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駒沢の生活史[4話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















みんなで暮らしてた思い出が、
駒沢にはいっぱいあって

話し手 40代女性
聞き手  西村佳哲


 生まれが上馬なんですよね。246と環七の交差点のあたり。父方の祖父の家があって、和菓子屋さんをやってたんですよ。この(生活史の)お話、受けられるかなと思ったのは、なんか駒沢の思い出がいい思い出しかなくて(笑)。駒沢が入り口なら話せるかなと思ったんですけど。
 4歳までは、父と母と私で、その祖父の家に住んでたんです。
 けっこうおっきな和菓子屋さんで、戦争中は配給するような家だったらしいけど。父方の兄弟がまわりにたくさんいて。そういう繋がりの思い出が、駒沢にはいっぱいあるんです。

 いま「思い出」って言ったけど、4歳までだから、ほんと断片的にしか覚えていなくて。どこまでが自分の記憶なのか。家族から聞いて後でつくってるのか、わからないんだけど。
 でも小さい頃に父と駒沢公園に行って、鳩に餌をあげた風景とか覚えてるんですよ。ふふふふ。覚えてるんです。その景色しか覚えてないんだけど。

 あと祖父の家の二階がアパートになっていて、その一室で暮らしてたんですけど、昼寝から覚めたら部屋が真っ暗で鍵を閉められてて。

 ──え?

 母が買い物に行ったらしくて(笑)。外から鍵を閉められて。泣き叫んでドアを叩いてたとか(笑)。あと3歳ぐらいのとき祖母とお風呂に入って。悪気なく「おばあちゃんのお尻って、象のお尻みたい」とか言ったら、おばあちゃんがショックを受けてすごい悲しがってた思い出とか(笑)。
 みんなで暮らしてた思い出が駒沢にはいっぱいあって。私にとって、駒沢は好きな場所なんですね。

 で、そこから……大田区に引っ越してしまって。週に一回ぐらい親戚の人たちと会いに来るみたいな交流になって、ちょこちょこと来ていたんですけど。駒沢公園とかあの辺りがずっと好きだったので、30代の終わりぐらいに、夫と「どこに住むか」考えたとき駒沢辺りを探して。で、最近まで住んでいました。

 ラッキープレイスっていうか。いまの仕事に取り組み始めたのも、駒沢に住んでからで。生まれた頃の、家族や人との繋がりと、やりたいことを自分で形にしていく時期と、両方が駒沢で始まってまたスタート出来たところがあって。
 いまは世田谷の◯◯に住んでる。また戻りたいなって思ってるぐらいなんですけど(笑)。

 ──喜ばしい時間が。

 そうなんです。喜ばしい時間がそこにはあるんですよね。

なんていう繋がりでもないんだけど
やっぱりすごく寂しかったんだろうな

 で、なんでそんなに喜ばしいのかっていうと、大田区に引っ越してから、父と母の仲があんまりよくなくなった。

 すると親戚との繋がりもだんだん薄くなるというか。小学生ぐらいまでは、従兄弟と遊びに毎週行ってお泊まりするとかそういう繋がりがあったけど、それが高校ぐらいからかなぁ、だんだんなくなっていって。父と母との仲もあんまりよくなくなってきて。
 で、結局つい最近、というか何年前だ? 5、6年前に離婚したんです。高齢離婚。

 ──長い時間をかけて別れたんだ。

 そうなんですよね。駒沢を出てから、だんだん家族……両親の関係が壊れていくにつれて、親戚とのつながりがなくなり。なんていう繋がりでもないんだけど、やっぱりすごく寂しかったんだろうな。

 捏造に近いかもしれないけど(笑)、祖父の家に暮らしてたときの思い出で。なんかつくったり絵を描いたりするのが、すごい好きだったんです。
 母が言うには、「本当にあなたは小っちゃい頃から手が器用で、ハサミを持たせると、3歳ぐらいで、いろんな包装紙の柄を綺麗に切り抜いたり、絵を描いたりしてたのよね」とか。母親がディズニーのキャラクターとか描いたところに私が色を塗ったり。それでモビールをつくったり。
 手を動かしてものをつくる一人遊びだったり、母親との二人遊びだったり。そういう記憶の最初も駒沢にあって。
 小学生の頃、外に遊びに行ったりとかもするけど、一人で工作とも違う、絵を描いたり編み物したり。引きこもり系の子どもだったんですよね(笑)。

 でも、いまこういう仕事をしてるのって、その頃の一緒になんかつくる……一人でつくる時間もあるんだけど、母親とそういう経験があったことがやっぱりすごく大きいんだろうな、と思っていて。
 前はアーティストと地域でワークショップを展開してたんですけど、「描く」とか「ものをつくる」ことを一緒にする場に意味を感じて始めたのは、小っちゃい頃の体験があったんだろうな。
 出来上がるものになにか意味があるとか、「作品である」ということよりも、そのつくってる時間とか一緒に手を動かしてる時間に、あったかいものがあったんでしょうね。

 そういう経験が、すべての人にとって意味があるのかどうかはわからないけど、同じ時間と空間をともにしながら「なにか模索する」とか「新しいものをつくり出そうとする」、そういう時間がすごく大事だなと思って。
 その時間に「どういう意味があるのか?」と思ったから、活動を始めたのかも。

 ──お母さんとのその時間、たっぷりあったんだ。

 うん。母親も専業主婦で一人目の子どもだし、すごく気合いを入れてたみたいですね(笑)。それが「重い」「ちょっときつい」みたいなことも、まぁあるっちゃあるんだけれども(笑)、でもそこにめげることはなかった。私は母親のいいところしか知らないというか。
 妹がいるんですけど、引っ越してから父と母がお店を始めて忙しくなっていったので、妹は小さい頃から保育園で過ごして。私は、4歳ぐらいまでけっこう母と密に、愛情をたっぷり受けた時間でもあったんですよね。

 その思い出と「つくる」ことが重なっているので、理屈なく「いいことだ」と思ってるのもあると思うんですけど。

 小学生になってから、友達と外に遊びに行った思い出もあるけど、家の中とか、学校でも図書館とか、けっこう一人でいる時間が長くて。
 小さい頃は母と一緒につくってたけど、だんだん自分で手芸的なことをしたり、絵描いたり、図書館に行って画集や本をみるとか。そういう時間がだんだん。小学校、中学校では増えてきて。
 中学受験をしたんです。引っ越した先が大田区の海の方なんですけど、あんまりいい地域じゃなくて。校内暴力とか。中学校がすごく荒れてた。
 で、母親がぜったい私立の中学校に行かせたい、っていうので、5年生ぐらいから塾に行くようになって。私立に行く子なんてほとんどいなくて。いまは半分ぐらい行きますけど、学年でもほんと数人しか行く家庭がない中で、母親は「いい教育を受けさせたい」と思ったんだと思うけど。すると、友達と遊ぶ時間もあんまりなく。忙しくて。

 小学校のときの思い出って、あまり悪い思い出があるわけじゃない。すごい楽しかった。学校は楽しかったし。図工の成績はよかったし(笑)。
 でもその頃から、父と母の仲があんまりよくなくなってきた。壊れてはいないけれども、だんだん家の中がギクシャクして。

そんとき私、泣きながら
「よかったね。決心できて」と言った気がする

 ──一緒にお店を始めたのに。

 うん。そうですね。大田区に住んでいたときって、別にそんなに悪いことがあったわけでもない。けどちょっと悲しい。思い出すとちょっと悲しい感じがある。
 自分はなに考えてたのかな……博物館とか美術館に連れてってくれたのも、たぶんそのくらいの頃で。ある意味逃げ場?
 逃げ場っていうか、自由になれる場所だったのかもしれないですね。
 つくるとか、美術館や博物館に行って観たこともないものを観るとか。「ぜんぜんわからない文化から生まれてきたんだな」っていうものを観て、「いったいこの人たちどういう暮らししてたんだろう」と考えたり想像する時間とか。

 現実の世界が嫌いだったわけでもないし、嫌なことが大きくあったわけじゃないんだけど、なんかその時間は自分にとって、自由になれるというか。いろんなことを忘れられる?
 忘れてなにかに集中できる時間。

 ──気がかりがあったんだ。

 うん。

 ──お父さん、お母さんのことなのかな。それが気にはなっていて。

 そう、それはそうなんだと思います。子どもの立場からやれることがなにもないので、気にしないふりとか(笑)。
 いや、たぶん父親のことはすごく嫌いだったんですよ(笑)。

 ──「お父さんあんま出てこないな」と思いながら聞いてました。

 そう。そうなんですよ。いや、でも作文とかに一生懸命、父親をかばうことをいっぱい書いてたんですよね。でもたぶん小学校のときから私は父親が嫌いで。物心ついてからはほんと大っ嫌いなんだけど。ははは(笑)。

 ──「嫌い」が「大嫌いに」。

 小学校のときから本当は嫌いだったんですよね。私には意地悪でもないし、すごく優しい父親で。思春期になってからはあまり口をきかなくなっちゃうんだけど、小学校のときも優しくしてもらった思い出はたくさんあって。
 嫌いではないと思ってたけど、「あ、やっぱ嫌いだったんだな」っていま思いました。ははは(笑)。

 父親として嫌いっていうより人として合わないっていうか、わからない。もう宇宙人みたいで、ぜんぜんわからなくて。
 そう。意地悪なところがあるんですよね。すごく差別的だし。それを見ないように見ないように、小学校のときもずっとしてたんだけど。思春期以降はやっぱりそれが許せなくなるというか。まったく共通理解がない人になっていったんですよね。
 だから小学校のとき、やっぱあれ、見たくないものから逃げてたんですね。きっと。

 ──手元の作業とか、美術館とか。

 でも、それも父親と母親に連れていってもらって、家族の思い出なんだけど。
 なんて言うか母とはわかり合える、共感できるところがたくさんあるんだけど、父とはほぼない感じだったなぁ。
 そう。で、それを怒ってたんですよね。私はきっと。だから……怒りを鎮めてたんですかね。子どもなりに、やり場に。

 ね。子どもっていろんなこと考えますね。本当に。
 でもそんな父も、突然家を出てったんですけど。出て行く前に私にだけ連絡をして、「出ていきます」と。「一人で住もうと思う」「ついてはマンションを借りるのに保証人になってほしい」みたいな。

 ──娘に。

 もうそれはすごい嬉しかったんです。「あ、その方がいいよ」と思って。仲が悪いままずっと一緒に住んでいるより、お互い自由になって生きた方がいいと思ったので、それは本当にこころよく。
 いやそんとき私、泣きながら「よかったね。決心できて」と言った気がする。

最後の最後まで宇宙人でした(笑)

 そう。「いいことだな」と思ったんですよね。憎しみ合って一緒に住むことの息苦しさというか閉塞感について、「父と母との関係だから私には関係のないこと」と思ってたんだけど、「それが解消されるのは本当にいいことだな」と思ってこころよく保証人になり。父親は出ていったんですけど。

 でもまぁ、そうすると意外と母親がすごい泣き。その出来事に激怒したんです。「喜ぶかな。ホッとするかな」と思ったら、長女の私は自分の味方だとずっと思っていたのに保証人になって父親を送り出す。で、それをある程度知ってたのに教えてくれなかった。手助けをした。みたいなところに怒ったり。

 でも、結局父親が出ていって。生活をどうやっていくか立て直すのに、それなりに時間はかかったんですけど。母親は、父親と住んでるときはずっと便秘気味だったんですって。出ていったら便秘が治って、「体調がよくなった」って(笑)。

 母親も最初はなんだかんだ言って、やっぱりショック。長年連れ添った夫婦が別れるってそれなりにエネルギーと何十年かの想い。恨みかもしれないし、いろんな想いがあって、爆発することもあるんだけど。
 やっぱり、なんであの二人が結婚したのか本当にわからない(笑)。価値観も合わないし。そもそもなんで結婚したのかな? と思う夫婦でした。

 ──お父ちゃんが出て行ったタイミングは、小学生とか中学生のときじゃなくて、けっこう後なんですか。

 6、7年前です。二人が70代後半だったのかな。もう老後に入って年金暮らしみたいな二人で。でももう限界だったんでしょうね。「一緒のお墓に入りたくない」じゃないですけど、お互いに限界で、自由になりたかったんだろうな。父も母も。

 ──我慢したのはお母さんだけじゃないかもしれないけど。

 そう、ですね。

──でも、けっこう長く築き上げたこの我慢というか。それを私の知らないところで急に、みたいな。

 そういう気持ちはあったんでしょうね。
 でも出て半年ぐらいで、父に癌が見つかって。弁護士さんに報告したら「あ、よくありますね」と言われました(笑)。熟年離婚とか、やっと別れてお互い解放された途端に、どっちかに癌が発見されるって、よくある話みたいです。

 悪性リンパ腫で。いまの医学って進んでるので、まあまあ完治する。名前はすごく怖いけどけっこう治る病気みたいで。抗がん剤治療で副作用もそんなにひどくなくて……最初の治療はすごくうまくいって。
 癌が発見されてから2年半ぐらい生きてたのかな。
 「体調よくなった」みたいな連絡も来ていたんだけど、半年ぐらいしたら「ちょっと腫瘍マーカーが出たんだよね」みたいな話があって。もう一度抗がん剤の治療をして……落ち着いたかな? っていう頃に、別に脳腫瘍が出て。

 最初それが癌から来てるものだってわからなくて、「ふらふらする」とか「ちゃんと歩けない」「気持ちが悪い」っていう症状で現れたので再発だってわからなかったんですけど。
 いよいよ病院に連れて行くのも大変な状態にまでなって、やっと病院に入れたら、どうやら脳に腫瘍が出来てるみたいで、しかも急性でどんどん大きくなっていくと。
 病院に入って2週間ぐらいで亡くなってしまったんですけど。それが2年前。

──最近の話。

 そうなんです。もうちょっと自由に、勝手に生きてくれればいいなと思ったんですけど早々に亡くなってしまって。でも最後の最後まで宇宙人でした(笑)。理解できなかったですね。

 「かなりおかしいからとにかく精密検査してもらおう」と思って病院に連れてった日に、血液をとるのに、すごい痩せちゃったのでなかなか針が入らないんです。で、最初看護婦さんがやってくれてて、なかなか入らなくて。今度男の先生が来て血液採ろうとしたら「やっぱり男の先生が上手ですよね」とか言っちゃって。
 「クソジジイ」と思った(笑)。ほんとそういう人なんですよ。
 そしたら先生が、「いや看護婦さんの方が僕なんかより絶対上手です」って言いながら、やっぱり失敗してて(笑)。

すごい嫌いなんですけど、すごく寂しい人で

 ──話だけ聞いてるとなんか面白いけど(笑)。

 最後の最後まで「このクソジジイ」と思いながら。そういう人だったんですよ。ほんとに頭に来る。

 ──別れて自由に生きてほしかったけど、それが闘病生活になっちゃった。

 そうですね。

 ──その生活は誰がみてたんだろう? と思いながら聞いてたけど、けっこうみてたのか。

 いや、でもほとんど私はみてなくて。困ったときには連絡が来るんですけど、介護付きの老人ホームに自分から入るって言い出して。
 食堂があって、個室があって、けっこう都心にある老人ホームを自分で探してきて、「そこに入りたい」って言って。ある程度のことはそこにいる人がやってくれるみたいで。私に甘えることもあまりしない。そういう関係じゃなかったんですよ。父親とは。
 「助けて」とか「なんかして」という関係でなく。意外と最後まで「自分は父親でいたい」っていう人だった、と思うんですね。

 私が仕事で忙しいのもわかっているから、なんかあっても「あ。もうここまででいいから仕事行け」って感じで、面倒みるっていうのは、本当に具合が悪くなる直前までなくて。
 病院でも原因がわからない期間だけ。買い物したり、ケアマネージャーの人と相談していろんなことを整えたりしたのは、ほんと最後の2〜3週間だけで。あとはその施設の中で、ほぼ直前まで、自分でだいたいなんでもできてたんですよね。

 私と父親の思い出って本当に少なくて。駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)。でも価値観がやっぱり…「男の先生がいいよね」とか私にはぜんぜんわからないというか「許せない」みたいな(笑)。

 ──理解できない。理解したくない。

 (笑)そうです。

 ──でも最後まで父親でいたかった、という話を伺うと、家を出るときの「保証になってくれ」という連絡はけっこうジャンプというか。

 そうですね。いや、すごい孤独な人だったんだと思うんですね。
 兄弟はたくさんいるけど、男兄弟のいちばん下で、妹が何人かいたんだけど、どっちかって言うと妹と仲よくて。男兄弟の中では四男で、いちばん不遇だったと思うんです。
 で、女兄弟にちょこちょこ連絡とってたみたいだけど、友達も多い人じゃなくて、頼れる人がそんなにいなかったんですよね。だから私しかいなかった。保証人になってくれるくらいの近さで、頼れる人が、私しかいなかったっていうことだと思うんですけど。

 なんていうか。すごい嫌いなんですけど、すごく寂しい人で。父親のことを思うと、なんて言うんだろう、自分の父だからというより、なんか「人として寂しい」みたいな気持ちになる。
 遺品の整理をしても、人と繋がりのあるものが本当に少なくて。

 母親は正反対なんですよね。友達がたくさんいて、近所のいろんな人と仲よくなって、ちょっと買い物に行くとたくさん知り合いに出会うのでなかなか帰ってこない(笑)。
 父親は性格も悪いからだと思うんですけど、もう本当に友達がいなくて。こうやって話していても、なんとも言えない寂しい気持ちになる。

 だからいまの活動(仕事)をある意味、父親を反面教師にしてるのかもしれない。
 人と人との関係を紡いでいく、フラットな関係の中でアートを通して共生していくとか……。それが大事だ、ってことももちろんだけど、自分自身がすごく惹かれるのは、やっぱり父親みたいな人が近くにいるのは大きかったんだろうなという感じはしていて。反発というか。
 最後まで父は、私のやってることを理解してなかったと思います(笑)。

 ──残念なんですか?

 いやぁそうですね。残念なのかなぁ……うーん。残念ですよね。認めてほしいっていうより、わかり合えない人とはわかり合えない、と思いたくないって言うか(笑)

……だから私は人とわかり合いたいんでしょうね

 わかり合えない……そうですね。価値観がぜんぜん違ういちばん身近な人と、それでも触れ合ったとか。わかり合えないけど認め合えた、みたいなことがあると救われるんだけど。そこに至らずに逝ってしまっているので。それはやっぱりちょっと。なんとかこれを成仏させたい(笑)。

 これはなんとか成仏させたいですね。それは残りの人生で成仏させていくことなんだろうな。
 (いまの仕事を通じて)いろんなコミュニティで出会ってる人たちは、あるていど価値観が共有できる人たちなんですよね。一緒にいて気持ちがいいし、いろいろあっても、聞き合えば触れるところがある人たちですよね。
 やっぱその外側。その輪に入って来ないか、そもそもそこをチョイスしない人たちの方が多いわけで。そういう人たちのことはすごく気になっていますね。

 ──(これまで仕事ぶりを拝見してきて)「情熱があるんだな」と思っていて。「アートに信頼があるんだな」とも感じていて。大袈裟だけど「愛してるんだな」と思ってたけど、でもなんかこう立ち向かっていく感じがどっから来てんのかわかんないな、っていうのはあったんです。

 うん……密かに立ち向かってる(笑)。……だから、わかり合えない人とわかり合いたいんですよね、きっとね。
 自分の理解をぜんぜん超えている人たちと。
 わかり合えないんですけどね。私はやっぱ父親の価値観とかわからないし。で、どこかで「私の方が正しい」と思っているんですよね。

 でも私がわからない人も、たぶん向こうは向こうで「自分が正しい」と思い、彼らの根拠とか論理とか理屈があって、そこからは、なかなかわかってもらえない。
 でもやっているのは、いつかわかってくれると思ってるからなのかなぁ。

 ──お父さんが寂しい人だ、っていう話を聞かせてもらいながら感じたのは、その寂しさの壮絶さというか。すごくその中で、ちゃんとしようとしてる気配がある。

 うん。そうですね。

 ──頼る人がいなかったのかもしれないけど、でも、人にもたれ掛かる感じが伝わってこなくて。ちゃんとしようとしてるというのかな。それで、さらに寂寥感が増してくるというか。

 そうですね。それだ、寂しいのは。
 そうですね……父親のことを考えて寂しい感じがするのは、ずっと「人として寂しい」と思ってたんです。客観的に。
 でも、父が最後までちゃんとしようとしてたっていうことを、たぶん私は理解していて。それが寂しかった。

 ちゃんとしようとしてたことは伝わっていたというか。
 私も理解していたし、父もたぶん理解していて。私のやってることは、ずっと否定……に近い形で「もっとちゃんと生きてほしい」と思ってた(笑)。
 「会社とかに勤めてちゃんと生きてほしい」って。そういう価値観の人だったので。私、いまパートナーとは籍を入れてないんですけど、それも「結婚というのは籍を入れるものだ」「そうすれば安心」みたいな。

 だから私がやってることは全部……否定じゃないけど、「もっとこうすればいいのに」みたいな。「なんで籍入れないんだ」「なんで企業に勤めてまともに生きないんだ」。そういう感じだったんですよ。

 ──でも、彼もお母さんと二人で商売を始めたわけですよね?

 (笑)そうですよね。自分だって会社辞めて始めてるのに。そうなんです。不思議なんですけど、事あるごとになんかそんな感じで大変だったんです。
「わかり合えないな」「こんなまともに生きてるはずなのに」みたいな(笑)。

 でも父も私がちゃんと生きようとしてるっていうのはわかってたんだろうなって、いま話してて思いました。……だから私は人とわかり合いたいんでしょうね。
 もうちょっとわかり合いたいんでしょうね。もうちょっとね(笑)。
 本当に看護婦さんに失礼だし。医療従事者の人たちって無償の愛というか、すごいなと思って。 「高い健康保険料も喜んで払います」みたいな気持ちにさせられたんですけど。そんな失礼な父親に対してもケアしてくれるんですよね……そうなんですよね。

 そう、父親みたいな人ともわかり合いたいと思うんですよね。
 もうちょっと(笑)。もうちょっと共通言語っていうか。
 面と向かってジェンダーの話はできなくとも、「あぁ、ちゃんとしようとしてるんだ」「宇宙人ではないんだ」って。その人なりの、「ちゃんとしようとしてる」さをわかりたいし。わかり合いたいと思って、たぶんこういう活動をしてるんですよね。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[4話]

2025年11月11日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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