出してはいけない』
 理性が放ったそんな指令を素直に受け取った大我は、股の間に未だ残る長谷部の手の感触も、また頭の中に残るあらゆる残像も、全てを体のあかと共に洗い流すような気持ちで湯船に浸かった。
 しかし体の垢はともかくも、頭と感覚にこびりついた垢は、どうやら簡単には洗い流せそうになかった。いくら考えないようにと思っても、頭にも、また体にも、それらはすぐさまよみがえってきてしまう。
 その時大我はふと、前に小笠原君があえてクラス中に聞こえる声で言っていた言葉を思い出した。
「大人はみんなやってるんだぜ。じゃなきゃ俺たちだって生まれてねぇんだかんな」
 大我は自分の父と母が、あの絵の中のような姿をしている様子を思い浮かべた。しかしその想像には、心の方が耐えられなかった。大我はその想像を慌ててかき消すと、改めて自分自身が感じている漠然とした欲求﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅にこそ焦点を合わせ、そこと真正面から向かい合った。
『長谷部みたいな、あそこまでにはならなければいいんだ…』
 少しだけなら…。
 そう思いながら湯船から出ると、大我は改まる心持ちで洗い場の小さな椅子に腰を下ろした。そして恐る恐る、自分の陰茎を軽くいじった。
 やがて手の中に硬さを感じ始めると、大我は、毒気混じりの高揚感がほんのわずかばかり体の中を駆け巡り始めたような気がした。わずかな痛みはあるが、長谷部の手に噛みつかれていた時のような不快感は、そこには無かった。
『あとちょっとだけ…』
 躊躇ちゅうちょよろいをこころばかり外して、握った手にもう少しばかり力を込めてみる。すると、握られた側にもそれに応えるかのように力が満ちて来るのを大我は感じた。
 この先に何があるのかを大我は知らなかった。このままこの道を進んでゆくと、どこかしらにたどり着くのだろうか。そこに終着地はあるのか、それとも、行けども行けどもただ果てしの無い、欲望の沼があるだけなのか…。
 何もかもわからぬまま、そこにある魅惑の領域、入ってはいけないと言われる路地に、いま大我は誰からも教わることのないまま入り込もうとしていた。以前同級生の家で見た動画と、そして今日のあの長谷部の様子と、あの絵ばかりを頼りに…。
 目をつぶると、大我は体の中を駆け巡る感覚に耳を澄ませた。それはこれまで聴いたことのない音楽を聴くような感覚だった。改めて心地はと問われれば、悪くはない。大我はその音楽のボリュームをさらに上げてみたくなった。
『長谷部のようにだけは、絶対にならないように…』
 何故か今度は、胸がざわめき始めていた。やがてそのざわめきは胸から体全体へと広がってゆき、気付けば頭が何やらポワポワとした感覚で満たされてゆく。大我はその感覚によって、どこかに導かれているのを感じた。
『まさかそこにいるのは、天使?』
 自分は今まさに、天使に導かれているのではないかと大我は思った。そしてその天使がこちらに来いと言っているような、そんな気がした…。
 天使の姿こそ思い浮かばなかったが、大我はいつしかその天使を追うことしか考えられなくなっていた…。
「ねぇ、まだ!?」
 そんな声と共に、大我は我に返った。
 それは真理亜の声だった。
 咄嗟に手の動きを止めた大我は、自分がたたずむ現実の風呂場を見回した。
「うん、あともうちょっと」
 すでに天使はその気配を消していた。ただ胸の中に、ざわめきたった後の中途半端な余韻ばかりが残されていた。
 大我は改めて自分の淫部を眺めた。ピクンピクンと脈を打つそれは、大我にもう一度天使を呼び戻させて、先ほどの道行を続けるように懇願こんがんしているようにも見えた。
 湯船から湯をすくい上げると、大我は頭からザァと湯をかぶった。さらにもう一度湯をすくい、未だに天使を求めて向かうべき方向を指し示している陰部に、湯の瀧をしっかりとかけて洗い清めた。そして改めてザブンと湯船に身を投じた。
 湯船に浸かりながら、大我は先ほど感じた天使の誘いを思い返した。こうして冷静な頭を取り戻してみると、あれは本当に天使だったのか疑問に思われてくる。
『もしかするとあれは天使ではなくて、実は天使の姿をした悪魔だったんじゃないか…』
 そんな疑念がふと大我の頭をよぎった。
 考えてみれば、今日見せつけられた長谷部のあの姿態、あれはまさに悪魔に取り憑かれたとしか言いようのない姿だったではないか…。
 天使も悪魔も、もう頭の中から消えて欲しかった。
 頭の中に湧いてしまった煩悩ぼんのうを払い除けようと、大我は両手で湯をすくい上げると、勢いよく顔を洗った。そしてそれだけでは足りぬとばかりに顔を左右に勢いよく振ってから、慌てて風呂を出た。

 その夜はなかなか寝付かれなかった。
 ようやくウトウトとした大我の頭には、なぜかクラスメイトのともたんが現れた。ともたんは学校の教室で、たった一人で佇んでいた。スカートは履いているものの、なぜか上半身は裸である。風船のように丸くふくらんだ左右の胸が丸見えだった。
「触ってみる?」
 少し照れくさそうに頬を赤らめて、ともたんが言った。
「いいの?」
「うん」
 おそるおそる手を伸ばして、大我がともたんの胸にわずかに触れると、それはまるで皿に盛られたプリンのようにプルンプルンと波を打ち、柔らかく揺れた。

     十二



「えっ、何このご飯…」
 この日の晩の食卓には、なぜかいつも以上に手の込んだ母の手料理が並べられていた。中でも茶碗に盛られた赤飯を目にした瞬間、真理亜は血の気が引く思いがした。
「お赤飯じゃん。真理亜ちゃん、知らないの?」
 珍しく早く帰宅した父の浩二こうじが、わざわざ鼻につくような言い方で言った。
「そんなの知ってるわ!」
 いつもは呼び捨てで呼ぶ父が、あえてちゃん付け﹅﹅﹅﹅﹅で呼ぶのも、いつも以上に真理亜のことを子供扱いにしてバカにしているとしか思えない。
「なんで? 何かあったの?」
 今度は大我が聞いた。
「なんかあったらしいんだ。もっとも俺たち男には、ないんだけどな」
 父のニヤついた表情を目にした真理亜は、胸の内に恥ずかしさと怒りが同時に湧いてくるのを感じた。
 さすがに母親に初潮が来たことをいつまでも隠し続けられるわけはなかった。どうすればいいのか、わからないことだけを真理亜に伝授してくれればよかったのだ。
『それなのに…』
 母はそれをわざわざこうしてみんなの話題にして、見世物にし、そして楽しもうとしていた。これはもはやさらし者の刑に近いと真理亜は思った。
「ねぇ、なんでお赤飯なんか炊くの?」
 不満顔で投げかけた真理亜のそんな質問に、母は笑顔で応えた。
「昔からそういうことに決まってるのよ」
「今は昔じゃないでしょ?」
「こういうのは伝統なの」
「何が伝統だよ。お正月だって別に着物なんか着ないくせして」
「いいだろ、せっかくの機会なんだから。それにこうやってママの手料理をみんなで囲めるだけで、幸せじゃんか」
「え、パパはそんなんで幸せ感じるの?」
「そりゃそうだよ」
「ふぅん。あそっか、いつもは外でもっと美味しい物しか食べてないから、パパにはママの手料理なんてものが新鮮なのか」
「…ん? なんだお前。なんで今日はそんなに機嫌が悪いんだ?」
 やはり父とは心が通じそうもないと真理亜は思った。もし二人が離婚するようなことにでもなったら、父親の方について行こうと思っていたが、これはもう一度深く考え直さなければならない。
「ねぇ、何があったの?」
 大我が真理亜の気も知らずに、しつこくそう聞いた。
「お前には関係ないの。少し黙ってろよ」
「真理ちゃん、そういう言葉遣いやめてって、いつも言ってるでしょ?」
「うるさいなぁ、わかってるよ」
「わかってないじゃん」
「だから、バカ大我は黙ってろよ」
「真理亜、いい加減にしろ!」
 父が今度は都合よく、呼び捨てで呼んだ。しかもその語尾は命令形だ。
「はぁ? マジで何なの、この家族…」
 本当の意味において真理亜が大人になったお祝いをする気であるならば、今日この瞬間から子供扱いするべきではないはずだ。しかし、二人が真理亜のことを子供扱いするのをやめる気がないことは、これまでの態度から明白だった。
 結局自分は一人の人間として見られていない、真理亜は改めてそう思った。
 向こうが真理亜のことを子供として見下しているうちは、嫌だ、やめて、とこちらが本気で何度叫んでも、この声は決して向こう側に届くことはないのだ。いつまでたってもこちらの声は無視され続け、最後は経済力と親という立場、それら二つの権力でねじ伏せられてしまう。どうしたって立場的に弱いこちら側は、結局その権力に従わざるをえない、と、こういうわけだ。
 真理亜のためなどと口では軽々しく言うが、本人の意見を尊重どころか、まともに聞きもしないことの、どこが真理亜のためであるというのか。
 改めて食卓に並んだ料理を見渡せば、エビフライに唐揚げ、それにポテトサラダ…。確かにどれも嫌いではないけれど、お子様ランチの定番ばかりを並べておいて、これが大人になった祝いの席の料理とは、バカにするにもほどがある。さらにこれに赤飯と味噌汁など、組み合わせも何もない上に、これが伝統だなどというのはどうみたっておかしいだろうと真理亜は思った。
「来年はもう、中学生だもんなぁ」
 唐揚げを頬張りながら、父が言った。
「年越ししたらすぐ受験だから、そろそろ本気出してもらわないと困るんだけどね」
「あぁ。大学受験と違って、中学受験と高校受験は、先延ばしができないからな」
 母と父の会話を黙って聞いていられずに、真理亜は口を挟んだ。
「別に中学は受けなくていいんだよ、義務教育なんだから。公立に行けばいいだけの話」
「そりゃそうだけど。…なんだ、真理亜はまだ、私立受けたくないびょうなのか」
「何その、受けたくない病って。私、病気じゃないし」
「真理ちゃん、食べて。せっかくママがあなたの為に作ったんだから」
「またそれ? あなたの為、あなたの為って…。私こんなの頼んだ覚えないんだけど」
 自己満足を人のせいにするいつもの母の言葉に白けている真理亜に、赤飯をムシャムシャと食べてビールを口に流し込んだ父が、説教じみた口調で言った。
「あのな、真理亜。お前にはまだわからないかもしれないが、これからは女性が社会を支える時代なんだぞ? 日本ではまだ女の首相は出ていないが、外国の大統領とか女の人が当たり前になってきてるだろう。そういう流れの中で、真理亜は取り残されちゃってもいいのか?」
 白けた気持ちで父の言い分を聞きながら、真理亜は以前タックン先生から聞いた話を思い出していた。
 黙ってうつむく真理亜に、父は返答を待つ様子でじっとこちらを見つめ続けていた。
 真理亜は一度手にしていた箸を箸置きに置き直すと、静かに言った。
「私、男が壊した社会の、ガレキの後始末なんかしたくない」
 真理亜の口から放たれたその言葉に、他の三人は固まった。
 真理亜は顔を上げて言った。
「これからは女の時代だとか、いいように言ってるけど、結局それも男の都合でしょ? 男たちが勝手に作った社会が自分たちでどうにもならなくなって、後は頼むって…。それってまるで、パパが美味しいところだけ食べて、後片付けはママがやるのと一緒じゃない? 面倒なことは全て女に押しつけて、自分たちは本当は楽して美味しいところだけ頂こうってことなんじゃないの?」
「それは違うぞ。女性は今まで社会で差別されてきたんだ。その差別がなくなってきたからこそ、女性が輝ける時代が…」
「パパ、それ本気で言ってるの? じゃあその、女性を差別してた人達って誰なの? まさか女性自身ってことはないよね? じゃあ誰? ねぇ誰? 男でしょ? 男しかいないじゃない!」
 父は黙ってわずかにうつむいた。
「あんたも受けないよね?」
 真理亜は、大我に問い質すように言った。
 大我は真理亜の鋭い視線から逃げるようにサッと目をそらした。大我のその様子に、真理亜の怒りはいよいよ沸点に達した。
「おい、目ぇそらしてんじゃねぇよ! あんたも受けないよねって聞いてるの!」
「…僕、受けるよ」
「は? お前、前に受けないって約束したじゃん! この嘘つき!」
「真理ちゃん、そんな言い方しないの!」
「ママさぁ、それしか言えないの? 私、ママみたいにはなりたくないの」
「真理亜、それは言い過ぎだぞ!」
「絶対なりたくない! 死んでも嫌! ママってさ、中学から私立行ったんでしょ? 私、ママみたいになりたくないから、私立の中学へは行かない! 絶対行かない!」
「真理亜!」
 父は瞬時に立ち上がると、真理亜の襟首をつかんで椅子から引き摺り上げた。そしてその直後、真理亜の左の頬を平手打ちにした。
 バシッ! という音が部屋の中に響き渡ると、今度は突然の静寂が辺りを包み込んだ。
 頭が真っ白になるほどの猛烈な痛みが体を駆け巡るのと同時に、涙が泣き声をともなって込み上げてくるのを真理亜は感じた。
 しかし真理亜は、その声をグッと飲み込んだ。
 抑えきれなかった涙だけが、左右の目からポロポロとこぼれ落ちていた。外に発散されることなく飲み込まれた悲しみは、じわじわとした痛みを発しながら心の奥深くへと流れ落ち、そこに永久に止まりそうな嫌な気配を感じさせた。
 真理亜は、椅子にドスンと腰を下ろした父の、その表情に目を向けた。殴ったことをどう思うのか、せめて謝る気持ちだけ、申し訳ないことをしてしまったという思いだけでも、そこから感じさせてほしかった。
 しかし実際の父の表情は、それとは違っていた。その表情はかたくなに『自分は間違っていない』と語っていた。
 真理亜はそんな父をさげすむ気持ちで睨みつけながら、小さいながらも力のこもった声で言った。
「謝れよ」
 すぐ隣にいる父に、今の言葉が聞こえていないはずはなかった。人を殴っておきながら、そのことに対する謝罪もないままに、今度は無視をした。そう思った真理亜は、いよいよ抑えきれないほどの怒りが胸の奥から湧き出てくるのを感じた。
「謝れよ!」
 真理亜が涙声でそう叫ぶと、父は俯いたまま箸を取り、エビフライを掴みながら「謝るのは真理亜が先だ」と言った。
 真理亜は、未だじわじわと痛みを感じる左の頬に手を当てた。
 母も大我も、じっと椅子に座るばかりで微動だにしなかった。
 やがて父は、黙っている真理亜に声を荒らげた。
「早くママに謝りなさい!」
 真理亜には意味が分からなかった。真理亜が本音を言ったことが、どうして父が振るった身体的な暴力と比べられなければならないというのか。それはどう考えても次元の違う話ではないのか…。
 確かに真理亜の本音は、母を傷つけたのかもしれない。しかし真理亜は、自分自身の意見を自分の言葉で語ることのできない、母のような名ばかりの大人﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅には、どうしてもなりたくないのだ。
 それが本音であるというのに、それを言うなというのならば、本音を言ったことに対して謝らなければならないというのならば、真理亜の本音はどこへ持っていけばいいというのか…。
 そんなことを考えていると、真理亜は全身から力が抜けてゆく思いがした。
「もういいよ」
 真理亜は、ぼそりとそう呟くと、廊下へと向かって歩いた。
「よくないぞ真理亜! 待ちなさい!」
 背後から投げつけられた父の威圧的な言葉に苛立ちを覚えながらも、真理亜は止まることなく足を動かした。
「こんなの家族じゃないよ」
 そう言い残して廊下へ出ると、抑え込んでいた涙がポロポロと堰を切ったように流れ落ちた。
 バタンと大きな音を立ててドアを閉め、子供部屋に入ると、真理亜はその場にしゃがみ込み、一人声を噛み殺すようにして泣いた。
 やがて父と母が話している声が、ぼんやりと真理亜の耳にも届いた。耳を澄ませてみたが、話す内容までは聞き取ることができない。
 この時、真理亜は思った。
『このままここにいれば、やがて大我が戻って来る』
 今は大我とも顔を合わせたくなかった。しばらく一人になるには、それこそ家を出るしかない…。
 真理亜は音を立てぬように、ゆっくりとドアを開いた。
 どうやら三人はまだ、席について食事をしているらしい。
 足音を忍ばせて玄関まで行き、自分の靴に足を引っ掛けていると、背後で椅子を引き摺るような音が聞こえた。
 慌てて玄関の鍵を開けてドアを僅かに開くと、真理亜は後ろを振り返った。その時、廊下の先で顔を出した父と目が合った。
「真理亜!」
 背後からそんな父の叫ぶ声が聞こえたが、真理亜はもう振り返らなかった。
 勢いよく外へと飛び出すと、一目散にマンションの廊下を走った。エレベーターは運良くこの階に止まっていた。
 エレベーターに乗り込むと、サンダルで走る足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。真理亜は慌てて『閉』と書かれたボタンを何度も押し、同時に一階のボタンを押した。
 エレベーターは誰にも邪魔されることなく、ゆっくりとそのドアを閉じた。

 夜の道を、真理亜は全速力で走った。いつもは通らない路地を選び、どこへ向かうともなくとにかく走った。
『父に追いつかれることは、きっとない…』
 そう思いながらも、真理亜は立ち止まることなく、振り向きもせず、とにかく走り続けた。
 真理亜はいつしか二人の通う小学校の脇まで来ていた。暗闇の中で見る校舎と校庭はどこか不気味で、真理亜はその不気味さからさらに逃げるように、近くの路地へと入った。
 家からはだいぶ離れたせいか、胸の内に満たされていた怒りは徐々にうやむやになりつつあった。坂道の上り下りを繰り返したこともあって、さすがに息も切れてきていた。
 真理亜は、一戸建ての並ぶ閑静な住宅街の中で、ようやく走る速度を緩めた。
 そこは真理亜が一度も足を踏み入れたことのない道だった。学校の近くとはいえ、この辺りに住んでいる友達も一人もいない。
 真理亜は、そこに立ち並ぶ家々を漠然と眺めながら思った。
『この一軒一軒に、うちと同じような家族の物語があるのかな…』
 どの家にも、確かに明かりは灯っていた。車庫には車や自転車が停まり、花壇には花が植えられてある。しかし辺りはやけにしんと静まり返っていて、真理亜と両親の言い争いのような喧騒けんそうの物語は、どこの家にもありそうになかった。
 いつしか走るのをやめて歩き始めていた真理亜は、一つ一つの家の前を通り過ぎるたびに、自分がこの家の子として生まれていたらどういう人生になっていただろうか、と想像をめぐらせた。
『どうしてうちのパパとママは、あの人たちなんだろう』
 父親のいない乃莉果のことを思えば、真理亜に与えられた境遇は確かに幸せというべきものなのだろう。真理亜が好きなダンスをやらせてもらえていることもありがたいことではあるし、そのことにも感謝しなければならない、とは思う。
 しかし…。
 真理亜は一人の人間だ。すでに自分自身の意思を持ち、自分なりの意見を述べることができる人間である。聞き分けのないただの駄々っ子では決してない、と自分では思う。
『そりゃあ大人と全く同じってわけにはいかないのは分かるけど…』
 自分の人生くらい自分で選びたい。まだ子供だとしても、一人の人間として扱われ、意見を真面目に聞いて欲しい。
 真理亜の願いはただそれだけだった。
 なのに…。
『あーあ』
 真理亜の頭には、あの三人の顔が浮かんだ。
 父、母、大我…。
 あの三人と顔を合わせることを思うと、やはり家には帰りたくなかった。三人の先ほどの振る舞いを思い返し、見失いかけていた怒りが再度熱を帯びてくるのを感じた真理亜は、彼らの残像を振り払うかのように再び走り出した。
 真理亜は走りながら思った、結局はこんな夜でさえ、最後はあの家に帰らなければならないのだということを。どこか遠くへ行けるわけではないのだ。小学六年生の真理亜に一人で行けるところなど、他にどこにもない…。
 真理亜の目には、またしても涙が浮かんだ。目尻を流れゆく涙を手のひらで拭いながら、真理亜はもう一度全力で走った。
 そこに希望があろうとなかろうと、たとえ絶望しかなかろうと、真理亜にとっての家はあそこにしかない。真理亜にとっての父と母は、どうあがいてもあの人たちなのだ。いくら全速力で走っても、あの二人からは逃れられない。
『この関係からは、絶対に逃れられない。絶対に』
 悲しかった。
 心が通じない父と母。これ以上は限界だといくら叫んでも、真理亜の叫びは二人には届かない。それはもはや、意見を言うことの無駄さ、議論の無意味さを教え込もうとしているとしか思えなかった。この世界は自分の思うようになど決してならない、上から下りてきた指令や命令にはただ黙って従っていればいい、そういうことをあの人たちは教えようとしている、としか…。
『せめてタックン先生さえ近くにいてくれたなら…』
 そう思うと尚更に、虚しさが込み上げてくる。それすらもう取り戻すことは不可能なのだ。
『諦めるしかないのか』
 これからも自分は、親である彼らの顔色を伺い、ただただ従順に彼らの希望に沿うように生きなければならないというのか。自分の本当の気持ちは押し潰してでも、それに嘘をついてでも、彼らのいうことに黙って従い続けろというのか。
 そんな環境で生きることを、世間では恵まれているというのか。
 こんな境遇にあることを、ただ黙って感謝しろというのか…。

 見慣れぬ道をひたすら走り続け、いつしか丘の上の公園にまでたどり着いていた真理亜は、誰もいない広場の真ん中で足を止めると、声を押し殺しながら一人泣いた。
 ひとしきり泣き切ると、真理亜は公園の端にある見晴し台のベンチに座った。見晴し台からは、この街が一望できた。
 駅前のデパートの明かりが一番遠くに見えた。その明かりが手前に連なる団地群の、四角く均一な形を浮かび上がらせている。先ほど脇を走り抜けた小学校、坂の下の大きな公園、そしてもうすぐなくなるという噂だけは絶えない社宅の団地が立ち並ぶ一帯だけは、やけに暗かった。
 真理亜は、日野家のあるマンションを探した。見覚えのある近所の建物から、おそらくあの辺り、というところまでは分かったが、その姿までは確認することができなかった。
 真理亜は、ため息まじりに「ふぅ」と息を吐いた。
 この街で生まれ、この街で育った真理亜は、この街が好きでもあり、嫌いでもあった。故郷と呼ぶほどの愛着があるわけでもないが、住み慣れているという意味では居心地の良い街ではある。それはただ単に真理亜が、この街にしか住んだことがなく、この街しか知らない、というだけなのかもしれない。
 ともかく、逃げ出したくても逃れられない真理亜の居場所、それがこの街であり、あの家だった。
 ベンチから立ち上がり、手すりに身を寄せながら改めて街の様子を眺めていると、顔に少しばかりひんやりとした夜の風が当たった。
 空を見上げると、街明かりを受けてぼんやりと光る雲が、低く流れている。雲の切れ間から顔を覗かせる空は、そんな雲とは対照的に、やけに真っ黒な色をしていた。星も月も見当たらない、それはまるでブラックホールのような漆黒の空だった。
 その時ふと背後から幾人かの男たちの、はしゃぐような声が聞こえた。高校生か大学生くらいの、四、五人の集まりだろうか。自転車のブレーキ音を交えながら、その騒ぎ声は徐々にこちらに近付いて来ているようだった。
『行かなきゃ』
 真理亜はとっさにそう思った。
 そう思った直後、それまで何とも思わなかった夜の闇が、突然恐ろしいものに感じられて真理亜は身を震わせた。
 気付けば真理亜は、無意識のうちに家の方へと向かって走り出していた。
 家というイメージとともに思い出された三人の家族の顔も、真理亜のために食卓に並べられた母の手料理も、どうやらすでに怒りの対象ではなくなっていた。
 後ろから何かが迫って来るような漠然とした不安を感じながら、真理亜は転げ落ちそうなほどの急な坂道を一目散に駆け下りた。
 後ろを振り向くことなく、まっすぐ前だけを見つめて、真理亜はただひたすらに走り続けた。



〈了〉   

坂の上から見た街並み

2025年7月7日 発行 初版

著  者:吉田挽空
発  行:空相出版

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