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国境の島・対馬

清水正弘

深呼吸出版



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目 次

朝鮮様式山城・金田城
朝鮮通信使・資料館
対馬博物館

宗氏の墓地
和多津美神社
元寇来襲地

石屋根倉庫群
八幡宮
お船江跡

烏帽子展望台
白嶽登山


朝鮮様式山城・金田城

築城は七世紀にまで遡る。当時の国際的状況は、大陸では唐の時代。そして半島では、新羅が勢力を拡大している時代である。

その唐と新羅の連合軍と、百済・倭国の連合軍が白村江(はくすきのえ)で交戦する。その戦さに敗戦した百済・倭国軍は、玄界灘を越えて敗走するのである。

その後、勝者である唐・新羅連合軍の倭国への追撃を恐れ、北部九州から瀬戸内海沿岸部に防御ラインが敷設される。

それが、『朝鮮様式山城』や『神籠石山城』などと呼ばれる古代山城である。これらの山城に、倭国の東国(あずまこく)から防人(さきもり)が派兵されるのである。

当時から国境最前線であった対馬にも、この古代山城が築城された。それが金田城である。七世紀に築城された『石塁』と呼ばれる石積み城壁は、海岸部から急斜面を山頂部にかけて縦横に配列されている。

七世紀には、大型機械などはなく、すべて人力による作業である。まずはその膨大な労役量に驚いてしまう。

さらに築城以降、対馬では大きな地震が発生しておらず、人力による石積み配列が残存している事に感謝である。

もう一つ感謝?なのは、山頂までの登山道が近代に整備された馬車道であるこどだ。日露戦争直前の明治三四年。ロシア海軍の脅威に備え、この山の山頂部一帯に砲台が築かれたのである。

砲台建設の為に、山腹から山頂部にかけて、荷を運ぶ馬車道が設置されたのだ。それが現在でも活用されている。

馬車道であったので、緩やかな登り勾配となっており、初心者でも無理なく(往復3時間)山頂からのパノラマも満喫できる。

即ち、この金田城のある城山一帯は、古代から近代に至るまで、国境防御の最前線であったのだ。


朝鮮通信使・資料館

朝鮮通信使とは、朝鮮国王から派遣された外交使節のことである。慶長十二年(一六〇七)の第一回から文化八年(一八一一)まで全十二回ほど日本を訪れている。

「通信」とは「信を通わせる」という意味である。朝鮮王朝では「日本通信使」と呼んでいたが、第三回までの使節は「回答兼刷還使」と呼ばれていた。

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日本に強制連行された人たちを引き取る目的と、日本からの国書に回答する目的があったといわれている。  

室町時代から秀吉の時代までにも何度か朝鮮通信使は訪れているが、文禄・慶長の役で両国の関係は悪化してしまった。

慶長十二年の使節団は、誕生したばかりの徳川政権にとって両国間の関係を修復する大切な第一歩であった。

四回目以降は、お互いに友好関係にある国と認められて通信使と呼ばれるようになり、将軍の就任など日本側の慶事に合わせて訪れている。  

通信使一行は国王の親書を携えた正使・副使・従事官の三使をはじめ、学者など一流の文化人や芸人たち総勢三百人から五百人もの大使節団であった。

この大部隊が半年から一年をかけて日本と朝鮮半島を往復したのである。江戸幕府は歓迎のために百万両(現在の約一千億円)もの莫大な費用をかけ、庶民も準備や手伝いのために動員されたのである。

日本側の警護や荷物運びの人足を加えると三、四千人もの行列が移動したため、多くの絵画や各地域の祭りに通信使行列の姿が遺されてもいる。
 
特に対馬藩にての江戸時代には、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)という国際人によって、対見事な平和外交を推進したのである。



対馬博物館


韓国との間で問題となった、対馬仏像盗難事件を受けて対馬市内に点在している文化財を一括して管理・保護することを目的ともしている公共施設である。

また、対馬島の八九%を占める山林、浅茅湾をはじめとするリアス式海岸、白嶽・龍良山の原生林、ツシマヤマネコなどの希少種などの自然種も数多く展示れている。

特に歴史分野においては、朝鮮との交流の歴史、金田城、防人、宗家、元寇、朝鮮通信使、国防の歴史などに関する研究では最前線的役割を担っている。約七万二千点にのぼる宗家文書の研究・管理・保護も推進されている。

さらに対馬固有の文化である赤米神事(厳原町豆酘)、オヒデリ祭(厳原町阿連)、ヤクマ、亥の子、命婦の舞、盆踊りなどの民俗行事に関する資料関係も豊富である。



宗家の墓地


対馬藩を長年統治した宗家の菩提寺は、清水山南麓にある天台宗万松院(ばんしょういん)である。対馬藩藩主・宗家歴代の墓地を含む広大な墓所である。

墓地は、桃山様山門のわきから、百雁木とよばれる百三十二段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギが歴代の十四人の藩主とその正室らの墓所を見守っている。

宗氏(そうし)は、武家・華族だった日本の氏族であり、鎌倉時代から明治初期まで対馬島を支配し続けた豪族大名である。この宗一族無くして、中世から近代に至る日本の外交交渉は語れない。

地政学的にも、日本国のフロントラインであった。半島から伝来するヒトやモノは、必ずこの対馬に最初に立ち寄る。その後壱岐島を経由し、太宰府など九州北部沿岸に辿り着いたのである。

さらに半島や大陸、そしてモンゴル、ロシアからの軍事的脅威も、一番最初に対面することにもなった。

逆に、古代や近世における倭国(日本)から、半島や大陸への渡来や遠征(神功皇后や秀吉)の最前線的拠点ともなったのだ。

近世以降は、宗一族が卓越した国際的バランス感覚にて、それらの諸問題の解決策を産み出すので
ある。中世から明治初期に至るまで、藩主が交代することなく一族継承した事例は希少である。

その宗一族の墓地は、日本三大墓地の一つ。他の二つは、石川県金沢市の前田家墓所、山口県萩市の毛利家墓所である。



三柱鳥居・和多津美神社


日本では珍しい『三柱鳥居』。この三柱鳥居の背景を探るリサーチを京都にても実施した。通称「蚕ノ社(かいこのやしろ)」として親しまれている、「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」である。

創建は明確ではないが、京都右京区太秦の地を護ってきた社である。大陸・半島からの渡来人であり、養蚕の技術に優れた秦氏が建立したといわれている。

即ち、三柱型の鳥居は、渡来系氏族・秦氏と深い因縁を持つと言われている。であるなら、半島からの中継地・対馬にある三柱鳥居にも、秦氏所縁の歴史が漂ってくるのである。

この秦氏に関しては、過去にも日本各地にてフィールドワークを実践してきた。そのリポートをネット上にて公開している。ご関心のある方は、次のアドレスから無料閲覧可能である。

https://bccks.jp/viewer/176521/

因みに、過去の毎日新聞に古代における渡来人について、下記のような記事が掲載されている。
「古代、朝鮮半島諸国や中国などから渡来し、日本列島に定住した人々とその後裔(こうえい)」。

広辞苑は「渡来人」をこう定義する。「農業をはじめとした先進の技術、様々な文化をもたらし、政治・文化の進展に大きく寄与した」とある。

少数のエリート集団というイメージだが、古墳時代の人骨や現代日本人のDNA解析に基づく最新の成果は従来の「渡来人」像を大きく変えているらしい。

五~七世紀、史書に名が残る豪族以外にも多くの無名の人々が海を渡り、定住したという。全体では百三十万~百四十万人に達し、古墳時代末期は人口の約二五%を占めたという推計もある。それなら日本人の祖先そのものである。



元寇(モンゴル軍)襲来と合戦場跡



鎌倉時代、時の鎌倉幕府は海の向こうから二度にわたる侵攻を受けている。一二七四年の文永の役と一二八一年の弘安の役と呼ばれる、日本史上最大級の危機といわれる元寇(蒙古襲来)である。

当時の元(モンゴル帝国)は、その領土が地球の陸地の約一七%、世界人口比率では約二六%に達していた。

元寇の侵攻への撃退は、博多湾界隈での神風(台風)神話が有名であるが、対馬・壱岐では悲劇を生んでいる。

対馬においては、島の西岸にある小茂田浜に元寇古戦場として石碑や小茂田浜神社が設けられている。ただ、当時の実際の戦いの場は、現在の浜からもっと奥の金田小学校付近か、下原あたりと言われている。

元寇襲来直後の日本側の記録では、(小茂田浜)ではなく(佐須浦)となっている。鎌倉時代にあった佐須浦は、江戸時代の干拓で埋め立てられてしまったのである。

隣接して鎮座している小茂田浜神社では、毎年秋に小茂田浜大祭という神事が取り行われる。

その祭事では、鎧武者に扮した「武者行列」が浜まで歩き、御旅所で神事と弓射りを行われるという。また、境内には日清戦争当時の戦利品である砲弾が幾つか配列されている。

いずれの時代も、この島が国境最前線であったことを物語っているのである。



石屋根倉庫の集落
 椎根(しいね)


対馬の南西岸にある集落・椎根(しいね)には、この島独特の石屋根倉庫群が保存されている。石屋根倉庫はこの地方独特のもので、米・麦及び雑穀・衣類什物(じゅうもつ)と、それぞれ格納する部分が内部で区画されている。

床は高床式となっており、物品の貯蔵に適している。長方形断面の主柱を平に立てるのもこの地方の特徴の一つ。

屋根材が特徴のある大型厚石板で、対馬島内産の頁岩(けつがん)といわれる特異な石が素材となっている。

石屋根とした理由としては、農民に瓦葺が認められなかったこと。そして食糧や貴重品を火災から護り、強風による倒壊を防止するなどが考えられている。



神功皇后と
 武内宿禰の腰掛石


対馬の南端に、豆酘(つつ)浦と湾があり、そこに神功皇后に纏わる伝説の巨石がある。三韓征伐の帰路、対馬海峡をなんとか越えた神功皇后の船団は、対馬の豆酘浦(つつうら)に上陸する。

そして、写真の二つの巨石に、神功皇后と武内宿禰が腰かけたという伝説が残されている。その折、神功皇后は「都にて 山の端に見し月影も 波より出でて 波に入りぬる」と詠んだそうである。

当時、神功皇后は妊娠中であり、その腹の中には後の応神天皇を孕んでいたのである。当地では、この二つの石の間を通ると、腹痛を訴える人が多いことから「腹せきの石」と呼ばれている。

また、この豆酘(つつ)呼ばれる漁村には、民俗学者の宮本常一氏も昭和二五年に訪れている。そしてこの漁村にて、宮本氏出身地である山口県周防大島から移住してきた一人の老人(梶田富五郎翁)と出会うのである。

その際の聞き取り調査は、宮本氏の代表作である『忘れられた日本人』にも収録されている。



対馬一之宮・八幡宮



厳原の中心部に位置し、古くから対馬藩主をはじめ島民の崇敬を集めてきた古社である。

神功皇后が三韓征伐の帰りに清水山で祭祀をおこない、異国の侵入からこの地を守るよう祈りを捧げたと伝えられている。

正式な社名は「八幡宮神社」だが、単に「厳原八幡宮」とも称された時期もある。さらに室町時代後期からは「府内八幡宮」、「府中八幡宮」とも呼ばれていたそうだ。

また、昭和三〇年代には、広大な境内はサーカス団などの興行場所としても活用されていたとも聞いた。

境内の隅の方では象が繋がれ、檻にはライオンが入っていたという。この広い境内は子供たちの遊び場であもあったのだろう。

主祭神は、応神天皇を筆頭に、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰となっている。



対馬藩お船江跡


長崎県の指定史跡に認定された由緒ある場所である。寛文三年(一六六三)に造られた築堤の石積みは、全国的にみても貴重なものである。

対馬の中心地・厳原(いずはら)の南にある、久田浦に注ぐ久田川の河口に位置している。そこには人工の入江が構築され、内部に四つの突堤と五つの船渠が設けられている。

これを「お船江」あるいは「お船屋」と称し、対馬藩の藩船の発着場であったのだ。満潮時には木造の大船が出入できる程の広さと深さがあり、干潮時には干上がるように出来ている。

築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っており、往時の壮大な規模を窺うことが出来る。

江戸時代には、海に面した各藩において藩船を格納するお船屋を設けていたが、原形を保存している所はここぐらいだろう。






烏帽子岳展望台




九州百名山 
 対馬の霊峰・白嶽



白嶽(しらたけ)は古来より霊山として崇められた対馬のシンボル的存在である。大陸系植物と日本系植物が混生する独自の生態系をもつ原生林として、国の天然記念物に指定されている。

春・秋には大陸系植物が開花し、山頂からは三六〇度の眺望が広がり圧巻である。山頂近くは急傾斜でロープにつかまりながら岩場を登るためスリル満点。

登りきると浅茅湾や白嶽山系の山々、天候が良いときは韓国の山並みをも望むことができまる。山頂は狭く十程度しか滞在できない。

見晴らしのよい高台「岩のテラス」では、山頂とはまた違った景観が楽しめ、鶴の渡りの時期には、この真上を鶴の編隊が鳴きながら渡っていくそうである。標高五一九メートル。

国境の島・対馬

2025年8月13日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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