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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 70代女性
聞き手 吉田和弘
駒ってのは、馬が関係するエリアなんですね。私は小学校のときに転校してきたんだけど、そのときに「馬と関係するところなんだよ」って、よく聞いてました。
で、駒沢ってのは、神社もあるエリアで、中学校とか小学校もあるし、駒沢小学校もある。昔からの農業地とか畑とか。
なんていうか、人が住んでるっていうイメージはあまりしなかった。商業地じゃない。
それで、私の父が三軒茶屋に知り合いがいて。父は変な話、相続したお金がすごく入って、その相続したお金を、田舎者だからね、きっと吹聴したのね、友達とかにね。だから、そのお金をすごく狙われたっていうのがあって。
自分の野心って言うんじゃないけど、大学は日大だったし、自分は田舎に引っ込んでるんじゃなくて、いずれ都会に出るんだ、みたいな思いから東京に来たんだと思う。
でも田舎者だから、戦争から帰ってきたら、やることがなくて、漁師になったりしてた。
──そうなんですね。
そんなわけわかんない人だったけど、陸軍の上等兵の上のほうの人で、ちょっと父を可愛がってくれる人がいて、「会社で働かないか」って言われたら、そこが保険会社だったわけ。
それでまず伊東(静岡)で、そこの子会社、支店みたいなところで、何人か友達とか呼んで働き始めたのね。
昔はおばちゃんじゃなくて、おじさんたちがやってた。それで、伊東の、別荘地で売り出してるようなのを、父親は騙されて買わされたりしてたわけ。そしたらそういう関連か、東京の世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら? みたいな話があったみたい。
私はその頃まだ小学校の3年生ぐらい。でもそんなことは当時ぜんぜん知らなかった。
母は親戚がやってた種屋さんを継いでて、それを近隣のお客さんたちが「どうしてもお店を閉じないで」って要望があって。その隣に保険会社の支店があって、母は隣で種屋さんやって共働きしてたの。
──そういう位置関係なんですね。
母は商店の娘だから、商才があったっていうか。お金はそれなりに儲けたみたい。学校にも色々な水栽培のものを卸したりとか、仕事を広げてた。お金は、父が大して働かなくても十分入ってたわけ。
だから東京なんか行きたくなかった。田舎で十分暮らしていけるものを持ってたからね。
だけど、うちの親父さんはさ、母が才能に長けてたから、それに負けたくないって思いがあったんじゃないかな。それで東京行きを強引に決めちゃった。
私は東京に行く1週間ぐらい前に初めてそれを知ったの。なぜかって言うと、私はおしゃべりだから、周りにベラベラ喋るとみんなも驚くから(笑)。お姉ちゃんは知ってたの。妹も知ってたのかな。そこら辺わかんないな。
私はぜんぜん知らされてなくて。お姉ちゃんから、突然「私たち東京に行くんだよ」、みたいな感じで。え?なに言ってるのか意味わかんないって。「東京なんて都会じゃないの」って感じで。
──お父さんは学生のときに東京にいたことがある?
浪人してね、最初に北大を受けるつもりだったみたい。絶対受かりっこないのに(笑)。浪人中は北海道にいたんじゃない?
だけどさ、日大でテニスやったり結構いろんなことやってて、遊んでたんだよね。三男坊で、体裁だけで大学に行ったりして。4人男の兄弟がいた中で、うちの父は3番目だったのね。あとの3人は農業やってておとなしくてさ。
それで一家で東京に来ることになったら、上馬の方と駒沢と、三軒ぐらい不動産屋が言ってきたらしいんだけど。
それでいまの家は借地だったのね。だけど昔、もう60年以上前じゃない。70年前。70年ってことないか。65年ぐらい前。土地っていう感覚がまだなかった。才長けた人なら買い占めたんじゃないかと思うけど、うちの親父さんもよくわかんなかったんじゃないかしら。
ここは40坪弱だけど、もう一つ別ので50坪ぐらいで、そこは丸々土地付きだったのかな。土地付きの家とかって言ってたけど、でも結局ここの方が渋谷とかにも近いとか、なんか色々考えてたよ。ここの方が売りやすかったのかも。
──なるほど。
それで駒沢に、下宿付きのアパートをつくった。下は私たち屋主が住んで、その上に大学生、駒大とか日体大の学生が入るような下宿屋さんみたいな。うちの母はその下宿屋の宿代収入で生活できるような感じでやってた。
──うんうん。
ここだって、本当はもっといいところがあったかもしれない。
なんていうか、父は保険の仕事に向いてないっていうか。相続したお金があっても、お金の使い方は知らない。だからいいカモだった。坊っちゃんってのはね、人に言われて初めて気づくんじゃないの。いまから思えばだけどね、父にうまい話がいっぱいきたわけ。
父は横浜にも土地持ってたし、保土ヶ谷にも。売っぱらっちゃったけれども
──ふーむ。
私たちは駒沢にずっと住んでたね。母はその、何人ぐらいいたかな、20人ぐらいは。ここの2階のところにさ、4畳半が1、2、3、4つぐらいと、3畳が4つぐらいかな、10人ぐらい。
それで昔はね4畳半に3人とか、うちのお母さんもわかんなかったから、「友達が一緒に住みたいって言ってます」なんて言ったら「いいわよ」って。学生がすごいいっぱいいたときがあった。
で、私たちが引っ越してきたときは、ここにその下宿屋があって、前に二軒家があって、隣に一軒もいかな、こっちに一軒、あとはみんな空き地。
ここら辺のなんかは畑。伊東なんかに比べてよっぽど田舎だった。
それで、246は多摩川電車が走っていて、バスもあんまり走ってなかったんだけどね。多摩電が二子玉川から渋谷まで行って、私がいた頃はもう人間しか運ばなかったけど、そもそもは多摩川の砂利、建設用の砂利を運んでた。
──その当時の多摩電の駒沢の駅っていうのはどの辺に?
いまで言ったらね、駒沢交差点あるじゃない、あそこの角っこ。なんだっけ、交差点があって、その駒沢公園の方に行くところの角っこの前あたり。
電車のさ、こう、10センチぐらいの高さがあって、電停って言ってたの。それで、その次が真中(まなか)だったのね。パン屋のアンテンドゥとかあるでしょ。あそこらへんの前あたり。
私は、高校は目黒の高校に行ってたから、バスで通ってた。駒沢通りの方をずっと走っていて、東横線に繋がるんだけど、東京駅の八重洲口行きってのがあったかな、それに乗ってたの。
──なるほど。
すごく賑やかだったのは、やっぱり三茶よね。渋谷、三軒茶屋で、次が上馬なのかな。
駒沢は商業地って感じじゃなくて。いま思えば桜新町の方が、サザエさんとかの「目玉商品」があったから。
駒沢はなにしろね、東映の野球のグラウンドが、東映フライヤーズっていうのがあったの。そこで駒沢球場ができたわけ。駒沢球場ってのは、いまのオリンピック公園の前の土地。それを壊して公園をつくったんだけどね。だからここは東映フライヤーズの大川さんっていう社長が、球団を買ったのよね。で、東映って映画館があるじゃない。その人が桜新町に住んでた。そういう縁があった。
だんだんね、商業とかが栄えてきたときに、ここらへんは土地があったから、大企業の人たちが、官舎、じゃなくてアパートがいっぱい建っていったわけ。銀行とかも。
で、そういう人たちがこう、会社の寮みたいな感じでやって来た。いまもあるけれども、昔はいっぱいそういうのがあった。会社の異動とかで親子で駒沢に来て。で、またしばらくするとどっか行っちゃう、そういうふうなエリア。
──ふむふむ。
空いてるところにはビルがどんどん建って、マンション。マンションって言ったって団地だよね、その会社が持っている。団地がいっぱいできてきた感じ。
で、元々ある小さい和菓子屋さんだとかがある。本当にお店は点々としてあったけれども、スーパーも出てきた。言っても、西友とサミットとライフ。デパートなんてないしね。だからこう、古びた感じのエリアなんじゃない。
例えばさ、田舎なんかはいまどんどん過疎化するっていうか。それでポツンと一軒家なんか見ても、昔はそこに住んでて、何世帯かが一緒になって助け合って生きてきたのが、ある程度経つと2世帯ぐらいしか残ってなくて、あとはみんな過疎っていくじゃない。
でさ、駒沢だとかは、都会でも、都心に来る人と元から住んでる人がごちゃまぜになって、わけわかんなくなってるじゃない。
だから、私なんかが思うのは、葛飾とかの下町、そういう風な下町でずっと生きてきた人たちだって、そこにずっと居たくてもみんな拡散してくってか。
都市計画の中ですごい影響受けるでしょ、住んでる人たちはね。
ここなんかでも、環七つくるときにそこから追い出されてね。別の方に引っ越したりとかは結構あったから。駒沢は246の通りをまっすぐにするために立ち退きを言い渡されたところもある。突出してるってことはないね。駒沢は(笑)。
民俗学的にこう田舎だと、いろんな人たちが研究して、あちこち行くじゃん。だから都会だと、例えば谷根千みたいにね、あっちの下町の方にみんなが注目するけど。世田谷とかはちょっと中途半端なエリアじゃない?
伊東のほうが住んでたら面白いんじゃないかと思う。温泉街でさ、なんかいろんなものがあって。ここら辺って半端なんだな。
──伊東のときはどんなところにいっていましたか?
あたしはすごい行動派だったからね、友達を引き連れてった感じで。伊東公園だとかね、もういろんなところをね、あっちこっち。中古の自転車お父さんが買ってくれたから、それ乗って行ってたねえ。
お姉ちゃんと妹は、そんなに私みたいに出歩かなかったから。私はもう東京もそういう風ないろんなことができると思って期待して来たのに、そういう感じじゃなかった。だからなんていうのかな。
ただね、ほんと一時期ね、二子玉川に毎日行ってた。ボートを漕ぎに(笑)。
──漕げるところがあったんですね。
じいさんばあさんがそこにいて。私は、30分ぐらいいたかしら。それでもう毎日行くと、おばあさんとも知り合いになるの。一人で行って練習してた。みんな笑うんだけど。ときには友達と3人ぐらいで行ったりとかして。
だからお金がすぐなくなっちゃったよね。友達に持ってこいとか脅したりして(笑)。
──そこそこお金はかかる趣味でしたか?
うちのお母さんもお嬢様って感じだからね、あんまりお金に執着する人じゃなくて、私が「お金が欲しい」って言ったらくれたよね。
だから、お姉ちゃんとか妹はそういう風なことしなかった。私はほんとに悪いことしてさ。「ここにお金がある」って知ってたから(笑)。そこをいただいて、子供だけ集まる駄菓子屋みたいなところで焼きそば食べり。ものすごいワル(笑)。
──(笑)
種屋さんて、イメージで言うと、昔の薬屋さんみたいにちっちゃい引き出しがばーってあるわけよ。
で、その中で、私の身長よりちょっと上にお金があって。いちばん下の引き出しを開けて上るのを覚えるってすごいよね。それでそこから手突っ込んでさ、100円札とか、10円札5冊だったのかな。100円は結構大金だからね。
その現場がお姉ちゃんに見つかったりして。お父さんに引っぱたかれたりして。ほんと不良少女。なんかね、反感っていうかね、父親に対するこう、嫌がらせ。たぶんいま思えばさ。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2025年11月11日 発行 初版
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