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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 70代男性
聞き手 山中散歩
幼少期の大きな思い出っていうと、空からビラがまかれたこと。なんのビラかっていうと、缶詰の宣伝のビラなんですねぇ。なかに当たりがあったんですよ。たぶん乾物屋さんに持っていけば、鮭の缶詰に交換してくれたんでしょうけども。
僕は当たりくじを拾ったんですね。そしたら友達に「はずれの5枚と、それを換えてくれないか」みたいに言われたことは、ひとつ強烈に覚えてますね。
──何歳ぐらいのときですか?
たぶん小学校低学年の頃かな。
いま、田園都市線が走っているところ。あそこに「玉川電車」っていう路面電車が走ってたんです。うちは玉電の新町って駅のそばだったんですね。新町には駅舎がなかった。駒沢には木造の駅舎があったんですよ。だから駒沢って、あのへんでは中心地みたいな印象で。
駅舎のちょっと脇に「駒沢書店」があって。すごく覚えてるのは、偉人伝が並んでて、そのなかに「ケサワヒガシ」っていう偉人伝が置いてあったんです。「『ケサワヒガシ』って、変わった名前だな」と思ってたら、あとで「毛沢東」だってことがわかった(笑)。
──ははは! なるほど。
そんなことをよく覚えてますね。
ええと、お話しようと思ったのは……そう! 僕のうちは学校のすぐそばだったんだけど、小学校の3年か4年だったある日、着物を着た人が靴を履いて、うちの前をたくさん歩いてたんです。それがあとで、三船敏郎が主演をした『無法松の一生』の撮影だったってことがわかったの。
僕は中学校に同じ小学校の子がたくさんいますから、中学校のクラス会で「『無法松の一生』撮ってたよね?」って言ったら、誰も知らなかった。そうすると、僕の錯覚かもしれない。でも、「僕の記憶は間違ってない!」って思い続けてた。
それで、間違ってないって証明するために、後年TSUTAYAでビデオを借りて、観てみたんです。僕らの小学校って、校庭の真ん中に桐の木が立ってるんですね。でも、運動会の場面に、その桐の木が映ってない。校舎は間違いなく僕らの学校の校舎なんだけど。で、話は北九州の話ですから、「僕の記憶は間違ってるんじゃないか…?」と。
で、何度も何度もくり返して観たんです。そしたら、桐の木の影が映ってたんですよ! 「僕の記憶は間違ってなかったんだ!」っていうことでね。その、「着物を着た人たちが靴を履いて、うちの前を通ってた」ってことは、すごくよく覚えてるんですね。
──そういう記憶があるんですね。
記憶でいえば……あのね、いまは駒沢公園がある場所って、僕が小学生の頃に駒沢球場ができるんですけど、その前は、土管が置いてあったりする場所だったんです。脇の方に土を盛った丘みたいなものがあって、僕らはそこを「ドカチン山」って呼んで、遊んでたんですが。見わたすかぎりに土が露出してて、向こう方が崖みたいになってるっていう、不思議な場所だった。
そこに駒沢球場ができたんですね。東映フライヤーズが本拠地にしたところなんだけど。球場の敷地のまわりが、ずっと金網みたいなフェンスになっていて、ところどころに穴が開いてるんですよ。試合じゃないときは、その穴から入ることができる。
そうすると、野球で打った球が落ちてるんですね。それを拾ってきて。球って、いまはどうかわかんないけど、皮をとると中に紐が巻いてあるんですよね。それをどんどん、どんどん解いていった…って思い出があります。
ちょっと昔の球場はそうだったんですが、スタンドの地面は、土だったと思うな。それで、ベンチみたいに横長の椅子がずっと並んでる。僕は4人兄弟なんですが、下は妹で、兄貴と一緒に行動してたんですね。野球を観に行って、スコアブックを買って、「一球目はなに」と書き込んだり。とてもおもしろかったですね。
あんまり強いチームじゃなかったんで、東映フライヤーズの岩本っていう監督が、ときどき不甲斐なさに怒って、自分で試合の途中から選手として出てくるんですね。それで、あとで調べてみたら、岩本監督は「監督兼選手」っていうことで登録されてた。でも当時の僕らから見れば、「監督が怒って出てきた!」っていう感じがするじゃないですか(笑)。「なにやってんだよ!」みたいな感じでね。だからそれが、すごく印象的でしたね。その後、オリンピックをやるんで、球場は潰されちゃったんですが。
「ドカチン山」「東映駒沢球場」「オリンピックスタジアム」。僕は25歳まではあのあたりで生活してますから、その三段階を経験してることになるんですね。
──中学校では、なにか印象に残っていることはありますか?
中学校……考えてみると、時代的には軍隊に行っていた先生が多いはずでしょ。だから、普段は温厚でも、急にものすごい凶暴になる先生がいるんですよ。
当時はのんびりした時代だから、学校対抗の、先生による野球の試合があったんです。僕らは校舎の二階から、それを見てた。で、ちょっと喘息なんですかね、よく咳の出る理科の先生がいたんです。彼が外野を守ってて。ちょうど下にいたんで、みんなで「エッ、エッ」って、咳をする真似をした。そしたら、若い体育の教師が顔色変えて飛んできたんですね(笑)。
「お前ら並べ!」って、ばって並んで、正座させられた。「やったのだれだ!」って聞かれたから、Oってやつが「僕がやりました!」と答えたら、バカーン! って殴られたんですよ。座ってんのを、バカン! って殴られて、またもとにもどったら、バカン! って殴られて……。担任の女性の先生もおろおろして、止めようがなかった。そういう時代だったなって思いますね。それが平気な時代だった。
──時代的にも、戦争の時代とそんなに離れてない。
そうですね、いま思うと。僕らは子どもだから、そういう感覚はなかったわけですけども。
あとは、世田谷って、都心に比べれば周辺地区で、のんびりした田舎だったな、みたいな印象がありますね。トマト畑があったり。
新町の駅の南方に、「善養院」ていうお寺があるんだけど、その手前のところにちょっとした工場があって。ドブがいつも光ってるんですよ。なんか、妙に光ってる。これはたぶんね、重金属とかを流したんじゃないかなと思うんだけど(笑)。当時は工業地区と住宅地区が分かれてなかったでしょ。平気でそういったものを流していた時代だったんですね。なんか光ってたの。すごく印象がありますね。
──当時は、それが重金属だとかはわからなかった?
「あ、綺麗だな」って思うでしょ。いま考えると、光り方からして重金属じゃないかなって思ったりするんですね。
──オリンピックは、なにか記憶に残っていますか?
オリンピックのときは僕、高校二年生だったんです。それで、都が高校生に切符を配ったんですね。タダで観に行ける切符。僕らは会場がそばだから、駒沢でやる種目の切符をもらった。で、僕がもらったのは重量挙げの切符。三宅っていう、彼が優勝した大会なんですが。駒沢公園に重量挙げを見に行ったっていうことは、印象としてはすごく強くありますね。
で、駒沢公園にはちょっとした思い出があって。僕ね、高校三年のときに仲良くしてた女の子がいるんですよ。それで、卒業式の前に、彼女と駒沢公園の方に散歩に行ったんです。
駒沢公園の中に球場があるんですが、そのバックネットの裏で、とつぜん彼女が僕にキスをした。それはすごい衝撃だった(笑)。「キスは男からするもんだ」みたいな気持ちがあってね。それが、駒沢公園の思い出としては、ものすごく強烈にありますね。
なかなかうまく話を長くできないですよね(笑)。
──いやいや。
さっきの女性との話を長くすると、またね、あれですから。
──僕は聞きたいですけど(笑)。そのときはお付き合いをされていたんですか?
そうですね。一応付き合うっていうか、難しいですね。どこまでが付き合いなのか。ただ、彼女は就職しちゃって、僕は浪人しちゃいましたから、なんかこうね、テンポが合わなくなっちゃう、みたいなことが起こってね。
あと覚えてるのは、中学校のときに、長距離走があったけど、僕はずっと順位が下の方だったんですね。それが悔しかったから、高校のときは、毎日じゃないけど2キロとか3キロぐらい走って、けっこう努力したんです。
それで、高校三年の運動会で1500メートル走があって、各クラスから二人出たんですよ。サッカー部のKっていうやつが一位だって目されていて。「誰が二位になるかな」とみんな思ってたんだけど、はっきり覚えてないですが、たしか僕が二位になったんですね。だからみんながびっくりしちゃって。
「中学校のときの屈辱を、練習して晴らした」っていうのは、我ながら「やったな!」と、いまになって思うんですね。その後の人生でもそういう努力をちゃんとしてれば、ずいぶん変わってたはずなのになって(笑)。
──その後はできなかったと。
なかなかね、努力って難しいです。続けるのがね(笑)。でも、「ちゃんと努力すれば結果が出る」っていうことを知ることは、けっこう大事ですよね。
──その気づきは、その後の人生にも生きましたか?
どうなんでしょうね。人生に生きてるかっていうと、うーん…。持続力はあるかもしれんね。
戦争体験者に話を聞くという活動も、10年ちょっと続けてるんです。だけど、持続するには必ず、だれかの助けが必要ですね。
A市の学習館のメンバーが手伝ってくれて、毎年、制作したビデオを公的な施設で上映してるんです。聞き取りの映像を編集して、その地域の戦争の記録として、やってるんですね。その学習館の助けがなければ公的には上映できないわけだから、すごく恵まれてる。「助けてくれてるからできてるんだ」っていう自覚は、すごく持ちますね。
……ぜんぜん関係ないんですが、僕わりと、「自分のことは自分でできる」って思い続けて、ある年齢まできたんです。ところが、50代に手術したことがあるんです。ある日突然、バーって出血したんですよ、お尻から。
──ええ!? お尻から。
それで、大きな病院に行ったんです。そしたら、「メッケル憩室」っていう小腸の末端のところに、生まれながらにちょっとした欠陥があって、ものがちょっとずつ詰まると。それが、突然破裂したっていうことがわかった。
それで、ずっと診てくれてる先生が「俺が手術をする」っていうんで、「血液型はなんですか?」って聞かれたから、僕は「AB型RHマイナスだ」って言った。当然、いままでその病院に通ってたから、血液型は向こうが調べてるもんだと思ってたんですけど、調べてなかったんですよ。AB型RHマイナスってものすごく少ないから、血が手に入らないと死んじゃうわけ。どんどん、どんどん血が出ちゃってるから。
たまたま近くに日赤の血液センターがあって、そこに車を走らせて、1リットルぶん持ってきて、僕に輸血したんですね。もしかしてそばにセンターがなければ僕は死んでたかもしれない。それから、AB型RHマイナスの献血をしてくれた人がいなかったら、僕は死んでたんですね。
「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、そのとき初めて、ものすごい実感した。「実感が遅いよね」って、よく言われるんですが(笑)。
──それはおいくつのときですか?
50代半ばですかね。だから、それからすごい謙虚になりました。「人間って、自分だけで生きてんじゃない。人に助けられてるんだ」って。ただ、それも結構忘れがちですよね。
──戦争体験の聞き取りをしてるとおっしゃっていましたが、それはなぜはじめようと?
僕が住んでいるA市に、軍のいろいろな施設があったんですね。そこで働いていた人たちの記録を残しておこうっていうことで、聞き取りを公民館の事業としてはじめたんです。それで、僕がいろんなとこに電話して、対象者を探して、何人かで聞きに行くっていう活動を続けていたんですね。
すると、空襲に関わることが出てくるじゃないですか。そこで、「この地域の空襲のことを記録を残そう」っていうグループに入った。たまたまKって人が、空襲のことをすごくくわしく調べていて、しょっちゅうアメリカの国立公文書館に行っていたから、「僕も一回連れてってよ」って連絡して、一緒に行ったんですよ。
そしたら、A市が空襲されてる航空写真が手に入ったんですね。で、それを展示していたら、Nさんっていう女性が来て「あたし、この煙の下にいた」って言うんです。ちょうど煙が上がっている場所の、真下の防空壕の中にいたらしいんですよ。
そうすると、せっかく上空から撮ったB29側の写真と、地上で空襲にあった人がいるわけだから、「これをちゃんと記録に残したい」って思った。しかも、その人が直接体験を話してくれると。Nさんに「同じときに空襲を体験した人いませんか」って相談して、人を探して、それを構成してビデオをつくって…ということを始めたんですね。そうすると、けっこう大きく反響があったんです。
隣のB市には、B29が落ちてるんです。高射砲が当たって。二人捕虜が出たんですが、A市の小学校に連れてこられて、市民が殴打して、最後は軍人が首切っちゃうっていう事件が起こったんですよ。米軍側ってものすごく徹底して記録を残しますから、そのレポートを知り合いが手に入れてたんで、それを借りて。
ところが、体験者がいなければ、企画としてちょっとどうかな? って不安があった。だけど、たまたまその場に立ち会っていた人を見つけたんです。で、その人にインタビューすると、また次の人が出てきて。最後は、「小学生のときに叩いた」っていう人が見つかった。
それで、「戦争になれば、庶民も加害者になっちゃうんだ」という意味の題をつけたビデオをつくって。これも、100人ぐらいの人が観に来てくれた。そうすると、変な言い方ですが、味をしめるじゃないですか(笑)。「あ、観に来てくれるんだ」って。それが2015年だったんです。ちょうど戦後70年っていうことですね。それからも続けようっていうことになって、続けてるんです。
──さかのぼってしまうんですけど、学校の先生になったのはどういう経緯
が?
僕は東京教育大学の出身なんです。僕は教師よりはジャーナリストというか、「新聞記者になりたいな」と思ってたんですが…。
朝日新聞を受けて、筆記試験には合格したんですよ。そうすると、今度は重役が並んで、面接があったんですね。そこでは、いまでは絶対聞かないようなことを聞かれたんです。「あなたは逮捕されたことがありますか?」って。
その頃、「ベトナム戦争反対運動」が盛り上がっていて、1968年10月8日、当時の佐藤栄作首相がアメリカが支える南ベトナムを訪問するのを阻止する闘争が組まれ、京大生の山崎くんが羽田で命を奪われました。
で、そのとき、僕も羽田に行ってたんですが、離れたところにいたので正確なことはわかりませんでした。当時は、「アメリカがベトナム人にひどいことやってるから、関心を持たないといけない」っていう共通理解が、学生にもあった時代なんですよ。
翌年デモに参加していて、機動隊ってデモ隊を大人しくするために、何人か捕まえようとして、抵抗すると公務執行妨害として不当逮捕するんです。それで、僕は不当逮捕されたことがあるんです。
よく覚えてるんだけど、逮捕したのが、Mっていう巡査だったんですね。僕らと年があんまり違わない。彼はなにしたかっていうと、レーズン持ってて、「おい、レーズン食うか?」みたいな(笑)。とても親しみが持てたんですよ。
──そんなことが(笑)。逮捕されたあとにってことですか?
ええ。彼は一人捕まえたから、もしかして嬉しかったのかもしれないけど。
そんな感じで、ともかく逮捕されたことがあるんですよ。でも、黙っていれば問題ないはずなのに、「逮捕されたことはあります」って答えました。そしてもうひとつ、「あなたの大学は筑波移転が決まってるんだけど、移転をどう思いますか」って聞かれたんで、「学生の意向をまったく無視して、文部省に言うことを聞いて移すのは反対だ!」って言った。いまでも、それを言わなかったら、もしかしたら新聞記者になってたかもしれないなと思ったりするんですが、たぶんそうはならなかったでしょうね。
それで、最初はA市の市役所を受けたんです。市役所の試験は、そんなに難しくないし、面接ではそういったことを聞かれないから。市役所に一年だけいたんです。
でも、当時の都立高校って、生徒は「先生は授業だけやってくれればいいですよ、ホームルームは僕等がやりますから」みたいな時代だった。僕は日本史が好きだったんですね。だから、教師になれば授業は自分の好きなことができるわけですね。しかも夏休みも学校行かなくていいいし。「やっぱり先生がいいよね」っていうことで、受け直したんです。
──なるほど。さっきの、学生運動の話を聞きたいんですが、どういう風に関わってたのですか?
アメリカが一方的にベトナムで爆撃して、民衆も殺してるわけですから、「黙って見てちゃいけない」っていう雰囲気は、ある程度、共通理解としてあった。僕は「こうしろ」って言われることは、納得しないタチなんですが、「黙っているのは認めてることになる」って言われると…。
さっき言った10・8の後に、「君の平和が山崎くんを殺した」っていうスローガンが出たんです。そうすると、僕らとしては「それはそうだ、なにかしなきゃいけない」と、こうなるでしょ。だから、「黙ってちゃいけない」っていう気持ちは、うんと働いた気がします。
ただ、その後でね、まったく致命的だったのは、仲間を次々と殺害した連合赤軍事件ですよね。あの事件は、大学への機動隊の導入や大学立法で、普通の学生たちの運動が沈静化してしまったことが背景にあると感じます。「僕たちも、過激化しちゃったひとつの原因つくってるんだよね」みたいな気持ちは、なんとなく僕らにはありますね。
その後、若者が政治離れしちゃった大きな原因は、連合赤軍事件がつくってるわけですが、僕らがその事態をつくっちゃってるんだと。しかも、「学園闘争って、結果としてはなにを生んだんだ?」って言われると、具体的な成果がないじゃないかって。
──自分たちが、連合赤軍の事件や、その後の若者の政治離れを起こしてしまったんじゃないのか、みたいな気持ちが。
そうですね。つまり、孤立を招いちゃった。周りがいなくなれば、どんどんどんどん先鋭化しちゃうことがあるでしょ。かといって、僕らがなにをしたらよかったのか、よくわからないけれども。なにかそういった気持ちが多少、残ってますね。
うーん…。「君らの世代はなにをしたんですか?」って聞かれると、自信を持って言えるものがないな、っていう感じがするんですよね。だから、そこを聞かれると、ちょっとつらいものがあるなって感じがありますね(苦笑)。
いまは、同じようなことがパレスチナで起こってて、若い人にはそれに危機感を持ってる人もいて、運動してますよね。ただ、それがあまり広がらない感じがある。そういったことが当たり前じゃない社会にしてしまった一翼を、自分たちが担ったかもしれないって。ちょっとねえ……。やっぱり最後の凄惨な状況があって、それが政治離れを起こしたのが、ずっと続いてるんじゃないか。
──実感として、そういう気持ちがあるんですね。
僕にはありますね。
あのね、小学校の同級生のSさんっていう子が、駒沢大学の中に住んでたんです。野球部の食堂を、お父さんがやってたんだね。で、彼女に「駒沢大学に学園闘争が広がったとき、『あの人たちは親のお金で大学に行ってるのに、勉強もしないであんなことやってて!』って、当時はすごく思いました」って、言われたんです。
同級生がそう感じてたっていうことに、ちょっとショックを受けたというか。「あなたがた、なにやってたの?」っていうことでしょ。
ところが、そのSさんって、僕がやるビデオを、A市まで観に来てくれたりするんですね。うーん……だから、そのときの僕の反応に、彼女はなにか感じるところがあったのか……。
──そのとき、というのは?
つまり、彼女が僕に当時のことを言ったときの僕の反応に、なにか感じたことがあったのか。それとも元来、親から戦争の話を多少でも聞いて、戦争のことを知りたいと思ったのか、わからないけど。
でも、来てくれると、ちょっとほっとするんですよ。「あなた、なにやったの?」っていうふうには、必ずしも感じてないんだなって。だから、Sさんはけっこう僕にとっては貴重な人なんですよね。
人の言葉って、力を持ってますよね。それでね、僕がビデオをとるようになったもうひとつの大きなきっかけがあるんです。ある高校で日本史の授業をやってたら、ある男子生徒が授業が終わったあと、「先生、NTVでやってる漫画日本史を使ってみたら、変化が出ていいんじゃないですか?」って言ったあとに、「先生ならできる!」って、言ったんですよ。
僕はそれを聞いて、「じゃあやってみようかな」と思って、授業でビデオを使うようになったんです。それから、漫画日本史の一部を5分くらい使うだけじゃなくて、昭和史の実写のビデオの一部とか、NHKの番組の一部を使うようになりました。それで、「映像には力があるな」って感じたんです。
彼が僕に、「先生ならできる!」って言わなければ、やらなかったかもしれない。彼が言った一言が、いまの僕がビデオをつくることを動かしてるって思うと、「人の言葉はすごく、大事だなぁ」って思ってます。「先生の授業はつまんないよ」って、遠回しに伝えてたのかもしれないけど(笑)。「あなたならできる!」っていう、とても励ましのいい言葉を言ってくれたなって、いまでも思いますよ。
──その一言がなかったら、その後のビデオの活動はしてない?
そうですね。してないかもしれないですね。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2025年11月11日 発行 初版
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