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――白い結晶。“パンダ瓶の掟”



 山あいの集落に住む香月真は、勉強も運動もそつなくこなす静かな少年だ。
この地に越してきたのは、祖父(母方)の死をきっかけに、山奥の遺産が残ったからだった。

伸びやかな自然の中で、生まれたばかりの真を育てたい──それが両親の願いだった。
父は東京の設計会社を退職し、山へ移り住んで無農薬野菜づくりを始めた。
母は古民家を改装し、小さな食養カフェを開く。
父の野菜をふんだんに使い、化学調味料を一切使わないと近隣で評判の店だった。

放課後の真は畑でバッタを追い、夜は母の味噌汁の湯気に包まれて眠る。

真は夕立あとの土の匂いが好きだった。

 ひときわ暑かった夏の日――小学三年生の家庭訪問。
真と母は先生と学校の出来事を談笑していたが、ふいに母が声をかけた。

「まこと、ちょっと自分の部屋に戻って。先生に話があるから」
普段は優しい母が、なにやら真剣な顔をしていた。

しばらくして玄関に呼ばれると、先生は薄い白い冊子を手にしていた。
表紙には金色の細い活字で『ミウマの教え』。
山へ引っ越してきた頃から母が所属しているコミュニティで作った冊子だった。
困ったように笑う先生はそっと手を振って帰っていく。
振り返ると母も笑って手を振っていた。けれど、その目だけは笑っていなかった。
理由はわからない。あの母の目は、真の記憶から決して消えることがなかった。

夏休みが終わり、一つ不思議な変化があった。
給食は全員で配膳するはずが、真の分だけ担任が持ってくることになった。
真はその理由が《パンダ瓶の掟》にまつわることだと後に気付く。

――一年前の夏、縁側で起きた出来事。
祖父のまねをして、冷奴に白い粉を振りかけたそのとき
「なにしてんの!」母の手が飛んできた。
皿が畳の上で跳ね、冷奴がぐしゃりと潰れた情景が甦る。
「真、これは触ったらあかん。──約束やからね」

優しい笑顔で母がそう言った。

白い粉を振りかける真

 時は流れ、小学五年の秋。まだ少し暑さの残る頃だった。
家庭科の授業でカレーライスを作る調理実習があった。
真の班には、野嶋 音(おと)がいた。
音は、何か困っている人がいればすぐに気づく、明るくて少しお節介なところがある子だった。
忘れ物をした子を助けたり、具合の悪い子を保健室まで送ったりする、優しい女の子だった。

「じゃーんっ!」
音が無邪気に小さな瓶を取り出した。
瓶には、パンダの絵が描かれていて、すり減ったラベルの隙間からその顔がかろうじて見えた。
ひときわ強い夕陽がガラスに反射し、音の瞳が琥珀色にきらめく。
満面の笑みを浮かべる音の頬には、調理室の熱気でほんのり汗がにじんでいた。
その瞬間、真は胸の奥がきゅっと鳴った。
幼馴染の音が、初めて“異性”に見えた瞬間だった。

「これ入れるとおいしくなるんやって! とーちゃんが絶対入れろってさ!」
真の視界が瞬間、暗転した。けれどすぐにいつもの笑顔を貼りつけ、首を横に振った。
「でも俺、このまんまでいいや」真は、少しきまずそうな笑顔を浮かべながら言った。
「なんで!?」と音は不思議そうにしたが、それ以上は何も言わなかった。

その日以来、真は音と少し距離を置くようになった。
話せばいつもどおり優しく接するけれど、以前と違い、どこかぎこちなくなっていた。
──音はその理由を、ずっと知らないままだった。
真は、その日の音のことを思い返す時、パンダの落書きを描くようになっていた。

二人にできた距離

 その約一年後、母は乳がんと診断された。

検査の結果はステージⅢ。すぐに入院と手術が必要と言われたけど
──母は、そのまま病院に背を向けた。
彼女は「自分の父(=祖父)が混ぜ物(彼女の入信している宗教で意味する化学調味料)を摂って病気を悪化させていった」と信じていた。
同じ遺伝子を持つ自分が病気になったのも“白い粉(化学物質=不浄化物)”が原因だと思い込んだ。

「真は絶対入れたらあかんよ!」母が涙ながらに強い声で言ったその言葉が、
真の心に深いトラウマを刻んだ。

それから自身の入信する宗教で推奨している民間療法を試し続けた。

しかし、病状がよくなることは無かった。



 大学に入学した春は、母の三回忌と重なり、慌ただしかった。
音との再会は、大学の入学式だった。
学部ガイダンスの最中、真は前の席に座る見覚えのある後ろ姿に気づいた。

「……音?」

振り返った音は、一瞬驚いたあと、ぱっと笑った。
「え、ウソやろ!?真!?」

それから少しずつ、ふたりはまた言葉を交わすようになった。
最初は当たり障りない会話ばかりだったが、いつしか以前のような自然な関係が戻ってきた。
その夏、真と音は同じ語学クラスのプレゼン課題でペアを組んだ。
ふたりは図書館で資料を集め、夜遅くまでレポートを仕上げた。
——そんな小さな時間が積み重なり、真にとって“幸福”が日常に染み込んでいった。

 ある日、課題に疲れた真へ、音は小さなおにぎりを差し出し、
「はい、持ってきたおにぎり、ひとつあげる!」と微笑んだ。
一口かじった途端、真の表情がこわばった。亡き母の面影が、ふっと重なった。
音は「塩をかけただけやねんけどどうかした?」と心配そうに声をかけた。
その一言でふと我に返った真は、「美味すぎて腰抜けそうになったわ!」とおどけた。
「びっくりさせんといてよ」と、安心したように音が笑った。
真はそのとき、自分の心がゆっくりと溶けていくのを感じた。
秋、ふたりは静かに付き合い始めた。

 仏壇の前
「母さん、小学生の頃、よく遊んでいた音と付き合う事になったよ」
生前の母さながらのしぐさで真は一礼し、掌を合わせた。

「白き光よ、導きたまえ──」
...

 冬の気配が漂いはじめた朝。音はキッチンで味噌汁を作っていた。
「やっぱり、これ入れた方が美味しいんかな……」
例の瓶を手にして、小学生の頃のカレー実習のことをふと思い出した。
躊躇いが指先をよぎったが、真の笑顔を思い浮かべ、音はほんの一さじ振り入れた。
——そんな経緯を知らぬまま、真は眠っていた。

真は音の部屋で、朝の冷気を肌に感じながら、湯気立つ味噌汁の香りに包まれていた。
“白き光”に抱かれているかのような夢を見た──。真は人生でいちばん幸せな朝を迎えた。

"白き光"に包まれる夢

「お味噌汁、できたよ」 音は少し照れたように、水色の椀を差し出した。
「昨日、『好きな料理、味噌汁』って言ってたやん? うちの実家の味に似せてみて作ったし、食べてみて!」

真は笑って椀を受け取り、そっとひと口、口に含んだ。
ふわりと広がる、なめらかなうま味。
それは、永遠に超えてはいけなかった境界線の味だった。

真は、一瞬だけ椀を音に返そうとした。

けれど、静かに微笑む音の姿を見て、
もう、このまま死んでもいい──ふと、そんな思いが胸に浮かんだ。

それほどに、今のこの穏やかな朝は、真にとって完璧だった。
真は音に優しく微笑み、あの掟を破るようにもう一度椀を引き寄せた。

一口、湯気が鼻先をくすぐった瞬間、脳裏にあの日の母の泣き顔が閃光のようによみがえった。

その表情が一拍ごとに反転しながら点滅する。
真は椀を持つ両手に力を込め、浮かんだ映像を押しつぶすように唇を結んだ。

“じゃーんっ!”──幼い音の声が脳裏で炸裂した。

音の笑顔の残像が胸に弾けた瞬間、気づけば、味噌汁は一滴残らず飲み干されていた。

その瞬間、胸の奥にふっと何かが灯った気がした。
ずっと乾いていた心の奥が、味噌汁の優しい味でようやく満たされたような気がした。
「音…ありがとう。めっちゃ美味しかったわ」

そう言って、音の頭をそっと撫でて抱きしめた。
ふと顔を上げると家庭訪問の時に見た真剣な目をした母がこちらを見ている幻が見えた。
〈真、あれほどあかんって言うたのに、あんた食べたんやな……〉
まだ若かった母の幻が泣きながら呟いた。
 
音は真の硬い顔を見上げ、「味噌汁で感動しすぎやろ」と笑っていた。




真が見た幻

 夕闇が落ち、無言で外へ出た真は、足の向くまま川べりへ歩いていた。
凍えるような風の中、スマホのメモアプリに、静かに文字を打ち込んでいた。

「これは俺が悩んだ末に出した答え。君は、何も悪くない。」

あの掟は母との最後の約束だった。それを破った自分は、もう元には戻れない気がした。
一方で、掟を破ったことで音の笑顔や味噌汁の優しい味が、ずっと奥に押し込めていた真の願望を照らし出してしまった。
幸福と罪悪感が絡み合い、真の中で激しく衝突した。
逃げ場を失った真は、鉄の冷えた感触を噛みしめるように欄干をまたいだ。

送信先は設定されていないまま、青いカーソルだけが瞬いていた。

「パンダの白い粉って、こんな優しい味やったんやな。」

――ごめんな、音

 その知らせを聞いた瞬間、音は電話を持ったまま崩れ落ちた。
「……なんで、なんでなん……なんで……っ!」 声を押し殺すように何度もそう呟いた。
思い出が、次々と胸の奥に流れ込んできて、涙が止まらなかった。
真の笑顔、静かな声、手をつないだ帰り道
──そして、あの朝の味噌汁の湯気までもが、目の前に鮮明に蘇った。

あの一振りを思い出して、音の胸には止めようのない自責の念があった。
ほんの一瞬ためらった一振りの指先の感覚を、音は何度も繰り返し思い返した。

 真の遺品を整理しているとき、小学校の卒業アルバムに小さな付箋が挟まっていた。
その裏には子どもの落書きで描かれた小さなパンダの顔があった。
そこには、こんな文字が小さく書かれていた。

「音のこと、本当は好きだった」


パンダ瓶の掟

2025年8月2日 発行 初版

著  者:shake
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