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『牛頭天王(ごずてんのう)の朝鮮半島由来説』※古文書からの紐解き
やはり、国会図書デジタルというのはありがたい。出身地である姫路に帰省した際に再訪した広嶺神社。この広嶺神社と牛頭天王、そして、インド・中国・韓国などの渡来系との関係性を調べたことがある。
国会図書デジタルを渉猟していたら、広峰神社の神職が、神社の歴史や由緒を記した文献を残されていた。記されたのは大正七年。広嶺神社の広嶺忠胤という方の著になる。この文献によると、牛頭天王は朝鮮由来(列記されている古文書の一部には、天竺由来の説もあり)とされている。
素戔嗚(スサノオ)の尊が、その息子・五十猛命(イソタケル)とともに、新羅国へと渡ることが記紀神話にもある。その新羅の国で、彼らが居住していた場所が、ソシモリという地名の場所である。そして、半島の言葉で『ソシモリ』とは『牛の頭』を意味しているという。豊臣秀吉の朝鮮派兵(文禄の役)の際の記録に牛頭山が記されている。豊後・大分の将・毛利高政が半島遠征の際、この牛頭山の麓を平定したとの報告がなされているのである。
また姫路市の広嶺神社の由緒では、遣唐使として入唐し、卜占や天文学を学んだ吉備真備が帰朝時に、この広嶺(旧・白幣山)山に立ち寄ったところ、素戔嗚(スサノオ)の尊からの神託(メッセージ)を受け取る。そのメッセージに関する表記とは、
『吉備真備は播磨難航行の際、広峯山より放つ奇しき光を見、山中深くわけ登り「われはこれ素盞鳴尊なり」と唱う老翁に遭い「諸民の守護、五穀の豊饒をおこなうため出雲より移り住んだが、年久しくして知るものも少なくなった。汝は都へ帰り、この状を奏上せよ」との神託を蒙った。』というものである。
それを、帰朝後に聖武天皇へ報告すると、天皇がこの地に神社を建立することを吉備真備に命じたのが始原だという。この始原時には、なんとこの神社名は『新羅国神社』であったという。ここにも、新羅→出雲→播州というルート軸も垣間見える。
この『新羅国神社』命名の背景には、神功皇后の三韓征伐時に、神功皇后が往路も復路もこの山に立ち寄り、勝利の祈願、報告をしたという言い伝えもある。その際に、神功皇后は新羅国に滞在(治世の為?)した、スサノオノミコトに願掛けをしたとされている。
確かに、現在においても、広嶺神社のある広嶺山の麓には、『白國(しらくに)神社』なるものがある。この白國神社も、新羅国神社と密接な関係があると、この文書に記されている。自分自身の出自ルーツを遡ると、どうしても半島や大陸からの渡来系氏族の影がチラつくのである。
そのゆらめく影の背後にはどのような古代史が隠されているのか、わが足にてリサーチの上、わが目にて確認していく作業が必要と考えたのは、熟年といわれる年代に入ってからのことである。
※牛頭天王に関して作成したネット本は、下記から無料閲覧できる。https://bccks.jp/viewer/176327/
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(下記は、前述の牛頭天王に関するネット本からの抜粋である)
春川説
故金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化四』の「伊太祁曽から隅田八幡へ」の中で、曽尸茂梨(ソシモリ)とは朝鮮の江原道春川にある、元新羅の牛頭山の事である。と一つの説を紹介する。また八坂神社の真弓宮司は『新撰姓氏録』八坂造の項に「狛国人の之留川麻乃意利佐(シルツマノオリサ)」とあり、春川には古くから狛国があったことを指摘されておられる。
斉明天皇二年に来日した狛人八十一人は春川の狛人ではないかとの仮説を出されている。三韓覇権争いの地であり、その頃の高句麗の南下で、狛人の亡命が想定され、それに該当するとの見方である。「ソシモリ」が古朝鮮語のよみで牛頭であったならば、牛頭山に比定されるのは不自然ではない。
牛頭天王と素盞嗚尊が記紀編纂の頃には習合しつつあったとすると有力な説と言えよう。また、八坂造の出自が春川の狛国との仮説も、「ソシモリ」春川説が成りたてば、八坂神社創建の由緒にも関わる重要な仮説となる。
春川の牛頭山
日韓併合の後の「内鮮一体」の政策により、朝鮮式社殿の江原神社が創建され、またスサノヲを祀った牛頭神宮が計画されたという。江原神社の当時の角南宮司は、形の上からは半島人に親しまれるように、建物、神門透塀には朝鮮色を多く盛り、斎館社務所等の概観をすっかり朝鮮建築としたと言う。 僅かに内部の装飾に和風を施したそうである。しかし現在では全く残っていない。
現地には、素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う伝承があるとのこと。五十人の兵士とは五十猛命のことであろうか。大元教の出口和仁三郎氏が盛んにこの地を訪れたとのことである。また韓国内の占い師アソの霊力を高めるために訪れる聖山だそうだ。韓半島のヘソだそうだ。素盞嗚尊が舟をつくるのに良いとされる楠木を探したが、楠の木と槇は一本も見つからなかった。
春川牛頭山に比定される古墳(下記は中国人の関連ウェブからの抜粋)
韓中日観光客が春川ソヘリ(牛頭山のこと)山に集まった理由があるといわれている。牛頭山の所在地である春川は、名前に「春」が入っており、新年の春の会場として提唱されている。このように特定の時点で安堵型地名を訪ねる旅行は、私たちの先祖たちが楽しんでいた慣習でもある。
朝鮮の古代においては、先代の遺跡地とか不思議なオーラが立ち寄っている道地などを探して見回したり、外敵から神聖な土地を守る行為を「搜討」と表現した。吉祥の元気を受けて新年原動力にしてみる現代版風水土紀行を春川牛頭山から始めるらしい。
ソヘリ山(牛頭山)は春川市北龍山の茎が伸びて広々とした野原(平野)で立ち止まった山である。入り口から歩いても十分ならすぐに山頂へ到着することができる国際的にも名声を得ている山だ。朝陽樓などの伝説も朝鮮時代にさかのぼる。
牛頭山の頂上にある古墳墓は、韓中日観光客が良いオーラを体験するためにお気に入りの名所で、古墳墓の隣に建てられた朝鮮時代の楼閣朝陽楼(墓の裏)で鑑賞することができる。清の皇帝の祖先の墓ではないかとも噂されたこともある。
「イムハ筆記」(一八七一年)にはこう記録されている。
「牛頭山に昔の墓の一つがあるが、住民たちが清祖の墓と呼ぶ」とし、住民たちは、「墓を掘り下げたら、正黄旗だけが出てきたので、恐れながら封墳を作り直そうとしたが、一晩の間に封墳が自然に湧き出てきた」と語っている。
朝鮮時代まで中国皇帝の祖先墓地として知られていたここは、日帝が朝鮮半島を侵奪した後は、日本祖像神の墓と比定された。日本歴史書である「日本書記」には、素戔嗚尊が新羅(朝鮮半島)の蒼森(ソシモリ)に降臨したと記録されている。
『日本書紀』の第八段(宝剣出現)の一書・第四および第五の項には、素戔嗚尊(スサノオのミコト)がその子・五十猛(イソタケル)神を率いて新羅国に降臨し、そこから舟を作って出雲に渡ったとある。
また、五十猛神が降臨時に多くの木種を招来したが、韓半島の土地には植えずに、日本の筑紫(福岡県)より始めて列島内に木種を播いたと記されている。さらに、素戔嗚尊の関係の地として、ソシモリやクマナリという文言がこの記載項目に見えている。
ソシモリが(牛頭)の意であり、クマナリが(熊川・熊津)を意味するものであれば、朝鮮半島内にはいくつか、これに該当しそうな地名があるのである。日本でも、牛頭に通じる牛頸・牛頸山が筑前国御笠郡(現福岡県大野城市南部)にあり、同地には伽耶に源流をもつ須恵器の窯跡群(日本の三大窯跡群の一)がある。
五十猛神については、記紀に見えるのはこの箇所だけであるが、『播磨国風土記』の餝磨郡因達里条には、息長帯比売命(神功皇后)が三韓(韓国の高句麗・新羅・百済)を平定しようとして渡海する際、先導神として御船前におかれた伊太代の神がこの地(姫路市街地の北部)に鎮座すると記されている。
これが、餝磨郡式内の射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)と推定されているが、イタテ神が神功皇后の先祖とされる天日矛(アメノヒボコ)にも通じるとしたら、祖神の加護を受けてその祖国の半島の地へ進攻したことになる。天日矛(アメノヒボコ)は、明らかに韓半島から日本海を経由して敦賀あたりに渡来した神である。
神功皇后の出自は、この天日矛(アメノヒボコ)をルーツとする一族であると伝えられている。五十猛神は、わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてはかなり多く、十五社を数える。
とくに、出雲には最多で六社あり、意宇郡・出雲郡にそれぞれ三社あるが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する(これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか)。
そして、出雲国内の六社が全て、韓国伊太神と記されて、式内社では類例の少ない「韓国(辛国)」が冠として付けられていることにも留意される。他の式内社では、「韓国」が冠される薩摩国曽於郡(国分市上井)鎮座の韓国宇豆峯神社も、五十猛神(又の名を韓神曽保里神)を祀るとされる。
これらの事情も、この神の韓国からの渡来を示唆するのではなかろうか(千家俊信『出雲式社考』にほぼ同旨)。出雲の西隣、石見国では現・大田市五十猛町に近隣して韓神新羅神社・五十猛神社の両社が鎮座することも留意される。
真弓常忠氏は、「帰化系の韓鍛冶によって奉祀せられた神」とみている(『古代の鉄と神々』)。東国でも上野国多胡郡韓級郷の辛科神社(現・多野郡吉井町神保)は、速須佐之男命・五十猛命を主神とするなど、「韓・辛」を名づける神社にはこの両神を祀るものが多い。
また、素盞嗚神という神は、海神族たる大己貴神(大国主神)の父祖としても伝えるが(記紀ともに見えるが、『古事記』のほうに多く伝える)、その一方、熊野大神として、天孫族系統の物部連や鳥取部によって祖神奉斎された。
これら氏族の祖たる天津彦根命(天若日子)やその兄弟は、素盞嗚神と天照大神との天安河原の誓約の際に息吹きのなかから誕生したと伝えられる。こうした両様の素盞嗚神は、その行動や性格からみて、明らかに別神(同名異神)であった。
次に、民族移動の足跡を残すものとして、朝鮮半島・大陸と日本列島で共通に見られるとしたら、それは何であろうか。既に江上氏が『騎馬民族国家』で多数あげた祭祀・婚姻・習俗・伝承などの諸点がある。
このほかに、それらより強い説明力として使えそうなものがないかと考え直してみると、次ぎの諸点があげられよう。とくに、人の生死に係る伝承(祖先一族の伝承や系譜も含む)や儀式・信仰・遺物は、たいへん重要な点といえるもので、これらは文化・技術の単なる伝播では生じえないと考えられる。
それが、天の子あるいは天孫という血統思想や、鳥トーテム・鉄鍛冶技術、石神・巨石への信仰に様々に関連することに留意される。喜田貞吉も、日神を祖先と仰いで卵生伝承をもつと共に、神社の鳥居が満州・蒙古の方面に類似の俗が見られることや言語組織の類似を重視している。
「天孫思想」は、匈奴の「単于」(天の子の大いなる者)ばかりでなく、夫余・高句麗・鮮卑などや古代朝鮮半島の諸王家に広く分布しており、わが国の「天皇」の呼称や『隋書』倭国伝に見える「日出処天子」という表現も、これと深い関係があろう。
鳥と鍛冶とは関係が深いことは、アジア・アフリカなどの神話伝承に広く見られており、鉄鍛冶屋とシャーマン(祭司)・鳥とは、北アジア等で親縁性がみられるという田村克己氏の指摘もある。日本でも、鳥と鍛冶に関連する神話・伝承の例が多い。
金屋子神が白鷺に乗ってきたという『鉄山秘書』(一七八四年成立)に見える伝承ばかりでなく、八幡神も鍛冶屋と縁が深く、この神自身、鍛冶の翁として現れ、金色の鷹や鳩となること、こうした信仰が対馬の天童伝説を経て、朝鮮新羅王第四代の昔脱解(もと鍛冶屋という)につながる可能性も指摘されている。
日本の鍛冶神・天津麻羅(金屋子神)とは、天孫族の一員で天目一箇命という名をもち、わが国最大の鍛冶部族額田部氏族(三上氏族)の祖であり、その同族の流れからは、応神天皇を出した息長氏族や鏡作・玉作の諸氏族、宇佐国造など、多くの氏族が出た。
旧石器時代に始まり、大韓帝国までの歴史展示がされている。さらに、仏教絵画や木漆工芸、青磁をはじめ各種陶芸などなども時代ごとに展示されている。
国やエリア別として、インド・中国・日本・中央アジア・ギリシャ、ローマなどなど。いくら時間があっても見飽きない。
その中でも、明治時代の西本願寺探検隊を率いた、大谷光瑞師のコレクションは中央アジアコーナーに展示されている。
この大谷光瑞コレクションと、古代高句麗王の一九代王である広開土王(好太王)の業績を讃える石碑・広開土王碑(こうかいどおうひ)の巨大なイメージ展示には時間をかけて見学してきた。
その各コーナー毎の写真を列記していく。
好太王碑(こうたいおうひ)とも称せられる。高句麗の第十九代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑。広開土王碑(こうかいどおうひ、朝鮮語: 광개토왕비)とも呼ばれる。付近には陵墓とみられる将軍塚や太王陵もあり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)という。世界遺産「高句麗前期の都城と古墳」の構成資産に含まれる。
韓国国立中央博物館を再訪した際、半跏思惟像の前で暫く佇んでいた。日本への仏教の公式伝来は五三八年。半島・百済の聖明王からヤマト政権の欽明天皇への贈与である。その際も、半跏思惟像が含まれていたと言われている。
仏教伝来の史実を伝える『元興寺縁起』によると、百済の使者がもってきたのは、「太子像」と「説仏起書巻」であったと記されている。この「太子像」が、半跏思惟像であるという。半跏思惟像とは、出家入山前の釈迦像である。
若き日の釈迦牟尼は、生・老・病・死の人間の問題に躓き、ついに王位や妻子を棄てて出家する。そこに至るまでの内面的な煩悶苦悩の姿を現しているのが、半跏思惟像なのである。この写真のような半跏思惟像が、百済より対馬、壱岐、さらに瀬戸内海を越えて、大和川を川舟にて遡行して運ばれたのが、日本への仏教伝来の第一歩なのである。
百済の方では異国的な顔形をした如来像〜つまり釈迦像よりは、在家者姿のシッダーダ王子(太子)像の方が、初めて仏像をみる日本人に親しみやすいと判断したのだろうか。いずれにせよ、この半跏思惟像からは、古代の仏教伝播の歴史と遥かなる道のりへの追慕の念が湧き上がってくるのである。
ソウルから高速鉄道にて約一時間。冬ソナのロケ地で有名な春川市も、リサーチ日の気温は三十五℃であった。そんな中、汗だくになりながら、春川市郊外にある『ソシモリ=牛頭山』へ登ってきた。登ったと言っても、標高は百メートル台。道はアスファルトの舗装道。では、なぜこんな低い山を歩いたのか、、。
このソシモリ=牛頭山は、日本神話の主人公の一人・素戔嗚尊(スサノオノミコト)降臨伝説地なのである。半島にいくつかある同じ伝説地のなかでも主要な位置を占めている。それは、朝鮮併合時代にこの山麓に、素戔嗚尊を祭る神社(江原神社)が建てられていたのである。
確かに春川エリアは、古代部族国家である貊国(ばくこく)の首都となり、後日新羅に征服されている。六三七年(善徳女王六年)には、牛首州と命名し君主も置かれている。貊(ばく)とは、古代中国東北部から朝鮮半島北東部にかけて居住したツングース系の民族である。
一説には、スサノオノミコトはこのツングース系・貊(ばく)の血族ではないかとも言われている。記紀神話に登場するスサノオノミコトの振る舞いは、農耕民族ではなく、明らかに遊牧系とみてとれる。ま、いずれにせよスサノオノミコトは新羅国への降臨を経たのち、出雲の国へと渡ってくるのである。
明治時代の仏教学者・高楠順次郎氏の法道仙人研究論文を読んだ後、インドの祇園精舎の守護神・牛頭天王についてのフィールドワークを重ねてきた。その前から、スサノオノミコトについても出雲界隈で各地を巡ってきた。本地垂迹説により、牛頭天王とスサノオノミコトは合体している。
その一つの根源地である春川エリアのソシモリ=牛頭山は、長年の垂涎地であっただけに、猛暑も気にならなかったのである。
※ 日帝時代の江原神社の痕跡が、山麓にある施設(現在は福祉施設?)に残されているようだが、写真撮影は許可されなかったのが残念である。
※ 牛頭山山頂近くには、古墳のような土盛りがある。中国の皇帝墳墓だの、スサノオの墓だの諸説乱れ飛んだ時期があるようだ。
二〇二五年七月に訪れた際、春川市はなんと三十七℃であった。日本も異常気象であったが、韓国も熱中症患者が続出しているようだ。こんな時には、無料博物館(韓国の全ての博物館は入場無料)で、避暑を兼ねての見学滞在がベストチョイスである。ソウルの国立中央博物館では4時間の滞在。ここ国立春川博物館でも4時間滞在した。博物館入り口手前には、支石墓(しせきぼ)が数基展示されている。支石墓は、大きな石を数個の支石で支えてテーブル状にした巨石墓である。
韓国フィールドワークから帰国後に、福岡県糸島市にて神功皇后ゆかり地をリサーチしたが、その場所にも同じ支石墓があるのだ。やはり、北部九州と半島とは古代より活発な交流史が歴然と確立している事を再認識できる。館内では旧石器時代から、青銅・鉄製造時代、さらには新羅や高句麗時代をはじめ、近代に至る出土物が数多く展示されている。特に、鉄器製造に関しては、タタラ製鉄にも関連する『ふいご』が発掘されている。
倭国(日本)には、半島南部にある任那や伽耶あたりから製鉄技法が伝わったとされている。同時期に半島中部や北部(高句麗)にも、鉄技術は普及していたとみていいだろう。青銅製から鉄製への技術革新は、現代的に見ればITの急速進化による、根本的社会変革と同じである。一説によると紀元後三〜四4世紀頃の倭国では、鉄生産の加速による社会変革、それに伴う半島への勢力拡大が進んでいく。そのひとコマが、『神功皇后の三韓征伐』であるかも知れない。神功皇后の息子は、八幡宮の祭神・応神天皇。
応神天皇の時代から、天皇陵は大和盆地から河内エリアへと移っていき、ますます巨大化するのである。いわゆる世界遺産となった、百舌鳥・古市古墳群である。応神天皇の息子が仁徳天皇である。応神天皇の時代には、百済から韓鍛冶(からかぬち)の卓素(たくそ)が来朝し、鉄器の製造技術が伝えられたと『古事記』は伝えている。
韓国仏教の最大宗派、大韓仏教・曹渓宗(チョゲジョン)の総本山が「曹渓寺(チョゲサ)」である。
ソウル中心部・仁寺洞(インサドン)にどでかい敷地と寺院を有している。一三九五年の創建から六百年以上の歴史を誇り、代表的建築『大雄殿』は朝鮮時代に建立され、「ソウル市有形文化財 第百二十七号」に指定されている。
旧暦四月八日の釈迦誕生日(ソッカタンシンイル)に行われる「燃灯祝祭(ヨンドゥンチュッチェ)」の時は、「曹渓寺」の境内も空が見えないほどに隙間なく提灯が吊るされるという。今回のリサーチは二つの目的があった。ただ、残念ながらそのニつともに成果を得ることができなかった。
一つ目は曹渓宗の僧侶百八名が、一昨年に徒歩にてインド・ネパール仏教8大聖地を徒歩にて巡礼した際の報告書入手であった。
これは、韓国とインド修好五十周年を記念した行事の一環でもあった。釈迦の足跡に沿った八大聖地を四十三日間、総距離千百六十七kmを歩き巡礼したのである。
日本ではほとんどニュースになっていなかったが、インドでは非常に大きく取り上げられていたのである。
なんたって、『歩き巡礼』は、釈迦と同じ時代の移動手段なのである。日本から仏教僧侶などがインド・ネパールの仏教聖地巡礼するケースで、徒歩にて八大聖地全てを巡った話しは聞いたことがない。
その際の、報告書が英文にて発行されていないかと尋ねたら、残念なことにハングルにても発行されていないという。この徒歩巡礼は、これからもっと注目されるはずである。公式記録発行を待ちたい。
二つ目は、仏教博物館の見学であった。しかし、六月に火災が発生し一部閉鎖となっているという情報は事前に入手していた。ただ、現地で尋ねてみると、一部どころか全体が閉鎖されているとのこと。復旧工事が進んでいるとのことであった。ん~・・、まことに残念至極。
日本への公式な仏教渡来は、六世紀の百済時代に聖明王からとされている。勿論、百済へは中国から伝播してきた。古来日本仏教は、最澄や空海のように中国仏教からの影響が喧伝されており、韓国仏教には現代もなかなかスポットライトが当たらない。
ただ、京都高山寺の明恵上人などは、新羅僧侶・元暁(がんぎょう)と義湘(ぎしょう)に多大な影響を受けている。
韓国仏教界の現状のみならず、過去の歴史と歩み、そして日本仏教界との相互交流史などなど、これからもさらに深堀りしていきたいテーマである。
ソウルの横丁巡り。フィールドワークの合間には、下町巡りにも精を出している。ここは、ソウルの二大市場のひとつである、東大門市場近くの横丁である。
一九七九年に初めてこの国を訪れた時には、町の至るところでは、写真のような光景が展開していた。当時は高層ビルやマンションなどはひとつもなく、横丁ではオバサン達の威勢の良い掛け声が飛び交っていた。
日本の都市部でもそうだが、現在ではこのような横丁を探すことは困難なことになってきている。区画整理や景観整理などは一切おこなわれておらず、人間の営みエネルギーが満載されたカオスの状態・・。
ただ、写真の横丁では、中国からのインバウンド客で一杯であった。かの国でも都市部では『横丁』は激減している。しかし、なぜか人々は『カオス』に魅入られて、おもわず足をむけてしまうのだ。身体の奥底にある野性感覚がそうさせているのだろうか。
2025年8月17日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。